第十九話「……さあ、後は頼んだぞ、小童共」

 夜明けの少し前、バゼットが戻って来た。居間で待機していた士郎達に彼女は言った。

「――――行きますよ」

 士郎達は互いに頷き合い、互いの意思を確かめ合う。
 此度のキャスター陣営に対する襲撃はバゼットとランサーを主戦力に据えて行う事になっている。
 ただし、彼等が抑えられるのは二名までだ。敵が三名居る以上、一名が余る。その対処が士郎達三人の役割だ。

「……では、確認します」

 円蔵山への道程、バゼットが歩きながら口を開く。

「本命であるキャスターの相手はランサーが引き受けます」

 此方の勝利条件はあくまでキャスターを討伐する事にある。他の二名を倒す事はむしろ避けたい事案だ。
 故に最強の戦力を彼女にぶつける。

「任せましたよ、ランサー。初手から全力で討ちに行って下さい」
「了解だ、マスター」

 ランサーはバゼットの隣を歩きながら、自らの槍や肉体に光で文字を刻んでいる。
 それがルーン魔術の刻印なのだとイリヤが士郎に解説する。

「セイバーの相手は私がします。恐らく、アーサー王としての真の力を引き出された状態で待ち受けている事でしょうから――――」

 最優のサーヴァントと名高きセイバーのサーヴァント。その中でも最強であろう英霊・アーサー王。
 如何に封印指定の執行者であろうと、生身の人間が立ち向かうなど狂気の沙汰だ。けれど、彼女は気負った様子も見せずに淡々と語る。

「問題はアーチャーですが……、いいのですね?」

 バゼットが確認を取るように凜を見る。凜は頷く。

「こっちには“聖杯”であるイリヤが居る。加えて、“士郎”も」

 本来、戦闘能力の低いイリヤは衛宮邸に残して行くべきだ。にも関わらず、戦場に連れて行く理由は二つある。
 一つは彼女が他の陣営に狙われている事。一人、無防備な状態で残して行く事は獣の目の前に餌を放置するのと変わらない。
 もう一つの理由は彼女の存在価値の高さ。彼女が“聖杯”である事は既に全陣営が承知の事実。マキリがイリヤを攫おうとした理由もそこにある。
 その事を逆手に取り、彼女の存在を抑止力にしようと考えたのだ。

「イリヤが居る限り、アーチャーを含め、敵は大規模な範囲攻撃を出来なくなる。接近戦に持ち込めば、ある程度なら持ち堪える事が出来る筈よ」

 とは言え、絶対では無い。凜とイリヤにはある程度の勝算があるらしいが、士郎の剣技ではアーチャーに遠く及ばない。
 一晩、ランサーに揉まれて、少々技術の底上げが出来たつもりだが、付け焼刃の通じる相手じゃない。
 相手は弓兵なれど、ケルト神話を代表する大英雄の槍捌きに負けず劣らずの双剣使い。二度目の戦いでは撃退すらしてみせた武の英雄。
 正体は未だ不明なれど、少し剣技を齧った程度の士郎には荷が重過ぎる。バゼットは未だ幼さを残す少年の顔を見た。そして、余計な心配など不要である事が分かった。
 少年には既に覚悟が決まっている。ランサーから伝え聞いた話によれば、少年はセイバーに恋をしているらしい。愛する者を救う為と思えばこその勇気と覚悟がそこにあるのだと感じる。
 
「――――頼みましたよ、衛宮士郎。セイバーは必ず私が取り戻します」

 特別性のグローブを手に嵌めながら、バゼットが言う。

「……ああ、頼む。何があっても、アーチャーにお前達の邪魔はさせない。だから――――」
「任せろ、シロウ。キャスターなんざ、俺の敵じゃねぇからよ。速攻で片を付けてやる」

 士郎の言葉に応えたのはランサー。
 この一週間、彼は諜報活動に徹していた。己の渇望する戦場を求め、戦いの刻を待ちながら、士郎達の生活を監視し続けて来た。
 その間の彼等のやり取りは見ていて飽きなかった。互いが互いを護る為に全てを掛ける。その関係は実に清々しいものだった。
 己が主の思惑がどうあれ、今の自分はこの少年の仲間だ。ならば、全力をもって思いに応えるとしよう。
 それが昨日の敵とも酒を飲み交わし、昨日の味方の首を取るのが日常であった常勝無敗の大英雄の決断だった。

「――――さあ、覚悟はいいですね?」

 遠くに円蔵山が見えて来た――――、そして、光と音が爆発した。

 一際、甲高い金属音が鳴り響く。柳洞寺へと連なる石段にて、赤と黒が剣を交えている。
 片や双剣、片や長剣。石段という不安定な足場だと言うのに、両者はまるで平地に立つが如く、揺るぎない。

「……弓兵風情と侮っていた事を詫びよう。いや、これほどの剣士がアーチャークラスで召喚されるなど、システムに異常が起きているのかもしれんな」

 黒衣を纏う剣の英霊が呟く。

「生憎、剣の才能は無かった。私がセイバーのクラスで召喚されるなど、あり得んよ」
「才無くして、この腕前……。相手にとって不足無し」

 狂気的な笑みを浮べ、怒涛の剣戟を放つ暗黒の騎士を赤き弓兵は嵐の如き双剣捌きで迎え撃つ。
 その様子を上空から見守るは魔術師の英霊。

「――――此方が動くより先に攻めて来るとは、侮っていた事を認めるわ、マキリ・ゾォルケン」

 彼女の視線の先、石段の下には枯れ木の如き老人が一人。呵々と笑いながら、彼は隣に並び立つ奇怪な影に指示を下した。
 影が猛烈な勢いで石段を侵食する。

「セイバー!!」

 サーヴァントに対する絶対的な優位性を持つ影。されど、敵を侮ってはならない。この神殿と化した山の主は神代の魔女。
 既に脅威の存在を知覚し、理解している彼女にとって、対処不可能な事案など存在しない。
 御三家の当主。五百年を生きる妖怪。人を喰らいし化け物。
 如何に大層な名を冠していようが、所詮は現代の魔術師。如何なる権謀術数に優れようが、戦術と戦略を駆使しようが、蟻如きが獅子に挑むなど無謀を通り越した愚行。
 天上に現れし、黒髪の騎士が魔女の与えし翼を駆り、光の剣を掲げる。

「――――約束された勝利の剣!!」

 地上を呑み込まんとする暗き影を“最強の幻想”が輝きの光をもって打ち祓う。
 キャスターの魔術によるサポートを受けたエクスカリバーの一撃はアーチャーを器用に避け、地上を蹂躙する影と暗黒の騎士に牙を剥く。
 されど、焼き払われた地上にマキリのセイバーは尚健在。咄嗟に効果範囲内から脱出出来たのは“直感スキル”の恩恵と“魔力放出スキル”の最大出力による敏捷性の一時的向上によるもの。
 そんな化け物染みた真似が出来るのは彼女のみであり、影と臓硯は跡形も無く消し飛んだ。
 けれど、キャスターの顔に浮かぶ表情は渋みを帯びている。

「虫けら如きが……」

 嫌悪感をありありと浮かべながら、キャスターは吐き捨てるように呟く。
 光に呑み込まれたのはどちらも偽物。本体は恐らく、間桐邸に引き篭もっているのだろう。
 ここに本物はマキリのセイバーのみ……。

「セイバー!!」

 再び、姿を現す影。それも所詮は偽物。けれど、万が一にもアーチャーの動きを阻害させる訳にはいかない。
 如何に調整を施したとは言え、セイバーは偽物。本物と打ち合えば、真贋の差が如実に現れるだろう。
 高ランクの対魔力を持つマキリのセイバーに対して、キャスターの自慢の魔術も通用しない。
 そうなると、彼女に対抗出来るのは、“とある理由”から、アーチャーのみとなる。
 だが、それは万全の状態に加え、キャスターの魔術による助力があればこその拮抗。
 均衡が僅かにでも崩れれば、瞬く間に勝敗が決してしまう。

『……付け焼刃の連携はむしろ互いの足を引っ張りかねない』

 そう言ったのはアーチャー自身。
 セイバーとアーチャーが連携してマキリのセイバーを打ち倒すという策を提示したキャスターに彼は冷ややかな声で言った。

『――――アレを倒すのはオレの役割だ。お前達は影と臓硯の相手に集中しろ』

 如何に神代を生きた魔女と言えど、戦闘行為に関しての“いろは”は殆ど無い。
 アーチャーの判断に従う事こそが最善。例え、そこに私情があろうと、理に叶っているのならば不問とする。
 ただし――――、

「負けたりしたら、承知しないわよ、アーチャー!!」

 並大抵の魔術はむしろ、敵のエネルギー源となってしまう。影を迎え討つ手段は一つしかない。
 圧倒的な破壊力を篭めた一撃を放ち、吸収する間も与えずに消し飛ばす。シンプルにして、究極の対処法。

「セイバー!!」

 魔女は苦心して円蔵山に溜め込んだ膨大な魔力を惜しみなく使わせる。
 最強宝具の連続発動。大地に刻まれた傷痕は一つ一つが底の見えぬクレーターと化している。
 円蔵山の麓は田畑が連なっている為、死人が出る恐れは無い。だが、赤々と燃え上がるその様は正しく地獄の具現。
 神秘の秘匿など存ぜぬとばかりの凶行。けれど、それが最善であり、唯一の活路であるのなら、是非も無い。

 戦場の様子を使い魔の視界越しに見ていた臓硯は舌を打つ。
 キャスターを侮っているつもりは無かった。むしろ、最大の障害にして、最強の脅威であると確信したが故に彼は先手を打って、虎の子であるアルトリアを放った。

「――――よもや、アルトリアと斬り結び、互角の英霊が居ようとは」

 影による“絶対的優勢の立場”の形成をセイバーの宝具の連続発動というとんでもない方法で封じられ、アルトリアを孤立させられてしまった。
 とは言え、本来ならば彼女だけで十分だった筈なのだ。強力な対魔力故にキャスターは敵では無いし、弓兵や偽物など束になって掛かられても圧倒出来る筈と高を括っていた。
 侮っていたのはアーチャーの技量。よもや、受肉し、生前の力を取り戻したアーサー王と互角に戦える弓兵が存在するなど考えていなかった。

「遠距離から宝具を放つだけならば対処のしようもあったものを……」

 この状況の肝は“立ち位置の妙”にある。
 アーチャーが遠距離からの狙撃に徹し、セイバーがアルトリアを迎え撃つという、本来あるべき立ち位置であったなら此方の勝利だった。
 偽物が本物に勝てる道理は無く、“約束された勝利の剣”という最強クラスの対城宝具でも無ければ、影が一層される事も無かった。
 エクスカリバーの連続発動というデタラメさえ無ければ、アーチャーによる遠距離からの狙撃だったなら、影は悉く攻撃を呑み込み、同時に迎撃に来るセイバーの動きを止め、アルトリアの剣技で圧倒するという戦術が機能した筈だった。
 
「――――アーチャーの剣技。そして、キャスターの知略。加えて、セイバーの宝具。この状況は不味い……」

 先手を打たれた事による動揺すら感じられない完璧な布陣。此方の戦力と戦術と戦略を全て読み切ったキャスター。
 やはり、最悪の敵。倒さねばならぬ、障害。

「セイバーの宝具の連続発動など、如何に魔力を溜め込んでいようと続かぬ筈……。その間、アルトリアが耐え抜けば、こちらの勝利。だが――――ッ」

 あのアーチャーは侮れない。そもそも、奴は“弓兵としての切り札”を使っていない状況でアルトリアと拮抗している。
 セイバーやアルトリアのように、発動時に“一瞬の隙”が発生するような宝具持ちであるなら、この状況が動く事は無いだろう。
 だが、もしも接近戦をしながら発動出来る切り札を持っていたなら、事態は最悪の方向に向う。そして、あの剣技の卓越さを見るに、“そうした切り札”を持つ可能性は極めて高い。
 
「――――しかも、奴自身が持っておらずとも、奴の背後にはキャスターが居る」

 如何に優れた対魔力を保有し、あらゆる魔術を無効化出来ようとも、敵は神代の魔術師。現代の魔術師の理解を遥かに超越する魔女。しかも、同等の存在であるセイバーを手中に収めている状態。
 セイバーの翼や様子の変化から察するにキャスターはセイバーの対魔力に対する対策を持っている可能性が高い。アーチャーによって、動きを止められている今、奴の魔術がアルトリアに牙を剥けば――――、

「イカン……。これは非常に不味い状態じゃ。このままではアルトリアを失う事態になりかねぬ……」

 聖杯に取り込んだ英霊を使うか……。
 
「……駄目だ、本体で無ければ英霊の再召喚は行えない」

 聖杯に取り込んだ英霊を再利用する場合、影のリソースを大きく削る事になる。
 それに、先手を打つ策に加え、アルトリアと影による連携攻撃をもってすれば、勝利は確実と高を括っていた。
 その二つを理由に予め、英霊を再召喚するという策は使わなかった。それが完全に裏目に出ている。

「――――いや、そもそも、あのセイバーの宝具の連続発動を前にしては……」

 あのような波状攻撃を連続で繰り出されては、如何に優れたサーヴァントであろうと一溜りも無い。
 
「……そうだ。奴等がアーチャーを見捨てれば、その時点で詰む。そもそも、奴はキャスターにとって捨て駒に過ぎぬし……」

 セイバーがエクスカリバーでアーチャーごとアルトリアを狙えば、今度こそ避け切れない。
 今の状況はキャスターがアーチャーを見捨てていないが故のもの。恐らく、次なるランサーとの戦いを見越しての安全策の為だろうが……。

「セイバーが居る以上、無理にアーチャーを残しておく可能性は低い」

 一分にも満たない逡巡。刻一刻と変化する戦場において、致命的とも言える迷い。
 アルトリアが未だ健在な理由は“この迷い”が臓硯だけのものでは無いからだろう。
 恐らく、キャスターにも“迷い”があるが故の“思考時間”の発生。
 だが、もはや残された時間は無いだろう。

「――――これはッ」

 決断する切欠は使い魔越しに見えた新たな軍勢。
 臓硯は無意識に笑みを浮かべる。
 
「愚か者共が間抜け面を下げて、ノコノコと現われおった!!」

 恐らく、キャスターを討伐し、自らのサーヴァントを取り戻そうと言う魂胆なのだろう。
 好機の到来。キャスターさえ脱落すれば、誰に何のサーヴァントが戻ろうと関係無い。
 今回の最大の戦果はアーチャーの技量という情報が手に入った事。十分過ぎる結果を得られた。

「――――最悪な事態があるとすれば、キャスター陣営と奴等が組む事だが、それは無かろう」

 桜からの報告と使い魔による監視の末、衛宮士郎のセイバーに対する思慕の大きさはある程度掴めている。
 精神性に少々異常をきたしているらしいが、それでも好いた女を奪われた事に対する憤りはそう易々と消えるものでもあるまい。
 キャスターの失策はあの小僧からセイバーを強引に奪った事。話し合いによる一時的な譲渡などでは無く、力ずくによる強奪だった事で奴等の関係に和解という解決策は消滅している。
 臓硯は佐々木小次郎を寄り代にハサン・サッバーハを召喚した際、手に入れた令呪を掲げた。
 令呪はサーヴァントを縛るもの。受肉しようとも、アルトリアにはサーヴァントとしての側面を未だ残している。故にこその聖杯の汚染。
 寄り代である山門との楔とする為のものだった故に一画のみだが、それは確かに臓硯の腕に存在した。

「令呪をもって、命じる!! アルトリアよ、全力で撤退せよ!!」

 膨大な魔力が吹き荒れる。遠き地の先で一人戦うアルトリアに臓硯の命令が届き、彼女の肉体が消失する。タイムラグを発生させず、強制転移が発動し、アルトリアが臓硯の眼前に現れる。
 臓硯は嗤う。
 仮にこれでキャスターの陣営とランサーの陣営が手を組むと言う最悪な事態が発生しても、対策を練られるだけの情報は得られた。

「まあ、その可能性は低いだろうが……」

 勝利の道筋が見えた。だが、出来るなら苦労は負いたく無い。
 故に臓硯は心から少年少女一行を応援する。慈愛の眼差しを使い魔越しに向け、彼は呟く。

「……さあ、後は頼んだぞ、小童共。儂の為に存分に踊ってくれ」

幕間「……了解した。地獄に落ちろ、マスター」

 初めて、女を知ったのは中学に上がったばかりの頃だった。魔術という神秘の存在を知り、必死に探求の日々を送る彼の目にソレが飛び込んで来たのは全くの偶然だった。
 親に捨てられた憐れな少女。彼は彼女をそう評していた。だから、それなりに優しく接してあげていた。だから、彼女がふらついているのを見て、いつものように声を掛けた。ただ、体調を気に掛けての行為だった。けれど、振り向いた彼女の口元を見た時、彼は絶句した。
 幼く、無垢である筈の彼女の口元を汚しているのは真紅の血液。まるで、マナーを知らぬ子供がケチャップで口周りを汚してしまったかのように赤々としている。
 
『ど、どうしたんだよ、それ……』

 変な病気かと思った。さもなければ、どこかにぶつけて怪我をしたのでは、と心配した。
 けれど、どちらも違った。少女が出て来た場所は彼がそれまで知らなかった扉の向こうだった。言い知れぬ恐怖に襲われながら、恐る恐る中を覗き込んだ時、彼は地獄を知った。
 無数の死が溢れていた。どいつもこいつも肉体が損壊している。

『あ、ああ……ああああああああああああ……――――!!』

 逃げ出した。あらゆるものから目を逸らし、部屋に飛び込んでベッドを被った。
 今見た光景は全てが嘘に違いない。目が覚めたら、いつものように暗い表情を浮かべた義妹に渇を入れてやって、魔術の修練に励むのだ。
 だから、今は眠ろう。何も考えずに眠ろう。
 大丈夫。目が覚めたらきっと――――、

『……あれ?』

 気が付くと、彼は暗い部屋の中に居た。
 そして、視線の先には義妹が立っていた。その姿があまりにも――――艶かしくて、彼は陰茎を勃起させた。
 知識はあった。サンプルとして、身近な少女に悪戯をした事もあった。だから、自分が発情している事を彼は瞬時に悟り、愕然となった。
 だって、アレは義妹だ。血の繋がりは無くとも、そんな対象として見た事は無かった。なのに、今は彼女を押し倒したくて仕方が無い。

『……って、何考えてんだよ、ぼくは』

 必死に理性を働かせる。本能のままに動けば、取り返しのつかない事になる。
 自分が自分のままで居られなくなる。そんな恐怖が彼を押し留めた。
 けれど、留まっていられたのは彼だけだった。
 空間内には彼以外にも男が大勢居たらしい。誰も彼もが衣服を身に着けて居ない。

『オ、オレのもんだ……。あの……、女の子は……オレの……』

 醜悪の極みだった。勃起した陰茎をぶら下げ、男達は義妹に歩み寄る。
 中には既に白く濁った先走りの汁を垂らしている者までいる。
 
『ふ、ふざけんな!!』

 彼は飛び出した。それは若さ故の無謀であり、女を知らぬが故の脱却であった。
 素っ裸で、勃起した陰茎をぶら下げているという点では五十歩百歩であったが、少なくとも彼は彼女を守ろうと立ち上がり――――、彼女に近づいてしまった。
 それが運の尽きだった。彼はただ、蹲り、事が終わるまで耐え抜くべきだった。けれど、彼女に近づいてしまった事で囚われた。
 未だ、成熟には程遠い肢体。なのに、その姿はどこか優美で、奇妙な色艶を感じさせる。その臭いが、仕草が、顔が、体が、全てが男を誘う為に出来ているかのようで――――、彼も理性を失った。
 我先にと男達は少女を抱く。時間を忘れ、寝る暇も惜しみ、自らの欲望を吐き出し続ける。
 匂い立つような色気を放つ少女を慰み者とする暴漢達。けれど、真に喰われているのは彼等の方だった。
 壊すより先に壊された男達の肉を少女は咀嚼し始める。自らの肉体が喰われている現実を認識しながらも、その顔に浮かべるのは快悦の笑み。
 狂気が支配する空間。それでも彼は生きていた。生き永らえてしまった。

『さくら……。お前は……――――』
『……不味い』

 肉を咀嚼しながら顔を顰める桜に慎二は溜息が出た。
 狂気に中てられたからなのかどうか、彼自身にも分からない。

『そんなおっさんの肉が美味い訳無いだろ。まったく、本当にトロいな、お前は――――』

 何を馬鹿な事をしているんだろう。
 自嘲の笑みを浮かべながら、慎二は自らの腕を桜に向けた。

『こっちを食べてみろよ。きっと、美味いぞ』

 ただ、不味いと言いながら汚らわしい中年男の肉を食べる義妹が哀れだった。
 どうせなら、美味しい物を食べさせてやりたい。
 桜が男の死骸を放り捨て、近づいて来る。小さな口を開け、慎二の指を口に含む。
 痛みは無く、くすぐったさを感じた。

『おいおい、味見のつもりかよ』

 苦笑する慎二に桜はキョトンとした表情を浮かべ、小さく頷いた。
 その仕草に笑った。生まれて来て、初めて大笑いした。

『美味しいか?』

 一心不乱に指を舐める義妹に慎二は問う。
 コクンと頷く桜に再び笑う。

『舐めるだけでいいのかよ?』
『……もったいない』

 ボソリと呟く桜の言葉に慎二は涙を流して笑った。
 
『舐めるだけでいいなら、いつでも舐めさせてやるよ。不味いもんばっかり喰ってたら嫌になるだろ? 口直しくらいは用意してやらないとな。何と言っても、僕はお前の兄貴なんだから』
『……うん。ありがとう、お兄ちゃん』

 再び、男達の骸に歯を立てて咀嚼を始める桜。慎二は黙って、その光景を見つめていた。
 その日を生き延びた慎二は毎日、桜の食事を見守り、最後に指を舐めさせた。
 不思議な事に彼の陰茎が反応したのは最初の日だけだった。それ以降、彼が義妹の前で発情する事は無かった。
 理由は明白。彼女が彼を例外と扱ったのだ。毒婦の瘴気に惑わされ、食われていく男達への同情心など欠片も湧かなかった。
 ただ、食事をする彼女の顔が不味さに歪むのが可哀想だった。

『まったく、こいつらは出来損ないだな。ジャンクフードばっかり食べて、不摂生に生き来たんだろうよ。まったく、不味い肉を喰わされる桜の身にもなれってんだ』

 少年のブラックユーモアな言葉も少女には届かない。何故なら、彼女はとうの昔に壊れているから。
 少年を生かしている理由も単に美味しいからに過ぎない。だから、彼の肉の味が落ちれば、彼女は彼を殺すだろう。
 だけど、彼はここに来るのを止めない。

 そして、現在に至る。この家の当主、間桐臓硯が衛宮士郎の召喚したサーヴァントを特別視している事は知っていた。
 義妹の食事風景に時折紛れ込む時代錯誤も甚だしい格好の少女の正体を予め彼女自身の口から聞かされていたからだ。どうやら、永い間ここに閉じ篭っていたから、話し相手を欲していたらしい。
 彼女の名はアルトリア。前回の聖杯戦争の終盤、アーチャーのサーヴァントと戦っていた彼女は聖杯に呑み込まれ、自我の大半を失い、代わりに第二の生を得た。
 名前と聖杯への渇望を残し、彼女は全てを失った。生前の記憶も曖昧な上、それに対する執着心も無い。だからこそ、彼女は聖杯を手に入れようとする臓硯と協力関係を結んだ。聖杯を得る事だけが目的であり、それ以外に何も頓着しない彼女。
 目の前で凄惨な殺人や食人行為が行われようと、眉一つ動かさない。ただ、最後に聖杯さえ得られれば、後はどうでもいいのだと言う。
 
『――――俺、お前が嫌いだ』

 慎二が言うと、アルトリアは『そうか』と微笑んだ。
 自我の大半を失い、感情も希薄となった彼女にしては珍しい事だった。

『私は嫌いじゃないぞ、シンジ。いつ喰われるかも分からないのに、義妹のデザートになり続けるお前は見ていて飽きない』

 元からこうだったのかは分からないが、この女は生粋のサディストだ。
 乾いた笑い声を発しながら、慎二は親友を思った。
 ああ、こいつをあいつに会わせたらやばいな……、と。
 だから、アルトリアの隠れ蓑として呼び出したスケープゴートを引き連れ、彼は士郎と対峙した。
 宝具である鮮血神殿を発動すれば、有利な状況で戦えた筈なのに……。今にして思えば、浅はかな行動だった。けど、焦りがあったのだ。臓硯がいつ、本格的に動き出すか分からなかったから。
 アイツのサーヴァントを片付けて、さっさとリタイアさせるつもりだった。
 だけど、勝てなかった。あの単細胞の事だから、煽れば勝手に自滅覚悟の特攻を仕掛けて来ると思った。一応、中学時代からの腐れ縁で、それなりにアイツの事を理解してるつもりだった。
 マスターを人質にすれば、サーヴァントなんて木偶も同然。いや、取らなくても、あのセイバーは木偶だった。
 予想外だったのは士郎の強さだ。宝具を生み出すなんてデタラメ過ぎる。結局、セイバーを殺そうと動いたライダーの意識が一瞬士郎に向けられ、そこをやられた。
 
