第十三話「ライネス・エルメロイ・アーチゾルテ」

――――この国は一人の魔女によって滅び、一人の聖女によって救われるであろう。

 百年に渡る戦乱の末、混迷を極めるオルレアンの地で一人の少女が立ち上がった。齢十七を数えたばかりの田舎娘は王太子シャルルの命を受け、旗を手に取り戦場を駆け抜けた。
 彼女は祖国フランスに勝利を齎し、シャルル7世をフランス国王へと押し上げた。

「レオン・ドゥニという研究者が居る。彼はジャンヌ・ダルクの偉業が抑止の後押しによるものだと考えた。まあ、彼は魔術の世界に属さない一般人だったけどね」
「一般人が抑止の存在を?」
「そうじゃない。彼は直接『抑止』という言葉を使っていない。彼は『信仰の名のもとに肯定され、理性の名のもとに否定されてきた数多くの現象が、今後は論理的、科学的に解明されるようになるだろう。オルレアンの少女の人生にちりばめられた数多くの驚異的な現象も、実はそうした高い次元に属するものだったのである』という言葉を著作に遺している。彼は一般人であったが、魔術や神秘の存在を感じ取っていたらしい。そして、『彼女のまわりに働きかけ、彼女の内に働きかけ、彼女を高貴な目標に導いていった力』の存在を仄めかしている。魔術師である私達からすればソレが『抑止力』の事だと察しがつく。だが、問題なのは彼が一般人であるにも関わらず、その存在に辿り着いた点だ」
「なるほどな。一般人ですらその結論に辿り着ける程、明確な後押しがあったという事か」
「まあ、彼は他の才能ある作家を『暗い魂』と称するような御仁だ。他者には無い類稀なる感性がその結論を導き出したのだろう。まあ、何が言いたいかというと、私は彼の意見に賛成の立場にあるという事さ」
「つまり、奴が本当に抑止力に呼ばれた英霊だと?」
「ああ、間違い無いと思う。アレはそういう英霊だ。人類の集合無意識が望んだ英雄。彼女ほど、裁定者に相応しい存在は他に無い。何せ、彼女の存在には『全ての人間の意志』が反映しているのだからね」

 眼下に広がる冬木の街並みを見下ろしながら、少女は断言した。
 彼女の背後には見上げる程の大男が腕を組んでいる。

「――君が持ち帰ってくれた情報は今後の方針を決める為に大いに役立つ。さすがだよ。ところで、私も君の事を『ファーガス』と呼ぶべきかい?」
「好きにしな。咄嗟に考えて付けた名だ」
「いや、呼ばせてもらおう。君の『嘘』も今後の展開において重要なキーとなるだろう」

 ――――そう、ファーガスが自身の名を宴の席で偽った理由はマスターの指示によるものでは無い。
 元より、彼女は彼を常々真名で呼んでいた。彼女は彼が最強の英雄であると確信しているからだ。故に真名など、幾ら知られても問題無いとすら思っている。
 だが、彼は敢えて、己の名を秘匿した。彼がそう判断したならば、己も従うまでの事。
 彼女は彼の判断を心から信頼している。彼の自己判断を尊重し、それを踏まえた上で策を張り巡らせている。

「ライネス」

 ファーガスは少女の名を呼んだ。

第十三話「ライネス・エルメロイ・アーチゾルテ」

 十年前の事だ。当時、当代当主であったケイネス・エルメロイ・アーチボルトの冬木における第四次聖杯戦争での戦死の一報が伝えられた後、アーチボルト家は多くのものを失った。誇り、財、権威、歴史、魔術刻印。あらゆるものを喪い、誰もが当主の座を嫌がる中、その座を受け継いだのが当時、アーチボルト一門でも末席の魔術師に過ぎなかった彼女だった。
 
