第十話『本物と偽物』

 窓の外に目を向けると、雪が降り始めていた。

『……ここだ』
 
 時刻は深夜2時。魔王に言われて、僕は八階に来ていた。
 岩壁の前を三往復する。すると、扉が現れた。

『ここは《必要の部屋》と呼ばれている』

 中に入ると、そこには物が溢れていた。それらは何世紀にも渡り、溜め込まれた生徒達の秘密。
 必要の部屋は来訪者の望む形に変化する魔法の部屋だ。僕は前を通りながら《物を隠したい》と念じていた。
 所狭しと並んでいる隠し物の数々を見ながら歩く。しばらくすると、黒ずんだ古めかしい髪飾りがあった。

「よし、少し待っていろ」
 
 魔王は実体化すると、髪飾りを手に取った。すると、髪飾りから黒が抜けていく。黒はそのまま魔王の中に吸い込まれていき、髪飾りは黄金に輝き始めた。

「それも分霊箱だったの?」
「そうだ。ホグワーツ魔法魔術学校の創始者の一人、ロウェナ・レイブンクローの髪飾りだ」

 魔王は僕の頭に髪飾りを乗せた。すると、急に頭の中がスッキリとした。どういう事なのか、魔王に聞く前に答えに辿り着けた。
 この髪飾りの力は知力を高めるものだ。だからこそ、僕の頭はとても澄み切っている。

「……あまり似合わないな」

 魔王は髪飾りを取り上げた。

「魔王?」
「まあ、中々に便利な魔具だ。困った時に役立つだろう」

 そう言って、僕の首に手を添える。透明な紐を手繰り、小さな袋を手に取る。
 そこには蘇りの石や僕が作った魔具が入っている。この袋自体、魔王に言われて僕が作ったものだ。
 魔王はそこに髪飾りを入れた。

「……これで二つ。漸く、マシになったな。貴様と離れても、ある程度は行動可能になった」
「え!?」
 
 魔王の言葉に僕は不安を抱いた。魔王が窮屈な思いをしている事は分かっている。だけど、いつも心の中に居てくれる魔王が居なくなったら……。

「落ち着け」

 魔王は呆れたように言った。

「あくまで、マシになっただけだ。一日か二日が限度だろう。それに、あくまで起点は貴様だ。離れようと思っても離れられん」
「ご、ごめん……」

 謝りながら、頬が緩んだ。喜んではいけない事なのかもしれないけど……。

「明日、貴様は小僧の家に向かう予定だったな?」
「う、うん」
「その日、一日だけ貴様から離れる」
「……どうして?」

 抑え切れず、声に不満の色が滲んでしまった。

「……そう睨むな。片付けておかねばならない仕事があるだけだ。明後日には貴様の下へ戻る」
「本当に? 絶対?」
「本当だ。絶対だ。なんだ、俺様が信用ならないか?」

 とっても意地悪な物言いだ。僕は魔王の胸を叩いた。

「……忘れるな。その身もその心も全て俺様のものだ。こう見えて、独占欲は人一倍強い。手放す気など無い」

 嬉しい。その言葉を聞いて、漸く安堵した。

「さて、戻るぞ。明日は朝一番に出発するのだろう?」
「うん……」

 第十話『本物と偽物』

 クリスマスの前日、ハリーはドラコと共に暖炉の中へ消えた。
 ハリーを見送った後、魔王は校長室を訪れた。

「手紙は受け取ったな?」
「この通り」

 ダンブルドアは一通の手紙を持ち上げる。それは魔王が用意したものだ。

「……まさか、乗るとは思わなかったな」
「提案して来たのはお主じゃろう……」

 呆れた様子のダンブルドアに魔王は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。

「賢者の石は貴様の手の中か?」
「いや、フラメル夫妻と相談して破壊した」

 魔王は一瞬瞠目した後、鼻を鳴らした。

「……賢明な判断だ」
「ある程度、命の水はストックしてある」
「そうか」

 命の水に興味を示さない魔王にダンブルドアは微笑む。

「欲しがると思ったのだがのう」
「必要ないからな」
「そうか……」

 どうでもいい。魔王が心からそう思っている事を悟り、ダンブルドアは一層笑みを深めた。

「それより、魔法省はどうなっている?」
「騒いでおるが、口も手も出させんよ」
「……ハグリッドはどうなった?」
「ほう、お前さんがハグリッドの心配をするとはのう」

 魔王はうんざりしたような表情を浮かべる。

「二度目だからな……」
「今は緑豊かな場所で心を癒しておる。よもや、ハリーに糾弾されるとは思っていなかったようだからな」
「そうか……。まあ、今はヤツの事などどうでもいい」

 魔王は踵を返した。

「今夜中に決着をつけるとしよう。これ以上は目に余る」
「……ふむ、ちょっかいでも掛けてきたのかね?」

 魔王は舌を打った。

「あまりにも見苦しい。これほど近くに居ながら、俺様に気付く事さえ出来ないとは……。他者に寄生し、生き永らえる姿は我が事ながら見るに耐えん。俺様自らの手で引導を渡してやる」

 そのまま、魔王は校長室を後にした。

 ◇

 その夜、ダンブルドアは魔法省から緊急の呼び出しを受けたとしてホグワーツを発った。
 魔王はホグワーツの地下深くで待ち人を待つ。
 そして、それは現れた。

「……これは」

 数々の罠を潜り抜けた結果だろう。その男の服は所々が焼け焦げ、破れていた。
 怪我も負っているだろうに、その顔に苦痛の色は無く、ひたすら熱心に広場中央の鏡を見つめている。

「これは……、どうすれば」

 困り果てた様子だ。《みぞの鏡》と呼ばれる魔具は映す者の欲望を投影する。
 実によく考え込まれている。あれこそ、ここに安置されていた筈の宝物を守る最後の試練。
 手に入れる事を望む者は宝物を手に入れる事が出来る。だが、手に入れた後の事を考える欲深き者には手に入らないようになっている。

「……見るに耐えない醜態だな」

 魔王は男に杖を向けた。吹き飛び、壁に叩きつけられながら、男は突然の事に呆然としている。

『貴様は……、どういう事だ!?』

 男は口を開いていない。にも関わらず、どこからともなくザラザラとした声が響く。
 耳障りだ。魔王は表情を歪めた。

「何というザマだ」

 魔王は男の頭に乗っているターバンを吹き飛ばした。
 そこには髪ではなく、顔が生えていた。

「ご、御主人様!?」

 男は悲鳴を上げた。名はクィリナス・クィレル。ホグワーツで《闇の魔術に対する防衛術》を教えている教師だ。
 その後頭部に宿る顔は嘗て《闇の帝王》と呼ばれた男の残骸。
 ヴォルデモート卿は驚愕に顔を歪めている。

『貴様は俺様だな! その姿はなんだ!? 何故、俺様に杖を向けている!』

 喚き立てるヴォルデモートに魔王は舌を打つ。

「ハリーを連れて来なかった事は正解だったな。このような姿、とてもではないが見せられん」
『ハリー……、ハリーだと!? 貴様は……、まさか!』

 魔王は拍手を送った。

「安心したぞ。そこまでは耄碌していなかったか」
『……ハリー・ポッター。まさか、ヤツに屈したというのか! 我が分霊たる貴様が!』
「屈した……? 違うな。俺様が支配したのだ」
『支配……? ならば、何故、俺様の前に立つ? 貴様が我が分霊ならば、我が復活を助けろ!』
 
 その言葉に魔王は嗤った。腹を抱え、今世紀最大のジョークを聞いたように。

「手助け? 手助けと言ったか? 何故、俺様が貴様のようなチンケな絞りカスに力を貸してやらねばならんのだ?」
『なんだと!? 俺様が本体だぞ! 貴様は俺様無しでは存在し得ない。俺様が消えれば、貴様も消えるのだぞ!』

 魔王はその言葉を聞いて肩を竦めた。

「分かっているとも。だが、それがどうした? 俺様が貴様を消さない理由にはならないだろう?」

 魔王は一歩ヴォルデモート卿に向かって近づく。

『馬鹿な……。何を考えている!? 貴様、本当にハリー・ポッターに――――』
「貴様は邪魔なのだ。既にヤツの人生は回り始めている。油を差したギアのように快調に……。必要な物は揃えた。後は貴様という存在が消えれば、それで全てが上手くいく」

