第十六話 雨生龍之介がバーサーカーを召喚した為に企む人々

 戦いの幕が開いた。

「貴様の首級を頂きに来たぞ、ライダー」

 その言葉と同時にランサーはライダーに向かって赤い槍を突き出した。その速さたるや、ウェイバーの認識の埒外であり、ただランサーが移動した事により発生した風圧にウェイバーの体は弾き飛ばされた。地面を転がる間、ウェイバーは自分に何が起きたのかを理解する事が出来なかった。出来た事と言えば、咄嗟に強化の呪文を己に掛け、ダメージを減らす事のみ。
 漸く体が静止したのはランサーとライダーの戦場から三十メートル程も離れた場所だった。ランサーとライダーは既に激しい攻防を繰り広げている。スパタというキュプリオト族の王から献上されたという、本来は馬上にて振るう為の剣をライダーは巧みに操り、ランサーの双槍が織り成す嵐の如き槍撃を防ぎ切っている。

「余の首級を頂くとは中々吼えるではないか!」

 透視能力を通して看破したランサーのステータスはランサーのクラスに相応しい高い敏捷性と筋力が備わっていた。対抗するライダーも筋力では互角だが、敏捷性は圧倒的に劣っている。だと言うのに、どういうわけかライダーはランサーと互角に渡り合っている。
 その異常な光景に目を剥くのはウェイバーだけではなかった。

『何をしている、ランサー! よもや、キャスターばかりではなく、ライダーにまで遅れを取るつもりか!?』

 ランサーはラインを通じて叱咤するマスターの声にランサーは唇の端を吊り上げた。
 瞬間、それまで拮抗していた剣戟が止まった。

「様子見は仕舞いという訳か?」
「ああ、次は取りに行かせてもらう」
「ほう、ならば今の内に聞いておくとするか」

 ライダーはまるで同胞に向けるかのような笑みをランサーに向け、ランサーは怪訝な顔付きでライダーを見た。

「あの時はセイバーの奴めが短気を起こした故、聞けなんだったのだが――――」

 あの時、それがいつの事を言っているのかは誰にとっても明白であった。ランサーとライダーが最初に遭遇したあの夜。ライダーがセイバーとランサーの戦いに乱入した時の事だ。
 あの時、ライダーが何を考えてあのような真似をしたのか気になり続けていたウェイバーは聞き耳を立てた。ライダーはスパタを掲げた。

「我が名は征服王イスカンダル。此度の聖杯戦争においてはライダーのクラスを得て現界した」

 呆気に取られた。ウェイバーは口をあんぐりと開けたまま放心し、ランサーすらも言葉を無くし立ち竦んでいる。問いたい事があると言いながら、聖杯戦争に於いて攻略の要となる真名を堂々と名乗るなの正気の沙汰では無い。ライダーは真っ直ぐにランサーを見つめて豪快な笑みと共に言った。

「本来なれば、矛を交える前に問うておくべき事であったが、まあ、仕方あるまい。ランサーよ、うぬが聖杯に何を期するのかは知らぬ。だが、今一度考えてみよ。その願望は天地を喰らう大望に比して尚、まだ重いものであるや否やと」

 何を言いたいのだ、とランサーは眦を決した。

「貴様、何が言いたい?」
「うむ、噛み砕いて言うとだな――――」

 威風堂々とライダーは空いた手を大きく広げた。

「ひとつ、我が軍門に降り、聖杯を余に譲る気はないか? さすれば、余は貴様を朋友として遇し、世界に覇を唱え、征服する快悦を共に分ち合う所存である!!」

 自信たっぷりに言い切るライダーにウェイバーは漸く理解した。
 こいつは正真正銘の馬鹿であると。

「ふっざ――――」

 ウェイバーが怒鳴ろうと声を上げようとすると、それを遮るように笑い声が響いた。その声の主に目を向けると、ランサーは大きく口を開き、哂っていた。
 その形相とは裏腹に――――。

「な、んだ……?」

 ランサーの豹変振りにウェイバーは戸惑うばかりだった。だが、ランサーが不意に哂いを止め、ライダーにその視線を向けた瞬間、ウェイバーは直接睨まれたわけでは無いというのに危うく失神しかけた。
 あまりにも強烈な殺意にライダーすらも咄嗟に構えを取った。

「愉快だぞ、ライダー。そうか、貴様はそんな戯言を言う為に俺とセイバーとの決闘に乱入したわけか」

 言うと、爆音の如き音が響き、同時に金属がぶつかり合う甲高い音が鳴り響いた。だが、長くは続かない。
 数合防いだライダーだが、ランサーの狂気染みた槍撃に圧倒され始めた。

「ライダーッ!!」

 徐々に後退させられるライダーに向かって思わずウェイバーが叫ぶがライダーは答える余裕すら無い。
 それはまさに激流であった。全てを押し潰し、全てを喰らう。人の身で抗う事の出来ぬ絶対的な力の奔流。
 されど――――、

「さすがはランサーのクラスを名乗るだけの事は……あるのう」

 ライダーは軽口を叩き、後退する足を止めた。

「馬鹿な――――ッ!?」

 ランサーは己が槍撃を打ち返すライダーの剣捌きに目を見開いた。セイバーのクラスならばいざ知らず、敵はライダーのサーヴァントだ。拮抗する戦況にランサーは知らず笑みを浮かべた。
 怒りが収まったわけではない。騎士の決闘を穢し、己に主を裏切れと唆した目の前の匹夫をどうして許せようか。しかし、その強さには素直に敬意を払わずには居られない。
 ステータスで劣りながら己の槍撃と拮抗する剣捌きをする目の前の男は紛れも無く人の臨界を越えし者――――即ち、英雄である。怒りと共に芽生えた敬意が更にランサーの槍撃の鋭さを増していく。ただの激流であった槍撃の一つ一つがライダーの剣技を破らんとする技を伴い、ライダーは獰猛な笑みを浮かべ言った。

「やりおるわ。貴様程の槍兵は我が配下にもそう多くは無かったぞ。征服王たる余が貴様に類稀なる槍使いだ、と賞賛を賜ろうではないか!!」
「ハッ、礼儀を知らぬ男のようだが、その剣捌きをもっての賛辞は我が誉れとして素直に頂戴しよう。ついでにその首級も置いて逝け!!」

 一息の内に距離を取り合い、互いを賞賛し合う二人にウェイバーは感動すらしていた。互いに互いを認め合う歴史に名を残した英雄達。
 時空の壁を越え会合を果たした二人の向かい合う姿はまるで御伽噺のワンシーンのようで心が沸き立った。

「まったく、ライダー如きに遅れを取りおって。まあ、アレは私が数ある聖遺物の中から特に選別した一級の英霊であるからして、それも已む無き事か。まったくもって不愉快だよ。ウェイバー・ベルベット君」

 興奮のあまり、思わず射精してしまいそうになるウェイバーに冷や水を浴びせるが如く、氷のように冷たい声が響き渡った。

「本来ならばアレを操るのは私である筈だったというのに、君如きがアレの主である事がね」

 勃起した陰茎は瞬く間に力を失った。ウェイバーは息も出来ずにそろそろと後退した。ウェイバーの目の前に、何時の間に現れたのか、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトが立っていた。

「ロ、ロード・エルメロイ……」
「怯えているのかね?」
「お、怯えてなんか――――ッ」

 口ではそういうものの、ウェイバーは震えていた。眼の前に立つ男は各国の魔術師達が集う魔術協会の総本山・時計塔にその名を轟かせる天才。
 魔術師の実力は血筋だけでは無い。そう論文に記したウェイバーであったが、目の前の男と自身を比べると、どうしても己の力不足を痛感せざる得ない。
 魔術師としての知識、経験、血の歴史、魔力量、魔術刻印の数。ウェイバーの魔術師の実力を量るためのそれら全てが圧倒的なまでにケイネスに劣っている。
 知恵や閃きなどでは決して覆しようの無い魔術師としての圧倒的な格の違いが眼前に立ちはだかっている。

――――僕は、間違っていたのか?

 そんな思いがウェイバーの胸に過ぎった時、離れた場所でランサーと戦うライダーの吼えるような声が響いた。

「坊主!! 無事か!?」
「だ、大丈夫だ!!」

 咄嗟にそう怒鳴り返していた。何か考えがあるわけではない。ただ、ライダーの声を聞いた瞬間、逃げてはいけないと思った。どこまでも豪快で、どこまでも馬鹿な巨漢の男。それがライダーに対するウェイバーの評価だった。だが、ランサーとの戦いを見て、感じた事がある。ステータスで劣りながら、己が真髄たる宝具も使わずに強敵に挑むその背中を見て、その在り方を見て思った。

――――ああ、僕もこうありたい。

 ウェイバーは思い出していた。どうして、この聖杯戦争に参加しようと思ったのか、その始まりを思い出していた。
 皆を見返したい。単純で、ちっぽけな願い。しかし、それがウェイバーの戦う理由だった筈だ。
 怯えたり、疑心暗鬼に駆られたりする為に来たわけではない。逃げる為にこの地に来た訳では無い。
 ライダーのようになりたい。例え、圧倒的に格上の相手であろうと逃げずに立ち向かう男でありたい。

「これは僕の決闘だ!! お前はさっさとランサーを倒しちまえ!!」

 叫んだ瞬間に後悔した。
 僕も馬鹿だ、と。それでも、膝を折らずに居られた自分が誇らしかった。ウェイバーの叫びに呆気に取られた表情を浮かべるケイネスが妙に面白かった。

「決闘?」

 言葉の意味が理解出来ないのか、怪訝な表情を浮かべるケイネスにウェイバーは言った。

「ああ、決闘だ!!」

 ウェイバーの宣戦布告の言葉にケイネスは漸く言葉の意味を理解した。
 理解したと同時に哀れみの篭った目をウェイバーに向け、片手で顔を覆い、大きな溜息を零した。

「やれやれ、勘違いをしているらしいな、ウェイバー君」
「ぼ、僕は勘違いなんかしてない!!」

 ケイネスのあからさまな侮蔑の視線にウェイバーは脊髄反射的に叫んだ。
 ケイネスは冷たい眼差しをウェイバーに向け、小脇に抱えている陶磁器製の大瓶を地面に落とした。

「勘違いしているとも」

 大瓶は地面に到達すると共に大地を軽く揺らした。
 目を向ければ、大瓶は地面にめり込んでいる。重量軽減の術が掛けられていたらしい。

「決闘? 違うな。Fervor mei sanguis」

 ケイネスが囁くような声でそう呟くと、地面にめり込んだ大瓶の口からドロリと鏡の様な光沢を放つ液体が零れだした。
 まるで自律して生きているかのようにプルプルと震えながらケイネスの隣で球状を保っている。

「これは――――」

 口元に笑みを称え、ケイネスは言った。

「――――誅罰だよ、ウェイバー君」

 ロード・エルメロイが誇る最高クラスの魔術礼装・月霊髄液――――ヴォールメン・ハイドラグラムが起動した。

 距離にして約一キロメートル。それがライダーとランサーの戦う戦場とアーチャーの立つ建造途中の新都センタービルとの距離だ。
 アーチャーは双眼鏡や望遠鏡といった道具を使わずに己が肉眼でもってライダーとランサーの戦いを見物していた。

「さて、どう動く?」

 アーチャーは誰も居ない虚空に視線を向けながら問い掛けた。
 しばらく待つと、気まずそうな声がアーチャーが視線を向けた方とは反対側から響いた。

「すまぬ……こっちだ」
「……相変わらず、見事な気配遮断だ」

 アーチャーの他には誰も居ないと思われた建造中のビルの屋上にいつの間に現れたのか、白い仮面が余闇に浮かんでいた。

「アサシンのクラススキルは伊達ではない。それより、しばらくは様子を見ろとの御指示だ」

 アサシンはラインを通じて主から与えられた指示をアーチャーに伝えた。

「まあ、そうだろうな」

 アーチャーは予想通りだと笑った。

「凜の修行がある程度進むまでは可能な限り戦闘行動を回避するべきだからな」
「ケイネス・エルメロイが倒れるならば良し。だが、ウェイバー・ベルベットには倒れてもらっては困る」

 アサシンの言葉にアーチャーは頷き返した。

「時臣の集めた情報からして、あのケイネスという男は間違いなくこの聖杯戦争における最強のマスターだ。仕えているのも三騎士であるランサー」
「引き換えにウェイバー・ベルベットは血の浅い未熟な魔術師だ。サーヴァントはそれなりの英雄のようだが、御するのは容易い筈」
「どうやら、ケイネスとウェイバーは遺恨関係にあるようだしな。序盤で清算させるには惜しい」

 アーチャーの言葉にアサシンは苦笑を漏らした。

「主も同じ考えの様だ。ああして、ランサー陣営とライダー陣営が派手に争ってくれれば、他のマスター達の目もおのずと奴等に向く」
「ならば一層、ここで決着がつくのはいただけないな」

 口の端を吊り上げて言うアーチャーにアサシンは愉しげに笑い、己は主の用意した望遠鏡を収納ケースから取り出し、覗きこんだ。
 近代になり、嘗て己が生きていた時代よりも遥かに進化したソレをアサシンは聖杯から与えられた知識によって巧みに操り、戦場を見渡した。

「始まったな」
「ああ、しかし……これは些か、一方的過ぎるな」

 遠く離れた高台、そこで行われているのは魔術師同士の決闘などという上等なものでは無かった。あまりにも一方的過ぎるそれは、ただの強者の戯れだった。
 ウェイバーは只管に逃げ続ける事しか出来ず、ケイネスはそんな無様な醜態を晒すウェイバーを弄ぶが如く銀色に輝く魔術礼装――――ミスティックコードを操る。

「これは……拙いな」

 未熟とはいえ、ウェイバー・ベルベットは彷徨海、アトラス院に並ぶ魔術協会の三大部門の一角たる時計塔に在籍している筈だ。
 魔術協会の総本山と呼ばれている時計塔であるが、内包している魑魅魍魎もピンからキリまでという事だろうか、アサシンは主にラインを通じて意志の確認を行った。

『このままでは決着がついてしまいます』
『――――致し方ないか……、少し待て』

 主が師に伺いを立てている間も戦況は圧倒的なまでにウェイバーが不利だった。そも実力が違い過ぎる。どこへ逃げようとも察知され、あらゆる防御がケイネスの魔術礼装の前では無力となり、攻撃が届く事も無い。
 ウェイバーが生きているは単にケイネスが遊んでいるからに過ぎない。ケイネスが遊びに飽きれば、その時がウェイバーの最後となる。

『――――了解致しました』

 主から命令が届き、アサシンがアーチャーに声を掛けようとした、その時だった。
 アーチャーは目を僅かに見開き、舌を打った。

「どうした?」
「一般人だ」

 アーチャーの言葉に望遠鏡を覗きこむと、ウェイバーは何者かと共に高台から雑木林へと駆け込んでいく所だった。

第十五話 雨生龍之介がバーサーカーを召喚した為に壊れゆく人

――――どうすればいい?

 何十回、何百回と繰り返した自問。だが、一向に答えが見えない。キャスターならば愛する妻と娘を救う事が出来る。妻や娘をそんな表現はしたくないが、彼女達は正確には人間では無い。ホムンクルスと呼ばれる人造生命体だ。だからこそ、キャスターのクラススキルたる道具作成スキルが適用出来る。
 キャスター――――、妖妃モルガンの逸話の中で最も際立つ逸話は円卓の崩壊へと繋がる姦計の数々だが、それ以外にも極めて優秀な魔具の作り手であるという逸話がある。彼女がラモラックに与えた夫に不実な女が飲もうとすれば酒が杯から零れ落ちる『愛の杯』を初め、身に付けた者を灰にする『燃える外套』などが有名だろう。擬似的な宝具の作製すら可能なキャスターならばアイリスフィールとイリヤスフィールの命を永らえさせる事も難しい事では無いかもしれない。
 だが、どうしても信じる事が出来ない。彼女がキャスターである事、彼女が国を滅ぼした悪女である事、そんな事では無い。キャスター自身が何かをしようと言うのなら、対策は簡単だ。令呪を使えばいい。令呪を使って彼女達に余計な真似をするなと命じれば、それで済む話だ。
 切嗣を悩ませているのは己の心だった。もし、彼女達が救われたとしたら、己はこの先戦えるのだろうか?今迄は聖杯戦争が始まればアイリスフィールの死が避けられないが故に目的の為に立ち止まる事無く戦い続ける事が出来ただろう。だが、アイリスフィールが生き永らえる事が出来るなら、本当に己は立ち止まる事も無く戦い続ける事が出来るのだろうか?

「僕は何を考えている……」

 切嗣は壁を叩き、苦しげに顔を歪ませた。
 今直ぐ令呪を使い、キャスターに首輪を付け、妻と娘の延命をさせるべきだ。そうするべきなのに、身勝手な妄想でそうする事が出来ずに居る。
 自分が戦えなくなるかもしれないという恐怖に怯え、妻と娘の救いから目を逸らす。なんと罪深く、そして愚かな男だろうか、切嗣は自分自身の醜悪さに猛烈な怒りを感じた。何が正義の味方か、何が世界の救済を願うか、妻と娘の救済から目を逸らす己の何処に正義があるというのか、切嗣は頭を壁に打ちつけた。
 何度も何度も壁に頭を打ちつけ、切嗣の声を聞きつけて駆け寄って来た妻が止めるまで頭から血が出るのも構わずに切嗣は頭を打ちつけ続けた。

「何をしているの!?」

 アイリスフィールが錯乱したように暴れる切嗣の体を必死に抑えようとするが、バーサーカーの魂が聖杯に注がれた事で人としての機能が欠損し始めているアイリスフィールの力は赤子のように非力だった。だが、切嗣はアイリスフィールの肌を感じた途端に暴れるのを止め、涙を流し始めた。

「切嗣……?」

 心配そうに声を掛ける妻を切嗣は抱き締めた。
 細く、軽い妻の体に切嗣は嗚咽を漏らした。

「逃げよう」

 震えた声で切嗣は言った。
 アイリが「え?」と首を傾げると、切嗣は再び「逃げよう」と言った。

「君は死なない。イリヤも死なない。キャスターに令呪を使えば、キャスターが二人におかしな真似を出来ないようにする事が出来る。後の一つでキャスターに自害を命じて、三人で逃げよう。もしも、君やイリヤを狙う者が居たら誰だろうと殺す。それが正義であろうと悪であろうと殺す。誰にも君達を傷つけさせたりしない。だから――――」

 アイリスフィールを抱き締めたまま、切嗣は叫ぶように言った。
 血を吐く様に、今迄の己を否定するかの様に切嗣は顔を歪めた。
 アイリスフィールは痛まそうな表情を浮かべ、諭すように口を開いた。

「切嗣、世界を救うというあなたの夢は――」
「生きられるんだ!!」

 アイリの言葉を遮るように切嗣は叫んだ。

「生きられるんだよ!! 君も、イリヤも!!」

 アイリの両肩を掴み、切嗣は怒鳴るように言った。

「生きられるんだ。君も、イリヤも……。生きられるんだ」

 まるで駄々を捏ねる子供のように切嗣は泣きじゃくった。

「逃げよう。夢を追うのはもうお終いだ。僕は、僕の全てを僕らのためだけに費やす。君とイリヤを護る為だけに、この命の全てを――――」

 ソッとアイリスフィールは切嗣の顔を両手で包み込んだ。
 ハッとした表情を浮かべ、切嗣はアイリスフィールを見た。アイリスフィールは夫の揺れる瞳を見て、彼がどれほど追い詰められているのかを今更になって気が付いた。九年前、初めて出会った時の彼とは違うのだと気が付いた。冷徹無比な殺人機械であった衛宮切嗣という魔術師殺しは、今やどうしようも無く危うく脆弱になってしまった。
 変えてしまったのは自分だ。妻と娘という衛宮切嗣――――正義の味方の人生に於いて、紛れ込む余地の無い筈だった不純物が彼を変えてしまったのだ。
 喪う物が無いからこそ、喪う者が居ないからこそ、痛みを感じる心も無く、彼は最強で居られた。この世界を救済しようなどという一個人が願うにはあまりにも大きく、あまりにも遠い理想を追い求め、その為にならば数多の犠牲を容認出来た苛烈な戦士はもう居ない。

「逃げられるの?」
「逃げられる。今ならば、いや、今だからこそ!」

 即答する切嗣の瞳は不安や恐怖に彩られていた。
 己が信じる言葉を口にしたわけではないのだと、アイリスフィールは直ぐに看破した。

「嘘ね」

 だからこそ、アイリスフィールは指摘した。

「それは嘘よ。あなたは逃げられないわ。何よりもあなた自身から逃げられない。聖杯を捨て、世界を救えなかった己の事をあなたは永遠に責め続ける。そして、最後にはあなたはあなた自身の手であなた自身を殺してしまう。最初の最後の断罪者として――」
「嫌なんだ……」

 零すように切嗣は言った。

「君を失うのが嫌なんだ。イリヤを失うのが嫌なんだ。僕は君達を失う事が怖くて仕方がないんだ……」

 震える切嗣の体をアイリスフィールはソッと抱き締めた。
 あまりにもか弱い力で、だけどとても温かく。

「私は死なないわ。イリヤも死なない。あなたは一人じゃないの。私が居る。キャスターが居る。だから、一人で全てを背負い込もうなんてしないで」

 アイリスフィールは切嗣の唇に己の唇を重ねた。軽く、触れるようなキス。
 けれど、唇を通して感じるアイリスフィールの愛情に切嗣はアイリスフィールの瞳を見つめた。

「私を頼って。私はあなたのお嫁さんなんだから」

 聖母のような笑みを浮かべて言うアイリスフィールに切嗣はゆっくりと頷いた。

「僕は……弱くなった」
「その弱さは強さだぞ、切嗣よ」

 その声に切嗣はハッとなりアイリスフィールを背中に庇い声の主を睨みつけた。

「無用心が過ぎるぞ。ここには聞き耳を常に立てておる者が居る」

 キャスターの言葉に切嗣は目を見開き、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。

「案ずるな。アイリスフィールが入ったと同時に結界を張った。現代の魔術師では声一つ拾えぬ。だが、用心を欠かすでないぞ」

 キャスターの言葉に切嗣は己の失態を後悔し、「すまない」と短くキャスターに謝罪した。

「構わぬ。それよりも、心は決まったか?」
「ああ。だが、令呪を使わせてもらう」

 切嗣の言葉にキャスターは動揺する事も無く頷いた。

「それで構わぬさ。だが、アイリスフィールとイリヤスフィールの調整は入念に行わなければならぬ。日本へ向かう日程をずらせるか?」
「……わかった。何日必要だ?」
「二人の調整には丸二日掛かる。その後に処分用ホムンクルスの調整を行う。可能ならば二百体あまり全てを宝具化しておきたい」

 キャスターの言葉に切嗣は目を細めた。二百体の宝具化したホムンクルスの軍勢。
 とても強力な武器となるが、同時にキャスターが裏切った時、強大な壁となり立ちはだかる事になる。

「切嗣よ、お前が妾を信じられぬのは已む無き事よ。だが、勝利の為には譲歩も必要だぞ? そも、貴様はまだ三つの令呪を持っておるのだ。万一の時は一つの令呪でホムンクルスを止めさせ、もう一つの令呪を持って、妾を殺すが良い」

