第零話「プロローグ」

 人生とはろくでも無い事の繰り返しだ。私がその事に気付いたのは中学生の時。
 最初の不幸は父が交通事故に巻き込まれた事。パパが死んでしまったから悲しい、などと感傷に浸る間も無く、収入が途絶えたという事実が私達の生活を歪めた。
 両親は共に天涯孤独という身の上で他に頼れる人も居なかった。私と妹はまだ義務教育すら終えていない状態。母は生活費や私達の学費を稼ぐために風俗で働き始めた。そして、二つ目の不幸が襲い掛かって来た。
 母が失踪したのだ。最初は事件にでも巻き込まれたのかと思って心配したけど、実は新しい男が出来て、私と妹を捨てたというだけの事だった。
 取り残された私はまだ小学生の妹と共に途方に暮れた。選択肢は無く、私達は施設に送られた。幸いというべきか、役所の人が親切だったおかげで妹と離される事も無く、キチンとした施設に入所する事が出来た。
 とは言え、私達の生活は一変してしまった。どこから漏れたのかは分からないけど、母が風俗で働いた挙句、男と逃げた。その事実が私と妹を虐めの標的にした。何度か危ない目にもあい、妹はすっかり不貞腐れてしまった。髪の毛を金髪に染め上げ、悪い方へ転がっていった。
 中学を卒業し、私は施設を出た。高校に通わせてもらう事も出来たけど、学校や施設での虐めや妹の変わり様に耐え切れなくなったのだ。安アパートを借り、日雇いのバイトをしながら惨めに歳を取った。時々、施設に残していった妹が気になり、はした金を手に施設に顔を出すが、妹はお金を受け取るだけで口をきいてくれない。
 いつしか風俗で働ける歳になり、自然とその道に沈み込んでいった。最初は真っ当な風俗で働いていた。お金もそこそこ稼げて、妹にもたくさんお金をあげられるようになった。でも、その頃になると妹は私に対してゴミを見るような目を向けるようになった。母と同じ道を辿っている私を彼女は責めた。それでも、お金を受け取ってくれただけマシだった。
 普通の風俗で働くには厳しい年齢となり、非合法風俗で働くようになると、妹は私に縁を切りたいと申し出てきた。妹は立派になっていた。高校に通い、大学に通い、人並みの生活を送れるようになっていた。友達もたくさん出来て、私は彼女にとっての唯一の汚点になっていたのだ。
 お金を送る相手も居なくなり、私は抜け殻のように時を過ごした。何度も流産し、子供を作れない体になっても、延々と男と肌を重ね合い、受け取って貰えないと知りながらお金を妹の通帳に振り込み続けた。減らない残高を見ながら泣きそうになるのを堪えて家に帰る毎日。
 昔はそれなりに愛嬌があった筈の顔も年月と共に劣化し、今や化け物のような醜悪さ。生きているのか死んでいるのかすら分からない。

「寂しいな……」

 妹の写真を見つめながら楽しかった頃を思い出す。それだけが唯一の癒やしの時間。
 恋人も無く、家族との繋がりも絶え、仕事を貰えなくなり、病気になった。稼ぎは全て妹の通帳に振り込んでいるから病院に行くお金も無い。
 刻一刻と死に向かっている。苦しくて、辛くて、寂しくて、悲しくて、布団の中で悶え苦しむ。早く連れて行ってくれと死神に乞う。
 そして……、

「……お姉ちゃん?」

 霞む意識の中、なんだかとても懐かしい声が聞こえた。
 今わの際に人は過去の記憶を追想すると聞く。まさか、本当だとは思っていなかった。お伽話だと思っていた。

「……なっちゃん」

 最後の最後に妹の声が聞こえた。それがこれ以上無く嬉しかった。
 たとえ、これが単なる私の妄想の産物だろうと構わない。可愛くて、愛おしくて……、置き捨ててしまった妹の声を再び聞けた。それだけで幸せだ。

「……ごめんね、なっちゃん」
「待ってよ……。なんで、こんな……」

 どうしたんだろう。折角なんだからなっちゃんの楽しそうな笑い声でも聞かせてくれればいいのに、私の妄想は私の希望を叶えてくれない。

「待ってよ、お姉ちゃん」

 笑い声が聞きたいのに、泣き声が聞こえる。嫌だ。最後くらい、なっちゃんの幸せそうな笑い声が聞きたい。

「……幸せになって、なっちゃん。いつも笑顔でいて……」

 絶縁を言い渡された時、なっちゃんには恋人が居た。優しくて、将来有望な青年だと聞いた。なっちゃん自身も早々に就職先を決めていて……。
 もう、幸せになれている筈だ。私のはした金も彼女の幸せの一端を担えている事を願いたい。

「……止めてよ」
「なっちゃん……?」
「わ、わたし……、謝ろうと思って来たのに……」
「なんで……?」

 わけがわからない。なっちゃんが謝る事なんて、何一つ無い筈だ。

「だって、私はお姉ちゃんのおかげで高校や大学に通えたのに……。なのに……、わたし……」
「それはなっちゃんが頑張ったから……」
「お姉ちゃんがお金を出してくれなきゃ、無理だったよ。奨学金を貰える程、頭良くなかったし……」
「でも……」
「お姉ちゃん……」

 困った妄想だ。どうやら、私はなっちゃんに感謝されたかったらしい。謝ってもらいたかったらしい。こんな醜悪な心の内を知りたくなんてなかった。
 顔も醜い。心も醜い。まったくもって、最低だ。

「一緒に暮らそう」

 ああ、本当に醜い。未だに諦めきれていなかったらしい。なっちゃんと一緒に暮らしたい。自分から逃げ出した癖にまだそんな自分勝手な願いを抱いているとは……。

「大丈夫だよ。庄吾さんも良いって言ってくれてるの。むしろ、そうするべきだって」
「庄吾……さん?」
「覚えてない?」
「……覚えてる。なっちゃんの……」
「そうよ。私は庄吾さんと結婚したの」
「結婚……。なっちゃんが……」

 ああ、どこまでも度し難い。なっちゃんが幸福になっている事を妄想し、頬を緩ませる。まったくもって、馬鹿みたいだ。だけど……、

「おめでとう、なっちゃん。ああ、これで……もう……おも……すこ……い」
「お、お姉ちゃん!?」

 全身を温かい幸福感が包み込んだ。ゆったりと暗闇に落ちていく。なっちゃんが幸せになった。私の人生の目的は達成された。嬉しくて仕方が無い。全て、私の妄想かもしれない。このぬくもりも偽物かもしれない。だけど、今だけは……。

第零話「プロローグ」

 最初に思った事は”やった! 青春を取り戻せる!”だった。正直言って、そんな自分にガッカリだ。
 こんな事が起こるとは驚きだが、私は死後、新たに生を得た。しかも、裕福な家庭の次女だ。新しい母と父は美男美女で、父は厳格なれど、母からは溢れんばかりの愛情を注がれている。
 明確に前世の記憶を取り戻したのはつい最近の事だけど、私の心を占めているのは歓喜だ。
 未だ、男を知らぬ無垢な体。無限に未来が広がっている五歳という年齢。美男美女な両親から受け継いだ端正な顔立ち。何不自由なく暮らして行けそうな私財の数々。
 
「……なっちゃん」

 なっちゃんは幸せになった。なら、私は罪を濯げたという事だ。なっちゃんを一人、施設に残して逃げ出した罪を私は濯げたのだ。だから、今度は自分の幸せを手にする為に生きようと思う。
 好きな物を食べて、好きな物を飲んで、好きな服を着て、好きな人と恋をして、素敵な人生を歩む。この環境ならそれが可能な筈だ。人間の人生なんて、生まれた瞬間からほぼ決っている。私の二度目の人生は勝ち組ルートだ。

「よーし、今日も遊びに行くよ!」

 嬉しい事はもう一つ。なんと、今の私には妹ではなく、姉がいる。愛らしくて、優しいお姉ちゃん。母に甘え、姉に甘える。こんな人生を送れるなんて、死んだ甲斐があったというものだ。
 理不尽な暴力を振るわれない毎日。性病に怯える必要の無い毎日。妹に謝る毎日。母を恨む毎日。全てが過去になった。
 お姉ちゃんの手を引っ張って、私は太陽の下を駆け回る。はしゃぎ回る。ブランコに乗り、シーソーに乗り、砂場で城を作り、泥まみれになってママに叱られ、お姉ちゃんに庇われ、パパに呆れられる。
 幸せだ。間違いなく断言出来る。だから、油断した。
 人生とはろくでも無い事の繰り返しだ。知っていた筈なのに、忘れた振りをしていた。前の人生でも子供の頃は幸せだった。だけど、不幸になった。今が幸せでも未来まで幸せとは限らない。
 数年後、私は養子に出された。その時になって、漸く自分の立場を理解した。
 昔、客の一人がアニメやゲームについてやたらと熱心に語ってくれたおかげで理解出来た。
 アニメや漫画にもなってる人気のゲームソフトに『私』は登場している。魔術とか、吸血鬼とかが登場する所謂伝奇ノベルというもので、深く読み込むと結構面白い。私はそのゲームのヒロインの一人であり、一番難儀な人生を送っている子だ。
 私にそのゲームを紹介してくれた彼は実に奇妙な人物だった。何度か自宅のアパートに呼ばれ、セックスもせずに延々とアニメ鑑賞するだけの奇妙な時間を過ごした。お金もキチンと支払ってくれたし、世間一般からの評価は芳しくない彼だったが私にとっては上客だった。何気に彼から教えられたオタク関連の知識が仕事上でも色々と役に立った。
 正直、彼との時間は結構楽しかった。私を楽しませようと必死に頑張っている姿が愛おしくさえ映った。とは言え、所詮は客と娼婦。いつの頃からか彼が私を指名する事も無くなった。
 何はともあれ、彼から教わった知識は生まれ変わった今になっても役に立っている。

「……まあ、逃げられなかったわけだけど」

 溜息が出た。現状をほぼ正確に把握する事が出来、私は全力で逃げ出した。そして、捕まった。私の新しい父はなんと魔術師なのだ。私がどう足掻いても父に屋敷へ連れ戻され、最終的に養子に出されてしまった。そして、新しい家に着くなり、その家の秘密の地下室に連れて行かれ、ペニスの形をした無数の蟲に集られ、二度目の処女を失った。しかも、前と後ろ両方を同時にだ。
 さすがに痛くて、初日はそれなりに泣き叫んだりもした。折角生まれ変わったのに、またこういう人生を送るのかと悲観もした。けど、一夜明けると冷静になれた。なにせ、前の人生でも中学で既に処女を捨てて、お金のために色々やってたから、今更初心を気取るつもりもない。
 蟲も最初はゾッとしたけど、あまりにもペニスにそっくり過ぎて、逆に平気だった。問題なのは蟲よりそれを操ってる方。彼らも父と同じく魔術師なのだけど、中々に気性が荒い。鍛錬と主張しながら激しいSMプレイを強要してくる。

「……はぁ」

 でも、生前も似たような――蟲は居なかったけど――生活を送っていた時期があったし、少なくとも食事はちゃんとした物が貰えた。ベッドもふかふか――ちょっとパリパリしてる所もあるけど――で快適だし、欲しい物があると言えば、大抵揃えて貰えた。
 体を売って、欲しい物を手に入れる。生前と全く同じライフスタイルだ。まあ、体はまだ小学生の身なのだけど……。

「お姉ちゃんは元気かな」

 新しく出来た姉。こう言うと果てしなく矛盾を感じるけど、とにかく彼女は可愛い。昔のなっちゃんを思い出す。まあ、なっちゃんはずっと可愛かったけど……。
 彼女を思うと溜息が出る。今度こそ、嫌われずに仲の良い姉妹として共に大人になりたかったのに、また大事な姉妹を置いて出て行き、娼婦みたいな事をしている。まあ、今回は私の意思と関係なく強制だったけど、やっぱり溜息が出る。
 
「……桜よ。時間だ」

 新しく出来たお爺ちゃんが呼びに来た。

「はいはーい! 今行きまーす!」

 とりあえず、今は大人しくしていよう。どっちにしても、今の私に出来る事なんて何も無い。
 でも、幸せになりたい気持ちは失ってない。計画は練ってある。彼から教えてもらった知識を総動員して、この生前と同じ道を突き進んでいる現状を打破する方法を考えている。
 とりあえず、令呪とやらが浮かぶよう、毎日必死にお祈りしておこう。望む者の下に令呪は現れるらしいから、願ってればきっと貰える筈だ。貰えなかったら……、十年後に出会う予定の正義の味方な男の子に期待するとしよう。

――――聖杯さん、聖杯さん、私に令呪を下さいな。

第一話「おじさん登場!」

 古昔より伝わる物には古人の思想や歴史が紛れている。公園で遊んでいる幼い子供達が嬉々として興じている遊びの中にも古人の陰が見え隠れしている。
 はないちもんめ。この七文字の言葉は子供達……、特に幼い少女達が好む遊びの名だ。この七文字を漢字に直すと『花一匁』となる。
 遊び方は至ってシンプル。子供達は二組に別れ、互いにメンバーの取り合いを行う。

『か~ってうれしいはないちもんめ』
『まけ~てくやしいはないちもんめ』

 交互に歌を歌い、ジャンケンを行い、勝った方が負けた方からメンバーを貰う。一聞するとジャンケンに勝って嬉しい、負けて悔しいと歌っているように聞こえるが、実は違う。実際にこの歌を歌っている多くの子供達はこの歌に篭められた真の意味を知らない。
 花とは子供や女。一匁とは値段。『かってうれしい』は『買って嬉しい』。『まけてくやしい』は『値切られて悔しい』。この歌は遥か昔から売春や人身売買が行われていた事を示しているのだ。
 こうした知識を得たのが幾つの時だったか、明確には覚えていない。中学を卒業した直後から風俗店で働き、日銭を稼ぐ中で客から教えられたムダ知識の一つだ。
 何が言いたいかと言うと、女の体は立派な商売道具であり、売春は立派なビジネスだと言う事。私達は日々懸命に働いていた。確かに、人から後ろ指を指される事がしょっちゅうだし、妹からも縁を切られた。客も事が終わると汚物を見るような視線を向けてくる。ついさっきまで不特定多数の男の陰茎が出入りしていた所に自分のものを挿れていた癖に笑ってしまう。
 それでも私達はキチンと努力をしている。サラリーマンが出世する為に勉強をするように、職人が技術を向上させる為に修練を積むように、娼婦は自分を磨き上げる。
 女の値段は日々刻々と変化する。まるで株価のように目まぐるしく。単純に技術があればいいとか、顔が良ければいいとか、そんな風に単純には出来ていない。もちろん、どちらも最低条件ではあるけど、それ以外にも武器が必要。
 一番オーソドックスなところだと、特殊プレイを許容し、自分に付加価値を付けたりする。例えば私の知り合いだと背の低さや顔立ちの幼さを活かしてロリータ系で売るとか、壮絶な痛みや穢れを許容してSM系で売るとかだ。他にもいろいろあるけど、客足が減り始めた女はそうした付加価値を身に着け、更に深みへと沈んでいく。運が良ければ引き上げてくれる色男に出会う事もあるけど、私の周りでそうした幸運に恵まれた女は居なかった。もちろん、私も同様。
 施設に置き去りにしてしまった妹に対する罪悪感から、私はなりふり構わずお金を集め、彼女に送り続けた。その為にあらゆる事に手を出した。最初はロリコン相手に体を売り、下着を売り、毛や唾液まで売った。時々、体より高く髪の毛一本が売れた事もあるから不思議な世界だ。
 それでも彼女が高校に行き、ちょっとの贅沢をしたら直ぐに消し飛んでしまう額しか稼げず、どんどん深みに沈んでいった。
 ロリータ系で売れなくなると、髪も目も日常では人目に晒さない部分に至るまで、私の全身は男を誘惑する為だけに鍛え上げられていた。絶頂期と言える程、引っ切り無しにお客が私を指名し、湯水の如く諭吉を落としていく日々。丁度、妹が大学に上がり、前以上にお金が必要になったから好都合だった。彼女がサークルに入った事をサークル費やユニフォーム代などの請求で知り、有頂天になった。彼女の青春は私が支えている。そう思うと、幸せですらあった。
 きっと、許してもらえると思った。これだけ奉仕すれば、きっと昔みたいに私に笑い掛けてくれると思い、口もお尻も酷使し続けた。そう、今みたいに……。

 第一話「おじさん登場!」

 私が間桐家に連れて来られてから早一年が過ぎた頃、この家に新たな住人が現れた。彼の名前は間桐雁夜。間桐の魔術を受け継ぐ運命に背を向け、海外でルポライターをしていた彼が帰って来たのだ。

「やっほー! 久しぶりー!」

 実の所、彼とは既に知り合いだった。彼は私の新しい母に熱を上げていて、時折、ふらりと現れては母との談笑を楽しんでいた。彼はいつも私と姉に玩具やアクセサリーをプレゼントしてくれたものだ。
 蟲に全身を這い回られながら、元気一杯な挨拶をする私に彼は愕然とした表情を浮かべ、膝を屈した。やっぱり、知り合いの女の子が蟲に犯されている光景は精神に来るものらしい。

「おじさん、大丈夫?」

 お尻や膣から陰茎を模した蟲をぶら下げて歩み寄る私におじさんは悲鳴を上げる。その様がちょっとおかしくて、ついつい悪戯心が湧いた。

「見て見て、私にもぞうさんが生えちゃった!」

 我ながらとんでもない下ネタを吐き出したものだ。おじさんもギョッとした表情を浮かべて凍り付いている。見ると、彼の横に立っていたおじいちゃんまで愕然とした表情を浮かべている。ちょっと、恥ずかしくなって来た。

