幕間「始まりと終わりの物語」 パート14

 気がつくと、太陽が真上に上っていた。眠るつもりなんて無かったのに、私はフラットが眠るベッドを枕に意識を手放していたらしい。
 フラットの苦悶に呻く声が響く。意識を失う前と彼の容態が一変している。土気色だった顔は紅潮し、汗ばんでいる。肌に触れてみると。火傷しそうな程熱い。
 
「フラット!」

 ヒザががくがくした。立ち上がりかけていた足を折り、近くのボウルに手を伸ばす。駄目だ、氷が完全に溶けてしまっている。
 急いで氷を取りにキッチンに向かう。涙で視界が曇ってしまい、しょっちゅう壁にぶつかりながらボウルに氷水を張り、急いで戻る。
 
「フラット……。死なないで、フラット……」

 泣きながら彼の名前を呼び続ける。何度も何度も体を拭い、氷嚢を変える。
 他に出来る事が何も無い。悔しさで頭がおかしくなりそう。
 
「フラット……」

 やはり、夢幻召喚でモルガンを憑依させ、治療を開始した方が良い気がしてくる。手遅れになる前に。約束を破ってしまう事になるけど、それでフラットが生きられるなら、何を躊躇う必要があるの?
 氷嚢はあっと言う間に溶けてしまう。私は何度も何度もキッチンと部屋とを往復した。
 何度目かの往復の途中で私は再び意識を手放してしまった。まるで、ナルコレプシーに罹ってしまったみたい。外が暗くなっている。慌てて部屋に戻ると、フラットの顔が真っ赤になっていた。尋常じゃない量の汗を流している。
 極めて強力な毒に対して、フラットの刻印が彼を生かそうと粘っているけれど、純粋な生命力の枯渇や魔術的なダメージと違い、毒に対しては刻印もあまり役に立たない。生命力を底上げし、命を無理矢理永らえさせる事しか出来ない。残された時間は僅かだ。

「フラット……」

 どうして、こんな状態の彼を残して意識を失ってしまったのだろう。壊れかけている事なんて言い訳にならない。

「もう、待ってられない……」

 窓の外を見ても、みんなが戻って来る気配は無い。そもそも、まだ半数以上のサーヴァントが残っている現状を一日でひっくり返し、勝利するなんて土台無理な話だったんだ。
 彼を救うには決断するしかない。約束を違えて、彼を救う。もう、迷ってる時間なんて無い。フラットの死はもう間近に迫っている。
 
「絶対、死なせない……」

 魔術回路を励起させる。死も崩壊も怖くない。だって、愛する人の為にこの命を使えるのだから、悔いなんて残る筈が無い。
 躊躇い無く、私は刻印へと魔力を流し込み、その瞬間、異変が起きた。
 突然、屋敷の周囲を覆っていた守りが消え去ったのだ。アーチャーが張った強力な結界が解除された。
 
「戻って来た!」

 そう思った。凛が約束を守り、聖杯を持ち帰ったに違いない。
 彼女は本当に一日で聖杯戦争を終わらせてしまったのだ。凄いなんて言葉じゃ足りない。私は急いで窓から彼女の存在を確かめようと身を乗り出した。
 
「……あ」

 違った。窓の外に居たのは凛では無かった。
 よく考えたら分かる事だけど、そもそも、此度の聖杯戦争における聖杯の器は私自身だ。凛が勝利したなら、その事を誰よりも早く私は察知する事が出来る。
 二度に渡る意識の消失。その理由は何も壊れかけている事が原因では無かった。ただ、壊れかけているから、その理由に気付けなかっただけ。
 意識すると分かる。最初にランサー。次に……、ライダー。
 涙が零れた。ライダーが死んだ。彼の魂が私の中にある。
 
「ライダー……」

 心は眩く輝き、彼の浮かべる笑顔は万人の心を潤す。誰よりも美しく、誰よりも優しい英雄が死んだ。
 今、私の中にあるのはセイバーとランサー、ライダーの魂のみ。まだ、アサシンとキャスターは堕ちていない。
 どちらが殺したんだろう。アーチャーは無事だろうか? 溢れる疑問の答えはきっと、屋敷の前に立つ男が知っている筈。
 そこに居たのは容貌から察するにアサシン。そして、それを従えるように立つ人影が一つ。
 
「人の部屋に勝手に入り込むとは非常識な奴だ」
 
 アサシンを従えるのは青い髪の少年だった。少年は言う。
 
「さて、イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。君が持つ小聖杯とそこに居るであろう男の命を頂くよ」
「誰が渡すもんですか……」

