第二十一話「接続」

 セイバーは焦燥に駆られていた。イリヤによって強制転移させられた彼女は拠点にしているホテルに飛ばされた。
 突如現れた彼女に切嗣とアイリスフィールの両名は驚かなかった。イリヤの服に仕掛けた盗聴器から既に何があったのかを知っていたからだ。
 それにより、イリヤがライダー陣営に救出された事も知った。だが、問題はその後だった。盗聴器からイリヤ達の悲鳴が轟き、同時に盗聴器が壊れてしまったのだ。

『……ランサーか』

 ライダーのマスター、フラット・エスカルドスの言葉を最後に盗聴器からの音声は途絶えた。
 ランサーのサーヴァント。その真名をセイバーは宴の席で聞いている。
 クー・フーリン。ケルト神話における最大最強の大英雄。
 
「イリヤ!!」

 セイバーは窓を開ける暇も惜しみ、そのまま突き破って外へ跳び出した。そのまま、壁を登り屋上へ駆ける。一秒足らずで屋上に到達すると、深山町へ視線を向けた。
 膨大な魔力の波動を感じる。恐らく、ランサーの宝具。

「イリヤ!!」

 行き先は決まった。屋上から身を投げ、そのままホテルの壁を蹴った。ホテルの屋上部分が崩壊すると同時にセイバーの体はミサイルの如く深山町に向かって打ち出された。
 イリヤから供給される膨大な魔力を後方に向けて放出し、飛行速度を極限まで高め、一気に未遠川を越え、対岸の海浜公園に到達すると、再び疾走しようと大地を蹴った、その瞬間――――、

「待てよ、セイバー」

 黒塗りの剣がセイバーに向かい飛来する。咄嗟に弾いたセイバーの眼前に立ちはだかるのは謎のサーヴァント、ファーガス。
 彼はセイバーが弾いた剣を器用に掴み取ると、そのまま彼女へ襲いかかった。己が剣で迎え撃つセイバーの表情に宿るのは焦り。今、己はこのような輩を相手にしている場合ではない。今、まさに命の危険に晒されているであろう己が主を思い、セイバーの剣筋が鈍る。その隙を|敵《ファーガス》は逃さなかった。
 セイバーの頬に一筋に切り傷が出来る。僅かに掠った程度。セイバーはその傷を軽視しながら、目の前の邪魔物を排除しようと剣を振るう。その刹那、頬に付けられた傷に異変が起きた。

「なっ――――」

 吸い取られた。そう、セイバーは直感した。
 頬の傷から魔力が一気に奪われたのだ。そして、奪われた魔力がファーガスの剣に呑み込まれた。それと同時にファーガスの剣は大きく鼓動した。
 剣は徐々に光を帯び始め、やがて刀身を真紅の輝きで満たし始める。黒だと思われていたその刀身はその実赤色だった。

「血を吸う妖刀の類か……」

 血を吸う性質を持つ剣の伝承は世界各地に存在する。
 例えば、ソレは剣の狂気を鎮める為。例えば、ソレは剣の力を高める為。
 恐らく、ファーガスの剣は後者。異様な輝きを放つソレは先刻までのソレとは明らかに違う。もはや、全くの別物。
 ファーガスが振るうソレを受けた瞬間、その直感の正しさを実感した。先刻までと明らかに重みが違う。今はまだ凌げるが、これ以上、剣が強化されれば、いつかは受け切れなくなる。
 事、ここに至り、セイバーは漸く目の前の相手を立ちはだかる壁ではなく、明確な敵として認識する。
 
「お前は何者だ?」

 そして、問わずには居られなくなった。ファーガスは謎に包まれたサーヴァントだ。だが、そのクラスは推測出来る。
 キャスターだ。それ以外には考えられない。セイバー、ランサー、アーチャー、ライダー、アサシン、バーサーカーのクラスに属するサーヴァントとは全て遭遇済みであり、残るクラスはキャスターのみだからだ。
 だが、解せない。全ステータスがアベレージを遥かに越え、加えて、剣の宝具を持つ魔術師など聞いた事が無い。

「キャスターなのか? それとも、イレギュラーなクラスなのか?」

 その問いに意味など無い。答えなど、返って来る筈が無いからだ。
 答えは斬撃と共に切って捨てられるだろう。

「……は?」

 だが、予想に反して、ファーガスは口を開いた。しかし、その表情に浮かんでいるのは困惑だった。

「俺のクラス……分からないのか?」

 その言葉の意味をセイバーが理解するより早く、ファーガスは笑った。
 
「分からない……か、なるほど、面白い状況だな」

 分からない。ファーガスの言葉の意味が分からない。何故、ファーガスは己が奴のクラスを知っているものと思ったのか? その理由が分からない。
 
「お前にもお前の策があるのだろうと乗ってみたんだがな。なら、態々こうして出向く事も無かったな……。いや、意味はあったか」
「何を言っているんだ?」
「ッハ! いや、こっちの話だ。それより、続きと行くか」
「抜かせ!!」

 再度ぶつかり合う二騎の英霊。一旦は思考が乱されたものの、セイバーにとっての第一目標はイリヤの救出だ。
 フラットとライダーの性格はあの宴である程度は理解した。恐らく、何の打算も無く、イリヤが窮地に陥っていたから救ってくれたのだろう。だが、ライダーはランサーと比べるとあまりにもか弱い。
 恐らく、どんなに奮闘したとしてもそうはもたない。だから、こんな所でちんたらしている暇など無い。

「一気に終わりにしてやるよ――――」

 躊躇無く、セイバーは宝具に魔力を篭める。技の競い合いなどする気は無い。
 一分一秒がイリヤの命運を分ける。

「|我が麗しき《クラレント》――――」

 真名が看破される事など御構い無しの一撃。ここで仕留め切れずとも構わない。少しでも手傷を負わせられれば、この場を離脱し、イリヤを救いに行ける。

「ったく、舐められたもんだ」

 セイバーが剣を振り下ろそうとした瞬間、その瞳に映り込んだのは奇妙な刃文だった。真紅の光を放つ刃に漆黒の模様が浮かび上がり、ファーガスは獰猛な笑みを共に剣を振り上げた。
 距離にして二十メートル。両者共に一足で走破出来る距離だ。彼の狙いは一つ。この距離ではどうあってもセイバーの宝具を避けきれない。ならば迎撃するのみ。最大の攻撃に対し、此方も最大の攻撃をもって迎え撃つ。
 真紅の光は際限無く強まる。両者は共に真紅の極光を放つ禍々しい剣を振り上げ睨み合う。

「――――|父への叛逆《ブラッドアーサー》!!」

 ファーガスが動くより先にセイバーは剣を振り下ろした。その刹那、彼はその剣の真名を口にした。
 あり得ない。その名が真であるならば、あの剣を持つ英雄は一人しかいない。だが、彼の英雄にキャスターの補正など無い。
 ならば、やはりイレギュラーのクラスなのか? そうセイバーが思考すると同時に真紅の極光同士がぶつかり合った。夜闇を切り裂く二つの極光。互いが互いを食い潰さんと鬩ぎ合う。
 セイバーは理解している。この拮抗状態はファーガスの剣がその真価を完全に発揮していないが故だ。
 やがて、光が止み、辺りに静けさが戻る。後に残ったのは崩壊した大地のみ。
 セイバーは舌を打った。目の前のサーヴァントはアーチャーやバーサーカーと比肩する大英雄だ。己の全力をもってしても打倒しうるかどうか……。
 未だ、その真価を殆ど発揮していないあの剣すら、奴にとって|宝具《ほうぐ》ではあっても|切り札《ほうぐ》ではない。奴の真髄は……。

「……なんだ、アレ?」
「あ?」

 突然、ファーガスは空を見上げたまま目を見開いた。つられて天を仰ぐと、遠くの空にソレはあった。

「黄金の……船?」

第二十一話「接続」

 それは突然の事だった。ライダーが駆る幻馬の疾走を突如飛来した真紅の魔槍が阻んだのだ。
 ゲイ・ボルグ。その真価たる投擲による真名解放。決して逃れ得ぬ死の槍が迫り来る。幻馬は音速を超え、槍の猛威を振り切ろうと天を翔けるが槍は軌道を変えながらどこまでも追い掛けて来る。
 背負っているのがライダーのみならばこのまま突き放して逃げ去る事も出来ただろう。
 いや、と幻馬は脳裏に過ぎった愚かな考えを否定した。例え、二人の客人が居なくとも、あの槍からは逃れられなかっただろう。アレはそういう類の宝具だ。故に己が為すべき事は一つのみ。死を逃れ得ぬならば、せめて主とその客人は逃がす。その為ならば、この命……惜しくは無い。

「……という思考をしている筈だよ、ね?」

 何が「ね?」なんだよ。そう言いたげにヒッポグリフは嘶いた。真紅の魔槍から絶賛逃走中の現在、ライダーが真剣な口調でヒッポグリフの心の声を捏造し始め、ヒッポグリフは怒りのオーラを放ち始める。
 幻馬の嘶きは『俺が生贄になるだと? ふざけるな! お前等が生贄になれ!』と、そんな声が聞こえて来るようだった。気持ちは良く分かる。

「っていうか、本当にどうするの!? アレって相当ヤバイ感じがするんだけど!?」

 後方から迫り来る真紅の槍に視線を向けながら言うと、フラットが珍しく真剣な表情を浮かべて言った。

「多分、あの宝具に篭められた魔力が完全に消費されるまで逃げ続けられれば助かると思う。けど、さすがに現実的じゃないね。ヒッポグリフもそろそろ限界が近いだろうし……」

 驚いた。あの変態でいきなり突飛な行動をし出すフラットが凄く建設的な意見を言ってる。目を丸くしているのはライダーも一緒だった。
 私達が顔を見合わせながら驚いていると、フラットは言った。

「アレは一度捕捉されたが最後、魔力が保つ限り、地球の裏側に逃げても追って来る。防ぐとしたら、少なくとも対『対城』宝具クラスの盾が必要だね。けど、ライダーには盾の宝具が無い。逃げる事も防ぐ事も出来ない。と、来たら方法は一つしかないね」
「あるの!?」

 私は一切対処法を思い付けなかった。だって、逃げる事も出来ず、避ける事も出来ない槍に対し、どう抗えばいいのだろう。
 驚く私とライダーの手を取り、フラットは言った。

「これから、ヒッポグリフにはゲイ・ボルグを引き付ける囮になってもらう」

 フラットの言葉にヒッポグリフは嘶いた。怒っているのだろう。それはさっきのライダーのヒッポグリフを生贄にするという手段だ。
 
「怒らないでよ、ヒッポグリフ。別に、死ぬまで引き付けておけ、なんて言う気は無いさ」
「どういう意味?」

 ヒッポグリフも嘶くのを止め、彼の言葉の続きを待っている。

「作戦は単純さ。これから僕達は地面に降下する。そして、ランサーと戦う。今のランサーは得物を持っていない状態だ。だから、まともに戦えばライダーが勝つ」
「でも、ランサーが槍を手元に戻したら……」
「それでいいのさ。槍を戻すという事は宝具の発動がキャンセルされるって事だ。だから、ヒッポグリフも離脱出来る。後は、隙を見つけてランサーから逃げるだけだ」
「そ、そんなに上手くいくのかな……」

 フラットの提案した作戦はまさに『言うは易し行うは難し』だ。
 不安に思っていると、フラットは私の肩にポンと手を置いた。

「大丈夫さ。考えはある。まず、降下ポイントは前方の円蔵山だ。その中腹にある柳洞寺。あそこに向かってくれ、ヒッポグリフ」

 ヒッポグリフに指示を飛ばすと、フラットは身を乗り出して下界を見下ろした。

「ランサーは……ちゃんと追って来てるね」

 唇の端を吊り上げながら、フラットはライダーに視線を映した。

「円蔵山の階段でライダーにはランサーを迎え撃って貰う」
「どうして?」
「あの山は天然の結界なんだ。柳洞寺を中心に円形に霊体の侵入を悉く遮る協力な壁が立ちはだかっているのさ。まあ、普通の人間には害が無いようだけどね。ただ、柳洞寺に続く階段だけが開かれている。だから、ランサーは必ず階段を登って来る。そこでなら、ランサーも戦い難い筈だと思う。その間に俺達は山道を通って避難する」
「それって、ライダーを足止めに使うって事……?」

 それはつまり、ライダーを囮にして逃げるという事だ。
 思わずライダーを見た。すると、彼はニッコリと微笑んだ。

「マスターがそう命じるなら」

 瞼を閉じ、アッサリとそう言った。
 マスターとフラットを呼んだ。それがどうしようも無いくらい嫌だった。

「……止めてよ」

 気付けばそう言っていた。
 二人の仲の良さは知っている。一緒に下着を買ったり、パーティーをしたり、助けてくれたりしてくれたこの二人はいつも仲良しだった。
 友達か恋人同士のように仲睦まじい二人が主従関係のような態度を取る事が堪らなく嫌だ。

「どうして、そんな事……」

 涙が滲む。私のせいだ。私を助けたせいで、二人は辛い選択を迫られている。
 ライダーがフラットを敢えてマスターと呼んだのもその決断を後押しする為だ。
 
「こんなの……嫌だよ……」
「……えっと、ごめん」

 私が呟くと、ライダーが心底申し訳なさそうに頭を下げた。

「はえ?」
「いや、ちょっと悪ノリしちゃって……。言っておくけど、ボクは別に死ぬ気とか全然無いからね?」
「え、でも……」
「イリヤちゃん」

 フラットが頬を掻きながら言った。

「もし、誰かを犠牲にしなきゃいけないなら、ヒッポグリフに囮になって逃げる方が建設的だよ? 俺が提案してるのはヒッポグリフも含めた皆で生き残る作戦さ」
「……あ」

 フラットは微笑んだ。

「ライダーに頼むのはあくまで時間稼ぎだよ。だから、安心して」
「う、うん。その……、ごめんね。何か、変にパニクっちゃって」
「……いいさ。君って、本当に……」
「――――フラット、そろそろ円蔵山上空だよ!!」

 ライダーの声にフラットは表情を引き締めた。

「すまない、ヒッポグリフ。少しの間、頼むよ」

 さっき、ヒッポグリフを生贄にしようとしてた人の言葉とは思えない。
 安心した拍子に緊張感が薄れてしまったのか、そんな事を考えていると、ライダーが私とフラットの腰を抱き抱えた。

「スリー、ツー、ワン!!」

 飛んだ。高度三千メートル上空からのパラシュート無しでのダイブ。
 体が落ちて闇に飲み込まれると同時にランサーの槍がヒッポグリフを追って一直線に奔り、遠ざかっていく。耳を聾するほどの落下の衝撃で全ての音が掻き消された。一直線に地面が迫る。これまで味わった事の無い落下を強いる重力の感覚。まるで、地面に吸い込まれるように速度がぐんぐんと上がっていくのが分かる。
 私は必死にライダーの体にしがみ付いた。すると、ライダーは安心させるように腰に回した手に力を篭めた。

「二人共、衝撃に備えて!!」

 ライダーの叫びと共に闇が足下に迫る。反射的に体を縮ませ、呼吸を止めた。
 そして、衝撃が訪れた。体がバラバラになりそう。でも、生きている。ライダーが接地の直前に魔力を放出して落下速度を緩めたらしい。
 加えて、私の体は神秘的な輝きに満たされていた。フラットが何らかの魔術を行使してくれたみたい。

「頼むよ、ライダー」
「任せて、フラット。男の子として、確りお姫様をエスコートしなよ?」
「……うん」

 短いやり取りの末、二人は動き出した。ライダーは寺の門に向かって駆けて行く。そして、フラットは私を抱き抱えると、走り出した。

「わ、私、走れるよ!」
「けど、俺が抱えた方が速いよ」

 その言葉は真実だった。私はこの年頃にしては軽い方だと思っているけど、それでも決して抱き抱えたまま走り回れる程軽くも無い。
 だと言うのに、フラットはまるで重みなど感じないかのような速度で寺の境内を駆けた。
 その瞬間だった。抱き抱えられた状態で、私は視た。ライダーが門の前で立ち止まり、迫る真紅の槍を避ける姿を――――。

「ライダー!!」

 勝負になど、なっていなかった。ライダーは黄金の槍でランサーに対抗しようとするが、瞬く間に追い詰められていく。

「フラット!! ライダーが!!」

 彼の顔を見上げながら叫ぶと、私は言葉を失った。
 フラットは涙を流しながら足を止めずに走り続けた。

「なんで……」

 これは皆を生き永らえさせる為の作戦の筈だ。なのに、どうして泣いているの?
 私の問いの答えはヒッポグリフの到着と共に氷解した。

――――二人は初めから……。

 ライダーはここで死ぬつもりだったんだ。なのに、私を安心させる為に二人は嘘をついた。
 私は一人で喚き立て、彼らの最期の時間を奪ったのだ。
 私を助ける為に窮地に立たされた二人が私を生かす為に下した決断の末の最期の時間を奪った。
 嫌だ。駄目だ。ライダーが死ぬなんて駄目だ。二人の絆が私のせいで切り裂かれるなんて許されない。 
 何でもいい。手段が欲しい。二人を救う為の手段が欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。
 
「イリヤ……ちゃん?」

 欲しい――――――――。

――――ならば、繋がれ。

 知らない声。懐かしい声。脳裏に直接響く不思議な声が囁く。

――――お前達は始まりを同じくする者だ。故に後はお前の意思で繋げられる。

 私はその声に身を委ねた。あまりにも奇怪な現象だが、それでも、ライダーを救える手段があるというなら是非も無い。
 繋がれと言うなら繋がる。それが何を意味するのか、何と繋がればいいのか、何も分からない。けれど、私は導きの声に従う。
 フラットの腕から逃れ、地面に降り立ち、ライダーの下へ向かう。

「駄目だ、イリヤちゃん!!」

 駄目なのはライダーを見殺しにする事だ。
 英霊と友達になる。そんな純粋な願いの為に参加し、本当に友情を築いたフラット。そして、彼の気持ちに応えたライダー。
 二人が離れ離れになる事こそが駄目な事なのだ。

「――――|接続《コネクト》、|開始《スタート》」

 ライダーはランサーに敵わない。このままでは数度の激突の末に膝を屈し、殺される。その前に手段を手に入れなければならない。
 意識を己の中に埋没する。そして――――、空間が割れた。
 私は痛みの渦に呑み込まれた。
 |場所《ここ》がどこか分からない。私が何者かが分からない。今、すべき事が分からない。
 目の前に広がるのは巨大な回路だった。知らない筈の事を私は理解していた。
 魔術回路――――、魔術師が体内に持つ擬似神経の事であり、生命力を魔力に変える、幽体と物質を繋げる路。ソレが擂り鉢状の岩肌に刻まれている。半径五十メートルに及ぶ巨大な回路が何重にも折り重なっている。幾何学模様を描くその回路の中心に『|一人の女《わたし》』がいる。
 ユスティーツァ・リズライヒ・フォン・アインツベルン。この地で聖杯戦争という大儀式を執り行う事を立案した女。マキリと遠坂の頭首を従える、冬の聖女と謳われた大魔道師。|彼女《わたし》こそが古の魔法を再現する鍵なのだ。
 聖杯の本来の役割――――、根源へ至る架け橋とする為には|彼女《わたし》の意志が必要だ。さもなければ、聖杯はただの願望機に過ぎない。
 そこで私の体は大きく引き裂かれた。痛みと共に目的を思い出す。
 そうだ。余計な事に意識を傾けている暇など無い。一刻も早く、目的を達成し、ライダーを救わねばならないのだ。
 辿るのは彼女の系譜。無数の彼女の分身達。その中で一際輝く光を放つ存在を探し出す。

「|接続《コネクト》、|完了《オフ》――――」

 その存在から引き出すべき情報は一つ。彼女の秘める力。小聖杯としての機能と聖杯戦争自体のシステム、そして、大聖杯に蓄積された情報。それら全てを統合し、編み上げられた大魔術。

「|全工程《オールプロセス》、|省略《カット》――――、|夢幻召還《インストール》」

第二十二話「始動」

「|全工程《オールプロセス》、|省略《カット》――――、|夢幻召還《インストール》」

 分かる。何をどうしたらいいのかが分かる。魔力が私の体を覆い、甲冑を生み出す。紅の外套は嘗て見た憶えがある。だけど、今はそんな余計な事に意識を割く暇など無い。
 私の変化にランサーの動きが止まっている。この一瞬を逃せば、ライダーが死ぬ。

「|投影《トレース》、|開始《オン》――――」

 右手に弓を、左手に矢を投影する。
 |投影《グラデーション・エア》。それは術者の|創造理念《イメージ》によって魔力を束ね、オリジナルの鏡像を物質化する特異な魔術。本来、投影された物質は幻想であるが故に世界による修正を受け、瞬く間に霧散してしまう。だけど、今の私の投影は投影という特異な魔術カテゴリーの中でも更に特殊な位置にある。
 常理を覆し、世界の修正をも撥ね付けるソレは『とある英霊』のみに許された禁呪であり、本来、彼の英霊以外に持ち得ぬ力である。
 私はその力を使い、作り出した矢をランサーに向けて射る。驚きに満ちた表情を浮かべながらもランサーはその悉くを弾き返す。けれど、その刹那、ライダーはランサーから距離を取る事が出来た。彼の隣に駆け寄り、肩を並べる。

「イリヤ……ちゃん?」

 だけど、驚愕しているのは彼も同様だった。
 それも当然だろう。今、私が纏っているのは英霊の力。それも、本来、この世界には存在しない筈の英霊の力。
 |夢幻召還《インストール》は大聖杯に取り込まれた嘗ての|参加者《サーヴァント》達を己が肉体を寄り代に召喚する大魔術。
 そして、私が召喚したのは、前回の聖杯戦争の勝者。この世界とは違う、並行世界の私の弟。

「力を貸して――――、シロウ」

 創る。弓を破棄し、彼の最も信頼する双剣の設計図を展開する。
 中国の伝説的名工がその妻を代償にし、創り上げた稀代の名剣。その創造理念、基本骨子、構成材質、製作技術、成長経験、蓄積年月を|追想《トレース》する。
 彼はこの工程を『投影六拍』と呼んだ。
 手の中に二振りの短刀が生まれる。掴み取った刹那――――、流れ込んで来た。
 それは彼の記憶。彼の原初から始まる彼の記憶の追想。並列世界の歴史が己の内に流れ込んで来る。そこには違う私が居て、違う|桜《リン》が居て、違う|士郎《シロウ》が居て……。
 断片的な記憶を飲み干す。正義の味方の断章を脳裏に焼き付ける。

――――|体は剣で出来ている《I am the bone of my sword.》。

 生み出した双剣、『干将・莫耶』を構える。
 剣の丘で膝を屈する騎士の背を感じながら、その騎士の生き様、戦術、技能を|追想《トレース》し切る。
 
「俺と切り結ぶつもりか?」

 ランサーはからかうように言った。

「面白い芸当だな。だが、その程度の手品で俺に挑もうってのは、幾らなんでも舐め過ぎじゃないか?」

 烈火の如き気性。恐怖に身が竦みそうになる。恐らく、まともに打ち合っても敵わない。
 クー・フーリンとエミヤシロウでは英霊としての格に決定的な差がある。その上、夢幻召喚は英霊を劣化させた上で憑依する術式だ。
 だから、策を弄する。元々、彼は敵に対して真っ向勝負を挑むタイプじゃない。あらゆる状況や相手の動き、仕草、癖を利用し、罠を張り巡らせ、確実な勝利を得る。
 それが、英霊・エミヤの戦い方。干将・莫耶はそんな彼が最も信頼し、愛用した双剣だ。そこには必ず意味がある。他の武器では無く、この武器でなければならない理由。
 干将・莫耶には一つの特性がある。それは互いを引き合う引力。その特性と英霊・エミヤの投影魔術。その二つを組み合わせる。
 その答えは――――、