 それはつまり、アイリスフィールとイリヤスフィールを調整する為に一つ消費する以上、聖杯戦争において切嗣達は令呪を封じて戦わなければならなくなるという事だ。令呪使用不能の状態で戦う事はとてつもないリスクを背負う事となる。
 二百体のホムンクルスと令呪一画分。どちらがより強力な武器となるかを考え、切嗣は決断した。

「二百体のホムンクルスを宝具化する為に何日掛かる?」
「前に申した通りだが、そうさな、急げばアイリスフィールとイリヤスフィールの調整を含め四日で仕上げられよう」
「分かった。なら、僕はそれまでに可能な限りの準備を行おう。二百の人員が使えるとなれば、色々と出来る事も増える。ホムンクルスに火器類の扱いを学ばせる事は可能か?」
「可能じゃ。仕込んでおこう。ついでに神殿の柱の欠片でも手に入らぬか?」
「神殿の欠片……? 手が無いわけでは無いが……」
「ならば可能な限り手に入れよ。妾の道具作成スキルは何もホムンクルスに限った話では無い。歴史ある神殿の欠片などの材料があれば宝具クラスの武具も作ってみせよう」
「了解した。手配しよう」
「後、ホムンクルスは完成次第、様々なルートから順次日本へ送り込みたい。さすがに二百体同時に入り込むのは難しいじゃろう?」
「そちらも了解だ」
「なれば、明日、三枚で良い。日本へのチケットを用意せよ」
「三枚……?」
「ああ、既に三体のホムンクルスが完成しておる。そやつらを先兵として送り込む」
「……仕事が早いな。了解だ。僕達が使う筈だったチケットを使おう」
「うむ。さあ、ではとっとと行動に移ろうぞ」

 キャスターの言葉に頷き、切嗣は一目アイリスフィールを見ると、己の身に宿る令呪に意識を集中した。

「令呪を持って命じる――――」

 悲鳴がコダマする。また一人死んだ。これで何十人目だろう。いや、もう何百人目かもしれない。今迄、この蟲蔵がここまで賑やかになった事は無かった。己ともう一人の憐れな男以外、この蟲蔵に足を踏み入れるのは自分達を蟲に犯させる者達だけだった筈だ。
 己と同じように暗く光るネットリとした粘液に覆われる蟲達に己の中身を食い散らかされ、恐怖と絶望の悲鳴と共に命を終える。居るのは殆どが女性だけれど、中には幼い少年も居る。口や陰茎、女陰や肛門から入り込む蟲の感触に嬌声を上げながら、また一つ、命が消えるのを見つめる。

「食事だ」

 蟲を操る男が言った。その手にあるのはドロリとした真っ白な液体と生肉の塊。どちらも膨大な魔力を内包している。今迄は食事だけは人間用の物を用意されたけれど、それすらも畜生以下の物に変わった。
 濃縮された魔力を口に含む。酷い臭いだけど、この臭いには食事がこうなる前に既に慣れた。蟲に犯されていない時、代わりにあの憐れな男が蟲倉で蟲共の餌となっている間、眼の前の男のソレを何度も咥えさせられ、何度も飲まされた。それは必要な事であり、己の肉体はソレを望む。体内を食い散らかす蟲共の空腹を満たす為には男の精を体内に取り入れる事が一番だ。憎たらしい蟲に孕んだ赤子に栄養を与える母が如く魔力を与える為に同年代の子供達が決して知る事の無い知識を与えられ、経験し、心を磨耗させる。
 慣れたとは言え、大きなコップになみなみと注がれたソレを飲み干すのは僅かばかりに残る嫌悪感や不快感が込み上げてくる。けれど、飲まなければ体内で蟲が暴れて苦痛に苛まされる。口を開き、半ば無理矢理に一体何人の男から搾り出したのか分からぬ程の量の精を飲まされ、一体何人の女から引きずり出したのか分からぬ程の量の肉を食べさせられる。
 膨大な魔力が充電され、再び蟲共に犯される。苛烈さを増した拷問は人間から別のナニカに己を作り変えているように思えた。恐らくその通りなのだろう。己の処女を喰らった蟲をあの憐れな男に与えさせられた時、同時に己と彼との間に繋がりが出来た。
 そこから魔力が送られていくのを感じる。

――――魔力の供給タンク。

 それが一番今の自分に相応しい言葉だろう。休む暇も与えては貰えない。今迄己の肉体を貪り、己を殺そうとしていた蟲達が今では己を生かそうとし続けている。例え、己が死を望んでも、例え、己が壊れても、蟲が己を殺させない。だからこそ、もう彼らにとっては己が壊れても構わないのだろう。
 食事――――餌の時間が終わると、己の体を再び蟲達が蓋い尽くした。
 視界は蟲に覆われ真っ暗になり、耳に響くのは蟲の這いずり回る音ばかり。嗅覚は腐臭によって麻痺し、触覚ばかりが敏感になる。

――――与えられる快楽はもはや苦痛でしかなく、だから、私は夢を見る。
――――家族と共に過ごす穏かな毎日を夢に見る。
――――ああ、でも困ったなあ。
――――家族の顔がぼやけてしまう。
――――お姉ちゃんの声はどんな感じだったかな?

 間桐雁夜は額から汗を止め処なく流しながら目を覚ました。何か、とても恐ろしい夢を見ていた気がする。内容は思い出せないが、取り返しのつかない事が起きているような胸騒ぎがする。

「どうされました?」

 セイバーが実体化して声を掛けて来た。

「大丈夫だ」

 そう答えながら奇妙な違和感を覚えた。

「体が……蟲が落ち着いている?」

 セイバーが実体化したというのに、体内の蟲共の動きが酷く落ち着いている。
 痛みは欠片も無く、体が驚く程軽い。

「恐らく、桜殿のおかげでありましょう」
「桜ちゃんの?」

 セイバーは雁夜が寝ている間に桜が来た事を話した。
 雁夜は「そうか……」と呟くとベッドから体を起こした。

「どのくらい寝ていた?」
「二日ほど」
「二日!?」

 セイバーの言葉に雁夜は言葉を失った。

「そんなに眠っていたのか!? セイバー、今は何時だ?」
「そろそろ夕方になります」
「なら、動くぞ」

 雁夜が立ち上がろうとするのをセイバーは押し留めた。

「なりませぬ。あなたの体は――――」
「もう休息なら十二分に取った! 二日間も無駄に過ごしてしまった……。これ以上、立ち止まっている時間は無い!!」

 セイバーの手を振り払い、雁夜は立ち上がった。

「俺達の令呪は残り二つしかないんだ。無駄に使わせるなよ」
「……主よ、焦りは禁物ですよ?」
「時間が無いんだ」
「主……?」
「嫌な予感がするんだ。早くしないと、何か、取り返しのつかない事が起きてしまう気がする。一刻も早く聖杯を手に入れないと――――」
「ならば尚の事、落ち着かれよ!」

 セイバーの声に雁夜はハッとした表情を浮かべた。

「焦りは戦場に於いて最も死に繋がる要因です。気を鎮めて下さい」
「……ああ」
「一先ず、私が単独にて出ます。交戦するにしろ、しないにしろ、今の我々には情報があまりにも足りない」
「……分かった。俺の方も使い魔を通して情報収集に当たる。敵サーヴァント、あるいはマスターを見つけたら――」
「無論、主の御意向のままに」
「すまないな」
「行って参ります」

 セイバーが消えると、雁夜は立ち上がり、軽く手足を伸ばした。
 痛みも無く、頭も冴えている。
 こんなに体調が良いのは久しぶりだ。

「魔力が充実している。桜ちゃんが持って来てくれた蟲のおかげか……。必ず、あの娘を葵さんの下に返さないと……」

 決意を新たに固め、雁夜は床に腰を降ろすと、街に放たれた蟲に意識を向けた。
 要所に散りばめられた蟲に意識の一部を飛ばした。

第十四話 雨生龍之介がバーサーカーを召喚した為に直接激突する事となった二人

 ランサーとの戦いから丸一日が経ち、ウェイバー・ベルベットは己の腕から消失した一画の令呪を思い溜息を零した。

「――――クソッ」

 こんな筈では無かった。そんな思いが繰り返し頭に浮かぶ。使い魔越しに街の様子を眺め続ける内に頭が冷え、冷静な思慮が出来るようになると、昨夜の己が失態に雲泥たる気分になった。
 令呪を一つ消失し、ライダーの宝具をランサーに知られてしまった。ライダーの宝具は強力だが、相手は誰あろうロード・エルメロイだ。自分には気付けない対抗策を練られてしまう可能性も否定は出来ない。

「いつまで不貞腐れておるのだ?」

 およそ日本ではお目にかかれない紅蓮の髪に部屋を圧迫する程の巨体を持つ男が先程まで眺めていたテレビから目を離し、ウェイバーに向かって言った。
 ウェイバーは憎憎しげに己がサーヴァントたるライダーを睨みつけ、ふいと顔を背けた。

「別に不貞腐れてなんて……いない」
「不貞腐れておるではないか。まだ、気にしておるのか? あの場で令呪を使用した事を」

 ライダーの言葉に肩を強張らせるウェイバーにライダーは後髪をボリボリと掻きながら言った。

「一度の失敗をいつまでも悔やむでない。次に活かせば良いのだ」
「活かすったって、令呪は三つしかないんだぞ……。まだ、始まったばっかだっていうのに……」

 暗い顔をしてブツブツと呟くウェイバーをライダーはデコピンの一撃で黙らせた。
 あまりの激痛に呻くウェイバーにライダーは言った。

「いつまでもウジウジしとった所で何にもならんわ! どれ、一つ気分転換に街へ繰り出してみんか?」
「ば、馬鹿! 何言ってるんだよ! もう聖杯戦争は始まってるんだぞ! 敵が現れたりしたら――――」

 ウェイバーの言葉を遮るようにライダーが立ち上がった。

「それこそ望むところであろう。聖杯戦争は敵を悉く討ち取った果てに唯一組のみが聖杯を手にする事が出来るのだ。こんな所でウジウジと悩んでおるよりはずっと建設的であろう。それとも何か――――」

 ライダーは膝を折り、ウェイバーの目線に自分の目線を合わせた。

「貴様、戦いを怖れるのか?」

 ライダーの言葉にウェイバーは反射的に「違う!」と叫んだ。

「ぼ、僕は……、戦いを怖れたりしない!」

 精一杯の虚勢を張った言葉。
 言葉が詰まり、声が震え、ウェイバーは自分が情けなくなった。

「結構」

 だが、ライダーは満足そうに笑った。

「そう啖呵を切れるならば後は邁進あるのみだ。行くぞ、坊主」
「い、行くって、本気でか!?」
「無論!」

 立ち上がり、部屋を出て行こうとするライダーにウェイバーは慌てた。

「お、おい! 霊体化しろよ!」

 ウェイバーが叫ぶ様に言うと、ライダーは心底不思議そうな顔で言った。

「何言っとるんだ? 折角現世にこうして呼ばれたのだぞ。この両足でもって、大地を踏み締め、遊興に浸らずしてどうするというのだ?」
「だ・か・ら! 浸ってどうするんだよ!? 僕達はこれから敵と戦いに行くんだろ!?」

 ウェイバーが言うと、ライダーは呆れた様に言った。

「違うであろう。我等の目的は気分転換。むしろ、浸らずしてどうするというのだ? 敵との戦いなど、遊興のついでだ」
「聖杯戦争を遊興なんかのついでにするな!!」
「ここでこうして喋っておっても埒があかん。いい加減、行くぞ!」
「ちょ、ちょっと待て!」
「もはや語るべき事など無い! いざ往かん! 現世の遊楽へ!」
「ま、待て! ほんとに待て! せ、せめて――――」

 ウェイバーは部屋を出ようとノブに手を掛けるライダーに必死に叫んだ。

「パンツを履けェェェェエエエエエエエ!!」

 そう、ライダーはパンツを履いていなかった。眼の毒にも程があるモノが丸出しなのだ。
 体に見合う巨大なソレはもはや怪物級だ。そんなモノをプラプラさせたまま街を出歩くなど正気じゃない。

「パンツ……おお、脚絆か! そう言えば、昨夜時折擦れ違った者達は皆履いておったな」

 丸出しな褐色の巨漢は困った顔をしながら拳を額に押し当て、至極真面目な顔でウェイバーに問い掛けた。

「あれは、必須か?」
「必要不可欠だ!」

 反射的に叫ぶと、ウェイバーはしまった、という顔になった。階下からマッケンジー夫人の声が聞こえたのだ。
 どうやら騒ぎ過ぎてしまったらしい。階段を上がってくる夫人の足音にウェイバーは顔を真っ青にしながら一先ずライダーを隠そうとライダーの体を引っ張った。

「何しとるんだ?」

 ライダーの体は小柄なウェイバーがどれだけ引っ張ろうが微動だにしなかった。
 そして、無情にも扉は開き――――。

「ウェ、ウェイバーちゃん……!?」

 夫人は目を丸くして立ち竦んだ。
 彼女の目には巨漢に抱きつき甘えている――ように見える――ウェイバーの姿があった。

「え、えっと……その……」

 ウェイバーはライダーの腕を両手で握ったまま、どうやって、この下半身丸出しの男の言い訳をしようかと必死に考えた。
 夫人が絶句したのが、下半身丸出し男が居たせいだと思ったが故に――。

「ウェ、ウェイバーちゃん」

 夫人――――マーサ・マッケンジーは思った。
 ここで逃げてはいけない……と。例え、孫に男色の趣味があろうと理解し、受け止めてあげなくてはならない。
 チラリとマーサはライダーを見る。まるで甲冑のような服を着ている。
 この日本――否、今時こんな服を着ている人間など滅多に居ない。ならば、何者だろうか……、マーサは考え、そして、以前テレビで見たアニメーションや漫画、映画などのキャラに扮する人々が居る事を思い出した。そう、コスプレイヤーである。
 マーサは頭を抱えそうになった。
 孫は男の子だ。なのに、恐らくは彼氏を部屋に連れ込み、甘えている。相手は見たところ、どう考えてもウェイバーより年上で、その上、コスプレイヤー。
 徐々に下半身に目線を向けると、今度こそマーサの頭は真っ白になった。
 履いていない。丸出しだった。夫であるグレンのソレよりも大きな凶暴なナニが垂れている。
 まさか――、マーサは必死に脳裏に浮かんだ考えを振り払おうとするが、状況が物語っている。
 そう、これが真実なのだと……。

「ウェ、ウェイバーちゃん」
「な、何?」

 ウェイバーは必死に考えを纏めている最中だった。

「そ、その……ね、えっと……、や」
「や?」
「優しく、してもらうのよ!」

 そう言って、マーサは逃げ出した。自分自身を罵倒しながら、されど、耐え切れない現実から逃げ出した。
 孫が年上でコスプレイヤーな大男と今まさに一つになろうとしていたなんて、そんな現実には耐えられない。マーサ・マッケンジーは同性愛に対し、ある程度は理解があったが、相手が実の孫となると話は変わった。

「あ、あなた!」
「ど、どうしたんだい、マーサ?」

 部屋でゆったりとしていたグレンは突然飛び込んできた半泣きの妻に驚きながら彼女の体を優しく抱き閉めた。

「大丈夫かい?」

 マーサの頭を優しく撫で、落ち着かせながら問い掛けると、グレンは妻の口から驚くべき事を聞かされた。
 難しい表情を浮かべるグレンにマーサは尋ねた。

「私達はどうすればいいのかしら?」
「まずは、彼に会おう。その、ウェイバーの恋人とやらに。もし、彼が悪人ならば、何としてもウェイバーに彼と別れさせるんだ」
「悪人じゃなかったら……?」
「……その時は、私達も腹を括ろう。愛に壁など無いのだからね」

 グレンは諭す様にマーサに囁いた。

「分かったわ、グレン。そうよね、私達が受け入れてあげなきゃ……」

 マーサは拳を強く握り締め、決意の表情を浮かべた。

「そうと決まれば、今日はゆっくり話す為にご馳走を用意しないといけないわ」

 マーサは部屋を出た。
 ウェイバーとウェイバーの恋人と共に今夜はじっくりと話をしなければいけない。そして、ウェイバーの恋人が悪人ではないかキチンと見極めなければいけない。
 ウェイバーの祖父母である自分達にはその義務があるのだから。

 買い物に行こうと準備をしていると、ウェイバーが二階から降りて来た。
 ドキリとしたが、彼氏の方は降りてこなかったようだ。まさか、もう一回目が終わってしまったのだろうか、泣きそうになるのを必死に堪え、マーサは問い掛けた。

「どうかしたかしら? ウェイバーちゃん」
「えっと、その……」
 ウェイバーはとても言い辛そうにしている。

 まさか、何か拙い事が起きたのだろうか……。

「その、えっと、さっきの奴なんだけど……」
「大丈夫よ」
「え?」
「分かっているわ。彼、ウェイバーちゃんの大切な人なんでしょう?」
「え、あ、うん。まあ、大切……かな?」

 ウェイバーはいまいちよく分かっていない様な返答を返すが、マーサはそれだけで彼があの巨漢の男をどれだけ慕っているのかを理解した。もし、彼が悪人だったなら、彼を追い出さなければいけない。だけど、その時、この優しい坊やがどれほど悲しむ事になるか、想像するだけで胸が張り裂けそうになった。

「あの、それで……さ」
「どうしたの?」
「ううん、えっと、パンツを……その、買って来て欲しいんだ。アイツの……」

 マーサは思わず咳き込んでしまった。パンツを買って来て欲しい。つまり、パンツが使い物にならなくなったという事だろう。
 心が折れそうになりながら、マーサは賢明に表情を取り繕った。

「ええ、構わないわ。えっと、サイズはかなり大きいものが必要ね」
「う、うん。それと……ズボンとシャツもお願いしていいかな」
「ズ、ズボンとシャツも……?」
「う、うん」
「わ、分かったわ。じゃあ、行って来るわね。今夜はご馳走を作るから、あの……彼も一緒に食べて行ってもらって頂戴」
「わ、わかったよ。伝えとく……」
「ええ、お願いね」

 マーサはそう言うと家を出た。
 堪らず涙を流しながら――。
 一体、シャツやズボンまで駄目になってしまうというのはどういう事だろうか、一体、孫と何をしていたのだろうか、あの大男は。

 マーサが出て行った後、ウェイバーは溜息を零した。さすがに疑問を持たれてしまった。最悪、再び暗示を掛け直さなければいけない。
 せめて、現代の服を着ていればもう少し誤魔化せていたというのに、ウェイバーは頭を抱えた。サーヴァントは聖杯から現代の知識を学んでいる筈なのに、どうして下半身丸出しで外に出て行こうとするんだ、あの馬鹿は!
 ウェイバーは胸中でライダーを罵倒しながらも、面と向かって言う事は出来なかった。

「アイツのペースに乗せられちゃ駄目なんだ……。絶対に」

 さっきはライダーのペースに乗せられてしまったが、油断していたらいつ寝首を掻かれるか分かったものではない。

 ――――数時間後。
 マーサが用意したご馳走の席にライダーはマーサが用意した服を着込んで同席した。
 その瞳は少年のように輝いている。

「ずいぶん嬉しそうだな」

 マーサとグレンは未だ席に座っていない。
 マーサはグレンを部屋に呼びに行っている。

「当然よ。現代の食事を愉しむのも一興というもの。それも、我が為に用意された宴となれば、心躍らさねば不敬というものよ」
「あっそ」

 興味なさげに相槌を打つと、ウェイバーはこれからの事に考えを巡らせた。御三家と呼ばれる遠坂家と間桐家、そして、街の複数ヶ所に使い魔を放ち、一日情報を集めたが、ランサー戦後、どの陣営も息を潜めたらしく、魔術の痕跡一つ発見する事が出来なかった。情報が圧倒的に少な過ぎる。
 それが結論だった。この地に根を下ろす遠坂や間桐は勿論、もう一つの御三家、アインツベルンや強力なコネを持つケイネスを含め、他の魔術師達は皆ウェイバー以上に情報を保有している事は間違いない。日本に着いたばかりの頃、少し街を見て回ったけれど、地形を完全に把握し切れているとも言えない状況だ。
 戦うにしても、どんな状況、どんな場所、どんな時間帯に戦うのが自分達にとってベストなのか、それすら分からない状態だ。
 話すべきなんだろうとは思っている。この隣に座る巨大なサーヴァントと。宝具の事や戦法についてだけじゃない。聖杯を望む理由や、あの夜、本当に自分を殺すつもりでセイバーとランサーの戦いに乱入したのか、聞きたい事は山積みだし、言いたい事も星の数程ある。

「なあ、ライダー」
「お待たせ、ウェイバーちゃん。ライダーさん」

 ウェイバーがライダーに声を掛けようとしたと同時に部屋にマーサとグレンが入って来た。

「どうかしたか?」
「いや……、後でいい」

 ウェイバーは小さく溜息を吐いた。目の前に広がるご馳走はライダーの為に用意されたらしい。
 何を張り切っているのだか、しきりにライダーに話を持ち掛けるグレンとマーサを呆れた様に視線を向けながら、ライダーが妙な事を口走らないかとウェイバーは気が気でない夕食を取った。

 翌朝、ウェイバーは大きな笑い声で目を覚ました。いつの間にか部屋で眠っていたらしい。ズキズキする頭で昨日何があったのかを思い出そうとすると、ライダーに「お前もいっちょ、飲んでみろ」と言われて、日本酒を飲まされた記憶が最後だった。
 あの後、どうやら自分は酔い潰れてしまったらしい。運んでくれたのはグレンだろうか、それともライダーだろうか、ふらつく足で一階に降りると、リビングではなんとライダーとグレンが顔を真っ赤にしながら腕を組んで歌を歌っていた。

「昨日からずっと飲んでいたみたいだわ」

 何事かと呆気に取られた表情を浮かべるウェイバーに後ろからマーサが声を掛けた。
 マーサはガウンを着て、眠たそうに目を擦っている。どうやら、ウェイバー同様にライダーとグレンの笑い声に起こされたらしい。

「おお、起きたか坊主! どうだ? 駆けつけに一杯」

 そう言って日本酒の入った杯を差し出してくるライダーにウェイバーは堪らず怒鳴りつけた。

「一晩中何やってんだ、お前は!!」

 夕方、空が茜色に染まる中、ウェイバーはライダーと共に冬木の街を出歩いていた。
 ウェイバーは至極疲れた表情を浮かべている。

「いや、愉快な者達よな!」

 ライダーの言葉にウェイバーは顔を引き攣らせた。

「ど、こ、が、愉快なんだよおぉぉぉぉおお!!」

 怒鳴りつけるウェイバーにライダーはからからと笑った。

「いや、お前と余を――――」
「言うな!! 聞くのも考えるのもおぞましい!!」

 よりにもよって、自分とライダーを恋人同士だと勘違いするなど、何をトチ狂っているんだ、ウェイバーは居候している人の良い夫婦を心の中で盛大に罵倒しながらずんずんと歩き続けた。

