第十一話「イレギュラー」

 冬木ハイアットホテルの一室に私達は案内された。部屋の大きさや間取りは私達の部屋とほぼ一緒だった。
 フラット――呼び捨てでいいと言われた――は部屋に入ると直ぐにパーティーの準備を始めた。ソファーとテーブルを部屋の中央に運び、ジュースやビール、ワインを大量に並べた。

「おい、小僧。ツマミは無いのか?」
「勿論、ありますよ!」

 ランサーはさっさとソファーに座ると手近にあったビールを飲み始めた。

「ッカー! 現代のビールは美味いな!!」

 一気に飲み干してランサーは満面の笑みを浮かべながら言った。

「おい、セイバー! お前も飲めよ!」
「あ? どうして、オレがお前なんかと……」
 
 こっちを見ずに手招きするランサーにセイバーは苛々した口調で言った。
 すると、ランサーは怪訝な表情を浮かべた。

「いや、お前じゃねーよ。俺はセイバーに言ってんだよ」
「だから、オレに言ってんじゃねーか」
「だから、違うっつーの! 俺はセイバーに!」
「だから、俺がセイバーだっての!」
「……あれ?」

 話が噛み合ってない。セイバーとランサーも気付いたらしく、首を捻っている。

「えっと、お前がセイバーなのか?」
「お、おう」
「なら、えっと、お前は何のクラスなんだ?」

 ランサーが問を投げかけたのは彼とさっきまで死闘を繰り広げていた巨躯の英霊。
 彼は難しい顔をしながら「すまん」と頭を下げた。

「マスターから絶対に名乗るなって厳命されちまってな。いや、ライダーが名乗ったからには俺もと思ったんだが……」
「クラスもか?」
「ああ、言ったらお仕置きだとよ」

 カカッと笑いながら彼もビールに口をつけ始めた。

「ま、俺の事は『ファーガス』とでも呼んでくれ。マスターがつけた便宜上のもんだがな。勇者って意味らしい」
「ッハ、さてはお前のマスター、女だな?」
「御名答。ちょいっとちっこいが、良い女だぜ。まあ、個人的にはもう少し胸がデカい方がいいんだがな」

 ファーガスとランサーは早速盛り上がっている。さっきまで殺し合っていたとは思えないくらい和気藹々としている。
 その間、フラットはいそいそとツマミを用意している。大きなテーブルにはポテトが山盛り。

「おいおい、ポテトばっかかよ!?」

 ランサーが早速愚痴を零してる。

「え? ポテト美味いじゃないッスか!?」
「折角、この時代に来たっつーのに、カップラーメンばっかで、漸く美味い飯にありつけるかとこっちは期待してたんだぞ!!」

 何だかよく分からないけど、ランサーってば、駄々っ子みたい。

「えっと、じゃあ、ルームサービスでも頼んでみますか?」
「お、なんだソレ?」
「えっとですねー」

 フラットがルームサービスについて説明を始めると、ランサーとファーガスは熱心に聞き入り始めた。

「あ、それだったら、ボク、パフェ食べたい!」
「あ、私もパフェ食べたい!」
「おい、イリヤ! 敵地なんだから、勝手に動くな!」

 ガーッと怒鳴るセイバーを尻目に私はライダーと一緒にパフェを選び始めた。
 チョコレートもいいけど、イチコも食べてみたい。

「ねね、これなんかいいんじゃない?」

 ライダーはスペシャルミックスパフェなる巨大なパフェの写真を指差した。
 さすが伝説にその名を遺す英雄様だわ。お目が高いわね!

「フラット! ボク、これ!」
「私も!」
「イリヤァァアア!!」

 殴られた。グーで頭を殴られた。
 痛い……。

第十一話「イレギュラー」

「何するのよー!」

 涙目になりながら抗議すると、セイバーは私の両肩を掴むと揺さぶりながら怒鳴り始めた。

「何するのよーじゃねー!! ここは敵地だっつってんだろーが!! いい加減、そのお花畑の脳味噌に危機感っつーのを植え込んで来い!!」
「お、お花畑じゃないもん!!」
「ないもんじゃねーよ!! お前は命狙われる立場だっつーのをいい加減理解しろ!!」
「ちょ、やめて、目が回る……」

 体を上下に揺さぶられて段々気持ち悪くなって来た。
 
「おいおい、その辺にしとけよ、セイバー」

 ランサーが助け舟を出してくれた。

「んな騒いでねーで、こっち来て一杯どうだ?」
「いらねーよ!! ってか、何でそんな馴染んでんだよ!?」

 良かった。怒りの矛先がランサーに向いた。
 
「ねね、クロエ! クロエはどのパフェがいい?」
「貴女、ちょっとは反省しなさいよ……。セイバーがさすがにちょっと哀れだわ」

 クロエは呆れたように言った。
 やっぱりだ。初めて会った時から思ってた事だけど、クロエは凄く良い子だ。人の事をちゃんと思い遣れて、憎んでる人の事も懸命に許そうとする。私の事も彼女は必死に許そうとしていた。だから、さっきも許せないと言った時、彼女の顔に浮かんだのは憎悪でも憤怒でも無く、哀しみだった。
 彼女が憎しみの心を晴らせずにいるのは、それだけの事を私達はしてしまったからだ。自分達の幸福の為に生贄にした。その罪深さに押し潰されそうになる。

「クロエ。このパフェなんてどうかな?」
「……話聞きなさいよ。まったく、パフェなんて……このスペシャルミックスでいいわ」
「うん! いっぱい食べようね!」

 彼女に許してもらいたい。そんな事、思う事すら許されない。そんな事は分かってる。それでも、彼女に許してもらいたい。
 そして、願わくば、一緒に居たい。一度は敵対し、今に至るまでに交流らしい交流なんて無かった。なのに、私はこの子の事が凄く気になっている。
 
「……ねえ、イリヤ」
「なーに?」
「幸せだった?」

 その質問の意図が何かは分からなかった。
 枕詞に『私を生贄にした人生は』とかが付いてたかもしれない。
 でも、私は何も考えず、正直な言葉で答えた。
 だって、彼女に嘘はつきたくない。彼女に対して、これ以上罪は重ねたくない。不義理な真似や不誠実な対応なんて、絶対にしたくない。

「……うん。幸せだよ。昔も今もずっと幸せ」
「そっか……」
「うん……」

 クロエは怒りもせず、笑いもせず、ただ、小さく頷くだけだった。
 しばらくして、ルームサービスが届いた。私はクロエとライダー、そして、セイバーと一緒にパフェを突っついている。
 ちなみに、フラットはランサーやファーガスと盛り上がってる。フラットは本当に彼らと友達になりたいんだ。彼の表情の明るさが彼の誠実さを表している。ランサーやファーガスも同じ事を感じたのだろう。だから、彼を敵マスターであるにも関わらず、受け入れている。さっきは変態だとか失礼な事を言ってしまったけど、今では彼に魅力を感じてる。
 自分のやりたい事に真っ直ぐな人は素敵だと思う。

「このパフェ、最高に美味しいねー!」

 ライダーが瞳を輝かせながらパフェをつまんでいる。彼女とフラットはとてもよく似ている気がする。たしか、アストルフォって名前だったっけ。
 どんな英雄なんだろう。気になってうずうずしていると、隣でクロエがクスリと笑った。

「なになに? どうしたの?」

 彼女の一挙一動が気になり、彼女の笑った理由がどうしても知りたくなった。
 私が問い掛けると、クロエはセイバーを見つめていた。

「あれだけ言ってたのに、結局自分も頼んでるんだもの。セイバーったら、可愛いわね」
「う、うるせぇ!! お前等が好き勝手やってるからだ!! もう、オレだってパフェくらい喰ってやる!!」

 顔を真っ赤にしながら怒鳴ると、セイバーはパフェをがっつき始めた。すると、突然スプーンの動きを止め、頬を緩ませた。

「お、美味しい」

 可愛いわね。再びがっつき始めるセイバーにちょっとキュンとしてしまった。
 いつもは堅物だけど優しいセイバーが見せる可愛さ。これがギャップ萌えって奴なのかしら。美々なら詳しい筈。そうだ。後で電話しよう。いきなり行方を眩ませて、きっと心配してる筈だわ。

「イ、イリヤ、これをその……」

 セイバーがつんつんと私の腕を突っついて来る。どうしたんだろう。
 彼女の方に顔を向けると、彼女は恥ずかしそうに自分のパフェの容器を指差した。
 中身は空っぽ。

「ああ、新しいのね。次も同じのにする?」
「いや、次はこのチョコミントで……」

 セイバー、口にクリームがくっついてる。
 私はひょいっとセイバーの口元を指で拭って、そのままクリームを舐めた。

「な、おま、何をして!!」

 顔を真っ赤にしてる。映画とかでよく見る光景だから真似してみたけど、同性にも効果は抜群らしい。
 
「とりあえず、セイバーはチョコミントね。ライダーはどうする?」
「ボクはイチゴのにするよ」

 ライダーもいつの間にか容器を空にしていた。

「クロエは?」
「私のはまだ半分くらい残ってるわ」
「でも、直ぐに食べ切れるでしょ?」
「……まあね。じゃあ、このオレンジのをお願い」
「うん! 分かった!」

 彼女が応えてくれるのが嬉しい。ついつい口元が緩んじゃう。
 クロエはそんな私を呆れたように見ている。いかんいかん。しっかり威厳を持たないと。
 いつか、一緒に暮らせるようになったら、しっかりしたお姉ちゃんになるんだ。
 そう、いつか一緒に暮らす。そして、彼女を幸せにする。絶対に……。

「イリヤ……?」

 セイバーの声にハッとなった。

「大丈夫か? ボーっとしてたけどよ」
「あ、うん。大丈夫! ちょっと、買い物とかの疲れが出ちゃったみたい。注文の電話してくるね!」
「お、おう」

 宴は数時間に渡って続いた。主催者であるフラットはとうの昔に酔い潰れ、彼を酔い潰した当人達は肩を組みながらビールを飲み続けている。
 どんだけ仲良くなってんのよ……。

「で、ボクはヒッポグリフに乗って月に行ったのさ」

 ちなみに、私達はアストルフォの武勇伝に耳を傾けていた。彼女は惜しみなく自分の経験を私達に語り聞かせてくれた。
 ちょっと愉快で胸躍る大冒険の数々。それを物語の主人公が自分で語ってくれる。こんな経験は滅多に無い。っていうか、普通なら絶対にあり得ない。
 フラットの気持ちが今では凄く良く分かる。
 何でも願いの叶う聖杯も魅力的だけど、それ以前に過去に名を馳せた英霊と出会える事自体、途方も無く素晴らしい事だわ。時代や国の違いを超えて、今ここに彼らは居る。
 
「さて、そろそろ解散にすっか?」

 アストルフォの話が終わるとランサーが言った。
 どうやら、彼らも彼女の話に耳を傾けていたらしい。
 彼は立ち上がると、フラットの頬をペシペシと叩いた。
 フラットが大きな欠伸をしながら起きるのを確認すると、私達が居るにも関わらず、彼は言った。

「今宵の宴は実に楽しかったぜ、ライダーのマスター」
「えっと、って、あ! す、すんません! 俺、寝ちゃって……」
「ッハ! 敵サーヴァントの居る場で眠りこけられるテメェは大物だ」

 そう言って、口元に笑みを浮かべると、彼は言った。

「俺の名はクー・フーリンだ」

 まるで、世間話の延長のように彼は名乗った。
 真名を隠すのが聖杯戦争の常識だとセイバーやパパが言っていた。にも関わらず、彼は言った。

「後でマスターにどやされるな、こりゃ」

 ククッと笑いながら彼は言う。
 つまり、彼の今の名乗りはマスターの意に背いての行動だったわけだ。

「えっと、どうして……」

 フラットは驚いた顔をしている。

「友達になりてーんだろ?」
「は、はい!」
「だが、俺とお前は敵同士だ」
「で、でも!」
「……だから、この名を覚えておけ。死んだ後なのか、聖杯戦争を勝ち抜いた後なのか分からんが、戦いが終わった後、この名はお前の友人となる」
「……へ?」

 ランサーは笑って言った。

「お前のトンでもねーバカさ加減とか、気に入ったって事だ。ダチになってもいいってくらいにな」
「お、おお!! おおおおお!!」

 フラットはライダーに顔を向けた。

「や、やったぜ、ライダー!! 友達、四人目ゲットだ!!」
「やったね、マスター!!」

 言われたライダーも凄く嬉しそう。まるで、自分の事のように喜んでいる。
 二人の微笑ましいやり取りに私も思わず頬が緩んだ。
 すると、セイバーが鋭い声でフラットに言った。

「おい、四人目ってのはどういう事だ?」
「え? だから、ライダーとイリヤちゃんとセイバーちゃんとランサーさんで四人」

 知らない内に友達になってた。いや、別にいいんだけど……。

「ふざけんな!! お前みたいな奴と友達なんざ冗談じゃねー!!」
「ええ!? 一緒にパンツやブラジャーを選んだ中じゃないッスか!?」
「誤解招く言い方やめろ!!」
「おいおい、フラット! やるじゃねーか!」
「ちげーっつってんだろ!!」

 最後まで締まらないわね。
 でも、正直な話、私はこの宴が凄く楽しかった。ライダーやクロエとも少し仲良くなれた気がするし、ランサーやファーガスが恐ろしい怪物じゃなくなった。
 来て良かったと思う。

「あ、そうだ、イリヤちゃん!」
「何ですか?」
  
 帰り支度をしていると、フラットが声を掛けて来た。
 何だろう。首を傾げると、フラットは言った。

「こうして出会えたのも何か凄く運命的な気がするんだ!! だからさ――――」

 彼は満面の笑顔で言った。

「俺と付き合ってよ!」

 空気が凍り付いた。
 それまで騒がしく喧嘩していたセイバー達までが凍り付いている。
 クロエに至っては持ってたパフェの容器を落としてしまった。

「ちょ、ちょ、ちょっと待て!!」

 いち早く再起動を果たしたセイバーが私達の間に割り込んで来た。

「な、何いきなり人のマスターに!! ってか、お前にはライダーが居るだろ!! お前等お似合いだよ!! そいつと結婚しとけ!! とりあえず、イリヤに近寄るな!!」

 セイバーがガーッと怒鳴ると、ライダーは困ったように言った。

「でも、ボクは男だしねー」
「……え?」

 再び空気が凍った。セイバーは口をポカンと開けたままライダーを上から下まで眺め回した。

「……え?」

 ランサーやファーガスも目を丸くしている。
 え、嘘でしょ? え、この可愛さで男って、嘘でしょ?

「いやいや、嘘だろ!!」

 ランサーが叫ぶと、フラットが言った。

「いや、本当ッスよ。俺、この目で見たッスもん」

 また空気が凍り付いた。
 今度はクロエがドン引きした顔で言った。

「み、見たの?」
「信じられないから脱がしてみたッス!」

 私が彼に築いて来た信頼感が崩れていく。
 
「……ねえ、フラット」
「なんスか? っというより、どうッスか? 俺とお付き合い……」
「それより先に聞きたいんだけどさ」
「え?」
「貴方……、ランジェリーショップでライダーのノーパンに鼻息荒くしてたわよね?」
「はい!」

 自信満々に応えるフラットからクロエが思いっきり離れた。
 うん。それで正解。私はクロエを背中に庇う立ち位置に移動しながら言った。

「つまり、貴方、男のノーパンの鼻息荒くしてたって事?」
「はい!」

 清々しい笑顔で答えるフラットにランサーが顔を大いに引き攣らせた。

「おい、名前返せ」
「え?」
「お前に渡した俺の名前返せ、この野郎!!」
「ええ!? 嫌ですよ!! 帰ったらみんなにクー・フーリンと友達になったんだって自慢しまくるんですから!!」
「ふっざけんな!! テメェみたいな変態と友達になったとか、広められてたまるか!!」
「ええ!? オレは変態なんかじゃ無いッスよ!!」
「変態だろうが!! 百歩譲って、男に惚れるのは良いがな、野郎のノーパンってのに反応する奴は間違いなく変態だ!!」
「そんな!? 誤解です!!」
「誤解じゃねーだろ!!」

 やっぱり、あの人変態だわ。
 
「ラ、ライダー!! 誤解を解いてくれ!!」

 フラットが泣きながらライダーに駆け寄った。すると、

「え、ごめん。君、誰?」

 知らない人の振りをし始めた。
 
「っていうか、マジなのか? お前、男?」
「だから、そうだってば。史実でもちゃんと男ってなってるでしょ?」
「いや、そうだけど……」

 セイバーが食い下がってる。よっぽど信じ難いみたい。無理も無いわ。
 私も未だにちょっと信じられずに居るもの。
 って、あれ? ライダーが男だとすると、もしかして、

「セイバーも実は男だったりする?」
「……は?」

 セイバーを始め、全員が私に顔を向けてきた。

「だって、セイバーも史実だと男の人だったし……」

 私が疑いの眼差しを向けると、セイバーは思いっきり腕を振り上げて私の頭を殴った。
 涙が出る程痛い。

「お前はオレの裸をガッチリ見ただろうが!!」
「……え?」

 セイバーの発言に再び辺りが凍り付いた。

「えっと、君達ってそういう仲なの?」

 ライダーがドキドキした様子で聞いて来る。
 あ、セイバーが顔を真っ赤にして爆発寸前だ。

「お前等そこに直れ!! もう、全員纏めてぶっ殺す!!」

 やばい、本気でキレちゃったみたい。セイバーは己の剣を出現させると、膨大な魔力を練り始めた。
 待ってよ。こんな場所でソレを放たれた冗談じゃ済まないわ。
 ランサー達の表情も一転して険しいものとなった。

「セイバー。|ソ《・》|レ《・》を構えるって事がどういう事か、分かってるよな?」

 ファーガスが自身の剣を顕現させながら問い掛ける。

「ああ、分かってるさ。こんなクソみたいな茶番に付き合ったオレが馬鹿だったぜ。一人残らず、この場でぶち殺す。覚悟はいいな!?」
「なら、こっちも抜かせてもらうぜ?」

 ランサーも真紅の槍を顕現させた。
 宴の場は一転して死臭漂う戦場に変貌した。
 あまりの急展開に私は動転して咄嗟に動けなかった。

「死ね!! |クラ《我が》――――」
「お待ちなさい」

 セイバーが宝具の真名を口にしようとした瞬間、動き出した二騎の英霊を真紅の布が縛りつけた。
 そして、同時にセイバーの体を真紅の雷が奔り、彼女の動きを止めた。

「な、なんだ、貴様!!」

 そこには明らかに時代錯誤な鎧を身に纏う少女が立っていた。

第十二話「裁定者」

 一触即発の空気を打ち破った少女はすいすいと部屋の中へと入って来た。
 新たなサーヴァント。私は確信を持って彼女を見た。重厚な鎧に身を包み、三騎の英霊の動きを同時に止めるという離れ業を為した彼女の正体に疑いの余地は無い。
 彼女は片手にランサーとファーガスを拘束している赤い布の端を握り、もう片方の手をセイバーに向けている。

「貴女、誰?」

 先程までとは打って変わり、クロエは酷薄な表情を浮かべ、少女を睨みつけている。
 警戒している。当然だろう。三騎の英霊を同時に制圧する力が如何に脅威か――セイバー曰く――危機感の足りない私でも分かる。
 少女は私達一人一人にゆっくりと視線を巡らせる。立ち居振る舞いが見事に洗練されている。セイバーやライダーを含めても、今まで見たサーヴァント達はどこか粗暴な雰囲気を漂わせていた。けれど、彼女からはそんな雰囲気を微塵も感じない。

「……その前にアーチャー。それに、アサシンも姿を見せて頂けませんか? ああ、バーサーカーは結構です。マスターがいらっしゃいますからね」
「……は?」
 
 私達の声が重なると同時に部屋の中に更なる侵入者が姿を現した。
 一人は黒い装束に身を包む怪人。顔を髑髏を象った面で隠している。不気味だけど、ホラーやファンタジーというより、ミステリーの世界から飛び出してきたかのような出で立ち。
 もう一人は黄金の鎧に身を包む不遜な表情を浮かべた男の人。彼が現れた瞬間、ランサーの顔が驚愕に染まった。

「何故、生きている!?」
「……戯けが。あの程度で我を討ち取れるとでも思ったか?」

 二人は知り合いらしい。それも、ただの知り合いじゃない。
 話の不穏さからして、恐らく、彼らは既に殺し合った事があるのだろう。
 ランサーは彼が死んでいると思っていたらしい。

