第十二話 雨生龍之介がバーサーカーを召喚した為に停滞する戦争

 そこには死が広がっていた。例え、作り物であったとしても、一度命を持った者が命を失えば、それは紛れも無い死であった。死体はどれも人間離れした美しさを持ち、静かに眠っている。
 キャスターのサーヴァントは隣に立つ男が僅かに肩を強張らせるのを感じた。その隣では、辛そうな表情を浮かべ、男に寄り添う女が一人。ここは、彼女にとって、ありえたかもしれない未来だった。もしかしたら、目の前の死体達の内の一人が彼女の立場に立っていたかもしれない。そう考えると、哀れみを感じるが、骸達の顔に浮かぶ表情には嘆きも哀しみも怨嗟も無い。
 冬の城――アインツベルン城の地下深くにあるホムンクルスの処分場は死体が散らばっているにも関らず清廉な空気に包まれていた。

「こやつ等をもらってゆくぞ」
「好きにするが良い」

 キャスターの言葉に応えたのは隣に立つ男女では無かった。この処分場の入口に佇む一人の老人、現アインツベルンの当主――ユーブスタクハイト・フォン・アインツベルン。
 アハト翁と呼ばれる彼はキャスターのサーヴァントを感情の浮かばぬ瞳で一瞥すると去って行った。

 アハト翁は切嗣のサーヴァントが彼の騎士王では無く、加えて、全クラス中、最弱と呼ばれるキャスターである事に酷く失望していた。1000年もの永きに渡る歴史を持つアインツベルン家は悲願である第三魔法の成就を叶える為、聖杯の奇跡を求め続けた。アインツベルンの探求は挫折と屈辱、そして苦肉の打開策。その繰り返しであった。
 それが二百年程前、独力での成就を諦め、遠坂家とゾォルケン家という二つの外部の家門と協定を余儀なくされた。繰り返される聖杯戦争において、常にアインツベルンは敗者であった。第二次聖杯戦争ではマスターの戦闘能力の低さが召喚したサーヴァントの足を引っ張り、打開策として、第三次聖杯戦争ではマスターの戦闘能力に関係無く圧倒的な力を持つ存在を召喚しようともしたが、その策も結局は失敗に終わり、よりにもよって、アサシンとの一騎打ちの後に敗北した。
 苦悩を重ねた末にアインツベルンは戦慣れした魔術師を外部から招く他道は無いという結論に達したのが九年前。血の結束を誇りとしたアインツベルンが信条を曲げ、屈辱に耐え、招いた魔術師の名は衛宮切嗣。魔術師殺しとして知られるこの男こそ、アインツベルンの切り札となりうる筈であった。
 ところが、彼の召喚したサーヴァントはアインツベルンが多大な資産、多大な労力、多大な時間を投じて用意した最強の英霊の聖遺物を用いておきながら、よりにもよって、最弱のクラスたるキャスター。その憤りたるや、並々ならぬものがあった。にも関らず、切嗣とキャスター、果ては小聖杯の外装たるホムンクルスまでもが勝利を信じ疑わず、戦力とする為にアインツベルンの誇るホムンクルスを戦力として寄越せと言って来たのだ。
 その厚顔無恥振りに更なる怒りを募らせたアハト翁は三人を失敗作、老朽化、実験体、様々な理由で機能を停止させたホムンクルス達を処分する為の地下空間へと連れて来た。これならば好きに使うがよい、そう言うアハト翁にキャスターのサーヴァントは予想に反し、満足気に寄越せと言った。昨日の停止したホムンクルスなどどうすると言うのか、考えながらアハト翁は切嗣と聖杯の外装たるホムンクルス――アイリスフィールの娘、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンを切嗣達が冬木へ発った後、直ぐさま調整を行う為の準備を始めるべく彼固有の魔術工房へと足を運んだ。
 此度の聖杯戦争は諦める他無い。ならば、次なる聖杯戦争において勝利を確実とする為に今度こそ最強の魔術師と最強のサーヴァントを用意するだけだ、とアハト翁は意識を切り替えた。

「これほど居るとは、些か予想外よのう」
「キャスター。彼女達をどうすると言うの?」

 アイリスフィールは辛そうな表情のまま、キャスターに問い掛けた。
 彼女としては、己の同胞達の静かな眠りを妨げる事は本意では無いのだろう。

「この者達を再び命ある者とするのだ。これほどの優秀な魔術回路を持った戦力を使わぬ手は無い故な」
「待って! 彼女達は既に死んでいるのよ? それを生き返らせるというの!? それは――」

