第一話「ここはどこですか? そして……、私は誰ですか?」

 その日の天気は快晴だった。けど、俺の心はどんより雨模様。大した事じゃない、と人は言うかもしれないけど、俺にとっては大事だった。

「また、振られた……」

 大学でクリケットサークルに入り、そこで一目惚れした女の子に満を持して告白した。その結果、見事に玉砕した。
 鏡を見る。顔は悪くない方だと思う。髪だって、毎日丹念にワックスで整えているし、眉もキッチリ整えてる。体つきも筋肉質では無いけど、それなりに鍛えてある。

「やはり……、性格の問題なのか?」

 ゲームやアニメ、漫画が大好きなせいか、ついついその手の話題を振ってしまう事がある。と言っても、オタクだとばれる程、コアな話はしていないつもりだ。
 けど、やっぱり滲み出てるものがあるのかもしれない。最近はオタクも市民権を得てるらしいけど、それは一部のマニアック趣味な女を捕まえられた男に限った話だ。俺が好意を抱いた女の中に俺の趣味を理解してくれる女は居なかったというわけだ。
 憂鬱な気分だ。明日から絶対皆にからかわれる。それに、彼女と顔を合わせるのが辛い。こんな事になるなら、卒業ギリギリまで待てば良かった。彼女と一緒のキャンバスライフを夢見た俺が馬鹿だった。

「欲を掻くからこうなんだよな……」

 今日、何度目になるか分からない溜息を零しながら、馴染みの居酒屋に向う。いつも一人で飲みたい時に利用するとっておきだ。小さな店だけど、心が落ち着く。

「いらっしゃい、サトちゃん」

 店主の婆ちゃんがニコニコと俺を歓迎してくれる。家族と離れて一人暮らしをしている俺にとって、アパートよりもここの方が家って感じがする。

「ビールと枝豆ちょうだい」
「あいよ」

 よく冷えたコップに注がれる黄金の液体。グビッと一杯呑むだけであら不思議、とっても気分がよくなってくる。苦味を打ち消す為に枝豆に手を伸ばし、もう一杯。

「今日はよく飲むねー」

 婆ちゃんが煮込みをサービスしてくれた。ここの煮込みはとにかく美味い。七味を振って、いただきます。
 好きな子に振られた愚痴をだらだら零しながら、備え付けのテレビのチャンネルを回す。理解ある女である婆ちゃんは俺がアニメにチャンネルを合わせてもとやかく言わない。
 婆ちゃんがもっと若かったら、俺は迷う事無く告白していた事だろう。

「サトちゃん、このアニメ好きだねー」

 別に特別好きってわけじゃないけど、たまたま俺が来る日はこのアニメの日が多い。

「……アニメが好きって、そんなに悪い事なんかなー」

 三杯目を飲み干して、すっかり赤くなった俺に婆ちゃんは苦笑する。

「いつの時代も若い子はイメージを大切にするもんだからねぇ。他人から見られた時の事を想像すると、一緒に居る彼氏には色々と条件を付けたくなるもんさ」
「婆ちゃんも……?」
「この歳になっちゃうと、そんな事はどうでも良くなるものだよ。でも、若い女の子にとっては大事な事なんだ。だから、女の子に好かれたいなら、女の子が一緒に居たい、一緒に居る所を見られたいって男になる事だね」
「……難しいなー」

 お勘定を済ませて店を出る。女の子ってのは本当に難しい。
 男からすれば、女がオタク趣味持っていようが、他の変わった趣味を持っていようが、可愛ければ大抵オーケーなんだけど……。
 
「もう、いっそ男にでも走るかなー」

 酔ってるせいか、そんな馬鹿な考えが浮んで来る。家に帰って、アニメのDVDを鑑賞しよう。そんで、嫌な事はさっさと忘れよう。
 家賃の安さに釣られて借りたボロアパートに戻り、アニメDVDを再生する。

「アニメの女の子はいいよなー」

 主人公が多少アレな性格でも好きになってくれるし、大抵裏表の無い子ばっかりだ。ちょっと嫌味なキャラクターの子でさえ、ある意味で裏表が無いと言える子ばっかりだ。
 主人公に対して一途な子ばっかりだし……。

「二次元嫁……いや、でもそこに辿り着いたらさすがに……」

 一人でぶつぶつ呟いてる時点で相当キテる自覚がある。

「主人公ってのはどうしてモテるのかねー。優柔不断な男がモテル時代? いや、そういう問題じゃないな……。まあ、主人公ってのはそれなりに真っ直ぐな人間ばっかりだしなー」

 とりあえず、顔が好みだから告るって主人公はあんまり居ない気がする。でも、告らないと始まらないし……。

「やはり、問題は出会いか?」

 アニメでも映画でも大抵、主人公とヒロインの出会いは劇的だ。そうじゃなくても、実は過去に因縁があったりって展開が後から出現したりもする。
 つっても、坂道で自己暗示してる子にあったり、魔法陣から現れる女の子と遭遇したり、いきなりよく分からない戦いに巻き込まれたりなんて事、現実では起こり得ない。
 
「うう……、頭痛くなってきたな……」

 ちょっと、飲み過ぎたかもしれない。冷蔵庫を漁ると、飲み物は何も無かった。

「やっべー、買い置き無いじゃん……」

 溜息混じりに財布をポッケに押し込んで、部屋を出る。近くにコンビニがあった筈だ。

「ウコンの力飲んで、さっさと寝よ」

 ふらふらしながら歩いていると、突然目の前で大きな音が響いた。
 酔い過ぎて、意識が朦朧としていたらしい、ハッとした瞬間、俺の目の前には大型のトレーラーが迫って来ていた。運転手がブレーキを踏んでいるみたいだけど、ちょっと間に合わないっぽい。
 跳ね飛ばされた時、驚く程痛みが無かった。恐らく、衝撃が強過ぎて、感覚がマヒしているんだろう。感覚を取り戻した時の激痛を思い、背筋が寒くなる。
 このまま死ぬのかなー、俺。悲しくて、涙が出て来る。だって、結局彼女居ない暦イコール歳の数のまま生涯を終えるのだ。こんな事なら風俗でもいいから童貞を卒業しておけば良かった。
 幸か不幸か、痛みが来る前に眠くなって来た。目を閉じたらきっと……、俺は――――。

「もしやとは思うが……、お前が最後の一人だったのかもな。だとしても、これで終わりなわけだが―――――」

 目覚める筈の無い眠りから覚めた。耳に届いた声はどこか聞き覚えがある気がする。
 瞼をゆっくりと開く。そこには……、

「ふざけるな、俺は――――ッ」

 などと叫ぶ少年と少年に赤い長物を向ける青タイツの変質者。
 ちょっと、待って欲しい。目覚めるにしても、この状況は無いと思う。
 普通、白いベッドで目を覚まして、腕に差された点滴の針や呼吸器に驚く筈だ。
 なのに、こんな薄暗い上に埃っぽい所で男の子が変質者に襲われてる現場に出くわすとはどういうわけだろう……。

「って、そんな事言ってる場合じゃない!!」

 間一髪、変質者が槍を振り下ろす前に少年を抱え上げて変質者から距離を取る事が出来た。

「だ、大丈夫!? っていうか、何があったの!? あんな変質者に襲われ……っていうか、まずは警察に!! って、アレ!?」

 携帯電話を取り出そうとしたら、ポケットが無かった。
 というか、よく見ると今の俺の服装は尋常じゃなかった。まずなにより、スカートだった。青い生地のスカートだった。
 その上、手には銀色の篭手。ポケットのあるべき位置には同じく銀色のプレート。
 
「……コスプレ?」

 電流が走った。何が起きたのかを漸く理解出来た。
 つまり、俺もこの少年と同じくあの変質者によってここに連れ込まれたのだ。しかも、こんなコスプレを寝ている間に……。
 全身に鳥肌が立った。俺の顔は決して悪く無い方だと思う。けど、女と間違われる事は無い筈だ。
 チラリと少年を見る。ちょっと、童顔ではあるが、男らしさも見える。
 間違い無い。相手はゲイだ。

「ちょっと待てよ……」

 俺は既にコスプレしていた。寝ている間に他の事もされていない保証がどこにある?
 尻に違和感は特に無いが……、それでも不安でいっぱいになった。

「に、逃げよう」
 
 少年を抱き抱えたまま、俺は決意を固めた。
 変質者から逃げるのだ。ここがどこだか分からないが、警察に逃げ込みさえすれば大丈夫な筈だ。

「君、ここの地理は分かる?」

 踵を返し、走りながら少年に問う。

「え? あ、ああ、分かるけど……っていうか、アンタは」
「ごめんね。とにかく、まずは逃げないと……」

 まずはこの広々とした屋敷から出よう。
 犯人はきっと、あのぶつかって来たトレーラーの運転手に違いない。衝突した後、証拠隠滅の為にここに連れ込んだのだろう。
 そこで……、クッソー、童貞の前に処女を失ってたりしたら本気で泣くぞ。

「あそこが出口か!!」

 それにしても、少年は驚く程軽い。ちゃんと、栄養は取っているのだろうか?
 もしかしたら、長い間監禁されていたのかもしれない。
 許せない、あの男。

「――――どこに行くつもりだ?」

 ゾッとした。後ろからでは無く、なんと、上から声が降ってきた。
 青いタイツの変質者の顔が月明かりによって顕となる。顔立ちは際立って良い。驚くべき事に彼は外人だった。しかも、髪を青に染めて、瞳には赤のカラーレンズという徹底したコスプレイヤー。
 モデルはきっと、あのキャラクターだ。『Fate/stay night』というゲームのランサーというキャラクター。実に様になっているが、やっている事が拉致監禁と性的暴力である以上、褒めてやるわけにはいかない。

「……くっそ」

 少年を降ろして、手近にあった木の棒を構える。
 見れば、少年はまだ中学生か高校生くらいだ。そんな子をこんな変質者の魔の手に晒すわけにはいかない。
 きっと、正当防衛になる筈だ。

「……おい、何の冗談だ?」
「黙れ、変質者!! この子には手を出させないぞ!!」
「ハァ? 誰が変質者だ!! ったく、漸くお出ましかと思えば、とんだ――――」
「セイヤー!!」

 舐めるなよ! これでも中高は剣道部に所属していたんだ。
 頭部がガラ空きだぜ!

「……おいおい」
「……え?」

 呆気無く、木の棒を掴まれ、俺の体は宙を浮いた。
 腹を蹴られたのだ。人間の体がこんな風に宙を浮くなんて、まるでアニメの世界みたいだ。
 地面を転がり、何とか体勢を立て直す。思ったより、痛みが無い。このコスプレ衣装は予想以上に頑丈らしい。
 寝ている間に着替えさせられたらしい衣装に感謝するのも何だかおかしな気がするが、とにかくあの男、凄く鍛えてる。
 
「うぁ」
「お、おい、何してんだ!?」

 何と言う鬼畜。男は少年まで蹴り飛ばした。あんな子供を蹴り飛ばす神経が信じられない。
 慌てて抱き止めると、少年は痛そうに顔を歪めて体を丸めた。

「こ、子供相手に何をするんだ!!」
「子供? 馬鹿言うな。マスターになった以上、子供だろうが関係ねーだろ」
「マ、マスターって……」

 本当にヤバイ、この男。ゲームのキャラクターになりきってる。
 日本語がお上手ですね、とか褒めてる場合じゃない。このままだと、二人揃って犯られるか、下手をすると殺される。
 冗談じゃない……。

「だ、誰か……」

 少年を体で庇いながら、俺は助けを求めた。
 誰も来る筈が無い。そう思っていた……。

「っと、追って来たか」

 助けが来た。
 
「って……、あれ?」

 と思ったけど、違った。変質者と俺達の間に立ちはだかった浅黒い肌の男もまた、コスプレ野郎だった。
 変質者が変質者仲間とチャンバラごっこを始めた。

「なにこれ……」

 変質者同士のバトルに呆気に取られていると、女の子の声が響いた。

「衛宮君!!」

 振り返ると、黒髪の女の子が走って来た。自分が抱え込んでいる少年と同い年くらいだろうか?
 随分と可愛い女の子だ。ツインテールが良く似合っている。
 それにしても……、その格好は完全にゲームキャラクターのコスプレだった。しかも、『衛宮君』って……。

「とお……、さか?」

 思わず少年から距離を取った。
 やばい。この子達もあの変質者の仲間の可能性が浮上して来た。

「……驚いたわ。まさか、貴方が最後のマスターだったなんてね」
「マス、ター?」

 はい、決定。仲間でした。何かのサークルなのだろうか? 人を寝ている間にコスプレさせて、訳の分からない演劇に巻き込むこの方々は一体……。

「それで、貴女が衛宮君のサーヴァントって訳ね?」
「……えっと、その」

 外人二人に歳若い男女が二人。こんな広い敷地を持つ屋敷で……。
 まさか、これってあれだろうか? ゲームをモチーフにしたAV撮影……。
 色々と考え事をしていると、不意に屋敷の窓が視界に映った。そこに信じられないものが映り込んでいた。

「……誰、この人」

 そこには金髪の少女が映っていた。

「……もしかして、貴女も記憶に不具合がある感じ?」

 黒髪の少女が問う。嫌な予感で背中に嫌な汗が流れ出した。

「えっと、その……、ここはどこですか? そして……、私は誰ですか?」

第二話「――――どうして?」

 現実は小説より奇なり、とは良く言ったものだ。果たして、これが現実と呼べるのならば……、だが。まったく、如何なる因果の末にこんな場所に居るのか、理解が出来ない。
 隣に座っている少年、衛宮士郎は『Fate/stay night』というゲームの主人公だ。単なる同姓同名では無く、本人なのだ。ゲームの登場人物が立体的な肉体を持ち、自らの口と喉で言葉を発している。それだけでも十分に不可解な現象だと言うのに、何と、俺自身もゲームの登場人物の一人になっている。
 セイバーのサーヴァント、アルトリア。聖杯を求め戦う七人の魔術師が召喚するサーヴァントの一体であり、本作のメインヒロインでもある。ちなみに、サーヴァントとは、英霊と呼ばれる過去に偉業を為した英雄の魂をクラスと呼ばれる寄り代に憑依させたものだ。
 分からない事は山積みだが、分かる事もある。

――――詰んだ。

 恐らく、俺はあのトレーラーに牽かれた時死んでしまったのだろう。その後、何の因果かセイバーの体に憑依してしまったらしい。それも、衛宮士郎によって召喚された直後に……。
 この世界には聖杯と呼ばれる何でも願いが叶う魔法の器なんてものがあるが、とある理由が原因でまともに機能しなかった筈だ。他にこんなフィクションの世界に紛れ込んでしまった俺が元の世界に帰る方法なんて、あるとは思えない。
 溜息しか出て来ない。

「ちょっと、聞いてるの?」

 現在、聖杯説明に関するレクチャーを士郎君にしてくれている凛ちゃんからお叱りを受けた。
 未熟なマスターと記憶喪失のサーヴァントという組み合わせに彼女はお節介を焼く決意をしてくれたらしい。ありがたい事とは思うが、正直なところ、それ所じゃない……。
 相変わらず上の空な俺を凛ちゃんが睨む。

「……ごめん。ちょっと、頭の整理が追いつかなくてね」
「セイバー……」

 とりあえず、士郎君にはクラス名であるセイバーと呼んでもらう事にした。今後どうなるにしても、彼とは一蓮托生になるのだから、いずれは此方の事情を話す事になるだろうけど、今は早い気がする。
 
「……とりあえず、話はこんな所かしら。それで、どうするの?」
「どうするって?」

 凛ちゃんの問い掛けに士郎君が首を傾げる。

「戦う気はある? ハッキリ言って、今の貴方達じゃ、この聖杯戦争を生き残る事なんて不可能に近いけど」

 彼女の言い分は尤もだ。原作でさえ、生き残る事が難しい状態にあった。なのに、サーヴァントであるセイバーが俺なのだ。ランサーとアーチャーの戦いを見て、理解した。俺にサーヴァントと戦う力は無い。
 だけど、士郎君はきっと戦いを選ぶだろう。彼はそういう性格の主人公だ。聖杯戦争で犠牲になる人々が居ると聞けば、例え、自分の命が危険に晒される事になろうと、戦う決意を固めてしまうだろう。
 
「……士郎君」
「なんだ?」

 今ならば間に合うかもしれない。

「パスポートは持っているかい?」
「いや、持ってない」
「じゃあ、お金は? ある程度の余裕はあるかな?」
「まあ、貯金はあるけど……」
「なら、決まりだ」

 俺は問答無用で士郎君を立ち上がらせる。

「海外に逃げよう。そこで、聖杯戦争の終結を待つ」
「はぁ!? いきなり、何を言ってるんだよ!」
「さっき、凛ちゃんも言ってただろ? 俺達がこの戦いを生き残るのは難しい。だから、逃げるんだ」

 有無を言わさず、俺は廊下に士郎君を引き摺り出した。

「出来るだけ早急に準備を済ませてくれ。今夜中に出発する」
「ま、待ってくれ、セイバー! 俺は――――」
「生き残れないと分かり切っている戦いに君みたいな子供を参加させるわけにはいかない。せめて、俺が戦えれば話は別だが、俺にランサーやアーチャーのようなサーヴァントと戦う力は無い。だから――――」
「落ち着きなさい、セイバー」

 静かな声で凛ちゃんが言った。

「今の貴女に理解出来ているか分からないから、一応言っておくけど、冬木を離れたら聖杯との繋がりを保てなくなる。一時的にならまだしも、数日間ともなったら、余程の魔術師をマスターにしてないと、現界を維持出来なくなるわ」