「う、うん。今のは無かった事にしよう。ぞうさんは無かったよね、ぞうさんは……」
「さ、さくらちゃん……?」
「なーにー?」

 よっ、と掛け声を上げて段差の上に上がり、おじさんの所に行く。

「君は……」

 彼は怖々と私の肩に触れ、今にも泣きそうな表情を浮かべた。彼の今後の事を考えると、あまり悲壮感を出さずに海外にある拠点にバックホームして貰うべきかと思ったのだけど、失敗だったみたいだ。

「えっと……、おじさん――――」
「ごめん……」

 食い縛るように彼は謝罪の言葉を吐き出し、頭を地面に擦り付けた。

「……いやいや、おじさんが謝る必要無いですよ? ほら、私はこの通り元気いっぱいだし!」
「……桜ちゃん」

 不味い事になった。顔を上げたおじさんの顔には決意のようなものが浮かんでいる。これは非常に不味い。このままだと、おじさんが死んじゃう。正直、知り合いな上に下心はあれど非常に優しくしてくれたおじさんが死ぬのはちょっと嫌だ。

「俺は君を助ける為に戻って来たんだ」
「あの……、私は元気一杯だから、別に助けなくても……」
「無理しなくていい。少し時間は掛るけど、俺が絶対に君をここから連れ出す」

 どう言えばいいんだろう。正直言って、私はここの生活にあんまり拒否感が無い。生前とやってる事が殆ど変わり無いからだ。刻印虫が陰茎とそっくりなのが良かった。芋虫みたいな形だったら無理だった。むしろ、しっかり気持ち良いし、変に演技で嬌声を上げなくていいからちょっとだけ楽しんでいたりもした。感じてる振りって、結構面倒なんだよね。

「私の事は大丈夫だから、おじさんはルポライターの仕事頑張ってよ。嫌だよ? 私を助けるんだって張り切って、仕事失ったりしたら」
「……それこそ問題無い」

 おじさんはきっぱりと言い切った。

「俺の方は何にも心配要らないよ」

 結局、私はおじさんを説得出来なかった。おじさんの中では私はすっかり悲劇のヒロインになっていて、私の言葉は罠に掛った雛鳥の健気な囀りにしかなっていなかった。
 だから、私は方針を変えて、おじいちゃんを説得しに掛った。

「来年の聖杯戦争は私が戦います。なので、おじさんを屋敷から抓み出して下さい」

 色々と敏感な場所を蟲に弄られてるせいでキリッとした表情を維持出来ないのが悔しい。この子達、百戦錬磨を謳っていた自称・元AV男優より上手い。

「……それは無理というものだ」
「どうしてですか? 私、おじいちゃんに逆らったりしませんよ? しっかり、敵を皆殺しにして、おじいちゃんに聖杯をプレゼントしますから!」

 私が捲くし立てるように言うと、おじいちゃんはカカと嗤った。

「実の父親を殺せると?」
「殺して見せましょう。あんな髭面、一発ノックアウトですよ!」

 嘘だけどね。とりあえず、サーヴァントさえ居れば、逃亡も可能な筈。心臓に刻印虫が居るらしいけど、きっと何とかなるよ。確か、原作の主人公も心臓を壊されてから復活したらしいしね。

「元々、此度の聖杯戦争は静観するつもりであった。儂に彼奴を引き止めるつもりは無い。出て行きたければ好きにしろと伝えておけ。後は彼奴次第よ」
「……つまり、説得は私がやれと?」

 おじいちゃんは答えてくれなかった。仕方なく、私は何とかおじさんを説得しようと行動に出た。

「おじさん! くさい、きたない、気持ち悪い! 一緒に暮らしたくないから、出て行け!」

 昔取った客の男が娘に言われて傷ついた言葉ベスト3だ。効果は抜群……かと思ったけど、「すまない」と謝られて終わった。頑固な奴だ。次の手を考えよう。

「おじさん! 出て行ったら、ママのおっぱいのサイズを教えてあげる!」
「知ってるから別に……、あ、いや、今のは違っ――――」

 ジーザス。なんで知ってるんだよ、このストーカー。今度は直球勝負だ。

「おっさん! 出てけ!」
「……いや、この前のは違うんだよ。本当に違うんだ……。たまたまなんだよ……」

 肩を狭めて謝る哀愁漂う中年男に言葉を失った。この時既に二ヶ月。おじさんの肌は真っ青になっていた。髪の色素も抜け落ちている。
 もう、手遅れかもしれない。けど、諦めるわけにはいかない。

「おじさん! お願いだから出て行ってよ! 大丈夫だよ! 女なんて星の数程居るから! ママが世界一なわけじゃないから!」
「葵さんは世界一だよ」

 キリッとした表情で言われた。一途な男め、面倒臭いな。

「ママのどこに惚れたの?」
「優しいところかな……。昔――――」

 半年が経過すると、私はおじさんを追い出す事を諦めていた。だって、もう手遅れだから……。おじさんはどうして生きているのか不思議な状態だった。
 この頃はおじさんと何気ない会話をする毎日だ。最初に色々と情け容赦無い言葉を浴びせかけたせいか、かなり砕けた関係になっている。
 おじさんはママへの愛をせっせとママの娘である私に語った。

「でも、パパに取られちゃったんだね!」

 ケラケラ笑って言う私に泣きそうになるおじさん。ダメな男に嵌る女の気持ちが分かりかけてしまった。

「時臣の奴は桜ちゃんをこんな場所に――――」
「いやいや、パパにも色々考えがあるんだって――――」

 とりあえず、前情報で知っていたパパの思いを教えた。ヘタすると私がホルマリン漬けになったり解剖されたりするからなのだよ。

「でも、こんな所で蟲共に集られるなんて……」
「モノは考えようだよ、おじさん。ホルマリン漬けより蟲とズッコンバッコンする方がマシだと考えるんだ」
「……いや、もっと別の選択肢もあった筈だ」

 聖杯戦争まで残り数ヶ月。おじさんは悶々と悩む日々を送っている。体の至る所が死に、ゾンビ状態になりながら、色々と考えているみたい。

「おじさん」
「なんだい?」
「きっと、死んじゃうよ?」
「そうかもね……」
「怖くないの?」
「怖いよ」
「どうして、逃げなかったの? パパの考えとか、ママの気持ちとか、ちゃんと教えてあげたよ? おじさんが頑張っても、ママは絶対に振り向かないよ?」
「嫌というほど分かったよ」
「なら、どうして逃げなかったの?」
「なんでだろうね」
「なんで?」
「桜ちゃんを助けたいからかな」
「ママの娘だからでしょ? でも、ママは――――」
「いや……、桜ちゃんを助けたいからだよ」

 おじさんに令呪が宿った夜、私達はそんな事を語り合った。おじさんは地下に潜っていく。サーヴァントを召喚する為だ。
 結局、私は令呪を得られなかった。毎日お祈りしていたのに、聖杯は私を選ばなかった。

「……おじさん、死んじゃうのかな」

 原作通りに進んだら……、彼は死ぬ。いや、違う道を歩んだとしても彼は生きられない。敵が強すぎるし、おじさん自身が弱すぎる。それに時間も足りない。おじさんの命は保って一週間か二週間が限度。来月にはおじさんは――――、

「嫌だな……」

 この部屋でいっぱいおじさんと語り合った。肌を重ねる事もせず、こんな風にたくさん言葉を交わした相手は居なかった。いや、肌を重ねた相手ともこんなに多くを語り合ったりはしなかった。
 不意に涙が溢れた。おじさんと会えなくなるのが悲しい。あんなストーカー思考のゾンビに恋心なんて抱いてないけど、私はおじさんが大好きになっていた。もっと、一緒にお喋りしたい。もっと、一緒に居たい。

「おじさん……」

 涙が手の甲に落ちた。瞬間、鋭い痛みが走った。

「……うっそ」

 吃驚して目が飛び出しそうになった。同時に廊下に飛び出し、いつもの階段を降りておじさんが召喚を行う部屋に向かう。サーヴァントの召喚は魔力が最も充実する時間に行う筈だから、後もう少し猶予がある筈だ。

「どいてどいて!」

 刻印中の群れを尻目に走り続ける。呪文はおじさんが暗唱するのを聞いていたから覚えてる。
 召喚の間に飛び込むと、おじさんが目を丸くした。

「おじさん! 私も戦うよ!」
「ま、待て、桜!」

 おじいちゃんが静止の声を上げる。直後、全身に痛みが走る。刻印虫が体内で暴れているのだ。だけど、舐めないで欲しい。こちとら、SMプレイで全身に蝋燭垂らされたり、鞭で打たれたり、エアガンで撃たれたりが日常茶飯事だったのだ。とんでもなく痛いけど、我慢出来ないくらい痛いけど、ちょっとだけなら耐えられる。

「満たせ満たせ満たせ満たせ満たせ!」

 まだ、詠唱に入ってもいない。そもそも、こうして魔術を行使するのは初めての事。だけど、感じる。魔力の烈風。

「繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する!」
「馬鹿者! 今直ぐに召喚を止めるのだ、桜!」
「告げる。汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ!」

 おじいちゃんの言葉をガン無視するのは初めてだ。全身が痛い。体内で火薬が連続して爆発しているような感覚。吐き気と目眩で立っていられなくなる。
 けど、首を締められたり、殴られたりしながらも演技で矯正を上げる私を甘く見ないで欲しい。

「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者!」
「桜ちゃん!!」

 おじさんの悲鳴染みた叫び声が聞こえる。おじいちゃんの怒りの声が聞こえる。私の狂ったような笑い声が他人事のように聞こえる。

「汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ!」

 烈風が勢いを増した。この部屋は局地的な嵐に見舞われた。呼吸すらままならない。
 全身に針が突き刺さる。けど、それ以上の痛みが体内から湧き出てくる。炎に焼かれ、凍らされ、砕かれ、千切られ、振り回され、気がついた時には目の前に一人の女が居た。闇の中で尚輝いて見える美しさ。女である私から見ても惚れ惚れする。

「――――サーヴァント、キャスター。召喚に応じ、ここに参上した。お前が妾を召喚せし、マスターか?」

第二話「英霊召喚」

「――――サーヴァント、キャスター。召喚に応じ、ここに参上した。お前が妾を召喚せし、マスターか?」

 現れたサーヴァントを前に私は歓喜に打ち震えた。何度も大きく頷く。

「うん! 私が貴女のマスターだよ!」

 令呪を見せびらかすように掲げる。キャスターは大海を思わせる澄んだ紺碧の瞳で私を見つめる。まるで私の全てを見透かしているかのような眼差し。
 しばらくして、彼女は腰まで届く長い金髪を指で弄りながら、口を開いた。

「名は?」
「間桐桜!」

 私の名前を口の中で反芻しながら、彼女は周囲に視線を滑らせる。途端、不機嫌そうな表情を浮かべた。

「汚い」

 キャスターは私をさっと抱き上げると歩き出した。

「こんな汚い所には居たくない。行くぞ、桜」

 出口に向かって歩き出す彼女に私は慌てた。

「待って、キャスター! おじさんの召喚がまだ終わってないよ!」
「おじさん?」
「うん! あそこのゾンビっぽい人!」

 私が指差した先を見て、キャスターは露骨に嫌そうな顔をした。おじさんはキャスターに対して警戒心を抱きながら、同時に私を心配している。風俗で働いていると常に相手の関心を自分に向けさせなければならないから、人間の心の機微に敏感になるのだ。一年間、誰よりも身近に居た彼の心など手に取るように分かる。

「気色悪い」

 キャスターは半死人状態のおじさんを見て一言そう言った。色素が完全に抜け落ち、真っ白になった髪。死んだ魚のような片目。蝋人形のように青褪めた肌。一秒後に心臓が停止してもおかしくない状態。親しい間柄である私から見ても気味が悪い。キャスターの感想は至極当然のものだ。私は同意の意を篭めて頷きながら言った。

「気色悪くてもおじさんの召喚が終わるのを待たなきゃダメだよ! 聖杯をゲットして、おじさんの体を元に戻さないといけないんだから!」
「さ、桜ちゃん……?」

 私に喜色悪いと断じられ、若干煤けた表情を浮かべていたおじさんが最後の一言に目を丸くした。

「あの男の体を癒やす為に聖杯を使う気か?」

 キャスターも驚いている。私は親指をグッと上げた。

「イエス! おじさんとはもっと一緒に居たいからね。聖杯は万能なんでしょ? だったら、おじさんの体を元に戻してもらう」
「……勿体無い。望めばどんな願いでも叶える万能の願望器だぞ? 他に無いのか?」

 そう言われても浮かんで来ない。私の望みは強いて言うなら青春を取り戻す事。その為に間桐から逃げ出し、魔術の世界から距離を置きたいと思ってる。その為にサーヴァントが必要だった。逃げ出す為にはそれなりの力が必要だったからだ。だから、キャスターを召喚出来た時点で望みが叶ってしまっている。
 まあ、間桐から逃げ出した後の事を考え、ある程度お金もあった方がいいかもしれないけど、いざとなったら生前みたいに売春すれば問題無い。私の膣や尻の穴は刻印中によってすっかり拡張されているし、テクニックにも自信がある上、この見た目。ロリコン相手にガッポリ稼ぐ自信がある。
 美味しい物をいっぱい食べたいし、高校や大学にも通ってみたい。その為の勉強もしたい。その為に必要なものはお金だけで、それを稼ぐ手段もあるとなれば、正直、願望器に願う事など無い。

「無いね! 強いて言うなら、おじさんと一緒に世界を渡り歩いてみたいかな」

 ワンランク上の人生設計。いろんな国を旅して、様々な経験をする。普通の子供が経験出来ないデラックスな青春を手に入れる。折角手にした二度目の人生なんだし、とびっきりのスパイスを効かせるのも悪く無い。後は風の吹くまま気の向くまま。
 その為にはやっぱりおじさんを助ける必要がある。

「うん。私の願いはおじさんを助ける事だけだよ」
「……嘘は無いようだな。だが、やはり勿体無いと思うぞ」
「しつこいなー。おじさんは確かにストーカーだし、ゾンビだけど、私は大好きなんだよ!」
「さ、桜ちゃん……」

 おじさんがちょっと感動している。やばい、反応が素直過ぎてグッと来る。可愛いなー、もう!

「いや、それは見ていてわかるが、あの程度なら妾がどうにか出来るぞ?」
「……え?」

 彼女はかなりハイエンドな魔術師らしい。なんと、ゾンビ状態のおじさんを元に戻す事も出来るとの事。ついでとばかりに私の胸を軽く突く。それだけで体内に感じていた異物感が掻き消えてしまった。何をしたのかと問うと、体内の蟲の支配権を今のでおじいちゃんから奪い取ったとの事。
 おじいちゃんは憤慨したけど、キャスターが軽く脅すと黙った。争いは同じレベルの者同士の間でしか発生しないと言う。まさにその通り。キャスターとおじいちゃんでは魔術師としての力量に天地程の差が開いているらしい。

「凄い……」

 稚拙と思いながらもそんな感想しか出て来なかった。とにかく、今の短いやり取りの間に私の最大の懸念材料が消滅してしまった。いつおじいちゃんがキレて私の心臓を蟲に食べさせるか分からず、それなりに不安もあったのだ。

「あ、ありがとう」
「別に気にする必要は無い。あのような汚物にマスターの命運を握られている状態は妾にとっても厄介だからな。それに、お前は妾に願いを叶える機会を与えてくれた。その時点で代価は受け取っておる」

 この人、見た目は絶世の美女だけど、中身は実に男らしい。不覚にも禁断の扉を開いてしまいそうになる。ソッチの趣味を持つ女の子とも何度か性交渉を行った事があるけど、別に両刀なわけじゃない。なのに、思わずグラついてしまった。
 よろめきながら瞼を閉じると奇妙な映像が映った。キャスターの姿があり、文章が彼女を中心に飛び交っている。その内の一節が光輝き、私に文章の意味を理解させた。

「カリスマ……?」
「ああ、それは妾の保有スキルだな」

 なるほど、これが彼女のステータスというわけだ。他にも色々とスキルがあるみたい。策謀、異界常識(偽)、高速神言(偽)、陣地作成、道具作成。(偽)って付いているのが多い気がする。真名は空欄だ。

「キャスターの名前は?」
「すまんが教えられん。真名を敵に知られると厄介だからな」
「別に教えたりしないってば」

 私の言葉にキャスターはフーっと溜息を零し、首を横に振る。

「お前に教える気が無くとも、魔術師には知る術が色々とある」

 なるほど、魔術の専門家がそう言うならそうなんだろう。詳しくは分からないけど、とりあえず頷く。

「とにかく、これから時間はたっぷりある。今は無くとも、聖杯を得るまでの間に何か願いを考えておけ」
「う、うん」

 頷く私を抱っこしたまま、キャスターはおじさんに向かって言った。

「それで、お前は桜の何だ? 何を願い、聖杯戦争に参加する気だ?」

 その言葉には敵意が篭っていた。当然だ。彼女はサーヴァント。願いがあるからここに居る。そんな彼女にとって、自分以外のサーヴァントは須らく敵なのだ。敵を召喚しようとしているおじさんに対して、キャスターが警戒心を抱くのは当たり前。
 おじさんも彼女の敵意の意味を理解したのだろう。ゴクリと唾を飲み込みながら、ゆっくりと自分の目的を語り始めた。私を救う為に聖杯戦争に参加しようとしていた事を……。
「なるほど……、つまり、妾と敵対するつもりは無いという事だな?」
「当然だ。君が桜ちゃんの味方である限り、俺も君の味方だ」
「妾が桜を裏切れば、その限りでは無いと……」
「ああ、それも当然だ。その時はお前を殺す。なんだ? いずれ、裏切る腹積もりだったのか?」

 敵意の篭った眼差しを向けるおじさんにキャスターは嗤った。

「裏切る理由が無い。小賢しい事を考える輩であれば傀儡として捨て駒にする事も厭わぬが、桜は実に素直な娘だ。安心しろ。私は桜を裏切らない」
「……いいさ。いざとなったら、俺が桜ちゃんを守るだけだ」

