第四十二話「ラスト・ボーイ・ミーツ・ガール」

 障害は全て取り払われた。円蔵山への侵入を阻んでいたギルガメッシュが倒れた今、漸く大聖杯の調査を進める事が出来る。
 今、僕達は皆で大聖杯へ至る洞窟を歩いている。皆は不気味な場所だと眉を顰めるけど、僕はそう思わない。
 光苔に照らされた空間は神秘的で美しい。
 どこまでも続く薄闇、包み込むような温かさ、時折響く鼓動のような音。まるで、母胎の中に居た頃を思い出す安心感と充足感。
 
「――――飯塚さん」

 ここに来る直前までは体調最悪だったのに、今は鼻歌を歌いたい気分。四肢に活力が漲り、実に爽快な気分。

「なーに?」

 浮かれ調子で遠坂さんの声に応えると、彼女は不思議な表情を浮かべていた。

「随分、顔色が良くなったみたいね」
「ウン。さっきまではちょっと体調が悪かったんだけど」

 今はスッカリ元気になった。
 奥の方からは甘い香りが漂ってくる。何だか、心がふわふわするな――――、

「……これは」
「あれ?」

 気が付くと、僕は広々とした空間に居た。皆も一緒だ。一様にどこか一点を見つめている。つられて視線を動かすと、そこには黒い太陽が浮かんでいた、
 東京ドームが十個……、いや、それ以上の数がすっぽりと入ってしまうくらい広い。
 大空洞の中央にはエアーズロックを彷彿させる巨大な一枚岩。あそこに聖杯戦争のシステム……、その大本がある筈。
 大岩の中央には天蓋まで届く黒い炎の柱。どくん、どくんと胎動している。
 
「遠坂家の文献によれば、この始まりの祭壇は『最中に至る中心』だとか、『円冠回廊』、『心臓世界テンノサカズキ』なんて大層な名で呼ばれているそうだけど……、異名通りの規格外っぷりね」
「アレがアンリ・マユ……。この世全ての悪」

 遠坂さんとバゼットさんは顔を引き攣らせている。
 それも仕方の無い事だ。既にサーヴァントがギルガメッシュを含めると五体も取り込まれている。起動の一歩手前まで来ている聖杯は『無尽』とさえ呼べる程の魔力の渦を生み出している。

「……あれ?」

 ちょっと待って、それはおかしい。確か、ギルガメッシュの魂は他のサーヴァント達とは比較にならない程強大で、彼の魂の他にサーヴァント二騎分の魂があれば、それだけで聖杯は満たされる筈。むしろ、二騎分の魂が過剰に取り込まれている事になる。
 それなのに、どうして大聖杯は起動の前段階で止まっているのだろうか?

「――――とりあえず、今直ぐどうにか出来る程、甘いものじゃなかった事は分かったわ」
「え?」
「だって、下手にセイバーやアヴェンジャーの宝具を叩き込んだりしたら、何が起こるか分からないもの。まずは慎重に調査を進めていかないと……」

 違う。僕が驚いたのは――――、

――――どうして、僕は遠坂邸に戻って来ているんだ?

 数秒前まで、僕達は円蔵山の地下にある大空洞に居た筈だ。
 なのに、一体いつの間に移動したんだ?
 視線を下げると、服もさっきまでと違う。
 気が動転し、辺りをキョロキョロ見回すと、時計が目に入った。

「……七時?」

 おかしい。だって、僕達は午前中に円蔵山へ向かった。大聖杯までは確かに時間が掛かったけど、それでも半日以上経過しているなんてあり得ない。

「ああ、もうこんな時間か……。後は夕食の後にしましょう。楽しみにしてるわよ、飯塚さん」
「え?」
「……大丈夫? さっきから、様子が変だけど……。今日は御馳走を作るって、帰りに寄ったスーパーで張り切っていたじゃない。問題は山積みだけど、解決の糸口を掴めたお祝いだって」
「あ……、うん! そう! ちょっと、ドタバタしてたからボーっとしちゃったみたい。ごめんね、すぐに作るから待ってて!」

 僕は逃げるように部屋から飛び出した。
 まったく、何の事だか分からなかった。
 スーパーに寄った? いつの話?
 台所へ向かうと、そこには確かに御馳走を作るための材料が並んでいた。
 一目で分かる。これは僕が用意したものだ。メニューも直ぐに浮かんでくる。
 だけど、用意した記憶が無い。

「なに……、これ?」

 不安に押し潰されそうになる。

「樹!?」

 あまりの事に動揺を抑えきれず、壁に寄りかかっていると、士郎が飛び込んで来た。

「大丈夫か!?」

 士郎の声を聞いて、少しだけ心が落ち着いた。
 
「う、うん。大丈夫……。ちょっと、立ち眩みしただけだよ」

 何とか、笑みを浮かべる。今は正念場なのだ。余計な心労を皆に掛けるわけにはいかない。

「待っててね。すぐに美味しいものを――――」
「いいから、部屋に行くぞ」
「え?」

 士郎は僕の体を抱き上げて、台所から飛び出した。僕に宛てがわれた部屋に飛び込むと、僕をベッドの上に降ろす。
 この展開はもしかして……、

「つ、ついに結ばれる時……?」
「馬鹿な事言ってないで、横になってろ。今、水を持って来る」

 慌ただしく、士郎が部屋を出て行く。
 待って……。僕の声は彼に届かず、僕は――――……。

「どうしたの?」
「……え?」

 いつの間にか、朝になっていた。

「大丈夫か? やっぱり、体調が良くないんじゃ……」

 ライダーと士郎、そして、慎二くんが居る。良く見ると、セイバーとアヴェンジャーの姿もある。

「えっと……、ちょっとボーっとしちゃって……」
「やっぱり、飯塚は屋敷に戻った方が……」
「えー、折角羽根を伸ばしに新都まで遊びに行くのに?」
「だけど、無理をさせるわけには……」

 話が見えない。少し、整理してみよう。
 どうやら、僕は今、バスに乗っているようだ。
 何故か、このメンバーで新都に向かっているみたいだ。

「……えっと、どうして新都に?」

 僕の問い掛けに士郎達は一斉に顔を顰めた。

「おいおい、本当に大丈夫なのか? アヴェンジャーの快気祝いにパーッと羽根を伸ばそうって、お前とライダーが提案して来たんじゃないか」

 そう言えば、アヴェンジャーは先の戦闘で魔力が枯渇寸前となり、ギルガメッシュの攻撃による傷の完治が大幅に遅れていた。
 確か、遠坂さんの見立てでは、数日は体を休める必要があると……。

「そ、そうだったね。なんだか、バスの揺れって絶妙で、ついつい眠気に襲われちゃうんだ」
「……樹。本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ。全然、へっちゃら」

 数日が経過した。一体、いつの間に?
 
「ほらほら、マスターも大丈夫って言ってるし、セイバーとアヴェンジャーの仲を取り持ちたいんでしょ?」

 ライダーが渋い表情を浮かべる二人を説得する。
 その間、僕は彼らに見えないように必死に足を抓った。
 泣きそうだった。気付かない内に時間が進んでいる。記憶障害? それとも、新手のスタンド攻撃か何か? 一体、僕の身に何が起きてるの?
 怖い……。

「じゃーん! これなんかどう?」

 突然、目の前でライダーが白いワンピースを広げてみせた。
 僕達は以前来た事のあるブティックに居た。

「に、似合うよ!」

 慌てて答える。あんまり驚いてばかり居ると、不審に思われてしまうかもしれない。

「なーに言ってるのさー。僕はマスターの服をコーディネートしてるんだよ? ほらほら、着替えてみてよ! シロウに可愛さアピールして、先延ばしになってる答えを聞かせてもらうんでしょ? 最初の目的、忘れちゃ駄目だぜ?」

 完全に忘れていた。というか、知らなかった。
 しばらく、ドタバタ続きだったから、未だに士郎からあの時の返事を聞かせてもらっていない。

「そ、そうだったね。うん。僕、頑張る」

 ライダーにコーディネートして貰った服を次々に試着していく。
 
「うん! これなら、あの朴念仁もイチコロさ!」

 ライダーが最終的に選んだのは白と黄色を基調としたフェミニンコーデ。
 ちょっと、ゆるふわな感じを押し出し過ぎている気がするけど、これならイケる気がする。

「そう言えば、士郎達はどこに……?」
「まだ、みんなもお互いの服を選んでる最中だと思うよ。それより、今度はマスターの番だよ! さあ、ボクにピッタリの服を選んでくれ!」

 なるほど、そういう企画なんだね。
 僕は一生懸命ライダーに似合う服を――――……。

「おー、トレビアン!」
「へ?」
「トレビアンだよ、ト・レ・ビ・ア・ン! 素晴らしいよ、さすがマスター、センスあるー!」

 気が付くと、ボーイッシュな装いのライダーが跳び跳ねていた。多分、僕が選んだのだろうけど、確かに凄く似合ってる。可愛いくて、かっこいい。正に、ライダーの為にあるようなコーディネート。

「さっきのメイド服も面白かったけど、やっぱり、これが一番だね!」

 え、なにそれ、超見たい。

「メ、メイド服……、もう一度着てみない?」
「いいよーって、言いたいけど、もう時間みたいだよ? ほら!」

 凄く悔しい。
 折角のライダーのメイド服姿、是非見たかった。
 けど、どうして、メイド服なんて置いてあるんだろう……、この店。

「あ、居たよ!」

 店を出て、ライダーに先導してもらい、集合場所に向かうと、既に四人は集まっていた。みんな、見慣れないファッションに身を包んでいる。
 セイバーは清楚な感じが良く出ている落ち着いた色を基調としたコーディネート。
 アヴェンジャーは逆に露出の多い、派手目なコーディネート。
 士郎と慎二は似た感じの爽やかスタイル。
 何というか、モデルよりも選んだ人間の個性が出ている気がする。

「モ、モードレッド。さすがにそれは露出が多過ぎると……」
「う、うるせぇ! 選んだのはシンジなんだ! 文句なら選んだ馬鹿に言ってくれ!」

 セイバーとアヴェンジャーは実に親子をしている。何というか、思春期真っ盛りな娘とそんな娘に戸惑いながらも諭そうとする母親の構図だ。

「やっほー、みんな!」

 ライダーが駆け寄って行くと、士郎達の視線がこっちに向いた。

「ど、どうかな?」

 ドキドキしながら、僕は士郎の感想を待つ。

「……可愛い」

 一瞬、何を言われたのか分からなかった。
 どうやら、士郎も自分が何を口走ったのか分からなかったみたい。
 お互いに顔が真っ赤になっている。

「あ、あ、あ、あ……ありがとう」

 蚊の鳴くような声しか出せなかった。

「お、おう」

 その後は記憶が途切れる事も無く、バスで深山町まで戻る事が出来た。
 バスから降り、しばらく歩いていると、セイバーは夜空を見上げながら言った。

「……今日はその……、楽しかったですね」
「うん!」
「だな」
「ああ」
「そうだね」
「……ああ」

 みんな、同じ夜空を見上げながら頷いた。
 途中、記憶が何度も途切れたけど、だけど、凄く楽しかった……。

「ねえ、士郎」
「ん?」
「後で……、聞かせてもらえないかな」

 僕は勇気を振り絞って言った。

「……この前の答え」

 一拍置いて、士郎は頷いてくれた。

「答えるよ。ちゃんと、今度こそ」
「……うん」

 空に浮かぶ星々を見上げながら、僕は喜びの涙を零した。

「そう言えば……、明日は新月だね」

 時の流れは驚くほど早い。もう、聖杯戦争が始まってから、かれこれ半月程になる。

「……父上」

 アヴェンジャーは静かに立ち止まり、決意を篭めた瞳で自らの父を見た。

「決着をつけよう」
「あ、アヴェンジャー……?」

 戸惑う慎二くんにアヴェンジャーは言う。

「楽しかったんだ。楽しくて……、楽しくて……、幸せ過ぎて……、このままだと、オレはこの幸福に流されてしまう」

 アヴェンジャーは言った。

「だけど、オレはこのままで居たくない」
「――――ああ、分かった」

 セイバーは穏やかな眼差しを我が子に向ける。

「受けて立とう、モードレッド」

 二人のサーヴァントはこれから殺し合うにはあまりにも……、穏やかな表情を浮かべていた。

「シンジ……。どうか、見届けてくれ」
「アヴェンジャー……」

 慎二くんは静かに拳を握り締め、震えながら頷いた。

「シロウ。あの時の約束を覚えていますね?」
「……ああ」

 士郎も顔に葛藤を浮かべながら、小さく頷いた。

「場所を移そう。最初の倉庫街で構わないか?」
「ああ、どこでもいい。ただし、全力で来てくれ」
「無論だ」

 不思議だ。セイバーとアヴェンジャーはいつも楽しそうだった。二人は決して、互いを忌み嫌ってなどいない。
 むしろ、互いを気にしあっている。愛し合っている。
 なのに、自然な流れで殺し合いを始めようとしている。

「セイバー……」
「……イツキ。この戦いの結末がどうなろうと、私はいずれ消える身だ。だから、今の内に言っておきます」

 セイバーは柔らかな笑みを浮かべ、頭を下げた。

「ありがとう。貴女が友人や士郎を思い、この戦いに参加する決意を固めてくれたおかげで、この現在がある。こうして、再び、モードレッドと思いをぶつけ合う事が出来る。その事に感謝します」
「セイバー」
「幸せになりなさい、イツキ。マスターの事を頼みますよ」

 場所を倉庫街へ移し、セイバーとアヴェンジャーは互いに距離を取った。

「父上」
「なんだ?」
「オレは……、オレの選択に一つも後悔などしていない!」
「ああ、私もだ」

 二人は剣を構える。

「始めよう、モードレッド。貴公の意思、その剣で示せ!」
「行くぞ、アーサー王!」

 時計の針が日付の境界線を超えた。この日、最後の戦いが始まる。
 この地における『戦い』は多くの人を巻き込み、多くの出会いと別れを産み、遂に最後の瞬間を迎えようとしている。
 始まりと終わりは同義であり、どんな旅もいつかは終わるもの。
 ヒトはその終わりにどこに辿り着くのか……。

 その日は全てが終わり、全てが始まった日。
 運命の再誕……、絶望と希望が渦巻く聖杯戦争の最終幕。

第四十一話「別れ」

 セイバーとアヴェンジャーは大地に降り立つと同時に第二撃目の準備に入った。
 魔力を即座に剣へと注ぎ込み、直感と僅かに感じる魔力の淀みを頼りに狙いを定める。
 遠坂凛の読みは当たっていた。
 敵の強さを普通ならあり得ないと一蹴するレベルのその上に設定した作戦。
 アーチャーのAランクオーバーの宝具の『壊れた幻想』をほぼゼロ距離で受けた時点で並みのサーヴァントなら即死している筈だった。
 そこにセイバーとアヴェンジャーの最上級宝具による同時攻撃。
 この波状攻撃を受けて尚、あのサーヴァントは生きている。
 