 そんな設定があったとは知らなかった。
 けど、俺に考えを改める気は無い。

「それでも、士郎君の命が助かるなら問題無いよ。子供の安全が最優先だ。そもそも、俺はもう死んでる人間のようだしね……」

 苦い表情を浮かべる俺に凛ちゃんは肩を竦めた。

「ふーん。ステータスを見る限りだと、貴女、相当優秀なサーヴァントみたいだけど、記憶が無いとやっぱり厳しいの?」
「厳しいなんてもんじゃないよ。戦う方法すら分からないんだ。宝具を使う事はおろか、剣を振るう事さえ出来ない。こんな状態で他のサーヴァントと遭遇したら、俺はアッサリ殺される。士郎君を守るどころじゃない」
「……何とか、記憶を取り戻す事は出来ないの?」
「難しいな。そもそも、思い出せる記憶がこの体に残っているのかどうかすら分からない」
「ふーん。でも、海外への逃亡はあまり現実的じゃないわね」
「どういう事だい?」

 凛ちゃんは肩を竦めながら言った。

「まず、監督役から確実に警告が出されるわ。何せ、サーヴァントを市外に出すという事は監督役の手の届かない場所で被害が発生する可能性が出て来るから」
「……それは不味い事かい?」
「監督役からの警告自体に然程意味は無いわ。問題はそれを無視した後。確実に魔術協会と聖堂教会の両方から罰則が下される事になるわ」

 凛ちゃんの言葉は事実上の逃亡不可能を意味した。

「逃亡するとしたら、安全地帯に到着するまで、セイバーが護衛する必要がある。けど、セイバーが居れば教会と協会から罰が下る。どちらにしても、衛宮君が厄介な立場に立たされる事は間違い無いわ」
「じゃあ……」
「それより、監督役に保護を求める方がまだ現実的よ」
「それは……、しかし……」

 監督役とは、言峰綺礼の事。実のところ、彼こそがゲームのラスボスだったりする。あそこに保護を求めるという事は蛇の口にダイブするのと同義だ。

「まあ、私も個人的にはあまり勧められないけど、国外逃亡よりはマシだと思うわ」

 溜息が零れる。参った、打つ手無しだ。

「……とりあえず、監督役に会いに行きましょう。そこでなら、もっと詳しい話が聞けるし、衛宮君の保護も頼めるかもしれない」

 さて、どうしたものか……。言峰教会に行く事は虎の穴に自ら入りこむようなものだ。
 
「……どうする、セイバー?」

 士郎君が問う。

「そうだね……」

 残された道は少ない。逃げられないなら、戦うしかないがその為には協力者がどうしても必要になる。
 そうなると、候補は目の前の少女唯一人だ。他は誰も彼も問題を抱えている。

「凛ちゃん」
「……とりあえず、まず、その凛ちゃんっての止めてもらえない?」
「駄目かい? じゃあ……、凛でいいかな?」
「それでいいわ。ちゃん付けなんて、落ち着かないし」
「了解」
「それで、行くの? 行かないの?」
「その件なんだが、とりあえず後回しにしたい。それより、君に士郎君の保護を求めたい」
「……まあ、そう来るような気がしてたわ」

 話が早い事は良い事だ。

「勿論、俺の事は好きにしていいよ。士郎君を守ってくれるならね」
「ちょ、ちょっと待てよ、セイバー!」

 俺の発言が気に障ったのか、士郎君が声を荒げた。

「直感だけど……、監督役を頼るのは得策じゃない気がする。それより、信用の置けるマスターに保護を求める方が君の生存率が上がると思うんだ」
「随分と私を買ってくれているのね、セイバー」
「うん。一目見て、君が心根の優しい子だと分かった。それに、わざわざ敵のマスターの為に懇切丁寧な説明をしてくれて、自滅を防ぐ忠告もしてくれたしね」

 視線を士郎君に向ける。

「悪いが、異論は認めない。君みたいな子供を若い身空で死なせるわけにはいかないからね」
「で、でも!」
「頼む、凛。此方の取引材料は俺の身一つしかないけど……」
「構わないわ。ただし、決して裏切らないように令呪を使ってもらう」
「ああ、此方からは士郎君の保護以外の条件を出すつもりは無い」
「……衛宮君はそれでいいのかしら?」

 思わず舌打ちしそうになった。余計な事を聞くなよ。

「俺は……賛成出来ない」

 士郎君は言った。

「いや、別に遠坂と組みたくないってわけじゃないんだ。ただ、その為にセイバーに犠牲を払わせるのは……」
「それこそ問題視する必要は無いよ。俺はこう見えても君より年上だ。だから、甘えてくれて良い」
「でも!」
「悪いが、これ以上文句を言うなら手足を縛って監禁しないといけない」
「か、監禁って……」

 士郎君が言葉を失う。確かに過激過ぎるかもしれないが、あまり反抗的な態度を取るなら仕方が無い。
 
「君を死なせるよりはマシだ。無論、全てが終わったら幾らでも殴ってもらって構わないよ」
「でも……、遠坂は戦うんだろ?」
 
 士郎君が問う。痛い所を衝かれた。

「当然よ。聖杯を取る事は遠坂家の義務だもの」
「……士郎君。勘違いしているかもしれないが、彼女は極めて優秀な魔術師だよ。君とは違う」

 ちょっとでも死亡フラグを踏むと死んじゃう君と凛では違うんだよ。
 俺が士郎君を必死に守ろうとしているのも、彼がちょっとした事で直ぐに死んでしまうからだ。
 その死因の多くはヒロインによるものだが、遠坂凛という少女によって齎される死は他のヒロイン達に比べて圧倒的に少ない。
 むしろ、命を救ってもらう事の方が多いくらいだ。
 
「実際、この戦いの勝者は彼女になると思う。だから、彼女に保護してもらえれば、君の生存率は飛躍的に向上すると思うんだ」
「け、けど……」
「待った、セイバー」

 尚も言い返して来ようとする士郎君にいい加減苛々していると、凛が言った。

「さすがにマスターの意思を無視するサーヴァントは信用出来ないわ」
「なっ……」
「勿論、貴女が衛宮君を守りたい一心での発言である事は認める。けど、彼の意思を度外視して、自分の意見ばかり主張するなら、悪いけど組む気になれない。マスターが制御出来ないサーヴァントなんて、スイッチの入った爆弾を手元に置くようなものだもの」
「お、俺は……」
「例えば、何らかの理由で衛宮君の命が危険に晒された時、貴女は私達を裏切らないと断言出来る?」
「……それは」
「出来ないでしょ?」

 何も反論出来なかった。三歳くらい離れている少女に言い負かされた。その事に落ち込んでいると、彼女は言った。

「それに、正直、私に貴女達と組むメリットが少な過ぎる。せめて、ある程度、セイバーが戦闘を行えるようになる事と、セイバーが衛宮君の意思を尊重するようになる事。その二つの条件を満たさなきゃ、組む気になれないわ」
「そんな……」

 最悪だ。原作の彼女はお人好しと言ってもいいくらいの性格だった。主人公である衛宮士郎が危機的状況に陥れば、救いの手を差し伸べてくれる存在だった。
 そんな彼女が此方の手を振り払った原因は全て俺にある。

「……とりあえず、今日は解散しましょう。一応、休戦協定だけは結んであげる。条件を満たしたら会いに来なさい。即決はしないけど、話くらいは聞いてあげる」
「ま、待ってくれ、凛。なんなら、ここで自害しても構わない。だから、士郎君の保護を――――」
「お断りよ。セイバーが居ないんじゃ、尚の事、衛宮君を保護するメリットが無いもの。魔術師同士の取引は等価交換が原則。それを忘れないようにね」

 凜が去った後、俺は頭を抱えた。大失敗だ。最悪だ。

「ど、どうしよう……」

 頼みの綱が切れてしまった。

「な、なあ……」

 士郎君が恐る恐る肩に手を触れてきた。

「あ、ああ、士郎君。すまない、俺が不甲斐ないばかりに……」
「いや、別に……。っていうか、セイバー」
「なんだい?」
「どうして、そんなに俺に戦わせたくないんだ?」
「だって、君は直ぐに死にそうだからね」

 即答すると、士郎君は実に面白い表情を浮かべた。

「い、いや、直ぐに死にそうとかどうして分かるのさ!?」
「もう、何て言うか、顔に滲み出てるんだよ。ちょっと選択肢を謝っただけで直ぐ死にそうな感じが……」
「嘘だろ!?」
「いや、本当」

 実に困った。何が困ったって、このままだと序盤における最大の死亡フラグがやって来てしまう。

「……もう一度、凛を説得しに行こう」

 実際には巻き込みに行こう。更に正確にはアーチャーの力を借りに行こう。

「でも、遠坂は――――」
「ほら、行くよ。抱っこで連れて行ってもらいたいのかい?」
「じ、自分で歩きます」

 後一秒決断が遅かったら本当に抱っこして連れて行くつもりだったけど、士郎君はいそいそと立ち上がり、玄関に向った。
 外に出ると、涼しい風が頬を撫でた。

「凛の家の方角は分かる?」
「えっと、確か南の方にある高級住宅街だったと思うけど……」
「じゃあ、行こうか」

 ちょっと駆け足。士郎君が必死な顔をしているけど、俺の方は余裕綽々。セイバーボディーの性能の素晴らしさを体感した。
 しばらくして、分かれ道まで来ると、凛の後姿が見えた。

「……こっちの返事は変わらないわよ」
「頼むよ、凛。君しか頼れる人間が居ないんだ」
「何度頼まれようと、貴女のスタンスが変わらない限り同じ事よ。それより、あんまりしつこいようだと……」

 凛の瞳に危険な光が宿ると同時に背後から愛らしい声が響いた。

「――――やっと見つけた、お兄ちゃん」

 来た。歌うような少女の声。それが、死神が鎌を研ぐ音のように聞こえた。
 振り向くと、そこに怪物が立っていた。まるで現実味の無い、異形の存在。
 アレが生き物であると知っているが故に体が震えた。

「バーサーカー……」

 凜が呟く。
 異形から視線を下に降ろすと、そこには声の主たる少女が居た。

「こんばんは、お兄ちゃん。こうして会うのは二度目だね」

 少女はそう言って、士郎君に向って微笑み掛ける。

「……やばい。アレ、ステータスが幸運以外全部最高値のAランクオーバーじゃない」

 眉間に皺を寄せながら、凛は自らを鼓舞するかのように顔を上げる。

「アーチャー。アレは力押しじゃなんともならない。貴方は本来の戦いに徹してちょうだい」

 小声で自らの相棒にそう囁く凛。それに、姿を見せないまま、アーチャーが応える。

「了解した。だが、守りはどうする? セイバーには期待出来んぞ」
「まあ、こっちは三人居るし、少しの間なら凌げると思う。ただ、あまり長くは保たないわ……」
「分かった」

 凛の背後から何かが去るのを感じた。気配なんてものを感じたのは初めてだけど、これが英霊の感覚というものなのかもしれない。

「そういう事だから、セイバー。悪いけど、一緒に戦ってもらうわよ」
「分かった。ただ、その前に士郎君」
「な、なんだ?」

 話しかけるのが唐突過ぎたせいか、士郎君は酷く狼狽している。

「令呪を使って欲しいんだ。そうすれば、一時的にでも本来の力が使えるかもしれない」
「なるほど、その手があったわね」

 凜が小声で士郎君に令呪の使い方をレクチャーする。士郎君は青い顔をしながら頷くと、瞼を閉ざした。

「――――え?」

 凜が戸惑い気な声を上げる。
 それと同時に白い少女が口を開く。

「相談は済んだ? じゃあ、殺すね」

 少女はこの緊迫した状況に不似合いな行儀の良いお辞儀をした。

「はじめまして、リン。わたしはイリヤ。イリヤスフィール・フォン・アインツベルン」
「アインツベルン……」

 ハッとした表情を浮かべる凛にイリヤは満面の笑みを零し、自らの怪物に命令を下した。

「さあ、やりなさい、バーサーカー」
「士郎君!!」
「あ、ああ、令呪をもって命じる!! セイバー、全力を発揮するんだ!!」

 瞬間、俺の中で何かが変化した。極自然に剣を取り、極自然にバーサーカーの剣を受け切った。
 どう動けばいいのかが考えるより早く感覚で分かる。
 一瞬、足を止めたバーサーカーに八連の矢が疾走する。機関銃染みた矢はアーチャーによるものだろう。
 けど、その悉くがバーサーカーの肌に弾かれる。あの怪物には一定ランクを超える攻撃以外、通じないという能力があるのだ。
 背後で凛の驚く声が聞こえるが、今は目の前の敵の対処に集中しよう。
 令呪のおかげか、恐怖は薄れている。剣を剣で弾き、バーサーカーに隙を作らせる。そこにアーチャーの矢が殺到する。
 
「アーチャー!!」

 凛の合図と共に銀光がバーサーカーの脳天に直撃する。
 あれでは倒れない。知っているが故に追撃の手を緩めない。

「セアァァァア!!」

 渾身の一撃が防がれた。一端距離を取ろうと退がると、バーサーカーの追撃を阻むように幾筋もの銀光が降り注いだ。

「Gewicht, um zuVerdopp elung――――!」

 凛が黒曜石を投げ放つ。アーチャーと凛の同時攻撃に周囲のコンクリートが爆散する。
 けれど、肝心のバーサーカーは無傷だった。

「リンとアーチャーの矢なんて無視しなさい! どうせ、アンタには効かないんだから! セイバーだけを狙って殺しなさい!」

 最悪な少女だ。見た目が可愛らしいせいで余計に憎らしく見える。
 とは言え、バーサーカーに対する必勝法……、マスター狙いをするのはどうしても気が引ける。
 せめて、彼女が俺より年上だったなら考慮したかもしれないけど、あんな小さな子を殺すわけにはいかない。

「となると……」

 ここまで来る途中に広々とした空き地があった。そこまで誘導すれば、アーチャーが決めてくれる筈だ。
 
「――――って、ヤベ」

 一瞬の思考が命取りになった。
 バーサーカーの斧剣が迫る。咄嗟に剣を盾にするも、俺の体は紙屑のように吹き飛んだ。
 何度も地面をバウンドして、転がる。尋常じゃない痛みに呻き声しか上げられない。

「……痛い」

 あまりの痛みに涙が滲んで視界がぼやける。
 まずい、まずい、まずい。
 こんな状況で視界を曇らせるなんて――――、

「セイバー!!」

 士郎君の声のおかげで何とか目の前に迫る斧剣を剣で防ぐ事が出来た。
 だけど、再び吹き飛ばされ、全身がバラバラになったかのような痛みを感じる。
 息も絶え絶えだ。視界が真っ赤に染まっている。
 不味い……。ここじゃ、アーチャーの切り札が使えない。あれは周囲への影響が大き過ぎるから。

「こうなったら……」

 もう、四の五の言ってられない。剣に纏わせている風を操る。狙いはバーサーカーの背後に居る少女。
 大丈夫だ。バーサーカーが必ず防いでくれる。そんで、逃走の隙を作ってくれる筈。

「終わらせなさい、バーサーカー!」

 風を解き放つより早く、バーサーカーの動きが変わった。

「そんな――――」

 再び跳ね飛ばされ、俺の意識は朦朧となった。
 立ち上がる力も残っていない。
 やばい……、死ぬ。こんな痛い思いをして死ぬくらいだったら、トレーラーに牽かれた時、さっさとあの世に行ってればよかった。
 なんで、俺はこんな場所でこんな痛い思いをしないといけないんだ……。

「あはは、勝てると思ったのかしら? 私のサーヴァントはギリシャ最大の英雄なのよ?」
「ギリシャ最大の英雄って、まさか……」
「そうよ、リン。ソイツの名前はヘラクレス。貴女達程度が使役出来る英雄とは格が違うの」

 イリヤと凛の会話が耳に入って来る。
 まったく、何をしているんだ。そんな会話をしている暇があるなら、さっさと逃げろ。

「遠坂、こっちだ――――」

 士郎君が凛の手を取った。そうだ、それでいい――――、

「クッソ……」

 俺は痛みに悲鳴をあげる体に鞭を打つ。
 バーサーカーが彼等を追っているからだ。
 ちくしょう、俺から先に殺せよな……。

「離して! あいつ相手に背中を向けるなんて――――!」
「え?」

 凜が士郎君の手を振り払う。閃光を迸らせ、バーサーカーを攻撃するも、バーサーカーは意に介さず斧剣を振るった。

「――――は、くぁ……」

 致命傷を受けた。ああ、これは絶対に死んだ。だって、腕が肩や横腹ごと吹っ飛ばされたんだから、これで生きていられたらそれこそ化け物だ。
 こんな痛みを体験する事になるなんて、俺は神様にどんな恨みを買ったんだろう……。

「セ、セイバー……?」
「……逃げろ」

 さすがにもう守ってやれない。子供が死ぬ姿なんて見たくない。だから、早く逃げてくれ。
 俺は必死に懇願した。

「いいわ、バーサーカー。そいつを先に片付けなさい。再生されたら面倒だし」

 悪魔っ子め……。
 ここまで完膚無きまでに瀕死の俺を更に痛めつけようってか……。
 ああ、いいぜ。それで二人が逃げられるなら、悪く無い。なるべく、時間を掛けて甚振れよな……。

「こ――――のぉおおおおおおお!!」

 ああ、馬鹿野郎。最悪だ。
 俺が何の為にこんなに痛い思いをしてると思ってやがるんだ……。
 士郎君がいきなり走って来て、俺に振り下ろしたバーサーカーの斧剣を真っ向から受けてしまった。
 真っ赤な血が花のように咲き乱れ、俺の隣に士郎君の体が落ちて来る。
 アヴァロンがあるからって、必ず助かるわけじゃない。でも、今の俺なら魔力を補充して助けられるかもしれない。

「し……、ろう」

 死ぬなよ。俺の前でだけは死ぬなよ。子供が死ぬってのはキツイもんなんだよ。
 ああ、意識が更に朦朧として来た。頼むから、死なないでくれよな……。
 最後の瞬間、誰かの声が耳に届いた。