 キャスターの言葉を全く信用していないらしい。自身を睨み付けるおじさんに対して、キャスターは微笑む。

「ああ、それでいい。それがいい。見た目は最悪だが、中身は悪くない。私もお前が桜を裏切らぬ限り、味方で居てやろう」

 剣呑とした雰囲気を漂わせながら、二人は笑い合う。意外と相性が良さそう。

「お前の体は後で治療してやる。召喚するならさっさとしろ。手駒が増えるなら大歓迎だ」
「……ああ」

 戸惑いながら、陣の前に立つ。

「……よし!」

 気を取り直し、おじさんが深く息を吸う。その時になって漸く、私はおじいちゃんの姿が見えなくなっている事に気付いた。
 私の視線の意味に気付いたらしく、キャスターが囁いた。

「逃げたようだ。まあ、目の前であんな会話を聞かされたら、当然と言える」

 そう言えば、裏切る気満々の会話をおじいちゃんの目の前で繰り広げていたのだった。しかも、裏切る為の戦力が既に整っている。逃げるのも当たり前だ。
 まあ、おじいちゃんの事だから、これで終わりって事は無いだろう。

「まあ、仕掛けて来たら返り討ちにするだけだ」

 クスリと微笑むキャスター。実に頼りになる。思わず惚れそうだ。
 兎にも角にも、今はおじさんの召喚を見守ろう。私達が見守る中、おじさんはゆっくりと詠唱を開始した。

 第二話「英霊召喚」

 間桐雁夜がサーヴァントを召喚しようと詠唱を開始した頃、時を同じくして、三人の魔術師が偶然にも召喚を行おうとしていた。
 既にキャスターとアサシン、そして、ランサーの枠が埋まり、残るはセイバー、アーチャー、ライダー、バーサーカーの四枠。
 聖杯戦争の主催者の一角である遠坂家の屋敷の地下では弟子と盟友に見守られながら当主たる男が魔術回路を励起させている。

「素に銀と鉄。 礎に石と契約の大公。祖には我が大師シュバインオーグ。降り立つ風には壁を。四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ」

 深山町の端にある雑木林の奥深くでは一人の少年が鶏の生き血を使って描いた魔法陣を前に呪文を唱えている。

「閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する」

 日本を遠く離れた地では礼拝堂の床に描いた魔法陣を前に一人の男が妻を背に詠唱している。

「――――告げる。汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」

 四者の祝詞が陣を通して聖杯へ導かれ、英霊の座へと送られていく。

「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者」

 それぞれが胸に秘めた野望の成就の為、渾身の魔力を練り上げ、陣へと注いでいく。
 立っている事さえ難しいほどの烈風に耐え、死に行く肉体に渇を入れ、最後の一説を唱え切る。

「汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ――――!」

 光が工房を、雑木林を、礼拝堂を、地下室を照らす。

 四つの陣の内、最初に人影が現れたのは雑木林の陣だった。その場所で召喚を行った少年は目の前の存在に圧倒され、小便を漏らした。無理も無い事だ。彼が呼び出したのは英霊と呼ばれる存在。人の身でありながら、人の域を超えた者達。歴史にその名を刻む伝説の英雄達なのだ。

「問おう。汝が余を招きしマスターか?」

 燃えるような赤髪の大男が召喚者である少年の胴回り程もある筋骨隆々な腕を彼に差し伸ばす。少年は慌ててその手を取りながら自らの名を名乗る。

「そ、そう! ぼ、ぼぼ、僕が……じゃない、私がお前のマスターで、名前はウェイバーだ! ウェイバー・ベルベット!」

 緊張と恐怖によって少年は呂律が回っていなかった。けれど、精一杯の虚勢を張り、目の前の大男にマスターとしての威厳を見せつけようと無駄な努力をしている。
 そんな彼の思いを余所にライダーとして召喚されたサーヴァントは意気揚々と歩き出した。慌てて追いかけるウェイバーにライダーは問う。

「書庫はどこだ? 案内せい!」
「しょ、書庫?」
「契約は成った! ならば、次は戦の準備だ!」

 前途多難なスタートを切ったウェイバーに遅れる事数刻、地下室の陣から一人の青年が躍り出た。凡庸な顔立ちの青年だが、その腰には身の丈に合わぬ剣を携えている。

「サーヴァント・セイバー、召喚に応じ参上した。問おう。貴殿が私のマスターか」

 雁夜はゴクリと唾を飲み込みながら、現れた青年に向って頷く。

「そうだ。俺は間桐雁夜。お前のマスターだ」

 セイバーは雁夜の顔を見た途端、ギクリとした表情を浮かべた。

「ああ、この顔の事は気にするな。治して貰えるらしいからな」

 セイバーの浮かべた表情の意味を察して、雁夜は振り向きながら言う。すると、彼は僅かに瞠目した。
 セイバーは不思議そうに彼の視線を追った。すると、そこには仮面を被り、外套を纏ったサーヴァントが立っていた。咄嗟にマスターたる半死人の前に飛び出し、腰に提げた聖剣を抜き放つ。

「待った! そいつは敵じゃない!」

 今にも襲い掛かりそうなセイバーに雁夜は慌てた様子で静止の声を上げる。

「し、しかし――――」
「とにかく、ちょっと待ってくれ! 桜ちゃん、これは一体……」

 雁夜が話し掛けたのはまだ年端も行かぬ少女だった。桜と呼ばれた少女は怪訝そうな眼差しを仮面のサーヴァントに向けている。

「ど、どうしたの、キャスター?」
「どうしたもこうしたも無い。いずれ、残り二組となれば雌雄を決する相手だ。わざわざ正体を教えてやる事もあるまい」
「……だってさ、おじさん」
「そ、そっか……」

 苦笑いを浮かべ合う二人。セイバーはマスターである雁夜から彼女とキャスターについて簡単に説明を受けた。キャスターの正体については二人共知らないらしく、凄い魔術師らしいという簡素な説明だった。
 状況を把握出来たところでセイバーは居住まいを正した。

「私の名はアコロン。円卓の騎士が一人です」

 ライダーとセイバーの召喚により、残る枠は二つとなった。そして、礼拝堂の陣からは真紅の衣を纏った英霊が召喚者たる男の前に姿を現していた。

「サーヴァント・アーチャー。召喚に応じ、参上した」

 そして、最後に残った陣からも――――、

「馬鹿な……」

 召喚者、遠坂時臣は陣から現れたサーヴァントを一目見て悟った。失敗したのだ。
 現れたのは絶大な存在感を放つ最強の英霊では無く、素朴とさえ感じる一人の女だった。時代遅れな衣服を身に纏う田舎娘。それが彼女に対して時臣が抱いた第一印象だった。
「お前が……私のサーヴァントか?」

 目的の英霊を呼び出せなかった事に落胆しながら、時臣は問う。すると、彼女は小さく頷いた。

「ええ、私が貴方のサーヴァントよ。クラスはファニーヴァンプ。よろしくね、坊や」

第三話「正義の味方」

「サーヴァント・アーチャー。召喚に応じ、参上した」

 召喚陣から姿を表した男に衛宮切嗣は戸惑いを覚えた。彼が召喚の際に使用した聖遺物は彼の後援者であるアインツベルンがイギリスで発掘した”とある騎士の剣の鞘”だった。当然、現れるのはその鞘の持ち主だと信じて疑わなかった。
 目の前の男は自身をアーチャーと名乗った。もし、彼が切嗣の狙い通りの英霊であったなら、そのクラスで召喚される事はあり得ない。それに、目の前の男からは血生臭さこそ感じるものの、王の威光とやらが全く感じられない。
 何より、肌色や瞳色、髪色から誤認しそうになるが、その顔立ちは東洋人のもの。

「……お前の名はアーサーで間違いないか?」

 一応、確認の為に問い掛ける。すると、アーチャーはクスリと笑った。

「かの騎士王と間違われるとは、実に光栄だな。だが、残念ながら私はアーサーじゃない」

 予想通りの返答。切嗣は召喚陣の傍らに置かれている祭壇の上に寝かせている聖遺物に視線を向ける。それは嘗て、ブリテンの地を治めた伝説の騎士王、アーサー・ペンドラゴンが保有していた聖剣の鞘だ。
 この鞘で召喚される可能性が最も高いのは当然、持ち主であったアーサーだ。次点でアーサーに鞘を与えた魔術師・マーリンやアーサーから鞘を奪い取った妖姫・モルガン、そして一時的に担い手となった騎士・アコロンなどが該当する。だが、アーチャーのクラスに割り当てられる者は居ない。
 そもそも、アーサー王の伝説に東洋人など登場しない。

「なら、お前は何者だ?」
「……さて、どう答えようかな」

 面白がっているような口振り。アーチャーは視線を滑らせ、切嗣の背後で成り行きを見守っている銀髪の女性を見た。すると、一瞬だけ笑顔が崩れた。怪訝な表情を浮かべる切嗣にアーチャーは咳払いをしながら言った。

「敢えて名乗るなら、正義の味方と言ったところかな」
「……正義の味方だと?」

 呆気に取られる切嗣を尻目にアーチャーは辺りを見回している。

「しかし、面白いな。こういう事もあるのか……」
「何の話だ……?」

 突然、訳の分からない事を口走り始めたアーチャーに切嗣は眉を顰める。

「気にするな。運命というものの皮肉さについて考えていただけだ」

 要領を得ないアーチャーの言葉に切嗣は苛立ちを覚え、眉間に皺を寄せた。

「……お前の真名を教えろ」
「教えただろう?」
「戯言に付き合う気は無い」

 声を荒らげる切嗣に対し、アーチャーは実に楽しそうな笑みを浮かべる。

「戯言では無いさ。私はそういう存在なんだ。大衆が望む”正義の味方”という概念がヒトの形を得た存在、と言えば分かり易いかな」
「まさか……、そんな……」

 切嗣は無意識の内に後退った。目の前の男の言葉が真実だとすれば、それ即ち、目の前の男こそが己の理想の体現者という事になる。

 第三話「正義の味方」

 幼い頃からの夢。切嗣は常々、正義の味方になりたいと願っていた。まだ、南海の孤島にある小さな村に住んでいた頃は理想を信じる事が出来た。全ての人を幸福に導く救済者に、飢餓も闘争も無い世界を作り上げる革命家に成れると本気で信じていた。
 けれど、いつまでも無垢な子供のままではいられない。
 村で一つの事件が起きた。原因を作ったのは切嗣の父親で、引き金を引いたのは幼馴染の少女だった。村は阿鼻叫喚の惨劇を繰り広げ、事態の鎮圧と切嗣の父の捕縛の為にやって来た者達によって焼き尽くされた。切嗣はその時何も出来なかった。
 その後、事件を通じて知り合ったフリーランスの魔術師、ナタリア・カミンスキーと行動を共にする中で切嗣は人殺しの技術を身に付けた。”正義の味方”として、人を殺す為の技術を磨く、その矛盾に本人も気付いていたし、彼に技術を与えたナタリアも幾度と無く忠告した。
 少年の心はその時既に完成されてしまっていたのだ。幼馴染の少女を救えなかったあの日、実の父親を射殺したあの日、既に少年の心は冷え固まってしまっていたのだ。
 終には自らを育ててくれたナタリアを航空機ごと爆破し、殺害した。多数の人間を救う為に少数を殺す。それが正義なのだと自らに言い聞かせながら、機械のように人を殺し続けた。
 気づけば、幼い頃に憧れていた正義の味方とはかけ離れた存在に成り果てていた。正義の味方どころか、他者からは邪悪の化身と恐れられる始末。心が摩耗し、膝を屈しそうになっていた彼を拾い上げたのがアインツベルンだった。アインツベルンは彼に希望を与えた。聖杯と呼ばれる万能機。それを使えば、今度こそ理想を実現出来ると思った。
 聖杯を使い、この世から争いを無くす。飢餓や貧困で困る事の無い、誰もが幸福な世界を作る。それこそ、切嗣が最後に手にした希望だった。

「正義の味方……だと?」

 なのに、これは何の皮肉だろう。今になって、本物の正義の味方が姿を現すなんて……。

「嘘だ……」

 信じられない。そんなものは存在しないのだ。だから、聖杯に縋ったのだ。
 人の手で人類を救済する事は出来ない。正義の味方なんて、存在しないのだ。

「そう言われても、事実だ」
「なら、今直ぐに人類を救済してみせろ!」

 声を荒げる切嗣にアーチャーは哀れみの眼差しを向ける。

「お前が正義の味方だと言うなら、出来る筈だろ! この世から全ての争いを無くせ! 今直ぐに!」

 まるで、癇癪を起こした子供だった。彼の背後では彼の妻、アイリスフィールが悲しそうに顔を伏せている。あまりにも痛々しい夫の姿に見ていられなくなったのだ。
 彼がどれほどの思いで聖杯戦争への参加を決意したのかを誰よりも知るが故に……。

「飢餓を無くせ! 今直ぐに! 貧困を無くせ! 今直ぐに! 正義の味方なら、今直ぐ、誰もが幸福に生きられる世界を作ってみせろ! 今直ぐに!」

 肩で息をしながら切嗣はアーチャーを睨みつける。アーチャーは言った。

「それは無理だ」
「……ッハ! やはり、嘘だったか……。戯言ばかり弄して――――」
「俺は正義の味方だ。だが、英雄じゃない」

 その一言に切嗣は言葉を失った。聞きたくなかった言葉だった。

「お前の言う、人を救うという行為は英雄の領分だ。私はあくまで、”正義の味方”という理想に執着し、”より多くの人々を救う”という、偏った正義を体現し続けた……、言ってみれば、”正義の味方”という独善を執行し続けるだけの機械だ」

 やめろ……。
 切嗣は耳を塞ぎたかった。彼が語っているのは切嗣の在り方そのものだった。

「私みたいな者が代表者に選ばれるくらいだからな。案外、正義の味方というのは元々、こういう性質のものなのかもしれないな」
「……やめろ」
「お前なら分かっている筈だ。なあ、切嗣。正義の味方を志し、こんな所まで来てしまったお前なら、正義の味方が行き着く先がどんなものか――――」
「やめろと言っている!」

 足元がグラつく。今まで、コツコツと築いてきたものが一変に崩れ去ったかのような錯覚を覚える。

「戯言ばかり……、ウンザリだ! さっさと、貴様の正体を言え! これ以上、無駄口を叩くようなら令呪を使う!」

 それは信じていたものに裏切られた子供の顔だった。今にも泣きそうなのに、必死に涙を堪えている。そんな彼を気遣ったのか、アイリスフィールは彼の隣に寄り添った。

「ねえ、アーチャー」
「なんだね?」

 アイリスフィールは真っ直ぐにアーチャーの瞳を見据えて問う。

「どうして、貴方はそんなに切嗣の事に詳しいの?」

 切嗣はハッとした表情を浮かべる。確かに妙な話だ。召喚したばかりで、まだ名乗ってすらいなかった筈だ。なのに、目の前の男は切嗣の名を呼び、まるで彼の事をよく知るかのように語った。

「お前は一体……」

 探るような視線を送る切嗣にアーチャーは微笑んだ。
 嫌な予感がした。とても、嫌な予感だ。何か、とんでもない事を言い出す。そんな気がした。

「そうだな……。英霊となった時点で私の存在は人々の記憶や歴史から抹消されている。故に、”無銘”と名乗るのが正しいのだろうが、ここは敢えて、生前の名を名乗るとしよう」

 アーチャーは言った。

「私の名は衛宮士郎。君の息子だよ、衛宮切嗣」

 切嗣は肩に置かれていた妻の手に力が篭もるのを感じた。

「……アーチャー。戯言はもう――――」
「ちなみに、私には姉が居る。名前は――――」

 額から冷たい汗が流れた。

「イリヤスフィールと言うんだ」
「……どういう事かしら?」

 顔を引き攣らせながら、アイリスフィールがアーチャーに……、ではなく、切嗣に問う。

「いや、僕は知らないぞ。……というか、真に受けないでくれ、こんな男の戯言を――――」
「戯言ではなく、真実だ。俺は確かにお前の息子だ。そして、イリヤの弟だ。ただ、母は……」

 そこでアイリスフィールを見て黙るアーチャー。アイリスフィールは頬を膨らませて切嗣を睨んでいる。

「どういう事なの!? ま、まさか、貴方……」
「待て! 違うぞ! 僕は浮気なんかしてない!」
「じゃあ、これはどういう事なのよ!?」

 切嗣は今直ぐ撤回するようアーチャーに告げる為に彼を見た。すると、アーチャーは実に楽しそうに微笑んでいた。軽く拳を握りしめている。ガッツポーズのつもりだろうか……。

「き、切嗣にも色々と事情があるのは分かるわ……。でも、隠すのだけは止めて! お願いよ……」

 徐々に瞳が潤んできている。切嗣は困り果てていた。そんな風に言われても、本当に見に覚えが無い。だが、今はどんな否定の言葉も意味を為さないだろう。まったく、厄介な事をしてくれた。切嗣は忌々しげにアーチャーを睨んだ。
 すると、アーチャーがおもむろに口を開いた。

「まあ、養子だったのだがね」
「……へ?」

 アイリスフィールがキョトンとした表情を浮かべる。同時に切嗣は顔を引き攣らせた。当のアーチャーはと言うと、悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべている。

「私は第四次聖杯戦争後に切嗣に拾われた養子なんだ」
「……僕が拾った?」

 怒りを抑えこみ、気になった事を尋ねた。すると、アーチャーは何気ない口調で言った。

「証拠を出せというなら、その聖遺物で召喚された事自体が証拠だ」

 アーチャーは祭壇の鞘を見ながら言った。

「お前が私に埋め込んだんだ。今も私の中には彼女……、アーサー王の鞘が眠っている。返しそびれてしまったのでね……」
「……馬鹿な。何故、僕が見ず知らずの子供に聖剣の鞘を埋め込み、養子になど――――」
「第四次聖杯戦争は君が勝者となった。だが、肝心の聖杯が暴走し、私が住んでいた街を火の海にしたんだ。その時、お前は必死に生存者を探し求めていて、私を発見し、養子にしたんだよ」
「……待て」

