第二十四話「抑止の使者」

「|抑止力《カウンターガーディアン》について?」

 衛宮切嗣は娘の質問に対して、どう説明を付ければいいか悩んだ。魔術的な見地についてはバーサーカーのマスター、クロエが説明してくれている。

『人類の持つ破滅回避の祈り、即ち『|阿頼耶識《アラヤ》』による世界の安全装置の事よ。世界を滅ぼす要因の発生と共に起動するソレは絶対的な力を行使し、その要因を抹消する。本来、抑止力はカタチの無い力の渦なんだけど、具現化する際に幾つかのパターンがあるの。例えば、滅びを回避させられる位置に居る人間を後押ししたり、自然現象として全てを滅ぼしたり……』

 非の打ち所の無い説明だが、魔術の世界に触れたばかりの愛娘には難しかったらしい。大まかな理解は出来たものの、具体的な実像が掴めていないようだ。
 切嗣は少し考えた後、パソコンを開き、その画面に一枚の画像を映し出した。全身をすっぽりと覆い隠すマントを纏い、鳥の嘴のような長い鼻と生気の無い目が印象的な仮面を被った人物画。イリヤはその画像の正体を瞬時に見抜いた。

「――――|黒死病《ペスト》ね」
「その通り。正確には、その治療に当たっていた医師だよ。この独特な衣装は彼らが黒死病から身を護る為に身に着けていた保護衣なんだ」

 切嗣は愛娘の反応を観察した。彼女の瞳に宿るのは畏怖と嫌悪。その反応は至って正常だ。この悪名高き病は幾度と無く人類に牙を剥き、特に十四世紀、ヨーロッパにおいて猛威を振るい、全人口の三割を死に追い遣った。現代では感染ルートや治療法が確立されている為、死亡率がめっきり減少したものの、遺伝子に刻み込まれたこの病に対する恐怖は全人類共通の概念だろう。
 だが同時に、この病は人類の歴史にとって無くてはならない存在だったとする意見がある。その事を説明するべきかどうか、切嗣は悩んだ。何故なら、コレは人の死を容認する事と同義だからだ。
 瞼を閉じ、暫しの間悩んだ末、切嗣は口を開いた。

「もう一つ。この画像を見てくれ」

 新たに画面に映し出したのは折れ線グラフだった。

「抑止力について、理解を深めるにはこの例が最適だ」
「これって、何なの?」

 映し出されたグラフから視線を逸らし、イリヤは探るような目を切嗣に向けた。
 
「先見性のある科学者や医師はこのグラフを見て恐怖に慄く」
「どういう意味?」
「このグラフは|世界保健機関《WHO》が公表している人口と環境問題の増加変数を示したものだ。御覧――――」

 切嗣は画面上に表示されたグラフの左端を指差した。

「これが三百年前――――」

 指をゆっくりと右にスライドする。

「これが百年前」

 変化は微細だ。増加傾向にあるとはいえ、とてもなだらかな坂を描いている。
 問題はこれ以降にある。

「これは……」

 娘の聡明さを喜ぶべきか、このグラフに秘められた真実を知ってしまった事を憐れむべきか。
 グラフの百年前から現在に至るまでの変化の度合いはそれ以前とは比べ物にならない程急激なものだ。
 人口爆発と呼ばれる現象。西暦一年頃、人類は一億人に満たなかった。千年後も、その数は二倍の二億人に増えるに留まっていた。ところが、それから九百年後、即ち、現在から数えて百年前、一気に八倍の十六億五千万人にまで増えた。そして、それから僅か五十年で二十五億人を突破。更に五十年後の現在、人口は七十億人を突破している。
 
「一人の人間が使える清浄な水や食料の数には限りがある。それに、温暖化、オゾン層の破壊、二酸化炭素の増加、森林伐採。それらは人口の数に比例して増えている。感情を排し、理論の下でこのグラフを分析すると――――、人類の終焉が急速に近づいているという結論に達するんだ」
「なっ……」