「それで?」
「それで……って?」

 とりあえず見晴らしの良い所へ行こうと、高台を目指し歩いていると、唐突にライダーが切り出した。

「話があるのではなかったか?」
「……ああ」

 ウェイバーはスゥっと息を吸うと、ライダーに視線を向けた。

「聞きたい事は山ほどあるし、言いたい事も沢山ある。けど、まず聞きたい事がある」
「……なんだ?」
「お前はあの夜、僕を――――」
「ヌゥ――――ッ!」

 口を開きかけたウェイバーを制し、ライダーは少し離れた後方に視線を向けた。

「ど、どうしたんだよ?」
「見られておる」
「え?」
「どうやら、誘われておるらしいのう」

 挑発するかのようにあからさまな殺気を放つ何者かが徐々にゆっくりとしたペースで離れて行くのを感じ、ライダーは獰猛な笑みを浮かべた。

「ど、どうするんだ!?」

 ウェイバーが泡を食ったように叫ぶと、ライダーは「無論!」と応えた。

「乗るに決まっておろう。遊興のついでとは言ったが、敵が現れたのならば戦う以外の選択肢はあるまい。それに、こうもあからさまに挑発されては征服王たる余としても無視するわけにはいかぬからな」
「で、でも……」
「何をグズグズと言っておる? それとも、貴様はここに残るか?」

 ライダーの問いにウェイバーは僅かに悩み、そして、言った。

「行くよ! 行ってやるさ!」

 前のような醜態を晒してたまるか、そう自分に言い聞かせ、ウェイバーは拳に力を篭めた。
 まだ、ライダーを信じ切る事は出来ない。だけど、一日共に過ごして、わずかなりとは言え、ウェイバーはライダーを理解し始めていた。ライダーはどこまでも豪放で、野蛮な男だ。そして、真っ直ぐな男だ。
 時計塔という魑魅魍魎跳梁跋扈の魔術師の学び舎で腹の奥底にいろいろと抱え込んでいる様な輩としのぎを削って来たウェイバーにはそれが良く分かった。
 召喚した直後であったあの時には分からなかったが、ライダーが自分を殺す為にわざわざ敵に狙わせる等という回りくどい手段を取るとは思えない。それに、あの時、セイバーの斬撃からライダーは確かに己を護ってくれた。
 信じていいのかどうか分からない。だけど、まずは話をしよう。
 きっと、それで漸く自分達の聖杯戦争は始まるのだ。
 だから――――、

「ライダー、絶対に勝つぞ。まだ、お前とは沢山話をしなきゃいけないんだから!」
「分かっておるわい。任せておけ、坊主。余の力、今宵は存分に堪能させてやろう」

 豪快に笑うライダーにウェイバーは鼻を鳴らすとずんずんと進み始めた。

「行くぞ!」
「応ッ!!」

 高台の上にある広々とした公園でライダーとウェイバーは見覚えのある男と対敵していた。周囲に人影は無い。どうやら、相手が既に人払いを済ませ、戦いの舞台を用意していたらしい。

「また会ったな、ランサーよ」

 ライダーの言葉に応えるように、ランサーは虚空から取り出した赤と黄の双槍を構え、ライダーとウェイバー目掛け、突き刺すような殺気を放った。
 丁度、太陽が沈み、夕方から夜へ、聖杯戦争の時刻へと移り変わった。
 街灯が道を照らし、ランサーのサーヴァントは赤き槍の穂先をライダーへと向けた。

「貴様の首級を頂きに来たぞ、ライダー」

第十三話 雨生龍之介がバーサーカーを召喚した為に敗北した彼

 ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは憤然たる面持ちを己がサーヴァントに向けていた。
 ランサーが冬木ハイアット・ホテルの最上階にあるスイートルームに帰還したのはついさっきの事であった。

「一体、どう言い訳をするつもりなのか、聞かせてもらえるかね?」

 ソファーに座り、ねめつける視線を向けるケイネスにランサーは沈痛な面持ちで平伏していた。

「返す言葉も……ございませぬ」

 拳を血が滲む程に強く握り締め、ランサーは屈辱に塗れた顔で毒を吐くように言った。

「ケイネス。ランサーを責めても始まらないわ」

 ランサーの痛ましい姿に堪らずケイネスの婚約者であるソラウが口を挟んだ。
 ケイネスは怒りに震えながらも愛する婚約者を振り返った。

「ソラウ。此度のこやつの失態は看過出来ぬ。私に令呪を二つも消費させ、宝具の開帳を許されながら、キャスター、セイバー、ライダーのどのサーヴァントにもただの一撃すら加える事が出来なかったのだからな」

 ランサーの宝具たる槍の特性上、ただの一撃がこれから先の聖杯戦争の行く末を大きく変える一撃となる筈だった。
 だが、結果は散々たるものだった。キャスターのサーヴァントの不可解な宝具の連続召喚の正体を看破する事は出来たものの、その代償に恐らくは十中八九ランサーの正体を敵に看過され、ただの一撃も加える事すら出来ずキャスターを見逃してしまった。
 セイバーとの戦いでは終始圧倒され、その地力を敵に測られた。そして、よりにもよって、ケイネスの手配した聖遺物を盗み出した愚かなる弟子の召喚したサーヴァントの宝具によって返り討ちに合う始末だ。
 ソラウからは十全なる魔力を供給され、ケイネスからは令呪と要所における的確な指示のバックアップを受けながら、情け無いにも程がある。
 ケイネスは己が召喚したサーヴァントを失望の眼差しで見下ろした。

「ケイネス。あれは仕方の無い事だったわ」

 ソラウはランサーを擁護するように言った。

「まさか、あのタイミングでセイバーやライダーが乱入して来るなんて、貴方にだって想定する事は出来なかったでしょう? むしろ、キャスター、セイバー、ライダーの三体と続けざまに戦いながら生還した事を褒めるべきではないかしら?」

 ソラウの言葉にケイネスは鼻を鳴らした。
 見下ろせば、ランサーのサーヴァントは先程以上に屈辱に濡れた表情を浮かべていた。

「なるほど、褒めて欲しいか? ランサー」

 ケイネスの言葉にランサーは堪らずに顔を上げて言った。

「どうか! 今一度、私にチャンスをお与え下さい! 次こそは、必ずや奴等の首級を主に捧げる事をお誓い申し――――」
「そのような蒙昧な事を言うとは、見下げ果てたぞ、ランサー!」

 ケイネスの轟くような声が広い部屋に響き渡った。
 ランサーは声を失い、目を見開いた。

「奴等の首級を捧げるだと? その様な大前提を今更誓おうなどと、どういう了見か!?」

 ケイネスの言葉にソラウは咄嗟に反論しようとするが、ケイネスは続けざまに言い放った。

「貴様は私に何を誓っていたのだ!? サーヴァントたる貴様が誓うべきはただ一つ! 聖杯を我が手中に捧げる事であろう! 並み居るサーヴァントを根こそぎ狩り尽くすはその誓いの前では大前提。誓う以前の問題であろう! それを今更になって誓うだと? やはり、貴様は私に虚言を弄していたらしいな。私に聖杯を譲り渡すなどと、よくも言えたものよな、この匹夫めが!」

 雷鳴の如きケイネスの怒声と嵐の如き剣幕にランサーは只管に恐縮するのみであった。ケイネスの言葉はどこまでも真実であったからだ。
 今更になり、大前提を履き違えていた己を恥じ、己の積み重なる失態にランサーは雲泥たる気持ちになった。

「残る令呪はたったの一つだ。だと言うのに、貴様は何の戦果も上げられずにおめおめと帰って来た。これではただドブに捨てたようなものではないか! これより、我々は静観の構えを取る。貴様は並み居るサーヴァントの中でも特に惰弱なようだからな」

 ケイネスの痛烈な言葉に思わずランサーは立ち上がった。

「私は――――ッ!」
「妄言は結構! 貴様の武勇は偽りであったらしい。まったく、大失敗だよ。貴様を召喚したのはな。これでは、もはや正面切ってのサーヴァント同士の戦いなど夢のまた夢だ。方針を変える必要がある。ソラウ、来てくれ。色々と確認したい事がある」

 ケイネスの怒りは尋常では無く、ソラウは賢明に言葉を探すが、その前にランサーが懇願するようにケイネスに声を張った。

「主よ! どうか、今の御言葉の撤回を!」
「行くぞ、ソラウ。ランサー、貴様は無駄に吼える余裕があるならば部屋の片付けでもしておれ」

 ケイネスは部屋を見回しながら言った。
 令呪による強制召喚の影響で室内はまるで嵐にでもあったかのように荒らし尽くされていた。
 戦果も上げられず、無駄に敵に情報を与え、やった事と言えば部屋を散らかす事だけ、そんな事なら魔力も持たないただの子供にだって出来る。

「主よ! 私は今度こそ、必ず――――ッ!」
「キャスターは最弱のクラスと呼ばれている」

 ケイネスの言葉にランサーは開こうとしていた口を閉ざした。

「そのキャスターに令呪の援護が無ければ純粋な白兵戦という己が領分で敗北しかけた貴様を見て聞かせてもらうが――――、何が、次こそは必ず、……なのだ?」

 部屋を出て行くケイネスの残した言葉にランサーは膝を折り床に手をついた。今度こそ、そう思いランサーのサーヴァント、ディムルッド・オディナは召喚に応じた。生前、仕えた主を裏切り、忠義を尽くす事の出来なかった悔い。今度こそ、仕えるべき主に忠義を尽くし、悔いを晴らそうと願った。
 その主の信頼を完全に失ってしまった。己の不甲斐なさ故に……。

「私は……、私は……」

 ランサーはノロノロと立ち上がるとゆっくりと部屋に散らばった倒れた家具や置物を動かし始めた。
 今は少しでも主の命を忠実にこなさねばならない。いずれ、戦場において、己の武技により、主の信頼を勝ち取る為に――――。

 ランサーを残し、部屋を出たケイネスとソラウはそこから少し離れた別室に移った。ケイネスは険しい表情を浮かべたままサーヴァントのマスターと思しき魔術師達の調査書を机に広げた。そこには既に今夜の出来事が更新されていた。

「キャスターのサーヴァント。投影魔術を使い、白兵戦を行える特異な魔術師の英霊……」

 ケイネスは使い魔越しに見た赤い英霊の姿を脳裏に浮かべた。背後に護る黒い髪の少女には見覚えがあった。遠坂家の当主についての調査書にある家族構成の項目にその名と写真が載せられている。

――――遠坂凜。

 遠坂家の長女にして、次期当主と目される少女。
 その魔術師としての能力は幼いながらに優秀であり、一度はランサーの魅了の呪を受けながらもキャスターの助けを受けて正気を取り戻した。

「キャスターのマスターであるとは考え難いが、何故、あの場にキャスターと共に居たのかは分からぬ……。そして、セイバー」

 ケイネスはセイバーの資料を手に取った。

「白亜の騎士か……。あのタイミング、キャスターの救援か、あるいは私に狙いを定めるマスターが居るのか……。マスターの可能性として一番大きいのは遠坂時臣だな。親子で参戦とは、しかし、そうなると厄介なのは……」

 ケイネスは続けてアサシンの資料を手に取った。

「アサシンのサーヴァント。歴代のアサシン同様、山の翁――――ハサン・サッバーハであると考えられるが、能力他詳細は不明。主は聖堂教会より魔術協会へと転属し、遠坂家の当主・遠坂時臣の弟子となった言峰綺礼。キャスターと接触し、共に行動を取った事から遠坂家とは同盟関係にあると考えられる……そうだな?」

 ケイネスが問い掛けると、ソラウは首を縦に振った。ソラウはケイネスがランサーの付近に飛ばした使い魔を通して戦場に視界を得ていたのと同様に複数の使い魔を使い分け、戦場の周囲の情報を収集していた。その中で得た情報はアサシンとその主。そして、アサシン陣営とキャスター陣営との繋がりだ。
 ソラウの付け足した情報を読み進めながら、ケイネスは険しい表情を更に深めた。

「アサシンまでもが遠坂の陣営にあるとすれば、およそ聖杯戦争に招かれる七つのクラスのサーヴァントの内の半数、三体が一つの家門の下に集結している事になる」

 加えて、厄介なのはその取り合わせだ。
 ――――間諜のサーヴァントたるアサシン。
 ――――策謀を巡らせ、拠点防衛に優れたキャスター。
 ――――そして、白兵戦において最強を誇ると同時に最優のクラスと称されるセイバー。
 その三体が共同戦線を張るとするならば、まさに最強の布陣と言える。

「残るはアーチャー、ライダー、バーサーカー。内、情報があるのはあの愚か者、ウェイバー・ベルベットとそのサーヴァント・イスカンダル。忌々しい事だが、あのサーヴァントの力は強大だ……」

 舌を打つケイネスにソラウは声を掛けた。

「ケイネス。怒りに目を曇らせては駄目よ」
「私は怒りに目を曇らせてなど――――ッ」

 ソラウの言葉に目を剥くケイネスにソラウは穏かな口調で語り掛けた。

「貴方は見るべき点を間違えているわ」
「……どういう意味だね?」

 ソラウの物言いに不機嫌な顔をしながらも、ケイネスは渋々といった調子で問い掛けた。

「まず、一つ目はランサーの事」

 ランサーの話題に自然と苛立ちが込み上げ、ケイネスは口を開こうとするが、ソラウはその口に人差し指を当て閉ざさせた。

「落ち着いて、ケイネス。貴方は彼を脆弱と言うけれど、本当にそう思っているのかしら?」

 ケイネスが眉を顰めると、ソラウは続けた。

「まず、キャスターの事。あのサーヴァントの能力はとても特異的なもので、ランサーは危機一髪の所まで追い詰められた。これは事実だわ」

 顔に悲しげな表情を浮かべて語るソラウに奇妙な違和感を持ちながらケイネスは聞いた。

「でも、その後が肝心よ。貴方の助けで危機を脱した彼は最後には地力でキャスターを圧倒した。取り逃がしたのはセイバーの援護があったからよ。あれは遠坂の陣営のチームワークの勝利。省みるならば、その点を反省すべきだと思うのよ。ランサーを責めるんじゃなくて、ね?」
「だが……」

 ケイネスは不満そうに反論しようとするが、ソラウは首を振って静止し、更に言葉を紡いだ。

「セイバー戦は確かに不利に見えたわ。だけど、彼はセイバーとの戦いで一度も手傷を受けていない。ステータスの面で、筋力は劣っているのかもしれないけれど、ランサーのクラスの武器は筋力ではない事を貴方は理解している筈でしょう?」

 ソラウの言葉にケイネスは渋々と頷いた。そう、ランサーのクラスは決して筋力のステータスが優れた英霊が呼ばれるわけではない。
 ランサーのクラスのポイントは敏捷性だ。その圧倒的な疾さ他の追随を許さない。
 あの戦いにおいても、ランサーのスピードを武器に戦っていた。不利に見えたのは強大な筋力を武器にセイバーが派手に立ち回ったが故の錯覚であり、実際にはほぼ互角の勝負であった事はケイネスも渋々と認めた。

「そして、最も重要なのはライダー戦よ。貴方はここに重要なポイントを見落としている」
「どういう事だね?」

 ケイネスの問いにソラウはまるで教鞭に立つ教師の如く言った。

「相手は強大な力を誇る宝具を使った。確かに、その力は圧倒的で、ランサーは敗走を余儀なくされた。けれど、考えてみて頂戴。確かに、あのライダーは強力なサーヴァント。だけど、そのマスターはどう?」

 ケイネスは目を見開いた。そう、ソラウの言わんとしている事を察したのだ。
 己の目は確かに眩んでいたらしい。

「あのマスターは――――」

 ソラウの言葉にケイネスはもはや怒りの感情を霧散させ、その顔を闘争心によって染め上げた。

「あれほどの宝具の連続使用に耐えられるような優秀な魔術師なのかしら?」
「そうだ。その通りだ」

 ケイネスは立ち上がった。
 ソラウの肩に手を沿え、唇の端を吊り上げた。

「そうだ。確かに、どうやら私は目が曇っていたらしい。あのウェイバー・ベルベットが固有結界などという大魔術の発動に耐えうる魔力など、持っている筈が無い! つまり――――」
「今、ライダーは宝具を使えない。それ所か……」
「まともに戦闘を行う事も難しい!」

 ケイネスは即座に行動に移った。部屋を出て、ランサーを待機させた部屋に戻る。
 部屋は言い付けを守ったらしいランサーによって、ある程度片付けられていた。ケイネスが部屋に入ると、ランサーは即座に頭を垂れた。

「ランサーよ。貴様、チャンスが欲しいと言ったな?」

 ケイネスの言葉にランサーはハッと顔を上げた。

「ならば、今一度チャンスをやろう。その身を直ぐに癒し、万全を期した後、あの愚かなるウェイバー・ベルベット、そして、そのサーヴァントたるライダーを狩る! 貴様の武勇が偽りでは無いと申すならば奴の首級を我に捧げよ!」

 ケイネスの言葉にランサーの顔に生気が宿った。
 その瞳は得られた好機に輝き、ランサーは頭を深く垂れた。

「承知致しました。我が主よ!」

 ケイネスは鼻を鳴らし、ランサーに背を向けて言った。

「ウェイバーの居場所を発見次第、狩りを開始する。貴様の忠誠、貴様の武勇、それらが偽りでは無いと申すならば、敗北は決して許さぬ。分かったな?」
「御意!」

 ケイネスがウェイバーの探索に乗り出し、部屋を退出した後、ランサーは拳を強く握り締めた。予想以上に早く訪れた汚名返上の好機。逃す訳にはいかない。
 両の手に赤と黄の槍を具現化させ、自在に操り気合を入れる。

「必ずや、貴様の首級を我が槍の勲としてくれる!!」

 ランサーの瞳には虚空に浮かぶ忌々しきライダーの顔があった。
 己の騎士としての戦いに横槍を入れた不届き者。その顔を怒りの槍撃により振り払う。ランサーのサーヴァントの瞳はライダーとの再戦に向け、熱く燃え滾っていた――――。

第十二話 雨生龍之介がバーサーカーを召喚した為に停滞する戦争

 そこには死が広がっていた。例え、作り物であったとしても、一度命を持った者が命を失えば、それは紛れも無い死であった。死体はどれも人間離れした美しさを持ち、静かに眠っている。
 キャスターのサーヴァントは隣に立つ男が僅かに肩を強張らせるのを感じた。その隣では、辛そうな表情を浮かべ、男に寄り添う女が一人。ここは、彼女にとって、ありえたかもしれない未来だった。もしかしたら、目の前の死体達の内の一人が彼女の立場に立っていたかもしれない。そう考えると、哀れみを感じるが、骸達の顔に浮かぶ表情には嘆きも哀しみも怨嗟も無い。
 冬の城――アインツベルン城の地下深くにあるホムンクルスの処分場は死体が散らばっているにも関らず清廉な空気に包まれていた。

「こやつ等をもらってゆくぞ」
「好きにするが良い」

 キャスターの言葉に応えたのは隣に立つ男女では無かった。この処分場の入口に佇む一人の老人、現アインツベルンの当主――ユーブスタクハイト・フォン・アインツベルン。
 アハト翁と呼ばれる彼はキャスターのサーヴァントを感情の浮かばぬ瞳で一瞥すると去って行った。

 アハト翁は切嗣のサーヴァントが彼の騎士王では無く、加えて、全クラス中、最弱と呼ばれるキャスターである事に酷く失望していた。1000年もの永きに渡る歴史を持つアインツベルン家は悲願である第三魔法の成就を叶える為、聖杯の奇跡を求め続けた。アインツベルンの探求は挫折と屈辱、そして苦肉の打開策。その繰り返しであった。
 それが二百年程前、独力での成就を諦め、遠坂家とゾォルケン家という二つの外部の家門と協定を余儀なくされた。繰り返される聖杯戦争において、常にアインツベルンは敗者であった。第二次聖杯戦争ではマスターの戦闘能力の低さが召喚したサーヴァントの足を引っ張り、打開策として、第三次聖杯戦争ではマスターの戦闘能力に関係無く圧倒的な力を持つ存在を召喚しようともしたが、その策も結局は失敗に終わり、よりにもよって、アサシンとの一騎打ちの後に敗北した。
 苦悩を重ねた末にアインツベルンは戦慣れした魔術師を外部から招く他道は無いという結論に達したのが九年前。血の結束を誇りとしたアインツベルンが信条を曲げ、屈辱に耐え、招いた魔術師の名は衛宮切嗣。魔術師殺しとして知られるこの男こそ、アインツベルンの切り札となりうる筈であった。
 ところが、彼の召喚したサーヴァントはアインツベルンが多大な資産、多大な労力、多大な時間を投じて用意した最強の英霊の聖遺物を用いておきながら、よりにもよって、最弱のクラスたるキャスター。その憤りたるや、並々ならぬものがあった。にも関らず、切嗣とキャスター、果ては小聖杯の外装たるホムンクルスまでもが勝利を信じ疑わず、戦力とする為にアインツベルンの誇るホムンクルスを戦力として寄越せと言って来たのだ。
 その厚顔無恥振りに更なる怒りを募らせたアハト翁は三人を失敗作、老朽化、実験体、様々な理由で機能を停止させたホムンクルス達を処分する為の地下空間へと連れて来た。これならば好きに使うがよい、そう言うアハト翁にキャスターのサーヴァントは予想に反し、満足気に寄越せと言った。昨日の停止したホムンクルスなどどうすると言うのか、考えながらアハト翁は切嗣と聖杯の外装たるホムンクルス――アイリスフィールの娘、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンを切嗣達が冬木へ発った後、直ぐさま調整を行う為の準備を始めるべく彼固有の魔術工房へと足を運んだ。
 此度の聖杯戦争は諦める他無い。ならば、次なる聖杯戦争において勝利を確実とする為に今度こそ最強の魔術師と最強のサーヴァントを用意するだけだ、とアハト翁は意識を切り替えた。

「これほど居るとは、些か予想外よのう」
「キャスター。彼女達をどうすると言うの?」

 アイリスフィールは辛そうな表情のまま、キャスターに問い掛けた。
 彼女としては、己の同胞達の静かな眠りを妨げる事は本意では無いのだろう。

「この者達を再び命ある者とするのだ。これほどの優秀な魔術回路を持った戦力を使わぬ手は無い故な」
「待って! 彼女達は既に死んでいるのよ? それを生き返らせるというの!? それは――」

 目を剥いて迫るアイリスフィールにキャスターは事も無げに言った。

「生き返らせるのではない。再び機能を再開させるに過ぎぬ。妾のランクA+の道具作成スキルは伊達では無い。この者達を擬似的な宝具の域に仕立てて見せようぞ」

 口調こそ軽い感じではあるが、キャスターは感情の欠落した表情で言った。

「日数はどのくらいかかる?」
「ざっと数えて200は居るな。少し手間だが、三日もあれば作業を終えられよう」
「それは重畳だ。戦いは質も重要だが、何より数が物を言うからね」

 切嗣は言いながら、警戒の眼差しをキャスターに向けた。

――――二百の軍勢。

 それは確かにありがたい。それも、感情を持たない人形であるならこれほど有用な兵器は無い。
 囮、破壊工作、それこそ、使い方は無数にある。だが、同時にキャスターのサーヴァントに固有の戦力を持たせてしまう事になる。キャスターが裏切りを実行した場合、二百のホムンクルスの軍勢が襲い掛かってくる事になる。それはあまりにも頂けない話だ。

