第二十九話「聖杯の真実」

 七十年前の話――――。
 聖杯戦争史上、最も規模が大きく、最も被害の多かった第三次聖杯戦争の話だ。当時、参加したマスター達は一人残らず怪物と称される程の実力者が揃っていた。
 ナチス・ドイツや大日本帝国陸軍までが参戦し、混迷を極めたこの戦いに勝者は居なかった。ナチス・ドイツが送り込んで来た二人の魔術師が冬木の聖杯戦争における基盤、大聖杯の強奪を目論んだ事で本来の聖杯戦争の枠組みから外れた闘争は際限無く激化の一途を辿った。一度は起動し掛けた聖杯だったが、勝者に触れられぬまま破壊され、戦争は幕を閉じた。
 ナチスが送り込んだ二人の魔術師は死亡。外来からの参加者であったエーデルフェルト家の双子の姉妹も失踪し、大日本帝国陸軍の将校も重傷を負い撤退。御三家も遠坂を除き、参加したマスターは死亡している。一般市民に対しても甚大な被害を及ぼし、何の益も生み出さなかったこの戦いはされど、聖杯戦争自体に大きな歪みを齎した。
 当時、アインツベルンの当主、ユーブスタクハイト・フォン・アインツベルンは必勝を期す為の策を二つまで絞り込んでいた。一つ目は大聖杯に元々備わっているシステムを悪用し、抑止力の器にして、公平無比かつ最強の力を誇る|裁定者《ルーラー》のサーヴァントを召喚する事。もう一つは大聖杯のシステムを改変し、|復讐者《アヴェンジャー》という特殊クラスを召喚する事。
 彼が選んだのは後者だった。力を取るか、智を取るか。悩んだ末に彼が出した結論は力であった。アヴェンジャーとして召喚する英霊の名は|この世全ての悪《アンリ・マユ》。世界六十億の呪詛を背負いし反英雄である。殺戮に特化した悪魔の王。
 彼は焦っていたのである。第二次聖杯戦争の敗北が彼に選ばせてしまったのだ……。

第二十九話「聖杯の真実」

 長らく人が住んでいなかったらしく、屋敷の中は酷く黴臭い。前を歩くセイバーが鬱陶しそうに蜘蛛の巣を払い除けている。切嗣が待っていたのは屋敷の中央に位置する広間だった。
 広間には切嗣の他にもランサーのマスターであるバゼットの姿があった。二人共、真剣な面持ちで床に広げられた大きな地図を見ている。イリヤがアイリスフィールに手を引かれて中に入ると、切嗣はハッとした表情を浮かべ、急に立ち上がると、真っ直ぐに彼女の下に向かった。
 ついさっき、セイバーに叱られたばかりのイリヤは一瞬怒られると思って身を竦ませた。

「イリヤ……」
 
 予想に反して、切嗣が取った行動は抱擁だった。彼は力強くイリヤを抱き締めた。
 イリヤは驚いて目を丸くした。けれど、温かい安心感に包まれ、目を細めた。この戦いに参加するより以前はいつも母のママの尻に敷かれていて、冴えない駄目親父という印象が強かったのだが、最近の父はちょっとかっこいい。思わず微睡みそうになりながらイリヤは思った。
 
「無事で良かった……。本当に……」
 
 搾り出すような声。彼の体は僅かに震えている。そんな彼の姿を見て、バゼットは熟考した。
 魔術師殺し・衛宮切嗣。魔術師の天敵として悪名を馳せた異端の魔術使い。直接対峙した事はこれまで無かったが、噂を聞く限りでは冷徹な殺人鬼という印象だった。
 目の前で繰り広げられるホームドラマのワンシーンのような光景にバゼットは二つの可能性を考えた。一つはブラフの可能性。敢えて、自らの弱点を晒すような真似をしたからには何らかの狙いがあるのかもしれない。もう一つは純粋に見た通りである可能性。少なからず、イリヤという少女の在り方を観察した限り、彼女が魔術師として異端とも言える精神性を持っている事が判明している。
 まるで、一般家庭で育って来たかのような正常な倫理観。彼女が魔術師としてではなく、一般人として育てられてきたのなら、この光景にも説明がつく。つまり、単純に親が子を心配し、無事を喜んでいる光景。
 けれど、違和感がある。まず、イリヤが一般人として育てられて来たという仮定に幾つかの矛盾が存在する。一つは夢幻召喚という大魔術の使用。あれほど高度な魔術理論を要する大魔術を行使したからにはそれ相応の教育が為された筈。それに、彼女は確かに正常な倫理観を併せ持っているが、それにしては戦いに対しての|恐れ《・・》が無さ過ぎる。
 戦闘が魔術師だけのものなどと言うつもりは無い。むしろ、人類史に刻まれる闘争の大部分は魔術など関係無い一般人が引き起こしたものだ。何の訓練も積んでいない一般人が猟奇殺人に手を染める例も数限り無くある。生まれ持っての殺人鬼というのは存在するのだ。|精神病質者《サイコパス》と呼ばれる人種である。
 だが、|彼女《イリヤ》がサイコパスかと言えば、それも違う気がする。サイコパスは冷酷にして、無慈悲。エゴイズムの塊であり、良心や思い遣りといった感情が初めから欠如している人間を指す。もし、彼女がサイコパスであるなら、クロエの死にあれほど動揺したりはしないだろう。

