知らない街並み。知らない人々。知らない空。私にとって、何もかもが初めてのものだった。もしかしたら、嘗て、この風景を見た事があるのかもしれないけれど、今の私には記憶というものが欠落している。
最後の記憶は赤い男。男は私に向かって黒い銃を向け、引き金を引いた。そして、気が付くと私は街灯の傍に横たわっていた。あの男は一体何者なんだろう。それ以前、私は一体誰なのだろう……。
「――――……?」
意識を切り替えようと、奮起の一声を上げようとして気がついた。
声が出ない。パニックを起こしそうになる。喋ろうとしても、どうやって喋ればいいのかが分からない。これでは悲鳴を上げたり、助けを呼ぶ事も出来ない。
恐怖が心を乱す。今、あの赤い男が現れても、私に抵抗の手段は無い。
走る。目的地なんて無い。ただ、逃げる為に走る。
助けて。誰か、助けて。
いくら心で叫んでも、誰にも届かない。でも、叫ばずにはいられない。
誰か私を助けて……。
第九話「出会い」
「これは一体……」
アーチャーは間桐邸の地下空間に降り立ち、その惨状に言葉を失っていた。どこもかしこも焼き払われている。余程念入りに焼いたらしく、隅々まで真っ黒だ。人骨はあれど、生者の姿はどこにもない。
彼はここがどういう施設なのかを知っていた。ここに居るべき少女の存在も……。
「桜……」
過去の改竄になど興味は無い。だが、目の前で起きると分かっている悲劇を黙って見過ごす事など出来ない。今も彼女がここで苦しんでいるなら、助けたいと思っていた。
自分の事を先輩と呼び、慕ってくれた後輩。ずっと、一緒に暮らしていた家族。ずっと苦しんでいたのに、手遅れになるまで気付いてやる事すら出来ず……――――。
――――先輩。もしも、私が悪い子になっちゃったら……。
そう言って、伸ばしてくれていた彼女の手を俺は振り払ってしまった。桜が悪い子になどなる筈無い。聖杯戦争が終わって、漸く取り戻した日常を壊したくなくて、笑い飛ばしてしまった。
あの後、直ぐに彼女は行方が分からなくなり、大聖杯の解体の為に遠坂がロード・エルメロイⅡ世を引き連れて戻って来た時、彼女は臓硯の操り人形と成り果てていた。もう、殺す以外に救う手立てが無かった。
笑ってしまう。大切な家族を殺しておいて、正義の味方の化身などと……。
「どこに居るんだ……」
一通り見て回ったが、桜の姿はどこにも無かった。刻印虫の姿さえ無い。
「妙だ……」
幾ら何でも徹底され過ぎている。この惨状を作り上げたのが敵の襲撃によるものならば、ここまで入念に焼く必要は無い筈だ。それに、この空間は焼かれているだけで、何かが暴れ回ったような痕跡が一切見当たらない。
間桐も雁夜というマスターを用意してサーヴァントを召喚した筈だ。なら、ここに敵が強襲を仕掛ければ、確実に戦闘になった筈。にも関わらず、ここには戦闘の痕跡が一つも無い。これはつまり――――、
「ここを焼いたのは雁夜のサーヴァントか?」
間桐雁夜は一度、この屋敷から逃げ出している。フリーのルポライターとして、海外を転々としていたと聞く。そんな彼が突然戻って来て、マスターとなり、この地下空間を焼いた。
「……まさか、雁夜の目的は」
一般人の感性を持っているなら、こんな場所で蟲に犯されている少女が居ると知れば、何とかしようと動いても不思議ではない。
そう考えると、一度は魔術の道に背を向けておきながら、こんなタイミングで戻って来た理由も分かる。
「……だとしたら、どうして」
この世界はアーチャーが生前を過ごした世界と微妙に異なる流れを汲んでいる。アーチャーがこの時間軸に召喚された時点でそれは決定的だ。
本来、この時間軸に切嗣によって召喚されるべきはセイバーのサーヴァント、アルトリアである筈なのだから……。
「仮に雁夜が桜を救う為だけにマスターとなったなら……」
脳裏に切嗣の顔が浮かぶ。もし、この事が彼にバレたら、確実に桜が人質となる。そうなったら、彼女は確実に殺されるだろう。
話し合いで解決など論外だ。迅速に雁夜のサーヴァントを始末しなければならない。
「何とか、痕跡を辿れるといいのだが……」
アーチャーは無線を取り出した。
「マスター。どうやら、先を越されたらしい。間桐邸の地下に広い空間を見つけたんだが、サーヴァントによって焼き尽くされていた」
『……分かった』
「私は情報収集に回る」
『頼む』
無線機を仕舞い、アーチャーは間桐邸を後にした。
「……さて」
霊体化した状態で街を奔走しながら、アーチャーは状況を整理する。
あの空間を焼いた炎は間違いなく魔術によるもの。それもかなり高位な魔術によるもの。炎の魔術を纏う宝具によるものという可能性もあるが、既に素性の割れているセイバーとランサー、そして、ライダーによるものではない。残るクラスは己を含めて四つだが、アサシンやバーサーカーによるものとも考え難い。
