第三十二話「再起」

「いつまでイジケてんだよ?」

 アヴェンジャーが僕の胸ぐらを掴んで言った。彼女の苛立ちも分かる。間桐邸を飛び出してから、僕達は港の倉庫街を隠れ家にして既に三日も経過している。その間、僕は何も行動を起こしていない。聖杯戦争に勝利して、聖杯を手に入れ、願いを叶えるために召喚に応じた彼女にとって、この三日間の喪失は憤然たるものだったに違いない。
 だけど、僕の都合も考えて欲しい。僕はただ、妹を祖父――――、臓硯の魔の手から救い出したかっただけなのだ。なのに、当の妹が自らの力で祖父の戒めを振り解き、反撃に打って出た上に勝利をもぎ取ってしまうという大番狂わせが起きた。僕の今までの苦労や思い、覚悟なんかが全て一瞬で砕け散ってしまった。
 身勝手な奴だと罵りたければ罵るがいい。道化と笑いたければ笑うがいい。愚か者と蔑みたければ蔑むがいい。
 僕にとっては『妹を救う』という行為は人生の目標でもあったのだ。今の僕は正に路頭に迷っている状態。
 誰か、僕に道を示して欲しい。このままでは僕は――――、

「まだ、お前は妹を救えていないじゃないか」

 アヴェンジャーはいつものぶっきらぼうとした口調では無く、どこか諭すように言った。この三日間、彼女の口から飛び出したのは罵詈雑言ばかりだったから、僕は吃驚して顔を上げた。
 
「お前の妹は聖杯戦争のマスターとなり、闘争の渦中に居る。しかも、サーヴァントは最弱のクラスであるキャスターだ。父上を始めとして、此度の聖杯戦争には『対魔力』の能力を保有するサーヴァントが多数参加している。まともにやっても、お前の妹に勝ち目は無い。そして、この戦いに敗北するという事は即ち――――」
「死ぬ……。桜が……」

 それは駄目だ。桜が死ぬ事を容認など出来ない。
 ああ、僕にはまだ戦う理由があったのだ。ただ、戦うべき相手が変わっただけだ。
 妹を聖杯戦争から引き摺り下ろす。誰かに負けて殺される前に、僕が彼女に引導を渡す。それが僕の最後の責務だ。
 罪を償うのはその後だ。その前にやるべき事をやらないといけない。
 だって、僕は桜の兄貴なのだから――――。

「……こんな場所で蹲ってる場合じゃないな」
「漸く、目が覚めたか?」
「ああ、僕にはまだ、戦う理由があった。ありがとう、アヴェンジャー」
「なら、さっさと行くぞ。思い立ったが吉日だぜ」
「い、今直ぐかい?」
「なんだ? 怖気づいちまったか?」
「そんな事あるもんか! ああ、いいさ。今直ぐ出陣だ!」

 アヴェンジャーはまったく容赦が無い。でも、その容赦の無さが心地良い。今の僕にとって、彼女は正に道を指し示す光だ。苦笑いを浮かべながら、僕は腰を上げた。

「でも、桜の居場所は分かってるのかい? 屋敷は君が吹き飛ばしてしまったし、あそこに留まっているとは思えないんだけど……」
「あの魔女が行動を開始してから、胸糞の悪い魔力が街中に渦巻き始めている。恐らく、その中心を目指せば、そこに奴等が居る筈だ」

 街中に渦巻く魔力。僕には感じ取る事が出来ないけど、彼女には分かるらしい。
 彼女の出自については夢で見て知っている。
 彼女の父、アーサーが女性だったと知った時から密かに抱き続けていた疑問。

『どうやって産んだ?』

 彼女の母、モルガンも紛う事無き女だ。女と女が子作りなんて出来る筈が無い。
 その疑問の答えがモルガンという偉大な力を持つ魔術師の起こした奇跡。
 モルガンはアーサーを呪術によって一時的に男に性転換させるという荒業を為した挙句、その精子を奪い、培養し、一体のホムンクルスを鋳造した。
 それが叛逆の騎士、モードレッドの正体。彼女はアーサー王という人物の模造品として作られた人造人間だった。
 ホムンクルスは錬金術において、人の精と幾つかの要素を元に作られる。女性の子宮に依存せずに生命を誕生させる外法によって生み出される存在だ。その肉体はエーテルによって形成され、その在り方は『人の手によって創造された自然の触覚』なのである。
 故に彼女のようなホムンクルスは並の魔術師よりもずっと世界の違和感に敏感だ。彼女が街に魔力の渦が発生していると言うのなら、それが真実なのだ。

「なら、行こう」

 僕達は隠れ潜んでいたコンテナから出た。ここは初戦の舞台であり、他でも無いアヴェンジャーの手によって廃墟と化している。人の立ち入りを禁じられたこの場所は隠れ家として実に優秀だった。
 真っ直ぐに円蔵山へと向っていると、突然、グーという音が響いた。最初は自分のかと思い、緊張感の無さに呆れたが、二度目の音は明らかに僕以外の場所から響いていた。
 振り向くと、警戒の為に実体化しているアヴェンジャーが照れたように頬を掻き、ソッポを向いていた。
 意外だ。サーヴァントも腹が減るんだな。知らなかったとは言え、悪い事をした。今迄、彼女に食事を与えた記憶が無い。僕は近くのたこ焼きやで食料を調達し、決戦前の腹ごしらえをする為に近場の公園に向った。
 
「サーヴァントでも腹は減るんだね」
「……だ、黙れ、マスター。別に必須って訳じゃない。ただ、喰おうと思えば喰えるってだけだ。今のは何て言うか……、その……、ええい、何でも無い!」

 怒鳴られてしまった。まあ、女の子相手に振る話じゃなかったね。
 忘れていたというか、他の事に夢中になり過ぎていて、今迄気付かずに居たけど、アヴェンジャーはとても魅力的な女の子だった。
 そして、同時に気付いた。僕は彼女の事を彼女自身の口から聞いた事が一度も無かった。前から知っていた知識と夢で見た彼女の記憶以外、僕は彼女という存在について、何も知らないのだ。
 良い機会だと思った。これが最後の戦いになるのかもしれないし、今の内に聞きたい事を聞いておこう。

「アヴェンジャー」
「ん?」

 たこ焼きを頬張り、頬を緩ませている。どうやら、かなり気に入ったみたいだ。多めに買っておいて良かった。

「君は何の為に聖杯を求めるんだい? やっぱり、王位を手に入れる為?」

 僕の問い掛けにセイバーは口の中のたこ焼きを胃に収めてから答えた。

「言っておくが、聖杯に王位自体を願う気は無いぞ。オレはただ、選定の剣を抜くチャンスが欲しいんだ」
「選定の剣を抜くチャンス……? どうして、王位自体を望まないんだ? もし抜けなかったら……」
「ばーか。オレに抜けない筈が無いだろ」

 あっけらかんとした答えに僕は言葉が出なかった。

「……凄い自信だな」
「単なる事実だ。オレは王となるべき者だからな」
「そっか……」

 今の内に聞いておいて良かった。僕にはまた一つ、戦う理由が出来た。
 二つの理由は矛盾しない。僕はキャスターを討ち、桜を聖杯戦争から引き摺り下ろす。そして、聖杯を手に入れる。
 モードレッドを王にする為に――――。

「なら、さっさとキャスターを倒さないといけないね。僕の願いの為にも……、君の願いの為にも」
「……ああ、そうだな。腹ごしらえも済ませたし、さっさと行こうぜ」
「ああ」

 僕達は戦いの舞台へ向けて足を向ける。アヴェンジャー曰く、魔力の渦の中心は円蔵山だそうだ。あそこには知り合いが一人居る。別に親しいわけじゃないけど、無事である事を願いたい。

 ◇

 柳洞寺の石階段に到達した時、僕達の前に意外な人物が姿を現した。

「テメェは……」

 アヴェンジャーが僕の前に飛び出す。現れたのは蒼き槍兵、ランサーだった。
 紅の槍を握り、彼は僕達を睨みつけている。どうにも様子がおかしい。彼からは明確な意思というものが感じられない。まるで、人形と相対している気分だ。

「……ッハ。キャスターの操り人形にでもされたか、ランサー」

 アヴェンジャーの嘲りの言葉にもランサーは応えない。
 何があったのかは分からないけど、どうやらランサーはキャスターの手駒と化しているみたいだ。

「いけるかい?」
「当然!」

 赤雷を纏い、アヴェンジャーが飛び出す。
 迎え撃つランサー。その凄まじい速度に僕は何が起きたのかサッパリ分からなかった。ただ、気が付くとアヴェンジャーがランサーと壮絶な打ち合いを開始していた。

「マスター! 後退していろ!」

 アヴェンジャーの叫びに頷きながら後退る。槍の一振りが大砲染みた破壊の痕跡を地面や周囲の木々に与える。以前、港の倉庫街で目撃した彼の動きとは明らかに異なっている。まるで、槍兵では無く、狂戦士と戦っているような気分になってくる。
 
「――――つまらんな」

 ところが、アヴェンジャーは破壊の権化と化したランサーを相手に少しも押し負ける事無く、徐々に傷を与えていく。

「意思を剥奪された時点で、コイツは英雄では無く、ただの木偶の坊と化した。多少小細工を弄してステータスを底上げした程度の……、そんなモノに止められる者が英霊などと名乗るものか!」

 ついにはランサーの片腕を切り飛ばし、アヴェンジャーは止めを差すべく必殺の一撃を繰り出すべくクラレントを振り上げる。
 直後、ランサーの体が光を放ち姿を消した。

「撤退させたか……。行くぞ、マスター! 逃げられる前にキャスターを仕留める!」
「あ、ああ!」

 意思を剥奪されていたとは言え、あんな怪物染みた力を持つ存在を軽々と圧倒したアヴェンジャーに僕は憧憬を覚えた。見た目の年齢は僕と殆ど変わらないのに、なんて凄い奴なんだ。
 共に石階段を登りながら、僕は確信する。アヴェンジャーが一緒なら、必ず勝つ事が出来る。最後の最後まで――――、勝ち続ける事が出来る。

「――――僕も見たいな」

 走りながら、僕は無意識に呟いていた。

「あ?」

 困惑した表情を浮かべるアヴェンジャー。
 僕は笑みを浮かべながら言った。

「君が選定の剣を引き抜く所を僕も見たいよ」
「……ッヘ。なら、立ち止まってる暇なんて無いぜ?」
「ああ、勝とう、モードレッド!」

 頂上に到達すると、無数の骨で出来た兵隊達が出迎えた。

「邪魔だ」

 クラレントを振り上げるモードレッド。禍々しく形状を変化させていく剣。赤雷が刀身を覆っていく。

「クラレント・ブラッドアーサー!」

 横薙ぎの一撃。赤雷を纏う斬撃が一瞬で柳洞寺の境内を更地にした。

「……危ないわね。後一歩でマスターまで蒸発する所だったわよ?」

 瞬間、僕達の頭上で耳障りな女の声が響いた。傍らに桜の姿もある。どうやら、奴がキャスターのサーヴァントらしい。

「その時は、この程度の事でマスターを死なせる無能を引き当てたソイツが悪い」
「お、おい、モードレッド!?」
「後退っていろ、マスター。お前の妹は必ずオレが奪い返してやる」
「……奪い返すとは言ってくれるわね。むしろ、マスターの方から私を求めたのよ?」

 そうして睨み合う二騎の英霊。
 大丈夫だ。負ける筈が無い。だって、僕のサーヴァントは最強なんだ。あの強化されたランサーを一瞬の内に退けたアヴェンジャーなら、キャスター如き、それこそ一瞬で仕留めてくれる筈。
 そう確信して、僕はアヴェンジャーを見つめた。そして、気がついた。

「アヴェンジャー……?」

 アヴェンジャーは汗を流していた。肩で息をしながら、体を僅かに震わせている。

「ど、どうしたんだ!?」
「黙っていろ、マスター!」

 怒鳴るアヴェンジャーに対して、魔女は嗤う。

「そんな状態で戦う気? そんな、魔力が枯渇寸前の状態で?」
「……え?」

 キャスターの言葉に僕はアヴェンジャーを見た。
 どういう事だ? 魔力が枯渇寸前って……。

「……ッハ、この状態でもお前を殺すくらいなら問題無く可能だ」

 どういう事だよ……。
 混乱する頭で必死に考える。そして、思い出した。アヴェンジャーがさっき空腹で腹の虫を鳴らした事を。
 サーヴァントに食事は必要無い。なのに、体が空腹を訴える状態。それはつまり、食事で微量でも魔力を回復しなければならないという彼女の肉体が発したサイン。
 そうだ。モードレッドは間桐邸から逃げ出す時、地下に向けて赤雷の斬撃を放った。あの時、地下に居た魔力生成の為の生贄達は死に絶えたのだ。
 こんな瀬戸際の状況に陥って、そんな事に漸く気付いた自分の愚かさに目眩がする。
 モードレッドはこの三日間、魔力の供給を一切受けられない状態だった。そして、それは今後も変わらない。魔術師では無い僕では魔力を供給する事が出来ないからだ。
 だから、彼女は今日、普段の彼女からは想像も出来ないような言葉で僕を奮い立たせた。これ以上、魔力を失えば戦う事すら出来なくなると踏んで……。

「アヴェンジャー……。君は――――」

 僕は彼女の言葉を思い出した。

『お前の妹は必ずオレが奪い返してやる』

 最後の力を彼女は僕の為に使い果たそうとしている。
 
『選定の剣を抜くチャンスが欲しい』

 そんな明確な祈りを持っている癖に……。
 僕の事なんてさっさと見捨てて……、それこそ、切り伏せてでもマスターとしての権限を捨てさせて新たなマスターを探しに行けば良かったのに……。

「……王になる筈だろ?」

 僕の言葉が届いていないのか、モードレッドは真っ直ぐにキャスターを睨みつけ、残り少ない筈の魔力を惜しみなく使い、キャスターへと斬り掛かる。

「モードレッド!」
「うおおぉぉぉぉぉ!」

 モードレッドは雄叫びを上げ、赤雷を刀身に纏わせる。

「……ふん。死に損ないに構ってなんていられないわ。マスターの意思もあるし、見逃してあげるから、最後の時間を有意義に使う事ね」

 渾身の一撃はアッサリと回避され、キャスターは姿を消した。肩で息をしながら、モードレッドは唇を噛みしめる。

「ちく……しょう……」

 倒れ込むモードレッドに慌てて駆け寄り抱き留めた。
 そして、そのあまりの軽さに僕は驚いた。鎧を形成していた魔力が解れ、ドレス姿になったモードレッドを無意識に抱きしめながら、僕は自分の無力さを噛み締めた。
 こんな女の子に戦いを全て押し付けておきながら、何も出来ず、彼女が消滅する事を防ぐ事も出来ない自分に嫌気が差した。