 聞き捨てならない内容だった。

「聖杯が暴走だと?」
「ああ、暴走した。元々、冬木の聖杯は第三次聖杯戦争の折にアインツベルンが犯した反則行為によって汚染されてしまっているから、どうあっても暴走は避けられなかったのさ。だから、君の罪じゃない。むしろ、聖杯を破壊し、被害を最小限に留めた君の功績は正に正義の味方に相応しいものだった」

 その内容は要するに、聖杯を暴走させたのは切嗣で、その聖杯を……、己の最も大切な者を破壊したのも切嗣だと言う事。

「う、嘘を吐くな! さっきから、お前の目的は何なんだ!? 何故、そんな――――」
「嘘じゃない。何なら、君達の後援者に前回の聖杯戦争で何を召喚したのか聞いてみるといい。それか、ラインを通じて私の記憶を見るといいだろう。可能なのだろう? それで信じてもらえる筈だ。私の言葉が本当なのだと」

 出鱈目だ。そうに決っている。だが、彼の言葉が真実だとすれば、切嗣の事を知っていた事にも辻褄が合う。
 切嗣の瞳に恐怖の感情が浮かんだ。最後の希望と思って縋り付いた聖杯が使い物にならない可能性を考え、絶望しそうになる。その寸前、傍らに寄り添うアイリスフィールの体温を感じ、踏みとどまった。

「……念の為、アハト翁には後で確認を取る」
「ああ、そうしろ。きっと、答えてくれる筈だ。アンリ・マユと呼ばれるゾロアスター教の邪神を呼び出そうとして失敗し、そうあれと望まれた一人の少年を召喚してしまったのだと答えてくれる筈だ」
「……アンリ・マユだと?」
「ああ、本物では無かったが、聖杯は彼の願いを叶え、彼を本物にしてしまった。今も彼は災厄の邪神として聖杯の本体の内部に留まっている。今の聖杯に願うという事はアンリ・マユに願うという事だ。その結果がどうなるか、言わなくても分かるだろ?」

 二人が唖然とした表情を浮かべるのを見て、アーチャーは深く息を吐いた。

「仮に恒久的な平和を願ったとする。すると、聖杯はこの世の生物を皆殺しにするだろう。生物が居なければ、争いは発生しないからな」
「……そんな」

 アイリスフィールが口元を手で覆いながら悲鳴を上げた。

「君達の祈りは叶わない。ここから逃げ出す手伝いはしてやる。だから、イリヤを連れて姿を眩ませろ。聖杯が無ければ、聖杯戦争も成立しないから、私の生前のような惨劇は避けられる筈だ」
「……それでお前はどうするんだ? お前も願いがあって、召喚に応じたのだろ?」
「別に……、聖杯に願う程の祈りなど持ち合わせていないさ。私はただ、呼ばれたから応じただけだ。まあ、過去の改変などに興味は無いが、目の前で起こると分かっている惨劇を見過ごすわけにもいかん。君達を上手く逃がす事が出来れば後はどうとでもなるだろうから、適当な所で自害するさ」

 当然のようにそんな事を口にするアーチャーにアイリスフィールは声を震わせながら言った。

「貴方……、本当に切嗣の子なのね」
「信じてくれる気になったかね?」
「……なんとなく、初めて目にした時から分かってた気がする」

 暗い表情を浮かべ、アイリスフィールは呟く。

「貴方の目は切嗣にとても似ている。色とか形じゃなくて、もっと別の……。きっと、切嗣と同じようなものを見て来たのね」

 観察力に優れていると言うべきか、それとも、単に勘が鋭いだけなのか……。

「まあ、アハト翁とやらに前回の聖杯戦争の事を聞けば全てが明らかになる筈だ」
「……無理だ」

 アーチャーの言葉を遮り、切嗣が呟いた。

「仮にお前の言葉が真実だとすれば、アハト翁はその事を隠すだろう。結局、確証は得られない」
「つまり……?」
「僕はまだ、お前の言葉を信じていない。実際にこの目で真実を識るまでは……」
「妻と娘を連れて平和に過ごす。それじゃあ、駄目なのか?」
「……僕には聖杯が必要だ。お前の言葉が単なる嘘である可能性もある。僅かでも望みがあるなら、それに賭ける」

 切嗣とアーチャーは互いに無言で睨み合った。どちらも揺るがない。

「……まあ、私がこの時間軸に召喚された時点で色々と変化している筈だ」

 先に折れたのはアーチャーだった。

「もしかしたら、聖杯が正常なままの可能性もある。それでも、恒久的な平和なんぞ、私は祈る気になれんが……。マスターがそう決めたなら判断に従うとしよう」
「……意外だな。もっと、反対すると思ったが」
「令呪を消費した挙句、従わされる事になるくらいなら、令呪を温存して、此方が折れた方が被害が少なくて済むからな。だが、一つだけ言っておく」

 アーチャーは剣呑な眼差しを向けて言う。

「聖杯が汚染されていた場合、お前の願いは最悪な形で実現する事になる。そうなる事を知りながら、妄執に取り憑かれ、聖杯を使おうとした場合、私がお前を殺す。それを忘れるな」
「……ああ、分かった」

 切嗣の返答に満足したのか、アーチャーは表情を和らげた。

「では、改めて名乗るとしよう。クラスはアーチャー。真名は無銘。生前の名は衛宮士郎。これより我が弓は貴殿と共にあり、貴殿の命運は私と共にある。これで、契約は完了した。短い付き合いになるが、よろしく頼む、マスター」

第四話「戦いの始まり」

 後悔した時、既に遠坂時臣は囚われてしまっていた。

「見てご覧なさい、坊や……。また、人が死んだそうよ」

 酷く悲しげな表情を浮かべ、女は言った。彼女が見つめる先にはテレビが置かれている。科学技術を心底から軽蔑している時臣の自室にソレを持ち込んだのは彼の弟子だった。とは言え、それも彼女に命じられたからこその行為であり、時臣も彼を責めない。
 虚ろな瞳をテレビに向け、時臣とその弟子、言峰綺礼は頷く。

「はい、母さん」

 まるで示し合わせたかのように二人の声が重なり合う。テレビの画面には連続猟奇殺人鬼・雨龍龍之介による殺人のニュースが流れている。

「これも全て私の罪……。私の子が自らの兄弟を殺す。ああ、とても悲しいわ」

 一滴の涙を零す彼女に時臣がそっとハンカチを取り出す。

「終わりにしなければ……。母として、子供達を理想郷へと導かなければ……」

 女は時臣と綺礼を優しく抱きしめる。愛する息子や娘を抱きしめる慈母のように、彼らを包み込む。その抱擁に彼らは身を任せる事しか出来ない。彼女の言葉に反抗する事など出来ない。何故なら、彼女は母なのだから――――。

「力を貸して……。この戦いを人類最後の流血とする為に……」
「はい、母さん」

 第四話「戦いの始まり」

 ウェイバー・ベルベットは悩んでいた。折角召喚したサーヴァントが己の言う事を全く聞き入れてくれないのだ。むしろ、どっちが主人で、どっちが従僕だか分からない扱いを受けている。
 召喚から既に数日。他の参加者達が動きを見せない事をいい事にライダーは好き勝手に動き回っている。最初は下半身丸出しの状態で出歩こうとして、拠点にしている民家の住人が大騒ぎをするという事件もあった。今は何とか説得してパンツとズボンを穿かせる事に成功したが前途多難過ぎる。
 とは言え、既に聖杯戦争は始まっている。日中は自由奔放に動き回るライダーの監視の為に他の事が何も出来ないが、夜になれば多少落ち着いてくれる。寝る間を惜しみ、ウェイバーは昼間の内に町中に配置しておいた使い魔と視界を同期させた。
 どんな些細な変化も見逃さない。気合を入れて順番に使い魔の視界を確認していく。公園では酔っぱらいが歌を歌い、橋ではカップルが愛を囁き合っている。至って平和だ。

「今日も空振りか……」

 落胆の色を隠せないでいるウェイバーにテレビを見ていたライダーが事も無げに言う。

「そう気を落とすな。この国では果報は寝て待てと言うらしいぞ」
「けど、もう三日目だぜ? そろそろ動きがあってもいい筈だ」
「まだ三日目とも言える。それぞれ、サーヴァントを召喚し、地盤を固め、戦の準備に勤しんでおるのだろう。むしろ、早々に動き出す者が居れば、それは余程の愚か者か、あるいは何らかの策を練っての行動である可能性が高い」
「じゃあ、今の段階で街に異変が起きていない事はむしろ自然って事か?」
「そうとも言い切れぬが、異変が起きない事が不自然と判断するにはまだ早い」
「……分かった」

 再びテレビ鑑賞に戻ったライダーの背中をボーっと見つめながら、ウェイバーは彼の言葉を頭の中で反芻した。ライダーの言うとおり、今はまだ他の参加者達も地盤固めや情報収集に奔走している最中なのだろう。

「あれ……?」

 だとすると、この三日間の自分達の行動は非常に不味いものだったのでは……、。

「お、おい、ライダー! 俺達、真っ昼間から出歩いてるけど、敵のマスターに存在を気づかれてるんじゃないか!?」
「その可能性は大いにあるな」
「ば、馬鹿! なんで、そんなのほほんとしてるんだよ! ヤバイじゃないか! この場所だって、敵に知られてるかもしれないし――――」
「落ち着け」

 ウェイバーはおでこにデコピンを受け、ひっくり返った。そんな彼をゆっくりと立ち上がったライダーが見下ろす。

「それが狙いだ」
「……え?」
「お前さんの持ち味はフットワークの軽さだ。敵が網に掛かれば、後は余が叩き潰す。下手を打っても、イザとなれば何時でもこの拠点を放棄して逃走する事も出来る」
「……お前」

 不覚にも感心してしまった。彼は先のことをキチンと考えて行動していたのだ。それを愚かな行為だと叱責し、目くじらを立てていた自分が恥ずかしい。
 俯くウェイバーの背中をライダーはバンと叩いた。体重の軽いウェイバーは吹き飛ばされそうになりながらギリギリで耐え、恨みがましい視線をライダーに向ける。

「ドシッと構えておけ、男ならな」
「……お、おう」

 だははと笑うライダーにウェイバーは溜息を零した。

 翌日、ウェイバーは率先してライダーを連れ、街の散策に出た。今まではライダーに連れ回されるばかりだったが、今回はキチンと目的をもって行動している。
 地形の把握に努めながら、敵に自分の存在をアピールしているのだ。彼の宝具なら、どんな敵に対しても遅れを取らないと確信しているし、万が一の場合があっても確実に逃走出来る。

「……とは言え、さすがに昼間から仕掛けては来ないか」
「まあ、どいつもこいつも人目を避けるだけの分別はあるらしいな」

 そう言うと、ライダーは近場にあるゲームショップに向かって駆けて行った。本当は単に遊びたいだけで、昨夜の言葉はただの言い訳なんじゃなかろうかと疑念が募る。
 空が茜色に染まった頃、ウェイバーは軽くなった財布の中身を見て溜息を零した。結局、今日も空振りだった。ライダーの買い物に付き合わされ、散財しただけ……。

「さすがに四日目に入っても動きが無いなんて、ちょっと変じゃないか?」
「焦るなと言っただろう。まだ、夜も更けておらん。動き出すとしたら――――」

 途中で言葉を切ったライダーに首を傾げるウェイバー。ライダーは海の方を見据えて言う。

「どうやら、動き出したらしい」

 その言葉に心臓が跳び跳ねた。望んでいた事とは言え、実際にその時が来ると萎縮してしまう。そんな自分を腹立たしく思いながらも、体の震えが止まらない。

「シャキッとせんか!」

 ライダーは腰に携えた短剣を掲げつつ、ウェイバーを一喝した。ライダーの声に驚き、顔を上げると、雷鳴と共に神牛が牽くチャリオットが現れた。
 それこそがライダーの宝具。神威の車輪――――、ゴルディアス・ホイール。
 ライダーはウェイバーの首根っこを捕まえると、乱暴に御者台に乗せ、自身もチャリオットに乗り込んだ。ライダーが手綱を引くと、神牛は雷霆を迸らせ、驚くべき速度で疾走を開始する。
 僅か数秒で地上が彼方へ消え去り、チャリオットは雲を抜け、月下に踊り出た。

「まずは様子見だ」
「え? 戦いに行かないのか?」

 目を丸くするウェイバーにライダーは頷く。

「奴は我等と同じく、敵を誘い出そうとしておるのだ。しかも、臨戦態勢を整え、殺気を撒き散らせながら……。あの誘いに乗る者の有無によって、この聖杯戦争における参加者達の毛色を見極める事が出来る」

 徐々にチャリオットを降下させ、雲の下に出る。ウェイバーは荷物から双眼鏡を取り出した。

「あれは……、ランサーか?」

 双眼鏡のレンズの先には呪符によって覆われた双槍を構える美丈夫の姿。
 何かを叫んでいる様子だが、さすがに声は届かない。恐らくは挑発の類を口にしているのだろう。

「あっ……!」

 三十分くらい経って、漸く、ランサーの誘いに乗る者が現れた。黄金色の髪に銀の鎧。手にしている獲物は西洋の長剣。間違いない、セイバーだ。

「どうやら、腰抜けばかりでは無かったようだな」

 ライダーが実に楽しそうな声で言った。

「良かったな……」

 適当に相槌を打ちながら、眼下で繰り広げられている戦いにウェイバーは見入った。
 セイバーとランサーの戦いは拮抗している。互いに化け物染みた挙動で海岸に隣接している倉庫街を蹂躙している。

「あれが……、サーヴァント同士の戦い……」

 人を超えた者達の戦いはウェイバーの理解を遥かに超えていた。
 一体、如何なる経験を積めば、あんな凄まじい戦いを繰り広げられるようになるのだろう。チラリと横目で自らの相棒を見る。彼もまた、眼下の英雄達のように剣を手に立ち回るのだろうか……。

「……技量はランサーが上だな」
「え?」

 双眼鏡も使わずにライダーは両者の力量を見極め、眉間に皺を寄せる。

「でも、拮抗してるように見えるけど?」
「ああ、それが妙なところだ」

 ライダーは頬を掻きながら唸った。

「セイバーの技量も相当なものだが、ランサーに比べると明らかに見劣りする。なのに、拮抗している。これは一体……」
「えっと……」

 ステータスを透視しようにも距離が離れ過ぎている。ライダー曰く、技量に開きのあるランサーに対して、セイバーが拮抗状態に持ち込めている理由は恐らくスキルか宝具に秘密がある筈。宝具だとしたら看破出来ないだろうけど、それでも”そういう宝具を持っている英霊”という情報を得られる。
 どうにかして、透視可能な距離まで近づけないだろうか……。
 ウェイバーが思案していると、ライダーが舌を打った。

「ランサーが宝具を開放した。必殺を確信したか、あるいは痺れを切らしたか……、どちらにしても、このままでは勝敗が決してしまうな」
「なんで、不満気なんだよ? どっちかが脱落してくれるなら良い事じゃないか」

 ウェイバーが双眼鏡から目を話して言うと、ライダーがおでこにデコピンを食らわせた。

「バカモン! それではつまらんだろう。折角、異なる時代の英傑共と矛を交える機会を得られたのだぞ。それが六人もおるのだ! 一人たりとも逃す手は無い!」

 そう豪語するライダーにウェイバーは目を丸くしている。彼が口にしている言葉の意味が全く分からないのだ。どう考えても、潰し合って、敵の数が減る事こそ歓迎するべき事であって、わざわざ全員と戦うなど効率が悪いにも程がある。
 だが、そんな彼を尻目にライダーは熱く語る。

「元にセイバーとランサー! あの二人にしてからが共に胸が熱くなるような益荒男共だ。死なすには惜しい!」
「死なさないでどうすんのさ!」

 さすがに頭に来て、ウェイバーはライダーに掴み掛かった。聖杯戦争は殺し合いなのだ。マスターはともかく、サーヴァントは一人残らず皆殺しにしなければならない。でないと、決着がつかず、聖杯も得られない。
 至極当然の事を口にした筈なのに、ライダーはまたしてもウェイバーのおでこにデコピンを食らわせた。あまりの痛さに涙目になるウェイバーにライダーは呆れたような表情で言う。

「勝負して尚、滅ぼさぬ。制覇して尚、辱めぬ。それこそが真の征服なのだ。では、往くぞ!」
「……お前、もう言ってる事無茶苦茶じゃないか」

 頭を抱えるウェイバーにニッと笑いかけ、ライダーは神牛の手綱を引いた。

「AAAALaLaLaLaLaie!!」

 音速を超えた急降下に悲鳴すら上げられず涙目になるウェイバーとは対照的に心底楽しそうな笑みを浮かべ、ライダーは吼える。
 地上では、今まさに決着をつけんと必殺の構えを取っていた二騎の英霊が頭上を見上げ瞠目した。ランクAを越える破壊の結晶が真っ直ぐに落ちて来るのだ。目の前の敵と雌雄を決する所では無い。

「ラ、ライダーか!?」

 驚愕しながらも二騎は同時に大地を蹴った。如何に破壊力が高く、速度が速くとも真っ直ぐに向って来るだけならば避けられる。並の人間ならば絶対に不可能な挙動。それを可能とするのが英霊と呼ばれる存在。
 大地に巨大な穴が空くと共に舞い上がった土煙が三者の姿を隠す。それを海からの一陣の風が吹き飛ばした。