――――しかし……。

 演技だった可能性もある。サイコパスの異常性を示す特徴として、ドイツの精神科医、エミール・クレペリンは『空想虚言者』という一つの類型を提唱している。彼の言によれば、空想虚言者には三つの特徴があるとの事。一つは想像力の豊かさである。時にサイコパスは空想を現実と思い込む場合があるという。二つ目は当意即妙の対応の巧みさ。弁舌が良く回り、周囲からの評価を高めようとする傾向が見られるという。三つ目は人心掌握の手際の良さ。周囲の人々の心を操り、自己の評価を高め、人気を集める事に長けているという。
 彼女がサイコパスであると仮定した場合、幾つか合点のいく事がある。フラットを初めとした彼女の周囲の人間の彼女に対する認識についても然る事ながら、彼女がランサーに挑んで来た時の事を思い出すと彼女の異常さがよく分かる。
 ランサーを迷い無く殺そうとした彼女の姿を思い出す。一般人として育てられたのであれば、殺す寸前に少なからず躊躇がある筈。相手がサーヴァントであろうと、一般人の倫理観に従えば、人型である以上、そこには踏み止まるか、踏み越えるかの一線が存在する筈。にも関わらず、彼女は躊躇い無く殺そうとした。
 この仮定はあくまで、衛宮切嗣の行動が此方に対するブラフでは無いのであればの話だ。もしかしたら、家族愛を見せ付ける行為に何らかの狙いが隠されているのかもしれないが、その場合もイリヤがある程度演技している事になる。どちらにせよ、事によると最も警戒すべき相手は彼女なのかもしれない。
 バゼットは父に抱き寄せられ、心配させてしまった事を詫びる少女に疑いの目を向けた。
 しばらくして、親子の抱擁の時間が終わると、一同は広間の中央に敷かれた大きな地図を取り囲むように座った。切嗣の隣にアイリスフィール、イリヤ、セイバー、ランサー、バゼット、ルーラー、フラット、ライダーの順に並んでいる。

「待たせてすまなかった」

 そう口火を切る切嗣にルーラーがやんわりと微笑んだ。

「親子の再会に無粋な事は申しません。それより、直ぐに本題に入りましょう」
「分かった。単刀直入に言おう。ランサーのマスター、バゼット・フラガ・マクレミッツ。そして、ライダーのマスター、フラット・エスカルドス。君達と一時的な同盟を結びたい」
「一時的というと?」

 バゼットが問い掛けた。

「期間については後で言う。その前に、幾つか話しておくべき事がある。ルーラーにも聞いて貰いたい。聞いた上で可能ならば、君とも同盟を組みたいと思っている」
 
 切嗣の言葉にルーラーは凛とした声で応えた。

「先に申し上げておきますが、私はあくまで聖杯戦争の裁定者です。一方の参加者に過度な肩入れをする事は出来ません」
「分かっている。これから話す内容を聞いてから一考してくれるだけでも構わない。それと、この同盟は何も敵対勢力の打倒を目的としたモノでは無い」
「それは一体どういう意味ですか?」
「まずは僕の話す内容を聞いてくれ。聞けば、自ずと同盟の意味も分かる筈だ。まず、以前、彼が主催した宴の席で少し語った事についてだ」

 切嗣はフラットに視線を投げ掛けながら言った。

「聖杯の穢れについて、ですね?」

 ルーラーはつい先日の事だというのに、何だか遠い昔の事に思える宴の日の事を思い出しながら言った。『聖杯の穢れ』。どういう意図があっての発言なのかずっと気になり続けていた。その謎が漸く解ける。