「――――衛宮は自業自得だ。僕は助けてやろうとしたんだ。なのに、自分から……」

 いつものように義妹の食事を見守りながら、慎二はぼやく。
 臓硯の命令とは言え、あの家に居る間は桜も人間に戻れた。だから、その礼のつもりもあった。
 あいつはサーヴァントなんて捨てて、日常に戻れば良かったんだ。
 そうすれば、誰も傷つかなくて済んだ。

「……兄さん」

 桜が甘えるように囁く。いつものおねだりだ。手を差し出すと、嬉々として舐め始める。
 慣れた習慣。

「……よく、飽きないな」
「えへへ……」

 どいつもこいつも馬鹿ばかり。臓硯も例外じゃない。魔術に関わる人間はどいつもこいつも大馬鹿野郎で、ロクデナシだ。
 
「なあ、アルトリア」
「なんだ?」
「お前は聖杯さえ手に入れば良いんだよな?」
「ああ、その通りだ、シンジ」
「だったらさ――――」

 慎二の提案にアルトリアは楽しそうに微笑んだ。

「ああ、お前は――――だから、好ましいんだ。けれど、今はその時じゃないな。それに迂闊が過ぎるぞ」

 そう言って、アルトリアは慎二の腹部に容赦無く貫き手を差し込んだ。

「……なに、を」
「私の対魔力の影響でこいつと臓硯本体とのラインは切断状態にあるが、私から離れたら、そいつは直ぐに本体に告げ口をするだろう」

 慎二の腹から摘出した蟲を潰しながらアルトリアは言う。

「桜に治してもらえ。この程度の傷なら塞げるだろう。もう、あまり迂闊な事は言わない事だ。時が熟すまではな……」
「……ああ、そうするよ。その時になったら……」
「ああ、私はお前の剣となろう。あのような妖怪より、お前のような道化の方が好ましい。だが、どうせ踊るなら上手に踊れ。私の知っている道化は……、最期まで見事に踊り切ったぞ」

 どこか懐かしむように呟く。

「……ふーん。昔の事、少しは思い出したのか?」
「いいや、殆ど思い出せない。だが、あの者の事はそれなりに覚えている。面白い男だった。常に私達を笑わせてくれたよ」
「名前は?」
「……困ったな。奴に笑わせてもらった事は覚えているのに、思い出せない」

 眉を八の字に歪めて唸る彼女に慎二は笑った。

「まあ、お前の伝承にある道化っていうと、一人しか居ないし……」
「なんだ、知っているのか?」
「たしか……、ディナダンだっけ」
「ディナダンか……。ああ、そんな名だった。奴は……、実に面白い奴だった。お前には奴に通じるものを感じるよ。まあ、奴の方が何枚も上手で、お前のように無様な結果を残す事は無かったがな」
「……よっぽどお気に入りだったんだな」
「ああ、そのようだ。奴に関しては話していて気持ちが良い」

 ご満悦な様子の元王様。彼女の伝承通りなら、それも当然かもしれない。
 道化のディナダン。彼は王と騎士の狭間にある溝を埋める役割を荷っていた。円卓の不和を未然に防ぎ、全てを笑いに変える男。
 彼がモードレッドに殺されたからこそ、円卓はバラバラとなり、ブリテンは滅んだ。
 アーサー王にとって、彼の重要度は他の側近と比べても低くなかった筈だ。
 
「……はは。それにしても、今日は随分とお喋りだな」
「ああ、久しぶりに外に出たからな。それにお前の企みは実に愉快だ。今直ぐ、全てを捨てて逃げれば、それなりの人生を歩める手腕を持っている癖に、破滅と絶望しか無い選択をするお前は実に良い」
「……うるさいな。僕はただ……、桜に美味しいものを食べさせてやりたいだけだ」

 顔を背けながらも義妹に指を舐めさせ続ける慎二にアルトリアは言った。

「お前はディナダンになれるかな……?」
「途中で死んでどうするんだよ……」

 夢半ばで散った道化と一緒にされたくない。不平を零す慎二にアルトリアは笑った。
 
「ああ、そうだな。貴様はキチッと踊り切れよ、シンジ」
「……そのつもりだよ」

 月を愛でながら、魔女は謳う。

「セイバーの仕上がりも上々。策も万全。これで漸く、打って出られるわ」

 彼女の膝には黒髪の少女が頭を乗せて眠っている。

「不思議そうな顔をしているわね、アーチャー」

 庭に立ち、怪訝な表情を浮かべている弓兵に魔女は微笑む。

「……その娘がセイバーだと?」
「ええ、その通りよ。もしかして、そこまでは知らなかったの?」
「どういう意味だ……」

 眉を顰めるアーチャーにキャスターは言った。

「衛宮士郎が召喚を行った際、彼の内に埋め込まれている聖剣の鞘が寄り代となり、他のどの英霊よりもアーサー王が優先的に召喚される。“全て遠き理想郷”に縁を持つ英霊は他にも居るけれど、聖杯を手に入れる事を世界との取引材料としたアーサー王を差し置いて、マーリンやモルガン、アコロンといった英霊達が召喚される事は無い。彼女が聖杯を諦めでもしない限りは……」

 キャスターは少女の髪を撫でながら呟く。

「けれど、衛宮士郎がアーサー王を召喚する事は世界に大きな矛盾を生じさせてしまう。だって、アルトリア・ペンドラゴンは既に召喚されている。他の英霊ならば、同時に写し身が二体召喚される事もあるかもしれない。例えば、ヘラクレスをセイバーやアーチャー、バーサーカーといった、彼に適合するクラスにそれぞれ召喚する事は可能なのよ。何故なら、彼は英霊・ヘラクレスという本体から伸びる触角に過ぎないから……。同じ存在が同時に存在していても矛盾は生じない。だけど、アルトリアは違う。彼女の本体は生きている。それ故に伸ばせる触角も本体の意思を乗せた一つのみ。なのに、既に触覚を放っている彼女を新たに召喚させようと思ったら、どうなると思う?」
「……彼女の精神は既に召喚されている方のセイバーに宿り、後から召喚された方には霊魂のみが召喚される。それ故に、精神を補完する為、世界は日野悟の精神を――――」
「違うわ。そうじゃないのよ、アーチャー。全部が全部ってわけじゃないけれど、肝心な所を勘違いしている」
「どういう事だ……?」

 困惑するアーチャーにキャスターは語る。

「アーサー王は将来的に英霊化が確定している英雄。だからこそ、彼女の英雄としての情報はアカシック・レコードに刻まれている。彼女が悲願を成就し、英霊の座に収まる為の空間が既に用意されているのよ。衛宮士郎はその将来的にアーサー王が英霊となった場合を想定し、世界が準備した彼女の英雄としての情報を引き寄せたの」
「……すまん、よく分からない」

 彼女の難解な言い回し故か、アーチャーは眉間に皺を寄せている。

「簡単に言うと、英霊では無く、世界に刻まれた英霊としての情報……即ち、彼女の設定だけを呼び寄せたという事よ。髪の色はこうだ。瞳の色はこうだ。剣の腕前はこうだ。過去はこうだった。宝具はこういう物だった……、などなど。だけど、肝心要の本体が無かった。だから、設定を適当な魂にくっつけて、無理矢理アーサー王に仕立て上げ、召喚に応じさせたというわけよ」
「な、なんだそれは……。では、日野悟は!!」
「ええ、完全に巻き込まれただけの一般人。衛宮士郎ともアーサー王とも縁の無い、根源に浮ぶ無数の魂の内の一つ。ただ、アーサー王の情報を植え付け、召喚に応じさせる為だけの……言ってみれば、着せ替え人形ね。だけど、彼の魂は結局、日野悟のもの。だから、完全なアーサー王とはなれず、いつまで経っても剣の腕は上達しないし、宝具の使い方も理解出来ない。それに、彼自身も鏡を見て思ったみたいだけど、その外見も元の日野悟に戻り掛けている」
「な、なんだと……?」
「眉の形や耳の形なんかを見て、違和感を感じ取っていたみたいよ。見覚えがある気がするって……。当然よ。それは生前の自らの顔の特徴だったのだから」

 キャスターの言葉にアーチャーは目を丸くした。

「では、日野は何もせずとも元の姿に戻れるという事なのか?」
「そう単純じゃないわよ。そもそも、初めの肉体作りの際にアーサー王の情報が大きく作用したから、性別だって、女の子だし、髪の色や瞳の色も生前とは違う。だから……、ある程度までは戻れるかもしれないけれど、完全には戻れない。中途半端に戻った末に……、恐らく壊れてしまう」
「な、何故……」
「考えてもみなさい。今は生前と完全に別人だからこそ、性転換や諸々の異常を無視出来ている。大きな混乱が小さな混乱を抑え付けているのよ。だけど、その混乱が小さくなれば、他の混乱が明るみに出る。自らの性別の違いをより一層意識する事になり、それが彼を守っていた心の防壁を壊してしまう」
「心の防壁を……?」
「彼は常日頃から現実逃避をしているようなものなのよ。ここは異世界であり、自分は別人なのだ。それに加え、自分には守るべき存在が居る。そういった、自己暗示に近い事を常に考え続ける事で自我を保っている。だけど、一度、自分が自分なのだと認識してしまえば、次々に現実が彼を襲う。そうなれば、彼は瞬く間に廃人となるでしょう」
「ま、まさか……」

 慄くような表情を浮かべるアーチャーにキャスターは微笑む。

「安心なさい。その為の対策は打った。私には夢がある。宗一郎様と共に未来を歩むという夢が……。その為にセイバーの力が必要だもの。壊したりはしないわ」

 慈しむような表情で少女の頬を撫でるキャスターのアーチャーは途惑った。

「お前は……」
「聖杯を取ったら、貴方達の事も解放してあげる。邪魔さえしなければ、ある程度は願いも叶えてあげる。例えば、セイバーを受肉させたりとかでも、私なら可能よ」
「……何故」
「正直言って……、気に入らないのよ」

 キャスターは呟くように言った。

「私も……、神に運命を散々弄ばれた。偽物の愛を植え付けられ、裏切りを強要され続けた……。だから、こうして世界の矛盾を正す道具として扱われた日野に同情してるのかもしれないわ。あの坊やを守る為に我武者羅に頑張る姿も見ていて飽きなかったし……」

 キャスターは月を見上げた。

「日野悟の魂から必要最低限の情報を除いて、アーサー王の情報を取り除き、再調整したから、髪は黒くなったし、瞳の色も暗い茶色に変わった。今の自分を見たら、きっと自分を自分と認識してしまうでしょうね。でも、目が覚めた時、彼は壊れたりせず、現実に感謝すらするかもしれない」
「一体……」
「簡単よ。彼に夢を見せているの」
「夢……?」

 キャスターは悪戯に成功した子供のような可愛らしい笑みを浮かべて言った。

「今頃、夢の中で彼は衛宮士郎と新婚さんとしてイチャイチャしてる筈よ」
「……は?」

 顔を強張らせるアーチャーにキャスターはセイバーに見せている夢の内容を語った。
 少女趣味全開の内容にアーチャーは真っ白になった。

「……お前」
「言っておくけど、これが一番簡単かつ、一番確実な方法よ。彼の心が現実を受け入れられるようにするには――――」
「待て……、待て。いや、幾らなんでもそれは……」
「男の子と恋愛するなら、女の身である方が色々と都合がいいじゃない」

 輝くような笑顔で言うキャスターから目を逸らし、アーチャーはセイバーを哀れみの目で見つめた。

「偽物の愛を植えつけられて、神を恨んでいたんじゃなかったのか?」
「ええ、恨んでいるわ。だからこそ、私が日野に対してただ甘々な夢を見せているだけよ。それなりに絆の深い男の子に徹底的に女の子扱いされ、ひたすら幸せに身を包まれ続ける夢を見せているだけ。別に、精神を操って洗脳をしてるわけじゃないもの」
「いや……、十分に洗脳の類だろ」
「……貴方にも同じ夢を――――」
「キャスター。そんな事より、明日の間桐邸襲撃の作戦内容について話を詰めておこう」

 急に表情を引き締めて話を変えるアーチャーにキャスターは呆れ顔だった。

「……まあ、いいわ。何事も無ければ、明朝、間桐邸に襲撃を掛ける。分かっていると思うけど、最も注意すべきは影の存在。アレに囚われたら最期よ」
「どうにかする手立てはあるのか?」
「最悪。セイバーに聖剣を使わせるわ。そうなると、貴方にはアーサー王と影を一時的に押し留める役を担ってもらう事になる」
「構わん。アレを葬りされるのであれば是非も無い事だ」
「そう……。なら、私の勝利の為に死になさい、アーチャー」
「……ああ、心得たよ、一時の主よ。我が命、好きに使うが良い。だが、使うからには確実に仕留めろ」
「勿論よ」

 月夜の下、弓兵と魔女が契約を結ぶ。

「……しろ、そんなとこ、さわっちゃ……いやん、もう……えへへ」

 身悶えし、寝言を呟くセイバーに二人は顔を見合わせた。

「どうやら、もうそろそろのようね……。意識が戻り始めている」
「……これで良かったのだろうか」

 頭を抱えるアーチャーにキャスターが笑う。

「面白い話をしてあげる」
「面白い話?」
「……アーチャー。人はよく、平等って言うわよね? だけど、実際は違う。持つ者と持たざる者が居る。優れた才能を持つ者も居れば、何の才能も無い愚鈍な人間も存在する。人間っていう生き物はそれぞれ作りがちょっとずつ違うのよ。特にそれが男女の違いとなるとね……」
「何が言いたいんだ……?」

 キャスターはミステリアスな表情を浮かべて言う。

「男と女は脳の構造からして異なるのよ。例えば、男は理論を尊重するけれど、女は感情を優先する。それは脳の構造が違うから故に発生する違い。無論、理論を尊重する女も居るし、感情を優先させる男も居るけれど、それもまた個人差。言葉にしてもそうよ? 男は脳の一部分のみで会話をする。だけど、女は脳全体を使って会話をするの。万人に共通するものでは無いけれど、男の感覚で女の体を操るというのは無理があるのよ。そもそも、生物としての在り方からして、違うから……」
「だから、セイバーを女に近づけようとしているのか……?」
「そういう事よ……。言ったでしょ? 壊すつもりは無いって……。男の感覚のままで居たら、いずれは破綻し、壊れるのが目に見えているもの」
「キャスター……」
「それに……、自分が女性っぽくなってる事に途惑うセイバーも見てみたいし……」
「――――おい! 貴様、それが本当の目的ではあるまいな!?」
「とにかく! 明日は頼むわよ、アーチャー!」

 話を無理矢理打ち切り、主である葛木宗一郎なる男の寝室へルンルンと向う稀代の魔女にアーチャーは毒づいた、

「……了解した。地獄に落ちろ、マスター」

第十八話「……なにこれ」

 夜が更けていく――――。
 バゼットは明日の戦いに備え、準備があるからと言って、一度拠点に戻って行った。衛宮邸に残った士郎、凜、イリヤの三人は食卓を囲いながら意見を交わしている。

「――――してやられたって感じね」

 凜が苛立った様子で呟く。イリヤは同感だとばかりに頷いた。

「どういう事だ?」

 一人、現状を理解し切れていない士郎が問う。
 そんな彼に凜は肩を竦めて答える。

「恐らく、彼女は機会を見計らっていた……。私達が彼女の提案を絶対に拒否出来ない状況を待っていたのよ。でなきゃ、あんなにタイミング良く、加勢に入る事なんて出来ないわ」
「な、なんでそんな事……」

 困惑する士郎にイリヤが答える。

「サーヴァントを失った私達は彼女の武力に対抗する手段が無い。つまり、彼女の提示する如何なる提案にも頷く以外の選択肢が無い状況なのよ。交渉の余地すら相手に与えず、自らの手駒とする。実に効率的だわ」
「でも、バゼットの提案は別に――――」

 拒否するようなものでも無いだろ? そう言い掛けた士郎に凜が首を振る。

「問題は今後の事よ……。彼女は私達にサーヴァントを取り戻させた後もこの状態を維持しようとする筈。その際に、あの証文がネックになる」
「どういう事だ……?」
「聖杯の解体に全面的に協力するって言う事はつまり、聖杯の解体に託ければ、彼女は私達にある程度“行動の強制”を行う事が出来るのよ」

 凜の言葉にイリヤが舌を打つ。

「……やり方が一々卑怯なのよ、あの女。あの証文にサインをしないという事は“魔術協会に叛意を示す”事と同義だもの」

 悔しそうに呟くイリヤ。

「バゼットは協会が“聖杯戦争、並びに聖杯の調査”を命じたマスター。彼女が“聖杯に異常あり”と認め、その“異常の解決”を求めて接触して来た場合、それは単なるマスター同士の会合では済まないのよ」

 未だに分かっていない様子の士郎に凜が細やかな解説を行う。

「彼女のバックには協会が存在する。彼女の指示に従わない場合、その者は協会の意に反する者として罰責が下る。回避するには彼女の言いなりになるか、彼女を殺して口封じをするしかない」
「だけど、私達に彼女の口を封じる手立てが無い……」

 士郎も徐々に事態を呑み込み始めた。彼は単にバゼットの提案には従うに足る理があると判断して証文にサインしたが、裏では白熱した戦いがあったのだ。
 
「とにかく、セイバーとアーチャーを取り戻した後の事を考えなきゃ……」
「あの女はランサーにシロウを監視させていた。つまり、シロウの魔術の特異性も知っている筈。手を拱いていたら、最悪な展開になる」

 イリヤの顔に怒りが滲む。

「シロウを使い潰した挙句、ホルマリン漬けにしようとでも考えてるんでしょうけど、そうはいかないわ……。必ず、隙を見つけて始末してやる」
「お、おい……、そんな物騒な――――」
「生憎だけど、私もイリヤスフィールと同意見。士郎もホルマリン漬けになんてなりたくないでしょ? 利用するだけ利用して、用が済んだら、あの女を確実に殺す。まあ、こっちの考えなんて、向こうもお見通しでしょうけど……」

 士郎はすっかり取り残された気分だった。女性陣三人の考え方が殺伐とし過ぎている。
 自分が暢気過ぎるのかもしれないが、双方共に相手を利用する気満々だ。

「えっと……。バゼットもそんなに話の通じない人じゃないっぽいし……、話し合いの場を設けて――――」
「ダメよ、シロウ」

 イリヤはまるで駄々を捏ねる弟をあやす姉のように甘い声で言った。

「執行者なんて職に就いている時点で、あの女は人としても、魔術師としても異端なの。話しが通じると思うなんて、勘違いよ」
「覚えて置きなさい、士郎。魔術協会において、執行者って存在は悪霊ガザミィや封印指定に次いで厄介事として扱われているのよ。本来なら、絶対に関わるべきじゃない相手なの」
「別にシロウに手を下させるつもりなんて無いから安心しなさい。あの女は私とリンで殺すから」

 畳み掛けるように言う二人に士郎の反論は封殺された。
 何とか、物騒な真似をしないように宥めようとするが、二人は彼を完全に蚊帳の外に追い出した。
 やむなく、士郎は心を落ち着ける為に一人、道場に向った。

 道場に辿り着くと、思い出すのはセイバーとの立ち合いだった。二人で強くなろうと誓い合い、切磋琢磨したあの時間、凄く楽しくて、充実していた。
 セイバーを助けたい。凜やイリヤには申し訳無いが、それが叶うならバゼットが何を企んでいようと、士郎にとってはどうでも良かった。

「セイバー……」

 セイバーとの立ち合いの際にいつも使用していた木刀を手に取る。

「……絶対に助けるからな」

 彼の姿をイメージし、木刀を振るう。共に切磋琢磨した時間を思い出し、決意を固める。
 この一分一秒の間に強くなる。キャスターの手から取り戻し、今度こそ――――、

「――――ッハ、随分と動きが良くなったもんだな、小僧」

 木刀に何かが当たった。聞き覚えのある声に瞼を開く。

「ラ、ランサー……? バゼットと一緒に出て行ったんじゃ……」
「生憎、今は別行動だ。バゼットからはこの屋敷を守るように命じられている。結界が解けて、無防備な状態だからな」
「い、いいのかよ!? バゼットは一人で外を出歩いてるって事じゃないか!!」

 詰め寄ってくる士郎にランサーは笑みを浮かべた。

「心配は無用だ。アイツは強い。並の英霊相手なら、俺が居なくても、単独で勝利出来る程の逸材だ」
「……まさか」
「いや、これがマジなんだわ。ぶっちゃけ、嬢ちゃん達が何を企んでようと、アイツには無意味だ。下手な策を弄しても、力ずくで粉砕されるのがオチってもんよ」
「……聞いてたのか」
「あの程度の結界、俺には無いも同然だ。これでも、少々魔術を嗜んでいる身なんでな」

 ニヤリと笑みを浮かべるランサーに士郎は警戒心を顕にした。

「そう、構えるなって――――。それより、稽古には相手が居た方がいいなじゃねーか?」
「ランサー……?」

 ランサーは手近な所にある木刀を手に取り、片手で振り回した。

「槍には劣るが、剣にも覚えがある。――――構えな。いっちょ、アレから七日か……? どのくらい腕を上げたか見てやるよ」

 挑発的な視線を向けて来るランサーに士郎は黙って構えた。
 願っても無い事だ。これまで、士郎はセイバー以外と切り結んだ経験が無い。ライダーとの一戦も殆ど不意打ち同然で、サーヴァントとまともに打ち合った事が無かったのだ。
 本物と戦える。それはセイバーを助ける為の大きな助けとなる筈だ。

「――――いい感じだ。あの時も思ったが、お前は長じればいっぱしの戦士になれるぜ」
「別に戦士になりたいわけじゃない。俺は……、セイバーを助けたいんだ」
「ッハ! 惚れた女を助ける為に戦うんだろ? それを戦士と言わずに、何と呼ぶ!」

 ランサーが動く。士郎はカッと目を見開き、両手に構えた双剣にアーチャーの剣技のイメージを乗せる。
 槍の英霊の癖に、ランサーの剣技はセイバーとは比べ物にならない激しさと卓越さを有していた。アーチャーの剣技をもってしても、防ぎきる事が叶わず、士郎の体が弾き飛ばされる。

「――――ックァ」

 激痛に表情を歪める士郎。

「悪く無いが、経験不足だな。その剣技はアーチャーのものだろう? 模倣するのはいいが、奴の剣技は奴の弛まぬ鍛錬の成果だ。如何にお前さんに適した剣技でも、中身が無ければ単なるハリボテだ」
「……そんなの、分かってる! だけど、俺には今直ぐに力が要るんだ! 時間が無いんだ! だから、中身を満たさせてもらう。経験させてもらうぞ、ランサー!!」
「……いいぜ、小僧。いや、シロウって言ったか? 惚れた女を救いたきゃ、全力で力を蓄えろ! 付き合ってやるから、死ぬ気で挑んで来い!」
「――――ああ、ありがとうな、ランサー!」

 士郎は木刀を捨てた。その意図を悟り、ランサーは笑みを深め、自らも木刀を捨てる。取り出したるは真紅の魔槍。

「――――投影開始」

 対して、士郎が取り出したるは白と黒の陰陽剣。木刀など、幾ら振るっても死線を経験する事など不可能。真の戦いを経験する事など不可能。
 自らの意思に応えてくれたランサーに士郎は改めて感謝の言葉を告げ、彼に挑む。
 双剣に蓄えられた、担い手の経験を読み取りながら、幾度も敗北し、傷を作りながら挑み続ける。
 それは異常な光景だった。翌日に本番が控えているというのに、士郎はまるで、今、この稽古の間に死のうとでもしているかのようだった。
 踏み込めば死ぬと分かっている一線に踏み込み、逃げねば殺される一瞬に留まる事を選ぶ。そして、その度に絶体絶命の窮地を打破する方法を模索し、手に入れる。
 幻想に綻びが生じ、双剣が砕ける事、十数回。壁に叩きつけられる事、十数回。床に倒される事、数十回。
 それでも尚、挑みかかる士郎にランサーは喜悦の笑みを浮かべる。
 