 鶴翼不欠落
 心技至泰山
 心技渡黄河
 唯名納別天
 両雄共命別
 
 エミヤシロウが辿り着いた必殺。干将・莫耶の真意、それは――――、

「|鶴翼《しんぎ》、|欠落ヲ不ラズ《むけつにしてばんじゃく》――――」

 投擲。両手に握る二振りの剣を力の限り、魔力の限り、全力を振り絞って投げる。敵の首を切り落とすつもりで私は干将・莫耶を投げつけた。
 曲線を描き、剣の軌跡が円を描く。二つの双剣の軌跡が交わる円の頂点にはランサーの首。
 無論、ケルト神話最大の大英雄を相手にこの程度の攻撃は意味を為さない。そんな事は先刻承知の上。
 同時に左右から飛来する双剣を事も無げに躱し、ランサーは獰猛な笑みと共に間合いを詰めてくる。

「――――|凍結《フリーズ》、|解除《アウト》」
「ほう、自分から来るか――――」

 新たな投影。間合いを詰めるランサーに自ら挑みかかる。

「同じ武器……。ッハ、本当に妙な芸当を使う――――だがッ!!」

 ランサーとの戦いにおいて、最も重要な事は宝具の発動を阻止する事にある。
 故に、呼吸の暇を与えない。
 必殺の一撃が迫る寸前、

「――――|心技《ちから》、|泰山ニ至リ《やまをぬき》」

 ランサーの背後から奇襲を仕掛ける。ソレこそが干将・莫耶の真意。
 互いに引き合う引力を持つ干将と莫耶。本来あり得ぬ、同一存在の多重化。
 未だ、ランサーに躱された最初の干将が空中を舞い続けている。ソレを新たなる莫耶で呼び寄せる。
 
「後ろ……ッ!?」

 必殺の一撃を放った直後だというのに、ランサーは予想外の奇襲を間一髪の所で躱した。それが彼の持つ矢避けの加護というスキル故の奇跡なのか、あるいは、彼自身の戦闘能力が可能とした奇跡なのかは分からない。大切なのは、後方からの奇襲を躱されたという一点。
 けれど、この手にはまだ武器がある。後方からの奇襲を躱した手際は見事。けれど、その状態で更なる奇襲を防げるものか――――、

「ッめるな!!」

 魔槍の一撃。後方からの奇襲と全力を篭めた一撃。それはほぼ同時だった。
 にも関わらず、ランサーはそれすら防ぎ切った。
 けれど、驚くには至らない。その程度の芸当、この英霊ならば出来て当然。故に、この身は既に次の奇襲を仕掛けている。
 莫耶が砕かれる刹那、新たに干将を投影した。それ即ち――――、

「――――|心技《つるぎ》、|黄河ヲ渡ル《みずをわかつ》」

 後方からの莫耶の奇襲。最初に投影した二振りの一方がランサーを後方より襲い掛かる。
 連続する奇襲攻撃。既にランサーは二度の奇襲を防ぎ、限界に来ている筈。人体の構造上、これ以上は――――、

「ッめんな、つってんだろ!!」

 鬼神。人体の構造上の限界など知らぬ。物理法則など鼻で笑う。
 もはや、人の域を遥かに超越している。

――――そんな事は先刻承知。

 後方から飛来する莫耶を避け、更なる追撃を撃墜する。
 手詰まり。弾かれた反動に引き摺られ、体勢が崩れ――――、

――――|唯名《せいめい》 |別天ニ納メ《りきゅうにとどき》。

 撃墜の瞬間、干将・莫耶を破棄。反動に引き摺られたのは標的を見失ったランサー。
 
「――――|両雄《われら》、|共ニ命ヲ別ツ《ともにてんをいだかず》」

 ランサーは今度こそ、正真正銘の限界を迎えた。これ以上無い無防備な状態から更なる一撃を繰り出した事は称賛に値する。
 けれど、その先はない。完全なまでの無防備。刹那の瞬間と言えど、敵を前にして致命的とも言える隙を見せている。
 そして、こちらにはその隙に付け込む一手がある。
 新たなる投影により生み出されしは新たな莫耶。スピード勝負の為、この一刀のみを全速力で投影した。
 無防備な青き鎧に白き刃を突き立て――――、

「回避なさい、ランサー!!」

 ランサーを見失った。顔を上げる暇すら与えられず、凄まじい衝撃が腹部を襲った。
 体が宙を舞う。痛みに頭が真っ白になる。

「イリヤちゃん!!」

 誰かの声が響く。守らなきゃいけない人の声。
 気を失っている暇など無い。自分に必死に言い聞かせながら、視界を回復させようと歯を食いしばる。
 徐々に視界が戻る。
 その先に――――、

「セイッ!!」

 紅い髪の女。英霊なのかと思い違いをする程の早さと力。
 彼女の拳が迫る。無我夢中で莫耶を盾にする。
 砕かれた。頑丈さがウリの莫耶があろう事か、人間の拳に砕かれた。
 あり得ない。質より速度を優先した投影故に幻想に多少の綻びはあるものの、人間に砕けるほど、軟な剣では無い。
 
「――――ッガ」

 そんな余計な思考が仇となった。再び、彼女の拳が腹部に叩き込まれる。
 信じられない。殴り飛ばした状態で、更に追撃を加え、落下するより早く留めの一撃を打ってきた。
 魔人。ランサーが鬼神であるなら、この女は魔人だ。
 死ぬ。このままでは確実に殺される。この二人が揃った今、此方の敗北は揺るがない。
 首に手が掛かる。首を絞めて殺す気だ。その思い、新たに投影をしようとして――――、

「ッガ」

 拳が腹部にめり込み、口の中に血の味が広がる。
 痛みと恐怖で涙が滲む。今直ぐ、泣き叫びたい。だけど、目の前の女の殺意がそれを許さない。
 身動き一つ取れない。

「問います。貴方の父、衛宮切嗣の所在を吐きなさい」
「……パパ?」

 呟いた瞬間、再び腹部に拳を叩き込まれた。
 骨が砕けた音が聞こえた。喚きたてると、更なる一撃が加えられ、痛みのあまり、失神しそうになり、更にもう一撃。
 意識が明滅する。

「私の問いに簡潔に答えなさい。衛宮切嗣の所在を教えれば、楽に殺してあげます。これ以上、苦しみに悶えるのは本意では無いでしょう?」

 ああ、私は拷問を受けているんだ。
 ぼんやりとした思考で私はそんな事をふと思った。過激な映画やゲームの中で主人公やヒロイン、あるいは敵の捕虜が情報の為に拷問を受けるシーンを見た事がある。
 私はまさにそんな状況に陥っているわけだ。
 アハハ。なんか、変な気分。痛みも麻痺してきて、頭が寝起きみたいにボンヤリしている。

「イリヤちゃん!! クソッ、そこをどけ、ランサー!!」

 フラットの声。

「こんな事をして、許されると思っているのか!? あんなか弱い女の子を痛めつけて!!」

 ライダーの声。

「ッハ! 戦場で何を寝惚けた事を――――」
「確かに!! ここは戦場だ。そして、ボク達は己の祈りを叶える為に現界したさ!! けど、だからって、何もかも許されるのか!? 英雄として、今の己を恥じる気持ちは無いのか!?」
「……あ?」
「ボクはライダー。だけど、ボクはそれ以前にシャルルマーニュが十二勇士、アストルフォだ!! その誇りがあるから!! そんな横暴、ボクは決して許さない!!」
「……聞き違いか? 俺に、誇りが無いと言ったように聞こえたぞ」
「ああ、ライダーはそう言ったんだよ、ランサー。あんた、超絶かっこわるいぜ。あんたと結んだ友情、捨てさせて貰うよ。女の子を虐める奴なんざ、こっちから願い下げだ!!」

 一触即発の雰囲気に触発され、ぼんやりとしていた頭が徐々に目覚め始める。 
 ライダーとフラットではランサーとこのマスターを相手に決して勝てない。
 私がどうにかするしか無い。

「……少々面倒ですが、私は衛宮切嗣をいずれ見つけ出します。早々に吐いてくれませんか? でなければ――――」

 首に掛けられた手の力が強まる。
 折られる。その意識した瞬間、私は――――!?

「なっ――――!?」

 それは誰の声だったのだろう。
 突然、首に掛かった手の力が緩み、地面に尻餅をついた。
 痛みに顔を顰めながら、何事かと頭を上げると、ソレが目に入った。
 
「……なに、アレ」

 まるで、この世の終わりを告げるが如き光が天を赤々と照らしていた。

第二十二話「始動」

 バーサーカーを縛る黄金の鎖に手を振れ、己が制御下に置いたクロエは頭上を見上げた瞬間、あらゆる感覚が凍結した。逃がしてたまるかと令呪に奔らせていた魔力も霧散する。
 クロエの卓越した視力は数キロ先に佇む人間の表情すら視認する。その瞳に映ったのは一振りの剣だった。あまりにも奇怪な形をした剣。石柱ともとれるソレを見た瞬間、クロエは悟った。
 己の死を――――ではない。この地上が焼き払われる未来を幻視した。あの宝具が発動すれば、死ぬのは自分だけでは無い。この街その物が地図から消滅する。否、その程度で済むなら安い物だとすら思った。あれが真価を発揮すれば、この世界そのものが終わりを迎える。そんな考えが頭を過ぎり、クロエは|頭《かぶり》を振って否定した。
 諦めている暇は無い。あれの発動は何としても阻止しなければならない。さもなければ多くの人が死ぬ。

――――イリヤが死ぬ。
 
 アーチャーの握る三つのパーツによって構成された刃はそれぞれ別方向に回転し、その溝から斬風が巻き起こる。雲が吹き払われ、月が天空に浮かぶ船を映し出している。
 クロエはアーチャーの口の動きを読んだ。

『いざ仰げ! |天地乖離す、開闢の星《エヌマ・エリシュ》を!!』

 天空に皹が入る。世界の終わりを告げる光が夜天を照らし、大気が悲鳴を上げる。
 刻を同じくして、冬木の棲む全ての動物が一斉に逃走を始めた。彼らは今起きている現象の恐ろしさを鋭敏に感じ取り、選択した。
 巣を捨て、餌場を捨て、動けぬ仔を捨て、全身全霊を掛けて逃げる。空を鳥が覆い、地面を鼠や猫、蟲共が駆け回る。その光景を人々は目撃し、上空の異変を目撃した。
 破滅の光。滅びの渦。動物に遅れる事、数分。人々は漸く迫り来る滅びを理解し、立ち尽くす。逃げる為に即座に足を動かせた者は居ない。あまりにも常識離れした光景が彼らから『現実感』を奪い去ったのだ。|知恵《理性》を得た代償に|知恵《本能》を鈍らせた人間達は瞳に映るその現象の奇怪さに首を傾げ、今、何をするべきなのかに迷い、周囲の人達の様子を伺う。
 やるべき事など一つに決まっている。逃げる以外の選択肢など存在しない。だが、彼らはその選択に直ぐに辿り着けぬまま、その時を迎えてしまう。
 さあ、滅びの刻は満ちた。全ての魂が終焉を迎える。この地に住まうあらゆる命に逃げ場など無く、防ぐ手立ても無い。逃走を選択した動物も立ち竦むだけの人間も等しく死ぬ。
 それが運命なのだから――――、

「何か、手助けする事はあるか?」

 にも関わらず、抗う者が居た。
 紅洲宴歳館・泰山――――。冬木に住まう人々に、ある種の恐れを抱かせるその中華飯店から一人の少女が飛び出して来た。
 マウント深山商店街に買い物に来ていた主婦はその少女の出で立ちに目を丸くしている。学生達はコスプレだと騒ぎだし、老人達は可愛らしい子だと穏やかな微笑みを浮かべる。
 頭上の脅威を忘れてしまったかのように暢気なリアクションを取る彼らに少女は穏やかな眼差しを向ける。

「恐れる必要はありません」

 優しい声。全ての人々がその一声に心を奪われる。まるで、理想の娘を見るかのように、理想の友を見るかのように、理想の恋人を見るかのように、理想の孫を見るかのように、彼らは少女を見つめ、少女もまた、彼らを見つめ返す。
 その瞳に宿る輝きは彼らの押し殺した恐怖を溶かしていく。その微笑が彼らの心を希望で満たす。

――――嘗て、絶望に満ちた村があった。
 百年という長きに渡り続けられた戦争による貧困とペスト、飢饉により、人々は疲弊していた。気力を根こそぎ奪われ尽くし、無数の分派によって引き裂かれた民を少女は力強く鼓舞し、一月にも満たない僅かな時間で輝かしい勝利へと導いた。
 その名はジャンヌ・ダルク。過去、現在、未来に於いて、彼女に比肩する者は神の子・イエスの他に存在しない。古にその名を刻みし王達も伝説にその名を轟かせし英雄達も彼女の力には及ばない。
 ソレは超常の力では無い。ソレは腕力では無い。ソレは武器では無い。ソレは知識ですら無い。
 彼女の力とは心の力。光満ち溢れる勇気と優しさ。絶望を希望に塗り替える計り知れぬ人徳。彼女の祈りは全ての民の祈りとなり、彼女の勇気は全ての民の心を突き動かし、彼女の優しさが全ての民の心を癒す。
 
「貴方達は私が必ず守ります」

 その言葉を疑う者は一人も居なかった。
 この現象に対する疑問も沸かない。目の前の少女の正体にも問いを投げ掛ける者は一人も居ない。
 ただ、信じた。目の前の少女が守ると言ったからには必ず守ってもらえる。恐れは消え去り、人々の視線が天に注がれる。

「葛木先生。貴方はこの方々と共にここに。食事の礼は必ずします。ですが、今は――――」
「……無理はするな」

 まるで、無茶をする生徒に注意するかのように、葛木という男は聖女たる少女に告げた。
 ああ、本当にこの方はよく似ている。戦場にありながら、常に少女を心配し、時に褒め、時に叱ってくれた彼とよく似ている。
 
「ごめんなさい」

 だから、素直に謝った。

「その約束は守れません」

 何故なら、この身は裁定者のサーヴァント。聖杯戦争の調律の任を担いし者。
 そして、この身は英雄。無垢な民草を守る使命を担いし者。
 
「私はこの命に代えても、人々の笑顔を守ります」

 嘗て、己を火刑に処した者達にまで許しの言葉を与えた聖女。
 嘗て、火刑に処される己の運命を呪わず、ただ、己の死に涙する民の為に涙した聖女。
 嘗て、神に従い、神に救われず、それでも神を愛した聖女。
 
「人々の笑顔こそが我が祈り――――」
「……そうか」

 葛木という男は感情の起伏が乏しい人間だ。それは彼自身の生い立ちによるものである。
 枯れ木の如き男。それが葛木宗一郎という男だ。
 だが、そんな彼でさえ、ルーラーたる少女、ジャンヌの命を惜しく思った。

「終わったら、甘い物を御馳走しよう」

 葛木とて、高校教師である。ルーラーくらいの年頃の少女が甘い物を好む事は承知している。
 だから、彼女がこれから頑張るというなら、その御褒美を用意してやろうと思ったまでの事。
 それで、彼女が少しでも生きて帰ってくる可能性があるならば、と思ったまでの事。

「是非、お願いします!!」

 効果は覿面だった。ルーラーは満面の笑みを葛木に向けた。
 さっきまでの超然とした雰囲気とは違う、年頃の少女らしい笑顔。
 その笑みに葛木もつられ、僅かに頬を緩ませた。

「では、行って参ります」

 その言葉と同時にルーラーは姿を消した。
 葛木は上空を見上げながら呟いた。

「……ああ」
  
 世界の滅びを告げるが如き光景。
 されど、その場に居た人々の表情に不安の色は無い。
 きっと、何とかなる。彼女の声、彼女の表情、彼女の纏う空気。
 それらが彼らに彼女の言葉を信じさせた。

第二十三話「共闘」

「いざ仰げ! |天地乖離す《エヌマ》――――」

 直線距離にして7000メートル弱。ルーラーはその距離にありながら、アーチャーの宝具が今にも発動しようとしている事を察知した。
 普通なら間に合わない。この距離では、どうあっても辿り着けない。そもそも、相手は遥か上空。人の身で辿り着ける場所ではない。
 けれど、そんな弱音を吐いている暇は無い。アレが発動すれば最期、この地は滅びてしまう。命あるモノ達が皆、死に絶える。それを許すわけにはいかない。|裁定者《ルーラー》として以前に、英霊として、そのような暴挙を容認する事など出来ない。
 ルールの違反者は別に居るが、先に対処すべきはアーチャー。この身にはたった一つだけ、この距離を零とし、彼の暴挙を止める手がある。
 それこそが、ルーラーのクラスに備わる他のサーヴァントへの|強制命令権《令呪》である。

「宝具の発動を停止なさい、アーチャーのサーヴァントよ!!」

 本来、サーヴァントはこの世に現界する前に一つの誓いを立てなければならない。それは、令呪に従うという誓い。その誓いがあるからこそ、令呪はサーヴァントに対する強制命令権足りえている。
 されど、令呪の力は万能では無い。それ単体が可能とする事象はあくまで、マスターとサーヴァントの魔力の合計値で再現可能な命令の強制である。令呪自体も優良な魔力の結晶体ではあるものの、そこまで莫大な魔力を秘めているわけではない。だが、命令の再現が可能なだけの魔力さえあれば、令呪は『行動の停止』のみならず、『行動の強化』をも可能とする。サーヴァント自身ですら、制御不能な肉体の限界さえ突破させる大魔術の結晶。それが令呪なのだ。
 さて、この事から分かるように、令呪の強制にはあくまで『マスターとサーヴァントの魔力の合計値が命令の再現を可能とするに足る量に達している』事が条件である。この条件を満たしてさえいれば、遥か先の敵を斬る為にサーヴァントを弾丸の如く撃ち出す事も魔法の域にあるとされる空間転移も可能であるが、もしこの条件を満たさない命令を下した場合どうなるだろうか。答えは明確である。
 即ち――――、意味を為さない。
 例えば、『次の一撃を確実に命中させろ』、『あの対象にだけは攻撃を命中させるな』などの単一の命令ならば、必要とされる魔力も少なくて済む。だが、逆に『この戦いの間、私を守り通せ』、『この戦いに勝て』などの内容が曖昧で長時間継続される命令には莫大な魔力が必要となる。後者の場合、条件を満たす事が出来ず、発動したとしても令呪の力が弱くなる。重ね掛けによる命令の補強も後者の命令の場合、飛躍的に効果が強まるという事は無い。 
 |桜《凜》が初めにアーチャーに対し、『私を認めろ』という命令を下したが、この命令は後者に当たる。あまりにも曖昧かつ長期的な命令故に桜とアーチャーの魔力の合計値をもってしても、条件を満たすには至らなかった。加えて、精神に対して働きかける命令の場合、英霊自身の精神性も大きく関わって来る。命令に従順な英霊に対しては効果が強まるが、逆に命令に対して従順では無い英霊の場合、効果が弱まる。アーチャーは後者の中でも指折りの英霊であるが故に七つの令呪の重ね掛けも彼の精神を屈服させるには足りなかった。

「――――|開闢の星《エリシュ》を……ッ!?」

 さて、桜の七つの令呪に抗ったアーチャーに対して、ルーラーの令呪は効果があるのだろうか?
 答えは――――、『ある』。
 桜の命令とルーラーの命令には決定的な違いが二つある。
 一つは桜の命令が曖昧かつ長期的な命令だった事に対し、ルーラーの命令は単一的であった事。
 そして、もう一つは桜があくまで人間であり、人間が持ち得る量の魔力しか保有していないという事である。対して、ルーラーは裁定者に相応しい莫大な魔力を保有している。アーチャーに宝具の発動を停止させるという単一的な命令に必要な魔力の条件を満たしたのである。

「アー、チャー?」

 アーチャーの後方でへたり込んでいる桜の瞳に驚愕の色が浮かぶ。
 今にも発動しようとしていたアーチャーの宝具が突如停止したのだ。纏っていた膨大な魔力が霧散し、円柱型の刃は回転を止めている。
 何が起きているのか、彼女には理解が出来ない。ただ一つ、分かる事はアーチャーがさっきよりも更に怒っているという事だけ。

「……止まった」

 家々の屋根を飛ぶように駆けながら、ルーラーは安堵の息を吐いた。
 彼女が向かっているのはアーチャーの乗る船がある方角とは僅かにずれている。彼女が向かっているのは円蔵山。 マウント深山から走る事一分。本来、車でももっと時間が掛かる筈の距離をルーラーは走破していた。階段の麓まで辿り着き、登ろうと段に足を掛けたその時、頭上を紅き光が走った。
 その光から遅れる事二秒。続いて、先程とは違う暗紅色の光が中腹にある柳洞寺から放たれた。

第二十三話「共闘」

 天空に浮かぶ黄金の船。そこから広がる破滅の光と滅びの暴風を見た瞬間、ランサーのマスターは己が従僕に問い掛けた。

「アレに貴方の宝具は届きますか?」
「……ちょっとキツイな」

 ランサーは天を仰ぎ見ながら苦々しげに言った。

「さすがにあの距離だとな……。それに、バゼット。奴にはあの盾がある」
「ですが、アレの発動を見逃せば、この地が滅びてしまいます。駄目元でもやってみましょう」
「ま、待って! アレは何なの!?」

 首に痛みを感じながら起き上がり私はバゼットに問い質した。

「見て分かりませんか? サーヴァントの宝具です。恐らく、アーチャーのサーヴァントでしょう。これだけ離れていて尚、この威圧感……。恐らく、対城クラスかあるいは……。とにかく、このまま奴の暴挙を許せば、この地が火の海と化す事は確実。何としても止めねば」

 火の海ですって!? 
 天高く浮かぶ船に視線を向ける。英霊・エミヤシロウの鷹の目は遥か上空に浮かぶ船の上に立つアーチャーの姿を捉えた。その手に握る剣を見た瞬間、吐き気が込み上げて来た。
 エミヤシロウという英霊の特性上、それが剣であるならどんなモノでも解析出来る筈。にも関わらず、その剣がなんなのか理解出来ない。
 分かる事はソレが真価を発揮すれば、良くない事が起きるという事のみ――――。

「ランサーの槍で確実に止められるの!?」
「……保証は出来ません。ですが、やらなければどのみち……」
「なら、私がやる!!」
「……は?」
「私の矢なら確実にあの船に届く」
「届くって、この距離だぞ!?」

 ランサーが驚きの声を上げる。でも、今の私になら届かせる事が出来る。

「大丈夫。今の私にとって、この目に映る全てが射程範囲」
「……だが、奴には俺の宝具すら防ぐ盾がある」
「それは――――ッ」

 ランサーの宝具の脅威はついさっき、身を持って体験した。
 その槍すら防ぐ盾。そんなものを用意されたら、幾ら私の矢でも……。

「だから、いっちょ、ここは共闘といかないか?」
「……え?」
「ランサー?」

 驚く声は私のものだけじゃなかった。
 バゼットも目を丸くしている。

「俺の槍も嬢ちゃんの矢も恐らく、一方だけなら奴に防がれる可能性がある。だから――――」
「なるほど……。片方がアーチャーに盾を出させ、もう片方が盾を避けて船を叩くと……」
「やる!!」

