第一話「プロローグ」

 聞き慣れない声に起こされて目を開けると、やはり、見慣れない人の顔があった。全身が酷く痛む。ベッドで横になっていた筈なのに、背中に当たる感触がやけにゴツゴツしている。耳鳴りと頭痛に耐えながら、辺りを見回してみる。すると、やはりと言うべきか、僕は家の外に居た。正確に言うと、路面に寝転がっていたのだ。
 問題があるとすると、三つ。一つは周囲が炎に包まれている事。二つは体がピクリとも動いてくれない事。三つは僕がこの状況にまったくついて行けてないという事。
 責めないで欲しい。いつものようにアパートのベッドで横になり、目が覚めたら火災現場の側の路上で横になっているなんて状況、混乱するなという方が無理な話だ。

「……なに……が」

 ちょっと声を発しただけで猛烈な吐き気に襲われた。何度も咳き込み、その度に全身を鋭い痛みに貫かれた。しばらくして、吐き気が収まった頃、頭の上から男の人の声が降り注いで来た。

「痛いだろうけど、ちょっとだけ、我慢して」

 そう言うと、見知らぬ男が僕の体をひょいと抱き上げた。背は低い方だけど、大学生の僕を軽々と――しかも、片腕だけで――抱き上げるなんて、ガリガリの見た目に反して、とんでもない怪力の持ち主だ。
 体は全身をトンカチで叩かれたかのように痛み、僕は男が移動する間、ジッと瞼を閉じて耐え忍んだ。抱き上げられる寸前、もう片方の腕に子供の姿が見えた気がしたけど、さすがに気のせいだろう。幾ら何でも、僕を抱き上げた状態で、更に子供を抱き上げるとか、ボブサップでも無い限り無理な話だ。
 いくらか時間が過ぎ、唐突に僕は男から遠ざけられた。柔らかいベッドの感触が心地よい。どうやら、病院に連れて来られたみたいだ。意識が朦朧とする中、治療が進められ、看護師の人から幾つかの質問を受け、つっかえながら答えた。
 更に時間が過ぎていき、痛みが大分緩和された頃、僕は自分の身に起きた異常事態に気がついた。
 まず、体が小さくなっていた。

「……コ、コナン君現象?」

 体は子供、頭脳は大人?

「……え? どういう事……?」

 手の大きさや腕の太さが明らかに以前までと違う。完全に子供の体躯だった。声も大分ハスキーな感じになっている。異常な事が立て続けに重なり過ぎて、むしろ僕の頭がおかしくなったのかと疑った。けれど、どんなに現実逃避しようとしても現実に変化は起きない。いや、この場合は『起きてしまった』と言うべきか……。
 兎にも角にも、まずは僕を取り巻く状況を知りたい。両親には既に連絡が言っているのだろうか……。
 幸いと言っていいのか分からないけど、僕は一人暮らしで、両親は遠く離れた東京に住んでいる。引っ込み思案で、運動音痴だった僕はずっと友達の居ない……、いわゆるボッチだった。けど、そのおかげで遊ぶ時間やら何やら総てを勉強に注ぎ込む事が出来て、関西の名門に入学する事が出来た。一人暮らしは不安で仕方が無かったけど、やっとの思いで慣れて来たと言うのに、その矢先にこんな事件に巻き込まれるとは思わなかった。
 一体、何が起きたのだろうか……。あの炎の燃え方は半端じゃなかった。まるで、世界が終わってしまったかのような錯覚すら覚えた。

「……とりあえず、トイレに行こう」

 考え事をしていたらおしっこに行きたくなった。どうして体が小さくなってしまったのかは分からず仕舞いだけど、そんな事よりもトイレだ。生理現象は止められない。さすがに大学生になっておしっこを漏らしたりしたらエライコッチャだ。
 視線が大分低くなってしまい、歩幅も違和感が凄い。周りのベッドも子供だらけだけど、もしかして、皆もコナン化してるのかな?
 まあ、総てはお医者さんが教えてくれるだろう。素人があれこれと考えた所で、人体がいきなり小さくなる現象に説明など付けられる筈が無い。

「えっと、トイレは……」

 全世界共通の男女マークを発見。ちょっぴり早足で扉の前に行く。そっと扉を開こうとしたら――――、

「あら、そっちじゃないわよ?」

 いきなり、看護師のお姉さんに呼び止められた。何の用かは知らないけど、こっちはそろそろ蛇口の蓋が開いてしまいそうなのです。どうか、ここは見逃して下さい。
 何とかお姉さんの手を振り解こうともがくが、この身はコナン君化している為に歯が立たない。ずるずると、あろうことか僕は女子トイレへと連れ込まれてしまった。

「ちょ、ちょっと待って!! 僕は男だよ!?」
「……うーん、まだ混乱してるのかしら」

 僕の訴えに看護師さんは憐れみ一杯の視線を投げ掛けて来た。

「後で精神的なケアも必要ね。まあ、当然よね」

 ブツブツと独り言を喋りながら、看護師さんは個室の扉を開けた。

「ほら、女の子はここよ」

 そう言って、看護師さんは僕を女子トイレの個室に放り込み、扉を閉めてしまった。

「……いやいや、倫理的に不味いでしょ。法律的にも不味いし……」

 女子トイレの個室で男子大学生が用を足すなんて、完全に事案である。誰かに知られたら、翌日の新聞の一面ニュース……にはならなくても、ネットの掲示板ではお祭り騒ぎだ。

「……っていうか、なんで僕を女の子と間違えるんだ?」

 体格は何故か小さくなってるけど、さっきの質疑応答でちゃんと性別は男だと自己申告している。着替えは僕がまだ痛みに悶えていた時に終わっていたけど、その時に着替えさせてくれた人がしっかり僕の御立派様を確認している筈だし、そもそも見て分かるだろうと思うのだけど……。

「とは言え、また一悶着あったら今度こそ漏れそうだし……、っていうか、もう限界……」

 こうなったら仕方が無い。速攻で出すものを出して、この場から離脱しよう。
 意を決して、ズボンとパンツを下げ、慣れた動作でいつもの発射態勢を――――、

「……んん?」

 空振った。もはや、瞼を閉じていても出来る熟練の動作なのに、空振りとは如何なものか……。さては、体格が縮むに応じて、アレも――――、

「……って、あれ?」

 視線を下げると、そこにはあるべき筈のものが無かった。棒も玉も無い。毛の一本すら無い。そこにはつるつるな肌色が覗くだけだった。

「……ん?」

 まさか、小さくなり過ぎて、見えないレベルにまで……?

「えっと……」

 とりあえず、便座に座り、恐る恐る股に手を伸ばした。

「無い……けど、ある」

 男に無くてはならないものがそこには無かった。逆に男にあってはならないものがそこにはあった。

「……待って!」

 体格が縮むのはまだ分かる。人間の体は一定以上大きくなると、逆に縮む事があると本で読んだ事がある。骨が衰えたりする事が原因らしい。
 でも、男が女になるなんて話、漫画でしか見た事が無い。僕は今まで、呪泉郷にも行ったことが無いし、変化の術も使えない。

「……まさか、ここで?」

 考えられる事は一つ。ここで突貫工事が行われたという事。それしか考えられない。けど、何の意味があって、男子大学生から大切な一物を取り去ったのかが分からない。

「……もしかして、あの事件って、暴力団絡みで……、僕はこれからニューハーフ系の風俗に売り飛ばされるんじゃ……」

 そう考えると、僕をここに連れて来た、あの謎の男が一層怪しくなってくる。

「……逃げなきゃ」

 冷や汗が止まらない。でも、その前に……、尿意も止まらない。

「えっと……、どうしたら……」

 などと悩んでいる間に勝手に出て来た。出す感覚がちょっと違うけど、とりあえず、我慢する方法は理解出来た。
 
「気持ち悪……、腿に掛かったし……」

 散乱銃のようにありとあらゆる方向に飛び出した尿を拭き終えるのに凄く時間が掛かった。

「お風呂入りたい……」

 正直、拭ったとはいえ、このままの状態でまたズボンを履く事に抵抗を覚えた。とは言え、履かずに出て行くわけにもいかないから渋々ズボンとパンツを上げる。よく見ると、パンツがしっかりと女の子用だった。

「……僕が変態なんじゃない。僕にこんなものを履かせた奴等が変態なんだ」

 コッソリとトイレから出ると、僕は急いで公衆電話に向かった。そして、気付いた。

「……十円持ってない」

 それどころか、一円も持ってない。アパートに全財産を置いて来て――――、

「いや、っていうか……、ここはマジでどこなの?」

 男は僕を徒歩でここまで連れて来た。けど、僕の街にこんな病院は無かった。窓の外を見ても、まったく見覚えの無い景色が広がるばかりだ。っていうか、海だ。

「海!?」

 僕の街は海岸線では無く、内陸部にある。それに、こんな風に山々に囲まれた場所じゃない。

「やばい……」

 このままだと、半分冗談で考えていた、暴力団プロデュースのニューハーフ系風俗ルートに本当に突入してしまう気がする。動画サイトで見て、ちょっと興奮した事もあったけど、だからって、自分が画面の中に入りたいとは全く思っていなかった。

「嫌だ……。女装美少年シリーズに出演とか無理……」

 いや、あれは本当にただの女装だったか……。

「とりあえず、脱出を……」
「……何してんだ?」

 窓枠に身を乗り出す僕に赤みがかった茶髪の少年が話し掛けて来た。この歳で髪を染めさせるなんて、親は何を考えているんだろう。これだから、最近の……って、そんな場合じゃないな。

「僕は家に帰るんだよ。じゃあね~!」
「って、ここ二階だぞ!?」

 問題無い。直ぐそこに梯子がある。幾ら運動音痴な僕でも、これなら安心して降りられる。

「降りるならせめて階段で降りろよ!}

 なのに、少年は僕を必死に引き止める。

「階段で降りたら見つかっちゃうから、駄目なんだよ!」
「いや、わけ分かんないし! とにかく、こっちに戻れってば!」

 予想外。今の僕はこのヤンキーボーイにすら力負けするひ弱さらしい。
 アッサリと廊下に引き戻された僕はこれまた偶然通りがかった看護師さんに見つかり、ヤンキーボーイの告げ口によって病室へと強制送還されてしまった。

「……はぁ」
「溜息かい?」

 この後の展開に絶望していると、いつの間にか目の前にあの男が立っていた。僕をここに連れて来て、性転換手術を行わせた暴力団構成員。その肩書に恥じない立派……と言うにはやや草臥れている背広を着たおじさん。

「こんにちは、君が樹ちゃんだね?」
「……は、はい」

 馬鹿丁寧に挨拶をしてくる。何だろう、笑うセールスマン的な恐怖を感じる。最初はこの男が相手なのだろうか……。顔は悪く無いけど、出来ればもう少し清潔感のある相手の方が……って、そうじゃない。諦めるな、僕。諦めるのはまだ早い。

「あ、あの!」
「ん? なんだい?」
「ぼ、僕、両親が!」

 僕には両親がちゃんと居るから、僕に何かあったら――――、

「……うん。残念だったね」
「……え?」

 ちょっと待ってよ。残念って、どういう事? まさか、小説や漫画でたまにある例の……、親に売られた系とか無いですよね?

「いやいや! いやいやいやいや! 残念って、そんなまさか!」
「……ごめんね。僕には助けられなかった……」
「え……」

 止めてよ。そんな深刻そうな表情で言わないでよ。嘘でしょ? マジなの? 僕、親に売られちゃったの? このおじさんはそれを何とか止めようとしてくれた善人ポジションとかなの……?

「君のご両親は……」
「……いえ、もういいです」

 絶望した。親に売られたとか、これはもう、絶望するしかない。やっぱり、友達と遊ばずに引き篭もって、勉強ばっかりして、学費の高い大学に勝手に入学を決めちゃった事が原因なのかな……。やばい、涙が出て来た……。

「……辛いのは分かる。いや……、分かるなんて言っちゃいけないね」

 ぎこちない手付きて男は僕の頭を撫でてきた。不器用そうなのに、不器用なりに慰めようとしてくれているみたいだ。
 ああ、ヤバい。ちょっと、グッときた。これは所謂飴と鞭だろうか……。

「……分かりました。受け入れます。連れて行って下さい」
「あれ? もう、聞いてたのかい?」
「え? いや、その……」
「まあ、いいか。じゃあ、早速行こうか。もう一人、一緒に連れて行く子が居るんだ。待って貰ってるから、一緒に会いに行こう」

 おじさんは嬉しそうに頬を綻ばせて僕の手を握った。これから――見た目は――子供二人を風俗の世界に導こうとしている人間とはとても思えない程無邪気な笑顔。願わくば、この素敵な笑顔から変態的な要求が飛び出して来ませんように……。
 いきなり、ハードな事はちょっと無理です。

「……そうだ。僕の名前をまだ言ってなかったね」

 おじさんは病室を出る間際に言った。

「僕は衛宮切嗣。そして、あそこに居るのが君と同い年の士郎君だ。これから、三人で一緒に暮らす家族だからね。仲良くしてあげて欲しい」
「……はい?」

 あれ、おかしいな。衛宮切嗣って名前に凄く聞き覚えがある。主にゲームの中で……。
ついでに言うと、ソファーで軽く手を降ってくれている士郎くんの名前にも……。

「あの……、変な事を聞くんですけど……」
「なんだい?」
「ここって、冬木市だったり……?」
「そうだけど……、それがどうかしたのかい?」
「……あ、あはは。何でもないです」

 えっと、これは一体……、どういう事ですか?

第二話「タイガー!」

 家に到着した。立派な武家屋敷である。立派過ぎるくらい立派。あまりに敷地が広くて、どこぞの歴史資料記念館かと思いました。剣道場や土蔵まで完備した大層立派な物件です。更にお隣さんは藤村というお名前。ここまでの道中にも冬木大橋という大きくて赤い神戸大橋……じゃなくて、冬木大橋があり、他にも様々な見覚えのある箇所が散見されました。
 つまり……、実に遺憾な事ではあるものの……、

「なんで……」

 畳に膝をつきながら、頭を抱える僕。脳内を駆け巡っているのはFateというローマ字四文字。これはとあるPCゲームのタイトル。コンシューマ版が発売され、数々の派生ゲームや派生小説を生み出し、二度に渡るアニメ化、二度に渡る映画化というハットトリックを決めたビッグタイトル。僕も大好きです。
 でも、別に実体験してみたいとは思わなかったよ。だって、死ぬんだもの……。

「ど、どうした?」

 突如家族となる事が決定したヤンキーボーイ事、衛宮士郎くんが声を掛けてきた。

「ちょっと、現実と戦ってるとこ……」

 父さんや母さんに会いたいとか、そんな事を考える余裕も無い。

「なんで……」

 僕はどうして、ゲームの世界なんてものに居るんだろう。最新のゲーム? いやいや、PS4が発売されたばっかだし……。フルダイブのゲームとか、小説や漫画だけだよ。SAO大好きです。でも、アクセルワールドはもっと好きです。
 幻覚? これかもしれない。

「士郎くん」
「な、なんだ?」

 ビクッとした顔が可愛いな。子供は嫌いじゃないぜ。

「一発、僕を殴ってくれ」
「……嫌だよ」
「頼むよ! これが幻覚かどうかを知りたいんだ!」
「幻覚って……」

 士郎くんは溜息を零した。

「えっと……、樹だったっけ?」
「う、うん」
「確かに、気持ちは分かる。忘れろって言って、忘れられるもんじゃないってのも分かるさ。けど、いつまでも現実逃避してたって仕方が無いだろ」

 凄く大人な意見。

「……そうだね」

 現実逃避は止めよう。僕はなんでか知らないけど、子供になって、女の子になって、ゲームの世界に居て、主人公と一緒に衛宮切嗣さんのお宅に住むことになった。その事をまずはちゃんと受け入れ――――、

「いや、ちょっとまだ無理かな……」

 さすがに盛り過ぎだろ。もうちょっと、絞ってくれよ。

「……まあ、困ったことがあったら何でも言えよ。一応……、家族になるわけだし」
「う、うん」
「まあ、殴るのは勘弁だけどな」

 そう言って、士郎くんは部屋を出て行った。入れ替わりに……というか、タイミングを測って入って来た切嗣さんが声を掛けてきた。

「ごめんね」

 開口一番に謝られてしまった。

「えっと……」
「士郎くんも言ったとおり、僕達は家族だ。だから、何でも相談して欲しい。僕に出来る事があれば、何でも言ってくれ」

 真摯な眼差し。ちょっと前まで、暴力団の構成員とか内心で呼んでた事が申し訳なくなってくる。

「い、いえ……。僕こそ、変な事言って……その」
「いや、今は吐き出したい事があるなら幾らでも吐き出していい。むしろ、もう吐き出せないくらい吐き出して欲しい。そうしたらきっと、ちゃんと歩き出せるようになると思うからね」
「……はい」

