第十五話『希望』
シロウがいない。
街中を駆けずり回って、必死に探したけれど、彼の姿はどこにも無かった。
「……怒っているのですか?」
当たり前の話だ。だって、私は彼を殺した。己の欲望を叶えるためにその首を落とした。
吹き出した血飛沫の生暖かい感触が今でも脳裏に焼き付いている。
瞼を閉じる度、光を喪った瞳が私を見つめる。
「……いやだ」
嫌われて当然の事をした。憎まれても、誹られても、蔑まれても、当たり前の事を彼にした。
私を愛してくれた人。一緒にいる事を望んでくれた人。過去を無かった事にしてはいけない事を教えてくれた人。
愛する理由なら山ほどあった。守る理由なら海ほどあった。
「……いやだ」
愛したかった。気持ちを告白したかった。もっと、抱かれたかった。
彼と共に歩きたい。寝る間も惜しんで語り合いたい。互いの香りが移るほど触れ合いたい。出会う前の彼の事を知りたい。出会う前の私を知ってもらいたい。この世界を一緒に見て回りたい。彼の理想を共に分かち合いたい。何が好きで、何が嫌いなのか教えてもらいたい。もっと、笑顔を見たい。怒った顔を見たい。泣いている顔や照れている顔も見たい。軽蔑した顔も、羨む顔も、眠そうな顔も、晴れやかな顔も、もっと……、もっと……、もっと……、見たい。
「……いやだ」
あったかもしれない未来。
望めば手の届いた夢。
「シロウ……」
帰ってきてくれた筈なのに……。
「シロウ……」
また、笑いかけてくれる筈だったのに……。
「シロウ……」
こんなの違う。私の望んでいた未来じゃない。
まるで底のない沼に浸かっているような気分だ。この世界は暗闇で満ちている。
唯一の光は取り戻しかけた途端に離れていった。
「シロウ……。ああ、シロウ……。シロウ……。シロウ……。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ。シロウ」
彼の名前を呟く度に心が揺らぐ。出会った日の事を思い出す。
あの日に帰りたい。シロウがいない世界なんてイヤだ。
「……帰ろう」
間違えた。この世界は私のいるべき場所じゃない。
キャスターを召喚して、シロウをこの世界で蘇生させようとした事がそもそもの誤り。
あんな魔女を信じるなんてどうかしている。初めから、聖杯に求めれば良かった。あの日に帰る事を望めば、また彼と過ごす日々を歩めた筈。
「殺そう。全部壊して、聖杯を使おう」
口元が歪む。希望が光り輝いている。
もう、間違えない。
「――――いいや、汝はここで死ぬ」
声がした。振り向いた先には歪な腕を掲げる死神の姿があった。
「|妄想心音《ザバーニーヤ》」
◇
これはもはや自己の欲望を優先している場合ではない。
悪性の神が現界する可能性を理解しながら、尚も小娘一人の心を尊重して二の足を踏む者達を彼は見限った。
気持ちは分かる。たしかに、彼女は救われるべき者だ。悲劇のヒロインであり、憐れむべき存在だ。
だが、それがどうした。世界が滅ぶのだ。悠長な事を言っている場合ではない。
「少女よ。憎むならば私を憎むがいい」
気配遮断を解く。
少女の嘆き、怒り、願望を踏み砕き、アサシンのサーヴァントは己の片腕に宿る呪詛を解放した。
折り畳まれていた長い腕を伸ばす。振り向き、目を見開く少女に触れる。
瞬時にアルトリアはアサシンから離れたが、既に彼の腕には脈打つ心臓が握られていた。
|妄想心音《ザバーニーヤ》――――。
それは悪性の精霊たる|魔神《シャイタン》を卸した呪いの腕。対象に触れる事で、魔神の腕はエーテルによる心臓の|二重存在《コピー》を作り出す。鏡面存在であるエーテルの心臓を潰せば、本物の心臓も潰れる。単純にして、絶対なる呪術。それがハサン・サッバーハの宝具である。
「……なっ、にぃ?」
声はアサシンのもの。必殺の奥義を必中のタイミングで使った。呪術も完璧に成立している。
それなのに、アルトリアはケロリとしている。
彼女の心臓は聖杯によって新たに創造されたもの。邪神に汚染されたソレはもはや、人を断罪する為の業を受け付けなかった。
「死ね」
見えざる剣が迫る。回避が間に合わず、黒塗りのアサシンダガーで刃を逸らせようとした。
だが、アサシンの肉体はダガーごと両断された。
「……馬鹿な」
細切れに解体されていく己の体を見ながら、彼は己の過ちを識った。
アルトリアを救うためだけじゃない。彼女を救う以外に道がない。戦って勝つには、彼女はあまりにも強すぎた。
「申し訳ありません……、マスター」
光の粒になって消えるアサシンを見届けた後、アルトリアは今度こそ歩き出した。
己の望む未来の為に……。
◇
冬木市から遠く離れた山の中、ウェイバー達は体を休めていた。
「……アサシン」
フラットは令呪の消滅によってアサシンの死を悟った。
暗殺者という肩書からは想像も出来ないくらい優しい人で、強い人だった。
だから、彼が何をして、誰に倒されたのかもすぐに悟った。
「アサシンでもアルトリアは暗殺出来なかった……、か」
ライネスはうつむくフラットを横目に見ながら呟いた。
彼の事だ。おそらく、油断も躊躇いも無く、必殺の確信を持って仕掛けた筈。
それでも殺せなかった。
「……やはり、正攻法でアルトリアは落とせないな」
ウェイバーは舌を打った。
残る此方の手札はセイバー、ライダー、バーサーカーの三騎のみ。
相手はアルトリア、アンリ・マユ、ヘラクレスの三騎。
数だけを見れば拮抗しているが、そのどれもが此方の戦力を上回っている。
戦力を総動員して、一体ずつ対処していく以外に道は無く、その内の一体でも倒せる可能性は極めて低い。
モードレッド、イスカンダル、ベオウルフ。いずれも劣らぬ大英雄揃いだが、相手はその上をいっている。
「フィーネ。そろそろ教えてくれるか? お前とイリヤスフィールの言う勝利の鍵とは何の事だ?」
この状況でなお、フィーネの顔には余裕が見て取れる。モードレッドも苛立ってはいるが、焦りを見せていない。
その根拠が知りたい。
「ここまでの絶望的な戦力差をひっくり返す|切り札《ジョーカー》でもあるのか?」
ウェイバーの問いにフィーネはクスリと笑った。
「何故、笑う?」
「いいえ。ジョーカーという言葉は実に的を射ているなって」
フィーネは言った。
「そうよ。勝利の鍵はジョーカー。この世界の破滅が決定的になった時、現れるトリックスター。とびっきりのワイルドカード」
フィーネは指を折って数を数え始める。
「……捧げられた贄の数は九。始まるわね」
フィーネはライダーを見た。
「ねえ、貴方の宝具は街一つを呑み込める?」
「……無理だな」
「令呪を使っても?」
「……範囲は広げられるかもしれん」
探るような目のライダーの言葉に満足したフィーネは他の六人のマスター全員に告げる。
「クー・フーリンに一回。ジェロニモに一回。イスカンダルに一回。残る18の令呪を全てミスタ・ベルベットに移して、ライダーは冬木市の住民を全て固有結界内に避難させてちょうだい」
「避難……?」
「ええ、ここまでは大聖杯の維持の為に生かされてきたけれど、次の段階に移れば殺される」
「次の段階? 何が始まるというんだ?」
「言ったでしょ?」
フィーネは言った。
「邪神が降臨するわ」
――――後は任せたよ、お兄ちゃん。