「――――本当に面白い奴だな、お前」

 深夜まで続けられた攻防が一段落し、倒れ伏す士郎に治癒の魔術を施しながらランサーは呟く。

「バゼットは別の意味でお前さんを注視していたが、ある意味で正解だったな」
「……どういう事だ?」

 首を傾げる士郎にランサーは言う。

「――――バゼットは最初に俺がお前さんと遭遇した時よりずっと前からお前さんを危険視していた」
「な、なんで……」

 目を剥く士郎にランサーは語る。

「お前さんの親父……、衛宮切嗣つったか? そいつの名が結構裏の世界じゃ有名だったらしい」
「親父が……?」
「やっぱ、知らなかったらしいな。何でも、魔術師殺しって異名を持つ、凄腕の暗殺者だったらしい。その息子だってんだから、警戒するのは当然ってもんだ」

 ランサーの言葉に士郎は戸惑いを隠せずにいる。

「親父が……、暗殺者?」
「バゼットから聞いた話によると、かなりえげつない真似も平気でこなしたそうだ。とにかく、奴に狙われて生き残った魔術師は居ないって話だぜ。だからこそ、あの夜、バゼットは戦いを目撃したお前さんを俺に追わせ、殺させた」

 ランサーの言葉に心臓が大きく跳ねた。
 そう、己は目の前の男に一度……、いや、二度殺されかけた。内、一度は本当に殺された。
 今、生きているのは凜が助けてくれたからに他ならない。彼女が居なければ、自分はここに居なかった。
 
「元々、バゼットの目的は聖杯戦争の調査だった。だから、とりあえず全ての陣営のサーヴァントとマスターの力量を測ろうと巡回してたんだが、最大の危険因子の出現に焦ったみたいだ。なんせ、衛宮切嗣は前回の聖杯戦争の勝者でもあるからな」

 それは最初にセイバーから聞かされた事だった。アインツベルンが外来から招き入れた魔術師。それが士郎の父、衛宮切嗣。
 彼は前回の聖杯戦争でアーサー王を召喚し、優勝に漕ぎ付けた。けれど、そこで厄介な奴とやらに遭遇し、あの大惨事が起きた。

「前回の聖杯戦争の記録によれば、衛宮切嗣はホテルを一棟爆破したり、人質を取ったりとやりたい放題だったらしい。神秘の秘匿もそこまで徹底していなかったそうだからな。本人はとうの昔に死んだらしいが、息子が聖杯戦争に関わって来るなら確実に消すつもりだったそうだ」

 ランサーの言葉に士郎は言葉が出なかった。切嗣の為した所業に対しての驚きと息子と言うだけで殺そうとしたバゼットの理不尽さに頭の中は真っ白になっている。

「まあ、実際のとこ、お前さんと衛宮切嗣の在り方は全く異なる。その点は俺からの報告を聞いて、バゼット自身が語った事だ。だからこそ、お前さんを信頼出来るとした俺の判断をアイツも信じた」

 けど、とランサーは嗤った。

「やっぱ、お前さんはヤベーな。バゼットも英雄になる資質を備えてるが、お前はアイツ以上だ。才能は無いが、その在り方はもはや人間じゃねーよ。ある意味、既に英雄として出来上がっていると言っても良いだろう」
「えっと……」

 当惑する士郎にランサーは言った。

「嬢ちゃん達が何をしようが、バゼットは歯牙にも掛けないだろう。だが、お前さんがアイツに牙を剥いたら、ちょっとヤバイかもな」
「俺は別に……、バゼットが何を考えてようが、牙を剥くつもりなんて無いぞ。聖杯の解体には賛成だし……」
「いざ、セイバーがバゼットの指示で危険に晒されるようになっても、同じ事が言えるか?」

 その問いに士郎は直ぐに返答が出来なかった。

「それに、聖杯を解体したら、セイバーは消えるしか無いんだぜ?」

 畳み掛けるような言葉に士郎の表情が歪む。

「お前さんの望みはセイバーを存命させる事だ。その為には聖杯が必要なんじゃないのか?」
「……聖杯は穢れているんだ。マキリのセイバーみたいにする気は無い」
「だが、他に方法が無い以上、いつまでもそんな悠長な事を言っていられるのか?」

 士郎は唇を噛み締めた。
 ランサーの問いはいずれ、士郎に訪れる試練だった。
 セイバーを存命させる。それが士郎の願いだ。だが、その為には聖杯が必要であり、その聖杯を使うという事は――――、

「……俺は聖杯なんて使わない」

 淡々と呟く士郎にランサーは目を細める。

「セイバーの存命を諦めるって事か?」
「そうじゃない……。他の方法を探るだけだ。俺はただ、セイバーを存命させたいわけじゃない」
「あん?」
「俺は――――」

 士郎は眉を潜めるランサーに言い放った。

「セイバーを幸せにしたいんだ!」

 その言葉にランサーは目を見開いた。
 まるで、時間が止まったかのような奇妙な一瞬が過ぎ去った。
 心底虚を突かれたような表情で絶句し――――、

「ッハ! 言うじゃねーか、シロウ! ああ、そうだな! 幸せにしたいなら、穢れた聖杯なんか使えねーよな! 道理だわ!」

 そして、大いに笑った。ゲラゲラとその瞳には涙すら滲んでいる。大爆笑というやつだった。

「な、なんだよ。笑われるような事を言ったつもりは無いぞ」

 ムッとする士郎にランサーは至極真面目そうな顔を取り繕った。

「いやいや、見直したぞ。お前、マジでセイバーにゾッコンなんだな。そこまで言うとは、いや、御見逸れしたぜ」
「……いや、待て! ちょっと、待て! お前、何か勘違いしてないか!?」
「いやいやー、勘違いなんかしてねーよ。いいんじゃねーの? 結婚して、幸せにしてやれよ!」

 爽やかな笑みを浮べ、サムズアップするランサーに士郎は目を剥いた。

「違う! 間違ってるぞ、ランサー! 言っておくけどな、セイバーは女の子の姿をしてるけど、中身は――――」
「ああ、知ってるぜ。男なんだろ?」
「……いや、知ってるならおかしいだろ、その発言!」
「いや、別に野郎同士でってのも、俺の居た時代じゃ珍しくなかったしな。まあ、俺は女の方が好みだが」
「いや、アンタの時代はそうだったかもしれないけど、現代は違うんだよ!!」
「って言っても、お前さん見てると、どう考えても惚れてるとしか――――」
「ち、ちがっ、そんな筈――――」

 否定しようと声を荒げて、何故かセイバーと一緒にお風呂で話をした時の事を思い出し、赤面した。

「ハッハッハ! やっぱりそうなんじゃねーか」
「ち、違うって言ってるだろ!」
「いやしかし、お前も大変だな。中身が男だと、落とすのも手間が掛かるかもしれんぞ。つっても、あんだけ甲斐甲斐しい性格してるなら、頼めば一発ヤラせて――――」
「ぶっ殺すぞ、お前!!」
「おいおい、正義の味方目指してんだろ? ぶっ殺すって言葉は使っちゃいけねーと思うぜー?」
「うるさい! とにかく、この話はもう終わりだ!!」

 真っ赤になってガーッと怒鳴る士郎にランサーは笑い転げ、尚も士郎に茶々を入れる。
 途中、騒ぎに気付いた凜とイリヤが様子を見に来ると、干将・莫耶を手に見た事のない程の殺気を迸らせてランサーを追う士郎と笑いながら彼を煽り続けるランサーの姿があった。
 良からぬ事態が発生したのかと思い、駆けつけた二人は唖然としながらその光景を見つめるのだった。

「……なにこれ」

第十七話「セイバーとアーチャーを取り戻す」

 封印指定の執行者。魔術協会の中でも極めて特異な立場にあり、選ばれる者は戦闘に特化した魔術師である。彼等の職務は時計塔により封印指定を受けた魔術師の捕縛、並びに事後処理。時に聖堂教会の代行者とぶつかり合う事もあり、故に執行者は例外無く極めて強力な戦闘能力を誇る。
 混迷を極める聖杯戦争に更なる狂乱を呼び込む事になるであろう、女の言葉を士郎達は承諾する他無かった。元より、彼女にはランサーというサーヴァントが居るが、士郎達には居ない。拒否する事はその場での死を意味する事に他ならない。
 バゼットの車に乗せられ、走る事一時間。彼女が士郎達を連れて来たのは衛宮邸だった。

「……私の拠点を明かすわけにもいきませんし、遠坂の屋敷やアインツベルンの城に踏み入るのは遠慮願いたい。故に結界が既にキャスターに破られているココを選びました」

 バゼットは淡々と語りながら無遠慮に衛宮邸の敷居を跨ぐ。

「お、おい、靴は脱いでくれよ!」

 土足で上がろうとするバゼットに堪らず士郎が抗議の声を上げた。
 凜とイリヤが慌てて彼の口を塞ごうとするが、バゼットはキョトンとした表情を浮かべ、頭を下げた。

「失礼しました。未だに日本の習慣に疎いもので……」
「あ、いや、分かってくれたならそれで……」

 靴を丁寧に揃えて上がるバゼットに士郎はすっかり毒気を抜かれてしまった。
 そんな彼を叱責しながら、イリヤと凜が後に続く。二人は士郎とは比べ物にならない程の強い警戒心を彼女に抱いている。
 その理由は士郎の魔術にある。士郎の投影魔術は異端そのものであり、見るものが見れば、“『一代限り』であり、『学問では習得不能』な能力”という封印指定に選ばれる条件が揃ってしまっているのだ。
 間違っても、士郎をホルマリン漬けの標本などにさせるわけにはいかない。ついさっき、己の相棒を失ったばかりのイリヤも意識を切り替えざる得ず、緊張しながら決意を固めている。

「どこか、話し合いに適した部屋はありますか?」
「えっと、居間でいい……、ですか?」
「居間……、リビングですね。ええ、案内して下さい」

 士郎が居間に案内すると、バゼットは低いテーブルの傍に腰掛け、他の面々にも座るよう促した。
 全員が着席するのを確認した後、彼女は口火を切った。

「では、最初にコレにサインをして下さい」

 バゼットが懐から出したモノに士郎は首を傾げ、凛とイリヤは殺気だった。

「えっと……、これは?」

 暢気に尋ねる士郎にイリヤが押し殺したような声で説明した。

「魔術契約の証文よ。これにサインをするという事は“特定のルール”を自らに課す事に同意するという事。破った場合、命か……、あるいはもっと別の何かを奪われる」

 凜がバゼットを睨み付ける。

「こんなモノをいきなり突きつけてくるなんて、舐めた真似をしてくれるじゃない。封印指定の執行者だからって、遠坂家の当主を舐めるんじゃないわよ」

 怒りを滲ませる凜にバゼットは冷ややかな眼差しを向ける。

「既にサーヴァントを失い、敗者となった貴女達に選択の余地があるとでも? 安心しなさい。別に貴女達の行動を闇雲に縛るものではありません。貴女達に守ってもらう制約は一つ」

 バゼットは証文を開いて三人に見せた。

「――――“聖杯の解体に全面的な協力を惜しまない事”。これだけです」
「せ、聖杯を解体ですって!? 冗談じゃないわ!! 何で、そんな事を――――」

 バゼットの暴挙とも言える発言に凜が食って掛かる。対するバゼットは冷静そのもの。

「……理由について、私よりも詳しい方がそこに居ますよ」

 バゼットの視線の先を追うと、イリヤが舌を打った。

「――――そう、気付いちゃったんだ。じゃあ、もう聖杯戦争は今回で終了ってわけね」

 イリヤは深々と溜息を零しながら言った。

「どういう事……?」

 凜が問う。

「――――まあ、この期に及んで凜と士郎だけが知らないなんて、不公平だものね。恐らく、キャスターとマキリは勘付いてるだろうし……」

 そう前置きをして、イリヤは聖杯に纏わるアインツベルンの秘め事を語り始めた。

「発端は七十年近く前に行われた第三次聖杯戦争。聖杯戦争史上、最も混迷を極めた戦いよ。ナチスや帝国陸軍の介入もあって、聖杯戦争は始まる前から熾烈を極めたわ。未だ、サーヴァントが揃わない内から帝都で争いが始まっちゃって……、その激戦にお爺様も肝を冷やしたみたい。当時、彼は二つの選択肢の間で揺れていた。圧倒的なアドバンテージを得られる“裁定者”を喚ぶか、殺す事に特化した“魔王”を喚ぶかでね。そして、彼が選んだのは“魔王”だった」
「魔王……?」
「“この世全ての悪”の名で知られるゾロアスター教の悪神よ」
「ば、馬鹿を言わないでよ。神霊を呼び出す事なんて――――」

 イリヤの言葉に凜が声を荒げた。出来る筈が無い――――、と。
 対して、イリヤは自らの恥部を晒すかのような苦悶の表情を浮かべて言った。

「ええ、そんな事は不可能。だから、呼び出されたのは“災厄の魔王”では無く、何の力も持たない脆弱なサーヴァントだった」
「どういう事……?」

 凜が問う。

「神霊を召喚する事は不可能。だけど、お爺様は無理矢理ソレを呼び出そうとした。その結果、ただ“『この世全ての悪』という役割を一身に背負わされた憐れな人間”が召喚に応じる結果となった」
「アンリ・マユを背負わされたって……?」

 士郎の問いにイリヤは淡々とした口調で答える。

「文明から隔絶された小さな村によくある因習よ。生贄を見繕い、あらゆる災禍の根源を押し付け、延々と蔑み、疎み、傷つける。その結果、平凡な村人だった筈の彼、あるいは彼女は『そういうモノ』になってしまった。――――とは言っても、神になったわけじゃない。ただ、そういう役割を押し付けられた人間というだけ」
「それって……」

 何故か、士郎の脳裏に大切な相棒の顔がチラついた。

「“この世全ての悪”という役割を持つとは言え、彼は脆弱な人間でしかなかった。だから、初戦であっさりと敵のサーヴァントに討伐されてしまった。問題はその後――――」

 イリヤは自分の髪を弄りながら続ける。

「彼は確かに脆弱な人間だった。特別な異能も宝具も持たないただの人間。だけど、彼は周りから身勝手な願いで“この世全ての悪であれ”という“祈り”を背負わされていた。敗北し、“力の一端”として聖杯に取り込まれた時、聖杯の“願望機”としての機能が働き、彼が背負わされた“祈り”を叶えてしまったの」
「叶えてしまったって……、まさか!!」

 士郎と凜は一気にイリヤの語る真実の恐ろしさを理解した。

「――――そう、彼は偽物から本物に変わった。とは言え、既に聖杯に取り込まれている状態だから、外に災厄を撒き散らすような事は無かったわ。けど、そのせいで聖杯自体が穢れてしまった」

 イリヤは語る。

「本来、“聖杯”は根源へ至る為の架け橋よ。七体の生贄を捧げ、『 』へと至る道を繋ぐ為の杯。“願望機”としての機能なんて、その副産物に過ぎない。けれど、その両方ともが歪められてしまった。今の聖杯は“この世全ての悪であれ”という彼、あるいは彼女の背負う“祈り”のみを叶える為の胎盤でしか無い」
「そ、そんな……」

 凜は言葉を失っている。当然だろう。遠坂家の悲願であった聖杯がとうの昔に壊れていたなど、彼女にとっては悪夢でしかない。

「……なら、どうしてアインツベルンは聖杯戦争を続けたんだ?」

 対して、士郎はどこか冷淡な口調で問う。

「確かに、機能は歪められている。けど、失われたわけじゃないのよ。此度のキャスタークラスの魔術師なら、聖杯の破損を修復する事も可能かもしれないし、私でも『 』へ至る為の道を作る事くらいは出来る。だから、アインツベルンは聖杯を求め続ける」
「で、でも――――」
「シロウの言いたい事は分かるわ。聖杯の完成は即ち、災厄の魔王の顕現を意味するんだもの。だけど、それがアインツベルンなのよ。数千年に及ぶ妄執は“60億の人間を呪う災禍”を目覚めさせる事も些事として切り捨てる」
「そんな……」

 愕然とした表情を浮かべる士郎にイリヤは顔を背ける。

「シロウには理解出来ないだろうし、する必要も無いわ。ただ、これは事実なのよ。あるがままに受け入れるしかない事実なの……」
「イリヤ……」

 まるで、今にも泣きそうな声で呟くイリヤに士郎はただ頭を撫でてやる事しか出来なかった。
 けれど、それで少し安心したのか、イリヤの肩がストンと落ちた。

「……とりあえず、理解してもらえましたね? 私も伝手を頼り、真相に行き着いた時は愕然としました。とにかく、聖杯は解体しなければならない。この事に異論は無い筈です」

 バゼットが凜、士郎、イリヤの順に視線を向ける。
 三人がゆっくりと頷くのを確認すると、バゼットは言った。

「――――とは言え、貴方達は一度聖杯を求め、戦いに参加する事を決意したマスターだ。途中で心変わりされるような事態は避けたい。申し訳ありませんが、証文にサインをお願いします」

 もはや、拒絶の意思を見せられる者は居なかった。三人はゆっくりと証文にサインを行う。
 
「これで契約は受理されました。これより、私達はチームです。まずは情報交換から始めましょう」

 バゼットはそう切り出すと、懐から一枚の紙を取り出した。一瞬、身構えそうになる凜とイリヤの前に彼女が広げたのは冬木市の地図だった。

「現在、この冬木の地には三つの勢力が出来上がっています」

 バゼットは柳洞寺を指差した。

「まず、キャスターを頭とした陣営」

 次に彼女が指差したのは間桐邸。

「次は間桐臓硯を頭とした陣営」

 最期に彼女は衛宮邸を指差した。

「最後が私達です」
「待ってよ。キャスターは臓硯の陣営でしょ? 臓硯がキャスターのマスターなわけだし……」
「違うわ、リン」

 否定の声はイリヤのものだった。

「マキリはキャスターのマスターじゃない」
「……じゃあ、同盟を結んでいるって事?」
「そうじゃない。貴女がそう判断したのはセイバーとアサシンの存在が原因ね?」

 頷きながら、凜はイリヤの言葉の不可解さに眉を顰めた。

「何が言いたいの……?」

 凜の問いにイリヤは答えた。

「まず、アサシンは本来、キャスターが反則を行い召喚した“佐々木小次郎”という侍だったわ」
「まさか――――」
「嘘じゃないぜ。俺が証人だ。一回、奴とは手合わせしたからな」

 音も無く実体化してイリヤの言葉を肯定したランサーにバゼットを除く三人が身構える。

「おっと、別に暴れたりしねーから、そう警戒すんなよ」

 軽口を叩きながら壁を背凭れにして座り込むランサーをイリヤは無視する事にしたらしく、話を再開させた。

「あの森に居たアサシンはマキリが反則に反則を重ねて召喚したイレギュラーなのよ。彼は元々、キャスターが召喚した佐々木小次郎を寄り代にハサン・サッバーハを召喚するという暴挙を行ったの」
「……なら、あのセイバーは何なの?」

 既にバゼットによって倒されたアサシンの事など正直どうでも良かった。
 反則に反則を重ねる暴挙への怒りや呆れも一瞬で頭の中から飛んで行った。
 重要なのは臓硯と共に居た黒い鎧を纏うセイバー。

「……アレはセイバーよ」

 その言葉に口を開きかけた士郎と凛を制止して、イリヤは言った。

「ただし、前回の聖杯戦争で召喚された方のセイバーよ」
「な、なんだって……?」

 目を瞠る二人にイリヤが頷く。

「前回――――、第四次聖杯戦争において、衛宮切嗣はお爺様より託された騎士王の鞘を寄り代にアーサー王を召喚した。私もまさか、前回の聖杯戦争の後、消えずに存命し続けていたなんて思わなかったけど、直接見た瞬間に理解出来たわ」
「どういう事だ?」

 士郎が問う。

「アイツは聖杯の力で受肉したのよ。けど、“この世全ての悪”によって汚染された聖杯を使ったせいで反転してしまった。何がどうなって、マキリと手を組むに至ったのかは分からないけれど……。とにかく、あのセイバーとシロウのセイバーは別物よ」
「……そうか」

 士郎は安堵の溜息を零した。別物だとは思っていたが、確証が無かった。
 だが、そうなると湧き出す疑問がある。

「……アイツはアーサー王なのか?」

 内におぞましいナニカを飼う黒衣の剣士。あれが本来のアーサー王だとしたらイメージと違う。
 清廉潔白なる王。騎士の理想の体現者。常勝無敗の覇者。
 アレはそんなアーサー王に対して士郎が抱くイメージとあまりに掛け離れている。

「言ったでしょ、反転しているって――――。アレはアーサー王であって、アーサー王じゃない。恐らく、受肉の際に“この世の全ての悪”の呪いを受けてしまったんでしょうね」
「……じゃあ、本来のアーサー王はむしろ、セイバーに近いって事か?」
「まあ、あんなおちゃらけた性格では無かったでしょうけど、在り方としては彼の方がまだ本物に近いと思う。今のアーサー王はアーサー王でもありながら、同時にアンリ・マユでもある状態なんだと思う」

 イリヤはスーッと息を吸った。

「そして、ここからが本題。マキリがどうやって、アレを制御しているのかは不明だけど、一つ判明した事実がある」
「判明した事実……?」

 バゼットが問う。

「最後に会った日の事を覚えてる?」

 イリヤは士郎を見て問い掛けた。

「あ、ああ……」
「あの時、シロウがライダーを倒したと聞いて、私は心から驚いたわ。未熟者のシロウがサーヴァントを討伐したからってわけじゃない。それより、問題は深刻だった」

 イリヤは語る。

「私は今回の聖杯戦争における聖杯なのよ」
「聖杯……、イリヤがって、どういう意味だ?」
「そのままの意味よ。私という人格やこの手足は聖杯という核に外付けされたパーツでしかないの。ただ、サーヴァントが脱落する度に彼等の魂を受け入れ、聖杯として完成する。それが私の役割」
「それって……」

 イリヤの衝撃的な告白に言葉を失う士郎。
 対して、イリヤは儚げに微笑む。

「その為だけに生まれ、その為だけに生きて来た。サーヴァントの魂を受け入れる度、私という外装は壊れていく。それも運命だと受け入れていた。なのに――――」

 イリヤは唇を噛み締め、怒気を篭めて言った。

「ライダーの魂を横取りされた」
「どういう事ですか?」

 バゼットが鋭い視線をイリヤに投げ掛ける。

「マキリはアーサー王だけでなく、何らかの方法で別個の聖杯を手にしたのよ。それもマキリ風のアレンジを加えたものを……。アンリ・マユの一部を現出させるなんて、あんな物を制御出来るつもりなのかしら」

 敵意を篭めて吐き捨てるイリヤにバゼットが暗い表情を浮かべる。

「では、現状、最も危険度が高いのはマキリの陣営という事になりますか」
「……そういう事か」

 凜が悔しげに呟く。

「遠坂?」

 士郎が声を掛けると、凜は言った。

「つまり、アイツが言っていた徘徊するモノってのは、マキリの聖杯の事だったわけよ。その危険性も承知の上だったんでしょうね。だから、キャスターをわざと逃がしたりした……。ちゃんと話してくれれば……」

 ぶつぶつと呟く彼女の瞳には怒りの他に哀しみの感情が宿っている。

「とにかく、そういう事なら方針は決まりました」

 バゼットが手を叩き言った。
 全員の視線が彼女に集まる。

「私が貴方達に協力を要請した理由は御三家の知識とマキリのセイバーに関する情報が欲しかったからですが……、路線を変える事にします」

 バゼットはランサーに視線を向ける。 
 彼は薄く微笑み、頷いた。

「少なくとも、その小僧は大丈夫だ。それに、小僧が大丈夫なら、後の二人も大丈夫になる」

 ニヒヒと笑うランサーに首を傾げる士郎。
 そんな彼にバゼットは言った。

「ランサーには今まで、各陣営に対する情報収集を行ってもらっていました。そして、全マスター中、もっとも協力者に適した者は貴方だと、ランサーは判断した」
「……えっと」

 突然の言葉に士郎は面くらい、ランサーを見た。

「お前さんのお人好し振りとか、色々覗き見させてもらったぜ。その上での判断だ」
「……衛宮士郎。これより、貴方のセイバーを取り戻しに向います」

 ランサーのストーカー発言に憮然とした表情を浮かべる士郎にバゼットが言った。

「セ、セイバーを!?」
「貴方ならば裏切らない。そう、ランサーが判断した。故に貴方の戦力を取り戻します。マキリの陣営はあまりにも危険過ぎますから、戦力は多いに越した事は無い」
「ほ、本当に……、セイバーを?」
「ついでにアーチャーも可能ならば取り戻しましょう。三騎士の英霊が揃えば、もはや恐れるものは無い」