 憎しみが胸を焦がす。ライダーを殺したのはあの男かもしれない。そう思うと、凶暴な感情が湧き上がる。

「抵抗しても良いよ。けど、果たして君一人でサーヴァントに抗えるかな?」

 少年が後ろに退いた。同時にアサシンが向かって来る。
 迷っている暇など無かった。
 
「……だめ、だ。イリ、ヤちゃ……ん」

 掠れた声。フラットが荒く息をしながら言った。
 
「それ、だけは……やめて、く……れ」
「……ごめん」

 私は刻印に魔力を流し込んだ。
 塗り潰されていく。まるで、私というキャンバスに描かれた薄色を使った絵が原色のペンキで塗り潰されていくみたい。
 
「――――夢幻召喚」

 ああ、これは確かにアーチャーの言う通りだ。
 二度目の夢幻召喚。それが意味するのは完全なる崩壊。もう、後戻りする事は出来ない。魔女・モルガンを憑依させ、私はフラットの下に向かう。
 彼の瞳に映る私の容貌は大きく変貌していた。髪の色だけじゃない。瞳の色まで変わっている。息が荒くなり、震えが止まらない。
 けたたましい音が響く。それが何の音か直ぐには分からなかった。窓に迫る黒い影からフラットを護る為に結界を張った時、それが私自身の発する悲鳴だと気付いた。
 
「……イリ、ヤ」

 フラットが呻き声を上げながら、誰かの名前を呼ぶ。
 
――――あれ? フラットって、誰の事だっけ?
 
 分からない。今、誰かの名前を思い浮かべた気がしたけど、それがどんな名前だったかも分からない。
 何かが壊れていく。様々な景色が浮んでは消えていく。プカプカと水面に浮んでは消えていく泡のように、色々なものが消えていく。
 
「――――ワタシは」

 分からない。ワタシが誰で、ここがどこで、何をするべきなのかが全く分からない。
 
「少し、落ち着いた方がいいか」

 息を整える。記憶の欠落については一旦置き、まずは現状を整理する事から始めよう。
 現在、ワタシは戦闘状態にあるようだ。ベッドに横たわる青年を守るように結界を張っている事から、彼が保護対象であると仮定する。状態はあまり芳しく無い。治療を施さなければもって、あと一時間といったところ。
 彼から情報を得るにしても、まずは彼を回復させなければならない。その為には眼前に迫る脅威を排除する必要がある。
 
「一つ、問う」

 わらわは黒衣を纏う男に問う。
 
「貴様は妾の敵で相違無いか?」
「……何を今更」

 黒衣の男は黒塗りの剣を振り上げる。
 
「ならば、死ね」

 首を切り落とす。どうやら、薬と呪術によって肉体と精神を改造されているらしいが、妾の敵では無い。
 
「術は問題無く使えるな。むぅ、これは……」

 肉体と霊体に齟齬を感じる。妾という霊体を別の肉体に無理矢理憑依させたようだ。
 
「……妾、死んでる?」

 落ち着け。落ち着くのだ。単なる幽体剥離かもしれん。
 
「……妾の霊体、弄られてる?」

 落ち着け。落ち着くのだ。記憶が欠落している理由は分かった。恐らく、妾の霊体をこの肉体に憑依させる際、妾の記憶を消去したのだろう。他にも色々と弄られているが、それらはこの肉体に憑依させ易くする為の細工のようだ。
 
「……ますます、この男から情報を聞き出さねばならんな」

 その為にも、この状況を打破する必要がある。気配から察するに敵は二十。
 
「いや、二十二か……」

 巧妙に隠しているが、遠方から此方を伺う存在が二つある。内、一つは明らかに人間では無い。
 
「まずは雑魚を片付けるか」

 数が多かろうが、魔術に対する守りを持たない者など敵では無い。周囲に散開する気配を呪術で一掃する。血流を操作するだけで人間は簡単に死ぬ。
 殺した者の中には子供や老人、女も混ざっている。服装も黒衣の内側はそれぞれバラバラだ。まるで、適当に見繕った人間を無理矢理兵士に仕立てたかのよう……。
 
「まあ、効率が良い事は否定せんが、質が悪過ぎるな」

 この分なら、残る二人も苦せず殺せるだろう。
 
「……ならば、捕らえるか」

 そうすれば、彼らから情報を得られるかもしれない。魔術に対する耐性を持たないならば、拷問をする必要すら無い。
 
「うむ、そうしよう。ここに来い、名も知らぬ者達よ」

 この肉体自体は悪く無い。理論を無視して魔術を再現するという規格外の能力を保有している。その上、外部から無尽蔵に魔力を供給されている。五つの魔法はさすがに不可能だろうが、それに近い奇跡なら幾らでも再現出来そうだ。
 逃げ出そうとする正体不明の二人を強制的に転移させ、同時に拘束する。
 