 聖書の終末など待たず、人類は破滅する。大災害が起こらずとも、核戦争が起こらずとも、魔王やドラゴンが現れずとも、人類はただ、増え続ける事によって滅亡する。

「生物学において、特定の種がその住環境に対して過剰に増加し過ぎた事を理由に絶滅する事はよくある事なんだ。この問題に言及している小説もある。『2300年未来への旅』では人口爆発の抑制の為に二十一歳の誕生日を迎えた者は皆、自ら命を絶つんだ。『善意の自殺』という奴だね」

 切嗣は一息入れる事にした。イリヤは今の話に衝撃を受けている様子だ。口元に手をあて、目を見開いている。
 
――――君はまるで黒死病だね。

 嘗て、己が殺した男に言われた言葉を切嗣は思い出した。

「さて、話を一度、黒死病に戻そうか」
「う、うん」

 切嗣はいざ話そうと口を開きかけ、僅かに躊躇した。
 これからする話は一種の危険思想とも取れる。己が嘗て、志した道に通じるものであるが故に切嗣は苦悩した。
 
「……黒死病には恐ろしい面がある。だが、同時に人類に恩恵を齎してもいるんだ」
「恩恵……?」
「黒死病が広がるより以前は、人口過剰による飢饉が世界に暗雲を立ち篭らせていた。黒死病の襲来はね――――、『人類を間引く』役割を担ったんだよ」
「間引くって……」

 言葉を失う愛娘に切嗣は静かな口調で続けた。

「多くの人が死んだ。そのおかげで、食料が行き渡るようになり、経済的な困窮も払拭され、ルネッサンスが花開く切欠となった。著名な歴史学者の多くが黒死病を『必要悪』と謳っているんだ」
「そんな――――ッ」
「さっきのグラフを思い出してごらん」

 切嗣は淡々とした口調で言いながら、画面上に今尚表示され続けている人口増加変数の折れ線グラフを指差した。
 
「世界保健機関をはじめ、多くの科学者や医師が人類増加の危険性を世に発信しているんだ。人類の抑制は必要な事だとね……」
「で、でも!!」
「――――つまり、これが抑止力なんだよ」

 切嗣の言葉にイリヤは凍り付いた。

「覚えておきなさい。|抑止力《カウンターガーディアン》は|機械仕掛けの神《デウス・エクス・マキナ》じゃない。それが結果的に人類の破滅を防ぐというだけであって、必ずし人類にとって都合の良い希望を与えてくれる存在じゃないんだ」

 そう、まるで嘗ての己のように……。
 切嗣は在りし日の事を思い出しながら不安に瞳を揺らす愛娘の頭を撫でた。
 十を救う為に一を切り捨ててきた。

――――『君はまるで黒死病だね』

 そう言った男の真意を理解出来るようになったのはここ数年来の話だ。
 平穏に身を置く内に理解した己の業。正義の味方とは、疫病のようなものだ。ただ、より大きな悲劇を防ぐ為に予め最低数の犠牲者を殺す病。
 人によっては必要な存在だったと肯定してくれる者も居るだろう。だが、大多数にとって、ソレは単なる恐怖の対象。存在する事自体が許せぬ悪魔の如き存在。
 多くの識者が人口爆発の抑制の為に避妊具の利用を推進し、出産数を抑える法律を作っている。黒死病のような病をもって、人類を間引くなどと考える者は居ない。
 黒死病を必要な存在だと肯定する者達も間引く以外の方法を必死に模索している。残酷な真実に向き合い、尚、抗っている。

――――僕はただ、最初から抗う事をしなかった……。

 正義の味方になりたい。そう願い、戦い続けてきた。だけど、それは間違いだった。
 絶望から目を逸らし、ただ楽な道に逃げて来ただけだ。

「イリヤ。この戦いはとても厳しいものになると思う。だけど、決して楽な道に逃げたら駄目だよ。辛くても、苦しくても、諦めずに抗い続けるんだ」
「……うん」

第二十四話「抑止の使者」

  嵐が止んだ。未だ、無数の宝具が雨のように降り注いでいるが、アーチャーの思考は地上から放たれた三つの宝具に割かれ、狙いが定まっていない。
 恐らく、この状況は一秒と保たない。三つの宝具はアーチャーが展開した三つの盾の宝具によって弾かれ、再び彼の意識が此方に向けられる。そうなれば、二度とチャンスは巡って来ない。
 本当に規格外な英霊だ。ルーラーは戦慄すら覚えた。
 古代ウルクに君臨した人類最古の英雄王・ギルガメッシュ。彼の強さは英雄の域すら超えた領域にある。この世全ての財宝を内包した彼の蔵すらも、彼の強さの一端を示すものに過ぎない。あの奇怪な剣も然り……。