「……何が、僕も見てみたいだ」

 本当なら、僕は彼女の傍に居ていいような人間じゃない。だけど、この聖杯戦争というシステムが引き合わせた。
 戦う力も無い矮小な人間の癖に王になるべき彼女を自分の身勝手な思いの為に振り回してしまった。挙句がこの様だ。

「どうしてだよ……。願いがある癖に……、どうして、僕なんかの為に……」
「……ばーか」

 か細い声で彼女は言った。

「オレはただ……、オレの為に……戦っただけ……だ」

 そう言って、モードレッドは意識を失った。彼女が消えるもの時間の問題に違いない。だけど、そんなのは嫌だ。
 僕はまだ、彼女に何も返せていない。彼女の為に何もしてやれていない。ただ、縋り付いて、彼女という存在を使い潰しただけだ。
 そんなの許されない。彼女には崇高な願いがあるのだ。道化のように踊るばかりの僕とは違って、彼女は王になる存在なのだ。
 
「助けてくれ……。誰か、モードレッドを……。こんな所……、死なせるわけには――――」
「じゃあ、条件が幾つかあるわ」

 返ってくる筈の無い懇願に聞き覚えのある声が返って来た。
 顔を上げると、そこには悪辣な笑みを浮かべる遠坂凛の姿。

「一つ、私の言葉には絶対服従。二つ、貴方の知っている情報を洗いざらい全て提供する。その二つを呑むなら、彼女を救う方法を教えてあげる」
「の、呑む! モードレッドを救えるなら、何だってする! ぼ、僕は――――、モードレッドを王にしないといけないんだ!」

 その後、僕はこの事を永遠に後悔し続ける事になる。
 僕は――――、悪魔と契約してしまったのだ。それも、とんでもなく質の悪い悪魔と……。

「なら、契約成立ね。間桐慎二君。言っておくけど、撤回は認めないから、そのつもりで!」

第三十一話「終わりの始まり」

 気が付くと、何時ぞや見た夢の世界に立っていた。相変わらず、炎の柱を中心に人々が踊っている。
 思い出した。僕は以前、この光景を見た事がある。もっとも、炎の柱はこんなに大きく無かったし、大地には緑が溢れ、なにより踊っている人々は生者だったけど……。
 それは僕がまだ男だった頃、テレビで視たスコットランドで行われている古祭。確か、『ベルティナの火祭』という名だったと思う。
 どうせ、これは夢なのだから、その内覚めてしまう筈。折角だから、見て回ろう。
 踊っている人達は僕に興味など無いらしく、明後日の方角を見ている。僕はそのまま丘の方角に向かって歩を進めた。

『あれ……?』

 一瞬、炎の柱が別のナニカに見えた。暗い……、とても恐ろしい……、別のナニカに見えた。
 怖くなって、足を止めると、近くに一人の男性が立っていた。彼は踊っていない。他の人達とは異なり、瞳に理性の光を宿している。

『えっと……、こんにちは』

 恐る恐る挨拶をすると、男性は此方に視線を寄越した。

『……君は』
『えっと、僕……、飯塚樹です』

 凄く大きな人だ。筋肉質でボディービルダーみたい。

『一度……いや、二度程会った事があるな』
『え?』

 僕には全く覚えが無い。もしかして、前にこの夢の世界に来た時に会っていたのかもしれない。僕が気付かなかっただけで。

『……イツキ』
『は、はい。なんですか?』

 それにしても滅茶苦茶いい声だ。低めの渋い声。

『この世界は未だ完成に至っていない。だが、私がここに来た事で一歩完成に近づいてしまった。聖杯戦争が続く限り、いずれ、君は――――』

 最後まで聞く事は出来なかった。急に意識が遠のいていき、気が付くと僕はベッドの上で横になっていた。

「……変な夢」

 ◇

 セイバーが発見した郊外の洋館を新たな拠点にしてから丸二日が経過した。
 モードレッドの剣、クラレントを投影した士郎はその負荷に堪え切れず意識を失っていたけど、翌朝には無事目を覚ました。
 半身が麻痺している、というような事も無く、むしろ魔術回路の調子が非常に良くなっていると言っていた。僕の『再生の炎』を自分以外の人に使ったのは初めてだったけど、上手くいったみたいだ。

「とりあえず、食料を調達しに行こう」

 僕が洋館のホールに来ると、士郎がそう提案して来た。
 ここは随分と長い間放置されていたみたいで、当然の如く食料の貯蓄などは無かった。丸二日、飲まず食わずで過ごして、段々と体力が低下していくのを感じていた所だったから、僕は迷わず賛同した。
 洋館は新都の南部に広がる山林の中にある。さすがに朝っぱらからヒポグリフに乗って中心街まで向かうわけにも行かず、僕達は歩いて林を抜け、山道を降りていく。

「そう言えば、大河さん達、心配してるかもしれないね」

 黙って二日間も外泊していたのだ。心配しているにしろ、怒っているにしろ、連絡は入れておいた方がいいかもしれない。

「でも、何て言うんだ? 聖杯戦争の事は話せないわけだし……」
「そこがネックだよね……」

 結局、良い言い訳が思いつかず、連絡は先延ばしにする事になった。
 とにかく、今は食料の調達が急務だ。
 二時間掛けて、駅前のショッピングモールに到着すると、駆け出そうとするライダーをセイバーに止めてもらい、食料品売り場に向かった。
 あの館にも台所があったけど、水道やガスは当然の如く使えなかった。だから、ペットボトルの水や簡易コンロなども買わなければならず、ショッピングモールを出た時には全員が大荷物を背負う事になった。
 セイバーは購入したての大きなリュックサックに簡易コンロやガスボンベ、包丁、鍋といった超重量の荷物を詰め込み、士郎は両手に数日分の衣服と下着を持ち、ライダーはペットボトルの水が入ったケースを三つ抱えている。僕は野菜とお肉だけなので、何だか物凄く申し訳ない気分だ。

「み、みんな、大丈夫?」

 大荷物を抱えた奇妙な一団として注目を集めてしまっている。

「どっかでタクシーを拾った方がいいかもしれないな」

 出費が際限無く嵩んでいくけど、仕方がない。

「あー、居た!」

 タクシーを捕まえようと道路沿いを歩いていると、突然可愛らしい声が響き渡った。
 何とも聞き覚えのある声。ガタガタと震えながら顔を向けると、そこには恐怖の大王……じゃなくて、イリヤが居た。

「貴様は!」

 セイバーがリュックを地面に下ろし、僕達の前に移動する。いつでも武装出来るように魔力を編んでいる。

「もう、探したじゃない!」

 殺気立つセイバーを完全に無視して、可愛く頬を膨らませるイリヤ。可愛いけど、とてつもなく怖い。愛らしい見た目に騙される程、僕達は無知じゃない。
 士郎が僕を傍に引き寄せた。密着して、こんな時だというのに胸が高鳴る。

「そう殺気立たないでちょうだい」

 そう言ったのはイリヤではなかった。よく見ると、イリヤの背後に二人の女性が立っていた。一人はよく知る人物。同級生であり、アーチャーのマスター、遠坂凛だ。

「と、遠坂……?」
「こんにちは、衛宮君。それに、飯塚さん」

 当たり前のような顔でそこに立ち、ニコヤカに挨拶をして来る遠坂凛に僕達は困惑した。
 どうして、彼女がイリヤと共にいるんだ?

「我々は戦いに来たのではありません」

 イリヤの背後に佇むもう一人の女性が口を開いた。

「貴方達に力を貸して貰いたい」
「……どういう事?」

 僕が尋ねると、赤髪の女性は近くの喫茶店に目を留めた。

「少し、長い話になります。あそこの喫茶店に行きましょう」
「待て」

 僕達が応える前にセイバーが口を開いた。

「用件があるのならここで聞く。妙な真似をすれば斬る」
「……ちょっと、イリヤ? 物凄く警戒されてるみたいなんだけど」

 殺意を漲らせるセイバーを前にして遠坂凜がイリヤを睨む。

「セイバー」

 イリヤはどこか遠くを見つめながら言った。

「バーサーカーなら、もう居ないわ」
「……は?」

 唐突に彼女の口から紡がれた言葉をセイバーは……いや、僕達全員が理解出来なかった。

「イリヤ……、今――――」
「バーサーカーは倒された。私は聖杯戦争から脱落したのよ。ついでに、そこに居るバゼットもランサーを失った。今、私達三人の中でサーヴァントを保有しているマスターはリンだけよ」
「ば、馬鹿な!? あのバーサーカーが討たれただと!?」

 セイバーは驚きの声を上げる。僕達も反応は彼女と似たり寄ったりだ。

「一体、誰が――――」
「そこら辺もちょっと複雑なのよ。説明したいけど、道端で固まってると、周囲の目もあって話し辛いわ」

 遠坂凛の言葉に尚もセイバーは躊躇いの表情を浮かべる。彼女達の言葉を信じるべきか否かを迷っている。
 僕達には情報収集能力が欠如している。聖杯戦争の現状を把握出来ていない今、事の真贋を見極める事は非常に難しい。
 これで、僕達がもう少し有能なマスターだったら、例え、彼女達の言葉を嘘だと断じた上でも話し合いに応じた事だろう。常に状況を冷静に分析出来、尚且つ、危機的状況かであっても最適な行動を取れるマスターなら、セイバーも全幅の信頼を置いてリスクに飛び込むことが出来た筈だ。
 だけど、僕達は二人揃って未熟者。マスターとしても、魔術師としても……。
 故にセイバーは僕達を守る為に些細なリスクも犯せず、選択肢を狭められている。
 だけど――――、

「セイバー」

 僕は、

「他の二人の事はあまり良く知らないけど、イリヤはこういう事で嘘を吐くような子じゃないよ」

 確信を持って言った。

「イツキ……?」
「イリヤはブラフの為に自らの敗北を口にするようなタイプじゃない。彼女がバーサーカーを討たれたと言ったなら、それはその通りなんだと思う」」
「……イツキはイリヤスフィールを信じるのですね?」
「うん」

 自分でも不思議なくらい素直に断言出来た。
 恐ろしい存在。僕達を二度も殺そうとした相手なのに、僕は彼女の事を心から信じられた。まるで、ずっと一緒に過ごして来た家族のように僕は今、彼女を理解出来ている。

「セイバー。俺もイリヤが嘘を吐いているとは思えない。話を聞くくらいなら良いんじゃないか?」
「……やれやれ」

 僕達二人の言葉にセイバーは疲れたような溜息を零した。

「では、せめて私とライダーから絶対に離れないで下さい。一瞬たりとも油断しない事。いいですね?」

 腰に手を当てて、まるで先生みたいな口調で言うセイバー。
 僕達は三人揃って「はーい!」と答えた。

 ◇

 喫茶店に入り、奥の席を陣取った僕達は飲み物を頼んだ後、会合を開始した。
 遠坂凛が周囲に防音と人避けの結界を張っているおかげで声を潜めずに魔術関係の事を話す事が出来る。
 主に口を動かしたのはバゼットと名乗った赤髪の女性。彼女の口から飛び出した言葉の数々は僕達に凄まじい衝撃を与えた。
 彼女は既に大聖杯の異常に辿り着いていた。その上、ギルガメッシュ――彼女曰く、謎の英霊――とも相敵したと言う。他にもキャスターがランサーの所有権を奪い、バーサーカーに止めを差したなど、僕達の知らない所で大きな動きを見せていた聖杯戦争の現状に言葉が見つからない。

「――――これらを踏まえた上で我々は大聖杯の調査、及び、破壊を目的に動いています。ただ、先程言った通り、我々の戦力は現在の所、リンのアーチャーのみ。あの謎のサーヴァントはおろか、ランサーを手中に収めたキャスターの相手も危ういのが正直な所です。そこで、貴方達に同盟を組んで頂きたく、参上した次第です」
「……一つ、良いでしょうか?」

 バゼットが話し終えると、セイバーが片手を挙げた。

「なんです?」
「まず、大聖杯に異常があったと言いますが、それは事実なのですか? 証拠は――――」
「証拠なら、そこに二人居るじゃない」

 セイバーの問いに答えたのはイリヤだった。イリヤはどこか残忍さを滲ませた表情でセイバーを見つめ、僕達を指差す。

「二人……?」

 セイバーは困惑した表情で僕達を見つめる。そして、少しずつ……、その評定は歪んでいく。

「まさか……、二人が経験した大火災とは――――」
「聖杯が起動した結果よ」
「あ、あれが……、聖杯の!?」

 セイバーはよろめいた。

「十年前……。大火災……」

 動揺しているのはセイバーだけでは無かった。士郎も青褪めた表情を浮かべている。

「アレでも被害は小規模で済んだ方よ。もし、聖杯が完全に起動してしまえば、恐らく、万を超える死者が出る。まあ、それも抑止力に期待した数値だけど……」

 イリヤのその言葉が決定打となった。少なくとも、士郎はそんな話を聞いて黙っていられる人間じゃない。

「……どう? 協力してくれる気になった?」
「――――ああ、あんな事、二度と起こしてたまるか」

 士郎の言葉にセイバーは力無く頷いた。

「まさか……、だから、あの時……、そういう事だったのか……」

 セイバーは囁くように何事かを呟いている。

「……とにかく、これで何とか戦力が確保出来たわ。これから、日が暮れる前に一度円蔵山を見に行こうと思うんだけど、反対意見はある?」

 話は終わりだと言わんばかりに立ち上がり、遠坂凛が皆に問い掛ける。反対の言葉は誰からも上がらない。

「ランサー曰く、山全体が異界化しているそうですから、決して油断はしないように、注意しながら行きましょう」
「ああ」

 バゼットの言葉に士郎が頷く。
 急転直下。聖杯戦争は一気に加速していく。

 ◇◆◇

 僕達が円蔵山に辿り着いたのは日が暮れる直前だった。
 空は茜色に染め上がり、円蔵山を美しく彩っている。

「……異界化……、してないわね」

 ポカンとした表情で遠坂凜が呟く。ランサーの調査によって、異界化しているとされていた円蔵山はいつも通りの貌を僕達に見せていた。どこにも異常らしきものは見当たらない。