「貴様への懲罰は後回しだ。それよりも、女。貴様、何者だ?」

 黄金の鎧を身に纏う英霊は殺気に満ちた視線を少女に向けた。
 セイバーが咄嗟に私を背中に庇いに動く。見れば、ライダーもフラットの前に出ながら油断無く槍を構えている。
 ここには、姿を現さないバーサーカーを除き、六騎の英霊が勢揃いしている。聖杯戦争に招かれるのは七騎の英霊のみだと聞いた。なら、彼女は何者なんだろう。

「私はルーラーのサーヴァント。ジャンヌ・ダルクと申します。此度の聖杯戦争の管理の為、聖杯により召喚されました」

第十二話「裁定者」

「ルーラー……?」

 疑問を口にする私に答えたのはクロエだった。

「聖杯がマスターを介さずに直接召喚した裁定者の英霊ね」
「聖杯自体が?」
「聖杯戦争に大きな歪みが出来た時、召喚されるサーヴァントらしいわ」

 クロエの答えに異論は無いらしく、ルーラーは小さく頷いた。

「此度の聖杯戦争において、重大なルール違反が行われた為、私が召喚されました」
「ルール違反?」

 私が首を傾げると、黄金の鎧のサーヴァントが黒装束の英霊を睥睨しながら言った。

「貴様の事ではないのか? アサシン」
「さて、何の事やら。むしろ、僕はあの『|勇者《ファーガス》』を名乗るサーヴァントこそが怪しいと思うけどね」
「ッハ! 面白い事言うな、アサシン。いっちょ、俺の剣の錆になってみるか?」

 赤い布に拘束されたまま、ファーガスはアサシンを睨み付ける。
 ルーラーの言った『ルール違反』が何の事だかは分からないけど、どうやら、心当たりのある人が何人か居るらしい。

「クロエはどう思う?」
「……さあ、知らないわ。ルーラー。貴女は分かってるの? そのルール違反者が誰なのか」
「いいえ。それについてはこれから調査を行うつもりです。どうやら、名乗り出てくれそうにはありませんし」
「当然ね。よりにもよって、ルーラーが出て来た以上、仮に誰かがルールを破っていたとしても、名乗り出る筈が無いわ」
「どういう事?」

 私が聞くと、クロエは肩を竦めて言った。

「ルーラーには幾つかの特権が与えられているのよ。聖杯戦争を管理する側として、参加者より優位に立つ為に」
「特権?」
「幾つかあるんだけど、例えば、全サーヴァントに対して有効な令呪とか」

 クロエの発言に黄金の英霊を除く全ての視線がルーラーに向けられた。
 彼女は様々な感情の入り混じった視線を受け止めた上で静かに言った。

「ええ、私には各サーヴァントへの令呪の行使が許可されています」

 そう言って、彼女は袖を捲り、腕に刻まれた令呪を私達に見せた。
 そこには計十四もの令呪が刻まれている。

「それに、どうやら相当に鼻が利くご様子だ」

 アサシンが言った。

「僕の気配遮断をアッサリ見破ったし、アーチャーだって、どうやったのか知らないけど、|僕《アサシン》と同程度の気配遮断スキルを発揮していた。にも関わらず、此方もアッサリ見破られた」
「相当な策的能力をお持ちらしいな」

 ファーガスが愉快そうに嗤った。

「否定はしません。それに、私にはもう一つの特権が与えられています。その上で申しましょう。『ファーガス』。少なくとも、貴方の『違反』は私が咎める対象ではありません。前例もありますしね」
「……ほう」

 ファーガスは瞼を細め、笑みを消した。

「潔白を証明してくれるのはありがたいが、俺が少なからず違反をしてるって事をバラすってのは、裁定者としてちと不公平じゃないか?」
「違反は違反ですので、公平さを規す為の処置と思って下さい」
「喰えねぇな」

 舌を打ちながらファーガスは体を揺すった。
 すると、彼を拘束していた布があっさりと解けた。

「破らないで下さいね。借り物なんですから」

 どうやら、ルーラー自身が解いたらしい。赤い布を大切そうに畳みながら言った。
 
「アサシン。貴方には言いたい事が無いでもありませんが、少なくとも、私が咎めるべき『違反』は犯していません。ですが、目に余る行いをするのでしたら、此方からも介入を辞さないつもりです。努々、お忘れ無きように」
「……ああ、了解したよ、裁定者殿」

 ルーラーの視線に初めて敵意のようなものを感じた。
 ジャンヌ・ダルクと言えば、私でも知ってるフランスの英雄だ。彼女の映画を見た事もある。旗を掲げ、剣を構え、祖国の為に戦場を駆け抜けた救国の乙女。
 最後は磔にされ、火炙りにされた。彼女の非業の末路を思い出し、私は思わず息を呑んだ。

「……あの、マジで、ジャンヌ・ダルクさんなんスか!?」

 突然、フラットが大声を上げた。
 ルーラーも驚いている。

「え、ええ、そうですが……」
「サ、サイン下さい!!」
「……へ?」

 ルーラーが目を丸くしている。
 無理も無い。私もフラットのあまりにも突飛な行動に頭が追いつかないでいる。
 見れば、あの傲慢不遜な態度を貫くアーチャーまでが片方の眉を上げながらフラットを見ている。

「サ、サインですか?」
「ハイ!! 俺、フランス出身で、ジャンヌさんの大ファンなんです!!」
「え、えっと、え、ええ!?」

 凄いわ、フラット。この緊張感溢れる状況でも、まったく普段のペースを崩さないで居られるなんて、ある意味凄いわ。

「で、出来れば、このシャツの背中にお願いします!!」
「え、えっと、は、はい」

 サインペンを渡されたルーラーはおろおろしながらフラットの背中にサインした。
 サインを貰ったフラットは感激に瞳を輝かせ、ライダーに見せびらかせた。

「見て見て!! ジャンヌ・ダルクのサイン!!」
「ちょっと、マスター!! ボクのサインはねだらなかったのに、ジャンヌのサインを欲しがるってのはどういうわけ!?」

 すると、今度はライダーがよく分からない怒り方をしながらサインペンを奪い取り、フラットの背中に自分のイラスト付きのサインを書いた。

「ふふーん! シャルルマーニュ十二勇士が一人、アストルフォのサインだよ!」
「おお!! こ、これは!!」

 すると、更に興奮したフラットがランサーの下に駆け寄っていく。
 ランサーは思いっきり顔を引き攣らせた。

「お願いします!!」

 サインペンを渡し、背中を見せるフラット。

「……お前、マジで大物だわ。いや、ほんと」

 呆れながら、ランサーはさらさらとフラットの背中にサインを書いた。

「ひゃっほー!」

 三人の英雄のサインに大喜びするフラットを見てると、段々私も欲しくなって来ちゃった。
 よく考えたら、女優とか俳優とかのサインよりよっぽどレアよね。

「駄目だぞ」

 物欲しげに見ていると、セイバーに先手を打たれた。
 指を唇に当てながらセイバーを見ると、物凄く剣呑な眼差しが帰って来た。

「あんな馬鹿な真似してみろ! さすがのオレも愛想尽かすぞ!」
「そんなー! ごめん、許して、セイバー!」
「だったら、もうちょい賢い選択ってのをしろ!」
「はーい」

 ちょっと、っていうか、本気で惜しい気分だけど、私はみんなのサインを諦めた。
 ライダーに使い捨てカメラで写真を撮ってもらっているフラットが羨ましい。
 
「とにかく……」

 コホンと少し頬を赤らめながらルーラーは口を開いた。
 フラットも慌ててライダーの隣に戻り、居住まいを正す。

「これより先、私も裁定者として聖杯戦争に参加します。私の最大の目的は違反者を発見、及び対処ですが……」

 ルーラーは私達一人一人に視線を向けながら言った。

「無闇に一般人を害する者があれば、その者も私の懲罰の対象となります。その事を肝に銘じておいて下さい」

 ルーラーの言葉にサーヴァント達は挑発的な視線を返した。
 彼らの顔には『やれるものならやってみろ』という言葉が滲んでいる。

「宴の締めに騒ぎ立てした事は謝罪します。それから、ライダーのマスター」
「あ、俺、フラットって言います! フラット・エスカルドス!」
「……でしたら、フラット。貴方の在り方は実に好ましい。ですが、軽はずみな行動で一般人を巻き込むような真似は謹んで下さいね。例えば、令呪を自慢したいからと言って、何も知らない一般人に令呪を見せびらかすなどの行為は控えてください」

 そんな事してたんだ……。
 頭を抱えたくなるようなフラットの奇行にランサーがククッと嗤った。

「そうだな。ああいうのは、もう止めとけよ、フラット。ライダーが居なけりゃ、今頃お陀仏だったんだからよ」
「は、はーい」

 どういう事だろう。ランサーも何だか訳知り顔だ。
 フラットとランサーは今夜が初対面じゃなかったて事かしら。

「では、私はお暇させて頂きます」

 そう言って、ルーラーが身を翻した時だった。
 突然、部屋の隅から声が響いた。

『待て、ルーラー』

 パパの声。
 視線を向けると、そこには一匹の蜥蜴が居た。

「何でしょう?」

 ルーラーは動じた様子も見せずに問いかけた。
 どうやら、彼女はあの蜥蜴の存在に既に気付いていたらしい。

『幾つか確認したい事がある。一つ、お前を召喚したのは、本当に聖杯なのか?』
「……質問の意図が量り兼ねます。もう少し、具体的にお願いします」
『では、言い方を変えよう。君は聖杯の穢れについて承知しているか?』
「聖杯の穢れ……?」
『知らなかったのか……。ならば、尚更疑問が沸く。君を召喚したのが聖杯だと言うなら、聖杯の現状を理解していないのはおかしい。それに、『あの聖杯』が君のような者を呼ぶとは思えない』
「……まず、疑問にお答えしましょう。より正確に言えば、私を召喚したのは|世界《・・》です」
「世界……?」

 疑問を差し挟む私にクロエが言った。

「つまり、ルーラーは『抑止力』なのよ」
「抑止力って?」
「滅びの要因を排除するモノ。世界とは、言い換えると集合無意識の事」
「集合無意識って、ユングの普遍的無意識とかの事?」
「あら、よく知ってたわね。それに近いわ。より、正確に言えば人類の持つ破滅回避の祈り、即ち『|阿頼耶識《アラヤ》』による世界の安全装置の事よ。世界を滅ぼす要因の発生と共に起動するソレは絶対的な力を行使し、その要因を抹消する。本来、抑止力はカタチの無い力の渦なんだけど、具現化する際に幾つかのパターンがあるの。例えば、滅びを回避させられる位置に居る人間を後押ししたり、自然現象として全てを滅ぼしたり……。聖杯戦争の目的が『根源』に至る事だから、当然、聖杯戦争を始めた御三家の頭首達は抑止力について対策を練っていた。それが『ルーラー』。抑止力にサーヴァントという枠組みを与える事で制御出来るようにしたってわけ」
「えっと、ちょっと待って……」

 難しい単語がずらずら並んでいるせいで、頭の中がこんがらがった。
 
「とりあえず、根源って何?」

 私の問い掛けにクロエは深々と溜息を零した。

「あらゆる魔術師が目指す到達点よ。魔術師にとっては常識以前の話」
「ヘ、ヘー。でも、何でその、根源に至ると抑止力が出て来るわけ?」
「幾つか仮説はあるんだけど、基本的に根源に至る事はアラヤにとって望ましくない事だと認識されているからよ」
「どういう事?」
「根源に到達するという事は言ってみれば、無に還るという事。『生きる』というあらゆる人間の持つ『未来』への思いとは正反対の行動なの。だから、アラヤは根源に至ろうとする者を排斥しようとする」
「それが……、抑止力」

 私はルーラーを見た。

『なるほど……。それは初耳だったな。とは言え、それなら納得だ。むしろ、何故、前回の聖杯戦争にルーラーが現れなかったのかが疑問だがね』
「聖杯の穢れですか……。興味深い話ですね」
『詳細を御所望ならば、一つ提案がある。まずはどこか、静かな話し合いの場を設けたい』
「私は構いません。聖杯戦争の歪みを正す事はルーラーのサーヴァントたる私の責務ですから」
『話が早くて助かる』
「私は言峰教会に拠点を置いています。日時や場所についてはそちらの都合に合わせます」
『感謝する』

 パパの声が聞こえなくなると、再び部屋の中の時間が動き出した。

「中々に面白くなって来たな」

 アーチャーはそう呟くと、姿を消した。
 気がつくと、アサシンの姿も無い。

「殺した筈の奴は生きてやがるし、八番目のサーヴァントは出て来る。ッハ、おもしれー。おい、フラット! 俺と戦うまで死ぬんじゃねーぞ」
「勿論ッス!」

 ランサーが姿を消すと、ファーガスもゆっくりとした動作でフラットを見た。

「じゃあな。楽しかったぜ」

 ファーガスも出て行き、残ったのは私達だけになった。
 
「私も行くわ」

 クロエが言った。

「ライダーのマスター。今宵はお招き感謝致します。次は戦場で会いましょう」

 優雅な動作でスカートを持ち上げながらフラットに頭を下げた後、クロエは私に向かって言った。

「もう少し、賢く立ち回りなさいね。じゃなきゃ、死ぬわよ?」
「う、うん……。心配してくれてありがと」

 私が言うと、クロエは小さく溜息を零した。

「生き残りなさいよね。私が殺すまで……」

 それっきり、クロエは振り返らずに去って行った。
 最後の瞬間、その瞳には深い殺意が宿っていた。
 息を呑みながら立ち上がると、私は改めて部屋の惨状を見た。

「とりあえず、みんな、部屋の片付けくらい手伝ってから帰りなさいよ……」
 
 一先ず、私は手近な所から片付けを始めた。
 フラットとライダーは興奮した様子でお喋りに興じているけど、放置して帰るのはさすがに気が引ける。
 セイバーも無言のまま手伝ってくれている。

「イリヤ。どうにもキナ臭い事になってるらしい。確り、警戒心を持て。お前は考えが甘過ぎる」
「……うん」

 夜が更けていく。

「これはどこに置けばいいのでしょう?」

 あ、ルーラーが残ってた。
 その手にはランサー達が飲んだビールの空き缶。
 私はセイバーとルーラーと共にせっせと部屋の後片付けをした。

第十三話「ライネス・エルメロイ・アーチゾルテ」

――――この国は一人の魔女によって滅び、一人の聖女によって救われるであろう。

 百年に渡る戦乱の末、混迷を極めるオルレアンの地で一人の少女が立ち上がった。齢十七を数えたばかりの田舎娘は王太子シャルルの命を受け、旗を手に取り戦場を駆け抜けた。
 彼女は祖国フランスに勝利を齎し、シャルル7世をフランス国王へと押し上げた。

「レオン・ドゥニという研究者が居る。彼はジャンヌ・ダルクの偉業が抑止の後押しによるものだと考えた。まあ、彼は魔術の世界に属さない一般人だったけどね」
「一般人が抑止の存在を?」
「そうじゃない。彼は直接『抑止』という言葉を使っていない。彼は『信仰の名のもとに肯定され、理性の名のもとに否定されてきた数多くの現象が、今後は論理的、科学的に解明されるようになるだろう。オルレアンの少女の人生にちりばめられた数多くの驚異的な現象も、実はそうした高い次元に属するものだったのである』という言葉を著作に遺している。彼は一般人であったが、魔術や神秘の存在を感じ取っていたらしい。そして、『彼女のまわりに働きかけ、彼女の内に働きかけ、彼女を高貴な目標に導いていった力』の存在を仄めかしている。魔術師である私達からすればソレが『抑止力』の事だと察しがつく。だが、問題なのは彼が一般人であるにも関わらず、その存在に辿り着いた点だ」
「なるほどな。一般人ですらその結論に辿り着ける程、明確な後押しがあったという事か」
「まあ、彼は他の才能ある作家を『暗い魂』と称するような御仁だ。他者には無い類稀なる感性がその結論を導き出したのだろう。まあ、何が言いたいかというと、私は彼の意見に賛成の立場にあるという事さ」
「つまり、奴が本当に抑止力に呼ばれた英霊だと?」
「ああ、間違い無いと思う。アレはそういう英霊だ。人類の集合無意識が望んだ英雄。彼女ほど、裁定者に相応しい存在は他に無い。何せ、彼女の存在には『全ての人間の意志』が反映しているのだからね」

 眼下に広がる冬木の街並みを見下ろしながら、少女は断言した。
 彼女の背後には見上げる程の大男が腕を組んでいる。

「――君が持ち帰ってくれた情報は今後の方針を決める為に大いに役立つ。さすがだよ。ところで、私も君の事を『ファーガス』と呼ぶべきかい?」
「好きにしな。咄嗟に考えて付けた名だ」
「いや、呼ばせてもらおう。君の『嘘』も今後の展開において重要なキーとなるだろう」

 ――――そう、ファーガスが自身の名を宴の席で偽った理由はマスターの指示によるものでは無い。
 元より、彼女は彼を常々真名で呼んでいた。彼女は彼が最強の英雄であると確信しているからだ。故に真名など、幾ら知られても問題無いとすら思っている。
 だが、彼は敢えて、己の名を秘匿した。彼がそう判断したならば、己も従うまでの事。
 彼女は彼の判断を心から信頼している。彼の自己判断を尊重し、それを踏まえた上で策を張り巡らせている。

「ライネス」

 ファーガスは少女の名を呼んだ。

第十三話「ライネス・エルメロイ・アーチゾルテ」

 十年前の事だ。当時、当代当主であったケイネス・エルメロイ・アーチボルトの冬木における第四次聖杯戦争での戦死の一報が伝えられた後、アーチボルト家は多くのものを失った。誇り、財、権威、歴史、魔術刻印。あらゆるものを喪い、誰もが当主の座を嫌がる中、その座を受け継いだのが当時、アーチボルト一門でも末席の魔術師に過ぎなかった彼女だった。
 
――――再び、アーチボルト家に栄光を……。 

 それが彼女が常々考えている事だった。だが、当主の座を継いで十年。再興の目途は立っていない。そんな彼女の耳に一つの報が届けられた。聖杯戦争の再開という報が――――。
 アーチボルト家の没落の要因となった聖杯戦争。それを勝ち抜き、聖杯を得て、根源へと達すれば、再びアーチボルト家の栄光を取り戻す事が出来るに違いない。そう考えた彼女は考えうる限り最強の英霊の聖遺物を手配し、聖杯戦争への参加を決めた。
 聖遺物が届いた日は丁度夏から秋に変わる節目だった。ライネスは暗い廊下を進み、自室に戻ると、届いた大荷物を慎重に机の上に置き、ベッドに横たわった。両腕を広々としたベッドの上いっぱいに伸ばし、彼女は瞼を硬く閉じながら呟いた。

「必ず、アーチボルト家を再興してみせる」

 それから数か月後、彼女は冬木市を訪れた。入念に準備を重ね、冬木の全貌を見渡せる位置にあるビルの上層階を拠点として手に入れた。非合法な手段は裏の者達に勘付かれる危険性がある為に正攻法を取る事にしたのだが、負債塗れの彼女に出来るのは暗示による小銭稼ぎ。屈辱に塗れながら、資金を手にし、漸く工房の設置に取り掛かれるようになったのはそれから更に一ヶ月も後の事だった。
 新築の建造物特有の臭いはあっという間に薬品や血の臭いに掻き消され、木目模様のオシャレな床には巨大な魔法陣が刻まれた。工房の設置一つに関しても、ライネスは多大な労力を費やした。何しろ、拠点を得るだけで資金はあっと言う間に底をついてしまったからだ。
 そこまでして、彼女がこの拠点に拘ったのには理由がある。一つは冬木市の全貌を見渡す事が出来る事。そして、もう一つはここが前回の聖杯の出現地点の直ぐ傍であり、優秀な霊地だからだ。霊地を得る事は一種のアドバンテージであり、手札の少ない彼女にとって、どうしても必要だったのだ。
 故に魔法陣を描くにも高価な魔術具や魔法薬など使えない。彼女が魔法陣を描く為に使ったインクは自身の血だった。自分の血は一番己の魔力を通し易い『液体』であり、こういった魔法陣を描く際には最適だ。と言っても、資金さえあれば、己の血よりもずっと効果的な魔法薬を使う事も出来た。だが、彼女には肝心の資金が無かった。
 彼女は日本を訪れてから、只管注射器を用いて血抜きをしてはレバニラ炒めを作ってモリモリ食べた。体に悪い事この上ないこの生活が続いた。時には血が蒸発したり、削れたりする度に補修を繰り返し、綴りに間違いは無いか? 記号の方角は合っているか? 位置は大丈夫か? 歪みは無いか? などを何度も何度も何度も何度も繰り返し繰り返し確認しながら作業をし続けた。
 多大な時間と労力と血液を使い、完成させた魔法陣を彼女は満足気に微笑みながら見つめた。少し青褪めた表情で……。