 私は一も二もなく返答した。

「いいのか? こっちはさっきまで嬢ちゃんを殺そうとしてた相手だぜ?」
「そんなのどうでもいい!! このままじゃ、皆が死んじゃうんでしょ!? だったら、やれる事をしなきゃ!!」

 正直、ランサーもバゼットも怖い。でも、だからって共闘を躊躇したりしない。
 そんな事をしてる間にアーチャーの宝具が放たれたら、この街が滅ぶ。
 そんなの絶対駄目。

「……いいぜ、気に入った。名前を教えてくれ、嬢ちゃん」
「イリヤ。イリヤスフィール・V・E・衛宮」
「おっし、イリヤ。俺の槍はそこまで精密に狙いを付けられるってわけじゃねぇ。だから、船を狙うのはお前さんに頼む。出来るか?」
「出来るわ」
「おっし、良い返事だ。バゼット」

 ランサーは私の頭をポンと叩くと、バゼットに顔を向けた。

「令呪をくれ。確実に奴の盾を引き出さねぇといけないからな」
「……いいでしょう。不安はありますが、やらないよりはマシです。セイバーのマスター。改めて、この一時のみ、共闘を願い出ます。受けて貰えますか?」
「勿論」
「えっと、俺達は何かした方がいいのかな?」

 フラットが手持ち無沙汰気に頬を掻きながら言った。

「俺達に祈ってろ。失敗したら、そん時は多分、俺達も終わりだ」
「マジッスか!?」
 
 焦った表情でフラットは上空を見上げる。もう、猶予は残っていない。
 私は内に意識を埋没させ、この状況に最も最適な武器を検索した。ヒットしたのはとある王の剣。ソレをエミヤシロウが独自にアレンジした一品。
 
「|投影《トレース》、|開始《オン》――――!!」

 歪な形状の刃。弓で射る為にアレンジされたその宝具は本来、担い手の理想を具現化する特性を持つ魔剣。
 
「バゼット!!」
「ええ、令呪をもって命じます!! ランサー、あの船を確実に落としなさい!!」

 バゼットの令呪が発動する。その刹那、何故か船上のアーチャーの宝具が動きを止めた。
 理由は分からない。ただ、今がチャンスだ。

「いくぜ――――っ!!」

 ランサーが大きく跳躍する。狙いは遥か天空に浮かぶ黄金の船。

「――――|突き穿つ死翔の槍《ゲイ・ボルグ》ッ!!」

 膨大な魔力と共にランサーの魔槍が放たれた。
 今度は私の番だ。既にアーチャーはランサーのゲイ・ボルグに気付き、盾を展開している。私はゲイ・ボルグを隠れ蓑にし、盾を躱し、船を射抜く軌跡をイメージした。

「――――|我が骨子は捻れ狂う《I am the bone of my sword》」

 ――――元の剣の名は、|鮮血喰らう理想の剣《フルンティング》。
 そして、この矢の名は――――、

「|赤原猟犬《フルンディング》――――ッ!!」

 先を往く真紅の魔槍の軌跡を追い、放たれた猟犬は夜天を裂き、突き進む。
 その先で、高らかな雄叫びを上げる盾が展開されている。
 名を――――、|轟き吼える黄金の盾《オハン》。
 嘗て、神の剣を受けて尚、傷一つ負う事の無かった王の盾は担い手の危機に抗うべく高らかに吼える。
 拮抗する盾と槍の鬩ぎ合い。その隙間を縫うように猟犬はその刃を黄金の船へと突き立て――――、

――――王の宝物を穢そうとはな。

 聞こえない筈の声が聞こえた。
 悪寒が走る。
 失敗した。あの盾の特性を見誤った。あの盾の本質は山三つを吹き飛ばす剣の一撃を受けて尚、傷一つ負わない絶対的な防御力では無い。
 その真価は危機を主に報せる索敵能力。如何に攻撃を巧妙に隠そうと、その盾を騙す事は出来ない。
 新たに展開された盾は投擲宝具に対し、絶対的な防御を誇るかのトロイア戦争の英雄アイアスのもの。
 |熾天覆う七つの円環《ロー・アイアス》を前に私のフルンディングは完全に防がれてしまった。

「そんな――――ッ」

 言葉を失う私にライダーは拳を掌に打ち付けて言った。

「こうなったら、ボクが直接行って来る!!」
「でしたら、私も同行させて下さい」

 ライダーの暴挙を止めようと口を開いた私より先に山門より現れた第三者が口を挟んできた。

「ル、ルーラー!?」

 ルーラーのサーヴァントは真っ直ぐにアーチャーの船を見上げながら言った。

「私をアーチャーの下に連れて行って下さい。私は裁定者のサーヴァントとして、彼を止めなければなりません」
「ま、待って!! あいつは別格なんだよ!?」

 幾らなんでも無謀過ぎる。アーチャーは他のサーヴァント達と一線を画している。
 幾ら、ライダーとルーラーが伝説に名を馳せた英雄といえど、アレと戦えば命を奪われる。

「たとえ、相手が何者であろうと、無垢なる民を犠牲にするわけには参りません。彼を止めねば……」
「止められるのですか?」

 バゼットが問い掛けた。

「止めます」

 ルーラーは断言した。

「……なら、私から言う事はありません。私やランサーではあまり手助けも出来そうにありませんからね」
「ちょ、ちょっと、バゼットさん!?」
「私やランサーでは無理ですが……、セイバーのマスター。貴女なら、彼らの援護が出来る」
「……え?」
「貴女の矢なら彼らがあの船に辿り着くまでの脅威を払う事も出来るかもしれません」
「で、でも……」
「お願い出来ますか?」

 ルーラーが言った。

「わ、私……」
「貴女のその姿……。裁定者として、後で言わねばならない事があります。ですが、今はその力をお借りしたい。アレを止めねばなりません。その為にどうか、お力添えを……」

 ルーラーに頭を下げられ、私は困り果ててしまった。
 手助けする事に反対なわけじゃない。ただ、彼らを行かせていいものかと悩んでいる。
 だって、相手はあのアーチャーだ。セイバーですら、手も足も出なかった相手。そんな相手とライダーとルーラーが敵うかどうか……。

「イリヤちゃん」

 いつの間にか傍に来ていたフラットが言った。

「助けてくれないかな……」
「え?」
「アレは本当にヤバイよ。絶対に止めなきゃいけない。その為に、出来る事をしなきゃ」
「で、でも、ライダーが死んじゃうかもしれないんだよ!?」
「ライダーは死なない」
「フラット……」
「絶対に死なせない」
「でも、さっき……」
「さっきとは違うよ」

 フラットは軽く微笑んだ。

「さっき、俺、凄く哀しかった」

 フラットはライダーを見つめた。

「ライダーが死ぬ。俺が殺す。そう理解した時、胸が引き裂かれたみたいに痛んだんだ。さすがに、二度目は無理だよ。本当にイリヤちゃんには感謝してる。ライダーは俺にとって、何より大切な相棒なんだ。だから、絶対に死なせない」

 フラットの瞳には決意の光が宿っている。

「いざとなったら令呪でライダーだけでも逃がすつもりだよ」
「フラット……。さすがにそれは困るよ。ボクだけ逃がされても、君が死んじゃったら意味が無い」

 ライダーが言った。 
 フラットの手を取り、自分の胸に押し付けながら微笑んだ。

「君の命はボクと共にある。ボクの命も君と共にある。ボク達は一心同体さ。だから、必ず君を守ってみせる。この街の人やイリヤちゃんを守るのは当然だけど、なにより、君の命は最優先事項さ」
「……ッハハ。俺達、やっぱり相性抜群だね。同じ事思ってる」
「だろうともさ! ボク達はパートナーだもん」
「……絶対に帰って来てくれよ? 俺、ライダーが居ない日々ってのが、もう、なんか、想像出来ない。ってか、したくない」
「ッハハ! まるで、愛の告白をされた気分だよ。うんうん! ボクもさ! 君ともっともーっと一緒に居たい!! だから、必ず帰ってくるよ!!」

 ライダーはフラットを抱き締めた。フラットもライダーを抱き締め返し、お互いにおでこをぶつけ合った。

「頼むよ、アストルフォ」
「任せて、フラット」

 互いに微笑みあい、離れた。

「イリヤちゃん。頼むよ」
「……うん」

 設計図を展開する。彼らの意思は曲げられない。だから、せめて全力で彼らを援護する。

「俺も手を貸すぜ。お前等、ちょっとこっちに来い」

 ランサーの槍がいつの間にか手元に戻って来ている。その槍にランサーは光の文字を刻んでいく。
 ランサーは己の槍を文字で埋め尽くすと、ライダーとルーラーを呼んだ。
 彼は彼らの鎧にそれぞれ文字を刻んだ。

「多少はステータスを向上させられた筈だ」
「感謝します、ランサー」
「ありがとー、クー・フーリン!!」
「ッハ! 俺と再戦する前に死ぬんじゃねーぞ!!」
「うん!!」

 ライダーはヒッポグリフを呼び出した。
 ルーラーと共に幻馬に跨り、彼は天を仰ぐ。

「行って来る」
「……っか、必ず!!」
「うん、帰ってくるよ!! フラット!!」
「う、うん!!」

 決意が固まる。ライダーとフラットが引き離される事は何があっても許されない。その為に必要な手札の準備は終わった。
 
「|投影《トレース》、|開始《オン》――――!!」

 再度顕現させるは|赤原猟犬《フルンディング》。さっきは船を打ち落とす分だけの魔力を篭めた。だけど、次は更なる魔力を篭める。
 私の魔力はエミヤシロウの保有魔力を遥かに凌駕している。その魔力を限界まで篭めれば、|あの盾《アイアス》を貫通させられないにしても、アーチャーの意識を大幅に割かせる事が出来る筈。

「じゃあ、行くよ!!」
「はい!!」

 ライダーとルーラーを乗せた幻馬が走り出す。
 その瞬間、アーチャーの船から剣が打ち出された。
 
「――――|体は剣で出来ている《I am the bone of my sword》」

 さっきの意趣返しだ。幻馬の前に私はアーチャーの使ったアイアスの盾を顕現させた。

「芸達者だな、おい」

 ランサーが口笛混じりに言う。そう、これはただの大道芸。
 本来、剣のみに特化した英霊・エミヤシロウの奥の手だが、本来の属性では無いものであるが故に魔力の消費が激しく、距離が離れれば維持するのが難しくなる。
 だけど、それで構わない。本命はここからなのだから――――。

「んじゃ、俺から行くぜ!! ――――|突き穿つ死翔の槍《ゲイ・ボルグ》ッ!!」

 再度放たれし、真紅の魔槍。音速を超え奔る幻馬を越え、膨大な魔力を纏いながらアーチャーの船へと到達する。
 それと同時に私もアイアスから意識を外す。魔力の流れが一瞬止まるが、尚も幻馬の疾走を守護してくれている。
 限界まで弦を引き絞る。許容量限界まで魔力を篭められたソレはもはや狂犬。
 今にも暴れ出しそうなソレを一気に解き放つ。

「|赤原猟犬《フルンディング》――――ッ!!」

 ゲイ・ボルグから遅れる事一秒。
 猟犬は先程とは比べ物にならない速度でアーチャーの船に差し迫る。
 二つの宝具の襲撃にアーチャーは再び盾の宝具を展開する。けれど、私の目はアーチャーの表情が翳るのを視た。
 イケル。
 次の投擲の準備は整えてある。アーチャーを防御に徹しさせる為に更なる一手が必要だからだ。
 迎撃に割ける思考など残させない。

「|偽・螺旋剣《カラドボルグII》ッ!!」

 二つの宝具の襲撃を盾で防ぎ尚、幻馬を駆るライダー達に宝具の豪雨を降らせるアーチャー。
 宝具の豪雨を避けるべく、回避軌道を取る幻馬の動きを推測し、その隙間を狙い打つ。 
 この剣もまた、エミヤシロウが独自にアレンジを加えた名剣。空間を捻り切りながら、一直線にアーチャーへ迫る。
 新たに展開された盾の宝具に防がれる。だが、同時にアーチャーの宝具の雨が止んだ。
 その隙にライダーが幻馬を一気に加速させる。

「……あ」

 結果を見る為に意識を集中させていると、不意に眩暈がした。

「……あれ?」
「イリヤちゃん!?」

 フラットの声が聞こえる。何だろう……。
 体が酷く思い。意識が遠の……いて、い……く。

第二十四話「抑止の使者」

「|抑止力《カウンターガーディアン》について?」

 衛宮切嗣は娘の質問に対して、どう説明を付ければいいか悩んだ。魔術的な見地についてはバーサーカーのマスター、クロエが説明してくれている。

『人類の持つ破滅回避の祈り、即ち『|阿頼耶識《アラヤ》』による世界の安全装置の事よ。世界を滅ぼす要因の発生と共に起動するソレは絶対的な力を行使し、その要因を抹消する。本来、抑止力はカタチの無い力の渦なんだけど、具現化する際に幾つかのパターンがあるの。例えば、滅びを回避させられる位置に居る人間を後押ししたり、自然現象として全てを滅ぼしたり……』

 非の打ち所の無い説明だが、魔術の世界に触れたばかりの愛娘には難しかったらしい。大まかな理解は出来たものの、具体的な実像が掴めていないようだ。
 切嗣は少し考えた後、パソコンを開き、その画面に一枚の画像を映し出した。全身をすっぽりと覆い隠すマントを纏い、鳥の嘴のような長い鼻と生気の無い目が印象的な仮面を被った人物画。イリヤはその画像の正体を瞬時に見抜いた。

「――――|黒死病《ペスト》ね」
「その通り。正確には、その治療に当たっていた医師だよ。この独特な衣装は彼らが黒死病から身を護る為に身に着けていた保護衣なんだ」

 切嗣は愛娘の反応を観察した。彼女の瞳に宿るのは畏怖と嫌悪。その反応は至って正常だ。この悪名高き病は幾度と無く人類に牙を剥き、特に十四世紀、ヨーロッパにおいて猛威を振るい、全人口の三割を死に追い遣った。現代では感染ルートや治療法が確立されている為、死亡率がめっきり減少したものの、遺伝子に刻み込まれたこの病に対する恐怖は全人類共通の概念だろう。
 だが同時に、この病は人類の歴史にとって無くてはならない存在だったとする意見がある。その事を説明するべきかどうか、切嗣は悩んだ。何故なら、コレは人の死を容認する事と同義だからだ。
 瞼を閉じ、暫しの間悩んだ末、切嗣は口を開いた。

「もう一つ。この画像を見てくれ」

 新たに画面に映し出したのは折れ線グラフだった。

「抑止力について、理解を深めるにはこの例が最適だ」
「これって、何なの?」

 映し出されたグラフから視線を逸らし、イリヤは探るような目を切嗣に向けた。
 
「先見性のある科学者や医師はこのグラフを見て恐怖に慄く」
「どういう意味?」
「このグラフは|世界保健機関《WHO》が公表している人口と環境問題の増加変数を示したものだ。御覧――――」

 切嗣は画面上に表示されたグラフの左端を指差した。

「これが三百年前――――」

 指をゆっくりと右にスライドする。

「これが百年前」

 変化は微細だ。増加傾向にあるとはいえ、とてもなだらかな坂を描いている。
 問題はこれ以降にある。

「これは……」

 娘の聡明さを喜ぶべきか、このグラフに秘められた真実を知ってしまった事を憐れむべきか。
 グラフの百年前から現在に至るまでの変化の度合いはそれ以前とは比べ物にならない程急激なものだ。
 人口爆発と呼ばれる現象。西暦一年頃、人類は一億人に満たなかった。千年後も、その数は二倍の二億人に増えるに留まっていた。ところが、それから九百年後、即ち、現在から数えて百年前、一気に八倍の十六億五千万人にまで増えた。そして、それから僅か五十年で二十五億人を突破。更に五十年後の現在、人口は七十億人を突破している。
 
「一人の人間が使える清浄な水や食料の数には限りがある。それに、温暖化、オゾン層の破壊、二酸化炭素の増加、森林伐採。それらは人口の数に比例して増えている。感情を排し、理論の下でこのグラフを分析すると――――、人類の終焉が急速に近づいているという結論に達するんだ」
「なっ……」

 聖書の終末など待たず、人類は破滅する。大災害が起こらずとも、核戦争が起こらずとも、魔王やドラゴンが現れずとも、人類はただ、増え続ける事によって滅亡する。

「生物学において、特定の種がその住環境に対して過剰に増加し過ぎた事を理由に絶滅する事はよくある事なんだ。この問題に言及している小説もある。『2300年未来への旅』では人口爆発の抑制の為に二十一歳の誕生日を迎えた者は皆、自ら命を絶つんだ。『善意の自殺』という奴だね」

 切嗣は一息入れる事にした。イリヤは今の話に衝撃を受けている様子だ。口元に手をあて、目を見開いている。
 
――――君はまるで黒死病だね。

 嘗て、己が殺した男に言われた言葉を切嗣は思い出した。

「さて、話を一度、黒死病に戻そうか」
「う、うん」

 切嗣はいざ話そうと口を開きかけ、僅かに躊躇した。
 これからする話は一種の危険思想とも取れる。己が嘗て、志した道に通じるものであるが故に切嗣は苦悩した。
 
「……黒死病には恐ろしい面がある。だが、同時に人類に恩恵を齎してもいるんだ」
「恩恵……?」
「黒死病が広がるより以前は、人口過剰による飢饉が世界に暗雲を立ち篭らせていた。黒死病の襲来はね――――、『人類を間引く』役割を担ったんだよ」
「間引くって……」

 言葉を失う愛娘に切嗣は静かな口調で続けた。

「多くの人が死んだ。そのおかげで、食料が行き渡るようになり、経済的な困窮も払拭され、ルネッサンスが花開く切欠となった。著名な歴史学者の多くが黒死病を『必要悪』と謳っているんだ」
「そんな――――ッ」
「さっきのグラフを思い出してごらん」

 切嗣は淡々とした口調で言いながら、画面上に今尚表示され続けている人口増加変数の折れ線グラフを指差した。
 
「世界保健機関をはじめ、多くの科学者や医師が人類増加の危険性を世に発信しているんだ。人類の抑制は必要な事だとね……」
「で、でも!!」
「――――つまり、これが抑止力なんだよ」

 切嗣の言葉にイリヤは凍り付いた。

「覚えておきなさい。|抑止力《カウンターガーディアン》は|機械仕掛けの神《デウス・エクス・マキナ》じゃない。それが結果的に人類の破滅を防ぐというだけであって、必ずし人類にとって都合の良い希望を与えてくれる存在じゃないんだ」

 そう、まるで嘗ての己のように……。
 切嗣は在りし日の事を思い出しながら不安に瞳を揺らす愛娘の頭を撫でた。
 十を救う為に一を切り捨ててきた。

――――『君はまるで黒死病だね』

 そう言った男の真意を理解出来るようになったのはここ数年来の話だ。
 平穏に身を置く内に理解した己の業。正義の味方とは、疫病のようなものだ。ただ、より大きな悲劇を防ぐ為に予め最低数の犠牲者を殺す病。
 人によっては必要な存在だったと肯定してくれる者も居るだろう。だが、大多数にとって、ソレは単なる恐怖の対象。存在する事自体が許せぬ悪魔の如き存在。
 多くの識者が人口爆発の抑制の為に避妊具の利用を推進し、出産数を抑える法律を作っている。黒死病のような病をもって、人類を間引くなどと考える者は居ない。
 黒死病を必要な存在だと肯定する者達も間引く以外の方法を必死に模索している。残酷な真実に向き合い、尚、抗っている。

――――僕はただ、最初から抗う事をしなかった……。

 正義の味方になりたい。そう願い、戦い続けてきた。だけど、それは間違いだった。
 絶望から目を逸らし、ただ楽な道に逃げて来ただけだ。

「イリヤ。この戦いはとても厳しいものになると思う。だけど、決して楽な道に逃げたら駄目だよ。辛くても、苦しくても、諦めずに抗い続けるんだ」
「……うん」

第二十四話「抑止の使者」

  嵐が止んだ。未だ、無数の宝具が雨のように降り注いでいるが、アーチャーの思考は地上から放たれた三つの宝具に割かれ、狙いが定まっていない。
 恐らく、この状況は一秒と保たない。三つの宝具はアーチャーが展開した三つの盾の宝具によって弾かれ、再び彼の意識が此方に向けられる。そうなれば、二度とチャンスは巡って来ない。
 本当に規格外な英霊だ。ルーラーは戦慄すら覚えた。
 古代ウルクに君臨した人類最古の英雄王・ギルガメッシュ。彼の強さは英雄の域すら超えた領域にある。この世全ての財宝を内包した彼の蔵すらも、彼の強さの一端を示すものに過ぎない。あの奇怪な剣も然り……。

「ライダー」
「分かってるって!」

 けれど、怯えている暇など無い。彼を止めなければ、この地に住まう人々に甚大な被害が及ぶ。
 ライダーが|幻馬《ヒッポグリフ》の腹を蹴り、一気に黄金の船へと加速する。ゼロコンマ数秒後、ルーラーは幻馬から飛び降りた。

「あわわわわわ!!」

 爆撃の如くルーラーが降り立った衝撃で船が揺らぎ、その場に沿わない可愛らしい悲鳴が響いた。
 見れば、船の片隅で少女が一人縮こまっている。
 直後、再び船体に衝撃が奔り、少女は甲高い悲鳴を上げた。

「ライダー。あなたまで来る事は……」
「言いっこなしだよ。女の子一人に責任を押し付けるのはボクの流儀じゃないし、彼を止められなかったらフラットが危ないからね」
 
 見た目はどこから見ても可愛らしいお姫様なのに、その内に秘める心は紛れも無く勇者のソレだ。
 ルーラーは彼の助力に心から感謝した。これ以上頼もしい助っ人は居ない。

「ところで……、彼女は?」
「アーチャーのマスターのようですね」

 アーチャーのマスターたる少女は船に備え付けられている玉座の裏に身を潜ませながらルーラー達の挙動を覗き見ている。
 瞳に怯えの色が見て取れる。魔力の保有量こそ一流の魔術師並かそれ以上だが、挙動がまるで一般人のようだ。
 気にはなる。だが、今はそれより眼前の脅威への排除を優先しなければならない。

「……我を差し置き、裁定者を名乗る痴れ者が天に仰ぎ見るべきこの我に命令を下し、あまつさえ、我の船に土足で乗り込むか。ここまで来れば痛快ですらあるな……」

 アーチャーは額を手で覆いながら微笑を零した。

「アーチャー。今直ぐに地上に降りなさい。これ以上の狼藉は裁定者として許容出来る範囲を逸脱しています」
「狼藉……?」
「地上には何も知らず平穏に過ごす人々が大勢居ます。それを知りながら対界宝具を使うなど――――ッ」
「ッハ!!」

 嗤った。アーチャーは大口を開け、腹を抱えて嗤った。

「な、何がおかしいのですか!?」
「これが嗤わずに居られるか? なあ、オルレアンの乙女よ。貴様、本当は|裁定者《ルーラー》ではなく、|道化《ピエロ》なのではないか? まったく、王を騙すとはな……。だが、許すぞ、道化。貴様の数々の無礼も許す。いや、実に愉快な道化振りだ。褒めてやろう」
「な、何を……」

 道化と呼ばれ、ルーラーは困惑した。彼女は自分が彼と顔を合わせてから発した言葉に疑問を抱いていない。
 嗤われるような言葉は口にしていない。道化などと詰られる理由が分からない。