「約束された勝利の剣―― エクスカリバー ――ッ!!」
「我が麗しき父への叛逆―― クラレント・ブラッドアーサー ――ッ!!」

 間髪入れずに叩き込まれた二度目の同時攻撃。
 巻き上げられた粉塵は一気に吹き飛ばされていく。
 そして――――、ここまでやって尚、依然として威風堂々と君臨し続ける黄金のサーヴァントの姿に二騎の英霊は言葉を失った。
 鎧こそ殆どが砕け散っているものの、その身にダメージの通った形跡は見受けられない。
 
「馬鹿な……」

 セイバーにとって、あの英霊との遭遇は二度目となる。
 嘗て、自身が参加した第四次聖杯戦争の時、彼はアーチャーのクラスで現界し、セイバーと聖杯を競って戦った。
 あの時も他のサーヴァント達を圧倒する力を見せたが、よもや、ここまでとは思わなかった。
 
「――――久しいな、セイバー。本来ならば、再会を祝したい所だが……、些か、戯れが過ぎたな」

 空気が震える。

「無闇矢鱈と吠える犬には仕置が必要だ。なに、お前ならば一撃で消滅する事は無かろう。まずは痛みだが、安心しろ、セイバー。我が与えるモノは苦痛ばかりでは無いぞ。女としての極上の悦びも与えてやる」
「貴様!」

 その言葉に激昂したのはセイバーではなく、アヴェンジャーだった。
 
「侮辱したな……、我が父上を!」
「ま、待ちなさい、モードレッド!」

 アヴェンジャーは三度目となる攻撃の動作に入る。
 その唇が魔剣の名を紡ごうとするが、それより先に限界が来た。
 彼女はマスターから常に魔力を供給されているわけでは無い。
 二度に渡る宝具の発動によって、既にギリギリまで魔力を削っていた。
 三度目の発動はおろか、その予備動作に入っただけで魔力は枯渇寸前まで減少した。
 倒れるアヴェンジャーに対して、黄金のサーヴァントは一振りの剣を投げつけた。
 突き刺さる赤黒い剣。復讐の呪詛を含んだ宝具が疲弊したアヴェンジャーの身を蝕む。
 苦しみに喘ぐ彼女に対して、奴はつまらなそうに言った。

「悶え方まで穢らわしい。所詮、紛い物では本物の輝きに遠く及ばぬか」

 その言葉を聞き、セイバーは意識する前に駆け出していた。
 一度はその心臓を自らの手で串刺した相手。
 嘗て、己は彼女を我が子と認めず、王の後継としても認めなかった。
 あの時は――――、それが王として正しい決断だった。

「き――――」

 だが、今は――――、

「貴様ァァァ!!」

 治めた国も滅び去り、王と呼ばれた日々は遠い過去となった。
 今はただ、一人のサーヴァントであり、一人の……、アルトリア。

「よくも――――、貴様ッ!!」

 セイバーは聖剣を振り上げる。
 自身も二度に渡る宝具の発動によって疲弊している筈なのに、彼女の覇気は一切の衰えも見せない。

「……これだ。これこそが本物の輝きだ。いいだろう、セイバー。興が乗った。我も我の全てを見せてやろう」

 そう呟くと、奴は背後の揺らぎから酷く異質な剣を取り出した。
 見た目は円柱。三つのパーツで作られた刃はそれぞれ別方向にゆっくりと回転している。

「――――我が名はギルガメッシュ。最も古き時代、まだ世界が一つだった頃、我は王として大地に君臨し、あらゆる財宝を集めた。お前達の扱う宝具とやらは、元を辿れば我が生前に宝物庫へ収めた有象無象の武器の中の一摘みに過ぎぬ」

 光が収束していく。

「後に英雄達の武勇を象徴する名高き宝具となる武具達も、我の手にある内は全て無名であり、我しか持ち得ぬ武具というわけではない。だが、これは違うぞ。正真正銘、この英雄王しか持ち得ぬ逸品よ。銘など無く、我は『乖離剣―― エア ――』と呼んでいる」

 ギルガメッシュの言葉に応じるが如く、エアの三つの刃が音を立てて回転する。
 
「約束された―― エクス ――」

 セイバーは魔力を限界まで篭めた聖剣の真名を口にする。
 直後、ギルガメッシュもまた自らの必殺の名を紡ぐ。

「天地乖離す―― エヌマ ――」

 セイバーの聖剣の輝きと同位の輝きがギルガメッシュの持つエアから迸る。

「勝利の剣―― カリバー ――ッ!」
「開闢の星―― エリシュ ――ッ!」

 同時に紡がれた必殺の祝詞。
 その刹那、セイバーの隣に一人の男が降り立った。
 ヒポグリフによる空間跳躍によって、ギルガメッシュの探知能力を掻い潜り、現れた隻腕の騎士は自らの残った拳の上に奇妙な球体を浮かべている。

「後より出でて先に断つ者―― アンサラー ――」
 
 既に戦線から離脱したヒポグリフに跨る彼のマスターの手の甲は白魚のように美しく、傷ひとつ無い。
 そこにある筈の真紅の聖痕は見る陰もなかった。
 最後の令呪によって、彼に下された命令は『限界を超えた投影』。
 不可能という言葉を一度切りという条件の下で覆す。
 彼が創り上げたソレは人の手によって創造されたモノに非ず――――、神によって造られた神造兵装。

「斬り抉る戦神の剣――フラガラック――ッ!!」

 それは本来、ランサーのマスターであるバゼット・フラガ・マクレミッツの秘奥の名。
 神代の魔術たるフラガラック――――、その力は不破の迎撃礼装。
 呪力、概念によって護られし神の剣がギルガメッシュの心臓に狙いを定め、宝具同士の激突によって発生した暴虐の嵐を超え、一直線に飛来する。
 己の切り札を解き放った直後のギルガメッシュに咄嗟に逆光剣・フラガラックを防ぐ手段は無く、セイバーのエクスカリバーではギルガメッシュのエヌマ・エリシュを凌ぎ切る事が出来ないという事実の前にアーチャーも為す術が無い。
 故に、この後に待ち受ける戦いの決着は相打ち。
 しかし、何事にも例外というものは存在する。
 結果として待ち受けるものが相打ちであるならば、この宝具の担い手はその結果を勝利へと覆す。
 逆光剣が斬り抉るは敵の心臓では無く、両者相討つという運命そのもの。
 それこそがフラガラックという神剣に宿りし奇跡。
 敵が切り札を行使した直後に発動し、相手が如何な高速を持とうと更なる高速をもって命中、絶命させる。
 その必中の精度、必勝の速度、必殺の攻撃力は確かに誇るべきものだろう。
 しかし、この魔剣の真の恐ろしさはその特性にある。

 後より出でて先に断つ――――。

 その二つ名の通り、フラガラックは因果を歪ませ、自らの攻撃を『敵の切り札の発動よりも先に為した』というものに書き換えてしまう。
 どれほどの強力な宝具を持つ英霊であろうとも、死者にその力は振るえない。先に倒された者に反撃の機会を与えられる事は無い。
 フラガラックとは、その事実を誇張する魔術礼装であり、運命を歪ませる相討無効の神のトリック。
 如何に優れた英雄であろうと、歪められた運命の枠から逃れる事は出来ない。
 吸い込まれるように己が心臓を穿った神の剣にギルガメッシュは屈辱に満ちた表情を浮かべた。

「――――これで、今度こそ詰みだ、英雄王」

 エヌマ・エリシュの発動が無かった事になる。
 それはつまり――――、エクスカリバーの光線と化した斬撃が何の障害も無く、標的に向かって突き進む事を意味している。

「馬鹿な……、この我が――――……」

 光に呑み込まれていくギルガメッシュ。
 今度こそ、その存在は完膚無きまでに現世より消失した。

「……っと、オレもか」

 ギルガメッシュ討伐の立役者もまた、現世から去ろうとしていた。
 既に限界に達していた状況で、身に余る頂きヘ手を伸ばした代償は大きかった。

「アーチャー!」

 彼のマスターは血相を変えてヒポグリフから降りて来る。

「……どうやら、ここまでのようだ」

 アーチャーは相変わらずの態度で肩を竦めて見せた。

「あ、あんた……」
「すまなかったな。君を勝者にするという約束を果たせなかった」
「……まったくよ、この嘘つき」

 凛の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。
 
「感謝するよ、遠坂」
「……え?」

 アーチャーは凛の頭に手を乗せ、満面の笑顔を見せた。

「君のおかげでオレの願いは叶った」
「願いって……?」
「直に分かるよ。……というか、薄々感づいているんじゃないか?」
「……じゃあ、貴方はやっぱり」
「そういう事だ」

 凛は深々と溜息を零した。

「……まあ、許してあげる。一応、ラスボスっぽい奴を倒したもんね。まあまあの戦績って所かな」

 アーチャーはクスリと微笑った。

「これから、『オレ』は君に大いに迷惑を掛ける事だろう。いや、『オレ達』というべきか……」

 そう言うと、アーチャーはアヴェンジャーに駆け寄る慎二を見た。

「出来れば、笑って許してくれ」
「……その時次第かな」

 主のそうしたツレナイ反応にアーチャーは心底嬉しそうな笑みを浮かべた。

「ああ、安心したよ。君がそういう態度を取る時は『了解した』の合図だからね」
「……随分と長い付き合いになるみたいね」
「それなりに……っと、そろそろ時間のようだ」

 アーチャーの姿は既に半分以上が消滅していた。

「マスターが君で良かったよ。実に退屈しない時間を過ごせた」
「素直に楽しかったって言えないわけ?」

 互いに微笑み合う。そして、アーチャーは完全に消滅した。
 実にアッサリとした別れ方だが、これこそ自分達らしい別れ方だと凛は思った。

「任せなさい、アーチャー。アンタは私が管理するこの土地を守る手助けをしてくれた。なら、その報酬分くらいは働いてあげる」

第四十話「怒涛」

 イリヤ達との話し合いを終えた私は自室に篭っていた。
 
「桜……」

 本当なら、私も慎二と一緒に桜を捜しに行きたかった。桜は元々、遠坂家の者……、つまり、私にとって、妹にあたる存在だ。だけど、父の意向によって、彼女は間桐の養子となり、私と彼女は他人同士となってしまった。その上、両家の間で交わされた不可侵条約によって、会って言葉を交わす事も出来なかった。
 慎二に同盟の話を持ち掛けようと、間桐邸を訪れた時、間桐の魔術について記された書を見つけた。桜が聖杯戦争に参加するために自らの意思でキャスターのマスターとなった事を知った時、その理由が直ぐに間桐の屋敷で見つかった書物と繋がった。
 桜は間桐の後継者を生み出すための母胎として、肉体を弄られていた。刻印蟲によって、身も心も穢され尽くし、あらゆる尊厳を奪われ、日々を過ごしていた。

「……今更よね」

 それを知った所で今更過ぎる。私は桜が間桐に貰われていく時、父の意向だから、と反対せずに彼女の背中を見送った。あの時、私は彼女の姉である権利を放棄した。
 あの子にとって、もはや家族は慎二だけだ。あの子を探すのも、救うのも、私では無く、今は慎二の役割。慎二にだけ、許された権利だ。

「未練がましいったら、ありゃしない……」

 自業自得だ。慎二に対して、嫉妬や憎悪を抱く権利など無い。私は自らの手でそれらの権利を放棄してしまったのだから、今更、彼女の為に何かしようなど、おこがましいにも程がある。
 だけど……、胸がさわめく。彼女が無事である事を祈らずにはいられない。

「桜……、どうか、無事でいて」

 例え、慎二がここに連れて帰ったとしても、彼女とは永遠に他人同士。慎二が兄として彼女に接する時、私は赤の他人として、その姿を遠巻きにしか見る事が出来ない。
 それでも、彼女の笑顔が見たい。また、弓道場で彼女が袴を着ている姿を見たい。あの子が……、少しでも幸福だと思える姿が見たい。

「――――リン!」

 いつまでそうしていたのか分からない。気がつけば、空は茜色に染まっていた。
 手の甲に鋭い痛みを感じ、顔を上げた途端、部屋を慌ただしくノックする音が響いた。ガチャガチャと音を立て、扉のノブが回る。

「イ、イリヤ?」

 入って来たのはイリヤだった。後ろにはバゼットの姿もある。

「シ、シンジから連絡が届いたわ!」
「慎二から!? まさか、桜が見つかったの!?」

 私はベッドから飛び起きてイリヤに詰め寄った。すると、私の手をバゼットが掴んだ。強引に私を引っ張り、彼女は言った。

「妹とは再会出来たそうですが、そこで例のサーヴァントと遭遇したそうです。どうやら、彼の妹を狙って現れたらしい。今はアーチャーが応戦していると」
「アーチャーが!?」

 私は手の甲に視線を向けた。痛みの正体、それはアーチャーが臨戦態勢に入った事で、魔力が引っ張られている事に起因したものだったのだ。
 
「場所はアインツベルンの森です。今から移動手段を用意していては手遅れになる。今、セイバーのマスターがライダーの説得をしています」

 頭をフル回転させる。とにかく、状況は切迫している。
 アーチャーを令呪で強制離脱させる事はまだ出来ない。あの謎のサーヴァントは得体が知れな過ぎる。奴が桜を狙っているなら、応戦中のアーチャーを呼び戻す事は彼女を危険に晒す事と同義だ。
 一刻も早く現場の情報を掴む為にも、桜を救い出す為にも、バゼットの言う通り、ライダーに動いてもらわなければならない。

「……最悪。こんな時に」

 私は昨夜、彼女のマスターを見殺しにしようとした。ライダーは逆鱗に触れられた竜の如く怒り、屋敷に戻った後も地下で私達に殺意を振りまいている。
 さすがに攻撃こそしてこないけど、今の彼女に力を貸してもらう事など果たして出来るだろうか……。

「遠坂さん」

 一階に降りて行くと、そこには予想外の人物が居た。
 未だ、意識を失っている筈の飯塚さんが衛宮君とライダーに支えられながら立っていた。

「慎二くん達やアーチャーが危ないんでしょ?」

 思わず、言葉が詰まった。ついさっき、切り捨てようとした相手から救いの手を差し伸べられる。その手を気軽に取っていいものかどうか迷いが生じた。
 けれど、私が口を開くより先にバゼットが口を開いた。

「感謝します」

 ライダーは相変わらず私達に殺意を向けているけれど、口は出さない。
 マスターの意思を尊重しているようだ。さもなければ、厚顔無恥な頼み事をしている私達の首を彼女はとっくに落としていた筈だ。