「これは……」

 青い髪の青年と老人。人外は老人の方らしい。
 
「まあ、とりあえず貴様の記憶を覗かせろ」

 抵抗しようともがく青年の頭に手を置く。すると、面白い情報が次々に入って来た。
 聖杯戦争。万能の願望機。七人の魔術師と七騎のサーヴァント。
 セイバーのサーヴァント、ベオウルフ。マスターはライネス・エルメロイ・アーチゾルテ。
 アーチャーのサーヴァント、ギルガメッシュ。マスターは遠坂凛。
 ランサーのサーヴァント、クー・フーリン。マスターはバゼット・フラガ・マクレミッツ。
 ライダーのサーヴァント、アストルフォ。マスターはフラット・エスカルドス。
 アサシンのサーヴァント、ラシード・ウッディーン・スィナーン。マスターは間桐臓硯――――訂正、現在は間桐慎二。
 キャスターのサーヴァント、ファウスト。マスターは言峰士郎。
 バーサーカーのサーヴァント、ヘラクレス。マスターはイリヤスフィール・フォン・アインツベルン。
 現状、セイバーとランサーは消滅。アーチャーとライダーは共にキャスターの宝具、ヴァルプルギスの夜にて戦闘中。アサシンとキャスターは共闘関係にあり、アサシンはイリヤスフィールが所有する小聖杯の奪取、及び、ライダーのマスターの討伐を目的として動いている。
 
「なるほど、この肉体の主はイリヤスフィールというのか……。無茶な小娘だな。英霊の魂を自らに憑依させるとは」

 自身の真名には至らぬまでも、幾らか情報を得られた事に安堵した。
 
「よしよし、良い仕事をしたぞ。褒美だ。安らかに死ね」
「や、やめ――――」

 安楽死させてやろうと頭に手を置こうとした瞬間、アサシンのサーヴァントから光が溢れた。
 世界が塗り替えられていく。
 
「おお、固有結界とは珍しい」

 感想としてはただそれだけだった。魔法に匹敵する魔術師の奥義。それを一介の暗殺者が再現した事には素直に感動するが、それだけだ。
 見果てぬ砂塵も抜けるような青空も取り囲む無数の暗殺者も妾の心を動かすには足りない。何故なら、この者達は魔術に対しての心得が無い。聖杯戦争に参加するにあたり、聖杯から提供された情報くらいは学んでいるようだが、それだけでは妾の術に対抗する事は出来ない。
 如何に霊体であろうと、眼球を蒸発させれば動きが鈍るし、脳味噌に僅かな傷を負わせるだけで肉体のあらゆる機能が停止する。数など幾ら揃えても意味が無い。百人居るなら百人同時に殺せばいいだけの事。それが出来るのが魔術師であり、妾だ。
 
「貴様、一体……」

 アサシンが慄くような表情を妾に向ける。青年の方は虚ろな表情のまま妾に襲い掛かるので、脳を焼いて始末する。
 
「いや、すまんな。妾もよく分からん」

 アサシンの脳を破壊し、消滅させると同時に結界が消える。
 
「さてさて、少年よ。今、治療してやる故、もう少しの辛抱だ――――っと、千客万来よな」

 何かが近づいて来る。
 
「さすがに、これ以上は少年がもたぬな……」

 さて、どうしよう。
 
「まあ、必要な情報はあの青髪の少年から貰ったしな。よし、見捨てるか」

 イリヤスフィールにとっては大切な存在かもしれんが、妾には関係無い。
 まずは自分の真名を探るとしよう。どうやら、イリヤスフィールの魂は妾の魂によって傷つき、壊れてしまったようだが、サルベージ出来なくも無い。
 
「ふふふ、妾に不可能は無い。よし、厄介なのが来る前に退散しよう」

――――ちょっと待って!

「おお、バックアップがあったのか! 中々、考えているではないか、イリヤスフィールよ」

――――ああ、もう、だから言ったのに! やっぱりこうなった……。

「憤っている所悪いが、とりあえず、話は場所を移してから……」

――――いいえ、ここで話すわ。今、ここに向かってるのは敵じゃないし。

「お主にとってはそうでも、妾にとってはどうか分からぬ」

――――待って! なら、せめてフラットを治してからにして!