 バゼットは言った。

「明朝、キャスターの拠点を攻めます。そして、セイバーとアーチャーを取り戻す」

第十六話「あなた達に此度の聖杯戦争における数多の異常の解決への協力を要請します」

 地獄。そこは紛れもなく地獄だった。あたかも、龍に襲われているのかと思うような光景が広がっている。紅蓮の大蛇がとぐろを巻くように蠢き、家々を焼き払い、人を喰らい、闇夜を赤々と照らしている。遠くで微かに聞こえていた悲鳴ももはや聞こえない。
 死が蔓延する中に彼は居た。一秒ごとにナニカが彼から失われていく。死に対する憎悪を見失い、理不尽に対する憤怒が零れ落ち、希望と言う足場は崩落し、最後に自我が闇に呑まれ往く。
 瓦礫の山に横たわり、彼はただ只管、広がり続ける地獄を眺めている。何もかもを失い、彼は自らの運命を受け入れた。けれど、それは諦め故では無い。死に往く者は死に、生ける者は生きるという自然の摂理を理解しただけに過ぎない。
 けれど、彼は理解すると同時に思ってしまった。

“ああ、だけど――――、この場で何もかもを救う事が出来るなら、それはどんなに素晴らしい事だろう”

 それが衛宮士郎の持つ正義の味方への憧れの源流。
 最初はただ、誰も苦しまなければいいと思っただけだった。その為に、衛宮切嗣が掲げる“正義の味方”という在り方は都合が良かった。何より分かり易いし、理想的に思えた。
 だから、目指した。行き先が見えているから、どんなに険しい道でも突き進む事が出来た。
 その道の果てに行き着く為に、彼はあらゆるものを――――、犠牲にした。

 日の出と共に二人は遠坂邸を後にした。

「――――確認するけど、私達がこれから踏み入ろうとしているのは郊外の森。未だ、人の手が入っていない広大な樹海。そのどこかにアインツベルンの別荘がある筈」
「あそこか……。かなり深くて広いって話だよな。前に藤ねえから聞いた話だと、年に何人か、あそこで遭難者が出てるらしいぞ」
「まあ、アインツベルンの結界の防衛機能の影響も少なからずあるでしょうけど……。イリヤスフィールの事を抜きにしても、あの場所は危険よ。常に警戒を怠らない事。いいわね?」
「ああ、もちろんだ」

 数分後、予約したタクシーが指定の場所にやって来た。凛と頷き合い、士郎はタクシーの運転手に目的地を告げた。

「……郊外の森かい?」

 怪訝な表情を浮かべる運転手。当然の反応だと思う。あの森は自殺の名所としても有名な上、国道が走っている以外に何も無い。
 娯楽施設の一つも無い樹海の傍へ早朝から赴こうとしている高校生二人。怪し過ぎる。
 最悪、凜に暗示を掛けて貰う事を視野に入れていた士郎は諦めたように凜にアイコンタクトを送った。
 凜は優雅に微笑み、頷く。分かってくれたようだ。ホッと一安心……、

「ただのデートですよ。前々から樹海を見てみたかったんです。その事を彼に相談したら、『任せておけ』って。なーんか、下心を感じるんですけど、彼はアウトドアの経験が豊富なので」

 一体、この方は何を言い出しているのでしょう……。

「なーるほど、デートか! けど、あそこには野犬も多いぞ?」
「もっと怖いケダモノが傍に居るから、あんまり怖くありませんよ。彼、格闘技の経験も豊富なんです」
「そうかい、そうかい。けど、あんまり無茶はいかんよー?」
「まあ、国道沿いに外周を見て回るだけですから」

 あれよあれよという間に凜は運転手を説得してしまった。士郎に下心満載のケダモノという不名誉な称号を押し付けた上で……。
 タクシーが郊外の森に到着した後、運転手は去り際に「あんまり、外で盛り上がったらいかんぞー!」と言い残して走っていった。
 森に踏み込む前から、士郎は激しい疲労感に襲われた。

「もう少し……、何とかならなかったのか?」
「いいじゃない。ああいう中年男はこの手の話で煙に巻くのが常套手段よ。暗示の魔術で運転に支障が出たら、こんなに早く到着出来なかったでしょうし」
「まあ、それはそうだけど……。いいのか?」
「何が?」
「その……」

 士郎は言い難そうに頬を赤らめている。

「俺と恋人同士みたいに扱われて……、遠坂はいいのかよ」
「……ップ」

 士郎の言葉に凜は堪らず噴出した。

「な、なんでさ!?」

 笑われるのは心外だと立腹する士郎に凜は言った。

「構わないわ」

 凜は言った。

「……え?」
「別に構わない。そうね……、貴方風に言うなら、私も貴方の事が嫌いじゃない。だから、恋人同士に見られても、別に構わない」
「と、遠坂……」

 茹蛸のようになる士郎に凜は微笑んだ。

「なーんてね。そういう甘酸っぱいのはセイバーを助けてからにしましょう。……それとも」

 凜は目を細め、真面目な顔をして問う。

「このまま、二人で逃げちゃう?」
「……それは」
「貴方がそうしたいって言うなら、一緒に逃げてあげてもいいわよ?」
「遠坂……」

 凜は語る。

「ハッキリ言って、イリヤスフィールに協力を要請しに行くなんて、死にに行くのも同然。だって、此方から差し出せるものが皆無だもの。等価交換どころじゃない。私達がしようとしている事は一方的な要求を突きつけて頷かせようって行為。それにもし、イリヤスフィールと協力関係を結べたとしても、相手はセイバーとアーチャーを手中に収めたキャスター。ハッキリ言って、バーサーカーだけだと勝ち目は薄い」

 淡々と語る彼女に士郎は口を閉ざす。

「もう、詰んでいるも同然の状況なのよ。だから、逃げるも一手だと思う。二人で遠くの街に逃げて、結婚でもして、幸せに暮らす。それって、割と素敵な未来じゃない?」
「ああ、そうだな……」

 士郎は一瞬、凜と共にある未来を想った。

「だけど、遠坂は諦めないだろ?」

 確信に満ちた問い。凜は答えない。

「もしも、遠坂が本気で俺と一緒に居てもいいって思ってくれているなら、凄く嬉しい。だけど……、もしも、そっちの未来を取ったら、俺達はきっと――――」
「ええ、間違いなく後悔する事になる。二人揃って、おかしくなる」

 士郎と凜は顔を見合わせ、笑い合った。

「だって、それは自分を曲げる事だから……」

 凜の言葉に士郎が頷く。

「俺はセイバーを助けたい」
「私はアーチャーを取り戻したい」

 願いは同じ。進む覚悟も出来ている。

「……けど、さっきの言葉は嘘じゃないわよ?」
「遠坂?」
「貴方の事、嫌いじゃないわ。だから、これからは無理はせずに生き残る事を第一に考えて行動しなさい」

 凜の真っ直ぐな瞳に士郎は途惑う。

「貴方が死んだら、少なくとも私が悲しむ。貴方、私を泣かせたら唯じゃ済まないわよ?」
「……ああ、肝に銘じておく。遠坂も……、絶対に死ぬな。俺も遠坂が傷つくのを見るのは嫌だ」

 あまりにも眩しい。彼女は魔術師で、普段は猫を被ってて、実はとっても溌剌とした性格で、学園一の美少女で、士郎にとっての憧れで、とても魅力的な女の子。
 
「さあ、行こう」

 森へと足を向けながら、士郎は思った。
 もし、イリヤとの交渉が決裂し、戦闘になったとしても、遠坂の事は必ず守る――――、と。

 国道から離れ、雑木林を抜け、樹海に入る。三時間くらい歩き続けたところで一息吐く。
 一筋縄ではいくまいと覚悟はしていたけれど、実際に樹海を進んでいると精神的にキツくなってきた。
 既に陽が完全に昇っているというのに、森の中は仄暗く、十数メートル先すら見通せない。行けども行けども風景に変化は無く、自分が今、正しい道順を歩いているのかどうかも分からない。
 獣の息遣いは欠片も感じられない。この森に存在する生命体は己と凜の二人だけ――――、そんな気がする。

「ストップ」

 更に奥へと進もうとすると、凜に待ったを掛けられた。
 首を傾げる士郎に対して、凜は奇妙な表情を浮かべている。

「おかしい……」
「どうしたんだ?」

 凜は答えず、森の奥を睨んでいる。

「……ここは既にアインツベルンの領域である筈。なのに、幾らなんでもアクションが無さ過ぎ……――――!?」
「とおさ――――ッ!?」

 瞬間、地面が大きく揺れた。遠くの方から爆発めいた音が響いてくる。

「これは――――」

 凜が走り出す。士郎も慌てて彼女の後を追った。
 胸騒ぎがする。この先に待ち受けているものが何なのか分からない。なのに、それが“とてもよくないモノ”である事は分かる。
 
「――――投影開始」

 干将・莫耶を投影する。真に迫る出来栄えと言えど、やはりオリジナルには敵わない。
 この先で待ち受けているものが何であれ、コレで対処出来ればいいが……。

 イリヤスフィール・フォン・アインツベルンは既にその存在を察知していた。
 衛宮士郎からライダーが既に敗北している事を聞いた時、己と同じ存在が別個に存在している事を認識し、調査を進めた結果だ。
 冬木全域に放った使い魔からの情報を束ね、ソレが間桐の手の者である事を突き止めた。

「――――これは」

 問題なのはソレの危険性。本来なら、歯牙にも掛ける必要の無い雑魚である筈なのに、ソレが敷地内に侵入して来た瞬間、イリヤは逃走を選択せざる得なかった。
 ソレの正体は――――、“聖杯”。
 聖杯戦争で破れたサーヴァントの魂を受け入れ、奇跡の為の薪とする魔術炉。アインツベルンが聖杯戦争の度に拵えるモノであり、此度の聖杯戦争における聖杯こそ、イリヤの正体だった。
 だと言うのに、この聖杯戦争にはもう一つ、聖杯がある。とは言え、アインツベルンの聖杯とは似て非なるものではあるが……。
 本来、聖杯とはアインツベルンの魔術特性である“力の流動”と“転移”を基盤として作られている。対して、ライダーの魂を横取りした間桐の聖杯は吸収や戒め・強制という間桐の魔術特性を基盤としている。
 聖杯としての本質的な機能である、“サーヴァントの魂の回収”は備えているらしいが、間桐の聖杯にはアインツベルンの聖杯には無かった凶悪な機能が追加されている。
 その追加された能力はあまりにも危険過ぎた。最強であると確信している自らの狂戦士ですら、アレには敵わないと確信する程の脅威。
 故に逃げた。
 逃げ切れるわけも無いのに、逃げた。
 そして――――、追いつかれた。
 
「賢明な判断だ。勝てぬと悟り、迷わず逃走を選ぶとは、此度のアインツベルンが用意した人形は中々に筋が良い」

 深いな声と共に目の前に現れたのは枯れ木を思わせる老魔術師。そして、その傍らに佇むは――――、

「ふーん。アサシンの魂までそっちに横取りされたのかと思ったけど、反則に反則を重ねてくるとは思わなかったわ」
 
 この聖杯戦争に召喚されたアサシンは青い衣を纏う侍だった。
 けれど、本来なら聖杯戦争に侍が召喚されるなど、あり得ない。冬木の聖杯戦争のシステムはアインツベルンの魔術師基盤を用いているが故に西欧で名の知れた英霊以外は召喚出来ない筈なのだ。
 よほど、ヨーロッパ諸国にも名が知られている大剣豪なら話は別かもしれない。かの剣聖、宮本武蔵や第六天魔王、織田信長あたりならば召喚する事も出来るかもしれない。
 けれど、佐々木小次郎などという実在したかどうかすら定かでは無い侍を召喚する事は不可能なのだ。
 それが最初の反則。キャスターが為した、“英霊が英霊を召喚”するという禁忌。それ故に起きたイレギュラー。
 この老魔術師はその反則に更なる反則を行使した。それ即ち――――、

「アサシンを寄り代に新たなるアサシンを召喚するなんて、やるじゃない……」

 アーチャーによって寄り代であった山門ごと吹き飛ばされたかのように思われたアサシン。
 けれど、彼はその時点でまだ生きていた。元々、彼は此度の聖杯戦争において、最高の敏捷性を誇っていた。故に山門の破壊を最優先としたアーチャーの矢を寸前で回避する事に成功していた。
 だが、その瞬間を老魔術師に狙われた。寄り代が破壊され、野良サーヴァントとなったアサシンを使い、老魔術師は本来呼び出されるべき暗殺者を召喚したのだ。
 名は――――、ハサン・サッバーハ。アサシンという単語の由来ともなった暗殺教団と呼ばれる組織の長を務めた歴代の指導者。その内の一人。

「マトウゾウケン……」

 名を問うまでも無い。故郷の城で教わった同朋の魔術師。

「聖杯に選ばれてもいないモノが、マスターの真似事をするなんてお笑い草ね」
「是は異なこと。聖杯がマスターを選ぶなど、教会の触れ込みに過ぎぬ。アレはただ、炉にくべる薪を調達する人間を欲するのみよ」
「――――確かに、聖杯はただ注がれるだけのもの。マスターはただ、儀式の一端として用意されるだけのものよ。だけど、器たる聖杯に意思は無くとも、大本である大聖杯には意思がある。そんな事も忘れてしまったなんて、マキリの衰退は本当に深刻なようね」

 イリヤの嘲りを臓硯は呵々と笑って受け止める。

「案ずるな。マキリの衰退もここまでよ。事は既に成就しているも同然。だが、あまりにも事が順調に進み過ぎておって、逆に不安が大きくなる。故、万が一の為にお主の体を貰い受ける。ここで聖杯を押えて置けば、我が悲願は磐石となるであろう」

 臓硯の瞳に鬼気が宿ると共に白面をつけた黒衣の暗殺者は戦闘態勢に入る。
 けれど、踏み込むには至らない。当然だろう、彼の前には最強の護衛が君臨しているのだから――――。

「ふーん。主に似て、臆病なのね、アサシン。死ぬのが怖い? なら、最初から戦わなければいいのに、愚かね」
「生憎、儂もこやつも易々とは死ねぬ。悲願があるのだ。儂は不老不死を、こやつは永劫に刻まれる自身の名を望んでおる。己の命は何より大事。だが、前に進まねばならぬ苦渋。お主には分かるまいて。我等にあるのは邁進のみよ」

 その在り方にイリヤは嫌悪感を覚える。

「マキリも終わりね。貴方の技術は確かに役に立った。だから、同朋として、これ以上の無様を晒す前に終わらせてあげる。もう、手遅れかもしれないけど……」

 不老不死などという世迷言を聖杯に託すなど、イリヤからすれば正気の沙汰じゃない。

「……所詮、お主は人形よな。如何に精巧に作られていようが、人間には近づけなんだ。短命を定められし作り物よ、貴様は人間を理解出来て居らぬ。死という終焉を越え、永劫に自己を存続させる祈りは現在過去未来、万国共通の人類の悲願よ」

「――――ええ、理解出来ないわ。だって、貴方はまるで自分こそが人類の総意を語っているみたいに思っているようだけど、そんなの勘違いだもの。貴方は人間の中でも特例。自らの寿命を受け入れられずに乱心している病人よ」
「ッカ、死が恐ろしくない人間など居らぬ。それは如何なる真理、如何なる境地に達した者とて同じ事よ。最期に知っておけ、人形よ。目の前に生き延びる手段があり、手を伸ばせば届くと言うのなら、人は――――、あらゆる倫理を棄て去り、あらゆる犠牲を払い、なんとしても手に入れようとするものなのだ」

 その言葉にイリヤの表情が一変した。

「呆れたわ、マキリ。私達の悲願、奇跡に至ろうとする切望が何処から来たのか、本当に思い出せないの? 何の為に、私達が人の身である事に拘り、人の身であるままに、人あらざる地点に至ろうとしていたのか……」

 冷たい声に臓硯は一拍の間言葉を失い、されど狂気の笑みを浮べ言い捨てた。

「――――人形風情がユスティーツァの真似事をした所で響きはせん。お主の体には用があるが、心には無い。さらばだ、アインツベルンの人形よ。貴様に宿りし聖杯は、この間桐臓硯が貰い受ける」

 老人の足下から影が伸びる。瞬間、バーサーカーが吼えた。
 主の命よりも早く、動き出す狂戦士にイリヤは「駄目!! 戻って、バーサーカー!!」と叫んだ。
 ソレを相手にすれば、バーサーカーは戻って来れなくなる。それを知るが故に少女は叫ぶが、狂戦士の耳には届かない。
 否、届いていても踏み止まる事など不可能。何故なら、自らの停滞は少女の死を意味するが故――――。

 徐々に地響きが近くなってくる。もう直ぐ、現場に辿り着く。
 あの木々を抜ければ、目前に最強の英霊の戦場が広がっている筈――――、
 
「――――ッ」

 足が地面に縫い止められたかのように止まった。
 木々の無い開けた場所に出た瞬間、全身が警鐘を鳴らした。
 逃げろ。全身全霊の限りを尽くして逃げろ。さもなくば死ぬ。死なずとも、死よりも恐ろしい結果が待ち受けている。
 そんな警鐘を力ずくで黙らせ、瞼が閉じぬように気合を入れる。
 
「あれは……」

 そこにあり得ない光景が広がっていた。
 戦場に立つは三体のサーヴァント。内、一体はバーサーカー。
 背後に幼い主を庇い、奮闘している。
 
「うそ……」

 もう一体は正体不明のサーヴァント。白い面をつけた黒衣の英霊。既に七体のサーヴァントを確認済みだから、アレは八体目という事になる。
 それだけでもとんでもない異常事態だが、士郎と凜の瞳は最後の一体に引き付けられている。
 そこに立っていたのは――――、

「セイ、バー?」

 あり得ない。何故、彼がここに居るのだろう?
 凜が何かを叫んでいるが、士郎の耳には届かない。
 誰よりも守らなければならなかった筈の存在。誰よりも救わなければならなかった筈の存在。何を置いても取り戻さなければならない存在。
 セイバーが目の前に居る。だけど、様子が少しおかしい。
 常の蒼天を思わせる甲冑が黒く染まっているし、その顔は無骨なプレートに覆われている。
 何より、その身に纏う禍々しい魔力が以前の彼と全く違う。

「どうなってんだよ……」

 うろたえる士郎を尻目に戦闘は苛烈さを増していく。
 狂戦士が雄叫びを上げ、斧剣を振るう。岩山をも切り裂く一撃を受け、セイバーはされど一歩も引かずに前進すらしていく。
 恐怖という感情を失ったかのような戦い方に只管戦慄する。
 懐に入り、容赦の無い一撃を繰り出すセイバー。如何なる攻撃も無効化させる鋼の肉体を易々と切り裂く。

「駄目、逃げなさい、バーサーカー!! そいつは違うの!! 戦っちゃ駄目なのよ!! そいつにやられたら戻ってこれなくなっちゃう!!」

 泣くようなイリヤの叫び。

「無駄だ。無駄無駄。如何に最強の名を冠する英霊とて、三対一では敵わぬが道理」

 嘲笑う老人の声。何者なのかと士郎が困惑する最中、凜が彼の正体を看破した。

「間桐……、臓硯。なるほど、アイツがキャスターのマスターってわけね」
「ど、どういう事だ?」
「分からないの!? あそこの白面のサーヴァントは間違いなく、アサシンよ!! しかも、セイバーまで連れてる。だったら、答えは一つじゃない!!」
「で、でも、アサシンはアーチャーが倒したって」
「アイツの勘違いだったんでしょ。山門を吹き飛ばして、速攻で貴方を助けに行ったみたいだし、一々確認してる暇は無かったでしょうからね」
「間桐……、臓硯」

 士郎は老魔術師を睨む。アレが元凶。己からセイバーを奪った下手人。
 飛び出しそうになる自分を必死に抑えながら、戦況をつぶさに確認する。
 彼等の地面には黒い沼が広がっている。それが何なのかは分からないが、底なしの沼となり、バーサーカーの動きを鈍らせている。しかも、沼から黒い蔦が幾つも伸び、彼の手足をも縛り付けている。

「あれは一体……」

 惑いは一瞬。剣と剣のぶつかり合う甲高い金属音に意識が戦場へと戻る。
 最強である筈のバーサーカーが圧されている。このままでは、限界が直ぐにやって来る。
 セイバーは沼を苦も無く走破し、バーサーカーの体を裂いていく。その姿に吐き気が込み上げて来る。
 あんな風に無情に他者を傷つける事はセイバーにとって何よりの恐怖であった筈。殺す為の行為など……。

「勝負あったな。後は任せたぞ、アサシン。これ以上、ここにおっても巻き添えをくらうが関の山よ。バーサーカーが呑まれ次第、その人形を捕らえ、戻って来い」

 臓硯の体が霞む。咄嗟に飛び出そうとする士郎を凜が止めた。

「な、なんで――――」
「駄目よ。さすがに今の状況は危険過ぎる」
「でも――――」
「黙って」

 凜に口を封じられ、口篭る士郎の耳に臓硯の声が響く。

「……よいか。アレは目に付くモノを見境無く呑み込む。魔力の塊であるサーヴァントやそこな人形も例外では無い。失態を犯すでないぞ」

 その言葉を最後に臓硯は気配ごと完全に消え去った。残ったのはアサシンとバーサーカー。そして、黒き光を帯びるセイバー。

「駄目!! お願いだから、逃げて、バーサーカー!! このままじゃ死んじゃう!! ううん、それよりもっと酷い事になる!! だから――――」

 少女の叫びは狂戦士をただ奮い立たせるのみ。
 逃げるなどという選択は無く、只管、背に守る少女の為に剣を振るう。
 膝まで沈んだ足を動かし、泥を蹴散らす。暴風の如く暴れるバーサーカー。彼は自らを縛る黒い蔦に手を――――否、ソレ自体に触る事の危険性を知るが故にソレらが纏わりついた腕を自ら引き千切った。
 狂戦士が奔る。拘束が緩んだ一瞬を逃さず、セイバーに襲い掛かる。
 最後にして、最強の一撃。瀕死になりながら繰り出した究極の一撃。
 
「だ、駄目だ、セイバー!!」

 もはや、止まれない。状況的に見て、明らかにバーサーカーが不利だが、あの一撃にセイバーが耐えられるとも思えない。
 セイバーが死ぬ。その光景を幻視し、士郎は凜の拘束を振り解いた。
 けれど、士郎の足が大地を蹴るより速く、セイバーが動いた。

「――――あ」

 弾き返した。最強であるバーサーカーの一撃をセイバーは難なく弾き返し、バーサーカーの胸を切り裂く。

「や、やだ!! いかないで、バーサーカー!!」

 走り出すイリヤ。巨人の足下に広がる黒い沼が目に入っていないかのように、一心に狂戦士へと奔る。

「だ、駄目だ、イリヤ!!」

 走る。どちらに味方するべきかなど、考えている余裕は無かった。
 だって、セイバーとイリヤは両方とも士郎にとって大切な日常のピースなのだから――――。

「イリヤ!!」

 バーサーカーへと駆け寄るイリヤを真横から抱き止め、必死に足を動かす。
 逃げなきゃ殺される。今のセイバーはもはや別人だ。キャスターを倒せば、取り戻せる筈だけど、今は無理だ。
 セイバーを救いたいと猛る本能を理性で押し潰し、凜の下へ走る。
 もがくイリヤに「すまない」と何度も謝罪を繰り返しながら走り続ける。
 
「――――士郎!!」

 凜の叫びと同時に音が止んだ。凜の下に辿り着き、振り返った先に見えたのは――――、

「なんて、デタラメ――――」

 魅入られた。たった、一瞬の間に心の底に焼き付いた。
 アーチャーの双剣やランサーの槍もアレの前では見劣りしてしまう。
 段違いの幻想。造形の細やかさや、鍛え上げられた鉄の巧みさで言えば、他にもソレを上回るモノがあるかもしれない。
 だけど、アレの美しさは外観だけでは――――否、そもそも、美しいなどという形容すら生温い。

 その剣はただひたすらに――――、“尊い”。

 あまねく戦場に倒れ逝く兵達が願った夢。
 剣を手にした者達が等しく謳う理想。
 そうした、人々の“希望”という名の想念が紡ぎし、『最強』。
 名は――――、

「約束された勝利の剣」

 闇色の光が森を吹き飛ばす。あまりにも強烈な輝きに視界が霞む。
 けれど、必死に堪える。ここで倒れるわけにはいかないと自らの体に渇を入れる。
 そして、見た。黒い炎を背に佇む剣士の姿。
 敵意も殺意も持たず、剣を向けて来るソレに士郎は無意識の内に呟いていた。

「――――お前は誰だ?」

 違う。この女はセイバーとは別人だ。外見が違うとか、性格が変わったとか、そういうんじゃない。
 ただ、違うと思った。
 
「アルトリア・ペンドラゴン。貴様は我が写し身のマスターだな。いや、キャスターに奪われたのだったか……。相見えたいと思っていたのだが、今回は諦めるとしよう。その人形を渡せ。さすれば、命までは取らない」