「……ありがとう」

 ライダーのヒポグリフには私とセイバーが乗り込むことになった。
 令呪の発動が必要になる事もあり得たからだ。ライダーは終始無言のまま、ヒポグリフを疾走させた。
 アインツベルンの森へはものの数秒で到着した。
 鷹の目ならぬ、鷲の目と言ったところか、ヒポグリフは瞬時に慎二達を捕捉し、降下した。

「桜!」

 ヒポグリフが地上に降りると同時に私は居ても立ってもいられずに飛び降り、桜の下へ走った。

「と、遠坂先輩……?」

 ギョッとした表情を浮かべる桜を見て、一気に頭が冷えた。

「……無事みたいね」
「は、はい」

 うっかり、この危険で異常な状況が私達の距離を埋めてくれるかもしれないなどと錯覚した。
 当然の如く存在する距離感に拳を握りしめる私に慎二が言った。

「遠坂。アーチャー一人で奴の相手はキツイぞ」
「分かってる。一応、作戦は考えてあるわ」

 ◆◇◆

 地平まで届く荒野。大地に突き立てられた、無数の剣。
 名も無き英霊の生前の足跡がここにある。
 
「……味噌汁、美味しかったな」

 世界に命じる。目の前の脅威を打ち砕け――――、と。

「これは固有結界か……、味な真似を」

 英雄王は唇の端を吊り上げた。
 あの時と同じだ。オレは一度、目の前の英霊と戦った事がある。
 結果は惨敗だった。味方は皆、奴の無限の宝具を前に倒れ伏した。
 そして――――、アレが現れた。

「さて、始めようか、英雄王」
「ほう……、どうやら、どこぞかの時空で蹂躙した小者と見える。良い、雪辱を晴らすが良い。その贋作で出来るのならな!」

 結果は変わらない。時の流れが決して留まる事の無いように、動き出した運命は止まらない。十年前の時点で、それは既に決定している。
 だけど、少しくらい、引き伸ばす事は出来るかもしれない。

「どうした? その程度では、足止めにもならんぞ」

 圧倒的な物量に同数の物量をぶつけるだけの無骨な戦い方。
 これがオレの本来の戦い方だ。剣技も弓技も全ては才能が無い中で永い時を掛けて必死に磨き上げたもの。こと、目の前の男との一戦においては何の役にも立たない。剣の射出の合間に弓で螺旋の刃を撃つが、盾の宝具でアッサリと防がれた。
 唯一、こちらが優っている点は奴がゲートを開き、刃を射出するというダブルアクションを要するのに対して、此方はただ命じるだけのシングルアクションで刃の射出が可能という点だ。
 刀剣に限定されるオレとあらゆる宝具の原点を保持している英雄王では、ステージが違い過ぎるが、それでも僅かな時を稼ぐ事は出来る。

「興醒めだな……。初めから、勝つ気も無いとは――――」

 つまらなそうに奴は言った。

「下らぬ手間を掛けさせた罰だ。せめて、その死に様で我を興じさせよ」

 奴は自らの蔵から一振りの大鎌を取り出した。振られた瞬間、数十メートルは離れている筈なのに、オレの腕が切り飛ばされた。
 一瞬、意識に空白が混じり、次の瞬間、上空から無数の宝具が群れをなして降って来た。咄嗟に盾の宝具を展開する。嘗て、大英雄の投擲を防いだ英雄の盾は僅かにオレの命を永らえさせた。けれど、それは一時しのぎにもならなかった。
 気が付くと、オレは全身を布状の拘束宝具によって束縛されていた。アイアスの盾が防いでくれたのは投擲によって射出された宝具のみ。地を這い、己を付け狙う拘束宝具までは防いでくれなかった。
 目の前に浮かぶ宝具の数は両手の指を使っても数え切れない。

「終わりだ、贋作者」

 ギルガメッシュの号令によって、無数の宝具がその矛先をオレに向ける。
 終わりだ。この攻撃を防ぐ術は無い。拘束宝具に束縛された時点で、固有結界は解除されている。魔術回路をフル回転させて投影による迎撃を行っても、もって数秒だろう。
 勝てない事は分かっていた。あの時もそうだった。オレは奴に一太刀も入れることが出来ず、たった一振りの……、何の神秘も持たない無銘の剣によって切り裂かれ、動けなくなった。
 そして――――、奴は彼女に手を出し、そして……、そして――――、

「――――ああ」

 彼女が作った味噌汁を飲んだ時から記憶の再生は始まっていた。他人から見れば、とてもくだらない事に思われるかもしれない。けれど、オレの人生にとって、あの味噌汁はとても特別だった。

“了解だ”

 正義の味方の体現者――――、それは個人を指すものでは無い。
 歴史上、大衆が望む『正義の味方』という概念を体現した者達が『無銘』という一個の英霊になる。その存在は召喚者や召喚地点、召喚時の環境によって変化する。
 実体無き、架空の英雄。オレはその体現者の一人だったに過ぎない。もし、召喚者が違えば、また別の正義の味方が召喚に応じた筈だ。
 そもそもの話だが、遠坂凛は別に『正義の味方』や『名も無き架空の英霊』を望んで召喚したわけでは無い。彼女は一切の触媒を使わずに召喚に望んだ。故に、彼女が召喚する英霊は『彼女に縁を持つ英霊』でなければならなかった。
 彼女の性質に引き寄せられる英霊も居た事だろう。触媒を使わない事が条件となる英霊も居た筈だ。女である事や、日本人である事などが触媒となる可能性もある。
 だが、『オレ』という存在は中でも群を抜いて彼女と強い縁を結んでいる。
 生前、彼女から譲り受けた一つの礼装。当時のオレには足りない部分を補う為、彼女はオレにソレを譲ってくれた。
 ■を■■為に使ったソレはオレの覚悟の象徴となり、オレが『無銘』となる為に必要不可欠なものだった。故に、それが触媒となった。
 英霊の側が触媒を保有しているという逆転現象によって、遠坂凛はオレを召喚した。

「トレース――――」

 この世界では未来の話となる。恐らく、結末は変わらない。だが、その過程を変える事は出来る。

「――――オン!」

 ソレは遠坂家に伝わる家宝。魔法使いが魔力を注ぎ入れた至高の逸品。
 たった一度の固有結界の発動で枯渇する事など有り得ず、この中には未だ、莫大な魔力が宿っている。
 
「熾天覆う七つの円環!」

 莫大な魔力を糧に強引に投影を行う。

「……悪足掻きを」

 ああ、精々足掻かせてもらおう。

「――――投影、開始」
 
 可能な限りの数の設計図を展開する。

「無駄だと分からぬか、雑種!」

 工程完了――――。全投影、待機。
 盾は徐々に削られていく。だが、ギリギリ間に合った。

「――――停止解凍、全投影連続層写」

 奴が撃ち出す攻撃も、奴自身の事すらも無視して、投影した宝具を地面に向けてバラ撒く。

「贋作者――――、貴様ッ!」

 気付いたようだ。だが、遅い。

“令呪をもって命じる”

 ラインを通じて、遥か上空から聞こえぬ筈の声が届く。

“私の下へ来なさい、アーチャー!”

 瞬間、地面にバラ撒いた宝具を一斉に破裂させる。
 転移によって、上空数千メートルの位置に移動した私は大地を揺るがす破壊の光に思わず苦笑した。

「……少々、やり過ぎたかな」
「これで倒れてくれたら楽なんだけどね」

 傍らに佇むマスターの苦み走った口調に全くの同意見だ。
 だが、このような事態でも無ければ、こんな奇跡は起こるまい。
 遥か眼下に二つの光が降下していくのが見える。
 赤と青の光は共に桁違いの魔力を己の剣に篭め、未だ煙が舞う大地目掛けて振り下ろした。

「エクスカリバー!」
「クラレント・ブラッドアーサー!」

第三十九話「EMIYA」

 あれから一夜明けた。樹は今も目を覚まさない。ただ、疲れて眠っているだけだと信じたいけど、倒れる直前に樹が呟いた不吉な言葉が頭にこびり付いて離れない。

『……この娘に残された時間は少ない。大事にしてやれ』

 キャスターとイリヤはあの時の樹を指して、『ヘラクレス』と呼んだ。
 全身に広がった刺青。別人のような顔つき。二騎のサーヴァントをあっという間に葬った剣技と弓技。
 あの時の樹は確かにいつもの彼女とは違っていた。

「樹……、お前、どうしちゃったんだよ……」

 いくら考えてみてもサッパリ分からない。
 今、彼女は屋敷の地下で眠り続けている。一度、樹を見捨てようとしたバゼットと遠坂に激怒したライダーが他人を寄せ付けないのだ。一応、俺とセイバー、アーチャーの三人に対してはある程度の譲歩を見せてくれるけど、他の面々に対しては殺意すら抱いている。
 
「……俺は」

 俺もライダーに殺意を向けられるべきだ。だって、あの時、俺は迷ってしまった。樹を助けるか、見捨てるかという選択肢の中で迷ってしまったのだ。
 誰よりも、何よりも大切な存在だと思っていた筈なのに、俺は――――、

「……ちくしょう」

 どうして、俺はあの時、迷わず樹を助けるという選択が出来なかったんだ……。
 
「馬鹿か、俺は……」

 分かっている筈だ。俺はあの時、秤にかけたのだ。
 樹の命とその他大勢の命を秤に掛け、それ故に迷ったのだ。
 正義の味方として、どちらを選択するべきなのかを考えてしまった。

「馬鹿野郎……」

 多を救うためには小を切り捨てなければならない。
 それが正義の味方の在り方だ。
 
『いいかい、士郎。誰かを救うという事は、誰かを助けないという事なんだ。正義の味方に助けられるのは、正義の味方が助けたモノだけなんだよ。 当たり前の事だけど、これが正義の味方の定義なんだ』

 嘗て、養父が俺に言った言葉が甦る。
 これが真実だ。俺が目指すべきもの。俺の理想。その為に、俺は小を切り捨てようとした。
 例え、その『小』に自らにとって大切な存在が含まれていようとも、正義の味方は決断しなければならない。『多』を救う為に――――。

「馬鹿野郎……。馬鹿野郎……」

 その為に樹を死なせるつもりだったのか? ずっと一緒に居た樹を?
 たった二人の家族の死を容認しようとしたのか?

「巫山戯るなよ……。なんだよ……、ソレは」

 だけど、仕方がない。あの時、もしも樹が自らの手で窮地を脱する事が出来なかったら、俺達は死んでいた。

「巫山戯るな……」

 俺達が死ねば、大聖杯の異常を正す事が出来なくなる。
 それは十年前の災厄を再現する結果を齎す。
 多くの人間が死ぬ。多くの悲しみが生まれる。ならば、その根源を正す為、正しい選択をしなければならない。

「馬鹿野郎……」

 たった一人の犠牲で大勢の人間が助かる。ならば、考えるまでも無い。
 万人の命の価値は等しく、後はその総量をもって、救う者を選別する。そこに私情を挟み込む余地など存在しない。

「……俺は」

 ずっと一緒に居たんだ。病院で、初めて顔を合わせた日からずっと……。
 毎日、樹が作る御飯を食べて、同じ屋根の下で一緒に寝て、ずっと一緒に……、一緒に居たんだ。

「樹……」

 俺のたった一人の家族だぞ。誰よりも大切な人なんだぞ。
 天秤になんて掛けるなよ。犠牲になんて、していいわけが無いだろ。

「……ああ」

 また、同じ事が起きたら、俺はどっちを選択するんだ?
 また、迷うのか? また、樹を犠牲にしようとするのか?

「迷うもんか……。俺は――――」

 俺は正義の味方だ。
 俺は樹の家族だ。
 俺は正義の味方。俺は樹の家族。俺は正義の味方。俺は樹の家族。俺は正義の味方。俺は樹の家族。俺は正義の味方。俺は樹の家族。俺は正義の味方。俺は樹の家族。俺は正義の味方。俺は樹の家族。俺は正義の味方。俺は樹の家族。俺は正義の味方。俺は樹の家族。俺は正義の味方。俺は樹の家族。俺は正義の味方。俺は樹の家族。俺は正義の味方。俺は樹の家族。俺は正義の味方。俺は樹の家族。俺は正義の味方。俺は樹の家族。俺は正義の味方。俺は樹の家族。俺は正義の味方。俺は樹の家族。俺は正義の味方。俺は樹の家族。俺は正義の味方。俺は樹の家族。俺は正義の味方。俺は樹の家族。俺は正義の味方。俺は樹の家族。俺は正義の味方。俺は樹の家族。俺は正義の味方。俺は樹の家族。俺は正義の味方。俺は樹の家族。俺は正義の味方。俺は樹の家族。俺は正義の味方。俺は樹の家族。俺は正義の味方。俺は樹の家族。俺は正義の味方。俺は樹の家族。俺は正義の味方。俺は樹の家族――――……。

「……ぁぁぁああああああああああ」

 分かってしまう。俺はまた迷う。樹の命とその他大勢の命を秤にかけてしまう。

「これが……、正義の味方?」

 人の命を軽んじている。まるで、オセロでもしているかのように、人の生き死にを判断している。
 吐き気がする。これが正義だと? これこそが、正義の味方が討つべき、悪の思想では無いのか?

