第五話「お兄ちゃん」

 恐怖の館に導かれて三時間。息の詰まるような空間から漸く救い出された僕は疲労困憊状態だった。正直な話、今現在進行形で性的暴力を受け続けている年下の女の子相手にどう対応しろというのか……。
 その前情報が無くても、完全に目が死んでいる抜け殻のような状態の人間相手に盛り上がる話題を提供出来る程の技工が僕には無い。というか、あったら僕はとうの昔に友達百人出来ている。

「どうだった? あの桜って子と友達になれたか?」
「この状態見て分からないかなー?」
「そっか……」

 その声にはなんだか失望感が宿っていた。

「……えっと、怒ってる?」
「ん? いや、別に怒ってない。ただ、慎二の奴がさ……」
「慎二くんがどうかしたの?」
「ちょっと期待してたみたいなんだ」
「期待?」
「うん」

 士郎曰く、慎二くんが今回桜ちゃんを僕に紹介した理由は何も僕に友達が居ない事を心配した事が要因では無かった。理由の一つではあるみたいだけど、一番の理由は桜ちゃんを心配しての事だったらしい。
 家でも学校でも暗い表情のまま、いつも俯いている彼女を何とか元気づけてあげようとしたみたい。そこで選ばれたのが同姓で歳も近く、性格も似通っていると思われている僕だったわけ。

「そっか……」
「あれで結構妹思いな所があるみたいだな。意外って言うと、なんかアレだけど」
「あはは……、そうだね」

 正直、桜ちゃんのルート……、つまり、ヘブンズフィールについてはあまり詳しくない。だって、内容があまりにもドギツイし、アニメ化もされてないから取っ付きにくさを感じたのだ。だから、大まかな流れを知っているに過ぎない。
 確か、慎二くんと桜ちゃんの関係が拗れた事には原因があった筈だ。もう少し、やり込んでおけば良かったと少し後悔した。

「……また、会ってみようかな」

 危険と分かっていても、踏み込んでしまうのが人間だ。避けるべきだと分かっているのに、ちょっと親しくなっただけの慎二くんの為に何かしてあげたいと思ってしまう。それは人情というのだろう。あるいは仁義かも。

「賛成。今度はうちに招待してみるか?」
「……うん」

 それから、僕の家には時折桜ちゃんが姿を見せるようになった。慎二くんが毎回来る度に連れてくるのだ。彼は士郎を独り占めにして、妹を僕や大河さんに押し付ける。でも、いつもチラチラと様子を覗いているのを僕達全員が知っている。
 彼の思惑が功をせいしたのは明らかに大河さんの手柄だ。彼女の太陽の如き輝きとパワーに桜ちゃんの心が応えたのが一年後の事。その日、初めて彼女は微笑んだ。その時の皆の大口を開けた間抜け面は忘れられない。

「桜が笑った!」

 一番に歓声を上げたのが慎二くんだという事も忘れてはいけない。

「それだよそれ! 色々足りてないお前に一番足りてなかったものだ! いいか? 絶対に今の感情を忘れるなよ!」

 それはもう感無量といった様子。大はしゃぎだった。僕も思わず嬉しくなって、その日は腕によりをかけた御馳走を作った。
 彼女の変化はそれだけでは無かった。それまで総ての物事に無関心だった彼女が色々なものに目を向け始めたのだ。
 僕との関係も少し変化した。というのも、彼女が料理に興味を示したのだ。Fateだと士郎が教える筈だった料理を僕が教えている。包丁の握り方に始まり、調味料の測り方や物の切り方を一つ一つ教えている。
 少しずつ、会話も出来るようになってきた。話題はほぼ料理が中心だけど、共有できる話題がある事は友好関係を築く上でとても大切だ。

「お肉はまだ入れないんですか?」
「うん。君のお兄ちゃんは微妙に好き嫌いがあるからね。野菜を荷崩れするまでじっくり煮た方がいいんだ」

 ちなみに、僕は士郎と慎二くんの味覚については完璧に熟知している。士郎は好き嫌いを言わず、何を作っても美味しい美味しいと食べるから実に分かり難かったけど、さすがに数年も専属シェフをしていると嫌でもわかってくる。対照的に慎二くんの方は実に素直に感想を聞かせてくれるのでずっと楽だった。
 桜ちゃんにはお兄ちゃん向けの料理を指導している。個人的に彼女には士郎に対して好意を抱いてほしくないからだ。これがセイバーさんや遠坂さんなら無問題なんだけど、彼女が士郎と恋人になるルートは死亡フラグが多過ぎる。