 とりあえず、思いっきり泣いておこう。小学校の頃は泣き虫で、それが原因でよく虐められてた。そのせいか、中学に上がってからは殆ど泣かなくなった。でも、この日ばかりは大いに泣いた。出会ったばかりのおじさんの胸で全身全霊を賭けて全力で泣いた。
 おかげで、ちょっとだけ心が落ち着いた。それに、切嗣さんの事が大好きになった。だって、僕にいつも優しくしてくれたお爺ちゃんになんだか似ている気がしたからだ。僕が中学に上がると同時に死んでしまったお爺ちゃん。
 その日から僕は切嗣さんの事を「おっちゃん」と呼ぶ事にした。別にコナン君化した事が理由じゃない。たんに親しみを籠めて呼んでいるだけだ。ちなみに、小学校にも通うことになった。僕の戸籍とかどうなってるのか分からないけど、その辺は切嗣さんがお隣の藤村さんに掛けあったり色々してくれたんだと思う。実際の事は何も知らない。とりあえず、中学の頃にちょっと妄想した強くてニューゲームな子供時代を満喫しようと心に決めた今日此の頃である。
 
「さてさて、今日の献立は……」

 我ながら、アッサリと流され過ぎている気がするけど、正直、何がどうなってこんな状況になっているのかがサッパリ分からない上、現実の世界の元の自分に戻る方法なんて皆目検討もつかない。
 Fateの目玉である聖杯戦争の聖杯も壊れてるし、内容については結構覚えてるけど、細かい設定とかは殆ど分からない。だから、検討しようにも材料が無い。おじさんに相談しようかとも思ったけど、頭がおかしいと思われたり、この生活が駄目になるのが嫌だから、とりあえず黙っておく事にした。
 父さんと母さんに会えないのは寂しいけど、大学に入ってから一度も会ってないし、中学に上がった頃からあんまり会話らしい会話をして来なかったから、死ぬほど寂しいって程でも無いし、友達や恋人は一人も居ない……。
 女の子の体については実の所、そこまで違和感が無かった。性転換なんて、小説や漫画だと、物凄い葛藤があったり、性別の違いによる肉体的なストレスが発生したりと色々ある筈なんだけど、そういうのが全然無い。なんだか凄く馴染むのだ。最初こそ、体躯の違いに戸惑ったりもしたけれど、それも今では解消されている。まるで、『昔からこうだった』みたいな自然さだ。逆に不自然だけど、不都合が出来たら、その時はちゃんとおじさんに相談しよう。

「馴染む。馴染むぞ~!」
「……何やってんの?」

 今日の献立を決めて、台所に立ち、ちょっとDIO様の物真似なんかを嗜んでいると、士郎くんが起きてきた。ちなみに、僕……、なんと金髪でした。しかも、地毛である。

「おっはよー! すぐ作るから待っててね~」

 ちなみに、料理は僕が担当する事になった。アニメだとセイバーさんが瞳を輝かせるくらい美味しいと評判の士郎くんの料理だけど、さすがに今の段階だと包丁捌きも危うい。更におじさんも料理は不得手。そんな中で、出来るのにやらないはさすがに居心地が悪いので、僕が御飯を作ることになった。
 ついでに言うと、この二人は洗濯機の使い方が不得手……というか、士郎くんは使い方が分からず、おじさんは物凄いテキトウだったので、洗濯も僕だ。正直、面倒だなーって最初は思ったけど、思いの外、自分の料理に反応が返ってくる事が嬉しくて、夢中になっている。洗濯も干す時は二人が手伝ってくれるから、三人総出で庭の物干しに洗濯物を干す作業は中々に愉快だ。
 
「何か手伝う事ある?」
「お皿出しといてー」
「あいよー。どれー?」
「それー」
「へーい」

 家でもやれば良かったと後悔する時もあるけど、僕、今割りと楽しい毎日をすごしています。

「おはよう」

 欠伸混じりにおじさんが登場。着物姿で、パッと見た感じ、モノ書きみたいに見える。いつだって、なんだって、なるようになるさー、ケ・セラ・セラって感じで、本当にお爺ちゃんの生まれ変わりに見える。

「おじさん、おはよー!」
「おはよう、爺さん」

 おじさん的にはパパって呼んで欲しいみたいだけど、士郎くんは爺さん呼びである。僕もパパは恥ずかしいし、父さんは別に居るから、おじさんはおじさんとしか呼びようが無い。お父様とか、お父上とか、親父とか呼ぶのはそれはそれで嫌だし。やっぱり、呼び方はおじさんが一番だ。

「二人共、宿題はやったのかい?」
「当たり前だろ。ちゃーんと、終わらせたぜ」

 誇らしげに報告する士郎くんにおじさんの頬が緩んでいる。

「そうか、偉いぞ」
「へへ」

 羨ましい。そこは僕にも賛辞の声を送るべきだと思う。

「そう言えば、お隣の大河ちゃん。今度の週末、剣道の大会に出るそうだよ」
「ああ、あの喧しい人?」
「こらこら、女性に喧しいなんて言葉は駄目だぞ。元気が良い事は結構な事だしね」
「へいへい」

 大河ちゃんと言うと、例の冬木の虎の事だろう。実のところ、まだ会った回数は片手で数えるくらいで、そこまで親しくなってない。おじさんとは結構会ってるみたいだけど、アニメで見たような押しかけ騒動は未だ発生していない。

「僕らに応援に来て欲しいそうだよ」
「それって、僕らじゃなくて、おじさんに来て欲しいんだと思うよ?」

 彼女は確か、おじさんに恋心を抱いていた筈だ。今既に陥落済みなのかどうかは知らないけど……。

「『僕達』だよ。二人共、週末は予定でも?」
「無いけど……」
「じゃあ、決まりだね」

 ニッコリ微笑むジゴロ。優しいけど、中々の鬼畜だわ。

「剣道かー」

 士郎くんはちょっと興味を惹かれているみたいだ。

「そうだ! なんなら、週末の大会まで、うちの道場貸してやったら? 部活の後でも練習とか出来るようにさ」
「ああ、それはいい考えかもしれないね。後で会った時にでも提案してみるよ」
「なるほど、こういう経緯が……」
「ん?」

 その日の夕方、僕と士郎くんが揃ってランドセルを背負って帰ってくると、道場で奇声が上がっていた。覗いてみると、驚いた事におじさんも剣道着を着ている。

「メェェェェェエエエン!!」
「ドオオオオオオオオオオ!!」

 謎の掛け声と共に二人は斬り合っている。ルールがサッパリ分からないけど、見た感じ、互角に見える。

「すげぇ」

 とりあえず、興味津々なご様子の士郎くんを道場前に放置して、僕は夕飯の準備に取り掛かる。今日のメニューは一人分追加だ。今日は商店街の魚屋さんが美味しそうな鮭をサービスしてくれたから、これを焼こう。ああ、焼酎が欲しい。

「美味しそう!」

 瞳をキラキラさせているのは我らが藤ねえ事藤村大河さん。
 びっくりした事にとんでもなく可愛い。もしも士郎くんと同い年だったら、セイバールートも凜ルートも桜ルートも無かっただろう。だって、これは勝負にならないよ。

「幾らでも食べて下さいねー」

 正直、元の肉体に戻りたいとここまで真剣に思ったのは最初の頃以来かもしれない。結婚したい……。

「ありがとー、イツキちゃん! この鮭本当に美味しいね!」
「焼いただけですけどねー。でも、こんなので良ければいつでもどうぞ!」
「やったー!もう、切嗣さんに道場を貸してもらえるって聞いただけで有頂天だったのに、稽古までつけてもらって、その上、こんなに美味しい御飯まで……、幸せだ」

 僕も幸せです。是非、髪はポニーテールのままで居ていただきたい。

「なあ、爺さん」
「なんだい?」

 僕と大河さんが話している傍らで、士郎くんは熱心におじさんを口説きにかかっている。

「俺も剣道やりたい」
「ああ、そう来ると思ったよ。ちゃんと、士郎の剣道着と竹刀を用意してあるんだ」

 僕は今になって、おじさんの真意に辿り着いた。大河さんの大会の話を持ち掛けた事も剣道場を貸し出す事に乗り気だった事も総てはここに至る為の伏線。
 要はおじさん……、士郎と道場で遊びたかったんだ。

「これが男と女の差か……」
「ど、どうしたの?」

 思わず舌打ちをしてしまった。ずるいよ士郎くん。僕は可愛い洋服の着せ替え人形くらいでしかスキンシップが取れていないというのに、一緒にお風呂に入ったり、剣道したり……。

「大河さん!」
「は、はい!?」
「僕も……、剣道がしたいです」
「……う、うん。えっと……じゃあ、今度、教えてあげるから、とりあえず……、顔をあげよ?」
「……はい」

 土下座の態勢からそっと士郎くんの横顔を伺う。

「負けないぞ、士郎くん」
「……切嗣さん、大人気だね」

 ライバル多いよね、お互い。とりあえず、僕らは麦茶で乾杯した。ああ、麦焼酎が飲みたいぜ。

第三話「おやすみなさい」

 小学校からやり直せば、僕にだって友達が出来る。そう思っていた時代が僕にもありました。でも、現実はそう簡単に物事上手く進んだりしないのだよ。
 今の僕は女の子だ。どんなに現実逃避しても、ランドセルは赤いし、トイレも赤いマークの方に行かないといけない。そして、何より重要な事は女の子のネットワーク。
 正直、小学校の女の子は純粋で可愛いとか思ってました。だって、大河さんとか天使だし……いや、彼女はとっくに小学校を卒業しているけど……。
 まだ小四の癖に誰が誰を好きで、誰が誰を嫌いとかが物凄くハッキリしている。そして、派閥が存在している。堂本剛主演のドラマ『ガッコウの先生』とかで、嫌な小学生のオリンピックみたいな子達がいっぱいいたけど、全部創作上のものだと思っていた。けど、現実は正にドラマよりも奇なりだ。正直、僕にはついていけない世界がそこにあった。
 時々耳にする話題も化粧がどうとか、最近のアイドルはどうだとか、女子高生かOLみたいな話題が飛び交っている。もっと、子供らしくアニメの話をしようよ……。
 士郎くんの方はあっという間にクラスに溶け込み時の人となっているにも関わらず、僕はあっという間にボッチ空間を形成してしまっている。グループ活動とか林間学校とかが超怖い。

「……ハァ」

 剣道大会で圧勝してからも、変わらず我が家の道場で稽古に勤しんでいる大河さんの姿を見ながら、僕は思わず溜息を零した。すると、大天使は目ざとく僕の落ち込みを察し、近づいて来てくれた。まあ、構ってちゃんオーラを全力で出してたから計画通りなんだけどね。

「どうしたの?」
「大河さん……。友達って、どうやって作ればいいんでしょうか」
「……へ?」

 僕としてはポケモンとかベイブレードの話で盛り上がりたい。外で隠れんぼや鬼ごっこに興じたい。でも、男の子のグループには入れてもらえず、女の子達には大きな壁を感じる今日此の頃……。
 士郎くんは僕を仲間に入れようとしてくれるんだけど、他の子達があからさまに嫌そうな表情を浮かべるから、やむなく辞退を申し出る日々。さすがに士郎くんの交友関係を壊したいとは思ってない。
 また、灰色の青春を過ごすことになるのだろうか? 女の子はある程度可愛い事を条件に人生イージーモードだと思っていた過去の僕を殴ってやりたい。逆にハードだよ。

「うーん。樹ちゃんはどんな子とお友達になりたいの?」
「え?」

 難しい質問だ。人生再スタートしても友達ZERO人記録更新中の僕に友達にしたい人の条件なんておこがましくて付けられない。

「僕と友達になってくれる人なら誰でもオーケーです!」
「……うーん。それだと、ちょっと難しいかもね……」
「え?」

 おかしい。無条件開城しているのに、どうしてだ?

「えっと、樹ちゃん。ちょっと厳しい言い方になるけど、貴女の言ってる事は『誰でもいい』って事だよ? つまり、別にその人じゃなくても良いって事」

 誰でもウエルカムは駄目なのか……。

「まずはどんな人とお友達になりたいかを考えてみて。その次に、その人はどんな人と友達になりたいかを考えてみるの」
 
 普段は割りとフィーリングで生きている感じなのに、物凄く論理的な正論を叩き付けられた。目からウロコです、大河さん。
 確かに、誰でもいいなんて言ってたら、その他大勢が抜け出す事は出来ないだろう。だけど……。

「ちょっと、考えてきます」

 道場から出て、僕は財布を片手に買い出しに向かった。買い物をしながら考えよう。
 さて、僕の希望する友達の条件か……。

「外で泥だらけになりながら遊んでくれるアニメやゲームが好きな明るい子……」

 女子には居ない気がする……。居ても隠してる気がする。ぶっちゃけ、そう言う子はハブられる。僕はハブられた。

「とは言え、男子からは疎まれてるし……」

 女の子はすぐ泣く。女の子はすぐ怒る。女の子はすぐ邪魔をする。
 クラスの男の子達の公式見解である。もう、女子という時点で外で遊ぶグループには入れてもらえない。もう少し低学年で、まだ男女の区別がよく分かっていない時期から慣らしておけば行けたかもしれないけど、既に思考が固まってしまっている。

「こうなったら、磨くか……、女子力」

 大河さんはああ言ったけど、僕の出す条件は敷居が高過ぎる。なら、逆に僕が友達になりたくなる人間になればいい。あんまりよく分かってないけど、とりあえず、女子力を磨こう。
 勉強は問題無い。テストはいつも満点だ。というか、皆も満点だ。小学校のテストはみんな仲良く満点を取れるようになっているのだ。出来ない子は本当にわずかだ。
 運動は問題だ。鉄棒で逆上がりが出来ない。かけっこでもビリから数えた方が早い。
 家事全般は圧勝だ。我が家の火事は僕の手に委ねられている。おじさんからは財布を預けられていて、士郎くんやおじさんの服のチョイスまで僕の仕事の一環となっている。二人共面倒くさがり過ぎだろう。
 化粧とか、女の子の好きな話題。これについていく事が当面の課題だな。

「買うか……、チャオ」

 いや、この漫画で得られる知識は少し偏りがあるな。

「というか、周りに現役女子が居るし、大河さんに聞こう」

 しかし、強くてニューゲームって、現実だと上手くいかないものだね。というか、ハードでニューゲームになっている気がする。

「こんちゃー、おっちゃん! ひき肉くださーい!」

 とりあえず、今晩のおかずはハンバーグだ。士郎くんにはクマさんの形で創ってあげよう。大きなクマの顔をプリントしたトレーナーを嫌がる事無く着てくれているし、きっと、気に入ってくれる事だろう。トレーナーは将来、嫁に来るであろうクマさん――――、アーサーさんにちなんで買いました。
 そう言えば、聖杯戦争って十年後なんだよね。とりあえず、海外にいつでも逃げられるように準備をしておこう。ヨーロッパ一週間の旅とか素敵だと思う。ちなみに僕は結構英語が堪能だ。

「そう言えば……、おじさんって……」

 忘れてたわけじゃないけど、そんなに長生きが出来る体じゃなかった筈だ。

「確か、呪いだっけ……」

 もう少し、設定に詳しければ良かった。おじさんがいつ頃倒れるのかとか、具体的にどうして死ぬのかが分からない。

「お医者さんじゃ……、無理なのかな」

 家に帰って、「ただいま」を言うと、おじさんは陽気な笑みを浮かべて「おかえり」と言ってくれた。
 この人が近い将来、死んでしまう。それが凄く嫌だった。胸が締め付けられた。まだ、出会って一ヶ月なのに、僕はこの人がとっても好きになっている。

「おじさん」
「ん? なんだい?」
「死んじゃやだ」

 気がついたら、そんな言葉を口にしていた。

「……えっと、今のところ死ぬ予定は無いから大丈夫だよ?」

 困ったように微笑みながら、おじさんは言う。でも、きっと辛いはずだ。だって、呪いは既におじさんの体を蝕んでいる筈だからだ。

「おじさん、約束してよ」
「約束……?」
「僕達が大人になるまで……、ちゃんと元気で居てよ」

 僕の言葉におじさんは直ぐに返事をしてくれなかった。ただ、曖昧な笑みを浮かべるだけだ。

「うん。勿論だよ。ちゃんと、二人が大人になるまで、ちゃんと見守ってあげる。だから、泣かないでよ」
「……うん」

 涙がポロポロと落ちていく。おじさんはずっと僕の頭を撫でていてくれた。

「樹の花嫁姿をこの目に焼き付けるまでは僕も死ぬに死ねないからね」
「あ、あはは……、そこはまあ、善処します……」

 花嫁姿はちょっと難しい。まあ、未来は分からないけど、これでも二十年間男の子として生きてきた経歴があるもので……。
 
「どうしたんだ?」

 いつの間にか、士郎くんが帰って来ていた。僕が泣いている姿にびっくりしているみたい。

「だ、誰かに虐められたのか!?」

 みるみる真っ赤になっていく。どうやら、激おこプンプン丸らしい。

「ち、違うよ。ちょっと、おじさんに甘えてただけさ」
「……本当?」

 士郎くんは僕じゃなくて、おじさんに顔を向けている。

「……士郎」
「ん?」
「今度の週末、三人で出掛けよう。行きたい場所は無いかな?」
「え? えっと、じゃあ、遊園地!」
「ああ、いいよ。樹もいいよね?」
「え? う、うん!」

 いつもはそれぞれの部屋で寝るのだけど、その日は三人で川の字を……いや、小の字を創って眠った。
 おじさんはずっと生きていてくれる。だって、約束した。だから、僕は安心して眠る事が出来た。おじさんはいつも言っている。約束は守らなきゃいけないんだって。時々、約束を忘れる事はあるけど、大事な約束は絶対に破らない人だ。だから、僕はとっても安心だ。