「だが、二百も用意する必要は無いだろう。明日、冬木へ発つ予定だ。それまでに仕上げられる分だけで構わない」

 切嗣の言葉にキャスターは鼻を鳴らし頷いた。

「良かろう。明日まででも五十は使えるようになるだろう。妾はこれから幾つかを見繕い、宝具に改造する作業に移る。切嗣、お前はお前の協力者に宛てて送った使い魔を通し、各マスター、及びサーヴァントの情報を収集するが良い」
「元よりそのつもりだ。行こう、アイリ」

 切嗣がアイリスフィールの手を引き処分場を出ようとすると、キャスターが呼び止めた。

「何だ?」
「アイリスフィールは置いて行け。色々と話しておきたい事がある」
「……なら、僕もここに残る」
「お前は戻れ。やるべき事があろう?」
「僕が居ては何かまずいのか?」
「ま、待って、切嗣」

 剣呑な雰囲気になりつつある切嗣とキャスターの間にアイリスフィールが割って入った。
 サーヴァントが敗退した事で己の内にある聖杯にサーヴァントの魂が送られ、人としての機能が一部欠損した状態の上、同胞達の亡骸を見たショックで顔色はすこぶる良くないが、賢明に二人の仲を取り持とうとするその姿に切嗣とキャスターは已む無く空気を和らげた。

「分かった。切嗣、お前の同席を認めよう」
「キャスター」

 表情を輝かせるアイリスフィールにキャスターは困ったような表情を浮かべると言った。

「先にお前達は上に戻れ。ホムンクルスを見繕ったら妾も上に戻る」
「分かったわ」
「了解した」

 アイリスフィールは最後に少し悲しげな表情を浮かべながら処分場のホムンクルス達を一瞥し、妻を気遣う切嗣に寄り添うようにして処分場を出て行った。
 残されたキャスターは小さく溜息を吐いた。

「どうにも、信用されて居らぬな。まあ、それも已む無き事よな」

 キャスターは少し悲しげな表情を浮かべながらホムンクルス達の死体を一つ一つ見定めた。
 どれも安らかな表情を浮かべて眠っている。その内の一体にキャスターは目を留めた。
 そのホムンクルスは誰を原型にしたのかは分からないが、アイリスフィールと同じ銀の髪を持つ幼げな少女だった。

「似ている……な」

 キャスターは少女のホムンクルスを抱き上げると己が小さく呪文を唱えた。少女のホムンクルスはふらふらとした足取りでキャスターの手から離れると出口へ向かって歩き出した。その動きはまるで空中から垂らされた糸によって操られるマリオネットのようで、どこか滑稽で、どこか恐ろしいものだった。
 それからおよそ百体程度のホムンクルスを見繕うと、キャスターはそれぞれに魔術を掛け、操り人形としたホムンクルス達を連れて階上の簡易的な魔術工房へと運んだ。魔術工房といっても、単なる空き部屋で、魔術用具が僅かに置いてあるだけだ。
 キャスターは一体を残し、他のホムンクルス達を部屋の隅に並べると、アイリスフィール達の待つ部屋へと向かった。

「あれぇ? あなた、だぁれ?」

 歩いていると、小さな少女に呼び止められた。
 まるで、アイリスフィールをそのまま小さくしたかのような銀色の髪と赤い瞳の愛らしい顔立ちをした少女だった。

「妾はモルガンよ。お前は?」
「イリヤはイリヤだよ。イリヤスフィール・フォン・アインツベルンって言うの」
「そうか、良き名よのう」

 キャスターの言葉にイリヤと名乗る少女は表情を輝かせた。何とも表情豊かな少女だと思いながら、キャスターはイリヤを注意深く観察した。
 そして、深い憤りに目を見開いた。

「ひゃぅ!?」
「む、どうした?」

 悲鳴を上げ、涙目になるイリヤにキャスターは慌てた。
 昔、まだ息子が幼かった頃を思い出しながら必死に宥めようとするが、イリヤは本格的に泣き出してしまった。

「な、何故じゃ!? こ、これ、泣くでない」

 必死にあやそうとするが、全く泣き止む気配の無いイリヤにほとほと困り果てた表情を浮かべていると、どこからかイリヤの泣き声を聞きつけたのか、切嗣は何とも不思議そうな顔で現れた。

「何を……、しているんだ?」

 不可解そうな声で問い掛けられ、キャスターは答えに窮した。キャスターは今、四つん這いになり、イリヤを笑わせようと顔を両手で歪ませて変な顔を作っていた。
 キャスターは立ち上がるとコホンと咳払いをし、居住まいを正した。

「いや、何でもないぞ」
「……イリヤ、どうしたんだい?」

 まるで何事も無かったかのように振舞うキャスターを無視して、切嗣はイリヤに声を掛けた。

「キリツグ~~! 怖かったの! いきなり、モルガンがこんな風に怖い顔したの!」

 泣きじゃくりながら目を両手で吊り上げさせるイリヤに切嗣は怪訝な表情をキャスターに向けた。
 キャスターは苦い表情を浮かべながら溜息を吐いた。

「むぅ、怖がらせたのは悪かったのう。悪気は無かったのだ。許してはくれぬか?」
「……うん」

 少し悩みながらも頷くイリヤにキャスターはニッコリと微笑むと、その頭を優しく撫でた。

「イリヤ、僕はこの人と少しお話があるんだ。一人で部屋に帰れるかい?」
「もう、キリツグったら! 馬鹿にしないでちょうだい! ちゃ~んと、イリヤは一人で帰れるもん!」

 そう言って、イリヤは顔を袖で拭うと駆け出した。
 曲がり角に差し掛かる手前で立ち止まると、キャスターに顔を向けて、少し悩みながら大きな声で言った。

「さっきはごめんなさい!」

 そして、そのまま曲がり角を曲がり姿を消した。

「切嗣。あの幼子は……」
「僕とアイリの娘だ」
「やはり、そうか……」

 キャスターは表情を曇らせた。

「イリヤと言ったか……。あれは長くないぞ」

 キャスターの言葉に切嗣は肩を強張らせた。
 その表情に一瞬にして様々な感情が宿り、そして一瞬にして消えた。

「あの子は産まれる前から体に手を加えられたんだ。僕達が聖杯を得られなかったら、次にあの子を戦わせるために……」

 拳を強く握り締め、毒を吐くように言う切嗣にキャスターは言った。

「勝てば良いのだろう」
「……ああ、そうだ」

 切嗣と共にキャスターが部屋に戻ると、アイリスフィールが辛そうな表情を浮かべて駆け寄って来た。

「切嗣。イリヤはどうしたの?」
「ああ、それは――――」

 事の経緯を聞き、アイリスフィールは朗らかに笑った。

「そう、笑うでない」
「ごめんなさい、でも……」

 イリヤに顔が怖いと泣かれたキャスターの話にアイリスフィールは笑いが堪えきれなかった。
 肩を震わせるアイリスフィールにキャスターは憮然とした顔をしながら言った。

「いい加減、話を始めるぞ。良いな!」

 ギン、と睨むキャスターにアイリスフィールは何とか笑いの衝動を抑えて頷いた。

「それで、話というのは?」

 切嗣が問い掛けた。

「……切嗣、このままではアイリスフィールは聖杯戦争を戦い抜けまい」

 キャスターの言葉に切嗣は一瞬にして表情を引き締めた。
 アイリスフィールもまた、笑いの衝動が吹き飛び、深刻な表情を浮かべる。

「故、少し体を調整してやろうと考えたまでだ。お前達が用意した鞘は妾では扱えぬし、容態を軽くするにはアイリスフィールを宝具化するのが一番効率が良いのだ。無論、無理にとは言わぬが……」
「宝具化……?」

 アイリスフィールが首を傾げた。

「無論、我が宝具にするというわけではない。処分場で話した通り、ホムンクルスならば妾の力で能力を向上させる事が出来る」
「本当に出来るのか? いかにキャスターのクラスと言えど、ホムンクルスは錬金術の極みと言っていい技術の筈だ」

 切嗣の問いにキャスターは暗い表情で答えた。

「妾は一度ホムンクルスを作った事がある」
「ホムンクルスを……?」

 切嗣は訝しげに尋ねた。
 モルガンの伝承にホムンクルスを創造したなどという逸話は聞いた事が無い。

「妾のホムンクルスは嘗てのブリテンの戦場においても戦果を上げた。あの円卓の騎士達が蠢く戦場でな」

 何かに必死に耐えるようにキャスターは言った。

「アイリスフィールはこのままでは死ぬ他無い。たった一体のサーヴァントを取り込んだだけで今の状態なのだ。もう一体か二体取り込めば、もはや言葉を発する事すら出来まい。だが、妾が調整を行えば、少なくとも、普通の人間の寿命程度は生きられるように出来る」

 キャスターは真っ直ぐに切嗣を見た。
 切嗣の瞳には様々な感情が浮かんでいるのが見える。

「直ぐに決断せよ、とは言わぬ。まだ、時間はあるからな。せいぜい悩め。だが、手遅れになる前に決めよ。分かったな?」
「…………ああ」

 切嗣が頷くのを見届けると、キャスターは席を立った。

「キャスター」

 アイリスフィールはキャスターに笑みを向けた。

「ありがとう」
「…………礼など不要だ。それに、最後は切嗣の選択次第だ」

 キャスターは逃げるように部屋を出て行った。後に残された切嗣は頭を抱え、髪を千切れんばかりに掴んだ。
 深い苦悩と疑惑、そして微かな希望に惑っている。そんな彼に、アイリスフィールは言った。

「私は貴方の選択に身を委ねるわ」
「アイリ――――ッ!」

 切嗣は咄嗟にアイリスフィールを抱き締めていた。

「……少しだけ、もう少しだけ、待ってくれ。すまない、僕は……」
「待っているわ、切嗣。貴方はいつも私を導いてくれるもの。貴方の決断は私の決断。だから、貴方がどんな決断をしても、私はその選択に安心して身を委ねられるわ」
「アイリ……」

 切嗣は更に強くアイリスフィールを抱き締め、そのか細い体に涙を零した。もしも、キャスターの言葉が真実ならば、アイリスフィールだけではなく、愛娘のイリヤの事も助けられる。それはあまりにも魅惑的な誘いだった。だが、それを素直に甘受出来る程、衛宮切嗣という男は愚かではなかった。
 本当ならば、今直ぐにでもキャスターに頭を下げ、頼むべきだというのに、己の心に宿る疑念がその選択肢を切嗣から遠ざけた。

「っは、ァ、ヅ――――ッ!」

 喉が壊れたようだった。何一つまともに言葉にならない。焼け付くような痛みが全身を苛み、まるで、神経一つ一つが焼かれたようで、止め処なく、吐き気が込み上げる。
 苦しみに喘ぐ主の様子を見ながら、セイバーのサーヴァントは何も出来ない己に腹を立てた。ただ、その汗を拭う事すら己の身は貪欲に主の魔力を吸い上げ、主に更なる苦しみを与えてしまう。
 完全なるセイバーの失策だった。ライダーが乱入して来た時、直ぐに退却するべきだったのだ。にも関らず、功を焦り、主から魔力を吸い取ってしまった。その代償をまざまざと見せ付けられ、セイバーは霊体化したまま深い悔恨の思いに苛まされた。
 その時だった。ガチャリと部屋の扉が開け放たれた。視線を扉の方に向けると、そこには一人の少女が佇んでいた。

――――間桐桜。

 主である間桐雁夜が救おうとしている少女だ。何用だろうか、と考え、その手にある物を見て納得した。桜の手にはお盆が乗せられ、その上には水を張った器と手拭が乗せられている。どうやら、看病をしに来たらしい。
 ありがたい、セイバーは素直にそう思った。実体化するだけで苦しみを与えてしまう自分には出来ない事だが、今の雁夜には看病をしてくれる存在が必要だ。言葉は届かずとも、セイバーは胸中で呟いた。

『感謝する』

 通じては居ないだろうが、桜は甲斐甲斐しく雁夜の世話をし始めた。

『なんだ、あれは……』

 桜は雁夜の体を手拭で拭うと部屋を出て行き、その手に奇妙な物体を持って帰って来た。その手に握られているのは丸い団子のようであった。
 奇妙に感じ、ソッと覗き込むと、その存在の正体に思わず実体化し叩き落とそうとしてしまった。寸での所で堪えると、セイバーは主に胸中で謝罪をすると実体化した。

「それは何だ?」

 セイバーの実体化に桜はポカンとした表情を浮かべた。

「む、驚かせてしまったか……。私は主――雁夜殿のサーヴァント・セイバーだ」

 セイバーが名乗ると、納得したのか、桜は頭を下げた。

「間桐桜です」

 感情の起伏が少ない少女だ、とセイバーは感じた。無理も無い、あれほどの虐待を受けているのだから。にも関らず、こうして主の事を気に掛ける優しさを持っている。
 セイバーはこのような優しい少女を苛烈な拷問に掛ける臓硯に対し、更なる憤りを抱いた。

「これは刻印虫の一種です。沢山の魔力を吸収していて、雁夜おじさんに魔力を分けてくれるそうです」

 まるで、誰かに教えられたかのように話す桜の背後にセイバーは臓硯の存在を感じ取った。どうするべきか、悩んだ末に「頼む」と言って、セイバーは再び霊体化した。
 雁夜の苦しみが更に激しくなったのだ。如何に、臓硯の手による物であろうと、悪戯に手駒である主に危害を加える事はしないだろうと判断した。
 桜の手から刻印虫が雁夜の体内へ吸収されていくと、途端に雁夜の苦しむ声が止んだ。密かに安堵しながら、再び実体化した。今度は雁夜の息は安定したままだった。かなりの魔力を補給されたらしい、この分ならばある程度動き回っても大丈夫そうだ。

「感謝する」

 セイバーが言うと、桜は小さく頭を下げると部屋を出て行った。
 直後、雁夜が目を覚ました。

「……ここは?」

 意識が戻ったらしい雁夜は体を起こすと、体の痛みに顔を歪めた。

「大丈夫ですか?」

 セイバーが声を掛けると、雁夜は一瞬ポカンとした表情を浮かべ、やがて頭が正常に機能し始めたのか、納得したような顔をして口を開いた。

「あれからどうなった?」

 あれから、とは雁夜が意識を失う前の話だろう。

「あれから直ぐに退却致しました。ライダーとランサーはその後、直ぐに戦闘に移ったようです」
「そうか……」

 セイバーの報告を聞きながら、雁夜の脳裏に浮かぶのは戦場に立つ、そこに居てはいけない筈の少女の姿だった。

「何故だ……」

 雁夜は呻く様に呟いた。

「何故、あそこに凜ちゃんが居た……。いや、そんな事はわかりきっているか……」
「主よ、それは……?」
「大方、凜ちゃんが人質にでも取られたんだろう。それを時臣の赤いサーヴァントが助け出したんだろうさ。それにしても……」

 ククッと雁夜の喉から嗤いが零れた。

「主……?」
「見たか? あの時臣のサーヴァントの情け無い姿を! あの時臣のサーヴァントはランサーに手も足もでなかった。だけど、俺のセイバーは違う。あのランサーを圧倒してた!」

 雁夜は狂った様に嗤い続けた。その様はあまりにも痛々しく、また、常軌を逸していた。
 堪らず、セイバーは口を挟んだ。

「主よ。あの凜という少女は一体……。それに、時臣とは?」
「時臣は桜ちゃんの父親だ。こんな、糞みたいな家に、あんな蟲爺ぃに自分の娘を養子に出した人非人だ!」

 声を荒げる雁夜にセイバーはその心の内の憎しみに気が付いた。

「主よ、どうか落ち着いて下さい」
「落ち着いている! 俺は、ちゃんと落ち着いてる! セイバー。直ぐに打って出るぞ。俺達は一刻も早く聖杯に辿り着かなきゃいけないんだ。桜ちゃんの為に!」

 立ち上がろうとする雁夜をセイバーはその圧倒的な筋力によって抑えた。

「なんで邪魔する!?」
「主よ、落ち着くのです。今の貴方は憎しみに囚われている」
「俺は――――ッ! ……憎しみに、なんか……」

 歯を食い縛りながら、顔を俯かせる雁夜にセイバーは声を掛けた。

「主よ、貴方は蟲共の与える苦しみに心を乱しておいでなのです。今は、ゆっくりとお休み下さい。聖杯は必ずや、このランスロットが手に入れてみせます故」
「……そうさせてもらう。悪かったな、セイバー」

 雁夜は気分を落ち着かせ、ゆっくりとベッドに横たわった。雁夜が寝息を立て始めるのを待つと、セイバーはゆっくりと思考に耽った。
 今回は桜の持ってきた刻印虫のおかげで大事には至らなかった。だが、雁夜の命は危うい綱の上を歩いているようなものだ。
 些細な事でその灯は消えてしまう。戦いは慎重を期さねばならない。

「剣を抜くのは必勝を確信した時のみ。それまでは見るに徹しよう。私は勝たねばならぬのだ。必ず――――」

第十一話 雨生龍之介がバーサーカーを召喚した事で少し早めに決意を決めた少女の話

 穴だらけの記憶の中で一際鮮明に覚えている事がある。紅の閃光が己の心臓を刺し貫こうとした時、月光の如き輝きが己の身を救った。絢爛なる音色が響き、目の前に現れたのは音の響きとは大きく異なる無骨な鎧に身を包んだ騎士だった。
 一生涯――――否、生涯の後にも忘れる事の無い、たった十五日ほどの戦いの日々の始まりを告げたのは無骨な鎧が発する鋼の音。されど、彼の騎士はそんな、無骨な音すらも華美なる響きに変えた。

『――――問おう。貴方が、私のマスターか』

 闇を弾く澄んだ声が金砂の髪の騎士の喉から発せられた。

『召喚に従い参上した。これより我が剣は貴方と共にあり、貴方の運命は私と共にある』

 映像は磨耗して行く代わりに言葉は今も克明に脳に、記憶に、心に、魂に刻んでいる。

『――――ここに、契約は完了した』

 そう、契約は完了した。
 彼の騎士が己を主と選んだように、己もまた、彼の騎士の助けになると誓った。
 月の光は夜闇を冴え冴えと照らし出し、土蔵は騎士に倣うが如く静けさを取り戻した。
 磨耗し、忘れ去った銀色の月光の下で、騎士の金砂のような髪が月の光に濡れていた。記憶は朧となり、嘗ての理想も心も遠くへ置き去って来た。にも関らず、恐らくは刹那にも満たない一瞬の光景が焼き付いていた。
 僅かに振り向いた横顔。穏かな感情を秘める聖緑の瞳。時間はその瞬間のみ永久となり、騎士を象徴する青き衣が入口から流れてくる冬の寒い風に靡いていた。

 アーチャーは時臣の後に続いて遠坂邸へと足を踏み入れた。薄暗いラウンジらしき部屋に通され、窓際のソファーに時臣と向かい合う形で腰を降ろした。
 遠坂時臣。遠坂家の現当主と名乗った男は感情の見えない瞳をアーチャーに向けた。

「凜を護ってくれた事、改めて感謝する」

 最初にそう前置きをして、時臣はアーチャーを真摯に見つめて言った。

「回りくどい話は無しにしよう。単刀直入に言う。アーチャー、私と契約して欲しい」
「……セイバーは死んだのか?」

 アーチャーが問いを投げ掛けると、時臣は怪訝な表情を浮かべた。

「何故、セイバーの名が出る?」

 時臣の言葉に今度はアーチャーが眉を顰める番となった。

「あのタイミングでの助太刀。私はセイバーが君のサーヴァントだと考えていたのだが……」

 アーチャーの言葉に時臣は鼻を鳴らし、考え込むような仕草をした。

「確かに、セイバーの乱入は私達にとって有利に運んだ。だが、少なくとも私のサーヴァントではないよ。そもそも、私はサーヴァントの召喚自体、行っていないんだ」
「どういう事だ?」
「間抜けな話だが、私がサーヴァントを召喚する前に七つのクラス全てが召喚されてしまったのだよ」
「遠坂は御三家の一角だろう? 御三家を差し置いて他の候補者がサーヴァントを召喚するなどありえるのか?」
「御三家に優先して配布されるのはあくまでも令呪の兆しに過ぎない。令呪の兆しを持ちながら、召喚を先延ばしにすれば、聖杯はより聖杯を望む者に召喚の機会を与える」
「師の令呪が消失する寸前、私を含め、三人の魔術師がほぼ同時に召喚を行っていたと報告があった」

 時臣の言葉を捕捉するように綺礼が言った。

「昨日の午前二時にバーサーカー、及びアーチャー、お前が召喚された。そして、今日の午前一時にセイバーとライダーが同時に召喚され、それから一時間後にランサー、キャスター、そして、アサシンが召喚された」

 綺礼の言葉に頷きながら時臣が先を続けた。

「ランサーのマスターは時計塔きっての神童と謳われるケイネス・エルメロイ・アーチボルトである事が確認された。ロード・エルメロイと謳われる彼ならば御三家を差し置いて三騎士を喚び出す事も不可能では無いだろう。また、同時に召喚されたアサシンとキャスター。これは仮定の話だが、恐らく、キャスターのマスターは残る御三家――――マキリ、あるいはアインツベルンであると考えられる。可能性としてはマキリの方が高いな。そして、アサシンのマスターは私の優秀な弟子だ」

 アーチャーは時臣の言葉を咀嚼するかのように黙すと、納得がいったという表情を浮かべた。

「なるほどな。つまり、綺礼、君は聖杯に遠坂の魔術師として認められたというわけか」
「その可能性が極めて高い」

 アーチャーの言葉に時臣は自嘲気に言った。

「綺礼は遠坂の魔術回路を受け継いでこそいないが、現在、私の後継に最も近い位置にいる」
「なるほど、理由は分かった。だが、悪いがその申し出は断らせてもらうよ」
「君も聖杯を望むから召喚に応じたのだろう? 何故だ?」

 アーチャーの言葉を半ば予想していたのか、時臣は驚いた様子も見せずに言った。
 どこか事務的な口調で時臣は尋ねた。

「幼い娘を危険に曝してまで叶えたい願望など持ち合わせてはいないよ」

 アーチャーの言葉に時臣は深く息を吐いた。

「私としてもあの子を危険に巻き込む事は本意では無い」
「ならば……」
「だが、既にあの子が君のマスターである事はセイバーとランサーのマスターに露見してしまっている。恐らく、ライダーとキャスターのマスターもどこからか覗いていた事だろう」
「状況は差し迫っている」

 綺礼が言った。

「凜を保護するにしても、我々の戦力はアサシンのみ。間諜のクラスであるアサシンでは他のサーヴァントに攻め込まれた時、確実に防衛出来る保証は無い」
「監督役に保護を求めてはどうだ?」
「確かに、凜を護るならば教会に保護を求める事が一番確実なのだろうが、問題は我が父と師父の関係だ」
「どういう事だ?」
「私の父は此度の聖杯戦争の監督役を務める言峰璃正だ。父は聖杯を師父が手にする為に色々と手を尽くしている。そうそう気付かれるとは思わないが、同盟関係が明るみに出た場合、監督役の権威は失墜し、教会は安全な場所ではなくなる」