「俺は……、俺は……」

 ◆

「どう思う?」

 遠坂凛はイリヤスフィールに問い掛けた。

「……仮説なら立てられるわ」

 イリヤスフィールは言った。

「彼女はあの時、自らの肉体を媒介にヘラクレスを憑依というカタチで召喚した」
「それって、可能なの?」
「普通なら不可能。だけど、以前見た、イツキの魔術はかなり特異なモノだったわ。何というか……、見た目は『炎』なんだけど、その実、中身は思念の塊みたいだった。恐らく、イツキの魔術は『霊魂』を操るもの。ガンドのように自らの魂を使うのでは無く、彼女は他者の魂を扱う事が出来るんだと思う」
「……いくら、霊魂の扱いに長けているとは言っても、英霊の魂を憑依させるなど、自殺行為に思えるのですが」

 バゼットの言葉にイリヤスフィールも頷く。

「英霊……、それもヘラクレスという規格外の大英雄の魂を憑依させるなんて、ちっぽけなバケツに湖の水を注ぎ入れるようなもの。あっという間に溢れ返って、押し潰されて終わる筈」
「だけど、彼女はヘラクレスとしての戦闘能力を発揮し、宝具まで使って見せた。その上で、今も意識こそ失っているものの、生き長らえている」
「……余程、親和性があったのか、それとも別の要因が絡んでいるのか……、いずれにしても、注目すべき点は別にあるわ」

 イリヤスフィールの言葉に凜が眉を潜めた。

「別って……?」
「ヘラクレスの魂を彼女がどこから持って来たのか、という点よ」
「……あ」

 ポカンとした表情を浮かべるバゼットと凜にイリヤスフィールは言った。

「考えられる可能性は一つ。恐らく、彼女は大聖杯と繋がっている」
「大聖杯と……?」
「イツキは十年前の大災害の被災者だった。あの火災が聖杯の起動によるものなら、その時、何らかの要因でイツキが大聖杯と繋がってしまったとしても不思議では無いわ」
「何らかの要因って?」
「それはまだ分からない。出来れば、直接、イツキと話す事が出来ればいいんだけど、まだ眠ったままだし、何よりも、ライダーが私達を寄せ付けない」

 困ったものだと凜は溜息を零した。
 あの時は樹を見捨てる以外に選択肢など無かった。さもなければ、全滅していた。
 
「立ち止まってる暇なんて無いっていうのに……」
「……いえ、キャスターが倒れた今、私達の障害はあの謎のサーヴァントだけだ。なら、しばしの間、休息を取る事も悪くないと思います」

 バゼットの言葉に凜は目を丸くした。

「あら、貴女ならグズグズしてないで、さっさと大聖杯の調査に乗り出すべきだ、くらい言うと思ったけど?」
「……私はサーヴァントを失った身です。なら、サーヴァントを保有している方々の状態回復を優先するのは当然です」
「……そうだった。ランサーの事、残念だったわね」

 キャスターを討伐すれば、ランサーが戻って来る。そう期待していた彼女にとって、樹によって彼が討伐されてしまった事は痛手だった筈だ。

「正直言うと、少し堪えています。ですが、泣き言を言っていられる状態では無い。私はイツキが目覚めた時、万全な状態であの謎のサーヴァントに挑めるように準備を整えるまでです」

 相変わらず、演技が上手い。
 本当は泣きそうな癖に、鉄面皮で自らの感情を上手く隠している。
 凛は小さく溜息を零した。

「確かに泣き事を言っていられる状態じゃないわね。まずは飯塚さんの目覚めを待ちましょう。彼女が問題無いようだったら、今度こそ円蔵山に向かう。そして、あの謎のサーヴァントが現れたら対処する。それでオーケー?」

 ◆

 キャスターが倒れた。なら、桜はどうなった?
 僕はアヴェンジャーと遠坂から借りたアーチャーを伴い、市内を走り回っている。
 樹の事も気になるが、今は桜の方が重要だ。キャスターを失った事で桜がどう行動するかが全く分からない。

「どこだ……。どこに居るんだ、桜!」

 今度こそ、桜は聖杯戦争から開放された。だけど、この街には遠坂達が遭遇したという謎のサーヴァントが居る。万が一、桜がソレと遭遇したら、そう考えると頭の中が真っ白になる。
 アヴェンジャーとアーチャーが逐一情報を使い魔越しに伝えてくれるけど、手掛かりは一切掴めていない。
 隠れ家に出来そうな場所はこれで全て見て回った筈だ。
 港の倉庫街。郊外の幽霊屋敷。市内の空き家。
 後は――――、

「ここか……」

 残された場所はアインツベルンの森。イリヤスフィールが放棄した拠点だ。
 アヴェンジャーとアーチャーに脇を固めてもらい、僕は森の中を進む。

「……止まれ」

 半日ほど歩いた所で、不意にアーチャーが口を開いた。
 緊張した声。嫌な予感がする。

「何かが居る……」

 僕は居ても立ってもいられなくなり、無我夢中で駆け出していた。
 
「桜! 居るのか!?」

 森を抜けた。そこには寂れた小屋があった。
 そして、そこに男が立っていた。
 金髪の男が桜に迫っている。

「桜!」
「に、兄さん!?」

 桜と男との間の距離は数メートル。桜は明らかに怯えていて、男は明らかに危険な香りを漂わせている。

「桜から離れろ!」

 僕は駆け出した。そして――――、

「いや、お前は待ってろ」

 アヴェンジャーが僕の服の襟を掴んで止め、自らが男に向かって疾走していく。
 男は向かってくるアヴェンジャーに対して不快そうに鼻を鳴らした。

「……紛い物が」

 瞬間、目の前に息を呑むような光景が広がった。
 広がる波紋。奴の背後の空間が、まるで水面の如く揺らぎ、無数の武器が顔を出した。その数、二十を超える。

「アヴェンジャー! そのまま、駆け抜けろ!」

 アーチャーが叫ぶ。
 何を考えているんだ! 僕は声を荒げそうになりながら、背後のアーチャーを睨みつけ、更なる驚きによって気勢を削がれた。
 そこには幾つもの刀剣が浮かんでいた。疾走する刃がアヴェンジャーを狙う金髪の男の武器を弾く。
 何が起きているのかサッパリ分からない。

「――――ッチ、贋作者風情が」

 金髪の男は迫り来るアヴェンジャーから逃げるように跳躍した。アヴェンジャーは男に目もくれず、桜を確保すると同時に戻って来る。

「テメェが円蔵山に現れたっていう、謎のサーヴァントか?」
「……口の聞き方を弁えぬ愚か者め。その不敬、死をもって償うが良い」

 再び、奴の背後に揺らぎが生じる。波紋から顔を出す武器の数はさっきの倍以上だ。

「……これは不味いな」

 アーチャーが小さく呟いた。

「慎二。桜を連れて、退却しろ。ここは私が引き受ける」
「え?」

 僕が何かを言う前にアーチャーは前へと飛び出して行った。

「――――I am the bone of my sword.」

 アーチャーはアヴェンジャーに何かを呟くと、彼女に何かを持たせ、僕の方へと突き飛ばした。

「Unknown to Death.Nor known to Life」

 アーチャーは金髪の男が繰り出す無数の武器を同じく無数の武器で打ち払う。
 そして――――、

「■■■――――unlimited blade works.」

 一瞬、炎が広がり、アーチャーと金髪の男は姿を消した。

第三十八話「■ル■ルギスの夜 Ⅲ」

 おかしいな。僕はさっきまで、円蔵山に向かって歩いていた筈だ。なのに、いつの間にか、僕はいつも見る夢の世界に来ていた。
 炎の柱はもはや、山の噴火を思わせる程に巨大化していて、周囲で踊る人々は歌を歌いだしている。

「ど、どうしちゃったの?」

 今まで、彼らは只管踊り続けるばかりで、歌うどころか、声一つ発した事も無かった。なのに、今は高らかに歌っている。
 聞き慣れない旋律。インドやアラビア、イスラム辺りの歌に近い気がする。

「――――君の危機に反応して、この世界が活性化を始めたのだ」

 いつの間にか隣に立っていたおじさんが言った。

「選ぶのは君だ。ここで死ぬのも一つの救いかもしれん。だが、君にはまだ、やり残した事がある筈だ」
「何を言って……」
「選択肢は二つだ、イツキ。ここで死ぬか、私を使い、生き延びるか! 時間が無い、選べ! さもなくば、死ぬのは君だけでは無い」
「死ぬ……、まさか、士郎も?」

 おじさんは肯定の意を示すように頷いた。
 ああ、なら答えは決っている。そもそも、こんな所で死ぬなんて冗談じゃない。
 僕は生きるんだ。士郎と一緒にいつまでも生き続けるんだ。
 おじさんとおばさんになっても……、
 お爺さんとお婆さんになっても……、
 例え、天寿を全うしても、死後の世界でも僕は士郎と――――、

「どうすればいいの?」
「教えた筈だ。君はいつもどおり、魔術を使えばいい。後はこの世界が君の窮地を救う為に動き出す筈だ」
「この世界が……? この世界って、一体――――……」

 やっぱり、肝心な事が分からないまま、僕の意識は薄れていった。
 そして――――、

 ◆◇◆

 大気が震えている。最初、その存在が何なのか、誰にも理解が出来なかった。
 雄叫びを上げ、現れたソレはあまりにも大きく、あまりにも狂気的だった。

「バ、バーサーカーか……?」

 アーチャーが思わずそう口走ったのも無理からぬ事。理性を持たぬ瞳と吹き荒れる魔力の波動はまさしく狂戦士クラスの特徴。
 だが、そんな筈は無いと、嘗てのバーサーカーの主は断言する。

「アレはバーサーカーなんかじゃない」

 そして、その存在の嘗ての主は掠れた声で呟いた。

「ランサー……、なのですか?」

 返答は興味に満ちた咆哮。

「――――どう? 聖杯戦争のシステムに介入して、ランサーにバーサーカーのクラス別能力である『狂化』をエンチャントしたのよ。アルスター神話の大英雄クー・フーリンは、いざ戦いが始まるや、肉体を肥大化させ、7つの瞳を開眼し、手の指は七本に増え、怪物染みた形相に変貌したと言うわ。彼は確かに卓越した槍の遣い手だけど、彼本来の力を引き出す為にはバーサーカーのクラスこそが相応しい」

 キャスターは高らかに叫ぶ。

「さあ、狂いなさい。己が存在の全てを掛け、この場に居る全ての者を皆殺しにするのよ!」

 バーサーカーと化したランサーの肉体が更なる変貌を遂げていく。伝説になぞられた怪物の如き容貌へと変化していく。頬には四色の筋が浮き上がり、蒼き髪は血色に染まっていく。
 もはや、その手にゲイボルグが握られていなければ、彼をランサーと認識する事など不可能な程、彼は変わってしまった。
 
「――――来るッ!}

 獣の如き咆哮と共に繰り出される一撃をアヴェンジャーは見事に防いでみせた。

「ッハ、力だけ増したくらいで、このオレを倒せると思うなよ?」
「さすが!」

 慎二は思わずガッツポーズを取った。彼の目には見えぬ神速の一撃だった。それを事も無げに受け切る自らのサーヴァントに慎二は称賛の眼差しを向ける。

「あら、いいのかしら?」

 だが、彼の笑顔はキャスターの言葉と、その直後に響いた樹の呻き声によって拭い去られた。キャスターはさっきよりも更に深く、刃を樹の首に喰い込ませている。流れ出す血流の量が一気に増加した。

「や、やめろ!」
「止めるのは貴方のサーヴァントの方よ? この人質を殺されたくなければ、抵抗を止めなさい。サーヴァントさえ殺せれば、マスターには用なんて無いもの。ちゃんと解放してあげるわよ」
「ふ、ふざけ――――」
「巫山戯てなんかいないわ。これは殺し合いよ? 勝算の高い方法を取って、何が悪いのかしら?」
「……おい、どうするんだ? 言っておくが、オレは黙って殺られるつもりなんぞ無いぞ?」
「わ、分かってる!」

 各マスターとサーヴァントに決断を迫られる。
 例え、キャスターの言う通りにした所で、本当に樹を解放するとは限らない。
 そもそも、奴は言った。

『この場に居る全ての者を皆殺しにするのよ』

 奴に樹を解放するつもりなど無い。それどころか、ここで俺達を皆殺しにする気だ。
 その事を皆も気付いている。だからこそ、皆は決断を下してしまう。
 初めに、バゼットがライダーの突き立てた剣を退け、彼女の腹部に拳を叩き込んだ。同時に、遠坂が彼女の動きを封じる為に宝石を使う。
 重力操作の魔術に囚われたライダーは彼女達の思惑を悟り、声を荒らげた。
 アーチャーは尚も躊躇いを見せたが、遠坂は令呪を掲げる。
 同時に慎二も決断を下していた。苦渋の表情を受け、「すまない、樹」と呟いた。
 皆が決断を下す一方で、俺は何も決められずに居た。樹を見殺しにする事など出来ない。だけど、ここで全滅しては、大聖杯の異常を正す術が無くなる。
 それは――――、世界に災厄を撒き散らす魔王の降臨を意味している。

「……なんで、俺は――――」

 天秤が揺らぐ。正義の味方として、どちらを選ぶべきかなど、考えるまでも無い。そう、囁く声が聞こえる。

「俺は……」

 分水嶺だ。俺は今、二手に分かれた道の前に立っている。どちらかを選べば、どちらかを失う。だけど、どちらも選ばないなどという選択は――――、
 その瞬間だった。

「……え?」

 キャスターが戸惑いの声を上げた。突然、キャスターが樹から飛び退いた。
 樹が開放された。そう理解しながらも、俺達は動けなかった。
 目の前で異常な光景が広がっていた。

「これは――――」

 樹の体から滴った血流が陣を描いている。
 同時に彼女の肌に黒い刺青のようなものが広がっていく。
 恐ろしい程の魔力のうねりを感じ、一瞬、俺は奇妙な光景を幻視した。炎に焼かれた街並み、その果てにある黒い――――、

「マスター!」

 ライダーの叫び声に俺の体の硬直は漸く解けた。
 今はくだらない思考に耽っている場合じゃない。キャスターが離れた今、一刻も早く樹を確保しなければいけない。

「樹!」
「だ、駄目よ、衛宮君!」

 遠坂が何かを叫んでいる。だけど、構うものか!