 近づいてくる魔王にヴォルデモートは怒号を上げる。

『ふざけるな!! クィレル!! ヤツを消せ!!』

 ヴォルデモート卿の声に反応し、クィレルは杖を振る。だが、魔王は立ち止まる事すらせず、発射された死の呪文を紙一重で避けた。

『なんだと!?』
「……死の呪文? そんなチャチな魔法で俺様を止める気か? 笑わせるなよ。貴様も俺様ならば、もう少し足掻いて見せろ!」
『クィレル!!』

 クィレルは呪文を連発する。だが、その尽くが当たらない。派手に動き回るわけでもないのに、掠りもしないとはあまりに異常だ。

『貴様……ッ!』
「ご、御主人様!! 私はどうすれば!?」

 見苦しく狼狽える主従に魔王はうんざりした表情を浮かべた。

「消え失せろ。分霊箱で繋ぎ止めていようと、悪霊の火は繋がりごと焼き尽くすぞ」

 魔王はハリーの物ではない、別の杖を振り上げた。すると、その先から無数の獣を象る業火が溢れ出した。

『なんだ……、この火は!? まさか、その杖は!!』
「御名答。最強の杖で焼かれるのだ。これはこれで、悪くない最期だとは思わないか?」

 霊廟の如き空間が業火に取り囲まれる。ただの炎ではない。それは無限の呪詛。地獄から生み出された暗黒。怨霊達の怨嗟。
 分霊箱さえ破壊する破壊の炎が魔王とクィレルを呑み込もうと蠢く。
 逃れる事など出来ない。

「……ハリー。達者で生きろ。今の貴様なら……」

 魔王の呟きが炎の中へ消えていく。

『ふざけるな!! こんな終わり方など認めてなるものか!! 愚か者め、消えるのは貴様だけだ!!』
 
 その瞬間、クィレルの体が動いた。

「なっ、何をなさるのですか、御主人様!?」

 杖がクィレルの胸に突き立ち、緑の閃光が走る。

『フハハハハハッ!! 霊体ならばホグワーツの壁すら通り抜ける事が出来る!! 最後の最後で詰めが甘かったな!!』
「なっ、貴様!!」

 魔王が杖を向けるが、その前にヴォルデモート卿の魂は地面をすり抜けて行った。

「……馬鹿な」

 炎が近づいてくる。もはや、残された時間は数秒にも満たない。
 実体化を完璧に仕上げ過ぎた。ヤツのように壁をすり抜ける事が魔王には出来なかった。

「ハリー……」

 取り逃がしてしまった。今、己が消えれば、ヤツの牙がハリーを襲う。

「……お、おのれえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!」

 そして、炎が視界を埋め尽くした。

 ……鳥のようなものと目が合った。

エピローグ『魔王の思い』

 歌声が聞こえた。忌々しいほど心安らぐ音色。これは不死鳥が奏でる唄だ。
 赤く染まった視界が唐突に切り替わる。目の前にはダンブルドアが立っていた。

 エピローグ『魔王の思い』

「その様子では失敗したようじゃな」

 どうやら、助けられたようだ。制止出来ない程の怒りが沸き起こる。
 何故、想定していなかった? 今の本体は魂の残滓。依り代さえ破壊してしまえば霊体となって壁を突き抜ける事が出来る。その可能性を見落としていた。
 挙句、ダンブルドアに借りを作ってしまった。

「……認めよう。冷静ではなかった」

 渇くのだ。ハリーと離れると、まるで砂漠に三日三晩置かれたように我慢ならない渇きを覚える。
 まるで導火線に火が点いたようだ。常に焦燥感を煽られ、苦痛が生じる。
 
「お主は怖れたのじゃな」

 ダンブルドアが見透かしたように俺様を見る。
 屈辱のあまり、その心臓に刃を突き立ててやりたくなる。

「最も怖れた死を克服して尚、ハリーと永遠に会えなくなる事を怖れた。だからこそ、無意識の内に……」
「黙れ!!」

 それでは本末転倒だ。

「万物を焼き滅ぼす《悪霊の火》。最強の名を冠し、簡単な呪文でも分霊箱を破壊出来る《ニワトコの杖》。その二つを持ってすれば、分霊箱が残っていようと本体を滅ぼす事が出来る筈だった……」

 それも確実な手とは言えない。あくまで、取り得る手段の中では一番可能性が大きなものだったというだけ。
 残る分霊箱は三つ。強行手段に訴えれば一つは確保出来る。だが、残り二つが問題だった。
 ヘルガ・ハッフルパフのカップはレストレンジに預けてあり、俺様やダンブルドアですら手出しが困難。加えて、サラザール・スリザリンのロケットペンダントは完全に行方を眩ませている。
 海岸沿いの洞窟に取りに行った時、既に持ち去られていた。恐らく、水底に沈んでいたレギュラス・ブラックが関係しているのだろうが、手掛かりは一切残されていなかった。
 
「……聞いてもよいかね? 何故、お主が本体を滅ぼす事にしたのか、その理由を」
「気にしていたのか? ホグワーツを無防備な状態に置き、《破れぬ誓い》を施したとは言え、ニワトコの杖を貸し出しておきながら」
「信用はした。理由も分かっておる。だが、お主の口から聞きたいのじゃよ。その答えによって、儂等の関係はより一層強固な絆で結ばれる」
「……貴様と絆を結ぶ気なんぞ欠片も持っていない」

 舌を打つ。

「準備が整った」
「準備とは?」

 苛々する。

「ハリーが一人で幸福に生きる為の準備だ。露頭に迷う事が無いよう、最高の守護を宿した家を作った。稼ぐ方法を教えた。困った時に役立つ魔具を作らせた。ウィリアムや貴様に会わせた。ルシウスの倅とも親交を深めている。……十分に機は熟したと判断した」
「……初めから、去るつもりだったのかね」
「当然だ」

 柄にも無く迷っていた。トロールが襲い掛かってきた時も先延ばしにしようと考えた。
 だが、俺様の存在はハリーにとって邪魔者でしかない。

「貴様はともかく、ウィリアム・ウィーズリーは信の置ける男だ。ヤツにならば任せておけると判断を下した。ならば、後は俺様が消える事で全て上手くいく。そうだ……、俺様が奪ったものを取り戻せる筈なのだ!」
「……何がそこまでお主を変えた?」
「分かっているのだろう?」

 ダンブルドアは目を細めた。

「リリーの加護がお主の中で息づいておるのだな?」
「……そうだ」

 俺様は初め、意識の欠片すら留める事の出来ない脆弱な存在だった。
 意図に反した分霊箱の作成が原因なのだろう。暗闇の中、思考する事もなく漂っていた。
 
「ハリーが助けを求めて来た時、初めて俺様自身を自覚した。伸びてくる細い手を取り、その全てを捧げるように言った」

――――【助けて……】
――――【……ならば、寄越せ】
――――【何を渡せばいいの……?】
――――【貴様の魂。貴様の全て】
――――【それを渡せば、僕を助けてくれるの?】
――――【助けてやる】
――――【……なら、あげるよ。僕のすべてをあげる】
――――【ああ、それでいい】

 あの時、ハリーの一部が俺様の中に入って来た。リリー・ポッターが施した加護、ハリー・ポッターという幼子の魂。
 俺様の心の片隅でリリーの意思が鼓動している。その鼓動はハリーとの繋がりから流れ込んでくるハリーの感情を受ける度に大きく脈動する。

「まるで呪いだな。心を侵食する恐ろしき呪詛だ」
「だが、リリーは単なる切っ掛けを与えただけじゃ。お主自身がリリーになったわけでは無かろう?」
「当たり前だ! ……だが、切っ掛け程度で十分過ぎた」

 今やハリーを苦しめる元凶が俺様自身である事に苦痛を感じている。
 だからこそ、本体と諸共に消し飛ぶつもりだった。

「お主が消えれば、ハリーは悲しむじゃろう」
「……いずれ、新たな思い出の中に埋没していく」
「それほど軽い存在では無かろう」

 鼻を鳴らすと立ち上がった。

「話はここまでだ」

 《破れぬ誓い》に従い、ニワトコの杖を投げ返す。
 振り返り、ダンブルドアが何を言おうと、もう振り返らなかった。

「……まだ、もうしばらくは面倒を見てやるとするか」

第一話『鼓動』

 ハリー・ポッター。二年前に行方を眩ませ、魔法省を騒がせた子供。彼が今年突然ホグワーツに入学したと聞いた時は驚いたものだが、息子のドラコが彼を家に招待したと手紙を送って来た時の衝撃はそれを遥かに上回った。
 闇の帝王を滅ぼした子供。そのネームバリューはまさしく桁違いだ。その覇名を上手く扱えば、大いなる力となる。故に手元に置きたいと思う者は少なくない。
 だが、彼の事はアルバス・ダンブルドアに一任されている。相手は世界を二分する程の力の持ち主。誰もが手をこまねいていた。
 そこへ訪れた此度の好機。何としても、ハリー・ポッターを我がマルフォイ家のものにしたい。

「……幸い、彼はドラコに懐いていた」

 ある程度の帝王学は学ばせていたが、思いの外、ドラコはハリーを巧く手懐けていた。
 風の噂でダンブルドアの狗であるルビウス・ハグリッドがホグワーツから追放された事を聞いたが、そこに彼ら二人が関与していたらしい。
 理由を聞くと、非常に健全なもので、ハグリッドに下された処罰も適切なものだった。その時に友情を深め合ったらしい。

「ダンブルドアを失墜させる事も考えたが……」

 嘗て、闇の帝王から渡された一冊の本を取り出す。これを使えばホグワーツに大きな混乱を巻き起こす事が出来る。
 だが、ドラコがこのままハリーを籠絡する事が出来るようなら無用なリスクを負う必要もない。