「――――どうして?」

第三話「貴方は一体、誰なの?」

 雀の鳴く声で目が覚めた。酷い夢を見ていた気がする。

「……いや、夢じゃないな」

 目に掛かる金の糸。染めた覚えは無いし、こんなに綺麗な金を染めて作れるとは思えない。
 起き上がり、辺りを見渡す。趣のある和室の中心に布団が敷かれ、俺はその上に横たわっている。布団を捲ると、ベッタリとした赤い染みが出来ていた。俺の血だ。
 昨夜の事を思い出して、身の毛がよだつ。恐る恐る左腕に視線を向ける。そこには何事も無かったかのように細く綺麗な左腕があった。腹部にも傷痕一つ残っていない。

「……生きてた」

 溜息が零れる。生きてて良かった。死んでしまった方が良かった。

「……ボランティア活動なんて、するもんじゃないな」

 大学に入って一年目の夏。俺は学校に来ていたボランティアの募集に応募した。理由は実に俗物的で、就職の際の自己PRのネタに使えると思ったからだ。ついでに海外に行ってみたいとも思っていたから、友達を誘って参加した。
 学校が募集していたのは某国での植林活動だったのだが、そこで酷い目にあった。たまたま、ボランティア先で他のボランティア活動のグループと遭遇し、彼等の活動を見させてもらったのだが、そこは正に地獄絵図だった。
 別に紛争地帯ってわけじゃない。ただ、その国は酷く貧しい国で、ついでに言うと、あまり衛星的じゃなかった。俺は出国前に予防接種を各種受けていたし、キチンと指示通りに対策をしていたから健康なまま、ボランティア活動を終えられたが、その国に生まれ育った免疫力の低い……、その上、栄養失調気味な子供は……。

「俺も懲りないよなー」

 あの一件以来、子供に弱くなった気がする。見学させてくれたボランティア活動家の人が賢明に手を尽くしたのに、どんどん弱っていく子供の呼吸。徐々に動かなくなっていく体。
 付き添いの人の言う事をキチンと聞くべきだった。彼等が渋い顔をした理由に気付くのが遅過ぎた。興味本位で見学を申し出るんじゃなかったと後悔した。

「俺に出来る事なんて何も無い……ってのが、一番応えるんだよな」

 覚悟も知識も経験も無い人間に出来る事なんて一つも無い。

「……俺がまだ消えてないって事は士郎君も死んでないって事だよな」

 心から安堵した。同時に怖くなった。
 今の俺はまさにあの時の俺と同じだ。違うのは、単なる見学者じゃなくて、当事者だという事。

「とにかく、起きて顔を見に行くか」

 起き上がり、廊下に出る。途中、声が聞こえた。声の方に足を向けると、そこには凛の姿があった。どうやら、霊体化しているアーチャーと会話をしていたらしい。俺が顔を見せると、彼女は軽く手を振った。

「おはよう、セイバー」
「おはよう、凛。色々とありがとう」

 運んでくれたのは恐らく彼女とアーチャーだ。

「どういたしまして。具合はどう?」
「悪くないよ。治療は凛が?」
「いいえ、私は特に何もしてないわ。二人揃って、勝手に治っただけの事。ちょっと、気味が悪い回復力だったわよ。絶対に死んだと思ったのに……」
「……回復に関しては心当たりがあるよ」
「あら、記憶が戻ったの?」
「ちょっと、違う。事情を説明してもいいけど、それは君が同盟を結んでも良いと言ってくれたらだね」
「……同盟ね。つまり、士郎の保護を求めるって意見は撤回するわけ?」

 俺は「うん」と頷いた。一度眠ったおかげか、頭が冷静に働いている。何が最善なのかを判断出来るようになった。

「まあ、全ての責任を君におしつけようとしていたわけだし、昨夜のアレは拒否されて当然だったよ」
「うん、合格。やっと、自分の発言の無責任さを自覚出来たみたいね」

 手厳しい言葉だけど、彼女の言葉は実にもっともだ。昨夜の俺は単に彼女に責任を全て押し付けて逃げようとしてただけだ。あんな無責任な提案、呑んでもらえるわけが無い。

「士郎君の事は俺が守る。守り切れる自信はあんまり無いけど……」
「そこはギブ・アンド・テイク。貴女が私に力を貸してくれるなら、こっちでも彼の身の安全の為の策を講じるわ」
「ありがとう。じゃあ、同盟締結って事でいいのかな?」
「一応、衛宮君が起きてきたら、彼の意見を聞いた上でって事になるけどね。まあ、昨日は助けてもらっちゃったし、此方に異存は無いわ。セイバーがキッチリ戦力になるって確証も得られてしね」
「戦力か……。正直、難しいな」
「どういう事?」

 俺が凜に説明しようと口を開きかけた時、襖が開いた。顔を向けると、青い顔をした士郎君が入って来た。

「おはよう、士郎君。体は大丈夫かい?」
「な……、え?」

 戸惑いに満ちた表情を浮かべる士郎君。どうやら、状況が掴めていないらしい。

「とりあえず、座ったら?」

 凛が促すと、士郎君はゆっくりと座布団の上に腰を降ろした。

「えっと……」

 言葉を探しているらしい。

「とりあえず、水でも飲んで頭をスッキリさせなよ」

 立ち上がって、キッチンに向う。流し台にコップを発見。冷蔵庫を開けてミネラルウォーターを注ぐ。蛇口の水はどうも飲む気になれない。
 水を持って来ると、士郎君は漸く事態が飲み込めたらしく、凜にあれこれと質問をしていた。

「とりあえず、これを飲んで落ち着きなよ」
「あ、ありがとう」

 ゴクリと一杯。良い飲みっぷりだ。

「衛宮君が一息吐いた所で、本題に入りましょう」

 凛が言った。

「まず、昨夜の事だけど、二人揃ってバーサーカーに腹をカ掻っ捌かれた後、イリヤスフィールとバーサーカーは立ち去った。その後、看取るつもりで貴方達の体を見たら、勝手に治り始めてた。十分もしたら、外見は元通り。ちょっと、不気味なくらいの回復力だったわ」

 凛の言葉に士郎君はギョッとした表情を浮かべた。まあ、事情を知らなければ無理も無い。

「セイバーには心当たりがあるみたいだけど、貴方達の回復に私はノータッチ。包帯を巻いたりとかはしたけど、その程度よ」
「遠坂が治療したんじゃないのか?」
「ええ、あの時の貴方達は殆ど死者も同然だった。死者の蘇生なんて、今の私にはもう無理。だから、回復の理由は貴方達自身の力によるもの」

 そう言って、凛が俺を見る。

「彼女から詳しい話を聞きたい所なんだけど、その前に衛宮君に質問がある」
「な、なんだよ、質問って」
「私達と手を組む気は無い?」
「遠坂と? それは願っても無い事だけど、昨日は――――」
「昨夜の事に関しては彼女と既に話がついている。衛宮君がどうこう以前の問題だったの。けど、それに関してさっき決着がついたから、改めての提案よ。まあ、幾つかそっちに譲歩してもらう事になるけど、それを呑めるなら交渉成立」
「譲歩って……?」
「まず、聖杯を手にする段になったら、その所有権を私に譲る事」
「……俺は別に構わないけど、セイバーは――――」
「俺も構わない。士郎君の安全が最優先だ」

 俺が即答すると、士郎君は口を噤んだ。何か、気に障ったのだろうか?

「なら、次の条件。もし、私が危機に陥った場合、セイバーには無条件で助力してもらう」
「ああ、請け合うよ。君なら問題無いと思うけど、やっぱり、子供が危険に晒されるのは看過出来ない。君に危険が及ぶようなら、力を尽くすつもりだ」
「……ふーん。お人好しなタイプ?」
「……というか、子供にトラウマがあってね。目の前で死なれるのがキツイ。個人的な事で悪いけど、そう言った理由だから、バーサーカーに関してもマスター狙いは出来ない」

 俺の発言に関して反応は様々だった。
 士郎君は「当たり前だろ!」と目を丸くし、凛は険しい表情を浮かべた。

「待って、それはつまり、イリヤスフィールが自らを盾にして来た場合、貴女の戦闘力が落ちると受け取っていいわけ?」
「ああ、そう受け取っていいよ」
「……同盟を結ぶ気あるの? そんな致命的な弱点があるなんて、こっちからしたら――――」
「でも、結んでから言ったら詐欺だからね」
「……まあ、後から言われたら契約を破棄してたかもしれないし」

 凛の言葉に安堵した。彼女の人となりはゲームをプレイした時にある程度掴めたけど、やっぱり、生身の人間相手に交渉する際、嘘はいけない気がする。
 子供っぽい持論だし、そんなの社会じゃ通用しないだろうけど、誠実さは大切だ。

「まあ、そこはおいおい対策を練るとして、もう一つ。あらゆる情報を共有してもらうわ」
「どういう意味だ?」

 士郎君が首を傾げる。

「そのままの意味よ。勝手な自己判断で秘匿せず、聖杯戦争中に得られた情報は全て開示する事」

 俺と士郎君が揃って条件に頷くと、凜はすました顔で言った。

「じゃあ、同盟締結ね。なら、聞かせてもらえるかしら、セイバー? 貴女の言う心当たりについて」

 事ここに至り、隠すつもりは無かった。昨夜は下手な発言で軋轢が出来る事を懸念したけど、このまま記憶障害で通すのは無理がある。一晩が過ぎ、死闘を経験した今なら、言っても問題無いだろう。

「とりあえず、前提として理解してもらいたいんだけど、俺は英霊じゃない」
「……は?」

 二人の表情が凍りつく。まあ、当然の反応だろう。けど、二人が我に戻る前に話を進めよう。下手に中断すると、面倒な事になる。

「勘違いしないで欲しいんだが、この体は英霊のものだ」
「ちょ、ちょっと待って、どういう意味!?」

 凜が問う。

「単純な話だよ。この体は確かに英霊のものなんだ。だけど、肝心の中身が違う。ちょっと、宗教的な話になっちゃうけど、キリスト教の教えでは、人間は霊魂と精神と肉体の三つによって構成されているそうなんだ」
「……ええ、知ってるわ。錬金術で言うところの三原質。それは魔術師の基本的な教養の一つだもの」

 さすがは名門魔術師の家系の当主だ。反して、士郎君はちょっと困惑顔。まあ、宗教系の話は興味や信仰が無いとついていけないから仕方が無い。俺の場合は姉がキリスト教系の学校に通っていたもんだから、色々と知識が身についてしまっただけだけど。

「ここで重要なのはサーヴァントのシステムだ。多分、この三つの内、肉体は寄り代であるクラスが請け負っているんだと思う」
「その通りよ」

 システムを構築した御三家の当主のお墨付きをもらえた。

「というか、霊体の召喚は基本的にその概念を基にしてる。基本じゃない」

 士郎君がショックを受けている。

「ああ、何と無く分かって来たわ」

 凜が言った。

「つまり、貴女の今の状態は肉体と霊魂が英霊のものであるにも関わらず、精神だけが別物って事?」
「多分ね」
「えっと……、俺にはよく分からないんだけど、つまり?」

 頭を抱える士郎君。さて、どう説明したものかな……。

「霊魂ってのは、その者に蓄えられた情報の塊。精神っていうのは、その情報を扱う頭脳の事。サーヴァントの肉体は霊魂の情報を基に作られるから、今の状態になっているんだと思うわ」

 凜が実に見事な解説をしてくれた。

「昨夜の戦いで俺が英霊本来の力を引き出せたのも、恐らく令呪によって霊魂の情報を引き出す事が出来たからだと思う」

 俺の言葉に凛は納得顔だ。

「色々と納得出来ない事はあるけど、まあ、理屈は通るわね」
「納得出来ない事と言うと?」
「決まってるじゃない。貴女の精神が別物と摩り替わってる事についてよ。そんな事態、聞いた事が無いわ」
「と言われても、事実だしな……」
「なら、貴女のプロフィールを教えてもらえるかしら? 精神の方だけじゃなくて、霊魂や肉体の方に関してのものも」
「ああ、それなら可能だよ。まず、霊魂と肉体に関してだけど、アーサー王のものだ」
「……は?」

 空気が凍り付いた。まあ、当然の反応と言えるだろう。

「アルトリア・ペンドラゴン。それがこの体の持ち主の名前だよ。宝具は風王結界《インビジブル・エア》と約束された勝利の剣《エクスカリバー》。そして、士郎君の体の中にある全て遠き理想郷《アヴァロン》だ」
「お、俺の中に宝具?」

 目を丸くする士郎君に俺は頷いた。

「昨夜の傷を治癒したのもアヴァロンの力によるものだよ。後、アーサー王を召喚出来たのもアヴァロンが寄り代になったからだ」
「待った。寄り代になった? 百歩譲って、貴女がアーサー王で、昨夜の治癒がアヴァロンによるものだとして、どうして、衛宮君の中に宝具があるの?」
「情報は全て共有するって約束だから、全部白状するけど、士郎君の中にアヴァロンを埋め込んだのは衛宮切嗣さん。つまり、士郎君の義理のお父さんだね。彼が前回の聖杯戦争で英霊召喚の寄り代に使ったのがアヴァロンなんだ」
「……爺さんが聖杯戦争に?」

 戸惑い気な士郎君。対照的に目の端が吊り上っていく凛。

「君の御義父さんはアインツベルンが聖杯戦争の為に外部から招いた魔術師だったんだよ。アインツベルンは彼の為にアヴァロンを発掘して与えた。そして、優勝した」

 衛宮切嗣に関して出来る説明はこのくらいかな。『Fate/ZERO』という『Fate/stay night』の前日譚があるけど、あの小説の内容は本編で明かされた情報と矛盾点がかなりあるから、実際にあった過去として話すのは避けた方がいいだろう。
 余計な事を離して、後々要らぬ矛盾点が出て来ても困る。

「ただ、優勝の直前に戦っていた相手が厄介な奴でね。そいつが彼より先に聖杯を確保してしまった。その結果、彼の欲望が叶えられて、大惨事が起きた……らしい」

 確か、邪魔物を排除したかったんだっけ……。いや、どちらかと言うと、聖杯が彼の内なる欲望をすくいあげた結果がアレだって話も聞いたな。

「大惨事って……、まさか」
「この地で起きた大火災。それが今言った大惨事だよ。そして、衛宮切嗣は君を火災現場で見つけ出し、君を救う為にアヴァロンを埋め込んだ。アヴァロンには強力な治癒能力があるからね」

 俺が口を閉ざすと、しばらく沈黙が続いた。
 それから、唐突に凛が口を開いた。当然と言うか、来るだろうと予想していた質問。

「そんな知識を持つ、自称英霊じゃない精神の持ち主である貴方は一体、誰なの?」

第四話「信頼させてね、セイバー?」

「日野悟」

 セイバーの発した五文字の単語に凛と士郎の反応が遅れた。

「……え?」

 漸く、二人が搾り出した疑問の声にセイバーはかすかな笑みを浮かべて言った。

「日光の日に野原の野。悟ると書いて、悟。ヒノサトル。それが俺の名前だよ」
「……はい?」

 士郎は判断を仰ぐかのように凛を見た。彼女も困惑を隠し切れずにいる。

「ごめんなさい。ちょっと、言葉の意味が分からないんだけど……」

 眉間に皺を寄せて言う凛にセイバーは短く「だろうね」と同意した。

「説明の仕方が下手になるのは勘弁して欲しい。俺も事情に精通しているわけじゃないんだ。ただ、あるがままを話そうとしているだけなんだよ」

 そう言って、セイバーは落ち着く為に深呼吸をした。

「この事に関して、話すべきか迷いもあったんだ。でも、交渉事には不慣れだから……。下手に隠し事をしたり、嘘を吐くのは賢明な判断じゃ無いって、思ったんだ」
「……虚言や冗句じゃないのね?」
「そこは信じて欲しい。根拠になるかどうか分からないけど――――」

 そう前置きをして、セイバーが語ったのは平凡な青年の簡素なプロフィールだった。
 
「本名は日野悟。年齢は二十歳。東京と神奈川の県境にある大学に通う二年生。クリケットサークルと登山愛好会で活動しつつ、バイトや研究室巡りに精を出してました」
「……えっと、つまり、セイバー……じゃなくて、日野さんは――――」
「そう、ただの一般人だよ」

 士郎の疑問に先んじて答えたセイバーに凛は深く息を吐いた。相手を激しく揺すってやりたい衝動を堪え、彼女が発した言葉の意味を吟味する。
 まず、大前提として考えなければならないのは、彼女の言葉が真実か否か、という点だ。普通に考えたら嘘八百を並べているだけと考える方が賢明だ。今までの全てが演技で、此方の油断を誘っているだけ……、と考える方が自然だし、説得力もある。
 けれど、そうなると分からない点が幾つかある。例えば、昨夜の件だ。彼女は凛がバーサーカーに殺されそうになった時、身を盾にして守った。あの行動を演技だと考えるのは無理がある。何故なら、あの時のバーサーカーの攻撃は一歩間違えればセイバーを即消滅させかねない強力なものだった。完全に見切って、即消滅を免れ、かつ回復する程度のダメージを負う。例え、そんな真似が出来たとしても、リスクに釣り合うメリットが無い。
 それに、これが作り話だとしたら、あまりにもお粗末だ。そもそも、英霊の霊魂と一般人の精神が融合する……、なんて事例は聞いた事が無い。作り話なら、もっと説得力のある方便を使う筈。それに、彼女は自らの真名と宝具を全て暴露した。敵に対して、致命的と言っていいレベルの情報漏洩だ。そこまでして、作り話を語る意味……。

「無いわね……」

 仮に何らかの策略が彼女の胸の内にあったとしても、もう少し話に耳を傾けた方が得策だろう。
 凜は己のパートナーに思念を飛ばし、臨戦態勢に入らせた。もし、怪しい動きを見せたら即座に戦闘状態に移行出来るよう、準備だけは整えておく。これで保険は掛けられた。