「完成だな」

 時計に目を向けると、まだ七時を回ったばかりだ。一日の内で彼女の魔力が最も充実するのは八時だ。それまでには少し時間がある。
 一端、休憩を取る事にした彼女は拠点たる工房の点検をする事にした。魔術工房に改造した室内は細部まで確りと結界を張り巡らせてあり、様々な術式を上塗りしてある。

「よし、結界に解れは無いな。他の備えにも問題は無い」

 一つ一つ入念にチェックし終えると、丁度時計の針が八時を指し示した。
 少女は魔法陣の前に立つと、令呪の浮かんだ手を陣に向け、魔術回路を起動した。

「閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する」

 体内を循環する魔力がある一点に向けて放出されていく。

「――――――告げる。汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」

 暗い部屋を眩い光が照らし出したかのような錯覚を覚えた。実際にはまだ何も起こってはいないにも関わらず、立ち上る魔力の奔流に呑まれそうになる。

「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者。汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ」

 雲の合間から顔を出した月の光が部屋を照らした。月光の下、魔法陣の中央に佇む巨躯の男がライネスを見下ろしていた。
 そのあまりの存在感に彼女はしばらく口を開く事すら出来なかった。

「名は?」

 ライネスが召喚したサーヴァントは重い口を開いた。
 ライネスは深く息を吸い込むと、決意の篭った眼差しを彼に向けた。

「――――ライネスだ。私はアーチボルト家十代目頭首、ライネス・エルメロイ・アーチゾルテだ」

 それが、彼女と彼の出会いだった。

 彼女が呼び出した最強の英霊は静かな口調で告げた。

「これはあくまでお前の戦争だ。無論、俺はお前の勝利を第一に考え行動している。宴に参加したのもそうだし、真名を秘匿したのもその為だ。だが、あくまでも俺はお前の駒に過ぎない。その事を決して忘れるな。駒をどう動かすかは打ち手次第だ。俺の意見を尊重してくれるのは嬉しいが、ただ受け入れるだけ、というのは無しにしておけ」
「……手厳しいな。だが、嬉しいよ。叱咤してくれているという事は、少なくともまだ私を見限っていないという事だろう?」
「俺はお前を決して裏切らない。その事だけは断言する。俺が言いたいのは……」
「分かっているさ。君を信頼するのはいいが、盲信してはいけない、と言いたいのだろう?」

 ファーガスは黙って頷く。
 
「分かっているさ。だが、君の意見は一々正しい。わざわざ取り下げる必要の無い程、理に叶っている。だから、私は尊重するのさ」
「俺の最期は知っているだろう?」
「ああ、勿論だよ。偉大なる王は偉大なる行いをした後、配下の者達に裏切られ死んだ」
「裏切ったなどと言ってくれるな。俺が不甲斐なかっただけさ。あの最期は俺の自業自得だ」

 己を嘲るように言うファーガスにライネスは不愉快そうに表情を歪めた。

「俺は完璧な人間じゃない。俺の行動全てが正しいわけでもない。その事を肝に銘じておけ」
「君のそういう謙虚な姿勢は嫌いじゃない。けど、そういう自虐的な姿勢は大嫌いだ」
「悪いな。一人で孤独に死んでいくってのはどんな英雄だって怖いんだよ。だから、俺はここに居る。俺の願いはただ、俺の最期を誰かに看取ってもらう事だ」

 一国の王が何とも情け無い祈りを掲げているものだ。
 そう、無知蒙昧な愚か者達は嘲るだろう。
 だが、ライネスはその願いを決して否定しない。否定など、出来る筈も無い。
 孤独の恐怖を彼女は知っている。死の間際、周りを囲む者が一人も居ないなど、想像するのも恐ろしい。

「ああ、分かってるさ。私も一人は怖い。この戦いの行く末がどうなるにしろ、私と君はずっと一緒だ」

 勝利するのも、死ぬのも一緒。後に続く筈のその言葉をライネスは呑み込んだ。
 言えば、彼は必ず撤回を求めてくる。だが、彼女は撤回する事を拒絶している。
 彼女にとって、彼女を取り巻く全ての人間は敵だった。そんな彼女にとって、彼は貴重な味方であり、信頼出来るパートナーだ。
 彼と共に勝利した暁にはアーチボルト家を復興し、彼と共に生きていきたい。彼は受肉を拒むかもしれないが、此方には令呪がある。彼に嫌われても、どこまでも付き纏う。
 彼と共に死ぬ事。それが彼女の祈りであり、人生の目的となっていた。
 その結末が幸福であるかどうかは分からない。確かに言える事は一つだけ。彼が死ぬ時は私の死ぬ時であり、私が死ぬ時は彼の死ぬ時であるという事。
 
「だから、怯えないでおくれ。私の……私だけの勇者様」

 ライネスはファーガスを抱き締めながら囁くように呟いた。

「……ああ」

第十四話「アサシン」

 空っぽの家の静寂を突き破ったのは私の悲鳴だった。部屋全体が崩れていく。絶叫と共に地面が揺らぎ、壁がグニャリと歪む。世界がぐるぐると回り始める。
 壁と同じように胃が激しくうねり、胃酸が込み上げてくる。

「ど、どうして……」

 使い魔との|交信《コンタクト》を強制切断した影響を残したまま、私は慌てて兄さんの部屋に向かった。
 居ない。即座に部屋の中をチェックする。室内の様子は以前と何も変わっていない。家具の配置が少し変わっている程度。
 私の忠告に従ってくれたのなら、荷物が減っている筈。
 箪笥の中の衣服や下着の量に変化は見当たらない。旅行用バッグもそのままだ。

「う、嘘よ」

 よろめきながら、地下への階段へ向かう。蟲蔵はアーチャーの宝具によって焼き尽くされた状態のまま。焦げ臭さが残っている。
 私は一直線に召喚の部屋に向かった。
 
「あ、ああ……」

 蟲蔵全体に漂う焦げ臭さがより濃密な血の匂いに掻き消されている。
 視界が歪む。地面が波打っている。血がベットリと染み付いた壁が、どちらを向いても迫り上がって来て、行く手を阻む。
 床に夥しい量の血が広がっている。こんなモノ、私がアーチャーを召喚した時には無かった。
 あったとしても、アーチャーの宝具で燃やし尽くされている筈。
 
「嫌だ……」

 私はこの血の持ち主を知っている。
 この部屋を訪れる人間はもはや私を含めて二人しか居ない。
 私はあの時以来、この部屋を訪れていない。
 なら、この血は――――、

「兄さん!! どうして!? 嘘よ!! なんで!?」

 こんな大量の血を流して生きていられる人間など居ない。
 体が震える。

「ア、アア、アアァァアアアアアアアアア!!」

 私の悲鳴は分厚い壁に反響し、何重にも重なり合って響き渡った。
 頭が割れる程痛み、胃酸が激しく逆流した。

第十四話「アサシン」

 どのくらいの時間が経過したのだろうか……。
 私は兄さんの部屋に居た。兄さんの部屋で兄さんに抱かれたベッドに横たわり、兄さんがくれたぬいぐるみを抱き締めたままボーっとしていた。
 兄さんが未だ、魔術の存在を知らなかった頃の事だ。幽鬼のように家の中を徘徊する私に兄さんはクマのぬいぐるみをくれた。

『やるよ。か、家族と離れて寂しいんだろ? だから、それやるから、もうちょっとシャキっとしろよな!』

 唇を尖らせながら私にこのぬいぐるみを押し付けてきた。
 当時の私は何もかもがどうでも良く感じていて、兄さんに貰ったぬいぐるみを部屋の隅に放置していた。
 でも、何時の頃からか、兄さんが家に居ない時はぬいぐるみを見つめるようになっていた。部屋の隅から机の上に移動されたぬいぐるみはいつも私を見守ってくれていた。
 親友を失い、母を失い、妹を失い、父を失い、相棒を失い、兄弟子を失い、家を失い、自由を失い、その果てに手に入れた大切なヒトを失った。

「……バケモノ」

 部屋に入って来たソレに私は搾り出すように言った。

「ああ、そうだな」

 ソレはまるで兄さんのような口調で囁いた。
 ソレは己の顔を覆い隠す髑髏の仮面に手を当てた。

「僕はバケモノだ」

 怒りに頭がどうにかなりそう。髑髏の面を外した向こうには兄さんの顔があった。
 背丈も同じ。表情や仕草までそっくり。だけど、こいつは兄さんじゃない。

「兄さんに何をしたの……?」

 部屋の中は相変わらず生きているかのようにのたうっている。
 光は歪み、奇形な形を描き出す。

「泣かないでくれ……」

 苦悩に満ちた声。騙されない。この声の主は兄さんじゃない。

「……凜」
「そこまでにしておけ、雑種」

 部屋の中の温度が一気に下がった気がする。冷徹な王が帰還したのだ。
 涙を拭うと、アーチャーが金色に輝く巨大な斧を|アサシン《バケモノ》の首に宛がっていた。

「僕は別に凜に危害を加えるつもりなんてないよ」
「……我の許可も得ずに口を開くな」

 アーチャーはアサシンの首から斧を離すと、平らな部分でアサシンを殴り飛ばした。
 アサシンは抵抗する間も無く壁に叩きつけられた。

「アーチャー……」
「醜態を晒すな」

 アーチャーはそう一言だけ言うと姿を消した。
 もしかして、私の為にわざわざ実体化してアサシンを遠ざけてくれたのだろうか?
 まさかね……。あの高慢不遜な英雄王が私の為に率先して動くなんてあり得ない。
 精々、アサシンがアーチャーの期限を損ねる真似でもしたのだろう。
 だけど、少し冷静になれた。アーチャーの圧倒的な存在感――――カリスマは私の心に巣食うもやもやを掻き消してくれた。

「アサシン」

 私は未だに壁に埋もれたままのアサシンを睨み付けた。

「アンタは兄さんが召喚したサーヴァントね?」
「……ああ、そうだよ」

 アサシンはゆっくりと体を起こした。
 
「ああ、この壁紙気に入ってたのに……」

 酷く残念そうに呟く。まるで、自分がこの部屋の主であるとでも言うかのように。
 神経を逆撫でされた気分だが、深く息を吐いて冷静さを保つ。

「兄さんには魔術回路が無かった筈よ。何故、召喚出来たの?」
「正確には閉じていただけだ。量は微々たるものだし、質も悪いが存在しないわけでは無かった。英霊召喚という儀式を行った事で閉じていた回路が抉じ開けられた。結果、|僕《アサシン》が召喚された」

 アサシンは淡々とした口調で言った。

「ああ、ちなみにマスターはもう居ないよ。死んでしまったからね」

 アッサリとアサシンは言った。
 思わず立ち上がり、アサシンの首を掴んだ。

「人間の身で英霊を殺せるとでも思っているのかい?」
「よくも……」
「勘違いはやめてくれないかな。マスターは僕を召喚した時点で既に虫の息だった。当然だよね。魔術回路を抉じ開ける事に成功したとはいえ、所詮、マスターには一般人に毛が生えた程度の魔力しかなかった。英霊召喚という大儀式を行えば、一発で魔力が枯渇するのは必然だった。もはや、マスターの死は確定していたんだ。だから――――」
「喰らったのね? そして、自己改造のスキルを使い、兄さんの顔と人格を得た」
「大正解だよ、凜」

 握り締めた拳が血が滴り落ちる。
 兄さんを喰らった事をアサシンは否定しなかった。
 こいつが、兄さんを殺したんだ。

「一応、弁解の為に言わせてもらうけど、僕はマスターの願いを聞き入れただけだよ。彼は命を差し出すから君を守れと言ったんだ。だから、君を守る為に僕はマスターの命を喰らった」

 血の気が引いていく。
 兄さんがどうして英霊召喚なんて暴挙に出たのか分からなかった。
 まさか、私を守る為にやったなんて……。

「ど、どうして……」
「ん?」
「どうして、兄さんは私を守ろうなんて……」

 愕然とする私にアサシンは驚いたような表情を浮かべた。

「簡単だよ。マスターは君を愛していたんだ」
「……え?」
「だから、君の為に命を投げ打つ覚悟を決めたんだ」

 分からない。
 アサシンが何を言っているのか分からない。
 兄さんが私を愛していたですって? そんな事、あり得ない。
 だって、私は兄さんを玩具にして来た。性知識の無かった兄さんを強姦したのだから、その罪は決して軽くない。
 彼の人生を大きく歪めた事に疑いの余地など無い。

「そ、そんな事、ある訳……」
「マスターは君の赦しを欲していた」
「赦し……?」
「君を蟲蔵から救えなかった事。君を性欲処理の道具として扱った事。それらを悔いていた。彼には君に赦される為なら、何でもするという決意があった」

 そんなの見当違いもいい所だ。
 本当に赦しを欲するべきは私の方だ。兄さんに罪など無い。
 
「凜。僕はマスターの祈りを聞きいれた。君を勝者にする為ならば、僕は何でもする。君が僕を許せないというなら、それでもいい。だが、我が命運はマスターと共にある。この命を無駄に消費するわけにはいかない。故に、殺すならば君が勝者となる道が確定した時にして欲しい。それまでは我が命、どうか見逃して頂きたい」
 
 兄さんは……、兄さんだけは生きていて欲しかった。
 私の真名を知る人。私の名を語り継いでくれる筈だった人。
 ああ、またしても、私の大切な人が魔術によって奪われた。
 
「……いいわ」

 煮え滾る憎悪を腹の内に溜め込む。あらゆる感情を一つの目的の為のエネルギーへと変換していく。
 勝者となり、聖杯を使う。その為ならば、どんな手段も問わない。
 
「散々使い潰して、ボロ雑巾のように捨ててやるから、覚悟しておきなさい、アサシン」
「ああ、それでいい。君を勝者の座に据えられるならば、是非も無い」

 アサシンは姿を消した。用件は済んだという事だろう。
 怒りと哀しみで頭がどうにかなりそうだった。
 これほどの感情を未だに自分が持ち続けていたという事に驚きを隠せない。
 
「殺す。一人残らず殺し尽くして、聖杯を手に入れてやる……」
「それはいいが、少し厄介な事になっているぞ」

 決意を固める私の目の前に突然、アーチャーが姿を現した。

「厄介な事……?」
「貴様も見ていたであろう? 八番目のサーヴァント、ルーラーを」
「……ええ」

 とは言え、見ていたのはルーラーが名乗りを上げた所までだ。
 アサシンの正体が兄さんである事に気づき、動転のあまり使い魔との交信を強制切断してしまった為、それ以後の宴における会話を私は一切聞いていない。
 正直に告白すると、アーチャーは呆れたように私を見た。

「貴様、勝つ気があるのか?」
「……ごめんなさい」

 アーチャーの叱責は尤もだ。
 運動能力は壊滅的で、魔術の知識も殆ど無く、技術に至っては未熟者以下。
 こんな私が勝ち残るには誰よりも早く、正確な情報を掴む事が肝心だ。
 だと言うのに、重要な情報をノーリスクで得られる状況があったにも関わらず、私はその状況から手を引いてしまった。
 
「ルーラーとは聖杯戦争の裁定者の事だ。あれが出て来た以上、この戦いは一筋縄ではいかなくなる。貴様も未熟なままでは困る」
「アーチャー……?」
「先刻、告げた筈だ。この戦いは既に貴様だけのものでは無い、と。故に我が手を貸してやる」

 そう言うと、アーチャーは王の財宝から次々に書物を取り出した。

「古今東西のありとあらゆる|魔導書《グリモワール》だ。今はまだ、我も体を癒す必要がある。しばしの間、それを使い研鑽に励め」
「……うん」
「精々、小娘は小娘なりに必死に足掻く事だ」

 そう言って、再び姿を消そうとするアーチャーを私は咄嗟に呼び止めた。

「なんだ……?」
「……ありがとう」

 アーチャーは鼻を鳴らすとどうでも良さ気に姿を消した。
 アーチャーが残した魔導書を拾い集め、その内の一冊を手に取ってみる。

「どうしよう……」

 いきなり困った事になった。
 私は……日本語以外読めない。

第十五話「参上、嵐を呼ぶ女」

 聖杯戦争の真っ最中とはいえ、昼間はさすがに平和なものだ。道行く人々もこの街で起きている『異変』に気付いていない。
 子供達は幼稚園や学校に向かい、大人達は職場に向かって歩いている。本当なら、私も学校に向かって歩いている筈の時間帯。
 ここ数日、バーサーカーと戦ったり、変態と遭遇したり、ランサーとファーガスの戦いを観戦したり、パーティーでドンチャン騒ぎしたりと目紛るしい展開の連続で気にする余裕が無かったけど、私って、今現在進行形で受験生なのよね……。
 しかも、センター試験まで半月も無い状況。正直言って、『|聖杯戦争《こんなこと》』してる場合じゃない。登校中らしき高校生の男の子が必死に単語帳と睨めっこしている姿を見て、その事を思い出し、私は血の気が引いた。
 一浪するなんて冗談じゃない。これでも志望校に受かる為に必死に勉強して来たんだ。カラオケに行きたいのを我慢して、ゲームをプレイするのを我慢して、アニメを録画だけして観るのを我慢して、只管机に向かい続けて勉強三昧の毎日を送って来たんだ。それもこれも、良い大学に入って、サークルとか入って、充実したキャンバスライフを送り、良い会社に就職して、イケメンを捕まえて、そんでもって、結婚して子供作って……っていう、人生プラン達成の為だ。
 
「……セイバー」

 私は後ろから付いて来るセイバーに視線を向けた。

「どうした? まさか、敵か!?」
「じゃなくて、本屋さんに行くわよ!」
「……は?」

 パパが言うには、この聖杯戦争の聖杯は穢れているらしい。
 下手をすると、世界を滅ぼす可能性すらあるとの事。
 そう、私は世界を救わないといけないわけだ。それは分かる。
 でも、世界を救わないといけないのと同じくらい、私の将来も守らないといけないわけよ。

第十五話「参上、嵐を呼ぶ女」

「なあ、イリヤ」
「なにかしら?」

 私は必死にオレンジ色の背表紙に指を沿わせ、志望校の名前を探している。
 一応、第三志望までと滑り止めの学校の赤本を手に取り、参考書コーナーに向かう。

「お前、何してるんだ?」
「何って、見てわからない? 大学受験用の参考書を買ってるのよ」
「……大学受験って、何だ?」

 セイバーに軽く説明しながら、いつも使っている参考書を探していると、いきなりセイバーに殴られた。
 非常に痛いけど、参考書と赤本を持ってるせいで頭を抑えられない。

「何するのよ!?」
「何するのよ、じゃねー!! 自分の立場を弁えろって、何回言わせる気だ!!」
「分かってるから、焦ってるんじゃないの!!」
「なっ!?」

 今回ばかりは引いてられない。確かに、命懸けの戦いなんだから、セイバーの言い分も分かる。
 彼女にしてみれば、大学受験に頭を悩ませるなんて愚かに映るのかもしれない。
 でも、私にとっては大切な事なんだ。大学受験っていうのは、人生の一つの岐路なのだ。
 受験に失敗したら、今後の人生が大きく変わってしまう。
 
「聖杯戦争が大事なのは分かるわよ!! でも、私には受験戦争も大事なの!! ぶっちゃけ、聖杯戦争よりも大事なの!!」
「なっ!?」

 だって、一浪なんてしたら、仮に来年、大学に受かったとしても、周りが一歳年下ばかりになるのだ。
 もしかしたら、他にも浪人生が居るかもしれないけど、大半は現役で受かった人達ばかりの筈。
 たかが一歳差。されど、一歳差だ。
 サークルに入っても、同い年の子達は先輩で、私は年下の子と同じ扱いを受ける事になる。そんなの嫌よ。

「私は現役で合格したいの!! センター試験まで時間も無いし、のんびりしてられないのよ!! 戦ってりゃ良いって時代じゃないのよ!!」
「なっ!?」

 私は見つけ出した参考書をセイバーに押し付けると、外国語のコーナーに向かった。残るは英語の参考書だけだ。
 英語は人並み以上に出来るつもりだけど、だからと言って、手は抜けない。