「樹!」

 彼女の下に辿り着き、俺は漸く彼女の瞳に宿る奇妙な光に気がついた。

「……ふむ、しばし待て」

 そう、まったく樹らしくない口調で彼女は俺を押し退けた。
 彼女の瞳は真っ直ぐにキャスターに向かっている。

「――――貴女、そういう事?」
「分かるのか? さすがだ」

 キャスターはフードの中で声を荒らげた。

「クー・フーリン! この娘を殺しなさい!」
「なっ――――」

 俺は咄嗟に樹を守るために動いた。だけど、彼女は俺を――――、蹴り飛ばした。
 まるで、ダンプカーにでもはねられたかのように、俺の体は大きく弧を描いて宙を飛び、セイバーの下に落ちていった。

「マ、マスター!」

 セイバーが慌ててキャッチしてくれた。

「セ、セイバー。樹を……、樹を守ってくれ!」
「了解です、マスター!」

 セイバーは俺を地面に横たわらせると、樹の下に向かおうと振り返った。
 そして、動きを止めた。

「セイ、バー……?」

 戸惑いながら、顔を上げると、そこにはあり得ない光景が広がっていた。

「……え?」

 樹は自分の身の丈以上の大きさの炎で構築された大剣を構え、狂戦士と化したランサーと切り結んでいた。
 あの運動音痴な筈の樹が真っ向からあの怪物と攻防を繰り広げている。その異常過ぎる光景に言葉が出て来ない。

「何をしているの、クー・フーリン! 伝説に語られる貴方の力はそんなものでは無いでしょ!」
「……そう責めるな、メディア。彼は一流の戦士だ。だが、理性を完全に奪われた今、そこらの獣と変わらない。これは君の落ち度だぞ」

 まるで、別人のような語り口調の樹。
 何がどうなっているのかサッパリ分からない。

「……おい、マスター。これは援護するべきなのか? それとも、黙って見ているべきなのか? それとも……」

 アヴェンジャーの問いに慎二は答えられずに居る。
 アイツも同じ事を考えているのだろう。
 アレは本当に樹なのだろうか――――、と。

「さて、終わりにしよう」

 樹はランサーの肥大化した肉体を一刀のもとに吹き飛ばし、奇妙な構えを取った。

「あまり、この状態が続く事は好ましくないのでね。どうせ、君も後で来るのだ。語るのはその時にしよう。さあ、行くぞ、ランサー」

 莫大な魔力が樹の体から迸る。今や、全身にくまなく刺青が広がり、その刺青が赤く燃え上がる。炎を纏った樹は同じく炎によって形成された大剣を振り上げた。

「剣技、射殺す百頭」

 それは一息の内に行われた。百に達する斬撃が、ランサーの肉体を粉微塵に粉砕した。もはや、あまりにもその光景が異常過ぎて思考が鈍化していく。
 
「……ナインライブズですって?」

 そんな中、イリヤだけが声を震わせた。

「嘘……、なんで? だって、それは――――」
「あ、貴方は分かっているの!? 貴方程の英雄がソレに加担するなんて、何を考えているのよ、ヘラクレス!」
「……え?」

 キャスターは今、何と言った?
 俺は思わずイリヤを見た。彼女はまるでキャスターの言葉を肯定するかのように苦しげな表情を浮かべている。

「本当に……、ヘラクレスなのか?」
「……ナインライブズはバーサーカーの本来持つべき宝具。嘗て、彼が怪物・ヒュドラを討伐した時の武勇が宝具として昇華されたもの。だけど、それをどうして……」

 ますます混乱が深まっていく中、樹は炎を剣から弓矢に変化させていた。

「さて、すまないが君にも退場してもらおう」
「じょ、冗談じゃないわ! そんなモノを野放しにしたまま、あの娘を置いていくわけにはいかない!」

 キャスターは声を荒らげ、無数の魔法陣を生成した。

「もう一度、死になさい、ヘラクレス! 魔に魅入られた愚か者!」
「――――否定はしない。だが、死ぬのは君だ」

 キャスターが片腕を振り上げる。同時に魔法陣から光が迸った。
 瞬間、刹那にも満たない時の合間に樹は弓を構え、矢を引いた。

「弓技、射殺す百頭」

 莫大な魔力を篭められた矢は竜の顎を模り、キャスターの放つ無数の魔弾を喰らいながら天へと登っていく。

「こ、こんな――――」

 キャスターは空中を猛スピードで滑るように移動する。
 だが、

「追って来る!?」

 樹の放った矢は見定めた目標を決して逃さずに追い続ける。
 
「マ、マスター……」

 ドラゴンが大きく口を開く。呑み込まれていくキャスター。
 俺達はただその光景を呆然と眺めている事しか出来なかった。

「……さて、そろそろ限界か」
「お、おい!」

 いつしか、樹が纏っていた炎は鎮まり、彼女の肌を覆っていた刺青を薄くなっていく。俺は慌てて彼女に駆け寄った。
 すると、樹は相変わらず彼女らしくない口調で言った。

「……この娘に残された時間は少ない。大事にしてやれ」

 そう言い残すと、彼女の瞳に宿っていた光は完全に消え去り、そのまま地面に横たわった。

「い、樹!?」

 慌てて揺り動かすと、樹は静かな寝息を立てていた。

「一体……、どうなってるんだよ」

 俺の疑問に答えてくれる者は誰も居なかった……。

第三十七話「決戦前夜」

 今日はいつもより早く目が覚めた。肌寒さを感じながら窓辺に寄ると、どこからか鉄と鉄がぶつかり合うような音が聞こえた。気になって、窓を開き、辺りを見回すけど、音の発生源がどこか分からない。

「なんだろう……」

 気になって、僕は屋敷から飛び出した。音はより明瞭に響き渡っている。どうやら、屋敷の裏手から聞こえて来るみたいだ。
 広い敷地内を走り、裏手にある広場に到達すると――――、

「な、何してるの!?」

 そこでは戦いが繰り広げられていた。士郎とアーチャーが刃を交えている。二人は僕の存在に気がつくと、途端に手を止めて此方に手を降って来た。

「あ、あれ……?」

 拍子抜けする程アッサリと手を止めた二人。確か、アーチャーの目的は士郎を殺す事だった気がするんだけど……?

「えっと……、二人は何をしてるの?」
「稽古をつけてやっている」

 僕の質問にアーチャーが答えた。

「稽古……?」
「ああ、早朝に一人で素振りをしている所を見掛けたのでね」
「素振りを……?」

 士郎は僕が顔を向けるとそっぽを向き、唇を尖らせた。

「ちょっとでも、力を付けたかったんだ」
「士郎……」

 それっきり、士郎は僕から離れて再びアーチャーとの鍛錬を開始した。
 僕は近くの生け垣に腰掛けて、二人をジッと眺めた。
 二人が構えているのは共に白と黒の陰陽剣。どうやら、剣技と同時に投影の指南も行っているみたい。
 アーチャーは自らが投影魔術に特化した魔術師である事を明かしているみたい。
 
「――――まだ、骨子の想定が甘いな。言った筈だぞ、衛宮士郎。如何に外見や材質をイメージ通りに複製しても、構造に理が無ければ瓦解する」
「分かってる! 分かってるんだよ、クソッ!」

 どうやら、鍛錬はあまり上手くいっていないみたいだ。

「……一度中断しよう」
「――――なっ、待ってくれ! 俺はまだやれる!」
「やめておけ……。集中力を切らした状態では無意味どころか逆効果に成りかねない。どうやら、あのお嬢さんに見られて緊張しているようだしな」

 ニヤリと笑みを浮かべるアーチャーに顔を真っ赤にしながら激怒する士郎。
 物凄くレアな光景だ。あそこまで真っ赤な士郎も、激怒している士郎も初めて見た。
 
 その後、僕達は屋敷の中に戻り、アーチャーが紅茶を淹れてくれた。

「――――さて、紅茶を飲んでいる間、一つ座学といこう」

 アーチャーは白いワイシャツ姿で僕達の対面に座った。

「衛宮士郎。君はハンドガンに触れた事はあるかな?」
「な、無いけど……」

 この現代日本において、拳銃に触れる機会がある人種など限られている。
 暴力団組織か司法組織。法に背く者と法を司る者。この日本における絶対的な悪か絶対的な正義。そのどちらかだ。
 
「なら、実物を見せてやろう」

 そう言うと、アーチャーは一丁のハンドガンを投影した。

「お、おい……」
「安心しろ。弾丸は抜いてある。とにかく、触れてみろ」
「あ、ああ」

 弾丸は抜いてある。アーチャーはそう言ったけど、やはり拳銃には独特な恐ろしさがある。人を殺すために生み出された兵器。そんな物を士郎に持たせないで欲しい。

「美しいだろう?」

 非難の視線をどう勘違いしたのか、アーチャーは誇らしげに言った。

「ああ、これは……」

 何ということだろう。士郎まで、ハンドガンを美しいなどと言い出した。

「実に素晴らしいと思わないか?」
「……、ああ」

 何が素晴らしいのかサッパリ分からない。
 聞いてみると、士郎はどこか嬉しそうに語り出した。

「見てくれよ。この機能性……、まさに工夫と合理性を突き詰めた……、芸術だ」

 芸術……、芸術と言った。僕の知らない士郎がそこに居た。

「分かるか、衛宮士郎。その通りなんだ。例えば、日本刀が伝統と技術による工芸品なら、ハンドガンは正に技巧による工芸品だ。鉄と機能美が織りなす調和が実に素晴らしい。ライフルやマシンガンまでいくと、さすがに戦争兵器として言い逃れ不可能だが、ハンドガンには兵器としての合理性と道具としての芸術性がある」

 アーチャーもどこか愉しそうに語り始めた。

「その武器形態において、必要最低限の機能だけに留めたものには時に……、魂が宿る。江戸時代のサムライが使った刀然り、西部開拓時代のガンマンが使ったリボルバー然り、中世ヨーロッパの騎士達が使ったレイピア然りだ。殺し合いの道具だが、決闘の時は自らの誇りと出自を示すアートだった。まあ、命が安い時代だったからこそだろうけどね。己の命より、便りとする武器に高値をつける……」
「まさに男の世界だな」

 士郎が言った。ちょっと待って欲しい。僕も昔は男だったけど、まったく共感出来ないぞ。

「ハンドガンこそ、遥かな昔に廃れていった、そうしたモノ達の生き残りだ」

 それにしても、何でこんな話になってるんだっけ?

「だが、ハンドガンも詰まる所は戦争兵器だ。第一に求められたものは耐久性。硬く、強いほどに一級品とされている。アートなどと謳っておきながら、無骨な話に聞こえるかもしれないが、これが実に不思議でね」

 ポカンとした表情を浮かべている僕に何を勘違いしたのか、アーチャーは諭すような口調で言った。

「耐久性だけを突き詰めて作られた銃身は――――、溜息が出る程に美しい」
「……分かるよ」

 分かるんだ……、士郎。二人の熱い眼差しがテーブルの上のハンドガンに注がれている。

「――――極限を求めた結果、そこには耐久性とは異なる別の価値が生まれる。それは鉄の滑らかさだけに留まらないんだ。単純化された内部構造の一分の隙もないアクション。僅か一ミリにかけた重心に対する想い。分かるかい? 多くの者を魅了するハンドガンのこのデザインは、その実、デザインから生まれたものではないんだよ」

 アーチャーの瞳の奥に炎が宿る。

「より安定した機能。より効果的な射撃を求めた結果、その姿となった。誰にも媚びず、あのカタチとして創造されたのだ。野生の生き物達と同じなんだよ。ただ、ある事が美しい……。まさに男の浪漫だよ」

 その後も延々とアーチャーによるハンドガンの美しさ講座は続いた。

「無論、銃にもそれぞれ個性がある。例え、同じ銃種であっても、出来上がりによっては良品と粗悪品に別けられる。だけど、それがまたいいんだよ。ガンスミスによるワンオフも、マスプロによる量産品も共に違った味わいがある。前者は職人の技巧による奇跡。後者は工場が生む偶然の奇跡だ」

 アーチャーはすっかり覚めてしまった紅茶を啜り、顔を顰めると新しい紅茶を淹れ直しに台所へ引っ込んだ。
 士郎はと言うと、すっかりハンドガンに夢中。アーチャーから分解の許可を得ると、嬉々として分解を開始した。何がそんなに楽しいのかサッパリ分からない。
 士郎がハンドガンを部品の山に変えた頃、アーチャーが戻って来た。

「――――さて、話を最初に戻すとしよう」

 アーチャーは分解された部品の山からコイルを手にとって言った。

「投影魔術と一言で言っても、幾つかの工程が必要だ。私は投影六拍と呼んでいるが、つまり――――、どのような意図で、何を目指し、何を使い、何を磨き、何を想い、何を重ねたか……、これを追想する事で、より高度な複製が可能となる。衛宮士郎。君は今、ハンドガンに触れ、そのカタチが出来上がるまでの工程を想像した筈だ。今まで、自らの投影に欠けていたもの。もう、分かるな?」
「……ああ、分かった気がするよ、アーチャー」

 二人はその後も熱く語り続けた。やれ、あの家電は素晴らしいだとか、やれ、あの鍋は美しいだとか、それはもう、徐々に起き出してきた遠坂邸の人々がギョッとした表情を浮かべ、ドン引きしている事にも気付かない程の熱中振り。
 結局、楽しそうだから放置しようというライダーの意見が採用された。
 アーチャーが完全に主夫業をほっぽり出して、趣味の話に興じてしまっているから、今日の朝ごはんは僕が作る事になった。
 朝食が完全に出来上がった頃、二人は相変わらず――――、

「あの釣具メーカーのリールは実に素晴らしくてな――――」
「あのメーカーの掃除機なんて、遠心分離器が――――」

 メカの構造に果てしなく情熱を燃やしている二人。ライダーですら……、『なんだ、こいつら……』みたいな顔をしている。
 ちなみに今日のメニューは純和風。アーチャーはどうやら僕の味噌汁を随分と気に入ってくれたみたいで、ここ数日、毎日作らされているから、今日も作ってあげる事にした。自分でも作れるんじゃないの? と訪ねても、私では到達出来ぬ味だ、などと豪語される始末。
 朝食を食べる時はさすがに言葉少なめになったけど、それでも二人は物の分解と組み立てに対する議論を白熱させていた。
 今度、士郎にプラモデルか何かをプレゼントしてみようかな……。
 
 そうこうして、朝食も終わり、僕達は各々勝手気ままに時間を潰した。遠坂さんとイリヤちゃん、バゼットさんの三人は大聖杯の調査を行うにあたっての方策などを話し合い、慎二くんとアヴェンジャーは延々とチェスをしている。
 円蔵山へは夜になって向かう事になっているから、お昼の間はハッキリ言って暇だった。僕もライダーと一緒に絨毯の上でゴロゴロしながら過ごした。ちなみに、士郎は午後もアーチャーと鍛錬を続行しているみたい。
 セイバーと遠坂さんは朝の白熱した議論を見て、色々と言葉を飲み込んだみたい。色々と複雑そうな表情を浮かべながら、溜息をこぼしていた。

 ◆◇◆◇◆

 夜、俺達は遠坂邸を後にした。静まり返った夜道を歩いて行く。
 今まで、夜の散策は幾度と無くこなしてきた筈なのに、今宵は不吉な予感が背中にこびりついて離れない。まるで、街がすっぽりと怪物の胃袋にでも収まってしまったかのようだ。

「止まれ!」

 後もう少しで円蔵山に辿り着くという所で、突然アーチャーが声を荒げた。
 同時にセイバーとアヴェンジャーが自らの剣を構えて前に躍り出る。
 ライダーもヒポグリフを召喚し、対魔の本のページを開いた。
 