「セイバー、貴女は本当に一般人なの?」

 凛はのっぺりと感情を抑制した声で尋ねた。

「本当だよ」
「なら、どうして、こんな状態になっているのか、心当たりはある?」

 凜が尋ねると、セイバーは「うーん」と虚空を睨み付けた。

「話せるとしても、こうなる直前の事くらいかな。根本的な理由とかは俺にも分からない」
「こうなる直前?」

 セイバーが話し始めたのは彼女が彼だった頃の事。好意を持ったサークルの女の子に告白して、「ごめんね、嫌いじゃないんだけどー」と半笑いで返され、自棄酒した挙句、交通事故にあったという、あまりにも情け無い顛末。聞き終えた後、士郎と凜はなんとも言えない表情を浮かべた。
 けれど、責めないで欲しい。セイバーは思った。正直、焦りもあったのだ。成人式で小学校の同級生と久しぶりに会ったのだが、殆どが脱童貞していて、このままだとマズイと焦りを覚えたのだ。だから、少し遊んでいる風な印象があった彼女に告白したのだ。あわよくば、脱童貞させてもらえるように願いながら……。

「そんで、目が覚めたら士郎君が目の前に居たってわけ。最初は士郎君が変態に襲われそうになってるんだとばっかり思ったよ……」

 話を聞けば聞くほど、凛の中でセイバーに対する評価が落ちていった。代わりに彼女……、彼の中身が確かに英霊では無く一般人のものなのだと確信を得た。

「……もういいわ。とりあえず、貴方の話を聞いて分かった事は一つ」
「……と言うと?」

 ゴクリと唾を飲み込むセイバー。士郎も慌てて姿勢を正す。

「貴方の中身が正真正銘、一般人のものだって事。出鱈目を口にしているにしては設定が細か過ぎるしね……。幾ら、サーヴァントがあらゆる時代に適応するからと言っても、限度があるわ。貴方が召喚されてから今に至るまで、その話を作る為の下準備をしている様子は無かったし……」

 一応、凜は自らの相棒に確認を取る。確かに、彼女が現代に関して調べている様子は無かったとの事。

「どうして、そんな事になってるのかは分からないけど、それに関して調べるのは後々って事にして……、聞きたい事がもう一つある」
「なんだい?」
「貴方の精神が一般人のものだと仮定すると、無視出来ない違和感が生まれる」
「と言うと?」

 凛は言った。

「こんな奇妙奇天烈な状況に巻き込まれて、どうして冷静に居られるのか? 幾つかの疑問を集約すると、この問いに行き着く」
「……えっと」

 回りくどい言い回しをする凛にセイバーの返事がまごつく。

「貴方は最初こそ取り乱している様子を見せた。けど、私が聖杯戦争に関して衛宮君に解説した後、まるで人が変わったかのように冷静になった。その後、士郎を海外に逃がそうとしたり、私に保護を求めたり、状況判断が的確過ぎた。まあ、完璧に冷静だったわけじゃないみたいだけど……」

 凛は数えるように広げた指を折り曲げながら言った。

「バーサーカーとの戦いでも、衛宮君に令呪を使わせ、英霊の力を引き出したり、身を盾にして私達を守ろうとしたり……」

 凜は鋭い眼差しをセイバーに向ける。

「単なる一般人がまったくの別人に成り代わり、聖杯戦争という異常事態に巻き込まれる。こんなの、発狂してもおかしくない状況よ。なのに、どうして、貴方はそんなにも冷静で居られるの?」
「……冷静じゃないよ」

 セイバーが少しぴりぴりした様子で呟いた。

「頭の中はしっちゃかめっちゃかさ。だから、とりあえず目的を定めただけだよ」
「目的?」

 士郎が尋ねる。

「緊急事態の際は心の安定を保つ事が最優先事項なんだ。凛も言ってたけど、俺の今の状況って、本当に発狂してもおかしくない事態だと思うんだ。だから、目的……、つまり、行動の指針を作る事を優先した。他にも自分を見失わないように独り言を呟いたりしながら自我を保ってる」
「……つまり、貴方は今、発狂寸前って事?」

 険しい表情を浮かべる凛にセイバーはあいまいに頷いた。

「人間ってのは危機的状況に陥るとストレスを感じて、基本的に視野が狭くなるものなんだ。要するに、『過剰警戒』って状態に陥り、情報処理に混乱が生じてしまうのさ。その為にヒステリーを引き起こす可能性も極めて高い」

 セイバーは続けた。

「さすがにこんな奇妙奇天烈な事態に巻き込まれる人間はそうそう居ないだろうけど、緊急時に人間が取る行動はある程度決まっている。コンピューター用語の『スクリプト』をイメージすると分かり易いかな?」

 士郎が曖昧に頷く。凛に至っては「コンピューターって、何?」と呟く始末。
 
「……えっと、つまり、反復練習や学習によって体に染み付いた行動の事だよ。反射と言い換えてもいいかもしれない。梅干を見ると唾が出るだろ?」
「……つまり、緊急事態に陥った人間は咄嗟に体に染み付いた行動を取ってしまうって事か?」

 士郎が眉間に皺を寄せながら言う。セイバーはニッコリと笑顔を浮かべて頷いた。

「そういう事だよ。緊急事態だからこそ、視野が狭くなり、普段無意識に行っている行動を選択してしまうんだ。例えば、火災現場をイメージしてくれ。目の前に非常用の出口がある。けど、普段使っているのは別の出入り口だ。逃げるとしたら、どっちを選ぶ?」
「そんなの、目の前の非常用出口に決まってるじゃない」

 凜が当然のように言う。

「ところが、普段使っている出入り口を目指してしまう人が多いんだ。これを『日常的潜在行動』と呼ぶ。それ以外にも元来た道を引き返してしまったり、慣れ親しんだ光景に戻りたいと思い、逃げ場の無い場所に向ってしまう事もある。そうした、誤った選択をしないようにするにはどうすればいいか?」

 セイバーは言った。

「デパートなんかでバイトした事はあるかな?」

 士郎と凛は揃って首を横に振る。

「ああいう所だと、避難誘導の指導を受けたりもするんだ。要は、出口を指差したり、叫んだりして、避難誘導を行うわけ。重要なのは正しい出口に向う為の指針を作る事」
「だから、俺を守ろうとしたって事なのか……?」

 士郎が尋ねる。

「完全な善意による行動では無かったよ。とにかく、ヒステリーを起こさないように自己を制御する必要があった。でも、完全に打算による行動でも無かったんだ。それは信じて欲しい」

 セイバーは言った。

「目的を作り、行動の指針を作る。それも重要だけど、自我を保つ為には出来る限り感情を動かし続ける必要があるんだ。感情ってのは生き物と一緒で、停滞させると反動が大きくなるからね。だから、目的には強い感情を結び付ける事が重要なんだ」
「つまり、衛宮君を守ろうとした行動は貴方自身の感情に起因するって事?」

 凜の問い掛けにセイバーは頷いた。

「士郎君を守りたいと思ったのは本心さ。じゃなきゃ、意味が無い」
「そっか……」

 士郎が少し安堵したように呟いた。

「それで……、結局、今の貴方の心理状態はどうなの?」
「完全に安定しているとは言えないけど、発狂したりする事は無いと思う。一晩が過ぎて、状況を再定義出来たと思うからね」
「状況を再定義……?」

 士郎が問う。

「簡単に言うと、緊急事態に陥った中で得た情報を元に『平常時との違い』を意識する事で、暗黙の前提である『現在は平常状態にある』という状況から、『現在は異常事態にある』という状況に変化したという事を意識的に認めたのさ。これを『状況の再定義』と言う。これはヒステリー状態から脱却する為に重要なプロセスなんだ」
「……つまり、直ぐに問題が発生するような事は無いってわけね?」
「そういう事」

 セイバーの言葉に凜は深く溜息を零した。

「よく、そんな知識があったわね。それに、よく、そんな知識を元に行動出来たわね」
「知識に関しては大学の教授に感謝かな。少し前に大きな地震があって、教授が生徒全員に緊急事態におけるパニックの回避方法を教えてくれたんだ」

 しばらくの間、部屋に沈黙が広がった。

「……まあ、ある程度は納得してあげる」
「ある程度?」

 凛の物言いに士郎が首を傾げる。

「当然だけど、納得のいかない所がまだある。例えば、衛宮君の中に宝具がある事に関して――――」
「それはさっき説明した通りで―――-」
「私が納得し切れないのは、貴方がどうして、召喚される以前の事を知り得ていたかよ」

 凛の発言に時間がストップした。

「貴方のこれまでの数々の奇行に関しては納得してあげる。だけど、そこだけはどうしても納得出来ない」
「納得出来ないって、さっき、セイバー……じゃなくて、日野さんが言ってたじゃないか。前回、俺の親父がアヴァロンを使って、聖杯戦争に参加したって。それってつまり、親父もセイバーをサーヴァントとして呼び出したって事だろ?」
「衛宮君。大前提だから、覚えておきなさい。サーヴァントは英霊の端末の一つでしかないのよ。連続で同じ英霊をサーヴァントとして召喚しても、殆ど別人も同然なの。それに、日野悟は死後、直ぐに貴方の前で意識を覚醒させた。なら、前回の戦いやその後について知識を持っているなんておかしいわ」
 
 凛の言葉は至極尤もなものだった。それ故に士郎はセイバーを不安げな瞳で見つめる。

「……それが実はおかしくないんだ」

 セイバーが言った。凛の表情が険しくなる。

「どういう意味?」
「この体の主であるアーサー王はまだ完全な英霊に至っていないんだ」

 セイバーは語った。アーサー王は国の滅亡を認める事が出来ず、自らの死後を世界に預ける代価として、聖杯の探求を続けている。国の滅びを回避する為に……。
 
「要は、死の直前で彼女の時間は止まっているんだよ」
「……あり得ない事だらけね」

 アーサー王に対して、同情を寄せる士郎とは反対に凛は眉間に皺を寄せた。

「……昨夜、士郎君に令呪を使ってもらったおかげでアーサー王の知識が少し流れ込んできたんだよ。だから、俺には士郎君の中のアヴァロンの存在が分かった。それが彼に入り込んでいる理由もね」

 朗々と語るセイバーに対して、凛は疑いの眼差しを向けたままだった。
 確かに、全ての話が真実であるなら、筋は通っている。けど、その話の真贋を確かめる術が無い。それに、彼が語る話はどれもこれも嘘くさくて仕方が無い。

「……どうしたら、信じてもらえるかな?」
「そうね……。貴方の話を信じる根拠が無いから何とも言えないわ」

 まるで、戦場で睨み合っているかのような二人を止めようと仲裁に入ろうとした瞬間、セイバーが言った。

「なら、とりあえず、俺の体がアーサー王のものである事を証明しよう」
「どうやって?」
「エクスカリバーを見せるよ。何よりの証拠だろ? 一応、アーチャーを呼んでくれ。変な誤解は避けたいから」
「……分かったわ」

 セイバーの提案は決定的なものだった。エクスカリバー程の聖剣なら、英霊であるアーチャーに真贋を見抜かせる事が出来るかもしれない。偽物なら、同盟を破棄する。どんな策を巡らせているか分からない以上、彼女はここで始末する。士郎に関しては教会にでも放り込んでおけばいいだろう。
 逆に、エクスカリバーが本物であったなら、一端、話はここまでにしておこう。警戒を怠る気は無いが、彼の体がアーサー王のものだった場合、大分疑惑が解消される。

「アーチャー」
「ここに居る」

 凛の呼び掛けにアーチャーが黒と白の陰陽剣を手に姿を現す。

「じゃあ、ちょっと庭に出ようか……」

 ゆっくりと立ち上がり、セイバーは士郎に手を伸ばした。

「えっと……」
「一応、俺の近くに居てくれ」

 士郎を立たせると、セイバーは彼を伴い庭に出た。そこで、見えない剣を振り上げた。

「……うん。ここまで来て、取り出せなかったどうしようかと思った」

 苦笑いを浮かべるセイバーに士郎がずっこけそうになる。

「ひ、日野さん? 大丈夫ですか?」
「あはは……、いや、よく考えると、昨日の感覚を思い出しながら手探り状態だから……、ちょっとだけ離れててもらっていい?」

 士郎はこくこくと頷きながら距離を取った。すると、セイバーは深く息を吐いて呟いた。

「風よ……」

 疾風が轟く。まるで、セイバーを中心に竜巻が発生したかのようだ。少しずつ、不可視の剣がその正体を明かし始める。

「……ああ、アレは本物ね」

 完全に姿を現した時、凛の頭から疑念は吹き飛んでいた。アーチャーに確認するまでも無い。
 聖剣というカテゴリーの最上位に位置する星が鍛えた神造兵装、エクスカリバー。その刀身の眩さは紛れも無く、本物の輝きだ。

「ああ、私も断言しよう。あれは紛れもなく、究極の聖剣だ。担い手に関しては分からんが……」

 そう呟き、アーチャーはセイバーを睨み付けた。

「凛……。アレは紛れも無く聖杯戦争における異分子だ。ここで排除しておいた方が賢明だぞ」
「待った。異分子だからって、排除の対象にはならないわ。少なくとも、マスターの方は策謀とかとは無縁な性格だし、サーヴァントも嘘は言っていない様子。もう少し、様子を見るべきね」
「何を悠長な事を……。アレが本気で牙を剥けば、厄介な相手だぞ」
「承知の上よ。昨夜の戦いで彼の底力は見せてもらった。セイバーのクラスに相応しい実力を持っているのは確か」
「ならば――――」
「でも、もう同盟を結んじゃったし」
「そんなもの、破棄してしまえば良い」
「駄目よ。遠坂の当主たるもの、一度結んだ約定をそうそう簡単には破れないわよ。少なくとも、向こうが何らかの約定違反を犯すまでは……」
「後悔しても知らんぞ……」
「大丈夫。万が一の時は貴方が私を守ってくれるでしょ?」

 確信に満ちた凛の眼差しにアーチャーは溜息を零した。

「まったく、厄介なのは敵ばかりじゃないな……」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
「皮肉だ、戯け」

 聖剣を仕舞い、セイバーと士郎が戻って来る前にアーチャーは姿を晦ませた。再び、異分子とその主の脳天を吹き飛ばす為の準備をする為に……。

「それで、信用してもらえたかな?」

 セイバーが問う。

「……ええ、信用はしてあげる」
「今はそれでいいよ」

 ニッコリ笑うセイバーに凜は言った。

「信頼させてね、セイバー?」

第五話「納得出来ない……」

 話が一段落した後、凛は家に帰って行った。今迄、潤滑油のように存在していた彼女が居なくなると、途端に士郎とセイバーの間には気まずい空気が流れ始めた。

「……お茶でも淹れようか?」
「う、うん。お願いするよ」

 セイバーの正体が正体だけに、士郎も途惑っている。見た目は同世代の可愛い女の子だけど、中身は大学生のお兄さん。途惑うな、と言う方に無理がある。お茶をあっと言う間に淹れ終えてしまい、士郎は何を話そうか悩みながら戻って来た。

「えっと、日野さん――――」
「なんだい?」
「改めて、昨夜はありがとうございます」
「……いや、うん。此方こそ……」

 日頃、感謝の気持ちを向けられる事が少なかったセイバーは照れたように笑った。

「えっと、体の具合はもう大丈夫なの?」
「あ、はい。もう、バッチリで――――」

 何とも空気が固い。何か違和感がある。

「なあ、士郎君」
「な、なんですか?」
「その……、無理に敬語は使わなくていいぞ?」
「……すみません」

 会話がぎこちない理由は士郎の敬語にあった。彼からすれば、見た目と内面の噛み合わない相手にどう接していいか分からなかったのだろう。だから、とんちきな敬語になってしまっていた。

「あと、俺の事はセイバーと呼んでくれ。さすがに、この外見で日野悟を名乗るのは無理がある。周囲に変に思われても面倒だし」
「……うん、分かった。じゃあ、セイバー」
「なんだい?」
「セイバーはこれからどうするんだ?」
「どうするって?」
「だって、セイバーが俺を守ろうとした理由は自我を保つ為なんだろ?」
「……まあ、そうなんだけど」

 セイバーは気まずさに耐え切れず、視線を逸らした。

「あ、いや、責めてるとかじゃないんだ。ただ、もう心が安定しているなら、無理に俺を守る必要は無いっていうか……」
「何が言いたいの?」
「セイバーは魔術師ですら無い、普通の一般人なんだろ? だったら、無理に戦いに参加する必要は無い。何か別にやりたい事があるなら――――」
「ストップ」

 士郎の言葉を遮り、セイバーは溜息を零した、

「士郎君。俺が好き勝手に行動したら、君が死ぬ。それは理解してるんだろ?」
「……でも」
「でも、じゃないよ。君の気持ちは嬉しいけど、君の死に結び付くような行動は出来ないし、許容も出来ない。確かに、最初は発狂を防ぐ為に君を守る事を指針としたけど、その為だけに体を張ったわけじゃない」

 セイバーは言った。

「さっきも言ったけど、子供の死は看過出来ない。とくに、こうして深く関わった相手なら尚更だ」
「俺は子供なんかじゃ――――」
「子供だよ。大学生のお兄さんからしたら、高校二年生の君は十分に子供だ」

 意地悪そうな笑みを浮かべて言うセイバーに士郎は呻いた。

「君を守る事は俺自身の意思で決めた事なんだ。だから、君に何を言われても止めるつもりは無い。幸い、凛と同盟を結べたし、油断さえしなければ、そうそう危険な目にも合わないだろう」