「ならば、残る候補はキャスターのみ……」
アーチャーの視線の向こうには嘗ての級友が今も住んでいる筈の山――――、円蔵山。あの場所にはアーチャーの生前の第五次聖杯戦争でキャスターのサーヴァントが拠点を置いた前科がある。
あの場所はこの地の竜脈が集う場所であり、周囲が天然の結界に覆われているというキャスターが拠点を置くには絶好の場所なのだ。
「……と思ったんだけどな」
いざ到着してみると、サーヴァントの気配は全く無かった。アテが外れた事もあり、肩を落としながら街中の散策に戻る。
円蔵山以外だと、遠坂邸と言峰教会、それに、新都の一角が候補となるが、最大の霊地である円蔵山が空振ったとすると、そちらも望み薄だろう。
「潜伏されたとなると、厄介だな……」
キャスターは時間を置けば置くほど厄介になっていくクラスだ。本当に桜を人質にする以外手立ての無い状態になる前に倒してしまいたい。
眉間に皺を寄せるアーチャー。念の為に確認しようと新都の方角に足を向けた瞬間、ソレは起きた。
「あれは……」
突如、数多のサーヴァントの気配が現れた。
「遠坂邸の方角……」
千里を見通すアーチャーの眼はその異様な光景を確りと脳裏に焼き付けた。
逃げ惑う暗殺者達。そして、銃を握る赤い服の男。
無数のアサシン達が次々に倒れていく。身を潜めながら、アーチャーは無線機を取り出した。
「聞こえるか?」
『状況は分かっている』
「どう動く?」
『まずはアサシン達に退場してもらおう』
「自作自演の可能性は?」
『無いだろう。あれは恐らく自己を複製、あるいは分裂させる能力。そんなものがあるなら、分身体の一体を殺させ、残りを隠蔽する筈だ。それより、あの赤いサーヴァントの情報を出来る限り拾い集めるんだ』
「ああ……。あの拳銃は宝具かな」
『恐らく。だとすると、君と同じ現代の英雄かもしれないな』
この可能性を忘れていた。サーヴァントのクラスは基本的にセイバー、ランサー、アーチャー、ライダー、キャスター、アサシン、バーサーカーの七つだが、固定されているのは三騎士のクラスのみであり、残るクラスが非正規なものと入れ替えになる可能性も十分にありえるのだ。
あの赤い男を仮にスナイパーのクラスと仮定すると、間桐邸の地下空間を焼いたサーヴァントもキャスターであると断定する事が出来なくなる。キャスターばかりを追って、取り返しのつかない事態になる事は避けたい。
「まったく、聖杯戦争は厄介事に事欠かないな」
やがて、アサシンが完全に駆逐された後、赤い男は一度邸内に戻り、再び新都の方角へと飛んで行った。警戒しつつ、周囲の状況を探る為に背の高いマンションの屋上に昇る。すると、幾つかの人影が集っているのが見えた。彼等はカソックを身に着けた青年を車に積み込んでいる。
「あれは……、聖堂教会か?」
あの装備には見覚えがある。どうやら、あの青年がアサシンのマスターだったらしい。神父姿といい、どこか見覚えのある顔つきといい、今の内に息の根を止めておいた方が世の為人の為とも思うが、下手に教会に刺激を与え、ペナルティーを加えられても困る。
それからしばらくの間、マンションの屋上で情報収集に専念していると、アーチャーの目に一人の少女の姿が映り込んだ。
「……まったく」
舌を打ち、空を舞う。一足跳びで少女の目の前までやって来ると、アーチャーは黒い短剣を取り出した。
少女はギョッとした表情を浮かべ、怯えながら後ずさる。
「マスターは教会に確保されてしまったが、サーヴァントだけは始末しておこう」
少女はサーヴァントだった。恐らく、あのアサシンの分身体の一つ。まったく、よりにもよって、こんな見た目の分身体を最後に残して行くとは……。
アーチャーは嘆息しつつ、その首を落とす為に短剣を振り上げた。
「ALALALALALALALAie!!」
瞬間、雷鳴が轟いた。遥か上空から稲妻が地上に落ち、ライダーのサーヴァントが姿を現した。神牛が引くチャリオットの上には彼のマスターの姿もある。
「お、お前、何してるんだよ!」
「……分からないのか?」
冷たい眼差しを向け、容赦無く短剣を振り下ろすアーチャー。ライダーのマスターは咄嗟に叫んだ。
「あの子を助けろ、ライダー!」
「おう!」
「なに!?」
そのあり得ない行動にアーチャーは瞠目し、回避行動を行った。神牛が通り過ぎていく。あの小柄なアサシンのサーヴァントと共に――――。
「……何のつもりだ、ロード・エルメロイⅡ世」