「えっと、あれは……」

 背表紙に指を沿わせながら捜していると、奇妙な唸り声が聞こえた。
 何だろうと思い、声の方に首を曲げると、一人の女の子が参考書を手に唸っていた。
 着ているのは黒のアンサンブル。ボレロが可愛い。

「……分かんない」

 ぽつりと呟くと、少女は薄っすらと目に涙を溜めた。

「えっと、大丈夫……?」

 思わず声を掛けると、少女は驚いたように私を見た。
 どうやら、参考書に集中していて、隣に居た私に気付いていなかったみたい。
 少女は動転した様子で私を指差すと、

「セ、セイバーのマスター!?」

 と叫んだ。

「……え?」
「……あ!」

 少女はしまった、という顔をして、慌てて口をもごもごさせた。
 そんな少女と私の間にセイバーがサッと身を割り込ませた。

「後退ってろ、イリヤ」

 セイバーはいつの間にか鎧姿に変身していた。
 何だか、凄くデジャブを感じる。

「なっ!? え、えっと、アーチャー!!」

 私がセイバーのマスターである事を見抜いた時点で、少なくとも魔術関係者だとは思ったけど、どうやら、この少女はアーチャーのマスターらしい。
 セイバーは剣を顕現させ、周囲を警戒した。私もいつサーヴァントが現れても良いように身構えた。
 けれど、いつまで経ってもアーチャーは姿を現さない。

「あ、あれ? おかしいな……。ア、アーチャー!!」

 ……来ない。
 
「ちょ、ちょっと、アーチャー!? なんで、来ないの!?」

 どうしよう、段々可哀想になって来た。
 セイバーも困ったように少女を見つめている。

「……どうやら、来ないようだな。なら、令呪を使われる前に首を切り落としてやる」
「ちょ、ちょっと、セイバー!?」

 大きく剣を振り被るセイバーを慌てて羽交い絞めにする。

「な、何してんだ、イリヤ!?」
「そ、それはこっちの台詞よ!! いきなり、アンタ、その子に何しようとしてんのよ!?」
「何って、こいつは敵だぞ! どういう訳か、サーヴァントが傍に居ない。なら、この好機を逃す手は無い。難なくマスターを一人脱落させられるんだからな」
「って、そんな説明で納得出来るとでも思ってるの!?」
「いい加減にしろ、イリヤ!! これはお前の好きなゲームじゃないんだ!! 命の奪い合いなんだぞ!! この戦いで勝つって事は相手を殺すって事だ。んで、負けるって事は相手に殺されるって事なんだ。いい加減、それをちゃんと理解しろ!!」
「と、とにかく、人殺しなんて駄目に決まってるでしょ!!」
「だから、これは殺し合いなんだ!! こっちも殺すし、向こうも殺す。人殺しが駄目、なんて意見は通らないんだよ!!」

 痛い。セイバーに振り払われた拍子にお尻を地面にぶつけてしまった。
 息が詰まってしまい、咄嗟に動けなかった。
 セイバーが剣を大きく振り被っている。
 
「待って!! 私、令呪を持ってないの!!」
「……あ?」

 剣が振り下ろされる寸前、少女が叫ぶように言った。
 袖を捲り、両腕が見えるようにしている。

「ほ、ほら、無いでしょ?」
「……どっかに隠してるんだろ。無駄な足掻きだ。見苦しいぜ」

 今度こそ、セイバーの腕が振り下ろされた。
 目の前の少女が殺される。そう思った瞬間、私の体は漸く動いた。

「止めなさい、セイバー!!」
 
 間一髪、セイバーと少女の間に体を滑り込ませる事が出来た。

「なっ、イリヤ!? どういうつもりだ……?」

 寸前で止められた剣に身を竦ませていると、怒りに満ちたセイバーの声が轟いた。セイバーは今まで見た事の無い敵意に満ちた表情を私に向けていた。
 分かってる。セイバーにとって、敵マスターを殺す事は当たり前の事。それが聖杯戦争のルールなのだから。
 それをこのような形で止められるのは意に沿わない事なのだろう。
 彼女の瞳には私が裏切り者として映っているのかもしれない。
 でも、

「……人を殺すなんて、イヤ」

 私は言った。
 聖杯戦争は紛れも無い戦争であり、戦争とは人と人とが殺し合うもの。そんな事は分かってる。
 でも、それと同じくらい、人を殺す事が悪い事だって事も分かってる。

「イリヤ……。そんな甘い考えは捨てろ。って、これを何回言わせる気なんだ?」

 セイバーの声に苛立ちが混じっている。
 当然だろう。彼女は召喚されてから今に至るまで、幾度も私に譲歩してくれた。
 けど、人の我慢には限界がある。遂に彼女の我慢が限界を迎えたのだろう。
 それでも、私は敢えて撤回しない。

「人を殺すって事がどういう事か、セイバーは分かってるの?」
「……あ?」

 正直言って、私だって分かってるとは言い難い。
 でも、想像する事は出来る。人を殺す事じゃない。人が死ぬ事でどうなるかって事。
 
「人が死ぬって、辛い事なんだよ?」
「……お前」
「戦争で人が死ぬ。当たり前の事かもしれないけどさ……。その当たり前の中で死んでいった人達にも家族や友達は居るんだよ?」

 もし、友達やパパやママやセイバーが死んだら、私は哀しむと思う。辛くて、苦しくて、耐えられなくなるかもしれない。
 誰か一人が死んだだけで、世界は一変してしまう。

「なら、どうするってんだ?」

 セイバーの冷ややかな眼差しに体が竦みそうになる。
 
「……人を殺したくない。それはオレだって分からないでもない。散々、敵や身内を殺しまくって来たオレの言葉なんか、当てにならないと思うだろうが、オレだって、人を殺す重みは知ってるつもりだ」

 けどな、とセイバーは言った。

「殺さなきゃ、お前が死ぬんだ。オレも死ぬ。聖杯が本当に穢れているのなら、大勢の人間が死ぬ。それも分かるよな?」

 諭すような口調。
 突き放されると思った。こんな、我侭ばっかり言う私にいい加減、愛想が尽きたんだと思った。
 けれど、セイバーの顔は徐々に哀れむような表情に変わった。

「……分かったよ」
「セイバー……?」
「お前がマスターを殺したくないって言うなら、殺さない。けど、サーヴァントに関しては別だぞ」
「……セイバー」
「サーヴァントは既に死者だ。オレも含めてな。たまたま、こうして、生者の振りを出来ているが、結局は過去の亡霊に過ぎないんだ。だから、殺すと思わなくていい。死ぬと思わなくていい」

 セイバーは甲冑姿から元のワンピース姿に戻った。
 
「結局、オレ達はこの現代に存在しちゃいけない者なんだろうな。お前を見てると、つくづくそう思う」

 セイバーはしみじみと言った。

「オレが生きた時代は殺し殺される事が当たり前になってたんだ。お前みたいに、人を殺すのは悪い事だ、なんて断言出来る人間は殆ど居なかった。でも、現代は違うんだろうな」

 セイバーは書店の窓の外を見つめた。

「きっと、あそこを歩いてる男も女もイリヤと同じように、人を殺すのはいけない事だって、確信を持ってるんだろうな。ちょっと、羨ましいよ」
「セイバー」
「おいおい……」

 セイバーは私の頬に手を当てた。

「泣くなって。そういう時代が嘗てあったって話なだけだ」

 涙は無意識だった。止め処なく溢れて来る。
 セイバーは小さく溜息を零した。

「っま、ちょっと難易度は上がるが、どうって事無い。要は、サーヴァントを一人残らず倒し尽くせばいいだけだ。何の問題も無い」
「セイバー……」
「安心しな、イリヤ。オレは最強だ。誰にも負けない。必ず、お前を守り切って、勝ち抜いて、勝利させる」
「……ごめんね。我侭ばっかり」
「いいさ。お前は確かにバカで能天気で我侭だけど……」

 さすがに言い過ぎだと思うけど、私は反論出来なかった。
 セイバーは頬を膨らませる私に微笑みかけた。

「そんなお前が嫌いじゃない。聖杯は欲しい。けど、穢れた聖杯を使って、お前が不幸になるってんなら、聖杯なんざ要らない。さっきは悪かったな」
「え?」
「大学受験。お前にとって、大切な事なんだよな。そりゃそうだ。お前には未来がある。未来を生きる者にとって、|聖杯戦争《こんな戦い》は障害でしかない。本当に大切な戦いの為の準備が必要だってんなら、幾らでも協力するよ」
「……セイバー」

 やばい……。セイバーの事、元々かなり好きだったけど、より一層好きになってしまった。
 我侭ばっかり言って、迷惑ばっかり掛けてるのに、セイバーは優し過ぎる。

「大好きだよ、セイバー」
「……オレも嫌いじゃないぜ、イリヤ」
「そこは、オレも好きだぜ、イリヤ。じゃない?」
「へいへい」

 肩を竦めながら、セイバーは後方でボーっとしている少女に視線を向けた。

「ってか、お前も今の内に逃げときゃいいのに」

 呆れたようにセイバーが言うと、少女は私に向かって口を開いた。

「イリヤって、名前なの?」
「え? あ、うん」
「……そう。思い出したわ。あの時の子ね……」

 少女は目を細めながら微笑んだ。どこか儚げで、不安になる。

「えっと、どこかで会った事あるかな?」
「ええ、あるわ。覚えてないかしら? 十年前の事」

 どうしよう。まったく覚えてない。
 そもそも、十年前って言うと、パパ達が前回の聖杯戦争に参加してた頃だ。その頃の記憶を私は封じられてしまっているらしい。

「……ごめんなさい」
「いいわ。言葉を交わしてすらいないんだもの。けど、そっか……」

 少女は微笑んだ。

「貴女は幸せになれたのね」

 ドキリとした。その時の少女の表情が、宴の時のクロエの表情を思い出させた。
 
『幸せだった?』

 そう問い掛けたクロエの心情は分からない。でも、目の前の少女とクロエの表情はそっくりだった。
 同じように深い思いが篭められている気がした。

「……私も貴女のあり方は嫌いじゃないわ。けど、私にはどうしても聖杯が必要なの」
「待って! 聖杯は――――」
「穢れている。知ってるわよ。前回、聖杯を破壊したのは私のアーチャーだったんだもの」
「……え?」

 私はセイバーと顔を見合わせた。
 
「それでも、私は聖杯が欲しいの。だから、止めたいならここで私を殺しなさい」

 少女の言葉に私は頭を抱えそうになった。
 聖杯が穢れている事を知っているのに、それでも聖杯を欲しているなんて、意味が分からない。だって、穢れた聖杯を使えば、多くの人が命を落とす。
 それに、前回の聖杯を壊したのが彼女のアーチャーというのも理解に困る。

「えっと、とりあえず、殺すとか、そういうのは無し!! それより、前回の聖杯を壊したのが貴女のアーチャーって、どういう意味?」
「そのままの意味よ。貴女のお父様なら知ってる筈よ。私は前回もマスターとして参加していた。そして、最後まで勝ち残り、現れた聖杯を破壊したの。その時、貴女のお父様が召喚したキャスターに助力してもらったわ」
「ぜ、前回もマスターって……。ううん。それより、前回も参加してるっていうなら、聖杯の危険性は誰よりも理解してる筈でしょ!? それなのに、どうして!?」
「聖杯じゃないと、私の願いは叶えられないからよ……」
「どういう事……?」
「……それを貴女に話す気は無いわ。ただ、私は例え世界がどうなろうと、聖杯を使いたい。私はね、悪い人なのよ。だから、貴女みたいな良い人は私を倒さないといけないの。そして、今が絶好のチャンスってわけ。アーチャーはさっきから呼び掛けてるんだけど、来る様子が無いし、今なら楽に殺せるわ。どうする?」

 何を言ってるの、この人……。
 どうして、自分から殺されようとしてるんだろう。自分を悪者だと言い切り、私を善人だと言い切ってまで。

「お前、死にたいのか?」
「そんな訳ないじゃない。私は生きないといけないの。昔、約束したから……。でも、このままだと、その子、死ぬわよ?」

 私を指差して、少女は言った。

「何でもハイハイ頷くばかりじゃ駄目よ、セイバー。ちゃんと、現実を知らしめてやらなきゃ。じゃなきゃ、いざという時に動けなくなって、殺されちゃうのがオチよ」
「お前、どうしてそんな事を――」
「言ったでしょ? 嫌いじゃないのよ、その子のあり方。全然違う筈なのに、何だか、昔の相棒を思い出しちゃうわ」

 困ったように微笑みながら、少女は言った。

「これは忠告よ。実際どうするかは置いといて、覚悟は決めておきなさい」
「わ、私は……」
「じゃあ、私は行くわ。見逃してくれて、ありがとう。でも、次に会ったら殺す気で掛かって来なさい。私もその時は全力で迎え撃って――」

 殺してあげる。そう言うと、少女は出口に向かって歩き出し……、戻って来た。

「……あれ?」

 少女は何だか恥ずかしそうに頬を赤らめながら参考書コーナーでさっきまで読んでた参考書を手に取った。

「……と、とにかく、じゃあね!」

 そう言って、慌てて立ち去ろうとする少女に私は慌てて声を掛けた。

「と、止まって!}
「駄目よ。あんまり馴れ合う――――んぎゅ!?」

 ああ、ぶつかっちゃった。
 少女はこっちに戻って来る時に店内に入って来た女性とぶつかってしまった。

「あいたた……って、ごめんなさい!?」

 少女は慌てて起き上がると、ぶつかった相手に頭を下げた。
 さっきから思ってたけど、この子、ちょっとうっかりさんだ。そして、とっても優しい子だ。
 見た目からすると、私と同い年からちょっと下くらいに見える。
 
「ううん。大丈夫大丈夫!」
「……む、間桐ではないか」
「……へ?」

 少女とぶつかった女性の向こう側から男の子の声がした。

「あ、一成。この子の知り合いなの?」
「ええ、同級生です。病弱で、あまり学校には来ていないのですが、こんな所で会うとは」

 男の子は中々のイケメンだった。メガネがとても良く似合ってる。
 彼はぶつかった拍子に少女が落とした参考書を拾い上げると感心したように微笑んだ。

「英語にフランス語、それにラテン語まで……。自宅学習用か?」
「あ、えっと、は、はい、そうです」

 少女は私と話していた時とは打って変わってしどろもどろになっていた。

「学校に中々来れないというのに、自宅で確りと勉学に励んでいるとは実に感心。しかし、これほどの量となると、聊か重いだろう。迷惑で無ければ、家まで運ばせてもらいたいのだが」
「え、わ、悪いですよ。その、大丈夫ですから……」
「いや、病弱な間桐に無理をさせるわけにはいかん。生徒会長として、勉学に勤しむ生徒の手助けがしたいのだ」
「えっと、その……」
「ねね、それよりさ」

 女性の方が両手をポンと叩いて言った。

「間桐さん……だっけ?」
「は、はい」
「間桐桜です」

 一成が少女、桜の名前を女性に告げた。
 
「桜ちゃん、自宅で家庭教師とか雇ってる感じかな?」
「え、いえ。その、自分で勉強して……」
「ふんふん。で、勉強は捗ってる感じかな?」
「そ、それなりに……」

 桜は少し困ったような表情を浮かべてる。
 あ、そう言えば……、

「さっき、分からないって泣いてたけど、大丈夫だった?」

 初めて彼女を見た時の事を思い出して言うと、桜はキッと私を睨んで来た。
 もしかして、余計な事言っちゃったかな……。

「なるほど、なるほど! 相、分かった!! じゃあ、もう一つ質問なんだけど、桜ちゃんって、少しなら外で歩いても大丈夫?」
「ま、まあ、その、時々外の空気を吸いに出歩くので……」
「なら、私のところに通ってみない?」
「えっと……?」

 桜が困惑していると、一成が言った。

「藤ねえ……、此方は藤村大河というのだが、個人塾をしているんだ」
「個人塾ですか……」
「そ! って言っても、もう直ぐ結婚するから休業中なんだけどね。でも、最近、零観……、私の婚約者なんだけど、ちょっと忙しいみたいでさ。結構時間が空いちゃってるのよね。だから、私のところに勉強に来ない? 今なら月謝は|無料《タダ》よ!」
「ふむ、悪くない提案だと思うぞ、間桐。藤ねえは生徒を有名大学に何人も進学させた実績がある」
「いや、それはあの子達が頑張ったからで……」
「だが、生徒だった方々は皆、藤ねえの教えの賜物だと言っていました。どうだ? 間桐」
「あの、私は……」

 桜は遠慮したがってる雰囲気だけど、私は『有名大学に何人も進学させた実績』という言葉を聞き逃さなかった。
 センター試験まで残り僅かの今、聖杯戦争と勉強を一人で両立させるのは非常に厳しいと言わざる得ない。

「あ、あの!!」

 私は藤ねえとやらに声を掛ける事にした。

「なーに?」

 藤ねえは人好きのする笑顔を浮かべて首をかしげた。

「わ、私もいいですか!?」
「もって、私は別に……。っていうか、貴女はそれどころじゃ……」
「お願いします!!」

 桜が何か言ってるけど、私はまさに藁にも縋る思いだった。

「勿論、いいわよ! 桜ちゃんは迷ってるみたいだけど、良かったら、これから家に来ない? 体験学習って奴」
「あ、あの、私は……」
「是非、行きます!!」
「ちょっ……」
「よーし! じゃあ、ついて来て頂戴!」
「はい!」
「ま、待って、私、まだ行くって言ってな――――」
「まあまあ、騙されたと思って受けてみろ、間桐。自宅学習もいいが、指導を受けながらの勉学とは比べ物にならんぞ」

 桜が未だにごちゃごちゃ言ってるけど、私はちょっとだけ希望が見えた気がした。
 生徒会長らしい、イケメンメガネ君がここまで推挙するって事はよっぽど凄い先生に違いないわ!

「イリヤ。お前って……、お前って奴は……」

 セイバーが頭を抱えながらついて来る。どうしたんだろう。
 私達は一路、橋を渡って深山町に向かった。
 道中、藤ねえとお喋りしながら辿り着いた先に待ち受けていたのは巨大な武家屋敷だった。

第十六話「Fate」

 藤ねえこと、藤村大河に連れて来られた武家屋敷に着いた途端、私は猛烈な既視感に襲われた。初めて見る建物の筈なのに、何だか凄く懐かしい気分。
 どっしりと佇む門をジッと見つめていると、隣で息を呑む声が聞こえた。視線を向けると、桜が目を瞠っていた。

「ここは……」
「凄いでしょ! まさに伝統的な武家屋敷って感じで!」

 大河は誇らし気に胸を逸らしながら言った。

「……そっか。藤ねえって……」

 桜は震えた口調で呟いた。瞳に薄っすらと涙が浮かんでいる。

「ど、どうしたの、桜ちゃん!?」

 大河は慌ててハンカチを取り出すと、桜の目元に押し当てた。

「あ、あの、私……」
「あれ? 藤ねえ、そこで何して……って、どうしたんだ!?」

 その時、内側から門が開かれた。その先に立っていたのは一人の少年だった。

第十六話「Fate」

 その瞬間、私の頭は割れそうな程に痛んだ。強烈な既視感と共に、奇妙な映像が脳裏に次々と浮かんでは消えていく。
 頭の痛みが極限に達した時、気がつくと、私は体育館のような場所に立っていた。視線の先には血に濡れた騎士と豪奢なドレスを身に纏う女が立っている。

『イリヤ……』

 騎士は私の名を呟いた。様々な感情が入り混じった声。まるで、懐かしんでいるような、喜んでいるような、哀しんでいるような、不思議な声。
 
『イリヤって……』

 私は自分の意思と関係無く口を開いた。私は心の底から驚いているみたい。
 騎士は私から視線を逸らすと、怪訝な眼差しを女に向けた。

『何故、私に止めを刺さない?』
『まだ、貴様が必要だからだ。妾の願いを叶える為にはな』

 女の言葉の意味が分からないのは騎士も同様だったらしく、彼も首を捻っている。
 彼女の思惑を探ろうと、騎士が問いを投げ掛ける。すると、女は妖艶に微笑んだ。その微笑に私は背筋が寒くなった。
 アレは魔女だ。魔術師という意味では無い。人の心を弄ぶ事に長けた女という意味。仕草、声色、口調、全てが相手を心に取り入ろうとする為に計算され尽くしている。

『すまんな、アイリスフィール。先に妾の願いを叶えさせてもらう。万能の願望機として機能させるにはサーヴァントを最低でも五体は捧げねばならぬが、妾の願いを叶えるにはコヤツを使った方が確実だからな』
『まずは貴女の願いを叶えてちょうだい』

 魔女が話し掛けたのはママだった。
 分かった。この光景は十年前の出来事だ。私が記憶を弄られる前に見た光景。でも、どうして急に思い出したんだろう。
 魔女はママの胸に手を押し当てた。すると、怖気の奔る光景が広がった。
 ママの胸から杯が現れたのだ。人体から物体が出て来る。その光景はあまりにも異様で、ママが人間じゃないって事をこれでもかと言うくらい思い知らされた。
 
『これがアインツベルンの聖杯の真の姿か……。中々の趣ではないか、あの爺にしてはだが……。しかし、これは……』

 杯は黄金の光を放ち、辺りを神々しく照らしている。
 魔女は杯を手に、騎士を無理矢理引き摺りながら舞台上に上った。すると、魔女は怪訝な表情と共に呟いた。

『言峰……綺礼』
『キャスター?』
『切嗣がアーチャーのマスターを仕留めそこなったらしい。どうやら、言峰綺礼が動き出したようだ』
 
 アーチャーのマスター。さっきの書店での桜との会話を思い出した。
 彼女は十年前にも聖杯戦争に参加し、アーチャーを召喚したと言っていた。つまり、魔女の呟いたアーチャーのマスターとは桜の事だ。
 パパが桜と戦っていた。パパは桜を殺そうとしていた。連想ゲームのように、最悪な光景が頭に浮かぶ。
 そうだ。パパは十年前にこの戦争に参加していた。そして、最後まで勝ち残った。なら、パパはどうやって勝ち残ったの?