 セイバーの物言いに士郎はぴりぴりした様子で呟いた。

「俺は……、だろ?」
「……士郎君?」
「確かに、俺は安全なんだろうけど、セイバーはどうなんだよ?」

 温厚な印象の士郎が声を荒げた事にセイバーは目を丸くした。

「遠坂との話し合いの時は……、口を挟めなかったけど……」

 唇を噛み締めながら、士郎はセイバーを睨んだ。

「遠坂との同盟の条件だって、セイバーだけがリスクを負ってるじゃないか!」
「……お、落ち着きなよ」

 うろたえるセイバーに士郎は言った。

「本当なら、セイバーの方が保護されるべき立場じゃないか!」

 肩で息をしながら怒鳴る士郎にセイバーは目を伏せた。

「……士郎君」

 囁くような声。

「俺はもう死んでるんだよ」

 その一言に士郎は息を呑んだ。

「死んでるんだ。酔って、トレーラーに牽かれて……」

 項垂れて、セイバーは腕に頭を乗せた。

「あんまり、かっこいい死に方じゃなかったけど、俺の人生はもう終わってるんだよ」

 セイバーは深く呼吸を繰り返した。感情の揺らぎを必死に抑えている。

「……なあ、聖杯ならセイバーを生き返らせる事が出来るんじゃないのか?」

 士郎が名案を思いついたかのような表情で言った。けれど、セイバーは暗い表情のまま、顔を上げた。

「聖杯は凜に渡す約束だろ?」
「遠坂だって、話せば分かってくれる筈だ」
「無理だね。彼女は俺を信頼していない。聖杯を譲り渡すという条件を反故にすれば、間違いなく、同盟を破棄される。そうなったら、俺達は詰みだ」
「でも……」
「……俺に聖杯を使う気は無いよ」

 ハッキリと断言するセイバーに士郎は「どうして……」と声を震わせた。

「同情してくれるのは嬉しいよ。けど、君には俺の事より自分の事を優先して欲しい。君だって、理不尽な状況に巻き込まれている当事者なんだから」
「……セイバー」

 拳を硬く握り締める士郎にセイバーは小さく溜息を零した。

「話してなかった事がある」

 セイバーが言った。

「俺が居たのは2014年の東京都なんだ」
「2014年って……」

 セイバーが切り出した思いがけぬ言葉に士郎が目を丸くする。

「それに……、俺が居た世界には冬木市なんて場所は存在しなかった」
「ど、どういう意味だよ……」
「単純な話さ。俺が元居た世界とこの世界は別物って事。幾ら、聖杯でも、俺を俺として甦らせた上で別世界に送り返す、なんて不可能だろ?」
「それは……」
「だから、俺に聖杯は不要なんだ。意味が無いからね。どうせ、この戦いが終わったら消えるしか無いんだ。だから、俺の事は気にしなくていいよ」

 士郎は思いつめた表情でテーブルを睨み付けた。

「……元の世界に帰れなくても、この世界でなら、生きられるんじゃないのか?」

 その言葉にセイバーは溜息を零した。

「確かに、その程度なら可能かもしれないね」

 セイバーの言葉に士郎は希望を見出したかのように顔を上げた。けれど、セイバーが浮かべる表情を見た途端、表情が強張った。

「元の俺に戻る事も出来るかもしれない。けど、そうなると魔術協会や聖堂教会が厄介だ。聖杯を使い、甦った人間を放逐しておくような組織かい?」
「……それは、でも――――」
「一般人である俺に両組織から逃げる力は無い。解剖されたり、人体実験のモルモットになるような事はごめんだ。だから、結局、俺に残された道は一つなんだよ。後は消え方の問題さ。君を守って消えられたら、ちょっとは格好がつくだろ? 少なくとも、酔って牽かれる死に方よりは――――」
「セイバー!」

 士郎は怒りに満ちた瞳をセイバーに向けた。

「そんな言い方はやめてくれ。きっと、何かある筈だ! 消える以外の選択が――――」
「……し、士郎君」

 すっかり気圧されてしまい、おろおろするセイバーに士郎は言った。

「セイバーが俺の事を守ろうとするなら、俺だって、セイバーを守る。消える以外の選択肢を見つけてみせる」
「……士郎君」

 セイバーは深々と溜息を零した。

「……これ以上話しても平行線を辿るだけになりそうだな」
「俺は……、セイバーが消えるなんて、納得出来ない」

 唇を噛み締める士郎。
 良い子だ、とセイバーは素直に思った。自分のように自暴自棄になっているわけでも無く、知り合ったばかりの人間相手にこんなにも思い遣りの気持ちを向けられる人間は稀だと思う。

「士郎君」

 セイバーは穏やかな笑みを浮かべて言った。

「君の気持ちは本当に嬉しいよ。だから、ありがとう」
「……俺は」
「本当なら、君の前に居るのは正真正銘のアーサー王だった筈なんだ。なのに、俺が紛れ込んだせいで、ややこしい事になってる。迷惑掛けて、ごめんね」
「……なんで、セイバーが謝るんだよ」
「分かんない」

 クククと笑うセイバーに士郎は肩を落とした。

「ところで、本当に具合は大丈夫かい?」

 セイバーが心配そうに士郎を見つめた。

「顔色が悪い。無理はしない方が良いよ」
「……セイバーにだけは言われたくないな」

 深々と溜息を零しながら、士郎は時計を見た。程無くして、チャイムが鳴り、凛が戻って来た。
 同盟を結んだ以上、同じ場所に拠点を構えた方が効率的だと凛が主張し、士郎は離れの洋室を彼女に宛がった。

「……実験道具の一つも無いなんて、魔術師として、どうなの?」

 文句を垂れながら、凛は一番立派な部屋を占拠し、扉に『ただいま改装中につき、立ち入り禁止』という看板をぶら下げて引き篭もった。

「そう言えば、セイバーにも部屋が必要だよな?」

 確認するように問い掛けると、「出来れば、君の部屋の隣が望ましい」という返事が返って来た。
 慌てふためく士郎にセイバーは言った。

「この身形だし、複雑だとは思うけど、警護の為にも妥協して欲しい」

 真剣な表情で言われ、士郎は溜息混じりに頷いた。中身が男であろうと、セイバーの見た目はとびっきり可愛い女の子だ。出来れば、部屋は凛と同じ離れを使って貰いたかった。

「もう、どうにでもなれ……」

 若干、捨て鉢気味に呟きながら、セイバーを自室の隣部屋に案内し、家財道具の運搬に精を出した。

「士郎君。このゲーム、部屋に持っていってもいいかな?」

 ほぼ、毎日のように顔を出す、士郎にとって姉のような存在である女性が持ち込む雑貨類の山を見て、セイバーが瞳を輝かせた。

「後、このDVDレコーダーとプレイヤーも……」

 あっと言う間に殺風景だった部屋が生活臭に溢れた一室に変貌を遂げた。

「布団で寝るなんて、久しぶりだなー。とりあえず、リモコンは枕の傍に置いておこう」

 嬉々として部屋の改装を行うセイバーに士郎は密かに笑みを零した。漸く、セイバーの素の表情が見れた気がしたからだ。
 セイバーの部屋の改装が終わると、二人揃って欠伸が出た。

「ちょっと、一休みした方が良さそうだね、お互いに」

 セイバーの提案に士郎は素直に頷いた。疲れがピークに達していて、瞼が酷く重かった。
 自室に戻り、瞼を閉じると、アッサリと意識が闇に沈み込んだ。

 目が覚めたのはすっかり、日が暮れた頃だった。居間に行くと、セイバーと凛がお茶を飲みながらテレビを見ていた。お笑い番組を見ながら時折噴出すセイバーを凛が呆れたように見ている。

「あ、起きたか、士郎君。ちょっと待っていてくれ」

 士郎が顔を見せると、セイバーはとことことキッチンに向った。

「セイバー?」

 何をするつもりなのか、とキッチンを覗くと、そこには既に完成された食事が並んでいた。

「これ、セイバーが作ったのか?」
「そうだよ。これでも、一人暮らしだったから、それなりに料理は出来る方なんだ。士郎君も凛も昨夜の戦いでの疲労が残っているだろうと思って、勝手ながら作らせてもらったよ。冷蔵庫の中身を勝手に使っちゃったけど、不味かったかい?」
「いや、折角作ってくれたんだし、別に構わない」

 呟きながら、士郎はセイバーが掻き混ぜている鍋に目を向けた。

「味噌汁か」
「豆腐の賞味期限が迫っているようだったから、豆腐中心に作ってみたよ」

 小皿で味見をして、セイバーは納得したようにお椀を準備し始めた。
 味噌汁の他は揚げ出し豆腐と鶏肉を使ったチャーハン。まとまりの無いメニューだけど、どれも中々美味しそうに出来ている。

「座って待っていてくれ。直ぐに持っていく」
「配膳くらいは手伝うよ」
「ありがとう」

 料理をテーブルに並べ終えると、セイバーがお茶を運んで来た。

「簡単なものばかりで悪いね。男の一人暮らしで重要なのは簡単かつスピーディーに作れる美味い料理だから、バリエーションがちょっと偏ってるんだ」
「味さえ良ければ文句を言うつもりは無いわよ」

 凛はスプーンでチャーハンを一匙すくい、口に含んだ。

「うん、合格。悪く無いわ」
「……はは、ありがとう」

 上から目線の物言いにセイバーは乾いた笑みを浮かべて礼を言った。

「いや、本当に美味いぞ。ちょっと、変わった味付けだな」
「ヴァンプ将軍にならったレシピだよ」
「ヴァンプ将軍……?」
「漫画の登場人物だよ。家庭的な悪の組織のリーダーで、漫画の途中途中に将軍のレシピが掲載されているんだ」
「か、家庭的な悪の組織って、何だよ……」

 くだらない話に花を咲かせながら、食事をしていると、凛が思いついたように言った。

「これからの事だけど、夕食の当番は交代制にしない? 士郎だって、ずっと一人暮らしだったなら、料理くらい出来るでしょ?」
「ああ、まあ、それなりに」
「今日はセイバーに作ってもらったし、明日は士郎が作ってよ。明後日は私が作ってあげるから」
「……そうだな。二人もこれから家で暮らすんだし、家族と同じだ。飯ぐらい、作るのは当たり前だし、異論は無い」
「決まりね。セイバーもそれでいいでしょ?」
「ああ、構わないよ」
「朝はどうするんだ? 朝飯も交代制にするのか?」

 士郎が尋ねると、凛は肩を竦めた。

「朝はいいのよ。私、朝は食べない派だから」
「……なんだ、それ。朝飯はちゃんと食べないと、体に毒だぞ?」
「いいのよ。人の生活スタイルにイチャモンつけないでよね」

 ふん、と鼻を鳴らす凛に士郎は溜息を零した。

「なら、朝は俺達で交代に作る事にしよう」

 セイバーの提案に「そうだな」と士郎が頷く。

「今後の事だけど――――」

 料理が少なくなった頃、凛がおもむろに切り出した。

「とりあえず、情報収集を優先的に行うわ。まずは残る四人のマスターについて探る」
「四人? 五人だろ。判明してるマスターはまだ、俺と遠坂の二人だけなんだから」
「何言ってるの? まさか、バーサーカーのマスターの事を忘れちゃったわけ?」
「……あ」
「呆れた。貴方、イリヤスフィールの事を敵だって、認識出来てないんじゃないの?」

 凛に白い目で見られ、士郎は小さくなった。

「イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。あの子を甘く見てたら痛い目を見るわよ? 何と言っても、聖杯戦争を始めた御三家の一つ、アインツベルンのマスターなんだから」
「御三家?」
「この地に聖杯戦争という大儀式のシステムを構築した三つの魔術師の一族の事よ。遠坂にアインツベルン、そして、マキリ。特にアインツベルンは三家の中でも別格の歴史と力と財力を誇っている。加えて、あの子が従えていたのはバーサーカー。理性を犠牲にして、英霊を強くする特殊なクラス。その制御には莫大な魔力が必要なの。並の魔術師なら、御しきれずに自滅するのがオチ。けど、イリヤスフィールは超一流の英霊をバーサーカーとして召喚し、完全に支配していた。……悔しいけど、マスターとしての能力は私達を遥かに超えている」
「しかも、その次元違いの強敵に俺達は命を狙われている……」

 げんなりした様子でセイバーが呟く。

「まあ、アーチャーに見張りをしてもらうから、怪しい奴が接近して来たら直ぐに分かる。とりあえず、逃げる事は可能だと思うわ」
「情報収集に関しても、アーチャーに一任する他無いな。俺にはサーヴァントの気配なんて分からないし……」

 セイバーが俯くと、凛がクスリと微笑んだ。

「索敵はアーチャーのクラスの得意分野だから、問題無いわ。それに、此方から行動を起こして、逆に情報を敵に与える方が不味い。基本的に情報収集はアーチャーに担当させるから、士郎は普段通りに生活して、マスターである事を敵に悟られないように注意しなさい。腕の令呪は他人に見られないように隠しておく事と、出来るだけ、人気の無い場所には立ち入らない事。それと、日が落ちたら直ぐに帰って来る事」

 指を折り曲げながら言った後、凛は鋭い眼差しを士郎に向けた。

「とにかく、単独行動は避けなさい。常に私かセイバーと行動を共にするようにして。令呪を使えば、セイバーもある程度は戦える筈だから」
「……凛、一つ頼みがある」

 セイバーが思いつめた表情で凛に言った。

「何かしら?」

 ぴりぴりとした空気が漂い始める。士郎が堪らず割って入ろうとした瞬間、セイバーが言った。

「アーチャーを貸して欲しい」
「……アーチャーを?」

 首を傾げる凜にセイバーは続けた。

「昨夜の戦いで、少しだけ、この体の使い方が分かった気がする。聖剣を手に取れるようになったし、訓練を積めば、少しはマシになる気がするんだ」
「つまり、士郎を護る為にアーチャーに稽古をつけて欲しいってわけね」
「ああ、頼めないかな?」

 しばらく、沈黙が続いた。

「……分かった。アーチャーには私から言っておく。貴方が戦力になってくれれば、此方としても助かるもの」
「ありがとう、凛」

 朗らかな笑みを浮かべるセイバーに凜は苦笑した。

「士郎を守る為に協力する約束だしね」

 笑い合う二人を尻目に士郎は一人、孤独を感じていた。二人の間に割って入ろうとした時に上げた手を下ろせずに居る。

「……すげー、置いてけぼりにされた気分だ」

 夕食を終えると、セイバーは食器を片付け始めた。作ったからには最後まで責任を持ちたいと言うセイバーに士郎は根負けして、ミカンを齧っている。
 凛はと言うと、勝手に風呂を沸かして入浴中。同世代の女の子が一つ屋根の下で裸になっている。その光景を想像しそうになり、慌てて士郎は頭を振った。

「ど、どうした?」

 その光景をセイバーに見られ、ドン引きされ、士郎が釈明したりなどして、夜が更けていく。
 それぞれ、部屋に戻り、各々、今後の事に思考を巡らせた。

 凜はアーチャーと思念でやりとりをしている。

『セイバーの事だけど、どう思う?』
『分からんな。素振りを見た限りだと、完全に素人のそれだ。だが、自らの技量を隠蔽している可能性もある』
『けど、あの言動や料理……。とても、演技とは思えない』
『……同感だが、油断は禁物だ。例え、奴の言葉に嘘が無かろうと、それがイコール真実であるとは限らない』
『セイバーには別の何らかの意思が働きかけを行っている可能性があるって言う事?』
『あくまで、可能性の話だが、召喚直後に奴の精神に何者かが働きかけを行った可能性も無くは無い』
『……つまり、現状維持で監視を続けるしかないってわけね』
『別に、倒してしまっても構わんだろう。むしろ、後顧の憂いは断つべきだ』
『却下よ。同盟を結んだ以上、此方から一方的に破棄するつもりは無い。何度も言わせないで』
『……了解だ』
『とりあえず、明日からセイバーに稽古をつけてあげて』
『……本気か?』
『本気よ。別にセイバーの戦闘力を引き上げる事だけが狙いじゃない。剣を交える事で分かる事もあるでしょ?』
『……私は武士では無いのだがな』
『とにかく、お願いね』
『……了解した。探りを入れてみるとしよう』
『言っておくけど、稽古に乗じて殺そうとしたら駄目だからね?』
『……………………ああ、承知している』
『……その間が冗談である事を信じてるからね』

 思念での遣り取りを終えた後、凜はベッドに横たわり溜息を零した。
 心情としてはセイバーを信じたい。けれど、彼を取り巻く状況が容易な判断を許さない。

「……まったく、厄介だわ」

 天井を見上げながら、凜は呟いた。

 同じ頃、セイバーも溜息を零していた。
 原作の知識をどう使うかに悩んでいる。セイバーの頭の中には敵のマスターやサーヴァントの情報が全て刻まれている。けれど、安易に口に出す事は出来ない。
 この世界をゲームやアニメとして知っていた。そんな事を口にすれば、今度こそ凛の疑いは確かなものとなってしまうだろう。証明出来たとしても同じだ。
 それに、間桐桜の事がある。彼女は言ってみれば特大の地雷だ。彼女が覚醒してしまうと、辿り着くのは他のルートを圧倒する死亡フラグの連続。さすがに士郎を守り切れる自信が無い。
 それに、最強の敵である英雄王・ギルガメッシュをどう対処するかも思いつかない。少なくとも、俺の力では手も足も出ないだろう。

「……俺の身を差し出せば、士郎君達の事は見逃してもらえるかな?」

 考えて、直ぐに無理だな、と落胆した。
 恐らく、英雄王の眼力を前にすればセイバーの中身が異なる事など直ぐに看破されてしまうだろう。そうなったら、下手を打つと、彼の怒りを買ってしまうかもしれない。

「アーチャーに全てを託すか……」

 いや、頼り過ぎても良くないだろう。如何に設定上、天敵とされていても、英雄王が本気を出すと手も足も出ないそうだし……。

「最悪、彼と敵対した時点で盛大に自爆するか……。多分、現れるとしたら終盤だろうし……」

 先の事を思い悩みながら、セイバーは眠れぬ夜を過ごした。

 そして、士郎もまた眠れずに居た。原因は隣に女の子が居るから、では無い。

 ――――セイバーを助けるにはどうすればいいんだろう……。

 その事を昼間からずっと考えていた。けれど、答えは浮かばなかった。
 理由はどうあれ、セイバーは自分の事を守ろうとしてくれている。なら、自分もセイバーの為に力になりたい。
 でも、力になる方法が分からない。元の世界に帰らせてあげる方法も、この世界で彼が彼として生きられるようにする方法も分からない。