――――再び、アーチボルト家に栄光を……。 

 それが彼女が常々考えている事だった。だが、当主の座を継いで十年。再興の目途は立っていない。そんな彼女の耳に一つの報が届けられた。聖杯戦争の再開という報が――――。
 アーチボルト家の没落の要因となった聖杯戦争。それを勝ち抜き、聖杯を得て、根源へと達すれば、再びアーチボルト家の栄光を取り戻す事が出来るに違いない。そう考えた彼女は考えうる限り最強の英霊の聖遺物を手配し、聖杯戦争への参加を決めた。
 聖遺物が届いた日は丁度夏から秋に変わる節目だった。ライネスは暗い廊下を進み、自室に戻ると、届いた大荷物を慎重に机の上に置き、ベッドに横たわった。両腕を広々としたベッドの上いっぱいに伸ばし、彼女は瞼を硬く閉じながら呟いた。

「必ず、アーチボルト家を再興してみせる」

 それから数か月後、彼女は冬木市を訪れた。入念に準備を重ね、冬木の全貌を見渡せる位置にあるビルの上層階を拠点として手に入れた。非合法な手段は裏の者達に勘付かれる危険性がある為に正攻法を取る事にしたのだが、負債塗れの彼女に出来るのは暗示による小銭稼ぎ。屈辱に塗れながら、資金を手にし、漸く工房の設置に取り掛かれるようになったのはそれから更に一ヶ月も後の事だった。
 新築の建造物特有の臭いはあっという間に薬品や血の臭いに掻き消され、木目模様のオシャレな床には巨大な魔法陣が刻まれた。工房の設置一つに関しても、ライネスは多大な労力を費やした。何しろ、拠点を得るだけで資金はあっと言う間に底をついてしまったからだ。
 そこまでして、彼女がこの拠点に拘ったのには理由がある。一つは冬木市の全貌を見渡す事が出来る事。そして、もう一つはここが前回の聖杯の出現地点の直ぐ傍であり、優秀な霊地だからだ。霊地を得る事は一種のアドバンテージであり、手札の少ない彼女にとって、どうしても必要だったのだ。
 故に魔法陣を描くにも高価な魔術具や魔法薬など使えない。彼女が魔法陣を描く為に使ったインクは自身の血だった。自分の血は一番己の魔力を通し易い『液体』であり、こういった魔法陣を描く際には最適だ。と言っても、資金さえあれば、己の血よりもずっと効果的な魔法薬を使う事も出来た。だが、彼女には肝心の資金が無かった。
 彼女は日本を訪れてから、只管注射器を用いて血抜きをしてはレバニラ炒めを作ってモリモリ食べた。体に悪い事この上ないこの生活が続いた。時には血が蒸発したり、削れたりする度に補修を繰り返し、綴りに間違いは無いか? 記号の方角は合っているか? 位置は大丈夫か? 歪みは無いか? などを何度も何度も何度も何度も繰り返し繰り返し確認しながら作業をし続けた。
 多大な時間と労力と血液を使い、完成させた魔法陣を彼女は満足気に微笑みながら見つめた。少し青褪めた表情で……。

「完成だな」

 時計に目を向けると、まだ七時を回ったばかりだ。一日の内で彼女の魔力が最も充実するのは八時だ。それまでには少し時間がある。
 一端、休憩を取る事にした彼女は拠点たる工房の点検をする事にした。魔術工房に改造した室内は細部まで確りと結界を張り巡らせてあり、様々な術式を上塗りしてある。

「よし、結界に解れは無いな。他の備えにも問題は無い」

 一つ一つ入念にチェックし終えると、丁度時計の針が八時を指し示した。
 少女は魔法陣の前に立つと、令呪の浮かんだ手を陣に向け、魔術回路を起動した。

「閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する」

 体内を循環する魔力がある一点に向けて放出されていく。

「――――――告げる。汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」

 暗い部屋を眩い光が照らし出したかのような錯覚を覚えた。実際にはまだ何も起こってはいないにも関わらず、立ち上る魔力の奔流に呑まれそうになる。

「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者。汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ」