 綺礼の言葉にアーチャーは溜息を吐いた。

「打つ手なしか……」
「君との契約を除いてはね」

 時臣の苦笑を漏らしながらの言葉にアーチャーは瞑目し、やがてゆっくりと言った。

「私の主はあくまで凜だ。最終的な判断は彼女に委ねる」
「ああ、それで構わない。あの子は聡い子だ。分かってくれる筈だ」
「だと、いいのだがね」

 今日、初めて父に頭を撫でられた。抱き締められ、安堵の笑みを浮かべる父に凜は嬉しくて仕方が無かった。
 だから、そんな嬉しい気分をぶち壊しにしてくれた馬鹿の事が許せなかった。

「アーチャーのばか……」

 分かっている。
 これは戦争なのだ。
 国同士が争う戦争ではなく、人同士が争う戦争。
 ただし、いがみ合うのはたったの七人の魔術師。それぞれが過去に偉業を為した英雄を現世に呼び寄せ戦わせる。
 それが、聖杯戦争。英霊を召喚し、使役するという事は、聖杯戦争に参加するという事。聖杯戦争に参加するという事は、いつかは殺し、殺される立場になるという事。

「わかってるもん、そんな事……」

 アーチャーが凜に己を殺せと唆した理由は分かっている。
 凜の為だ。凜は魔術師としては未熟で、そのせいでアーチャーは弱体化している。
 弓兵のクラスなのに弓を使えなかったのは紛れもなく凜のせいだ。二時間程前、隠れ潜んでいた古い館がランサーのサーヴァントにバレてしまい、戦いを避けられない状況に陥った。アーチャーは弓兵なのに弓による狙撃は行わずに双剣を使って白兵戦に臨んだ。森を出て、綺礼の車に揺られながら遠坂の屋敷に向かう途中、凜は疑問に思ってアーチャーに問い掛けた。
 理由は単純だった。凜の魔力が足りなかったからだ。他にも、狙撃の条件とかの問題があったらしいけれど、何よりも重要なのは凜がアーチャーの足を引っ張ってしまったという事実だ。アーチャーは凜に現状を正しく理解させようと考えたのか、その点を包み隠す事無く凜に告げた。
 きっと、もうその時には凜に自害を命じさせようと考えていたに違いない。そう考えると無性に腹が立ってくる。
 狙撃の時だけでは無い。ランサーと遭遇した時に凜はアッサリとランサーのチャームの呪いを受けてしまった。そのせいで、アーチャーは防具である礼装を外して戦う事を強いられた。
 アーチャーは凜という足枷がある為に力を殆ど発揮する事が出来ない状態だ。ランサーとの戦いもセイバーの乱入が無ければ敗北に終わっていた事だろう。アーチャーは凜を護れないと悟ったから、凜に令呪で自害を命じろと言ったのだ。

「でも……、ヤダもん……」

 凜は枕に顔を埋めながら泣き続けた。
 頭に浮かぶのは最愛の妹が間桐の家に引き取られていく姿。
 車の窓から覗く遠ざかる遠坂の屋敷と父の姿。
 優しくしてくれたコトネの両親とコトネの無惨な死体。
 ランサーの槍の前に為す術を失ったアーチャーの姿。

「イヤダ……、イヤダ……、イヤダ……」

 繰り返し、胸中の汚泥を吐き出すかのように凜は呟き続けた。
 一言呟く度に妹の姿が脳裏に浮かび、コトネの姿が脳裏に浮かんだ。

 凜は突然襲い掛かった寒気によって目を覚ました。

「ひゃぅ!? な、なに!?」
「目が覚めたか? 凜」

 瞼を開くと、太陽の明りが目に差し込んで来た。どうやら、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
 目は眩んだけれど、この声には聞き覚えがある。凜よりも先に敬愛する父の教えを受け、弟子を名乗り、あまつさえ、凜を差し置いて時臣と共に聖杯戦争を戦う栄誉を手に入れた憎らしい男。

「何するんですか、綺礼!」
「そう怒るな。凜、寝惚けた頭ではまともな判断が下せまいと考え、老婆心ながら起こしにきてあげたんだよ」

 だからといって、布団を引っぺがすなんて暴挙は許されない事だ。

「もう! レディーの部屋に無断で入り込むなんて!」
「レディー……? なら、自分でちゃんと起きられるように努力する事だな。もう、八時を回っている。朝食の時間だ」
「え、うそ!?」

 慌てて部屋の時計を確認すると、確かに時刻は八時を回っていた。
 凜は顔を真っ青にした。

「た、大変、学校に遅刻しちゃう!」

 小学校の始業時間は八時半。遠坂の屋敷からだと急げばギリギリ間に合うかどうかだ。
 慌てて着替えようと服を脱ごうとしたところでゴホンとわざとらしい咳払いが聞こえた。そこで、部屋の中にまだ綺礼が残っている事に気がつき、凜は耳まで真っ赤になりながら悲鳴を上げた。

「どうした、凜!」

 すると、突然、今度は赤い男が床から生えてきた。
 あまりの衝撃、凜は再び悲鳴を上げる。

「何事でございますか、お嬢様!?」

 今度は音も無く黒い影が目の前に現れた。
 凜は殊更気が動転し、大きな声を上げ、三人の男を部屋から叩き出した。

「これでも飲んで、そろそろ機嫌を直してくれないか? マスター」

 アーチャーはご立腹な凛に蜂蜜たっぷりのホットミルクを出しながら言った。
 凜は大の男が三人も部屋の中に侵入するという大事件の後、部屋から男三人を追い出し、着替えをして一階の居間に降りたが、顔には未だに『私は今とっても怒っています』と書いてある。
 アーチャーは溜息交じりにキッチンへと戻ると、アサシンに労われながら朝食の準備に勤しみ始めた。

「アサシン。これを持っていってくれるかね?」
「承知した」

 遠坂邸のキッチンは今や英霊達の独壇場となっていた。
 朝食の準備は本来、時臣の妻である葵が居ない今、綺礼の仕事だったが、今迄教会の代行者としての修行に身命を賭していた綺礼の料理の腕はお世辞にも良いとは言えず、我慢ならぬとアーチャーが腕を振るうと言い出し、ならば、とアサシンが手伝いを申し出た。
 アーチャーが白兵戦(調理)に臨み、アサシンがサポート(お手伝い)する。英霊二人は見事なコンビネーションを発揮してテーブルに朝食を並べていく。
 その奇妙な光景に綺礼はなんともいえない微妙な表情を向けている。聖杯は招来される英霊に現代の知識を与えると聞くが、調理器具や料理の仕方まで教えるとは思えない。生前に培った能力だろうか、それにしては、コンロの使い方や炊飯器の使い方まで熟知しているのは不自然だ。
 綺礼はそつなく調理をこなすアーチャーのサーヴァントに違和感を覚えた。

「これでラストだ。綺礼、時臣を呼んで来てもらえるかね?」
「ああ、承知した」

 奇妙なサーヴァントだとつくづく思いながら綺礼は時臣を呼ぶべく地下の魔術工房へ足を踏み入れた。
 相変わらず、この部屋は如何わしい魔術用品で溢れている。時臣は何枚かの資料を読み耽っていた。

「師父。朝食の準備が整いました」
「ああ、綺礼。丁度良かった。これに目を通してもらえるかい?」
「これは……」

 時臣に手渡された資料に目を通すと、そこには令呪についての仔細な記述が載せられていた。

「令呪の移譲を君に頼もうと思っている。君の方が私よりもこういう事は得意だろうからね」
「承知致しました、師よ」

 朝食は終始無言のままだった。
 食器の鳴る音だけが響き、奇妙な緊張感に包まれていた。
 食事が終わると、時臣は口を拭い、紅茶を運んで来たアーチャーとアサシンに言った。

「中々の腕だな」
「口に合ったのならば幸いだ」

 紅茶を時臣の前に置きながらアーチャーは言った。

「お嬢様、こちらを」
「……うん」

 白い帯びに包まれたアサシンの手から凜はひったくるように紅茶を受け取った。
 時臣は紅茶を一口含むと凜に顔を向けた。

「さて、凜」

 凜は慌てて紅茶を飲み込むと時臣に顔を向けて居住まいを正した。

「は、はい!」

 ガチガチに緊張しながら己を見つめる凜の相貌を時臣は苦笑しながら見返した。

「お前はアーチャーを召喚し、マスターの一人となった」
「……はい」
「知識を身に付けなければならない。長い話になる。場所を移そう」

 時臣は凜をラウンジのソファーに連れて来た。
 凜をソファーに座らせると、自らも対面するようにソファーに腰を掛ける。しばらくして、綺礼が大量の紙束を持ってラウンジに現れた。

「まずは基礎的な知識から補填していこう。まずは、令呪についてだ」
「あ、アーチャーに聞きました。えっと、令呪とは、サーヴァントに対して強制的に命令を聞かせる事が出来る絶対命令権で、使い方次第では、強制転移やサーヴァントの強化も行えるって」
「その通りだ。このシステムを構築したのはマキリだ。聖痕の数だけ、令呪を発動する事が出来る。サーヴァントにも自由意志は存在するが、それを捻じ曲げて絶対に言いつけを守らせる呪文――――、それが、令呪だ。発動に呪文は必要無い。令呪を使用するという意志を持てば、令呪は自動的に発動する。一回使う度に聖痕は消える。故に、令呪の使用は必ず二回までとしなければならない」
「二回……ですか?」
「言っただろう。サーヴァントには自由意志があると。つまり、サーヴァントはマスターを裏切る事も出来るのだ。召喚者たる魔術師と英霊たるサーヴァントでは力が違い過ぎる。サーヴァントに裏切られたマスターにあるのは無慈悲な“死”だけだ。故に、最後の手段として令呪を一角だけ残さねばならない」

 時臣の言葉に凜は言葉を失った。
 理解してしまったのだ。
 何故、一角だけを残さねばならないのかの理由を――――。
 サーヴァントに裏切られた時、マスターに残された最後の手段は何であるか、それを考えれば、答えは必然的に一つに限定される。令呪でサーヴァントに自害を命じる事。それこそが最終手段だ。
 自由意志を捻じ曲げて命令を遂行させる令呪。その力は自害という非情な命令であっても効果を発揮する。顔を強張らせる凜に時臣は深く瞑目し、言った。

「あくまでも最終手段だ。そうそう、サーヴァントがマスターを裏切る事は無い。何故なら、サーヴァントである彼らもまた、聖杯を望むからこそ召喚に応じるのだから。マスターとの繋がりが無くなれば、サーヴァントが現世にその身を留まらせる事は出来なくなる。一部の例外を除いてだがね」

 時臣はチラリとアーチャーを見た。例外、それはこのアーチャーにも該当する。即ち、単独行動スキル。マスターとの繋がりが無くとも、ある程度現世に留まる事が出来るスキルだ。
 その間に他のマスターと契約を結ぶ事が出来れば、サーヴァントは再び戦線に復帰する事が出来る。故に、単独行動スキルがクラススキルとして登録されているアーチャーのクラスは最も裏切りを警戒しなければならないクラスなのだ。
 一晩観察した限りではそうそう裏切る性格をしているとも思わないが、腹の底では何を考えているか分からない。

「令呪は聖杯戦争において、最も重要なファクターの一つと言える。そして、もう一つ、重要なファクターがある。それは、サーヴァントだ」

 何を今更と思わないでは無いが、凜はよくよく考えればサーヴァンについての知識もあまり持っていない事を思い出した。

「サーヴァントとは過去、あるいは現代の死亡した、伝説上の英雄だ。マスターは寄り代として、英雄に関係する聖遺物、あるいは自らを媒体として英霊を喚び出し、聖杯の力によってサーヴァントを実体化させる」

 なるほど、と凜は思った。
 密かに疑問だったのだ。不本意ながらも未だに未熟な魔術師である己がサーヴァントという一つ上の格を持つ英霊の魂を実体化させるなど、どう考えても身に余る行為だ。
 聖杯という強力なアーティファクトが実体化を肩代わりしてくれているというのなら、その疑問も解決する。

「そして、ここからが重要だ」

 時臣はそう前置きをすると言った。

「サーヴァントを倒せるのはサーヴァントのみだ。これは決して変わらぬ不文律だ。強力なアーティファクトを用いれば可能性が無いとは言い切れないが、決してサーヴァントと一騎打ちをしようなどとは考えてはいけない。例え、相手が人の形を為していようとも、彼等は間違いなく人を超えた怪物なのだからな」

 凜はそっとアーチャーとアサシンを見た。アサシンについては実感が湧かないけれど、アーチャーの強さは昨夜、嫌という程肌で実感した。そして、アーチャーと戦い、後一歩まで追い詰めたランサー。

「マスターは基本的に後方支援に専念する事が聖杯戦争におけるセオリーだ。それを忘れてはいけない」
「……はい、お父様」

 たっぷり二時間掛け、漸く時臣は聖杯戦争について凜に与えるべき知識を語り終えた。
 聖杯戦争の始まり、聖杯戦争の歴史、御三家、各クラスの特性、語れば語るほど、教えなければならない事が溢れ出した。いつしか、その語りは遠坂の魔術、工房の管理の仕方、大師父の遺した遺産などにまで触れた。己を見つめる宝石の如き相貌を見つめる内に――――、それが、事実上、次代の遠坂当主として指名するも同然であると気が付いた。

「凜。お前には選択肢がある」

 語りながら、既に時臣は理解していた。

「だが、その前に伝えねばならない事がある」

 真摯に耳を傾ける己の娘がどう答えるのか。

「私はサーヴァントの召喚に失敗してしまった」

 凜は目を見開くも、そこには失望の色は無く、ただ、驚きと疑問だけがあった。
 時臣の語る自身の失敗談を聞きながらも、それを単なる事実として捉え、己の現状への理解にのみ執心していた。

「凜。お前の選択肢は三つある。一つ目はアーチャーの言葉を聞きいれ、教会の庇護下に入る事」

 凜は首を横に振った。

「二つ目はアーチャーを私に譲り、私の庇護下に入る事」

 二つ目の提案には凜は僅かに逡巡した。

「三つ目はアーチャーと共にこの聖杯戦争を勝ち抜く事だ」

 最後の提案に凜は先ほどまでとは打って変わり、表情を引き締め、背筋を伸ばした。その様子に時臣は諦観の思いで言った。

「私としては二つ目の提案を勧めたい。私が聖杯を手にする為に戦う機会を得たいからだ」

 時臣の言葉に凜は揺らぎ無く澄んだ黒い瞳を時臣に向けた。

「そして、私を護る為……ですね?」
「……ああ。教会は完全に安全であると保証出来ない。それに、お前を戦場に立たせる事は……、私の本意では無い」
「でも……」

 凜は言った。

「私は聖杯戦争に参加します」

 揺らぐ事の無い瞳を時臣に向けながら、凜は言った。

「私は遠坂の魔術師です。アーチャーを召喚し、マスターとなった事から逃げたくありません」
「凜。聖杯戦争は命を奪い、奪われる戦いなんだぞ」
「バーサーカーやランサーと対峙した時に嫌という程思い知りました。でも、私は逃げたくありません」
「遠坂家当主としての私の命令を受けても尚……か?」

 凜は一瞬、息を呑んだ。
 父の瞳は鋭利な刃物の如く鋭く冷たく凜を突き刺し、凜はそれでも必死に首を縦に振った。

「そうか……」

 真っ直ぐに見返す凜の瞳を見て、時臣は痛感した。一対の宝石の如き黒い瞳と時臣の母を思わせる美しい顔立ち。そして、その内に秘めたる卓越した魂。この少女は五代を重ねた遠坂が得た至宝なのだと、奇跡にも等しい稀有なる輝石なのだと。
 時臣はアーチャーと綺礼とアサシンに顔を向けた。彼らはそれで時臣の意思を理解した。

「凜」

 アーチャーは凜の横に立ち、膝を折った。

「それが君の意志か?」
「……そう、よ。それが、私の意志」
「……了解したよ、マスター。それが君の意志ならば尊重しよう」

 突然のアーチャーの変心ぶりに凜が驚いていると、アーチャーは苦笑しながら言った。

「なに、やはり、他人任せは性に合わないと考え直しただけだ。それに、正直な所、君を侮っていた。あれほどの戦いを経験し、あれほどの命の危機に曝され、それでも尚、心を折らずに戦いに向かえるその気概は大したものだ」
「え、あ、えっと、あ、ありがと……う?」

 いきなり態度を豹変させたアーチャーに凜は思わず顔を真っ赤にしながらしどろもどろになった。

「子供と侮り、君を侮辱してしまった事を謝ろう。一晩眠ったおかげか、魔力の供給量もその年齢を省みれば破格と言っていいだろう。万全とは言い切れないが、二度とランサー戦のような失態は見せぬと誓おう」

 居住まいを正し、礼儀正しく頭を下げるアーチャーに凜は助けを求めるように時臣を見たが、時臣は苦笑を洩らすばかりだった。

「え、えっと、じゃ、じゃあ、これからも、よろしく……ね?」
「ああ、よろしく頼む。必ずや君の手に聖杯を捧げる事を誓おう」
「う、うん」

 些か以上に意外だった。人間を遥かに超越した英霊たるサーヴァントにこうまで褒められ、素直にマスターとして認められるなどと思っていなかった。
 無意識に頬が緩む。そんな二人の様子を見ていた時臣は視線を二人から外し、綺礼に言った。

「綺礼。方針を変更するが、構わないかい?」
「仰せのままに」

 時臣の言葉に綺礼は苦笑しながら頷いた。

「アサシン。これより我等はそこなアーチャーとその主、遠坂凛と共に同盟を組み、戦う事とする」
「承知致しました、主よ」

 綺礼の言葉にアサシンは頷いた。

 そのまま、凜が呆気無いと思う程、時臣達は凜の聖杯戦争への参加を認めてくれた。その事に驚いていると、時臣は厳しい表情で言った。

「凜。聖杯戦争を戦うというのならば、今のお前はあまりにも無力過ぎる」
「――――ッ! ……はい」

 事実であるが、父の口から告げられた言葉は凜の胸を抉るように痛ませた。

「アーチャーは本来の実力を万全には発揮出来ない状態となり、まともに他のサーヴァントとぶつかる事は得策では無いのが現状だ。故に、これより我々の方針は情報収集と凜の修行に徹する事とする」
「情報収集と修行……ですか?」
「そうだ。情報収集はアサシンに頼む」
「承知致しました」

 時臣の言葉にアサシンは頷いた。
 赤と白の帯びに覆われた両腕を垂らした捉え所の無い暗殺者は霊体化したのか姿を消した。

「アーチャーには基本的にはこの屋敷の防衛を任せる」
「了解だ、時臣」

 アーチャーも姿を消し、残ったのは人間三人のみになった。

「それと、すまないがしばらく小学校に通わせる事が出来なくなる。下手に外に出て襲撃を受けるのは拙いからな」
「……はい」

 小学校と聞いて、コトネの事を思い出し、凜は思わず泣きそうになったが、必死に堪えた。

「我々は極力動かずに敵の情報を得つつ、サーヴァントが脱落するのを待つ。些か優美さには欠けるが、残るアーチャーとアサシンを除いた四体のサーヴァントが半数に減ってからが本番だ。それまでに凜、お前に厳しい修行を課す。覚悟はいいか?」
「はい!」

 不安も戸惑いもあるだろうに、それでも尚、瞳を揺るがす事無くきっぱりと答える凜に時臣は眩しさを感じながら心に決意を固めた。
 必ずや、この娘をこの聖杯戦争の勝者にすると――――。
 同時に凜も心に密かに誓った事があった。師たる父や己のサーヴァントの期待に応えるのは弟子であり、主である者として当然のコトだ。

『さーて、それじゃあ、ここは一つ、気合を入れて一人前になりますか』

 胸中で凜はそう、密かに呟いた。

第十話 雨生龍之介がバーサーカーを召喚した事で動き出した人の話

 ライダーのサーヴァント、イスカンダルは拠点である深山町中越二丁目にあるマッケンジー宅に帰り着いてから一言も言葉を発さぬマスターに参っていた。
 如何に嘗ての師と対峙したからといって、こうまで心を乱すとは、どうにも肝っ玉が小さい。

「いい加減、こっちを向かぬか、坊主」

 声を掛けるが反応は無い。
 仕方なく、イスカンダルは主たるウェイバーから視線を逸らし、テレビの電源を入れた。現代の科学技術という名の神秘を興味深げに眺め始めた。そんなイスカンダルの行動はウェイバーの神経を逆撫でした。

――――数刻前の事。

 ウェイバーは師であるケイネス・エルメロイ・アーチボルトから盗み出した所有物を寄り代にサーヴァントを召喚した。深夜の森は獣共の狂騒によりざわめいた。征服王・イスカンダル。彼の圧倒的なまでの存在感にウェイバーは呑まれた。その時の高揚感たるや、危うく絶頂に至り、射精してしまいそうになったほどだ。
 ウェイバーはサーヴァントという存在を誤認していた。使い魔というのは、あくまでも召喚者たるマスターの傀儡であり、魔術師から供給される魔力が無ければ、その身を維持する事も出来ない木偶人形であると考えていた。大地の底より轟くが如き声。鋭敏に輝く眼光。隆々たる筋肉の鎧。それら全てがウェイバーの持つ使い魔という常識を覆した。

「さあ、書庫に案内せよ!! 戦の準備である!!」

 獣の咆哮の如き声にウェイバーはただ首を縦に振る事しか出来なかった。
 マッケンジー邸はウェイバーが適当に見つけて潜り込んだ――外人が居ても不自然ではない――極めて普通の民家だ。
 当然、書庫などといえるものは無く、已む無くウェイバーはイスカンダルを近場にある図書館へと連れて行く事にした。中央図書館は新都の市民公園内にあり、道中、ウェイバーは気が気ではなかった。
 イスカンダルは森を抜けた時から自らの身を霊体と化し、ウェイバーの背に続いた。鎧を着込んだ大男と歩いて不審に思われるのを防げた点では大いに助かったが、彼の存在が発する威圧感は絶えずウェイバーの背中に圧力を掛け続けた。図書館に向かう道すがら、運良く誰にも出くわす事無く、冬木大橋を渡り新都に入る事が出来た。
 ところが、目指す市民公園に近づくと、突然イスカンダルは実体化した。

「こ、こんな目立つ場所で何を!?」

 ウェイバーは慌てて声を張り上げるが、イスカンダルは無言のままにウェイバーに背を向け、彼方を見つめた。
 その背に戦々恐々としながらウェイバーはゴクリと唾を飲み込んだ。

――――怖い。

 ウェイバーは自身すらも気付かぬ心の奥底でそう思った。非常警戒態勢を取る警察の職務質問を怖れたわけではない。目の前の巨躯の男が何をするつもりなのか判らない、それがとても怖いのだ。
 無論、そうそう謀反など企む筈が無いと判ってはいる。イスカンダルはウェイバーを寄り代として、ウェイバーの魔力供給によって現代の世界に繋ぎ止められているのであり、ウェイバーに万一の事があれば、消え去る他無いのだから。それに、全てのサーヴァントにはマスターの召喚に応えるだけの理由が存在する。それが、この聖杯戦争においては優勝者に与えられる聖杯。
 願望機たる聖杯が受け入れる願いは、最後に残ったマスターとマスターに付き従うサーヴァントによるものだ。願望機の恩恵を得る権限。これこそがマスターとサーヴァントの利害を一致させる。
 万一の場合においても、マスターには最終手段が残されている。それが身に宿りし三つの令呪だ。これがある限り、イスカンダルはウェイバーを裏切る事は出来ない。