「とにかく、柳洞寺の方に行ってみよう」

 士郎の言葉に一同は柳洞寺の石階段を目指した。
 どこで足を止め、頭上を見上げた僕達は初めて山の異常を感じ取る事が出来た。

「山頂で魔力が渦巻いてるわね」

 遠坂凛が言う。彼女の言葉通り、山頂にある柳洞寺の方から夥しい量の魔力の波動を感じ取る事が出来た。明らかに異常事態が発生している。
 セイバーを先頭に僕達は石階段を登る事にした。
 そして、中腹まで来た時、僕達の頭上で目も眩むような光が迸った。

「アレは――――」

 それは見覚えのある赤雷を纏った魔力光。天を穿つ斬撃。
 セイバーは呟いた。

「モードレッド……!?」

第三十話「ターニング・ポイント」

 魔女は嗤う。ほんの数日前までは全てを諦めきっていたと言うのに、今や聖杯に王手を掛けている。これが嗤わずにいられるだろうか。
 数時間前の事だ。柳洞寺を占拠し、陣地を形成した彼女は主の体内を浄化する傍らで、街の様子を遠見の魔術で確認していた。魔力の波長を辿り、瞬く間に全てのサーヴァントの居所を掴んだ彼女はそれぞれの陣営の情報を得る為に注意深く監視を続けていた。
 監視を続けていくと、戦況が中々に厄介な状態に陥っている事が分かった。
 まず、単独で動いている陣営が彼女自身を除くと最強の英霊を従えるアインツベルンの他はマスターの兄である間桐慎二とアヴェンジャーのみだった。
 セイバーとライダー。アーチャーとランサー。それぞれ、足りない部分を補い合う形で理想的なパーティーを組んでいる。
 この二つの陣営を崩すには手札が不足している。特にセイバーとライダーは共に絶対的な対魔力を持っていて、現代の魔術はおろか、神代の魔術さえ無効化されてしまう。加えて、マスターが未熟である事が翻って幸いし、サーヴァント達のマスター保護に対する警戒心を際限無く高めている。あの陣形を崩す為には強力な手駒が必要だ。
 間桐慎二はマスターの方針上、手出しが出来ない。セイバーとライダーも現状では打つ手なし。アインツベルンのサーヴァントは単独でもセイバーとライダーの陣営以上に驚異的。そうなると、残された選択肢は一つだった。
 アーチャーとランサーの陣営。これが一番崩せる目のある相手だ。特にアーチャーは対魔力のランクが極めて低い。遠距離攻撃には注意が必要だが、やろうと思えば如何様にも対処が可能だ。
 方針としてはこうだ。先にアーチャーを下し、しかる後にランサーを手駒に加える。あの一撃必殺の宝具を己が効率良く運用してやれば一晩の内に決着をつける事も可能な筈だ。
 方針が定まった後、彼女はアーチャーとランサーの陣営の監視に精を出した。
 結果、決定的な好機を掴み取る事が出来た。

「アッハッハハハハ!」

 ランサーが単独でバーサーカーと激闘を繰り広げていた。
 アルスター伝説の大英雄、クランの猛犬は主神オーディンが冥界から持ち出したと言われる『ルーン』を自在に操り、大英雄の魂のストックを次々に奪っていく。
 彼がマスター達を遠ざけた理由は簡単だ。近くに居ては巻き込まれる。バーサーカーのボディーを貫通する高ランクの魔術の連続発動によって、爆炎が大地を焦がし、雷鳴が迸り、一呼吸するだけで死に囚われる程の濃密な瘴気が発生した。
 解呪のルーンによってあらゆる攻撃魔術を無効化し、強烈な瘴気と炎熱によって近接戦闘に特化したホムンクルスを無力化し、蘇生のルーンと持ち前の生き汚さによる『仕切り直し』の連発。
 彼はとうとうバーサーカーの魂のストックを零にする事に成功した。
 しかし――――、

『……クランの猛犬。貴方を侮った事、詫びるわ。だけど、結果は私達の勝ち』

 残り一回。あと少しで勝利に手が届くという所でランサーは力を使い果たしてしまった。両の腕はとうの昔に切り落とされ、それでも口に槍を加えて奮闘したけれど、腹を抉られ、片足を失った今、もはや彼に残る一つの命を奪うだけの余力など残っていない。
 それでも、彼は膝を折る事無く立ち続け、バーサーカーを睨んでいる。まるで、その視線をもって殺そうとでもしているかのように……。

『終わりよ……。貴方の奮闘に免じて、マスターの事は見逃してあげる』

 狂戦士の肉体もランサーが最後に足を使って放った投擲宝具『突き穿つ死翔の槍』によって心臓が突き破られ、同時に槍から飛び出した幾千もの刺によって内側をズタズタに引き裂かれ、回復に時間が掛かっている。
 だが、それも一瞬の事。後数秒も経てばバーサーカーは全快し、ランサーの首を刎ねる事だろう。
 キャスターのサーヴァントはその僅か数秒の好機を逃さなかった。即座に転移の魔術を使い、アインツベルンの森に移動し、片手でランサーの胸に短剣を突き立て、もう一方の手でバーサーカーにAランクの大魔術を浴びせ掛けた。
 一回殺すだけでいいなら、如何に大英雄が相手だろうと狂っているならどうとでもなる。

「テメェは……」
「令呪をもって命じます。私を主と認めなさい、ランサー」

 もはや抵抗する余力など残っておらず、ランサーはキャスターの令呪に屈してしまった。彼女の魔力が彼の内に広がっていき、意思を捻じ曲げられていく。
 
「すまない、バゼット……」

 キャスターの魔術によって意識を手放したランサーは大地に横たわる。

「――――、イリヤ!」

 キャスターの手がイリヤの方に向けられた瞬間、戦闘不能状態に陥っていた筈のホムンクルスが動いた。どうやら、魔術師型の方のホムンクルスが治癒を施したようだ。
 しかし――――、

「サーヴァントならいざ知らず、人形風情に遅れは取らないわ」

 魔術型のホムンクルスが施した強化の魔術を一瞬で解呪し、同時に衝撃波によって迫り来るホムンクルスを弾き飛ばした。

「リズ!?」
「止めを……っと、そんな暇は無さそうね」

 近づいて来るサーヴァントの気配にキャスターは舌打ちをしながらランサーと共に転移の魔術を行使した。
 ランサーは戦闘に即時投入出来る状態では無く、準備不足な現状ではアーチャーを相手に博打は打てない。
 戦いによって切り開かれた空間に取り残されたイリヤは静かに涙を流した。

「バーサーカー……」

 ◆

 それがイリヤスフィールの語ったランサーとバーサーカーの激闘の行方だった。
 いよいよ姿を現したキャスターによってランサーが奪われ、バーサーカーが討伐された。後少しでも到着が早ければ……、そう悔やまずには居られない。
 これで私達は一気に不利になった。ランサーという前衛を失っただけで無く、敵の戦力が増強されてしまった。ここにはあの謎のサーヴァントに対抗する為に戦力の拡大を望んでやって来たというのに……。

「――――実体を持つサーヴァントですって?」

 せめて、何らかの情報を引き出せないかと私達は彼女の話を聞き終えた後、あの謎のサーヴァントについて話した。
 結果、分かった事は彼女もあのサーヴァントの事を知らないという事。

「クラスも特定出来なかった。キャスターかとアタリをつけてみたけど、どうやら違ったみたいだし……」
「……考えられる可能性は二つくらいね」
「と言うと?」
「一つはそういう能力を持ったサーヴァントである場合。僅かな時間で広域に結界を張り巡らせたり、サーヴァント二騎を瞬殺する手札がある以上、そういう能力を持っていただけという可能性も捨てきれないわ」

 なるほど、道理だ。なんともインチキ臭い話だが、あれ程の規格外な能力を持っている以上、その可能性も捨て切れない。

「『制御』の可不可を問わなければ、そういう規格外な能力を有した英霊も居なくはない」
「……それで、もう一つの可能性って言うのは?」
「マスター、あるいはサーヴァント自身が何らかの反則を行った。例えば、サーヴァントの召喚システムを弄って、サーヴァントに実体を持った状態で喚び出したとか……」
「それって可能な事なの?」
「普通は無理。そんな事が出来るなら、アインツベルンがとっくにやってるわ。だけど、サーヴァントの召喚システムに介入するという反則事態はあまり珍しくないのよ」
「珍しくないって……」

 そんな話、お父様の手記や資料には無かった。

「真っ当に戦って来た私達が馬鹿って事……?」
「うーん、サーヴァントの召喚システムへの介入っていうのは大博打だから、そうとも言い切れないわ。だって、既に完成しているモノを弄る以上、失敗する可能性も大いにある。第三次聖杯戦争におけるアインツベルンの『アンリ・マユ』召喚なんて、その最たるものよ。必勝を目論見、システムを弄った結果、喚ばれたのは悪神の紛い物。結果は初戦敗退という散々たるもの。正攻法が絶対的に正しいとも言い切れないけど、案配ではあるわね」
「なるほど……」

 真っ当な戦い方には真っ当なりの強みがあるという事だ。

「どちらにしても、確実な事は何も言えないわ。私自身の目でそのサーヴァントを見たわけじゃないし……」

 長々と話したからか、イリヤスフィールは疲れたように溜息を零した。

「さあ、話せる事は全て話したわ。後は煮るなり焼くなり好きにしなさい。バーサーカーを失った今、私に抵抗する力は残ってないわ」
「そう……、好きにしていいわけね?」

 頷くイリヤに私は言った。

「なら、私達に協力しなさい」
「……は?」

 凄い嫌そうな顔をして来た。だけど、煮るなり焼くなり好きにしろと言ったのはそっちだ。だったら、骨までシャブッてやるのが礼儀というもの。

「ぶっちゃけ、今は猫の手も借りたい状況だもの。貴女の知識は今後も絶対に必要になって来る。だから、私達と来なさい。拒否は許さないから、そのつもりで」
「……うわぁ」

 厄介な奴に目を付けられた。そう、視線で訴えている。失礼ね。

「虎の威を借る狐……。アーチャーが居るからってやりたい放題ね」
「いいから、答えは? イエス? それとも、はい?」
「……はいはい、イエスイエス。これで満足かしら?」
「ええ、大満足よ。じゃあ、ちゃっちゃと撤収して、私達の拠点に向うわよ」

 ◇

 拠点に辿り着いた頃には既に日が暮れ始めていた。
 未だ失意から立ち直れずに居るバゼットをアーチャーに任せ、軽く汗をシャワーで流して、作戦会議を始めると、イリヤスフィールの方から一つの提案を口にして来た。

「戦力の拡充についてだけど、私に心当たりがあるわ」
「どういう事?」
「……私も少し頭が冷えて来たし、もう一度会いたいと思っていた所なの。あの子達なら、恐らく、力を貸してくれる筈よ」
「誰の事……?」

 イリヤスフィールは口元に微笑を浮かべながら言った。

「セイバーとライダーのマスター。あの子達の方針は聖杯戦争で犠牲者を出さない事なの。大聖杯の異常について話せば、間違いなく協力してくれるわ」
「聖杯戦争で犠牲者をって……、そいつら本当にマスターなの?」
「正真正銘、マスターよ。それで、どうするの? 行くの? 行かないの?」
「行くわよ。決まってるでしょ? 私達には戦力が必要。例え、どんな甘ちゃんでも、力を借りる事が出来るなら借りるまでよ」
「そう……、なら、行きましょうか」
「ええ……っと、ちょっと待ちなさい」

 椅子から腰を上げるイリヤにストップを掛け、私はバゼットに近寄った。

「一応、そういう方針で動く事にしたわ。反対意見はある?」
「……ありません。ただ、願わくば戦力の拡大に成功した後、向かって欲しい場所があります」
「分かってるわよ。取り戻すんでしょ?」

 私の問い掛けと共に戦士の瞳に燃えるような闘志が蘇る。

「ええ、必ず取り戻します。例え、契約は断たれても、私も彼も死んでいない。なら、私は今でも彼のマスターだ」
「その意気よ、バゼット。さあ、肩を貸す必要はあるかしら?」
「いえ、必要ありません。ご迷惑をお掛けしました」

 バゼットは威勢よく立ち上がった。

「もう、心配は要らないみたいね。なら、改めて出発するわよ!」

 目指しはセイバーとライダーのマスターの拠点。
 意気揚々、目指した先は――――、廃墟だった。

第二十九話「アトゴウラ」

 勝敗は決した。あと数刻もしない内にバーサーカーはランサーを討ち取るだろう。その後はバーサーカーにアーチャーの始末を任せ、リズとセラをマスターの討伐に向かわせる。それで終わり。所詮、有象無象に過ぎない雑魚相手では憂さ晴らしにもならなかった。聖杯に選ばれたマスターがこの程度とは実にガッカリだ。
 
「アーチャー!」

 突然、周囲の光景が一変した。遥か地平まで広がる剣の墓標は朧のように掻き消え、元のアインツベルン城の玄関ホールに戻った。
 さっきと唯一違う点は私の眼前に遠坂凜の放った宝石魔術が解放直前の状態で迫って来ている事。

「―ー――なるほど、最後に面白い手を打ってきたわね」

 けれど、残念。固有結界の解除時に私の排出先を宝石魔術の術式解放地点に指定した事は素直に感心した。悪くない一手だった。
 だけど、もう少し考えるべきだった。今の短い戦闘の間に私が何回『空間転移』の魔術を行使したと思っているのだろうか?
 私という存在は『小聖杯』の外装として作られた。故に、私の起源は『聖杯』であり、その本質は『願いを叶える』というもの。
 私はただ願うだけで良い。それだけで、あらゆる魔術を過程を無視して行使する事が出来る。
 避けよう。ただ、そう思っただけで私は空間を跳躍し、安全地帯へと退避する事に成功した。

「お嬢様!」

 すぐさまセラが駆け寄って来た。

「……状況は?」
「まんまと逃げられました。あのサーヴァントを除いて……」

 なるほど、私に対するアクションは逃走の為の時間稼ぎに過ぎなかったというわけだ。ますます、面白い。
 だけど、私達を足止めする為に用意した捨て駒がサーヴァント一体というのは如何なものか。せめて、もう一体の方も残して行くべきだった。二騎のサーヴァントが決死の覚悟で挑んで来たなら、時間稼ぎくらいは出来たかもしれない。
 しかし、一体だけではどちらが残っても結果は明白。

「――――時間稼ぎにもならないと分からなかったのかしら?」
「ッハ、ほざきやがる」

 私の視線を真っ直ぐに受け止め、ランサーのサーヴァントは獰猛な笑みを浮かべる。名に恥じぬ猛犬振りだ。
 アレの正体は既に把握している。一世紀頃の北アイルランドを舞台にした伝説に登場する大英雄、クー・フーリン。
 自国に疫病が蔓延した時、たった一人で敵国の進軍を阻んだという規格外の逸話を持つ英霊だ。
 だけど、如何に優れた英雄も私のサーヴァントには敵わない。だって、私のサーヴァントは『最強』なのだから。