 目を剥いて迫るアイリスフィールにキャスターは事も無げに言った。

「生き返らせるのではない。再び機能を再開させるに過ぎぬ。妾のランクA+の道具作成スキルは伊達では無い。この者達を擬似的な宝具の域に仕立てて見せようぞ」

 口調こそ軽い感じではあるが、キャスターは感情の欠落した表情で言った。

「日数はどのくらいかかる?」
「ざっと数えて200は居るな。少し手間だが、三日もあれば作業を終えられよう」
「それは重畳だ。戦いは質も重要だが、何より数が物を言うからね」

 切嗣は言いながら、警戒の眼差しをキャスターに向けた。

――――二百の軍勢。

 それは確かにありがたい。それも、感情を持たない人形であるならこれほど有用な兵器は無い。
 囮、破壊工作、それこそ、使い方は無数にある。だが、同時にキャスターのサーヴァントに固有の戦力を持たせてしまう事になる。キャスターが裏切りを実行した場合、二百のホムンクルスの軍勢が襲い掛かってくる事になる。それはあまりにも頂けない話だ。

「だが、二百も用意する必要は無いだろう。明日、冬木へ発つ予定だ。それまでに仕上げられる分だけで構わない」

 切嗣の言葉にキャスターは鼻を鳴らし頷いた。

「良かろう。明日まででも五十は使えるようになるだろう。妾はこれから幾つかを見繕い、宝具に改造する作業に移る。切嗣、お前はお前の協力者に宛てて送った使い魔を通し、各マスター、及びサーヴァントの情報を収集するが良い」
「元よりそのつもりだ。行こう、アイリ」

 切嗣がアイリスフィールの手を引き処分場を出ようとすると、キャスターが呼び止めた。

「何だ?」
「アイリスフィールは置いて行け。色々と話しておきたい事がある」
「……なら、僕もここに残る」
「お前は戻れ。やるべき事があろう?」
「僕が居ては何かまずいのか?」
「ま、待って、切嗣」

 剣呑な雰囲気になりつつある切嗣とキャスターの間にアイリスフィールが割って入った。
 サーヴァントが敗退した事で己の内にある聖杯にサーヴァントの魂が送られ、人としての機能が一部欠損した状態の上、同胞達の亡骸を見たショックで顔色はすこぶる良くないが、賢明に二人の仲を取り持とうとするその姿に切嗣とキャスターは已む無く空気を和らげた。

「分かった。切嗣、お前の同席を認めよう」
「キャスター」

 表情を輝かせるアイリスフィールにキャスターは困ったような表情を浮かべると言った。

「先にお前達は上に戻れ。ホムンクルスを見繕ったら妾も上に戻る」
「分かったわ」
「了解した」

 アイリスフィールは最後に少し悲しげな表情を浮かべながら処分場のホムンクルス達を一瞥し、妻を気遣う切嗣に寄り添うようにして処分場を出て行った。
 残されたキャスターは小さく溜息を吐いた。

「どうにも、信用されて居らぬな。まあ、それも已む無き事よな」

 キャスターは少し悲しげな表情を浮かべながらホムンクルス達の死体を一つ一つ見定めた。
 どれも安らかな表情を浮かべて眠っている。その内の一体にキャスターは目を留めた。
 そのホムンクルスは誰を原型にしたのかは分からないが、アイリスフィールと同じ銀の髪を持つ幼げな少女だった。

「似ている……な」

 キャスターは少女のホムンクルスを抱き上げると己が小さく呪文を唱えた。少女のホムンクルスはふらふらとした足取りでキャスターの手から離れると出口へ向かって歩き出した。その動きはまるで空中から垂らされた糸によって操られるマリオネットのようで、どこか滑稽で、どこか恐ろしいものだった。
 それからおよそ百体程度のホムンクルスを見繕うと、キャスターはそれぞれに魔術を掛け、操り人形としたホムンクルス達を連れて階上の簡易的な魔術工房へと運んだ。魔術工房といっても、単なる空き部屋で、魔術用具が僅かに置いてあるだけだ。
 キャスターは一体を残し、他のホムンクルス達を部屋の隅に並べると、アイリスフィール達の待つ部屋へと向かった。

「あれぇ? あなた、だぁれ?」

 歩いていると、小さな少女に呼び止められた。
 まるで、アイリスフィールをそのまま小さくしたかのような銀色の髪と赤い瞳の愛らしい顔立ちをした少女だった。

「妾はモルガンよ。お前は?」
「イリヤはイリヤだよ。イリヤスフィール・フォン・アインツベルンって言うの」
「そうか、良き名よのう」

 キャスターの言葉にイリヤと名乗る少女は表情を輝かせた。何とも表情豊かな少女だと思いながら、キャスターはイリヤを注意深く観察した。
 そして、深い憤りに目を見開いた。