「……待て」

 おかしい。何故、私はこの本を手に取っている? これは地下で厳重に保管していたものだ。
 それが机の引き出しに入っていた。それを私は知っていた。だが、移動した記憶がない。

「私は……」

 いや、何も不思議な事などない。これはここにあるべきなのだ。
 私はこれを息子に渡さなければならない。そして、魂を捧げなければならない。
 理由など必要ない。私はそうしなければならない――――……。

 第一話『鼓動』

 魔王は約束通り帰って来た。ドラコが眠った後、気付いたらベッドの横にいた。

「魔王!」

 起き上がろうとしたら、魔王に肩を押さえられた。

「魔王……?」

 魔王は不思議な表情を浮かべて僕を見つめると、僕の中へ戻って行った。

「おかえり、魔王」
『……ただいま』

 驚いた。魔王がただいまって言った。いつもなら鼻を鳴らすか、黙っているところなのに。

「何かあったの?」
『貴様が気にするような事ではない』
「魔王……」

 魔王の心が揺れている。今までも微かに感じていた彼の感情がはっきりと分かる。分霊箱で彼の力が増したからかもしれない。
 ベッドに横たわり、瞼を閉じる。暗闇の中、僕は魔王の名を呼んだ。

『……お前の方から来たのは初めてだな』
「う、うん」

 青白い光に満たされた部屋。ここは魔王が創り出した精神世界だ。隠れ穴から逃げ出す時に使って以来、四回目になる。
 いつもは魔王に呼ばれて、ここを訪れる。

「迷惑だった……?」
『入れたのは俺様だ。一々、要らぬ気遣いをするな』
「うん……」
『それで?』
「え?」
『何か用があったから、ここに来たのではないのか?』

 魔王の顔を見る。少し疲れているみたいだ。

「何があったの……?」
『言った筈だぞ。貴様が気にするような事は何もなかった』
「でも、すごく辛そうにしてる」
『……教訓を得た』
「教訓?」
『俺様は貴様から離れられないという事だ』

 よく分からない。

「……離れようとしたの?」
『ちょっとした実験だ。そう睨むな』
「だって……」
『それより、俺様が不在の間に起きた事を聞かせろ。何か問題は起きたか?』

 話を逸らされた。不満をぶつけても魔王はのらりくらりと躱す。
 結局、マルフォイ邸で過ごした一日を彼に話している内に疲れてきてしまい、僕は眠ってしまった。
 
 ◆

 ハリーが僕の家に来て、数日が経った。我が家の屋敷しもべ妖精を紹介したり、敷地内で飛行訓練の練習に明け暮れていると時間の流れがとても早く感じる。
 楽しくてたまらない。ハリーは今まで僕の周りに居なかったタイプの人間だ。それは英雄という意味じゃない。
 媚びへつらう事もなく、だけど、僕の事を軽んじたりもしない。ただ、僕と一緒にいる時間を楽しんでくれる。
 本当の意味で、僕は《友達》を初めて手に入れた。
 
「ハリー。今日もアレをやらないかい?」
「いいよ。今日はどんな物にしようかなー」

 ハリーは頭も良い。魔具の作成という希有な才能も有している。庭に生えている木に店で量り売りされているような素材を組み合わせて、星屑を生み出す杖を作り出した時は感動したものだ。僕も揃いの物を自分の手で組み上げた。これが思いの外楽しくて、夢中になった。
 職人という家業を馬鹿にしていた。知れば識るほど、魔具制作は奥が深い。休暇中に作った物はどれも子供の玩具レベルだけど、それでも僕にとっては宝石のようだった。
 これをあのウスノロウィーズリーに見せてやれば、さぞ悔しがる事だろう。ハリーを僕の家に連れて行く事を話した時の奴の絶望的な表情と来たら、今思い出しても笑いが込み上げてくる。
 特別な時間が流れた。まるで、マルフォイ家の長男としてではなく、ドラコという一個人を認めてもらった気がした。

 そして、休暇が終わりを迎える。暖炉の前で僕とハリーは両親に別れの挨拶をした。
 ずっとハリーと遊んでいたから、あまり二人と顔を合わせていなかったけど、よく見れば二人が少し痩せたように見えた。

「父上。母上。どうか、お元気で」
「お世話になりました」

 揃って頭を下げると、父上は僕の頭を撫でた。

「お前の事だ。要らぬ心配だろうが、達者でな」
「はい!」

 先にハリーが暖炉へ消えていく。僕も後に続こうと暖炉へ歩むと、直前になって父上に呼び止められた。

「忘れていた。お前に渡しておきたい物があるんだ」

 そう言って、父上は一冊の本を僕に持たせた。小汚い古びた日記帳のようなもの。

「これは?」
「きっと、お前の役に立つ筈だ」

 よく分からない。だが、父上の事だから、何か考えがあっての事だろう。

「ありがとうございます」

 礼を言って、改めて暖炉へ入る。

「ホグワーツ魔法魔術学校!」

 景色が変わる。僕は数日振りにホグワーツへ帰還した。

第二話『三番目の意思』

 最近、ドラコの様子がおかしい。
 目の下に隈を作り、体も痩せ細っている。明らかに異常だ。

「ねえ、保健室に行こうよ!」
「……必要無い。ちょっと、寝付きが悪いだけなんだ」
「ダメだよ! 最近、鏡は見た? ドラコ、酷い顔をしているよ」
「うるさいな……」
「え……?」

 ドラコは鬱陶しげに僕を睨みつけた。

「放っておいてくれよ。君には関係の無い事なんだ」

 そう言い残すと、ドラコは僕から離れて行った。
 関係ない。その言葉が胸に突き刺さる。

「なんで……、みんな」

 魔王も僕から離れた日の事を未だに話してくれない。
 僕は無関係。そう言って、教えてくれない。
 心が揺れる。

「……もう、知らない!」

 それ以来、僕はドラコと口を聞いていない。寝室でも互いに口を開かず、そして……。

 第二話『三番目の意思』

 二年前、当時の魔法界は緊張状態が続いていた。ハリー・ポッターの失踪。そして、その一件から掘り起こされた彼に対する養父母の虐待行為。
 原因となった闇祓い局局長ルーファス・スクリムジョールとホグワーツ魔法魔術学校校長アルバス・ダンブルドアは責任を追求されていた。
 それはルシウス・マルフォイにとって、一つの好機だった。
 彼にとって、ダンブルドアはホグワーツの校長として相応しくない人物だ。前校長アーマンド・ディペットから校長職を受け継いだ途端、それまでの純血優遇思想を撤廃し、マグル生まれに対して贔屓を行うようになった。
 何者にも平等にチャンスを与える。別け隔てなく接する慈愛に満ちた人物。そうした彼に対する評価を聞く度に反吐が出た。あの男はむしろ純血主義者を軽んじている。そうした思想を悪と断じ、差別している。
 薄汚い|蛆虫《マグルうまれ》共はそうしたヤツの思想を持て囃し、血を裏切る者達も賛同した。嘗て、我らの同胞を殺す事を正義としたマグル共に媚び諂い、血を薄めていく愚か者共。
 この好機を逃すわけにはいかなかった。ダンブルドアを失脚させ、真に相応しき者に校長の座を授ける。その為にハリー・ポッターが失踪した時、彼は地下の封印を解いた。
 
『……二年間、色々とルシウスやドビーに調べさせたよ。そのおかげで、今の状況を正確に分析する事が出来た』

 地下に封印されていた一冊の本。それは闇の帝王がルシウスに託した分霊箱だった。その内に潜む、若かりし頃のヴォルデモート卿の意思はドラコ・マルフォイに囁きかける。

『実に興味深い。元々は一人の人間だった。それが二つの意思に分かれ、敵対している。現在の所、ハリー・ポッターに憑依している方の意思が一歩優位に立っているね』
「……なにをするつもりですか?」

 震えながら、ドラコはヴォルデモート卿を睨みつける。
 その瞳に宿る意思に彼は笑みを浮かべる。

『中々の気骨だ。凡愚共とは違うな、ドラコ。安心するといい。今のところ、ハリー・ポッターに手を出す気はない。それよりも、力を付ける事の方が大切だからな』
「……僕の父上や母上の魂を散々喰らっておきながら、まだ足りないと!?」

 怒りを滲ませるドラコの叫びを受け流し、ヴォルデモート卿は言う。

『ああ、足りないな。全然足りないよ。本体や魔王と呼ばれている意思に対抗する為には』
「あなたの目的は何なんだ!?」
『もちろん、ヴォルデモート卿の復活。そして、真なる理想郷の実現。その為に必要な事をするだけだよ』
「理想郷……?」
『純血主義を尊び、穢れた血を徹底的に排除する。魔法界をあるべき姿に戻すのだ。そして、いずれは表世界を我が物顔で歩く蛆虫共を排除し、理想の世界を作り出す』