「――――こっちは端から時間稼ぎなんぞするつもりはねーよ」

 だと言うのに、ランサーは飄々とした態度を崩さず、あろう事か余裕の笑みすら浮かべ、そんな言葉を口にした。

「……言っておくけど、もう貴方の宝具はバーサーカーに通じない。如何に武勇に秀でた英雄でも、バーサーカーを殺し尽くす事なんて不可能なのよ」
「確かにBランク以下の攻撃を無効化する上、一度受けた攻撃は二度と通じないってのは、中々厄介だよな」

 絶望的な状況。勝利する事など絶対に不可能な上、主が逃げ切るまでの時間稼ぎをする事すら危ういという状況でランサーは尚も笑みを絶やさない。

「……舐めてるの?」
「舐めているのはどっちだ?」

 瞬間、ランサーの全身から激しい殺意が放たれた。空気を震わせる程の濃厚な殺意。ただ、立っているだけで相手に死を強要する『恐怖』という概念の体現者。
 これが、アルスター伝説に名を馳せる大英雄の覇気。

「バーサーカー!」

 さっきまでとは明らかに空気が違う。言ってみれば、さっきまでの彼は首輪を着けられ、飼い慣らされたペット。だけど、今の彼は――――、

「……さて」

 ARGZ、NUSZ、ANSZ、INGZ……、四つのルーンが私達の居る玄関ホールの四隅に浮かび上がる。

「四枝の浅瀬――――、アトゴウラ……」

 その陣を布いた戦士に敗走は許されず、その陣を見た戦士に退却は許されない。赤枝の騎士の間に伝わる一騎打ちの大禁忌。

 ◇

「良かったの……?」

 遠坂凛が問い掛けて来る。

「……彼を信じます」

 ランサーを一人残しての撤退。提案して来たのはランサー本人だった。
 彼は一人であの怪物を打ち倒してみせると息巻いていた。けれど、そんな事は不可能な筈だ。バーサーカーの能力があの少女の言葉通りのものなら、ランサーに勝ち目など無い。
 ランサーは死ぬ。例え、彼が何らかの方法でバーサーカーの攻撃無力化能力を突破する妙手を持っていたとしても、私達が居なければ、あのホムンクルス達もバーサーカーの援護に回る筈だ。唯でさえ、バーサーカーは強敵なのに、あのサーヴァントに比肩する二体のホムンクルスと同時に戦えば、勝機は無い。

「バゼット……?」

 遠坂凛が足を止めた。馬鹿な、何をしているのですか? 今は一刻も早くこの森を抜けなければならないと言うのに!

「やっぱり、貴女……」

 そこで気がついた。遠坂凛は足を止めているのに、一向に彼女に追いつけないで居る自分に……。
 私の足も動いていなかった。

「……ああ」

 彼が命を賭して時間を稼いでくれているというのに、私は暢気にも星空を見上げ、古い伝承を思い出していた。

 ■

 ドルイドは語る。

『この日、幼き手に槍持つ者はあらゆる栄光、あらゆる賛美を欲しいままにするでだろう』

 予言は真実だった。その日、一人の幼子が槍を手に取った。そして、その少年は五つの国に名を馳せた。
 いと嵩き光の御子。時代が終焉を迎えるその刻まで、人も鳥も花でさえも、彼を忘れる事は無かった。
 だが――――、栄光の道を進み続けた果てに彼の魂は地平の彼方へと没した。
 あまねく勇者達が幾ら手を伸ばしても届かぬ武勲を手に、彼は若くして命を落としたのだ。

 ■

 ドルイドが占った戦士の未来は最大の栄光を得る代わりに、誰よりも早く命を亡くすというものだった。占いに興味を惹かれて集まった少年達は皆恐れて動けなかった。なのに、占いに無関心だったその少年だけは迷わずに王の下へ向かい、渋る王を説き伏せて戦士となってしまう。
 昔、ある男にこの話を持ち掛けた事がある。彼は私が『クランの猛犬』の伝説に抱いている恐怖を……、悲しさをアッサリと見抜いてみせた。

『――――その少年は初めから予言を知っていたのだろう。恐らく、自分はそういう風に生きるのだと確信を持って生まれて来たのだろうさ。ドルイドの予言に従ったわけではなく、ただ、自らに与えられた責務として『運命』を受け入れたに過ぎない』

 そんな非業の運命を素直に受け入れ、変えようとさえしなかった英雄が私は怖かった……、悲しかった……、だから、救ってあげたいと思った。
 
「……すみません、先に行って下さい!」

 愚かな考えだと分かっている。だけど、私は元来た道を走っている。
 きっと、彼は自分が死ぬ事を私などよりも遥かに正しく理解していた筈だ。なのに、その運命を受け入れた。生前、自らの非業の運命をアッサリと受け入れたように……。
 駄目だ。そんなの駄目だ。

「……ああ、やっぱりこうなったか。短い付き合いだけど、貴女って、見た目と中身が本当にチグハグよね」

 死地へ向かって全力疾走している私の隣で彼女はそんな言葉を口にした。

「……何故?」
「協力関係だしね……。それに、借りを作ったまま、死なれたら困るのよ」
「やれやれ……、実に理性的な判断だな、マスター」

 彼女のサーヴァントも憎まれ口を叩きながら私を追い抜く。
 必死に鍛えた心の鎧が罅割れていく。

「ありがとう……」

 遠坂凛は答えない。だけど、彼女の口元には優しげな微笑みがあった。
 アインツベルン城に到着すると、そこは激しい戦闘の余波で廃墟と化していた。
 あちこちに火の手があがり、大穴が穿たれ、瘴気が蔓延している。

「ランサー!」

 離れている間にここでどんな戦いが起きていたのかサッパリ分からない。
 ただ、手の甲に宿る令呪が彼の生存を証明し続けてくれている。

「どこ……、ランサー」

 必死に彼の姿を探す。

「こっちだ!」

 アーチャーの声。彼の声は城の裏側から響いた。そこには大穴を穿たれた城壁があった。彼が指差す方向には樹海が広がり、その一部分がサーヴァント達の暴虐によって無理矢理切り開かれ、道となっている。
 走る。走る。走る。走る。走る。
 まだ、救えてない。まだ、死なせられない。まだ……、離れたくない。

「ランサー……」

 手の甲が痛む。
 嫌だ……。
 嘘だ……。

「バゼット……?」

 遠坂凛が心配そうに声を掛けてくる。その視線が私の手の甲に注がれ、彼女は押し黙った。

「……消えちゃった」

 涙の雫が頬を伝った。
 必死に取り繕っていたものが剥がれていく……。

「消えちゃった……」

 幼い頃から、私は世界を悲観して見ていた。自分には何も出来ないと卑下して、いつも不安ばかり抱えていた。そんな私が唯一抱けた思い。
 
『何も出来ない私だけど、もしも許してもらえるなら、私が彼を救いたい』

 なのに……。

「それなのに……」

 足に力が入らない。崩れ落ちた私を遠坂凜が抱き留めた。

「アーチャー。バーサーカーの気配は?」
「……さっきまでは嫌になる程渦巻いていたのだがな」

 アーチャーは周囲を見渡し、困惑した表情を浮かべる。

「なら、マスターの方は?」
「もう少し先に気配を感じるな。行くのか?」
「……行くわ」

 遠坂凛が私を地面に座らせた。遠ざかろうとするその背に無意識に手を伸ばす。

「……待って」
「来る?」

 私は頷いた。遠坂凛は困ったように微笑み、私に肩を貸してくれた。

「……じゃあ、行くわよ」

 森の中を歩いて行く。一歩歩く毎に失意で身が削られていく。
 やがて、私達は拓けた場所に出た。より正確に言うなら、拓かれた場所に……。
 そこにはバーサーカーのマスターと倒れ伏した二体のホムンクルスしか居なかった。

「戻って来たのね」

 バーサーカーのマスターは涙を流していた。
 ランサーは居ない。そして、バーサーカーの姿も……、どこにも無かった。

第二十八話「最強」

 使い魔を放ち、街中を捜索したけど、間桐慎二と間桐桜両名の居所を掴む事は出来なかった。遠坂凛が同盟の相手として申し分の無い人物だと評価していた事から期待を持っていたのだが、行方の分からない相手に時間を費やしている場合では無い。
 我々はもう一組の候補に面会を求める為、郊外へ向かっている。

「アインツベルンか……」

 始まりの御三家の一画にして、聖杯探求に一念を燃やす旧家。その者達の冬木市における棲家たる郊外の森へ足を踏み入れる。
 魔術協会とも一切の交流を持たないアインツベルン。謎多き一族だが、彼らの悲願たる聖杯を得る為の聖杯戦争……、その基盤に異常が発生していると知れば協力を要請出来る可能性は高い筈だ。
 森に侵入する際、軽い洗礼を受けたが、同時に此方の意思を伝える事も出来た。
 アーチャーとランサーに周囲の警戒を頼み、薄闇に包まれた森の中を突き進む。

「見えた」

 遠くに朧気だが人工物が目に入った。かなり長い道程だったが、どうやら迷わずに辿り着く事が出来たみたいだ。
 近くまで行くと、アインツベルンの城が悠然と佇んでいた。

「……いい趣味してるわね」

 遠坂凛は毒づきながら警戒心を強めている。ここまでは順調だった。順調過ぎる程あっさりと本拠地まで招かれてしまった。
 果たして、この選択が吉と出るか凶と出るか……。

「行きますよ」

 サーヴァントを呼び戻し、私達は正面玄関の扉を開いた。
 広々とした玄関ホール。その奥には二階へ続く階段があり、そこに少女は立っていた。真紅の瞳に危険な光を湛えながら――――、

「退がれ、バゼット!」

 ランサーが前に出る。同時に玄関扉が勢い良く仕舞った。少女の殺意が広々としたホール内を満たす。
 私達は漸く悟った。どうやら、自分達は猛獣の檻の中へと誘い込まれてしまったらしい……、と。

「待って下さい!」

 このまま戦いに縺れ込んでしまっては交渉が出来なくなる。

「聞いて欲しい事があります!」

 有り難いことに少女は私の話を阻むこと無く黙って聴き続けてくれた。
 大聖杯に発生している異常。円蔵山に現れた謎のサーヴァント。如何に自体が急を要するかを訴えた。その結果、少女が下した結論は――――、

「ふぅん、それで?」

 一切の興味を示さず、少女は傍らにバーサーカーを喚び出した。一目見て危険だと分かる程、そのサーヴァントは破格だった。
 
「どうか、我々と共に大聖杯の調査に乗り出して欲しい」

 私の言葉を少女は嘲笑った。

「……そこまで気付いた事は褒めてあげる。だけど、選んだ相手が悪かったわね」

 少女の言動の内には無視出来ない言葉があった。
 そこまで……、だと?

「……端から知っていたような口振りですね」
「知っていたもの」

 アッサリと私の言葉を肯定する少女に息を呑む。

「知っていた……、だと?」
「――――遡る事、六十年前。第三次聖杯戦争において召喚された英霊――――、アヴェンジャーのクラスを得て現界したゾロアスター教の悪神『アンリ・マユ』。彼が聖杯に取り込まれた事で汚染が始まった」

 頭が働かない。少女は今、何と言った? ゾロアスター教の悪神だと? そもそも、第三次聖杯戦争の時点で聖杯は異常をきたしていただと?

「……馬鹿な。アンリ・マユだと……? 神霊を召喚したというのか!?」
「ちょっと違うわ。冬木の聖杯戦争のシステムでは神霊を喚び出す事なんて不可能だもの」
「しかし、今――――」
「正確に言うと、私達アインツベルンが第三次聖杯戦争で召喚した……、してしまったサーヴァントは悪神として扱われた一人の哀れな生贄。人里から隔絶された小さな山村によくある因習よ」
「……悪神として扱われた? つまり、そのサーヴァントは悪神そのモノでは無く……、偶像として――――」
「……そうよ。それは一種の偶像崇拝だった。人とは善なるものであり、罪過は総て悪神によるものである。そう考えた人々が居て、その人達は悪神を目に見える形で欲した。自らの罪を押し付ける事が出来る存在が欲しかったわけよ。そして、彼らは悪神を作った。テキトウに選んだ人物に悪神たれと命じ、あらゆる罪悪を押し付けた」
「……そんなモノがサーヴァントとして招かれたというのですか?」
「本人が望む望まないに限らず、大多数の人間に利益を齎した者は英霊の座に招かれる。彼……、あるいは彼女もまた、悪神という罪過の根源という役割を担う事で彼に悪神を押し付けた人々に利益を齎した。英雄と呼ばれる者達の引き立て役として人類の歴史に貢献し、英霊の座に招かれる反英雄達に近しい存在と言えるわね」
「……なるほど。しかし、アヴェンジャーが悪神そのものでは無いのだとしたら、単なる生贄だっただけの人物に聖杯を汚染する事など可能なのですか?」
「本来なら不可能よ。だけど、聖杯がソレを可能にしてしまった」
「……どういう事ですか?」

 少女は言った。

「彼、あるいは彼女は『アンリ・マユ』を押し付けられ、人間としての尊厳や自由を総て奪われた。そして、永い年月を憎悪と苦しみの中で過ごした」

 何とも心の痛む話だ。

「その人物はそうして過ごす内にある時、ふと思ってしまった。『そんなにもワタシが悪神である事を望むなら、成ってあげよう』――――、と」

 ああ、なるほど、そういう事か……。
 聖杯は万能の願望器だ。つまり――――、

「アヴェンジャーはサーヴァントとして現界した時はとても非力な普通の人間に過ぎなかった。だけど、アヴェンジャーが殺され、聖杯に取り込まれた時、聖杯は彼の内に宿る願望を受け入れてしまった。『アンリ・マユたれ』という人々の……、アヴェンジャーの願望が叶えられ、聖杯の中で彼、あるいは彼女は本物となった。そして、同時に悪神によって聖杯は穢され、今の状態に至ったというわけ」

 何という事だ……。
 
「……なら、そんな聖杯を使ったら」
「確実に災厄が巻き起こる。貴女達なら知ってるでしょ? 十年前にこの地で起きた大火災。アレは聖杯が一時的に起動した結果、起きた事よ」