 その声はまさにセイバーそのもの。けれど、そこに宿るのは彼には無い冷たさ。
 酷く神経に障る声だ。

「断る。イリヤはお前達になんて渡さない」
「ならば、殺して奪うだけの事だ」

 剣士が黒い剣を振り上げる。
 瞬間、既に消滅したかと思われた狂戦士が雄叫びを上げた。
 酷い有り様だった。体の半分以上が消し飛び、もはや現界している事自体があり得ない状態。
 にも関わらず、残った腕で斧剣を握り、バーサーカーは剣士に襲い掛かる。
 彼の脳裏には一つの光景が浮んでいた。
 
『バーサーカーは強いね』

 雪の中でそう呟く主。
 
『だから、私は安心だよ。だって、どんなヤツが来ても、バーサーカーさえいれば負けないもん』

 そう己に告げた主が怯えた表情を浮かべている。
 殺されようとしている。
 ならば、己がやるべき事は一つ。如何にこの身が死に瀕していようと関係無い。
 己は最強でなければならぬのだ。でなければ、主が怯えてしまう。

「バーサーカー……――――!」

 狂戦士は吼える。その声に宿らぬ筈の意思を士郎は感じた。
 逃げろ、と狂戦士の背中が告げている。

「士郎、行くわよ!!」

 凜が走り出す。それで漸く、士郎も迷いを棄て去れた。
 バーサーカーが剣士を引き付けている今しかない。イリヤを抱えたまま走り出す。
 先行する凜の背を追い続ける。けれど、背後から迫る気配があった。アサシンだ。
 
「士郎、後ろ!!」

 振り向く間すら惜しみ、士郎は干将を振るう。
 黒塗りの短剣が干将にぶつかる。その向こうから声が響く。

「――――そこまでだ。オマエは要らない」
「いや、勝手に要らないとか言って殺すなよ。俺達はその小僧に用があるんだからよ」

 そんな軽口がアサシンの攻撃を防いだ。

「な、なんで……」

 口をポカンと開ける士郎に青き槍兵は楽しげに笑った。

「言っただろ、用があるってよ。そのまま走れ! 殿は俺が務めてやる!」

 何が何だか分からない。
 いきなり現れて、用があると言われても、相手は己を二度も殺そうとした相手だ。
 はい、そうですかと頷ける筈が無い。

「迷っている時間は無いぞ。アサシンはともかく、あの影とセイバーもどきに追いつかれたら詰みだ」
「……っくそ、分かってる!」

 ランサーの言葉はもっともだ。
 迷っている一瞬一瞬が命取りになる。士郎はイリヤを抱く手に力を篭め、走る事に集中した。

「そうだ、それでいい。その娘っこを守るんだろ? だったら、何が何でも守り切りな!!」

 言われるまでも無い。イリヤは守る。その為なら、過去の因縁も脇に置く。
 ランサーが何のつもりで助力しているのかは分からない。けれど、イリヤを守る一助となるなら是非も無い。
 利用するまでだ。

「行くぞ、遠坂!!」
「ええ、全力で走り抜けるわよ!!」
 
 速度を上げる士郎と凜。

「逃がさん!!」

 アサシンも二人を追撃する為に速度を速める。
 しかし――――、

「おっと、俺というものがありながら、余所見は感心しないぜ」

 赤い槍が走る。
 邪魔だとばかりにアサシンは黒塗りの短剣を投げる。
 ソレをランサーは軽く槍を振るうだけで防ぎ切る。
 アサシンの放つ短剣はそれこそ、アーチャーの射撃にも匹敵する破壊力がある。それも至近距離から受けて尚、ランサーが防げる理由が一つ。

「何らかの加護か――――」

 舌を打ち、アサシンはランサーから距離を取る。
 投擲が効かぬと分かっても、距離を詰める愚作は犯さない。
 三騎士の一画であるランサーに接近戦を挑むなど、それこそ死にに赴くようなものだ。
 故に狙うは無防備な士郎と凜の背中。如何なる理由かは知らぬが、ランサーは二人を賢明に守っている。
 ならばこそ、勝機はそこにある。
 走り続ける事一時間あまり。全力疾走を続けた士郎と凜は動きが徐々に鈍っていく。
 けれど、出口は間近に迫っていた。
 それがランサーに刹那の隙を生み出させた。

「――――貴様は死ね」

 歪つな腕。布に覆われたアサシンの腕が露出する。
 その身に見合わぬ巨大な腕を振り上げ、アサシンは叫ぶ。

「妄想――――」

 対して、ランサーは――――、嗤った。

「いや、お前は大した奴だったぜ、実際。ぶっちゃけ、技術も能力も眼力も悪くなかった。ただ、運が悪かっただけだ」

 ランサーは肩を竦めながら呟く。
 何故、アサシンの言葉が途切れたのか、士郎と凜は一瞬分からなかった。
 けれど、息が整い、視界が明瞭になった瞬間、理解した。
 そこに佇んでいたのは赤い髪の女だった。周囲に奇妙な球を浮かせ、拳を前に向ける女。
 そして、彼女の射線上で心臓に小さな穴を穿たれ消滅するアサシン。
 彼女がアサシンを殺したのだ。
 まさか、新たなるサーヴァントか?
 士郎の迷いは直ぐ後に彼女自身の口から否定された。

「――――魔術協会所属、封印指定執行者、バゼット・フラガ・マクレミッツ。アインツベルンのマスター、イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。遠坂家当主にして管理人、遠坂凛。魔術師殺しの息子、衛宮士郎。あなた達に此度の聖杯戦争における数多の異常の解決への協力を要請します」

第十五話「そんな事――――、オレはとうの昔から知っている」

 全てが上手くいった。戦いの日々は過去となり、俺の隣には彼が居る。元の姿には戻れなかったけど、構わない。
 驚くべき事だと思う。“幸せ”というものに小細工は不要だった。“美味しい料理”も“使いきれないお金”も“綺麗で広々とした家”も必要無い。ただ、その人の傍に居られるだけで、この世は天国に早変わりする。
 彼の顔から目が離せない。微笑むたびに目尻に寄る皺の数を数えてみる。他の誰に見せる時より、目尻の皺が多い。彼も俺の傍に居られる事を喜んでくれている事が分かる。

「手を出して」

 士郎が手を伸ばす。拒絶の選択肢など無く、自然に彼の手を握り締める。すると、彼の空いている方の手が腰に据えられた。身震いする。
 触れ合った肌が燃えるように熱くなる。最高の感覚。胸の奥が激しく疼く。いつまでもこうしていたいと思う。
 その願いは口に出す必要が無かった。彼はいつもこうして俺に触れている。傍に居る事を常に確認せずにいられないらしい。仕方の無い子だ。
 愛おしさが際限無く込み上げて来る。彼の頬に手を当てる。温かい肌の弾力が心地良い。彼と言う存在が俺に与える影響は果てしなく大きい。その事を実感し、涙が滲む。
 この感情が一方通行じゃない保証なんて無い。もしかしたら、彼が俺に向けている感情は想像と違うものかもしれない。こうして傍に居ても、彼の鼓動は速まっていないかもしれない。そう思うと、胸が引き裂かれそうになる。

「どうしたんだよ。何か、考え事か?」

 士郎が問う。俺はこの孤独な葛藤の答えを求めている。
 何て、強欲なんだろう。“生前”も含め、今までこんなに欲張りだったつもりは無い。なのに、求める気持ちが溢れ出す。
 ただ、傍に居るだけで、他の何処に居るよりも満たされるのに、彼の心を確かめたいと願ってしまう。
 想像通りの感情を向けて欲しいと求めてしまう。

「士郎……」

 嫌がられたらどうしよう……。
 そんな俺の迷いを感じ取ったのか、彼は安心させるように穏やかに微笑んだ。
 目の周りの皺が網目のようになる。最上級の笑みを浮かべた彼はこの世の如何なる存在をも凌駕するハンサムに変身する。
 
「どうした?」
「……俺」

 深呼吸をして、ありったけの勇気を振り絞る。

「俺……」

 瞳が潤む。動悸が激しくなり、頬が赤くなる。途端、彼は俺に回していた腕に力を篭めた。
 そして、抵抗する間も――するつもりも――無く唇を奪われた。
 
「士郎……」

 解き放たれた口からは蚊の鳴くような声しか出せない。

「愛してる……」

 一瞬、空白の時間が流れた。顔を上げ、彼の表情を伺いたいけど、恥ずかしくて死んでしまいそう。
 嫌がられたらどうしよう……。
 彼の表情に非難の色が浮んでいたら……、とても耐えられそうにない。

「……セイバー」

 ざらついた士郎の指先が顔に触れる。持ち上げられ、彼の視線と俺の視線が絡み合う。
 あごを押さえられ、固定されている為に、彼の熱い眼差しから逃れる事が出来ない。胸の奥がズキズキする。
 
「愛してる」

 たった五文字の言葉が世界を作り変える。光が満ち溢れ、風が歌う。
 
「……離れたくない。永遠に……」

「とりあえず、今後の方針について話しましょう」

 スープをスプーンで掬いながら、凜が切り出した。
 キャスターの襲撃から一時間が経ち、二人は今、遠坂邸のリビングルームで食事を摂っている。

「セイバーを救い出す」
「……言うと思ったけど、この期に及んで即答出来る貴方の神経の図太さには呆れるわ」

 溜息を零す凜に士郎は首を横に振った。

「――――これでも、色々と考えた末に出した結論なんだ。俺がこの戦いに参加する理由ってのを考えてみたんだ」
「それで?」
「初めは巻き込まれたから、とりあえず戦うしかないって思った。マスターになったからには、この戦いをどうにかしなきゃって、思ったんだ。けど……」

 士郎は言った。

「俺は正義の味方になりたいんだ。だから、みんなを守りたい。マスターとか、関係無く、この戦いで犠牲になる人を守りたい」

 凜は士郎の言葉をただ黙って聞いている。

「セイバーもその一人なんだ」
「……ふーん。セイバーもあくまで正義の味方が守るべき犠牲者の一人に過ぎないってわけ?」
「……って、思ってた」

 力無く、士郎は笑みを浮かべる。

「今は違うって事?」

 スプーンを置き、両手を組んで、その上に顎を乗せる凜。 
 微笑ましげな彼女の笑みに士郎は渋い表情を浮かべる。

「……ああ、違う。セイバーを助けるのは……、俺が助けたいからだ。正義の味方も関係無い」
「うん、合格。正義の味方として――――、とかふざけた事を言い出したら、ふん縛って、大師父の資料室にでも閉じ込めてやる所よ」

 真っ直ぐな眼差し。彼女は士郎の決断を心から認めてくれている。
 それが――――、他の誰に認められるよりも嬉しかった。
 
「私だって、アーチャーを助けたい。今頃、キャスターに何をされてるか分かったもんじゃないわ。調教なんて……」
「……いや、何を想像してんだよ」

 ちょっと、顔を赤くしている凜に士郎は思わず突っ込みを入れた。
 ふん、と顔を背けながら、ぶつぶつと「鞭で……、蝋燭とか……」などと物騒な単語を呟いている。
 何故か、自分の尊厳まで傷つけられている気がして、士郎はゲンナリした。

「それより、キャスターから二人を奪い返すって方針はいいとして、具体的にどうするんだ? 正直、俺には何をどうしていいかサッパリだ」
「まあ、今の私達に出来る事なんて、限られているしね……。そうだ!」

 凜はポンと手を叩き、己の閃きを口にした。

「士郎、本格的に投影魔術をやってみない?」
「本格的にって?」

 首を傾げる士郎に凜は言った。

「ほら、士郎に色々と投影してもらったでしょ? それを一通り見てみて分かった事が幾つかあるの」
「一通りって、いつの間に見たんだよ?」
「士郎が寝てる間。他に出来る事も無かったからね。とにかく、肝心なのは、貴方の魔術属性が“剣”だと言う事」
「魔術属性?」
「要するに、どんな魔術がその者に適しているかって指標よ。貴方の投影魔術は剣に特化している。まあ、槍とか鎧とか盾とかもそれなりの物が出来てたから、出来ないって事は無いと思うけど、一番適しているのは刀剣の類よ」
「刀剣……。だから、アーチャーの剣は今までに無い手応えがあったのか……」
「そういう事。とにかく、まずは手札を増やす事が最優先。食事が終わったら、色々と教えてあげるわ」

 その言葉通り、食事の後片付けを終えた後、凜は熱心に投影に関する知識を士郎に語り聞かせた。

「――――つまり、投影っていう魔術にも色々と制約があるのよ。一番分かり易いのは存在強度っていう奴」
「存在強度?」
「分かり易く言うと、幻想たる投影品が現実に如何に耐えられるかを示す強度の事。投影は術者のイメージによってオリジナルを複製する魔術だから、その物理的、概念的な強度もイメージによって左右される。その術者のイメージと現実のギャップが大きければ大きい程、存在強度は脆くなる」

 今一よく分からない。首を傾げる士郎に凜は一つの例えを口にした。

「例えばだけど、士郎が『絶対に折れない名剣』を投影したとするわ。けど、絶対に折れない剣なんてものは無い。その剣の表現方法や伝承、売り文句なんかに『絶対に折れない』っていう、パーソナリティがあるだけで、実際はソレを上回る神秘を持つモノとぶつかれば、刃こぼれくらいはするし、折れる事もある」

 凜は言った。

「問題なのは、ソレを投影した時、士郎はソレを絶対に折れない剣だと思い込んでいる事。なのに、ソレが現実で折れちゃった場合、イメージと現実との間にギャップが発生する。そのギャップが投影した剣のイメージを否定する事に繋がってしまう。術者にすら否定された幻想はもはや現実に残る事が出来なくなり、消えてしまう。それが存在強度という制約」

 士郎の表情に不可解さが消えた事に満足しながら凜は続けた。

「だから、投影魔術において重要なのは、そのギャップを如何に無くすかに掛かっている。だから、投影魔術を行う際はまず、オリジナルを理解する事から始めるのよ。材料とか、性質、歴史なんかも考慮した方が良い。基盤をしっかりと固めれば、それだけ現実と幻想の食い違いは小さくなる」
「……なるほど」

 士郎は幾度も見たアーチャーの剣を脳裏に浮かべた。
 一度見て、解析した“干将・莫耶”への理解を更に深める。
 
「――――投影開始」

 凜に言われた事を念頭に入れ、アーチャーの双剣の投影を行う。
 どのような意図で、何を目指し、何を使い、何を思い、何を重ねたか……。
 弓道における射法八節を真似て、投影の工程を幾つかに分けてみよう。
 第一に創造の理念を鑑定し、第二に基本となる骨子を想定し、第三に構成された材質を複製し、第四に製作に及ぶ技術を模倣し、第五に成長に至る経験に共感し、最後に蓄積された年月を再現する。
 投影六拍とでも呼ぼうか……、キチンと工程を踏んで投影したソレは以前とは比べ物にならない程、真に迫る出来だった。

「……凄いな。遠坂の言う通りだ! 前より全然――――」
「アホかー!!」

 耳がキーンとなった。凜は硬く握った拳を士郎の頭目掛けて振り下ろす。

「いきなり、宝具を投影するなんて、何考えてるのよ!! 物事には順序ってのがあるの!! 最初は包丁とかから始めるつもりだったのに!!」

 ガミガミ叱られ、しゅんとなる士郎。
 凜は呆れたように溜息を零し、士郎が投影した干将・莫耶に視線を向けた。

「まあ、出来たんだから、文句ばっかり言っててもしょうがないわね。まさか、こんな助言でここまで真に迫る物が作れるなんて……。ほんと、頭に来るわね」
「理不尽過ぎないか、それ……」

 文句を言う士郎を拳をチラつかせて黙らせる。

「とにかく、これで士郎の投影がある程度使い物になったと思う事にする。とすると、次は――――」
「他のマスターを頼るしかないんじゃないか? 現状、キャスターの陣営は他のマスター達にとっても容認し得ない状態の筈だ。だから、今回限りって事でなら、手を組めると思う」

 士郎の言葉に凜は素直に頷いた。

「そうね。士郎の投影はかなり有用だと思うけど、そればかりを当てにも出来ない。そもそも、相手はサーヴァントが三体。しかも、その内訳は近接最強のセイバーと遠距離攻撃の専門家であるアーチャー。そして、中距離と支援能力に長けたキャスター。セイバーとアーチャーは既にキャスターの手駒になっていると仮定して動かないと痛い目に合うだろうから、その三体を相手取ると考えた場合、協力者は必要不可欠。問題は誰を協力者にするかだけど――――」
「ライダーとアサシンは既にリタイアしているから、残るはランサーとバーサーカーのマスターって事になるな」
「……ランサーのマスターは正体不明のままだから、交渉のしようもないけど、バーサーカーのマスターであるイリヤスフィールなら可能性はあるかもしれない」
「イリヤか……。確かに、あの娘なら話せばちゃんと聞いてくれる筈だ」

 渡りに船と言うべきか、イリヤの事も正直、放っておけなかった。
 最後に会った時、彼女の様子は少し変だった。それに、彼女のメイドも意味深な事を言っていた。

「――――馬鹿。士郎にとってはアイツが一番やばいのよ……って、言っても意味無いか」
「な、なんだよ……、引っ掛かる言い方だな」
「だって、セイバーと仲良くデートしながら、もう何度もあの娘と外で会ってるんでしょ? 私がどんなに忠告したって、貴方の中ではイリヤスフィールが無害な少女ってイメージで固まっちゃってる。だから、出たとこ勝負しかない。まあ、イリヤスフィールと協力関係を結べれば、それが最善。アーチャーの言葉から察するに、あの魔女の正体は恐らく、コルギス王の娘であるメディア。なら、バーサーカーは彼女の天敵である筈。腹立たしい事だけど、アーチャーとセイバーの二人掛かりでも、バーサーカーを相手に易々と仕留められるとも思えない。きっと、活路を見出す事が出来る筈」
「――――じゃあ、決まりだな。イリヤの居場所は分かるのか?」
「ええ、大体の見当はついてる。昔、父さんから聞いた話だけど、アインツベルンは郊外の森に別荘を構えているそうなの」
「なら、早速出発するか――――」
「待ちなさい」

 凜はいきり立つ士郎を制止した。

「夜の内は不味いわ。あの森はイリヤスフィールにとって、全域が庭も同然なの。問答無用で襲い掛かられたら、夜で視界が効かない状況はあまりにも危険よ。せめて、朝を待ちましょう」
「……ああ」

 本当なら直ぐにでも行動したい。だけど、凜の言葉は己と違い、常に冷静で思慮深い。どちらの判断を優先すべきか、迷う余地すら無い。
 歯痒い思いを抱きながら、夜が更けていく――――。

「貴方達は大きな勘違いをしている」

 キャスターは虚ろな表情を浮かべて横たわるセイバーの頬を指でなぞりながら呟く。

「そもそも、精神と霊魂の関係はとても密接なもの。他人同士のそれらをくっつけ合わせるなんて、不可能なのよ」

 キャスターの掌に赤と青の光球が浮かび上がる。

「仮に力ずくでくっつけた所で、馴染む事は無い」

 赤と青の光が一瞬の間一つとなり、直ぐに分かれてしまった。

「なら、このセイバーは一体何者なのか? その答えを探るヒントはアーサー王という英霊の異質な在り方にあるわ」

 キャスターは語る。

「――――セイバーが自ら語った事を思い出してみなさい。アーサー王は聖杯を求め、世界と契約を交わした。聖杯を手にする日まで、彼女は終焉の間際を生き続けている。つまり、彼女は英霊であって、英霊では無い。本来、英霊本体の触覚であるサーヴァントをクラスという肉体に押し込めて使役するのが冬木のシステムだけど、彼女の場合は本体そのものが召喚される。それ故に彼女は霊体化が出来ないし、召喚される度に記憶が継続する」

 彼女の手がセイバーの唇に触れる。

「だけど……、だからこそ、他の英霊であったなら起こり得たかもしれない事が彼女には適応されない。なのに、衛宮士郎は“彼女限定”の起こり得ない事を強制した。まあ、あの坊やがそうしようと思って、やったわけでは無いのだろうけど……」

 キャスターはクスリと微笑んだ。

「それが今回の異常事態を呼び寄せた。日野悟の魂が呼び寄せられたのは恐らく、単なる偶然。“異常”を無理矢理、“正常”にする為、起きたイレギュラー」

 魔女の目が怒りの形相を浮かべるアーチャーに向けられる。

「ここまで言えば、貴方なら、もう分かるのでは無くて?」

 もったいぶった言い方をするキャスターにアーチャーは嘲笑うかのような声で応えた。

「貴様にわざわざ解説されるまでも無い。そんな事――――、オレはとうの昔から知っている」

第十四話「――――これで、私の勝利が確定したわ」

「――――待ってくれ、セイバー!!」

 腕を突き出し、衛宮士郎は目を覚ました。伸ばした手は空を切り、士郎は自分の状態を確認して安堵した。
 温かい布団の中に居る。つまり、今のは夢だったという事だ。昨日は襲撃なんて無かった。セイバーはいつも通り、傍に居る。
 早く起きないと……。朝御飯は味噌汁と焼き魚にしよう……。最近分かってきた事だけど、セイバーは割りと濃い目の味付けを好む。
 ふらふらと立ち上がり、部屋を出て、廊下を歩く。

「セイバー。今日は俺が作るからな」

 道場に居て、アーチャーと稽古をしているかもしれないけど、一応言っておく。
 居間に入ると、凜が居た。

「ああ、遠坂。今、朝飯を作るよ。セイバーを呼んできてもらえるか?」
「……士郎」

 凜は何故か険しい表情を浮かべている。
 困惑した表情を浮かべながら、キッチンに向おうとすると、彼女に呼び止められた。

「セイバーは居ない」

 彼女の言葉の意味が理解出来なかった。

「……買い物にでも行ったのか? でも、昨日たっぷり冷蔵庫の中身は補充したし……。散歩かな? ああ、それは良い事だ。セイバーにはたっぷりこの世界を楽しんでもらわないと――――」
「そうじゃない。セイバーは連れ去られたのよ。覚えてないの? 昨夜の事……」
「……な、何言ってるんだよ、遠坂。それは夢の話だろ?」
「しっかりしなさい。昨夜の事は夢じゃない。まだ、錯乱したままなの?」

 凜は怒りに満ちた表情を浮かべている。士郎は首を振った。

「止めろよ。性質が悪いぞ、そんな冗談……。だって、セイバーは――――」
「現実を見なさい。貴方を護る為にセイバーはキャスターの軍門に下った。貴方自身が語った事よ? 散々暴れまわって、手を焼かせたくせに、まだ私を困らせる気?」
「……嘘だ」

 士郎の脳裏に昨夜の光景がフラッシュバックした。
 現れたキャスター。人質にされた自分。自らを差し出すセイバー。

「嘘だ……」
 
 守ると誓った。もう二度と、泣かせたり、苦しませたりしないように強くなって、守り抜く筈だったのに……。

「セイバー……。そんな……、だって、俺は――――」
「……言っておくけど、セイバーを守り抜けなかったのは貴方が弱かったからじゃない。そもそも、英霊相手に人間如きが立ち向かえる道理なんて無いもの。だから、必要以上に自分を責める必要は無いわ」
「だって、俺が守らなきゃいけなかったんだぞ!! 俺が召喚したから、アイツはこんな戦いに巻き込まれちまったんだ!!」

 セイバーは元々、こんな戦いと縁の無い人間だった。なのに、己が召喚してしまったが故に戦いを余儀なくされた。

「俺が黙って、ランサーに殺されてれば、セイバーはこんな世界に来なくて良かったんだ!!」
「……何ですって?」
 
 思いの丈を叫ぶ士郎に凜はイラついた表情を浮かべた。

「セイバーは貴方を守る為に我が身を差し出した。なのに、肝心の貴方がそんなんじゃ……」
「だけど、俺なんかが居なければ――――」
「……黙りなさい」

 低く押し殺したような声。士郎は凜の瞳に宿る深い怒りの感情に途惑った。
 
「――――人が助けてあげた命を……」

 立ち上がり、凜は踵を返した。

「と、遠坂……?」
「セイバーとの契約があるから、貴方を見捨てたりはしない。ただし、今後は行動を制限させてもらう。勝手な行動は許さないから、そのつもりでいなさい」

 凍えるような冷たい眼差しを士郎に向けて、凜は言った。

「……一時間後にここを出る。準備しなさい」
「出るって……、どこに行くんだ?」
「ここの結界は既に機能していない。だから、今後は遠坂家の屋敷を拠点にする。藤村先生と桜への連絡は私からしておくから、数日分の衣服と必要な荷物だけ持って、一時間後に玄関に来なさい」

 それだけを言うと、凜は去って行った。
 取り残され、士郎はいつもセイバーが座っている場所に目を向けた。
 急に心細さを感じ、そんな自分に腹が立った。

「……セイバーは救い出す。絶対に――――」
「やめておけ」

 独り言のつもりだったのに、返事が返ってきて、士郎はギョッとした。

「ア、アーチャー!?」
「……下らぬ事を考えず、凜の指示に従え」

 アーチャーは縁側に立っていた。

「今の貴様はマスターですら無い。貴様が下手に動けば、凜にそれだけ負担を負わせる事になる」
「……そんな事は分かってる。だけど、俺は――――」
「分かっていない。貴様は凜にとって、足枷でしか無い。令呪を使えば、二度限り戦力として扱えるセイバーが居たからこそ、あの契約は成り立っていた」