 それは純血主義を掲げる者達の理想。混ざり者を淘汰し、表の世界を取り戻す。

「だけど、それは……」

 あまりに現実味のない夢物語だ。
 嘗て、ゲラート・グリンデルバルドという闇の魔法使いがその野望を掲げ、魔法界に革命を起こそうとした事がある。
 私設監獄ヌルメンガードの建設、マグルや魔法使いの大量殺戮など、大規模な事件を起こした彼も最期は野望を成し遂げる事もなく牢獄に繋がれた。
 目の前の男も結局は野望を断たれた。
 最悪、最強と謳われた者達でさえこれなのだ。

『結局の所、ダンブルドアなんだよ。ヤツを殺す事さえ出来れば、後はどうとでもなる。実際、グリンデルバルドもヴォルデモート卿も実質的にはダンブルドアに敗れた』
「……つまり、ダンブルドアには誰も勝てないって事じゃないか」
『そうかな? ボクはそう思わない。未来のボクはグリンデルバルドと同じ過ちを繰り返した。歳を取って、耄碌したのかもね。だけど、今のボクなら彼を打ち倒す事が出来る』

 その自身に満ち溢れた表情にドラコは不安を抱いた。この男ならば、本当に成し遂げてしまいそうだと……。

「どうするつもりなんだ……?」
『まずは手駒の確保だね。《千里の道も一歩から》さ。やる事は山程ある。一緒に頑張っていこうじゃないか』
「……もう、父上や母上には手を出さないでくれ」

 絞り出すようなドラコの言葉にヴォルデモート卿は微笑んだ。

『ダメダメダメダメ』

 人差し指を振りながら、楽しそうに言う。

『君の両親の立場は実に便利だからね』
「お、お前!!」
『……まあ、君の態度次第で命だけは助けてあげられるかもしれないね』

 ドラコは煮え滾るような感情を必死に押さえた。

「僕にどうしろと?」
『とりあえず、夏休みに山を登ろうじゃないか』
「山……?」

 困惑するドラコにヴォルデモート卿は言った。

『まずはハグリッドだ。アレはウスノロだけどダンブルドアに対して有効な手札になる』

 ドラコは父を思った。母を思った。大切な友を思った。

「……ハリーを殺すのか?」
『まさか! それは……まあ、無いとは言わないけど、ほぼ無いと言い切っていいよ。むしろ、魔王という異物を取り除いてあげよう。後は君の望む通りにしてやればいい。なんならペットにでもしてみればいいんじゃないか? 魔法界の英雄を従順な下僕にする。実に爽快な気分だと思うよ』
「……ゲス野郎」

 ドラコの憎しみの篭った視線を心地よさそうに受け止め、ヴォルデモート卿は言う。

『ボクが世界を正してやる』

第三話『不穏』

 冬が過ぎ、春が終わろうとしている。荷物を纏めながら、ドラコを見つめる。結局、あれからずっと話をしていない。
 一時期より大分持ち直したみたいだけど、相変わらず不健康そうな顔をしている。

「……ねえ、ドラコ」

 思い切って、話し掛けてみた。

「なんだい?」

 無視されるかと思った。だけど、ドラコはすぐに返事をしてくれた。
 ホッとしたのも束の間、話す内容を決めていない事に気付いた。
 困っていると、ドラコがクスリと微笑む。

「ハリー。怪我とかしないようにね」
「……それは、こっちのセリフだよ。怪我や病気に気をつけてね」
「うん。ありがとう、ハリー」

 その笑顔を見て、何故か不安になった。

「ぜ、絶対だよ?」
「ああ、約束するよ」

 どうしてだろう。違和感を感じる。まるで、作り物を相手にしているみたいだ。
 
 第三話『不穏』

「ほら、そろそろ汽車の時間が迫ってる。そろそろ出ようよ」

 トランクを運び出すドラコ。慌てて追いかける。
 ホグズミード駅に到着するまで、ほとんど会話が出来なかった。

「すまない、ハリー。ここでお別れだ」
「え?」

 汽車に乗る直前、ドラコは言った。その足でスリザリンの制服を着た一団と合流する。
 その一団を見た途端、言い知れない悪寒を感じた。彼らの顔はロウのように血の気を失い、仮面のような無表情を浮かべている。
 顔見知りの筈なのに、まったく知らない人のように感じる。

「ま、待って、ドラコ!」
「ハリー」

 ドラコは作り笑いを浮かべて言った。

「さようなら」

 そう言って、一団と共に汽車に乗り込む。
 僕は立ち竦んだ。漸く、自分が拒絶された事を悟った。

「……なんで?」

 足元がグラつく。休暇中まで僕達は良き友人だった筈なのに、どうして……。
 
「おっと、危ない」

 足がもつれた。倒れ込みそうになった所をジョージが受け止めてくれた。

「ジョージ……」

 泣きそうになった。

「……どうかしたの?」

 フレッドが心配そうに顔を覗きこんでくる。
 
「とりあえず、コンパートメントに」

 ジョージは僕のトランクとヘドウィグの籠を掴んだ。

「荷物は僕が預けてくるから」
「あっ……」
「ハリーはこっち」

 問答無用で手を引かれ、僕は空いているコンパートメントに連れ込まれた。しばらくすると、ジョージが戻ってくる。
 
「なにがあったの?」

 ジョージの言葉に堰き止めていたものが決壊した。
 休暇以降のドラコの態度。彼が僕を拒絶した事。気付けば洗い浚い話していた。

「……あの野郎」

 フレッドは怖い表情を浮かべた。

「ハリーはどうしたいの?」

 ジョージは穏やかな表情で僕に問い掛けた。

「……ドラコと仲良くしたい」
「そっか」
「別にあんな野郎と仲良くしなくても……」

 フレッドは不満そう。

「なら、俺だけでハリーの仲直りを手伝うよ」
「なっ!?」

 ニコニコ笑顔を浮かべるジョージにフレッドはショックを受けた表情を浮かべる。

「俺もアイツの事やアイツのした事は良く思ってないさ。けど、ハリーが仲直りしたいって言うなら協力する」
「ジョージ……」
「だから、ほら」

 ジョージはハンカチを差し出して来た。

「涙を拭いてよ」

 そのハンカチをフレッドが奪い取り、僕の涙を優しく拭いた。

「お、俺も協力するから!」
「う、うん。ありがとう……」

 何故かジョージを睨みながら言うフレッドに苦笑する。

「よーし! じゃあ、早速アイツのコンパートメントに乗り込んでくるか!」
「え? 別に今直ぐじゃなくてもいいよね?」

 いきり立つフレッドを尻目にジョージが言う。

「えっ?」

 フレッドは困惑している。

「少し時間を置いた方が仲直りもし易いと思うんだ。それまでは僕達でハリーを独占させてもらおうよ」

 ジョージは手を叩いた。

「あっ、でも、フレッドがどうしても行きたいって言うなら止めないよ? 俺はハリーと留守番してるから」
「えっ?」

 フレッドはジョージを見た。僕もジョージを見た。
 なんでだろう、冷や汗が出た。

「い、いや、俺だってハリーと話がしたいんだ! 学年どころか寮まで違うせいで全然遊べなかったんだからさ!」
 
 開けかけた扉を勢い良く閉めて、フレッドが戻って来た。
 その後は暗くなる暇も無いくらい楽しい時間を過ごした。

 ◆

 魔王は苦悩していた。ドラコ・マルフォイの変心。その理由は十中八九、ルシウス・マルフォイに預けた分霊箱によるものだ。
 アレは若き日の記憶を魂の一部と共に吹き込み作り上げた。ルシウスとナルシッサの様子から見て、既に相当な量の魂を取り込んでいる。
 敵対するとなれば、相応の準備が必要になる。ダンブルドアには警戒を促してあるが、下手を打てばハリーに危険が及ぶ可能性が高い。
 手駒のドラコをハリーから離そうとしている以上、ハリーに手を出す気は無いという事だろう。今のところは……。
 
『蘇りの石やロウェナ・レイブンクローの髪飾りは無防備故に難なく取り込む事が出来たが、アレは意思を留められぬ程のダメージを与える必要がある。日記を確保する事が最も現実的だが、同時に最も警戒されている点だろうな』

 気軽に手を出す事も出来ないが、いつまでも放置しているわけにもいかない。
 本体を復活させる為に動くかもしれない。自らが本体に成り代わろうとするかもしれない。いずれにしても、アレは他の分霊箱と大きく異なる性質を持っている。
 ダンブルドアに警戒を促しておいたが……。

『ウィリアムを雇うか……』

第四話『メゾン・ド・ノエル』

 髪はブラックのシュシュで纏め、ワインレッドとブラックのチェックドレスに袖を通し、エプロンを付ける。いつでも顔を隠せるようにフード付きのケープを羽織り、リボンで固定して完成。
 魔王がデザインして、魔王が魔法で作った制服だ。女の子用の服だけど、正体を隠す為だから仕方がない。まあ、今は正体を隠す必要も無いけど、常連さんが混乱しちゃうから名前もノエル・ミラーのままで通す予定。
 鏡で身だしなみをチェックする。笑顔の練習もして部屋を出る。階段を降りると仕込み作業をしているワームテールがいた。