 十年前に起きた大火災。確か、あの事件で発生した死傷者の数は百をゆうに超えていた筈。それが一時起動しただけで起きた出来事なのだとしたら……。

「本格的に起動なんてしたら、それこそ抑止力が動く事態じゃない!?」

 遠坂凛が絶叫した。当然だ。彼女はこの地の管理者。抑止力が動くとしても、この地は確実に滅び去る。私としても、そんな事は到底看過出来ない。

「ミス・アインツベルン! そこまで知っているなら、協力して下さい! 聖杯の起動は絶対に阻止しなければ――――」

 ならない。そう言い切る前に私は大きな違和感に呑み込まれた。
 アインツベルンは既に聖杯の異常について認知していた。にも関わらず、第四次、第五次と続けて聖杯戦争に参加している矛盾。
 今現在、少女が浮かべている冷笑の理由は……、

「まさか……」
「ええ、アインツベルンに聖杯戦争を止める意思は無い。何故なら、例え悪神によって穢されていようとも、我等の悲願は達成出来るから」

 瞬間、全身に鳥肌が立った。千年を超える妄執。アインツベルンの聖杯に掛ける執念は例え、この世が災厄に包まれる事も厭わず、進み続ける修羅の道。
 にも関わらず、彼女がペラペラと解説した理由はただ一つ。

「――――さあ、死になさい」

 進軍を開始する巨人。膨れ上がる殺意が私の脳裏に一秒後の死の光景を映し出す。

「ランサー!」
「アーチャー!」

 私と遠坂凛の声が轟くより先に二騎のサーヴァントは狂戦士の前に躍り出ていた。

「ランサー! この少女は何としてもここで止めなければなりません! 何があっても勝ちなさい!」
「アーチャー。総ての手段を行使して、バーサーカーを仕留めなさい!」

 私と遠坂凛の令呪が同時に発動する。
 瞬間、世界が一変した。

「――――なっ」

 それは私にとっても予想外の光景だった。恐らく、それがアーチャーの切り札なのだろう。なるほど、初戦の際に彼が使わなかった理由も理解出来た。
 豪奢な装飾に包まれた玄関ホールは果てしなく続く荒野に変貌を遂げていた。曇天には巨大な歯車が回転していて、大地には無数の刀剣が突き刺さっている。

「……これがテメェの切り札ってわけか」
「ああ、これが私の全開だ」
「――――ッハ、背中は預けたぞ、アーチャー!」
「了解した。前衛は任せるぞ、ランサー!」

 ランサーもまた、全開だ。既に彼の周囲には光で描かれたルーンが浮かび上がっている。
 だが、彼らにばかり任せてはいられない。私も切り札を取り出す。

「――――来なさい、セラ。リズ」

 ランサーが動いた瞬間、少女の傍らの空間が歪んだ。異空間に隔離されている筈にも関わらず、突如、巨大なハルバードを構える少女と良く似た容姿の女が現れた。その後ろにも別の女が立っている。

「固有結界の中に侵入して来るなんて……」

 遠坂凛が舌を打つ。
 空間転移か、別の魔術による介入か、方法は不明だが、新たに現れた二人の女が発する魔力は私達二人を遥かに凌ぐ。

「……アインツベルン謹製のホムンクルスか」

 仕事で一度だけ戦った事がある。廃棄処分される寸前にアインツベルンが逃走し、泥水を啜って生きていた彼女は抵抗の際、恐るべき力を私に見せつけた。
 彼女達はアインツベルンのホムンクルスの中でも間違いなく一級品。遠坂凛では……いや、私でも太刀打ち出来るかどうか……。
 思考している間に戦端は開かれ、ランサーは全身全霊の力をもってバーサーカーと打ち合っている。その横をハルバードを構えたホムンクルスが疾走する。

「容易く接近を許すなどと思わぬ事だ」

 アーチャーが片腕を天へ向けて掲げると、同時に大地に突き刺さっていた無数の剣が宙に浮かび上がり、ホムンクルスへと疾走した。

「走り抜けなさい、リーゼリット!」
「馬鹿な――――ッ!?」

 剣群がホムンクルスを押し潰す寸前、ホムンクルスの姿が一瞬掻き消え、直後、アーチャーの眼前に現れた。

「……イリヤの邪魔、させない!」

 超重量のハルバードを軽々と振るい、ホムンクルスがアーチャーに迫る。
 アーチャーは陰陽剣を構え防ぐが――――、

「リーゼリット!」

 もう一体のホムンクルスの魔術によるものだろう。
 リーゼリットと呼ばれたホムンクルスの数が増殖した。恐らく、本体以外は影に過ぎないものだろう。
 だが、その存在感は本物と偽物の区別をつけるには真に迫り過ぎていた。

「ランサー!」

 たかがホムンクルスなどと侮れる相手では無い。どちらか片方ならば対処も出来るだろうが、二体が揃っている今の状態ではサーヴァントにすら匹敵する力を発揮している。
 ランサーにリーゼリットを潰すよう指示を出そうと視線を向けた瞬間、それが不可能である事を悟った。
 ルーンと令呪によって最大まで強化されたランサーに対して、バーサーカーは一歩も引かずに打ち合いを続けている。むしろ、圧されているのはランサーの方に見える。

「ならば、私が――――」
『そんな事をしている暇なんてあるのかしら?』

 怖気の走るような甘い声。振り向いた先には銀色の光で編まれた大鷲の姿。咄嗟に遠坂凛が宝石魔術で応戦するが、その数は十や二十では無い。どこから現れたのか、私達は無数の大鷲に囲い込まれていた。

「空間転移なんて、魔法の一歩手前だってのに、随分簡単に使ってくれるじゃないの……」

 魔術師として、嫉妬を覚える程の魔術の技能。バーサーカーのマスターは光の大鷲を空間転移で私達の周囲に出現させたのだ。
 

『無駄口を叩いてる暇なんて無いわよ?』

 瞬間、大鷲が次々に襲い掛かって来た。
 
「――――ック」

 一体一体は大した事の無い相手だが、数があまりにも多過ぎる。というか、どんどん数を増していっているように見える。
 
『――――雑魚相手に本気になるのもどうかと思うけど、今の私……、凄く苛々しているのよ。悪いけど、発散させてもらうわ』

 アーチャーはリーゼリットともう一体の魔術師型のホムンクルスの対処で手一杯となっている。ランサーもバーサーカー相手に劣勢に立たされ、私達も身動きの取れない現状……。

「……このままでは」

 誰でもいい。一人が戦況を覆せば、そこから逆転する事が出来る筈。
 この状態でそれが出来る者はただ一人。

「ランサー!」

 私の意思を受け、ランサーはバーサーカーと打ち合いながら瞬時に魔力を自らの愛槍に籠める。令呪の大盤振る舞いだが、ここで出し惜しみをして敗北しては意味が無い。
 ランサーが必殺の一撃をバーサーカーに放つ。真紅の魔槍はバーサーカーの神業染みた回避行動を因果の逆転という神のトリックによって無意味なものとして、その心臓を刺し貫いた。
 勝った! 心臓を貫かれて、生きていられる者など居る筈が無い。このまま、ランサーがバーサーカーの後方に位置する二人を殺せば私達の勝利だ。

「――――なっ」

 絶対的な勝利の確信。それを嘲笑うかのようにバーサーカーを仕留めたと確信し少女達へ迫っていたランサーを死んだ筈のバーサーカーが追撃した。
 馬鹿な……。あまりの事に思考が停滞した。死んだ筈の相手が追撃を加えてくる。そんなあり得ない状況にランサーは見事に対処してみせたが、状況は一気に絶望的な方向へとシフトしていく。
 
『親切心で教えてあげる。もう、さっきの攻撃は私のバーサーカーには通じないわ』

 追い打ちを掛けるように少女が言う。

『私のサーヴァントの真名はヘラクレス。ギリシャ最大最強の大英雄よ。その身はかの英霊が乗り越えた試練の数だけ再生し、Bランク以下の攻撃は無効化する。そして、同じ攻撃は二度と通じない』

 何という出鱈目な……。
 あまりに事に言葉が見つからない。
 ヘラクレスが乗り越えた試練と言えば十二。つまり、あの怪物を十二回も殺さなければならないという事だ。この無限の剣を見る限り、アーチャーならば可能性も僅かであれ存在するが、完全に配役を誤った。
 ランサーでは殺せても後一回が限度。私や遠坂凛、アーチャーがランサーの援護を強行しようとすれば、その隙に私達が殺される。
 状況は既に詰んでいる。このままでは――――……。

第二十七話「ワークス」

 まるで、時が止まったかのような錯覚を覚えた。
 現れた巨人。振り上げられた斧剣。直後に迫る樹の死。
 セイバーとライダーは間に合わない。樹も咄嗟の事に対処出来ずに居る。
 なら、樹の命を守れる位置に居るのは俺だけだ。だけど、あの凶暴な一撃を防ぐ手立てなど無い。例え、この身を間に差し入れてもバーサーカーの凶刃は俺ごと樹を真っ二つに切り裂いてしまうだろう。
 それでは駄目だ。イリヤの怒りは分かる。だけど、樹の命を奪わせるわけにはいかない。だから、作る。俺如きの体では盾にすらならないというなら、盾になるものを作る。
 今まで作って来た日用雑貨や骨董品では駄目だ。もっと、極上、俺には分不相応な……、例えば……、あの夢に現れた王位を象徴する剣のような武器なら――――、

「――――投影開始!」

 そんな物、作れる筈が無い。身の丈に見合わぬ逸品だ。どんな犠牲を払ったとしても、あんな物を作る事など不可能だ。

 黙れ。

 脳裏に反響する声を捻じ伏せる。余計な思考に割く余裕など俺には無い。
 故障したっていい、どこかを失おうが知った事か。アレを止められなければ、俺が壊れるだけでは済まない。俺の命など、俺の精神など、俺の未来など、そんなもの忘れてしまえ! 急げ! 作れ! さもなければ、この世で何より大切な存在が――――、

「……え?」

 止まった。死を告げる必殺の一撃は俺の眼前で停止し、横倒しにしてしまった樹が呆気にとられた表情で声を上げている。

「……うそ」

 さっきまで怒りに我を忘れていたイリヤですら、思考を放棄し、目の前の異常な光景に釘付けになっている。
 だけど、今の俺にそんな状況を把握する事など出来ない。耳が機能していない上に、片目も死んでいる。手足の感覚も酷く鈍い。
 当然だ。俺なんかが手を出してはいけない領域に無理矢理手を伸ばしたのだから、この代償は分かっていた事だ。
 一秒を追う事に耳では無く、骨が体の破損を振動と共に伝える。千切れ、割れ、砕け、それでも俺はバーサーカーの一撃から樹を守る事が出来た。
 それで十分。この一瞬の間にセイバーとライダーが俺達の下へ辿り着いた。

「……後は頼む」

 燦然と輝く王剣、クラレントが役目を終えたと共に砕け散る。本物になど遠く及ばぬ出来栄えにも関わらず、俺達の命を救ってくれた。
 すまない。俺にはお前を完璧に投影する事は出来なかった。
 意識が途切れる。その瞬間、俺は不思議な光景を見た。

『どうだ! どうだ、アーサー王よ! 貴方の国はこれで終わりだ! 終わってしまったぞ! 私が勝とうと貴方が勝とうと――――、もはや、何もかも滅び去った! こうなる事は分かっていたはずだ! こうなる事を知っていたはずだ! 私に王位を譲りさえすれば、こうならなかった事くらい……! 憎いか!? そんなに私が憎いのか!? モルガンの子であるオレが憎かったのか!? 答えろ……、答えろ、アーサーッ!!』

 それは誰かの叫び。夥しい死人の山の頂きで、激情を吠える哀れな騎士の叫び声。
 
 ◆

 シロウが何故……、あの剣を!?
 一瞬の空白の内にライダーが二人を掴み上げた。私は困惑を呑み込み、バーサーカーと切り結ぶ。二度目となる戦いはバーサーカーという強力なサーヴァントの天井知らずの底力を目の当たりする結果となった。
 速く、重く、巧い。とても狂化しているとは思えない程、技が冴え渡り、その癖、一撃一撃が致命的な破壊力を誇っている。
 シロウの体調も気掛かりな上、恐らく、このまま打ち合っても敗北は必至。

「ライダー!」
「了解!」

 私が指示を飛ばすより早く、樹が令呪を掲げた。
 同時にライダーがヒポグリフを召喚した。

「セイバー!」

 ライダーの声と同時に私は全身全霊を掛けた最大威力の一撃でバーサーカーの斧剣を打ち払い、ライダーの手を掴んだ。
 瞬間、私達はライダーのヒポグリフの能力によって異空間へ移動し、一気にバーサーカーから遠ざかった。

「離脱成功。怪我は無い?」
「私は大丈夫です。それより、シロウは?」
「マスターが診てるよ」

 ライダーの言葉を肯定するようにイツキがシロウの全身に手を当てている。

「士郎……、今、治してあげるからね」

 確か、リバース・ファイアという治癒魔術だったか……。
 一瞬、士郎の全身が燃え上がり身構えてしまったが、当の士郎は苦しむ様子も見せず、むしろ炎の中で安らかな寝息を立て始めた。全身の傷もみるみる内に癒えていく。

「……だれ……だ?」

 ヒポグリフが全力疾走している影響で周囲には風の音が轟き、士郎が何やら寝言を呟いているようだったが、よく聞き取ることが出来なかった。

「……うさ……。……あさん」

 ヒポグリフは追跡を完全に撒くために蛇行しながら上空を音速で移動し続け、やがて静かに地上へと降下を始めた。
 
「……まずはシロウの回復が先ですね。しかし、これでいよいよタイガの家には戻れなくなった」

 恐らく、あの少女はシロウとイツキを追って藤村邸に向うだろう。さすがに八つ当たりで無差別殺戮を行うとは思えないが、私達が戻れば戦闘は避けられない。その分、犠牲者も出るだろう。
 
「……あそこは」

 降下の途中、眼下に寂れた洋館が見えた。周囲を山林に囲まれ、館自体もかなり損傷が激しいようだ。

「ライダー。あの館を目指してくれ。一時なら体を休める事が出来るかもしれない」
「オーケー!」

 地上に降り立つとやはりと言うべきか、その洋館は空っぽだった。長らく放置されていたらしいその館には微かに魔術の痕跡が見つかり、嘗ての聖杯戦争の参加者が拠点としていたものだろうと察しがついた。

「これなら……、思ったより長く留まれそうだ」

 中は埃だらけだったが、奥の寝室は清潔さを維持する為の魔術が働いていて他の部屋に比べると格段に清潔だった。
 念の為にライダーの宝具で館全体の魔術を解呪し、ベッドにシロウを寝かせると、私達は漸く一息つくことが出来た。

「さて、一悶着ありましたが、拠点は手に入った。シロウが回復したら今後の方針について改めて話し合いを行いましょう。恐らく、そろそろ他の陣営も動き出す頃合いの筈です」