 アーチャーは嘲るように言った。

「全く、凜も甘過ぎる。セイバーが敵の手に落ちた以上、衛宮士郎とこれ以上関わる事に利は無い。さっさと見捨ててしまえばいいものを……」

 アーチャーの言葉に士郎は何も言い返す事が出来なかった。
 凜が士郎に手を貸す理由はセイバーが自らを凜に売り込んだからに他ならない。彼女の為に自らの力を使う。そう、セイバーが約束したからこそ、凜との同盟関係が成り立っていた。
 そのセイバーが居なくなった以上、凜に士郎と同盟を結び続ける理由は無い。
 見捨てられても文句は言えない立場なのだ。

「間違っても、貴様の勝手な判断で動こうとはするな」

 そう言い残し、アーチャーは姿を消した。
 
「――――クソッ」

 拳をテーブルに叩きつけ、士郎は顔を歪めた。
 
「……ちくしょう」

 涙が頬を伝い、滴り落ちた。

 衣服と最低限の私物だけを抱え、玄関で待っていると、凜がやって来た。

「……行くわよ」
「ああ……」

 凜の後に続き歩きながら、ここ数日の間、セイバーと共に街中を歩いた記憶を思い出す。
 二人で商店街を歩き、イリヤと会い、三人で過ごす。それがここ数日の日課だった。
 泰山で酷い物を食べさせたお詫びに、ちゃんと美味しいお店を教えてやるつもりだった。
 この世界で生きていきたいと思わせる為に連れて行こうと思っていた場所が幾つもあった。

「……セイバー」

 いつもイリヤと会う公園の近くを通った。彼女は今日も居ない。
 三人で一緒に衛宮邸で食事をしたのが遠い日の事のように思える。
 
 坂道を上がり、遠坂邸が見えて来た。高級住宅が立ち並ぶ区画の中でも一際立派な建物。
 凜は玄関口で士郎を待たせた。扉を開く手順を士郎に口頭で教え、中に入る。後に続く士郎。
 同級生の女の子。それも、学校一の美人。何より、士郎にとって憧れの女の子。そんな彼女の家に上がりこんだというのに、士郎は上の空だった。
 考えているのはセイバーの事ばかり……。

「一先ず、士郎にはこの部屋を使ってもらうわ。比較的、変な仕掛けが少ない部屋だけど、そこの壁と箪笥には触れないようにしてちょうだい」
「あ、ああ」

 物騒な事を言い残し、凜は自室に荷物を置きに行った。
 士郎に宛がわれた部屋は外観に合った洋室。大きなベッドと箪笥、鏡台がある。
 何だか、女性用の部屋である感じがする。
 荷物を置いて、ベッドに倒れ込む。

「セイバー……」
 
 キャスターの下で何をさせられているのだろう? まさか、人を殺す事を強要されているのではないだろうか……。
 いや、“まさか”じゃない。直ぐでは無くとも、確実にセイバーは人を殺させられる。それがサーヴァントなのか、人間なのかは分からない。けれど、キャスターはセイバーを戦力として欲した。なら、戦力として投入されたセイバーは人を殺める事になる。
 人を殺す恐怖に涙し、体を震わせていたセイバー。
 剣を取り落とし、ライダーに殺されそうになった時、酷く安堵した表情を浮かべていたセイバー。

「ちくしょう……」

 セイバーは自分が死ぬ事より、人を殺す事の方が怖いのだ。
 なのに、それを強要される。

「俺が人質なんかになったせいで……」

 何て、間抜けな話だ。
 守ろうとして、守られて、守れなかった。
 魔術の修練も、剣の稽古も意味が無かった。

「セイバー……」

 それから、時間だけがゆったりと過ぎていった。
 陽が落ちた頃、廊下から凜の声が響いた。

「――――士郎。こっちに来てくれる?」

 ベッドから起き上がり、廊下に出て少し歩くと、一つだけ開いている扉がある。

「遠坂?」

 部屋を覗き込むと、凜がソファーに座っていた。

「そこに座ってちょうだい。今後の事について話すから」
「あ、ああ」

 素直に席につこうとして、不意に見覚えのあるシルエットが目に入った。

「あ……」

 それは赤い宝石だった。

「これ……」
「どうしたの?」

 その宝石と同じ物を士郎は持っていた。どうして、これがここにあるのか、そう考えた時、数日前の記憶がフラッシュバックした。
 暗い学校の廊下。血に塗れた自分。近くに落ちていた赤い宝石。
 誰かに助けられた記憶があったのに、それが誰だか分からなかった。少し考えれば分かった筈なのに、己の鈍さに呆れるばかりだ。

「……そうか。遠坂が助けてくれたんだな」
「え?」

 目を丸くする凜にずっとお守り代わりにしていた宝石をポケットから出して差し出した。

「返すよ。これも遠坂のなんだろ? お礼を言うのが遅れたけど、ありがとう」
「……え?」

 士郎が差し出した宝石を見て、凜は更に大きく目を見開いた。

「こ、これって……」

 唖然としながら、二つの宝石を見比べる凜。
 まるで、お化けでも見たかのような奇妙な表情を浮かべ、やがて悲しげな表情を浮かべたかと思うと、「そっか……、やっぱり、そういう事か」と呟き、顔を伏せた。

「遠坂……?」
「ううん、ごめん。ちょっと、感傷に浸っちゃっただけよ。まったく、本当に貴方達って……」

 深く溜息を零し、凜は言った。

「とりあえず、今後の事だけど――――」

 凜は言った。

「これからは時間との勝負。最優先でキャスターを倒して、セイバーを奪い返すわ」
「…………え?」

 予想外の発言に目を丸くした。

「なに、アホ面下げてんのよ? 当然でしょ。今現在もキャスターは街中の人間から生命力を奪い続けている。それだけで、冬木の管理人として放っておけない。それに、考えてみたんだけど、セイバーが完全にキャスターの手駒となったら、手が出せなくなる」
「セイバーがキャスターの手駒にって……、もう、既になってるんじゃ――――」
「馬鹿ね。セイバーは今のままじゃ戦力にならない。中身がアレである以上、直ぐに手駒として扱う事は出来ないのよ」
「あ……」

 そうだ。現状、セイバーは令呪を使わなければ、己とどっこいどっこいで、宝具を発動する事も出来ない。
 だからこそ、二人で頑張って強くなろうとしていたわけで……。

「相手はキャスターだから、何らかの手段を講じる筈だけど、直ぐにどうこう出来るとも思えない。だから、セイバーが使い物にならない役立たずの内にキャスターの拠点を攻める」
「……そうすれば、セイバーを助けられるのか?」
「確約は出来ないけど、取り戻せる可能性もある。とにかく、キャスターさえ倒せれば、セイバーは解放されるから、その後に再契約すれば――――」
「セイバーを取り戻せる……」

 凜はニヤリと笑みを浮かべた。

「セイバーの役立たず振りは筋金入りな上、魔術でどうにかしようと思ったら、あの対魔力が邪魔になる。キャスターがそれらの問題を片付ける前に一気に叩く」
「遠坂、俺に出来る事は何か無いか!? 何でも言ってくれ、俺に出来る事があれば何でもする!!」

 詰め寄る士郎に凜は言った。

「何も無いわ」
「……え?」
 
 突き放すような言葉に士郎は途惑った。

「今の貴方じゃ、足手纏いにしかならない。だから、ここでジッとしていてもらう。貴方に出来る事は私の邪魔をしないって事だけよ」
「……で、でも」
「貴方が余計な事をすれば、セイバーが助けられなくなる。セイバーを取り戻したいなら、黙ってジッとしていなさい」

 凜の言葉に士郎は二の句が告げなくなった。

「安心なさい。貴方の可愛いセイバーは私がちゃんと取り戻してあげる。その後は私の手足として馬車馬のように働かせてあげるから、期待していなさい」
「……あ、ああ」

 セイバーが戻って来る。嬉しい事のはずなのに、その為に自分に出来る事が無いという事に士郎は酷く動揺していた。
 それがどうしてなのか、士郎自身分かっていない。ただ、不快な感情が胸を締め付けた。

「完全に陽が沈んだら、私とアーチャーは打って出る。その間、貴方には大師父の資料室に閉じ篭って貰うわ。あそこは殆ど異界同然で、如何に魔術を極めたキャスターのサーヴァントであろうと、おいそれと手が出せない筈だから」
「分かった……」

 元気の無い士郎に凜は溜息を一つ。

「セイバーが戻って来た時にそんなしょぼくれた顔を見せたら気分を悪くするわよ? シャキッとしなさい」
「ああ……、色々とありがとう、遠坂。本当に……」
「お礼はセイバーを助け出した後でいいわ。貴方は大船に乗ったつもりで――――」

 その時だった。凜の目が大きく見開かれ、アーチャーが姿を現した。

「どうやら、キャスターは閉じ篭っているつもりが無いらしい」
「……みたいね」

 凜が走り出す。士郎も慌てて追い駆ける。
 玄関に辿り着き、凜が扉を開いた瞬間、視界に飛び込んで来たのは単身で乗り込んで来たらしいキャスターの姿

「……まさか、単独で来るとは思わなかったわ」

 凜は挑発的な視線を向けながら言った。

「あらあら、威勢が良いのね、お嬢さん。だけど、そういう態度は相手を選ぶべきよ?」
「お生憎様。選んでやってんのよ」

 二人の間で視線が絡み合う。

「昨日は不覚を取ったけど、今日は昨日のようにはいかないわよ。一人でノコノコ現れた事を後悔させてあげる」
「……面白いわ。貴女のような向こう見ずな子は嫌いじゃない。だけど、ちょっと調子に乗り過ぎじゃないかしら?」
「人質を取らなきゃ、未熟者コンビの相手すら出来ないような奴、敵じゃないって言ってるのよ」

 空気が凍りつく。両者の殺気が空間を歪ませているかのようだ。

「……用があるのはアーチャーだったのだけど」

 キャスターは片腕を上げた。瞬間、光弾が放たれ、咄嗟にアーチャーが双剣を取り出して弾く。

「お仕置きが必要のようね、お嬢さん」
「お生憎様。お仕置きされるのは貴女の方よ」

 凜の視線がキャスターからアーチャーの背中に滑る。

「キャスターを倒しなさい!! 出来ないなんて言わせないわよ、アーチャー!!」
「無論だ。魔力を貰うぞ、凜!!」
「ええ、好きなだけ持っていきなさい!!」

 猛烈な殺気と共にアーチャーが前に出る。

「抵抗は無意味よ」

 キャスターが軽く手を振ると、地面が蠢き、首の無い骨が無数に現れた。

「これは――――、なるほど、竜の歯を寄り代とした人型か」
「一目で看破するとは、さすがね、アーチャー」

 火の様な敵意を向けながら、キャスターが冷え冷えとした声で言う。

「……これはコルキス王の魔術だな? ならば、貴様は――――」
「ええ、ご推察の通り。だけど、私の真名が分かった所で、貴方に勝ち目は無い。今日は前回と違い、貴方を無力化する為の策を講じてここに居る。貴方は少々小賢しいようだから、徹底的に調教して、私の従順な奴隷にしてあげるわ、アーチャー」

 薄ら寒い微笑みを向けるキャスターにアーチャーは嘲笑で返した。

「生憎だが、私にそのような趣味は無い。アレの対処をするに辺り、有用かと思って前回は見逃したが、懲りずに此方に牙を剥くならば是非も無い。貴様はここで倒れろ、キャスター」

 アーチャーが一歩、前に出る。

“I am the bone of my sword”

 耳鳴りのように響く声と共にアーチャーの頭上に幾つもの刀剣が浮ぶ。
 驚きは誰のものか――――、その刀剣は一つ一つが宝具だった。
 膨大な魔力を纏うそれらの矛先が首無しの骨に牙を剥く。
 
“Unknown to Death.Nor known to Life”

 その異変にキャスターは誰よりも早く気付いた。

「まさか、これは――――」

 それは果たして詠唱なのか――――、まるで、自らの在り方を謳う詩のような言葉。
 ソレは世界へ働きかける大いなる祝詞。
 
「こうなったら――――」

 キャスターが舌を打ち、片手を上げる。

“So as I pray,――――”

 アーチャーの詠唱が完了する刹那、それは現れた。
 アーチャーの片腕が飛ぶ。油断があったわけじゃない。ただ、それを為した人物があまりにも彼にとって――――、

「……セイ、バー?」

 士郎は目の前の現実に大きく動揺した。

「言ったでしょ? 抵抗は無意味だと……。此方には最強の手札があるのだから――――」

 キャスターの言葉と共に、虚空から飛び出して来たセイバーが後退したアーチャーに剣先を向ける。その威容は明らかに普段と違う。
 
「貴様……、セイバーに何をした?」

 アーチャーが片腕で干将を握り、凛を庇うように立つ。
 殺気の篭ったアーチャーの問いにキャスターは謳うように応えた。

「夢を見て貰っているわ。とろけるような甘い夢。外見が如何に可愛らしくても、中身がだらしの無い男じゃ興醒めだもの。目が覚めた時、セイバーは私好みに染め上がっている筈」
「……お、お前!!」

 飛び出そうとする士郎を凜が抑える。

「馬鹿! 今飛び出したら、セイバーに殺されるわよ!?」
「だ、だけど!」
「いいから、ジッとしていなさい!」

 凜はキャスターを睨む。

「本当に威勢が良いわね、お嬢さん。だけど、既に詰んでいるのよ。片腕を失った状態で、アーチャーが性能を引き出したセイバーに敵うと思う?」

 凜は唇を噛み締めた。セイバーの顔に生気は無い。虚ろで、意思を感じない。
 士郎が何を叫んでも、眉一つ動かさない。

「最後よ、アーチャー。我が軍門に下りなさい」

 キャスターの勝利の宣告にアーチャーは歯を食い縛り、セイバーを見つめた。
 やがて、観念したように顔を俯かせる。

「……この二人は見逃せ。それが条件だ。さもなければ、この身が砕け散ろうが、貴様の息の根は確実に止める」
「主従揃って威勢の良い事。まあ、いいわ。どうせ、サーヴァントが居なければ、マスターには何も出来ない。その条件、認めましょう。さあ、我が宝具を受け入れなさい、アーチャー」

 曲がりくねった奇怪な短剣を掲げるキャスターにアーチャーは瞼を閉ざし、背中越しに凜に語り掛けた。

「……無念だ、凜。お前達はこの街を出ろ」
「ア、アーチャー……」

 敗北を認めたアーチャーに凜は呆然とした表情を浮かべている。

「お、お前……」
 
 何も出来ない。セイバーは完全に敵の手駒となり、アーチャーもキャスターの軍門に下った。
 完全なる敗北。その事実に凜と士郎は打ちのめされた表情を浮かべている。

「――――破戒すべき全ての符」

 キャスターの宝具が赤い閃光を迸らせる。やがて、彼女の手に真紅の刻印が刻まれる。

「……これで、手駒は揃った。イレギュラーを排除し、聖杯を手にする準備が整った」

 哄笑するキャスター。

「――――これで、私の勝利が確定したわ」

第十三話「これからじっくり役に立ってもらうわ」

 夢を見た。英雄の座に祭り上げられた一人の男の軌跡。
 そいつはどこかがおかしかった。それなりに力を持っていたし、野心もあったくせに、使い道を完全に間違えて、そのまま呆気無く死んでしまった。
 オスカー・ワイルドの子供向けの短編小説に“幸福な王子”という作品がある。そいつはまさしく幸福な王子そのものだった。
 自分の力を一滴残らず他者の為に絞り尽くした。幸福な王子との違いは一つ。王子にはツバメという理解者が居てくれたけれど、そいつには誰も居なかった。
 他者の為だけに力を振るったそいつは結局、色々な裏切りを見せられて、救った内の誰かに罠に嵌められ、その生涯を終えた。
 腹立たしくて仕方が無い。そいつは頑張ったのだ。秀でた才能など無く、ただの凡人のくせに努力して、努力して、努力し続けて、血を流しながら為し得た奇跡の報酬が裏切りによる死など、ふざけている。
 
 そこまでがいつも見る夢。なのに、今日に限っては続きがあった。

 今まで見てきた夢は表層に過ぎず、深層へと迎え入れられたらしい。
 そこにあったのは二本の長剣だった。同じ剣である筈なのに、全くの別物。
 片一方が光であるなら、もう一方は闇。そいつはその剣を前に見た事の無い表情を浮かべていた。
 嫉妬。憎悪。我欲。妄執。あまりにも不似合いな感情がその顔には宿っていた。
 男がそこで行っていたのは、まったく無意味な事だった。光の剣を手に取り、只管鍛錬に励んでいた。
 けど、そいつはそこで以外、決して長剣を振るう事は無かった。どんなに血の滲むような鍛錬をしようと、使わなければ意味が無い。
 何故、そんな真似をするのかが理解出来ない。
 人を救う為以外の全ての時間をそいつは無意味な作業の為に費やした。

「――――まず、言っておくけど、私は投影魔術なんて使えない。自分が知らないものを教える事は出来ないわ」

 魔術の修行を開始する前に凜はそう言った。

「だから、私に出来る事は貴方自身の理解の後押しくらい」
「理解の後押し……?」

 凜は頷くと一枚の紙を士郎に渡した。

「これは?」

 紙には日用雑貨や機械、衣服、武器、防具の名前が書き連ねられている。
 首を傾げる士郎に凜は言った。

「そこに書いてある物を全て投影して」
「……はい?」

 士郎は慌てて紙の上で踊る文字に視線を滑らせた。
 ざっと数えて数百以上ある。

「こ、これを全部か?」
「そうよ。一度投影した事がある物や無理だと思う物も一通り投影してもらう。ここだと狭いから、道場に移動してやりましょう」

 そう言うや否や、凜はさっさと大荷物を抱えて部屋を出て行った。
 慌てて後を追い駆けながら、士郎は投影する品目の多さに眩暈を覚えた。

 道場に到着すると、凜は稽古をしていたセイバーとアーチャーを追い出し、道場の至る所に奇妙な文字を描いたり、奇妙な粉を振り撒いたりして回った。
 変な改造をされては困ると言うと、凜はさも当然のように……、

「弟子は師匠に絶対服従。屋敷の改造くらい、目を瞑りなさい」

 ……などと仰りやがった。
 追い出されたセイバーとアーチャーも困惑している。

「ア、アーチャー。凜は一体何を……?」
「……どうやら、道場を改造し、簡易的な工房にしようとしているらしい。だが、こんな風通しの良い場所では何をしても焼け石に水だと思うが……」
「道場を工房にって、何でまた……?」

 セイバーの視線が士郎に向く。

「なんか、これを全部投影しろって……」

 凜に渡された紙を士郎が二人に見せると、二人はギョッとした表情を浮かべた。

「こ、これを全部……?」
「……どうやら、今夜の稽古は中止だな」
「み、みたいだね……」

 アーチャーは見張り役に戻るつもりらしく、姿を消した。
 残ったセイバーも苦笑いを浮かべながら「頑張って」と応援するばかり……。

「ほら、士郎! 準備出来たから、さっさと始めるわよ!」
「お、おう! えっと、じゃあ、セイバー。逝って来ます……」
「う、うん。いってらっしゃい」

 セイバーに見送られ、士郎は深く息を吸う。

「よ、よし、始めるぞ!」
「頑張ってねー」
「あ、あれ? 遠坂さん? どこ行くんですか?」

 気合を入れる士郎の横を通り過ぎ、凜は道場から出て行こうとする。

「どこって、寝室よ。夜更かしはお肌の天敵だし、そこにあるものを投影してる間は私に出来る事も無いしね。終わったら呼びに来てちょうだい」
「……はい」

 鬼が居た。去って行く凜に目から汗が零れ落ちる。

「……頑張ろう。投影開始……」

 とにかく、順々に投影していこう。
 士郎は投影した洗濯ばさみを床に置き、次の投影を開始した。
 先は長い……。

 投影に集中している士郎の邪魔をしないように、セイバーは道場を離れた。
 
「長丁場になりそうだし、オニギリでも握るか……」

 キッチンに向かい、炊飯器を開く。中には熱々のお米。
 臭いを嗅いだだけでお腹が減って来る。

「確か、梅干がここに……」

 すっかり慣れた衛宮邸のキッチン。生前は誰かの為に作るなどという習慣が無かったから、レパトリーは少ないものの、オニギリくらいならキチンと握れる自信がある。
 如何に熱くとも、この身はサーヴァント。素手でも平気。

「ついでにアーチャーにも持って行ってみるかな……。凜は……、もう寝てそうだな……」

 士郎に徹夜作業を命じ、自分は確り睡眠を取る。
 素晴らしきスパルタ教官だ。

「よっほっと」

 三角形に形を整え、海苔を巻く。
 お茶をお盆に載せて、道場へ向った。
 道場には既にたくさんの投影品が並んでいる。ヤカンや地球儀、水筒、時計、電話、本。
 どうして、こんなモノを投影させるのか理解出来ない。けど、魔術に誰よりも精通している凜の指示だ。必ず意味がある筈。

「――――士郎君」
「ん? ああ、セイバー。どうしたんだ?」
「いや、疲れてるだろうと思って、オニギリを持って来た」
「サンキュー」

 ちょっとの間、冷蔵庫で冷やしたタオルを渡す。汗を拭い、気持ち良さそうな顔をする士郎にセイバーはお茶を渡した。
 暫しの休憩の後、士郎は気合を入れなおして投影作業に戻った。今度の投影は包丁。

「じゃあ、頑張ってね、士郎君」
「おう!」

 静かに道場を後にして、セイバーは一度キッチンに立ち寄ってから天井へと上った。
 
「アーチャー」

 呼び掛けると、アーチャーは直ぐに姿を現した。

「何だ?」
「士郎君にオニギリを握ったんだ。ついでにアーチャーにもって思ってさ」
「……ふむ、小僧のおまけというのは気に入らんが、作ってくれた物を粗末には出来んな」

 そう言って、アーチャーはセイバーの持つお盆からオニギリを取った。
 口に放り込むと、鼻を鳴らした。

「五十点……といった所だな」
「ず、随分辛口だな……。割と上手に出来た自信があるんだが……」
「甘いぞ、セイバー。これでは少々固過ぎる。無理に三角形にしようとするより、丸く握った方がふんわりとするぞ」

 何故か始まるオニギリの握り方指南。文句を言いつつ、全て平らげたアーチャーはお茶を飲み下し、言った。

「握る時、背筋をビシッと伸ばすのがコツだ。手だけで握るのでは無く、全身で握るんだ」
「お、おう……」

 セイバーはちょっと引いていた。料理に掛ける彼の情熱の一端を垣間見た気がする。

「……ところで、セイバー。一つ質問をしてもいいか?」
「質問? 別に構わないけど?」

 首を傾げるセイバーにアーチャーは躊躇いがちに問い掛けた。

「君はその……、死ぬのが怖いか?」
「……は?」

 予想外の問いにセイバーは目を丸くした。

「ああいや、ちょっと違うな。君がもし、君で無くなるとしたら……、どうだ? その、自分の意識が全く別のものに塗り替えられたら……、どう思う?」
「じ、自分の意識が全くの別物に?」

 考えてみて、ゾッとした。何で、急にそんな質問を投げ掛けて来たのかサッパリ分からないけど、アーチャーの眼差しはとても真剣だった。
 冗談の類で聞いているのでは無いらしい。

「自分の意識が全くの別物に塗り替えられたら……か、それは怖いよ。当然だろ? だって、そんなの……」

 死んだも同然だ。
 セイバーがそう口にした瞬間、アーチャーの表情が僅かに歪んだ。
 今にも泣きそうな顔をしている。

「……怖いんだな? やっぱり、君も消えたり、死んだりするのは……、怖いんだな?」
「あ、当たり前だろ? だって、死ぬなんて……。聖杯戦争が終わったら消えるしか無いって分かってるけど、それだって、本当は怖くて仕方が無いんだ」
「――――ッ」

 アーチャーの意図が分からぬまま、セイバーは言った。

「ああ、言っておくけど、この事は士郎君には内緒だよ? 言ったら、また、無茶をしそうだから……」
「……ああ」
 
 その声は震えていた。

「ど、どうしたんだよ、アーチャー。何だか、君らしく無いよ?」

 そう言ってから、セイバーは目を見開いた。
 彼らしくないどころじゃない。セイバーは今になって、アーチャーの異常さに気が付いた。
 気付いた瞬間、今までの彼の行動に対する違和感が一気に強まった。
 学校でライダーと遭遇した時、彼はセイバーを護る為に必勝の好機だったにも関わらず、ライダーに離脱を許した。
 士郎が攫われた時、自らが助けに向かうと言って、実際に助け出した。
 ゲームでのアーチャーは決してそんな行動を取らない。だって、彼の目的は――――、衛宮士郎を殺す事なのだから……。
 今の問答にしても、明らかに奇妙だ。こんな泣きそうな表情を浮かべるのも……、

「アーチャー……、君はもしかして――――」

 セイバーが湧き出た疑問を口にしようとした時、唐突に屋敷中の電気が消えた。同時に鐘の音が鳴り響く。
 屋敷に張られている結界が見知らぬ人間の侵入を感知したらしい。

「凜!!」

 アーチャーの視線の先を追う。そこに凜を抱えたキャスターの姿があった。
 キャスターはローブの向こうで微笑むと。恐ろしい速さで円蔵山に向って飛んで行く。

「おのれ――――ッ」

 瞬時に飛び出していくアーチャー。
 瞬間、嫌な胸騒ぎがセイバーを襲った。
 この感覚、覚えがある――――!