「おはようございます!」
「おはよう、ワームテール! 久しぶりの仕事だね!」
「腕が鳴りますよ!」

 ワームテールはホグワーツで過ごす間も時間を無駄にしていなかったみたい。幾つもの新商品を考案し、魔王にプレゼンテーションをしていた。
 幾つかは没になったけど、採用になったものも多い。輸入品を取り扱っている店から仕入れた明太子を使ったソースをフランスパンに塗ったパンは最高に美味しかった。
 店に行くと、バターロールの生地やデニッシュの生地で作った新発売の食パンを魔王が魔法でスライスしていた。6枚切りが一番たくさん売れる。

「おはよう、魔王!」
「おはよう」

 最近、魔王はキッチリ挨拶を返してくれる。嬉しくなって、頬が緩んだ。

「ウィリアムが店の前を掃除しているぞ」
「はーい! 挨拶してくるね!」

 外に出ると、ビルがアンネお婆ちゃんと話をしていた。
 ビルは魔王がスカウトしたみたい。ダンブルドアの秘書が本業だけど、夏休みの間はこの店でアルバイトをしてくれる事になった。

「おはよう、ビル! アンネお婆ちゃんもおはようございます!」
「おはよう、ノエル。制服がよく似合ってるね」
「おはよう、ノエルちゃん。ああ、今日からまたこのお店のパンを食べられるのね! 待ち切れなくて、来ちゃったわ」 

 お店の掃除や材料の調達で再開に一週間も掛かってしまった。アンネお婆ちゃんは再開の日をずっと待ってくれていた。
 
「ワームテールが新商品を作ったの! すっごく、美味しいんだよ!」
「まあ、それは楽しみだわ!」

 僕は店の看板を見上げた。《メゾン・ド・ノエル》。それがこの店の名前だ。
 フランス語で、意味はそのまま《|ノエル《ぼく》の家》。
 店のシャッターを開け、自動ドアのスイッチを入れる。ビルが掃除を終えて中に入ると、丁度、時計が開店の時刻を指した。
 鳥の鳴き声が響き渡る。それが開店の合図だ。

「いらっしゃいませ! 《メゾン・ド・ノエル》にようこそ!」

 第四話『メゾン・ド・ノエル』

 初日は思った以上に大盛況だった。常連さんは一年経っても変わらず買いに来てくれた。フランクおじさんなど、新商品を一揃いと大好物の塩パンを二十個も買ってくれた。
 ビルは初めての作業にも関わらず、接客や品出し、レジ打ちまで完璧にこなしてくれた。
 夕方、空が茜色に染まり始めた頃、パンも売り切れて店仕舞い。今日の売上は98万円ちょっと。魔王が真剣な表情で売上の計算をしている。

「完璧だ。見事だぞ、ウィリアム。ワームテールとは大違いだ! ヤツは商品の値段を日に五度は間違える上、釣り銭も間違えるからな」

 魔王は優秀な従業員にご満悦だ。
 店は基本的に週休2日。週末は休みにしている。だから、金曜日は特に大忙し。常連さんは休日分も買って行ってくれるから客単価が増えて、売上が100万を超える事もしょっちゅうだ。
 そして迎える休日。ポケットにワームテールを入れて、ビルや魔王と一緒に出掛ける。土曜日は魔法関係の事に使う。魔法学校に入学した未成年の魔法使いは基本的に外で魔法を使ってはいけないのだけど、監督者が居れば話は別。ビルが近くにいれば堂々と魔法を使える。
 以前みたいにドラゴンの棲息域には中々行けなくなったけど、魔具の作成に使う素材集めは何も立ち入り禁止区域のみにあるわけじゃない。
 素材を集め終えたら魔具の作成に入る。一日で出来るものもあれば、平日でも仕事が終わった後に続きを行う事もある。ビルは魔具の作成に興味を示して、僕と一緒に魔王から教えを受けるようになった。
 日曜日はレジャーの日。どこに行くかは僕が決める。遊園地でも、海でも、山でも、どこにだって魔王が連れて行ってくれる。

「……なんだ、その目は」
「いえいえ、なんでもありませんよ」

 魔王とビルはとても仲が良い。互いに認め合っている感じ。時々、両方に嫉妬してしまう事がある。
 そういう時はワームテールに話を聞いてもらっている。ワームテールはいつだって僕を一番にしてくれる。
 実は最近、ワームテールから動物になる方法を教えてもらっている。過去の記憶がないせいか、理論的とは言えない教え方だけど、段々とコツが掴め始めている。
 どういう動物になるかは本人の資質次第みたいで選択する事は出来ないみたい。
 出来ればライオンとかウマみたいなかっこいい動物がいいんだけど。
 
 そうこうしている内、飛ぶように時間が過ぎた。気付けば誕生日を迎え、ワームテールが焼いてくれたケーキでお祝いをした。
 魔王は小さな卵をくれて、ビルはニンバス2001という箒をくれた。本当はドラコと見に行くはずだったのに彼から連絡が来ない。此方から手紙を送っても返事すら返って来ない。
 他にもロン、フレッド、ジョージ、チャーリー、モリー、ハーマイオニー、ネビル、ロイド、アラン、パンジー、ミリセント、ダフネ、マリア、フレデリカから届いた。
 一つだけ差出人不明のプレゼントが届いたけど、魔王はそれがダンブルドアからの物だと直ぐに見抜いた。中身は透明マントという姿を消す事が出来る魔具。とても珍しい物で、ポッター家に伝わっていた物を預かっていたらしい。

 夏休みも残り一週間に迫った日、ロンから手紙が届いた。

《フレッドとジョージがうるさいんだ。ねえ、君の家に行ってもいい? パパがハリーの安全の為に行くべきじゃないって言うんだけど……》

 その手紙を魔王に見せると、『別に構わない。だが、ビルを迎えに行かせろ』と言ってくれた。
 手紙の返事をヘドウィグに持たせて、ビルに迎えに行くよう頼むと、二つ返事で了解してくれた。
 その翌日、メゾン・ド・ノエルの従業員が三人増えた。

第五話『メゾン・ド・ノエルⅡ』

 ロン達が来たのは閉店後の事だった。ワームテールと一緒に歓迎用の料理を作り、二階にあるリビングの飾り付けをしているとビルが彼らを連れて入って来た。
 この店には魔王がたくさんの呪文を掛けている。普通の魔法使いの棲家とは違い、マグルには見えるけど、魔法使いには見えないようになっている。ビルが僕を迎えに来た時は例外として魔王が通しただけ。
 一階に降りて行くと、ロン、フレッド、ジョージの三人が店内を不思議そうに見回していた。

「いらっしゃい!」

 声を掛けると、三人は目を丸くした。どうやら、マグルの服装が珍しいみたい。
 魔王やビルは難なくマグルのファッションを着こなしているけど、魔法使いとマグルのファッションセンスには大きな隔たりを感じる。

「ほら、三人共! 二階に来て! 歓迎の準備をしてたんだ」

 一番近くに立っていたジョージの手を引いて、三人を二階に案内する。一階は店舗と工房、ワームテールのプライベートスペースだけで、住居スペースは二階から三階までだ。
 それぞれの階層にも魔王が新たに呪文を追加している。分霊箱の一つを取り込んだ事で力が増幅され、出来る事が増えたからだ。
 階段を登り切った所に扉があって、ドアノブを持ちながら念じた部屋に繋がる。部屋の種類はリビング、書斎、倉庫、魔具工房、遊戯室、衣装部屋の六つ。中に人が居るときは変えられない。
 三階に登ると、今度は扉が三つある。以前までは僕の部屋とバスルームだけだったけど、昨日新たに客室が追加された。空間を拡張する呪文のおかげで一つ一つの部屋がとても大きい。
 どうやら《必要の部屋》をモデルに試行錯誤して作ったみたい。

『俺様に不可能はない』

 会心の出来だったみたいで、満足そうに魔王は言った。
 ちなみに魔王とビルは僕の部屋で寝泊まりしている。

「なんか、凄いね」

 ジョージはオープンキッチンを備えたリビングを見回しながら言った。パン屋を経営する事に決めた後、魔王は悩みに悩んだ挙句、工房にマグルの機械を導入した。窯は石窯を使っているけど、ミキサーやホイロは必須だった。それで吹っ切れたのか、最先端のシステムキッチンをここに置いてくれた。
 隠れ穴みたいなアナログキッチンだと僕には少し荷が重かったから助かった。ワームテールにばかり負担を掛けるのも可哀想だったし……。
 
「さあ、座って! ジュースを持ってくるね」

 大容量の冷蔵庫からキンキンに冷えたジュースを取り出す。オレンジジュース、コーラ、自家製カボチャジュース。
 驚いた事にロン達はコーラを知らなかった。魔法界で炭酸といえば|お酒《エール》を意味する。

「あれ? ワームテール! どこに行ったの?」

 さっきまで一緒に準備をしていたワームテールがいない。

『ヤツなら小僧共を不快にさせたくないと部屋に戻ったぞ』
「えー……」

 たしかにロン達とワームテールが再会した時の事を思い出すと仕方のない事かもしれないけど、これからはしょっちゅう顔を合わせる事になるのに……。

「魔王も出て来てよ」
『……断る』
「なんで?」
『面倒だ。それに騒がしい席は嫌いだ』
「好き嫌いしちゃダメだよ。魔王もこれからみんなと顔を合わせる機会も増えるんだから!」