「士郎。あーんって口を開けてくれ」
「は?」

 というわけで、対策として士郎が彼女の恋愛対象にならないように僕と士郎の親密さをそれとなくアピールしておく。君には立ち入れない壁があるのだと明確に示す事で死亡フラグ満載ルートを回避するのだ。
 逆に彼女には慎二くんの事を好きになってもらおうと、とにかく慎二くんの良いところを彼女に教えこんだ。彼女のために如何に慎二くんが手をつくしているかとか、それはもう色々と吹き込んでいる。
 二人が親密になってくれれば、もしかしたら、慎二くんがダークサイドに落ちるのを回避できるかもしれない。綺麗な慎二くんのまま大人になって欲しいと切に願っているのだ。

「お兄ちゃん。あーんして」
「え?」

 ぽかんとした表情を浮かべる二人に作ったばかりのシチューを食べさせる。怪訝そうな表情で顔を見合わせる二人。君達は別に僕の行動を理解しなくて良い。ここで重要な事はこれが好意を抱く相手に行う行為なのだと桜ちゃんに理解してもらう事だ。
 女の子のグループには入れずとも、女の子達の熾烈な情報戦、心理戦を目の当たりにしてきた経験が僕にはある。これは士郎と僕の明るい未来の為の大切な戦いなのだ。君に士郎はあげないよ、桜ちゃん!

「というわけで、もう一口。ほら、あーん」
「いや、何が『というわけで』なんだよ!?」

 隣をチラリと覗き見る。

「兄さん。あーん」
「あ、あーん」

 やっぱり、慎二くんの方が士郎よりもずっと素直だ。

「ほら、向こうもしてるだろ? ほらほら、あーん」
「いや、待てってばちょっと――――」

 それにしても、ちょっと嫌がりすぎじゃないか? なんか知らんがムカムカしてくる。元は男とはいえ、士郎はそれを知らない。だって、教えてないからね。つまり、士郎から見たら、僕は可愛い幼馴染なわけだ。ちょっとは喜んでも良い筈だぞ。

「なんだよー。……そんなに嫌だった?」
「え? いや、別に嫌ってわけじゃなくてその……」

 しどろもどろになりながら言い訳をする士郎にちょっと頬が緩んだ。

「なら、別に問題無いよね?」
「え? いや、まあ……、うん」

 素直で結構。なんだか、ペットに餌付けをしているみたいで楽しくなってきた。

「美味しいか~?」
「うん」
「そうか~、へへ」

 思えば、おじさん亡き後はほぼ士郎の為だけに鍛え上げた料理だ。これで不味いなどと言われたら例えそれがツンデレでもちょっと立ち直れないかもしれない。素直が一番だね。

「兄さん」
「ん? なんだい?」
「明日からは私が御飯を作ります」
「……そうか。うん。家政婦さんには僕から言っておくから、明日から頼むよ」
「はい!」

 慎二くんがとても幸せそうに微笑んでいる。この一年ちょっとの間に慎二くんと桜ちゃんの関係もかなり親密になっている。ちょっと前までは慎二くんが一方的に心配している感じだったけど、今はお互いにお互いを思っている。これならきっと、大丈夫だろう。

「なあ、衛宮」

 それは雨の日だった。びしょ濡れになりながら、慎二くんは僕達の家に駆け込んできた。声が震えていた。それが寒さのせいなのか、別のことが原因なのかは彼がしゃべり始めるまで分からなかった。