「坊主よ、気付かなんだか?」
「あ、え、えっと、何が?」

 イスカンダルの言葉にウェイバーは震える声で曖昧に答えた。

「何かが駆け抜けおった。あれは――――、サーヴァントか」

 イスカンダルは高らかに笑った。

「ああも堂々と姿を晒すとは、愚か者か、はたまた勇猛か、どちらにせよ、戦端が開かれるは必至か」

 戸惑うウェイバーを余所に、イスカンダルは腰の剣を鞘から抜き放った。
 何事かと戦慄するウェイバーにイスカンダルは獰猛な笑みを見せた。

「向かう先を変更するぞ、坊主」

 ウェイバーが問いを投げ掛けようとした瞬間、落雷の如き轟音と振動が夜道を盛大に揺るがした。
 ウェイバーは腰を抜かし、そして――――、視た。

「空間を――――切り裂いた!?」

 イスカンダルの剣が空間を切り裂いた。虚空にぱっくりと空いた穴の先から何かが現れようとしている。脳裏に警戒音が鳴り響き、逃げろ、逃げろ、と理性が叫ぶ。
 のっそりとした動作で現れたのは牛だった。漆黒の肌の牛。ただの肉牛と変わらない筈なのにその姿にウェイバーは呼吸が停止した。
 ウェイバーはその存在に魅せられた。

「嘗て、ゴルディアス王がゼウス神に捧げた供物を轅の綱を切り落とし手に入れた。これぞ、我が宝具『神威の車輪――――ゴルディアス・ホイール』よ。さあ、乗るが良い。坊主」

 ウェイバーは首根っこを掴まれ、気付いた時にはイスカンダルの宝具の御者台に乗せられていた。イスカンダルの号令と共に神牛は大地を蹴り、虚空を蹴り、天空を疾走した。
 放出する強大な魔力とあまりにも常軌を逸した速度で道無き道を翔け回る自らが腰を降ろす牛車にウェイバーはサーヴァントがいかなる存在かを今一度改めて思い知らされた。
 英雄を英雄たらしめるものは、その英雄の人格だけに在らず。英雄を巡る逸話。英雄に縁を持つ武具や機器。そういった、象徴の存在。

――――宝具。

 サーヴァントが持つ最後の切り札にして究極の秘奥。この牛車は紛れも無く征服王・イスカンダルの持つ宝具。
 その圧倒的なまでの存在感にウェイバーはどこか現実感んを失っていた。

「さて、戦場へ赴くとするか、坊主」
「……ああ」

 呆然と呟くウェイバーに満足気に頷き返すと、イスカンダルは遠く彼方に視たサーヴァントの向かった方角へとゴルディアス・ホイールを走らせた。

「おうおう、観て見よ! 既に戦が始まっておるようだ」

 イスカンダルの言葉にウェイバーは恐る恐る御者台の外側に身を乗り出した。
 悲鳴を上げそうになった。自分はどこに居るのかと思えば、地上の建造物がミニチュアにしか見えない。遠くを見ると、同じ高さを飛行機が飛んでいる。

「さすがに、ここからではよく見えぬな。坊主、遠見の魔術は仕えぬのか?」

 ウェイバーは首を横に振りながら御者台の中で小さくなった。
 結界が張られているのか、この高度であっても寒さを感じないが、恐怖による震えが止まらない。

「仕方あるまい。見える位置まで降りるか」

 そう言うと、イスカンダルは神牛の手綱を握った。
 先程までの暴力的な速度ではなく、ゆっくりとした動きでゴルディアス・ホイールは降下を開始した。

「ほほう、中々の動きよな。あれは、ランサーとセイバーか」

 虚空に停止したゴルディアス・ホイールからイスカンダルはランサーとセイバーの剣戟を眺めた。
 ウェイバーには未だ微かに人影が動いている程度にしか見えない。

「むぅ、いかんな。これは、いかんぞ」
「……どう、したんだ?」
「互いに雌雄を決しようとしておる。このままでは、どちらか一方が脱落しようぞ」
「えっと、それって……、好都合なんじゃ」
「馬鹿者」

 ウェイバーは額に鋭い痛みを感じた。
 イスカンダルにデコピンされたのだ。
 堪えきれずよろめき、危うく落ちそうになり、慌てて御者台の手摺りに縋るように取り付き、イスカンダルを恨みがましい眼差しで睨んだ。

「折角の機会なのだ。異なる時代の英雄豪傑が同じ時代に現れ、矛を交える。この奇跡の如き一時を手にしながら、みすみすその機会を失うなど愚の骨頂であろう」

 見よ、そう言って、イスカンダルはセイバーとランサーの戦場を指差した。
 ウェイバーが釣られて視線を向けると、言った。

「あの場所で戦っておるセイバーとランサー。あの二人からして、共に胸を熱くする益荒男共よ。気に入った。ただ死なせるにはあまりにも惜しい」
「でも、聖杯戦争は殺し合いなんだぞ」

 屋根も壁も満足な柵も無い高度千メートルの場所で恐ろしい威圧感を発する己よりも数段大きい存在と二人っきりという状況に身を震わせながら、ウェイバーは言った。
 イスカンダルはそんなウェイバーの言葉を鼻を鳴らし切って捨てた。

「勝利して尚滅ぼさぬ。制覇して尚辱めぬ。それこそが我が真の征服なのだ。さて、見物もここまでにして、我等も戦場に参るぞ、坊主」
「え、ちょっと待って!」
「行かぬと申すならほっぽり出すが?」
「そ、そんな!?」

 あまりにも無茶苦茶なイスカンダルの言い草に絶句し、ウェイバーは渋々頷いた。

「……いき、ます」
「うむ! それでこそ、余のマスターである」

 言うと同時にイスカンダルは手綱を握り、神牛を走らせた。

「アアアアララララライッ!!」

 イスカンダルとウェイバーは戦場へと降り立った。
 よりにもよって、ランサーとセイバーの戦場の真っ只中へと降り立った。

「双方、武器を収めよ! 王の御前である」

 せめて、もう少し戦場から離れた場所に降り立っても良かったんじゃないか、そう思いながら、呆然と、ウェイバーは己を斬り裂かんと迫る死神を見つめた。

 ウェイバーはテレビを観ながら後ろ髪を掻くイスカンダルを見ながら思った。
 この男に気を許してはいけない、と。

――――翌日。

「じゃあ、また明日ね」

 深夜0時過ぎ、女性は同僚と別れ、わずかに酒気を帯びながら家路に着いた。周囲に人影は無く、同僚の乗ったタクシー以外にロータリーには車一つ残っていない。
 人の気配が完全に消え、女性は薄ら寒さを感じながら駅前パークを横切った。マンションは直ぐ近くだ。二駅離れた場所に家のある同僚に別れを告げ、一人寂しく歩いて帰るのはいつもの事。
 そう、いつもの事である筈だった――――。
 無人の街並みを歩いていると、不意に光の届かぬ路地裏から寒気を感じた。

「えっと、誰か居るのかな?」

 無論、返答など無い。馬鹿馬鹿しいと、カタチの無い恐怖に怯える己を叱咤しながら女性は歩を進めた。
 早く、家に帰ろう。歩く度、何かが後ろから迫ってくるような錯覚を受ける。女性は至って普通の善良な一般市民だ。誰かが後をつけている、そんな事に気が付けるテレビや小説の主人公とは違う。霊感があるわけでもない。だというのに、体の震えが止まらない。
 イヤな気配だけが徐々に濃くなっていく。気付けば歩みは早くなり、小走りでいつもとは違う道を行く。どうして、いつもの道を行かないのか、そんな考えは浮かばない。ただ、こっちの道は安全だ。そんな直感だけを信じ、気付けば息を切らしながら全力疾走している。
 何を怖がっているのか分からない。何故、この道を安全だと思うのか分からない。ただ、犬のように走り続ける。喉はカラカラに渇き、眩暈がする。なのに、不思議と汗が出ない。
 女性の脳裏には朝のニュース番組でキャスターの女が語るここ最近の冬木における事件が思い出されていた。
 連続猟奇殺人。奇妙な儀式めいた事件現場。その犯行の手口は恨みや憎しみによる犯行というよりも、むしろ、通り魔的な、愉快犯的な手口だと、キャスターは語った。
 今夜に限って、周囲に人影は無く、まるで、作り物の世界に迷い込んだかのような錯覚を受け、やがて、女性は終着駅へと到達した。

「あれ……?」

 そこは今度ビルの建つ予定の空き地だった。

「どうして、私、こんなところ……」

 何故か、喉から乾いた笑い声が響いた。
 どうして、こんな場所に自分から来てしまったのだろう。安全だと思う道を選んでひた走っていたというのに――――。

――――ああ、そうか。

 女性は漸く理解した。
 最初から逃げ道など無かった事に気が付いた。

「アハ」

 頭上から落ちて来るモノ。
 足元の地面から湧き出てくるモノ。
 悲鳴すら出せず、女性は背中から地面に倒れた。
 足元には無数の蟲が這い回っている。いや、今では背中や後頭部の周りにも蟲が這い回っている。
 冗談みたいな痛みを感じた。足が、腕が、まるでバッサリと切り落とされたみたいな酷い痛み。
 そんな筈は無いと思いながら指を動かそうとするけれど、そもそも感覚そのものが無い。
 視界は血に塗れ、ギリギリ生きている目で腕の先を見た。
 それが何なのかなど、女性には分からない。それが何をしているのか、女性には分からない。

「――――アハ」

 見た目は男性の性器に似ている気がする。
 本物を目にしたのは高校生の時に数度程度だから自信は無いけれど、芋虫のように男性器が自分の体を這いずり回る様はあまりにも現実味が無い。

「アハ……ヒャハ、わたシ、食ベラれてル?」

 まるで、むしくいだらけのリンゴのような自分の腕を見て、女性は狂ったように嗤った。
 こんな事、ありえない。

 きっと、今頃自分は――イタイ――部屋に戻り、お風呂で――イタイ――一日の疲れを――タスケテ――癒して、髪の毛を乾かして――イタイ――布団の中に潜って――ヒギ――目覚ましが鳴って――カエリタイ――起こされて――ヤメテ――会社に――タベナイデ――会社に――カイシャニ――会社に――イカナキャ――会社に――――イカナキャ。

――――凄惨な光景は五分とかからず終わりを告げた。

 そこに女性が居た痕跡は無く、代わりに一人の老人が横たわっている。
 老人はゆっくりと起き上がった。食事を終えた蟲共の姿は無い。自らの巣に既に帰ったのだ。老人の体の中に帰ったのだ。

「う、む――――、この首の挿げ替えだけは、いつになっても……慣れるものではないな」

 しわがれた声が老人の喉から響く。老人の肉体はとうの昔に滅びていた。今、こうして立っていられるのは、ひとえに間桐……否、マキリの魔術のおかげであった。
 既に出来上がっている体に寄生し、今日においても生き続ける妖怪、それが間桐臓硯――――マキリ・ゾォルケンの正体であった。
 元の体などどうでも良い。一人分の肉を蟲に喰わせ、臓硯という老人の姿を象らせる。どのみち、中身は蟲であり、人間としての機能は蟲共が果たす。その様は正しく擬態であった。

「セイバーの能力は予想を上回る。使いようによっては、此度の聖杯に手が届くやも知れぬ。さすれば、この苦しみから逃れる事が出来る……」

 間桐臓硯は新たな肉体を造る材料さえあれば、不死身の存在だ。だが、それは死徒と呼ぶにはあまりにもお粗末な在り方だ。不滅を維持する為に血だけでは足りず、肉体そのモノを喰らい、その度に苦痛に苛まされる。肉体は常に腐り続ける。
 今、作り上げたばかりの肉体も既に腐敗を初め、生きたまま肉体が腐り落ちる不快感と屈辱感、そして、自身が所詮、蟲なのだと受け入れざる得ない絶望感を抱き続けなければならない。
 自らをヒトでないモノに変貌させ、ヒトに擬態する。ゾォルケンの魔術には限界があった。活きの良い蟲共の作り上げる肉体には何も問題は無いが、肉体を作り上げる際に必要となる設計図たる遺伝子を失った臓硯は己の魂を設計図として蟲共に肉体を復元させている。肉体が所属する物質界の法則ではなく、その上にある星幽界という概念に所属する『記憶』。

――――それが、魂。

 魂が健在ならば、例え、肉体や遺伝子、細胞が滅びたとしても、己の肉体を復元出来る筈だと臓硯は考えていた。自身の魂のみを生かし、肉体を捨て去り、生きているヒトの肉を貪り、器を作り上げる。
 故に臓硯は老人――――マキリ・ゾォルケンの姿にしかなれない。
 臓硯とて、好き好み老人の姿を得ているわけではない。老人の姿にしかなれないのだ。そして、その肉体も定期的に挿げ替えなければ腐り落ちる不出来なモノであり、嘗ては一度の取替えで五十年以上を生きたものだが、今では数ヶ月に一度取り替えなければ存命出来ない矮小なる存在に成り果てた。
 その理由は設計図である魂の腐敗。時間の蓄積により、幽体が影響を受け、腐った構成図によって復元される肉体もまた、腐り落ちるのは当然の事であった。

「この、苦しみから解放されねばならん。骨の髄をも侵す時間という名の毒より解放されねばならぬ。届く可能性があるならば、分かるな?」

 惨劇と老人の独白を少女は終始その目に焼き付けていた。
 言うとおりにしなければ、こうなるのはお前だ。そう、老人は暗に告げるが如く、少女をこの場所に引き連れた。

「はい、お爺様」

 その瞳には希望の色は無く、あるのは諦観と絶望の暗闇のみ。
 胸に去来するのは、目の前で喰われた女のような末路は嫌だな、という思いだけだった。

第九話 雨生龍之介がバーサーカーを召喚したために悲しむ少女

――――深い闇の支配する森の中で、凜とアーチャーは更なる闇と対峙していた。

 暗い木々の枝の影に不釣合いな白い、月の如き面が浮かんでいる。人の骸骨で作られた面は道化の様な笑みを浮かべている。白い髑髏を前にアーチャーは己が半身とも呼べる陰陽の双剣をその手に投影し、だらんと両腕を垂らす独特の構えを取った。凜を背に隠し、仔細に目の前の存在を観察する。
 外套に隠した黒い体。真紅の帯に覆われた左腕と白い帯びに覆われた右腕。白い髑髏の仮面で隠した顔は闇に紛れ、輪郭すら明確に見えない。

「マスターがお呼びで御座います。凜お嬢様」

 黒い影が揺らぎ、表情など持たぬ髑髏の面が幼き魔術師の少女を凝視する。
 見つめられている事に気が付いた凜は戸惑いの声を上げるが、アーチャーは凜をアサシンに近づけまいと二人の間に体を割り込ませる。

「アーチャー?」
「凜、決して私から離れるな」

 静かに告げるアーチャーに凜は小さく頷き、アーチャーの赤原礼装を強く体に巻きつかせた。
 アーチャーは目の前の存在を警戒している。ランサーと対峙した時の比では無い。アサシンがわずかにでも動こうものならば全力を持って討伐せんと全身全霊を持って集中している。

「キャスター。……いや、アーチャーなのか? まあ、良い。とにかく、そう警戒するな」

 低く囁くような声が白の仮面の奥から響いた。

「戯言を……」

 殺気立つアーチャーにアサシンは小さく溜息を吐くと、アーチャーを隔てた先に立つ凜に言葉を投げ掛けた。

「我が主は言峰綺礼でございます」

 言葉に反応したのは凜だけではなかった。アサシンのサーヴァントはその卓越した洞察力により、わずかにアーチャーが動揺したのを見て取った。
 不審に思いながらも、アサシンは言葉を続ける。

「ご存知の通りかと思われますが、貴女のお父上と我がマスターは同盟関係におありで御座います。故、どうか」
「貴様の言を信ずる程愚かな事も無かろう。暗殺者」

 アーチャーはにべも無くアサシンの言葉を切って捨てた。
 暗殺者のサーヴァントたるアサシンはキャスター以上に姦計と間諜に優れた英霊だ。
 目的遂行の為ならば虚言を並べ立てるなどアサシンにとっては息を吐くも同然。

「なるほど、貴殿の言葉は尤もだ」

 仮面の向こうの表情は読めない。アーチャーのサーヴァントは鷹の如き鋭い視線をアサシンに対してだけではなく、あらゆる方角に向けていた。
 暗殺者たる存在は目の前に居ながらにして、無数の策を周囲に散らばせておくものだ。
 目の前に姿を現す。それは暗殺者の手法の一つである。意識を自身に向けさせる事で、周囲への警戒を怠らせ、目標を殺害する。
 無論、そんな手段は決して暗殺の常道では無い。だが、過去、そういった手法を取る者が居なかったわけではない。

「なれば、私の言葉ならば信じてもらえるかな? 凜」

 暗い森の奥から進み出てくる影があった。

「貴様は……?」

 アーチャーはアサシンから凜を隠しながら近づいて来る影に問うた。
 月明りがその顔を照らし出すと、凜は声を上げた。

「綺礼!」
「知り合いか、凜」

 アーチャーの言葉に凜は頷いた。

「大丈夫よ、アーチャー。綺礼は……少なくともお父様の弟子である事は事実だから」

 凜の言葉にアーチャーは綺礼を見た。

 アサシンはアーチャーの様子に奇妙な違和感を覚えた。先程までの己に対する警戒心が僅かに逸れたのだ。
 凜を信じたのだろうか、いや、それはありえない。何故なら、アーチャーは警戒を解いたわけではないからだ。その矛先が己から己のマスターへと切り替わっただけに過ぎない。
 解せない。アサシンのサーヴァントたる己を警戒するのは分かる。マスター殺し専門のサーヴァントと云われるアサシンのクラスである以上、どれほどの証拠を山積みにしても、そうそう信じてもらえるとは考えていなかった。故に、動かざる証拠として、マスターが危険を承知で同伴したのだ。
 だが、そのマスターを己以上に警戒する理由は何だ? 主が姿を現す事で更なる疑念を募らせたのだろうか、そうだとすれば、この上更に主の師であり協定を結んだ魔術師、遠坂時臣氏に来て頂く他無い。
 アサシンがそう考えを巡らせていると、主たる綺礼が口火を切った。

「サーヴァントよ、貴様の主の言葉を信じぬのか?」

 綺礼の言葉にアーチャーは何故か苛立ったように凜に声を掛けた。

「この男は信用出来るのか?」
「え、えっと……、し、信用……ま、まあ、出来ない事も無い……かな?」
「凜。出来れば、断言してもらえないだろうか」

 綺礼は窘めるような口調で言うと、アーチャーに視線を向けた。
 丁度、その時であった。突如、頭上を紫電の雷光が煌き、轟く雷鳴が鼓膜を突き破らんと降りかかった。

「あれは、ライダーか!?」

 同時に頭上を見上げ、アサシンとアーチャーの声が重なった。あまりにも強大な魔力と衝撃が地面を揺らし、先程までアーチャーがランサーと戦っていた場所にライダーが降り立った。
 都合、この場所にセイバー、ランサー、アーチャー、ライダー、アサシンの五体の英霊が揃った事になる。バーサーカーが既に敗退している以上、キャスターを除く全てのクラスが出揃った。

「いかんな、これは……」

 アサシンの声にアーチャーは綺礼を見た。
 信じるべきか否かを判じ兼ねている様子だ。

「アーチャー!」

 凜の声が静かな森林に響いた。

「綺礼に付いて行くわ。ここに留まるのは得策じゃないもの」

 逡巡するアーチャーに凜は凜とした表情で言った。

「凜……」

 アーチャーは凜を見た。
 その瞳は暗闇の中にありながら力強い輝きを秘め、アーチャーは深く息を吐くと頷いた。

「了解だ、凜。だが、警戒はさせてもらう。それと、私から決して離れるな」

 アーチャーはそう言うと凜を抱き上げた。
 慌てた声を上げる凜を無視し、視線を綺礼に向ける。

「それで、どこへ向かう?」
「我が師の屋敷だ。近くに車を停めてある。ついて来い」
「了解だ」

 半刻程、綺礼の運転する車に揺られ、アーチャーと凜は遠坂邸に到着した。
 気配遮断のスキルにより姿を隠しながら警戒の為に車と並走していたアサシンも今は綺礼の隣に立っている。アーチャーに余計な警戒心を抱かせないための配慮だろう。
 四人が遠坂邸の屋敷の敷地に足を踏み入れると、同時に、屋敷の扉が開き、一人の男が駆け寄って来た。アーチャーが咄嗟に構えるが、凜の一言に警戒心を解いた。

「お父様!」
「凜!」

 凜はアーチャーの手を離れ、父である時臣の下に駆け寄った。
 時臣は駆け寄って来る娘を抱き締めると、その頭を撫でた。

「よく、無事に帰って来てくれた」

 凜は父の言葉に涙腺を緩ませた。
 怒られると思っていた。禁じられた聖杯戦争に関与し、よりにもよってサーヴァントを召喚してしまった己を父はきっと叱るだろうと思っていた。
 だが、時臣は凜を責めなかった。只管、娘の無事に安堵し、喜んでいる。そして、頭を撫でている。
 僅かな間、呆気にとられた表情を浮かべ、凜はやがてその瞳を涙で潤ませた。

「お前が凜のサーヴァントか?」

 時臣は確認するような口調で背後に佇むアーチャーに問い掛けた。
 アーチャーは黙して頷き、凜に視線を向けた。

「凜」

 声を掛けられ、凜はぐずりながらアーチャーに振り向いた。
 昨晩、あれほど涙を流したというのに、どこにこれだけの涙があったのかとアーチャーは内心で驚きながら、微笑を浮かべ、凜に言った。

「ここならば安全だ。だから――――」

 凜はアーチャーの言葉に凍りついた。

「……え?」

 凜は聞き返すようにアーチャーを見つめた。アーチャーは安堵の笑みを浮かべ、凜の頬を流れる涙を指で掬い取った。
 時臣は黙したままアーチャーを見た。綺礼とアサシンもまた、言葉を無くし、アーチャーを見つめている。

「私に自害を命じるんだ、凜」

 何を言っているの、声も無く瞳で問い掛ける。
 アーチャーは様々な感情をない交ぜにした表情を浮かべる凜に苦笑を漏らしながら言った。

「ちゃんと、全ての令呪を使い切ってから命じるんだ。そうだな、最初の命令は動くな。これで、安心だろう? 次に、まあ、目を閉じろ、とでも命じるんだ。そして、最後に残った命令権で私に自害しろ、と命じろ。それで終わりだ」