「そこまでだ。両者、共に矛を納めよ。王の御前であるぞ」

 甲高い金属音が鳴り響く。ライダーはセイバーの剣を自らの剣で受け止めていた。
 あわあわとうろたえるウェイバーに構わず、ライダーは嗤う。

「血気盛ん。大いに結構! だが、余は矛を納めよと申した筈だぞ、セイバー」

 迸る圧力。ライダーの持つカリスマというスキルが故なのか、ウェイバーは目の前の男が自分の知る豪放ながらも気のいい男と同一人物であるとは思えなかった。

「生憎、私の王は天上天下に唯一人。貴方では無い」

 恐れ戦くウェイバーとは裏腹にセイバーは殺気を強め、ライダーに対して苛烈な攻撃を仕掛けた。ライダーは舌を打ち、チャリオットを走らせる。雷霆がセイバーの身を焦がし、追撃を許さなかった。
 だが、その雷霆を突き抜けてくる影が反対方向から現れた。

「騎士の戦いの邪魔をするとは、とんだ礼儀知らずだな、ライダー!」

 吐き気を催すような濃密な殺気を受け、ウェイバーは一瞬で意識を刈り取られた。そんな彼を傍に引き寄せ、ライダーはランサーの槍を受け止める。

「……なるほど、聞く耳持たぬというわけか、困った者達だな」

 どの口がそれを言うのか、ランサーは怒気を強め、黄色の槍をライダーの腹部目掛けて振るう。その槍を銀の刃が阻んだ。

「……相変わらずですね」

 クスリと微笑み、見目麗しい青年がライダーを庇うように剣を構えている。
 一体、どこから現れたのだ。ランサーは驚愕に目を剥いた。決して、周囲への警戒を怠っていたわけでは無い。一瞬前まで、そこには誰も居なかった。なのに、今は見知らぬサーヴァントがそこに居る。

「何者だ……、貴様!」

 ランサーが吠える。すると、青年は見惚れるほど美しい笑みを浮かべて呟く。

「すまない、異国の英雄よ。名乗れば彼に迷惑が掛かる。故、名乗れぬ。許されよ」
「いや、秘する必要は無いぞ。自らの名を隠すなど、余も我慢ならん! 聞くが良い! そして、刻むが良い! 余はイスカンダル。此度はライダーのクラスを得て現界した!」

 彼のマスターが起きていたら、それこそ涙目で喚き立てた事だろう。聖杯戦争のセオリーから言えばあり得ない行為をライダーは行ったのだ。
 自らの名を明かす。それは自らの弱点や切り札を明かす事に繋がる愚かな行為。されど、彼の顔に後悔の色は無く、むしろ、誇らしげですらある。

「セイバー! そして、ランサー! 実に見事な攻防であった! 余はうぬ等の武勇を称え、ここに提案する!」

 あまりにも常識外な行動に出たライダーに対して、呆気にとられているセイバーとランサー。そんな彼らにライダーは言う。

「我が軍門に下れ! さすれば、余はそなた等を朋友として遇し、勝利の栄光と征服の悦びを共に分かち合う所存である!」

 その言葉にセイバーとランサーは表情を歪めた。あまりにも高慢な物言いであり、その内容はあまりにも彼らの誇りを軽視したものだった。
 主への忠誠。それは彼らにとって何より重い誓い。それを歪め、自らの配下となれと言われたのだ。その屈辱たるや、並ではない。

「なるほど、言いたいことは分かった」

 ランサーはセイバーに視線を向ける。

「セイバー。お前との決着は後だ。まずはこの不心得者を始末するとしよう」
「ああ、その意見に賛成だ。私には唯一無二の王が居ると先刻告げた筈。にも関わらず、その忠誠を曲げろなどと、騎士として、許し難い侮辱だ」

 それは先程までの彼らの戦いとは赴きを異としていた。自らの武勇を競い合うという血湧き肉踊る戦いでは無く、自らを侮辱した者への誅伐だった。
 怒りと共に振るわれる剣と槍。それを銀の月光が弾き返す。セイバーとランサーの同時攻撃を事も無げに阻んだ後、青年は歌うように呟いた。

「私の名はヘファイスティオン。彼に手を出す事は私が許しません」

 英雄神・ヘファイスティオン。その名を聞き、セイバーとランサーは共に意識を切り替えた。既に両者はその存在が聖杯戦争においてイレギュラーな存在であるとマスターから注意を促されている。彼にはクラスが存在しないのだ。それでも、同時に掛かれば倒すのは容易と侮った。
 クラスの存在しないイレギュラーなサーヴァントという時点で得体が知れない上にその正体が英雄神となれば、そのような不遜な考えは捨てねばならない。

「どんな反則技を使ったか知らんが……」

 ランサーは大地を蹴った。

「その首級、貰い受けるぞ、英雄神!」
「……王よ」
「うむ」

 ランサーの槍がヘファイスティオンの胸元に突き刺さる寸前、神牛が嘶き、雷霆が迸った。ランサーの放った槍撃は雷霆を貫いたが、ヘファイスティオンの胸を突き刺すこと叶わず、彼の片腕を引き裂くに終わった。
 神牛は宙空を蹴り、上昇していく。

「逃げる気か、ライダー!」
「ハッハッハ! 今宵は巡り合わせが悪かったようだ。また、別の機会に会おう。それまでさらばだ! セイバー! そして、ラ――――」

 ライダーの言葉が途切れた。その理由は遥か遠方から差し迫る魔力の塊を感じたが故だった。視線を向けた時には既に寸前まで迫って来ていた。

「疾走せよ!」

 ライダーは瞬時に魔力を神牛へと注ぎ、チャリオットの宝具の真の力を発動させた。
 同時にヘファイスティオンは迫り来る脅威に対して自らの刃を放った。
 それは螺旋の刃を持つ一振りの剣だった。ヘファイスティオンの刃を弾き返し、剣は空間を捩じ切りながら目前まで迫り、そして――――、破裂した。

第五話「高みの見物」

 今の私はとっても幸せだ。生前は妹への仕送りで自分が使う分のお金を殆ど持っていなかったから、贅沢というものが全く出来なかった。生まれ変わってからも新しい家族はジャンクフードや大衆向けのお菓子を軽蔑していたから食べられなかった。
 今、私は夢にまで見た生活を送っている。おじさんは私が欲しい物を何でも用意してくれるのだ。ポテチにポッキー、アイスクリーム。好きな時に好きな物を好きなだけ食べられる幸せを私は噛み締めている。
 聖杯戦争が終わったら、遊園地に連れて行ってくれる約束もしてある。遠坂家に帰っても、また養子に出されるだけだから、一緒に海外を回る約束もした。その為の下準備もキャスターが協力してくれたおかげで既に終わってる。つまり、魔術師としてではなく、一般人として過ごすための準備だ。
 これは敵に隠れて潜伏する為にも必要な処置で、偽装を施すアクセサリー型の魔術具を身に着けるだけで良いというお手軽さ。彼女はこうした道具を作る事が得意みたい。他にも実を守るためのものや日常生活を送る上でも有用な道具を幾つか作ってくれた。
 未来は明るい。順風満帆な生活を送れる。青春を取り戻す事が出来る。

「幸せになりたいな……」

 生活に余裕が出来たら、こっそりお姉ちゃんに会いに行きたい。なっちゃんとは無理だったけど、彼女とは仲の良い姉妹として付き合って行きたい。
 彼氏も欲しい。不特定多数の男じゃなくて、私を一人の女としてキチンと愛してくれる素敵な人に出会いたい。その為にも今は私に出来る事を頑張ろう。何が出来るかは分からないけどね。

「それにしても、ポテチ美味しいな」

 でも、一人だと味気ないな。おじさん達はジッと水晶玉と睨めっこしてる。
 ポテチの袋を片手に彼らの下に向かう。アニメはオタクなお客さんと一緒に――エッチもせずにお金だけもらって――解説してもらいながら見たけど、正直、あんまり詳しい設定や魔術とか戦いとかにも詳しいわけじゃないから、口出ししたりは出来ない。けど、一人除け者状態で居るより、向こうで一緒に分かった振りをしながら一緒に居た方がポテチも美味しい筈。

「わーお!」

 キャスターが用意した水晶玉に映る映像は実にカッコ良かった。我らがセイバーとランサーが戦ってる。下手な映画より迫力満点。頑張れ、セイバー! 負けるな、セイバー!

 第五話「高みの見物」

 キャスターが水晶玉を通して見せてくれた光景に言葉が出なかった。海辺の倉庫街が更地になってしまったのだ。被害総額は一体幾らになったのだろう。そんな風にどうでもいい事を考えて現実逃避しそうになるくらい、アーチャーのサーヴァントが起こした破壊の爪痕は凄まじいものだった。
 放たれた爆弾は三つ。いずれも刀剣を細く伸ばし、ムリヤリ矢に仕立てたような形状。それらは全て、宝具だった。宝具には膨大な魔力が篭っている。それを一気に解き放つ事で破壊を生み出す『壊れた幻想』という名の奥の手がこの惨状を作り上げた。
 普通なら、そんな真似をするサーヴァントは居ない。宝具とは一人につき一つか二つ、多くても五つか六つが限度なのだ。自らの切り札であり、英雄としての自身の半身を使い捨てるような行為。後にも戦いが続く事を考えれば愚行以外の何者でもない。
 だけど、だからこそ、その破壊力は凄まじいの一言。広大な面積を誇る倉庫街を鉄屑一つ残さず更地にするなど、戦略兵器の域だ。

「――――ライダーの逃走によって、全員の意識が一点に集中した隙を衝いての攻撃。見事としか言いようがありませんね」

 さっきまで、水晶の向こうに居たセイバーが現場で感じた事を報告してくれている。

「だが、誰一人脱落しておらん」

 相変わらず仮面を被ったまま、キャスターが言う。
 そう、アーチャーの攻撃はサーヴァントを一人も脱落させられずに終わったのだ。セイバーを含め、全員があの場からの離脱に成功していた。

「でも、意味はあったと思うよ? 皆揃って、令呪を使わされちゃったんだから」

 ポテトチップスのコンソメ味をポリポリ食べながら桜ちゃんが言う。
 地獄のような日々から解放され、キャスターによる処置も終わり、健常な肉体を取り戻す事は出来たが、幼い彼女にとって、あの日々が刻みつけた心の傷を癒やすには時間が必要な筈。
 出来れば、たっぷりと贅沢させてあげたい。こんな戦いから遠ざけて、子供らしく遊園地なんかに連れて行ってあげたい。幸か不幸か臓硯の財産を丸々奪う事が出来たから、金なら幾らでもある。だけど、彼女は戦うと言った。助けてくれたキャスターに恩を返したいと言う。俺も同じ気持ちだけど、だからと言って、彼女を危険に晒す事が実に心苦しい。
 キャスターは悪い奴では無いと思うけど、放任主義らしく、マスターを辞めるも続けるも桜ちゃんの意思に委ねると言った。キャスターならば桜ちゃんをマスターから降ろす事も代わりのマスターを手に入れる事も容易いとの事。だけど、決して彼女に何かを強要する気は無いらしい。それは主を守り切り、勝利出来ると確信しているから……。

「此方も含めて……、だがな」

 仮面の奥で舌を打ち、キャスターは水晶に手をかざす。すると、そこには紅の装束を纏ったサーヴァントの姿が映る。

「まあ、目的を達成出来た上にアーチャーを捕捉出来たのだ。良しとしておこう」

 キャスターは水晶に映る映像を次々に切り替えていく。そこにはランサーの姿やライダーの姿、そして、アーチャーの姿がある。

「これで、残るはアサシンとバーサーカーのみ……」
「キャスター」

 思案に耽るキャスターにセイバーが声をかけた。

「あのライダーを庇ったサーヴァントは一体……」

 彼の言葉に自らをヘファイスティオンと名乗った謎のサーヴァントの顔を思い出す。
 確か、ランサーは彼を英雄神と呼んだ。

「英雄神・ヘファイスティオン。確か、征服王・イスカンダルの腹心だったか……。奴にはクラスが存在しなかった。クラスは英霊をこの世に留める為の憑り代。それを必要としないとなると、考えられる可能性は三つ」

 キャスターは指を三本上げて言う。。

「一つは受肉を果たしている可能性。だが、それなら見て分かる。これは違うな」

 指を一本折り曲げて、キャスターが続ける。

「もう一つは聖杯戦争のシステムとは別の方法による召喚を行った可能性。無くは無いだろうが、可能性は低いだろう。となると、やはり最後の可能性」
「それは?」

 セイバーが問う。

「ライダーの能力に関係している。それが一番妥当だな。つまり、『英霊を召喚する』というスキルか宝具を奴が保有している可能性だ」
「そんな事があり得るのか!?」

 驚きに目を見張るセイバー。キャスターは肩を竦める。

「知らん。だが、可能性は零じゃない。そもそも、サーヴァントの宝具とは生前に実際使っていた武器や能力ばかりじゃない。その英霊に纏わる伝承や逸話……。つまり、人々が持つその英霊に対する想念が結晶化した宝具も存在する。そもそも、お前の宝具など、一時的に保有していただけの物だろう? それを持ち込めた理由もそこにある」
「なるほど……。つまり、元を正せば全ての宝具は人々の想念によって編まれたものだと?」

 セイバーは腰に提げている聖剣を撫でながら問う。キャスターはコクリと頷いた。

「そういう事だ。実際に使っていたから宝具となったわけではない。人々の記憶にその英霊の武器がソレなのだと明確に刻まれているからこそ、ソレはその英霊の宝具となったに過ぎない」
「では、ライダーの宝具は……」

 セイバーの言葉にキャスターが頷く。

「奴は征服王。様々な地を征服しては自らの支配下に置いた。領地も人も……。そうした、奴の生前の在り方が結晶化した宝具だとしたら、あのサーヴァントの存在にも納得がいく」
「嘗て、支配下に置いたモノを宝具として扱えると……?」

 戦慄の表情を浮かべるセイバーにキャスターは曖昧に頷く。

「さすがに何から何まで宝具かしているわけでは無かろう。ヘファイスティオンと言えば、奴と恋仲であったと噂される程、奴と親しかった男だ。そうした身近な存在を呼び出せる程度だろう。まさか、自らが支配した領地や財宝、果ては人まで宝具として使えるとなったら、それはもはやサーヴァントの域を超えている」
「……だが、最悪の状況を考慮しておいた方が良いだろう。キャスター。君はどこまでならあり得ると思う?」

 セイバーの問いに対してキャスターは答えた。

「どれか一つ。財宝か、領地か、人。そのどれか一つなら、あり得ないとも言い切れぬ。特にあのアーチャーを見た後ではな……」

 キャスターの言葉にセイバーの表情が陰る。

「あのアーチャーはそのいずれかを保有していると?」
「可能性の話だ。水晶越しだった上、一瞬の事だった故、仔細には分からなかったが、あのように宝具を使い捨てる真似が出来るとなると、宝具を複数所持している可能性が高い。武器を単体として使い捨てられる程の量を保有しているとは考え難いが、宝具に匹敵する武具を収めた蔵を持っているとしたら話は別だ」
「……まさか、そんな事が」
「無いとは言い切れないという話だ。王侯貴族ならば、それぞれの象徴となるようなコレクションがあったとしても不思議では無いし、それを収めた蔵が宝具となってもおかしくない。まあ、数里先から矢を射るなどという離れ業を可能とする者はその中でも少数だろうから、そこから奴の正体を割り出す事は可能かもしれん。そうすれば、自ずと奴の弱点も分かる筈だ」

 キャスターは仮面の向こうでほくそ笑む。

「如何に反則的な宝具を保有していようと丸裸にして滅ぼしてくれる」

 そう言って嗤うキャスターはまさに傾国の魔女という感じで少し怖かった。未だに彼女の真名は教えてもらえずにいるけど、多分、そうした悪女の類なのだろう事は分かる。少なくとも聖女の類では無いだろう。

「何はともあれ……、ライダーとランサーの真名を掴めたのは大きい」

 フィオナ騎士団随一の騎士・ディルムッド。そして、マケドニアの征服王・イスカンダル。共に難敵だが、キャスターには勝利の算段がある程度出来ているらしい。表情は分からないが、その声には自信が漲っている。

「これからどう動くんだ?」

 一応、確認の為に聞いておく。俺に出来る事なんて何も無いだろうけど、彼女が何をするつもりなのか、全く知らないというのも格好がつかない。

「まずは情報収集に専念する。バーサーカーはともかく、アサシンを捕捉する事は至難だろうから、そちらを重点的に調べていくつもりだ。セイバーには何度か出向いてもらうつもりだが、しばらくは息を潜めるとしよう。敵は六体も居るのだ。潰し合って、数が減った頃を見計らって動けばいい。それまでに情報収集を終え、一気に弱点を攻めて滅ぼし、勝利する。簡単だろう?」

 キャスターは敵を六体と言った。つまり、セイバーも彼女にとってはあくまで敵の一人という認識のままなのだ。セイバーもそれを察してか表情を引き締めている。
 俺は聖杯に願う事など無い。故に手に入れる必要も無いけど、セイバーは違う筈。勝利したとしても最後は残酷な運命が待ち受けている。聖杯戦争が殺し合いである以上、仲間である二人が殺し合うという結末を避ける事は出来ない。
 ああ、なんて残酷な戦いなんだろう……。

第六話「桜とおじさん・Ⅰ」

 部屋の中が暗い。夜だけど灯りはちゃんと点いている。でも、雰囲気がとても暗い。その原因であるおじさんは一人項垂れている。

「おじさん。謝るから機嫌を直してよ」

 ついさっきまで勇ましくそそり立っていたモノも今はスッカリ萎んでしまっている。溜息を零しながら、部屋の隅に佇むキャスターを見る。相変わらず、仮面とローブで素肌を完全に覆い隠している。正直言って、ちょっと不気味。
 キャスターは私の視線に気付き、小さく頷いた。