――――殺したんだ……。

 パパは人を殺したんだ。何人の人間をその手に掛けたのかは分からない。でも、勝ち残ったという事は人を殺したという事。
 パパが殺人を犯していた。その事を察した途端、叫び出しそうになった。けれど、体は私の思い通りに動かない。叫ぼうとしても、喉を震わせる事が出来ない。

『とにかく、切嗣をこの場に転移させる。妾は儀式に入るのでな。その間、切嗣にこの地の防衛を頼む。ホムンクルスもまだ数体残っているが、どうにも不安が残るな……』

 魔女が軽く手を振るうと、光と共にパパが姿を現した。
 パパはママを抱き寄せると、私の頭を撫でた。

――――人を殺したその手で……。

 果てしない嫌悪感に襲われた。吐き気がする。

『言峰綺礼が来る。ここと間桐邸の距離を考えると、車を使っても三十分は猶予がある。その間に全てを終わらせよう』

 パパの言葉に魔女が応える。
 体育館の舞台上を祭壇に見立て、奇妙な儀式を始めた。
 
『何をする気だ……?』

 騎士の問い掛けに応えず、魔女は杯に手を伸ばす。
 すると、眩い光が迸り、広々とした室内を満たした。思わず閉じた瞼の向こうから魔女の歌うような奇妙な声が聞こえる。
 視界が元に戻った時、私は色とりどりの光に包まれていた。よく見ると、光は映像だった。
 全ての映像に共通するのは一人の少年、あるいは青年。恐らく、同一人物。
 
『あれは……』

 私の口が開いた時、私の視線の先にあったのはお城のような場所で金髪の男に心臓を引き抜かれるクロエ――――じゃなくて、私の姿。

『これらは触媒となったお前――――衛宮士郎という男の可能性だ』

 魔女は騎士を衛宮士郎と呼んだ。
 無数の映像の中には私と衛宮が寄り添っている光景もあった。殺し合っている姿や兄妹のように食卓を囲う姿がある。
 
――――この光景は何なの?

 その疑問が晴れるより早く、私は現実に引き戻された。
 気がつくと、酷く心配そうなセイバーの顔があった。

「セイ、バー?」
「大丈夫か、イリヤ!?」

 私はセイバーに抱えられた状態で武家屋敷の門の前に居た。

「だ、大丈夫!? どうしよう、私が連れ回したせいで……」
「動転してる場合じゃないだろ! 早く、その子を中に! 俺は氷水を持って来る!」

 意識はまだハッキリしない。でも、今見た光景は鮮明に覚えている。
 ここは、あの無数の映像の中に頻繁に登場した武家屋敷だ。恐らく、あの紅い外套の騎士――――衛宮士郎の住んでいた場所。

「……ごめん、セイバー。もう、大丈夫」

 セイバーが桜を敵意に満ちた眼差しで睨み付けている事に気がつき、私は諭すように言った。
 桜じゃない。私の記憶が甦った理由はあの少年だ。若かりし頃の衛宮士郎。でも、どうしてここに居るんだろう。
 だって、この世界に衛宮士郎なんて人間は存在しない筈だ。
 
――――【衛宮士郎は衛宮切嗣が養子にした時のみ、誕生する人物であり、第四次聖杯戦争の終結が災害を生み出さない場合、そのような事態は決して起こらない】

 なら、彼は何者だろう。彼が藤村大河という人物と出会う事も衛宮の屋敷が藤村の屋敷と隣接しているからこそ起きた事象である筈。
 既に、過去の事象が大幅に書き換えられたこの世界に於いて、彼がここに居る理由は無い筈だ。

「……おい、イリヤ!?」
「ちょっと、どいて」
「なっ、貴様、イリヤに何を!?」
「いいから、ちょっとどいてなさい!」

 桜が私の額に手を当てた。すると、奇妙な喪失感と共に壮絶な違和感に襲われた。

「私、今、どうしてたんだろ……」
「多分、魔力の暴走よ」

 桜が小声で囁いた。大河や一成に聞こえないようにする為だろう。

「どういう事……?」
「詳しくは分からないわ。私もちゃんとした教育を受けて来たわけじゃないから……。ただ、魔力が暴走しているのは分かったから、沈静化させる為に強引に余剰魔力を吸い取ったのよ。適切に処置出来た自信は無いけど、とりあえず、大丈夫みたいね」
「あ、ありがとう」
「……べ、別に感謝されるほどじゃ」
「ううん、本当にありがとう」

 頬を紅く染めながらそっぽを向く桜に私は改めて頭を下げた。
 さっきは良くない状態だった。奇妙な感覚だったけど、それだけは確信を持って言える。彼女が処置してくれなかったら、取り返しのつかない事になっていた気がする。
 それに、彼女と私は本来敵同士の筈だ。にも関わらず、さっきはわざわざ忠告してくれたし、今度は危ない所を助けてくれた。

「……さっき、令呪を使ってまでセイバーを止めてくれたし、そのお礼よ。だから、これで貸し借りはチャラ。そういう事だから!」

 その上、理屈を捏ねてまで、私が気にしないように気を使ってくれてる。
 本当に優しい子だ。こんな子が殺し合いに参加している事が酷く不快に感じた。
 フラットは英霊と友達になりたいから参加したって言ってたけど、この子はどうして、こんな戦いに参加しているんだろう。
 十年前の戦いと関係があるのだろうか……。

「それより、さっさと中に入りましょう。個人的に気になる事もあるし……」
「……衛宮士郎の事?」

 どうやら、図星らしい。ギョッとした表情を浮かべている。

「……後で、ちょっと話がしたいんだけど」
「うん。私もよ」

 願ったり叶ったりの提案だ。
 
「……イリヤ。とりあえず、オレの肩に手を回せ」
「うん。ありがとう、セイバー」

 セイバーは溜息を零しながら私を屋敷内に連れて行ってくれた。
 中はイメージと違って凄く綺麗。

「建て替えたばかりって感じね」

 桜が言った。

「みたいだね」
「あ、イリヤちゃん!」

 奥の方から大河が駆け寄って来た。手には水の入ったコップが握られている。

「歩いて大丈夫!? これ、水なんだけど、飲める?」
「はい、大丈夫です」

 ありがたく受け取った。丁度、喉がからからに渇いていたの。
 一息で飲み干すと、目の前の襖が開いた。
 中から現れたのは衛宮士郎だった。

「藤ねえ。念の為に布団敷いたんだけど……」
「あ、大丈夫です。もう、すっかり。すみません、ご心配をお掛けしてしまって」
「いや、こっちこそ、うちの藤ねえが迷惑を掛けたみたいで……」

 頭をぽりぽりと掻きながら、彼は言った。

「ちょっと、立ち眩みしちゃっただけなんで、全然」
「立ち眩みか、少し心配だな」

 一成が部屋に入って来た。

「いえ、本当にもう大丈夫なので……」
「そうか? いや、あまりしつこく言っては逆に体に障るな。申し訳無い」

 済まなそうに頭を下げる一成に苦笑いしていると、桜が意を決した様子で士郎に声を掛けた。

「あ、あの!」
「ん? 何かな?」
「えっと、その、お、お名前をその……」
「俺の名前? 士郎だけど? 新海士郎。って言うんだ」
「しんかい……、士郎」

 苗字は衛宮じゃなかった。当たり前だ。
 衛宮士郎の衛宮はパパの苗字を受け継いだものだ。パパの養子にならない以上、彼が衛宮を名乗る事は無い。
 新海というのは、恐らく、彼の本来の苗字なのだろう。
 それにしても、どうしてここに……。

「あ、あの、士郎……さんはどうして、ここに?」
「あ、えっと……」

 どうしたんだろう。士郎は顔を赤らめながら少し慌てた様子で頬を掻いた。

「どうしたの?」

 問い掛けてみると、士郎は困ったように言った。

「お、女の子に下の名前で呼ばれるのは慣れてないんだ」
「あ、ご、ごめんなさい!」
「いや、いいよ。こっちがちょっと自意識過剰なだけだし。えっと、俺がどうしてここに居るのか、だっけ?」
「あ、はい……」

 それにしても、桜の士郎に向ける視線は明らかに熱っぽい。
 表情もまさに恋する乙女って感じ。そう言えば、彼は彼女が十年前に召喚したアーチャーと同一人物だ。彼女にとって、きっとこの出会いは特別なんだろう。

「これは……」
「出会って数秒で……、士郎ってば、何て恐ろしい子!!」

 一成と大河も勘付いたみたい。
 っていうか、誰でも気付く。それっくらい、桜の態度はあからさまだ。
 傍目から見たら、出会って数秒で惚れたように見える。彼らの動揺も当たり前と言えるだろう。

「藤ねえとは一成繋がりで昔から付き合いがあってさ。ちょくちょく、勉強を見て貰ってたんだ。で、世話になった藤ねえに子供が出来たから、産まれるまで家事を手伝おうと思って、一成とちょくちょく顔を出してるんだよ」
「お子さん、産まれるんですか?」

 私が聞くと、大河は照れたようにはにかみながら頷いた。

「いやー、まだまだ産まれるのは先の話なんだけどねー。でも、ちょっとずつお腹が大きくなってるんだよー」
「だと言うのに、藤ねえは直ぐ一人で出歩こうとする。周りからすれば、もう少し大人しくして欲しいのですが……」

 メガネに人差し指を当てながら困ったように呟く一成に大河は「ごめーん」と言った。

「でも、ジッとしてるのは性に合わないんだもん」
「まったく……。俺と新海が家事手伝いに来てる意味がまるで無いではありませんか……」
「感謝してまーす」
「まったく……」

 深々と溜息を零す彼の苦労が偲ばれる。

「じゃあ、士郎さんはちょくちょくこの家に?」

 士郎に問いを投げ掛けると、士郎はまたも慌てた様子で頷いた。

「ま、まあ、大体はここに居るかな。で、君は……えっと」
「あ、私はイリヤって言います。イリヤスフィール・V・E・衛宮」
「わ、私はとお……じゃなかった。間桐桜です!」

 私が名乗ると、慌てた様子で桜が割って入って来た。
 
「あ、ああ、えっと、衛宮に間桐か、よろしく」
「は、はい!」

 桜は感激のあまり頬が緩んでる。
 そっとしておいてあげた方が良さそうね……。

「で、君は?」

 士郎はさっきから黙り込んでいるセイバーに問いを投げかけた。

「オレはセイバーだ」

 それだけ言うと、セイバーはそっぽを向いてしまった。

「ちょっと、セイバー。さすがに失礼じゃ……」
「オレはイリヤの付き添いで来ただけだ。それより、勉強はいいのかよ?」
「あ、そうだった!」

 大河がポンっと手を叩いて立ち上がった。

「二人に勉強を教えてあげる為に呼んだんだった! ちょっと、待っててね。直ぐに準備するから!」

 そう言って、大河が出て行った後、桜は只管士郎を見つめ続けていた。
 士郎はあまりにも熱い彼女の視線にたじたじになっている。

「間桐があのような態度を取るとは……」
「あはは……」

 理由を知っている身としては何とも言い難い。

「えっと、間桐は……」
「な、何かしら?」
「えっと、藤ねえに何を教えてもらうんだ?」
「えっと、語学を出来れば……」
「そっか。藤ねえの教え方は凄く分かり易いから、きっと直ぐに出来るようになるよ」
「う、うん」

 二人のやりとりを聞いてると、何だか甘酸っぱい気分になってくる。
 青春だわ。

「時に、衛宮殿は何を教えてもらうつもりなのだ?」

 殿って呼ばれたのは初めてだわ……。

「ちょっと、数学が苦手だから教えてもらおうかなって。もう直ぐ、センター試験があるじゃない? だから……」
「なんと! では、衛宮殿は三年生という事ですか?」
「うん」
「……失礼しました。年長者に対し、少々、無礼な振る舞いがあったやも……」
「いやいや、歳の差とか気にしないでよ。それより、一成は――――」

 私達がそれぞれ話に花を咲かせていると、大河が戻って来た。
 その手にはノートや文房具。

「じゃあ、ぼちぼち始めましょうか。折角だし、一成と士郎も学校の勉強で分からない所とかあったら教えてあげるわよ」
「それはありがたい。お言葉に甘えさせて頂きましょう」
「頼む、藤ねえ。実は古文で分からない所があるんだ」
「どーんと、任せておきなさい! じゃあ、始めるわよ!」

 結局、勉強会は夕方まで続いた。一成が断言するだけあり、大河の教え方は非常に上手だった。
 学校とか塾の先生よりずっと分かり易く教えてくれて、分かり難かった問題もすんなり解けるようになった。
 この調子で通い続けていればセンター試験も大丈夫かもしれない。
 大河との出会いに心から感謝しながら、私は桜や一成達と共に帰路に着いた。

「じゃあ、俺達はこっちだから」

 途中で一成達と別れると、桜はちょっと……、いや、かなり名残惜しそうな表情を浮かべた。
 そのまま、しばらく歩き、私達は小さな公園に辿り着いた。

「じゃあ、約束通り、話をしましょうか」
「ええ、分かったわ」

 公園のベンチに隣り合って座りながら、私達はどちらからともなく話し始めた。

第十七話「戦う理由」

 新都と深山町を繋ぐ冬木大橋から程近い海浜公園。まだ、七時を回ったばかりだと言うのに、辺りに人の気配は全く無い。
 アサシンのサーヴァントは溜息と共に目の前の少女を睥睨している。足下には血の気を失った女性が一人。

「魂喰いなんて、聖杯戦争のセオリーじゃないか。見逃して欲しいんだけど?」

 アサシンの言葉に|裁定者《ルーラー》たる少女、ジャンヌ・ダルクは不快そうに顔を顰めた。

「一日に五人。これを許容しろと?」
「別に殺してないんだし、いいじゃないか。それとも、放置したのが拙かったのかい? 確り、証拠隠滅すれば許してもらえるのかな?」
「……どうやら、改める気は無いようですね」
「待った待った! あるよ、あるある! まったく、せっかちだなー」

 令呪を掲げて見せるルーラーにアサシンは慌てた様子で言った。
 ルーラーには他のサーヴァントに対し、令呪の行使が許可されている。彼女の意向次第であっさり自害させられ兼ねない。
 冗談を言ってる場合じゃないと思い直し、アサシンは肩を竦めつつ言った。

「了解しましたよ、ルーラー殿。金輪際、魂喰いは致しません。これでいいですか?」
「……その言葉に偽りはありませんね?」
「無論ですとも」
「……分かりました。では、その女性は此方でお預かり致します」
「どうぞどうぞ」

 ルーラーは女性を抱き抱えると、アサシンに冷ややかな眼差しを向けた。

「もし、貴方が再び無関係の人間を喰らおうとしたら、その時は容赦しませんので、そのつもりで……」
「怖い怖い。了解であります、裁定者殿」

 軽薄な態度で応えるアサシンに対し、ルーラーは疑念に満ちた眼差しを向けた。
 すると、どこからか声が響いた。

「こっからは俺達に任せときな、ルーラー」

 月下に映える青きサーヴァント。血に濡れたが如き長槍を従え、ランサーのサーヴァントが姿を現した。
 彼は無造作に園内を歩き回る。その様はサーヴァントにあるまじき無防備なものだった。
 しかし、アサシンは先程までの軽薄さを消し去り、警戒の眼差しを向ける。

「臭いな。小蟲の臭いがぷんぷんするぜ。ルーラー。お前は知らないようだから教えておいてやるが、こいつが襲ったのは五人なんてもんじゃねぇよ」
「……どういう事ですか?」
「発見されて、保護された五人は単なる釣り餌という事ですよ」

 ルーラーの疑問に応えたのはランサーのマスターだった。バゼット・フラガ・マクレミッツは空中に球体を幾つも漂わせながら真っ直ぐにアサシンを睨み付けている。

「実際の被害者の数は分かりませんが、少なく見積もっても二桁の人間が殺されています」
「なっ……」

 言葉を失うルーラーを尻目にバゼットは冷然とした態度で言った。

「魂喰いは確かに聖杯戦争における常套手段と言えるでしょう。ですが――――」
「それは、王道ではない」

 バゼットの言葉にランサーが続けた。
 
「小汚い砂蟲なんざ、あんまり相手にしたくないんだが……」

 悪態をつきながら、ランサーは真紅の魔槍をアサシンに向ける。

「マスターの方針でな。外道を放っておく訳にはいかねぇんだよ」
「そうか……」

 刹那、戦闘が開始された。アサシンは一息の内に三本の短剣をランサー目掛けて投擲した。|投擲短剣《ダーク》と呼ばれる凶器がランサーの両目と喉笛に向かって寸分も狂わず高速で迫る。
 その奇襲をランサーは眉一つ動かさずに迎え撃つ。アーチャークラスの弓による射撃にも匹敵する威力を伴ったソレをランサーは己が槍を軽く一薙ぎして全て弾き返した。
 アサシンは高速で移動しながら次々にダークを投げる。その悉くをランサーは事も無く弾き返す。
 それは異常な光景だった。如何にランサーが優れた英霊だとしても、長柄の武器で針の穴をも通すアサシンの投擲をこうも軽々しく防げる訳がない。
 何故だ。斬り返す槍の隙間を縫い、確実に相手の死角を狙う己の短剣が何故こうも弾かれるのだ。
 アサシンが己が胸中に生じた疑念を口にするより早く、ランサーが口を開いた。

「まさかとは思うが……、貴様の芸はそれだけか?」

 彼の纏う空気が一変した。様子見は終わりという事らしい。
 
「ならば、これで仕舞いだ。貴様の心臓――――貰い受ける!!」

 瞬間、アサシンは踏み込もうとするランサー目掛け、迎撃に移った。攻守逆転。アサシンはランサーの動きを牽制する為に無数の短剣を拘束掃射する。
 対して、ランサーは軽く、ほんの僅かに槍の穂先を揺らすのみ。たったそれだけの動きでアサシンの視認すら出来ぬ短剣の嵐を防ぎ切る。
 ここに至り、アサシンは自覚する。己はこのサーヴァントに勝てない、と。
 ステータスや戦闘経験の違い以前に相性が悪過ぎる。

「ック――――」

 逃げの一手。アサシンはランサーが守勢から攻撃に移る一瞬の隙を狙い短剣を投擲した。同時に彼の槍の届く範囲から逃れようと大地を蹴る。
 その刹那、アサシンは理解した。目の前の英霊が如何に破格な技巧の持ち主であるかを――――。
 短剣を弾いた槍は一呼吸の内にアサシンの面を穿った。防御と反撃は刹那の内に行われ、アサシンの体は無様に宙を舞った。それは即ち、絶対的な隙を相手に見せるという事に他ならない。