 令呪の使い方は覚えているな?
 そう問い掛けるアーチャーに凜は体を震わせた。

「な、んで……」
「ん?」
「なん、で……そんな、事……言うの?」

 涙を零しながら、凜は震える声で問い掛ける。

「もう、私は不要だからだ。いや、これ以上、君の傍に居る事は害悪にしかならん」

 アーチャーは諭すように言った。凜は唇を硬く結び、首を横に振り続ける。
 アーチャーは根気良く語った。

「凜。君はこの戦で勝ち抜くには魔術師として未熟過ぎる。後、そうだな……十年」

 アーチャーの言葉はどこか確信に満ちていた。

「後、十年すれば、君はきっと素晴らしい魔術師になるだろう。それこそ、最強のマスターとして聖杯戦争を戦い抜けるだろう。だけど、今は未だ、その時じゃない」
「ヤダ……、ヤダ!!」

 凜は首を振りながら叫んだ。
 そして、時臣の手を掻い潜り、アーチャーの外套を引き摺って、アーチャーの足にしがみ付いた。

「どうして、そんな事言うの!?」
「凜、言っただろう。君では……」
「私が未熟な事なんて分かってる!!」

 凜の叫びにアーチャーは言葉を止めた。
 凜は鋭く目を尖らせ、アーチャーを睨みつけている。

「なら、アーチャーが守ってよ。私に足りない分はアーチャーが補ってよ!」

 凜の叫びにアーチャーは小さく息を吐いた。

「頑固者め。君は別段、聖杯に望む願いなど無いだろう? 私とて同じだ。ならば、無理に戦いに参加する必要などない」

 穏かな口調で言うアーチャーに凜は尚も首を横に振る。

「参加する理由ならあるもん! 私はお父様のお手伝いをするの! だから……、だから、貴方が必要だもん!」
「なら、尚の事。私に自害を命じるべきだ。父上の手伝いをしたいというのなら、私が消えれば、そこのアサシンや敗退したバーサーカー、それに、君の父上のサーヴァントを除けば残り三体にまで減る。十分に君は父の役に立つ事が出来るんだ。そら、躊躇う必要などないだろう?」

 アーチャーの言葉に凜は拳を握り、顔を俯かせた。何を言っても、この騎士は己を殺せと凜に言う。それが凜の為だと信じている。
 確かにその通りなのだろう。サーヴァントと共にあるという事はこの時期の冬木においては命を奪い、奪われる立場にあるという事。魔術師としても、人間としても未熟な今の凜のでは他のマスターにとってはかっこうの標的でしかない。
 アーチャーの自害を命じろ、という言葉。自害の意味など、小学生である凜とて知っている。確かに、アーチャーが居なければ、わざわざ凜の命を狙おうなどと考える魔術師は居ないだろう。
 けれど――――、

「イヤなものはイヤなの!」
「凜。聞き分けの無い事を言うな。君の命に関る事なんだぞ」

 アーチャーは困った様な顔で言う。
 そんな顔をさせたい訳ではないのに、凜は止め処なく涙を流しながらアーチャーから視線を逸らし、逃げる様に屋敷の中へと入って行った。

「凜!」

 アーチャーは咄嗟に追いかけようとするが、時臣が立ち上がり、アーチャーを静止した。

「お前と話がしたい」

 時臣の言葉に屋敷を一瞥した後、アーチャーは黙って頷いた。

「双方、武器を収めよ! 王の御前である」

 雷鳴と共に現れ、吼えるように叫ぶライダーにセイバーは踏み込んだ。二の句を告げさせる前にその存在を滅する為に。眼前に降り立った巨躯の男が何者であるかは分からない。何故、このタイミングでこの場所に現れたのかも分からない。
 セイバーを瞬間的に突き動かしたのは焦りだった。セイバーのステータスはライダーの襲来の寸前に軒並みダウンしていた。それは丁度、凜がアーチャーに抱えられ、この森を脱出した瞬間と重なる。
 未熟な魔術師たる間桐雁夜に召喚された事でセイバーは筋力B、耐久C、敏捷C、魔力D、幸運Dというおよそセイバーとは思えない程に低いステータスで現界した。筋力と耐久が互角であり、敏捷において大きく引き離されているランサーのサーヴァントと打ち合えたのは令呪によるブーストにより、己が宝具たる『無毀なる湖光――――アロンダイト』の力に頼った結果だ。
 令呪とはサーヴァントの意思によって効果が増減する。サーヴァントの意志とマスターの意志が一致しなければ、その効力は軽減され、サーヴァントの意思とマスターの意志が一致すれば、その効力は増大する。敵とはいえ、幼き少女を守らんとする雁夜の意志にセイバーは心から賛同した。
 それにより、強制転移という奇跡の後もその加護は継続し、セイバーに宝具の力を発揮させるのに十分な量の魔力を補填した。
 アロンダイトはセイバーの全ステータスを1ランク上昇させ、筋力と耐久の面でセイバーはランサーを上回った。かの騎士王すらも上回る剣技と1ランク上の力を組み合わせる事でセイバーはランサーと打ち合う事が出来、あまつさえ、圧倒すらしてみせた。
 だが、それもついさっきまでの事。マスターたる雁夜の令呪に篭めた命令は――――『凜ちゃんを助けろ!』というもの。凜が戦線を完全に離脱した事で令呪の加護は消滅し、宝具の力を発揮する為の魔力が失われた。アロンダイトの力を発揮させようと思えば不可能では無いが、それは即ち雁夜の命を削らせる事と同義だ。
 ただでさえ、既にサーヴァントの召喚、遠見の魔術、令呪の発動とその身にあまる奇跡を繰り返している雁夜にこれ以上負担を強いる事は出来ない。雁夜の寿命は刻一刻と迫っている。聖杯戦争が終わるまでは保たせると雁夜は豪語していたが、聖杯戦争の期間が長引けば、その限りでは無いだろう。
 雁夜を救う事が出来るとすれば、それは聖杯のみであり、雁夜の望みを果たさせる事が出来るとすれば、それもまた、聖杯のみである。
 時間は無い。負ける事は許されない。故に、焦燥するセイバーは踏み込んだ。
 突如現れたサーヴァント、その横に座る無防備なマスターに向かって。

――――嘗て、ランスロットは攫われた愛する人を救う為に馬に跨り、旅をした事がある。

 長い旅路の中で馬が死に、愛する人を追う為に農夫の荷馬車を使う他無い状態に陥った。ランスロットはそれが己の信仰する騎士の道に反すると考え、躊躇してしまった。
 結局はランスロットは荷馬車を使い、愛する人を追い、遂には救い出すが、愛する人はランスロットに冷たく接した。

『何故、躊躇ったのですか?』

 ランスロットが荷馬車を使う事を躊躇った事を愛する人は裏切りであると激しく罵った。それが彼を、彼が忠義を誓った王を、王の治めた国を破滅に追いやる事となった。ランスロットは己の理想とする騎士道を疑い、惑い、一夜の過ちを犯した。過ちの結果、ランスロットには子が産まれ、その事を愛する人に責められた時、ランスロットは己の求め続けた理想の追求を捨てた。
 ランスロットは愛に生きる事を望む己を制する事を止めた。結果は無惨なものだった。忠誠を捧げた王は死に、王の国は滅びた。
 ランスロットは最後の戦いに間に合う事が出来ず、償う機会を永遠に失った。愛する人との愛をも失い、晩年、ランスロットは剣を捨て、愛を捨て、僧籍へと身を投じ、後悔を重ねた。

 過ちは繰り返さない。忠義を誓った主の為ならば、例え騎士の道から外れようとも使命を全うする。騎士道を捨て、忠義を忘れ、愛を捨てたセイバーのサーヴァントの胸にあるのはそんな贖罪の心であった。
 同時に、怒りもあった。ランサーのサーヴァントと赤きサーヴァントの決闘に横槍を入れた自分。そして、己とランサーの決闘に横槍を入れた眼前のサーヴァント。
 一度は捨て去りながらも、尚、心に抱く騎士道を侮辱し、された。憤怒と贖罪、相反する二つの思いを胸に抱き、セイバーはライダーのマスターを両断せんと迫った。鳴り響く鋼と鋼のぶつかりあう音は己の剣を防がれた事を意味し、セイバーは尚もライダーのマスターを殺意を持って睨みつける。

「いかんな。こうも、話が通じぬとは」

 ライダーの戯言を聞き流しながら、セイバーは必殺の機会を伺う。
 その時だった。
 ラインを通じて、主の苦痛を感じた。宝具の力を発揮しているわけでもなく、ただ渾身の一撃を与えたに過ぎないが、たったそれだけで主の命は削られる。ただでさえ、今宵はサーヴァントを召喚したばかりで疲弊しているだろう時にこれ以上は現界しているだけで己は主を苛む毒となってしまう。

「ええい、聞かぬか! 余は――ッ」

 ランサーに視線を向け、セイバーは心苦しく思いながらも撤退の旨を告げ、霊体化した。
 次こそは決着を着ける。そう、胸に誓いながら。

第八話 雨生龍之介がバーサーカーを召喚したせいで話を聞いてもらえず溝が出来た二人

 振上げられる剣は僅かに木の葉の隙間から零れる月光を反射し、その幻想的な光景にウェイバー・ベルベットは不覚にも見惚れてしまった。隣に座する大男の声も耳には届くが脳には響かない。死神の鎌が自身の首を刈り取るのを呆然と眺めていると、大きな力がウェイバーを持ち上げた。
 鋼同士のぶつかり合う音が鼓膜を揺さ振る。何が起きたのか初めは理解出来なかった。

「貴様、余の言葉が聞こえなんだか?」

 自らのサーヴァントの轟くような声に漸く状況が呑み込めた。セイバーのサーヴァントの剣をウェイバーの従者たるライダーが己が剣により受け止めていた。
 セイバーは無言のまま更なる追撃の体勢を取る。同時に、ライダーとウェイバーの乱入により距離を取っていたランサーもまた、臨戦の体勢を取る。
 ウェイバーは頭を抱えた。このような状況は想定可能だった筈だ。サーヴァント同士の戦場に策も用意せずに乱入するなど愚行としか言い様が無い。何故、と己のサーヴァントに問い掛ける余裕も無いが、それでも脳裏に浮かぶのは何故、という疑問だった。何故、この様な愚行に走ったんだ。
 伝承に名高き征服王がこの様な致命的なミスを犯すなど、そう考え、ウェイバーの脳裏に嫌な考えが過ぎった。この男は己を死なせる為にここに連れて来たのでは無いか、と。元々、これほどの男が己のような矮小な魔術師に従えられて嬉しい筈が無い。わざと死地へ連れ、己を現世に召喚し、隷属しようとしたウェイバーに復讐しようと考えたのではないか。
 空間が歪んでいる。極度の緊張から来る平衡感覚の乱れだ。目の前にはセイバーとランサー。三騎士と呼ばれる七つのクラスの中でも特に優れているとされているクラスが二体。
 己はここで死ぬ。歯がカチカチと鳴る。吐き気がする。これが戦場。

――――舐めていた。

 自らの優秀さを分からせるなんて豪語しておきながら、ウェイバーは恐怖に震えた。

「いかんな。こうも、話が通じぬとは」

 落胆したような声を吐くライダーに対して悪態を吐く余裕も無い。
 吐き気と悪寒で今にも意識が途絶えてしまいそうなのは持ち堪えるのに必死で、口を開く事さえままならない。

「ええい、聞かぬか! 余は――ッ」
「む、マスター。クッ、ランサー、勝負を預ける。いずれ、決着を着けようぞ!」
「ナニッ!? ま、待て、セイバー!」

 ライダーが何かを叫ぼうとした途端、突如セイバーは慌てた様子で場を離脱した。霊体化し、風も無く姿を眩ませたセイバーにランサーは声を張るが、既にセイバーはこの場には居ないらしく、返事が返って来る事は無かった。
 ウェイバーは恐る恐るといった様子でランサーの様子を伺った。その顔を見た瞬間、ウェイバーはひきつけを起こしたかのように動けなくなった。
 
――――大気が凍りついた。

 呼吸すら困難な緊迫感が周囲を支配し、その中心で殺気を放つランサーの形相は尋常では無く、ただの視線が物理的な破壊力を伴い、ウェイバーを射殺さんと睨みつける。

「主よ。二度に渡る失態、申し訳ありません」
『……構わぬ。状況が状況だ。だが、ランサー。そこな愚か者を生かして帰す事だけはまかりならぬ。まったく、愉快だよ、ウェイバー・ベルベット』

 血を吐くばかりに言葉を紡ぐランサーに、虚空から低く地を這うが如き怨嗟の声が降り注いだ。
 愉快と言いながら、その実、その声には愉快さなど微塵も無く、あるのは只管に憎悪の感情のみ。

『何を血迷い、私の手配した聖遺物を盗み出したかと思えば、なるほど、君自らが聖杯戦争に参加する腹であったか』

 ウェイバーはその声の主を知っていた。そして、その憎悪の矛先が自分である事も。

「あ、え……」
『残念だよ、ウェイバー。実に、残念だ。可愛い教え子には幸福に生きて欲しい。私は常日頃よりそう願い続けていたのだがね。君のような凡才は凡才なりに、凡庸な人生を生きられたであろうに』

 とても、残念だ。残念そうとはとても思えない口調でランサーの主、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは言った。
 ウェイバーは頭上から見下ろされているような感覚を受け、恐慌に悲鳴を上げた。想像以上に苛烈な戦場の空気、尋常ならざる憤怒と憎悪。それらはウェイバーの心の防壁を瞬く間に砕き、陵辱し、彼を無防備にした。

『やむを得ぬよな。ウェイバー・ベルベット。君には私が特別に課外授業を受け持ってあげよう。魔術師同士が殺しあうという本当の意味――――その恐怖と苦痛を余す事無く教えてさしあげよう。光栄に思いたまえよ』

 恐怖に震えるウェイバーの肩に大きく力強い温かな手が添えられた。
 それが何であるか、ウェイバーは分かっていながらも、恐怖は更に増大する結果となった。

「おうおう、魔術師よ! 察するに、貴様は――――」

 隣に座る己のサーヴァントが何かを叫んでいる。
 聞こえない。
 聞きたくない。
 このサーヴァントは――――己を殺そうとしたのだから。
 ウェイバーは咄嗟に己に宿る令呪を意識した。これを使えば、この男を殺す事が出来る。いかに伝承にその名を轟かす征服王とて、令呪の縛りに抗う事は出来ない筈だ。生き残る為に必要な事は何だ。ウェイバーは頭の中で想像力を目まぐるしく働かせた。
 己を狙う者は誰だ?
 ケイネス、ランサー、ライダー、セイバー、セイバーのマスター。
 他にも見ている者が居るかもしれない。
 だが、セイバーや他のマスターはライダーが居なければ、殊更、ウェイバーを殺そうとはしないのではないか? そうだ、この場でランサーを殺し、ケイネスを殺せば、後はライダーさえ始末すれば、生き残る事が出来る。
 ウェイバーは暗く瞳を濁らせながら唇の端を吊り上げた。自らの優秀さを知らしめる為に参加したこの聖杯戦争。例え、優勝が出来なくても、ケイネスを、己の師を倒したとなれば、それは既に十分な戦果な筈だ。死の恐怖を目の当たりにし、ウェイバーの心はわずかな間に酷く磨耗していた。
 ライダーはケイネスに対し、ウェイバーを擁護する言葉を紡ぐが、その言葉がウェイバー本人に届く事は無く。ウェイバーは己が令呪に意識を向け、叫んでいた。

「――――臆病者なぞ、役者不足も――ッ」
「ライダー!」
「ッ――――坊主、何を!?」

 突然の事に目を剥くライダーにウェイバーはしてやったりと暗い喜びを感じながら令呪を発動した。

「ランサーを殺せ! お前の全力を持って!」
「坊主……貴様……ヌゥ――――ゥオオオオオオオオオ!!」

 令呪の消失と同時に、凄まじい旋風が巻き起こった。
 計り知れない魔力の放出と共に、熱く乾いた、焼け付くような夜の森であり得ない筈の――まるで、灼熱の砂漠を吹き渡ってきたかのような、轟然と耳元に唸る風が森の木々を薙ぎ倒し、ウェイバーは思わず目を腕で庇った。ざらつく礫を舌に感じ、唾と共に吐き出しながら辺りを見回すと、そこは既に森ではなかった。

「砂漠……?」

 ウェイバーはライダーの宝具たるゴルディアス・ホイールに乗りながら砂漠の中心に居た。隣にはライダーが憂うような眼差しをウェイバーに向けていた。
 ウェイバーは咄嗟にその視線から逃げる様に顔を背け、ライダーはその視線をランサーに向けた。

「これは、余の見込み違いであったか……。いや、令呪の命とあっては、サーヴァントとしては従わぬわけにはいかぬな。ランサーよ、見ての通りだ。この世界、この風景、これこそが、ライダーのサーヴァントにして、征服王の異名を持つイスカンダルが誇る最強宝具・王の軍勢――――アイオニオン・ヘタイロイである!! これを使った以上、もはや、貴様の勝利は無い。最後に問うておこう」

 ライダーはゆっくりとした動作でゴルディアス・ホイールの御者台を降りると、目の前に尚構えを取り続けるランサーに問いを投げ掛けた。

「ランサーよ、我が軍門に降り、余の配下とならぬか? さすれば、余は貴様を朋友として遇し、世界を征する快悦を共に分かち合う所存である」

 ライダーの言葉をランサーは眉も動かさず無視し、ウェイバーは己の内に生み出た疑念を確信に変えた。ライダーは敵と手を組む気だ。令呪で命じられながら、ランサーが応じていれば、敵と組む気だった。そして、敵と共に己を殺すつもりなのだ。事もあろうに、ウェイバーを辱めたケイネスと共に。
 殺すしかない。僅かに残っていた躊躇逡巡の気持ちも消え去った。殺される前に殺すしかない。その前に、少なくともケイネスだけは殺す。
 体を震わせながら、ウェイバーは心に誓った。
 そんなウェイバーをライダーは哀れむように見つめていた。ライダーはウェイバーがケイネスという存在に恐怖し、令呪を使ったのだと考えていた。それ故に恐怖に震え、令呪を用いて己を隷属させる矮小なるマスターに対し、怒りを感じる事は無く、唯只管に、ライダーはウェイバーを哀れんだ。
 些細な擦れ違いは既にあまりにも強大な溝となり、二人の心を引き離していた。

「返答が無いのは拒否と捉えてよいか?」
「戯言はそこまでにしておく事だな」

 ランサーはライダーの問いを切って捨てた。主たるケイネスの使い魔の気配は消滅している。
 恐らく、この結界空間が外と内とを遮断している為であろう。

『まさか、これは……固有結界か!? 退け、ランサー!!』

 それがケイネスとの最後の通信であった。

――――固有結界。

 魔術に造詣が深いわけではないが、少なくとも、ここが結界空間である事だけは理解出来た。そして、その力の強大さも。
 ランサーの目に映るのはライダーとそのマスターだけではない。ライダーの宝具たる二頭の牡牛の牽く牛車のその後ろに無数の揺らめく影が見える。それら一つ一つが徐々に色を持ち、輪郭を持ち、厚みを備えていく。

「この世界、この景観は我等全員の心象である」

 マスターに与えられる英霊のステータスを見破る透視能力を持たないランサーには分からぬ事だが、そこに並び立つのは一人一人が英霊であった。
 評価不可能なランクA++を超える力を誇る対軍宝具。独立サーヴァントの連続召喚。
 軍神が、マハラジャが、以後に歴代を連ねる王朝の開祖が、ライダーを中心に並び立つ。一人一人が伝説を持つ勇者であり、その出自のみを同じくしている。嘗て、偉大なるアレキサンダー大王と共に並び立ったという出自を。
 ライダーは乗り手の居ない一際大きく精悍で逞しい駿馬に跨り、ランサーのサーヴァントと対峙した。そして、ランサーを圧倒的な数により取り囲んだ。

「蹂躙せよ」

 ライダーの紡ぐ一言に空気が震えた。無数の勇者達の雄叫びが天を突き、地を揺るがした。
 嘗て、アジアを東西に横断した無敵の軍勢がランサー一人を蹂躙せんと、進軍を開始した。
 一人一人が最高クラスの英傑であり、ランク:E-の単独行動スキルを保有するサーヴァントを相手にされど、ランサーはその口に笑みを作った。

「なるほど、セイバーにしろ、ライダーにしろ、礼儀知らずではあっても、その力は本物という事か」

 己が握る双槍を翼の如く広げ、ランサーは蒼天を貫く軍勢の雄叫びを塗り潰すが如く声を上げた。

「我が名はフィオナ騎士団が随一の騎士、ディムルッド・オディナである! いざ、参らん!!」

 全方位から進軍して来る無敵の軍勢を前にランサーは恐怖など無かった。それは、ついさっき使い魔では無く、ラインを通して聞いたマスターの言葉があったからだけでは無い。それを上回る怒り、そして、更にそれを上回る戦場の高揚感がランサーから恐怖と言う感情を蓋い潰した。
 視界に入る敵の数はざっと数えて万を越える。圧倒的などという話ではない。まさに絶望的な戦力差だ。
 剣を持つ者、槍を持つ者、弓を引く者、騎馬に跨る者。数など数えていても仕方は無い。ランサーのサーヴァント、輝く貌のディムルッドは今、単騎にて征服王の軍勢へと駆け出した。

 ウェイバーはその光景をただ呆然と眺めていた。己のサーヴァントの宝具の凄まじさに圧倒されたのではない。勿論、それもあるが、それ以上にウェイバーの心を震わせ、魅せたのはランサーのサーヴァントであった。ランサーのサーヴァントは無数の軍勢に取り囲まれながら既に十分もの間戦い続けている。
 音速を超える槍撃、稲妻の如き斬撃、暴雨の如き矢、鉄をも砕く斧。それらを圧倒的な俊敏により躱し、己の宝具を振るい続けている。聖杯戦争に参加するマスターに与えられる特殊能力たるサーヴァントのステータスを看破する透化の能力はサーヴァントそれぞれの能力をウェイバーに教えてくれる。マスター不在な為か、その能力は軒並み低い。
 逆に最高クラスのマスターを持つランサーのステータスは特に敏捷が他を圧倒している。そうなったのは対人ではなく、大軍宝具故であろうか、ライダーの最強宝具はその最強たる所以の物量の数を活かし切れずに居た。ライダーの号令により形を変えても、ランサーを捉える事が出来ずに居る。弓を引く英傑はされど音速を越え同志の合間を縫い移動し続けるランサーを狙う事が出来ず、剣、槍、斧、槌を握る者は一人残らずランサーの動きを捉え切れない。
 相手が敏捷のステータスが低い英霊であれば、こうはならなかっただろう。常識を超えた速度で移動し続け、決して癒えぬ傷を負わされ、鎧を貫通され、徐々に英傑達の数は減ってゆく。歴史に名を残す英傑がその身を霧散させていく様をライダーは無表情で見つめていた。

「聖杯に選ばれし英傑。これほどか……」

 あり得ざる会合。
 あり得ざる戦い。
 それが故に起こるあり得ざる状況。

――――それは、神話の再現と言っても過言では無いだろう。

 砂塵の中を音速で駆け抜けるランサーの姿はもはやウェイバーには翡翠色の風にしか見えず、風が通り抜ければ人が死ぬ。
 屈強なる男の体に無数の穴が開き、重厚な鎧を纏う者が胸に小さな穴を空け、そこから血を流している。