「だが、貴様は別だ、ライダー。我の船に土足で踏み入った罪、死をもって償うが良い」
「なっ!?」

 アーチャーの言葉に呼応するように虚空から黄金の紐が現れ、ライダーの体に纏わり付いた。指一つ動かせない状態にされ、ライダーは苦悶の表情を浮かべた。

「神獣を拘束した神の拘束紐だ。貴様如きに使うには少々勿体無かったやもしれんな」
「っぐ……」

 虚空から一本の剣が現れる。

「それ、は……」
「貴様ならば知っていよう。友の剣を受けて果てるが良い」
「デュ、|絶世の剣《デュランダル》……」

 それはアストルフォの友、ローランの剣。並ぶ物の無い切れ味を持つとされる稀代の名剣。
 嘗て、アストルフォはローランの為に月へ向かった事がある。彼が恋に破れ、狂乱した時には己を着飾り慰めた事もある。そんな大切な友の剣が己を串刺しにせんと狙いを定めている。

「ああ、やっぱり美しい。でも、駄目だね。君には相応しくないよ、アーチャー」
「……なんだと?」
「その剣は偉大なる英雄にこそ相応しい剣だ。君にはその剣を持つ資格なんて無いよ」

 絶体絶命の状況にありながら、アストルフォはきっぱりと言い放った。

「――――死ね」
「……ごめんね、フラット」

 縛り付けられたライダーの胸に吸い込まれるように剣が飛来する。
 瞼を閉ざし、己のマスターを思うライダーの耳に鋼の音が木霊した。
 
「何の真似だ?」

 瞼を開いたライダーが見たのはデュランダルを弾くルーラーの姿だった。
 
「道化故、過去の無礼は不問にしたが、あまり調子に乗るようならば我も考えを改めるぞ?」
「私は道化ではありません。あなたの暴挙を止める。その為に私は来たのです」
「なるほど、あくまで己を裁定者などと称するつもりか……」
「つもりも何も……ッ!!」
「ならば、問おう――――、貴様は何故我の行為を狼藉だ、暴挙だと喚くのだ?」
「地上で平穏を享受する無垢な民を犠牲にしようとするからです!!」
「……ッハ。だから、貴様は道化だと言うのだ。裁定者などと名乗っておきながら、貴様は偏狭な目でしか世を見ておらん」
「偏狭……?」

 アーチャーは言った。

「貴様は何故、地上の民を案ずるのだ?」
「彼らは聖杯戦争の事を知りません。何も知らず、ただ平穏に過ごしていただけの彼らが犠牲になっていい通りなど無い!!」
「それがまずおかしいのだ。戦場において、無知を晒す者が死ぬは必定よ。そんな者達を理由に参加者の一方に肩入れし、一方を妨害するとは、裁定者にあるまじき行為ではないか?」
「それは詭弁です……」
「詭弁なものか。我の宝具の発動を止めるという事はそういう事だろう?」
「違います!! 私はただ、民に被害が及ぶ行為を――――」
「民に被害が及ぶ行為!! ならば、何故貴様はこの戦いを維持しようとしているのだ?」
「……え?」

 アーチャーの質問の意味をルーラーは直ぐに理解する事が出来なかった。

「貴様が真に民の平穏を護りたいと思うなら、さっさとその令呪で全てのサーヴァントに自害を命じ、最期に己の存在を抹消すればいい。それをしない時点で貴様の言動と行動には矛盾があるのだ。それで裁定者を名乗るなど、呆れるを通り越して笑えてくるぞ」

 ルーラーは彼の言葉に何も返せなかった。
 その通りだからだ。平穏な生活を営む民を真に思うなら、さっさと聖杯戦争を終わらせれば良い。それを可能とする手段がある以上、考える必要すら無い選択肢。
 
「所詮、貴様は神の傀儡。ただの人間の小娘に過ぎん。そんな卑小の身で我の行動を諫めるだと? 我に並ぶだと? 身の程を弁えよ、雑種!!」
「わ、私は……ッ」
「人が人を裁くは罪よ。どう押し殺そうと、そこには感情が混じり込む故な。だからこそ、裁定者は超越者で無ければならん。人であっても、神であっても、裁定者は務まらん。まして、神の傀儡などに何を裁けると言うのだ?」

 答えられない。今現在も、ルーラーは聖杯戦争の即時終了という選択肢を選べずに居る。
 それは何も、隣で縛られているライダーを慮ったからではない。彼女のスキルの一つ、啓示によるもの。
 
――――その選択肢は間違っている。

 その啓示の意図は分からない。けれど、彼女はその啓示に背く事が出来なかった。
 神の傀儡。彼の言葉が耳の中で反響している。
 虚空から鎖が伸び、ルーラーの体を捕縛する。身動きの取れない彼女達にアーチャーは禍々しい形状の剣を向けた。

「――――目障りだ、消えろ」

 その直後だった。アーチャーの意識がルーラーとライダーから外れた。
 超越者たる彼が全ての意識を傾けねばならぬと判断した存在が彼らの眼下に現れたのだ。
 
――――墜ちろ。

 声など届きようも無い距離。にも関わらず、アーチャーはその声を聞いた。 
 そして、地上より赤雷は放たれた。

第二十五話「戦闘激化」

 地上より放たれし赤雷をアーチャーは難なく回避した。彼が操る黄金の船、|天翔る王の御座《ヴィマーナ》は物理法則に縛られず、担い手の思考と同じ速度で天を駆ける事が出来る。地上の脅威を逸早く察知したアーチャーにとって、赤雷を躱す事は容易だった。
 だが、真紅の極光を伴う斬撃の余波を受け、ヴィマーナの挙動が一瞬アーチャーの思考を離れた、その刹那――――、|脅威《・・》はやって来た。
 
「|熾天覆う七つの円環《ロー・アイアス》!!」

 脅威に対し、アーチャーが選んだ守りはアイアスの盾。花弁が花開くと同時に地上より差し迫る脅威がその正体を顕にした。
 ソレは奇怪な形状の剣だった。切り裂くには不向きな、むしろ、突き抉る事に特化した螺旋状の刃を持つ美しい剣。
 刃と盾の激突と同時にヴィマーナの船体が大きく揺らいだ。一枚一枚が城壁並みの防御力を誇る花弁が散っていく。残す花弁は四枚。投擲武器に対し無敵の概念を持つ盾がただの一撃で半壊していく。
 
「……これは」

 アーチャーの表情に僅かに焦燥の色が浮かぶ。彼が脅威と感じたのはこの剣自体では無かった。むしろ、|この程度《・・・・》の宝具がアイアスを半壊させるなどあり得ない。
 確かに、優秀な宝具ではある。だが、コレは投擲武器として扱う物ではなく、まして、投擲した際に特別な効力を発揮する類の代物でも無い。
 にも関わらず、この宝具がアイアスを半壊させた理由はただ一つ。

「……これが貴様の真の力か」

 アーチャーが見下ろす先に男は立っていた。
 ファーガスと名乗る謎の英霊。否、アーチャーはとうの昔に彼の正体を暴いている。だが、ファーガスの力はアーチャーの予測を遥かに超えていた。
 
「だが、終いだ」

 直線距離にして約三千メートル。それも常に動き回る標的に対して、アイアスを半壊する程の威力の投擲を行った彼の技量と怪力は全くもって見事。並みの英雄に真似出来る仕業ではない。
 だが、そこまでだ。ファーガスが放った剣にゲイ・ボルグのような追尾機能は無い。アイアスを完全に打ち破れなかった以上、後は地に墜ち行くのみ。
 天上に浮かぶ船の上のアーチャーに対し、これ以上、ファーガスに出来る事など何一つ無い。アーチャーは蔵より無数の刀剣を取り出し、ファーガスに狙いを定めた。

「――――失せろ」

 刀剣が打ち出される――――その刹那、光が爆発した。音は聞こえるより前に耳の機能を破壊した。アイアスは崩壊し、アーチャーは咄嗟にマスターである桜を庇い、鎖と紐によって拘束されていたルーラーとライダーは船から弾き出され、奈落へと落ちていく。
 何が起きたのか、咄嗟に理解出来た者は一人も居ない。桜はアーチャーの鎧にしがみ付き、アーチャーは忌々しげに舌を打つ。
 ルーラーとライダーは勢い良く地面に向かって落下する途中、間一髪、ヒッポグリフによって救出された。

「……|壊れた幻想《ブロークン・ファンタズム》」

 ヒッポグリフの爪に掴まれた状態でルーラーはどうにか状況を整理した。
 今起きた現象は紛れも無く、|壊れた幻想《ブロークン・ファンタズム》。宝具の中に眠る莫大な魔力を爆発させる禁断の技。
 サーヴァントはこの技を一度限りの必殺技として使う事が出来る。だが、実際に使う者は殆ど居ない。
 そもそも、宝具とは英霊にとっての象徴であり、生前共にあり続けた半身でもある。それを破壊する事は即ち、己の身を引き裂くも同然なのだ。加えて、一度|壊れた幻想《ブロークン・ファンタズム》によって壊れた宝具は直ぐには修復出来ない。それはつまり、使用後、使用者は切り札の無い状態で戦いを続行しなければならないという事。
 サーヴァントとして、正気の沙汰とは思えない行為をファーガスは行ったのだ
 
――――さあ、仕上げだ。

 常軌を逸した行動を取ったファーガス。けれど、それすらも彼の真の狙いの布石に過ぎない。赤雷も、アイアスを半壊させた投擲も、壊れた幻想すらも単なる布石。
 本命の一撃はその直後にヴィマーナを襲った。
 それは一本の剣だった。真紅の輝きを放つ魔剣。投擲に使われたなどという伝承の存在しない剣が投擲によってアーチャーの船の船底を穿った。

「……船を捨てる。我にしがみ付いていろ、小娘」

 アーチャーの顔を彩るのは屈辱の色。桜の体を強引に引き寄せ、機能が停止したヴィマーナを捨てた。
 
「虚船よ……」

 ヴィマーナはアーチャーの保有する騎乗宝具の中でも特に移動能力に優れた宝具だった。
 だが、別にそれ以外の宝具を保有していないというわけではない。彼は人類最古の英雄王。この世の全ての財宝を手にした王である。
 彼が蔵より取り出したのは東洋に伝わる神の船。まるでフリスビーのような円盤状の船にアーチャーは降り立った――――、

「貴様ッ!!」

 直後、再び真紅の輝きを灯す剣がアーチャーの船を貫いた。盾を展開する隙など与えぬとばかりの速攻。
 アーチャーが船を蔵から取り出し、その上に足を乗せる。その刹那にファーガスは剣を投擲し、命中させた。
 再び、アーチャーは船を捨てる。
 まだある。空を往く船は他にも幾らでもある。だが、何を出しても奴に破壊される。
 一瞬の迷い。時間にして一秒にも満たない迷いが状況を動かした。

「貴様ら――――ッ!!」

 ファーガスの狙いがアーチャー自身へとシフトした。それと同時に動き出した存在があった。

――――その心臓、貰い受ける!!

 ランサーのサーヴァントが既に宝具の発動体勢に入っていた。
 地上から二つの脅威が迫る。この落下状態では盾の宝具を展開する事が出来ない。新たな船を出し、それから盾を展開していては間に合わない。
 万事休す。心臓破りの魔槍と真紅の極光を放つ魔剣が放たれる――――その寸前、アーチャーは己の鎧を解除し、桜に着せた。

「アーチャー……?」
「口を閉じていろ」

 アーチャーの選んだ選択は地上への加速。地上まで六百メートル。その距離をゼロにする。
 着陸する為の減速を一切せず、アーチャーは地面に向かって可能な限り加速した。
 激突の衝撃は凄まじく、落下位置にあった民家は崩壊した。桜はアーチャーの鎧によって護られたが、アーチャー自身は無傷とはいかなかった。
 全身から血を流し、苦悶の表情を歪める彼に桜は衝撃を受けた。傲慢不遜の王。絶対無敵の大英雄。そんな彼が己の命を優先し、負傷している。そのあまりにも現実離れした光景に桜は言葉を失っている。
 けれど、彼らに休む暇は与えられない。まだ、彼らを襲う脅威が晴れたわけでは無いのだから――――。

「ッハ!!」

 襲い掛かる真紅の魔槍と紅光の魔剣。アーチャーは傷だらけにも関わらず、間一髪のところで盾の展開を為した。
 桜が心配そうに彼を見つめると、彼は自嘲の笑みを浮かべた。

「……何という様だ、この我が。こんな、小娘に心配なんぞされるとはな……」

 振り返れば敗北続きだ。ランサー陣営に破れ、バーサーカー陣営から逃走し、今また、ランサーとファーガスに追い詰められている。
 人類最古の英雄王が聞いて呆れる。アーチャーは口元に笑みを浮かべた。

「あ、アーチャー?」
「中々に愉快だ」

 二つの脅威は未だアーチャーの盾を破壊しようと暴れている。にも関わらず、彼は実に愉しそうに笑った。

「これで隠れていろ」

 アーチャーは桜の鎧の上に更に大きな布を被せた。すると、桜の姿がどこにも映らなくなった。姿を晦ませる宝具の原典。その布に包まっている間、姿はおろか、臭いも気配も音すらも掻き消える。
 使用者に高ランクの気配遮断スキルを与える宝具である。
 アーチャーは桜に離れていろと命じ、二つの盾に手を伸ばした。
 
「なるほど、この戦い自体は悪くない。宝を求め、凡百な雑種共が英雄王たる我に並ぶ武勇を見せる。実に、良い!!」

 盾が二つの脅威を押し返した。それと同時に迫る存在をアーチャーは感じた。
 アーチャーは蔵より黄金の双剣を取り出し迎え撃つ。姿を現したのはファーガス。もはや、遠慮は不要とばかりに剣を振り落とし、アーチャーを吹き飛ばした。
 ファーガスの斬撃はそれだけに留まらず、コンクリートの地面を引き裂き、底の見えない溝を作り出した。評価規格外の怪力。それこそがファーガスの真の力。

「――――認めよう。貴様は我が本気を出すに足る英雄だ、ファーガス。いや――――」

 アーチャーは|王の財宝《ゲート・オブ・バビロン》を最大限に展開し、乖離剣を手に取った。
 傷だらけの体は傍目から見れば死に体にしか見えない。されど、彼は絶対的な強者としてそこに立ちはだかっている。
 ファーガスは己の魔剣を構えながら獰猛な笑みを浮かべた。

「――――勇者王・ベオウルフよ」

第二十五話「戦闘激化」

 死んだ。大切な人が死んだ。大切な相棒が死んだ。大切な友達が死んだ。
 皆が私を残して死んでいく。どうして、こんな事になったんだろう。私はただ、皆と一緒に居たかっただけなのに……。
 暗闇が広がる。誰かが囁き掛けて来る。誰だろう。耳を澄ましてみる。知らない声。何を言っているのかよく聞き取れない。

――――死ね。

 さっきまで、誰も居なかった暗闇にパパとママが現れた。声を掛けようとしても声が出ない。
 必死に手を振ろうとして、手が無い事に気が付いた。

――――死ね。
 
 ママの腕が奇妙に折れ曲がった。明らかに曲がってはいけない方向に曲がっている。にも関わらず、ママは笑っている。
 今度は足に穴が空いた。まるで、槍で貫いたような細くて丸い穴。そこから血が止め処なく溢れ出している。なのに、ママは笑っている。
 目玉が落ちた。空虚な穴が穿たれ、そこから涙のように血が流れ落ちる。でも、ママは笑っている。
 心臓のあるべき場所に穴が空いた。ママの姿が消えた。残されたパパは微笑んでいる。微笑んだまま、首が地面に落ちていく。

『ヤメテ』

――――死ね。

 パパも姿を消し、今度はクロエが現れた。クロエは微笑んでいる。
 クロエの腕が捻じ切れた。まるで、雑巾を絞って、勢いあまって破ってしまったみたいな跡が残っている。クロエは微笑んでいる。
 今度は反対の腕が捻じ切れた。足が捻じ切れた。なのに、クロエは微笑んでいる。
 クロエの体が血に染まる。傷口を見て、怖気が奔る。まるで、噛み千切ったみたいな形の傷。それも人間の口くらいの大きさの傷。
 傷が少しずつ大きくなっていく。内臓が露出し、そこにも噛み傷が出来る。
 喰われていく。クロエが姿無き存在に喰われていく。まるで、食卓に並ぶ肉塊の如く、喰われていく。だけど、クロエは微笑んでいる。

『ヤメテ』

――――死ね。

 クロエの体が完全に喰い尽されると、今度はセイバーが立っていた。
 セイバーだけじゃない。バーサーカーの姿もある。向かい合って、剣を構え合っている。
 二人は互いを斬りつけ、姿を消した。

『ヤメテ』

――――死ね。

 ライダーが立っている。微笑んでいる。
 嫌だ。もう、嫌だ。もう、見たくない。
 目を閉じようとして、誰かに無理矢理開かれた。
 ライダーの腕が肩から切り離された。全身に穴が空く。まるで、剣で刺されたような傷。
 
『ヤメロ』

 ライダーの髪飾りが飛ぶ。血だらけになりながら、ライダーは微笑んでいる。
 心臓に穴が穿たれた。ライダーは微笑んだまま、姿を消した。

――――死ね。

 知らない男が居る。男は満足そうな笑みを浮かべながら私を見ている。
 男はセイバーの首を持っている。

『ヤメロ!!』

 男はセイバーの首を踏み潰した。
 男はパパとママの首を両手に持った。

『ヤメテ!!』

 パパとママの首同士をぶつける。まるで玩具で遊ぶかのように……。
 男はクロエの首を持ち上げた。高々と放り投げられたクロエの首は放物線を描いて地面に落ちる。
 
――――嫌なら、殺せ。

 殺す。殺さなきゃ駄目だ。あんな酷い事をする人は殺さないといけない。
 殺す手段は私の手の中にある。男がいる。私の大切な人達の首を弄んだ男がたくさん。

「――――殺さなきゃ」

 最初に異常に気が付いたのはライダーのマスター、フラット・エスカルドスだった。
 夢幻召喚という人の身に過ぎた大魔術の代償だろう。イリヤは意識を失い倒れ伏した。慌てて駆け寄り、呼吸と脈を確認し安堵した。
 
「生きてる……」

 常識離れした現象を目の当たりにした彼はそれでも冷静だった。
 冷静にあの力の危険性を理解した。英霊を憑依させる事は悪魔憑依など比較にならない程危険な行為だ。薄い色の水に濃い色の水を混ぜれば色は濃くなる。当たり前の事だ。
 今、イリヤの体は英霊の力に汚染されている。一刻も早く処置をしないと命に関わるだろう。

「今、イリヤちゃんに手を出そうってんなら俺が相手になるッスよ?」

 バゼットの動く気配を感じ、フラットは顔も向けずに言い放った。

「……フラット・エスカルドス。エスカルドス家の神童にして、魔術協会きっての問題児。軽薄な外面に対して、その実力は本物らしい」
「試してみる?」
「いいえ。負ける可能性は万に一つもありませんが、今は共闘関係にある。不義理な真似をするつもりはありませんよ。彼女との戦いは次回に持ち越します」

 フラットは安堵した。彼女と戦うとなれば、まず間違いなく己は死ぬ。そして、イリヤも殺される。
 封印指定の執行者の名は伊達ではない。研究肌の人間が多い魔術世界において、限り無く戦闘に特化した存在。恐らく、低ランクの英霊相手ならばサーヴァント無しでも勝ち星を得られるだろう程の怪物。今、ランサーは上空の戦いに起きた変化に対応する為、単独行動に出ているが、それでも勝てる気がしない。
 
「まあ、次に会った時はマスターとしてだけでなく、封印指定の執行者としても彼女の前に立たねばならないでしょうけど……」

 息を呑んだ。彼女の言う事はつまり、イリヤの能力は封印指定に認定されるレベルの魔術という事。
 
「きょ、共闘関係を結んだ縁で黙っててもらうって訳には……」
「いきませんね。あくまで、これは一時的な同盟。今宵を過ぎれば無に帰すもの。もし、彼女の事を外に洩らされたくなければ、私を打ち倒してみせなさい、ライダーのマスター」
「……ッハハ」

 フラットは乾いた笑みを浮かべた。
 参った。ただ、英雄と友達になりたいと思って参加しただけの聖杯戦争だったのに、戦う理由が出来てしまった。
 横たわるイリヤを見つめていると、覚悟も決まってしまった。

「じゃあ、戦いますよ」
「ほう……」
「女の子の秘密は守られるべきだ。無闇に暴露するなんて、ナンセンスだよ」

 軽口を叩きながら、フラットは立ち上がり、真っ直ぐに拳をバゼットへ向けた。
 対するバゼットは微笑んだ。

「なるほど、ランサーが心を許したのも分かる気がしますね」
「え?」
「実に真っ直ぐな少年だ。行動原理が分かり易いし、好感が持てる。だから――――」

 バゼットは不意にフラットの目の前に迫った。
 殺される。そう思った直後、フラットはバゼットに腕を引かれ、地面に転がされた。
 
「最初に言った忠告をちゃんと守りなさい」

 気が付くと、バゼットがイリヤと向かい合っていた。
 イリヤの様子がおかしい。虚ろな顔で陰陽剣を構えている。

「――――殺さなきゃ」

 不吉な言葉を口にした途端、イリヤは肌が粟立つ程の殺気を放った。
 最初に動いたのはイリヤだった。陰剣を振り上げ、バゼットに迫る。

「――――甘いッ」

 英霊に比肩する疾さで放たれた斬撃をバゼットは軽々と避け、拳を彼女の腹部に叩き込んだ。

「なっ!」

 驚きの声はバゼットのもの。バゼットの拳が抉ったのは彼女の腹では無く、彼女の陽剣だった。
 軋みを上げながらも陽剣は健在。バゼットの拳の勢いを利用し、イリヤは一気に距離を取り、陰陽剣を投擲する。
 弾丸の如く打ち出された双剣をバゼットは拳で弾き返し、イリヤを追った。拳が振るわれる。イリヤは双剣を盾に防ごうとするが、バゼットの放つ拳の手数は尋常では無い。
 イリヤは防ぐ事を止め、バゼットの拳を双剣で逸らした。刹那の間に距離を空け、追いつかれないように投影した身の丈程もある剣を地面に降らせる。鏡の如く美しい刃を持つ剣の壁はされど、彼女の前では無力。瞬く間に砕かれ、壁としての役割を終える。
 その間は一秒にも満たない。けれど、その一瞬でイリヤは次なる手を打っていた。
 必殺の威力を伴う矢がバゼットに向かい一直線に飛来する。

「その程度の矢では、私には届きませんよ」

 最速で放たれた矢の数は四。その全てをバゼットはあろう事か掴み取り、そのままイリヤに向かって投げ放った。
 ギリギリで回避したイリヤにバゼットが距離を詰める。
 怪物。その戦いに圧倒され、尻餅をついたフラットの出した感想がソレだ。バゼット・フラガ・マクレミッツ。予想以上の怪物振り。
 神代の宝具を現代に伝えるフラガの末裔。封印指定の執行者。紛れも無く、今を生きる人類の中でも最強クラスにカテゴライズされる存在。
 戦うと決意したばかりだと言うのに、フラットは動く事が出来なかった。イリヤを守らなければという感情とは裏腹に体が言う事を聞かない。あの戦いに足を踏み入れれば死ぬ。その事を理性よりも強く本能が理解したが故の状況。

「ックソ……、イリヤちゃん」

 動けと命じても動かない体。悔しさに涙が溢れ出しそうになった時、上空から不思議な物体が落ちてきた。

「ふぎゃっ!」
「むぎゅっ」

 簀巻き……?