「士郎!!」

 魔力放出を使い、一足で道場の中に飛び込む。
 そこには意識を失っている士郎と彼に短剣を突き立てているキャスターの姿があった。

「馬鹿な……、じゃあ、さっきのは――――」
「単なる囮よ。どっちにしようか迷ったのだけど、アーチャーは少々厄介だから、貴女の方にしたわ」
「士郎君を放せ!!」

 不可視の刃を構え、猛るセイバー。対して、魔女は悠然と微笑む。

「私に命令が出来る立場だと思って? 私がほんの少し指を動かすだけで……」

 士郎の首に一筋の切り傷が出来た。
 流れ出す血にセイバーは目を見開いた。

「や、やめろ!!」
「止めて欲しいなら、まずは剣を置きなさい」
「わ、わかった!! だから、士郎君をそれ以上は――――」
「私はトロマな人間が嫌いなの。さっさと置きなさい」

 更に深く、士郎の首に切り傷が出来る。
 セイバーは慌ててエクスカリバーを床に落とした。

「こ、これでいいだろ!?」
「ええ、まずはそれで結構よ。じゃあ、次は――――」

 キャウターは言った。

「私のモノになりなさい、セイバー」
「……なんだと」

 怒りに歯軋りをしながら、セイバーはキャスターを睨み付けた。

「今、私には戦力が必要なのよ。本当なら、この坊やも欲しいところなんだけど、貴女が自分から私に協力すると約束するなら、坊やの命は助けてあげる」
「……本当に、士郎君には手を出さないのか?」
「ええ、私としても、この子の事は気に入っているから、貴女が素直に私のサーヴァントになるなら、この坊やの事は見逃してあげる。ただし、私のサーヴァントになったからには命懸けで尽くしてもらうけれど――――」
「分かった。それで士郎君が助かるなら構わない」
「……随分と素直ね。貴女、死ぬのが怖いんじゃなかったかしら?」
「……それより怖い事があるだけだ。士郎君を放せ」
「――――そう。そんなに大切なのね、この坊やが」

 セイバーは肯定も否定もせず、武装を解除した。
 いつも着ている士郎のお古姿に戻る。

「俺の事は好きにしろ。ただし、士郎君には手を出すな。士郎君に手を出したら、その時は――――」
「ええ、承知しているわ。貴女の対魔力はキャスターにとって、あまりにも大き過ぎる脅威だもの。素直に従うと言うのなら、余計な事はしない」

 キャスターがそう呟いた途端、士郎が苦しげに喘いだ。

「……やめ、ろ。セイ、バー」
「あらあら、思ったよりやるわね、坊や。自力で回復するだなんて――――」

 キャスターは感心したように言う。

「……いく、な、セ、イバー」

 苦しげに言葉を搾り出す士郎。
 セイバーは首を横に振り、言った。

「ごめん、士郎君。一緒に生き残る約束……守れそうにないや」

 諦めたように、セイバーは言った。

「凛とアーチャーなら、君を守ってくれる筈だ。俺の事は助けようとするな」
「まて……、まって、く……れ、セイ、バー」

 セイバーは士郎から顔を逸らし、魔女に向って歩み寄った。

「やれ、キャスター。約束は守ってもらうぞ」
「ええ、勿論よ。さあ、受け入れなさい、セイバー。これが私の宝具。何の殺傷能力も無い儀礼用の鍵。ただし、この鍵が解くのは扉でも、宝箱でも無い。あらゆる契約を解くのがこの刃の特性」

 突き立てられた歪な形状の刃から赤い光が迸る。
 禍々しい魔力の奔流がセイバーの全身に纏わりつき、彼を律していたあらゆる法式が破壊されていく――――。

「ああ、やっぱり、そういう事なのね……」

 キャスターはなにやら呟くと、僅かに嗤った。

「日野悟。どうやら、貴方は大きな勘違いをしているみたいよ。だけど、安心なさい。その点も私が正してあげるわ。立派なセイバーに仕立て直してあげる」
「なんで……、その名を――――」
「言ったでしょ? ずっと、観察していたって」

 それは士郎とセイバーの二人の時間をずっと覗き見していたという事。
 怒りに震えながらも士郎の事を思い、心の奥底に仕舞いこむ。

「約束だ。士郎君の事は――――」
「ええ、約束は守るわ、セイバー」

 そう言って、キャスターは士郎から手を離した。
 
「さあ、ついて来なさい、セイバー」
「ま……て、まって……く、れ」

 呻く士郎にキャスターは薄く微笑む。

「諦めなさい。貴方の可愛いセイバーはもう私のもの。彼にはこれからじっくり役に立ってもらうわ」

第十二話「ビシバシ鍛えてあげるわ!」

 気が付くと、見慣れぬ風景が飛び込んできた。一面に広がる荒野。そこに無数の剣が立っている。
 その中心に立つ自分が妙にシュールだ。

「ここは……」

 ガキンという音がした。違和感を感じて、袖を捲ると、自分の腕から無数の刃が生えていた。
 頭が真っ白になり――――、

「――――うわぁ!?」

 士郎は目を覚ました。
 布団を跳ね飛ばし、慌てて腕を見る。
 大丈夫だ。そこには普通の腕があった。刃なんて、一つも生えていない。
 当たり前の事に酷く安堵した。

「大丈夫!?」

 と、安心したのも束の間、襖を勢い良く開けて、セイバーが現れた。

「セ、セイバー!?」

 ズカズカと中に入り込んで来るセイバーに士郎は慌てた。
 朝の生理現象が発生している為、ちょっと前屈みになる。

「何かあったのかい? もしかして、キャスターに何か――――」
「ち、違うって。ただ、変な夢を見ただけだ」
「変な夢……?」

 膝を折り、心配そうに士郎を見つめるセイバー。
 士郎は今見たばかりの奇妙な夢について語った。すると、セイバーは目を丸くした。

「荒野に……、無数の剣」
「ああ、変な夢だろ?」
「……もしかすると、キャスターが何かしたのかもしれない。その夢に関して、凜に相談した方が良いと思う」
「遠坂にか……」
「どうしたんだい?」
「……いや、実は――――」

 士郎は正直に昨日の凜の部屋でのやり取りを話す事にした。
 元々、セイバーとはじっくり話すつもりでいたから、これも良い機会だろう。
 セイバーは士郎の話を聞き、深々と溜息を零した。

「……士郎君。俺は君を戦わせたくない。今もそう思ってる」
「俺だって、セイバーを戦わせたくない」
 
 しばらく沈黙が続き、互いに微笑み合う。

「……まったく、我侭な子だな」

 困ったように言うセイバーに士郎が唇を尖らせる。

「我侭なのはセイバーだ」
「……まったく、そういう所が子供なんだよ」

 やれやれと肩を竦めるセイバーに士郎はムッとした。

「な、何でだよ! 先に言ってきたのはセイバーだろ!」
「ほら、そうやってムキになるところがますます子供っぽい」
「お、お前な! 泣きべそ掻いてた癖に!」

 鼻息を荒くする士郎にセイバーはニッコリと微笑んだ。

「……君は子供だよ」
「お、俺は――――」
「そして、俺も子供だった……」

 セイバーは吐き捨てるように言った。

「白状するよ。本当は怖かったんだ……」

 セイバーは言った。

「剣を人に向けるのが怖いし、殺されそうになるのだって怖い。戦う度に怖くて怖くて仕方無いんだ」
「なら――――」
「でも、昨日の夜……、君が居なくなっている事に気付いた時はもっと怖かった……」
「セイバー……」
「ねえ、士郎君。あの時、俺がどんなに恐怖したか分かるかい? ライダーを殺そうとした時の恐怖なんて比じゃないくらい、恐ろしかったんだ。君と二度と会えないかもしれない。そう思うと、アーチャーの静止の言葉なんて聞いていられなかった……」

 稽古の真っ最中、突然胸騒ぎに襲われて、士郎の部屋に向かい、そこが空っぽだった時の恐怖は筆舌に尽くし難い。
 そして、彼の部屋から天に伸びる金の糸を見た時、彼に何が起きたのかを理解した。

『キャスター!!』
『待て、セイバー!!』

 飛び出そうとするセイバーを押し留めたのはアーチャーの一喝だった。
 彼は自分が助けに行くから、ここで待っていろとセイバーに告げ、闇夜に飛び出して行った。

『……でも』
 
 待っていられたのは数分程度だった。駆けつけた凜に事情を説明している間も気が気じゃなかった。
 
『ごめん、凜。君を一人にしてしまうけど……、でも』
『……まったく。アンタ達はどうせ言っても聞かないでしょ? さっさと行って、速攻で助けて来なさい!』
『ありがとう、凜!』

 一秒でも早く辿り着こうと、魔力放出のスキルを使った。うろ覚えも良い所だったが、普通に走るより何倍も早く円蔵山へと辿り着く事が出来た。
 辿り着いたソコはまさしく死地だった。訪れた者の死に場所という意味では無い。ここは死そのモノが渦巻く地。
 上空を見上げると、渦巻く死霊が見え、木々の隙間からは怨嗟の声が響く。

『こんな場所に――――』

 一秒後、士郎との繋がりが断たれるかもしれない。それが意味するものは士郎の死。
 恐怖のあまり、絶叫しそうになった。
 
『士郎君!!』

 何が起きたのか分からないが、柳洞寺へ続く石段は跡形も無く吹き飛ばされていた。
 デコボコだらけの奇怪な坂道と化した道を突き進む。
 山門があった筈の地点まで辿り着くと、そこに彼が居た。
 アーチャーには叱られたが、抱きとめた士郎が呼吸をしている事に心から安堵した。

「――――って言っても、君は無茶を止めてくれないんだろうけどね」

 セイバーは諦めたように呟く。
 
「俺は……」
「だからさ、士郎君」

 セイバーは言った。
 
「前に君が言ってたように、二人で強くなろう」
「セイバー……?」
「一緒に強くなって、最後まで生き残ろう」
「セイバー……」
「俺も自分の命を大切にする。だから、士郎君も自分の命を大切にすると約束してくれ」
「……えっと」
 
 真っ直ぐに向けられるセイバーの視線から逃れるように士郎は顔を伏せた。
 そんな彼にセイバーは溜息を零す。

「……士郎君。君が俺を守ろうとするのは俺がただの一般人だから? それが正義の味方の勤めだから?」
「それは――――」

 違う。言おうとして、言えなかった。
 セイバーを守りたい。その思いの発端は切嗣から受け継いだ理想にある。
 正義の味方になりたい。だから、弱き者を助け、強き者を挫かねばならない。セイバーを助け、迫る脅威を排除しなければならない。

「俺は――――」
 
 その事を口にする事が出来ない。出来る筈が無い。
 だって、それは――――、セイバーを一人の人間としてじゃなく、単なる救済対象という記号扱いしている事に他ならないのだから……。

「……ああ、そうか」

 思い出すのは彼女達の言葉。

『正義の味方は心に常に愛を持っているものなのだよ』
『貴方がセイバーの意志を無視して暴走してる』

 彼女達は士郎の歪さに気付いていた。だからこそ、そう言ったのだ。
 救うべき対象に目を向けろ。お前は救うべき対象に目を向けていないのだから――――。

「……セイバー」
「士郎君?」
「セイバーは俺が死ぬと嫌なんだよな?」
「え? あ、うん」

 いきなりの質問に途惑いながら答えるセイバー。

「分かった。セイバーが嫌なら俺は死なない」
「士郎君……」
「それでいいんだろ? セイバーが嫌な事はしないよ。だから――――」

 士郎は言った。

「セイバーも俺の嫌な事はしないでくれ」
「……ああ、それは勿論だよ。士郎君が嫌がるような真似はしないさ」
「約束だぞ?」
「ああ、約束だ」

 手を伸ばす士郎にセイバーも応えた。握手を交わしながら、お互いに微笑み合う。
 セイバーは士郎が自分の命を大切にすると約束してくれた事に喜んだ。
 士郎は――――、

 朝食の後、士郎は学校に向う準備途中の凜に頭を下げた。

「……そう。お互いに強くなって、双方が生き残れるよう尽力するって結論に落ち着いたわけね」
「ああ、分かり易く言うと、そうだ。だから、遠坂には迷惑をかけっばなしで申し訳無いんだが、どうか、俺を弟子にしてくれ!」
「まあ、貴方達の擦れ違いが解消されたなら、私としても文句は無いわ。了解。じゃあ、今日の夕方から早速始めましょう」
「ありがとう。本当、遠坂が居てくれて良かった」
「……まったく。どうせ、今日も学校を休むんでしょ? 時間を無駄にしないようにね」
「ああ、分かってる」

 凜と藤ねえが屋敷を出た後、士郎は早速道場でセイバーとの稽古を始めた。
 セイバーは昨夜もアーチャーと打ち合っていたからか、更に腕を上げていた。
 対して、士郎もアーチャーの戦いを間近で見たおかげか、模倣の精度を上げて稽古に臨むことが出来た。
 昼過ぎまで夢中になって稽古を続けた後、いつも通り、イリヤに会いに公園に向った。
 ところが、公園には誰も居なかった。セイバーと二人で探し回ったけれど、どこかに隠れている様子も無い。

「そう言えば、昨日、変な事言ってたよな」
「ああ、確か、夜中は出歩いちゃ駄目、とか」

 あの時のイリヤは様子がどこかおかしかった。

「どうして、イリヤはあんな事を言い出したんだっけ……」
「確か、士郎君がライダーを倒した事を彼女に話してから様子が変わった気がするよ」

 そうだ。あの瞬間、それまでの楽しげな雰囲気が一変したのを覚えている。

「……とりあえず、買出しだけしてから帰ろう」

 考えても分からない。次に会った時に聞いてみよう。
 士郎はやむなく公園を出て、商店街に向った。

「そう言えば、今日は特売の日だ。ちょっと、奮発してみるかな」
「いいねー」

 二人で商店街を練り歩いていると、ついつい財布の口が緩んだ。
 その結果……、

「買っちゃった……」

 思わず手が震えた。
 士郎の持つ袋の中には子牛のフィレ肉が入っている。高くて希少なだけで、そんなに味が変わらないフィレ肉をついつい肉屋のおっちゃんの口車に乗せられて買わされてしまった。
 普段よりは安いものの、アルバイト一日分が吹っ飛んでしまった。
 だが、クヨクヨしていても仕方が無い。これも何かの運命だ。折角だし、今日はフルコースメニューに挑戦してみるとしよう。
 そうと決まれば、前菜とデザートとチーズも用意しよう。

「だ、大奮発だね、士郎君」

 高級なチーズを買う士郎に目を丸くするセイバー。

「今日は特別だ」

 最後にデザートを買いにケーキ屋フルールに向うと、奇妙ないでたちの女が居た。
 どこかの制服だろうか? 全身をスッポリと覆う白い服。
 女はケーキ屋の売り子のお姉さんを困惑させている。どうやら、出したお金が日本円では無く、フランだったらしい。
 見過ごすのも後味が悪い。

「あの――――」

 声を掛けて、目を丸くした。振り向いた女の瞳の色は血のような赤色だった。
 僅かに見えるふんわりとした髪の色は銀。
 特徴的過ぎる二つの要素。

「もしかして、イリヤのお姉さんですか……?」
「……違う」

 違った……。恥ずかしくてのた打ち回りたくなった。

「わたし、イリヤのお姉さんじゃない。イリヤのメイド」
「……そ、そうなんだ。俺は衛宮士郎って言うんだ。イリヤから聞いてないか?」
「……シ、ロウ?」
「あ、ああ、そう。シロウだ」
「……知ってる」

 お姉さんじゃなくて、メイドだった。
 ナイチンゲールみたいな格好はどうやら、彼女のメイド服だったらしい。カタコトな彼女と苦労しながらコミュニケーションを取り、とりあえず、彼女のフランを残っている僅かな日本円と交換した。

「……ありがとう。セラとイリヤが喜ぶ」

 ケーキを買えた事で喜んでいるらしい。表情も声も感情が殆ど見えないけれど……。

「えっと……、イリヤは元気か?」
「……元気。だけど、ちょっと焦ってるみたい」
「焦ってる?」
「変なのが徘徊してる。シロウも気をつけたまえ。見つかったら、終わりだから」
「それって、どういう……」
「……帰る。シロウ、ありがとう」

 最後に意味深な言葉を残して、女は去って行った。

「な、なんかよく分からないけど、そっちも気をつけろよ!」
「……うん。バイバイ」

 女の後姿が見えなくなった後、士郎は大切な事を思い出した。
 フランと日本円を交換したせいで、デザートを買うお金が残っていない。

「……しまった」
「どんまい、どんまい。ホットケーキミックスがあったし、それでいいんじゃないかな? 良い事したんだから、落ち込む事無いって」
「あ、ああ、うん。そうだな……、デザートにはホットケーキを作るか」

 気を取り直して、帰路につく。
 家に到着すると、士郎はさっそく調理に取り掛かった。大掛かりな作業になるからとセイバーが手伝いを申し出たのだが、追い出されてしまった。
 どうやら、一人で作りたいらしい。鼻歌混じりだった。

「……料理が相当好きらしいな、士郎君」

 フルコースを一人で作るなんて、セイバーには到底不可能な所業だ。

「剣を握るより、包丁を握っている方が似合ってるな、彼は……」
「そうね。私もそう思うわ」
「り、凜!?」

 キッチンをこっそり覗き込んでいると、背後から凜が声を掛けて来た。

「まったく、魔術の鍛錬の準備の為にこっちは走り回ったっていうのに……。まあ、今夜は御馳走を作るみたいだし、勘弁してやるとしますか」

 呆れたように肩を竦める凜。

「それにしても、士郎君は何故急にフルコースなど……」
「フルコース……? え、なに、アイツ、フルコース作ってるの?」

 呆れ顔が困惑顔に変化した。

「アイツ、ほんとにどうしちゃったの?」
「それがサッパリなんだ。急にフルコースを作るだなんて言い出して……。そんなに特売が嬉しかったのだろうか……」
「特売にテンションが上がってフルコース作るって……。アイツ、魔術師より料理人を目指すべきなんじゃ……」
「ああ、それは良い考えだな。士郎君の料理は何と言うか……、食べていて落ち着くし、何より美味しい。料理で人を救えば、それも正義の味方と言えるような気がする」
「何よ、正義の味方って?」
「ああ、それは――――」
「あらら、セイバーちゃんってば、士郎から聞いたの?」

 凜と話し込んでいると、いつの間にか藤ねえが目の前に居た。

「あ、おかえりなさい、藤村さん」
「はい、ただいま、セイバーちゃん。それより、士郎がその事を話すなんて意外ね。あの子ってば、照れ屋だから、あんまり夢について他人に話したがらないのよ」
「夢……、ですか?」

 凜が問う。

「そうよー。士郎は正義の味方に憧れてるの。思い出すなー」
「先生は士郎がまだ子供だった頃の事も御存知なんですか?」
「うん。あの子がこの家に来た時から知ってるの。……聞きたい?」
「是非!」
「お願いします!」
「では、話してしんぜよー!」

 藤ねえは懐かしむように幼い頃の士郎の話を語った。

「今でこそ、ちょっと捻くれた部分もあるけど、昔は本当に可愛かったんだよー。人の事を欠片も疑わなくて、お願いすれば何でも二つ返事で引き受けてくれるの!」
「ふむふむ」
「それで、それで?」
「でもねー、妙に頑固な部分も当時からあったんだー。一度決めた事は中々変えなかったり……」
「ああ、それは分かるな」
「うんうん。そういう所あるわね」
「その辺りは切嗣さんと正反対だったなー」
「切嗣さんって、士郎のお父さんですよね?」
「そうだよー。切嗣さんは何でもオッケーな人だったの。良い事も悪い事も人それぞれケッセラッセラって感じ。人生はなるようになるさって人だったわ」

 凜は僅かに驚いた顔をしている。

「そのくせ、困ってる人が居たら迷わず飛び出して行って、何とかしちゃうの! 士郎もそんな切嗣さんの後を追い掛けて、真似ばっかり。まあ、士郎の場合、切嗣さんより善悪がハッキリしてたから、悪い事は駄目だ、許さん! って、町の虐めっ子をバンバン懲らしめてたわ」
「その頃から士郎君は正義の味方だったんだね……」

 その話は知らなかった。ゲームの内容もそこまで詳しくは覚えていないし、お風呂場での会話でもその話は出なかった。
 その後も藤ねえから士郎の過去話を色々聞き、凜とセイバーは彼の新たな一面を知った。
 大分時間が過ぎ、漸くフルコースの準備が整った後、士郎は折角だからとルール通りの食べ方をしようと提案。
 藤ねえは面倒な事を嫌がり、直ぐに食べたいと抗議したが、凜とセイバーは賛成した。折角のフルコースをいつも通り適当に食べては勿体無い。
 いつもの団欒に一工夫が加わり、楽しい一夜が過ぎた。
 食事が終り、藤ねえが帰宅した後、凜が士郎に一つの問いを投げ掛けた。

「士郎はどうして正義の味方になりたかったの?」

 その問いに応えたのはセイバーだった。

「お父さんの夢を受け継いだんだよね?」

 士郎はしばらくの沈黙の後、頷いた。

「……ああ、そうだよ」

 答えながら、士郎が脳裏に浮かべたのは炎の記憶だった。
 そして、父の後ろ姿。
 
「……それじゃあ、遠坂」
「はいはい、分かってるわよ」

 凜は何故かポケットからメガネを取り出した。

「ビシバシ鍛えてあげるわ!」

第十一話「アイツの力があれば……」

 苦しい。助けを求めて伸ばした手は空を切り、足は己の意思を無視して深みへ向う。もし、老人が“ソレ”を手にしていなければ、全ては違ったかもしれない。微かな望みであろうと、己が救われる道もあったかもしれない。けれど、己は既に完成してしまっている。
 人が犯してはならないという三つの禁忌を全て犯したのが十年前。
 建前である『魔術師』としてでは無く、本来の意図であった『胎盤』としてでも無く、『魔術品』としての完成を求められたが故に人間性を剥奪された。
 道具に感情は不要である。その判断の下、精神の破壊を工程に組み入れられた。

 陰茎を模した蟲に処女を奪われた。耳穴、鼻孔、口、膣、尿道、肛門。人体におけるあらゆる『孔』が単なる蟲の出入り口となった。
 殺人を強要された。最初に殺したのはクラスメイトだった少年少女六名。その後、魔術に寄らぬ顔見知りを次々殺害した。殺害方法は当時、世間を震撼させた殺人鬼による殺害方法を参考とさせられた。
 犠牲者から怨嗟の言葉と眼差しを向けられながら、彼等の血肉を貪った。工程完了までの期間、己の食事は彼等の眼球や脳漿、肉、内臓ばかりだった。
 精神の防壁に亀裂が走り、精神操作が工程に加えられた。夢の中で犠牲者達に行った拷問や殺害方法を体験させられた。
 電流が脳漿を焼き切る感触を知った。自らの肉や骨が焼ける臭いを知った。体内の器官が溶けていく喪失感を知った。自分の血肉を喰らう恐怖を知った。
 
 最低限の生体機能と必要な魔術的機能さえ残っていれば、彼等はそれで構わなかったのだ。
 だが、不幸な事に人格が完全に消え去る事は無かった。苦しみを苦しみと捉え、美しさを美しさと捉える感覚が生き残ってしまった。
 とは言え、道具としては完成を見た。必要な機能の組込みが終了し、精神の防壁は完全に崩れ去っている。
 それ故に、残された感情を抹消してもらう事は叶わず、死への逃避も許されない。

 夕食が終わった後、士郎は凛の部屋を訪れた。ノック三回の後、中から凛の声が届く。

「士郎? ちょっと、手が放せないから勝手に入って来てもらえるかしら?」

 なにやら、作業の真っ最中だったらしい。言われた通りに部屋の中に入ると、凜は注射器で血抜きを行っていた。真紅の血を満たした注射器の先端を今度は机の上の宝石に向け、中身を垂らす。
 その宝石を彼女が握り締めた途端、眩い光が奔った。