「だが、ここまでよな」

 ライダーの言葉にウェイバーは不思議に思うと、視界の中でついに一人の剣士の刃がランサーに届いた。
 圧倒的な物量とはそれだけで脅威。既に三騎士たるセイバー、そして、双剣を振るうキャスターと戦い、能力が低下しているとはいえ、無数のサーヴァントを相手に戦い続け、ランサーは確実に疲弊していた。徐々に矢はランサーを捉え、斬撃や槍撃はランサーに血を流させ始めた。
 眼に見えて動きの悪くなるランサーにウェイバーは勝利を確信し、そして――――。

「え……?」

 突如、ランサーの姿が消失した。霧のように姿を消したランサーにサーヴァント達も戸惑いを見せている。

「令呪による強制召喚か……。なるほど、初めからそのつもりであったか……」

 ライダーの重い口調にウェイバーは漸く事態を飲み込み、歯噛みした。取り逃がした、と。残りの令呪は二つであり、一つで己のサーヴァントに自害を命じなければならない。なれば、残る一つで確実にランサーとケイネスの双方を仕留めなければならない。その上、それまでは目の前で馬に跨る己を殺そうと企む殺戮者と共に在らねばならない。
 ウェイバーはその事に恐怖し、打ち震えた。その様子にライダーは気が抜けたのだろうと考え、苦笑しながら固有結界を解除した。

「返るぞ、坊主」
「…………ああ」

 互いの心を知らぬまま、ライダーとウェイバーの初戦は終わりを告げた。

第七話 雨生龍之介がバーサーカーを召喚した為に自らの意思で戦場に立った人の話

 間桐の家の庭に雁夜は己が召喚したサーヴァントと共に居た。僅か一年の修行でサーヴァントの召喚を可能とする程に成長を遂げた雁夜であったが、やはり、急造のマスターでは召喚した英霊のステータスに不本意な影響を及ぼした。軒並みのステータスが低下し、およそ、セイバーのサーヴァントとは思えない状態だ。
 セイバー自身は特に気にする必要は無いと言うが、自分の情けなさに雁夜は歯噛みした。庭で低下した能力の調子をセイバーに確かめさせたが、やはり、生前の強さを発揮するには至らないらしい。バーサーカーとして召喚していれば、ステータスの低下をある程度緩和出来ていた事だろうが、現れたのはセイバーのクラス。最優と呼ばれているクラスで召喚されたのは不幸中の幸いだったが、出足で躓いた感は否めない。

「雁夜よ。やはり、軒並みのステータスが本来のステータスよりも大幅に落ちているようだな」

 背後から声を掛けられ、雁夜は不快に顔を歪めた。セイバーも表情を曇らせ、声の主に顔を向ける。
 虫のざわめきに紛れでもしたのか、いつの間にか、そこに間桐家の当主たる間桐臓硯が立っていた。不愉快そうな面持ちでセイバーを一瞥し、臓硯は雁夜に手に持っていたものを放った。男性の性器に似た醜悪な姿の芋虫が雁夜の服にへばり付くと、服の隙間から入り込んだ。
 激痛が走り、苦悶に顔を歪める雁夜にセイバーは憤怒の視線を臓硯へと向けた。

「よせ……、セイ、バー」

 苦痛に喘ぎながら、雁夜はセイバーを制した。己のマスターの命令にセイバーは眉間に皺を寄せながら自身の怒りを抑えると、己のマスターの負担とならぬよう霊体化し、姿を消した。
 既に、セイバーは雁夜の戦う理由と雁夜に仕掛けられた臓硯の首輪の事を聞いている。いざとなれば、臓硯は雁夜の体内の刻印虫を操り、雁夜を殺す事が出来る事を。

「街に放しておった刻印虫がサーヴァント同士の交戦を確認した。郊外の森にあるエーデルフェルトの双子屋敷の片割れじゃ。今、貴様にくれてやった刻印虫とパスが繋がっておる。意識を傾けてみよ」

 雁夜は痛みを押さえつけ、臓硯の言うとおりに意識を傾けた。肉を食い破り、代わりにその場所を己の住まいとした忌々しい虫けらに。
 途端、雁夜の視界に地面スレスレを這いずる刻印虫の視界が映り込んだ。遠目にサーヴァント同士が向かい合っている様子が見える。

「あれは――――ッ!?」

 居たのはサーヴァントだけでは無かった。
 何故、そこに居るのかと雁夜は言葉を無くした。雁夜が愛した女性の娘の片割れが双剣を握る赤いサーヴァントの後ろに立っている。
 まるで、マスターのように。

「凜、ちゃん!?」

 遠坂凛。遠坂葵の娘であり、間桐に引き取られ、今も修行という名目で性的な虐待を受け、心を摩り減らしている間桐桜の実の姉。
 未だ小学生である筈の彼女が何故、聖杯戦争に参加しているのか分からない。ただ、分かる事は凜が危険に陥っている事だけだった。もし、凜が死ねば葵や桜が悲しむ。雁夜は視界の中で宝具を解放したランサーに追い詰められる赤いサーヴァントに苛立った。

「何やってるんだ。お前がやられたら、凜ちゃんが!」

 だが、そんな雁夜の声は虚しく間桐の屋敷の庭に響き、赤いサーヴァントは今にも倒されようとしている。
 雁夜は咄嗟に叫んでいた。

「待て、雁夜よ。貴様、何を!」
「セイバー! 凜ちゃんを助けろ!」

 瞬間、先程まで近くにあったセイバーの気配が消滅した。代わりに、視界の中にセイバーが現れた。
 雁夜は一瞬にして、遠く離れた場所である筈の視界の向こうに現れたセイバーに呆気を取られたが、セイバーが魔力を放出させた拍子に刻印虫が弾け飛び、衝撃と共に意識が本来の間桐雁夜の視界へと戻った。

「何と、愚かな。三度限りの強制命令権を、よもや敵のマスターの為に使うなどと……」

 臓硯の呆れた口調に苛立ちながら、雁夜は目の前で起きた不可解な現象について合点がいった。今のが令呪による絶対命令権の発動。
 歴史に名を残す英傑に己が命を遂行させ、命令次第では大魔術の真似事すら可能とする間桐臓硯が作り上げた聖杯戦争のシステムの重要なファクター。

「うるさい。セイバーがあのランサーを倒せば問題無いだろう」

 雁夜の言葉を臓硯は鼻で笑った。

「ステータスの低下したセイバーであのランサーに勝てるつもりか?」

 雁夜は唇を噛み締め、心を必死に落ち着けると、臓硯を睨み付けた。

「爺ぃ。あの場所に他の刻印虫は?」
「少し離れた場所に一匹居るのう」
「なら、パスが繋がっている刻印虫を寄越せ」
「構わぬが、英霊の召喚を行ったばかりの貴様の今の魔力ではそろそろ限界なのではないか?」
「うるさい。いいから、寄越せ!」

 臓硯は愉快そうに嗤うと、一匹の刻印虫を取り出した。何度見ても怖気の走る蟲だ。臓硯から受け取り、体内に取り込むと、再び凄まじい激痛が走った。
 目を瞑り、痛みに耐える。一年間付き合い続けた痛みと苦しみだ。乗り越える術は文字通り体で覚えた。
 深く息を吸い、吐く。数度繰り返し、意識を鮮明に保つ。刻印虫に意識を傾け、瞼を閉じたまま、瞼を開く。刻印虫の視界が映り、セイバーとランサーの戦いは既に始まっていた。

 ずるずるという音。それが召喚され最初に聞いた音だった。果たして、それは鳴き声なのか、粘液を垂らし這いずる音なのか、判別が出来ぬ腐敗した世界。
 石壁に包まれ、蜜の様に甘い空気が漂い、地面には無数の醜悪な蟲が蠢いている。

「セイ、バー?」

 視界に映り込んだのは死をイメージする容貌の白髪の男だった。ラインの繋がりが彼を己のマスターであると教えてくれる。

「然り。セイバーのサーヴァント。名をランスロット。聖杯の寄る辺に従い、ここに参上仕った」

 マスターはランスロットの名乗りを聞き、顔を輝かせた。ずるずると爛れた皮膚を引き攣らせながらも、喜びを露わにする主にランスロットは驚いた。
 湖の騎士・ランスロット。彼は誉れ高き騎士として多くの二つ名を持つが、それとは正反対の二つ名もまた冠していた。
 裏切りの騎士・ランスロット。自らの理想の為に自らが最も尽くすべき相手を滅ぼした愚か者。マスターとして、これほど信頼の置けないサーヴァントも他には居ないだろう。だと言うのに、何だ、このマスターの喜びようは。ランスロットは訝しむように主たる男を見た。
 暗く澱んだ瞳は死んだ魚のようで、皮膚は死人の如く白い。まるで、死体が生者の真似事をしているかのような様相だ。

「円卓の騎士。アーサー王よりも強い騎士。それが、俺のサーヴァント。勝てる、お前なら、お前と一緒なら、桜ちゃんを助けられる」

 喜色を浮かべ、ゆらりゆらりと歩み寄る主の足取りは酷く覚束ない。
 咄嗟に手を伸ばすと、主はランスロットに濁った瞳を向けた。

「俺は間桐雁夜。俺はどうしても、この聖杯戦争に勝利して、聖杯を手に入れないといけないんだ。だから、俺に力を貸してくれ」

 嗄れ声の主の言葉にランスロットは頷いた。元よりそのつもりだ。召喚に応じた時より、主に忠誠を誓う。理想を違えてしまった生前の過ちを正す為にも、自らの罪を贖罪する為にも、王に捧げる事の出来なかった真の忠誠を今世の主に捧げる。
 それこそが、ランスロットの召喚に応じた理由だった。

「我が身は主が剣。如何様にもお使い下さい。我が主よ」
「ふむ、クラスの指定には失敗したが、召喚する英霊までは間違えなかったようじゃな」

 耳障りな声が響いた。声の主の方へ顔を向けると、怨念の渦巻く闇の中心に一人の老人が立っていた。死臭を思わせる不快な臭いが漂う。
 ランスロットは足元を蠢く蟲共の絨毯と同じ気配を老人に感じた。あまりにも醜悪に過ぎる存在。

「主よ。あの者は……」

 警戒心を露わにし、手に握る聖剣を老人に向けると、突然、主が苦悶の声を上げた。
 老人が快活に笑う。

「貴様、我が主に何をした!」

 苛烈な殺気を放つランスロットに老人は嗤いながら言った。

「そやつの身の内には儂の分身たる蟲が住み着いておる。雁夜に従属したとは言え、儂が命ずれば、瞬く間にそやつの肉片を喰らい、心の臓を食い破るじゃろう」
「なんだと!?」

 老人の正体が分からず、主の命が手玉に取られている状況でにランスロットは憤怒しながらも動けなかった。

「儂を殺そうなどとは思わぬ事じゃ。儂に手を出せば、貴様の主が死ぬ事になるぞ。無論、雁夜が救おうとしておる桜もな」

 臓硯の言葉に蹲り、苦しみに喘いでいた主が声を荒げた。

「臓硯! 俺は必ず聖杯を手に入れる。だから、桜ちゃんに手を出すな!」

 体を内側から削られ、尚も他者の為に憤る。ランスロットは臓硯に怒りを感じながら、同時に感動してもいた。
 死人の如き容貌でありながら、騎士道に通じる気高き心を持つ主に。

「臓硯とやら」
「何じゃ?」
「私は必ず主に勝利を捧げる。故、主に手を出さぬよう願いたい」

 目の前の存在は紛れも無く悪であるとランスロットは断じながらも、主の命、そして、主が護ろうとしている桜という存在の命の為に、屈辱と憤怒を抑え、ランスロットは臓硯に頭を下げた。

「よかろう」

 途端、主の苦しむ声が止み、主は行き絶え絶えに床に転がった。
 主の体を蟲共が這い上がろうとしているのを見て、ランスロットは主を抱き抱え、魔力を放出し、蟲共を払い除けた。すると、再び主が悲鳴を上げた。

「無駄に魔力を浪費せぬ事だ。セイバーよ」
「貴様、今度は何を!?」

 ランスロットが怒りの矛先を向けると、臓硯は窘めるように言った。

「儂ではない。今、雁夜を苛んでおるのは貴様よ、セイバー」
「なんだと!?」
「そやつは一年前、魔道に足を踏み入れ、無理な修行により擬似的な魔術回路を作り上げた。言わば、魔術師の模造品よ。そやつは貴様を維持する為の魔力を体内に住まわせておる刻印虫に自らの血肉を捧げる事で生成しておる。貴様が無駄に魔力を放出すれば、マスターたる雁夜はその分、体内を食い荒らされ、死に近づく」

 臓硯の言葉にランスロットは戦慄した。魔道に造詣が深い訳ではないが、ランスロットの知る限り、魔術とは外道なる法だ。だが、主のソレは常軌を逸している。
 自身の血肉を蟲に喰わせるなど、命を投げ捨てているようなものだ。

「戯言を弄する気か! その様な真似をすれば、主の命は――――」
「ああ、そやつの命は保って数週間じゃろう。じゃが、聖杯戦争の間のみ生き延びる事が出来れば、それで良いと刻印虫をその身に受け入れたのはそやつ自身の意志じゃよ」
「そんな、馬鹿な……」

 ランスロットは言葉を失った。どのような精神を持ってすれば、その様な選択が可能だというのだろうか。
 ランスロットとて、戦いで命を落とすならば本望であり、忠義の為ならば命を投げ捨てる覚悟をしている。だが、蟲に血肉を喰らわれ、真綿で首を絞められるが如くじわじわと嬲り殺しにされるなど、その恐怖たるや、屈強なる戦士であるランスロットですら身を震わせる。
 主は騎士道に通じる心を持っていると考えたが、それは違う。主のソレは既に騎士道など呼べるものでは無く、聖人君子の精神だ。

「何故、それほどまでに主は……」
「桜を救う為じゃ」
「桜……?」

 臓硯は少し離れた場所の蟲の群を指差した。すると、蟲の群が徐々に蠢き、中から一人の少女が現れた。体中に男性の性器に似た頭部を持つ芋虫に纏わり付かれ、口や性器、肛門に蟲が出入りをしている。
 ランスロットは己が見ている光景が現実とは思えなかった。生前、慰み者にされる女性を数知れず見て来た。その中には、彼女の様に幼い少女も居た。だが、この様に蟲共に全身を犯され、体内を食い荒らされるなどあってはならぬ悪魔の所業だ。
 ランスロットは確信した。この老人が悪であると。ならば、己が信ずる騎士道に則り、断罪すべきであると。
 だが、出来なかった。己が主の命、そして、あの娘の命も目の前の悪魔に握られている。
 この者を斬れば、二人が死ぬ。いっそ死なせてやる事が情けなどとはあの娘を救おうと地獄へ自ら足を踏み入れた勇者たる主を前にしては出来なかった。

「雁夜と桜を救いたくば、勝利する事じゃな。聖杯さえ手に入れば、もはや二人に用など無い」
「ああ、手に入れてみせよう」

 そして、主と娘を救い、貴様を我が剣にて断罪してくれよう。
 胸の内で激しい憤怒の炎を燃え上がらせながら、ランスロットは主を抱え、桜の下へと歩き出した。

「待て」
「何だ? 私は勝利すると言ったのだ。この上、あの少女を苦しめる理由は無かろう」
「あの娘は修行中じゃ。貴様達が聖杯を手にし、持ち返るまで、あの娘の修行を止めるわけにはいかぬ」
「なんだと?」

 殺気を漲らせるランスロットに臓硯は言った。

「本来ならば、儂は此度の聖杯戦争は静観するつもりであった。だが、雁夜めが桜を救いたいと懇願するのでな。子の願いを叶えてやるのも父としては当然の事。チャンスをくれてやった。だが、万一にも貴様達が敗北すれば、儂は次の聖杯戦争の為に準備を行わねばならぬ。その為に、桜の修行を中断するわけにはいかぬのだ」
「貴様は――――ッ」

 視線だけで人を殺せそうな程に怒りに身を震わせるランスロットを臓硯は嘲笑した。

「裏切りの騎士が忠義の騎士を演じるか。それも良かろう。精々、桜を救う為に急ぐ事じゃな。雁夜の命はそう長くは続かぬじゃろうて」

 そう言葉を残し、老人は崩れるように消え去った。後には蟲の群れのみが残され、ランスロットは怒りと屈辱に身を震わせながら、主を抱え、地下から地上へ伸びる階段を登った。
 救うべき少女を背に残したまま――――。

 ランスロットが去ったのを確認し、臓硯は再び蟲倉に姿を現した。

「精々、狂戦士を従わせ、魔力を搾り取られる苦しみに喘ぐ彼奴の姿を肴に愉しむ程度に考えておったが、よもや、セイバーとして召喚されるとは。ステータスの低下は免れぬだろうが、果たして……」

 暇潰しのつもりで蟲共に肉体を作り変えさせたが、よもや生き残り、最優のクラスを引き当てるとは、臓硯は内心で愉快に思っていた。精々、一時の慰み者程度に使い捨てるつもりであったが、届くようなれば手を貸す事も良しとしよう。戦いに敗れようが、慰み者としてのたれ死のうが、どちらにせよ、廃棄するという結末に違いは無い。なれば、僅かな可能性に僅かばかりのチップを乗せ、ギャンブルを愉しむのも一興と、臓硯は愉快そうに嗤い、蟲に犯されながら女の悦びを幼くして知り、既に元の純真な少女になど戻れぬであろう娘を見下ろした。

「中々に優れた精神防壁を持っておるが、果たして、彼奴らは間に合うかのう」

 臓硯は街に放った己が分身の一つがサーヴァント同士の戦を発見した事を知り、笑みを浮かべた。

「さて、早速手助けをするとしようかのう」

 セイバーとランサーの激突は筆舌にし難い壮絶な戦いだった。ランサーの槍は稲妻の如き切っ先であり、人の身で躱すなど叶わぬ幻想だ。
 それを、セイバーは事も無げに防ぐ。

「なるほど、戦の礼儀を知らぬようだが、その剣捌きは認めよう」

 ランサーの言葉にセイバーは黙したまま白き剣を振るう。月明かりは森の木々によって遮断され、暗闇の中で鋼と鋼のぶつかり合う火花のみが薄っすらと二人の英傑の姿を晒す。ステータスのダウンをものともせず、剛力を持って、ランサーの槍を払いのけ、更に繰り出される槍撃を弾き返す。その度にランサーは徐々に後退を余儀なくされる。
 これが英傑の戦い。これが自身の召喚したサーヴァントの力。雁夜は使い魔を通して見る神話の再現に胸を躍らせた。そこには憎しみも怒りも介在せず、ただ只管に二人の英傑の戦いの清廉さに圧倒される。視認すら出来ない音速の槍をセイバーは確実に防ぎ切り、間髪を入れず、間合いに入り必殺の斬撃を放つ。

「これほどとは――――ッ」

 セイバーは圧倒的な強さを見せ付けた。庭で見せた動きとは比べ物にならない。剣のみでは無い。セイバーは隙あらば地面に転がる石を蹴り上げ、ランサーの槍の矛先を逸らさせ、隙あらばランサーの脇腹を徒手にて抉らんとしている。
 剣と槍がぶつかり合う度、爆薬に火が点くが如く光が煌く。

「その聖なる輝き、よもや、貴様は――――ッ」

 セイバーはランサーが口を開くと同時にその剣に更なる力を篭めた。激しさの増すセイバーの剣戟にランサーは口を閉ざし、絶え間の無い豪雨が如く降り注ぐ斬撃を防ぎ切る。セイバーも相当なものだが、相手のランサーも尋常では無い強さだ。
 まるで鍛冶屋の錬鉄の如く火花が飛び散り、甲高い金属音が鳴り響く。いつしか、戦いはセイバーが圧していた。攻めから守りに転じた時点でランサーの敗北は決まっていた。斬り伏せるではなく、叩き伏せると言わんばかりの剛剣。騎士らしい優雅さなど欠片も無く、そこには力と技のみが存在した。
 渾身一刀の一撃が放たれ、

「調子に、乗るな――――!」

 その一撃を受けるでは無く、その圧倒的なスピードで躱し、セイバーの一撃は敢え無く地面に激突し、土煙を上げる。それは紛れも無い失策だと素人である雁夜にも分かった。あれほどまでに卓越した槍使いに対して、あんな大振りな一撃が当るわけがない。
 この瞬間、セイバーは紛れも無く完全な無防備状態をランサーに晒した。このままでは負ける。雁夜は届く筈の無い叫び声を上げた。その叫びが届いたが如く、セイバーの瞳が輝き、地面を抉ったまま、猛烈な勢いでセイバーは剣を襲い掛かるランサー目掛けて振るった。
 迫り来る聖剣の一撃に咄嗟にランサーは槍で防ごうとするが、その身は剣の力に吹き飛ばされ、体勢を崩した。だが、セイバーが攻めに転じる前に、ランサーは己が敏捷性を活かし、瞬く間に体勢を整えた。

「あの状態から即座に復帰するとは……、なるほど、貴殿は卓越した騎士だ。先程の無礼なる振る舞い、謝罪しよう」

 距離が離れ、睨み合いをしながら、セイバーは謝罪の言を口にした。恐らくはさっきのランサーと赤いサーヴァントの戦いに横槍を入れた事を言っているのだろう。
 騎士同士の戦いを妨害させたのは己だ。雁夜は罪悪感を感じながら、セイバーとランサーの睨み合いを見守った。

「いいや、これほどの相手と見合えたのだ。それに、貴殿程の清廉なる剣を振るう騎士があのような行動を取るにはそれなりの理由があっての事だろう。ならば、この上、非難はすまいさ」
「貴殿の寛大なる御言葉、ありがたく頂戴しよう」
「さて、よい頃合だ。そろそろ、決着と行こうか、セイバー」
「来るがいい、ランサー。互いに名乗り合えぬは残念であるが、貴殿の槍捌きは戦いの果てにこの胸に刻ませてもらう」
「こちらの方こそ、セイバー。貴殿の剣、確かにこの胸に刻む。では、参るぞ」
「いざ!」

 セイバーは聖剣を、ランサーは赤と黄の双槍を構え、臨戦態勢を整えた。そして、二人の英傑が今まさに大地を蹴ろうとした瞬間、雁夜の耳に雷鳴の轟く音が響いた。
 頭上を刻印虫に向かせ、その視界に捉えたのは天空を駆けるチャリオットが迫り来る光景だった。古風な二頭立ての戦車だが、その轅に繋がれているのは軍馬では無く、巨大な牡牛。その蹄は何も無い虚空で稲妻を蹴り、壮麗に飾られた戦車を牽いて降りて来る。轟々と雷鳴を轟かせ、紫電の触手を煌かす、強大な魔力を放出するソレは紛れもない宝具。
 即ちソレは赤きサーヴァント、ランサー、セイバーに続く第四のサーヴァントの到来を告げていた。

「アアアアララララライッ!!」

 轟くような叫びと共に、赤い外套を羽織る巨大な男がセイバーとランサーの狭間に降り立った。
 隆々と筋肉をうねらせる逞しくも美しい両腕をセイバーとランサーの双方に向け、吼えるように言った。

「双方、武器を収めよ! 王の御前である」