「約束したのになー」

 それから数年が経った。おじさんは約束を守らなかった。
 あれから一年後くらいにおじさんはよく海外へ出掛けるようになり、帰ってくる度にやつれ、痩せ衰えていった。
 止めてと言った。行かないでと懇願した。でも、おじさんは行った。だって、おじさんは家族を大切にする人だから。おじさんにはもう一人、家族が居る。実の娘がドイツに居る。彼女は今、アインツベルンという一族に囚われていて、おじさんは必死に助けようとしていたのだ。
 結果は無残なものだった。結局、おじさんは娘を取り戻す事が出来ず、やがて、立って歩く事も出来なくなった。

「おじさん。今日は何が食べたい?」
「うーん。カレーがいいな」

 僕に出来る事はおじさんの食べたい物を作る事だけだった。

「爺さん――――」

 唇を尖らせ、士郎くんはおじさんに愚痴を零している。魔術の話だ。
 僕達は魔術の勉強をしている。驚くことが多過ぎて、この体に魔術回路がある事にそこまで仰天はしなかった。おじさんいわく、すこぶる優秀との事。ちなみに属性は炎だった。気分は炎の錬金術士だ。指パッチン――は特に必要無いのだけど、火花から爆炎まで自由自在。でも、正直、日常生活ではまったく使えないスキルだった。士郎くんみたいに物の構造を解析したりは出来ない。物の故障箇所が一発で分かるなんて羨ましい。もう、それだけで一生食べていけそうなスーパースキルだ。士郎くん自身はちょっと不満そうだけどね。

「包丁とか、ナイフは確り投影出来るのに……」

 ちなみに、魔術回路の作成のくだりや投影魔術についてはちょっとだけ口を出しました。いや、毎日自殺するとか訳の分からない事させられないし……。
 士郎くんが二日目に一度創った魔術回路をもう一度作りなおしている所を確認して、切嗣さんに報告して、何とか修正してもらいました。
 投影に関しては、最初に作る物を僕の愛包丁にしてもらったところ、上手く投影出来て、おじさんの目玉が飛び出しかけた。あれは近所の刃物屋さんで買ったもので、お店のご主人が買う時に長々とその包丁の歴史を語ってくれた。その事も成功の切っ掛けの一つだと思う。確か、投影魔術は投影するものの構造とかだけじゃなくて、歴史とか作者の意図とかも考える必要があった筈だからだ。この辺は確か
 封印指定だとか色々とおじさんから物騒な注意を受け、毎晩二人で土蔵に篭もり修行の日々だ。
 刃毀れした端から士郎くんのお手製包丁に切り替えていくスタイル。投影品を魔術師に見られるとアウトだからと、他の投影品はその都度消している。包丁だけは別。あれは使う時以外、ちゃんと仕舞ってあるし、僕以外は使わないからね。万が一の時は隠せばいい。一本くらいなら大丈夫だろう。

「おじさん。出来たよー」

 もう、起き上がる事も億劫になっているおじさん。口元に少し冷ましてからカレーをスプーンで運んであげる。介護技術も徐々にランクアップしている今日此の頃。

「美味しいよ、樹」
「お粗末さまです」

 結局、女子力向上は全く出来ぬまま、友達もロクに出来ずに居る僕だけど、料理の腕は我ながら素晴らしいレベルにまで上達した。
 なにせ、お客さんが素晴らしい。士郎くんもおじさんも大河さんも時々来る藤村組の人や柳洞寺の零観さん、大河さんの親友のネコさんなどなど、みんな美味しい美味しいと言って喜んでくれる。これは非常にモチベーションが上がる。将来はコックにでもなろうかな。

「士郎の分はテーブルにあるからねー」

 ちなみに、この頃は士郎くんの事を士郎と呼び捨てにしている。本人がくん付けを嫌がるからだ。

「サンキュー」

 カレーを食べに居間に向う士郎を見送り、僕はおじさんにあーんを続けた。

「樹の御飯はいつも美味しいね」
「へへ」

 父さんと母さんの事が今でも時折恋しくなる。でも、時折で済んでいるのはおじさんが居るおかげだ。

「おじさん……」
「なんだい?」
「死んじゃやだ」

 いつか口にした言葉だった。

「ごめんね……」

 今度は嘘すら吐いてくれなかった。

「死んじゃうの?」
「あんまり、長くないと思う」

 アッサリとした物言い。実におじさんらしい。

「僕に出来る事は何かある?」
「士郎の事を頼むよ。美味しいご飯をいっぱい食べさせてあげてくれ。樹の御飯はこの世で一番美味しいからね。後、あんまり無茶な事をしないように見張ってて欲しい」
「後者は荷が重そうだね~」

 士郎はおじさんに憧れている。弱い者虐めをしている者が入れば、例え上級生や中学生、果ては高校生だろうと無差別に喧嘩を挑みにいく。無鉄砲ここに極まり。止めに行くときはいつも竹刀とエアガンが必須という修羅場をありとあらゆる場所に展開してくれる問題児だ。

「でも、任せてよ。士郎の事はしっかり見ててあげる」
「ありがとう。後……」
「なーに?」
「すまなかった」
「……え?」

 おじさんは布団に横たわると、悔いるように瞼を閉ざした。

「言おうと思っていた事があるんだ」
「おじさん……?」
「君達が焼け出されたあの大火災。僕は……、止められる場所に居た」

 まるで、泥水を吐き出すかのように苦しそうな顔。

「でも、止められなかった。僕の責任なんだ。君達が家族を失ったのも、全部僕が悪かったんだ」

 泣いていた。いつも穏やかな笑みを絶やさないおじさんが泣いていた。

「おじさん……」
「すまない」

 何度も謝るおじさんの頭を僕はそっと撫でてあげた。

「いつ……き?」
「大丈夫だよ。僕も士郎もおじさんを恨む事は絶対に無いから」

 これは確信を持って言える事だ。

「僕も士郎もおじさんの事が大好きだよ。だから、謝らないで欲しいなー」

 まあ、約束を破った事に関しては謝罪と倍賞を要求したい所だけど、僕の料理を褒めてくれた事で良しとしてあげよう。

「おじさん。他には何か無い? どうせだし、全部吐き出しちゃいなよ。前におじさんが言った事だよ? 『今は吐き出したい事があるなら幾らでも吐き出していい。むしろ、もう吐き出せないくらい吐き出して欲しい。そうしたらきっと、ちゃんと歩き出せるようになると思うからね』って」
「……言ったかな。ちょっと、照れくさい言葉だね」
「えー、名言だったのにー」
「うーん。ちょっとキザな感じがするよ」

 少しの間、僕達は笑いあった。そして、ゆっくりとおじさんは口を開いた。

「……いつか、白い髪の女の子が来るかもしれない」
「白い髪の女の子?」

 イリヤちゃんの事だろう。

「来ないかもしれないし、来てもあまり友好的な対面は難しいと思う。でも、もしも会えたら……」

 おじさんは言い淀んだ。酷く迷っているみたいだ。

「言ってみてよ、おじさん」
「……どんなに酷い出会い方でも、どうか、嫌わないであげて欲しい」
「うん。分かったよ」

 ハッキリと頷いた。

「……はは。ありがとう」

 どこか諦めたような、でも少しだけ安心したような声。

「さて、ちょっと眠ろうかな……」
「うん。おやすみなさい、おじさん」

 おじさんが息を引き取ったのはそれから数日後の事だった。月の綺麗な晩に僕達は三人で軒先に腰掛け、おじさんの昔話を聞いた。

「子供の頃、僕は正義の味方に憧れていた」

 もう少しだけ生きていて欲しかった。せめて、僕達が中学に上がる所を見届けるくらいはして欲しかった。でも、僕はこの日、おじさんのこの言葉で分かってしまった。
 この人は今日死ぬんだ。もう、明日には会えなくなるんだ。もう、御飯を食べてもらえなくなるんだ。

「しょうがないから、俺が変わりになってやるよ」

 だから、止められなかった。自分なりに満足な生き方だったと語る衛宮士郎の半生。だけど、最後が死刑台なんて嫌だ。だから、正義の味方にはならないで欲しかった。他にも生き方が見つけられる筈だと思っていた。
 だけど、おじさんの最後を邪魔出来なかった。

「そうか……、ああ――――」

 幕切れは呆気なかった。
 安心した。そう言って、おじさんは息を引き取った。
 僕の存在はおじさんの死を一秒も先延ばしに出来なかった。医者に無理矢理見せた事もあった。でも、何をしても無駄だった。

「……おやすみなさい」

 士郎は泣かなかった。僕は大泣きした。大河さんも大泣きした。多くの人が大いに泣いた。みんながおじさんの事を好きだった。だけど、士郎は泣かなかった。
 泣いて欲しかった。だって、今泣かなかったら、士郎は一生、泣かない気がしたからだ。でも、士郎は泣いてくれなかった……。

第四話「サクラ咲く季節」

 おじさんのお葬式から数年、僕達の周りには色々と変化が起きている。中学に上がった僕らの前に皆が大好きなワカメ事、間桐慎二くんが登場したのだ。
 僕と士郎のクラスは別々で、詳しい事情は後から知ったんだけど、二人が出会った日の事は中々に僕の中の慎二くんの印象を打ち壊してくれるものだった。
 アニメを見ていた当時の感想は酷く嫌な人間というもの。妹を虐めたり、主人公に一方的に悪意をぶつけ、学校の生徒達を大勢犠牲にしようとした。
 だけど、それは彼のほんの一面に過ぎなかったらしい。その日、士郎は文化祭の準備を押し付けられていた。この頃、士郎はすっかり大人びた落ち着きを身に付けていて、その上、頼まれれば絶対にノーと言えない性格である事が周囲にバレてしまったのだ。周囲から完全に便利屋扱いされてしまっていた。文化祭の準備は他にも色々あって、士郎はちゃんと自分の仕事をこなしていたのに、遊びに行きたいからという理由でクラスメイト達が看板作りの仕事を士郎に丸投げしたのだ。正直、それを聞いた時は頭が沸騰しそうになった。女の子になったせいか、最近、ちょっと感情的になりやすくなっている。
 さて、その時、慎二くんが何をしていたかというと……、何もしていない。ただ、ずっと士郎を見ていたらしい。手伝ったりはせず、ずっと士郎がイエスマンである事に文句を言っていたそうだ。彼にとって、士郎の在り方は気に入らないものだったらしい。でも、士郎が完成させた看板を見て、意見を一新した。

「あの看板の出来は正に完璧だった。嫌々やってたら、あんな物は作れないよ。正直、アイツの事は押しに弱い軟弱者だと思っていたんだ。だけど、考えを改めさせられたよ」

 あれから、彼は士郎とよくつるむようになった。彼にとって、士郎は己が唯一認められる人間であり、唯一の友達なのだ。家にも遊びに来るようになり、自然と僕とも交流を持つようになった。僕と彼は友達というより、まだ友達の友達という感じだ。
 学外で会った時などは会釈をする程度。しかも、一方通行。士郎が居るときにちょっと話に混ぜてもらえるくらいだ。

「一見、上っ面だけに見えるアイツの言葉や行動は全部本物なんだ。あんな人間、居るんだなって感じだね」

 実に誇り高い人間。それが今の彼に対する印象だ。これがどうして、成長するとああなるのかが分からない。そう言えば、Fateのラスボスこと、ギルガメッシュも子供の時は天使だったっけ……。
 ちなみに、今、こうして二人っきりでお喋りしているのは、休日に慎二くんが突然押しかけて来たからだ。士郎は買い物に行っている。待つのも暇だからと、僕は話し相手をさせられているというわけだ。

「ところで、飯塚」
「なに?」

 飯塚というのは僕の苗字。士郎は衛宮の苗字を貰ったけど、僕は遠慮した。色々と理由はあるけど、一番大きな理由はこの名前を変えたくなかったからだ。おじさんは笑って「そうか」と許してくれたけど、今にして思うと、少し寂しげだったような気もする。だけど、後から撤回する機会も無く、おじさんは亡くなってしまった。

「お前って、衛宮の事好きなわけ?」

 僕は口に含んでいたお茶を盛大にぶちまけた。慎二くんの顔に向かって、それはもう、ショットガンのような勢いで。

「……いや、いきなり過ぎたね」

 眉間がピクピク動いている。そうとうご立腹らしい。でも、いきなりそんな質問ぶつけられたら誰だってお茶を噴く。僕だって噴く。

「いやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいや」
「いやが多過ぎるよ……」
「い、いきなり何を言ってるんですか!? ぼ、ぼぼ、僕が士郎の事す、す、す――――」
「初心な反応だな。いや、君、僕が衛宮の事を褒めると物凄い勢いで頬を緩ませるじゃない。正直、あんな嬉しそうな顔して聞かれると、そう思わずには居られないよ。他の話題だと殆ど無反応だし、学校でも無愛想だろ、君」
「い、いや、無愛想というわけでは……」
「いや、無愛想だろ」

 呆れたように言われた。確かに、学校での僕は無愛想と表現するのが一番正しいのかもしれない。なにしろ、友達も出来ないまま、日がな一日勉強に勤しみくらいしかやる事が無く、そのせいでどんどんコミュニケーション能力が落ちていく。元々どん底だったけど……。
 もう、女子のグループに入れてもらう事は諦めた。女子力を鍛えようと、色々と頑張ったんだけど、興味が欠片もわかない事にいつまでも熱情を傾けては居られなかった。アイドルの事とか心底どうでもいい。言葉遣いも一度はちゃんと女の子らしいしゃべり方をしようとも思ったのだけど、無理でした。鳥肌が立ったよ。女の子が一人称を『僕』と呼ぶ。ぶっちゃけ、中学にあがるとそれはもう痛いと表現するしかない。でも、直せない。ジレンマだ。加えて、趣味や志向が相変わらずな為に女の子と友達になるなど不可能だった。
 ちなみに、男子のグループは論外だった。そもそも、入ろうとしたら今度はボッチどころか虐めの対象になる。男に媚びる女は鋼の精神力を要するのだ。僕にはそんなもの無いのです。

「さっきの笑顔は良かったね。いつもそうやって笑ってれば、ちょっとは友達も出来るんじゃないか?」
「マジで?」

 笑顔を浮かべるだけで友達が出来るとは初耳だ。

「……いや、笑顔以外にも色々と足りてないものがありそうだね」
「期待させてから落とさないで下さい」

 僕が女だからか、慎二くんも毒が少ない。彼は女性の扱いを心得ている。使いようによっては女心を弄べるくらい、それはもう見事な技工を身に着けている。
 何だかんだで、僕は慎二くんと話している時間が嫌いじゃなかった。友達が欲しいという僕の持ち掛けた相談にも色々とアドバイスをくれるし、僕の何の捻りもなくつまらない話をまるで素敵なエンターテイメントみたいに盛り上げてくれる。
 これは弄ばれちゃう女の子の気持ちも分かるというもの。だって、一緒に居て楽しいんだもん。こっちが何の努力をしなくても、幸福な気分に浸らせてくれる。僕も身に付けてみたいスキルである。

「それで、衛宮の事は好きなの?」
「……いや、士郎の事は好きだけど、それは家族としてだし……」

 何とも答えにくい質問だ。ボッチなせいか、あんまり女という自覚を持つに至るようなイベントが全く起きていない。同い年の男女が一つ屋根の下で同棲しているというのに、漫画でよくあるお風呂場でドッキリとか、ラッキースケベなイベントも起きていない。
 まあ、お風呂に入る時はちゃんと鍵を閉めてるし、士郎は何も無い所で転んだりしないから、当たり前と言えば当たり前なんだけど、それを踏まえても、士郎が僕を女の子扱いしないから余計に女の子の感覚が持てないのだ。いや、別に持ちたいとは思ってないんだけど、そのせいでますます他の女の子達との間にある溝が深まっていく事が問題だ。
 これでも、僕は自分が結構可愛いという自覚を持っている。目はパッチリしているし、鼻も均整がとれている。特に何もしていないのにコレなのだから、この新しいボディーは相当なスペックだ。加えて金髪。一応、折角なので伸ばしている。面倒だから編み込んだりはしていないけど、前に士郎がプレゼントしてくれたシュシュで纏めている。
 洋服だって、おじさんが買ってくれた大量の可愛らしい服が揃っている。子煩悩爆発で私の成長を予期し、サイズも豊富だ。多分、本当はイリヤちゃんに着せたかったんだろうけどね……。

「まあ、実際そうなんだろうね。君って、まだ男女の色恋には疎い感じだし」

 一回大学まで行っている身としては非常に遺憾ながら、僕は慎二くんの言葉を否定する事が出来なかった。そうですよ。その通りですよ。童貞歴二十年プラスアルファは伊達じゃない。もう、この記録は延々と更新し続ける事しか出来ない事が悲しいです。

「まあ、それは衛宮にも同じ事が言えるけどね」
「ん? 何の話だ?」

 ちょうど帰って来た士郎が怪訝そうな顔をしている。

「こっちの話だよ。それより、遅いじゃないか、衛宮。まったく、待ちくたびれちゃったぜ?」
「いや、慎二が居るとか予想外だったし……」
「うるさいな。休日は僕がいつ来てもいいように自宅に待機しておけよ。他に大した用事も無いだろ、お前」
「理不尽過ぎないか?」

 僕としては、むしろ慎二くんが士郎にほの字のような気がしてしまう。最近だと、学校でも外でも士郎にベッタリだし……。

「そうだ。そんなに友達が欲しいなら、今度妹を紹介してやるよ。あいつも君に負けないくらいのボッチだから、気が合うんじゃない?」
「他人からボッチって明確に言われると傷つくんだけど……」
「だって、事実だろ?」
「……うん」

 涙が出て来た。歯に衣着せない物言いは慎二くんの良いところでもあり、悪いところでもあると思う。まあ、これは特に気に入った相手限定の接し方だから、悪い気はしないんだけどさ。慎二くんはどうでもいい相手には割りと丁寧な対応をする。
 
「今日はご飯食べてく? 食べてくならリクエストを聞くけど?」
「ああ、じゃあビーフストロガノフでも頼もうかな」
「……レベル高いの要求してくるッスね、慎二の旦那」
「一流のシェフは客の注文に文句を返さず完璧な料理で自らの威光を示すものだよ」
「いや、その理屈はよくわかんないぞ」

 士郎のツッコミもなんのその、慎二くんは「頼んだぞー」と手をひらひらと降ってくる。ならば、作ってあげましょう。我が家のディナーのレシピに加えてあげましょう『ビーフストロガノフ』! 名前がちょっとかっこいいね!