「けど……、だからって、消えるしか無いなんて事……」

 拳を硬く握り締め、士郎は唇を噛み締めた。

「納得出来ない……」

第六話「本当にごめん、アーチャー」

 土蔵の中で士郎は目を覚ました。昨夜は結局、セイバーの事を考えるあまり寝付けず、土蔵で魔術の鍛錬をする事にしたのだ。余計な事を考えず、一心不乱に修練に励む内、いつの間にか眠りに落ちていたようだ。
 入り口から差し込んでくる日光に目を細め、起き上がると毛布がずれた。

「……あれ?」

 土蔵に常備している毛布じゃなかった。土蔵の外に出ると、元々あった毛布が物干し竿に掛けられている。

「桜……はまだだよな。じゃあ、セイバーか?」

 他に候補が居ない以上、そうなる。いや、居なくはないが、彼女がこうした気遣いを見せる姿を想像出来ない。学校で遠目から見ていた限りだと、こんな失礼な思考はせずに済んだのだが……。

「にしても、寒いな――――」

 深山町は冬場でも割と温暖な気候なのだが、この家は山に近いせいか少々寒い。顔を洗おうと、母屋に向うと、敷地内にある道場から物音が聞こえた。竹刀を打ち鳴らす懐かしい音。
 中を覗いて、動けなくなった。

「一直線過ぎる。それでは脇ががら空きだと、何度言わせる気だ?」

 セイバーとアーチャーが居た。両者は竹刀を手に向かい合っている。

「……も、もう一回」
「凛の命令故に手を貸すが、進歩が無いようなら次は無いと思え!」
「は、はい!」

 セイバーが動き出す。その動きを一言で言えば平凡でありながら異常。時折、アーチャーの竹刀を未来予知のような精度で防いだり躱したりするのだが、逆に呆気無く一撃をもらう事もある。

「直感のスキルは確かに有用だが、虚実を見抜けぬようでは意味が無い。常に疑いを持て、直感すると同時に思考を働かせろ!」
「はい!」

 完全な師弟関係が出来上がっている。
 セイバーは何度も重い一撃を受けているが、痛みを訴える様子を見せない。サーヴァントに対して、神秘を持たない武器は効果が無いらしい。それ故にアーチャーは手加減無しに攻撃を打ち込んでいる。
 アーチャーを見ると、厳しい言葉を発しながらもどこか楽しんでいるように見えた。

「……予想外だったわ」

 ジッと見つめていると、背後から凛が現れた。

「予想外って?」
「アーチャーってば、本気で指導してる。彼、そういうタイプじゃないと思ってたんだけど……、生前、指導者だった経験でもあるのかしら」

 二人が見守る中、二騎の英霊の稽古は続く。

「武器にばかり意識を集中させるな、戯け。常に敵の全体像を見るようにしろ」

 あまりにも圧倒的な力量の差。けれど、セイバーの剣技も徐々に精練されていくのが分かる。アーチャーからの教えを必死に飲み込もうとしているのが伝わって来る。
 しばらく打ち合った後、アーチャーが竹刀を下ろした。

「今朝はここまでにしよう。次までに今回の稽古で学んだ事をよく振り返っておけ。それと、今の貴様ではアサシンですら相手にならん。その事をよく自覚しておく事だ。マスターを守りたいなら、精進しろ」
「はい!」

 姿を消すアーチャーに凛はなんとも言えない表情を浮かべていた。

「アイツ、セイバーの事を警戒しまくってた癖に……」

 目元を引き攣らせる凛に士郎は苦笑いを浮かべた。

「意外な一面を見たな」

 士郎の言葉に肩を竦め、凛は母屋に向って歩き出した。

「おつかれ」

 士郎は道場の中に入り、セイバーに声を掛けた。

「ああ、起きたのか、士郎君。恥ずかしいところを見せちゃったな」

 照れ笑いを浮かべるセイバーに士郎は苦笑した。

「いつからやってたんだ?」
「昨晩、君が土蔵で寝入ってからだよ」
「ああ、やっぱり、あの毛布はセイバーが掛けてくれたのか。それにしても、俺が寝入ってからずっと?」
「ああ、アーチャーから声を掛けてもらってね。彼はちょっとした魔術が使えるらしく、防音の結界を張って、今までずっと稽古をつけてくれていたんだ。正直、ここまでちゃんとした稽古をつけてもらえるとは思っていなかったよ」

 アーチャーの見せた意外な一面にセイバーも驚いている。

「攻撃も竹刀によるものだけだった。多分、彼の拳や蹴りを喰らったら、凄く痛かっただろうけど、竹刀はあたっても特に痛みを感じないんだ。だから、途中でへこたれずに稽古に励めた」

 竹刀を仕舞いながら、セイバーはふん、と息を吐きながら背筋を伸ばした。

「ちょっと、お風呂に入ってきてもいいかな?」
「ああ、沸かそうか?」
「いや、シャワーだけにするよ。ただ、すまいないけど朝食は頼めるかな?」
「ああ、任せてくれ」
「それにしても……」

 セイバーは自分の体を見下ろしながら首をかしげた。

「女の子の体になった割りに興奮しないな」
「……おい」
「いや、肉眼で裸体を見たのは初めてだったから、昨夜はそれなりに緊張したんだけど、特に興奮もしなかったし……」
「……今は体が女の子のものだからじゃないか?」
「ああ、そうかもしれないな。何て言うか、常時賢者モードになってる感じっていうか――――」
「その顔でそういう事言うなよ!」

 顔を真っ赤にして叫ぶ士郎にセイバーは「ごめん」と素直に謝った。

「とりあえず、入って来るよ。着替えをまた借りてもいいかい?」
「ああ、用意しとく」

 ちなみに、今のセイバーの服装は士郎の普段着を借用している。女の子に着せるような物では無いが、中身が男である事を考慮した結果だ。
 自分の服を女の子が着ている事実にちょっとドキドキしている事は秘密にしている。
 セイバーが風呂に向った後、居間に向かうと凛が居た。

「アーチャーってば、『随分とノリノリで指導してたわね』って言ったら、『さあな』ですって! からかい甲斐が無いわね、まったく」

 アーチャーも苦労してるな。士郎は凛の言葉に曖昧に頷きながら、朝食の準備に取り掛かった。すると、しばらくして来客を告げるチャイムの音が鳴り響いた。

「士郎、誰か来たみたいよ?」
「ああ、気にしなくていい。この時間に来るのは身内だから」

 この時間帯にこの家を訪れる人間は二人しか居ない。どちらも合鍵を持っているから、玄関まで迎えに行く必要も無いだろう。

「チャイムなんか、一々押さなくていいって、言ってるんだけどな……」

 チャイムを律儀に鳴らすのは桜の方。彼女は士郎にとって、家族も同然の存在だ。チャイムなど押さずにドカドカ入ってくればいいのに、と常々思っている。

「って、ちょっと待った」

 この家には今、凛とセイバーが居る。桜が彼女達と顔を合わせると面倒な事になりそうだ。慌てて、水道と火を止めて桜を帰らせようとキッチンを出たが時既に遅し、桜は居間に入って来ていた。
 顔を見合わせる二人。微妙な緊張感を感じる。

「おはよう、間桐さん。こんな場所で会うなんて、奇遇ね」
「遠坂……、先輩」

 桜は愕然とした表情で凛を見つめ、視線で事情の説明を士郎に求めた。

「えっと、これには深い訳が……」
「ここに下宿する事になったのよ」

 どう説明しようか考えていたのに、凛があっさりと爆弾を投下した。

「……本当ですか、先輩」
「ま、まあ、要点だけを簡潔に述べると……。ごめん、連絡を入れるべきだった」
「い、いえ、謝らないで下さい。その……、驚きましたけど……でも、あの……本当に――――」

 桜が凜に視線を戻すと、彼女は言った。

「私と家主である士郎で決めた事だから、もう決定事項よ。この意味、分かるでしょ?」
「分かるって……、何がですか」
「今まで、貴女が士郎の世話をしてたみたいだけど、暫くは不要って事よ。来られても迷惑なだけだし、来ない方が貴女の為――――」
「分かりません」
「……え?」
「分かりません! 遠坂先輩が何を仰りたいのか、私には分かりません!」
「ちょ、ちょっと?」
「先輩、台所をお借りしますね!」
「あ、えっと、は、はい!」

 望みどおり、ドカドカと入って来てくれたにも関わらず、士郎はまったく喜べなかった。なんだ、この状況……。
 凛も呆然と立ち竦んでいる。

「……修羅場だな、士郎君」

 そこに新たな爆弾が到着した。頭から湯気を出しながら、セイバーがニヤついている。

「うるさい! それより、遠坂。どうして、桜が俺の世話をしてるなんて――――」
「前に小耳に挟んだのよ。あの子が貴方の通い妻をしてるって。それにしても、驚きだわ。あの子、ここだとあんなに元気なの? 学校とじゃ大違いじゃない!」

 アーチャーの意外な一面を目撃した時以上に驚いている。声を荒げる彼女に士郎も困惑した様子で応えた。

「俺だって、あんな刺々しい桜を見るのは初めてだ」
「鈍いね、士郎君」
「な、何がだよ……」

 実に楽しそうな笑顔を浮かべるセイバーに思わず口調が刺々しくなる。

「彼女は君の家に他の女の子が居たから嫉妬しているんだよ。この泥棒猫! って」
「ど、泥棒猫って……、桜はそんな奴じゃないぞ」
「いやいや、女って生き物は――――」
「童貞が粋がって女を語ってんじゃないわよ」

 凛の辛らつな一言にセイバーは凄く切なそうな表情を浮かべて黙り込んだ。気持ちは分かる。ただし、同情はしない。

「それにしても、しくじったわ。桜があんな風に意固地になるなんて……」
「対応を完全に誤ったな」
「……でも、本当に困ったわ。これからこの家は戦場になるかもしれない。出来れば、私達以外の人間の立ち入りを禁止したかったんだけど――――」
「完全に逆効果だったな」

 凜は爪を噛みながら表情を歪めた。

「何とかしないと……。ねえ、桜が来るのは朝だけ? まさか、夕食もこき使ってるの?」
「人聞きの悪い言い方をするな! 朝は毎日だけど、夕飯は毎日じゃない」
「……うわ、本当に通い妻状態じゃない」

 溜息混じりに凜はミカンをかじり始めた。セイバーも意気消沈したままミカンを齧り出す。
 現在、この家には何故かミカンが山のようにあるのだが、朝食前にツマミ食いをするなと一喝しておく。

「えっと……」

 無言で朝食を作っていた桜は配膳を手伝おうとキッチンに現れたセイバーに目を丸くした。

「はじめまして、セイバーです。ただいま、士郎君の家に厄介になっています。どうぞ、よろしく」

 混乱している内に畳み込んでしまえ大作戦。立案者は凛。余計な事をするな、と声を荒げたのは士郎。

「あ、えっと、間桐桜です。どうも、はじめまして……?」

 目を丸くする桜にセイバーは手伝いを申し出た。なんとも言えない空気が漂う中、二人はせっせと朝食の準備を済ませる。
 ふっくらとした卵焼きや味噌汁にセイバーが瞳を輝かせる。

「女の子に料理を用意してもらえる日常か……、羨まし過ぎるぞ、士郎君」
「……セイバー」

 真剣な表情で言われ、士郎は微妙な表情を浮かべた。
 朝食を食べ始めると、最初の緊張感は徐々に薄れて行った。

「美味しいな。卵焼きって、こんなにふっくらするものなのか……」

 味わいながら戦慄の表情を浮かべるセイバー。

「……これは負けた」

 何故か消沈する凛。

「遠坂。お前、朝食は食べない主義じゃなかったか?」

 士郎が尋ねると、凛はそっぽを向いた。

「出された物は食べるわよ。当然の礼儀でしょ!」

 鼻を鳴らし、味噌汁を啜る。

「……美味しいわ。凄く、美味しい」
「……ありがとうございます」

 しみじみとした様子で呟く凛に桜は嬉しそうに言った。
 しばらく、静かな食事風景が続いた。ところが、突然士郎がハッとした表情を浮かべ、同時にドタドタと言う足音が廊下から鳴り響いて来た。

「おっはよー! いやー、寝坊しちゃったー」

 現れた藤ねえに全員の表情が凍りつく。行儀良く、いつもの席に正座する藤ねえ。
 誰もが第一声を発せられずに居た。

「士郎、御飯!」
「……おはようございます」

 恐ろしい程ユニゾンする三つの声。再び、置いてけぼりをくらった士郎。
 桜は平常運転に戻り、藤ねえの茶碗に御飯をよそる。

「どうぞ」

 セイバーもお茶を出した。

「……んん?」

 茶碗と湯飲みを受け取り、首を傾げる藤ねえ。まだ、現状を認識出来ていないらしい。
 それでいい。そのまま、何事も無く、学校に向ってくれ。士郎の強い祈りはお茶碗一杯分しかもたなかった。

「ねえ、どうして遠坂さんがここにいるの? それに、そこの金髪美少女は誰?」
「……彼女はセイバー。二人共、今日からうちで下宿する事になったんだ」

 感情を抑え、淡々と告げる士郎。最初こそ、朗らかに二人に話しかけていたが、徐々にその表情が強張り始める。爆弾の導火線についた火がとうとう、火薬に引火した。

「って、下宿ってどういう事よ、士郎!!」

 ひっくり返るテーブル。幸い、桜は風上、凛も既に脱出済み。セイバーに至っては自分の分だけ遠くに移動し、食事を続行。被害は俺だけに集中した。
 つくねを煮込んだ鍋が降って来る。

「あっちー!!」
「あっちー、じゃない! どういう事よ、士郎! 同い年の女の子を二人も下宿させるなんて、どこのラブコメよ!? ええい、桜ちゃんというものがありながら、そんな性質の悪い冗談を言うのはこの口か~~~~!?」
「ひゃ、ひゃめろ~~! ってひゅうか、あひゅい! ヒャッヒャオルー!」

 唇の端を引っ張られながら悲鳴を上げる俺に桜が冷やしたタオルを渡してくれた。こんな状況にも関わらず、天使のように穏やかな笑みを浮かべている。

「手馴れてるな、桜ちゃん」
「はい、いつもの事なので」

 エッヘンと胸を張る桜に拍手を送る馬鹿二人。いいから、助けてくれ。士郎は胸中で叫んだ。
 その後、何とか藤ねえを落ち着かせ、三人がかりで説得した。
 結局、学校では極力秘密にして、家では藤ねえが監督するという事で決着。最終的に機嫌を直してくれた事に士郎は安堵した。
 朝食を終え、藤ねえを見送った後、士郎も学校へ行く準備をした。

「士郎君。学校まで送らせてくれ」

 仕度を終えた士郎にセイバーが言った。

「今は昼間だし、学校みたいな人の多い所で襲ってくる奴なんて居ないぞ」

 士郎が渋るが、セイバーは譲らなかった。

「思い込みは禁物だ。学校だろうと、油断はしない方が良い。君が学校にいる間、俺は校舎の近くに待機している事にする」

 頑固な一面があるセイバーにそれ以上何を言っても無駄だろうと溜息を零し、士郎は頷いた。

「分かったよ。よろしく頼む」
「ありがとう」

 微笑むセイバーに苦笑いを浮かべるしかなかった。

 玄関先では凛と桜が士郎を待っていた。

「それじゃ、行きましょう。この辺りは不慣れだから、学校までの近道があったら教えてね」

 制服姿の凛に士郎は思わず緊張した。本性を知った今でも、彼の中には優等生然とした遠坂凛のイメージが残っている。学校一の美人と一緒に登校する事に胸がドキドキしている。

「先輩。戸締り出来ました」

 加えて、桜とセイバーも一緒に居る。桜は弓道部の部員だから、本来なら藤ねえと一緒に先に出るのが日課なのだが、今日に限っては何を言うでもなく残っていた。
 美人三人に囲まれて登校する。きっと、クラスメイトに処刑されるな。士郎は戦慄した。

「……桜に合鍵なんて渡してるんだ」

 歩きながら凜が呟くように言った。

「ああ、持たせてる。桜は悪い事なんてしないし、ずっと世話になってるからな。まあ、その分でいくと、遠坂にはやれないが、別にいいだろ?」
「……別にいいけど。どういう意味よ、それ」
「だって、悪い事するだろ」
「喧嘩を売っていると捉えていいのかしら、衛宮君?」

 ニッコリと微笑む凛に士郎は恐怖した。

「ま、まさか……」

 そんな風にじゃれ合う士郎と凜の後ろで、桜とセイバーも会話に勤しんでいた。

「桜ちゃん、元気が無いけど、大丈夫かい?」
「え、ええ……」

 暗い表情を浮かべる桜。藤ねえが言い負かされてから、ずっとこうだ。

「……急な事で申し訳無いと思ってる」
「いえ、別に……」

 俯く桜になんとかフォローを入れようとするのだが、上手くいかない。
 思い人の周りに一気に二人も女が増えたのだから無理も無いだろうけど、溜息が出て来る。彼女という地雷が爆発しないように警戒しているが、女の子の扱いに慣れていない自分では逆効果にしかならない。
 そう判断したセイバーは仕方なく口を閉ざした。

 学校近くの坂道まで来ると、周囲から奇異な眼差しを向けられた。無理も無い。こんなに目立つ集団、目立たない筈が無いのだ。
 居心地の悪さを感じながら、士郎達は坂を上った。
 校門前に辿り着くと、セイバーは立ち止まった。