 私は窓に自らの顔を映し、今もこの街の何処かに居るであろう、モードレッドの事を考えた。
 いずれ、戦う事になるだろう。その時、私は……はたして……、

 ◆

「うわぁ、これは酷いわね」

 私達は話し合いの末、現状では円蔵山に現れた謎の英霊に対抗し得ないという結論に至り、陣営強化の為に他のマスターに同盟の話を持ち掛ける事にした。
 正直、気に入らない方針だけど、何度話し合っても、結論を覆す事は出来なかった。何しろ、戦いにすらならなかったのだ。今のままでは、例え他の陣営を根こそぎ排除したとしても、肝心の大聖杯に至る事が不可能。他に道筋は無かった。
 そこで、私が挙げた候補がここに居る筈だった男。あまり本人とは接点も無かったし、とある事情からこの家自体にも近づいた事が無かったけど、あの男なら同盟を結ぶ相手としては按配だろうと踏んだのだが、まさか、屋敷が廃墟になっているとは思わなかった。 

「戦闘があったようですね。地下に空洞が広がっている……。恐らく、マキリの工房でしょう。そこまで届く大穴を穿ったとなると、高威力の……多分、大軍クラスの宝具が放たれたのだと思います」

 バゼットの冷静な推測を聞きながら、私は瓦礫に近づき、周囲を見渡した。ここにはあの男以外にももう一人、少女が居た筈だ。彼女はどうなったのだろう?
 感情の制御などお手の物だった筈なのに、心が揺らぎそうになる。

「……桜」

 何か情報は無いかとバゼットの提案で瓦礫を探る事になり、四人総出で探索を行った。その結果分かった事は間桐が行っていた外道の数々だった。

「……地下空間に人間の死骸が大量に転がっていた。どれも拷問された後がある。にも関わらず、怨霊の類が見当たらない辺り、恐らく、魂まで利用され尽くしたのだろうな」

 胸糞の悪くなる報告ばかりだ。間桐の魔術に関する書物も出て来たけど、これが事実だとしたら、あの子は一体、ここで何をされていたのだろう……。
 生きているのかも分からないけど、もし、生きていたら……、

「……って、私に何が出来るってのよ」

 碌でも無い情報ばかり手に入れて、私達は間桐邸跡地を後にした。

 ◆

 困ったものだ。折角、兄さんの手伝いをしつつ、傍で彼の死に様を見届けようと思っていたのに、兄さんはいきなり笑い出し、兄さんのサーヴァントからは敵対宣言を受けてしまった。

「……ねえ、キャスター。何がいけなかったのかな?」

 キャスターは「さっぱり」と肩を竦めた。正直、原因が全く分からない。
 
「それより、拠点をどうするかね……。一応、候補は見繕ってあるのだけど、やっぱり、あそこかしら?」

 私がマウント深山で購入した服に袖を通したキャスターは指を円蔵山へ向けた。

「あの山に向かいましょう。あそこなら相当ランクの高い神殿を構築出来る筈」
「了解です」

 円蔵山へは少し距離があったけど、お祖父様から解放された事が少しずつ実感出来るようになり、私は少し浮かれ調子だった。
 鼻歌を歌いたい気分。

「とりあえず、神殿が構築出来たら貴女の体内の洗浄ね」
「洗浄?」
「貴女の体のアチラコチラに良くないモノが付着しているのよ。いずれかのサーヴァントが脱落する前に対処しないと、大変な事になるわ。それと、もし貴女が希望するなら、体を弄られる前の状態に戻す事も可能よ? まあ、長年苦しみ続けた結果を無かった事にするというのは気が引けるかもしれないけど……」

 不思議だ。四肢を切断されたり、彼女に散々酷い事をした間桐の人間である私にキャスターは何故か親切な提案をして来た。

「……有り難いですけど、いいんですか? 私の事、殺したいくらい憎い筈じゃ……」

 私の言葉にキャスターは呆れたように肩を竦めた。

「あの妖怪はともかく、貴女に特別な感情なんて抱いてないわよ。強いて言うなら、あの妖怪の被害者同士、ちょっと同情してるくらいね」
「そうなんですか? じゃあ、お願いします」
「了解よ。じゃあ、さっさと神殿の構築を始めましょうか」

 そう言って、間近に迫る円蔵山をキャスターは見上げた。

第二十六話「冬の少女」

 今は聖杯戦争中だ。だから、時間を一秒たりとも無駄に出来ない。
 セイバーは『やり過ぎです!』と半裸のライダーを小突いた後、申し訳無さそうにそう言って、新たな拠点を入手する為に昨日行けなかった深山町の不動産屋に行こうと提案して来た。
 出来れば夜を静かに待ちたかったけど、そんな事も言っていられない。僕達はセイバーの提案を呑んで、マウント深山商店街にやって来た。
 
「……無理だな」
「無理だねー」

 やっぱり、駄目だった。新都の不動産屋よりも若干安い気はするけど、僕達にとっては団栗の背比べ。セイバーとライダーも目を皿のようにして物件情報を見ているけど、僕達の所持金以下の値段の物件は見つけられない。
 
「うーん。もう、いっそ作っちゃえばいいんじゃないの?」
「……いえ、ライダー。作るにしても、土地が必要です。そして、土地を手に入れるにも金が掛かる。そもそも、家を一から作る技術など、私達には無い」

 ライダーの投げやりな提案にセイバーが真面目に返答する。
 もう、何回目になるか分からないやり取り。

「なら、地面に穴を掘って、そこで暮らそう!」
「地下ですか……。確か、地下にはライフラインを通す為の空洞がいくつもあると聞きます。中には人が居住出来るだけの空間もあるかもしれない」
「下水道に住むの……?」

 ちょっと乗り気なセイバーに思わず呻き声を上げてしまった。
 背に腹は代えられないにしても、下水道で寝起きするというのは勘弁願いたい。

「あれ?」

 僕が発したのはあくまで呻き声。なら、今の言葉を発したのは……?
 振り返ると、銀色の髪を靡かせ、死神が立っていた。

「……イ、イリヤちゃん」

 全身から冷や汗がダラダラ流れだした。
 こんなに可愛い女の子を前にして、恐怖以外の感情が湧かない……。

「イリヤちゃん?」

 びっくりしたような顔で僕を見つめてくる。クリクリした赤い瞳が実に禍々しい。
 咄嗟の事だったから、つい口が滑ってしまった。昔はイリヤスフィールなんて長々しい名前じゃなくて、普通に主人公である士郎の呼び方を真似て、彼女を称する時はイリヤと口にしていたから……。
 
「……いや、その、イリヤスフィールさん。その……、すみません」

 ビクビクしながら謝ると、イリヤスフィールの目つきがどんどん鋭くなっていく。

「イリヤでいいわよ」

 イリヤスフィールは言った。

「えっと……」
「もう、失礼しちゃう! そんなにビクビクしないでもいいじゃないの! 初対面の時の大胆さはどうしたの!?」
「ご、ごめんなさいー」
「ああもう! 謝れなんて言ってないでしょ!」

 ああ、心臓がバクバクしてきた。これは恋なんて素敵なものじゃない。もっと、恐ろしいナニカだ。

「……とりあえず、落ち着け」

 ポンと頭に手を載せられて、ちょっと落ち着いた。

「何の用だ?」

 士郎が少し怖い声でイリヤに問い掛ける。

「……むぅ」

 そんな士郎にイリヤは可愛く頬を膨らませる。

「な、なんだよ? まさか、ここで戦おうってのか!?」

 士郎の言葉にますますイリヤはほっぺを膨らませる。まるで、風船みたいだ。

「戦うのは夜になってから!」
「じゃ、じゃあ、えっと……、何しに来たんだ?」

 まるで普通の子供のような反応を返され気勢を削がれた士郎は恐る恐るといった様子で尋ねる。
 すると、イリヤは不機嫌そうに言った。。

「会いに来たの」
「え?」
「会いに来たの!」

 漸く、イリヤの言葉がそのままの意味であると呑み込めた士郎は緊張を緩めた。

「えっと……、イリヤだっけ? 会いに来たって、俺達に? どうして?」
「そんな事より、名前」

 士郎の質問に何一つ応えず、イリヤは士郎に詰め寄った。その距離感には待ったを掛けたいけど、怖くて掛けられない。

「え?」
「だから、名前。お兄ちゃん達の名前、わたしだけ知らないのは不公平だもの」
「あ、ああ……えっと、俺は士郎。衛宮士郎っていう」
「ぼ、僕は樹だよ。飯塚樹……」
「ふんふん……、エミヤシロにイイヅカイツキね……」
「いや、待った。俺の方はちょっと違うぞ。その発音だと『笑み社』じゃないか。衛宮が苗字で士郎が名前なんだ。呼びにくいなら士郎ってだけ覚えてくれ」

 士郎はさっきまでの緊張感など何処へ行ってしまったのか、イリヤの鼻先に指を突き付けて自分の名前を訂正した。

「シロウ……、シロウかー。それに、イツキね……」

 イリヤは反芻するように何度も僕達の名前を口にして、ニッコリと微笑んだ。

「シロウとイツキね……。ふーん、思ってたよりカンタンな名前ね。うん、響きも嫌いじゃないし、合格にしておいてあげる」

 僕の名前も彼女の合格基準を満たす事が出来たらしい。良かったー。名前が気に入らないって理由で殺されたら死ぬに死にきれない。
 
「そ、それで、いい加減、こっちの質問にも答えてくれ。お前は一体、何しに来たんだ?」
「……お前じゃない」
「わ、悪い。えっと、イリヤは何をしに来たんだ?」

 イリヤの視線に身震いしながら、士郎は挫けること無く質問を重ねた。
 
「お話しに来たの」
「お話……?」
「ええ、わたし、話したいコトがいっぱいあったんだから」

 とりあえず、機嫌を損ねないように気をつければ、今ここでデッドエンドを迎える事は無さそうだ。迷っている士郎に僕は声を掛けた。

「折角だし、いいと思うよ」

 僕はイリヤを改めて見つめた。彼女を殺そうと思って、実際に色々計画を練ったりもしたけど、一番危険な時期……、即ち、序盤を乗り越えた今なら、おじさんとの最期の約束を守るチャンスが巡ってくるかもしれない。
 おじさんは嫌わないで欲しいとしか言わなかった。だけど、きっと、あの言葉には続きがある。おじさんが生きていたら、僕達にイリヤと仲良くなって欲しいと望んだ筈。

「……僕も話したい事があったよ、イリヤ」
「樹……?」

 士郎は戸惑いながら僕を見つめる。聖杯戦争の事を知られたくなくて、士郎にはイリヤの事を話していなかったから仕方が無い。

「イツキは私の事を知ってたんだね」
「……うん。いつか、会う日が来るって事は分かってたよ」
「ふーん。ますます、話したくなったわ。色々と……」

 一瞬、イリヤの目付きが最初に会った夜のものに変化して、再び元のあどけないものに戻った。

「えっと……、とりあえず近くの公園にでも行くか? ここで固まってると、通行の人の迷惑になる」

 会話に入って来ては居ないけど、ここにはセイバーとライダーも居て、合計五人の人間が集まっている。確かにさっきから通行中の人達の視線が痛い……。

「いいわよ。エスコートしてね、シロウ」

 イリヤは当然のようにシロウに抱き着き、じゃれつくように言った。ちょっとだけ羨ましいけど、さすがに今の僕には無理だ。
 大丈夫。さっきの士郎の反応を見るに告白の返事は割りと期待出来る気がする。オーケーを貰ったら、それから全力で行けばいい。今は無理だけど、今夜は――――、

「マ、マスター、大丈夫? ちょっとヤバい顔してるけど……」

 おっと、思わず涎が出ていた。慌てて顔を引き締め、ライダーに無問題と伝える。
 
 公園に辿り着くと、セイバーとライダーは入り口で待機する事になった。ライダーは話に混ざりたがったけど、セイバーが押し留めた。何だか慣れた手際だ。
 バーサーカーの気配が無く、イリヤ自身に敵意を感じなかったからと許可を出してくれたセイバーには頭が下がる。もしかしたら、彼女にもイリヤに対して思う所があったのかもしれない。歩く道すがら、イリヤが切嗣の娘である事を僕が口にしてから、複雑そうな表情を浮かべていたから。
 士郎もセイバーに負けず劣らず複雑そうな表情を浮かべている。

「……本当にシロウは何も知らなかったんだね」

 寂しそうに呟くイリヤに士郎は頭を下げた。

「すまん。でも……、どうして樹は知ってたんだ?」
「おじさんに聞いてたから」

 僕が言うと、士郎は僅かな息を呑んだ。イリヤの事を秘密にしていた事を怒っているのかも……。

「あ、あのね……、聖杯戦争の事について教えてもらった時に聞いたの! あの、秘密にしていたのは……、士郎に聖杯戦争の事を知って欲しく無くて……、別に悪気があったわけじゃないんだよ?」

 こんな事で夜の返事が絶望方向へ傾いてしまっては堪らない。僕は大慌てでウソを交えた言い訳を並べ立てた。ついでに聖杯戦争の事を知っていた理由もおじさんのおかげという事にしておく。

「……聖杯戦争の事も切嗣に?」
「え? う、うん、そうだよ!」

 何故だろう。士郎の顔が少し強張ったように見えた。だけど、これで聖杯戦争についてどうやって詳しく知ったのかを深く追求されても大丈夫。
 正直、いつ突っ込まれるかとヒヤヒヤしてたんだ。

「……ふーん。切嗣はイツキの事を随分と可愛がっていたのね」

 イリヤが不機嫌そうな声で言った。まずい、妙なデッドエンドフラグを踏んでないといいけど……。

「う、ううん。えっと、おじさんが亡くなる前にその……、僕達の家が焼かれた原因を話してくれたんだよ。その話の流れで僕もいろいろ追求して、色々とその……、聞き出したというか」

 そもそも、あそこに僕の家なんて無かったけどね。

「おじさん。ずっと、イリヤちゃんの事を助けたいと思ってたんだよ」

 何とかイリヤに関するデッドエンドフラグを除去しようと僕はおじさんがイリヤちゃんを助ける為に何度も海外へ出掛け、その度に力及ばず引き返す事になったくだりを説明した。
 士郎とイリヤは黙ったまま聞いている。沈黙が怖い。二人共、顔を伏せて表情を見せてくれない。
 いや、でもイリヤが僕達を襲う理由は父親が自分を見捨てたと思い込んでいるからであって、おじさんがちゃんと助けに行っていた事を話せばきっと……。