「ラインは問題無く繋がった、これでセイバーの宝具が発動可能になったわけだが……。お前はどうしてそんな風に平然としていられるのだ?」
「なにが?」
「なにがって……、お前」

 ティッシュで行為の後始末をしながら欠伸をする。

「セックスの一回や二回がどうしたって言うの……? まあ、殆ど強姦に近かったから、多少の罪悪感はあるけど、必要だと言ったのはキャスターじゃない」

 いい歳して童貞――風俗も未経験――だったらしいピュアボーイでチェリーボーイなおじさんはともかく、キャスターにまでとやかく言われる筋合いは無いと思う。そもそも、この話を最初に持ち出したのは彼女だ。
 彼女曰く、元々、おじさんがセイバーを召喚出来たのは体内の刻印虫が魔術回路の代わりを担ってくれていたからであり、それを取り除き、治療してしまった以上、おじさんに魔力を生成する力は無いとの事。
 その為、セイバーは魔力の不足という問題を抱えていた。宝具を一度使ったら消滅してしまうと言うのだから致命的だ。その問題を解決する為に彼女が提案したのが潤沢な魔力を持つ私とおじさんの間にラインを繋ぐというもの。方法は幾つかあったけど、一番リスクが少なく、加えて簡単だった事から私はセックスによるラインの接続を選んだ。
 おじさんは断固として反対を唱えたけど、他の方法はそれなりのリスクや面倒な手順があるからキャスターにお願いして体を拘束してもらい、その間に行為を済ませた。なにしろ、二人が同時にエクスタシーに達しなければならないらしく、童貞のおじさんに勝手に動かれたら逆に面倒だったから、その意味でも拘束したのは大正解だった。
 唯一の問題点はおじさんが不貞腐れてしまった事。テクニックには自信があったし、精一杯楽しませてあげたのに、実に頑固な人だ。合計三回射精したから賢者タイムとやらかもしれない。ちょっと、時間をあげよう。

「……しかし、その歳で――――」
「私はずっと蟲とセックス三昧だったんだよ?」
「だが、男とのセックスなど未体験の筈だろう」

 キャスターは私に十分な配慮をしてくれている。その一つが記憶を勝手に盗み見ない事。別に私は構わないんだけど、幼い心をこれ以上傷つけるわけにはいかないと言われ、無理に見せたいわけでも無かったから彼女の好きにしてもらっている。
 だから、彼女にとって私はあくまで悪い大人の邪悪な野望の為に蟲に犯される日々を送っていた可哀想な女の子なのだ。

「おじさんの事は嫌いじゃないもの。むしろ、行為の最中のおじさんはとってもキュートだったわ。只管貪ってくるばっかりな蟲の相手よりずっと充実感もあったし……。それと、人間の相手が初めてだったわけじゃない。おじいちゃんのパートナーをしてた鶴野さんって人。蟲の出入りした穴を使うのは嫌だったみたいだけど、口はセーフだったみたい。匙加減が良く分からなかったけど、毎日、彼の精液を飲まされてたし――――」
「……アイツ、見つけ出してぶっ殺そう」

 おじさんが漸く口を開いたと思ったら、物凄く物騒な言葉が飛び出して来た。
 鶴野さんはおじさんのお兄さん。いつの間にか屋敷から姿を眩ませていた。おじいちゃんと一緒に何かを企んでいる可能性もあるけど、結構小心者っぽかったし、一人でどこかに逃げたのかもしれない。
 
「落ち着いてよ、おじさん。精液も慣れると平気になるものだよ? たまに尿の匂いがキツイ時があったけど、刻印虫が吸収してくれたから病気になる心配も無かったし――――」
「……桜ちゃん」

 どうしたんだろう。おじさんは泣きそうな顔をしている。
 生前も間桐の屋敷に連れて来られてからも、基本的に私の周囲はサディストだらけだったからこういう反応をされると返し辛い。
 今までの経験上、こういう話をすると、大抵汚物を見るような目を向けられた。もしくは、惨めな女として嘲笑われるか、蔑まされるか、興奮されるかのいずれかだ。ああいう業界の男は女の不幸が飯の種であり、毎夜のオカズなのだ。同情してしまうような輩は元からこういう世界に足を踏み入れたりしない。迷い込む人もたまには居るみたいだけど、私は未遭遇。
 
「桜ちゃんはもう……、あんな事をしなくてもいいんだ。普通の女の子として生きていいんだ。そもそも、あんな生活を送らされた事が間違いだったんだ」
「おじさん……」

 ここでネガティブな事を言うと、おじさんがマジ泣きしちゃいそう。それは非常に困る。私はおじさんの泣き顔をあまり見たいと思わない。私はサディストじゃなくて、マソヒストなのだ。SMクラブの三大メッカの一つ、池袋でそれなりに慣らした時期があったけど、攻める側より攻められる側に身を置き続けたくらいだ。まあ、過激過ぎるのはNGだけどね。痣や蚯蚓腫れ、軽い火傷が耐えない生活というのも過激と言えば過激だけど……。
 とりあえず、おじさんに認識を改めてもらう必要がある。私は不幸な少女じゃない。

「大丈夫だよ!」
「桜ちゃん……?」
「私ってば、結構セックスが好きみたいなの。テクニックも中々だったでしょ? この道で稼げるかもしれないよ! あの生活もその糧になったと思えば――――」
「止めてくれ!!」

 肩を掴まれてマジ泣きされてしまった。ジーザス。どうして、上手くいかないんだろう。やさしい男の相手は酷い男の相手の何倍も難しい。ちょっとの事で同情してくるし、使命感を燃やされてしまう。
 結局、私に出来た事はおじさんの肩をポンポンと優しく叩いてあげる事だけだった。いつしか二人揃って眠ってしまい、気がついた時にはベッドの上だった。

第六話「桜とおじさん・Ⅰ」

 ちなみに、現在の私達の拠点は間桐邸じゃない。山を一つ越えた先にある街の民家だ。住人には一ヶ月の海外旅行をプレゼントしてある。キャスターの暗示が解けて、彼等がここに帰って来る時には全てが終わっている筈。他人の家をラブホテル代わりに使うというのも中々乙なものだね。

「……おじさん」

 現実逃避は止めておこう。朝になってもおじさんの機嫌は直らなかった。これで怒鳴り散らすなりしてくれればまだマシなんだけど、彼の怒りの矛先は自身に向いている。強姦紛いを行ったのは私なわけで、私を責めるのが道理な筈なのに、私相手に勃起した事や射精した事に酷く自己嫌悪している。私のテクニックがハイレベル過ぎたせいなのに仕方の無い人だ。
 
「大丈夫だよ、おじさん。おじさんはロリコンじゃないよ」
「……そういう問題じゃない」

 折角の慰めの言葉を一蹴されてしまった。

「キャスター! こういう時、どうすればいいのかな?」

 困った時のサーヴァント頼み。私はなにやら作業中のキャスターの下に向った。すると、彼女は重苦しいため息を零した。

「……セイバーに聞け」
「え?」

 同じ部屋で地図と睨めっこしていたセイバーがギョッとした表情を浮かべた。

「セイバー!」
「す、すまない、桜様。私はちょっと用事が――――」
「無いだろ」

 逃げ出そうとするセイバーにキャスターが無慈悲な一言を叩きつける。私もこれが如何に応え難い質問かは理解している。でも、私には分からないのだ。どうしたら、おじさんが元気になってくれるか教えて欲しいのだ。

「セイバー。おじさんにどうしたら元気を出してもらえるかな?」
「……桜様」

 セイバーが困ったような表情を浮かべながら、考え込むように腕を組んだ。
 やがて、深く息を吐くと、私に傍に座るように言い、自分も胡坐をかいた。

「先に申し上げておきますが、私はあまり、人に誇れるような人生を送っておりません」
 そう言って、彼は話し始めた。

「失敗ばかりの人生でした。愛した人の心は得られず、忠誠を誓った王には刃を向けてしまった。だけど、そんな私だからこそ、言える事もあります」

 セイバーは言った。

「まず、自らの過ちを認めましょう。どうして、マスターが消沈なされているのか……、その理由に向き合う事から始めて見てください」
「……別に目を逸らしてなんかないよ? おじさんに無理矢理迫ったからいけないんでしょ?」
「違います」

 セイバーは私の言葉を両断した。

「マスターが消沈しておられる理由はもっと根本的なものです」
「……分かんないよ。おじさんの意思を無視したり、無理矢理セックスした事が問題なんじゃないの? 他に理由があるなんて言われても、分かんないよ……」

 やばい、泣きそうだ。本当に分からないのだ。一般的な視点から見たら、これが正解の筈なのに……。
 セイバーは私を辛そうな表情で見つめている。

「……桜様が悪いわけじゃない。でも、桜様にとって、あまりにも残酷で酷い事を言います」

 そう、暗い表情で前置きをして、セイバーは言った。

「桜様が性行為を日常的なものとしてしまっている事。それが問題なのです」
「……えっと、どういう事?」

 サッパリ、話が見えない。

「今の桜様の思考は娼婦のソレだ。幼い少女がそんな思考を抱いている。その事がマスターを苦しめている元凶なのです」
「……あ」

 馬鹿だ。救いようの無い馬鹿だ。ちょっと考えれば分かった事。
 行為に及んだ事も問題だけど、なにより、その行為に及ぶに至る思考そのものが問題だったのだ。私は性行為を当たり前のものとして受け入れ過ぎていた。だって、それが生きる糧であり、日常だったから……。
 でも、普通の人からしたら、そんな思考はおかしいのだ。私が平然としている事それ自体がおじさんを傷つけていたのだ。
 おじさんからすれば、自分が家出した為に私が養子になり、こんな思考を抱くに至ったのだと思っている筈。その罪悪感に対して私は配慮出来ていなかった。
 娼婦だったのは過去の話だ。今の私は悲劇のヒロインであり、そういう風に思考するべき立場に居るのだ。そうしないと、おじさんがヒーローになれない。惨めさや罪悪感に押し潰されてしまう。私の強姦行為がそれを増長させてしまった。今までは単なる加害者の縁者でしかなかったのに、自らが加害者になってしまった。そのせいで、もう自分を許す事が出来なくなってしまっているのだ。
 
「……駄目」

 恐怖に身が竦んだ。

「桜様……?」

 頭が割れそう。私の軽はずみな行いのせいでおじさんが心に取り返しのつかない傷を負わせてしまった。
 おじさんを不幸にしたいなんて気持ちは一欠けらだって持ってない。ママは上げられないけど、人並みの幸せくらい、満喫して欲しいと願ってる。だって、彼は世界で唯一、私を助ける為に動いてくれた人なのだから……。
 実際は『桜ちゃん』を助ける為だけど、それでも、『私』を助ける為に動いてくれた人なんて、おじさんが初めてだった。

「……おじさんが不幸になるのは駄目なの」

 涙が止まらない。こんなに哀しい気持ちはなっちゃんに縁を切られた日以来だ。
 私は泣きべそをかき、セイバーを困らせた。キャスターもうろたえている。申し訳なく思うのに、泣くのを止める事が出来ない。この未熟な体は大き過ぎる感情の波を留め切る事が出来ない。
 
「ちゃんと心を入れ替えるから! だから……、ごめんなさい」

 泣きじゃくりながら、私は必死になって訴えかけた。誰に対しての訴えなのか、私自身分かってない。けど、必死に訴えた。

「……桜ちゃん」

 ギュッと、誰かに抱き締められた。匂いで誰かが分かってしまう。けど、分かっちゃいけない。それはおじさんを傷つける行為だから……。

「ごめん……」

 おじさんは何度も何度も謝った。謝って欲しい事なんて一つも無いけど、私は黙って聞き続けた。おじさんの気が済むまで、何度も何度も謝られた。
 正直、簡単に心を入れ替える事は出来そうにない。でも、今の自分はもう娼婦では無いのだと確りと自覚を持つ事にした。
 だって、私はおじさんが大好きなのだ。もちろん、恋愛的な意味じゃないけど、おじさんが望む女の子になってあげたい。

「おじさん。ごめんね」

 もう一度だけ謝って、私達は仲直りをした。

第七話「殺人鬼」

「飽きた……」

 殺人鬼・雨生龍之介は魔法陣の上で血塗れになっている男女をつまらなそうに見下ろして呟いた。マンネリから脱却すべく、実家で見つけた古い書物を読み解き、閃いた儀式殺人という殺害方法。最初こそ画期的なアイディアだと思ったのに、慣れてくるとそれも数あるレパトリーの一つに過ぎなくなった。
 視線をゆっくりと部屋の隅に移す。そこには魔法陣の上で両腕両足をもがれ絶命した男女の一人娘が縄で縛られている。鋏をクルクルと回しながら近づいていくと、娘は泣き叫んだ。猿轡を噛まされているせいで、声は殆ど吸収されてしまっているけど、小便を漏らし、全身を震わせ、床を這いずる娘の姿は中々に見物だった。

「たまには初心に帰る事も大切だよね」

 龍之介は爽やかに微笑むと娘の手を取り、その指を鋏で一本ずつ切り落としていく。まるでドラえもんの手のようになってしまった自分の手を見て、娘は気が触れたように暴れ回る。
 仕方なく、龍之介は彼女に新しい指を与える事にした。絶命している彼女の父の手を取り、慎重に鋏で肉を引き裂く。骨だけで繋がっている状態にすると、フンと気合を入れて骨を折った。残る四指も同様に切り取ると、娘の下に戻った。木工用ボンドを肉と骨が丸見えな彼女の手に塗りつけていく。再びクグモッた絶叫が響く。龍之介は構わずに作業を進めた。

「ほら、ちゃんと元通りにしてあげたよ」

 優しく囁きかける龍之介。対して、娘の方は新たに取り付けられた指を床に叩きつけた。痛みに絶叫しながら、くっつけられたばかりの指を取り外す。そんな彼女に龍之介は唇を尖らせる。
 折角くっつけてあげたのに酷い仕打ちだ。恩を仇で返すなんて、彼女はとても悪い子だ。だから、ちょっとお仕置きが必要だ。
 龍之介は彼女の服を全て剥ぎ取るとキッチンを物色し、醤油の入ったペットボトルを持って来た。ついでにトンカチとフォーク。

「とりあえず、一本目をいっくよー!」

 フォークを腕に突き刺し、トンカチで叩く。娘の絶叫をBGMに龍之介は作業を続ける。フォークは中々貫通しなかった。額から汗が零れ落ちる。
 一本目が貫通した。それから二本目を反対側の腕に突き刺し、三本目を左足、四本目を右足に突き刺した。ショック死したりしないように慎重に事を運ぶ。これまでの何十何百という経験が彼に生と死のギリギリを見極める匙加減を教えてくれた。
 四肢にフォークを刺し終えると、乱暴に食卓に乗せる。ロープでフォークとテーブルの足を固定していく。身動ぎする度に激しい痛みに襲われ、娘は指一本動かせなくなる。片方はその指自体が無いのだけれど……。
 龍之介がおもむろに取り出したのはガムテープだった。醤油のキャップを開け、ガムテープで娘の口に固定する。娘は必死に舌を使って栓をしようと頑張っている。既に口に入ってしまった分は飲み込むしかなく、顔は苦悶に満ちている。

「さてさて……」

 龍之介はサインペンを取り出した。娘の体に線を引いていく。今度は何をするつもりなのか、娘は恐怖に震える。
 次に取り出したのは鋸だった。

「豚肉の解体スタート」

 微笑みながら、龍之介は娘の足首を鋸で切り落とした。あまりの痛みに娘は醤油を塞き止めていられず、口中が醤油で満たされる。吐き出すことも出来ず、喉の奥へと醤油が並々と注がれていく。同時に龍之介は反対の足を切り落とす。内と外。両方から尋常ならざる苦しみを与えられ、娘は息を引き取る寸前まで声なき絶叫を上げ続けていた。

「シンプル・イズ・ベストってね。久しぶりに普通の拷問をすると結構新鮮さがあるな。でも、これも直ぐに飽きるだろうし……。どうしたもんかねー」

 とりあえず、娘の解体を続け、リアル人体模型を完成させた。脳みそも丸見えだ。

「人間って、どうして直ぐ死んじゃうんだろうね」

 龍之介はとても悲しそうに娘の亡骸に問い掛けた。
 もっと、君の事を知りたかったよ。

 第六話「殺人鬼」

 雨生龍之介がマンネリに対して悩んでいる丁度その時、もう一人の殺人鬼が新都のホテルを見上げていた。男はトランシーバーを使い、相棒に連絡を取っている。

「此方は準備完了。外すなよ?」
『誰に言ってるんだ?』

 男は乾いた笑みを浮かべ、小さなリモコンを操作した。すると、次の瞬間、大地が大きく揺れ動いた。辺り一面が真赤に染まり、爆音と悲鳴が連鎖する。周囲はテロの予告によって逃げ出したホテルの客や野次馬による阿鼻叫喚の地獄絵図が広がっている。
 内側から爆破された冬木ハイアットホテルが崩れていく。キチンと計算された爆破方法だった為に瓦礫は外に広がらず、被害も少ない。我ながら甘くなったものだと自嘲しながら、彼は空を見上げる。すると、魔力で強化した瞳が崩れゆくホテルの影に紛れ、ゆっくりと落下していく銀色の球体を発見した。
 このホテルにはマスターの一人が滞在していた。名前はケイネス・エルメロイ・アーチボルト。魔術協会の総本山である時計塔で講師をしている優秀な魔術師だ。彼が聖杯戦争に参加すると聞いた瞬間からジックリと調査を進め、彼の秘蔵の武器に関する情報を得る事に成功した。月齢髄液と呼ばれる魔力が染み込んだ水銀を彼は自在に操ると言う。案の定、彼は月齢髄液で安全に着地しようとしている。
 初めから、ホテルの崩落如きで彼が死ぬなどと楽観してはいない。これは布石に過ぎないのだ。ケイネスはあくまで研究者であり、戦闘者では無い。それ故に、ホテルの爆破という大規模な攻撃を自らの力のみで防ぎ切ったとなれば油断が生まれる筈。その一瞬の隙――――、地上数百メートルを降下する僅かな時間を必殺の勝機に変える手段が此方にはある。
 数キロ離れた先で弓に螺旋の刃を持つ矢を宛てがい、アーチャーは弦を引き絞る。