「これは……」

 いつの間にか、俺達は奇怪な姿の怪物達に取り囲まれていた。首のない人骨が剣を携えて襲って来る。

「竜牙兵……、これはコルキス王の魔術……という事は、あのキャスターの正体は――――」

 バゼットの言葉を讃えるように誰かが拍手をした。
 パチパチという音の発生源に視線を向けると、そこには魔女が立っていた。
 心臓が破裂するかと思った。

「動いては駄目よ。このお嬢さんの首を切り落とされたくなかったら――――、ね」

 嘘だ……。
 魔女は奇怪なカタチの短剣を握り、よりにもよって、樹の首筋に当てている。

「やめろ……」

 樹の首筋から一筋の血が流れている。
 
「やめてくれ……」

 恐怖が心を支配していく。
 完全に油断していた。これだけの人数が居れば、何があっても大丈夫だと高を括っていた。
 こんな事になるなんて、想定していなかった。

「動くな、アヴェンジャー!」

 慎二が叫ぶ。アヴェンジャーはクラレントを構え、今にも踏み込もうとしていた。

「駄目だ! 絶対に動くな!」

 慎二はアヴェンジャーの前に立ち、キャスターを睨みつける。

「キャスター。貴様、その娘から刃を退けろ。さもなくば――――」
「さもなくば……、何かしら?」

 アーチャーの殺意に満ちた言葉をアッサリと受け流しキャスターはフードの中で嗤った。

「ビックリだわ。まさか、ここまで上手くいくなんてね。一人が人質になっただけで、身動きが取れなくなるなんて……。大勢と手を組む事が必ずしもメリットばかりとは限らない。その良い見本ね」

 誰も動けない。飛び出そうとしたアヴェンジャーとバゼットはそれぞれ、慎二とライダーによって止められている。
 セイバーとアーチャーは殺意こそ向けているが、動こうとはしていない。

「――――条件は整ったわ。さあ、おいでなさい、クー・フーリン」

第三十六話「■ル■■■スの夜 Ⅱ」

 ここ数日の間、毎日同じ夢を見る。そして、その度に炎の柱が大きくなっていく。
 相変わらず、名乗ってくれないおじさんの傍らで僕は死者達の踊りを眺め続けている。おじさんはいつも意味深な事を言うだけで、具体的な事ははぐらかすから、話し掛ける事が億劫になって来て、最近は無言で隣に座り続け、目覚めの時を待っている。
 僕は踊っている死者達に勝手に名前をつけながら過ごしている。例えば、あそこにいるどこか士郎に似た顔の男の人はシゲル。刈り上げ頭の男の子はユキヤ。メガネの子はタイチ。
 シゲルはいっつも同じ女の人と一緒に踊っている。士郎と同じ赤銅色の髪の毛が特徴的な女性。もしかしたら、奥さんかもしれない。とりあえず、ハルカと名づけておこう。

「……イツキ」

 しばらくボーっとしていると、おじさんが話し掛けて来た。珍しい。僕から声を掛ける事はあっても、おじさんの方から声を掛けられたのは初めてかもしれない。

「なーに?」
「君にはこの世界がどう見える?」
「この世界って……、ここの事?」

 変な質問だ。

「どうって……、うーん」

 難しい。変な世界だと思うし、怖い世界だとも思う、けど、同時に暖かみもある。いや、後ろで轟々と炎の柱が聳えているからじゃなくて、心情的な意味でね。
 
「……寂しさとは無縁な世界かな」
「ほう……」
「初めは凄く怖かったよ? だけど、ここにずっと居ると、一人じゃないって気分になるの」
「そうか……、それは良かったな」

 そう、ここには孤独が無い。誰もが争う事無く愉しそうに踊り、笑顔を浮かべている。

 事故によって死んだ人も―ー――、

 病によって死んだ人も―ー――、

 見知らぬ誰かに殺された人も―ー――、

 見知った誰かに殺された人も―ー――、

 失意によって自殺した人も―ー――、

 愛の為に自殺した人も―ー――、

 例え、その人が悪人だったとしても、ここは暖かく迎え入れる。
 ここは現世と冥界の境界面。奇跡に至る第五の門。刹那にして、永久なる円環。
 死者の幸福によって満たされた理想郷。
 
「もしも、皆をここに連れて来る事が出来たら、永遠に一緒に居られる。それはきっと、とても幸せな事だと思う」

 ◆◇◆

 実につまらない。期待はずれもいい所だ。火種は無数にあった。なのに、全てが無味乾燥なものに転じてしまった。未だ、一番の火種は燻ったままだが、このままでは、それもつまらぬ結末を迎える事だろう。
 ならば、この辺で終わりにしよう。ぬるま湯の如き日々に終わりを告げる時が来た。

「ギルガメッシュよ」
「腹の内は決まった、というわけか? 綺礼よ」
「ああ、終わりにしよう。そして、今度こそ、答えを得るのだ」
「……ふふ、自らに背負わされた業。その意味、正当性、価値。それは望み通りのモノとは限らぬ。それでも、お前は求め続けるのだな?」
「無論だ」
「ならば、是非も無い。存分に求めるが良い」

 ギルガメッシュは高らかに嗤う。

「誰が何と言おうと、貴様は人間だ。恐らく、この世の誰よりも純粋な男だ。故に我はお前に手を貸そう。王として、英雄として、先も見通せぬ暗黒を歩む愚か者の行末を見届けてやろう」
「……さて、私の求道は果たして、英雄王の暇を満たす事が出来るかな」
「期待しているぞ、綺礼」

 ギルガメッシュは哄笑しながら月夜の下へ歩んでいく。
 さあ、穏やかな幕間は終了だ。これより、聖杯戦争は終幕に向けて動き出す。
 我が手によって……。

「ふふ……ふははは……はっはははははははははははは!」

 今こそ、再誕の時だ。
 さあ、私に答えを教えてくれ、『この世全ての悪』よ。

 ◆

 非常に不味い事態だ。せめて、もう少し時間があれば、他陣営のそれぞれの行動方針を探る事も出来たのだが、マスターと契約した後、神殿の構築やマスターの体内の浄化、ランサー陣営の監視などに忙殺され、後回しにしてしまった。
 まさか、間桐慎二を含めた他のマスター全員が同盟を結ぶとは予想していなかった。如何にランサーを手駒に加えたとは言え、近接戦闘に優れたセイバーとアヴェンジャー、遠距離攻撃に長けたアーチャー、そして、圧倒的な機動力を持つライダーに同時に攻められては打つ手が無い。
 あの時、マスターの方針に逆らうことになろうと、間桐慎二とアヴェンジャーを殺すべきだった。
 マスターの体内を浄化した際、体内から聖杯の欠片を取り出す事が出来、後は願いを叶える為に必要な分の魔力――――即ち、サーヴァントの魂を注ぐだけだと言うのに、このままでは己の魂が真っ先に注がれてしまう。
 折角構築した神殿も手放す事となり、もはや形振り構っている場合では無い。

「……こうなって来ると、嫌厭して来たセイバーやライダーのマスターが逆に狙い目かもしれないわね」

 他陣営と手を組んだ事で今までよりも自らのマスターの保身に対する警戒心が弱まっている可能性が高い。
 何れにしても、このままではジリ貧だ。恐らく、新たに神殿を構築しようとしても、あのアヴェンジャーに感づかれてしまうだろう。英霊にまで昇華されたホムンクルス。その魔力に対する感知能力は侮れない。
 
「危うい橋を渡る事になるわね……」

 私は傍らで眠る主の体をそっと揺らした。

「……ん。あれ……? 私は……」
「マスター」
「……キャスター?」

 寝惚けているマスターに私はクスリと微笑んだ。
 可愛らしい娘だ。数日、共に過ごして、彼女について分かった事がある。
 この娘は異常な環境下に長く身を起き過ぎた。二次性徴が始まる前に純潔を蟲に貪られ、十年以上も肉体的、精神的、そして、性的に拷問を受け続けて来た。その為に彼女は自らを守るため、心に硬い鎧を纏わせた。その鎧があまりにも硬過ぎて、自分と他者の間に途方も無い距離感を感じてしまっている。
 だから、他者の感情と自身の感情の間に食い違いを感じてしまっている。
 初めて会った時、彼女は言った。

『私は兄さんの死の瞬間に立ち会いたい。その時、私は私が人間なのか、そうじゃないのかが分かると思うんです。ちゃんと、兄さんの死を悲しめたら……その時はきっと!』

 彼女は兄に抱く自らの思いを知り合いの兄妹の関係の真似事をしているだけなのかもしれないと疑っている。だから、そんな世迷い言を口にした。
 その時は馬鹿な娘だと思った。例え、兄の死の瞬間に立ち会い、その死を悲しめたとしても、その瞬間に彼女は人では無くなる。自らの存在証明という下らぬ事の為に自らの兄が死ぬ所を傍観していたという罪の意識に耐えられる程、彼女は強くなど無い。
 そんな事も分からぬ状態の彼女を私は『壊れている』と評した。
 だけど、それは違った。彼女は言ってみれば幼子のままなのだ。純潔を蟲に貪られた頃のまま、彼女は前進する事が出来ないまま今に至ったのだ。
 未熟な心は『自信』というものを持てずに居る。自らが抱く『自我』を肯定出来ずに居る。
 もしも、彼女の周りに彼女の心の鎧を打ち砕く程の存在が居たなら、きっと、己は今の彼女とは違う彼女と出会えていた事だろう。だけど、彼女の心の鎧は今に至るまで硬く彼女の心を守り続けている。

「キャスター……?」

 私はマスターの……、サクラの頭を優しく撫でた。己に彼女の心の鎧を力づくで打ち砕く事など出来ない。だけど、切っ掛けを……、楔を打つ事くらいは出来るかもしれない。
 こんなの……、己と同じように自らの手に負えない『力』によって人生を弄ばれた彼女に同情しているだけなのかもしれない。嘗て、殺してしまった我が子に対する贖罪の情が働いただけなのかもしれない。
 彼女の為にそのくらいはしてあげたいと思った。

「マスター。貴女は他の人間達と何も変わらないわ」

 今は信じられなくてもいい。

「貴女の感情は偽物なんかじゃない」

 今は魔女の戯言だと聞き流してもいい。

「サクラ。貴女は紛れも無い人間よ。れっきとした、感情を持っている人間なの」
「キャスター……?」
「聞いて、サクラ。貴女は人間。ただ、まだ心が未熟なだけなの。貴女はもう自由。だから、これからたくさんの経験を積み、心を成長させなさい」
「……どうして、急にそんな事を言い出すの?」

 サクラの瞳が揺れる。

「兄の死を見届ける。それも解答を得る為の一つの手段かもしれない。だけど、そんな事をしなくても、時が経てば、自然と解答を得られる筈よ」

 一方的に話すだけ話して、私はサクラの意識を奪った。
 これで、思い残す事は無い。

「……さて、行きますか」

 平穏な日々を過ごしたいと思った。
 誰かに操られたりせず、思うままに生きたいと思った。
 その為に聖杯が欲しかった。
 今もその気持ちは変わらない。
 だから、やるだけの事はやる。あらゆる手段を行使して、聖杯を手に入れてみせる。
 だけど、恐らく勝算は低い。
 それでも、もしも、彼女の下に戻れたなら……。
 聖杯を手に入れ、二度目の生を手に入れる事が出来たなら、彼女の心の成長を隣で見守りたい。この傷つけられ、硬い鎧に身を隠した心がどうなっていくのかを見てみたい。

「……行ってくるわね、マスター」

第三十五話「大同盟」

 不思議な光景だ。聖杯戦争という人と人が殺し合う異常な催しの真っ最中だというのに、僕達は一つの食卓を囲んでいる。
 セイバーが僕とアーチャーの作った料理を絶賛し、アヴェンジャーがショックを受け、ライダーがその光景を笑い、アーチャーが彼を窘める。本来ならあり得ない筈の光景。
 一つの危機がこの状況を生み出している。聖杯の異常。アンリ・マユによって齎される災厄を未然に防ぐための同盟。もしも、その存在が無ければ、この光景は無かったかもしれない。

「どうしたんだ?」
「え?」

 士郎が不思議そうな顔をして、僕を見つめる。

「なにが?」
「いや、なんか、機嫌が良いなって思って……」
「そうかな? そうかもしれない。やっと、慎二くんとまた話が出来るようになったからかな」

 まあ、今の彼は相棒とその父親が繰り広げる珍妙な光景に目を奪われてしまっているけどね。
 
「ほら、モードレッド! この納豆を食べてご覧なさい」
「い、いいよ。なんか、ネバネバしてて気色悪いし……」
「何を言っているのですか! このネバネバの良さ、一口食べればわかります。選り好みなどせず、食べてみなさい!」
「ち、父上!?」

 それにしても、こうして見ると、二人は確かに親子だな、と思う。しかも、かなり仲の良い親子に見える。まあ、父と息子というより、母と娘みたいだけど――――、見た目的には……。
 
「さて、私はそろそろ食後に呑むコーヒーでも淹れて来よう。コーヒー以外をご所望な方はいるかね?」
「ボクはジュースがいい!」
「オレはブラックでいいぞ!」
「私は……、出来れば砂糖とミルクをお願いします」
「ち、父上!?」

 凄く平和な光景だ。■■■が齎した光景だ。

「ねえ、士郎」
「ん?」
「なんだか、いいね。こういうのって……」
「……ああ、そうだな」

 食事が終わり、アーチャーが用意したコーヒーやジュースを飲みながら食休みをしていると、不意に遠坂さんが立ち上がった。

「ちょっと、いいかしら?」

 皆の顔を見回してから、遠坂さんは口火を切った。

「これからの方針について、話がしたいのよ」
「キャスターの討伐だ」

 真っ先に口を開いたのはアヴェンジャーだった。

「それと、奴を討伐する時、そのマスターには手を掛けるな。万が一、マスターの方に手を掛けようとした時はオレがそいつを殺す」

 さっきまでの空気が一変してしまった。アヴェンジャーは本気の殺意を振り撒きながら言った。

「……キャスターのマスターを知っているのですか?」

 セイバーが問う。

「間桐桜。僕の妹だ」

 慎二くんの言葉に僕を含めた数人が息を呑んだ。

「さ、桜ですって……?」
「お、おい、慎二! どういう事だ!? 桜は――――」
「詳しい事は説明出来ない。ただ、桜にはどうしても聖杯戦争に参加しなければならない理由があった。そして、自らの意思でサーヴァントを手に入れ、運用している。僕の目的は桜を聖杯戦争から遠ざけ、アヴェンジャーを王にする事だ。その邪魔をするなら、誰だろうと……」

 慎二くんはテーブルの上で手を硬く握り締め、歯を食いしばりながら言った。

「……本当に桜が?」

 遠坂さんが問う。

「嘘なんて言うもんか……。桜を救えるなら、何でもする。手助けをしてくれるなら、僕は誰のどんな命令にも従う。だけど、邪魔をするなら潰す。誰であってもだ」

 その言葉は僕達に対しても向けられていた。

「その為に僕は聖杯戦争に参加している」
「そして、オレはその為に全身全霊を掛けて戦うと誓った。改めて言うぞ。オレと真っ向から殺し合いをしたい奴以外はキャスターのマスターに手を出すな。分かったな?」