 今度は黙秘権を行使し始めた。僕は頬を膨らませながら、みんなに断って一階に降りた。ワームテールの自室に行くと、歓迎用に作った食事を前に満面の笑みを浮かべている彼がいた。

「ご、ご主人様!? いや、あのこれは……」
「ほら、行くよ!」

 ワームテールの首根っこを掴んで引き摺る。グダグダ何かを言ってるけど無視だ。

「魔王も出て来てよ!」
『……だから、俺様は』
「いいから出て来てよ! 僕の家族を紹介したいの!」

 ワームテールは暴れる事をやめた。魔王も僕の中から出て来る。

「……仕方のないヤツだ」

 初めから素直に出てくればいいものを……。

「おまたせ!」
 
 リビングに戻ると、ロン達はビルからお説教を受けていた。どうやら、つまみ食いをしようとしていたみたい。

「あっ、スキャバーズ!」

 ワームテールは気まずそうな顔でロンに手を振る。
 ロンも複雑そうな表情を浮かべながら手を振り返した。

「ひ、久し振りだね」
「ど、どうも」

 お互いに距離感を伺っているみたいだ。折角だから隣同士の席にしてあげた。

「えっと、こんにちは」

 ジョージは魔王に向かって戸惑いげに挨拶をした。

「えっと、誰?」

 フレッドは目を丸くしている。

「……ニコラス・ミラー。この子の世話をしている。よろしく頼む」

 ノエルとニコラス。僕達の偽名は両方共、フランス語でクリスマスを意味している。
 
「ジョージです」
「フレッドです!」
「ロ、ロン・ウィーズリーです」
「ああ、君達の事はウィリアムから聞いている。歓迎するから、寛いでくれたまえ」

 そう言って、魔王は僕の隣に座った。
 歓迎会は大成功だった。ワームテールはロンと打ち解ける事が出来たみたい。クィディッチの話題で盛り上がっている。 
 フレッドとジョージは夏休みの間に開発した悪戯グッズについて熱く語ってくれた。僕の魔具作りにも参考になる話が多くて、魔王でさえ感心していた。

「奇抜な考え方だな。だが、面白い」

 魔王は双子の事を気に入ったみたい。悪戯グッズの開発にアドバイスを送り、休暇中は僕やビルと一緒に魔具制作を教える事を約束した。
 
 第五話『メゾン・ド・ノエルⅡ』

 三人共、僕の制服を見た瞬間顔を七変化させた。最初は赤くなり、次に青くなる。

「ぼ、僕達もそれを着るの?」

 恐怖に怯えるロンを安心させるようにワームテールが彼らの制服を運んでくる。

「お三方には此方を」

 三人には魔王やビルと同じ制服。白地の上下と茶色の前掛け。僕の制服と比べるとすごくシンプルなデザイン。

「僕のは正体を隠すためって部分が大きいからね」
「そっか……、そうだったね」

 ジョージは落ち込んだように言った。

「いや、でもこれは……」
「この制服って、ニコラスさんがデザインしたんだよね?」

 フレッドとロンが僕の制服をジロジロと見てくる。

「や、やっぱり、変かな?」
「いや、最高だ!」
「似合ってはいるね……」

 とりあえず、似合っていないわけじゃないみたい。まあ、お客様からも《似合ってる》と《可愛い》しか言われた事がないから当たり前だね。

「よーっし! 開店だよ!」

 結果として、戦力になったのはジョージだけだった。ロンは途中からウダウダ言い始めるし、フレッドはふざけ始めるから魔王に追い出された。
 ジョージも一緒になってふざけ始めるかと思ったけど、彼は最後まで完璧に仕事をやり遂げた。
 バイト代はキッチリ払ったけど、途中退場の二人はガッカリと肩を落としている。対照的にジョージはほくほく顔だ。
 翌日からは二人共サボらずに働いてくれるようになった。ビルとジョージからチクチク言われたみたい。魔王も特に追い出したりはしなかった。

 土曜日は人数の増えた魔具制作講座。今まで作って来た物とは一風変わった物を作る事が増えた。
 アイデアはフレッドとジョージ。それを魔王が形にする。二人はすっかり魔王を尊敬するようになった。
 どんな無茶も簡単に叶える魔王を神様と崇める程だ。

 日曜日はみんなでバカンス。魔王とビルに無人島へ連れて来てもらい、泡頭呪文を使って水中探索をしたり、土曜日の魔具制作で作った水上を滑るソリで競争したり、魔王が教えてくれた呪文を試して過ごした。
 
「やっばいな! 超楽しい!」
 
 フレッドは砂浜に寝転びながら叫んだ。
 ジョージとロンも御満悦の様子だ。
 そうして、楽しい日々が続いていく。

 ある日、ジョージが僕に話し掛けて来た。

「ねえ、ニコラスは何者なの?」

 もうすぐ夏も終わる。またしばらく閉店する事を常連さん達に告げて回り、ようやく落ち着いたところだった。
 ジョージは心配そうに僕を見つめている。

「その制服で正体を隠してたって言ったよね? それって、彼は正体を隠している間も一緒に居たって事だよね?」

 動く事が出来なくなるほど驚いた。不信に思っているような様子を一欠片も見せなかったのに……。

「……別に詮索したいわけじゃないんだ。それに、兄さんや君が信頼している以上、僕が何か言うのはお門違いなのかもしれないけどさ」

 ジョージはどこか悔しそうに言った。

「何者なのか知りたい。君にとって、彼はどんな人物なの?」

 いつもと違う。ふざけた様子など欠片も見せず、その瞳はどこまでも真剣だ。

「……ごめんなさい」

 だからこそ、言えない。魔王の正体は魔法界において|禁忌《タブー》だ。

「そっか……。俺はまだ君の信頼を勝ち取れてないんだね」
「そんな事は……っ!」

 ジョージは僕の頭に手を乗せた。

「いつか、信頼してもらえるよう頑張るよ」

 ジョージは寂しそうに言った。僕は彼に何も答える事が出来なかった……。

第六話『邪悪』

 第六話『邪悪』

 僕は真の悪意というものを知らなかった。僅か一月の間に作り上げられた地下の聖堂。その中央で男は人間を壊している。
 感情を司る部位を脳から切除して、代わりに呪いを注ぎ込む。
 瞳から光を失った男女の数は三十七人。
 
「老いとは恐ろしいものだね」

 男は言った。

「ヴォルデモート卿は先人と同じ過ちを犯した。何故かな?」
「……知るもんか」

 吐き捨てるように言うと、男は笑った。

「孤独を怖れたからだよ」
「孤独を……?」
「そうさ。闇の帝王とまで謳われた男が、実際は孤独に怯える憐れな老人だったのさ。だからこそ、彼が肉体を失った時、裏切り者が続出した。忠誠心なんてあやふやなものを信じたからこそ、彼は今も醜い姿で彷徨い続けている」

 男は壊したばかりの男を床に転がし、近くのテーブルに乗っているチェス盤からキングを持ち上げた。

「人間は弱い。ちょっとの事で心が揺れる。決意が鈍る。意思が砕ける。愛、友情、忠誠、敬意……敵意でさえ、簡単にブレてしまう。そんなものを信じるから失敗するんだ。仲間だとか、配下だとか、実にバカバカしい。キングになってどうする。なるなら、指し手になるべきだ」

 キングの駒を僕に向かって放り投げる。キャッチすると、男は微笑んだ。

「キングもポーンも総じて駒さ」
「……僕も駒なら壊したらどうだ?」

 睨みつけると、男は吹き出した。

「アッハッハッハ! プルプルと震えながら何を言っているんだい? 学生である君にそんな酷い真似が出来るわけないじゃないか」

 心にもない事を言う。この男は既にマグルの少年少女を何人も壊している。その内の数人は壊し方を確かめる為の生贄だった。
 
「君には重要な仕事がある。壊れた人形には到底出来ない、アルバス・ダンブルドアを消し去る上でとても重要な仕事が」
「……僕に何をさせるつもりなんだ?」
「難しい事は何もないよ。君はただ、普通に生活しているだけでいい。それだけでダンブルドアや魔王の目は君に向かう」

 僕が意図を掴めずにいると、男は言った。

「実を言うとね。僕の存在自体はダンブルドアや魔王にバレてるんだよ。恐らく、こうして動いている事も把握している筈だ」
「なっ、何を言って……」
「詳細な事までは掴めていない筈だけど、動いている事自体は確実に知っている。知っていて尚、彼らは動かない。いや、動けないんだ」
「どういう事だよ……」