「あばよ。|刺し穿つ《ゲイ》――――」

第十七話「戦う理由」

「十年前の事を少し思い出したの」

 私の言葉に一番反応したのはセイバーだった。心配そうに私を見つめている。
 大丈夫、と安心させる為に微笑む。

「思い出したって言っても、ほんの一部だけなんだけどね」

 思い出した事。キャスターが衛宮士郎を使い、行った奇妙な儀式について語ると、桜は困惑した表情を浮かべ、セイバーもまた、怪訝な表情を浮かべた。

「断片的過ぎて、よく分からないわね」

 桜が言った。

「でも、納得したわ。キャスターはアーチャーで何かを成し遂げようとしていた。だから、直ぐに殺さなかったのね……」

 回想するように瞳を閉じて言う桜に私は頷いた。

「……まあ、私が衛宮士郎について知っていたのはソレが理由」
「なんか、拍子抜けね……」

 桜の言葉に私は苦笑した。

「それより、聞きたい事があるの」
「何かしら?」
「桜はどうして、聖杯を欲しているの?」

 私の投げ掛けた問いに桜は微笑んだ。

「それを聞いて、どうする気?」
「どうするって、それは……」
「止めたい?」
「……うん」
「じゃあ、教えてあげない」
「え?」

 桜は立ち上がると、すたすたと歩き出した。慌てて追いかけると、桜は身を翻して言った。

「私が足を止めるのは死ぬ時だけよ」

 桜は言った。とても優しい目をしながら、それでも、ハッキリした口調で言った。
 
「私にとって、生きる目的は一つしかない。その目的を見失ったら、もう、生きてる意味が無くなってしまうのよ。だから、止まれないの」
「い、生きる目的なんて、幾らでも――――」
「そう言えるくらい、幸せな人生を歩んで来た貴女が羨ましいわ」

 まるで、刃を突きつけられたような気分。
 お前と私は立場が違う。彼女の目はそう訴えていた。
 届かない。彼女の事を何も知らない私じゃ、彼女の心に声を届ける事なんて出来ない。
 彼女の心に踏み込む事に二の足を踏む私を見て、桜は薄く微笑んだ。

「言っておくけど、今のは嫌味じゃないわよ? 純粋な本心。次に会った時はきっと殺し合う事になるから、ちゃんと、覚悟を決めて置きなさいね」
「待って!!」

 私は叫んだ。

「聖杯は穢れてるんだよ!? 幾ら願っても、叶えてなんてくれない。ただ、災厄を振り撒くだけなんだよ!?」
「それでも私の願いは叶うわ。そういう類の祈りなのよ。私が抱く願いは……」
「そ、それって――――」
「イリヤ。言ったでしょ? 私は悪い人なんだって。だから、私を殺す事に躊躇なんてしちゃ駄目よ」
「桜が悪い人なわけない!! だって、今だって、私の為に忠告してくれてるじゃない!! どうして、自分を悪い人だなんて……」

 涙が浮かんで来る。でも、泣いてる場合じゃない。
 きっと、今が最期のチャンスだ。理由なんて無いけど、私は確信している。
 ここで、彼女を何としても止めなきゃいけない。

「悪い人だからよ。人が大勢死ぬかもしれないって、分かってて聖杯を使おうとしてるんだから。悪い人以外の何者でも無いわ」
「そんな事ない!!」

 次はきっと、もうこうして話す事すら出来なくなる。
 今、彼女と話せているのは私にセイバーが居て、彼女にアーチャーが居ないからだ。嫌な言い方になるが、戦力的に優位に立っている今だからこそ、この会話は成立している。
 このパワーバランスが崩れたら、もう殺し合うしかなくなる。
 勉強が分からなくなって涙を浮かべていた桜。
 私を心配して、敵同士だというのに忠告してくれた桜。
 魔力が暴走した私を助けてくれた桜。
 出会った瞬間から今に至るまで、たった半日しか経っていない。にも関わらず、私は彼女の優しさに十分に触れて来た。
 士郎と目が合う度に赤面し、しどろもどろになっていた彼女の姿を思い出しながら言った。

「士郎はどうするのよ!?」

 桜の表情が強張った。

「貴女の祈りで士郎も死ぬかもしれないんだよ?」
「私は……」
「桜の願いを聞かせてよ!! 私に出来る事なら何でもするわ!! だから、聖杯なんて物に頼らないで、一緒に!!」
「無理よ!!」

 桜の悲痛な叫びが夜の公園に響き渡った。

「無理なのよ!! 私の祈りは聖杯でしか叶えられない。それに、こんな祈りは誰にも理解して貰えない」
「そんなの分からないじゃない!!」
「分かるのよ!! 私の祈りなんて、ただの自己満足な我侭なの!! 大勢の人間を巻き込む最低な女なのよ!! だから、私を止めたかったら殺しなさい!!」
「桜……」

 止まられない。士郎の名前は最後の切り札だった。
 彼の名前を出してすら、彼女は止まらない。なら、もう何を言っても無駄にしかならない。
 私の言葉はあまりにも軽過ぎる。彼女の抱く苦しみや哀しみを理解していない私の言葉なんて……。

「……なら、力ずくで止めるわ」
「……覚悟が決まったのかしら?」

 僅かに身を竦ませながら言う桜に私は首を振った。

「殺す覚悟なんて恥ずかしいもん、私は持たないわよ。ただ、全力で貴女の聖杯戦争を終わらせる。それから、一緒に貴女の悩みを解決出来るように努力するわ」
「……どうする気よ」
「貴女のアーチャーを倒すわ」
「大きく出たわね。言っておくけど、貴女のセイバーじゃ私のアーチャーには敵わないわ。戦っても、セイバー諸共死ぬだけよ。いいのかしら? セイバーを死なせても」
「良いわけ無い。でも、私は|桜《あなた》をこれ以上この戦いに参加させたくない」
「……本気?」

 私はハッキリと頷きながら横目でセイバーに視線を向けた。
 セイバーは困ったような笑みを浮かべながら肩を竦めつつ、鎧を身に纏った。

「随分と身の程知らずな雑種だな」

 すると、桜の前に黄金の鎧を身に纏うサーヴァントが姿を現した。

「ア、アーチャー!?」

 桜が素っ頓狂な声を上げた。
 アーチャーが現れた事にマスターである筈の彼女が一番驚いている。

「喚くな、小娘。貴様は貴様の祈りを叶える為に勝たねばならんのだろう?」
「……ええ」
「ならば、戦場で情けの無い醜態を晒すな」
「うん。ごめん。もう、大丈夫……」

 桜の表情が引き締まった。向こうも戦闘準備は万端らしい。
 アーチャーは冷ややかな目で私達を見ている。そして、無造作に片手を振り上げた。それを合図に彼の背後の空間が揺らいだ。
 何が起きているのか理解するより早く、セイバーが私を抱えて走り出した。

「逃がすと思うか? 雑種」

 音と煙と光の奔流。何が起きているのかサッパリ分からない。
 左右上下に振り回され、今にも吐きそう。

「ック」

 セイバーの苦しげな声が聞こえたと同時に私の体は宙に舞った。
 刹那の瞬間、まるで時が止まったかのように私の目はその光景を焼き付けた。
 足を槍で貫かれ、片膝をつくセイバー。そして、彼女に迫る無数の刃。悪夢のような光景は一秒にも満たなかった筈だ。けれど、私には酷く長く感じた。
 
「逃げて、セイバーッ!!」

第十八話「空からバカが降ってくる」

 間一髪。アーチャーの宝具がセイバーに届く前に令呪が発動した。腕に宿る令呪から膨大な力が|外《うち》へと流れていくのが分かる。
 魔力。いい加減、この力の正体は理解出来ている。令呪から解き放たれた魔力がセイバーを覆うと共にアーチャーの背後から現れた剣群が殺到する。
 刀身が肉体を穿つ寸前、セイバーは|空間跳躍《ワープ》するという出鱈目な回避方法を取った。粉塵が巻き上がる中、セイバーは私を片腕で抱えると、再び逃走を開始した。その表情には明らかに焦燥の色が見て取れる。私は愚かにもこの時漸く、桜が言っていた言葉の意味を理解した。
 セイバーでは、アーチャーに勝てない。その意味は実に単純だ。純粋な戦闘能力の差。セイバーが開戦と同時に逃げ出す選択を取った時点で気付くべきだった。己を最強と自負し、クロエのバーサーカーに対しても臆する事無く立ち向かったセイバーが刃を交える事すらせずに逃走したのだ。
 セイバーは数多くの戦いを潜り抜けて来た英霊だ。故に相手との圧倒的なまでの力量差を瞬時に理解したのだ。そして、選択した。己の|誇り《プライド》と|マスター《わたし》の命を秤に掛けた。そして、私の命を守る為に誇りを捨て、逃げの一手を選んだ。
 ああ、何て愚かな選択をしたのだろう。私は桜と戦うべきじゃなかった。少なくとも、この場で戦ってはいけなかった。彼女と戦うなら、まずは彼女を知り、彼女のサーヴァントを知り、万全の備えをした上で挑むべきだった。
 彼女は戦う前に忠告してくれていた筈だ。己と戦うという事はセイバーを死なせる事に他ならない――――、と。
 残る令呪は一角のみであり、次に危機的状況に陥れば、後が無い。セイバーはきっと、私を全力で逃がそうとするだろう。己の命を賭して、この愚かな主を護る為に。
 このまま、逃げ続けていてもさっきの状況の巻き返しをするだけだ。セイバーはいずれ、アーチャーの猛攻に屈するだろう。
 彼女を死なせたくない。ならば、方法は一つしかない。
 桜を聖杯戦争から降ろしたい。その我侭の為に彼女を自分諸共死なせるのか? それは|否《ノー》だ。この状況で死ぬのは自分だけで良い。
 死ぬのは怖い。だけど、彼女まで死なせるのに比べたら、まだマシだ。 
 一度目も二度目も衝動のままに使ってしまった。けれど、最後は自分の意思で使う。

「――――令呪よ、セイバーを」
「イリヤ!?」
「パパ達の下へ!!」

 突然、私の体は支えを失い地面に落下した。体が地面で何度もバウンドし、信じられない痛みが全身を襲う。
 痛みが酷く、思考が纏まらない。ただ、己の選択の正しさには自信がある。
 パパ達の場所を指定したのは、そこにパパが居るからだ。私が死んだ後、パパが彼女のマスターになってくれる筈。そうしたら、パパがこの聖杯戦争を止めてくれる。
 パパ、褒めてくれるかな? 私、咄嗟にこんな冷静かつ的確な判断が下せたんだよ。死んじゃうけど、大切な友達だけは守れたよ。やらなきゃいけない事、ちゃんとやれてないけど、怒らないで、褒めてくれるよね。

「ッハ! 己がサーヴァントだけは逃がしたか。だが、我に慈悲を求めての行動ならば、愚かよな。王に刃向かいし愚か者は死を持ってのみ罪を贖えると知れ」

 目の前に広がる光景はとても鮮やかで美しかった。湖面の如き揺らぎから現れる至高の美しさを伴った刀剣が真っ直ぐに私に向かって飛来する。
 涙が止まらない。震えが止まらない。嗚咽が止まらない。

「パパ……。ママ……。……誰か、助けて」

第十八話「空からバカが降ってくる」

 自業自得としか言いようの無い状況にも関わらず、救いを求める厚顔無恥な己を助けようなどという物好きなんて居る筈が無い。
 イリヤは確信していた。居るとすれば、それは場の空気を読む事も出来ない馬鹿者だろう。そして、この聖杯戦争に於いて、そんな馬鹿者が紛れ込む事などあり得ない。
 何故なら、聖杯戦争のマスターに選ばれるという事は大なり小なりの差はあれど、聖杯に祈る願いがあるという事。己が祈りの為に他者の祈りを踏み潰す。それが聖杯戦争のマスターの正しい在り方だ。それはイリヤとて例外ではない。彼女も『聖杯戦争を終わらせる』という祈りを持って、他者の祈りを踏み潰そうとしているのだから。
 ならば、この状況で助けに入ろうなどという選択をする馬鹿者など存在し得ない……筈だった。
 何がどう間違ったのか、その馬鹿者は聖杯戦争のマスターに選ばれた。そして、『自身』を寄り代にサーヴァントを召喚した。
 類稀なる馬鹿者が召喚したサーヴァントはやはり、類稀なる馬鹿者に他ならない。
 馬鹿と馬鹿が出会った事で相乗効果を引き起こし、聖杯戦争のセオリーは音も無く砕け散る。代わりに冬木の地に響き渡ったのは幻馬の嘶き。
 アーチャーがイリヤに宝剣を投げつける寸前、音速を超えて天を疾走する幻馬が真っ直ぐにイリヤを目指して虚空を蹴った。そして、イリヤを宝剣が穿つ刹那、幻馬に跨りし勇者がその腰に下げた剣を投擲した。アーチャーのクラスで現界したわけでは無いが、彼は紛れも無く、選ばれし英雄。誉れ高き名を冠する彼の者にとって、一直線に飛ぶ物体を撃ち落とすなど児戯にも等しい。

「女の子相手にそんなの投げつけるとか、マジひくわー」

 恐怖のあまり、身を竦め、瞼を閉ざしていたイリヤは頭上から降り注いだその声にハッとした表情を浮かべ、顔を上げた。
 鷲の頭を持つ馬。幻馬・ヒッポグリフがイリヤの眼前に颯爽と降り立った。その背に跨っているのはイリヤがこれまで出会って来た人々の中でも類を見ない変態、フラット・エスカルドスと彼の相棒であるライダーだった。

「どう、して……?」

 咄嗟に口を衝いて出たのは疑問の声だった。
 
「だって、助けてって言ったじゃん?」
「その言葉をボク達は聞いた。だから、助ける」

 フラットとライダーの言葉は聖杯戦争のセオリーを無視している。あまりにも不可解故にアーチャーまでもが動きを止めている。

「な、なんで?」
 
 イリヤの疑問にアッサリとした口調でライダーが答えた。

「助けたいからだけど?」
「それ以外に理由なんて要らないっしょ?」

 そう、フラットとライダーはたったそれだけの理由で|最優のサーヴァント《セイバー》を圧倒したアーチャーの前に立ちはだかっているのだ。
 彼らと相対しているアーチャーの表情に浮かんだのは『失笑』。マスターに与えられた特殊眼力を使わずとも、彼には英霊の格が分かる。ライダーはセイバーにすら遥か劣る並以下の英霊だ。
 故にこれは彼にとって戦いでは無く、断罪でも無く、処刑ですら無い。たんなる間引きに過ぎない。

「王の手を煩わせおって……」

 竜殺しの逸話を持つ聖剣。
 担い手を破滅へ導く魔剣。
 冷氷の刃を持つ宝剣。
 稲妻を纏う魔槍。
 破壊神の力が宿る三叉戟。
 一つ一つが計り知れない魔力を纏う宝具。本来、一人の英雄が持つ宝具は一つか二つ。
 そんな聖杯戦争のセオリーを嘲笑うが如き光景を前にして尚、フラットとライダーは恐れる素振りすら見せずに立ち続ける。

「逃げて!!」

 イリヤは二人が串刺しになる光景を幻視し、悲痛な叫びを上げた。
 にも関わらず、二人は動かない。

「二人共、早く逃げて!!」

 イリヤが声を張り上げると同時に宝具の雨が降り注いだ。
 その刹那、漸く二人は動き出した。

「コード07!!」
「あいあいさー!!」

 事は一瞬だった。
 腹部に衝撃が走ると同時に風景が一変した。今さっきまで、住宅街に居た筈が、いつの間にか雲の上に居る。
 理解が追いつかずに居るイリヤを尻目にこの不可解な現状を巻き起こした下手人二人は手と手を合わせてハイタッチしていた。

「作戦成功!!」
「さっすがボク達!!」

 和気藹々な二人に水を差すのは気が引けたが、同時に今起きた現象について問い質したい欲求に駆られた。
 二人が落ち着いたところで漸く質問を投げ掛ける事が出来た。
 
「ふっふっふー!!」

 返って来たのはふんぞり返ったフラットの笑顔だった。

「答えはずばり、令呪さ!!」

 少しだけイラッとしたイリヤは後に続いたその言葉に目を見開いた。
 
「れい、じゅ?」
「そう! フラットが考えたんだよー! 先に令呪に篭める命令を暗号化して共有しといたのさ! で、土壇場になって長々と命令を口にしなくても一瞬で発動出来るようにしたって訳さ!」

 ライダーは誇らしげにフラットの腕を抱き締めながら言った。フラットはだらしなく頬を緩めている。

「へっへっへー。俺って、天才じぁね?」

 シャドーボクシングのように拳を振るう動作をしながら言うフラットにイリヤは言葉を無くしていた。
 目の前の二人は敵である己を救う為に令呪を使った。
 イリヤも桜を救う為に令呪を使ったが、あの時と今では状況が違う。そもそも、イリヤは正規のマスターでは無い。一般的な女子高生としての人生を歩んで来たが故に目の前で人が死ぬ事に忌避感がある。だからこそ、桜を助けるという選択肢を取った。それに、あの時、イリヤは令呪を使おうと思ったわけでは無かった。イリヤの意思に令呪が呼応した事で発動しただけに過ぎない。
 更に言えば、あの時は戦闘状態では無かったし、桜にはサーヴァントが居なかった。
 敵同士が勝手に争い合っている中に飛び込んで来て、令呪を使ってまで救い出すなんて、道理に合わない。

「どうしてなの……?」

 イリヤは驚愕を必死に呑み込んで問い掛けた。

「ん?」

 幻馬の上で手を取り合って作戦の成功を祝う二人にイリヤは更に問うた。

「どうして、私の為に令呪まで……」
「だから、言ったじゃん。助けてって言われたからだよ」
「そんなの!!」

 理由になってない。
 そう叫ぼうとして、ライダーの人差し指に口を塞がれた。

「人が人を助ける理由なんて、そんなに難しく考える事かい?」

 ライダーは言った。

「助けてって言われたら、助けたいって思うのが普通じゃないかな?」
「でも、命が懸かってるんだよ!? それに、令呪は聖杯戦争で戦い抜く為に大切な――――」
「だって、イリヤちゃんは友達だし」

 フラットは軽薄な口調で言った。

「とも、だち……?」
「違うの!?」

 ショックを受けた表情でライダーに抱きつくフラットに慌てて誤りながらイリヤは言った。

「だ、だって、一応、私達、その、敵同士……だし?」
「じゃあ、イリヤちゃんは俺達と戦いたいの?」
「そんな事は……」
「なら、いいんじゃない?」

 ライダーはあっけらかんと言った。

「友達の為なら命を張る。それが男ってもんさ」

 女の中でもとびっきりの美人に分類されるだろう顔をした男が言った。
 
「それに、女の子の前でかっこつけるのは男の義務だしね」

 どこまで本気なのか分からない。けれど、イリヤは漸く目の前の二人に命を救われたのだという事実を受け入れる事が出来た。
 そして、桜に敗北し、彼女を救えなかった事実を呑み込んだ。

「ありがとう……、フラット。ライダーも……」
「女の子の涙は苦手なんだよねー」

 そう言って、ライダーはハンカチでイリヤの目元を拭った。
 イリヤは自分が酷く安心している事に気がついた。この時になって、漸くイリヤは理解した。
 まだ、生きている事を理解した。そう、死んでいない。死を覚悟し、死に恐怖した。だが、まだ生きている。その事に酷く安堵していた。

「……まあ、笑顔になってくれれば、今は泣いててもいいけどね」

 泣き止まないイリヤにライダーはクスリと微笑んだ。

「さーて、イリヤちゃんが泣き止むまで、空中散歩の続きと行こうか」
「サンセー!!」

 ライダーはイリヤの手をずっと握り続けた。そうしなければ、壊れてしまう気がしたのだ。
 マスターであるフラットもいつも以上に陽気に振舞い、彼女が気落ちしないように心掛けている。
 二人は馬鹿だ。一方は理性が蒸発していると称され、一方は魔術協始まって以来の問題児と言われる程のハイエンドな馬鹿だ。けれど、それは単に大衆の意見に流されない自己を持っている事に他ならない。戦争という血生臭い闘争の中であっても、救いの手を差し伸べる事の出来る馬鹿。
 イリヤは涙を零しながら、彼らに感謝と尊敬の念を抱いた。
 アーチャーとの戦いでイリヤは一つ理解した。誰かを救うという事はとても難しい事なのだ。中途半端な考えでは、簡単に心が折れてしまう。考え過ぎても、良くない方向に進んでしまうだろう。ならば、彼らのように馬鹿になりたい。損得など考えず、助けたいと思ったら助ける。きっと、正義の味方と呼ばれる人々はそういう人間なのだろう。
 