「レシピ本を出さなきゃね」

 僕と二人の時と比べて明らかに盛り上がっている二人の会話をバックサウンドに僕はいそいそと冷蔵庫を見定める。これは買い物に行かねばなりませんな。
 二人に留守を任せて、いざ商店街へ。まだ空は明るいのに、人通りがかなり多い。

「まずはお肉屋さんだねー」

 最近は商店街を歩く事も中々難しくなっている。何故なら、こんな鄙びた場所だと言うのにデートのルートに使っているリア充カップルが結構いるのだ。まあ、お金の少ない中学生カップルだと仕方がないのかもしれないけど、クラスメイトが男女で並んでイチャイチャしている場面を見ると、無性に悔しくなってくる。別に今更女の子と色恋したいとか、ましてや彼氏が欲しいなんて思ってないけど、それでもなんか悔しいんだ。
 加えて、この街には厄介な人物が数人程存在している。まず、一人目は言峰綺礼。新都にある丘の上の教会の神父様なのだけど、この人はFateのラスボスであり、とんでもなく悪い奴なのだ。関わらない方が絶対的に得策な人物なのだ。でも、時々この辺に来るのだ。いつも暑苦しいカソックを着て堂々と歩いているから、直ぐに誰なのかが分かった。正直、こんな所にカソックで来なくてもいいのではないかとも思う。
 もう一人は遠坂凛。彼女は魔術師であり、この街の管理人なのだ。僕達が魔術師である事にはまだ気づいていないけど、いずれバレるだろう。そうなった時、一悶着ありそうで怖い。魔力を隠す方法とか分からないし……。

「あとはコレとアレと……」

 必要なものを買ったらさっさとトンズラだ。早く、我が家に帰って安息を得たい。

「というか、サラッと慎二くんに妹を紹介するとか言われたけど、それって桜ちゃんだよね……?」

 Fate史上における三大厄ネタの一つ、桜ちゃん。いや、いい子だし、境遇が悲惨すぎたせいなのは分かっている。小学校に上がったばかりの……、よりにもよって、ある程度自我が定まり、分別も理解し始めた頃によりにもよって雑多なエロ本やAVなんて目じゃないような超絶ハードプレイを休みなく強要されるとか、興奮するけど体験は絶対にしたくない。
 そんな彼女はFateの真のラスボス。ドラクエ風に言うと、ラスボスを倒した後の神竜とかエスタークみたいな感じの人。
 正直、彼女と士郎をあわせたくない。可愛いし、境遇から救い出してあげたいとも思うけど、それ以上に地雷過ぎる。彼女自身もさる事ながら、彼女のバックボーンは三大厄ネタの二つ目である蟲爺こと、間桐臓硯さん。下手したら、僕まで蟲蔵エンドもあり得る。だって、ヒロインの一人である遠坂凛も選択肢によっては蟲風呂で間桐の精子を孕ませエンドだったりするし……。
 さすがにそれは嫌だ。それなら士郎の嫁として生きていく方が絶対に良い。正直、あんな優良物件は他に無いだろう。もし仮にどうしても結婚しないとヤバイ状態に陥ったら僕は迷わず士郎と結婚するよ。優しいし、包容力もあるし、何よりずっと一緒に過ごしてきた経験がこれからもずっと一緒に居ても苦痛にならない事を証明している。
 ちなみに、その点でいくと慎二くんもいい線行ってるんだけど、家族が地雷原過ぎるからNGだね。蟲蔵で孕ませエンド待ったなしだし。最後は蟲に全身を食い尽くされるとか恐怖でしかないです。

「何はともあれ、出来る限り接触は避けるようにしないとね……」

 慎二くんとの交流はともかく、桜ちゃんとの交流はその胸の中に宿る蟲によって何から何まで筒抜けにされてしまうのだ。魔術師である事も当然バレるだろうし……いや、それは既にバレてるかもしれない。あの人、Fateだとおじさんの事を知ってて桜ちゃんを士郎に近づけさせたみたいだし……。

「――――と、現実はうまく運ばないものだね」

 数週間後、慎二くんが完全なる善意の下、僕達を間桐邸に招待してくれました。悪の総本山。エログロ地獄の窯の中。外道の外道による外道の為の邪神殿。
 正直、めちゃくちゃ帰りたい。

「ようこそ、我が家へ」

 でも、満面の笑みで歓迎してくれる慎二くんのご厚意を無碍にも出来ない。善意って、時に悪意よりも厄介ですね。

「桜は居間で待たせてる。兄の目から見ても若干ドン臭いところがあるから、そういう所も君と気が合う筈だよ」
「爽やかな笑みに騙されてあげないぞ。どういう意味だよ!」
「そういう意味だよ」

 最近は頻繁にうちに遊びに来るようになった慎二くん。ソレに応じて僕との交流も増え、徐々に遠慮というものが無くなってきた。お互いにね。

「衛宮。お前は僕の部屋に来いよ。面白いゲームを見つけたんだ」
「おう!」

 いや、ちょっと待って下さい。なにを勝手に僕と桜ちゃんを二人っきりにしようとしているのですか!

「ほら、こっちだよ」

 慎二くんはさっさと中に入っていってしまう。士郎も堂々と中に入っていこうとする。僕は咄嗟に士郎の服の裾を掴んだ。

「どうした?」
「いや、ちょっと……その……」
「ああ、緊張してるのか? 大丈夫だって! あの慎二の妹だぞ。きっと、ズケズケと物を言ってくるから、緊張してる暇なんて無くなるさ」

 ズケズケと物を言う桜ちゃんか、それはそれで見てみたいけど、それはともかく、士郎って、慎二くんの事をそういう風に見てるんだな……。

「と、とりあえず行こうか」

 言いながらも、士郎の背中に隠れる。この恐怖の館で堂々となんてしてられない。全身鳥肌が総立ちだし、膝も笑っている。

「緊張し過ぎだろ」

 笑っていう士郎を睨む。君はここが如何に恐ろしい場所かを知らないからだよ。特に女にとっては正に地獄なのだから、僕の恐怖も当然のものだ。

「桜! 連れて来たぜ。こいつが衛宮で、そっちが飯塚だ」

 初対面で失礼だけど、正直、蝋人形かと思った。既に総立ちな鳥肌が更に逆立つ程の恐怖を感じる。その表情には一切の感情が無いのだ。

「ははは、無愛想だろ、コイツ」

 ペシンとそんな彼女の頭を平然と叩く慎二くん。桜ちゃんは叩いた慎二くんを光の無い虚無の瞳で見つめた。

「痛いです」
「じゃあ、もうちょっと愛想をよくしろ!」

 メッと叱りつける慎二くん。実に良いお兄ちゃんである。それがどうしてああなるんだろう……。

「じゃあ、後は若い二人に任せて、僕らは上でゲームやりに行こうぜ!」
「オーケー!」
「え!? ちょっと、待って!」

 二人は僕と桜ちゃんの二人を残してさっさと階上に上がってしまった。なんて奴等だ。何が若い者だ。実年齢は僕の方が二十歳も歳上なんだぞ。

「えっと……」

 桜ちゃんののっぺりした顔を前に、僕は冷や汗がダラダラだった。

「は、はじめまして、僕、飯塚樹です」
「……はじめまして、間桐桜です」

 それっきり、会話が途切れた。

「あ、あの、えっと……その……、ご、ご趣味は?」
「ありません」
「そ……、そうですか」

 何とか話題を作ろうと足掻くも、二言目に続かない。Fateだと割りと明るめで、とっても可愛い大和撫子なんだけど、これがどうやったらああなるんだろう。大河さんを召喚したい。僕にこの子の心を開くのは無理ゲー過ぎます。

第五話「お兄ちゃん」

 恐怖の館に導かれて三時間。息の詰まるような空間から漸く救い出された僕は疲労困憊状態だった。正直な話、今現在進行形で性的暴力を受け続けている年下の女の子相手にどう対応しろというのか……。
 その前情報が無くても、完全に目が死んでいる抜け殻のような状態の人間相手に盛り上がる話題を提供出来る程の技工が僕には無い。というか、あったら僕はとうの昔に友達百人出来ている。

「どうだった? あの桜って子と友達になれたか?」
「この状態見て分からないかなー?」
「そっか……」

 その声にはなんだか失望感が宿っていた。

「……えっと、怒ってる?」
「ん? いや、別に怒ってない。ただ、慎二の奴がさ……」
「慎二くんがどうかしたの?」
「ちょっと期待してたみたいなんだ」
「期待?」
「うん」

 士郎曰く、慎二くんが今回桜ちゃんを僕に紹介した理由は何も僕に友達が居ない事を心配した事が要因では無かった。理由の一つではあるみたいだけど、一番の理由は桜ちゃんを心配しての事だったらしい。
 家でも学校でも暗い表情のまま、いつも俯いている彼女を何とか元気づけてあげようとしたみたい。そこで選ばれたのが同姓で歳も近く、性格も似通っていると思われている僕だったわけ。

「そっか……」
「あれで結構妹思いな所があるみたいだな。意外って言うと、なんかアレだけど」
「あはは……、そうだね」

 正直、桜ちゃんのルート……、つまり、ヘブンズフィールについてはあまり詳しくない。だって、内容があまりにもドギツイし、アニメ化もされてないから取っ付きにくさを感じたのだ。だから、大まかな流れを知っているに過ぎない。
 確か、慎二くんと桜ちゃんの関係が拗れた事には原因があった筈だ。もう少し、やり込んでおけば良かったと少し後悔した。

「……また、会ってみようかな」

 危険と分かっていても、踏み込んでしまうのが人間だ。避けるべきだと分かっているのに、ちょっと親しくなっただけの慎二くんの為に何かしてあげたいと思ってしまう。それは人情というのだろう。あるいは仁義かも。

「賛成。今度はうちに招待してみるか?」
「……うん」

 それから、僕の家には時折桜ちゃんが姿を見せるようになった。慎二くんが毎回来る度に連れてくるのだ。彼は士郎を独り占めにして、妹を僕や大河さんに押し付ける。でも、いつもチラチラと様子を覗いているのを僕達全員が知っている。
 彼の思惑が功をせいしたのは明らかに大河さんの手柄だ。彼女の太陽の如き輝きとパワーに桜ちゃんの心が応えたのが一年後の事。その日、初めて彼女は微笑んだ。その時の皆の大口を開けた間抜け面は忘れられない。

「桜が笑った!」

 一番に歓声を上げたのが慎二くんだという事も忘れてはいけない。

「それだよそれ! 色々足りてないお前に一番足りてなかったものだ! いいか? 絶対に今の感情を忘れるなよ!」

 それはもう感無量といった様子。大はしゃぎだった。僕も思わず嬉しくなって、その日は腕によりをかけた御馳走を作った。
 彼女の変化はそれだけでは無かった。それまで総ての物事に無関心だった彼女が色々なものに目を向け始めたのだ。
 僕との関係も少し変化した。というのも、彼女が料理に興味を示したのだ。Fateだと士郎が教える筈だった料理を僕が教えている。包丁の握り方に始まり、調味料の測り方や物の切り方を一つ一つ教えている。
 少しずつ、会話も出来るようになってきた。話題はほぼ料理が中心だけど、共有できる話題がある事は友好関係を築く上でとても大切だ。

「お肉はまだ入れないんですか?」
「うん。君のお兄ちゃんは微妙に好き嫌いがあるからね。野菜を荷崩れするまでじっくり煮た方がいいんだ」

 ちなみに、僕は士郎と慎二くんの味覚については完璧に熟知している。士郎は好き嫌いを言わず、何を作っても美味しい美味しいと食べるから実に分かり難かったけど、さすがに数年も専属シェフをしていると嫌でもわかってくる。対照的に慎二くんの方は実に素直に感想を聞かせてくれるのでずっと楽だった。
 桜ちゃんにはお兄ちゃん向けの料理を指導している。個人的に彼女には士郎に対して好意を抱いてほしくないからだ。これがセイバーさんや遠坂さんなら無問題なんだけど、彼女が士郎と恋人になるルートは死亡フラグが多過ぎる。

「士郎。あーんって口を開けてくれ」
「は?」

 というわけで、対策として士郎が彼女の恋愛対象にならないように僕と士郎の親密さをそれとなくアピールしておく。君には立ち入れない壁があるのだと明確に示す事で死亡フラグ満載ルートを回避するのだ。
 逆に彼女には慎二くんの事を好きになってもらおうと、とにかく慎二くんの良いところを彼女に教えこんだ。彼女のために如何に慎二くんが手をつくしているかとか、それはもう色々と吹き込んでいる。
 二人が親密になってくれれば、もしかしたら、慎二くんがダークサイドに落ちるのを回避できるかもしれない。綺麗な慎二くんのまま大人になって欲しいと切に願っているのだ。

「お兄ちゃん。あーんして」
「え?」

 ぽかんとした表情を浮かべる二人に作ったばかりのシチューを食べさせる。怪訝そうな表情で顔を見合わせる二人。君達は別に僕の行動を理解しなくて良い。ここで重要な事はこれが好意を抱く相手に行う行為なのだと桜ちゃんに理解してもらう事だ。
 女の子のグループには入れずとも、女の子達の熾烈な情報戦、心理戦を目の当たりにしてきた経験が僕にはある。これは士郎と僕の明るい未来の為の大切な戦いなのだ。君に士郎はあげないよ、桜ちゃん!

「というわけで、もう一口。ほら、あーん」
「いや、何が『というわけで』なんだよ!?」

 隣をチラリと覗き見る。

「兄さん。あーん」
「あ、あーん」

 やっぱり、慎二くんの方が士郎よりもずっと素直だ。

「ほら、向こうもしてるだろ? ほらほら、あーん」
「いや、待てってばちょっと――――」

 それにしても、ちょっと嫌がりすぎじゃないか? なんか知らんがムカムカしてくる。元は男とはいえ、士郎はそれを知らない。だって、教えてないからね。つまり、士郎から見たら、僕は可愛い幼馴染なわけだ。ちょっとは喜んでも良い筈だぞ。

「なんだよー。……そんなに嫌だった?」
「え? いや、別に嫌ってわけじゃなくてその……」

 しどろもどろになりながら言い訳をする士郎にちょっと頬が緩んだ。

「なら、別に問題無いよね?」
「え? いや、まあ……、うん」

 素直で結構。なんだか、ペットに餌付けをしているみたいで楽しくなってきた。

「美味しいか~?」
「うん」
「そうか~、へへ」

 思えば、おじさん亡き後はほぼ士郎の為だけに鍛え上げた料理だ。これで不味いなどと言われたら例えそれがツンデレでもちょっと立ち直れないかもしれない。素直が一番だね。

「兄さん」
「ん? なんだい?」
「明日からは私が御飯を作ります」
「……そうか。うん。家政婦さんには僕から言っておくから、明日から頼むよ」
「はい!」

 慎二くんがとても幸せそうに微笑んでいる。この一年ちょっとの間に慎二くんと桜ちゃんの関係もかなり親密になっている。ちょっと前までは慎二くんが一方的に心配している感じだったけど、今はお互いにお互いを思っている。これならきっと、大丈夫だろう。

「なあ、衛宮」

 それは雨の日だった。びしょ濡れになりながら、慎二くんは僕達の家に駆け込んできた。声が震えていた。それが寒さのせいなのか、別のことが原因なのかは彼がしゃべり始めるまで分からなかった。

「どうしたらいいのか分からないんだ」

 泣いていた。頭を掻き毟り、声を震わせている。

「何かあったのか?」

 士郎が問い掛ける。

「……あったよ。今までずっと、僕は知らなかった。あいつはずっと――――」

 拳を握りしめ、床を殴りつける。

「アイツは僕を嘲笑っていたんだ! 何も知らない僕を! 哀れんでいたんだ!」
「アイツって……、誰の事を言ってるんだ?」
「――――ッ」

 慎二くんは叫ぼうとして、何かを飲み込んだ。けど、僕には彼が飲み込んだ言葉が分かってしまった。きっと、その言葉はある人の名前だ。彼の心をここまで掻き乱す存在なんて、そう多くはない。