「ライダー」
「分かってるって!」

 けれど、怯えている暇など無い。彼を止めなければ、この地に住まう人々に甚大な被害が及ぶ。
 ライダーが|幻馬《ヒッポグリフ》の腹を蹴り、一気に黄金の船へと加速する。ゼロコンマ数秒後、ルーラーは幻馬から飛び降りた。

「あわわわわわ!!」

 爆撃の如くルーラーが降り立った衝撃で船が揺らぎ、その場に沿わない可愛らしい悲鳴が響いた。
 見れば、船の片隅で少女が一人縮こまっている。
 直後、再び船体に衝撃が奔り、少女は甲高い悲鳴を上げた。

「ライダー。あなたまで来る事は……」
「言いっこなしだよ。女の子一人に責任を押し付けるのはボクの流儀じゃないし、彼を止められなかったらフラットが危ないからね」
 
 見た目はどこから見ても可愛らしいお姫様なのに、その内に秘める心は紛れも無く勇者のソレだ。
 ルーラーは彼の助力に心から感謝した。これ以上頼もしい助っ人は居ない。

「ところで……、彼女は?」
「アーチャーのマスターのようですね」

 アーチャーのマスターたる少女は船に備え付けられている玉座の裏に身を潜ませながらルーラー達の挙動を覗き見ている。
 瞳に怯えの色が見て取れる。魔力の保有量こそ一流の魔術師並かそれ以上だが、挙動がまるで一般人のようだ。
 気にはなる。だが、今はそれより眼前の脅威への排除を優先しなければならない。

「……我を差し置き、裁定者を名乗る痴れ者が天に仰ぎ見るべきこの我に命令を下し、あまつさえ、我の船に土足で乗り込むか。ここまで来れば痛快ですらあるな……」

 アーチャーは額を手で覆いながら微笑を零した。

「アーチャー。今直ぐに地上に降りなさい。これ以上の狼藉は裁定者として許容出来る範囲を逸脱しています」
「狼藉……?」
「地上には何も知らず平穏に過ごす人々が大勢居ます。それを知りながら対界宝具を使うなど――――ッ」
「ッハ!!」

 嗤った。アーチャーは大口を開け、腹を抱えて嗤った。

「な、何がおかしいのですか!?」
「これが嗤わずに居られるか? なあ、オルレアンの乙女よ。貴様、本当は|裁定者《ルーラー》ではなく、|道化《ピエロ》なのではないか? まったく、王を騙すとはな……。だが、許すぞ、道化。貴様の数々の無礼も許す。いや、実に愉快な道化振りだ。褒めてやろう」
「な、何を……」

 道化と呼ばれ、ルーラーは困惑した。彼女は自分が彼と顔を合わせてから発した言葉に疑問を抱いていない。
 嗤われるような言葉は口にしていない。道化などと詰られる理由が分からない。

「だが、貴様は別だ、ライダー。我の船に土足で踏み入った罪、死をもって償うが良い」
「なっ!?」

 アーチャーの言葉に呼応するように虚空から黄金の紐が現れ、ライダーの体に纏わり付いた。指一つ動かせない状態にされ、ライダーは苦悶の表情を浮かべた。

「神獣を拘束した神の拘束紐だ。貴様如きに使うには少々勿体無かったやもしれんな」
「っぐ……」

 虚空から一本の剣が現れる。

「それ、は……」
「貴様ならば知っていよう。友の剣を受けて果てるが良い」
「デュ、|絶世の剣《デュランダル》……」

 それはアストルフォの友、ローランの剣。並ぶ物の無い切れ味を持つとされる稀代の名剣。
 嘗て、アストルフォはローランの為に月へ向かった事がある。彼が恋に破れ、狂乱した時には己を着飾り慰めた事もある。そんな大切な友の剣が己を串刺しにせんと狙いを定めている。