「って、ライダー!? それに、ルーラー!?」

 それは布で縛られたライダーと鎖で縛られたルーラーだった。

「ど、どうしたの二人共!? ちょっと、エッチだよ!?」
「エッチ!?」
「ちょっ!?」

 布と鎖の縛り具合が実に絶妙で、殺伐とした戦場が目前で繰り広げられているにも関わらず、フラットは鼻の下を伸ばした。
 仕方が無い。フラットは男の子なのだ。美少女二人があられもない姿を晒していて、劣情を催すのを誰が責められようか……。

「いいから解いてよ、フラット!!」
「変な目で見ないで下さい!!」

 セクハラ被害を受けた当の二人は顔を真っ赤にしながら叫んだ。

「あ、はいはい」

 とりあえず解放してあげようと手を伸ばすが、どちらも英雄王が蔵より取り出した至高の宝具。
 人間の身でどうにか出来るモノでは無い。

「うん。これは無理だね」

 ツンツンとライダーを縛る布をつつきながらフラットはあっさりと諦めた。

「ちょっと!?」
「諦めないで下さい!!」

 二人が喚き立てる中、フラットは思った。

――――そんな事よりイリヤちゃんを助けないと。

「ヒッポグリフ。とりあえず、二人の事をたの――――」

 言いかけて、フラットは二人を抱えると、走り出した。
 イリヤを助けたい。だけど、その前に無防備なライダーとルーラーを避難させる必要がある。背後に脅威の存在を感じ取り、フラットは即座に決断を下した。

「ヒッポグリフ!!」

 フラットの叫びに応えるようにヒッポグリフがフラットの隣を並走しだした。
 フラットは全身を魔力で強化しながら二人を抱えた状態で跳び上がり、ヒッポグリフの背中に乗った。
 幻馬が飛翔すると同時に山門が粉砕し、その向こうからバーサーカーが姿を現した。その手には彼のマスターの姿があり、その背後から更にセイバーとランサーが続く。

「バーサーカー!! アンタはセイバーとランサーを潰しなさい!!」

 まるで、イリヤのように強大な力を纏うクロエの姿にフラットは目を見開いた。バーサーカーが背後から迫る二騎の英霊を迎え撃つと同時にクロエはバゼットとイリヤの下に向かい、その剣をバゼット目掛けて振り落とした。

第二十六話「イリヤとクロエ」

 柳洞寺に足を踏み入れたクロエが最初に思った事は『やっぱり』だった。
 アーチャーを取り逃がした直後、上空を奔った二つの光。一方はランサーのゲイ・ボルグであると分かった。けれど、もう一方の光の正体は掴めなかった。
 アーチャーを除き、投擲宝具を保有するサーヴァントはランサーのみ。ファーガスが隠し玉を秘めていた可能性もあるが、彼の剣とは形状が明らかに違った。その事を踏まえ、あの光を放った者の正体を推理した時、一人の少女の顔が脳裏に浮かび上がった。
 
――――あり得ない。

 思いついた瞬間、否定した。|彼女《イリヤ》は己と異なり、平穏な人生を歩んで来た筈。己に施されたイレギュラーな能力を彼女が使える筈が無い。
 でも、とクロエは一つの可能性に思い当たった。十年前、イリヤは妖后・モルガンに肉体の調整を施される前にアインツベルンによって一つの機能を植え付けられている。
 それは、小聖杯としての機能。クロエのように十年に及ぶ歳月を掛けて完全な状態に仕上げたわけでは無い。だけど、仮にモルガンがその機能を万全に仕上げていたとしたらどうだろう。
 クロエにモルガンが植え付けたのはあくまでイリヤの影武者となる為の贋作。モルガンに調整を受ける前のイリヤに植え付けられていた小聖杯としての機能と寸分違わぬ偽者だ。だけど、稀代の魔女がその機能に手を一切加えなかったとは思えない。平穏な人生を生きる為の足枷となる事を懸念し、機能自体を取り除くか、あるいは何時の日か訪れるかもしれない闘争の日々を生き抜く武器となるよう完成させるかの二つに一つ。
 恐らく、彼女が選んだのは後者。イリヤの人生が平穏無事のまま終わるなどあり得ない。あの稀代の陰謀家が彼女の未来に訪れるであろう暗い影の存在を予測出来ない筈が無い。
 |英霊《モルガン》が仕上げたとなれば、その完成度は十年掛けた|アインツベルン《クロエ》のモノより数段優れたモノとなるだろう。ならば、彼女がクロエの肉体に追加された機能を使えても不思議では無い。
 小聖杯の機能はそれ自体がクロエとイリヤを繋ぐある種の絆である。その起源を辿る先に一人の聖女が|居《お》り、彼女を通じて二人は繋がっている。その繋がりを通して、イリヤがクロエの能力を識ったとすれば、彼女も能力を発動する事が出来るかもしれない。小聖杯、即ち、願望機としての機能がソレを可能としてしまう。
 イリヤとクロエはあらゆる魔術を理論を――知っていようがいまいが――無視して発動し、『結果』だけを現出させる事が出来るのだ。

「……なんで、アンタまで使っちゃうのよ」

 仮定が真実であると理解したクロエが抱いた感情は哀しみだった。
 ホムンクルスとしての完成度の関係上、夢幻召喚のリスクは恐らく、イリヤの方が軽い。だけど、軽いだけで無いわけじゃない。魔術師としての知識や経験の無い彼女は自身が置かれた状況を自覚出来ていないかもしれないが、確実に彼女の体は蝕まれている筈。
 今しかない。互いに万全の状態で戦えるのはきっとこの機会が最期。押してしまった時限装置のタイマーは決して止められないのだから……。

「バーサーカー!! アンタはセイバーとランサーを潰しなさい!!」

 後ろから追って来る二騎の相手はバーサーカーに委ねる。彼ならきっと、私の最期になるであろう祈りの為に尽くしてくれる。それだけの関係を築けたと思う。
 パパもママも本当の父や母ではなかった。でも、彼との関係は紛れも無く本物だ。彼と出会って、この瞬間まで共に過ごしたのは紛れも無く己自身。
 たった一人、心から信頼をおける相棒。

「……お願いよ、ヘラクレス」

 小声の呟きが彼に聞こえたかどうかは分からない。
 バーサーカーはただ、雄雄しく吼え、二騎の英霊を前に立ちはだかるのみ。されど、対面するセイバーとランサーは悟った。大英雄としての覇気。決して退かぬ、不退転の決意。最強の敵がより一層、最強へと変貌を遂げた真実。互いに背を向け合う主の戦いを決して邪魔立てさせぬという意思が狂気に縛られている筈の彼の瞳に確かに宿っている。

「ッハ!! なんて状況だよ、おい!!」

 ランサーは額を押えながら嗤った。
 彼は聖杯で叶えたい願いなど持っていない。けれど、一つの祈りを胸に現界した。
 強者との命を賭した戦い。それだけが彼の望みであり、戦いへ臨む理由だ。

「っつっても、限度があるだろ!!」

 ランサーは哄笑した。幾ら何でも叶い過ぎだろう、と。
 開戦から僅かの間に一体、幾つの死線を潜っただろう。マスターの助力が無ければ既に二度死んでいた。
 英雄同士が覇を競い合う極限の闘争。血湧き肉躍る所では無い。――――魂が震えている。

「最高だぜ!! マジで最高だ!! この戦いを主催した奴らに感謝するぜ!! だがよ!!」

 ランサーは狂気すら宿る眼差しをバーサーカーに向ける。

「一番の恩人があそこに居るんだ!! 俺をこの戦いに招いてくれた最高の女がな!! テメェと殺し合うのも悪くないが、バゼットを守るのが最優先なんでな!!」

 ランサーが跳び出した。脇をすり抜け、バゼットを守る為に疾走を開始し――――、

「ック!」

 止められた。ランサーの俊敏な動きをバーサーカーは的確に捉え、神殿の柱を削り誂えた剣を振るった。
 暴風の如き一撃を紙一重で躱すランサーにバーサーカーは手を伸ばした。巨大な手に槍ごと腕を掴まれたランサーはまるでヌンチャクのように振り回され、漁夫の利を狙ってイリヤの救出へ向かおうとするセイバーに投げつけられた。

「テメッ、邪魔すんな!!」
「ウルセェ!! ドサクサに紛れて抜け駆けしようとしてんじゃねーよ!!」

 二人揃って吹き飛ばされ、セイバーとランサーは互いを罵りあいながら立ち上がった。
 その目の前にバーサーカーは迫っていた。

「どわっ!?」
「ちょまっ!!」

 慌てて別方向に逃げ出す二人。狙ったわけではないが、バーサーカーを攪乱する事が出来た。
 刹那の停滞。その一瞬の隙を突き、ランサーとセイバーは互いのマスターの救い出そうと奔り出す。
 それに気付けたのは未来予知にも等しい直感のスキルの恩恵だった。背後から大砲の如く迫るバーサーカーの斧剣をギリギリで回避したセイバーは再び迫る斧剣を弾いた。

「ハッハッハ!! セイバー!! 後は任せたぜ!!」
「テメェ、ランサー!!」

 その隙に乗じてランサーはバゼット目掛けて一直線。そんなランサーに気を取られた刹那、セイバーの体をバーサーカーは鷲掴みにし――――、

「どわあぁぁぁぁあああ!!」
「って、うおおおおおお!?」

 投げられた。ミサイルの如く飛んでくるセイバーをランサーは慌てて回避した。そこにバーサーカーは迫った。
 人間ロケット。セイバーが豪快に柳洞寺の壁に突っ込むその姿があまりにも愉快過ぎてランサーの視線が釘付けになり、対応が遅れた。
 ギリギリで槍を盾に防いだが、吹き飛ばされ、着地と同時に頭部に衝撃が奔った。

「……真面目にやりなさい」

 見上げると、バゼットが氷のように冷たい目でランサーを見下ろしていた。
 
「よ、よう、バゼット。今、助けに行こうと……」
「彼女の狙いはセイバーのマスターだったようです。敵が勝手に潰し合うのを止める理由もありませんから、撤退して来ました。それより、セイバーは生きてますか?」
「当たり前だ!!」

 瓦礫の中から姿を現したセイバーはランサーに掴み掛かった。

「避けんなよ!!」
「避けるだろ!?」
「じゃれ合うのはその辺にして置きなさい、二人共」
「じゃれ合ってねぇ!!」

 バゼットの呆れたような声に二人の声が重なる。
 バゼットは油断無くバーサーカーを睨みながら言った。

「セイバー。貴方のマスターは現在暴走状態にあります」
「暴走……? っつか、アレは一体……」

 セイバーは視線をイリヤとクロエの戦場に向けながら眉を顰めた。

「原理は分かりませんが、互いに英霊の力を憑依させ戦っているようです。バーサーカーのマスターは彼女の命を狙っている。直ぐに助けに行くべきでしょう」
「言われるまでもねぇ!!」

 走り出そうとするセイバーにランサーが槍を向けた。

「何のつもりだ?」
「いや、俺も行かしてやりてぇけどよ……」
「まさか、私達が囮役を買って出るお人好しとでも?」
 
 薄く微笑むバゼットにセイバーは険しい眼差しを向けた。

「何が狙いだ?」
「一時的な同盟ですよ。貴女が主を救いたいと願うなら、我々と組み、バーサーカーを倒すしかない」
「テメェ……」
「悪くない話でしょう。我々はただ撤退するだけでも問題無いのです。そうなれば、貴女は一人でバーサーカーを打倒しなくてはならない」

 言っている意味は理解出来る。バゼットが言っているのは、囮になるつもりはないが、バーサーカーと戦うのであれば助力するというもの。
 
「我々としてもバーサーカーは難敵だ。倒せるならば倒してしまいたいのですよ。どうします?」
「……乗ってやる。ただし、速攻で片を付けるぞ!!」

 選択の余地など無い。最速でイリヤを救う道はこれしかない。前回の戦いの経験が己とバーサーカーの力量の違いを測らせた。
 単独で挑んでも、バーサーカーを振り切る事は出来ない。よしんば振り切れたとしても、イリヤは暴走状態。経緯も理由も分からないが、英霊の力を震える状態で暴走している今、容易に連れ去る事は出来そうに無い。無理に連れて行こうとしても、あのクロエとバーサーカー相手に逃げ切るなど不可能。
 バーサーカーを今ここで倒すしかない。手を貸してくれるというなら借りるしかない。

「イリヤ……、待ってろよ!!」

第二十六話「イリヤとクロエ」

 まずはイリヤに噛み付いている蟲を始末する。|無毀なる湖光《アロンダイト》を背後から振り下ろすと、標的はまるで後ろに目があるかのように回避した。

「……バーサーカーのマスターですね」
「そう言うアンタはランサーのマスターね? さっき、アンタのサーヴァントと会ったわ。今頃、バーサーカーに殺されてるんじゃない?」
「それは無いでしょう。彼はこと戦に於いて、無類の才覚を持っています。どのような強大な敵と対峙しても、必ずや勝機を見出す」
「……でも、私のバーサーカーには勝てないわ。だって、私のバーサーカーは最強なんだもの」

 向かい合う二人に迫る影があった。

「イリヤッ!!」

 陰陽の双剣を振るうイリヤにクロエは目を見開いた。
 瞳が淀み、全身に過剰な魔力が溢れている。

「暴走してる!?」
「恐らく、身に合わぬ魔術の代償でしょう。それより、このまま三竦みの状態で戦いを続行しますか? 私はどちらでも構いませんが」
「退いてくれるならその方がありがたいわ。私の狙いはこの子だけだし……。まあ、この子との戦いを邪魔するって言うなら容赦はしないけど」
「いえ、ここは素直に撤退しましょう。どうやら、深い事情がある様子ですし」
「……感謝するわ、ランサーのマスター」

 速やかに撤退するランサーのマスターから意識を逸らし、クロエはイリヤを見つめた。
 英霊化している。その上、重度の精神汚染を患っている。この状態が長引けば、間違いなく死んでしまう。

「ああ、もう! こんな風に戦うつもりじゃなかったのに……」

 苦々しげに唇を噛み締めながら、クロエはアロンダイトを構えた。それに呼応するように、イリヤも双剣を構える。
 互いに間合いを測りながら距離を詰める。その所作にクロエは舌を打った。精神汚染は戦闘技術の劣化に繋がらないらしい。インストールしたランスロットの戦闘経験が彼女の今の強さを油断ならないと告げている。
 
「って、怖気付いてる場合じゃないわよね」

 クロエが動く。女子高生のイリヤとは体格に大きな差がある。それは憑依させている英霊本来の体躯とイリヤの方が近しい事を意味している。
 どちらがより英霊の力を引き出せるかは火を見るより明らか。

「だけど――――」

 体躯の小ささはハンデばかりじゃない。自分の視点より遥かに小柄な敵というのは中々に厄介なものだ。
 低く踏み込み、死角から斬撃を放つ。

「さすがに簡単には打ち込ませないみたいね」

 防がれた。死角からの一撃をイリヤは事も無げに弾き返し、更なる追撃を加える。
 上からの攻撃は下からの攻撃とは比べ物にならない程重い。
 出力が生身の人間である以上、本来のスペック差は関係無い。ホムンクルスとしての性能差もアロンダイトの特性が打ち消してくれている筈。
 故にスペックは同格。後は立ち回り方と宝具、そしてスキルが勝負を分ける。
 恐らく、イリヤの憑依英霊はアーチャークラスのサーヴァント。クラス別スキルによる差は発生しない。問題は宝具と固有スキル。

「考えても仕方ないか――――、とにかく攻める!!」

 アーチャークラスの本来の間合いは遠距離。接近戦ではその真価を発揮する事が出来ない筈。
 陰陽剣を弾き返し、距離を取られないように攻め続ける。小柄な体躯を活かして縦横無尽の攻撃を繰り出す。
 それをイリヤは悉く防ぎ切る。守りに特化した戦法。弓兵ならではといった所だろう。本来、遠距離からの狙撃を主とする弓兵が接近戦を挑まれた場合、優先されるのは自身の存命。守りに徹し、活路を見出す。
 厄介ではあるが、攻めに転じられないなら勝機は無い。

「……ふざけないでよ」

 勝てる。そう確信した瞬間、怒りが込み上げて来た。
 イリヤの戦い方はただ、憑依させた英霊が生前に使っていた基本戦術だ。云わば反射に近い動き。
 英霊の戦闘経験をもっとちゃんと引き出せば、あるいはイリヤ自身がちゃんと戦い方に思考を巡らせれば、こんな守りに特化した戦法に拘る必要は無い。
 
「イリヤ!! もっと、ちゃんと戦ってよ!!」

 クロエは叫んだ。血を吐くような深い感情の篭った叫びにイリヤは眉一つ動かさない。
 自分の声が届いていない。その無力感にクロエは涙を零した。

「私のたった一つの願いも叶えてくれないの!? こんな終わり方、あんまりじゃない!!」

 攻める。既にイリヤの動きは見切っている。数度の剣戟の末、クロエはイリヤの手から陰剣を弾き飛ばした。
 イリヤは新たに投影を試みるが、そんな隙は与えない。陽剣を弾き飛ばし、そのままイリヤを押し倒す。

「暴走なんかしてないで、ちゃんと私を見てよ!! もう、時間が無いの!! こうして、万全の状態で戦える機会なんて、もう無いんだから!!」

 そこにどんな感情が篭められているのか、分かるのはクロエ本人のみ。
 寂しかった。パパとママとの思い出があるのに、それが偽物だと知り、只管寂しかった。哀しかった。辛かった。
 パパ達が助けに来てくれるかもしれない。そんな希望を抱く事すら許されず、イリヤという名前も奪われた。
 新たに付けられたのはイリヤのクローンという意味のクロエ。

「お願い……。お願いだから、私を見て……」

 何も無い。未来も希望も家族も何も無い。
 でも――――、

「イリヤ!!」

 それでも、光はあった。
 オリジナルの存在。平穏な人生を歩む|イリヤ《わたし》の存在。
 せめて、己が存在した意味だけは手放したくない。

「イリヤ!!」

 涙の雫が頬を伝い、イリヤの頬へ落ちる。
 
「……ク、ロエ……?」

 少女の涙が起こした奇跡か、あるいは、何らかの要因があったのかは分からない。
 イリヤが名前を呼んでくれた。クロエにとって大切なのはその事実のみ。

「イリ、ヤ……」
「生きて……ッ!! ……泣いてるの?」

 驚き、喜び、そして、心配そうな表情を浮かべるイリヤにクロエは微笑んだ。

「戻ったわね、イリヤ」
「クロエ……?」
「さあ、今度こそ始めましょう。私と貴女の聖杯戦争を――――」

 立ち上がり、アロンダイトを構えるクロエにイリヤは混乱した。
 ついさっきまで、暗闇の中で見知らぬ男と戦っていた筈。なのに、突然暗闇が消え去り、光と共にクロエの顔があった。
 何が起きているのか分からない。ただ、クロエが己と同じように英霊の力を纏っている事だけは理解出来た。不思議には思わない。元々、イリヤの能力は彼女の能力を複製したものなのだから。

「どうして……」
「私には時間が無い。アンタにもね……。だから、決着を着けるのよ、イリヤ」
「や、やだ……」

 イリヤは駄々っ子のように首を振り、耳を塞いだ。
 クロエはアロンダイトを地面に突き刺し、優しく彼女の手を耳から離した。

「お願い……。私の……、最初で最後のお願いなの」

 囁き掛けるような声。クロエは手に取った彼女の手を自らの胸に押し当てた。

「クロエ……?」
「――――私を殺して」

 息が出来なくなった。

「なん、で……、そんな事、言う……の?」

 意味が分からない。だって、彼女は己を憎んでいた筈だ、己に復讐しようとしていた筈だ。
 なんで、自分を殺せ何て言うんだ。怒りと哀しみにイリヤは顔を歪めた。

「……それが私の祈りよ。私はアンタの未来の為に生贄になった。寂しくて、哀しくて、怖くて、痛くて、辛い日々だったわ。毎日が拷問だった。希望を持つ事も出来ずに絶望に塗れた日々だった」
「クロエ……」

 涙が止め処なく溢れ出す。どうして、そんな辛い役目を彼女に押し付けてしまったんだろう。
 彼女に嫌な事を全部押し付けて、パパとママに愛され、友達と毎日を愉しく過ごし、幸せに満ちた日々を送って来た自分が恨めしい。
 代わりたい。今からでも、彼女と立場を入れ替えたい。パパ達と離れ離れになるのは嫌だ。タッツン達と会えなくなるなんて嫌だ。
 でも、クロエがこれ以上不幸な目に合うなんて耐えられない。

「アンタの事がずっと憎かった。私に全部押し付けて、パパとママに愛されて幸せに生きているだろうアンタの存在が許せなかった」
「……ごめんなさい」

 謝って許される問題じゃない。分かっているのに、イリヤには謝る事しか出来なかった。 
 そんなイリヤの頬をクロエは両手で包んだ。

「でも、出会って、話して、接してる内にちょっとだけ変わった」
「……え?」
「幸せに生きて来た|イリヤ《アンタ》がとても眩しかった。おバカで、優しくて、弱くて、そんなアンタが好きになった」
「クロ、エ……」
「現金なもんよね。会う前はあんなに憎んでいたのに、いざ会ってみたら、もうどうしようも無いくらい好きになっちゃった。だって、私達って姉妹みたいなもんじゃない?」
「……私もだよ? 私もクロエが大好きだよ!! だから、だから、一緒に――――」

 クロエはイリヤの口に人差し指を当てて首を横に振った。

「それは無理よ。私はアインツベルンのマスター。戦いを放棄する事は許されない」
「そんな事無い!! 誰かがクロエの幸せを邪魔するなら私が戦う!! 絶対にクロエを守る!! 誰にも手出しなんて――――」
「私はもう直ぐ死ぬわ、イリヤ」

 言葉を失った。理解出来ない。理解したくない。
 クロエの言葉を私は聴きたくなかった。なのに、耳を塞ごうとする手をイリヤはやんわりと押えた。

「私はサーヴァントが脱落する度に人としての機能を失っていく。生物から物質へと変わっていくの。それが、小聖杯たる私の聖杯戦争における役割だから……」
「そん、な……」
 
 胸に痛みが奔る。サーヴァントが脱落したら死ぬ。そんなの、どうやって阻止すればいいのか分からない。
 だって、聖杯戦争は止めなきゃいけないもの。その為にはサーヴァントと戦わないといけない。だけど、サーヴァント戦ったら、クロエが死ぬ。
 パニックを起こしそうになるイリヤをクロエは優しく抱き締めた。

「でも、私はそんな終わり……、嫌なのよ。だから、アンタの未来への架け橋になりたい。アンタの手で私を終わらせて欲しいの。力の限り戦って、私を殺して、私を終わらせて欲しいの。どうせ、私に未来なんて無い。だから、お願いよ、イリヤ」
「ヤダ……。ヤダ……。嫌だよ、そんなの嫌だ!! 何で!? 何で、クロエが死ぬの!? だって、クロエはこんなに良い子なのに!! 死んだ方が良い人間なんて他にも居るじゃない!! 犯罪者とかそういう人は生きてて、どうして、クロエが死ぬのよ!? 何で、一緒に居られないのよ!? 私、別に贅沢言ってないもん!! 一緒に居て、クロエを幸せにしたいだけだもん!! なのに、何で!?」