「じゃあ、俺は近くで待機しているよ。何かあればこれを使ってくれ」

 セイバーが士郎に小声で話し掛けながら渡したのは小型のトランシーバーだった。藤ねえが持ち込んだ雑貨類の中に紛れ込んでいたらしい。

「電池は新品だ。これを使えば、直ぐに連絡が取れる」
「分かった」
「じゃあ、勉強頑張ってね、皆」

 士郎から離れ、三人にそう言うと、セイバーは離れて行った。

 士郎達と別れた後、セイバーは裏の雑木林に身を潜めていた。

「今度からは漫画でも持ってこよう」

 只管暇だった。

「話し相手も居ないし、ここを離れるわけにもいかないし……」

 溜息を零しながら、空を見上げる。雲行きが怪しくなって来た。

「おいおい、雨は勘弁してくれよ……」

 そう、呟いた時だった。突然、空から光が降って来た。何事かと目を丸くすると、背後でカチンという音が鳴り響いた。
 慌てて振り返ると、そこには妖艶な美女が居た。

「お、お前は――――」

 ライダーのサーヴァントがそこに居た。彼女は自らの釘剣を弾いた矢を見て舌を打った。

「アーチャー……」

 再度、降り注ぐ流星にライダーが逃走を図る。追おうとすると、今度は俺の目の前に矢が降り注ぎ、慌てて立ち止まった。
 抗議しようと矢が降って来た方に顔を向けると、アーチャーが現れた。

「戯け! 朝、言った事をもう忘れたのか? 貴様では相手にならん。深追いはするな」
「……は、はい」

 叱られ、項垂れるセイバーを放置し、アーチャーは弓に矢を番え、一息の内に十の矢を放った。

「……逃がしたか」
「えっと……、どんまい?」
「……貴様がもう少し使えれば、奴をここで脱落させられたのだがな」

 鼻を鳴らし、息をするように嫌味を吐くアーチャー。

「……ごめんなさい」

 けれど、何も言い返せなかった。

「まあ、いい。それよりも警戒を緩めるな」
「う、うん」

 アーチャーが去った後、セイバーはハッとした表情を浮かべた。

「……今のって、俺を助ける為に釘剣を弾かなければ、倒せてたんじゃ――――」

 狙撃は初撃必殺が基本だと、何かの漫画で読んだ事がある。必勝を期すなら、俺がライダーにやられた直後に矢を放つのがベストだった。
 それに、彼が放った矢も普通のものだった。アーチャーの切り札は投影した刀剣を弾丸とするもの。それを使わなかった理由は俺を巻き込まない為だとすると……。

「やっべー、完全に足手纏いじゃん……」

 思わず頭を抱えた。凛の命令故か、彼は俺の命を優先した。その結果、ライダーを取り逃がす結果に終わった。俺がもう少しちゃんとしていれば……、本物だったなら、こんな風にはならなかった筈。

「……はぁ、本当にごめん、アーチャー」

第七話「聖杯はもはや、儂の手の内じゃ」

 昼休み、凛に呼ばれ、屋上に向う前に士郎は桜の教室へと足を運んだ。改めて、凛とセイバーの件について謝罪をする為だ。あの家は桜や藤ねえのものでもある。家族に黙って、勝手な真似をしてしまったのだから、謝るのが道理というもの。嘘偽りの無い本心を告げ、頭を下げると、桜は広い心で士郎を許した。
 その後、屋上に向おうとしたらチャイムが鳴ってしまい、結局、凛とは会えず仕舞いだった。
 放課後になり、昼休みの事を謝罪しようと凛のクラスへ向うと、彼女は士郎の顔を見るなりニッコリと笑顔を浮かべた。ツカツカと歩み寄ってきて、そのまま攫うように士郎の手を引っ張った。冷やかしの視線を感じながら、人気の無い場所まで連れて来られた士郎は猛烈な殺気を感じて体を震わせた。

「このバカ士郎!」

 耳がキーンとなった。ご立腹な彼女を宥める為に笑顔を浮かべると、「へらへらすんな!」と顔面を殴られた。女の子がグーを使うなよ、と士郎は呻きながら思った。

「せっかく、人が忠告してあげようと思って、待ってたのに! どうして、来なかったのよ!」

 凄い剣幕で迫って来る彼女に士郎はやむなく正直に応えた。

「桜のところって、もしかして……」

 急に怯えたような表情を浮かべて、彼女は言った。

「私が士郎の家で下宿する件で?」
「あ、ああ。朝はうやむやにしちゃったから、改めて許しを請いに行ったんだ」
「……そっか、なら、仕方無いわね」

 彼女はそう言うと、あっさりと矛をおさめた。

「うん、そういう事ならいいわ。それより、お昼に話すつもりだった事なんだけど―――」

 凜が語り始めたのは校内に大規模な結界が構築されているという物騒な内容だった。

「刻印が広範囲に渡って仕込まれてる。発動したら最後、学校の敷地全体を覆う巨大な結界が発生するわ。それと、これが重要なんだけど、こんな強力な結界を現代の魔術師に張れるとは思えない」
「つまり……、結界の主はサーヴァントって事か? なら、マスターは……」
「十中八九、学校の関係者ね。ここに結界を張る以上、紛れ込んでいても不審に思われない人間の仕業でしょうから……」

 凜が怒った理由を士郎は漸く理解した。こんな大変な事態になっている事も知らず、一日を安穏と過ごしてしまった事に士郎は深く後悔した。

「ごめん、俺……」
「今回は大目に見てあげる。理由が理由だったし……」

 許してもらえた事に安堵しつつ、士郎は凛に犯人について問い掛けた。

「マスターは分からないけど、アーチャーがサーヴァントを捕捉したわ」
「本当か!?」
「ええ、詳しくは後で自分のサーヴァントに聞いてみなさい。撃退したのはアーチャーだけど、襲われたのはセイバーだから」
「セイバーが!?」

 愕然とした表情を浮かべ、士郎は凜に詰め寄った。

「セイバーは無事なのか!?」
「落ち着きなさい、士郎。セイバーなら無事よ。アーチャーがしっかり守ってあげたみたいだから」
「アーチャーが……?」

 予想外の言葉に士郎が目を丸くする。

「ええ、だから心配は無用よ。それより、問題なのは、この結界の種類」
「結界の種類……?」
「この結界は発動したが最後、結界内の生物を一つ残らず溶解して、吸収するタイプのもの。魔力で身を守れる私達はともかく、他の魔力を持たない人間は瞬く間に衰弱死しかねない。一般人を巻き込む巻き込まないのレベルじゃない。この結界が発動したら、学校中の人間が皆殺しにされる」
「な……」

 言葉を失う士郎に追い討ちをかけるように凜は続けて言った。

「分かる? こういうふざけた結界を張らせる奴がこの学校に潜むマスターなの」

 警戒を怠るな。彼女が言った言葉が胸に突き刺さる。

「遠坂……。この結界を壊すことは―――-」
「とっくに試したけど、無理だったわ。結界の基点は全部見つけたけど、消去は出来なかった。なにしろ、サーヴァントが張ったものだから、私に出来る事なんて、精々基点を一時的に弱めて、発動をお先延ばしにする事くらいよ」
「……先延ばしに出来るって事は遠坂が居る限り、発動を阻止出来るって事じゃ――――」
「そう都合良くはいかないわ。もう、結界の準備は完了している。恐らく、魔力さえ堪ればいつでも発動出来る筈よ。その魔力もアーチャーの見立てによれば一週間程度で堪り切る。そうなったら……、後はサーヴァントかマスターの匙加減次第よ」
「……じゃあ、それまでに学校に潜むマスターを――――」
「倒すしかない。でも、それは難しいと思う。この結界を張った時点でそいつの勝利は確定したも同然。だって、黙っていても結界は発動するんだからね。その時まで、姿を現すとは思えない」
「なら、チャンスがあるとすれば、その時だけって事か……」
「そういう事。だから、今は大人しくしてなさい。その時が来れば、嫌でも戦う事になるんだし、出来るだけ、情報は隠匿しておくべきよ」
「……分かった」

 正直、こんな結界を張った馬鹿を野放しにしてはおけないが、正体を掴めない以上、下手に動く事は出来ない。それより、今はセイバーが心配だ。怪我とかしてないといいんだけど……。

「私は少し用事があるから、先にセイバーと合流して帰りなさい。寄り道はしない事。いいわね?」
「……了解。でも、用事って何なんだ?」
「大した事じゃないわ」

 そう言って、凛は踵を返して離れて行った。不思議に思いながら、士郎はセイバーと合流する為に校門へ向った。門の前でセイバーは空を見上げながら待っていた。

「あ、士郎君!」

 輝くような笑みを浮かべて手を振るセイバー。下校する他の生徒達の視線が痛い。

「……お待たせ。さっさと帰ろう」

 セイバーの手を掴み、引っ張るように歩き出す。セイバーは慌てた様子で俺の歩調に合わせて歩き始める。茜色の空の下、二人の影がまるで寄り添っているかのように見える。

「……そうだ。ちょっと、商店街に寄ってもいいか?」

 士郎が思いついたように言った。

「出来れば、陽が沈む前に帰りたいんだが……」
「三十分くらいで済むよ」
「……了解」

 渋々頷くセイバーに士郎は凛から聞かされた学校の結界について語った。

「……恐らく、結界を張った犯人は俺を襲った女だろう」
「そう言えば、大丈夫だったのか? 怪我とかは……」
「心配いらないよ。アーチャーが守ってくれたからね」
「……ちょっと、意外だな」

 士郎は眉を顰めながら呟いた。

「アイツ、セイバーを守るより、セイバーを利用して敵を打ち倒すタイプだと思ってた」
「同感だよ。というか、その方法を取れば、アーチャーはあの場で敵を倒せていた筈だ。あんな厄介な結界を張ったサーヴァント。彼の立場からすれば、俺を見捨てた方が効率的だった筈だし、賢明でもあった。なのに、どうして……」
「熱心に稽古をつけたり、アイツはセイバーの事を知ってるんじゃないのか?」
「……その可能性は高いな。俺ではなく、アーサー王の事をだろうが――――」
「よく考えると、最初にアイツがうちに乗り込んで来た時も同盟を結ぶ前だったってのに、迷わずセイバーからランサーを引き剥がして助けたよな」
「……そう言えば」

 セイバーは戸惑いの表情を浮かべた。

「幾らなんでも、ちょっとおかしいな」

 凛の指示があったにしても、彼はセイバーにとって都合の良いように動き過ぎている。
 
「もしかして、アイツ、セイバーの事が好きなのかもな」
「正確にはアーサー王の事をだけどな。そうなると、彼には悪い事をしたな」
 
 原作で彼がセイバーをどう思っていたのかは分からなかった。少なからず憧憬を抱いていたようだけど、果たして……。
 どこか違和感を感じながらも、セイバーは話を切り上げる事にした。どちらにしても、他人の心なんて分からない。

「とりあえず、さっさと買い物を済ませて、帰ろう」
「ああ、了解」

 マウント深山は深山町の中心部にある唯一の商店街だ。新都の方にはもっと立派なショッピングモールもあるが、深山町の人々は基本的にここで買い物を済ませる。それ故に夕食時であるこの時間はとくに賑やかだ。
 
「やあ、士郎君。今日は可愛い子を連れてるねー」

 突然、八百屋の親父が話しかけてきた。びっくりして目を丸くするセイバーを尻目に士郎は談笑しながら野菜を買う。

「キャベツはどうだい? 甘いよー」
「じゃあ、それも」

 その後も肉屋や魚屋、酒屋で士郎は店主と挨拶を交す。その光景にセイバーは士郎がこれまで生きて刻んできた軌跡を見た気がした。
 時折、セイバーにも話の矛先が向う事もあり、何だか奇妙なくすぐったさを彼は感じた。

「凄いな、士郎君」
「なにが?」

 帰り道。手分けをして荷物を持ちながら、セイバーが切り出した言葉に士郎は首を傾げた。

「俺はあんな風に行く先々のお店で談笑した事なんて無かったよ」
「一人暮らしになる前から、家事は俺が担当してたからなー。子供の頃から通ってるから、すっかり顔を覚えられちゃっただけだよ」
「彼等はまさに士郎君の生きた証だな。君が死んだら、きっと、彼等も悲しむ。一層、君を守らなきゃって思ったよ」
「……セイバー」

 瞳に決意の炎を燃やすセイバーに士郎は複雑そうな表情を浮かべた。
 そんな決意して欲しくないというのが本音だ。本当は戦いなんか無縁な生活を送っていたのに、奇妙な運命の下、彼はここに居る。自分を護る為に命を使い捨てるような真似をする。そう言うのは、嫌だ。
 
「俺は――――」
「ストップだ、士郎君」

 士郎の言葉を遮り、セイバーは警戒心に満ちた声で囁いた。
 セイバーの視線の先を見ると、そこに彼女が居た。銀色の髪を靡かせる幼い少女、イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。

「お、お前は……」

 咄嗟にセイバーを庇おうと動いた士郎の前にセイバーが躍り出る。

「……イリヤスフィール」

 セイバーの声が恐怖で震えている。そんな彼を無視して、イリヤの視線は士郎に向けられていた。

「良かった。生きてたんだね、お兄ちゃん」

 心の底から嬉しそうな顔で彼女は言った。
 士郎の体を引き裂いた怪物の主が天使の様な笑顔を浮かべ、近づいて来る。

「――――お前はイリ、ヤ?」

 恐怖で言葉が詰まった。

「え……」
「じゃなかった。えっと、そう、イリヤスフィール。えっと、間違えて悪い……」

 何で、自分を殺しかけた相手に謝っているんだろう?
 いや、理由は分かっている。何故か、彼女が泣きそうな顔をしているように見えたからだ。
 不機嫌そうな彼女に士郎は慌てた。

「わ、悪気は無かったんだ。その、つい……」
「……名前」
「へ?」
「名前、教えてよ。私だけ知らないのは不公平」

 一瞬、何の事だから分からなかった。

「名前……、ああ、名前か!」

 そう言えば、彼女はちゃんと名乗ったけれど、自分はまだ名前を口にしていない。その事に気付いた士郎は頬を掻きながら自分の名を少女に告げた。

「……エミヤシロ? 不思議な発音ね」
「俺もそんな発音で言われたのは初めてだよ。それじゃあ、『笑み社』だ。衛宮が苗字で、士郎が名前。呼び難いなら、士郎ってだけ覚えてくれ」

 イリヤのあまりにもキテレツな発音に思わずツッコミを入れてしまった。ビシッと鼻先に指を突きつけると、彼女は再び泣きそうな顔をした。

「……シロウ。シロウかぁ……、うん、気に入ったわ。単純だけど、響きが綺麗だし、合格よ。これなら、さっきのも許してあげる」

 そう言って、彼女はシロウの腕に抱きついた。

「ちょっと、待て、イリスフィール! お、お前、何してるんだよ!」

 咄嗟にセイバーを見る。彼女はハラハラした表情を浮かべながら様子を伺っている。助けるべきか、状況を見守るべきか迷っているらしい。ここは、自分の力で切り抜けるべきだろう。
 ゴホンと咳払いをして、士郎はイリヤスフィールに視線を戻した。ちょっと、不満気な表情。

「私が居るのに、セイバーを見るなんて、どういう了見?」
「い、いや、別にやましい事は何も――――」

 思わず言い訳染みた事を口にしてしまった。
 頭を振り被り、士郎は言った。

「い、一体、何が目的なんだ!? ま、まさか、陽も沈まない内からやり合おうってのか!?」

 腕に絡みついたままの彼女に問う。すると、彼女は実に不思議そうに士郎を見つめた。

「変な事を聞くのね。なに? シロウは私に殺されたいの?」

 細められた彼女の視線に鳥肌が立った。さっきまでの無邪気な笑顔が嘘のように冷酷なマスターの表情を浮かべる。

「……へぇ、よく分かんないけど、シロウがその気なら、予定が早まるけど、ここでセイバー諸共殺してあげるよ?」
「ばっ、馬鹿言うな! 殺されたいわけ無いだろ! それに、こんな所で戦えるか!」
「でしょ? マスターはね、明るいうちは戦っちゃ駄目なんだよ。だから、今は戦わないの」
「いや、分かってるけど、じゃあ、何しに来たんだ? まさか、偶然か?」
「それこそまさかよ。セラの目を盗んで、わざわざシロウを尋ねに来てあげたのよ。感謝なさい」

 再び、彼女は年相応な無邪気な笑顔を浮かべる。その早変わりに眩暈がした。

「えっと、つまり、イリヤは俺にただ会いに来ただけって事か?」
「そうよ。私はシロウと話をしに来たの。今まで、ずっと待ってたんだもの。勿論、いいわよね?」
「えっと……」
 
 判断を仰ごうと、セイバーを見る。彼も困った顔をしている。

「……また、セイバーを見てる」

 再び、ご機嫌斜めになるイリヤ。

「わ、悪い」

 なんで、謝っているのか、自分でもよく分からない。

「……まあ、いいわ。セイバー、私とシロウのお話を邪魔するなら、この場で殺す。それが嫌なら、離れていなさい」
「……わ、分かった」

 とても冗談とは思えない口振りに、セイバーは素直に従い、士郎達から距離を取った。
 下手に刺激してはまずいと判断したらしい。

「さてと、お邪魔蟲は居なくなったし、改めてお話をしようよ。フツウの子供って、仲良くお話しするものなんでしょ?」
「そ、それはそうだけど……。いやいや、俺とお前はマスター同士だし、一度戦った仲だろ! むしろ、敵同士じゃないか!」