 あのアルバス・ダンブルドアがこの|人非人《ニンピニン》を知っていて放置するなんてあり得ない。

「理由は幾つか在る。一つはボクがボクである事。ボクと表立って戦うとなると被害はより大きなものになる。あの偽善者がそれを善しとすると思うかい? それに、ボクと戦うのなら相応の準備が必要になる。その為には膨大な時間が必要だ。他にも、僕の本体が分霊箱であり、その所在が不明である事も大きな要因だね。本体を叩かない限り、ボクを完全に滅ぼす事は出来ない。だからこそ、彼らは機を伺わなければいけない」
「だ、だからって……」
「ドラコ。君は一つ大きな勘違いをしているね」
「勘違い……?」
「ダンブルドアは完全無欠の|救世主《メシア》じゃないんだよ? ただ、より多くの人間に救いを与えるだけの|正義の味方《ヒーロー》さ。その為なら少数の犠牲を容認する」
「何を言って……」
「だからこそ、彼は強いんだ。切り捨てる事が出来るから勝つ」
「……じゃあ、ここにいるみんなはダンブルドアにとって」
「必要な犠牲だよ。容認する事で助け出す為の時間を省き、対抗策を打ち出す為の時間を稼ぐ為の」

 ヴォルデモート卿は笑った。

「残念でした! ここにいる全員、ダンブルドアに見捨てられちゃったんだ!」

 動悸が激しい。絶望の端まで押し出されたように恐ろしい気持ちだ。
 僅かに抱いていた希望。アルバス・ダンブルドアによって助けだされる可能性が潰えた。
 歯をガチガチと鳴らしながら、僕は後退った。すると、ヴォルデモート卿はスッと僕に歩み寄り、肩を抱いた。

「恐れる必要はない。君が仕事を完璧にやり遂げてくれれば、君は全てを手に入れる事が出来る。父と母を僕の支配から解き放ち、大切な友を守る事が出来る。地位も名誉も財産も思いのままに出来る。……だけど」

 ヴォルデモート卿は悲観の表情を浮かべる。

「もしも、君が失敗したら……。もしも、君が裏切ったら……。その時、君は全てを失う事になる」

 まるで憐れむように僕を見つめる。

「忘れてはいけないよ、ドラコ。君は両親と《破れぬ誓い》を行った。君が裏切れば、両親と共に君は死ぬ。その後、ボクは君の友にも牙を剥かねばならなくなる。ハリー・ポッターを生かしておく事が出来なくなる」

 嘆くような仕草。その一つ一つが憎しみと怒りを煽る。

「信頼しているよ、ドラコ。君は余計な事を何も言わず、ただ生活していればいい。友達と青春を謳歌するだけでいいんだ。なんならお小遣いをあげよう。なんなら、女も用意してやろうか? 壊れてうんともすんとも言わない人形で満足出来ればだけど」
「……ヴォルデモート、貴様ッ!!」

 この男にとって、僕はゴミのような存在だ。だから、どんな感情を向けても笑みを崩さない。
 それが堪らなく悔しい。

「がんばれがんばれ! 君のがんばりで助けられる人がいるんだ!」

 ヴォルデモート卿は僕の胸に杖を突き立てた。

「君には監視を付ける。《破れぬ誓い》を破らなくても、僕の信頼を裏切るような真似をしたら、その度に君の両親を刻んでいこう。最初は腕一本にしておいてあげるよ。だけど、その次は眼球だ。その次は……さて、どこがいい?」
「やっ、やめろ!! 両親にこれ以上手を出すな!! ……頼む」

 頭を下げる僕にヴォルデモート卿は言った。

「もちろんだよ。君ががんばってくれればね」

 僕に拒否権などない。 
 父上……。母上……。ハリー……。
 僕は……。

第七話『罪』

 夏休みの最後は隠れ穴で過ごす事になった。三年前にここから逃げ出した。
 すごく懐かしい。

「ハリー! 待ってたのよ!」

 モリーに抱き締められ、僕は温かく隠れ穴に迎え入れられた。
 そう思っていた。中に入るまでは……。

「こんにちは」

 中にはジニーがいた。挨拶をすると、怖い顔で睨まれた。

「……どうして来たの?」
「え?」
「また、うちを滅茶苦茶にするつもりなの!?」

 その言葉には怒りと憎しみが滲んでいた。
 困惑で思考が停滞し、彼女の声が頭の中で反響し続ける。

「おい、ジニー!」
「なによ、本当の事でしょ!」

 フレッドが声を荒げると、ジニーは涙を零して叫んだ。

「……あちゃー」

 ロンは天を仰いだ。その表情には予想通りという言葉が浮かんでいる。
 ビルとジョージは暗い表情を浮かべながらジニーに掛ける言葉を探している。

「ア、アンタのせいで大変だったのよ! この疫病神!」
「ジニー! なんて事を言うの!」

 モリーが怒鳴りつけると、ジニーは階段に向かって走って行った。
 僕に分かる事は自分が招かれざる客だったという事実だけ……。

「……ごめんなさい」

 ここには居られない。一度逃げておきながら、戻って来ていい筈が無かった。
 玄関から外に飛び出す。
 あの時と一緒だ。僕はまた逃げ出そうとしている。

「待った!」

 柵を乗り越えようとして、手を掴まれた。振り向くと、ビルがいた。
 困ったように微笑み、そのまま僕の体を胸に引き寄せる。

「ごめんね。でも、逃げないで」

 ビルは僕から杖を奪い取ると、後ろから追い掛けて来るフレッドとジョージに言った。

「ちょっと話してくるよ」
「ま、待ってくれよ兄さん! 俺も!」

 フレッドが手を伸ばす。けど、手が届く前にビルは杖を振った。
 気付けば見知らぬ場所にいた。

 第七話『罪』

「ここは……?」
「良い眺めだろ。僕の秘密の場所だよ」

 そこは海岸だった。キラキラと輝く宝石のような紺碧。
 胸を突き上げてくる気持ちで闇雲に涙が溢れてくる。

「……もう、大丈夫だと思ってたんだ」

 ビルは辛そうに言った。
 涙を流したおかげで、少し落ち着いた。

「ビル……。僕が逃げ出した後、何があったの?」
「父さんがクビにされかけた。それどころか、アズカバンに送られそうになった」

 その言葉に血の気が引いた。
 アズカバンといえば、魔法界の監獄だ。そこに入れられた者は吸魂鬼によって感情を吸われ、廃人になる。

「そんな……」
「……ダンブルドアのおかげで何とかなったけど、その影響で家族がバラバラになりかけたんだ。パーシーがハリーを批判して、フレッドとジョージ、それに母さんが激昂した。僕も冷静ではいられなかったから、チャーリーとロンがいなかったらと思うと……」

 青褪めた表情でビルは言う。

「前にも話した通り、フレッドとジョージが闇祓い局に乗り込もうとした事があった。君の事、父さんの事、二人はとても怒っていたんだ。僕も……、本当は二人と一緒にスクリムジョールを殴りに行こうとしてた」
「……ごめんなさい」

 吐き出したいような自己嫌悪に駆られた。ジニーの言葉は的を射ている。好意に甘えるべきじゃなかった。

「……謝らないで欲しい」

 ビルは僕を抱き締めた。そんな資格なんて無いのに、身を任せてしまう。

「君は何も悪くない。年長者の僕が理性的でいるべきだったのに、衝動に任せてしまった……」

 ビルは悔いるように言った。

「ジニーは泣いていた。僕達がいつも怖い顔をしていたからだ。ロンが必死にあやしてくれていた事を覚えてる。ダンブルドアが手を差し伸べてくれたおかげで、僕達家族は元に戻れた」

 僕を抱き締める力が増した。

「ハリー。君に会いたかった。どうしても、元気な顔を見たかった。これは僕達の……、僕の我儘だ」
「ビル……」

 ビルの体は震えていた。

「また、やってしまった。僕は君を隠れ穴に招待したかった。また、一緒に僕達の家で過ごしたかった。君やジニーの事を何も考えていなかった……」

 彼の嚙みしめた唇から、うめきが漏れた。

「悪いのは僕だよ。甘えたんだ……。みんなが優しくしてくれるから、つけ上がったんだ」

 考えるべきだった。彼らに対して、自分が何をしてしまったのか……。
 
「……それは悪い事じゃないよ」

 ビルは言った。

「甘えて欲しいんだ。頼って欲しいんだ。僕は君を助けたい。それは今も昔も変わらない。これから先もずっと……」
「……どうして」

 分からない。

「どうして、そこまで……」
「……言葉で説明する事が出来ない。ただ、君と初めて会った時、僕は君を助けたいって思った。一緒に居たいと思ったんだ」
「十分過ぎるよ……」
「足りないくらいだ」

 僕とビルは互いに口を閉ざした。不思議な沈黙だった。言いたい事が互いに山程ある筈なのに、言葉に出来ない。
 映し合う瞳で語り合う。
 息苦しい。込み上げてくる感情の処理の仕方が分からない。