「新都一帯は全て、私の射程の内だ」

 放たれた矢は空間を螺子切りながら落ちゆく水銀へ向かっていく。最初にその脅威を察知したのはランサーだった。水銀の膜の向こうに迫り来る螺旋剣を見据え、ケイネスと伴侶であるソラウ・ヌァザレ・ソフィアリを抱え回避行動に出る。
 ランサーの咄嗟の判断に対し、ケイネスは月齢髄液を球体状から円盤型の足場に変形させる事で応えた。彼とランサーの関係はある理由の為に決して良好と言えるものではないが、咄嗟の行動に対して、咎めるより先にそうした行動に出られるくらいにはランサーの戦闘者としての力量を信用している。
 真横に跳ぶ事で螺旋剣の軌道上から逃れるランサー。直後に来ると予想した爆発は無かった。それがランサーに”次”の存在を予見させる。爆破が無かった理由、それは視界を爆煙によって遮られる事を嫌った為――――ッ。

「マスター! 第二射が来ます!」

 見ずとも分かる。遥か遠方、数千メートル先にて新たな矢を番える弓兵の姿。近場のビルの屋上に着地すると同時にランサーはケイネスとソラウを降ろし、迎撃すべく槍を振り上げる。
 第二射は先程の螺旋剣と赴きを異とするものだった。真紅の極光を纏い、飛来する矢をランサーは渾身の力で迎え撃つ。

「グゥゥゥウウウアアアアアアア!」

 音速を超えて飛来した魔弾。本来なら避けるべき一撃。けれど、彼の後方には守るべき主が居る。防ぎ切らねばならない。
 ケイネスの判断は早かった。このままではランサーの身動きが取れぬまま詰みの一手を打たれる。ならば――――、

「ランサー。令呪で援護する。私達が離れたら奴の首を貫きに天を舞え!」
「承った! 我が主よ!」

 ケイネスは肉体を強化し、ソラウを抱き上げる。

「ちょ、ちょっと、ケイネス!?」

 突然の事態に目を白黒とさせているソラウにケイネスは安心させる為に微笑みかける。そのまま、射手が居るであろう方角とは反対方向に駆け出し、月齢髄液を円盤状にして浮かばせる。
 躊躇無く、ビルの屋上から飛び降り、直後、ケイネスは令呪に魔力を奔らせた。

「我が従僕に命じる。天を翔け、射手を打ち倒せ、ランサー!」

 一気に急降下し、着地寸前に月齢髄液で落下速度を緩和する。頭上では土煙が舞っていて、ビル全体に亀裂が走っている。
 令呪とは、本来、行動を律するために用意されたものだが、その膨大な魔力はサーヴァントの一時的な強化をも可能とする。膨大な魔力が彼の活力へと強引に変換されていく。フィオナ騎士団随一の騎士と名高き、輝く貌のディルムッドは今正に生前の力を取り戻し、空へと翔ける。数千メートルの距離をゼロにする一歩。
 対して、弦に第三射目の矢を番えた弓兵は的の狙いを悟り、微笑む。

「タイミングを見誤ったな、ランサー」

 矢というものは当然だが、一度放てば軌道を修正する事など不可能。だが、放つ前ならば幾らでも修正が効く。どうせ跳ぶなら、アーチャーが第三射目を放った後に跳ぶべきだった。
 敵の愚かさを嘲笑し、アーチャーは必殺の矢を放つ。

「――――な、に?」

 だが、忘れるなかれ――――、敵は百戦錬磨の槍兵。伝説に最強の二つ名を残す英雄である。必殺の攻撃など、生前に幾度と無く受けている。迫り来る死を幾度と無く潜り抜けてきたからこそ、彼は伝説の英雄となったのだ。
 一度放たれた矢の軌道は変えられない。それはランサーにも当てはまる定理。故に直撃を避ける事は不可能。回避不可能な死を前に彼は笑う。
 侮るな。交差する筈の無い視線が交差し、弓兵は槍兵が自らの所まで辿り着く未来を幻視した。そして、それは現実となる。
 一体、いかなる技量があれば、そんな出鱈目な真似が可能となるのか――――、

「ハァァァァアアアアアア!」

 ランサーは音速を超えて飛来する矢に音速を超えて向かいながら槍を振るった。刹那にも満たない一瞬、ランサーの槍の穂先がアーチャーの矢に触れる。
 槍兵の狙いは矢と己の軌道を逸らす事だけだった。故に驚愕は彼のもの。矢は軌道を変えるどころか、触れた瞬間に掻き消えてしまったのだ。何かのトラップかとも思ったが異常は起きていない。既に目の前にアーチャーを視認している。思考を切り替え、黄の槍を構える。そして、着地と同時に彼は更なる驚愕によって表情を歪めた。

「マ、マスター……」

 マスターとの繋がりが途絶えたのだ。狼狽えるランサー。対して、弓兵は自らのマスターを賞賛した。ここまでの展開全てが彼のマスターの筋書き通りだったのだ。もっとも、ランサーが矢を放つ前に飛び出し、自身の矢を乗り越えて来る事は予想外だったが……。
 マスターの死への驚愕によって動きが一瞬止まったランサーの隙を逃さず、アーチャーは白い短剣でランサーの首を狙う。それを紙一重で防ぎ、戦闘態勢を整える。けれど、既にこの戦いは詰んでいる。
 ここまでの展開を予期していたという事は――――、ここにランサーが辿り着く事も予期していたという事。
 ランサーの死角から黒い短剣が襲い掛かる。それすら防ぐランサーだったが、空中に突如現れた大剣を防ぐ手立ては残っていなかった。それでも、背中を反らし、直撃を避ける。だが、後方からも剣が出現し、今度こそ腹部を貫かれた。血を吐くランサーにアーチャーは容赦なく、無数の剣を出現させ、殺到させる。全身を貫かれ、ランサーは恨み事の一つも残せずに消滅した。
 アーチャーはトランシーバーのスイッチを入れる。

「状況終了。そっちの被害は?」
『皆無だ。撤退するぞ』
「了解した」

 まずは一人目。予想通り、己の天敵となったであろう相手を最初に始末出来た事は行幸だった。これで残る敵は五体。内三体の居場所は分かっている。ライダーとキャスター。どちらも拠点を発見出来ていない上にライダーには厄介な機動力がある。
 昨日の内に倒しておきたかったのだが、不意打ちしたくらいでアッサリ倒れてくれるような楽な相手では無いらしい。正体不明のサーヴァントを従えている事からも、此度の聖杯戦争の最大の難敵は彼らだろう。
 撤退しながら、アーチャーは次なるターゲットを思い浮かべる。拠点を把握している三体の内、その正体もある程度看破出来た相手。セイバーのサーヴァントを落とす。
 奴のマスターは間桐雁夜。一度は魔術の道から逃げ出した落伍者。付け入る隙は幾らでもある。

「私はこのまま間桐邸を張る。君はどうする?」
『僕は舞弥と合流して次の一手の下準備を行う』
「了解した」

 己と彼が同時に単独行動を取る事で一つの懸念材料が生まれてしまうが、その懸念材料も安全の為に山一つ向こうの街に滞在してもらっている。慌てる必要は無いが後の早い内に布石を打って置きたい。

「とにかく、まずは間桐邸に向うとしよう」

 移動を開始しながら、アーチャーは一人の少女の顔を思い浮かべた。
 そういえば、彼女はもうあそこに居るのだろうか……。

第八話「八人目」

 彼らが動いたのは深夜0時を回った瞬間だった。

「行くぞ!」

 一人の暗殺者の号令に他の暗殺者達が一斉に動き出す。彼らは元々一人のアサシンだった。生前、多重人格であった事を利用し、多種多様な暗殺を行った彼、あるいは彼女の来歴が昇華された宝具がこの奇妙な現象を生み出している。
 宝具の名は妄想幻像。人格の分裂に伴い、自身の霊的ポテンシャルを分裂させ、別個体として実体化させる能力であり、その容姿や相貌は多種多様。けれど、彼らの目的は唯一つ。マスターの救出である。
 彼らのマスター、言峰綺礼は師である魔術師・遠坂時臣が召喚したサーヴァント、ファニーヴァンプの傀儡と化している。あまりに得体の知れない相手故、慎重に様子を伺っていたが、今宵、ついに救出に動く運びとなった。幾人倒れるか分からぬ特攻だが、誰か一人でも主の下へと辿り着き、連れ去る事が出来れば成功だ。
 これ以上、我等が主を好きにはさせぬ。彼らは気配を遮断した状態のまま遠坂邸へと乗り込んだ。主の居場所は分かっている。邪魔が入る事も織り込み済み。一人二人が死ぬのも覚悟の上。

「マスター!」

 最初にその部屋に辿り着いたのは巨躯のアサシン。剛力自慢のアブドゥルアジズ。
 室内で行われていたのは性行為だった。二人の男が一人の女を傅かせている。
 危険を感じた。未来を先読みするような力は無いが、数多の暗殺を繰り返す中で得た直感が囁く。この行為の果てに底知れぬ”恐怖”が具現する、と。

「マスター!」

 飛び掛かる。ダークと呼ばれる短剣をファニーヴァンプではなく、その主である遠坂時臣の首に向けて投げ放ち、同時にマスターを抱え込む。
 時を同じくして、他のアサシン達も到着した。ここまでに罠の類は一切無かった。だが、彼らは警戒を緩めない。英霊としての直感が延々と警鐘を鳴らし続けている。
 危険だ。逃げろ。戦おうとするな。功を焦るな。今直ぐにここから離脱しろ。
 
「撤退!」

 アサシンの一人が叫ぶ。目的は達した。これ以上の深追いは禁物。ファニーヴァンプの打倒など、次の機会で良い。今は何よりマスターの安全が第一である。
 全てのアサシンが同一の意思の下、逃走を開始する。その瞬間、五人のアサシンの首が飛んだ。
 何が起きたのか理解出来ぬまま消滅していく五人。その光景を見ていた他のアサシン達は言葉を失っていた。
 ソレは――――、たった今、生まれたのだ。

「ば、馬鹿な……」

 仮に性行為が以前から行われていたとしても、ファニーヴァンプが召喚されたのはほんの数日前の事。赤子が生まれるには早過ぎる。
 いや、そもそもサーヴァントが人間の子供を孕むなど条理に反している。それに、生まれ落ちた瞬間に既に”成人”しているなどおかしい。
 そう、彼らは目撃したのだ。女の股から成人した男が這い出してくるという異様過ぎる光景を――――。

「――――母さん。俺の罪を見ないでくれ……」
「……いいえ、見るわ。これは私の罪。貴方の罪は私の罪なのよ、愛する息子」

 素肌を血で赤く染めた男。たった今生まれ落ちたばかりのファニーヴァンプの息子が手刀を振るう。それだけでまた一人死んだ。
 理解した。”アレ”は――――あの男はファニーヴァンプの宝具だ。

「マスターを守れ!」

 アブドゥルアジズが走る。他のアサシン達が彼の為に盾となる。
 男は片手をアサシン達に向けた。

「……”銃殺”」

 男の言葉と共に彼の手の中に一丁の黒光りする拳銃が現れる。

「ッハ! そんなもので――――」

 アサシンの一人が嘲笑と共に飛び出す。男はそのアサシンに狙いを定め、引き金を引く。すると、そのアサシンは死亡した。

「……は?」

 その声は誰のものか、アサシン達は目の前で起きた事象を理解する事が出来なかった。如何に霊的ポテンシャルを分割しているとはいえ、彼らはサーヴァント。拳銃などという神秘を殆ど持たない兵器に殺されるなどあり得ない。
 ならば、この事態は一体何事か? そんな疑問が脳裏を過った時、既に彼らは死んでいた。それは銃弾を受けた事による死では無い。これは――――、

「死の……、概念……。貴様は……、一体?」

 死の間際にアサシンの一人が呟いた言葉に男は応える。

「――――単なる”人殺し”さ」

第八話「八人目」

「どうするんだ?」

 屋敷に残っていたアサシンを皆殺しにした後、生まれ落ちたばかりの男は自らの母に問う。彼女は涙を流していた。自らの主であり、息子であり、伴侶であった男の亡骸を抱えて泣いている。
 遠坂時臣の首にはアブドゥルアジズのダークが突き刺さっている。ファニーヴァンプは凶刃から彼を守る事が出来なかった事を嘆き悲しんでいる。

「ああ、私の愛しい息子。守れなかった……。ごめんなさい……。貴方も理想郷へと導いてあげたかった……」
「導けばいい」

 男は言う。

「聖杯が真に万能ならば、彼の命を蘇らせる事も可能な筈。だから、悲しまないでくれ、母さん。聖杯は必ず俺が貴女に捧げるから」
「――――そうですね。私に立ち止まっている時間など無い」

 ファニーヴァンプは立ち上がる。

「まずは新たなマスターを見つけるとしよう。さすがに、母さんでも憑り代であるマスターが居なければ、直に現界を維持出来なくなる」

 男の言葉にファニーヴァンプは頷く。

「分かったわ。でも、どうすればいいのかしら……」
「俺が適当に見繕ってこよう」
「ごめんなさい……。生まれたばかりの貴方に苦労ばかり……」
「気にするな。俺も理想郷へと至らねばならない。赦しを得る為に……」

 男は母の新たな主を探すため、踵を返した。廊下に出て、外の世界へと駆けて行く。既に出産時に浴びた血は消え、代わりに鮮血の如く赤い衣を身に纏っている。
 ファニーヴァンプは嘗ての主を抱き抱えると、慎重に彼の寝室へと運んだ。とても苦労しながら、彼が目覚めた時、いつもの朝を迎えられるように――――。

 生まれたばかりの男は街に出て直ぐに魔力を持つ者を幾人か見繕った。

「――――さて、どれが母さんのマスターに相応しいかな」

 しばらくの間、候補の者達を観察していると、一人の青年が興味深い行動を行っている事に気がついた。

「アレはサーヴァントを召喚しようとしているのか?」

 その青年はサーヴァントの召喚陣を描き、呪文を詠唱している。既に七騎の英霊が揃っている以上、彼がサーヴァントを召喚する事は不可能だ。それを知らずにいるのか、知っていて尚諦めきれていないのか定かではないが、何れにせよ、彼がマスターになりたがっている事は間違い無い筈。
 他の候補達はそれぞれ組織立った動きを見せているか、あるいはその反対に仮初めの平穏を享受している。前者は恐らく魔術協会か聖堂教会の関係者だろう。後者はそもそも聖杯戦争の事自体を知らない可能性が高い。
 背後に大きな組織を持つ者は扱いが面倒だし、後者を巻き込めば監督役が動く可能性がある。余計な手間は省くに限る。

「彼にしよう」

 男は呟くと同時に飛んだ。青年が作業を行っている部屋の一室へと窓を突き破り侵入した。
 青年は驚きに目を見開き、男を見つめている。
 
「お前、サーヴァントが欲しいんだろう?」
「……えっと?」

 戸惑い、首を傾げる青年に男は言う。

「お前をマスターにしてやる。ついて来い」
「はい? いや、アンタ誰?」
 
 目を丸くする青年の言葉を無視して、男は彼が描いた召喚陣の上でもがく二人の幼子を見た。腹部を切開され、抜き出された腸同士を結ばれている。

「……お前がやったのか?」

 男の問いに青年は何故か誇らしげに頷く。

「勿論!」
「何故だ……?」

 男は問う。

「何故、このような事をする?」

 それは純粋な疑問だった。勘違いか何かで召喚の為の生贄を用意したのだとしても、取り出した腸同士を結ぶなど、意味が分からない。

「知りたいからさ」

 青年は微笑む。まるで悟りを開いた賢者の如く、穏やかな声で彼は言う。

「人の死って奴の本質を俺は知りたいんだ」
「……その為に殺したのか?」
「そうだよ」

 男は問う。

「罪深い行いだとは思わないのか?」
「どうして?」

 心底不思議そうに問い返す青年に男は言う。

「人を殺す事は罪だ」

 そんな彼の言葉に青年はつまらなそうな声で応える。

「でも、この子達はいつか死ぬんだよ? もしかしたら、何の意味も無く、何の価値も示せずに死ぬかもしれない。そんなの可哀想じゃないか」
「可哀想……? では、お前に殺される事に意味や価値があるとでも?」
「勿論さ」

 青年は自信満々に応える。

「俺は人を殺す時、その死を徹底的に堪能するようにしてるんだ。より多くの刺激と情報を得るために、一人を殺す為に丸一日かける事だってある。俺が殺してやる方が取るに足らない命を惰性のまま生かしておいて、無意味に死なせるより、よっぽど有意義だよ」
「……お前は人間が嫌いなのか? だから、人間の死を探求するのか?」
「まさか、違うよ。その逆さ」

 青年は未だに息のある二人の幼子の腸を軽く叩いた。苦しみに歪む幼子達を青年は愛おしそうに見つめる。

「俺は人間を愛しているんだ。だから、殺すんだよ。愛する人の事を知りたいっていう気持ち、アンタにだってあるだろ?」
「……だが、人を殺す事は罪だ」
「どうして?」

 青年の問いに男は直ぐに切り返すことが出来なかった。
 口篭る男を無視して、青年は言葉を続ける。

「その死によって、何かを掴む事が出来たなら、それは無意味な死を意味あるものにしたって事だ。それって、凄く生産的じゃないか」
「人を殺す事が生産的な行い……だと?」