 涙を溢れさせながら泣き叫ぶイリヤにクロエは満面の笑みを浮かべた。

「ありがと。大好きよ、イリヤ。だから、しょうがないよね……」
「クロエ……?」

 クロエはイリヤの体を離して立ち上がった。

「いいや、やっぱり。最初で最後の我侭だったけど、そんなに嫌なら、やっぱりいい。イリヤ。アンタ以外のサーヴァントは全部私が倒してあげる。そして、最後にアンタに勝利を捧げるわ」
「な、何言ってるの!? 止めてよ!! そんな事――――」
「どんな形でもいい。アンタの為に私は何か――――、あれ?」

 クロエの目が見開かれる。
 イリヤの顔に血の雨が降り注ぐ。
 思考が凍りつき、イリヤはただ、その光景を呆然と眺めていた。
 クロエの胸から手が生えている。その手には脈打つ奇妙な物体が握られている。

「逃げ、て――――、イリヤ」

 最期の力を振り絞り、クロエは叫んだが、イリヤの耳には届かなかった。
 男が立っていた。男はクロエの胸から腕を引き抜くと、あろう事か、彼女の胸から取り出した物体を口に運び……、食べた。

「あ、ああ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」

 イリヤの絶叫が柳洞寺の境内に響き渡る。
 憎しみに駆られ、鬼の如き形相で襲い掛かる彼女に男は微笑み、言った。

「僕は手に入れた!! 最強の力を!!」

第二十七話「収束」

 地上の戦況を最も正確に把握していたのは上空に難を逃れたルーラーだった。拘束を破るには未だ至っていないがルーラーのクラスに付与された並外れた索敵能力は十全に機能している。
 一番危険なのは英雄王・ギルガメッシュと勇者王・ベオウルフの戦場。唯一の救いはベオウルフの規格外の強さがギルガメッシュの乖離剣の発動を悉く阻止している事。既に聖堂教会の職員による周辺住民の避難は完了している頃合だが、乖離剣の発動は可能な限り阻止する必要がある。
 あれは対城や対軍を超えた世界そのモノを切り裂く対界宝具。アレが真価を発揮した時、地上は破壊し尽くされ、生物の住めぬ廃墟と化すだろう。下手をすれば霊脈が傷つけられ、取り返しの付かない事態にもなり兼ねない。彼の言葉が未だに耳の内で反芻し続けているが、裁定者として、英雄として、迷う事など許されない。
 とは言え、今の状態では何も出来ない。天の鎖やライダーの拘束に使われている紐ほどではないが、神獣を拘束する為に創られた縛鎖はルーラーの力を持ってしてもビクともしない。加えて、今はフラットに抱えられている状態だ。下手に動けば彼の腕からすり抜けて地上に真っ逆さまという事もあり得る。さすがにこんな状態で地上へ落下すればタダではすまないだろう。
 歯噛みしながら地上の様子を見下ろしていると、ルーラーの索敵能力がイリヤとクロエの戦場に向かう影の存在を察知した。アサシンのサーヴァント、ハサン・サッバーハである。
 彼の狙いが何であるか、ルーラーは即座に看破した。彼の能力とその先に居る彼女達の能力。その二つを鑑見れば答えは簡単。

――――私は……。

 迷いが生じる。裁定者として、アサシンの行為を止める正当な理由は無い。彼は独自の戦略に基づき最良の選択肢を取ったに過ぎない。その行為が民に被害を及ぼすわけでもなく、決定的な違反もその行為に関しては犯していない。
 だが、英雄として――――否、ジャンヌ・ダルクとして、彼を止める理由はある。イリヤの存在だ。彼女にはアーチャーの暴挙を止める手助けをして貰った恩がある。あの宴の席での会合で、彼女の人となりも理解した。彼女が至って普通の倫理観を持つ少女であり、その中でも一際好感の持てる元気と優しさを併せ持った人物であると理解した。
 裁定者としての判断は黙認。されど、英雄としての判断は……。

「フラット!! アサシンがイリヤさんの下に向かっています!!」

 裁定者としてあるまじき暴挙。公平な立ち位置にあるべき裁定者が一方の陣営に肩入れしてしまった。
 アサシンは既に裁定者として許容出来る限度を超した行為に手を染めている。それに、イリヤとは直接言葉にはしていないが、一時的な同盟関係を結んでいる。加えて、彼女の縁者から得るべき情報がある。
 そんな、詭弁でしかない言い訳を脳裏に並べ立てながら、ルーラーはアサシンの存在を己を抱く青年に告げてしまった。
 彼の決断は早かった。

「ヒッポグリフ!! イリヤちゃん達の下へ向かってくれ!!」

 幻馬は本来の主であるライダーに指示を仰ぐ事無くフラットの指示に従った。幻馬にとって、青年の言葉は主の言葉と同義だった。それは何も、青年が主の主だからという理由では無い。
 彼らの在り方が瓜二つだから故の判断。きっと、主もあの少女を救う為に指示を出す筈だ。幻馬はそう判断した。
 そんな幻馬に本来の主たるアストルフォは布で縛られたまま微笑んだ。

「良い仔だ、ヒッポグリフ」

 彼は幻馬の判断を褒め称えた。そう、フラットの判断は己の判断も同然。
 生前も含め、こうまで心の通じ合う相手は居なかった。そう断言出来る程、アストルフォは彼に共感を覚えている。
 召喚から数日しか経っていないにも関わらず、彼の為なら命を捨てる事すら全く惜しくないと思うに至った理由はソレだ。
 こんなにも己を理解し、己が理解出来る相手は他に居ない。縁が結んだこの数奇な出会いに感謝している。まさに二人の出会いは運命的だ。
 
「イリヤちゃん!!」

 フラットが叫ぶ。その刹那、幻馬に跨る彼らの目に凄惨な光景が映り込んだ。
 バーサーカーのマスター、クロエ・フォン・アインツベルンの胸を貫く男の腕。イリヤは狂気に満ちた形相を浮かべ、男に襲い掛かる。

「――――僕は手に入れた!! 最強の力を!!」
 
 愉悦の笑みを浮かべながら男はその手に握る黒塗りの短刀でイリヤの双剣を弾き返した。

「無駄だよ、そんな一直線な動きじゃ無駄無駄。今の僕の相手は勤まらない」
「返せ!! クロエを返せ!! クロエの心臓返せ!!」

 技巧の欠片も無い攻めに対し、アサシンはほくそ笑んだ。
 目の前の少女はただの人間。されど、その身に英霊の力を宿している。今さっき喰らった少女と同じ力。
 喰らいたい。この少女を喰らえば、更なる力を得られる。豊富な魔術知識にホムンクルスを使った外付け魔力炉、そして、夢幻召喚という異能の力。
 アサシンの最初の狙いはバーサーカーを手駒とする事だけだった。クロエの保有する手札は彼にとって思い掛けないサプライズプレゼントだった。
 外付けの魔力炉から供給される膨大な魔力が並み以下だったステータスを底上げしてくれている。
 今の己にとって、怒りに我を忘れた小娘を組み伏せるなど容易い事。
 
「お前の心臓も寄越せ!!」

 組み伏せ、心臓を摘出しようと手を伸ばした瞬間、上空から巨大な物体が降りて来た。
 ライダーのサーヴァントが駆る幻馬。咄嗟にアサシンがイリヤから離れると、その隙に幻馬は鋭い爪を器用に使いイリヤを掴んで上空へと飛び去った。
 苛立ちを吐き捨てるように舌を打ち、漸く主の死を感知した木偶の坊に視線を向ける。

「僕に従え、バーサーカー」

 元々持っていた令呪では不可能だっただろう。バーサーカー程の規格外の英霊を縛るには通常の令呪では事足りない。
 だが、クロエはそんなバーサーカーを従える為に特殊な令呪を保有していた。その令呪をアサシンは奪い、使用した。
 度重なる魂喰いに加え、クロエを喰らった事により得た優秀な魔術回路と外付け魔力炉によって、今のアサシンの魔力は正に無尽蔵。如何にバーサーカーといえど、今のアサシンの令呪による命令には逆らえない。従属を強要され、膝を屈する。その屈辱と怒り足るや計り知れない。
 狂気の中に僅かに宿していた理性が守ると誓った少女をみすみす死なせてしまった己の不甲斐なさを呪い、殺した当人であるアサシンを憎み、そのアサシンに従属を強要され、逆らえぬ理不尽に憤怒の炎を燃やす。けれど、彼には何も出来ない。
 守るべき者を失い、抗う意思を奪われた彼にアサシンは薄く微笑み、命じる。

「まずはランサーのマスターを戦闘不能にしろ。その後、僕の食事が終わるまでセイバーとランサーの足を止めろ。次の指示は食事を終えてから出す」

 戦士に与えられた選択肢は服従の一択のみ。
 雄叫びを上げる事も無く、ただ糸で操られる人形の如くセイバー達に襲い掛かる。

「ああ、駄目駄目。もっと、本気でやってくれなきゃ困るよ。まったく、これだから木偶の坊は……。確り狂えよ!! |餌《まりょく》は欲しいだけくれてやる!!」

 犠牲となるホムンクルス達の事など御構い無しにアサシンはバーサーカーに魔力を流し込む。
 彼には聞こえない声がバーサーカーには聞こえていた。多くの嘆きが彼の魂を穢していく。主の哀れな死に様と今尚死に続ける彼女の同胞達の無念を思い、バーサーカーは最後の理性すら狂わせた。
 もはや、彼にとっては全てが怨嗟と憤怒と憎悪の対象となった。
 ただ、魂に刻まれた命令のままに暴れ回るその姿に嘗ての勇壮さは無い。怪物染みた英雄は単なる怪物に堕ちた。
 対峙する英雄達の表情に怖れの色は無い。あるのはただ哀れむ気持ちのみ。
 騎士として、英雄として、主を守れなかった彼の無念さが痛いほどに理解出来る。その上、怨敵に従属を強要される屈辱と怒りがどれほどのものかも……。

「胸糞悪いにも程があるぜ……」

 セイバーはバーサーカーの向こうで悪辣な笑みを浮かべるアサシンを睨み言った。
 その殺意たるや、それだけで人を殺せそうな程の凄惨さ。
 
「ああ、まったくだ。反吐が出るぜ」

 それはランサーも同様。彼らの敵はもはや眼前の大英雄に非ず。彼らの敵意はその向こうで英雄の誇りを弄んだ外道に向けられている。
 
「セイバー!!」

 二騎の英霊の怒りが臨界に達しようとしたその時、上空からフラットの声が降り注いだ。

「離脱しろ!! イリヤちゃんは回収した!! 合流地点はAの13!! それだけ言えば分かるって言われた!!」

 セイバーはフラットの指示の意味を正確に理解し、舌を打った。
 忌々しい。この場であの外道を叩き切る事が出来ない事が口惜しい。
 烈火の如く燃え上がる憤怒の影で未だ冷静さを保っていた一欠片の思考回路が目の前の大英雄をこの場で討伐する事は不可能だと告げている。 
 このまま戦えば、敗北は必至。撤退する事が最善策。

「我々も離脱します、ランサー」
「んだと!?」
「今のままではバーサーカーに敵いません。事態は今や全貌が掴み切れぬ程に混迷を極めています。かくなる上は仕切り直す必要がある」
「――――ック」
「ランサー!!」

 表情を歪めるランサーに再び頭上からフラットの声が降り注いだ。

「そっちにその気があるなら、セイバーと共に来いって!!」

 即座に返答したのは主であるバゼットだった。

「同行します!!」
「バゼット!?」
「ランサー。戦いは新たな局面に突入しています。一時の感情に任せ、判断を誤らないで下さい」
「……分かった」

 憎々しげにランサーは頷き、宝具に魔力を篭め始める。
 隣でセイバーも宝具の発動体勢に入った。二つの宝具をもってしても精々僅かな足止め程度にしかならないだろう。
 何から何まで忌々しい。二人の思考は見事に一致していた。

第二十七話「収束」

 王は誰よりも強く勇敢だった。数多くの冒険に旅立ち、多くの武勲を立て、その名を伝説に刻み付けた。
 ベオウルフ。今日における数多くのファンタジー小説。その源流まで遡ると彼の伝説に行き当たる。英国では彼の偉業が古典文学として今に語られ、例えば、英国の作家、ジョン・ロナルド・ロウエル・トールキンはベオウルフ研究の権威として知られ、彼の著書である『ホビットの冒険』や『指輪物語』に彼の伝説の名残を示唆する描写が散りばめられている。
 アーサー王が騎士の象徴たる王であるなら、彼は勇者の象徴たる王であった。誰もが敵わぬと膝を屈する怪物を相手に素手で挑み掛かり、たった一人で倒す規格外な力の持ち主。されど、その力に驕らぬ慎み深さも併せ持つ稀代の人格者でもあったという。
 王の最期は悲劇によって締め括られている。年老いた彼は己の民を救う為、ドラゴンの討伐に赴き、そこで命を落とす。共に戦いに赴いた者達は彼を一人戦いの場に残して逃げ去った。その事を死の間際でさえ王は責めなかった。ただ、民がドラゴンの溜め込んだ財宝によって豊かな生活を送れるようになる事を喜んだ。
 
「ああ、嘗ては偉大な王であった人よ。今はただ、私だけの勇者であってくれればいいのに、何故君は……」

 円蔵山から遠く離れた地で少女は一人涙を流す。
 
「君は……、このような異邦の地の民を思い、哀しむのだ」

 彼女の涙は彼女の従者のモノ。ライネス・エルメロイ・アーチゾルテは無垢なる民が危難に晒されようとしている事に胸を痛めている。
 優しき男。勇ましき人。偉大なる王。

「君が人々の安寧を望んでいるのは知っている。だけど、どうしても私は彼らに嫉妬してしまうよ。ああ、どうして、君の視界は広いのだろう。私だけを見てくれないのだろう」

 宝具の一つを捨て石にして、未だ一人の脱落者も出ていない、この序盤にかような難敵と戦う事は無いだろう。
 最強の敵と戦うのは必勝を確信した時で良いと告げたではないか……。
 まだ、その時では無いと再三忠告したではないか……。

「だけど、許すよ。そんな君だから私の心は揺れ動いたのだろうからね。愛しい愛しい……、勇者様」

 細い蜘蛛糸のようなラインを通じて同期した使い魔の視線からライネスは戦場を俯瞰する。
 敵は人類最古の英雄王、ギルガメッシュ。恐らく、聖杯戦争史上最強のサーヴァント。そんな相手との戦いに己の出来る事など殆ど無いだろう。だから、せめて君の思いを遂げる手助けが出来るよう祈るとしよう。
 使い魔の視線の先でベオウルフは微笑んだ。眼前には無数の武具を蔵より繰り出す最強のサーヴァント。その手には世界そのモノを滅ぼす破滅の剣。
 にも関わらず、ベオウルフは微笑んでいる。ああ、本当に良い主に恵まれたと喜びの笑みを浮かべている。
 アーチャーと戦うのは己の我侭だ。ライネスには撤退を命じられた。にも関わらず、彼女は己の我侭の後押しをしてくれている。令呪による援護。力が漲る。

「認めよう。貴様は我が本気を出すに足る英雄だ、ファーガス。いや――――、勇者王・ベオウルフよ」

 交すべき言葉など無い。敵は無敵無類の強さを持つ英雄の祖。己はただ、挑むのみ――――。

「往くぞ、アーチャー!!」

 戦とは常に民に犠牲を敷くものだ。だからこそ、戦が終わった後、王は彼らの犠牲に報いなければならない。
 だが、この聖杯戦争において民に報いる術は無い。なればこそ、無闇に命を摘み取ってはならないのだ。犠牲を強いてはならないのだ。
 王とは民あってのもの。民の幸いこそ、王の幸い。民の苦しみこそ、王の苦しみ。ああ、人類最古の英雄王よ。貴様には確かに民を統率する力があるのだろう。貴様にも貴様なりの価値観があるのだろう。だが、己が欲望の為に民に犠牲を敷き、その犠牲に報いるつもりも無いのならば、我が王道が貴様の王道を砕き伏せる。

 嘗て、一つの国に禍を齎した|破壊の神《ドラゴン》が居た。そして、建物も人も家畜も何もかもを焼き、砕き、破壊した神を拳によって捻じ伏せた王が居た。

「|破壊神を破壊した男《ベーオウルフ》!!」

 今、その王が現世に君臨する。拳は立ち昇る膨大な魔力によって赤々と輝き、全てのステータスが上昇していく。
 彼の元々のステータスは筋力A++、耐久A+、敏捷A、魔力A、幸運A、宝具A。この時点で既に規格外の英霊。そこに二つの要素が加わる。
 一つは彼の主、ライネスの令呪による後押し。この時点で、既に筋力と耐久のステータスは評価の規格外に到達している。敏捷と魔力も最高値たるA++に至り、既に常軌を逸した力を発揮している。
 にも拘わらず、ベオウルフは更なる力を漲らせる。
 元々、サーヴァントの評価基準を設定したのは始まりの御三家である。英霊がサーヴァントとして現界した際の基準を彼らは大まかに設けただけに過ぎない。故に評価規格外というランクに至ってもそれ以上の数値の上昇があり得ない……という事にはならない。
 筋力Ex、耐久Ex、敏捷Ex、魔力A++、幸運A、宝具A。もはや、反則としか言いようの無いふざけたステータス。アーチャーに脅威であると確信させる強さが確かに彼にはあった。だが、その力の規格外さはアーチャーの予想を大きく上回っている。
 降り注ぐ宝具の豪雨に彼がした事は至って単純。ただ、拳を振り上げた。ただ、それだけだ。それだけで、仮にも宝具に位置づけられる武具の数々が彼に到達する間も無く弾き返され、低ランクの宝具に至っては粉砕された。
 嘗て、稀代の名剣を己が腕力によって叩き折ってしまったベオウルフの拳はBランク以下の宝具を問答無用で破壊し、Aランクの盾、あるいは守護の概念すら突破する。
 事ここに至り、対峙するアーチャーは敵の出鱈目な強さに一つの確信を得る。奴を倒すには乖離剣をおいて他に無い、と。

「受けよ、|天地乖離す《エヌマ》――――」
「させるか!!」

 ベオウルフはアーチャーの宝具を掴み取り、力の限り投擲した。ランクExの筋力によって投擲されたソレは本来のランクを遥かに超えた破壊力を備え、アーチャーに向かって飛来する。
 盾を展開する暇など無く、アーチャーは乖離剣の発動を中断し、回避に専念せざる得なかった。そこに更なる追撃が加えられる。

「ッ調子に乗るな!!」

 七つの花弁を持つ盾が展開される。ベオウルフの投擲を盾は鉄壁の硬さによって跳ね除け――――、砕かれていく。
 一撃で花弁が三つ砕かれた。次の一撃で更に三つ。三度目の投擲で完全に粉砕された。その間、僅か一秒。更なる盾の宝具を展開するが、ベオウルフはアーチャーの降らせる宝具を己のものとして投げつけてくる。彼にとって、炎を纏う魔剣も聖なる輝きを宿す槍も雷を迸らせる斧も全て等しく頑丈な投擲武器。
 だが、アーチャーは宝具の雨を降らせ続ける。止めればその瞬間にベオウルフの接近を許す事になるからだ。己の財宝が無惨に砕かれ、奪われていく様にアーチャーは笑みを零した。
 これほどの極限の戦闘は嘗て共に歩んだ友との出会いを思い出させる。今尚色褪せぬ茜色の空模様。ああ、実に愉しい。

「――――だが、奪われるは趣味では無い」

 奪われるくらいならば、いっそ……。
 アーチャーは薄く微笑み、囁くような声で言った。

「また、悪い癖がついてしまいそうだ……、エルキドゥ。ッハ、砕け散れ、我が財宝よ!!」

 |壊れた幻想《ブロークン・ファンタズム》。あれほど大事にしていた財宝を使い捨てるような真似をするなど、彼にとってどれほど屈辱的な事だっただろう。
 けれど、彼は微笑を絶やさない。ほんの一時、嘗ての友との戦いを思い出し、彼は成熟する前の幼年期の頃の己に立ち戻っていた。
 反撃が止んだ。掴もうとする度に爆発する宝具。如何に耐久に優れていようと、至近距離で立て続けにアレを受けてはただでは済むまい。

「さあ、終いにしよう。いや、中々に愉快であった。褒めてやるぞ、勇者王よ」

 手にしたのは乖離剣。念には念をと周囲には盾と結界の宝具を重ねて展開する。もはや、邪魔立ては許されない。
 
「しかと見よ。そして、慄くが良い。貴様が楯突いた者がどれほどの存在か知るが良い!! ベオウルフ!!」

 乖離剣が唸りを上げる。空気が――――否、空間そのものが悲鳴を上げる。
 ベオウルフが見たのは天と地の始まりの光景。
 これが――――|天地乖離す開闢の星《エヌマ・エリシュ》。
 上にある天が名付けられて居らず、下にある地にもまた名が無かった時代。この世を構成する全てが母なる|混沌《ティアマト》より生まれ出でる前。水が混ざり合い、野は形が無く、神々すら生まれぬ原初の光景。
 滅びであり、創造。驚天動地の力。これが人類最古の英雄王の真の力。この宝具を評価出来る存在など天上天下に一人とて存在しない。故にランクはEx。だが、その文字の重みはベオウルフのステータスのExとは比較にならない。
 如何に強大な怪物を滅ぼした勇者であろうと、世界そのものに勝てる道理無し。その世界すら滅ぼす光に抗える道理無し。

――――君を失うわけにはいかない!!