「――――冗談じゃないわ!」

 上手く事が運べば……、そんな期待を打ち砕くような怒りの滲んだイリヤの声が公園内に響き渡った。

「……何よ、それ」

 僕に分かった事は一つだけ……。
 どうやら、僕は最悪の一手を選んでしまったみたいだ。
 イリヤの顔はさっきまでと打って変わり、怒りと憎しみに満ちていた。

「イ、イリヤ……ちゃん?」
「今更……ッ、バーサーカー!」

 令呪による強制召喚。
 瞬時に眼前に出現した巨人が僕に向かって斧剣を振るう。
 セイバーとライダーは公園の入り口に居て、僕達の方に向かって駆けて来る。だけど、間に合わない。もう、斧剣は回避不能な所まで迫って来ている。

「――――投影開始!」

第二十五話「ボーイ・ミーツ・ガール Ⅰ」

 僕の胸を触って錯乱状態に陥った挙句、木に頭を打ち据えて気絶してしまった士郎をさっきまで僕が寝ていた布団に寝かせ、僕は悶々とした昂ぶりを鎮めようと頭の中で般若心経を唱え続けた。
 女の子の体になっても性欲は無くならない。むしろ、以前よりも強くなった気さえする。ここが衛宮邸で、他に誰も居ない状況なら簡単に鎮められるけど、ここで下手な真似は出来ない。
 大河さんには初潮が始まった時に散々恥ずかしい姿を晒してしまっているけど、コレは別だろう。

「……それにしても、揉まれるって、あんな感じなんだ」

 ついつい思考が淫らな方向に傾いてしまう。
 自分で触る時とは全く異なる刺激だった。ゾクゾクするような甘い痺れが脳髄を溶かすようだった。思い出しただけで息が荒くなる。
 試しに自分で触れてみるけど、士郎に触れられた時の衝撃的な快感は現れない。

「……士郎は寝てるし、ちょっとだけなら――――」

 布団を少しだけ捲り、士郎の手を取る。大丈夫だ。士郎はグッスリと眠っている。
 そっと持ち上げて、ゴクリと生唾を飲み込む。
 さっきは洋服越しだった。もしも、素肌に直接触れられたら……。

「……って、ダメダメ!」

 大慌てで士郎の手を布団の中に戻し、部屋の隅まで後退る。
 後一歩でとんでもない変態行為に及ぶ所だった。
 落ち着け、僕。落ち着くんだ……、素数を数えるんだ。ブッチ神父も素数を数えて落ち着いていた……。

「そう言えば……、ブッチ神父もだけど……、神父って悪役多いな」

 東京喰種でも神父は悪者だった。普通、神父さんと言えば、落ち着いた物腰の優しい人っていうイメージなのに、どうしてだろう……?
 僕がまだ男だった頃、僕の住んでいた家の近所には小さな教会があって、季節の変わり目になると神父さんが子供達の為に色々な催し事を開催してくれた。ハロウィンやクリスマスは勿論、教会なのに餅つき大会を開催して神父さん自ら大槌を振るっていた。
 
「……みんな、どうしてるんだろう」

 もう、この世界で十年過ごした。元の世界では僕の事なんて完全に忘れ去られているかもしれない。

「……お父さん。……お母さん」

 やばい、感傷に浸り過ぎた。あんまり考えないようにしていたのに、両親の顔が浮かんで涙が出て来た。
 帰れないと分かっている癖に帰りたいという思いが首を擡げてくる。

「――――マスター」

 いつから居たのか、僕の頭をライダーはそっと撫でた。

「大丈夫……?」
「……うん」

 鼻水を啜りながら頷くと、ライダーは僕の頭を包み込むように抱きしめた。

「……大丈夫じゃないだろ。どうしたんだい? 何がそんなに悲しいの? 聞かせてよ。僕達はパートナーだろ?」

 蜂蜜のように甘い声色が耳に心地よい。抱き締められ、頭を撫でられて、僕はいつしか思いの丈を口にしていた。

「……お父さんとお母さんの事を思い出しちゃったの」
「マスターの両親?」
「……うん。もう、会えないって分かってるのに、会いたくなっちゃうの……」

 ライダーは何も言わずに抱く力を強めた。

「……寂しい」

 ライダーは何も言わずに抱き締め続けてくれた。
 ゆっくりと情動が収まり、悲しさや苦しさが薄れてくると、段々照れ臭くなって来た。こんなに可愛い女の子に情けない姿を晒してしまった事が恥ずかしくて仕方が無い。

「……ごめんね、ライダー」
「なにが?」
「その……、情けない事言っちゃって……」
「情けない事は悪い事なの?」
「え?」

 ライダーはそっと離れると、両手で僕の頬を包み込んだ。

「情けなくてもいいじゃないか」

 ニッコリと微笑んで、ライダーは言う。

「かっこ悪くてもいいと思う。ただ、最後に笑顔になれるなら」

 そう言って、ライダーは僕の唇を啄んだ。

「……えっと、ライダーって、そういう趣味?」

 さすがに二度目となると免疫が出来る。僕は無様に狼狽えたりはせず、顔を真っ赤に染め上げるだけに留めて問い掛けた。
 
「趣味って?」
「ぶ、文化の違いって奴なのかもしれないけど、日本だと唇同士のキスは恋人同士でするものなんだよ」
「ふーん。イツキはボクとのキスが嫌なの?」
「い、嫌ってわけじゃないけど……その、僕はえっと……、これでも女の子なわけで……」
「それが?」
「き、君も女の子だろう? お、女の子同士でこういう事をするのは良くない事だと……日本人的には思うわけで……」

 僕の言葉にライダーはキョトンとした表情を浮かべ、それから悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「な、なに?」

 何やら危険な気配を感じ、後退ろうとするけど、背面には壁があった。万事休す。

「マスター。そう言えば、ボクはマスターに言ってなかった事があったよ」
「言ってなかった事……?」
「うん」

 ライダーはまるで獣のように艶かしい仕草で僕の肩を掴み、押し倒した。

「えっと……、ライダー?」
「マスター。ボクの秘密を教えてあげるよ」

 僕の中の警戒レベルが真っ赤になっている。
 何だかよく分からないけど、とてもマズイ展開な気がする。

「お、落ち着いてよ、ライダー! ど、どうしちゃったの!?」
「どうもしてないよ? ただ、マスターとはもっと親密な関係になりたいと思っただけさ」

 そう言って、ライダーは僕の……、上着のボタンを外した。

「ラ、ライダー!?」

 僕が叫び声を上げようとすると、ライダーは唇で僕の口を塞いだ。
 舌が入ってくる。雑誌やネットで見聞きした情報の中でしか知らなかった大人のキスだ。僕の口の中でライダーの舌が暴れ回る。
 頭の奥がジンとして、思考が纏まらない。

「マスター。ボクは今まで一度も自分を女だなんて言った事は無いよ?」
「……え?」

 何を言っているのかサッパリ分からない。だって、ライダーは……、

「マスター」

 ライダーはゆったりとした上着を脱ぎ去り、中に着込んでいたブラウスをたくし上げた。

「……え?」

 そこにはある筈の物が無かった。

「うそ……、だって、そんな……」

 あるのは薄い胸板だけだった。

「なんなら、下の方も確かめてみるかい?」

 そう言って、ライダーは僕の手を取り、そっと自らの下腹部へと導いた。
 そこにはある筈の無い物があった。

「……ラ、ライダー」
「ん?」
「き、君……、男なの?」
「そうだよ。ボクは正真正銘の男だよ」

 開いた口が塞がらない。今まで見て来た女の子達の誰よりも美しく可憐な顔をしている癖に、その下腹部には思わず感心してしまう程の立派なモノがそそり立っているなんて予想外にも程がある。

「あ、あわわ……あわ……」
「うーん、可愛い反応だね、マスター。そういう所、ボクは好きだよ」
「な、何を言って!?」

 やばい、頭の回転が追い付かない。

「マスター」

 ライダーは耳元に囁くように言った。

「叶わない恋なんて諦めて、ボクにしない?」

 ライダーの言葉に僕は言葉を失った。

「ボクなら君の寂しさを埋めてあげられるよ?」
「な、何を言って……」
「だって、シロウは君の好意に気付いていながら応えないどころか、気づいていない振りをしているじゃないか……」
「……何を言って」
「君がシロウに向けている感情は出会ったばかりのボクやセイバーにだって簡単に分かるくらい明確だった。なのに、向けられている張本人が分からないわけが無いだろう?」
「そ、それは……、シロウが鈍いから……」
「あり得ないね」
「……だって、それじゃあ――――」

 士郎が僕の気持ちに気付いている。そんな事、ある筈が無い。
 もしも気付いていて、わざと無視していたのだとしたら……それは、つまり……、

「シロウは君の気持ちに応える気が無いって事だよ」
「……やめて」
「君がどんなに恋い慕っても、彼には決して届かない」
「やめてよ……」
「ねえ……、そんな相手に好意を抱いていても無駄だよ」
「……やめて」
「……マスターはそれでもシロウが好きなの? 応えてくれないのに?」

 心臓が痛いくらい脈打っている。
 士郎は僕の行動の意図に気付いていて、わざと無視しているのかもしれない。
 そう疑った事が無かったわけじゃない。
 だけど、僕には他に士郎を繋ぎ止める方法が思いつかなかった。いつか、正義の味方として、見知らぬ誰かを救いに家を飛び出していく彼を繋ぎ止める方法が……。
 だから、駄目だったのかな? 僕が士郎に好意を寄せている理由はただ、一人になりたくなかったからだ。孤独になりたくなかったから、寂しさから逃げる為に士郎を僕の傍に繋ぎ止めて置きたかっただけで……。

「マスター。ボクならマスターを愛してあげられるよ? 君の寂しさを埋めてあげられる」

 なら、ライダーでもいいんじゃないか? この寂しさを紛らわせる為だけなら、何も士郎じゃなくても……――――、

「――――嫌だ!!」

 気が付くと、僕は泣きながら叫んでいた。
 ただ、寂しさを埋めたいだけの癖に……。
 ライダーの事だって、大好きな癖に……。
 ライダーを士郎の代わりにする事がどうしても嫌だった。
 だって――――、

「ぼ、僕は士郎が好きなの! 他の誰でもいいわけじゃないの! 僕は士郎がいいの! 士郎じゃなきゃ、嫌なの!」

 泣きじゃくりながら、僕は叫んだ。

「愛して貰えなくても?」
「それでも好きなの! 僕は……、士郎と一緒に居たいの! こ、恋人にしてもらえなくても、それでも……、僕は……」

 涙が止まらない。

「……ごめんね、ライダー。僕……、ライダーの事が大好きだよ。でも……、僕は――――」
「……だってさ、シロウ」
「……え?」

 さっきまでの空気がウソのようにライダーは可憐な笑みを浮かべ、背後に視線を投げ掛けた。その先を追うと、士郎が布団から起き上がっていた、

「あんまり怒らないで欲しいなー。君が頑固なのが悪いんだぜー?」

 士郎は鋭い眼差しをライダーに向けた後、深々と溜息を零した。

「頑固って、何の話だよ……」
「分かってる癖にー」
「え? え? え?」

 何やら二人で盛り上がっているみたいだけど、ちょっと待って欲しい。

「士郎、いつから起きてたの!?」
「……ついさっき」
「ボクが押し倒した時くらいからだよねー?」
「……気付いてたのかよ」

 それってとてもマズイ場面じゃ……。

「それより、シロウ」
「な、なんだよ……」
「イツキの気持ちはキチンと伝わったかい?」
「……ああ」

 いきなり急展開過ぎてついていけないんだけど……。
 
「さあさあ、男ならビシッと告白の返事をしてあげるべきだよ!」
「ラ、ライダー!?」

 何を行ってるの君は!?
 今まで気付いてて無視して来たような相手に告白の返事を求めるとか……、返ってくるのは『ノー』以外にあり得ないじゃないか!
 気持ちに気付かない振りをされる事と完膚無きまでに振られる事とじゃ重みが全然違うよ。何て事してくれたんだ!

「……樹」
「は、はいぃぃ!?」

 ああ、終わった。僕の恋は完全に終了のお知らせだよ。
 
「……ちょっと、考えさせてくれ」
「え?」

 予想外の言葉に思考が一瞬止まった。

「ちょっと! 男ならビシッといきなよ! ビシッと!」
「う、ウルサイ! 俺にも心の準備ってものがあるんだ!」

 これは……、もしかして?

「し、士郎……」
「な、なんだ!?」
「えっと……、その……」

 心臓が破裂しそうだ。

「き、期待しててもいいの……?」

 僕の言葉に士郎は目を大きく見開き、それから頭を振った。

「夜にはちゃんと返事をする。だからその……、ちょっとだけ時間をくれ」
「う、うん」

 結局、完膚無きまでに振られるのか、それとも大逆転があるのか……。
 僕の不安を余所に時間は刻々と過ぎていく。夜までにはかなり時間があるけど、恐怖と期待という相反する二つの感情の板挟みにあい、僕は落ち着かない時を過ごした。

第二十四話「士郎」

「……何という顔をしているんだ、君は」

 アーチャーが呆れたような表情を向けてくる。

「煩いわね―。頭の痛い事ばっかりで苛々してるのよ、黙ってなさい!」
「やれやれ、優雅さが足りないな」

 アーチャーはそう言い残すと肩を竦めて部屋の隅に移動していく。
 優雅さが足りていない自覚はあるけど、この問題山積みの状況では仕方がない。
 まだ、敵のサーヴァントは一体の脱落者も出ていないというのに、聖杯の異常だの、実体を持つ謎のサーヴァントだの、いい加減にしろと言いたい。
 とは言え、苛々しているだけでは時間が勿体無い。何か建設的な事を考えなければ……。

「ん?」

 ふと、妙な旋律が耳に響いた。
 何事かと後ろを振り向くと、アーチャーが何やら口笛を吹きながら作業に没頭していた。
 随分とご機嫌な様子……、イラッと来るわね。

「……何してるの?」

 聞いても答えず、アーチャーは作業を続ける。

「ちょっと、アーチャー! 聞こえなかったの!?」

 声を荒げると、漸くアーチャーは顔を上げた。

「おやおや、命令通りに黙っていたのだが、何やらお冠かな?」
「ああ、分かった! 喧嘩を売ってるのね? そうなのね? 買ってやろうじゃないの、表に出なさい!」
「まあ、落ち着け、マスター。何をしているのか? という質問だったな。見ての通り、屋敷内で見つけた機械のレストア中さ」

 実に爽やかな笑顔でアーチャーは言った。よく見てみると、彼が弄っていたのはラジカセだ。彼の周りには部品らしきものが散らばっている。どうやら、わざわざ分解しているらしい。

「単純な構造に見えるが、意外と多機能みたいでね。中々手応えがありそうだ」
「楽しそうね……」
「ああ、こうして分解してみると構造がよく分かって面白い」

 面白いと来たか……。
 意外な一面と言うべきか、ある意味らしい一面とも思える。

「貴方って……、意外と人間臭い所があるわね」
「意外と……、とは心外だな。前にも言った通り、私は『正義の味方』という概念の体現者という立ち位置で英霊の座に据えられているが、一応、人間だったのだ。それなりに趣味くらいあるさ」
「そうだったわね」

 ちょっと変わっているけど、こんな風に自分の趣味を持っていたり、料理が得意だったり、所々世俗地味た所があるのに、どうして彼は『正義の味方』なんてものに憧れを抱いたりしたんだろう。
 何度か彼の生前の夢を見た。
 様々な災害現場や戦場を練り歩き、その度に死にそうな目にも合いながら多くの人を救っていた。それこそ、死の直前まで人を救うために奔走し続けていた。
 見返りなんて殆ど無いのに、必死に人を助け続けて、彼はそれで何を得られたんだろう?