「うーん、三割までかー。手持ちの九つだけだとさすがに不安が残るのよね……」

 落ち込んでいるらしく、溜息を零しながら凜は宝石を宝石箱に戻した。

「えっと……、大丈夫か?」
「ええ、大丈夫よ。待たせちゃって、ごめんなさいね。アーチャーが『妙な胸騒ぎがする』なんて言うから、切り札を増やそうと思ったんだけど……」

 上手くいかなかった。そう、彼女は肩を竦めて言った。

「アーチャーが?」
「ええ、真剣な顔してね……。それより、私に用事があるんだったわね?」
「あ、ああ。実は遠坂に……その、お願いがあるんだ」
「何かしら?」
「俺を……、弟子にしてくれないか?」
「いいわよ」
「ああ、いきなりこんな事言っても断られるに――――って、いいのか!?」

 驚く程あっさりと凛は士郎の申し出を受けた。思わず目を丸くする士郎に凜は言った。

「どうせ、セイバーを守りたいから力が欲しいって感じでしょ?」

 図星だった。閉口する士郎を凛はケラケラと笑った。

「なら、貴方の選択は間違ってないわ。まず、何より貴方に必要な事は中身を鍛え上げる事だもの。だから、とりあえず――――」

 そう言って、凜は机の引き出しを開いた。そこから取り出した物を見て、士郎はアッと驚いた。

「――――コレについて説明してもらいましょうか?」

 空気が凍り付いた。一瞬、士郎は凛に殺されると思った。それほど、彼女は彼に対して明確な敵意を向けている。さっきまでの笑顔が嘘だったかのように、厳しい表情を浮かべている。

「と、遠坂……?」
「コレはアーチャーの双剣の片割れよね? でも、アーチャーはコレを貴方に渡した覚えなんて無いって言ってた。貴方、コレをどうしたの?」
「いや、それは――――」

 士郎は矢継ぎ早にライダーとの一戦について凜に語った。とにかく、彼女に真実を告げなければと焦りを覚えた。
 敵意が殺意に変化しようとしているのを感じたからだ。

「……アーチャーの――――、英霊の宝具を投影ですって? そんな事、あり得ないわ……」
「いや、あり得ないって言われても……、それは確かに俺が投影したものなんだけど……」

 疑われているように感じて、士郎は言葉を重ねた。すると、凜は首を横に振った。

「疑ってるわけじゃない。貴方が嘘を吐いてるなんて思ってないもの。ただ、貴方の投影魔術があり得ないものだって話よ」
「ど、どういう意味だよ……?」
「投影魔術って言うのはオリジナルの鏡像を魔力で物質化した一時的な物に過ぎないの。通常、投影によって作られたものは数分程度で消滅する。なのに、貴方が投影した“莫耶”は丸一日が経過した今も実体化し続けている。これは明らかに異常な事なの。そもそも、英霊の宝具を投影するなんて、無茶苦茶にも程がある。本当なら、廃人になっていてもおかしくない蛮行よ。貴方が仕出かした事は……」
「つまり……、俺の魔術はおかしいって話なのか?」
「そういう事。本来、何処にもないモノにカタチを与えるなんて、現実を侵食する想念に他ならないわ。世界に対して、喧嘩を売ってる。きっと、貴方の本来の“力”はそういうモノなんだと思う。この投影もその“力”の一部に過ぎない筈」
「力って……?」
「現実を侵食する類の異能には幾つか心当たりがあるけど、どれにも共通して言える事がある」
「な、何だよ……」

 凜は酷く険しい表情で言った。

「それは人間の限界を超える業。五つの魔法やそれに匹敵する奥義」

 その声には怒りが滲んでいる。

「馬鹿にしてるとしか思えないわ。アンタみたいな未熟者が……、あまねく魔術師達が羨む高みに既に至っている可能性があるだなんて――――」

 あまりにも理不尽な物言いだが、士郎は彼女の気持ちをある程度察する事が出来た。
 五つの魔法。それは魔術師にとっての到達点の一つだ。その時代で如何なる技術や金、時間を費やしても実現不可能な奇跡を可能とする業。
 魔術に関する知識も碌に持っていない未熟者がソレに匹敵する力を持っているかもしれない。生粋の魔術師である凜からすれば、苛立って当然だろう。

「……この力があれば、セイバーを守れるか?」
 
 けど、彼女の感傷を気に掛けている余裕など無い。重要なのは“力”が有用であるか否かだ。

「……英霊の宝具を投影出来る。そんな反則染みた能力、使いこなすなんて無茶も良い所よ。でも、使いこなす事が出来れば、大きな武器になる事は間違い無い」
「なら――――」
「ただ、勘違いはしないで」

 凜は深く息を吸い、冷静さを取り戻しながら言った。

「宝具を作る事は出来ても、担い手になれなければ無意味よ。相手は百戦錬磨の英雄達なんだから――――」
「じゃあ……」
「過信はしないで、って言ってるの。宝具の投影を使いこなせるようになったとしても、サーヴァント相手に勝てるだなんて思わないで」

 でも、勝てなきゃ、セイバーを守れない。セイバーを守るという事はあまねく全てのサーヴァントを殺し尽くす事と同義なのだから……。

「……思い詰めてるみたいだから、忠告。自分一人で抱え込んだって、出来る事は限られてる。もっと、周りを頼りなさい。例え、貴方が敵を倒せなくても構わない。一瞬でも、時間を稼ぐ事が出来れば私やアーチャーが敵を殺す事も出来る。セイバーだって、アーチャーとの稽古のおかげで少しずつマシになって来てるわけだし――――」
「セイバーにはもう戦わせない……」
「……は?」

 士郎の発言に凜は思わず口をポカンと開けた。

「た、戦わせないって、サーヴァントを戦わせずにどうやって生き残る気なのよ!?」
「セイバーは一般人なんだ。ただ、事故に合って、こんな場所に居るだけで、本当なら戦う理由なんて無いんだ。だから、セイバーにはもう戦わせない。敵は俺が――――」
「馬鹿言わないで」

 凜は怒りを滾らせて言った。

「貴方如きがどんなに命を削っても、出来る事は限られている。サーヴァントを倒せるのはサーヴァントだけって言うのが聖杯戦争の基本。中には例外があるでしょうし、条件が揃えば私も幾つか手段を持ってる。でも、それはあくまで例外なのよ。宝具の投影くらいで思い上がってるなら、待っているのは死よ」
「でも、俺は……」

 士郎が思い出しているのはライダーを殺す事に恐怖し、涙を流すセイバーの顔だった。
 あんな顔は二度と見たくない。

「……まったく、最初と逆ね。今度は貴方がセイバーの意志を無視して暴走してる。付き合いきれないわ……」
「お、俺は――――」
「頭を冷やしなさい。貴方が考えを改めない限り、私は何も貴方に教えない。今の貴方に何を教えても、早死にのリスクを上げる事にしかならないもの……」
「と、遠坂……、俺は……」
「セイバーともう一度話し合いなさい。お互いの気持ちをちゃんと理解し合う事。貴方達はどっちも一方的過ぎるわ」
「……ごめん。勝手な事ばっかり言って……」
「――――本当よ。いい加減、愛想が尽きて来てる。これ以上、失望させないでちょうだいね」
「ああ、ちゃんと話し合うよ。アーチャーにも言われたのに、俺はまた、独り善がりになってた……」

 肩を落として立ち去る士郎に凜は深く溜息を零した。

「本当なら、アイツを鍛えて、さっさと戦力の一部に組み込んだ方が効率的だって言うのに……」

 士郎が宝具を投影出来るようになれば、戦略の幅が広がるし、勝率も上がる。自滅する可能性が高まろうと、巻き込まれないように注意を払えば、別に問題無い筈なのに、あの二人を見ていると、ついお節介が焼きたくなってしまう。

「……心の贅肉だわ」

 あの似たもの同士め、凜は愚痴を零した。
 どちらも気付いていないようだが、セイバーと士郎は非常に似通った気質の持ち主だ。セイバーの異常に対し、まだ明確な推論は立っていないが、恐らく、日野悟という男の精神を呼び出す要因の一つは士郎の気質にあるのだろう。
 
 士郎はセイバーと話をする為に道場に向った。竹刀を打ち鳴らす音。彼はアーチャーとの稽古の真っ最中だ。
 中を覗き込むと、アーチャーは以前通り、アーサー王の剣技をセイバーに仕込んでいる。

「……アイツみたいに」

 見た所、アーチャーは所謂天才型じゃない。どちらかと言えば、凡才の類だろう。
 あの優れた剣捌きの裏に彼の並外れた努力が見える。血反吐を吐きながら、至れぬ筈の高みに至った彼の剣技。
 それが胸を掻き毟りたくなる程羨ましい。自分にも時間があれば……、努力する時間さえあれば……、そう思わずには居られない。

「……出直そう」

 セイバーはアーチャーとの稽古に熱中している。全ては士郎を護る為の技術を磨く為。
 戦わせたくないのに、邪魔をするのが躊躇われる。彼の真剣さに横槍を入れる事が出来ない。
 部屋に戻り、布団を敷く。早く寝て、早く起きよう。そして、セイバーと話をしよう。
 
「俺は……」

 思い浮かべるのは火災の現場で己を救った時に見せた切嗣の笑顔。
 あの笑顔に憧れて、彼の夢を受け継いだ。
 正義の味方になりたい。その為に道標も無く、闇雲に走り続けて来た。
 だけど、今になって道を見失いそうになっている。

『正義の味方は心に常に愛を持っているものなのだよ』
『貴方がセイバーの意志を無視して暴走してる』

 セイバーの言葉と凜の言葉。
 二つに共通しているモノは救うべき対象にキチンと目を向けるべきという点だ。
 ただ、救えばいい、というモノじゃない。彼女達はそう言っていた。

「……正義の味方に――――」

 意識が微睡む……。
 
『おいで』

 ……これは、夢?
 体は眠っている。自分の意思では指一本、折り曲げる事が出来ない。
 なのに、足だけが勝手に動いている。おかしな耳鳴りが響き続ける。

『おいで』

 寒い。
 まるで、北国に居るかのような寒さを感じる。
 身を切るかのような悪寒が走る。

『おいで』

 誰も居ない。普段なら、真夜中であろうとそれなりに人の気配がある通りにも誰も居ない。
 無人となった街を足が勝手に歩き続ける。

『おいで』

 喋る事さえ儘なら無い。
 衛宮士郎の意思を無視して、衛宮士郎の体は動く。

『おいで』

 辿り着いたのはクラスメイトの自宅近く。
 街のシンボルとも呼べる山。
 円蔵山の麓にある柳洞寺へ通じる石段を一歩、また一歩と足が登る。
 
『さあ、ここまでいらっしゃい、坊や』

 耳鳴りが確かな声に変化した。
 否、変化したのでは無く、意識が声を声であると漸く認識したに過ぎない。
 初めから、耳鳴りは同じ文句を繰り返す女の声だった。
 頭蓋を埋め尽くす、魔力を伴いし、魔女の声。
 山門が見える。その奥に寺が見える。そこに何かが居る。
 駄目だ。あの山門を超えたら、もう、戻れない。生きて帰る事は出来ない。
 
――――セイバーを守る事が出来ない。

「ッ――――」

 意識が一気に覚醒に向う。
 起きろ、そして、逃げろと叫ぶ。
 けれど、手足は士郎の意思を無視して山門を潜った。

「――――ぁ」

 寺の境内の中心に陽炎のように揺らめく影が居た。
 影から現われたるは御伽噺の魔法使い。人ならざる気を放ちし、魔女。

「――――止まりなさい、坊や」

 女の命令に対し、士郎の体は従順に従った。
 まるで、自らの主が士郎の意思では無く、目の前の女の意思であるかのように――――。

「――――ゥ」

 サーヴァント。恐らく、クラスはキャスター。魔術師の英霊。
 
「ええ、そうよ。私はキャスター。ようこそ、我が神殿へ」

 涼しげな声。
 必死に体を動かそうと力を篭めるが、身動き一つ取れない。
 セイバーを守ると言った矢先にこんな醜態を晒してしまうなんて、士郎は屈辱のあまり顔を歪めた。

「――――める、な」

 意識を研ぎ澄ます。どんなカラクリであろうと関係無い。
 キャスターの呪縛から逃れる為には奴の魔力を体内から排除する必要が――――。

「可愛い抵抗だ事。でも、無駄よ。まだ、気付かないの? 貴方を縛っているのは私の魔力ではなく、魔術そのもの。一度成立した魔術を魔力で洗い流す事は不可能」

 馬鹿な……。
 奴の言葉が真実だとすると、己は眠っている間にキャスターに呪われたという事になる。
 けれど、魔術回路には抗魔力という特性がある為、魔術師が容易に精神操作の魔術を受ける事は無い筈だ。
 よほど、接近されて呪いを打ち込まれでもしない限り、あり得ない状況。

「それを可能とするのが私。理解出来たかしら、私と貴方の次元違いの力量の差が――――」
「……だま、れ」

 キャスターは嘲笑した。士郎の抗魔力の低さを嗤った。

「ああ、安心なさい。この町の人間は皆、私の物。魔力を吸い上げる為に容易には殺さないわ。最後の一滴まで搾り取らないといけないから」
「な、んだ……と?」

 聞き逃せない言葉があった。
 今、この女は冬木の街の住人達から魔力を吸い上げると言ったのか……?

「キャ、スター。お前、無関係な人間にまで手を――――」
「あら、知らなかったの? あの小娘と手を組んでいるのだから、当然承知していると思ってたのだけど……」

 口元に手を当て、わざとらしく言うキャスターに怒りが湧いた。

「キャスターのクラスには陣地形成のスキルが与えられる。魔術師が拠点に工房を設置するのと同じ事。違うのは工房の格。私クラスの魔術師が作るソレはもはや神殿と名乗るに相応しいもの。特に、ここはサーヴァントにとっての鬼門だから、拠点としても優れているし、魔力も集め易い。漂う街の人間達の欠片が分かるかしら?」

 目を凝らせば分かってしまう。そこに漂う魔力が人の輝きによって出来ているという事が――――。

「キャスター!!」

 怒りを声に乗せて叫ぶ。だが、体はやはり動かぬまま……。

「さあ、そろそろ話もお仕舞いにしましょう。貴方の事を見ていたわ。面白い能力があるみたいじゃない。まずは令呪を引き剥がしから、適当に刈り込んで、投影用の魔杖にでも仕立て上げてあげるわ」

 何を言っているのか理解出来ないが、このままでは不味いという事だけは分かる。
 手足が千切れようと構わない。それだけの意思を篭めて暴れようとしているのに、手足がピクリとも動かない。

「あらあら、この期に及んでまだ抵抗する気力があるなんて……。ふふ、中々面白い坊やだわ。街中をうろついているアレの始末にセイバーを使うつもりで招いたのだけど……、貴方も立派な武器として使ってあげる」

 セイバーを使う。その一言に何かがガチリと音を立てて嵌った。
 キャスターが禍々しい魔力光を放つ指を向けて来るが、無視する。
 
「さあ、己の運命を受け入れなさい、坊や」
「――――ざける、な」
「あら……」

 投影する。アイツの剣を投影して、この女の首を切り落とす。
 躊躇いは無い。この女を今ここで確実に――――、

「可愛いわ。本当に、可愛いわ。まだ、そんな抵抗をしようだなんて……、ますます、気に入ったわ」

 愕然となった。投影をしようと回路に魔力を流した瞬間、それを何かに塞き止められた。流れを歪められた魔力が全身を突き刺す刃となる。
 堪え切れず、吐き出されたのは赤い塊。

「でも、そろそろいい加減にしないと――――」

 その時だった。突然、背後にある山門が吹き飛ばされた。天に昇るは黄金の軌跡。
 その直後に何十という矢が襲い掛かって来た。キャスターが咄嗟に後退すると、矢は直前まで彼女が居た場所に突き刺さった。

「ア、アーチャー?」

 瓦礫の向こうから姿を現したのは赤い騎士。

「……まんまと敵の術中に嵌り、こんな場所まで連れて来られるとは、間抜けにも程がある」

 アーチャーはキャスターを阻むように士郎の前に降り立ち、言った。

「な、なんで……」
「呆けている暇など無いぞ。今ので、あの女が貴様に付けた糸は断った」
「あっ……」

 言われて、手足を確認する。
 動く。自分の意思に体が応えてくれる感覚に打ち震えそうになった。

「――――しばらくはジッとしておけ。好き勝手に動き回られては面倒を見切れん」
「ア、アーチャーですって……? アサシンはどうしたの……?」
「見て分からんか? 寄り代である山門ごと吹き飛ばしてやった。剣の腕は確からしいが、宝具も持たない侍風情を門番に置いた貴様の愚だ」
「……所詮、アサシンは捨て駒でしかないわ。それを殺したくらいでいい気にならないでちょうだい!」
「なら、試してみるか? 生憎、時間が無いのでね。速攻で片を付けさせてもらう。あんまりゆっくりしていると、“待て”が出来ない馬鹿弟子がここまで来てしまうのでね」

 そう呟くと同時にアーチャーはキャスターへと疾走した。いつの間にか、奴の手には陰陽剣が握られている。
 キャスターは呪文を詠唱する暇も与えられなかった。片腕を突き出すより早く、アーチャーが間合いを詰め、キャスターの体を両断した。

「――――ッチ」

 あっと言う間に斬り倒した相手の亡骸を前に、アーチャーは不満そうに舌を打った。どうやら、大口を叩いておいて、アッサリ倒れたキャスターに苛立っているらしい。
 だが、士郎にその事を気に掛けている余裕は無かった。士郎はその時、彼が握る剣に夢中になっていた。美しい二振りの剣。己が投影した剣が如何に不出来だったかを実感させてくる。
 他者を倒す事を目的とする戦意も、後世に名を残そうとする我欲も、誰かが作り上げた武器を越えようとする競争心も、絶対的な偉業を為そうとする信仰も……、その剣には何も無い。
 あるのはただ、作りたいから作っただけ、という鍛冶師の心のみ。
 無骨なその在り方が美しく、目を離せない。

「――――ぁ」

 キャスターの亡骸が消えていく。
 それを見届け、アーチャーが剣を納めようとした瞬間――――、

「……不合格よ、アーチャー。その程度で勝ったつもりになるなんて、ガッカリだわ」

 魔女の声が響き渡る。
 同時に光弾が降り注ぎ、アーチャーは双剣で弾いた。
 空を見上げると、そこにキャスターは君臨していた。

「……空間転移か固有時制御といったところか? なるほど、随分と魔力を溜め込んだものだ。この空間内なら、魔法の真似事すら可能らしい。ッハ、大口を叩くだけはある」
「そう……。私は逆よ。見下げ果てたわ、アーチャー。中々の実力者だと思って、試してみたけど、この程度なら要らないわ」
「耳が痛いな。まあ、次があるなら善処するよ」
「――――愚かね、二度目なんて無いわ。ここで、死になさい、アーチャー」
「……ック」

 空に舞うキャスター。彼女の広げる外套に光の陣が現れ、そこから無数に魔弾が降り注ぐ。
 そこから先、展開は一方的なものとなった。何しろ、降り注ぐ光弾は一つ一つが冗談染みた魔力を含有している。一度でも喰らえば、英霊であろうと唯では済まない。
 通常魔術を超える大魔術をシングルアクションで矢継ぎ早に発動する。その凄まじさは未熟者である士郎ですら分かる。

「――――ランクAの魔術をここまで連続で使うとは……」

 逃げに徹し、境内から離脱しようと走るアーチャー。
 ところが、途中で何かに気付いたかのように此方に向って走って来た。

「戯け! 何を暢気に突っ立っているんだ、貴様は!」

 血相を変え、士郎を抱え上げ走り始めるアーチャー。

「え?」

 それで漸く、士郎も現状認識が追いついた。ここが超危険地帯であるという現状を認識するに至った。

「――――クソ、なんだって、こんな手間を!」
「ま、お、降ろせ、自分で走れる!」
「馬鹿を言うな! 貴様など、瞬時に蒸発させられるぞ! とにかく、ジッとしていろ! さっさと離脱を――――」
「士郎君!!」

 その声と同時にアーチャーは溜息を零した。

「来るなと言っただろ、戯け!」
「だ、だって、士郎君が――――」
「だったら、大事に抱えていろ!!」

 のこのこ現れたセイバー目掛け、アーチャーは士郎の体を投げ飛ばした。同時に上空に向け、手を挙げる。

「熾天覆う七つの円環!!」

 眩い光を放つ七つの花弁がキャスターの魔弾を防ぐ防壁となって立ちはだかる。

「アイアスですって!? まさか、これは――――」

 驚愕に声を張るキャスター。彼女目掛け、左右から同時に白と黒の軌跡が迫る。
 
「なっ――――!?」

 キャスターのローブが裂ける。アーチャーの仕出かした事に対する驚愕が彼女の反応を一瞬遅らせたのだ。
 責める事は出来ない。アーチャーが展開したのは嘗て、トロイア戦争で活躍した英雄の盾。そんなものがいきなり現れて、狼狽するなという方が無茶な話だ。
 盾の展開と同時に放たれた白と黒の双剣に襲われたキャスター。
 対して、アーチャーは詰めの一手の準備に入っていた。
 地面に膝を立て、弓を上空のキャスター目掛け、構えている。弦に宛がわれているのは奇妙な剣。
 捻じ曲げられた黄金の剣。その剣を彼が持っている理由が分からない。だって、あの剣は――――、

「――――I am the bone of my sword.」

 切迫したキャスターの声が轟く。
 一節の詠唱によって紡がれる大魔術に対し、アーチャーは“矢”を放った。

「――――ッ」

 矢はキャスターが生み出した大魔術を真っ向から打ち破り、キャスターの守りをも貫通して雲の向こうへ消え去った。
 
「あ……がぁ――――」

 上空からキャスターの喘ぐ声が響く。空間をも捻じ曲げる破壊の軌跡はキャスターの体の一部を捻り切っていた。
 それでも尚、生き永らえているキャスターに驚愕を覚える。

「……ほう。今の一撃を受けて生きているとは、思った以上にやるな、キャスター」
「……く……ぁぁ」

 ゆっくりと地に降り立ち、苦しげに喘ぐキャスター。彼女に対し、アーチャーは止めを差すべく、双剣を取り出し――――、

「……待ちなさい」

 キャスターの一声に手を止めた。

「アーチャー。貴方も今、街を徘徊している存在には気付いているのでしょ?」

 その言葉にアーチャーの表情が変化した。

「貴様……」
「アレに対処出来るのは私だけよ? 力自慢の英雄が何人居ようと、アレには勝てない。だから――――、私と手を組まない?」

 キャスターの言葉に士郎とセイバーは目を丸くした。

「貴方の力量と私の魔術が合わされば、アレを片付け、聖杯戦争を正常に戻す事が出来る。どうかしら?」
「……断る。別に君の力を借りる必要は無い」
「――――自分の力だけで対処出来るとでも?」
「……さてな。まあ、君がアレに対処するつもりなら、君を倒すのは後回しにしよう」

 その言葉に士郎は声を荒げた。
 二人が何の話をしているのかは分からない。ただ、キャスターが多くの人の命を脅かしている事だけは分かる。
 なのに、そんな奴をアーチャーを見逃そうとしている。

「待て、アーチャー! そいつを見逃すなんて――――」
 
 セイバーから離れ、アーチャーに詰め寄ろうとした瞬間、キャスターの姿が闇に溶けるように消えた。

「ま、待て、キャスター!」
「馬鹿か、貴様。追った所で、殺されるだけだぞ」

 慌てて追いかけようとする士郎の襟首を掴み、アーチャーは彼をセイバーに向って放り投げた。

「な、なんで、見逃すんだよ、アイツを!」
「どうせ、奴はここで斬り伏せても逃げおおせた。それに地上を徘徊している厄介者を排除してくれるなら、今は倒さず、自由にさせた方が賢明だ。奴ほどの魔術師なら、あるいは……」
「何の話だよ!? 自由にって……、アイツにまた、人を襲わせるのか!?」
「私が襲わせているわけじゃない。とにかく、私は戻る。貴様等も早々に引き上げるがいい」
「お、おい、待て!」

 伸ばした手は空を切った。

「し、士郎君、落ち着いて……」
「落ち着けるか! キャスターは街中の人間を襲っていたんだぞ! なのに、アイツ――――」
「何か理由があったんだよ! じゃなきゃ――――」
「じゃなきゃ、キャスターが人を襲う事を黙認する筈が無いって言うのか? 人が大勢苦しむのを許容する理由って何だよ!?」
「落ち着いてくれ、士郎君!」
「――――アイツは……、アイツなら、止められたのに……」

 士郎は拳を硬く握り締めた。

「アイツの力があれば……」