 されど、彼は一人に非ず。生前、誰にも救われずに孤独に死した王は今や孤独に非ず。
 彼を慕い、彼を思う少女が居る。滅びの光を受けるより早く、令呪の力が彼を主の下に誘う。
 後に残されたのは崩壊した地表のみ……。
 サーヴァントの枠組みに貶められたからこそ、この程度で済んだと胸を撫で下ろせた者は居ないだろう。巨大な大穴が穿たれた地表に彼の背後からおずおずと姿を現した主たる少女は呆然と立ち尽くしている。直前に聖堂教会の手で人々の避難が完了している事など知る由も無く、知っていたとしても何の意味も無かっただろう。
 そこはもはや廃墟ですら無い。まるで、隕石が落下したかのような惨状に桜は膝を折り、身を震わせた。その震えの正体が何なのか、彼女自身にも分からない。
 これを為したアーチャーへの恐怖なのか、この惨状を作り上げてしまった事に対する罪悪感なのか、圧倒的な力に対する快悦なのか、何も分からない。ただ、彼女はその光景を瞳に焼付けた。まるで、嘗ての相棒が生前に経験した地獄を思わせるその光景を只管……。

第二十八話「戦いを終えて」

第二十八話「戦いを終えて」

 戦場から離脱したフラットはヒッポグリフに一端、雲の上まで上昇するように命じた。アーチャーはファーガスとの戦闘に集中している筈だから、追跡される可能性は低いが零では無い。それに、あのアサシンが問題だ。イリヤとクロエが見せた夢幻召喚という魔術をアサシンが使えるようになった可能性がある。そうなれば、飛行能力を持った英霊の力を振るえる可能性もある。ライダーとルーラーが戦闘不能の状態にあり、イリヤも冷静さを失っている今、彼との戦闘は避けるべきだ。
 冷静とも冷徹とも取れる判断を下したフラットは雲の上に飛び出すとヒッポグリフに一度新都方面に向かうように指示を出した。その間、ルーラーとライダーは無言だった。聞こえるのは風の音とイリヤの嘆きのみ。

「離して!! クロエが!! アイツを殺すんだ!! お願い、離して!! クロエ!!」

 その願いを叶えるわけにはいかない。フラットはヒッポグリフに決して彼女を離さないよう告げた。その直後、地上で巨大な魔力のうねりが発生するのを感じた。
 まさか、とフラットは視線を地上に向ける。雲が邪魔で何も見えない。けれど、ルーラーは違ったらしい。表情が死人の如く真っ青になり、慄いている。
 アーチャーの宝具が発動した。地上の様子を確認したい衝動に駆られるが、下手な手は打てない。そのまま、フラットはヒッポグリフを奔らせる。

「……今ので何人死んだのかな」

 フラットは声を震わせた。止める事は不可能だった。ライダーとルーラーに巻かれた拘束はあらゆる魔術の行使を無効化させる力が宿っている。今の彼女達は無力な人間も同然。ルーラーが令呪を発動させる事も不可能である以上、出来る事など一つも無かった。
 だけど、本当にこれで良かったのだろうか? 今、地上で多くの人が死んだ。もしかしたら、何か手があったかもしれない。例えば、どこかにアーチャーのマスターが潜んでいたかもしれない。そのマスターを殺せば、この事態は防げたのでは無いだろうか? 万に一つも無い可能性だが、零では無い。
 吐き気が込み上げてくる。クロエという幼い少女の死を防げなかった事も相俟って、フラットは自身が考えている以上に動揺していた。

「恐らく、被害は最小限に抑えられている筈です」

 ルーラーが言った。どうやら、聖堂教会が先手を打ち、周辺住民を避難させていたらしい。暗示を使うなりしたのだろう。けれど、被害は決して零じゃない。あれだけの宝具である。逃げ遅れた人が犠牲になった可能性は高く、そうでなくとも、地上は焼け野原となっている事だろう。財産を失った人々の今後がどうなるか考えるだけで胸が締め付けられる。
 もしかしたら、人生を儚む人も居るかもしれない。経済的に困窮し、不幸な人生を歩まざる得ない人も少なからず居るだろう。家を失うというのはそういう事だ。
 被害は最小限だろう。けれど、決して少なくない。むしろ、多過ぎるくらいだ。もしかしたら止められたかもしれない立場にあり、止められたかもしれない位置に居たのに逃げてしまった。
 ルーラーとライダー、それにイリヤの事を優先した結果とは言え、彼らの事をヒッポグリフに任せ、自分は残るべきだったかもしれないと思い、フラットは苦悩の表情を浮かべた。

「考え過ぎは良くないよ、フラット」

 ライダーは言った。

「君の選択は正しかった。だから、ボク達は生きているし、イリヤちゃんも助けられた」
「……でもさ」
「うん。もしかしたら、何か出来たかもね。でも、君は間違いなく死んでいた」

 ライダーの言葉に続くようにルーラーが口を開いた。

「貴方の苦悩は人として正しい。ですが、過去はどうあっても戻らない。それに、例え一時的に脅威を晴らす事が出来たとしても、貴方ではあのアーチャーを倒せはしなかったでしょう。結局、脅威はそのまま残る事になる。厳しい言い方になりますが、貴方は英雄ではなく、ただの人間なのです。あまり背負い込まない方がいい」
「分かってるよ。分かってるんだ……。でも、やっぱり、人が死ぬって……、重いよ」
「……その重みを知る貴方の在り方はとても尊い。ですが、それに押し潰されてしまってはいけませんよ、フラット」
「……うん。ヒッポグリフ、このまま北上して海に出てくれ。沖合いまで行ったら、海上すれすれまで降下して、夜闇に紛れながら深山町の北海岸に向かい、俺達を降ろしてくれ」

 必死に心を宥めながらヒッポグリフに指示を出す。イリヤと話す時にこんな状態のままで居るべきじゃない。大切な存在を失ったばかりの彼女をこれ以上動揺させるわけにはいかない。

「ごめん。ちょっとの間だけ、こっちを見ないでいて欲しいな」

 らしくないと思いながらもフラットは少しだけ泣いた。声も無く、ただ涙を流す。ライダーとルーラーは黙したまま視線を眼下の雲に向ける。
 彼女達もアーチャーの凶行を止める事が出来なかった事に激しい動揺を抱いていた。ルーラーは心中で守れなかった人々に懺悔し、ライダーは深く瞼を閉ざし、死者の冥福を祈った。
 ヒッポグリフが下降を始め、地上近くまで降りていくとイリヤの嘆きの声も止んだ。それでも、時折涙を啜る音が聞こえる。海面近くまで降りて来ると、波の音が心を少し宥めてくれた。
 
「……っはは」

 乾いた笑い声がむなしく響く。

「こんな状況じゃなきゃ、結構ロマンチックなんだけどな……」
「まあ、ボクも縛られてなかったら君の胸に身を任せるのも吝かでは無かったんだけどねー」
「……そうですね。私も貴方の背中に身を委ねてしまっていたかもしれません」
「あはは……。俺って、結構モテモテだね……」

 空元気なのは明白。だからこそ、ライダーとルーラーは少しでも彼を元気付けたかった。出来るものなら、本当にそうしてあげたいとすら願った。
 普段の彼の明るさを取り戻したい。そんな二人の思いを彼も察していた。
 やがて、深山町の北海岸が見えて来た。ポツポツと人家の明かりが見える。少し騒がしい気がするが無理も無いだろう。アーチャーの宝具の発動の影響がどれほどの範囲に及んでいるかは分からないが、戦場から遠く離れた深夜の田舎町を騒然とさせるだけの影響はあったらしい。

「静かに上陸してくれ。上陸地点は……うん、あの崖を目指してくれ。丁度、森が目隠しになってくれる筈だ」

 ヒッポグリフは静かに嘶くと、フラットの指示に従い少しだけ浮上した。漸く地表に降り立つと、フラットはイリヤに駆け寄った。ヒッポグリフに降ろされた状態のまま、俯き、肩を震わせている。

「イリヤちゃん……」
「どうして……」

 声を掛けると、イリヤは血走った目をフラットに向けた。

「どうして、私をあの場に残してくれなかったのよ!?」
「イリヤちゃん……」
「アイツはクロエを殺したのよ!? それなのに!!」

 一端は落ち着いたかと思われたイリヤだが、どうやら違ったらしい。

「……落ち着いて、イリヤちゃん」
「落ち着けですって!? クロエが死んだのよ!? あんな、あんな心臓を……うぅ」
 
 イリヤの瞳から涙が零れ落ちる。クロエの死の場面を思い出したのだろう。イリヤはその場で蹲るとそのまま吐瀉した。
 フラットは背中を摩ろうと近寄るが、イリヤに振り払われた。

「近寄らないで!!」
「イリヤちゃん……」
「何でよ……。何で、もっと早く……、クロエを助けてくれなかったのよ」

 何も言えなかった。もう少し判断が早ければ、彼女を救えたかもしれない。その事はヒッポグリフに跨っている間、何度も考えた事だった。
 
「私なんかより、クロエを助けて欲しかったのに!! 何で……、何でよ……、何で」
「……ごめん」
 
 謝る事しか出来ない自分が腹立たしい。だけど、どうあっても過去を取り戻す事は出来ない。
 救えなかった事実は消えない。死んだ人は甦らない。

「……こんなの無いよ。何で、あんな良い子が死ななきゃいけないのよ……。あんな痛い思いしなきゃいけないのよ……。酷いよ……」
「……ごめん」

 フラットはただ謝るだけだった。言い訳もせず、イリヤの感情の受け皿になり続けている。
 そんな彼にライダーとルーラーはただ黙すのみだった。擁護の言葉など、彼は望んでいないだろう。イリヤを責める事も彼の本意では無い。むしろ、彼女に罵倒される事で少しでも罪の意識を晴らそうとしているのかもしれない。
 必要な事なのだろう。イリヤにとって、感情をぶつける相手が必要であるように、フラットにとって、感情をぶつけてくる相手が必要なのだ。罪の意識を少しでも紛らわせる為に……。
 どれほどの時間が経ったのだろう。イリヤの罵倒の声に力が無くなり、彼女の心に少しずつ冷静さが戻って来た。

「……フラット」
「……なんだい?」
「ごめんね」
「……ううん」

 散々フラットに感情をぶつけた事で彼女の心に一つの区切りが付いた。クロエの死に対する哀しみとアサシンに対する憎悪は消えないままだが、冷静な判断力が戻って来た。
 フラットに罵声を浴びせてしまった罪悪感に今更ながら罪悪感を抱き、頭を下げる彼女に彼はただ首を横に振るだけだった。

「イリヤちゃん。まずは夢幻召喚? だっけを解くんだ。自覚症状があるかどうか分からないけど、そのままだと危険だから」
「う、うん……」

 フラットに言われ、イリヤは夢幻召喚を解除しようと意識した。すると、アッサリとイリヤの内から英霊の気配が消失した。
 鎧や衣服も一緒に……」

「おお……」

 フラットは思わず凝視してしまった。均整の取れた美しいイリヤの肢体に視線を奪われた。
 上から下に移動する彼の視線にイリヤは自分の状態を理解し、頬を紅潮させた。

「み、見ないで!!」
「……って、ごめんなさい!!」

 胸を腕で隠しながら蹲り、顔を真っ赤にして涙を浮かべるイリヤに対し、フラットは慌てて顔を背けた。
 けれど、脳裏には確りと彼女の裸体が焼き付いていた。暗がりだったのが非常に残念ではあるが、劣情をおよぼすには十分過ぎる光景だった。

「フラット……」
「貴方という人は……」

 そんな彼を英霊の二人は白い目で見つめた。
 非常に後ろめたい。

「……ほんと、すんませんでした」
「……い、いいよ。私も散々、酷い事言っちゃったし……。でも、出来れば忘れて欲しいかも……」
「ぜ、善処します……」

 善処はする。でも、ちょっと忘れるには印象が強烈過ぎた。
 そんな彼の思考が読めたのだろう。ライダーが言った。

「……そんなに裸が見たいならボクのも見せてあげよっか?」
「是非!!」
「お止めなさい……」

 徐々に普段の感覚を取り戻し始めたフラットにライダーとルーラーは密かに安堵した。
 
「いや、この国の諺に据え膳食わぬは男の恥というのが……」
「いいから、そろそろ移動しましょう……」

 若干呆れた様子のルーラーの提案に一同は頷いた。

「んじゃ、行きますか」

 頬をパンッと叩き、フラットは気合を入れてライダーとルーラーを抱き抱えた。
 魔力で身体強化をしているとはいえ、鎧を纏った上に片や鎖でぐるぐる巻きにされている人間二人を抱えるのは中々に至難の業だった。
 けれど、そこは男の子。顔に出さないように必死に取り繕いながら歩き出す。森の中を歩いていると、イリヤが体をよろけさせた。

「おっと」

 間一髪。フラットは背中で彼女を受け止めた。

「大丈夫?」
「うん。ごめんね……」
「この森を抜ければ合流地点までは直ぐの筈だから、もう少し頑張って。夢幻召喚の影響を調べるにも落ち着いた場所が必要だし……」
「うん」

 フラットはイリヤが辛くないように歩くペースを落とした。彼に抱えられている二人は申し訳無さそうに身を縮ませた。
 漸く森を抜けると一台の車が待っていた。

「ママ!?」

 その車から出て来たのはイリヤそっくりの美女だった。

「迎えに来たわ。イリヤ……、辛かったわね」

 美女はイリヤを優しく抱き締めた。すると、堰を切ったかのようにイリヤは再び泣き始めた。
 母親に会えた事で安心したのだろう。フラットも安堵の笑みを浮かべた。

「貴方がフラット・エスカルドスね」
「そうッスよ」
「私はこの子の母、アイリスフィールよ。この子を助けてくれてありがとう」
「……うっす」
「乗って頂戴。合流地点までちょっとしたドライブとしゃれこみましょう」

 フラットはライダーとルーラーを車内に運ぶと、その隣に座った。

「二人の拘束はセイバーと合流したら彼女に斬って貰いましょう。多分、それが一番確実だと私の夫が言ってたわ」
「はい」

 イリヤは助手席に座り、母の服の裾を掴んでいる。

「本当にありがとう、フラット君」
「……うっす」

 車の窓から外を覗くと、彼女がわざわざ迎えに現れた理由にも察しがついた。
 外は夜更けにも関わらず多くの人で賑わっている。この状況の中で鎖や布に縛られた少女を抱き抱え、全裸にフラットの上着だけ羽織った状態のイリヤを連れて歩いたら否応無く目立つ。
 
「イリヤ。ダッシュボードに着替えがあるから今の内に着替えておきなさい」
「うん……」

 ごそごそと着替え始めるイリヤ。フラットは思わず生唾を飲んだ。さっきの彼女の裸が脳裏に甦る。

「フラット。さすがにこの状況でそれは……」
「まったく、フラットはエッチだなー」

 横に並ぶ二人の英霊から白い目で見られ、フラットは小さくなって「ごめんなさい」と謝った。
 そんな彼にアイリスフィールは微笑んだ。

「まあ、健全な男の子だものね。嫁入り前の娘の裸を見られたのは親としてちょっと思う所があるけど……」
「ほんと、すんません!!」
「……まあ、状況が状況だったしね。許してあげる。両手に花どころか花束抱えてる状態の色男君」
「あ、あはは……」

 冗談めかした彼女の言葉にフラットは少しだけ肩の力が抜けたように感じた。
 車は海岸線をしばらく走り続け、しばらくしてから田園地帯にある古い屋敷に到着した。和風建築の広々とした屋敷には既に先客が待っていた。
 セイバーとランサーが彼らの到着を出迎えた。

「イリヤ!!」

 セイバーは一も二も無くイリヤに飛び付いた。

「この馬鹿野郎!! 馬鹿な真似しやがって!!」

 開口一番に彼女はイリヤを怒鳴りつけた。

「ごめん、セイバー」
「ごめんで済むか!! 一歩間違ってたらお前は――――」
「そこまでにしておけよ、セイバー」

 怒りに表情を歪めるセイバーをランサーが嗜めた。

「嬢ちゃんも大変だったんだ。先に休ませてやった方がいいだろ。それに、先にやるべき事もある」
「……ああ」

 渋々といった様子でセイバーは引き下がった。

「あんま、無茶すんじゃねーよ。馬鹿娘」
「……うん」
「ったく……」

 僅かに表情を和らげたセイバーにフラットはおずおずと声を掛けた。

「あん?」
「えっと、頼みがあるんスけど……」
「ああ、分かってる。そいつらの拘束を破ればいいんだろ?」
「頼めますか?」
「……お前にはイリヤを助けてもらった恩があるからな。ただし、これでチャラだぜ?」
「分かってます!!」
「……ッハ」

 セイバーは剣を手にすると、ルーラーとライダーの下へ向かい、鎖と紐を引き裂いた。
 拘束から解放された二人は安堵の溜息を零した。

「やっと、自由になれた……」
「感謝します、セイバー」

 礼を言うルーラーにセイバーは軽く肩を竦めた。

「さ、中に入ろうぜ。切嗣が待ってる」
「キリツグ?」
「イリヤの親父で、ここに俺達を呼び集めた張本人さ」

第二十九話「聖杯の真実」

 七十年前の話――――。
 聖杯戦争史上、最も規模が大きく、最も被害の多かった第三次聖杯戦争の話だ。当時、参加したマスター達は一人残らず怪物と称される程の実力者が揃っていた。
 ナチス・ドイツや大日本帝国陸軍までが参戦し、混迷を極めたこの戦いに勝者は居なかった。ナチス・ドイツが送り込んで来た二人の魔術師が冬木の聖杯戦争における基盤、大聖杯の強奪を目論んだ事で本来の聖杯戦争の枠組みから外れた闘争は際限無く激化の一途を辿った。一度は起動し掛けた聖杯だったが、勝者に触れられぬまま破壊され、戦争は幕を閉じた。
 ナチスが送り込んだ二人の魔術師は死亡。外来からの参加者であったエーデルフェルト家の双子の姉妹も失踪し、大日本帝国陸軍の将校も重傷を負い撤退。御三家も遠坂を除き、参加したマスターは死亡している。一般市民に対しても甚大な被害を及ぼし、何の益も生み出さなかったこの戦いはされど、聖杯戦争自体に大きな歪みを齎した。
 当時、アインツベルンの当主、ユーブスタクハイト・フォン・アインツベルンは必勝を期す為の策を二つまで絞り込んでいた。一つ目は大聖杯に元々備わっているシステムを悪用し、抑止力の器にして、公平無比かつ最強の力を誇る|裁定者《ルーラー》のサーヴァントを召喚する事。もう一つは大聖杯のシステムを改変し、|復讐者《アヴェンジャー》という特殊クラスを召喚する事。
 彼が選んだのは後者だった。力を取るか、智を取るか。悩んだ末に彼が出した結論は力であった。アヴェンジャーとして召喚する英霊の名は|この世全ての悪《アンリ・マユ》。世界六十億の呪詛を背負いし反英雄である。殺戮に特化した悪魔の王。
 彼は焦っていたのである。第二次聖杯戦争の敗北が彼に選ばせてしまったのだ……。

第二十九話「聖杯の真実」

 長らく人が住んでいなかったらしく、屋敷の中は酷く黴臭い。前を歩くセイバーが鬱陶しそうに蜘蛛の巣を払い除けている。切嗣が待っていたのは屋敷の中央に位置する広間だった。
 広間には切嗣の他にもランサーのマスターであるバゼットの姿があった。二人共、真剣な面持ちで床に広げられた大きな地図を見ている。イリヤがアイリスフィールに手を引かれて中に入ると、切嗣はハッとした表情を浮かべ、急に立ち上がると、真っ直ぐに彼女の下に向かった。
 ついさっき、セイバーに叱られたばかりのイリヤは一瞬怒られると思って身を竦ませた。

「イリヤ……」
 
 予想に反して、切嗣が取った行動は抱擁だった。彼は力強くイリヤを抱き締めた。
 イリヤは驚いて目を丸くした。けれど、温かい安心感に包まれ、目を細めた。この戦いに参加するより以前はいつも母のママの尻に敷かれていて、冴えない駄目親父という印象が強かったのだが、最近の父はちょっとかっこいい。思わず微睡みそうになりながらイリヤは思った。
 
「無事で良かった……。本当に……」
 
 搾り出すような声。彼の体は僅かに震えている。そんな彼の姿を見て、バゼットは熟考した。
 魔術師殺し・衛宮切嗣。魔術師の天敵として悪名を馳せた異端の魔術使い。直接対峙した事はこれまで無かったが、噂を聞く限りでは冷徹な殺人鬼という印象だった。
 目の前で繰り広げられるホームドラマのワンシーンのような光景にバゼットは二つの可能性を考えた。一つはブラフの可能性。敢えて、自らの弱点を晒すような真似をしたからには何らかの狙いがあるのかもしれない。もう一つは純粋に見た通りである可能性。少なからず、イリヤという少女の在り方を観察した限り、彼女が魔術師として異端とも言える精神性を持っている事が判明している。
 まるで、一般家庭で育って来たかのような正常な倫理観。彼女が魔術師としてではなく、一般人として育てられてきたのなら、この光景にも説明がつく。つまり、単純に親が子を心配し、無事を喜んでいる光景。
 けれど、違和感がある。まず、イリヤが一般人として育てられて来たという仮定に幾つかの矛盾が存在する。一つは夢幻召喚という大魔術の使用。あれほど高度な魔術理論を要する大魔術を行使したからにはそれ相応の教育が為された筈。それに、彼女は確かに正常な倫理観を併せ持っているが、それにしては戦いに対しての|恐れ《・・》が無さ過ぎる。
 戦闘が魔術師だけのものなどと言うつもりは無い。むしろ、人類史に刻まれる闘争の大部分は魔術など関係無い一般人が引き起こしたものだ。何の訓練も積んでいない一般人が猟奇殺人に手を染める例も数限り無くある。生まれ持っての殺人鬼というのは存在するのだ。|精神病質者《サイコパス》と呼ばれる人種である。
 だが、|彼女《イリヤ》がサイコパスかと言えば、それも違う気がする。サイコパスは冷酷にして、無慈悲。エゴイズムの塊であり、良心や思い遣りといった感情が初めから欠如している人間を指す。もし、彼女がサイコパスであるなら、クロエの死にあれほど動揺したりはしないだろう。

――――しかし……。

 演技だった可能性もある。サイコパスの異常性を示す特徴として、ドイツの精神科医、エミール・クレペリンは『空想虚言者』という一つの類型を提唱している。彼の言によれば、空想虚言者には三つの特徴があるとの事。一つは想像力の豊かさである。時にサイコパスは空想を現実と思い込む場合があるという。二つ目は当意即妙の対応の巧みさ。弁舌が良く回り、周囲からの評価を高めようとする傾向が見られるという。三つ目は人心掌握の手際の良さ。周囲の人々の心を操り、自己の評価を高め、人気を集める事に長けているという。
 彼女がサイコパスであると仮定した場合、幾つか合点のいく事がある。フラットを初めとした彼女の周囲の人間の彼女に対する認識についても然る事ながら、彼女がランサーに挑んで来た時の事を思い出すと彼女の異常さがよく分かる。
 ランサーを迷い無く殺そうとした彼女の姿を思い出す。一般人として育てられたのであれば、殺す寸前に少なからず躊躇がある筈。相手がサーヴァントであろうと、一般人の倫理観に従えば、人型である以上、そこには踏み止まるか、踏み越えるかの一線が存在する筈。にも関わらず、彼女は躊躇い無く殺そうとした。
 この仮定はあくまで、衛宮切嗣の行動が此方に対するブラフでは無いのであればの話だ。もしかしたら、家族愛を見せ付ける行為に何らかの狙いが隠されているのかもしれないが、その場合もイリヤがある程度演技している事になる。どちらにせよ、事によると最も警戒すべき相手は彼女なのかもしれない。
 バゼットは父に抱き寄せられ、心配させてしまった事を詫びる少女に疑いの目を向けた。
 しばらくして、親子の抱擁の時間が終わると、一同は広間の中央に敷かれた大きな地図を取り囲むように座った。切嗣の隣にアイリスフィール、イリヤ、セイバー、ランサー、バゼット、ルーラー、フラット、ライダーの順に並んでいる。

「待たせてすまなかった」

 そう口火を切る切嗣にルーラーがやんわりと微笑んだ。

「親子の再会に無粋な事は申しません。それより、直ぐに本題に入りましょう」
「分かった。単刀直入に言おう。ランサーのマスター、バゼット・フラガ・マクレミッツ。そして、ライダーのマスター、フラット・エスカルドス。君達と一時的な同盟を結びたい」
「一時的というと?」

 バゼットが問い掛けた。

「期間については後で言う。その前に、幾つか話しておくべき事がある。ルーラーにも聞いて貰いたい。聞いた上で可能ならば、君とも同盟を組みたいと思っている」
 
 切嗣の言葉にルーラーは凛とした声で応えた。

「先に申し上げておきますが、私はあくまで聖杯戦争の裁定者です。一方の参加者に過度な肩入れをする事は出来ません」
「分かっている。これから話す内容を聞いてから一考してくれるだけでも構わない。それと、この同盟は何も敵対勢力の打倒を目的としたモノでは無い」
「それは一体どういう意味ですか?」
「まずは僕の話す内容を聞いてくれ。聞けば、自ずと同盟の意味も分かる筈だ。まず、以前、彼が主催した宴の席で少し語った事についてだ」