 雲の切れ目を見上げながら、アーチャーのサーヴァントは舌を打った。

「雑種は雑種なりに考えたというわけか……。だが、このままおめおめと逃がしたとあっては、我の沽券に関わる。故に……、邪魔をすると言うのならば容赦はせんぞ、人形」

 アーチャーは背後の揺らぎから黄金の船を現出させながら言い放った。
 人形と称された少女は馬鹿にしたような視線を彼に向けた。

「沽券とか気にする必要なんて無いわ。貴方はここで死ぬんだから」
「……今宵は身の程知らずが羽虫の如く湧き出るな」
 
 朗らかに笑みを浮かべて言う少女。彼女の目の前に音も無く巨人が姿を現した。
 その瞳に狂気を宿しながら、背後に主たる少女を庇い、伝説の大英雄が大きく吼えた。
 アーチャーは船を揺らぎに戻すと共に無数の武具を現出させた。

「死になさい、アーチャー」
「……失せるがいい」

 片や狂気に身を委ねし大英雄。片や人類最古の英雄王。
 桁外れのスペックを誇る二騎の英霊の激突の火蓋はここに切って落とされた――――。

第十九話「ルーラー」

――――|検索《サーチ》開始。
 
 体格。霊格。血統。人格。魔力の適合率を満たす人物を検索。候補者が複数該当。更なる絞込みを行う。
 聖杯戦争の開催国である日本に縁のある人物を検索。三件該当。内、一件にイレギュラーを確認。残る二件の内、より信仰心の高い人物を選択。

――――検索終了。

 英霊の|霊格挿入《インストール》準備開始。該当人物に対し、|交信《コンタクト》開始。続いて、対象の|聖痕《スティグマ》を通じ、|接続《コネクト》開始。英霊の完全現界の為に体格、霊格に対し、調整を実行。憑依による人格の一時封印及び、英霊の霊格挿入開始。同時に元人格の同意獲得。素体の|別領域保存《バックアップ》開始。
 霊格挿入完了。体格と霊格の適合作業開始。続いて、クラス別能力付与開始。全英霊の情報及び、現年代までの必要情報挿入開始。別領域保存、並びにクラス別能力付与、必要情報挿入完了。
 スキル『聖人』――――聖骸布の作成を選択。これにより、適合作業終了。全工程完了。サーヴァント、クラス・ルーラー。現界完了。
 
 現界した直後、ルーラーは苦悶に満ちた表情を浮かべた。一瞬、召喚に不備があったのかと焦りを感じる程の激痛を感じ、咄嗟に瞼を開くと、目の前に異形が立ちはだかっていた。
 驚愕に目を見開くルーラーを異形はじっと見つめ続けていた。やがて、異形は徐々に形を変え始める。異形の姿は銀色の髪の少女へと変貌した。
 それがルーラーたる聖女、ジャンヌ・ダルクと被虐霊媒体質を持つ悪魔祓い、カレン・オルテンシアの出会いだった。

第十九話「ルーラー」

 |刺し穿つ死棘の槍《ゲイ・ボルグ》。ランサーの宝具の詳細は既に調査済みだった。宴の席で彼が名乗ったクー・フーリンという名をネットワークで検索し、ヒットした中にその槍の名があった。曰く、投げれば三十の鏃となって降り注ぎ、突けば三十の棘となって破裂する呪いの槍との事。これ以外にもこの魔槍に関する記述は多岐に渡り、その槍の絶大的な力を賛美していた。
 分かった事と言えば、彼にその槍を使わせてはいけないという事のみ。並みの英霊ではゲイ・ボルグを防ぐ事も躱す事も不可能。
 ならば、使われてしまった場合は死ぬしかないのだろうか? 

――――否。

 アサシンは既に切り札を発動する準備を整えていた。準備と言っても単純なもので、ただ、その身に刻まれた刻印に魔力を流し込むのみ。励起状態となった刻印に、後は命令を下すのみ。

「あばよ」

 ランサーは唇の端を吊り上げながら、目に見える程の濃密な魔力を槍に流し込んでいる。
 選択の余地は無い。切り札を出し渋ったまま、無駄に命を散らすわけにはいかない。

――――僕はまだ、死ぬわけにはいかないんだ!!

 魔槍が迫る。

「|刺し穿つ《ゲイ》――――」
「離脱しろ!!」
「――――|死棘の《ボル》ッ」

 驚愕に息を呑む音が響く。アサシンが姿を消した。霊体化では無く、存在その物が忽然と消え去ったのだ。
 この場に立つ三者は皆、今、目の前で起きた現象を明確に理解している。驚愕は消失のトリックに対してでは無く、何故、アサシンが使えるのか、という点。
 
「令呪……だと?」

 ランサーは片眉を上げながら呟いた。
 そう、アサシンの消失トリックの種は令呪。令呪はサーヴァントに対して命令を強制する力がある。例えば、サーヴァントの意に沿わない命令を下す事も出来る。
 だが、令呪の力はそれだけでは無い。アサシンが行った『空間転移』のように、令呪は使い方次第でサーヴァントに能力以上の力を行使させる事が出来る。
 如何に空間転移が魔法の域にある魔術であろうと、令呪を使ったならば別段不思議な現象とは言えない。
 ならば、ランサーの驚愕は何に対してものなのか? その答えは『アサシン自身が令呪を行使した事』だ。
 本来、令呪はマスターが所有する物である。それ故に魔術師は人智を超越した英霊と対等に接する事が出来るのだ。
 サーヴァントが令呪を所有しているなど、あり得ない事態だ。

「令呪に細工でもして、サーヴァント自身にも使えるようにしたのでしょうか?」

 バゼットは奇怪な現象に何とか説明をつけようと考えを巡らせた。
 幾つか、考えが浮かんだが、どれも説得力に欠ける。

「お前さんは何か知ってるんじゃないのか?」

 ランサーはルーラーに水を向けた。ところが、ルーラーはすまし顔で「答えられません」と一言。
 途端、彼は不機嫌そうにルーラーを睨み付けた。

「ケチくせぇ事言うなよ、ルーラー」
「ケチではありません。私はあくまでも裁定者。中立のサーヴァントたる私がそれを伝える事はルール違反になります」
「けどよー」
「そこまでにしなさい、ランサー」

 尚も食い下がろうとするランサーをバゼットが止めた。

「バゼット」
「自分から贈り物をねだるのはマナー違反らしいですし」

 ランサーは不覚にも噴出しそうになった。
 その言葉はつい先日、アーチャーのマスターにバゼット本人が言われた言葉だ。

「ルーラー。私は魔術協会の要請により、聖杯を調査する任を与えられています。つきましては、以前の宴の席で使い魔越しに発言した男との会合に私も参加させて頂けませんか?」
「私は構いませんが……」
「ならば、問題無いでしょう。アチラとは今から話をつけに行きます」
「今から……?」

 唖然とするルーラーにバゼットは薄く微笑んだ。

「武力行使になるかもしれませんが、それも一興。彼とは一度手合わせをしてみたいと思っていました」
「怖ッ! お前に目をつけられたソイツに本気で同情するぜ……」

 拳をポキポキと鳴らしながら獰猛な笑みを浮かべるバゼットにランサーは顔を引き攣らせた。
 女という生き物の恐ろしさは時代や国を問わないらしい。嘗ての師や女神を思い出しながら彼は苦笑した。

――――ああ、俺のマスターは本当に良い女だぜ。

「んで、奴さんがどこに居るかは分かってるのか?」
「いいえ。知りませんよ」
「……は?」

 予想外の返答にランサーは呆気に取られた表情を浮かべた。
 そんな彼にバゼットは肩を竦めた。

「だから、まずは知ってる人物に会いに行きます」
「知ってる人物っつーと?」
「セイバーのマスターですよ。イリヤスフィール・V・E・衛宮。イリヤスフィール・フォン・アインツベルン・エミヤ。嘗て、アインツベルンは衛宮という名を持つ外来の魔術師を己が領域に招き入れたとか……。恐らく、あの声の主は魔術師殺し・衛宮切嗣。そして、彼女はその娘」
「って事は……、このままセイバーと戦闘もあり得ると?」

 ランサーは頬を掻きながら問い掛けた。

「どうしたのですか?」

 キョトンとした顔をするバゼットにランサーは苦笑しながら言った。

「この街に到着した直後にライダーと戦って、その翌日にアーチャーと戦い、その更に翌日にファーガスの野郎と打ち合って、その翌日の今日はアサシンとやり合ったばっかだぜ? んで、このままセイバーと対決しに行くって?」
「……確かに、連戦続きではありますね。貴方がこれ以上無理と言うのでしたら――――」
「ッハ!! その逆だ!!」

 ランサーは獣の如く牙を剥き出しにしながら獰猛な笑みを浮かべた。
 心の底から歓喜に湧いた笑み。

「やっぱ、お前は最高だ!! 行こうぜ、バゼット!! |奴《セイバー》とは俺も戦ってみたくて仕方が無かったところだ」

 まるで少年のように顔を輝かせるランサーにバゼットは苦笑を洩らした。

「そういうわけなので、私達は少々交渉しに行って参ります。また、後程会合の席で」
「え、ええ、では……」

 闘気を漲らせるバゼットとランサーを見送りながら、ルーラーは頬を掻いた。

「仲良き事は素晴らしき哉……と、言った所でしょうか?」

 賑やかな二人が立ち去った事で静かになった海浜公園にポツンと取り残されたルーラーはアサシンに襲われた被害者たる少女を丁重に抱き抱えると、拠点たる教会へと戻って行った。
 その途中、盛大にお腹が鳴り、彼女はポツリと呟いた。

「お腹……空きました」

 その声には切実な響きが篭っていた。

 被害者の少女の治療を終えたルーラーは街へ出た。今現在、遠くでアーチャーとバーサーカーが交戦状態にあり、その少し離れた場所ではライダーがランサーと交戦中。更にその少し離れた場所でセイバーとファーガスも交戦中。アサシン以外は絶賛交戦中。
 一応、教会のスタッフに声を掛けてあるから、大きな被害が出る事は無いだろう。それよりも今は食事だ。ルーラーは今、非常に空腹だった。

「お、お腹と背中がくっついちゃいます……」

 自分で料理をしてもいいのだが、正直な話、自分の田舎料理より、現代のレストランの料理の方がずっと美味しい。
 現代の食文化の発展は実に素晴らしい。ルーラーは現界してから今日に至るまで、幾度と無く思った。祖国フランスの料理も生前とは比べ物にならない発展振り。実に素晴らしい。
 どこで食べようかなー、と瞳を輝かせながらレストラン選びに執心していると、不意にルーラーの視界に一人の人物が映り込んだ。
 
「……どうされました?」

 空腹状態とは言え、ここまで接近されて気が付かなかった事にルーラーは息を呑んだ。彼はルーラーの眼と鼻の先に立っていた。
 身のこなしに一切の隙が見当たらない。ルーラー自身はそこまで戦闘に特化した英霊では無いが、戦場を駆け抜けた経験が目の前の人物を油断なら無い存在であると告げている。

「大丈夫か? もし、具合が悪いようなら救急車を呼ぶが……」
「い、いえ! ただ、ちょっとお腹が空いていただけなので!」

 英霊の身でありながら、空腹に倒れ、救急車で運ばれるなどあってはならない。そう思って、慌てて叫んでからハッとなった。
 周囲から生暖かい視線を感じる。顔がみるみる赤くなっていくルーラーに男は言った。

「……来なさい」

 男は表情一つ変えずに一言告げると、そのままスタスタと歩き出してしまった。
 恥ずかしさのあまり、ルーラーは慌てて彼の後を追った。しばらく歩いていると、少しずつ冷静さを取り戻し、ルーラーは男に声を掛けた。

「えっと、どこに行くのでしょうか?」

 問い掛けると、男は「そこだ」と言った。
 
「『紅州宴歳館・泰山』……ですか?」

 どうやら、中華飯店のようだ。窓は締め切られている。開店しているのだろうか? ルーラーが首を傾げていると、男はスタスタと中に入って行った。
 えっと、えっと、と迷っていると、男が手招きした。

「入りなさい」
「は、はい……」
 
 空腹がもはや限界に近く、ルーラーは素直に従った。
 ルーラーには啓示という直感のスキルに似たスキルがある。初対面の相手に空腹で判断力が鈍っているとはいえ、ノコノコ付いて来てしまったのも、この啓示により、目の前の男が不審な人物では無いと一目見た瞬間に分かったからだ。

――――もしかしたら、お腹を空かせた私を見るに見兼ね、お勧めのお店を紹介してくれたのかもしれませんね。

 ルーラーは一人納得しながら中に入った。中には背の低い女性が一人店番をしていた。

「おお! 葛木先生! いらっしゃいアルー!」

 店員の女性はサッとメニューを手渡して来た。私は咄嗟に受け取ると席に案内され、葛木の前に腰掛けた。
 
「えっと、先生というのは?」
「高校で教師をしている。それより、好きな物を注文しなさい」
「え?」
「空腹だったのだろう?」
「そ、それはその通りなのですが……」
「ここは私が支払う。好きなだけ食べなさい」
「い、いえ! そんな、申し訳無いです!」

 まさか、奢ってくれようとしていたとは予想外。
 ルーラーは慌てて自分の財布を取り出そうとして、恐ろしい事実に気が付いた。

「どうした?」

 葛木が怪訝な眼差しを向ける。

「その……、お財布を忘れてしまいまして……」
「ここは私が支払うと言った筈だが?」
「いえ、でも……、申し訳ありませんし」
「遠慮する必要は無い。子供が空腹に喘ぐ姿は見るに耐えん。それとも、家で家族が料理を作って待っているのかね?」
「いえ、家……には私一人で住んでいますので」
「……そうか。すまなかった」
「あ、いえ! それより、見ず知らずの方に奢って頂くわけには……」
「だが、空腹なのだろう?」
「それはその……、はい」

 気まずそうに言うルーラーに葛木は言った。

「ならば、食べなさい」
「えっと、その……、はい」

 不思議な貫禄を持つ男だ。ルーラーは生前、共に戦ったジル・ド・レェを思い出した。彼も不思議な貫禄を持つ男で、時に厳しく、時に優しく接してくれた。
 特異な立ち位置に居たルーラーには真に心を許せる友は少なかったが、彼はその数少ない友であった。彼が己の死後に犯した罪については知っている。その罪の裏には深い嘆きと怒りがあった事は想像に難くない。彼を思うと胸が痛んだ。

「どうかしたか?」

 葛木に声を掛けられ、ルーラーは慌てて平静を装い、メニューに視線を落とした。
 そこには中華料理の名前がズラズラと並んでいた。そう言えば、現界してからこれまで、中華を食した事は一度も無い。どんな味なんだろう。
 ルーラーは目移りしながら注文する品を選んだ。

「一つ二つで無くとも構わん」

 その葛木の一言にルーラーの理性は吹き飛んだ。

「じゃ、じゃあ! こ、このマーボーとチンジャオとホイコーローと!!」

 調子に乗って次々に注文すると、店員の女が店の奥へと引っ込んで行った。

「ここの麻婆豆腐は美味しい。きっと、気に入るだろう」

 その時、初めて、ルーラーは葛木の微笑みを見た気がした。気のせいかもしれない。それほど、この男は表情の変化が乏しい。

「そう言えば、まだ名乗っておりませんでしたね。私はジャンヌと申します」
「ジャンヌ……というと、フランスから?」
「ええ、ルーアンという街に住んでいました。今は所用で此方の知人に世話になっております」

 男は口数こそ少ないが、決して無愛想というわけでは無かった。
 ルーラーは彼に友の姿を重ね、普段より饒舌に口が動いた。
 しばらく語り合っていると、店員の女が料理を運んで来た。
 瞬間、ルーラーの表情が凍り付いた。

「こ、これは……?」
「アイ、マーボードウフお待たせアル!」

 知らない。こんなマーボーを私は知らない。現界時に与えられた知識にも、この身の寄り代となってくれた少女の記憶にも、こんなマーボーの情報は無い。
 煮立った釜の如き真紅のソレはまるでラー油と唐辛子を延々煮込み続けたかのようで、まるで地獄の釜のよう。
  
「さて、頂くとしよう」
「え!?」

 葛木は日本特有の所作で手を合わせると、レンゲを手に取り、真紅のソレを口に運んだ。
 思わず生唾を飲み込み、その姿を見守る。
 葛木は凄い勢いでマーボーを食べ始めた。額に汗を滲ませながら、機械的にレンゲを口に運び続ける。

――――お、美味しいのかな?

 ルーラーは恐る恐るレンゲを手に取り、自分の分のマーボーを一掬い、口に運んだ。
 瞬間、ルーラーは眩暈に襲われた。
 辛い。否、辛いなんてもんじゃない。もはや、痛い。まるで舌を針で隙間無く突かれ、その上に塩を掛けられたかのよう。
 尋常では無い辛さに汗が滴り、涙が滲む。このままでは舌が融解してしまう。

「きゅ、きゅじゅきしぇんしぇい……」

 たった一口だというのに、ルーラーの舌は麻痺してしまった。
 涙を拭いながら葛木を見ると、彼は残り二口を残すのみだった。
 おかしい。この人、絶対おかしい。
 ルーラーは真剣に葛木の正気を疑った。こんな物体を完食するなんて、人としてどこかおかしい。
 お金を払ってもらう立場とはいえ、こんなものをこれ以上食べる事は出来ない。これ以上食べれば、寄り代たる少女の肉体が甚大な被害を被る。
 そう思い、葛木に謝ろうとした……その瞬間だった。
 
「……え?」

 ルーラーの体が彼女の意思に関係無く動き出した。
 腕が勝手に動き、レンゲを持ち上げ、マーボーを掬う。

――――な、何を考えているのですか、カレン!?