「ああ、やっぱり美しい。でも、駄目だね。君には相応しくないよ、アーチャー」
「……なんだと?」
「その剣は偉大なる英雄にこそ相応しい剣だ。君にはその剣を持つ資格なんて無いよ」

 絶体絶命の状況にありながら、アストルフォはきっぱりと言い放った。

「――――死ね」
「……ごめんね、フラット」

 縛り付けられたライダーの胸に吸い込まれるように剣が飛来する。
 瞼を閉ざし、己のマスターを思うライダーの耳に鋼の音が木霊した。
 
「何の真似だ?」

 瞼を開いたライダーが見たのはデュランダルを弾くルーラーの姿だった。
 
「道化故、過去の無礼は不問にしたが、あまり調子に乗るようならば我も考えを改めるぞ?」
「私は道化ではありません。あなたの暴挙を止める。その為に私は来たのです」
「なるほど、あくまで己を裁定者などと称するつもりか……」
「つもりも何も……ッ!!」
「ならば、問おう――――、貴様は何故我の行為を狼藉だ、暴挙だと喚くのだ?」
「地上で平穏を享受する無垢な民を犠牲にしようとするからです!!」
「……ッハ。だから、貴様は道化だと言うのだ。裁定者などと名乗っておきながら、貴様は偏狭な目でしか世を見ておらん」
「偏狭……?」

 アーチャーは言った。

「貴様は何故、地上の民を案ずるのだ?」
「彼らは聖杯戦争の事を知りません。何も知らず、ただ平穏に過ごしていただけの彼らが犠牲になっていい通りなど無い!!」
「それがまずおかしいのだ。戦場において、無知を晒す者が死ぬは必定よ。そんな者達を理由に参加者の一方に肩入れし、一方を妨害するとは、裁定者にあるまじき行為ではないか?」
「それは詭弁です……」
「詭弁なものか。我の宝具の発動を止めるという事はそういう事だろう?」
「違います!! 私はただ、民に被害が及ぶ行為を――――」
「民に被害が及ぶ行為!! ならば、何故貴様はこの戦いを維持しようとしているのだ?」
「……え?」

 アーチャーの質問の意味をルーラーは直ぐに理解する事が出来なかった。

「貴様が真に民の平穏を護りたいと思うなら、さっさとその令呪で全てのサーヴァントに自害を命じ、最期に己の存在を抹消すればいい。それをしない時点で貴様の言動と行動には矛盾があるのだ。それで裁定者を名乗るなど、呆れるを通り越して笑えてくるぞ」

 ルーラーは彼の言葉に何も返せなかった。
 その通りだからだ。平穏な生活を営む民を真に思うなら、さっさと聖杯戦争を終わらせれば良い。それを可能とする手段がある以上、考える必要すら無い選択肢。
 
「所詮、貴様は神の傀儡。ただの人間の小娘に過ぎん。そんな卑小の身で我の行動を諫めるだと? 我に並ぶだと? 身の程を弁えよ、雑種!!」
「わ、私は……ッ」
「人が人を裁くは罪よ。どう押し殺そうと、そこには感情が混じり込む故な。だからこそ、裁定者は超越者で無ければならん。人であっても、神であっても、裁定者は務まらん。まして、神の傀儡などに何を裁けると言うのだ?」

 答えられない。今現在も、ルーラーは聖杯戦争の即時終了という選択肢を選べずに居る。
 それは何も、隣で縛られているライダーを慮ったからではない。彼女のスキルの一つ、啓示によるもの。
 
――――その選択肢は間違っている。

 その啓示の意図は分からない。けれど、彼女はその啓示に背く事が出来なかった。
 神の傀儡。彼の言葉が耳の中で反響している。
 虚空から鎖が伸び、ルーラーの体を捕縛する。身動きの取れない彼女達にアーチャーは禍々しい形状の剣を向けた。

「――――目障りだ、消えろ」

 その直後だった。アーチャーの意識がルーラーとライダーから外れた。
 超越者たる彼が全ての意識を傾けねばならぬと判断した存在が彼らの眼下に現れたのだ。
 
――――墜ちろ。

 声など届きようも無い距離。にも関わらず、アーチャーはその声を聞いた。 
 そして、地上より赤雷は放たれた。

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