 切嗣はフラットに視線を投げ掛けながら言った。

「聖杯の穢れについて、ですね?」

 ルーラーはつい先日の事だというのに、何だか遠い昔の事に思える宴の日の事を思い出しながら言った。『聖杯の穢れ』。どういう意図があっての発言なのかずっと気になり続けていた。その謎が漸く解ける。

「その事を説明するには七十年前に開催された第三次聖杯戦争に遡る必要がある」
「第三次聖杯戦争?」

 首を傾げたのは彼の娘のイリヤだった。

「冬木における聖杯戦争史上、最も規模が大きく、被害の大きかった戦いと聞いています」
 
 バゼットの言葉に頷くと、切嗣は手短に第三次聖杯戦争に関する概要を口にした。
 聖杯戦争の参加者やその来歴などは簡単に済ませ、本題に入る為にアインツベルンの策略について語った。

「|この世の全ての悪《アンリ・マユ》を呼び出すなど……」

 険しい表情を浮かべるルーラーに切嗣は肩を竦めた。

「まあ、召喚されたのは|この世全ての悪《アンリ・マユ》という邪神そのものでは無く、アンリ・マユの名を背負わされた無銘の反英雄だった。宝具も無く、唯人にも等しい脆弱なサーヴァントだったそうだ。アヴェンジャーは初戦でマスター共々戦死を遂げ、大聖杯に取り込まれた。けれど、ここでアハト翁も想定していなかった|異常事態《イレギュラー》が発生した」
「イレギュラー?」

 フラットが首を捻る。衛宮切嗣は小さく頷くと、話の続きを口にした。

「アヴェンジャーは確かに邪神そのものではなかった。けれど、その性質は限りなく真作に近しいものだった」

 切嗣の言葉にハッと息を呑み、ルーラーは恐ろしげに呟いた。

「つまり、聖杯の穢れとは……」
「本来、大聖杯は冬の聖女と呼ばれたアインツベルンの七代目当主、ユスティーツァ・リズライヒ・フォン・アインツベルンがその身を贄として円蔵山の地下空洞に敷設した巨大な魔術回路だ。そこに善意や悪意は存在しなかった。ただ、聖杯を降臨させる儀式の舞台装置でしかなかったんだ。だが、そこにアヴェンジャーという悪意が入り込み、大聖杯を染め上げてしまった」
「えっと、つまり……、どういう事?」

 それまで話を黙って聞いていたライダーが困惑した表情で傍らに座る主の問いを投げ掛けた。
 けれど、問われた当人であるフラットにも話の流れがサッパリだった。助けを求めるようにフラットは切嗣を見た。

「簡単な例え話をしよう。例えば、世界一の野球選手になりたい。そう、今の聖杯に望んだとしたらどうなると思う?」
「えっと、凄い身体能力とかバッティングセンスとかそういうのが……」

 フラットが考えながら言うと、切嗣は首を横に振った。

「正常な聖杯ならば、あるいはそうやって叶えてくれたかもしれない。だが、今の聖杯はアンリ・マユによって汚染されてしまっている。あらゆる願望を悪意をもってのみ叶えるんだ」
「えっと、どういう意味?」

 ライダーが眉を八の字にしながら尋ねると、切嗣は言った。

「今の聖杯がその願いを叶えた場合、この世から全ての野球選手が死に絶える」
「……へ?」

 フラットの戸惑いに満ちた声に反し、バゼットとルーラーは険しい表情を浮かべた。

「証拠はあるのですか?」
「実際に円蔵山の地下洞窟内に行ってみればいい。それで全て明らかになる」
「まさか……、そんな事態になっていたなんて……」

 ますます表情が険しくなるバゼットとルーラーにランサーは乾いた笑い声を上げた。

「で、何で今更そんな事をぶちまける気になったんだ?」

 ランサーの問い掛けに一同の視線が集まった。

「元々、ルーラーには話すつもりだった。加えて、厄介な存在が一人居るんだ」
「厄介な存在?」
「アサシンだ」

 アサシンという言葉にイリヤが僅かに身を震わせた。
 怒りなのか、哀しみなのか、演技なのか分からない。切嗣は怒りか哀しみと取ったのだろう。気遣わしげに娘を見つめた。
 娘の方は気丈に振る舞い「大丈夫」と応えた。

「アサシンはクロエを取り込んだ。観察した限り、クロエの令呪を奴は行使する事が出来た。他の能力も行使出来る可能性がある。それに加えて、クロエの知識を奴が手に入れたとすれば、我々の行動を阻害してくる可能性もある」
「我々の行動……。つまり、この同盟の目的ですね」
「ああ、そうだ。この場で提案する同盟は――――、大聖杯の破壊。それが終了するまでのものだ」

第三十話「皹」

 天地乖離す開闢の星――――。世界そのモノを穿つ剣が冬木という街に齎した被害は甚大だった。私は覚束ない足取りで更地と化した街を歩いている。単なる偶然かもしれないが、被害が及んだのは深山町の南部。比較的、人家が少ない方だった。
 けれど、零じゃない。その方角には私が通う学校もあった。瓦礫すら残っていない学校の跡地を歩いていると、衝動的に叫び出しそうになった。別に友達が居たわけじゃない。部活にも参加していなかった。ただ、授業を受けるだけの日々だった。

「私の……」

 それでも、学校で過ごす時間は私にとって唯一の安らぎだった。家に帰れば蟲蔵での拷問を受ける毎日。友と語らう事も許されなかったが、少なくとも、学校に居る間は苦痛と無縁の生活を送れた。まるで、普通の人みたいな生活を送れた。
 その場所が無くなってしまった。

「あははっ」

 口元に笑みが浮かんで来る。たった一つの居場所さえ、失った。今度は自分の手で壊してしまった。
 おかしくて涙が出て来る。失ってばかりの人生。そんな私がこの世の全てを手に入れた古の王と契約しているなんて、悪い冗談だ。

「帰ろう」

 帰って、一度寝よう。まだ、戦いは始まったばかりなんだ。この程度で挫けてる場合じゃない。
 戦って、戦って、戦い抜いて、願いを叶える。
 蟲蔵での日々も、学校での日々も所詮は過去。一々振り返ってなんて居られない。どうせ、全部壊すのだから、学校を壊すくらい……。

「……あれ?」

 円蔵山の山道入り口まで戻って来ると、そこにアーチャーが立っていた。もしかして、待っていてくれたのだろうか。
 少しだけ、嬉しくなった。彼に対する私の中での第一印象は正に最悪だった。彼の姿を瞳に映す事すら不敬とされ、殺されそうになったのだから、良い印象を持てという方が無理な話だろう。けれど、ランサーとの一線以来、彼は私を雑種と呼ばず、小娘と呼ぶようになった。幾度も命を救ってくれた。
 恐ろしい人という評価に変動は無い。今夜、彼の怒りが多くの人の命を奪った。けど、彼が内に秘めるのはなにも|荒魂《あらみたま》だけじゃない気がする。きっと、彼の内には|和魂《にぎたま》もある。こうして、私を待ってくれている彼もまた、英雄王・ギルガメッシュの側面の一つなのだ。
 |嘗ての相棒《エミヤシロウ》とは似ても似つかない傲慢不遜な人。でも、少しだけ共通点を見出した。

「アーチャー!」

 駆け寄って、声を掛けた。返事が無い。釣れない反応に不満を感じ、もう一度呼び掛けてみた。やっぱり返事をしない。
 情緒不安定になっているのか、涙が浮かんで来た。無視しないで欲しい。今の私には|アーチャー《アナタ》しか居ないんだから、ちゃんと私を見て欲しい。
 思わず掴み掛かりそうになって、私は気が付いた。アーチャーが虚空を睨みながら何かを呟いている。

「どうしたの……?」

 問いを投げ掛けても、返って来るのは沈黙のみ。いい加減、痺れを切らし始めた時、アーチャーは信じられない行動を取った。
 背後の揺らぎ、|王の財宝《ゲート・オブ・バビロン》から乖離剣を取り出したのだ。この惨状を創り上げた剣。彼は何の躊躇いも無くソレを振り上げた。

「|天地乖離す《エヌマ》――――」

 そこから先はもう無我夢中だった。

「っに、してんのよ!!」

 アーチャーの宝具の発動は止まった。けれど、私の心臓も後どのくらい動いていられるか分からない。
 やってしまった。私は拳をアーチャーの頬にくっ付けたまま動けなかった。人類最古の英雄王の顔をぶん殴ってしまった。
 アーチャーは目を丸くしている。当然だろう。ひょっとすると、史上初かもしれない。彼の頬をいきなりぶん殴った不埒者は……。

「……何の真似だ?」

 ああ、ほっぺが意外とやわらかいわ。如何に人類最古の英雄王といえど、ほっぺは常人と変わらないのね。大発見だわ。人類史上類を見ない程の大発見。
 これを論文にして提出したら、ギルガメッシュ叙事詩とかの研究に何かちょっとくらい貢献出来るかもしれない。
 生きてたらね。

「何の真似かと聞いたのだが?」
「あは、あはは……」

 額からだらだらと汗が滲み出る。もう、笑うしかない。まさか、こんな馬鹿げた事で人生が終了するとは思ってなかった。
 ああ、どうやって死ぬんだろう。降って来るのは剣かしら? 槍かしら? それとも、斧かしら? いやいや、相手は人類最古の英雄王。もしかしたら、ドラえもんもびっくりのとんでもアイテムで殺されたりして……。

「……落ち着け」
「……はい」

 冷たい声で諭されて、私はゆっくりと彼から離れた。体が震えている。ああ、これから私は殺されるんだ。願いを叶える事も出来ず、敵と戦っているわけでも無いのにここで死ぬんだ。
 思えば、これまでの人生、良い事なんて全然無かった。最期くらい、楽に死にたいわ。

「さあ、来なさい!!」

 バッと両手を広げ、目を瞑る。最初に頭を潰してくれるよう必死に祈る。
 死ぬならやっぱり即死が良い。

「……落ち着け」
「……あれ?」

 降って来たのは冷たい声だった。恐る恐る瞼を開くと、アーチャーがまるでゴキブリを見るような目で私を見ていた。

「……こ、殺さないの?」
「殺して欲しいのか?」

 右手に物凄く凶悪なフォルムの鎌を手にしながら聞いてくるアーチャーに私は必死に首を横に振った。

「ならば、下らぬ事を聞くな。それより、さっきの……、気付いたか?」
「さっきの?」
「……いや、お前に聞いた我が悪かったな」

 何だか、凄くわざとらしい溜息を吐かれた。
 というか、どうしたんだろう? 何だか、アーチャーの様子が少しおかしい気がする。
 普段のアーチャーならとっくに無礼な真似をした私を殺していた筈。

「ど、どうしたの?」
「いや、少し気になる事があってな。一つ、試してみようかとも思ったが……」
 
 鎌を蔵に戻しながら、アーチャーは乖離剣を持ち上げた。

「日に何度も使っては威光に傷がつくか……。それに、我の目を欺く事など……」
「アーチャー……?」

 アーチャーは顎に手をやりながら考え込むように顔を伏せた。
 本当にどうしちゃったんだろう。何だか、心配になってくる。

「いや、今のは忘れよ。ただの戯言だ。それより、帰るぞ――――、凛」
「あ、うん!」

 先を行くアーチャーの後に続いて少し歩いてから私はふと違和感を感じた。
 今、何かおかしな出来事があったような……。

「って、アーチャー!?」
「ん?」
「い、今、私の事、凛って!!」

 そう、彼は確かに私を名前で呼んだ。それも、桜という偽名じゃない。凛という私の真名を呼んだ。
 目を見開く私にアーチャーは怪訝な表情を浮かべて言う。

「何の話だ? 貴様のような地を這いずる虫けら風情を相手にこの我が名で呼ぶとでも?」

 物凄い毒舌が返って来た。あれ……、私の気のせいだったのかな? 一瞬、浮かれてしまった自分が恥ずかしい。
 消沈する私にアーチャーは小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。

「王たる我に名前で呼ばれる事を願うか……。まったく、お前という奴はいつもいつも……」
「えっと……?」
「我に名で呼んで欲しくば、価値を示せ。往くぞ」
「あ、えっと、うん!」

第三十話「皹」

 その事に最初に気が付いたのはセイバーだった。ルーラーもその存在には気付いていたがあまりにも距離が離れていた為に、何をしようとしているのかまでは分からなかった。
 距離、三千メートル。アサシンのサーヴァントは紅の装束に身を包み、弓を手に立っていた。番えるは螺旋の刃を持つ矢。

「――――|I am the bone of my sword.《我が骨子は捻じれ狂う》」

 唇の端が自然と吊り上る。膨大な魔力を注ぎ込み、アサシンは矢を放った。魔弾は夜気を裂き、目標に向かって一直線に突き進む。屋敷の中央で話し合いをしていた彼らに音速を超えて飛来するその矢を防ぐ手立てなど無い。
 勝った。そう、アサシンは確信した。古びた和風建築の屋敷の中に四騎ものサーヴァントが集っている。まさに袋の鼠だ。なんて、愚かな連中だろう。まさか、間諜の英霊たるアサシンの目を盗み、身を隠す事が出来るなどと本気で思ったのだろうか? それとも、アサシンなど警戒するに値しないと考えたのだろうか? どちらにせよ、奴らは大いなる過ちを犯した。
 
「死ね!!」

 アサシンが勝利を確信すると同時刻、真っ先に迫り来る脅威に気が付いたセイバーは聖剣を魔剣に変貌させていた。突然立ち上がった彼女に対し、無様に途惑う素振りを見せた者は一人も居ない。
 彼女が宝具の発動体勢に入った。それはつまり、宝具の発動を余儀なくされる程の脅威の到来を意味する。

「|我が麗しき《クラレント》――――ッ!!」

 気がつけたのは何も直感のみに頼った結果では無い。
 切嗣の奇妙な行動と言動。加えて、この屋敷のあちこちから香る魔術の痕跡。セイバーは普段にも増して警戒していた。
 切嗣は何かを狙っている。わざわざ、自らの身を他のサーヴァントやそのマスターに晒し、大袈裟な家族の再会シーンを演出するにはそれなりの理由がある筈だ。その意図を正確に読み取れたわけでは無い。ただ、彼が何かを待っているような気がした。
 研ぎ澄まされた感覚が遠く離れた地の僅かな魔力の流れを感じ取り、彼女の直感を後押しした。

「待て、セイバー!! 使うな!!」
「なにっ!?」

 切嗣の静止の声に気を取られた一瞬後、地面が大きく揺れ動いた。

「――――ッハ」

 アサシンは更地と化した屋敷跡を視て笑みを深めた。何者かが飛び出して来る気配は無い。
 当然だ。放った矢は一級品の宝具。かの騎士王が振るいし聖剣にも比肩する、ケルト神話の大英雄フェルグスの魔剣。もっとも、矢として使用する為に手を加えられているが故に伝承とは少し異なる形状をしているが、その内に秘められし幻想は計り知れない。
 現に|壊れた幻想《ブロークン・ファンタズム》による幻想の爆発はAランクに相当する破壊力を見せた。大英雄ヘラクレスの宝具すら貫く威力だ。それをこの身は無限に生み出す事が出来る。

「最強じゃないか……」

 恐れるかのようにアサシンは身に纏う紅の装束を指で抓んだ。
 前回の聖杯戦争の優勝者。アーチャーのサーヴァント、エミヤシロウ。固有結界『|無限の剣製《Unlimited Blade Works》』の使い手。一度見た剣は例え宝具であろうと複製出来る規格外の投影魔術師。
 しかも、投影した宝具の真名解放すら可能とし、本来、禁忌とされている壊れた幻想を文字通り無限に使える異端の英霊。
 笑いが込み上げてくる。こんなのまるっきりインチキだ。この力があれば、負ける理由が一つも無い。

「ハハッ」

 勝てる。この力があれば、ヘラクレスなんて使わなくても|あの英霊《・・・・》を殺す事が出来る。

「見ていてくれ、凛!! 僕は強くなった!! もう、君を泣かせたりしない!! 今度こそ、君を守り、君を不幸な運命の鎖から解き放ってみせる!!」

 輝かしい未来を夢想し、顔が歪む程の笑みが溢れた。

「アッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ……ハハ、おや」

 哄笑するアサシンの瞳に瓦礫から姿を現す陰が映った。

「死に損ないめ……」

 禍々しい邪剣を構えるセイバーにアサシンは苛立ちに顔を歪めた。
 素直に死んでいればいいものを……。
 いいだろう。そんなにも無様な最期を遂げたいというならば叶えてやろう。

「――――|投影《トレース》、|開始《オン》」

 この身に宿す英霊の力はまさに最強。だが、この身に宿った力は最強を超えた究極。
 憑依させた英霊の力を今の己ならば本物以上に行使する事が出来る。

「……英霊の力って、スゲー!!」

 創り出したのは伝説に名高き王の剣。本来なら、エミヤシロウ自身でさえ固有結界内で無ければ投影出来ない至高の聖剣。星が鍛えし神造兵装。
 その剣の銘は――――、|約束された勝利の剣《エクスカリバー》。
 エミヤシロウの力だけでは不可能な投影。足りない部分を補強し、後押ししたのはクロエの力。小聖杯の願望機としての特性が英霊・エミヤシロウの魔術を昇華した。

「さあ、受けろ!! 最強の一撃を!!」

 魔力を剣に吸わせていくと、徐々に剣が変貌を始めた。禍々しき漆黒の光を帯び、魔剣と化したエクスカリバーをアサシンは大きく振り上げる。
 真紅の極光と漆黒の極光。魔剣同士が互いの存在を誇示するかのように輝く。
 片や憎悪と憤怒に塗れた表情。片や狂喜の笑み。相反する感情が魔剣に更なる輝きを与える。
 三千メートルの距離を隔てた二人の構えが同調する。

「|我が麗しき《クラレント》――――」
「|約束された《エクス》――――」 
 
 運命と呼ぶべきか……。嘗て、刃を交えた二振りの聖剣が永き時の果てに再び巡り合い、互いに魔剣と化して切り結ぶ。
 
――――今宵、勝つのは僕の剣だ!!

 心中の叫びを魔剣の真名に乗せて吼える。
 その時だった。アサシンは猛烈な悪寒に襲われた。鷹の目と称される|アーチャー《エミヤ》の眼がセイバーの背後から姿を現した一人の女を映し出す。
 元々、独学で魔術の勉強をしていただけの一般人に過ぎない間桐慎二の知識に彼女の情報は無かった。クロエから吸い上げたのは魔術に関する知識のみで、他家の魔術師についての情報などは吐き捨てた。下手な知識を吸い、間桐慎二の人格に歪みが生まれる事を恐れた為だ。
 その為にアサシンはバゼット・フラガ・マクレミッツについて、何も知らない。
 けれど、今のアサシンには彼女の持っているモノの正体が分かった。
 
「――――|父への叛逆《ブラッドアーサー》!!」
「――――|勝利の《カリ》ッ」

 踏み止まった。逆光剣の発動を阻止出来た。
 だが、脅威が去ったわけじゃない。それ所か、エクスカリバーの真名開放を中断したせいで全身に強烈な負荷が掛かり、身動きが取れない。
 セイバーの放った斬撃が迫る。

「|熾天覆う七つの円環《ロー・アイアス》!!」

 それで防げるなどと思ってはいない。ただ、他に手が思いつかなかったのだ。
 投擲武器に対する絶対の守りたるアイアスだが、セイバーの宝具の一撃を受けた瞬間、一気に五枚の花弁が散った。だが、斬撃は尚も花弁を喰い散らかしていく。
 残り一枚――――。魔力を注ぎ込めるだけ注ぎ込む。

「僕は……、僕はこんな所で終われないんだよ、セイバー!!」

 そんな彼の叫びを聞き届けた男が居た。
 もっとも、その男は決して彼の味方などではなく――――、

「いいや、終わりだ」

 彼の命を狙う死神だった。青き衣の死神は死を告げる槍をアサシン目掛け、投擲した。

「――――|刺し穿つ死翔の槍《ゲイ・ボルグ》!!」

 真紅の魔槍がその真価を発揮する。得物の心臓を喰い破らんと迫る。
 悪夢。全身全霊を掛けて展開している盾は崩壊寸前。そこへ、更なる宝具の追撃。
 絶対無敵の力を手にした筈なのに、どうして……。アサシンは悔しさに顔を歪ませた。

「|熾天覆う七つの円環《ロー・アイアス》!!」

 無謀な試み。本来、エミヤシロウという英霊は剣の属性に特化した魔術師。盾の投影は彼にとっての一種の切り札。無闇に使える程、容易く扱える宝具では無い。
 魔力の使用量。並びに、肉体への負担は他の投影と比較にならない程大きい。
 それを同時に二つ展開する暴挙。クロエの能力が後押ししているとはいえ、正に英霊・エミヤの能力の限界に挑む行為。

「……死ねない」

 アサシンの呟きは宝具と宝具の鬩ぎ合いの音によって誰の耳にも届かない。
 けれど、彼は声に出して言った。

「……死ねない。まだ、ここでは死ねないんだよ!! だから、来い!! バーサーカー!!」

 本来なら誰にも届かない筈の叫び。けれど、その叫びに応える怪物が居た。
 意思を完全に剥奪されたバーサーカーはアサシンの命に従い、この死地へ飛び込んできた。

「命のストックはまだあるだろ!! 何回死んでも、絶対に僕を守り切れ!!」

 瞬間、セイバーの斬撃がアイアスの最後の花弁を噛み砕いた。バーサーカーはアサシンの盾となるべく、彼の前に立ちはだかり、魔剣の一撃をその身で受ける。
 すると、アサシンにとって予想外の光景が広がった。
 バーサーカーは死ななかった。一度も死なずにセイバーの宝具を受け止めている。

「ッハハハハハハハ!! やるじゃないか、筋肉達磨!!」

 アサシンはランサーの宝具を受け、削れ往くアイアスに一段と魔力を篭めた。
 
「――――やった!!」

 幾度と無く続いたゲイ・ボルグの襲撃をアイアスは残り一枚まで削られながら耐え抜いた。
 
「ッハ、ハハ、耐えた。耐え抜いた!!」

 全身が今にも弾けそうだ。もはや、襲撃は完全に失敗だ。アイアスの二つ同時投影の無理が祟ったのだろうか、全身が酷く痛む。
 まるで、全身に毒が回り、肉や骨を溶かしているかのようだ。
 
「……んだよ、これ」

 痛い。耐えられない程の痛みが全身を苛む。けれど、ジッとしてはいられない。
 直ぐにも奴らが来る。逃げなければいけない。まだ、本来の目的を済ませていないのだから、こんな所で死ぬわけにはいかない。

「バーサーカー!! 敵を足止めしていろ!!」

 雄叫びが応えると同時にアサシンは身を隠した。アサシンが元から持つ気配遮断のスキル。息を顰め、気付かれないよう最速で移動する。
 こんな筈じゃなかった。アサシンは唇を噛み締めた。
 あのサーヴァントを殺す為に死肉を漁り、更なる力を得るつもりだった。なのに、この体は今にも死のうとしている。夢幻召喚のペナルティーがどうして自分だけは無効だと思い込んだのだろう。 
 霊格の低いアサシンの器で御せる力では無かった。このままでは死ぬ。死んでしまう。願いを叶える前に全てが終わってしまう。
 そんなのは嫌だ。絶対に嫌だ。何としてもあのサーヴァントだけは殺す。
 凛を戦いの運命に縛り付ける憎き英霊。|人類最古の英雄王《ギルガメッシュ》を必ず殺す。

「待ってろよ、凛。僕が絶対、君を救って……、そして……、今度……こそ……、守って……、みせる」