「……桜ちゃんの事?」

 慎二くんの目が大きく見開かれた。

「……なんで」
「だって、慎二くんがそんな風になる相手なんて……」

 嘘じゃないけど、本当でも無い事を口にした。本当は彼らの事を元々知っていたから出た言葉だ。知らなかったら、僕なんかじゃ絶対に分からなかっただろう。

「ど、どうしたんだよ!? 桜に何かあったのか!?」
「……ぅ」

 慎二くんは何かに耐えるようにうずくまった。きっと、自分の心を押し殺しているんだ。彼は魔術師ではないけど、魔術の事を人に話してはいけないというルールは知っている。だから、僕達に迂闊な事を話せないと自戒しているのだろう。
 分岐点は今だ。今しかない。この分岐点に立ち会えた事はある意味奇跡だ。

「慎二くん。何があったのかは知らないけど、これだけは言えるよ」
「何が――――」

 今にも噛み付いてきそうな鬼気迫る表情。けど、ここで言わないと、間違いなく、僕達の関係は壊れる。慎二くんと桜ちゃんは決定的に間違えて、僕達の運命はきっと最悪な方向に向う。どちらかが殺して、どちらかが死ぬ最悪な運命を迎えてしまうかもしれない。それだけは避けたい。

「桜ちゃんは慎二くんの事を大好きだよ」
「嘘だ!」
「嘘じゃないよ! 何があっても、桜ちゃんを信じてあげてよ! あの子は君に悪意をぶつけたりしない!」
「知った風な口を叩くな!」

 頬に衝撃を受けた。物凄く痛い。じわりと血の味が口の中に広がっている。どこかを切ってしまったようだ。

「慎二!」

 士郎が立ち上がった。今までハラハラと状況を見ていたけど、今ので一気に頭に血が登ってしまったみたいだ。ちょっと嬉しいけど、今は不味いよ。

「待って、士郎!」
「だ、だって!」
「お願いだから、ちょっと待って!」

 正直、間桐一家とは疎遠になった方がいいのかもしれないとも思う。だって、あの一家は厄ネタでしかない。いつか、我が家に災いを呼び込みかねない悪魔の一族だ。
 でも、僕達は友達だ。僕にとって、士郎は家族で、慎二くんは人生初の男友達で、桜ちゃんは人生初の女友達だ。失いたくないと思ってしまう。

「慎二くん。桜ちゃんは絶対に君を裏切らないよ。絶対に!」
「……なんで、お前にそんな事が断言出来るんだよ」
「と、友達だからだよ! ずっと、一緒に料理の勉強をして来たんだ! だから、分かるんだ!」

 根拠になってない事は分かってる。けど、それが精一杯だった。

「……なんだよ、それ。全然、説得力がねーよ」

 けど、慎二くんはそう言って微笑んでくれた。

「……殴って悪かったね」

 僕に頭を下げると、立ち尽くしている士郎に顔を向けた。

「衛宮。一発、僕を殴れよ。お互い、収まらないだろ?」
「……ああ、そうだな。ただし、俺も殴れ」
「はは……、馬鹿な奴」

 男同士の殴り合い。正直、漫画の世界だけだと思ってた。ここが土手とかだったらさぞや絵になっていた事だろう。

「迷惑かけたね」
「まったくだ」

 お互いに顔を腫らした状態で別れを告げる。僕はとりあえず二人の治療の後片付けをしながら、軽く手を降った。

「桜ちゃんの事……」
「うん。分かってるよ。おかげで頭が冷えた。ありがとう」

 その後の事は知らない。慎二くんも桜ちゃんも語らなかった。ただ、二人がうちに遊びに来る事は無くなり、学校での交流が総てになってしまった。
 ただ、二人は前よりも仲良しになったように見える。

第六話「魔術師」

 その時が来ることは分かっていた。僕も士郎も魔術の隠匿なんて高等技術は身に付けていないから仕方が無い。だけど、出来れば避けたかった。だって、どう対処したらいいのかがサッパリ分からないもの。

「衛宮君。それに、飯塚さん。ちょっと、いいかしら?」

 入学式を終え、帰路に着こうとしていた僕達を彼女は呼び止めた。

「えっと……?」

 士郎は目を丸くしている。でも、僕には一目で分かった。だって、物凄く目立つ赤い上着を着ているんだもの。正直、ちょっと浮いている気がする程の見事な赤色だ。もしかしたら、周囲から浮く事を計算に入れているのかもしれない。

「私は遠坂凛。貴方達二人に興味があるのよ。時間は取らせないわ。近くに美味しいカフェがあるから、そこに行きましょう。なんなら奢るわよ?」
「えっと?」

 士郎が僕に視線を向ける。いきなり奢るから付き合えと結構な美人に誘われれば、健全な男子高校生たるもの、動揺するのも仕方がない。

「えっと、ごめんね。僕達、これから夕飯の材料を買いに行くんだ。折角の入学祝いだから豪勢にしたくてね」
「……少しで済むわ」
「えっと……、でも……」

 不味いかもしれない。明らかに苛立っている。眉間に皺を寄せながら微笑むという器用な真似をしている。

「分かったわ」
「じゃ、じゃあ……」
「言い方を変えるわ。冬木の管理者として――――」

 周囲から音が消えていく。そう言えば、いつの間にか周囲から人の気配も消えてしまっている。明らかにヤバい状態だ。こんな事なら素直にカフェについていけばよかった。

「これは!?」

 士郎が動揺している。

「……この異常が分かるって事はビンゴね」

 士郎のうっかりさんめー!

「えっと……、僕達に何の御用ですか? その……」
「遠坂凛よ。冬木の管理者をしているの。単刀直入に聞くわ。貴方達は何者?」

 日常生活でいきなり何者とか聞かれる事は稀だろう。ほら、士郎も完全にフリーズしている。そもそも、管理者って何? って状態だろう。
 ここは素直に答えるべきだ。遠坂凛は別に人格破綻者じゃない。物事の道理を弁えている人物だ。だから、素直に正直な事を話せばそれなりに便宜を図ってくれるだろう。むしろ、ここでちょっとでも虚言を弄そうものなら、お先真っ暗だ。入学したばっかりの高校を変更しなければならなくなる可能性も高い。

「あの……、僕達はその――――」

 とりあえず、大火災の被災者である事と、その時に偶然魔術師に助けられた事、そして、その魔術師から魔術の手解きを受け、その魔術師が天寿を真っ当した話を語った。嘘は一つも無い。なんなら、調べてもらっても構わない。そう言うと、遠坂凛は渋い表情を浮かべた。

「大火災の……。なるほど、その人が何者だったのかはもう少し詳しく聞く必要があるけど、とりあえず、貴方達の届け出が無かった理由は分かったわ」

 眉間に皺を寄せている。

「そいつらの事は僕が保証するよ」
「ん?」

 声の方に振り向くと、いつからそこに居たのか、慎二くんが立っていた。

「……間桐慎二ね。ふーん。私の結界に入り込む程度の腕はあるわけね」
「本当は手の内を晒したくなかったけど、そいつらに妙な真似をされても困るんでね」

 陽気な口調とは裏腹に慎二くんの瞳は恐ろしい程怒気を含んでいる。

「遠坂。そいつらは何も関係ない。ただの被害者だ。余計な事は口にするなよ」

 勿体ぶった言い回しに士郎は困惑している。でも、僕と遠坂さんは彼の意図が分かっている。つまり、彼は僕らに聖杯戦争の事を知られたくないのだ。その事を遠坂さんに言う為にわざわざ結界への侵入などという暴挙を行ったのだ。

「へえ、意外だわ。随分と優しいのね。それとも、この二人は特別?」
「ああ、特別だね。そいつらは僕の友達だ。手を出すなら覚悟しろよ。管理者だろうが、間桐の総てを使って潰す」
「……言ったわね?」

 空気が凍りついたように感じた。二人の発するあまりにも危険なオーラに僕は思わず腰を抜かしてしまった。すると、漸くショックから立ち直ったらしい士郎が前に出た。

「お、おい、慎二! お、お前も魔術師だったのか?」
「……衛宮。お前はちょっと黙ってろ」

 話がややこしくなる。そう言って、士郎を黙らせると、慎二くんは再び遠坂さんと睨み合った。

「随分と面白い事を言ったわね、彼。ふーん。つまり、貴方は今まで魔術師である事を彼らに隠していたわけね?」
「お互いにね。まあ、僕はだいぶ前に気付いてたけど、こいつらの脳天気ぶりと馬鹿正直さには呆れたよ。魔力は垂れ流しだし、魔術の痕跡はあちこちにあるし……」
「つまり、貴方は自分の魔力をキチンと制御してるって事?」
「ああ、だからお前は僕に気付けなかったんだろ? お前は僕が魔術師だと分からなかった。魔術師でない人間が結界になど入れない。だから、油断した」

 慎二くんの言葉に遠坂さんは唇を噛み締めた。でも、確か慎二くんは魔術回路を持っていない筈。今の話はちょっとおかしい。どういう事かと考えて、一人の少女の姿が浮かんだ。
 今日は入学式だ。当然、家族の人も来る。その中に彼の妹の姿があっても不思議じゃない。つまり、この結界への侵入ルートを作ったのは桜ちゃんだ。彼の言葉は総て遠坂さんを欺くためのもの。恐らく、すぐ近くに迫っている聖杯戦争のための準備でもあるんだろう。

「遠坂。『僕を侮るな』よ。痛い目にあうぜ?」
「……そのようね。ちょっと、甘く見ていたわ」

 一触即発の空気のまま、慎二くんがゆっくりと僕達の方にやって来た。

「とりあえず、管理者への挨拶は済んだはずだ。この二人は完全に人畜無害な魔術師だから手を出すな。ついでに、余計な事も何も言うな。時が来たら、僕が遠ざける」

 行くぞ、と慎二くんは僕達の手を引っ張って歩き出した。遠坂さんは追いかけて来ない。ただ、ジッとこちらを見つめている。
 だいぶ歩いた後、不意に慎二くんは立ち止まり、深々と息を吐いた。

「あー、ビビったー」

 物凄い汗だ。

「し、慎二?」

 士郎が恐る恐る声を掛ける。

「慎二? じゃねーよ、馬鹿」

 慎二くんは呆れたように溜息を零した。

「いいか? あの女には金輪際近づくな。百害あって一利なしだ。後、僕が魔術師である事を黙っていた事は謝る。でも、お前らも同罪だって事を忘れるな」

 ビシッと指をさして言う。

「いや、それは別に……。魔術師だったって事には驚いたけど……、もしかして、桜もか?」
「あいつ? いや……、あいつは違うよ。お前らが特殊なだけで、普通、魔術師の一族は一子相伝なんだ。魔術刻印とかの関係もあってな。だから、あいつは……ただの何でもない一般人さ。だから、今までどおりの接し方でいいよ。いいか? 魔術の話なんて間違っても振るなよ?」
「ああ、勿論」

 士郎の言葉に慎二くんはホッとした様子で僕に向き直った。

「久しぶりにあがっていいかい? 御馳走だって聞いたからね。桜にも連絡するよ」
「もちろん!」

 その日は桜ちゃんも手伝ってくれたおかげでとても豪勢な夕食だった。大河さんやお祝いに来てくれた柳洞寺の零観さんや弟の一成君も交えた大宴会だった。
 一成くんと僕はあまり接点が無かった。中学が同じで、士郎とも友人同士だったんだけど、家に上がる回数は慎二くんよりずっと少なかったし、学校や外でも挨拶を交わす程度だった。
 でも、士郎と慎二くんは一成くんとかなり親密。三人だけの輪が出来上がっていて、僕は桜ちゃんと一緒に給仕に精を出しながらちょっとだけ羨ましく思った。

「折角のお祝いなのに……」

 もうちょっと、士郎をこっちにも貸して欲しい。桜ちゃんの相手が嫌ってわけじゃないけど、喜びを分かち合いたい気分なのだ。

「元気だして下さい、樹さん」

 ションボリしていると桜ちゃんが声を掛けてきた。

「男の人は男の人同士の方が楽しい事もあるんですよ。でも、衛宮さんは樹さんの事を誰よりも大切に思ってます。だから、後で思いっきり甘えちゃえばいいと思いますよ」

 この子も大分変わった。笑顔がとっても自然になったし、こうして優しく気遣ってくれたりもするようになった。彼女の成長ぶりにちょっと頬が緩む。

「ありがとう、桜ちゃん。うん。後で甘えてみるよ」
「はい! 私も後で兄さんに思いっきり甘えます!」

 原作だと士郎一直線だったけど、今の彼女は慎二くん一直線だ。これも教育の賜物だね。我ながら実にゲスいな……。
 
「桜ちゃん、大好きだ!」

 以前なら絶対出来なかった事だけど、僕は桜ちゃんを思いっきり抱きしめた。

「い、樹さん。苦しいです」
「あはは……、ごめん」

 士郎に構ってもらえないのは寂しいけど、桜ちゃんがいるから気分が上々だった。
 宴会は夜中まで続き、零観さんや一成くんが帰宅し、その後に大河さんも明日の準備があるからと隣家へ帰っていった。後に残った慎二くんと桜ちゃんは僕達と桃太郎電鉄で盛り上がっている。
 友情破壊ゲームの名に相応しい激戦だったけど、最終的に僕が買った。

「お前、あそこであのカードは無いだろ……」

 慎二くんが物凄くムカッとした表情を浮かべている。

「いやー、ついつい」

 ゲームをやってると熱くなるのは悪い癖だ。何事もほどほどが一番。

「とりあえず、今日は僕達も帰るよ。久しぶりに楽しかった。また、来てもいいかい?」「もちろん」

 僕達の声は重なった。思わず吹き出す四人。

「あ、そうだ」

 去り際に慎二くんは僕達にだけ聞こえるように小声で言った。

「昼間の忠告は絶対に忘れるな。普通の魔術師は外道が正道なんだ。下手に関わっても損をするだけだぞ」
「あ、ああ、分かったよ」
「うん。了解」
「ほんとに分かってるのかねー」

 深々と溜息を零しながら慎二くんは去って行った。

「じゃあ、僕達も寝ようか」
「おう!」

 ちなみに僕の部屋は士郎の部屋の隣だ。Fateだとセイバーさんが寝泊まりする場所。昔、とくに考えずに決めた部屋割りで、特に移動もせずに使い続けている。士郎の部屋と比べるとかなり雑多だ。

「おやすみ」
「おやすみー」

 寝る前に髪の手入れを手早く済ませる。この数年間で僕もかなり女子力が磨かれた気がする。今では髪や肌のお手入れもちゃんとするようになった。殆ど、大河さんの入れ知恵だけど、桜ちゃんには僕が教えてあげた。
 桜ちゃんに教えてあげる事は僕の数少ない楽しみの一つだったから、あの頃は色々と頑張って勉強したものだ。

「……来年か」

 来年の冬、聖杯戦争が始まる。準備は整えてきた。正確な日程は分からないけど、逃げ出す用意は出来ている。後は旅券を買ったり、パスポートの手続きをするだけだ。
 でも、僕は迷っている。最初は士郎と一緒に逃げ出せれば後は何がどうなっても構わないと思っていた。でも、今はちょっと違う……。
 友達が出来た。それに、大河さんや零観さん、ネコさん達の事も放って置けない。

「でも……、士郎が……」

 士郎だけは逃さないといけない。だって、彼はFateで何十回も死を迎えているのだ。ちょっと選択肢を誤っただけで、直ぐに死んでしまう。生き残っても、下手をしたら絞首刑台エンドだ。そんなの嫌だ。

「……やだよ」
「どうした?」
「へ!?」

 突然の士郎の声に心臓が破裂しそうになった。

「し、士郎!?」
「えっと、脅かすつもりはなかったんだけど……。なんか、辛そうな声が聞こえたからさ……。泣いてるのか?」

 心配そうに僕の顔を覗きこむ士郎。目の前に立たれると、彼との身長の差が歴然となる。昔は殆ど差が無かったのに、今では見上げなければならない程だ。

「……士郎」
「ん?」
「士郎は僕の事どう思う?」
「どう思うって……、大切に思ってるに決まってるだろ?」

 ごく自然に返って来た言葉に頬が緩む。でも、聞きたいのはその先だ。

「じゃあ、僕と見知らぬ誰かだったら、どっちが大切?」
「は? そんなの樹に決まってるだろ」
「じゃあ、見知らぬ誰かが大勢だったら?」
「え?」
「もしも僕と見知らぬ大勢の人を天秤に掛けたら……、どっちを取る?」
「……何が言いたいんだ?」

 こんなの困らせるだけだ。士郎が答えに窮するのを分かって聞いている意地悪問題。

「見知らぬ大勢の人が助けを求めていたら……、それでも僕と一緒に居てくれる?」

 士郎の目が大きく見開かれた。これでは、まるでプロポーズでもしているような感じだ。だけど、きっと、彼にも質問の真意が伝わっている筈だ。だって、コレは彼の本質に大いに関係している問いかけなのだから……。

「士郎は正義の味方になりたいんだよね?」
「……ああ」
「そうだよね……」

 思わず『止めてくれ』なんて言葉を吐きそうになった。ずっと一緒に居て欲しいと思ってしまった。だって、彼は僕にとって唯一の家族だ。おじさん亡き後、僕にとっての心の支えだ。士郎が居るから、僕は父さんや母さんの事を忘れていられる……、いや、忘れた振りが出来る。
 大河さんもちょくちょく顔を出してくれるけど、やっぱり、僕の家族は士郎だけなのだ。だから、どこにも行ってほしくない。死刑台になんか絶対に行かないで欲しい。