「その事を説明するには七十年前に開催された第三次聖杯戦争に遡る必要がある」
「第三次聖杯戦争?」

 首を傾げたのは彼の娘のイリヤだった。

「冬木における聖杯戦争史上、最も規模が大きく、被害の大きかった戦いと聞いています」
 
 バゼットの言葉に頷くと、切嗣は手短に第三次聖杯戦争に関する概要を口にした。
 聖杯戦争の参加者やその来歴などは簡単に済ませ、本題に入る為にアインツベルンの策略について語った。

「|この世の全ての悪《アンリ・マユ》を呼び出すなど……」

 険しい表情を浮かべるルーラーに切嗣は肩を竦めた。

「まあ、召喚されたのは|この世全ての悪《アンリ・マユ》という邪神そのものでは無く、アンリ・マユの名を背負わされた無銘の反英雄だった。宝具も無く、唯人にも等しい脆弱なサーヴァントだったそうだ。アヴェンジャーは初戦でマスター共々戦死を遂げ、大聖杯に取り込まれた。けれど、ここでアハト翁も想定していなかった|異常事態《イレギュラー》が発生した」
「イレギュラー?」

 フラットが首を捻る。衛宮切嗣は小さく頷くと、話の続きを口にした。

「アヴェンジャーは確かに邪神そのものではなかった。けれど、その性質は限りなく真作に近しいものだった」

 切嗣の言葉にハッと息を呑み、ルーラーは恐ろしげに呟いた。

「つまり、聖杯の穢れとは……」
「本来、大聖杯は冬の聖女と呼ばれたアインツベルンの七代目当主、ユスティーツァ・リズライヒ・フォン・アインツベルンがその身を贄として円蔵山の地下空洞に敷設した巨大な魔術回路だ。そこに善意や悪意は存在しなかった。ただ、聖杯を降臨させる儀式の舞台装置でしかなかったんだ。だが、そこにアヴェンジャーという悪意が入り込み、大聖杯を染め上げてしまった」
「えっと、つまり……、どういう事?」

 それまで話を黙って聞いていたライダーが困惑した表情で傍らに座る主の問いを投げ掛けた。
 けれど、問われた当人であるフラットにも話の流れがサッパリだった。助けを求めるようにフラットは切嗣を見た。

「簡単な例え話をしよう。例えば、世界一の野球選手になりたい。そう、今の聖杯に望んだとしたらどうなると思う?」
「えっと、凄い身体能力とかバッティングセンスとかそういうのが……」

 フラットが考えながら言うと、切嗣は首を横に振った。

「正常な聖杯ならば、あるいはそうやって叶えてくれたかもしれない。だが、今の聖杯はアンリ・マユによって汚染されてしまっている。あらゆる願望を悪意をもってのみ叶えるんだ」
「えっと、どういう意味?」

 ライダーが眉を八の字にしながら尋ねると、切嗣は言った。

「今の聖杯がその願いを叶えた場合、この世から全ての野球選手が死に絶える」
「……へ?」

 フラットの戸惑いに満ちた声に反し、バゼットとルーラーは険しい表情を浮かべた。

「証拠はあるのですか?」
「実際に円蔵山の地下洞窟内に行ってみればいい。それで全て明らかになる」
「まさか……、そんな事態になっていたなんて……」

 ますます表情が険しくなるバゼットとルーラーにランサーは乾いた笑い声を上げた。

「で、何で今更そんな事をぶちまける気になったんだ?」

 ランサーの問い掛けに一同の視線が集まった。

「元々、ルーラーには話すつもりだった。加えて、厄介な存在が一人居るんだ」
「厄介な存在?」
「アサシンだ」

 アサシンという言葉にイリヤが僅かに身を震わせた。
 怒りなのか、哀しみなのか、演技なのか分からない。切嗣は怒りか哀しみと取ったのだろう。気遣わしげに娘を見つめた。
 娘の方は気丈に振る舞い「大丈夫」と応えた。

「アサシンはクロエを取り込んだ。観察した限り、クロエの令呪を奴は行使する事が出来た。他の能力も行使出来る可能性がある。それに加えて、クロエの知識を奴が手に入れたとすれば、我々の行動を阻害してくる可能性もある」
「我々の行動……。つまり、この同盟の目的ですね」
「ああ、そうだ。この場で提案する同盟は――――、大聖杯の破壊。それが終了するまでのものだ」

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