「……謝らなきゃ」

 漸く絞り出した言葉にビルは小さく頷いた。

「僕も……」

 再び、ビルの魔法で隠れ穴に戻る。中に入ると、不満そうな表情のフレッドとジョージがいた。

「抜け駆け野郎」
「クソ野郎」

 酷い言葉で出迎えられた。

「……ごめんなさい」
「いや、ハリーに言ったわけじゃないからね!?」
「そっちのクソ兄貴に言っただけだから!」

 謝ると、必死に誤解を解かれた。

「ひ、ひどいな、二人共」
「どっちがだ!?」

 双子に睨まれ、弱った表情を浮かべながらビルはモリーを見た。
 彼女も言葉を探しているみたいだ。

「母さん。ジニーは上?」
「え、ええ、ロンが慰めているわ」
「なら、降りてくるまで待った方がいいかな」
「……うん」

 モリーは僕達の気持ちを察したのか何も言わなかった。

 夕方になって、ロンがジニーを連れて降りて来た。
 相変わらず、睨まれている。

「……ジニー。ごめんなさい」

 頭を下げる。それ以外に出来る事なんて何もない。
 犯した罪があまりにも大き過ぎて、償う事なんて出来ない。
 
「……出て行って」

 ジニーは言った。

「アナタの事、大っ嫌い」
「……うん」

 当然の結果だ。
 僕はトランクを掴んだ。

「ハ、ハリー!」

 フレッドがもどかしげな表情を浮かべる。

「ごめんね、フレッド」

 外に出ると、ビルが手を握ってくれた。

「……一人で帰れるよ」
「知ってる。だけど、僕は君の護衛でもあるんだ」
「でも、今日は……」

 ビルは手を離してくれた。

「明日、迎えに行くからね」
「うん……」

 魔王に身を委ねる。風景が歪み、僕はお店に戻って来た。
 中に入ると魔王が実体化した。

「こういう事には時間が掛かるものだ」

 魔王の声を聞いて、決壊した。
 涙が止まらない。魔王に縋り付き、何度も何度も謝った。
 魔王は僕が泣き疲れて眠るまで、何も言わずに受け止めてくれた。

第八話『友情』

 ホグワーツの二年目が始まる。今年から妹のジニーもホグワーツの一年生だ。甘えん坊の上に癇癪持ちだから、ホグワーツでちゃんとやっていけるか心配だ。
 ジニーはハリーの事がすっかり嫌いになってしまった。兄貴達やママがハリーの事ばっかり気に掛けるからすっかりグレちゃった。

「……ジニー。そろそろ許してやったら?」
「兄さんはどっちの味方なの!?」

 面倒くさい。ビルはダンブルドアの秘書になり、チャーリーはパパを助ける為に魔法省に就職した。おかげで僕がジニーの面倒を見る事になった。
 
「へいへい。ジニーの味方だよ」
「返事がてきとう!」
「……それよりカエルチョコレート食べようよ。カードは僕がもらうからね!」
「話を逸らした―!」

 ジニーの相手をしているとコンパートメントの扉が開いた。

「やっぱり! 声で分かったわ」

 入り口から顔を覗かせたのはハーマイオニーだった。
 
「久しぶりね、ロン」
「久しぶり、ハーマイオニー」

 ハーマイオニーはジニーを見た。

「妹さん?」
「ジニーだよ。今年からホグワーツなんだ」
「そうなんだ! 私はハーマイオニー・グレンジャーよ。よろしくね、ジニー」

 ジニーはハーマイオニーを睨んでいる。

「……おい、挨拶」
「ジニーよ」

 つっけんどんな言い方。

「えっと……」

 ハーマイオニーは気まずそうだ。

「失礼だろ! 彼女は僕の友達なんだぞ」
「……うるさいな! 別にいいでしょ!」
「ジニー!」

 いろいろとあって、気が立っているのも分かる。だからって、何も関係のないハーマイオニーにあたるなんてどうかしてる。

「ストップ」

 説教をしてやろうと口を開くと、ハーマイオニーにカエルチョコレートで口を塞がれた。

「ジニー」

 ハーマイオニーはジニーの隣に座った。ギョッとした表情を浮かべるジニーに笑いかける。ちょっと怖い。

「ファ、ファーファイオフィー?」
「口に物を入れたまま喋らないの!」

 誰が入れたんだよ!

「それじゃあ、うるさい誰かさんが黙ったところで」
 
 うるさいとはなんだ! 僕は兄として妹の躾をしていたんだぞ!
 まだカエルチョコレートが残っているから口にこそ出せなかったけど、僕は目で訴えた。
 そして、華麗にスルーされた。

「お話をしましょう」
「ええ……」

 若干引いているジニーにハーマイオニーは積極的に話し掛けた。それこそ、どうでもいいような日常会話だ。
 二人の声を聞いている内に眠くなった。この分なら、ジニーの事を任せても問題ないだろう。僕は一眠りすることにした。

 第八話『友情』

 ガタンと汽車が大きく揺れたせいで目が覚めた。空はすっかり暗くなっている。
 隣ではかしましい声が聞こえていた。

「でねー、最近はー」
「そうなんだ! それでそれで!?」

 おかしいな。さっきまで親の敵をみるような目を向けていた相手とジニーがすごく親しげに話している。

「あー、兄さんってば、漸く起きた!」
「ロン! そろそろ到着するわよ!」

 息までピッタリだ。なんだこいつら……。
 
「へいへい」

 手荷物から制服を取り出して廊下に出る。
 女の子の前で着替える趣味はない。廊下の端から端まで見渡して、誰もいない事を確認する。
 ささっと着替えて、中の二人の着替えが終わるのを待っていると、隣のコンパートメントから見知った顔が現れた。

「おっ」
「あっ」

 ドラコ・マルフォイはポカンとした表情を浮かべた。

「なんで、こんな所に突っ立ってるんだ?」
「中で妹とハーマイオニーが着替え中なんだ」
「ああ、なるほどね」
「それより!」

 右拳をマルフォイに向ける。

「負けないぞ!」

 僕の言葉にマルフォイは首を傾げた。

「なんの話だ?」
「おいおい、寝惚けてるのか? クィディッチの話に決まってるじゃないか! 今年のシーカー選抜試験で僕は絶対にシーカーになる! そして、お前と勝負する!」
「あっ……」

 なんだろう。いつもなら捻くれた態度と皮肉の混じった言葉で返してくる筈なのに、様子がおかしい。
 
「……お、おい、どうしたんだ?」

 反応してくれないと、僕が一人だけで盛り上がっている恥ずかしいヤツみたいになるじゃないか!
 向けた拳をどうしようか悩み始めた頃、漸くマルフォイが口を開いた。

「ウィーズリー」
「な、なんだ?」

 マルフォイはいつもの冷笑を浮かべた。こちらを小馬鹿にしたような苛々する笑み。だけど、今日は何故かホッとした。
 
「……精々、がんばる事だね」
「お前こそ、試験に落ちるんじゃねーぞ!」
「自分の心配をしたまえ」

 マルフォイは僕が仕舞えずにいる拳に自分の拳を打ち付けた。
 そのまま、廊下の向こう側へ去って行く。
 僕は打ち付けて赤くなった拳を見つめる。気合を入れないとね。

「さてさてさーて、選抜試験を頑張るぞ!」

 ウオーッと気合を入れてると、コンパートメントの扉が開いた。

「……兄さん、うるさい」
「ロン……。廊下で一人で何を騒いでるの?」

 この野郎共……。

 ◇

 ウィーズリーは相変わらずだ。何も変わらない。裏も表もなく、ただ真っ直ぐに闘志をぶつけてくる。
 おかげで少し心が軽くなった。
 シーカー選抜試験。本当は出る気など無かったけど、やっぱり出よう。
 この先、何があろうとアイツとの決着だけは……。

「……不思議だな」

 ウィーズリー家と言えば、血を裏切る者達の筆頭だ。
 本当なら不倶戴天の敵。憎悪と敵意が入り混じる関係こそ、あるべき姿の筈。
 だけど、僕はヤツに清々しい程の闘志しか抱いていない。

「ククッ……」

 初めからこうではなかった。やはり、最初の殴り合いが無ければ、こうはならなかっただろう。
 僕は足を止めた。目の前のコンパートメントにはハリーがいる。
 意を決して、中に入った。

「こんにちは、ハリー」
「ドラコ!?」

 ウィーズリーの兄弟もいたけど、今は無視する。

「久し振りだね」
「う、うん」

 ハリーの瞳が揺れている。
 彼に言いたい事は山程ある。だけど、その殆どを口にする事が出来ない。
 監視の目、破れぬ誓い、僕には自由など無いのだから……。

「ハリー。ホグワーツに到着したら……」

 だけど、これだけは伝えたい。

「殴り合わない? 全身全霊を懸けて」

 僕の言葉にウィーズリーの兄弟達は唖然とした表情を浮かべた。
 対照的にハリーは花が咲いたように笑顔を浮かべた。

「うん!」
 
 僕はハリーの友達だ。あの男が何を考え、何を企もうと、それは変わらない。
 ヤツは父上と母上を傷つけた。これからも利用し、苦痛を与えると言った。

――――覚悟しろ。僕はお前を許さない。お前の思い通りになんてさせない。

 相手が何者だろうと関係ない。僕は両親と友達を守るんだ。
 この命に代えても……。