 男は青年が幼子達へ向ける自愛の表情を見つめ、慄いた。それは彼にとって、まさに青天の霹靂と言うべき考え方だった。

「人を殺す事が罪だなんて間違ってるよ。だって、人は死の瞬間にこそ、輝くんだからね。その人の生命力、人生への未練、怒りや執着といった感情。それらが凝縮された刹那の輝きを見たら、それを罪深い行為だなんて思えないよ」

 男は改めて青年を見た。端から見たら至って普通の好青年に見える。だが、その本質は天性の殺人鬼。男は彼に強く興味を惹かれた。

「人を殺す事がお前にとっての人への愛なのだな」

 男は青年の手を取った。

「お前に興味が湧いた。母さんのマスターになってもらう予定だったが、お前を人形にするのは惜しい」

 男は上唇を舐め、青年に問う。

「もっと、お前を知りたい。お前の殺しを手伝わせてくれないか?」
「え?」

 男は青年の頬を撫でる。

「お前の探求の果てを見たいんだ。もしかしたら、俺は赦される必要など無いのかもしれない」
「つまり……、アンタも一緒に殺しがしたいって事?」
「そうじゃない。俺は人を殺すお前を知りたいんだ。だから、獲物の殺し方はお前に委ねる。俺はただ、お前が殺しやすい環境を整え、お前が殺したいだけの数の獲物を揃え、お前のしたい殺し方が出来るように手伝ってやるだけだ」
「……今更だけど、アンタって何者? ここ……、マンションの十階なんだけど、どうやって来たの?」

 青年の問いに男は微笑む。

「ここへは飛んで来たんだ。そして、何者かと問われれば、そうだな……、俺はさっきソレでお前が呼び出そうとしていたものだ」

 男が指差した先にある召喚陣を見て、龍之介は驚きに目を見開く。

「つまり……、アンタは悪魔って事?」
「悪魔……か、俺には相応しい呼び名だな。ああ、そうだ。俺は悪魔だ」
「マジで……?」
「とりあえず、場所を移すとしよう。さっき、窓を割った音でここの住人達が騒ぎ始めているようだ」

 男はそう言うと、青年を抱きかかえ、自らが破壊した窓から外へと飛び出した。青年は突然の事に目を丸くし、しばらくして、歓声を上げた。

「COOL! なんてこった! 俺達、空を飛んでる!」
「ッフ、楽しんでもらえて何よりだ。ところで、まだ了解を貰っていない」
「……それって、悪魔との契約ってやつ?」
「別に魂を奪うつもりなんて無い。ただ、示して欲しいんだ。お前の探求の果てにあるものを」

 男の真剣な口調に青年も表情を引き締めて応える。

「俺もアンタに興味が湧いてきたよ。オーケー、分かった! そんなに興味があるなら見せてやるよ! 俺の名前は雨生龍之介。俺の殺しっぷりに期待してな!」
「ああ、期待させてもらおう。俺の名は――――」

第九話「出会い」

 知らない街並み。知らない人々。知らない空。私にとって、何もかもが初めてのものだった。もしかしたら、嘗て、この風景を見た事があるのかもしれないけれど、今の私には記憶というものが欠落している。
 最後の記憶は赤い男。男は私に向かって黒い銃を向け、引き金を引いた。そして、気が付くと私は街灯の傍に横たわっていた。あの男は一体何者なんだろう。それ以前、私は一体誰なのだろう……。

「――――……?」

 意識を切り替えようと、奮起の一声を上げようとして気がついた。
 声が出ない。パニックを起こしそうになる。喋ろうとしても、どうやって喋ればいいのかが分からない。これでは悲鳴を上げたり、助けを呼ぶ事も出来ない。
 恐怖が心を乱す。今、あの赤い男が現れても、私に抵抗の手段は無い。
 走る。目的地なんて無い。ただ、逃げる為に走る。
 助けて。誰か、助けて。
 いくら心で叫んでも、誰にも届かない。でも、叫ばずにはいられない。
 誰か私を助けて……。

 第九話「出会い」

「これは一体……」

 アーチャーは間桐邸の地下空間に降り立ち、その惨状に言葉を失っていた。どこもかしこも焼き払われている。余程念入りに焼いたらしく、隅々まで真っ黒だ。人骨はあれど、生者の姿はどこにもない。
 彼はここがどういう施設なのかを知っていた。ここに居るべき少女の存在も……。

「桜……」

 過去の改竄になど興味は無い。だが、目の前で起きると分かっている悲劇を黙って見過ごす事など出来ない。今も彼女がここで苦しんでいるなら、助けたいと思っていた。
 自分の事を先輩と呼び、慕ってくれた後輩。ずっと、一緒に暮らしていた家族。ずっと苦しんでいたのに、手遅れになるまで気付いてやる事すら出来ず……――――。

 ――――先輩。もしも、私が悪い子になっちゃったら……。

 そう言って、伸ばしてくれていた彼女の手を俺は振り払ってしまった。桜が悪い子になどなる筈無い。聖杯戦争が終わって、漸く取り戻した日常を壊したくなくて、笑い飛ばしてしまった。
 あの後、直ぐに彼女は行方が分からなくなり、大聖杯の解体の為に遠坂がロード・エルメロイⅡ世を引き連れて戻って来た時、彼女は臓硯の操り人形と成り果てていた。もう、殺す以外に救う手立てが無かった。
 笑ってしまう。大切な家族を殺しておいて、正義の味方の化身などと……。

「どこに居るんだ……」

 一通り見て回ったが、桜の姿はどこにも無かった。刻印虫の姿さえ無い。

「妙だ……」

 幾ら何でも徹底され過ぎている。この惨状を作り上げたのが敵の襲撃によるものならば、ここまで入念に焼く必要は無い筈だ。それに、この空間は焼かれているだけで、何かが暴れ回ったような痕跡が一切見当たらない。
 間桐も雁夜というマスターを用意してサーヴァントを召喚した筈だ。なら、ここに敵が強襲を仕掛ければ、確実に戦闘になった筈。にも関わらず、ここには戦闘の痕跡が一つも無い。これはつまり――――、

「ここを焼いたのは雁夜のサーヴァントか?」

 間桐雁夜は一度、この屋敷から逃げ出している。フリーのルポライターとして、海外を転々としていたと聞く。そんな彼が突然戻って来て、マスターとなり、この地下空間を焼いた。

「……まさか、雁夜の目的は」

 一般人の感性を持っているなら、こんな場所で蟲に犯されている少女が居ると知れば、何とかしようと動いても不思議ではない。
 そう考えると、一度は魔術の道に背を向けておきながら、こんなタイミングで戻って来た理由も分かる。

「……だとしたら、どうして」

 この世界はアーチャーが生前を過ごした世界と微妙に異なる流れを汲んでいる。アーチャーがこの時間軸に召喚された時点でそれは決定的だ。
 本来、この時間軸に切嗣によって召喚されるべきはセイバーのサーヴァント、アルトリアである筈なのだから……。

「仮に雁夜が桜を救う為だけにマスターとなったなら……」

 脳裏に切嗣の顔が浮かぶ。もし、この事が彼にバレたら、確実に桜が人質となる。そうなったら、彼女は確実に殺されるだろう。
 話し合いで解決など論外だ。迅速に雁夜のサーヴァントを始末しなければならない。

「何とか、痕跡を辿れるといいのだが……」

 アーチャーは無線を取り出した。

「マスター。どうやら、先を越されたらしい。間桐邸の地下に広い空間を見つけたんだが、サーヴァントによって焼き尽くされていた」
『……分かった』
「私は情報収集に回る」
『頼む』

 無線機を仕舞い、アーチャーは間桐邸を後にした。

「……さて」

 霊体化した状態で街を奔走しながら、アーチャーは状況を整理する。
 あの空間を焼いた炎は間違いなく魔術によるもの。それもかなり高位な魔術によるもの。炎の魔術を纏う宝具によるものという可能性もあるが、既に素性の割れているセイバーとランサー、そして、ライダーによるものではない。残るクラスは己を含めて四つだが、アサシンやバーサーカーによるものとも考え難い。

「ならば、残る候補はキャスターのみ……」

 アーチャーの視線の向こうには嘗ての級友が今も住んでいる筈の山――――、円蔵山。あの場所にはアーチャーの生前の第五次聖杯戦争でキャスターのサーヴァントが拠点を置いた前科がある。
 あの場所はこの地の竜脈が集う場所であり、周囲が天然の結界に覆われているというキャスターが拠点を置くには絶好の場所なのだ。

「……と思ったんだけどな」

 いざ到着してみると、サーヴァントの気配は全く無かった。アテが外れた事もあり、肩を落としながら街中の散策に戻る。
 円蔵山以外だと、遠坂邸と言峰教会、それに、新都の一角が候補となるが、最大の霊地である円蔵山が空振ったとすると、そちらも望み薄だろう。

「潜伏されたとなると、厄介だな……」

 キャスターは時間を置けば置くほど厄介になっていくクラスだ。本当に桜を人質にする以外手立ての無い状態になる前に倒してしまいたい。
 眉間に皺を寄せるアーチャー。念の為に確認しようと新都の方角に足を向けた瞬間、ソレは起きた。

「あれは……」

 突如、数多のサーヴァントの気配が現れた。

「遠坂邸の方角……」

 千里を見通すアーチャーの眼はその異様な光景を確りと脳裏に焼き付けた。
 逃げ惑う暗殺者達。そして、銃を握る赤い服の男。
 無数のアサシン達が次々に倒れていく。身を潜めながら、アーチャーは無線機を取り出した。

「聞こえるか?」
『状況は分かっている』
「どう動く?」
『まずはアサシン達に退場してもらおう』
「自作自演の可能性は?」
『無いだろう。あれは恐らく自己を複製、あるいは分裂させる能力。そんなものがあるなら、分身体の一体を殺させ、残りを隠蔽する筈だ。それより、あの赤いサーヴァントの情報を出来る限り拾い集めるんだ』
「ああ……。あの拳銃は宝具かな」
『恐らく。だとすると、君と同じ現代の英雄かもしれないな』

 この可能性を忘れていた。サーヴァントのクラスは基本的にセイバー、ランサー、アーチャー、ライダー、キャスター、アサシン、バーサーカーの七つだが、固定されているのは三騎士のクラスのみであり、残るクラスが非正規なものと入れ替えになる可能性も十分にありえるのだ。
 あの赤い男を仮にスナイパーのクラスと仮定すると、間桐邸の地下空間を焼いたサーヴァントもキャスターであると断定する事が出来なくなる。キャスターばかりを追って、取り返しのつかない事態になる事は避けたい。

「まったく、聖杯戦争は厄介事に事欠かないな」

 やがて、アサシンが完全に駆逐された後、赤い男は一度邸内に戻り、再び新都の方角へと飛んで行った。警戒しつつ、周囲の状況を探る為に背の高いマンションの屋上に昇る。すると、幾つかの人影が集っているのが見えた。彼等はカソックを身に着けた青年を車に積み込んでいる。

「あれは……、聖堂教会か?」

 あの装備には見覚えがある。どうやら、あの青年がアサシンのマスターだったらしい。神父姿といい、どこか見覚えのある顔つきといい、今の内に息の根を止めておいた方が世の為人の為とも思うが、下手に教会に刺激を与え、ペナルティーを加えられても困る。
 それからしばらくの間、マンションの屋上で情報収集に専念していると、アーチャーの目に一人の少女の姿が映り込んだ。

「……まったく」

 舌を打ち、空を舞う。一足跳びで少女の目の前までやって来ると、アーチャーは黒い短剣を取り出した。
 少女はギョッとした表情を浮かべ、怯えながら後ずさる。

「マスターは教会に確保されてしまったが、サーヴァントだけは始末しておこう」

 少女はサーヴァントだった。恐らく、あのアサシンの分身体の一つ。まったく、よりにもよって、こんな見た目の分身体を最後に残して行くとは……。
 アーチャーは嘆息しつつ、その首を落とす為に短剣を振り上げた。

「ALALALALALALALAie!!」

 瞬間、雷鳴が轟いた。遥か上空から稲妻が地上に落ち、ライダーのサーヴァントが姿を現した。神牛が引くチャリオットの上には彼のマスターの姿もある。

「お、お前、何してるんだよ!」
「……分からないのか?」

 冷たい眼差しを向け、容赦無く短剣を振り下ろすアーチャー。ライダーのマスターは咄嗟に叫んだ。

「あの子を助けろ、ライダー!」
「おう!」
「なに!?」

 そのあり得ない行動にアーチャーは瞠目し、回避行動を行った。神牛が通り過ぎていく。あの小柄なアサシンのサーヴァントと共に――――。

「……何のつもりだ、ロード・エルメロイⅡ世」

 アーチャーは彼の事を知っていた。生前に会った事がある。気難しい性格だったが、大聖杯の解体の際に手を貸してくれた。何故、彼がアサシンを助けたのか理解に苦しむ。彼ほどの男ならよもや、アサシンを一般人の少女と間違えて助けに入ったなどという事も無かろう。何かに利用するつもりなのだろうか……。

 そんな風にアーチャーが思考しているとはいざ知らず、ウェイバー・ベルベットは正に彼の“無かろう”と断じた勘違いの下で行動していた。彼はアサシンを一般人の少女と思い込み、ライダーに慌てて降下を命じたのだ。
 今まさに口封じされようとしていた目撃者の少女と勘違いし、ウェイバーは恐怖に慄く少女の髪を撫でた。

「ああ、もう! 僕は何をしてるんだ!」

 正しいのは口封じをしようとしたアーチャー。魔術師として、神秘は隠匿するべきだ。それを分かっていながら、つい咄嗟に助けてしまった。我ながら間抜けな話だ。
 溜息を零すウェイバーとは対称的にライダーは楽しそうに笑っている。

「いや、良い決断だったぞ! 幼子が殺されようとしておるのだ。黙って見ている事など出来ぬというお前さんの気持ち、よく分かるぞ。実に天晴れな采配だ」
「でも……、こいつ、どうしよう。おい、お前の名前は何ていうんだ? とりあえず、家に連れて行ってやるから教えてくれよ」

 溜息混じりにウェイバーが問う。けれど、少女は口をパクパクさせるだけで何も答えない。首を傾げるウェイバーに少女は悲しそうに俯く。

「……もしかして、喋れないの?」

 ウェイバーの問いに少女が頷く。ウェイバーは殊更大きな溜息を零した。

「じゃあ、家の方角は?」

 ウェイバーが問うと、少女は困ったような表情を浮かべて首を振る。

「分からないの? じゃあ、とりあえず空から――――」

 ウェイバーの言葉を遮り、少女は自分の頭を指差した。

「なんだ?」

 首を傾げるウェイバーに少女は自分の頭を何度も指差し、人差し指同士でバッテンを作った。

「頭がバッテン……?」
「……おい、小娘。もしや、お前さん……、記憶が無いと申すか?」

 ライダーの問いに少女は悲しそうに頷く。ウェイバーは同時に頭を抱えた。

「アイツのせいだな!」

 ウェイバーの脳裏に浮かぶのはアーチャーの姿。

「ってか、アイツだよな? アサシン達を皆殺しにしたのって……」
「恐らくな。実際にその光景を見たのは使い魔と視界を共有しておったお主だけ故、断定は出来ぬが……、奴の形を見る限り、恐らく弓兵だろう」
「なら、ほぼ間違いなしだな……」

 あの光景は今思い出しても寒気がする。あまりにも一方的過ぎる虐殺劇だった。正直、よくアイツの前に飛び出せたと思う。

「……でも、そう考えると、どうしてアイツ、僕達を撃って来なかったんだろう」
「準備に一手間掛る手合いなのかもしれん。いずれにしても、奴は間違いなく強敵だ。あの倉庫街での一戦の後、我等を狙撃しようとしおったのもアヤツに間違い無い」
「まじかよ……」

 ウェイバーは頭を抱えながら、傍らで蹲る少女を見下ろす。アイツに目をつけられた以上、下手に警察を頼ってさよならするわけにもいかない。目撃者として、再び消しに来る可能性があるからだ。
 大きな溜息と共にウェイバーは言った。

「悪いけど、暫くは僕らと一緒に行動してもらうよ」

 ウェイバーの言葉に少女は首を傾げる。

「変な事はしないから安心しなよ。とりあえず、今、この街ではお前が目撃したみたいな厄介な連中が動き回ってる。だから、お前の記憶が戻るか、厄介な連中が軒並み居なくなってから、一緒に家を探してやるよ。だから、ちょっと我慢してくれ」

 ウェイバーの言葉を今度こそ理解出来たらしく、少女は小さく頷いた。

「それじゃあ、一度帰ろう、ライダー」
「ああ、承知したぞ、坊主」

 クククと笑いながらライダーは神牛を走らせる。天に舞い上がると、少女はビクビクと震え、ウェイバーにしがみ付いた。その姿を横目に見ながら、ライダーは思考に耽る。
 彼は少女の正体を既に把握している。だが、同時に少女の目に虚飾の色が無い事も見抜いている。
 記憶喪失な上に言葉も話せないサーヴァント。恐らく、虐殺されたアサシン達の生き残りだろう。
 面白い状況だ。正直言って、暗殺者如き、アーチャーにくれてやっても良かった。だが、ウェイバーは少女を助けろと命じた。恐らく、サーヴァントと人間の区別がついていないのだろう。無理も無い話しだ。この娘の霊的ポテンシャルは殆ど霞も同然。同じサーヴァントだからこそ分かる程度の微かなものだ。
 この小娘がウェイバーに牙を剥くにしろ、お姫様のまま守られ続けるにしろ、ウェイバーにとって大いなる試練となるだろう。そして、その試練を乗り越えた果てに彼は大きく成長する事だろう。

「坊主」
「なんだ?」
「確りやれよ」
「……お、おう?」