「ひゃぅ!?」
「む、どうした?」

 悲鳴を上げ、涙目になるイリヤにキャスターは慌てた。
 昔、まだ息子が幼かった頃を思い出しながら必死に宥めようとするが、イリヤは本格的に泣き出してしまった。

「な、何故じゃ!? こ、これ、泣くでない」

 必死にあやそうとするが、全く泣き止む気配の無いイリヤにほとほと困り果てた表情を浮かべていると、どこからかイリヤの泣き声を聞きつけたのか、切嗣は何とも不思議そうな顔で現れた。

「何を……、しているんだ?」

 不可解そうな声で問い掛けられ、キャスターは答えに窮した。キャスターは今、四つん這いになり、イリヤを笑わせようと顔を両手で歪ませて変な顔を作っていた。
 キャスターは立ち上がるとコホンと咳払いをし、居住まいを正した。

「いや、何でもないぞ」
「……イリヤ、どうしたんだい?」

 まるで何事も無かったかのように振舞うキャスターを無視して、切嗣はイリヤに声を掛けた。

「キリツグ~~! 怖かったの! いきなり、モルガンがこんな風に怖い顔したの!」

 泣きじゃくりながら目を両手で吊り上げさせるイリヤに切嗣は怪訝な表情をキャスターに向けた。
 キャスターは苦い表情を浮かべながら溜息を吐いた。

「むぅ、怖がらせたのは悪かったのう。悪気は無かったのだ。許してはくれぬか?」
「……うん」

 少し悩みながらも頷くイリヤにキャスターはニッコリと微笑むと、その頭を優しく撫でた。

「イリヤ、僕はこの人と少しお話があるんだ。一人で部屋に帰れるかい?」
「もう、キリツグったら! 馬鹿にしないでちょうだい! ちゃ~んと、イリヤは一人で帰れるもん!」

 そう言って、イリヤは顔を袖で拭うと駆け出した。
 曲がり角に差し掛かる手前で立ち止まると、キャスターに顔を向けて、少し悩みながら大きな声で言った。

「さっきはごめんなさい!」

 そして、そのまま曲がり角を曲がり姿を消した。

「切嗣。あの幼子は……」
「僕とアイリの娘だ」
「やはり、そうか……」

 キャスターは表情を曇らせた。

「イリヤと言ったか……。あれは長くないぞ」

 キャスターの言葉に切嗣は肩を強張らせた。
 その表情に一瞬にして様々な感情が宿り、そして一瞬にして消えた。

「あの子は産まれる前から体に手を加えられたんだ。僕達が聖杯を得られなかったら、次にあの子を戦わせるために……」

 拳を強く握り締め、毒を吐くように言う切嗣にキャスターは言った。

「勝てば良いのだろう」
「……ああ、そうだ」

 切嗣と共にキャスターが部屋に戻ると、アイリスフィールが辛そうな表情を浮かべて駆け寄って来た。

「切嗣。イリヤはどうしたの?」
「ああ、それは――――」

 事の経緯を聞き、アイリスフィールは朗らかに笑った。

「そう、笑うでない」
「ごめんなさい、でも……」

 イリヤに顔が怖いと泣かれたキャスターの話にアイリスフィールは笑いが堪えきれなかった。
 肩を震わせるアイリスフィールにキャスターは憮然とした顔をしながら言った。

「いい加減、話を始めるぞ。良いな!」

 ギン、と睨むキャスターにアイリスフィールは何とか笑いの衝動を抑えて頷いた。

「それで、話というのは?」

 切嗣が問い掛けた。

「……切嗣、このままではアイリスフィールは聖杯戦争を戦い抜けまい」

 キャスターの言葉に切嗣は一瞬にして表情を引き締めた。
 アイリスフィールもまた、笑いの衝動が吹き飛び、深刻な表情を浮かべる。

「故、少し体を調整してやろうと考えたまでだ。お前達が用意した鞘は妾では扱えぬし、容態を軽くするにはアイリスフィールを宝具化するのが一番効率が良いのだ。無論、無理にとは言わぬが……」
「宝具化……?」

 アイリスフィールが首を傾げた。

「無論、我が宝具にするというわけではない。処分場で話した通り、ホムンクルスならば妾の力で能力を向上させる事が出来る」
「本当に出来るのか? いかにキャスターのクラスと言えど、ホムンクルスは錬金術の極みと言っていい技術の筈だ」