「ねえ――――」

 試しに聞いてみた。答えてくれる事を期待してたわけじゃない。だって、誰にだって人に話したくない事がある筈だもの。
 だけど、思いの外簡単に彼は語ってくれた。

「『ありがとう』という言葉の重さを教えてくれた人が居たんだ」

 噛みしめるように彼は言った。

「……もう、その人の顔も名前も思い出せない。だけど、それが私という『正義の味方』の始まりだった」

 まるで泣きそうな顔をして、嬉しそうな口調で、誇らしそうに言う。

「それ以前から正義の味方になりたいという思いはあった。だけど、もし『あの人』の言葉が無かったら、私は違った道を生きていただろう。少なくとも――――、天寿を真っ当し、友人に葬式を挙げてもらうなどという展開にはならなかっただろう」
「ふーん。もしかして、その人って、貴方の恋人だった人?」
「さて、どうだったかな……」

 はぐらかしたのか、本当に忘れてしまったのか、私には分からなかった。
 ただ、アーチャーは少し寂しそうな顔をしていた……。

 ◆

 気が付くと、奇妙な場所に居た。
 果てしなく続く荒野。常に黄砂を含んだ風が吹き荒び、目が痛くなる。
 だけど、目を閉じられない。目の前に広がる鋼の墓標を前に、俺は只管圧倒されている。

『……これは』

 名剣と呼ばれるような物は殆ど無い。あるのは良くて博物館にあるような骨董品ばかり、後は包丁やナイフといった日用品。
 だけど、一本だけ異彩を放つ剣があった。

『……これはモードレッドの』

 始まりの夜、ランサーとセイバーの戦いに乱入して来たサーヴァントの剣だ。

『どうして……、こんな物が――――』

 触れようとして――――、

「……んあ?」

 目が覚めた。どうやら、俺は夢を見ていたらしい。
 惜しかった。どうせ夢なら、あの稀代の名剣を手に取ってみたかった。
 白銀に輝く刀身はまさしく王位を象徴するに相応しい美しさだ。
 後少しで手に取る事が出来たというのに――――。

「あ……、ちょっ……、だ、大胆」
「え?」

 何故だろう。掌に凄く柔らかい感触が……、

「し、士郎……」

 寝惚けていた頭が一瞬で覚めた。
 どうやら、昨日道端で倒れた樹を藤ねえの家まで運んで布団に寝かせた後、そのまま俺も眠ってしまったらしい。

「……こ、これが揉まれる感触なのか」

 つまる所、今この瞬間、掌で感じている柔らかさは……、樹の――――、

「ホァア!?」

 吹き飛んだ。さっきの夢の余韻など完全に吹き飛んだ。
 というか、思考そのものが吹き飛んだ。

「あ、えっと、これはその! いや、何ていうか、ち、違うんだ! べ、別に触ろうとか――――」
「ふぎゅ……、うぁ」

 や、柔らかい……。

「じゃなくて! ってか、いつまで障ってるんだ、俺!」

 やばい。掌に思いっきり感触が残っている。未練がましく、もっと触らせろと唸っている。殆ど鷲掴み状態で思いっ切り堪能してしまったせいで、頭の中が邪なものでいっぱいになっていく。
 今まで必死に我慢していたのに一気に溢れ出してしまいそうだ。

「と、とにかくすまない! 本当にすまなかった!」

 逃げ出した。本当に最低の根性無しだ。だけど、今、樹の顔を見るわけにはいかない。元々、色々と限界だったのに、完全に振り切れてしまう気がする。
 廊下を走り中庭に出る。手近な木に向かって、思いっ切り頭をぶつける。

「シ、シロウ!?」
「な、何をしているんですか!?」

 ライダーとセイバーがギョッとした様子で駆け寄って来る。だけど、俺は今、煩悩を払う事に大忙しなのだ。手出し無用!

「うぉぉおおおおお!」
「き、気を確り持って下さい!」
「あ、頭から血ィ! 血が出てる! ボ、ボク、タイガ呼んでくる!」
「お願いします! マスター、どうか落ち着いて下さい! 何があったのですか!?」

 言えるわけがない。大切な家族のおっぱいを思いっ切り握り締めた挙句、劣情を催したなんて、口が裂けても言えない。
 
「……あ」
「マ、マスター!?」

 どうやら、強く打ち付け過ぎたようだ。
 意識が遠のいていく――――……。

 ◇

 樹と初めて出会った日の事を俺はよく覚えている。
 アレは病院での出来事だった。
 樹は病院を抜け出そうと二階の窓から飛び降りようとしていた。
 どうやら、自分の家に戻ろうとしていたらしい。
 まったく、なんて破天荒な女の子だろうと呆れたものだ。

 そうなんだ。
 あの頃の樹は今と違って凄く活動的だった。
 俺が切嗣みたいになりたくて、イジメっ子に殴りに行った時など、エアガンと竹刀を持って俺以上に大暴れだった。
 料理や家事だって、どんどん一人でこなして、俺と切嗣は手伝おうとしても邪魔にしかならなかった。
 魔術に関しても樹は切嗣が『既に完成している』と評するくらいの才能を持っていたし、学校の勉強も常にトップだった。
 だから、俺は樹を単純に凄い奴なんだとずっと思っていた。

 変わってしまったのは多分、切嗣が死んだ頃からだ。
 以前のような元気が無くなって、引っ込み思案な所を見せ始めた。
 だけど、俺はそんな樹の変化に直ぐに気付いてやる事が出来なかった。
 切嗣との約束を守るため……、そんな事、言い訳にもならないけど、俺は只管『正義の味方』になる事だけを目指して日々を過ごしていた。
 遠くの事ばかりを気にして、一番近くに居た大切な家族を蔑ろにしてしまった。
 慎二と出会ったのも確か、その頃だったと思う。
 慎二や周りの奴と遊びに出掛ける事も増えて、余計に家の事が疎かになった。
 その結果がアレだ……。
 樹は酷い虐めにあっていた。
 本人は大した事じゃない、なんて言ってたけど、慎二が周りの奴から聞き出した虐めの内容は身が引き裂かれるかと思う程酷い内容だった。

『なんで、俺は……』

 一番見てなくちゃいけない相手から目を逸らしていた。
 ずっと、後悔のしっぱなしだ。樹は以前のように振る舞ってくれなくなった。
 まるで媚びるように接して来たり、わざと脱ぎ立ての下着を俺の目につく所に置いたり――――。

 鈍い方だって自覚はあるけど、さすがの俺にも樹がどういう意図でそんな真似をしているのかくらい分かる。
 もし、それが本心からの行動だったら、それは凄く嬉しい。
 俺にとって、樹は子供の頃からずっと憧れの存在だったのだから……。

『樹が本当に欲しているのは俺じゃない』

 樹は切嗣の事が大好きだった。俺が切嗣に剣道の指南をしてもらっている時なんて、物凄く嫉妬して来て、藤ねえに習った出鱈目な剣技で殴りかかって来たくらいだ。
 
『樹が本当に好きなのは切嗣だ』

 だけど、樹の大好きな切嗣は死んでしまった。
 大好きな人が死んで、酷い虐めを受けて、一番近くに居た俺はその事に気付いてやれなくて……、折れてしまったんだ。
 俺は樹を守る。何があっても絶対に……、だから、俺は――――、

第二十三話「壊れた世界」

「どういう事だ……?」

 僕は自らの生家を前にしてたたらを踏んだ。ほんの数時間程度、アヴェンジャーと共に情報収集の為に出かけていただけなのに、間桐邸は出掛ける前と一変してしまっていた。
 魔術師としての才能を持たない彼にも分かる程、間桐邸は明確に変貌を遂げていた。

「……おいおい、こいつは」

 アヴェンジャーは自らの宝剣を構え、僕を庇うように立つ。

「臓硯か……?」
「いいや、こんな物を作れるのはオレが知る限り、母上かあの悪魔くらいのもんだ……。あの妖怪如きに作れる代物じゃない」

 アヴェンジャー……、モードレッドの母と言えば、稀代の魔女と名高き妖后モルガンの事だろう。悪魔の方は分からないが確かに臓硯と言えど、彼女が相手では比較対象にもならないだろう。
 だとしたら、考えられる事は一つ。

「キャスターか!」

 モルガン級の魔術師となれば、考えられる可能性は一つしかない。
 魔術師の英霊による襲撃。

「桜!」

 思考が加速する。
 キャスターがここを襲った理由は間違いなく僕達を仕留める為だ。策謀に長けたキャスターがここまで堂々と仕掛けて来た以上、それなりに準備も万端という事だろう。
 だけど、立ち止まっている暇は無い。

「アヴェンジャー!」
「ああ、分かっている!」

 アヴェンジャーは敵の領地と化した間桐邸へ攻撃を仕掛ける。
 その瞬間、突然玄関の扉が開いた。

「ッハ、我が対魔力を舐めるなよ!」

 負けるとは思わない。アヴェンジャーの対魔力は強力だ。現代の魔術は勿論、神代の魔術だろうと無効化してくれる筈だ。
 だから、問題なのは桜の安否だ。一刻も早く救い出さなければならない。最悪、最後の令呪を使ってでも――――、

「は?」

 アヴェンジャーは開いた玄関から中へと突入しようとして――――、その直前で急停止していた。

「どうしたんだ!?」

 様子がおかしい。

「って……、桜!?」

 我知らずアヴェンジャーに駆け寄ると、彼女の前に桜の姿があった。

「近づくな!」

 アヴェンジャーは瞬時に後退して僕の前に立った。彼女の剣先は桜に向いている。

「な、何をしているんだ! 相手は桜だぞ! そんな物を向けるな!」
「黙っていろ! アイツがキャスターのマスターだ!」

 あまりの事に耳を疑った。桜がキャスターのマスターだって? 何を言っているんだ、そんな筈無いだろう。

「――――兄さん。アヴェンジャーの言葉通りよ」

 どうしてだろう? 妹の声なのに……、とても寒気がした。

「桜……?」
「紹介するわ」

 桜は片手を上げた。そこには真紅の聖痕が刻まれている。
 桜の呼び掛けに応えるように空間が歪み、そこから怪しげな格好をした女が現れた。

「まさか……」
「貴方がマスターのお兄さんね? 私はキャスターのサーヴァント。よろしくね」

 嘘だ……。

「……はは、なんだこれ」
「お、おい、マスター?」

 やばい、今まで保ってきた物が零れていくような感覚だ。
 必死に遠くへ逃がそうとした衛宮と飯塚がマスターになってしまった。
 必死に守ろうとした妹がマスターになってしまった。
 僕が守りたかったものがみんな――――、

「おい、しっかりしろよ、マスター!」

 アヴェンジャーに頬を叩かれて、少しだけ乱れた思考が整った。
 そうだ、嘆いている場合じゃない。桜がマスターとなった以上、そこには必ず臓硯の介入があった筈だ。

「桜、臓硯はどこだ?」

 奴は僕との契約を破った。桜は巻き込まない約束だったのに!

「殺したわ」
「……は?」

 一瞬、桜が何を言ったのかが分からなかった。
 殺した?
 誰を?
 誰が?

「臓硯は私が――――」
「待て!」

 桜の言葉を遮るようにアヴェンジャーが声を荒げた。

「マスター、一度落ち着け!」

 アヴェンジャーに肩を揺さぶられる中、僕は頭の中で桜の言葉を反芻し続けた。
 殺した。
 死んだ。
 臓硯が殺されて死んだ。
 臓硯が桜に殺されて死んだ……。

「ァ――――」
「マスター! クッソ、なんだってこんな事に……」

 臓硯が死んだ。なら、僕は一体何のためにあんなにたくさんの人間を犠牲に……。

「ァァ……」

 無駄だった。僕が余計な事をしなければ、最初から桜が臓硯を始末出来たんだ。

「……ハ、ハハ……アッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」

 ああ、世界が崩れていく。僕が犠牲にした人達の怨嗟の声が一層強まる。
 彼の顔が、彼女の顔が、あの子の顔が、あの人の顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が顔が――――……。

 ◇

「マスター!」

 肩をいくら揺さぶっても、頬を叩いても、マスターは涙を浮かべながら笑い続けるばかりだった。
 壊れてしまった。守るべき妹が自らの力で窮地を脱してしまった事でシンジの心の支えが失われてしまった。

「に、兄さん……?」

 サクラはシンジの豹変ぶりに戸惑っている。どうやら、自分がシンジに致命的な一撃を与えてしまった事に気づいていないらしい。
 
「……謝らないぜ。サーヴァントを召喚した今、お前もオレの敵だ」

 人の心というものは存外脆く、思いの外強い。一度完膚無きまでに打ち砕かれたとしても、人は再び新たな意思と共に立ち上がる事が出来る筈だ。
 今は壊れてしまっているが、シンジも再び心を癒やす事が出来る筈。だが、その為には時間が必要であり、目の前の女は邪魔者でしか無い。

「退がりなさい、マスター!」

 いち早く気がついたキャスターが桜の前に躍り出る。
 恐らく逃げられるだろう。だが、ここで倒せなくても別に構わない。
 だって、これは決別の挨拶だ。お前達『マトウ』との――――、

「クラレント・ブラッドアーサー!」

 赤雷を叩き込む。狙うはサクラとキャスターのみならず、その遥か下層で苦しみ喘ぐ者達!

「……あばよ」

 魔力を供給していたラインが途切れるのを確認して、オレはシンジを担ぎ上げると間桐邸の跡地を後にした。