 誰も言葉を発しない。士郎も遠坂さんもセイバーも誰も……。

「僕達からはそれだけだ。後は好きにしてくれ。大聖杯の調査に関しても、必要とあれば、協力は惜しまない。まあ、僕なんかの協力が必要なら……、だけどね」

 それっきり、彼は黙ってしまった。
 重苦しい空気が漂う。僕達の実質的なリーダーである遠坂さんも桜ちゃんの件に動揺しているらしく、深刻そうな面持ちで虚空を見つめている。

「……では、キャスターの討伐を優先しましょう」

 切り出したのはバゼットさん。

「私もランサーを取り戻す為にキャスターを討伐しなければならない、最終的にあの謎のサーヴァントと戦わなければならない以上、戦力は出来る限り充実させておきたいし、キャスターのマスターに対して、思う所があるのはどうやらアヴェンジャーのマスターだけでは無いみたいですしね」

 バゼットさんは遠坂さんや僕と士郎を見て言った。

「まずはキャスターの居場所を探る事を当面の目標に設定しましょう」

 誰からも反対意見は上がらなかった。
 日中は各々戦う為の準備やキャスターの痕跡を探る事に専念し、日が暮れてからチームを組んで本格的な調査を開始する事で決定した。
 話し合いが終わり、解散になると、遠坂さんは真っ直ぐに慎二くんの下に向かった。

「話がしたいの」
「……ああ、僕も言いたい事は山程ある」

 慎二くんは僕達をチラリと見てから、

「お前達にもだぞ、バカ兄妹」

 そう言って、遠坂さんとアヴェンジャー、そして、アーチャーを連れてリビングを出て行った。
 バゼットさんはイリヤちゃんと共に試したい事があると出て行き、残された僕と士郎、セイバー、ライダーの四人はこれからの動きについて話し合う事になった。

「……とりあえず、街を探索してみよう。それ以外に俺達に出来る事は無いと思う」

 士郎の言葉に僕も同意だ。

「そうだね。バゼットさん達なら、色々と魔術で出来る事があるかもしれないけど、僕達の魔術は……、アレだからね」

 話し合いは一瞬で終わってしまった。出来る事が少ないと、逆に行動を素早く決定出来る。

「……ところで、大丈夫なのか?」

 士郎はセイバーに視線を向けながら心配そうに尋ねた。

「モードレッドの事ですか?」

 士郎が頷くと、セイバーは柔らかく微笑んだ。

「正直な所、少々複雑な心境です。ただ、こうして戦う以外の手段で対話や交流の機会を得られた事には素直に感謝しています。生前、私はアレの父である前に王であった為にまともな親子の会話など一度もありませんでした。恐らく、アレが私に叛逆した要因の一つはそこにあった筈です。当時の決定を覆す気は微塵もありませんが……、ただ――――」
 セイバーは言った。

「私から王位を奪う。それだけが目的だと思っていたもので、アレがマトウシンジの為に全身全霊を掛けて戦うと宣言した時、アレの心の内を聞いてみたいという欲が生まれてしまった。叶うなら、アレと剣を交える前に言葉を交え、アレの口から聞いてみたい」

 セイバーはモードレッドの事をアレとばかり言う。それはきっと、彼女の中でモードレッドという存在の扱いを悩んでいる証なのだろう。
 王と騎士という生前の関係が失われ、反逆者と反逆された者、あるいはサーヴァントとサーヴァントという関係に変わり、その中で父と子という関係で話をしてみたいという欲が生まれた事で彼女の中に混乱が起きているのだろう。

「いいと思う。俺は今でも親子が殺し合うなんて間違っていると思ってる。もし、話し合う事で殺し合いを回避して、穏やかな関係が築けるなら、それに越した事は無い」

 士郎が言うと、セイバーは首を横に振った。

「いえ、恐らく戦いを回避する事は不可能です」
「ど、どうしてだ?」

 狼狽える士郎にセイバーは言った。

「我々は既に一度殺し合いを繰り広げ、実際に互いの命を奪っている。例え、話し合う事で関係を多少改善されたとしても、砕けたモノが元通りになる事などあり得ない。私もアレも納得する為には今一度、剣を交える以外に道は無い」

 セイバーは苦悩の表情を浮かべる士郎に言った。

「理解して欲しいとは言いません。貴方の意見が正しい。本来、親が子に剣を向けるなど、あっていい筈が無かった。だが、私は王で、アレは王位を簒奪する為に剣を持った狼藉者だった。私は……」

 拳を硬く握り締め、セイバーは必死に数多の感情を押し殺しているようだった。

「その時が来ても、私達の戦いを止めないで欲しい。もし、私達に親子の絆が生まれるとしたら、それは剣を交えたその先にしかあり得ないのですから……」
「セイバー……」

 理解も納得も出来ない。士郎の顔にはそう書いてある。
 だけど、士郎は力無く頷いた。

「……わかった」
「ありがとう、シロウ」

 ◇◆◇

 それからの数日間、僕達は総出でキャスターの居場所を探るために尽力した。
 時にはライダーのヒポグリフに遠坂さんとアーチャーを乗せ、いつもとは違ったメンバーで探索を行ったり、屋敷内でコミュニケーションを取ったりと、それなりに楽しい時間は過ごせたけど、結局、キャスターが見つからないまま、時間だけが過ぎていった。

「……不味いですね」

 その日、夕食を摂りながらバゼットさんが言った。

「キャスターの居場所を探る手掛かりが全く無い。この状態が続けば、いつまで経っても聖杯の調査に乗り出す事が出来ない。アンリ・マユなどという得体の知れない存在によって汚染されている以上、何かの拍子で暴走を起こさないとも限らない。出来れば、早期に調査を始めたいのですが……」
「もう、いっその事、先に聖杯の調査に向かうってのは?」

 遠坂さんの提案にバゼットさんは頷いた。

「それも一手かもしれませんね。私達が聖杯の調査に乗り出せば、キャスターが棲家から顔を出す可能性もある。ただ、あの謎のサーヴァントに太刀打ち出来るかが問題なのですが……」
「――――ッハ、怖気づく必要なんて無いだろ。誰が相手だろうと、ぶっ潰すだけだ」

 気楽そうに言うアヴェンジャー。

「どっちにしろ、このままじゃ、何時まで経ってもキャスターを討伐出来ない。それに、謎のサーヴァントがそれほど得体の知れない存在なら、多少のリスクは覚悟してでも、情報を得る必要があると思う」

 慎二くんの言葉にバゼットさんは「そうですね」と頷いた。

「では、明日、一度円蔵山に向かいましょう」

第三十四話「ボーイ・ミーツ・ガール Ⅲ」

「……アヴェンジャー」

 遠坂が宝石を飲ませた後、少しだけ容態が落ち着いたけど、まだ、彼女は眠ったままだ。時折、苦しげな表情を浮かべている。
 僕が未熟だったから、彼女に負担を掛け、その結果がコレだ。

「まだだよ……。まだ、死んじゃ駄目だ」

 遠坂から示された彼女を延命させる方法は二つ。
 一つは見知らぬ他人の命を喰わせる事。これは論外だ。彼女は絶対に拒絶するだろうし、僕もコレ以上、罪を重ねる事に耐え切れる自信が無い。
 もう一つは僕の魂を彼女に喰わせる事。こんな僕の命でも、彼女に僅かとは言え、時間を与える事が出来る。

「……まあ、あの口振りだと、本当は僕達に性交でもさせるつもりだったみたいだけどね」

 性交による魔力の供給は確かに可能だ。僕が命を喰わせる事に怖気づくと踏み、遠坂は悪戯小僧みたいな笑みを浮かべて僕にその方法を提案して来た。だけど、これも論外だ。僕如きが彼女とそうした関係を結ぶなど許される筈が無い。
 彼女は王になるべき尊い存在だ。なら、僕はその覇道の礎となる。

「記憶や感情が魔力の源になる。僕の生きた十数年は実にくだらなくて、意味の無いものだったけど、君の覇道の礎になれるなら、こんな僕の命でも、ほんの少しくらい価値が――――」
「うるせぇ」

 殴られた。見事なアッパーだ。顎が揺さぶられて頭がクラクラするよ。

「人が気持ち良く寝ている隣で何をブツブツと……」
「気持ちよくって……、魘されてたじゃない――――」
「うるせぇ」

 今度は蹴られた。

「魘されてなんかいねぇよ。テメェの方こそ、夢でも見てたんじゃねぇのか?」

 足の裏でグリグリしないで欲しい。地味に痛いよ。

「……と、とりあえず、持ち直したみたいだね」
「おう」

 踏まれたまま、何とか声を振り絞る。

「ところで、ここはどこだ?」

 アヴェンジャーは今更になって周囲をキョロキョロと見回しながら問う。

「遠坂の屋敷だよ」
「トオサカ?」
「アーチャーのマスターさ」
「……は?」

 アヴェンジャーは目を丸くした。

「なんで、敵の陣地に居るんだよ!?」
「いや、君が魔力を使い切って、倒れてしまったから、彼女の手を借りる事にしたんだよ」

 僕が事のあらましを説明すると、アヴェンジャーは更に僕の頭を足でグリグリし始めた。

「おい、シンジ。テメェ、人に何の相談も無く、勝手な事してんじゃねぇよ」
「相談って……、君はずっと寝てたんだよ?」
「うるせぇ。言い訳すんな」
「いや、言い訳って……」

 君が寝ていたのは事実だろ。そう言った瞬間、アヴェンジャーは眉間に皺を寄せながら両足で僕の足をポカポカ踏み始めた。大分手加減してるみたいだけど、それでもかなり痛いぞ。

「ったく、この状態でどうやって目的を果たす気なんだ?」
「目的……?」
「テメェの妹を助けるんだろ?」
「ああ、その事なら諦めたよ」
「……は?」

 今まで散々桜を助けるだなんだと言って、彼女を振り回しておいて、勝手な言い草である事は分かっている。でも、僕は一晩中考え続けたんだ。

「桜は自分の力で殻を破り、自由を得た。アイツに僕の存在は必要無かったんだ。分かるかい? 僕の今までの人生は全くの無意味だったってわけさ」
「……本気で言ってるのか?」

 苛立ちの篭った声が降ってくる。でも、聞いて欲しい。

「別に不貞腐れているわけじゃない。そこは勘違いしないで欲しい。ただ、この無意味で何の価値も無い僕の命でも、君の覇道の礎くらいにはなれると思ったんだ」
「……何を言って――――」
「アヴェンジャー。僕の命を喰らってくれ。こんな下賎な魂なんて、本当なら喰うに値しないのかもしれないけど、それでも、今の君の腹の足しくらいにはなる筈だ」
「おい……」
「ここには君の父親も居るんだ!」

 僕は畳み掛けるように言った。

「聖杯を手に入れる為には時間が足りないかもしれない。だけど、セイバー……、アーサー王と雌雄を決する為の時間くらいなら、僕の魂を喰らう事で作れると思う。いずれにしても、遠坂達の話だと、聖杯は汚染されているらしくて、使い物にならないそうなんだ。だから――――」
「どういう事だ……」
「ああ、いきなり言っても混乱するよね。でも、聖杯の汚染はどうやら事実みたいなんだ。十年前の事なんだけど――――」
「そんな事はどうでもいい!」

 アヴェンジャーは聖杯の汚染について説明しようとした僕の髪を掴み、無理矢理体を起こさせた。

「ど、どうでもいいって……」
「そんな事より、どういう事だ!? 何を勝手に諦めていやがるんだ!」
「だ、だから、言っただろ? 桜は一人で十分だったのさ。だから、僕はこの魂を君に――――」
「巫山戯るな!」

 アヴェンジャーは怒鳴った。

「何が覇道の礎だ! 貴様は……、お前は妹を救う筈だろ。なんで、勝手に諦めているんだ!」

 わけが分からない。理由ならさっきから何度も言っている筈だ。

「だから、僕は――――」
「シンジ!」

 アヴェンジャーは僕の言葉を遮り言った。

「自分の言葉を曲げるな! オレのマスターなら、最期まで諦めを口にするんじゃねぇ!」
「だ、だけど……、どっちにしたって、キャスターは雲隠れしてしまっている。僕の魂じゃ、キャスターを見つけ出して始末する時間なんて作れる筈が――――」
「――――ッハ、命なんて喰わなくても、代用出来るものがあるだろ」
「代用って……、まさか、他人の命を? 君は嫌がっていた筈だろ!」
「ばーか、ちげーよ」

 アヴェンジャーは僕の体をさっきまで自分が寝ていたベッドに向かって放り投げた。

「さっきから、扱いがちょっと酷くないか?」
「うるせぇよ、ばーか」

 アヴェンジャーは抗議の声を上げる僕を押し倒して、上に跨ってきた。

「アヴェンジャー……?」
「呆けてないで、さっさと服を脱げ」
「……はい?」

 何を言ってるんだ、コイツ。

「いや、魂を喰らうのに服を脱ぐ必要は……」
「テメェの命を喰らっても、数日しかもたねぇだろ」
「……まさか」
「こっちなら、若いんだから、直ぐに回復するだろ?」
「いや、ちょっと待て! まさか、本気なのか!?」

 アヴェンジャーは慌てふためく僕の服を勝手に脱がせ始めた。抵抗しようにも相手は疲弊しているとはいえ英霊だ。とてもじゃないが、力では敵わない。

「男だったら、さっさと覚悟を決めろ」
「待て! 待ってくれ! 君は王になるんだろ!?」
「ああ、王になる」
「だ、だったら、僕なんかとそんな事をしたら――――」
「別に王が誰と何をしようと勝手だろ」

 いつの間にか、僕は衣服を全て取り払われていた。

「他人がどう思うかなんて、知った事かよ」
「お、王様がそれでいいのか!?」
「いいんだよ。他の連中なんて関係ない。オレだけが卓越した存在であり続ける事が重要なんだ」
「卓越した存在なら、尚更……」
「いいから、さっさと始めるぞ」

 抵抗は無意味だった。どっちが男で、どっちが女だか分からない構図のまま、僕は――――……。

 ◇

「諦めるな、シンジ。お前は絶対に妹を救える。その為に罪を重ね、泥に塗れながら生きてきたんだろ?」
「……アヴェンジャー」

 朝の日差しを背に、アヴェンジャーは言った。

「オレのマスターなら、最後の最後まで諦めるな。足掻き続けろ」
「……君も足掻いているのかい?」

 彼女との繋がりが強まったのか、行為の最中、断片的に彼女の記憶が見えた。
 彼女の思いが流れ込んで来た。
 どうして、彼女は王位を望んだのか……。その願望の奥底に眠る、彼女の本心に僕は触れた。