「……ごめん。このままだと、変な事言いそうだから、今日は寝るよ」

 士郎には死んでほしくない。でも、士郎の意思を曲げたい訳じゃない。だって、僕がどんなに嫌だと思っても、士郎は士郎の道を生きなければ士郎じゃなくなってしまうんだ。それはきっと、何よりも残酷な仕打ちだ。
 きっと、僕が完全な女なら、こんな風に迷わなくて済むのかもしれない。変に男が残っているから、男の生き方を理解出来てしまう。そんな訳の分からない理想よりも僕を見て、なんて言えない。だって、僕は恋をしているわけじゃないんだ。ただ、家族が好きなだけなんだ。ああ、いっそ、女になって、この思いを完全に恋にしてしまいたい。そうしたら、きっと彼に言える筈だ。
 どこにも行かないで下さい。僕だけを見て下さい。僕だけの貴方で居て下さい。
 そんな身勝手な事を言えるのに……。

第七話「頑固な朴念仁」

 高校生活は中々に順調なスタートを切った。士郎と慎二くんが揃って大河さんが顧問を務める弓道部に入部したので、便乗させてもらった所、棚から牡丹餅で、友人のゲットに成功したのだ。ご存知、次期弓道部の部長である美綴綾子だ。
 彼女と友人に成れた理由、それはズバリ……、僕の運動音痴が災い転じて福となした結果だ。弓道なら、運動音痴な僕でもイケると意気込んだんだけど、そもそも的まで届かないという非常事態が発生したのだ。士郎は神業的な射で皆の注目を集めているのに対して、僕は悪い意味で注目を集めてしまっていた。慎二くんも始めたばかりにしては物凄い腕前で、二人に教えを請おうとも思ったんだけど、周りの女子の目が痛すぎた。
 周りから見ると、どうやら僕は男を囲っている嫌な女という印象らしい。酷い風評被害だ。慎二くんには桜ちゃんが居るぞ。
 早速、周囲から孤立してしまった僕はまたもボッチな学園生活がスタートするのかと戦々恐々だったけど、そこに救いの手を伸ばす女傑が居た。そう、綾子である。さん付けしたら止めてと言われたから呼び捨てにしている。
 彼女は気風の良い性格で、僕の境遇にとやかく言わず、射の練習に手を貸してくれた。彼女は中々に人気者で独り占めには出来なかったけど、運動音痴というスキルが面倒見の良い彼女の気を惹く切っ掛けとなってくれた。
 加えて、彼女は士郎にちょっとした憧れを抱いている。士郎の射があまりにも美しいからスッカリ魅せられてしまったのだ。彼女はしきりに士郎に話し掛けて来て、それに僕も便乗させてもらった。彼女と一緒なら、割りと自然に士郎と一緒にいられる。綾子の士郎に対する思いはあくまで武人としての憧れであるという所が重要。彼女は僕が一緒に居ても全然オーケーと懐の広さを見せてくれた。ここで情欲が絡んでいたら色々と厄介だったけど、実に運が良いというか何というか……。
 いや、もしかしたら、それは僕に対する配慮かもしれない。彼女は豪放に見えて、細かい所もよく見ているから、僕が士郎と一緒に居たがっている事を見抜き、自分の恋心を封じているのかもしれない。総ては僕の空想だけど、そうだとしてもありがたい。正直、最近は士郎に彼女が出来る事を恐れている自分がいる。
 男女の色恋にとやかく言う筋合いが僕には無い事を承知している上で、誰かに士郎を取られる事が嫌で堪らないのだ。それが女であれ、まかりまちがって男であれ、おじさんから継いだ理想であってもだ。何て我儘な奴だろうと自分でも呆れてしまう。たぶん、僕は所謂重い女という奴なんだろう。しかも、一人称が『僕』という痛々しいキャラクター。これで見た目が悪かったらかなり悲惨だ。ありがとう、マイボディー。どうしてこうなったのかは依然としてわからないままだけど……。

「アンタ、これはもう今すぐにでも嫁にいけるね。なんなら私がもらってやろうか?」

 初めてお家にご招待し、御飯を御馳走したらそんな言葉が飛び出して来た。

「へへへ、運動は駄目だけど、家事は昔からこなしてたからねー」

 元男としては複雑な心境だけど、料理を褒められる事は素直に嬉しい。数少ない僕の自信を持てる特技の一つだからだ。普段は二人っきりの食卓だけど、時々大人数の宴会になるからレパトリーがどんどん増えて、今では和洋中なんでもござれだよ。

「見た目も遠坂に匹敵するし、ちょっと衛宮には勿体無いね」
「なんでそこで俺の名前が出て来るんだ?」

 綾子の言葉よりも士郎の言葉にツッコミを入れたくなるのは僕が割りと自分の容姿に自信満々だったりするからだ。だって、元男の僕から見てもかなりの可愛さだ。金髪翠眼で顔立ちも整っているし、眉や髪を確り手入れするだけで化粧要らずな程だ。正直、女子から煙たがられている要素の一つはこの顔だろうとも思ってる。男の頃にイケメン憎しと思っていた僕には彼女達の気持ちが良く分かる。まあ、こういう考え方がバレたら今どころじゃないバッシングの嵐だろうけどね。客観的に聞いてるとどんだけナルシストなんだよ、この高慢ちきって思うもの。
 士郎の言葉にツッコミを入れたくなる理由は単純だ。正直、客観的に僕を見たら、完全に士郎にホの字だと思われても不思議じゃない。士郎といつまでも一緒に居たいと願っている気持ちは本物で、その為にそう見えるように行動して来たからだ。要は他の女が寄り付かないようにアピールしているわけだ。暇さえあれば『しろうしろう』とベッタリしている。正直、士郎がその気になってもおかしくないくらいのアピールをしているつもりだ。僕だったら絶対落ちてる。そういう接し方だからね。
 なのに、士郎は一向に落ちない。いや、落ちられても困るんだけど、その時はその時で覚悟を決める所存なわけで……。

「……この朴念仁めー」
「なんだよいきなり!?」

 頬をつんつんと突く。ここまで反応が薄いとそれなりにショックでもある。女として十年生きたのだ。それなりに女としてのプライド的なものも芽生えている。まだ、大部分は男だと自覚しているけど、それでもこの無反応振りは少々悔しい。
 時々でいいから、もうちょっと僕の行動に思春期らしい素直な反応を見せて欲しい。

「これは苦労するわー」

 綾子が呆れたように言う。

「なんでさ……」

 ここまで鈍いともう少し直接的なアピールが必要かもしれないね。今度から、お風呂場の鍵は開けておこうかな……。

「まあ、ずっと一緒に過ごしてたら仕方ないかもね。私だって、弟と色恋とか絶対無理だし」
「い、いや、僕達は本当の兄弟じゃないし……。っていうか、苗字も別姓のままだし……」

 敵はまさに無敵戦艦。これを攻略するのは至難の業だ。

「くっそー……」

 セイバーさんは第一印象でハートキャッチだし、遠坂さんもとくに接点の無い段階から士郎の方が憧れていた。桜ちゃんはかなり苦労していたけど……、彼女が僕くらいのアピールの仕方をしていたら確実に落ちている気がする。
 士郎は別に性欲が無いわけじゃない。彼の押入れの奥のアヴァロンには中々の逸品が眠っている事を僕は知っているのだ。士郎は僕にバレていないと思っているのか、昔からその場所を秘宝の隠し場所にし続けている。正直、予想外にマニアックな物もあって、ちょっと吃驚しました。机の上に並べなかったのは元男としての武士の情けだ。
 人並みに性欲がある癖に、何故こんなに可愛い子が身近に居て意識せずに居られるんだ。まったく、わけがわからないよ。

「それとも……、胸か?」

 視線を下げる。そこには桜ちゃんのようなダイナマイトは無い。全く無いというわけじゃなくて、単に平均的なだけだ。でも、やはり士郎はダイナマイトの方がいいのかもしれない。僕は胸に貴賎なしと思う派だけど、士郎は大きいことは良い事だ派なのかもしれない。

「えっと……、迷走しないようにね?」

 綾子が心配そうに言う。大丈夫だ、問題ない。ちょっくら、胸が大きくなる体操でも始めようかと思っただけだ。
 と、まあ綾子との付き合いはそんな感じで続いている。僕が士郎に一方的な好意を寄せていると誤解した彼女は僕に色々とアドバイスをくれるようになり、僕も一応実践している。効果はまったく感じられないけど、こういう風な付き合い方は初めてだから、正直凄く楽しい。

「後一年かー」

 そうこうしている内に冬が来た。聖杯戦争は確か冬の事だった筈だから、いよいよ時間が少なくなって来ている。もっかの悩みはどうやって、皆に避難してもらうかだ。士郎には無理矢理頼み込んで、一緒に――やっぱり、海外はハードルが色々高過ぎるので――温泉旅行にでも行ってもらうとして、藤村組の人達や柳洞寺の人達、それにネコさんや綾子をどうやって冬木の外に出すか全くアイディアが湧かない。
 さすがに魔術の話をするわけにもいかないし……。下手な事をしたら魔術協会とやらに目を付けられてしまうかもしれない。魔術を一般の人に話す事はルール違反だからだ。
 
「っていうか、知り合いじゃなくても死ぬ可能性があるって知ってて放っておくってどうなんだろ……」

 正直、罪悪感が物凄い。だって、ここは戦場になるのだ。
 人が死ぬんだ。Fateでは、あまり直接的な描写が控えられていたけど、それでもニュースになるレベルの殺人が行われていた事は確かだ。確か、近所の民家で一家全員が長物で殺害される事件が発生する筈なんだ。
 それ意外にもキャスターが広域に網を張り、人々から魔力……つまり、生命力を奪う。慎二くんもいろんな人を襲う。士郎が助けられた人も居たけど、助けられなかった人も居たはずだ。
 今の慎二くんなら簡単に人を殺したりしない……と思う。そう信じたい。けど、彼がやらなくても、誰かが殺す。

「あはは……、今更何言ってるんだろう」

 それ以前に現在進行形で苦しめられている人達が居る。おじさんと初めて出会った病院で同室だった子供達。彼らは今、新都の教会に居る。そこで……、生きたまま殺され続けている。
 今更過ぎる。見ず知らずの人間を救うくらいなら、それ以前に彼らを救うべきだ。彼らを救わないのに、他を救おうなんて、それこそ――――、

「そうだよ。知ってても、僕に何が出来るっていうんだ……」

 何も出来ないなら何もしない方が良い。大河さんも綾子も大切だけど、どうにもならないなら放っておく。だって、皆を魔術の事を隠して冬木から追い出すなんて真似、僕に出来る筈が無い。
 下手をすれば、不自然さを感じて、士郎がこの街の異変に気付いてしまうかもしれない。そうなったら最後だ。士郎は正義の味方として、この街を出られなくなる。
 一番大切な物は何? それは士郎だ。僕のたった一人の家族だ。他を助けようとして、士郎を助けられなかったら本末転倒だ。
 聖杯戦争が無ければ、士郎はセイバーと出会わない。セイバーと出会わなければ……、あんな戦いを経験しなければ……、もしかしたら、もっと身近な事で理想を追ってくれるかもしれない。例えば、警察官や消防士になって、街の平和を護るんだ。きっと、皆が彼を慕うだろう。間違っても、死刑台になんて送られる事は無いだろう。
 
「……本当に今更だな」

 本当はもっと早くから行動するべきだった。興味本位で魔術なんて習わず、士郎にも習わせなければ良かった。そうすれば、前提条件が覆る。魔術師でない士郎はどうあってもあんな結末には至らない。だって、あれは魔術があるからこその結末だ。

「ちゃんと決断しておかなきゃ……」

 僕が護るのは士郎だけだ。他の人は総て見捨てる。死ぬかもしれないと知ってて、何も教えない。何も策を講じない。

「……は、はは」

 笑ってしまう。なんで、僕がこんな苦しい思いをしないといけないんだろう。だって、僕は何も悪くない。聖杯戦争を作ったのも、聖杯戦争を肯定したのも、聖杯戦争に参加するのも僕じゃない。僕はただ知っているだけだ。

「そうだよ。僕は悪くない。何も悪くないんだ。ただ、士郎を護るだけなんだ。大河さんが死んでも、綾子が死んでも、慎二くんが死んでも、桜ちゃんが死んでも、誰が死んでも、僕は何も悪くない」

 決めたからには士郎を何としても守らなきゃいけない。絶対に聖杯戦争には参加させない。

「……は?」

 それからまた一年、僕の決意を後押ししてくれたのは慎二くんだった。

「だから、これで旅行に行って来いって言ってんの」

 士郎にどう切り出すか悩んでいた僕にとって、正にそれは渡りに船だった。何故なら、聖杯戦争の開始は冬休みと春休みの間。つまり、普通に登校日なのだ。色々とこの日の為に二人っきりの旅行を切り出しても不自然じゃない関係を築こうとしたんだけど、無敵要塞はやはり無敵だった。
 勇気を出して、ラッキースケベ的な展開が起こるように色々と細工をしたのに、その尽くを回避されてしまった。おかしい、セイバーさんとはお風呂場でドッキリを二回も起こしているのに、どうして僕だと起きないんだろう。
 それとなく、可愛い下着を士郎に見えるように置いておいたり、わざとパンツが士郎から見えてしまう体勢をとったりと、正直、やれる事はやったつもりだ。
 結局、今に至って、登校日を休んでまで二人っきりで温泉旅行に行けるような関係にはなれなかった。

「正直、お前らって見てられないんだよ」

 大きな溜息と共に慎二くんが言った。

「衛宮。お前、飯塚の気持ちに未だに気付いてないんだろ?」
「は?」

 ナイス! 思わずガッツポーズを取りそうになった。
 第三者のお節介。本物の恋愛なら確実に悪手だけど、この朴念仁に僕を意識させるにはこれは中々の手だと思う。

「飯塚。お前もハッキリ言ってやれよ。衛宮の事が好きなんだってさ」

 恐らく、これが僕だけの言葉だったら、冗談と思われて終了だった事だろう。
 もはや、ここまで来たらなりふりなど構っていられない。理想を追い掛ける云々に関しては正直止めていいのか未だに迷いがあるけど、聖杯戦争にだけは参加させたくない。
 ここは乗るしかない。慎二くんの投げたパスボールを見事にキャッチしてみせる。
 だ、大丈夫だ。いくら、どんなに展開が上手く転んでも、こんな朴念仁といきなり大人な時間にはならないだろう。一応……、覚悟は決めるけどさ……。

「ぼ、僕は――――」
「あんまりからかうなよ、慎二」

 士郎は呆れたように微笑みながら言う。

「いや、からかってるんじゃなくてだな」
「樹だって、これでも一応女の子なんだ。言っていい事と悪い事がある。変な噂が立って、樹が嫌な思いをする事になったら幾ら俺でも怒るぞ」

 ここは喜んでいいのか悲しんでいいのかどっちだろう。一応という枕詞が気になるけど、ちゃんと女の子として認識されていた事にはホッとした。いや、ホッとするのはおかしいのか? まあ、とりあえず、良しとしておこう。

「し、士郎。僕は別に困らな――――」
「俺は嫌だぞ」
「え?」
「え?」

 僕と慎二くんの声が重なった。
 なんか、一気に奈落の底へ突き落とされた気分。さすがに士郎から僕と恋仲であると噂される事が嫌などと言われるとは想像もしていなかった。
 やばい、足が震える。今にも泣きだしてしまいそうだ。

「ちょ、ちょっと待て、衛宮! お前、それは幾ら何でも――――」
「俺は樹が辛い目に合うなんて絶対に嫌だ。本人が何と言おうとな」

 心臓が拳銃で打ち抜かれた気分だよ。まさかのダウンアッパー。

「……し、心臓に悪い奴だ」
「は?」

 慎二くんは戦慄の表情を浮かべている。

「と、とにかく、飯塚はお前の事が好きだよ。間違いない! なんなら、僕の全財産を賭けてもいい!」
「……慎二。今日のお前、なんかおかしいぞ」

 おかしいのは君の方だと思うんだ、僕。本心はどうあれ、行動は確実に君の事大好き少女だよ。なんで気付いてくれないんだ!