 止めて。お願いですから、止めて下さい。
 ルーラーは必死に懇願した。にも関わらず、勝手に動き出した腕は容赦無くマーボーを口に運んだ。避けようと思って、顔を動かそうとするが、顔が微動だにしない。

「あ、ああ……」

 口の中に、レンゲにたっぷり掬われたマーボーが流れ込む。
 その瞬間、ルーラーは声無き悲鳴を上げた。しかし、絶望は終わらない。彼女の不幸は……彼女の寄り代たる少女がこのマーボーを気に入ってしまった事。
 嫌だ。止めて下さい。お願いだから、勘弁して下さい。
 生前、火刑に処される前、幽閉されながら毎日尋問官や見張りの兵に暴行を受け続けた日々以上にルーラーはこの時、必死に命乞いをしていた。
 殺される。いや、むしろ殺して下さい。次々に口に運ばれるマーボーにルーラーは止め処なく涙を流し続ける。
 ああ、幸薄き乙女に希望は無い。マーボーの後に次から次へと料理が運ばれて来る。さっき、調子に乗って頼んでしまった料理達が異様なオーラを放ちながら待ち構えている。

「た、たしゅけて……」

 ルーラーの悲痛な叫びを聞く者は誰一人居なかった。

第二十話「激戦」

 それはクロエが故郷を離れ、日本に向かう前――――。
 クロエは礼拝堂に通された。千年に及ぶアインツベルンの妄執が描かれたステンドグラスを眺めていると、呼び出した張本人であるアハトが小さな木箱を持って現れた。
 彼はしばらくの間、クロエの隣に立つと、口を閉ざしたまま、彼女と同様にステンドグラスを見上げた。

「千年だ……」

 漸く、アハトの口から漏れたのはそんな言葉。
 彼は瞳を閉じながら、自身が生き永らえて来た長い月日を思った。嘗て、手の届いた奇跡が今では遥か遠い彼方にある。
 再び、奇跡を得る為に屈辱を押し殺し、他家と結託してまで作り上げた聖杯も手にする事が出来ぬまま数百年の歳月が経過してしまった。
 
「聖杯を得るのだ。その為にお前には切り札を用意した」

 アハトは木箱をクロエに差し出した。

「コレは一種の起動装置だ。使えば、お前の体に施した細工が作動する。だが、如何に妖妃・モルガンが調整した一級品であろうと、使えばただでは済まぬ。恐らく、三度が限界であろう」
「切り札とは……?」
「嘗て、聖杯を作り上げる際に我々は『抑止力』の存在を警戒し、一つのシステムを導入した。生贄の中に一つ、特別な席を設けたのだ」
「特別な席?」
「『ルーラー』と名付けた。敢えて、抑止力を受け入れる器を作り上げたのだ。他の生贄共とは比較にならぬ力を振るえるよう調整したクラスだ」

 アハトの言葉にクロエは疑問を抱いた。抑止力を受け入れる器を作ったのはいいが、ルーラーがそこまで圧倒的な力を有して召喚されるならば、そんな物を制御する事など出来るのだろうか。
 制御出来ないなら、結局、抑止力に対する対策とは成り得ない筈。
 クロエの疑問を察したのか、アハトは言った。

「無論、ルーラーのクラスには特殊な足枷を施しておる」
「足枷ですか?」
「然様。ルーラーのクラスは生者の肉体を寄り代に召喚される。霊体であるサーヴァントが本来持ち得ぬ……、肉体を有しているが故の枷をルーラーは有しておるのだ。尤も、ルーラー本人にはその仕掛けを悟られぬようシステム自体に細工をしてあるがな」
「受肉しているが故の……」
「つまり、寄り代となった生者が死ねば、ルーラーは消滅を余儀なくされるのだ。その為、ルーラーは寄り代を延命させる為に力を削らざる得ぬ」

 クロエは漸く足枷の意味を理解した。なるほど、確かにそれならば制御出来る可能性も見えてくる。

「第三次聖杯戦争の折、ルーラーを裁定者ではなく、自陣のサーヴァントとして召喚しようと考えた事もあった」
「ルーラーをですか?」

 クロエの声に僅かに驚きの色が混じった。聖杯戦争の抑止力として現れる英霊を自陣に引き入れる。その試みは諸刃の剣に思えた。
 
「二度の失敗に頭を悩ませていたのだ」

 言い訳をするようにアハトは言った。

「結局、抑止力を手元に引き入れるという策は白紙となった。ルーラーを降臨させる為の媒体となるホムンクルスの鋳造が思うようにいかなかったのでな。同時期に最上級の聖遺物を手に入れる事が出来た故、より確実に聖杯に至れるであろう策を取った。だが……」

 アハトは苦々しい表情を浮かべた。

「結果は知っての通りだ。だが、嘗てルーラーを召喚しようと試みた時の研究成果を披露する時が来た」
「では、切り札とは……」

 クロエは驚きに満ちた表情でアハトの顔を見上げた。
 
第二十話「激戦」

 何の前触れも無く、戦いは開始された。

「私の事は気にせずに全力で奴を殺しなさい、バーサーカー!!」

 黒い巨人はクロエの命令に応えるように猛々しく吼える。その巨体からは想像も出来ないスピードで縦横無尽に駆け回り、アーチャーの放つ宝具の豪雨を凌ぎ切る。
 戦闘開始から僅か一分。辺り一面の風景が一変している。建物は崩れ落ち、街路樹は薙ぎ倒され、アスファルトには大きな穴が幾つも穿たれている。もはや、生ける災害と化したバーサーカーの猛攻にアーチャーは舌を打った。展開されている宝具の数は十や二十では無く、その全てが一級品。されど、そのどれもが決め手と為らぬまま、無駄に消費されていく。
 確かに、バーサーカーはアーチャーの目から見ても最上級の英霊だ。恐らく、この聖杯戦争に於いて、唯一己に比肩するであろう大英霊であると認めてさえいる。にも関わらず、その強さにアーチャーは目を見開いている。狂化というクラススキルによるステータスの底上げがあるにしても、ここまで化け物染みた力を発揮するには至らない筈。

「一個人が持ち得る魔力では無いな……」

 バーサーカーのステータスを更に引き上げている要因は彼の肉体に注がれている膨大な魔力。狂化状態にある大英雄を更に強化する程の魔力を常時流し続けるなど尋常では無い。
 並みの魔術師なら――――否、桁外れの才覚を持つ熟練の魔術師ですら、あのような真似をすれば瞬く間に干乾びて命を落とすだろう。
 
「ごめん……」

 唇を噛み締めながら、クロエは呟いた。
 バーサーカーが腕を振るう度、歩を進める度、消費されていく命がある。アハトが用意した策の一つ。魔力供給の為だけに鋳造されたホムンクルスが秒単位で命を落としている。
 罪悪感に苛まされながら、クロエは更なる一手を投じる。

「令呪を持って命じる!!」

 狂化のスキルと過剰魔力の供給。その時点でバーサーカーのステータスは全て最高値であるA++に至っている。
 この時点で最強の名は揺るぎない。だと言うのに、クロエは更なる力を上乗せするべく令呪を発動した。

「目の前のアーチャーを確実に殺しなさい!!」

 もはや、バーサーカーのステータスは評価不能の領域に突入。
 クロエがそこまでした理由は単純明快。それ程までに、クロエはアーチャーを警戒しているのだ。
 バーサーカーは最強だ。Bランク以下の攻撃を無効化し、その上、一度受けた攻撃は二度と通さぬ鋼の肉体。加えて、彼には死んでもその場蘇生する能力がある。
 それほどの反則的な力を持って尚、彼女が警戒する理由は目の前の英霊の宝具の異常さにある。本来、英霊が所有する宝具は一つか二つ。多くても五つくらいが限度だろう。聖杯戦争に招かれる英霊達は皆、一時代にその名を轟かせ、後の世で語り継がれる英雄だが、バーサーカーを殺し尽くす事の出来る存在など居る筈が無い。そう、クロエは確信していた。
 だが、アーチャーはそんなセオリーを無視している。バーサーカーの鉄壁の守りを貫く宝具を彼は無数に所持しているのだ。つまり、彼にはバーサーカーを殺し尽くす手段があるという事。
 唯一、自身の勝利を脅かす存在。故に、クロエはこの戦いに全てを投じる決意がある。まだ、一人の脱落者も出ていないというのに、目の前の英霊との決着は即ち、この聖杯戦争の決着を意味するとさえ考えている。故に全力全開。同胞の命を湯水の如く使い、三度限りの令呪を一つ消費し、全てのステータスを評価規格外まで押し上げる暴挙に出た。

「ック――――」

 結果、バーサーカーはアーチャーを圧倒している。宝具の豪雨は音速を遥かに凌駕するバーサーカーを捉え切れず、接近を許してしまった。
 アーチャーというクラスの真価が発揮されるのは中距離、もしくは遠距離である。接近戦に持ち込まれた弓兵を待ち受けるのは無惨な死。
 だが、それは並の英霊ならばの話。生憎、アーチャーは並みの英霊などでは無い。人類最古の英雄王に膝を折らせるには未だ至らず――――。

「――――天の鎖よ」

 バーサーカーの持つ斧剣が唸りを上げて一閃される刹那、無数の鎖が現れ、バーサーカーを空間ごと縫い止めた。
 クロエは目を見開いた。その鎖が如何なる宝具なのかは分からない。分かるのは今、突如現れた無数の鎖がバーサーカーの動きを封じているという現実のみ。
 鎖は――全ステータスが評価規格外に至る現在の――バーサーカーを縛り付けている。全身に巻き付いた鎖は際限無く絞られていき、その鋼の肉体を絞り切らんとしている。
 
「これでも死なぬとは……。嘗て、天の雄牛すら束縛した鎖だが、貴様を仕留めるには至らぬようだな」

 辺りに鎖の軋む音が鳴り響く。空間そのものを支配する天の鎖をバーサーカーは引き千切ろうとしているのだ。
 本来ならば不可能。その鎖の性質上、バーサーカーはどうあっても逃げられない。

「無駄な足掻きだ。この鎖に繋がれれば、神すらも逃れえぬ。いや、神に近しければ近しいほど、この鎖の餌食となる。元より、この鎖は神を律する為のものだからな」

 つまり、神性が高ければ高い程、この鎖は効力を発揮するというわけだ。
 クロエは悔しげに唇を噛み締めた。

「ああ、それと、この鎖に縛られている以上、令呪による強制離脱も不可能だ」

 クロエの思惑を先取りし、アーチャーは言った。
 万事休す。アーチャーは片手を持ち上げ、後方の揺らぎから無数の武具を現出させる。
 このままでは、バーサーカーが仕留められてしまう。

「……使うしかないわね」

 呟きながら、クロエはポケットに手を差し入れた。
 取り出したるは一枚のカード。アハトに渡された切り札だ。
 彼は三度が限界だと言った。それ以上の使用は肉体が耐えられないだろうと。恐らく、三度目の使用の後、この身は完全に崩壊する。
 だが、ここで使わなければ、どちらにせよ次は無い。バーサーカーが殺される。その後は己の番。
 ここで死ぬわけにはいかない。アインツベルンの悲願の成就などどうでもいいが、己には願いがある。

――――|あの子《イリヤ》と戦うまでは死ねない。

 彼女に向けている感情が憎悪なのか、憤怒なのか、嫉妬なのか、愛着なのか分からない。
 ただ、彼女と戦いたい。それ以外に望みなど無く、その為にならば手段は選ばない。
 
「|起動《セット》――――ッ」

 |異変《ソレ》は唐突に始まった。辺りの空気が凍りつく。否、燃えている。
 熱い。まるで、蒸した石室に閉じ込められているかのよう。全身の神経を素手で触られているかのような痛みが奔る。
 歪む。世界が歪む。天地が逆転し、風景が渦となる。
 内側から燃やされている。熱が心を焦がしていく。全身が別のナニカに書き換えられていく。
 入って行く。
 出て行く。
 知らない知識が流れ込んで来る。
 己の情報がどこかに流れ出して行く。
 分かった。理解した。これはそういう類のモノだったのだ。確かに、三度使う事も出来るだろう。だが、それは運が良ければの話。
 コレは一度使ったが最後、後戻りの出来ないスイッチが入る時限爆弾。

「ッァア――――」

 光に押し潰された。強い風が己を吹き飛ばそうとしている。
 風に触れられた部分が錆びていく。鏡のように磨かれていく。剥がれていく。削れていく。
 ここに重力は存在しない。全くの真空。|風蝕《ココ》は人の身で居てはいけない場所だ。
 
――――早く、ここから出ないと……。

 足を動かす。空を蹴りながら必死に前を目指す。
 逃げられない。逃げなければならない。
 進めない。進まなければならない。

「あぁ――――カ」

 手を伸ばす。必死に手を伸ばし、光の先の何かを掴む。
 届け。届け。届け。届け。届け。
 引っ張られる。手が光の先に届かない。それでも、届かせなければならない。でなければ、この状態に陥った意味が無い。
 アハトはこの事を承知していたのだろうか? こんなモノを切り札と言って持たせて、最後まで生き残らせる気があるのだろうか?
 あろうと無かろうと、関係無い。結局、己はこの戦いで死ぬ。聖杯を得ようと、得られまいと、その結果に変わりは無い。
 だけど、ソレは今では無い。あの英霊を生かしておくわけにはいかない。アレの存在は容認してはいけない。アレは必ず■■を殺す。そうなれば終わりだ。
 奇跡を願う。奇跡を叶える。その為に必要だと言うならば、この命を捧げよう。これ以上――――■■を■■■せてはならない。

――――ああ、だから私はコレを使ったんだ。

 ここに来た理由。今、奴と戦う理由。恐らく、繋がっている今だからこそ分かる現状。繋がりが切れれば、再び忘却する。
 だが、少しでも刻み込む。この生と死の狭間の刹那のみ、選択の自由が与えられる。これから為すべき事、出来る事を刻み込む。
 例え、忘却しようとも、この選択だけは残す。

「ッ――――何をする気だ!?」

 カチリと音を立てて接続が完了した。

 検索を開始する。この現状を打破出来る英霊を検索する。検索可能な英霊は二十八体。――――訂正。内、十四体の|情報《データ》は破損している為、情報の抽出が不可能。他、十四体の内、七体の情報も63%の破損が見られる。情報の部分的抽出は可能だが、スキル・宝具は抽出不可能。よって、現状を打破出来る英霊は七体。
 セイバー、ランサー、アーチャー、ライダー、アサシン、キャスター、バーサーカー。内、英雄王・ギルガメッシュに対抗出来る英霊を検索。
 二件該当。アーチャーを任意選択――――失敗。

――――え?

 アーチャーのクラスのサーヴァント情報を|消失《ロスト》。よって、セイバーのサーヴァント・ランスロットを選択。
 検索終了。

――――ちょっと、待って!!

 クロエは必死に接続を保とうともがくが、光が遠のいていく。眩暈と共に、この刹那の間に起きた出来事の全てが記憶から消失していく。
 失われていく記憶を何とか留めようとするが、徒労に終わった。光が完全に消失した後、クロエは記憶を完全に喪失していた。残ったのは奇妙な違和感のみ。
 その違和感を気に掛けている余裕も無かった。己の魂を押し潰そうとするかのような突風が襲いかかって来た。眼球が潰れる。血液が逆流する。全身を切り刻まれる。
 指一本動かせない。その状況下で己の口が勝手に動き出した。

「告げる――――」 

 英霊の|霊格挿入《インストール》準備開始。
 
「汝の身は我に、汝の剣は我が手に――――」

 選択英霊の情報の改竄開始。

「聖杯のよるべに従い、この意、この理に従うならば応えよ――――」

 アーチャーが宝具を射出するが、鎖に絡め取られた状態のまま、クロエに到達するであろう宝具のみをバーサーカーが指のみを動かし、斧剣で弾いた。
 同時に、選択英霊の情報の改竄完了。英霊の霊格挿入開始。

「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者――――」

 英霊の霊格挿入完了。体格と霊格の適合作業開始。続いて、クラス別能力付与。並びに、英霊の持つ戦闘経験付与――――完了。

「汝三大の言霊を纏う七天。抑止の輪より来たれ天秤の守り手よ――――」

 光の嵐を越える力が備わるのを感じる。
 思考が冴え々々としている。
 アーチャーは既に次の動きを開始している。バーサーカーは既に四度殺されていた。もはや、クロエを援護する余力は残されていない。
 令呪。並びに、数多の同胞の死が無駄になった事を理解し、クロエは怒りを顕にした。あらゆる思考が集束していく。一つの目的のみを遂行する為に、意思が一つに固まる。
 
「――――|夢幻召還《インストール》、完了」

 瞬間、クロエは――寸前まで空であった筈の――右手の剣を振るった。
 アーチャーの宝具をクロエは打ち払った。その光景にアーチャーは瞠目した。その刹那、クロエは走り出した。
 |夢幻召還《インストール》。それこそがアハトの用意したクロエの切り札の名称である。
 その意味は、英霊の霊格を生者の身に挿入する事。御三家が初期に行った抑止力への対策たるルーラーのクラスの仕掛けを応用した物。
 尤も、ルーラーに施した仕掛けとは違い、夢幻召還は生者の側が英霊の力を利用出来るようにしたものだ。英霊の情報を改竄し、人格を封印し、霊格をクロエが制御出来るまでに貶めたが故に英霊本来の能力は震えない。
 そうは言っても、霊格を多少陥れたところで、並みの人間ならば英霊の魂に侵食され、吹き飛ばされるのが通りというもの。だが、クロエは今、正気を保ち、肉体を完全に制御している。
 理由は単純。クロエの肉体の|性能《スペック》が並では無いからだ。稀代の魔女・モルガンによって調整を受けたクロエの肉体は英霊の宝具の域に達している。故にこの無茶な行いを切り札として行使出来ている。
 ただし、この能力には制限がある。如何に優れた魔術師であろうと英霊の座に容易くアクセスし、情報を得て、その上、その情報を改竄するなど不可能。故にアクセスするのは英霊の座ではなく、聖杯。
 嘗て、消化されぬまま、聖杯の中に取り込まれた英霊達。クロエは彼らの中から最適な英霊を選択し、改竄した。既にこの世に現界する為に御三家が用意したクラスという媒体に押し込められた彼らの魂ならば手を加える事が可能。清純な英霊を反転させる事も霊格を貶める事も可能なのだ。
 貶められたとは言え、嘗て、その名を轟かせた英雄の力――――それは、人を越えた力である。
 付与された稀代の剣士・ランスロットの戦闘技術を発揮し、クロエはアーチャーの放つ宝具の豪雨を駆け抜ける。

「貴様――――ッ」

 事、ここに至り、アーチャーは目の前の存在を明確な敵として認識した。
 |人形《クロエ》も|木偶の坊《バーサーカー》もどちらか一体ならば敵には至らない。だが、二体同時となれば話は変わる。
 人形の力は英霊のソレに比肩している。アレがバーサーカーに辿り着けば、バーサーカーは解放されてしまう。そうなれば……。

「褒めてやるぞ。我にコレを抜かせた事を誉であると――――」

 そう言って、アーチャーが己の蔵より一振りの剣を取り出そうとした刹那、クロエは動いた。
 それは隙とも言えぬ一瞬。アーチャーが宝具の射出から意識を手放した、ほんの一瞬の事である。
 クロエを狙うという明確な意思の下で放たれた宝具とは違い、適当にクロエの周辺を狙い放たれた宝具の雨はクロエに活路を見出させた。

「貴様ッ!!」

 怒りに満ちた叫び。
 アーチャーは己の宝物を人形風情に触れられた事に怒りを爆発させた。
 そう、クロエはアーチャーの宝具を手に取っていた。ただし――――、ただ、落ちていたのを拾ったのでは無い。
 飛来してくる宝具を掴んだのだ。アーチャーはそれを為した事に驚いてはいない。クロエの身を覆う膨大な魔力と彼女の持つ宝具の能力を総合的に鑑見ればソレを為した事自体を驚きはしない。
 だが、怒りと同時にアーチャーは己が失態を悔いてもいた。意識を一瞬割いた事ではない。彼女が手に取ったその宝具が拙いのだ。

「穿て――――」

 彼女の夢幻召還した英霊には一つの能力がある。
 それは彼が戦いの折に様々な物を武器として利用したという伝承が昇華し、宝具に至ったもの。
 名は、『|騎士は徒手にて死せず《ナイト・オブ・オーナー》』。その能力は――――手に取った武器、あるいは物体を己が宝具とする能力。
 反則的なその力は彼女が手に取ったアーチャーの宝具を彼女の武器へと変換した。
 その宝具の名は――――、

「手癖の悪い奴め……」

 瞬間、アーチャーは目の前に盾の宝具を展開した。
 理由は明確。彼女の握る宝具は宝具をもってしか防げないが故である。

「|轟く五星《ブリューナグ》!!」

 真紅の魔槍が膨大な魔力と共に放たれる。ランサーのゲイ・ボルグにも比肩するその槍はケルト神話の神が持つ邪神を殺した対神宝具。
 神性のスキルを持つ者に対してはゲイ・ボルグを越える威力を持つ神の槍。
 アーチャーは槍を盾で受け止めると、遥か後方の結界内で待機させているマスターを呼び寄せた。

「アーチャー!?」
「黙っていろ、小娘」

 常に傍若無人な態度を崩さぬ彼の顔に常の平静さは無い。
 背後から黄金の船を現出させ、忌々しげに舌を打った。

「この我が二度も敗走する事になろうとは――――」

 アーチャーは盾の宝具に可能な限りの魔力を注ぎ込むと、凜を抱え、船に飛び乗った。
 直後、盾は槍と相打ちとなり、無惨に砕け、その先で己の最も信頼する宝具が敵の手に落ちる姿を視た。

「……ッハ、ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!」

 瞬時に天高く舞い上がった船の宝具、|天翔る王の御座《ヴィマーナ》の先端に立つと、アーチャーは嗤った。
 狂ったように嗤う彼に凜は身じろぎ一つ出来なくなり、彼が取り出したソレに目を見開く事しか出来なかった。

「人形よ。貴様は我の怒りを買ったぞ。人類最古の英雄王・ギルガメッシュの怒りを買ったのだ。その意味をその身をもって知るがいい!!」

 それはアーチャーが持つ宝具の中でも別格である。元々の銘は無く、彼は便宜上、|乖離剣《エア》と呼んでいる。
 ソレは無銘にして最強の剣。円柱状の刀身を持つ剣としては歪な形をしたソレは星を生み出した力そのもの。あまねく全ての生命が須らく遺伝子に刻む、世界を破壊し、世界を創った原初の存在。
 ランクは評価規格外。一度振るえば、現世に地獄を現出させる神造兵器。

「さあ、|乖離剣《エア》よ。目覚めの時だ。王の怒りをこの地に住まう者共に刻み込め」

 主人の命に従い、乖離剣は軋みをあげる。誰が知ろう。これこそが、あまねく死の国の原典。生命の記憶の原初。
 ソレが齎すはあらゆる生命の存在を許さぬ地獄のみ。

「いざ仰げ! |天地乖離す開闢の星《エヌマ・エリシュ》を!!」