アーチャーは彼の事を知っていた。生前に会った事がある。気難しい性格だったが、大聖杯の解体の際に手を貸してくれた。何故、彼がアサシンを助けたのか理解に苦しむ。彼ほどの男ならよもや、アサシンを一般人の少女と間違えて助けに入ったなどという事も無かろう。何かに利用するつもりなのだろうか……。
そんな風にアーチャーが思考しているとはいざ知らず、ウェイバー・ベルベットは正に彼の“無かろう”と断じた勘違いの下で行動していた。彼はアサシンを一般人の少女と思い込み、ライダーに慌てて降下を命じたのだ。
今まさに口封じされようとしていた目撃者の少女と勘違いし、ウェイバーは恐怖に慄く少女の髪を撫でた。
「ああ、もう! 僕は何をしてるんだ!」
正しいのは口封じをしようとしたアーチャー。魔術師として、神秘は隠匿するべきだ。それを分かっていながら、つい咄嗟に助けてしまった。我ながら間抜けな話だ。
溜息を零すウェイバーとは対称的にライダーは楽しそうに笑っている。
「いや、良い決断だったぞ! 幼子が殺されようとしておるのだ。黙って見ている事など出来ぬというお前さんの気持ち、よく分かるぞ。実に天晴れな采配だ」
「でも……、こいつ、どうしよう。おい、お前の名前は何ていうんだ? とりあえず、家に連れて行ってやるから教えてくれよ」
溜息混じりにウェイバーが問う。けれど、少女は口をパクパクさせるだけで何も答えない。首を傾げるウェイバーに少女は悲しそうに俯く。
「……もしかして、喋れないの?」
ウェイバーの問いに少女が頷く。ウェイバーは殊更大きな溜息を零した。
「じゃあ、家の方角は?」
ウェイバーが問うと、少女は困ったような表情を浮かべて首を振る。
「分からないの? じゃあ、とりあえず空から――――」
ウェイバーの言葉を遮り、少女は自分の頭を指差した。
「なんだ?」
首を傾げるウェイバーに少女は自分の頭を何度も指差し、人差し指同士でバッテンを作った。
「頭がバッテン……?」
「……おい、小娘。もしや、お前さん……、記憶が無いと申すか?」
ライダーの問いに少女は悲しそうに頷く。ウェイバーは同時に頭を抱えた。
「アイツのせいだな!」
ウェイバーの脳裏に浮かぶのはアーチャーの姿。
「ってか、アイツだよな? アサシン達を皆殺しにしたのって……」
「恐らくな。実際にその光景を見たのは使い魔と視界を共有しておったお主だけ故、断定は出来ぬが……、奴の形を見る限り、恐らく弓兵だろう」
「なら、ほぼ間違いなしだな……」
あの光景は今思い出しても寒気がする。あまりにも一方的過ぎる虐殺劇だった。正直、よくアイツの前に飛び出せたと思う。
「……でも、そう考えると、どうしてアイツ、僕達を撃って来なかったんだろう」
「準備に一手間掛る手合いなのかもしれん。いずれにしても、奴は間違いなく強敵だ。あの倉庫街での一戦の後、我等を狙撃しようとしおったのもアヤツに間違い無い」
「まじかよ……」
ウェイバーは頭を抱えながら、傍らで蹲る少女を見下ろす。アイツに目をつけられた以上、下手に警察を頼ってさよならするわけにもいかない。目撃者として、再び消しに来る可能性があるからだ。
大きな溜息と共にウェイバーは言った。
「悪いけど、暫くは僕らと一緒に行動してもらうよ」
ウェイバーの言葉に少女は首を傾げる。
「変な事はしないから安心しなよ。とりあえず、今、この街ではお前が目撃したみたいな厄介な連中が動き回ってる。だから、お前の記憶が戻るか、厄介な連中が軒並み居なくなってから、一緒に家を探してやるよ。だから、ちょっと我慢してくれ」
ウェイバーの言葉を今度こそ理解出来たらしく、少女は小さく頷いた。
「それじゃあ、一度帰ろう、ライダー」
「ああ、承知したぞ、坊主」
クククと笑いながらライダーは神牛を走らせる。天に舞い上がると、少女はビクビクと震え、ウェイバーにしがみ付いた。その姿を横目に見ながら、ライダーは思考に耽る。
彼は少女の正体を既に把握している。だが、同時に少女の目に虚飾の色が無い事も見抜いている。
記憶喪失な上に言葉も話せないサーヴァント。恐らく、虐殺されたアサシン達の生き残りだろう。
面白い状況だ。正直言って、暗殺者如き、アーチャーにくれてやっても良かった。だが、ウェイバーは少女を助けろと命じた。恐らく、サーヴァントと人間の区別がついていないのだろう。無理も無い話しだ。この娘の霊的ポテンシャルは殆ど霞も同然。同じサーヴァントだからこそ分かる程度の微かなものだ。
この小娘がウェイバーに牙を剥くにしろ、お姫様のまま守られ続けるにしろ、ウェイバーにとって大いなる試練となるだろう。そして、その試練を乗り越えた果てに彼は大きく成長する事だろう。
「坊主」
「なんだ?」
「確りやれよ」
「……お、おう?」