 雲の合間から顔を出した月の光が部屋を照らした。月光の下、魔法陣の中央に佇む巨躯の男がライネスを見下ろしていた。
 そのあまりの存在感に彼女はしばらく口を開く事すら出来なかった。

「名は?」

 ライネスが召喚したサーヴァントは重い口を開いた。
 ライネスは深く息を吸い込むと、決意の篭った眼差しを彼に向けた。

「――――ライネスだ。私はアーチボルト家十代目頭首、ライネス・エルメロイ・アーチゾルテだ」

 それが、彼女と彼の出会いだった。

 彼女が呼び出した最強の英霊は静かな口調で告げた。

「これはあくまでお前の戦争だ。無論、俺はお前の勝利を第一に考え行動している。宴に参加したのもそうだし、真名を秘匿したのもその為だ。だが、あくまでも俺はお前の駒に過ぎない。その事を決して忘れるな。駒をどう動かすかは打ち手次第だ。俺の意見を尊重してくれるのは嬉しいが、ただ受け入れるだけ、というのは無しにしておけ」
「……手厳しいな。だが、嬉しいよ。叱咤してくれているという事は、少なくともまだ私を見限っていないという事だろう?」
「俺はお前を決して裏切らない。その事だけは断言する。俺が言いたいのは……」
「分かっているさ。君を信頼するのはいいが、盲信してはいけない、と言いたいのだろう?」

 ファーガスは黙って頷く。
 
「分かっているさ。だが、君の意見は一々正しい。わざわざ取り下げる必要の無い程、理に叶っている。だから、私は尊重するのさ」
「俺の最期は知っているだろう?」
「ああ、勿論だよ。偉大なる王は偉大なる行いをした後、配下の者達に裏切られ死んだ」
「裏切ったなどと言ってくれるな。俺が不甲斐なかっただけさ。あの最期は俺の自業自得だ」

 己を嘲るように言うファーガスにライネスは不愉快そうに表情を歪めた。

「俺は完璧な人間じゃない。俺の行動全てが正しいわけでもない。その事を肝に銘じておけ」
「君のそういう謙虚な姿勢は嫌いじゃない。けど、そういう自虐的な姿勢は大嫌いだ」
「悪いな。一人で孤独に死んでいくってのはどんな英雄だって怖いんだよ。だから、俺はここに居る。俺の願いはただ、俺の最期を誰かに看取ってもらう事だ」

 一国の王が何とも情け無い祈りを掲げているものだ。
 そう、無知蒙昧な愚か者達は嘲るだろう。
 だが、ライネスはその願いを決して否定しない。否定など、出来る筈も無い。
 孤独の恐怖を彼女は知っている。死の間際、周りを囲む者が一人も居ないなど、想像するのも恐ろしい。

「ああ、分かってるさ。私も一人は怖い。この戦いの行く末がどうなるにしろ、私と君はずっと一緒だ」

 勝利するのも、死ぬのも一緒。後に続く筈のその言葉をライネスは呑み込んだ。
 言えば、彼は必ず撤回を求めてくる。だが、彼女は撤回する事を拒絶している。
 彼女にとって、彼女を取り巻く全ての人間は敵だった。そんな彼女にとって、彼は貴重な味方であり、信頼出来るパートナーだ。
 彼と共に勝利した暁にはアーチボルト家を復興し、彼と共に生きていきたい。彼は受肉を拒むかもしれないが、此方には令呪がある。彼に嫌われても、どこまでも付き纏う。
 彼と共に死ぬ事。それが彼女の祈りであり、人生の目的となっていた。
 その結末が幸福であるかどうかは分からない。確かに言える事は一つだけ。彼が死ぬ時は私の死ぬ時であり、私が死ぬ時は彼の死ぬ時であるという事。
 
「だから、怯えないでおくれ。私の……私だけの勇者様」

 ライネスはファーガスを抱き締めながら囁くように呟いた。

「……ああ」

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