「いやいや、さすがの妾でも少年の治療には時間が……っと、お主が話し掛けるから……」
「イリヤ!」

 窓から少女が飛び込んで来た。妾を見るなり、少女は口元を手で覆い、目を見開いた。厄介な事になりそうだ。
 
「うむ。逃げよう」
「逃がすと思うか?」
「い、いつの間に……」
 
 気配遮断スキルどころでは無かった。魔力も臭いも何も感じなかった。
 
「身隠しの布か?」
「まあ、それに近いものだ。それより、やはりこうなったか……」
「やはりって、どういう事!?」

 少女が喚き立てる。
 
「見て分からぬか? イリヤスフィールはあれほど忠告したにも関わらず、夢幻召喚を使い、モルガンを憑依させた。その結果、モルガンに肉体を乗っ取られたというわけだ」
「妾って、モルガンだったのか……」

 妾の言葉にアーチャーは目を細めた。
 
「なるほど、記憶が欠落しているらしいな」
「そういう事だ。不憫であろう?」

 アーチャーは無言で妾の首筋に刃をあてがった。冗談の通じぬ男だ。
 
「待ってよ……」

 少女が口を開く。恐らく、アーチャーのマスター。名は遠坂凛と言ったか……。
 
「イリヤの肉体が乗っ取られたってどういう事よ!? 返してよ! イリヤの肉体をイリヤに返しなさいよ!」
「待て待て、それはちょっと理不尽では無いか? そもそも、妾が自分から乗っ取ったわけでは無いぞ。イリヤスフィールが夢幻召喚なる術で妾の魂を憑依させた事が全ての原因だ。はっきり言って、妾に非は無いぞ」
「まあ、確かにその通りだな」

 アーチャーが妾の言葉に同意した。当然だ。妾は何も間違った事を言っていないのだからな。
 
「で、でも……」
「いや、まあ、返せと言うなら返さん事も無いが……」
「え?」

 何故、意外そうな顔をするのだろう。
 
「妾とて、突然召喚されて迷惑をしておるのだ。夢幻召喚とかいうはた迷惑な術を作った愚か者に文句の一つも言いたいが……」
「で、でも、折角、生き返ったんだし、未練とかは無いの!?」
「……お主は返して欲しいのか欲しくないのかどっちなのだ?」
「いや、返して欲しいけど……」

 なんとも難儀な性格の少女だ。
 
「そもそも、妾は別に生き返ったわけでは無い。それに、この夢幻召喚とやらは永続的に英霊の魂を憑依させる術では無いしな。一応、タイムリミットが設定されておるし、それ以上憑依状態が続けば肉体が滅ぶだけだ。それに、別段、現世で何かしたいという欲求も湧かぬ。どうやら、妾には未練や後悔といったものが無いらしい」

 自分でも意外だが、これは本当だ。魔女モルガンが妾の真名だとすれば、幾らでも未練や後悔がありそうなものだが、全く湧いて来ないのだ。
 
「まあ、知りたい事は全て分かったし、返してやるさ。イリヤスフィールの魂はバックアップが取れてるようだし、サルベージの必要は無かろう。少年の方もささっと治療してやるから、しばし待て」
「えっと……」

 少女は途惑っている。まだ、何かあるのだろうか?
 
「どうした?」
「いや、随分と親切だなって……」
「……確かに、妾は何故、こんなに親切にしておるのだ? 人の魂を道具扱いしおった小娘相手に……」

 実に不思議だ。親切にする理由が全く浮ばない。
 にも関わらず、妾はせっせと少年の治療を進める。あっと言う間に少年の顔色は良くなっていく。
 
「……いや、不思議だ。何となく、イリヤスフィールの為に動きたくなった。これは……」

 答えは出なかった。実に不可解だ。よもや、妾は子供好きだったのだろうか? 記憶が欠落しておるから、確かな事は言えぬが、意識というより、無意識がイリヤスフィールを救えと命じたように思える。
 妾、無意識に子供の味方をする程、子供が大好きだったのだろうか……。
 
「いや、そういう感じでは無かったな……。まあ、良い」

――――とりあえず、イリヤスフィールよ。二度と、夢幻召喚などという他者の魂を弄ぶ邪法に手を染めるでないぞ。
――――は、はい……。ごめんなさい。

 さて、そろそろ時間だ。意識が遠のくに連れ、徐々に記憶が甦っていく。改竄された魂が元の状態に戻りつつあるのだ。
 そして、分かった。何故、妾がイリヤスフィールに手を貸したのか、その理由、それは彼女がイリヤスフィールだったからだ。もっと言えば、嘗ての相棒、衛宮切嗣とその妻、アイリスフィールの娘だからだ。
 
――――失敗したのか、切嗣……。

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