「……分かったよ、アヴェンジャー」

 僕は言った。

「もう少し、足掻いてみる。だって、僕は君のマスターだからね」
「……おう」

 少しの間、僕達は黙って背中を合わせ続けた。
 しばらくして、僕達は部屋を出た。とりあえず、今後の事を考える為にも遠坂達と話し合う必要がある。あの時は無我夢中だったから、絶対服従なんて理不尽な要求を呑んでしまったけど、僕達にはやらなければならない事が山程ある。
 廊下を歩いていると、見覚えのある顔があった。

「……モードレッド」

 アヴェンジャーと瓜二つの顔をしたサーヴァント、アーサー・ペンドラゴンだ。

「よう、父上」

 アヴェンジャーは今、何を思っているんだろう。この屋敷に居る以上、顔を合わせる事になるのは確実だと分かっていたけど、いざ出会った時、どうなるか想像も出来なかった。

「お前はまだ、王位を欲しているのか?」
「ああ、当然だろう?」

 空気が張り詰めている。
 セイバーの問いに平然とした顔で答えるアヴェンジャー。
 僕は口を出せずにいた。この二人の関係に入り込む余地が見つけられない。

「まあ、そう警戒するなよ。今直ぐ、貴方の首を取るつもりは無い。今は他にやる事があるからな」

 そう言うと、アヴェンジャーはセイバーの横を通り過ぎた。僕も慌てて後を追う。

「――――だが、いずれは決着をつける。逃げるなよ? 必ず、オレは貴方から王位を奪ってみせる」
「モードレッド……、お前はッ」

 苦悩の表情を浮かべるセイバーを尻目にアヴェンジャーは立ち止まる事なく歩き続ける。僕が言い出した事だけど、迷いが生じた。このまま、彼女達に殺し合いをさせていいのだろうか、と。
 その時だった。直ぐ傍の扉が開いた。

「――――昨夜はお楽しみだったわね、間桐君」

 ニッコリと悪魔はとんでもない爆弾を放り投げてきた。
 僕とアヴェンジャー、そして、セイバーの三人は同時に吹き出した。

「いやー、思ったよりやるわね。てっきり、あの様子だと一晩中うじうじしたままで、こっちが発破をかけてあげなきゃいけないかなーって思ったけど、アヴェンジャーもすっかり持ち直したみたいだし――――イダッ」

 僕達が拳を振り上げるより先に赤い影が遠坂の頭を叩いた。

「君にはデリカシーというものが無いのか!?」

 遠坂のサーヴァント、アーチャーは遠坂の肩を掴みながら怒鳴りつけた。

「だ、だってー、こんな面白い状況、いじらない方が失礼っていうか……」

 確信犯かよ、この野郎。わざわざ、アヴェンジャーの父親が居る前で何て奴だ……。

「いいか、マスター! 彼らくらいの年頃の男女はとてもナイーブなんだ! そういう話題は慎重に――――」
「テメェら……」

 やばい。アヴェンジャーは明らかに怒っている。眉間をピクピクさせながら、今にも怒りを爆発させようとしている。

「お、落ち着け、アヴェンジャー。とりあえず、その剣を仕舞うんだ!」
「うるせぇ! この腐れ魔術師をぶっ殺してやる!」
「お、落ち着きなさい、モードレッド。気持ちは分かりますが……、その、男女が同衾した上でそういう行為に至るのは決して恥ずかしがる事では……」
「ち、父上!?」

 止めようとしているのか、火に油を注ごうとしているのか判断がつき難いセイバーの言葉にアヴェンジャーはガーンとなっている。
 
「と、とにかく、剣を降ろしなさい。ほら、いい臭いがして来ましたよ。御飯を食べれば気も落ち着く筈です。カップヌードルを知っていますか? 現代に来て初めて食べましたが、あれはいいものでしたよ」
「ち、父上!?」

 もしかして、混乱してるのかな? 頓珍漢な事を口にするセイバーにアヴェンジャーはさっきからショックを受けたような表情を浮かべている。

「ああ、既に朝食が出来上がっている」

 アーチャーが言った。

「ご苦労様。今日のメニューは?」

 まるで当たり前のように自らのサーヴァントにメニューを尋ねる遠坂。おかしいぞ、なんで、サーヴァントが朝食の準備をしているんだ?

「鮭の塩焼きに金平牛蒡、納豆、おひたし、味噌汁だ。特に味噌汁は絶品だぞ」
「あら、自信作ってわけ?」

 なんで、サーヴァントが金平牛蒡なんて作れるんだよ!?

「いや、私が作ったわけでは無い。樹……、ライダーのマスターが作った」

 ライダーのマスターって、樹の事か?

「……人が寝ている隙に何で、昨日まで敵だった相手と仲良く肩を並べて一緒に料理してんのよ!?」

 そこは怒るのか……。

「ふむ、樹の料理ですか……。士郎が樹の料理は絶品だと言っていました。楽しみですね」
「ち、父上!?」

 アヴェンジャーがさっきから同じ反応ばっかりだ。なんだか、新鮮だな。
 僕達はそのままリビングへと向かった。そこで、僕はあの馬鹿兄弟との再会を果たした。色々と話したい事もあったんだけど……、

「これが金平牛蒡……ッ!」
「ち、父上!?」

 思いの外、食欲旺盛なアーサーとその姿にショックを受けているモードレッドの姿に気が削がれて、食事中はろくに話す事が出来なかった……。

第三十三話「ボーイ・ミーツ・ガール Ⅱ」

 僕はまた、夢の世界に来ていた。
 あの人は以前と同じように炎の柱を見上げていた。

「こんにちは」
「……ああ、こんにちは」

 相変わらず、大きな人だ。この人と比べたら、ボブ・サップでさえ、小柄に見えてしまう。

「――――おじさんは何者なの?」
「私の事を君は知っている筈だ」

 むぅ、そう返して来ますか……。

「……分かんない。どこかで会った気はするけど」
「分からないなら、そのままでも良いと思う」
「え?」

 意味深な事を言って、彼は腰を下ろした。それで漸く、立っている僕と視線が合う。

「全てを識る事が良い事であるとは限らない」
「……意味が分からないよ。僕はただ、おじさんの事を知りたいだけなんだよ?」
「私の事を知れば、君は恐らく、真実へ至ってしまう。その時、君の日常は崩れ、暗闇に呑み込まれてしまうだろう」
「こ、怖い事を言わないでよ!」

 なんて不吉な事を言い出す人だ。

「と言うか、僕の日常はとっくに崩れているよ。聖杯戦争のせいで、折角、士郎と平々凡々生きてきたのに……」
「イツキ」

 ぶつくさと文句を言う僕に彼は言った。

「残された時間は僅かだ。決して、後悔を遺さぬように少ない時間を大切にしろ」
「……だから、不吉な事を言わないでよね」

 感覚的に夢から醒めるまで、もう少し時間が掛かる事が分かった。
 僕はおじさんの背中に背を預け、腰を降ろす。

「僕はずっと士郎と一緒に生きていくんだ。色々あって、有耶無耶になってるけど、士郎からちゃんと答えを聞いて、そして……、えへへ」
「……そうか」

 時間なんて、幾らあっても足りないよ。

「なら、サーヴァントの脱落を防ぐのだ。君が望むなら、私も力を貸そう。まだ、未完成とはいえ、既にこの世界は繋がっている。君はいつものように魔術を行使すればいい」
「それって、どういう――――」

 またしても、肝心な所で意識が現実世界へと引き戻されていく。
 
 ◇

 目を覚ました僕を待ち受けていたのはライダーの顔だった。

「おっはよー、マスター!」
「おはよう、ライダー」

 ベッドから降りて、僕は窓の外に視線を向けた。空は晴れ渡り、街は静かに目覚めの時を待っている。少し、早く目が覚めてしまったみたいだ。
 昨日、柳洞寺で慎二くんとアヴェンジャーを保護した僕達は拠点を遠坂邸に移した。遠坂さんとバゼットさんはアヴェンジャーの回復の為に慎二くんと屋敷に到着するなり密室に篭ってしまい、僕と士郎、イリヤの三人は勝手に台所を使わせてもらって、軽い食事を摂り、その間に色々な事を話した。
 殆どがイリヤの問い掛けに僕達が答えるというもの。切嗣の事や僕達の生活の事をイリヤは事細やかに知りたがり、僕達も昔を懐かしみながら語り聞かせた。
 結局、話し終えたのは深夜に差し掛かった頃だった。僕達は事前に遠坂さんによって割り振られた部屋に向かい、眠りに落ちた。
 
「士郎は?」
「まだ、寝ているよ。それより、ボク、イツキの御飯が食べたいなー。昨夜の食事はとっても美味しかったもん! セイバーも大絶賛だったよ! 一晩中、二人で語り明かしちゃった」

 一晩中って……。昨日は簡単なものしか作ってないから、そこまで感動されると逆に困ってしまう。僕の料理は本当はもっと美味しいんだぞ。
 よーし、折角だから、朝食は気合を入れて作ろう。材料は昨日買った物があるし、後で光熱費を遠坂さんに払うとして、また、台所を使わせてもらおう。
 意気揚々と一階まで降りて来て、台所に向かうと、僕達は驚くべき光景を目の当たりにした。
 そこにはサーヴァントが居た。恐らく、遠坂さんのアーチャーだ。彼は鎧を脱ぎ、白いワイシャツに袖を通して、エプロンを着けた状態で鍋を振るっていた。

「……ん? ああ、君達か」

 アーチャーは僕とライダーを見ても一切警戒せずに鍋を振るい続ける。

「えっと……、アーチャーさん?」
「ああ、私がリンのサーヴァント、アーチャーだ。そう言えば、こうして直接言葉を交わすのは初めてだったね。ああ、少し待っていてくれ――――」

 コンロの周りには調味料が並んでいる。僕は彼が探している調味料を手渡した。

「……よく分かったな」

 このタイミングでコレを使うと味がグッと引き締まる。僕のオリジナルだと思ってたけど、やっぱり、料理が出来る人は最終的に同じ事を考えるものらしい。
 アーチャーは調味料を適量、鍋に加えると、少ししてから此方に顔を向けた。

「さて、初めましてだな、ライダーのマスター。そして、ライダー」
「は、はい。初めまして」

 思った以上にフレンドリーでビックリだ。白髪な上に濃い肌色、その上、アーチャー。多分、僕が知っている通りの存在なのだと思うけど、Fateではこんなにフレンドリーな性格では無かった気がする。アレは士郎の視点だったからなのかな?
 
「いや、それにしても驚いたな。さっきのタイミングでのアレの使用は秘伝のつもりだったのだが……、君も料理を?」
「は、はい!」
「……ふむ、どうにも緊張させてしまっているようだな。どれ、もう少ししたら出来上がるから、食卓で待っていたまえ。見目麗しいお嬢さん方がこんな狭苦しい場所に暑苦しい男と一緒では気も滅入るだろう」

 この人、本当に士郎の未来の姿なのだろうか……。
 麗しいお嬢さんなんてフレーズ、初めて聞いたよ。

「あの……、手伝います」

 折角の機会だし、もう少し話したい。
 彼はどうやら僕の事を知らないみたいだし、きっと、彼の生前に僕は存在していなかったのだろう。つまり、僕の知っている士郎と彼は別人という事だ。
 だけど、彼も士郎なら、僕の知らない一面を教えてくれるかもしれない。というか、既に一つ教えてもらった。士郎も将来、女の子を相手に『見目麗しいお嬢さん』のフレーズを使う日が来るのかもしれない。
 もっと、知りたいと思った。

「いいのかい? なら、お言葉に甘えるとしよう」
「はい。えっと……、この料理の組み合わせなら、アレも必要ですよね」
「……分かっているな、君」

 調理は順調に進んだ。不思議なくらい、僕と彼の息はピッタリで、彼が欲しているものを僕は直ぐに手渡す事が出来たし、逆もまた然り。
 ライダーに味見をお願いすると、大絶賛の声が返って来た。

「これで完成だな」

 朝御飯にしては少々豪華過ぎる気もするけど、人数的には丁度いいのかもしれない。

「さて、皆の者が起きてくるまで、もう少し時間が掛かりそうだな」

 エプロンを脱ぎ去り、アーチャーは僕が作った味噌汁に目を留めた。

「……任せきりにしてしまったが、実に美味しそうだ。少し、味見をしても構わないかね?」
「どうぞどうぞ」

 この短期間の間に僕達の間の――僕が一方的に築いていた――壁はすっかり崩れて無くなっていた。一緒に誰かと料理をするというのは思った以上に楽しかった。
 
「……え?」

 僕もアーチャーが作った料理を味見させてもらおうと、小皿を取ると、突然、ガシャンという音が鳴った。驚いて、アーチャーを見ると、彼は愕然とした表情を浮かべていた。まるで、お化けでもみたような顔だ。

「ど、どうしたの?」
「……どうして、この味が」
「え?」

 アーチャーは泣きそうな顔で僕を見た。

「……この味噌汁は君のオリジナルか?」
「う、うん。実はちょっとだけトマトケチャップを入れてて……」

 ずっと昔、士郎が手伝ってくれた時に彼が間違ってトマトケチャップを入れてしまった事があった。少量だったけど、これは駄目かな……、そう思っていたのだけど、思いの外美味しく出来上がり、今では僕の味噌汁の隠し味として活躍している。

「ト、トマトケチャップ……、だと?」

 呆気に取られているアーチャーに僕はその昔話を語った。
 すると、アーチャーは呆然とした表情を浮かべ、僕を見つめた。

「……その、すまないが君の名前をもう一度教えてくれないか? いや、リンから聞いてはいるのだが、君の口から……」
「え? えっと、樹です。飯塚樹」

 名前を言った途端、アーチャーは「そうか……」と呟き、背を向けた。

「……樹。ありがとう」
「えっと……、どういたしまして……?」

 そんなに味噌汁にケチャップを入れる事が彼にとって革命的だったのだろうか……。

「ケチャップか……、そうか、その発想は無かったな……」

 なんだか、咽び泣いている。

「りょ、料理が好きなんだね」
「……ああ、まあ……、そうだな」

 皆を起こしに行ってくる。アーチャーはそう言い残すと去って行った。

「な、泣いてたね」

 ライダーがビックリしたように呟く。

「う、うん。まあ、味噌汁にケチャップはそうそう無いからねー。でも、美味しいんだよ―」
「へへへ、楽しみー。ねね、もっと味見していい?」
「だーめ。皆が揃ってから、一緒に食べよう」
「ちぇー」

 それにしても、本当に楽しかった。厳密に言えば別人だとしても、士郎と一緒に台所に立つ事はやっぱり特別という事だろう。
 今度、士郎に料理を教えてあげようかな。聖杯戦争が終わったら、一緒に作って食べよう。アーチャーも料理の最中は凄く楽しそうだったし、士郎も嵌るに違いない。
 うーん。士郎が料理を始める機会を奪ってしまった事が悔やまれる。今からでも遅くないといいな……。