 切嗣の問いにキャスターは暗い表情で答えた。

「妾は一度ホムンクルスを作った事がある」
「ホムンクルスを……?」

 切嗣は訝しげに尋ねた。
 モルガンの伝承にホムンクルスを創造したなどという逸話は聞いた事が無い。

「妾のホムンクルスは嘗てのブリテンの戦場においても戦果を上げた。あの円卓の騎士達が蠢く戦場でな」

 何かに必死に耐えるようにキャスターは言った。

「アイリスフィールはこのままでは死ぬ他無い。たった一体のサーヴァントを取り込んだだけで今の状態なのだ。もう一体か二体取り込めば、もはや言葉を発する事すら出来まい。だが、妾が調整を行えば、少なくとも、普通の人間の寿命程度は生きられるように出来る」

 キャスターは真っ直ぐに切嗣を見た。
 切嗣の瞳には様々な感情が浮かんでいるのが見える。

「直ぐに決断せよ、とは言わぬ。まだ、時間はあるからな。せいぜい悩め。だが、手遅れになる前に決めよ。分かったな?」
「…………ああ」

 切嗣が頷くのを見届けると、キャスターは席を立った。

「キャスター」

 アイリスフィールはキャスターに笑みを向けた。

「ありがとう」
「…………礼など不要だ。それに、最後は切嗣の選択次第だ」

 キャスターは逃げるように部屋を出て行った。後に残された切嗣は頭を抱え、髪を千切れんばかりに掴んだ。
 深い苦悩と疑惑、そして微かな希望に惑っている。そんな彼に、アイリスフィールは言った。

「私は貴方の選択に身を委ねるわ」
「アイリ――――ッ!」

 切嗣は咄嗟にアイリスフィールを抱き締めていた。

「……少しだけ、もう少しだけ、待ってくれ。すまない、僕は……」
「待っているわ、切嗣。貴方はいつも私を導いてくれるもの。貴方の決断は私の決断。だから、貴方がどんな決断をしても、私はその選択に安心して身を委ねられるわ」
「アイリ……」

 切嗣は更に強くアイリスフィールを抱き締め、そのか細い体に涙を零した。もしも、キャスターの言葉が真実ならば、アイリスフィールだけではなく、愛娘のイリヤの事も助けられる。それはあまりにも魅惑的な誘いだった。だが、それを素直に甘受出来る程、衛宮切嗣という男は愚かではなかった。
 本当ならば、今直ぐにでもキャスターに頭を下げ、頼むべきだというのに、己の心に宿る疑念がその選択肢を切嗣から遠ざけた。

「っは、ァ、ヅ――――ッ!」

 喉が壊れたようだった。何一つまともに言葉にならない。焼け付くような痛みが全身を苛み、まるで、神経一つ一つが焼かれたようで、止め処なく、吐き気が込み上げる。
 苦しみに喘ぐ主の様子を見ながら、セイバーのサーヴァントは何も出来ない己に腹を立てた。ただ、その汗を拭う事すら己の身は貪欲に主の魔力を吸い上げ、主に更なる苦しみを与えてしまう。
 完全なるセイバーの失策だった。ライダーが乱入して来た時、直ぐに退却するべきだったのだ。にも関らず、功を焦り、主から魔力を吸い取ってしまった。その代償をまざまざと見せ付けられ、セイバーは霊体化したまま深い悔恨の思いに苛まされた。
 その時だった。ガチャリと部屋の扉が開け放たれた。視線を扉の方に向けると、そこには一人の少女が佇んでいた。

――――間桐桜。

 主である間桐雁夜が救おうとしている少女だ。何用だろうか、と考え、その手にある物を見て納得した。桜の手にはお盆が乗せられ、その上には水を張った器と手拭が乗せられている。どうやら、看病をしに来たらしい。
 ありがたい、セイバーは素直にそう思った。実体化するだけで苦しみを与えてしまう自分には出来ない事だが、今の雁夜には看病をしてくれる存在が必要だ。言葉は届かずとも、セイバーは胸中で呟いた。

『感謝する』

 通じては居ないだろうが、桜は甲斐甲斐しく雁夜の世話をし始めた。

『なんだ、あれは……』

 桜は雁夜の体を手拭で拭うと部屋を出て行き、その手に奇妙な物体を持って帰って来た。その手に握られているのは丸い団子のようであった。
 奇妙に感じ、ソッと覗き込むと、その存在の正体に思わず実体化し叩き落とそうとしてしまった。寸での所で堪えると、セイバーは主に胸中で謝罪をすると実体化した。