「クッソ! ここまで頭の固い奴とは思わなかった」

 髪をかきあげ、こめかみをピクピクさせる慎二くん。正直、髪をかきあげた状態の彼はかなりのイケメンだ。士郎もかきあげたら……、アーチャーになるね。新事実! 男は髪をかきあげるとイケメン化する。

「いいから、これで旅行に行って来い! もう、兄妹旅行としてでいいから!」
「いや、この日って普通に学校があるだろ? 藤ねえに怒られるに決まってる。それに三週間って長過ぎだろ……」
「いいから行けよ! もう、お金は払ってあるんだ! そ、そうだ! なら、藤村の分も出してやるよ! それで三人で行って来い!」
「もう払った!? いや、ちょっと待てよ慎二! お前、本当にどうしちゃったんだ!? 幾ら何でもおかしいぞ!}

 まあ、確かに長期休暇でも無いのに三週間の旅行はちょっと非常識かもしれない。

「いいから行けよ! 学校の方は僕が何としても黙らせるから行って来い!」
「いや、だから無理だって……。お金は何とか払い戻し出来ないのか?」

 慎二くんは両手で顔を覆い、やり場のない怒りにのたうち回っている。

「お、おい、慎二?」

 士郎の方は慎二くんの奇行に完全にビビっている。

「し、士郎。その……、折角の慎二くんのご厚意なんだし……」
「いや、駄目だろ。幾ら何でも理由も無く三週間の旅行をプレゼントしてもらうわけにはいかない。数万円じゃきかないぞ。それに、学校を休むわけにもいかないだろ」

 言ってる事が正論過ぎて反論出来ない。
 結局、慎二くんの作戦は空振りに終わった。それは僕の作戦も事実上実行不可能である事を意味した。だって、僕の提案も同じ理由で断られてしまうに決っている。多少は譲歩してくれても、長期休暇になってからという風になってしまうだろう……。

「もう……、手段は選んでいられないか……」

第八話「開戦間近」

 結局、登校日に二週間以上も冬木から離れる方法なんて殆ど思いつかなかった。どんなに理由をでっちあげても、士郎を旅行に誘う事は出来なかったし、残る手段は一つしかない。
 何か事件が起きて、僕達が冬木に居られなくする事だ。勿論、僕達が加害者になるわけにはいかない。さすがに前科者にはなりたくないし、士郎が犯罪行為に手を貸す事はあり得ない。ならどうするのか? 答えは決っている。被害者になるんだ。
 僕は可愛い。これは客観的に見ても事実だ。友達は少ないけど、ナンパや告白を受けた経験は実はそれなりにある。だから、後はガラの悪い人間が集まっている所に行くだけでいい。後は抵抗さえしなければ、僕の望んだ通りになるだろう。
 正直、怖くて仕方が無い。それに、もっと別の方法もあるかもしれない。けど、僕には思いつかなかった。もう、開戦まで一月も無い。
 聖杯戦争の事を隠し通したまま、士郎に冬木を離れる事を納得させる方法なんて……。

「……でも、やっぱ怖いなー」

 殴られたり蹴られたりする程度では済まないだろう。むしろ、その程度で済んでしまったら意味が無い。取り返しのつかない事態になって漸く、僕の望みは叶うのだ。
 士郎を護るためだ。それに、もしかしたら、これを切っ掛けにちょっとは意識してくれるようになるかもしれない。そんなちょっと邪な事を考えながら、僕は繁華街の裏路地へと足を向けた。

「うわぁ……」

 明らかにヤバイ空気がぷんぷんだ。片田舎にある小規模都市特有の危険地帯。頭のネジが外れたような不良達の吹き溜まり。拡散する事が出来ず、一箇所に集まってしまったが故に密度を濃くしてしまった暗黒。
 
「ん? なんだ、お前?」

 壁にもたれ掛かっていたドレッドヘッドの男が僕に顔を向ける。
 あまりの恐怖に身が竦む。遠坂凛とは別ベクトルの威圧感だ。

「……ここは危ねーぞ。そっちから表通りに出られる」

 驚いた事にドレッドヘアの男は紳士的な態度を取ってきた。正直、問答無用で奥に引き摺り込まれ、徹底的に陵辱されると予想していたから肩透かしも良い所だ。

「……ぼ、僕は」
「帰れよ」

 声に怒気が含まれていた。

「お、どうした?」

 すると、奥から茶髪の少年が現れた。あどけない顔立ち。もしかしたら中学生かもしれない。

「迷子だ」

 ドレッドヘアの男は言った。

「迷子? だったら、そっちに行けばいいよ。直ぐに表通りに出られるからさ」

 またも親切な道案内。クスリのやり取りをしているとか、東中の女の子が回されたとか、喧嘩が絶えないとか、恐ろしい噂が飛び交っている場所の住民とは思えない。

「……おい」

 今度は金髪の青年が現れた。かなり不機嫌そうだ。

「迷子じゃねーのか? 何で帰らねーんだよ」
「ビビッて動けないんじゃない? ヤマトは目付き怖いから」
「あ? 俺のどこが怖いってんだよ!」
「声もドス効き過ぎだって」

 眉間に皺を寄せるヤマトに茶髪の少年はケタケタと笑う。

「そ・れ・と・も、何か僕達に用事でもあるのかな?」

 茶髪の少年が僕を見る。ゾッとした。笑顔の筈なのに凄く怖い。

「たまに居るんだよねー。彼氏に振られたとか、友達にはぶられたとかって、そんなくだらない理由で自暴自棄になった女が滅茶苦茶にされたくてここに来る事があるんだー」

 まさに僕の目的とピッタリ合致する。そう、僕は滅茶苦茶にされる為に来たんだ。なのに、どうにも様子がおかしい。

「困るんだよねー。馬鹿が居るんだよ。まんまと釣られちゃう馬鹿がチラホラね。でも、そんな事したら、警察とかが動いちゃうんだよ。こんな田舎街に僕達みたいなのが集まれる場所ってそんなに無いんだ。だから、勘弁してくれない? 滅茶苦茶になりたいなら、勝手になれよ。僕達の所に来るな」

 最悪だ。何が最悪って、期待外れもいいところだって事。ここの連中は単なる馬鹿の集まりじゃない。明確なルールを敷く者に統治されている。

「……帰れよ」

 今や茶髪の少年の瞳には明確な敵意が感じられる。ヤマトや金髪の青年の瞳も彼の言葉を支持する意思が篭められている。

「……ごめんなさい」

 僕はそれ以上そこに居られなかった。あのまま、無理に残って少年達の怒りを買う事も考えたけど、彼等はどんなに怒っても、僕に後遺症を残すような真似はしないだろう。
 それでは意味が無い。レイプされるなり、重度の後遺症が残るくらいの暴行を受けるなりしないと……。

「もう一度出直してみようかな……」

 彼等が組織的に動いているとしても、あそこまで理性的な人間ばかりじゃない筈だ。
 今度は深夜に来よう。人間の本性は夜中にこそ発揮される。きっと、女の嬌声や悲鳴を聞きたがっているような獣達が跋扈している筈だ。さっきのような紳士は夜中にうろついたりしないだろう。

 僕の作戦は間違っていなかった筈だ。間違っていたとしたら、それは――――、活性化するのが男の情欲だけだと思い込んでいた事。
 既に聖杯戦争まで一ヶ月を切っている。当然、動き出している者も居る。迂闊な事にその事をまるで想像すらしていなかった。

「たす……け……てく……れ」

 訪れたそこは地獄だった。昼間顔を合わせた少年達が血の海でのた打ち回っている。
 結界が張り巡らされている事に疑問を抱き、好奇心に突き動かされて僕は何の覚悟も無く、死地へやって来てしまった。
 響き渡る囁き声は人の声のようでもあり、虫の囀りのようでもある。何が殺しているのかが分からない。何が喰らっているのかが分からない。ただ、ここで人が殺され、喰われている事だけが分かる。

「だ、誰か……」

 神経が麻痺してしまったかのようだ。声を出すことも儘なら無い。
 気がつくと、そこに生者は僕だけだった。さっきまで、辛うじて生きていた少年達も既に沈黙している。

「……ぁぁ」

 逃げろ。そう、心が騒ぐのに、体がピクリとも動かない。恐怖が心と体を完全に分断してしまっている。
 耳鳴りが酷い。眩暈がする。視界がぐるぐると渦を巻く。

「――――――――あ」

 まるでブレーカーが落ちたかのように視界が暗転し、僕は意識を失った――――。

 ◆

 その光景はまさしく地獄と呼ぶべきものだろう。
 人が炎に焼かれていく。焼け爛れた肌を引き摺りながら、苦しみのあまり呻き声を上げている。美しかった者も醜かった者も等しくおぞましい姿に成り果てていた。
 誰かが言った。

『こんなの嫌だ』

 誰かが言った。。

『どうして、こんな事に……』

 誰かが言った。

『苦しいよ』

 誰かが言った。

『怖いよ』

 幾つ者祈りがあった。
 幾つ者嘆きがあった。
 幾つ者苦痛があった。
 
『助けて』

 ◆

 目が覚めるとは思っていなかった。覚めたとしても、五体満足で居られる自信が無く、それがとても恐ろしかった。
 意識が覚醒しても直ぐには瞼を開かず、慎重に痛みを探した。どこかが痛む筈だと必死に探した。だけど、どんなに注意深く五感を探っても痛みは欠片も感じられない。むしろ、柔らかさと温かさに包まれて、とても気持ちが良い。

「……ここは?」

 瞼を開くと、見慣れた天井があった。
 僕の部屋だ。

「どうして……」

 襖を開けて外に出る。何も変わらぬいつもの風景に心が波打つ。
 そんな筈が無い。だって――――、

「樹!」

 居間に入ると同時に士郎の切羽詰った声が響いた。血相を変え、僕の肩を掴む。

「しろ……う?」
「大丈夫なのか!?」
「えっと……?」

 士郎は僕を座らせてお茶を淹れた。

「……昨日はどこに行っていたんだ?」

 低い声。今迄聞いた事が無いくらい怒りに満ちた声。

「どこって……?」
「昨日……、お前は慎二に担がれて帰ってきたんだぞ。繁華街の方で倒れていたって! 何があったんだよ!?」

 ああ、そういう事か……。
 繋がった。昨晩に見た地獄と僕が無事に帰って来ている事実。その二つが示す答えは単純明快だ。

「それも深夜にだぞ! あんな時間に外に出るなんて何を考えてるんだ! どうしても出なきゃ行けない用事があるならせめて……、俺に一声掛けてからにしろよ!」
「……ごめん」
「謝って欲しいんじゃない! 何をしていたのかを聞いてるんだ!」

 答えられる筈が無い。冬木を出る口実を作る為に適当な男に襲われに言ったなんて……。

「……ちょっと、その……、夜食が欲しくなって……」
「夕飯の残りならあったじゃないか!」
「いや、その……御菓子が欲しくて……。だからその……、深夜でも営業してるのって繁華街の方まで行かないと無いから……」
「御菓子って……」
「……ごめんなさい」

 頭を下げると、士郎は頭を抱えながら溜息を吐いた。

「今度からは俺にちゃんと声を掛けてくれ……。何か欲しい物があるなら俺が買って来る」

 拳を固く握りながら、士郎は顔を上げる。

「どこか痛い所とか無いか? その……、言い難い事もあるかもしれないけど……でも、その……、どこかに違和感があるとか……」

 思い詰めた表情を浮かべる士郎。

「大丈夫だよ。どこも痛くないし、違和感とかも無いよ」
「本当か?」
「本当だよ」

 士郎は僕の目をジッと見て、やがて大きく息を吐いた。

「……慎二が特にその……、襲われた形跡とかは無かったって言ってたけど、でも……。いや、大丈夫ならいいんだ。でも、どうして倒れてたんだ? 何か理由に心当たりはないか?」
「えっと……」

 心当たりはばっちりある。間違いなく、あの結界の主……恐らく、慎二くんに眠らされたのだ。いや、慎二くんではなく、彼の祖父である間桐臓硯氏かもしれない。どちらにしても、この事は士郎には言えない。
 
「確か、何かにぶつかっちゃったんだと思う。何だか凄い衝撃で意識が飛んじゃったのを覚えてる」
「ぶつかったって、それ大丈夫なのか!? 頭とか打ったんじゃないだろうな!? 本当に痛い所は無いのか!?」

 傍に駆け寄ってきて、士郎は僕のおでこに指を沿わせた。一緒に暮らしていても、ここまで接近される事は滅多に無いから思わずドキドキしてしまった。

「だ、大丈夫だよ。特に痛みとかは無いし」
「一応、医者に診て貰った方がいいな。後で病院に行くぞ」
「え、いや……、うん」

 結局、医者からは何ともないというお達しが出た。当たり前だけどね。
 士郎はそれでも不安なのか通院するように迫って来たけど、何とか宥める事が出来た。さすがに時間が少なくなって来ている現状、医者に時間を取られている場合じゃない。
 それから数週間。あの手この手で士郎を冬木から脱出させようと策を弄したのだけど、全てが空振りに終わった。
 刻一刻と近づく聖杯戦争の開幕。戦々恐々としながら過ごす内、僕は大事な事を思い出した。

「……そう言えば、イリヤちゃんは僕達を殺す事を目的の一つにしてる筈……」

 下手に逃げたとしても、追い掛けて来る可能性がある。実に間の抜けた話だけど、その事をその時まで完全に失念していた。

第九話「召喚」

 逃げられない。逃げた所で死神はどこまでも追い掛けて来るだろう。
 イリヤスフィールが僕達の命を付け狙う限り、どこにも逃げられない。抵抗も無意味だ。相手はギリシャ神話に登場する最強の英雄を引き連れている。僕の炎も士郎の剣もどちらも等しく無意味だ。
 聖杯戦争に参加する以外、僕達が生き延びる手段など初めから存在しなかったのだ。その事を認めるまでにかなりの時間を要した。ただでさえ、開幕まで時間が無いというのに……。

「話がある」

 僕達が弓道場の掃除をしていると、慎二くんが声を掛けてきた。
 なんだろうと顔を見合わせる僕達。まあ、僕は大方の推測が出来ているんだけど、一応、分からない振りをしておく。
 ちなみに、士郎は弓道部を今も続けている。確か、Fateでは怪我を切っ掛けに引退した筈だけど、今に至るまで、士郎が弓道部で怪我を負った事は一度も無い。
 弓道部全体を俯瞰すると、綾子が部長となり、桜ちゃんが入部して来て、士郎と僕が在籍している以外はFateと同じ流れを汲んでいる。もっとも、慎二くんは後輩イビリをせずに良き先輩として後輩の指導を行っているあたり、差異もそれなりにあるみたいだけどね。

「話って?」
 
 士郎が雑巾を絞りながら聞く。

「ここだと話しにくい。後で、屋上に来てくれ」

 思いつめた表情を浮かべる慎二くんに士郎は心配そうな表情を浮かべる。
 部活動が終わった後、早く帰宅するようにと促す大河さんに逆らい、僕達は慎二くんの指示に従い、校舎の屋上に向かった。
 慎二くんはフェンスに背中を預け、ジッと俯いていた。

「やあ、来たね」

 慎二くんは指をパチンと鳴らした。すると、空気が一気に重くなった。

「これは!?」
「ただの結界だよ」

 慎二くんは事も無げに言いながら、士郎に二枚の紙切れを押し付けた。

「これが最後だ。もう、時間が無い。これで冬木を出るんだ」

 それは旅行のチケットだった。それも、かなり長期間の日程が設定されている。
 当然、士郎はわけがわからない状態。

「し、慎二。前にも断っただろ? 幾ら何でも、こんな値の張る物を理由も無く――――」
「理由ならあるさ」

 慎二くんは意を決したように言った。

「もうすぐ、この街は戦場になる」
「……は?」

 これが吉と出るか凶と出るか、僕にも……、恐らく、慎二くんにも分かっていない。
 士郎の性格を考慮すれば、彼がどんな選択をするかは火を見るより明らかだ。
 だけど、搦手が尽く失敗してしまった今、直球勝負に出る他無いと判断した慎二くんの気持ちも良く分かる。

「聖杯戦争と呼ばれる魔術師同士の戦いだ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ、慎二。いきなり何を――――」
「いいから聞けよ。僕が嘘を吐いてるように見えるか?」
「い、いや……」

 士郎は黙りこくる。慎二くんの真剣さが伝わったのだろう。それほど、彼の顔は鬼気迫っている。

「……魔術師同士が命を奪い合う戦いだ。お前らは未熟者もいい所だけど、それでも魔術師だ。巻き込まれる可能性が高い」
「い、命を奪い合うって、そんな事――――」
「勘違いするなよ? これはあくまで魔術師同士の争いだ。だから、一般人には危険なんて及ばない。それに、普通の魔術師はこの戦いの事をきちんと知っている。だから、参加する以上は覚悟を決めているんだ。だから、お前が正義感を振りかざしても全く無意味だ」

 全部が全部ってわけじゃないけど、嘘を絡めた説明。だけど、士郎にその話の真偽なんて判断出来ない筈だ。

「正直、この話をしたら、お前は残ると言い出すに決まってる。だから、話したくなかった」
「お、俺は――――」
「お前だけじゃない。飯塚も危険に晒されるぞ。黙って、僕の言う通りにしろ。学校の事やなんかは全部僕が何とかしておく」
「で、でも、慎二はその……えっと、聖杯せ――――」
「聖杯戦争。ああ、僕は参加するよ。元々、この戦いを始めた御三家の一つ、間桐の代表としてね」
「戦いを始めた……?」
「そうだよ。この戦いは言うなれば大規模な魔術儀式だ。魔術師が魔術の研究に命を掛けるのは当然だろう?」
「で、でも――――」
「衛宮。お前が残ると言い出したら、飯塚も残るぞ」

 慎二くんの瞳が僕に向けられた。士郎もゆっくりと僕を見る。

「……うん。士郎が残るなら僕も残る」
「それは――――」
「衛宮。後生だから、飯塚を連れて冬木を離れてくれ。大丈夫だ。藤村や美綴達みたいな一般人には何の害も及ばない。ただ、魔術師達が魔術の儀式で血を流すだけなんだ」

 お見事という他ない。このままいけば、きっと慎二くんの思惑通りになるだろう。士郎もここまで言われたら頷くしかない。僕にも危険が及ぶと聞けば、彼に選択肢など無いのだから……。
 ここから逃げ出しても、死神は追って来る。死神の鎌に対抗するには此方も武器を用意する他無い。だけど、士郎がここを出る事と武器を用意する事は矛盾しない。

「……俺は」
「頼むよ、衛宮。僕らは親友だろ?」
「慎二……」
「親友としての一生のお願いだ。ほんの数週間だ。聖杯戦争が起きている間だけ、ここを離れてくれ」
「慎二……」