「どうしたらいいのか分からないんだ」

 泣いていた。頭を掻き毟り、声を震わせている。

「何かあったのか?」

 士郎が問い掛ける。

「……あったよ。今までずっと、僕は知らなかった。あいつはずっと――――」

 拳を握りしめ、床を殴りつける。

「アイツは僕を嘲笑っていたんだ! 何も知らない僕を! 哀れんでいたんだ!」
「アイツって……、誰の事を言ってるんだ?」
「――――ッ」

 慎二くんは叫ぼうとして、何かを飲み込んだ。けど、僕には彼が飲み込んだ言葉が分かってしまった。きっと、その言葉はある人の名前だ。彼の心をここまで掻き乱す存在なんて、そう多くはない。

「……桜ちゃんの事?」

 慎二くんの目が大きく見開かれた。

「……なんで」
「だって、慎二くんがそんな風になる相手なんて……」

 嘘じゃないけど、本当でも無い事を口にした。本当は彼らの事を元々知っていたから出た言葉だ。知らなかったら、僕なんかじゃ絶対に分からなかっただろう。

「ど、どうしたんだよ!? 桜に何かあったのか!?」
「……ぅ」

 慎二くんは何かに耐えるようにうずくまった。きっと、自分の心を押し殺しているんだ。彼は魔術師ではないけど、魔術の事を人に話してはいけないというルールは知っている。だから、僕達に迂闊な事を話せないと自戒しているのだろう。
 分岐点は今だ。今しかない。この分岐点に立ち会えた事はある意味奇跡だ。

「慎二くん。何があったのかは知らないけど、これだけは言えるよ」
「何が――――」

 今にも噛み付いてきそうな鬼気迫る表情。けど、ここで言わないと、間違いなく、僕達の関係は壊れる。慎二くんと桜ちゃんは決定的に間違えて、僕達の運命はきっと最悪な方向に向う。どちらかが殺して、どちらかが死ぬ最悪な運命を迎えてしまうかもしれない。それだけは避けたい。

「桜ちゃんは慎二くんの事を大好きだよ」
「嘘だ!」
「嘘じゃないよ! 何があっても、桜ちゃんを信じてあげてよ! あの子は君に悪意をぶつけたりしない!」
「知った風な口を叩くな!」

 頬に衝撃を受けた。物凄く痛い。じわりと血の味が口の中に広がっている。どこかを切ってしまったようだ。

「慎二!」

 士郎が立ち上がった。今までハラハラと状況を見ていたけど、今ので一気に頭に血が登ってしまったみたいだ。ちょっと嬉しいけど、今は不味いよ。

「待って、士郎!」
「だ、だって!」
「お願いだから、ちょっと待って!」

 正直、間桐一家とは疎遠になった方がいいのかもしれないとも思う。だって、あの一家は厄ネタでしかない。いつか、我が家に災いを呼び込みかねない悪魔の一族だ。
 でも、僕達は友達だ。僕にとって、士郎は家族で、慎二くんは人生初の男友達で、桜ちゃんは人生初の女友達だ。失いたくないと思ってしまう。

「慎二くん。桜ちゃんは絶対に君を裏切らないよ。絶対に!」
「……なんで、お前にそんな事が断言出来るんだよ」
「と、友達だからだよ! ずっと、一緒に料理の勉強をして来たんだ! だから、分かるんだ!」

 根拠になってない事は分かってる。けど、それが精一杯だった。

「……なんだよ、それ。全然、説得力がねーよ」

 けど、慎二くんはそう言って微笑んでくれた。

「……殴って悪かったね」

 僕に頭を下げると、立ち尽くしている士郎に顔を向けた。

「衛宮。一発、僕を殴れよ。お互い、収まらないだろ?」
「……ああ、そうだな。ただし、俺も殴れ」
「はは……、馬鹿な奴」

 男同士の殴り合い。正直、漫画の世界だけだと思ってた。ここが土手とかだったらさぞや絵になっていた事だろう。

「迷惑かけたね」
「まったくだ」

 お互いに顔を腫らした状態で別れを告げる。僕はとりあえず二人の治療の後片付けをしながら、軽く手を降った。

「桜ちゃんの事……」
「うん。分かってるよ。おかげで頭が冷えた。ありがとう」

 その後の事は知らない。慎二くんも桜ちゃんも語らなかった。ただ、二人がうちに遊びに来る事は無くなり、学校での交流が総てになってしまった。
 ただ、二人は前よりも仲良しになったように見える。

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