「それは何だ?」

 セイバーの実体化に桜はポカンとした表情を浮かべた。

「む、驚かせてしまったか……。私は主――雁夜殿のサーヴァント・セイバーだ」

 セイバーが名乗ると、納得したのか、桜は頭を下げた。

「間桐桜です」

 感情の起伏が少ない少女だ、とセイバーは感じた。無理も無い、あれほどの虐待を受けているのだから。にも関らず、こうして主の事を気に掛ける優しさを持っている。
 セイバーはこのような優しい少女を苛烈な拷問に掛ける臓硯に対し、更なる憤りを抱いた。

「これは刻印虫の一種です。沢山の魔力を吸収していて、雁夜おじさんに魔力を分けてくれるそうです」

 まるで、誰かに教えられたかのように話す桜の背後にセイバーは臓硯の存在を感じ取った。どうするべきか、悩んだ末に「頼む」と言って、セイバーは再び霊体化した。
 雁夜の苦しみが更に激しくなったのだ。如何に、臓硯の手による物であろうと、悪戯に手駒である主に危害を加える事はしないだろうと判断した。
 桜の手から刻印虫が雁夜の体内へ吸収されていくと、途端に雁夜の苦しむ声が止んだ。密かに安堵しながら、再び実体化した。今度は雁夜の息は安定したままだった。かなりの魔力を補給されたらしい、この分ならばある程度動き回っても大丈夫そうだ。

「感謝する」

 セイバーが言うと、桜は小さく頭を下げると部屋を出て行った。
 直後、雁夜が目を覚ました。

「……ここは?」

 意識が戻ったらしい雁夜は体を起こすと、体の痛みに顔を歪めた。

「大丈夫ですか?」

 セイバーが声を掛けると、雁夜は一瞬ポカンとした表情を浮かべ、やがて頭が正常に機能し始めたのか、納得したような顔をして口を開いた。

「あれからどうなった?」

 あれから、とは雁夜が意識を失う前の話だろう。

「あれから直ぐに退却致しました。ライダーとランサーはその後、直ぐに戦闘に移ったようです」
「そうか……」

 セイバーの報告を聞きながら、雁夜の脳裏に浮かぶのは戦場に立つ、そこに居てはいけない筈の少女の姿だった。

「何故だ……」

 雁夜は呻く様に呟いた。

「何故、あそこに凜ちゃんが居た……。いや、そんな事はわかりきっているか……」
「主よ、それは……?」
「大方、凜ちゃんが人質にでも取られたんだろう。それを時臣の赤いサーヴァントが助け出したんだろうさ。それにしても……」

 ククッと雁夜の喉から嗤いが零れた。

「主……?」
「見たか? あの時臣のサーヴァントの情け無い姿を! あの時臣のサーヴァントはランサーに手も足もでなかった。だけど、俺のセイバーは違う。あのランサーを圧倒してた!」

 雁夜は狂った様に嗤い続けた。その様はあまりにも痛々しく、また、常軌を逸していた。
 堪らず、セイバーは口を挟んだ。

「主よ。あの凜という少女は一体……。それに、時臣とは?」
「時臣は桜ちゃんの父親だ。こんな、糞みたいな家に、あんな蟲爺ぃに自分の娘を養子に出した人非人だ!」

 声を荒げる雁夜にセイバーはその心の内の憎しみに気が付いた。

「主よ、どうか落ち着いて下さい」
「落ち着いている! 俺は、ちゃんと落ち着いてる! セイバー。直ぐに打って出るぞ。俺達は一刻も早く聖杯に辿り着かなきゃいけないんだ。桜ちゃんの為に!」

 立ち上がろうとする雁夜をセイバーはその圧倒的な筋力によって抑えた。

「なんで邪魔する!?」
「主よ、落ち着くのです。今の貴方は憎しみに囚われている」
「俺は――――ッ! ……憎しみに、なんか……」

 歯を食い縛りながら、顔を俯かせる雁夜にセイバーは声を掛けた。

「主よ、貴方は蟲共の与える苦しみに心を乱しておいでなのです。今は、ゆっくりとお休み下さい。聖杯は必ずや、このランスロットが手に入れてみせます故」
「……そうさせてもらう。悪かったな、セイバー」

 雁夜は気分を落ち着かせ、ゆっくりとベッドに横たわった。雁夜が寝息を立て始めるのを待つと、セイバーはゆっくりと思考に耽った。
 今回は桜の持ってきた刻印虫のおかげで大事には至らなかった。だが、雁夜の命は危うい綱の上を歩いているようなものだ。
 些細な事でその灯は消えてしまう。戦いは慎重を期さねばならない。

「剣を抜くのは必勝を確信した時のみ。それまでは見るに徹しよう。私は勝たねばならぬのだ。必ず――――」

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