 士郎は慎二くんから視線を逸し、僕を見る。僕は黙って頷いた。

「……分かった。でも、慎二――――」
「っは、僕が誰かに殺されるとでも思ってるのかい?」
「俺は……」
「安心しなよ。僕は誰にも殺されないし、誰も殺さない。誓ってやる。だから、安心して旅行に行って来い。折角なんだ、思いっきり楽しんでこいよ」
「あ、ああ……」

 翌日、僕達は冬木を出る準備に追われた。なんせ三週間だ。着替えだけでもとんでもない量になっている。他にも必要な物を購入し、トランクケースに詰めていたら丸々一日がかりになってしまった。
 士郎が時折上の空になる事も時間が掛かった原因の一つ。恐らく、慎二くんの事を考えているんだろう。だけど、僕には他にもやるべき事がある。
 その日の深夜、僕は一人でこっそり土蔵の中へ侵入した。やるべき事は一つだけだ。

「……ヘラクレスを倒す事なんて、きっと出来ない。だけど、マスターなら……」

 胸が苦しくなる。

『どんな出会い方をしても、嫌わないであげてくれ』

 そう、おじさんに言われたのに、僕はおじさんの娘を殺そうとしている。人を殺すなんて、考えただけでもゾッとするし、罪深い事なのに、ターゲットはよりにもよっておじさんの娘だ。
 でも、士郎を護る為には他に方法なんて無い。そして、その為にはどうしてもサーヴァントが必要だ。僕がイリヤスフィールを殺すまでの間、ヘラクレスの相手をしてもらう為に……。

「令呪は無いけど……、でも、ZEROの雨龍龍之介は召喚中に令呪が現れたみたいだし……」

 令呪がどんなシステムでマスターに割り振られるのかは分からない。けど、僕にはサーヴァントが必要なんだ。

「閉じよ……、閉じよ……、閉じよ……」

 呪文は覚えてる。ゆっくりと間違えないように気をつけながら詠唱を進めていく。

「汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に――――」

 英霊の聖遺物なんて一般人には用意出来ない。さすがに完全に縁による召喚だと、どんな英霊が召喚されるかも分からないから、苦し紛れに図書館で借りたシャルルマーニュ伝説の本を真ん中に置いてるけど、意味があるかは分からない。出来ればローランを召喚したい。彼の剣であるデュランダルはFateにも登場してたし、彼ならヘラクレスと刃を交えても一方的な展開にはならない筈だ。

「誓いを此処に――――」

 果たして、望み通りに事が進むか否か……。

「汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ――――」

 手の甲に痛みが走る。まるで焼き印を押されたかのような激しい痛みに視界が真っ白になる。それでも、呪文はなんとか言い切る事が出来た。

「天秤の守り手よ!」

 突風が吹き荒れる。踏ん張っていなければ、今にも吹き飛ばされてしまいそうだ。
 
「せ、成功した?」

 この時点で既にバーサーカーとキャスターは召喚されている筈。
 開戦まで一週間ちょっと。残る席は五つ。もしかしたら、もっと少なくなっているかもしれない。だけど少なくとも、召喚出来たよいう事はまだ総てのクラスが埋まっているわけではないという事だ。
 ゆっくりと瞼を開く。雷鳴の如き輝きの中に威風堂々とサーヴァントは立っていた。

「やあ、君がボクのマスター?」

 現れたのは実にフランクな話口調の女の子だった。

「は、はい! ぼ、僕、飯塚樹です!」
「イイヅカイツキ?」
「飯塚は苗字で、樹が名前です」
「なるほどなるほどー」
「えっとあの……」

 この人がローランなのだろうか? 一応、アーサー王が女の子だったみたいな前例があるから、可能性はゼロじゃない筈。腰にはキッチリ剣を差してるし……。

「あの……、貴女はセイバーで間違いありませんか?」
「ん? 違うよー。ボクのクラスはライダーさ!」

 ライダー。果たして、ローランにライダークラスの適正なんてあったのかな? そう言えば、伝説の中だと一時期ヒッポグリフに乗っていた事があったっけ。

「えっと、なら、宝具はヒッポグリフですか?」
「ピンポーン!」
「じゃ、じゃあ、貴女はやっぱり――――」

 大成功だ。見た目はびっくりするくらい可愛いけど、ヒッポグリフに乗る剣を携えた英雄なんて、彼で間違いない筈だ。

「ローラ――――」
「そう! 我が名はシャルルマーニュが十二勇士アストルフォ……って、あれ?」
「え?」

 僕とライダーは顔を見合わせた。

「ローラン?」

 僕が問うと、ライダーはノーと首を振った。

「僕の名前はアストルフォだよ」
「アストルフォ……?」

 アストルフォって……、誰ですか?

第十話「召喚Ⅱ」

 予想以上に苦戦したけど、どうにかあの脳天気兄妹を冬木から追い出す事に成功した。さすがにこの期に及んで残るなどとは言い出さないだろう。
 漸く、聖杯戦争に本腰を入れる事が出来る。

「兄さん……」

 臓硯から借りた前回の聖杯戦争の資料を読み耽っていると、いつの間にか桜が目の前に立っていた。気配を消して近寄るのは止めろと何度も言っているのに、本当に学習能力の無い奴だ。僕の心臓が破裂したらどうしてくれる?
 資料を閉じて顔を上げると、桜は予想通りの表情を浮かべていた。今にも自殺しだすのではないかと思う程、思いつめた表情。
 まったく、馬鹿の癖にくよくよ思い悩みやがって……。

「止めないよ」

 桜が口を開く前に先手を打つ。大方、僕がこれからやろうとしている事を止めに来たのだろう。今更、止められる筈も無いというのに……。

「安心しろよ。一か八かの賭けってわけじゃないんだ。勝算は十分にある。準備も十全だ」

 桜は険しい表情を浮かべた。昔と比べると、随分表情豊かになったものだけど、こうして怒る事は珍しい。

「やめて下さい」
「止めないよ」

 立ち上がり、桜の肩に手を置く。

「お前はただ待っているだけで良い。聖杯は僕が手に入れる」

 桜が何か喚いているけど、僕は無視して部屋を出た。
 階段を降り、臓硯の部屋に向う。

「慎二よ。決意は変わらぬか?」

 臓硯は愉しそうに口元を歪めながら、聞くまでもない事を問う。

「変わらないよ。変わるわけが無い。それより、そっちこそ準備は出来てるんだろうね? 今更、『やっぱり無理でした』なんて言葉は聞きたくないんだけど?」
「ッハ、誰に物を申しておるのだ。準備は万全よ」
「なら、早速始めよう」
「良いのか? 未だ、召喚されたサーヴァントは三騎のみ。開戦までは時間があるが――――」
「クドいね。後顧の憂いは断って来た。後は聖杯を手に入れて、お前との縁を永遠に断ち切るだけだ」

 僕の言葉が余程おかしかったと見える。臓硯は噎せ返る程哄笑した。

「良いぞ。お前が真に聖杯を持ち帰る事が出来たならば、その時はお前達の前から消えるとしよう。聖杯さえ手に入れば、血の合わぬこの地に留まる必要も無いからな」

 問答は終わりだ。臓硯が立ち上がり、僕はその後に続く。地下への隠し扉を潜る直前、泣きそうな顔をしている妹の姿が見えた。軽く手を振り、僕は堂々と地下の空洞へと足を踏み入れる。
 足元で無数の蟲が蠢いている。何度見ても薄気味悪い。

「ここだ」

 臓硯は無数の横穴の一つへ足を踏み入れた。僕も黙って後に続く。
 そこは正に地獄だった。生きながらに殺され続けている老若男女が繋がれている。彼らは皆、魔術の素養を持つだけの一般人だ。
 冬木市は元々優秀な霊地であり、数百年前から行われている聖杯戦争が呼び水となった事もあり、多くの魔術師が出入りしている。その関係で、魔術の知識を持たない魔術師の子孫が数多く住み着いている。

「ぁぁ……がぁぁぐぎ……たすけ……ぃぁあ」

 中央には年若い女。

「その女を使う」

 臓硯は苦しみ喘ぐ女の腹を杖で突きながら言った。この女には今、この空間内に存在する総ての人間の魔力を注ぎ込まれている。刻印蟲を使い、無理矢理繋げたパスを通して、過剰な程の魔力を注ぎ込まれる苦痛たるや、想像を絶するだろう。
 寿命を刻一刻と削り続ける地獄の責め苦に一般人の女が耐えられる筈も無い。未だに狂わずにいることが既に奇跡に近い。だが、彼女が生きてここを出る事は無い。嘆こうが、苦しもうが、憎もうが、怒ろうが、狂おうが、彼女には一つの役目を担ってもらう。そして、役目が終わる時は彼女が死ぬ時だ。
 聖杯戦争において、最低限マスターに求められる仕事は大きく分けて二つ。一つはサーヴァントの憑り代となる事。もう一つはサーヴァントへの魔力供給。この内、サーヴァントの憑り代となるだけなら、別に魔術回路は必要無い。魔力供給を行う手段さえ確立出来ていれば、一般人がマスターとなる事も可能なのだ。
 必要なものは魔力供給を行う手段。そして、それこそがこの女の役割だ。
 この方法は前回の聖杯戦争をヒントに思いついた。十年前、一組の魔術師が英霊召喚のシステムに細工を行ったのだ。召喚した英霊との間に繋がるパスを二つに分けるという荒業だ。
 時計塔きっての天才と名高き魔術師による奇策だが、所詮は外来の魔術師に過ぎない。彼に出来て、御三家であり、元々召喚システムを構築した当人であるマキリ・ゾォルケンに不可能な事は無い。
 
「わかった」

 だが、この方法には相応のリスクがある。
 まず、何より、この方法の成否は総て臓硯の手腕と意思に依存するという点だ。だが、これは心配しても詮無きことだ。臓硯が聖杯を欲している以上、わざと失敗させるような事は無いだろう。
 他にも、召喚時に何かの弾みでサーヴァントが僕から魔力を吸い取ろうとした場合、僕に抵抗する力が無いから、魔力……即ち、生命力を根こそぎ奪われ、死に至る可能性もある。
 召喚したサーヴァントが僕達の行為に怒りを覚え、反逆して来る場合もある。
 それでも、ここまで来て、止めるという選択肢など取れる筈が無い。

「始めよう」

 僕が失敗したら、桜がサーヴァントを召喚させられる。そうなったら、桜は敵のマスターやサーヴァントに狙われる事になる。
 失敗は許されない。

「では、こっちへ来い」

 臓硯に導かれ、僕は魔法陣の前に立った。

「……さて、折角孫が儂に孝行する為に命を賭けようとしておるのだから、儂も一つお前に贈り物をやろうと思う」
「贈り物……?」
「これだ」

 臓硯が指差した先、魔法陣の上には奇妙な物体が置かれていた。見た目は木片のようだが……。

「前回の聖杯戦争でマスターとなった男に貸し与えたものだ。アーサー王伝説は知っておるだろう?」
「ああ……。一応、一通りの伝承や伝説、逸話には目を通してるよ」
「ならば、この木片の価値が分かるはずだ。これは件の伝説に登場する円卓の欠片だ」
「え、円卓の欠片だって!?」

 予想外の名称が飛び出して来た事に僕は思わず目を見開いた。
 臓硯はそんな僕を愉快そうに見つめ、口を開いた。

「サーヴァントの召喚システムについては資料にある通りだ。触媒を使えば、召喚する英霊を事前に選別する事が出来る。逆に触媒を使わなければ、召喚者の性質と似通った英霊が召喚される。前者のメリットは言わずもがなだが、後者にもそれなりのメリットがある。自らの性質とサーヴァントの性質が近い故に意思の疎通が図りやすい、前者の場合では、性質が合わない場合があり、それ故に内輪揉めを起こし、自滅する可能性がある」

 臓硯は床を数回突いた。すると、臓硯の横に蟲が寄り集まり、ゆっくりと人型を形成した。
 見覚えがあった。その人物は前回の聖杯戦争に参加した僕の叔父だった。名前は間桐雁夜。

「此奴はソレを使い、ランスロットを召喚した。ランスロットの伝承は知っておるだろう? 雁屋とランスロットは実に似た者同士であった。もっとも、奴等は自らの業によって自壊しおったがな」
 
 呵呵と笑い、臓硯は雁屋の人型に向かって杖を振るった。崩れ落ちる雁屋を愉快そうに見つめながら、臓硯は話を続ける。

「円卓の欠片は先に申した二つの方法のメリットを両方得る事が出来る」
「両方……?」
「分からぬか? ソレを触媒にする事で召喚される英霊は当然円卓の騎士。アーサーにしろ、ランスロットにしろ、ガウェインにしろ、誰が呼び出されても英霊としては一級品よ。加えて、選別の縛りは円卓の騎士のみ故、その一級品の中から召喚者と最も相性の良いサーヴァントが選ばれる」
「……なるほど」

 確かに、それなら間違っても弱小な英霊など現れないだろうし、仲違いをする可能性も低くなる。
 しかし……、

「何を企んでるんだ?」
「はて、企むとは?」
「恍けるなよ。アンタが善意でこんな物を用意すると思う程、僕は甘ちゃんじゃない」

 何か裏がある筈だ。

「……さて、それを問う事に意味があるのか?」
「なに?」
「お前は儂の言葉など信じぬだろう? ならば、儂に何を問うた所で意味など無い。儂のコレが善意であれ、悪意であれ、使わざる得ぬ事も承知しておる筈だ。何故なら、お前は勝たねばならぬ故にな」
「……っく」

 奴の言葉は正しい。どんなに奴を疑おうと、答えなど返ってこない。返って来たとしても、その真贋を見極める事が僕には出来ない。それに、奴の言う通り、僕はこの聖遺物を使わざるを得ない。縁だけを便りにギャンブルを行うなど、失敗を許されない現状では無理な話だ。

「分かった……」
「素直で結構。ならば、始めるが良い!」

 僕は魔法陣の前に立った。

「受け取るが良い。此奴を自らの内に受け入れるのだ。魔力供給を行う必要は無くとも、サーヴァントとの間にパスを通す必要がある」
「……気色悪いな」

 男の陰茎を模した禍々しい形状の芋虫を僕は瞼を閉じて口に含んだ。吐き気がする。
 こんな物を桜は毎日……。

「……閉じよ」

 詠唱を開始すると同時に手の甲に痛みが走った。
 真紅の輝きを伴う刻印が刻まれていく。

「閉じよ……」

 最低ラインは突破した。後は呪文を唱え切るだけだ。

「閉じよ……」

 目に見えない突風を感じる。耳鳴りが始まり、頭痛がする。

「閉じよ……」

 これが魔術。初めて体感する神秘の術は正しく最悪だった。

「閉じよ!」

 負けてたまるか! たくさんの人間を犠牲にしたんだ。こんな苦痛、屁でもない。

「繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する」

 もはや、空間内は局所的な嵐の様相を呈していた。
 雷鳴がとどろき、疾風が渦巻く。

「――――告げる。汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」

 いや、これは総て僕の脳が写す幻覚に過ぎない。
 
「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者」

 肌が捲れていく――――、気のせいだ!
 眼球が蒸発していく――――気のせいだ!
 神経がヤスリで削られていく――――気のせいだと言ってる!

「汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ!」

 鬼が出るか蛇が出るか……。
 僕は僕自身が最低最悪な人間だと自覚している。
 そんな僕と似通った性質を持つ英霊など、ろくでも無いに決っている。
 だけど、僕には力が必要なんだ。
 だから、来い!

「天秤の守り手よ――――ッ!」

 視界がスパークした。真っ白で何も見えない。
 召喚は成功したのか? それとも、失敗したのか?
 視覚が復活するまでの時間がいやに長く感じた。やがて、徐々に薄暗い地下室の光景が蘇ってくる。
 そこにソイツは立っていた。
 鋭い眼光。荒々しい気迫。これが僕の召喚したサーヴァント!

「お前がオレのマスターか?」

 言葉1つ、所作一つが刃のように迫って来る。
 怯えるな。舐められるな。必死に自らに言い聞かせながら、僕は口を開いた。

「そうだ。僕がお前のマスターだ」
「名は?」
「間桐慎二」
「マトウシンジ……? ケッタイな名前だな」
「慎二が名前で、間桐は苗字だ。好きな方で呼んでくれ」
「了解だ」
「それで、お前は……、その出で立ちからして……、セイバーか?」
「大正解……と言いたい所だが、違うみたいだ。どうやら、オレはイレギュラーって奴らしい」
「イレギュラー……? それがお前のクラスなのか?」
「そうじゃない。どうやら、俺は基本的なラインナップからは外れた存在らしい」
「つまり……?」
「オレのクラスは……っと、答えたい所だが、その前に聞かせろ」

 未だクラス不明のサーヴァントは恐ろしい程の殺気を滾らせ、此方を呑気に見ている臓硯を睨みつけた。

「アレは何だ?」
「……僕の祖父だ。敵意を向ける必要は無い」
「アレが祖父だと……? なら、お前は何だ? アレが孕ませたモノが人間な筈無いだろ」
「いいや、僕は人間だよ。正真正銘の……、ね」
「……何ともいけ好かない所に呼び出されたみたいだな」

 周囲の惨たらしい惨状を見回しながら、サーヴァントは嫌悪感を隠さずに言った。

「……それで、改めて聞くけど、お前のクラスは?」
「フン……。俺は――――、アヴェンジャー。復讐者のサーヴァントだ」