 士郎の言葉にイリヤは笑った。

「何を言ってるのかしら? 私に敵なんて居ないわ。他のマスターはただの害虫。シロウはいい子にしてたら見逃してあげる」

 その言葉に背筋が寒くなった。逆らってはいけない。本能がそう、警鐘を鳴らす。

「わ、分かった。話をするんだよな? 俺も、イリヤとは話をしたいと思ってたし、構わないぞ」

 これは本当だ。どうして、こんな幼い子がマスターとして聖杯戦争なんかに参加しているのか、本人の口から聞いてみたいと思っていた。

「やった! じゃあ、あっちに行こう! さっき、静かな公園を見つけたの!」

 言うや否や、イリヤはとっとこ走り出した。一瞬だけ、セイバーを見る。彼はコクリと頷いた。

「……まあ、なるようになるさ」

 観念し、イリヤの後を追いかける。
 公園に到着すると、士郎とイリヤはベンチに腰掛けた。セイバーは入り口の近くで静かに待っている。
 イリヤとの会話は思った以上に穏やかなものだった。彼女は本当に士郎と話がしたかっただけらしく、特別な質問をするわけでも無く、単純に士郎の生活振りに関心を示した。
 
「ねえ、シロウは私の事、好き?」

 最後にそんな質問が飛び出してきた。士郎はとまどいながらも肯定した。

「……まだ、知り合ったばかりだし、色々あったけど、イリヤの事は嫌いじゃない。少なくとも、今みたいなイリヤとだったら、仲良くなりたいと思ってる」
「ほ、ほんと?」
「ああ、なんか、妹が出来たみたいで、何て言うか、楽しい」
「……そっか」

 イリヤは輝くような笑みを浮かべ、士郎に抱きついた。

「……ったく、変な奴だな」

 文句を言いつつ、士郎は不思議な温かさを感じた。それから一時間くらい話した。
 ありきたりな話をイリヤは大いに喜んだ。それが、どうしてだか痛ましく感じて、士郎は彼女に対する印象を変化させた。
 
「……イリヤ」

 この子はあまりにも無邪気過ぎる。もしかすると、善悪の区別すら分かっていないのではと思う程。
 人を殺す事の意味を彼女は理解しているのだろうか? その事を問いかけようと、口を開きかけた瞬間、彼女は突然立ち上がった。

「あ、バーサーカーが起きちゃった。もう、帰らなきゃ」

 そう言うと、ベンチから飛び降り、彼女は「またね」と手を振って、走り去った。
 呆然とする士郎にセイバーが近寄って来る。

「嵐のような子だったな」
「あ、ああ、そうだな」

 しばらくしてから、二人は帰路についた。雪のような髪の少女を思いながら……。

 その夜は魔術の修行にもあまり身が入らなかった。無理をしても仕方が無いと、切り上げようとした時、土蔵の入り口に人の気配を感じた。視線を向けると、そこには意外な人物が居た。

「……アーチャー?」

 何故か知らないが、彼の姿を見た途端、士郎の胸に言い知れぬ苛立ちが芽生えた。今まで、話した事など一度も無いし、幾度と無くセイバーを助けてくれた相手。むしろ、好意を持つべき相手である筈なのに、顔を合わせた瞬間、思った。
 この男とは相容れない。何があっても、認められない。
 そう、互いに感じている。ここまで性が合わない相手が存在する事に驚きすら抱く。

「……何の用だ?」

 士郎が問う。すると、アーチャーは敵意にも似た……否、敵意を士郎に向けた。気圧されそうになる体を必死に堪え、士郎はアーチャーを睨む。

「……何の用かって、聞いてるんだ! お前、見張りをしてるんじゃなかったのかよ」
「ああ、お前などに構っている暇は無い……が、見逃せない事があってな」
「見逃せない事……?」
「何故、凛を頼らないんだ?」

 その言葉の意味がよく分からなかった。

「いや、遠坂の事は頼ってるだろ。むしろ、頼り過ぎなくらいで――――」
「これでは、凛の一人相撲だな。いや、セイバーの……、と言うべきか」
「な、何で、セイバーが出て来るんだよ?」

 これ見よがしに溜息を零され、ムカッと来る。そんな士郎をアーチャーは確かな敵意をもって、射抜いた。

「やはり、お前はセイバーの言う通りの子供だな」
「な、何を――――」
「他人の助けなど要らない。出来る事は全て自分でやる。その思考はセイバーの思いを蔑ろにしている」
「なっ……、うるさい! 俺はセイバーを蔑ろになんかしてない!」
「していないと、本気で思っているのか?」
 
 数刻、二人は黙って対峙した。先に沈黙を破ったのはアーチャーだった。

「……卓越した魔術師が傍に居る。にも関わらず、教えを請わないのは何故だ?」

 そう、アーチャーが問う。

「……え?」

 途惑う士郎にアーチャーは言った。

「アレは請えば否とは言わんだろう。その事を貴様も理解している筈だ。にも関わらず、何故だ? 頭を下げるのが恥ずかしいとでも?」
「いや、俺は……」
「セイバーはお前を守る為に最善を尽くしている。自らに足りないものを補う為、凛に助力を求め、私に指導を請う。そんな彼を誰よりも近くで見ていながら、何故、お前はここで一人、鍛錬とも呼べぬ自慰行為に耽っているのだ?」

 士郎は応えられなかった。凛に助力を請う為に自らの命すら差し出そうとしたセイバー。アーチャーと一晩中竹刀で打ち合う姿も見ている。なのに――――、

「俺はただ……」
「無意味なプライドなど捨てる事だ。大方、女は守る者、とでも決めつけて、彼女達を頼りたくなかったのだろう?」

 その言葉は士郎の内面を正確に評したものだった。

「なんで、そんな事が―――-」
「分かるさ。お前は実に分かり易い愚者だ。正義の味方でも気取っているのだろう?」

 今度こそ、言葉が出なくなった。アーチャーは士郎の心の奥底を見透かした。

「本当に守りたいものがあるなら、そんなくだらない考えは捨てる事だ。無様に地を這い、物乞いをしてでも力をつけろ。如何に崇高な理想を掲げようと、力が無ければ無意味だ」

 アーチャーは踵を返した。

「お、おい――――」
「……後悔したくなければな」

 つい、その背中を追いかけようとして、彼の呟きに足が止まった。

「それと、一つだけ忠告してやろう」

 アーチャーは闇に消えながら士郎に告げた。

「セイバーはその身こそ英霊のものだが、中身はたんなる一般人だ。その判断能力は賢明ではあっても、所詮は素人のもの。その事を忘れるな」
「それ、どういう――――」

 意味を問い質そうとした時にはもう、アーチャーの姿はどこにも無かった。

「なんだ……、アイツ。言いたい事だけ言って……」

 まあ、要約すると、考えを貫くつもりなら、プライドなんて捨てて凛に教えを請えって事だろう。じゃなきゃ、セイバーが可哀想だ、と。

「アイツ、本気でセイバーの事が好きなんじゃないか?」

 結局、今のもセイバーの為の行動に思えた。そう思うと、怒りはふっと消えて、思わず笑ってしまった。

 湿った密室の中、少女は一人、階段を降りていく。足下で蠢く無数の蟲が彼女の為に道を開く。その先で、少女を出迎えたのは一人の老人だった。

「報告を聞こう」
「……居ました。ただ、中身は異なるようです」

 少女の報告を受け、老人はけたたましく笑い声を上げた。

「面白い。どうなるか気になっておったが、まさか、そうなるとはな!」

 腹を抱えて笑い続ける老人に少女は願う。

「お爺様。どうか……、先輩の事は」
「ああ、分かっておる。サーヴァントは倒さねばならぬが、マスターはその限りでは無い。まあ、お前の協力次第だがのう」
「……はい」

 老人は背後の空間に視線を向ける。

「面白い事になる。お主もそう思うじゃろう?」

 暗い影の中に居て、その存在の姿を確認する事は出来ない。
 ソレはただ、肯定を示す動作をするだけ。声一つ上げない。
 老人はそれで満足らしく、歓喜の下、勝利の確信を謳った。

「此度の戦、準備は万全よ。聖杯はもはや、儂の手の内じゃ」

第八話「――――投影、完了」

 昨日に続き、土蔵で目を覚ました。外に出ると、案の定、道場から竹刀の音が響いている。覗き込んでみると、セイバーとアーチャーが稽古の真っ最中だった。

「……あれ?」

 ジッと眺めていると奇妙な違和感を覚えた。
 セイバーの動きが格段に良くなっている事にも驚いたが、それ以上にアーチャーの動きに驚いた。
 アーチャーが戦う姿を士郎は二度目撃している。一度目は学校。二度目は衛宮邸。そのどちらにおいても、彼は常に双剣を握り、戦っていた。その卓越した剣捌きを見るに、アーチャーにとっての最強はあの双剣を使った戦い方の筈だ。
 にも関わらず、アーチャーは今、竹刀という長刀を完璧に使いこなしている。ただ、扱えるだけ、という感じじゃない。そう戦い方こそが自らの最強なのだと謳うかのようなずば抜けた剣技を披露している。
 けれど、それはおかしい。アーチャーにとっての最強はやはり、双剣による戦い方である筈だ。あんな風に真っ向から敵を切り裂く清廉な剣はむしろ――――、

「……セイバーの剣技?」

 そうだ、自分は一度、あの剣技のオリジナルを目撃している。バーサーカーとの戦いの折に令呪を使ってセイバーが引き出した霊魂に蓄積されているアーサー王の剣技だ。
 どうやら、アーチャーはその剣技を模倣して見せる事で、セイバーに最適な剣技を覚えさせようという魂胆らしい。
 けれど、解せない。幾らなんでも、たった一度見ただけの剣技をあそこまで完璧に模倣出来るものだろうか? それこそ、俺なんかじゃ一生を修練に費やさなければ到達不可能な領域の業だ。士郎は思った。
 仮に一回見ただけで完璧に模倣して見せたと言うのなら、如何に英霊とはいえど、常軌を逸している。それこそ、剣聖と呼ばれる程の剣豪クラスの技量が必要な筈だ。だが、そんな英霊がセイバーではなく、アーチャーとして召喚されるなどあり得ない。究極の剣技を持つ者がその剣技を上回る射撃の名手であるなど、子供の空想レベルだ。

「やっぱり、アイツは……」

 もう、間違い無い。アイツはセイバーを……、いや、アーサー王を知っている。もしかすると、有名な円卓の騎士の一人なのかもしれない。そして、幾度となく、騎士王の剣技を見続けて来たのだろう。あれほど完璧な模倣が出来るくらい……。
 自らに最も適した剣技を真っ向から受ける事で、セイバーの技術は昨日の稽古の時と比べて遥かに上達している。
 結局、最後までセイバーの竹刀はアーチャーの体に当たらなかったけれど、その技量は既に一般人のレベルを超えている。

「――――お疲れ、セイバー」

 アーチャーが稽古の終わりを告げ、姿を消した後、士郎は水とタオルをセイバーに渡した。

「ありがとう、士郎君」

 汗を掻いている様子は無いが、セイバーは実に美味しそうに水を飲んだ。

「彼は教え方が上手いな」

 セイバーは心からアーチャーを讃えた。

「剣道部に所属していた事があったけど、その頃と比べても上達の早さが段違いだ。何て言うか、凄く馴染むんだよ、彼が教えてくれる技術が――――」

 興奮した面持ちのセイバーに士郎はついさっき考えたアーチャーの正体に関する推理をセイバーに聞かせてみた。すると、彼は複雑そうな表情を浮かべた。

「……まあ、彼の正体が何であれ、アーサー王を知っていた事に疑いの余地は無いな。なるほど、彼が教えてくれたのはアーサー王の剣技だったわけか……。道理で、馴染むわけだ」

 セイバーは立ち上がり、竹刀を振った。

「……士郎君。俺はアーサー王じゃない」
「ああ、知ってるよ」
「日野悟。それが俺の名前だ」
「ああ、それも知ってる」
「けど、俺の中にはアーサー王の霊魂が存在している。その力を使いこなせるようになれば―――-」
「……セイバー」
 
 セイバーの言葉を遮り、士郎は言った。

「俺も強くなるよ」
「士郎君……?」

 士郎はアーチャーが置いて行った竹刀を手に取った。

「一緒に強くなろう、セイバー」
「えっと……、そろそろ準備しないと学校が――――」
「今日は休む」
「……なんか、火が点いちゃった感じだな」

 苦笑いを浮かべるセイバーに竹刀を向ける。

「それじゃあ、いくぞ!」
「……ああ、いや……待った」

 一瞬、応じようとしてから、セイバーは何を思ったか、道場の脇にある木刀を手に取った。

「――――士郎君。やるなら、こっちを使ってみてくれ」

 セイバーが持って来たのは短いサイズの木刀だった。子供用というわけじゃない。剣道にも二刀流は存在する。この短い木刀はその為のもので、昔、藤ねえが練習の為にここに持ち込んだものだ。
 ただ、剣道における二刀流は長刀と短刀を使うのがセオリー。二つとも短い木刀を持って来た理由は一つ。

「……セイバー?」
「これは単なる思い付きだけど――――」
 
 そう、前置きをして、セイバー言った。

「折角、身近に凄い剣士が居るんだし、お手本にしてみたらどうかなって、思ったんだ。俺が教わってるのはアーサー王の為の剣技だし、今の俺には君に教授出来る程の実力が無いから」
「……そうだな。アイツの剣技か」

 士郎は瞼を閉じて、これまでに見たアーチャーの剣技を思い浮かべた。到底、真似出来るとは思えない卓越した剣技。弓兵のくせに、剣士を称してもおかしくない奴の剣捌きをイメージする。
 軽く振ってみると、不思議と竹刀がいつもより軽く感じた。

「――――よし、ちょっと、打ち合ってみるか、セイバー」
「ああ、来い、士郎君。言っておくが、アーチャーのおかげで今の俺はそこそこ強いぞ」

 不適にな笑みを浮かべるセイバー。向かい合い、呼吸を一定に保つ。
 自分からは攻め込まない。アーチャーの剣技は守りに特化したものだ。鉄壁の守りを築き、微かな活路を見出す。ある意味、狙撃を生業とする弓兵らしい型だ。
 セイバーが動いた。アーチャーの剣技が守りの型だとすれば、セイバーが習っている騎士王の剣技は攻めの型。嵐の如き剣戟が襲い掛かって来る。
 上達しているとは思ったが、真っ向から受けると、その技量の凄まじさに言葉を失う。

「アーサー王の剣技と聞いて、気付いた事がある」

 セイバーが言った。

「恐らく、アーチャーは心眼のスキルを使っていたんだろうけど、これは本来、直感のスキルを利用して扱う剣技だ。だから、彼は事ある毎に俺に直感のスキルの使い方を注意してたんだな」

 直感のスキル。それはセイバーが保有する固有スキルの一つだ。戦闘時、常に自身にとって、最適な展開を感じ取る能力。未来予知にも等しい研ぎ澄まされた第六感。
 そのスキルを前提とした剣技。

「くっそ、負けるか!」

 攻めに入れば、振るった木刀に力が乗る前に弾かれる。更に、神速の追撃に襲われ、肝を冷やす事になる。攻撃が鉄壁の守りにもなっている。戦慄すら覚える隙の無い剣筋。防げているのが奇跡に等しい。
 あらゆる攻撃に備えるアーチャーの剣技はまるであらゆる無駄を削ぎ落としたかのような精密かつ、軽快な挙動でセイバーの攻撃への対処を可能とする。彼の剣技を模倣していなければ、恐らく、セイバーの剣を前に数秒と持ち堪えられなかったに違いない。
 けれど、不思議だ。アーサー王の剣技程では無いにしても、アーチャーの剣技も十分に神業めいている。なのに、どうしてこんなに馴染むのだろうか? まるで、自分の為に用意されたかのようにすら感じる。
 時間を忘れるほど、その攻防に夢中になった。互いに打ち合う度に研ぎ澄まされていくように感じる。
 藤ねえとは数えるのも馬鹿らしいくらい打ち合った事があるけど、いつも負けっぱなしだった。だから、こうやって、戦う事が楽しいと思った事は無い。だけど、この時間だけは別だ。セイバーとのこの打ち合いは永遠に続いて欲しいと願う程、楽しい。

「セイバー!」
「士郎!」

 結局、打ち合いが終わったのはお昼だった。汗だくでダウンした士郎にセイバーが氷を入れた水を運んで来る。

「お疲れさま。いや、楽しかったな」
「ああ、ほんと……。なんか、こんなに楽しくて夢中になったの久しぶりだ」

 友達との遊びでも、部活動でも、趣味でも、魔術の鍛錬でも、家事でさえ、こんなに楽しいと思った事は殆ど無い。
 正義の味方を目指す者として、こんな風に誰かを傷つける技術の向上に歓喜するのは如何なものかとも思うが、楽しかったものは仕方が無い。

「シャワーを浴びた方がいいな」
「セイバーが先でいいよ。俺はもうちょっと、ここでゆっくりしてるから」
「そうかい? じゃあ、お言葉に甘えるとしよう」
「それと、後で気分転換に商店街に行ってみないか? 正直……、昼飯を作る気力が湧かないんだ」
「同感。美味しいお店を紹介してくれ」
「了解。幾つか候補を見繕っとくよ」
「楽しみにしてる。じゃあ、先に行ってるね」
「ああ」

 セイバーが母屋に向った後、士郎はセイバーを連れて行くお店選びに取り掛かった。
 折角だし、抜群に美味い店を紹介してやりたい。この世界で生きる事も悪く無いって思うくらい、美味い店を……。

「……そうだよ。俺が強くなれば解決する話なんだ」

 拳を強く握り締め、士郎は呟いた。

「誰にも負けないくらい、強く……」

「それで、どこに行くんだい?」

 二人で並んで歩いていると、セイバーが尋ねてきた。

「セイバーの好みは? それに合わせるよ」
「俺の好み? そうだなー、辛い物は全般的に好きだよ。だから、カレーとか中華がいいかな」
「辛い物か……」

 途端、士郎の顔に暗い影が過ぎった。

「あ、いや、士郎君が辛いの苦手なら別のでいいよ。洋食も割と好きなんだ。大学に入って、バイトをするようになってから、月一で食べ歩きなんかもしてたんだ。そん中で食べたイタリア料理やロシア料理は特に絶品だった。エスカルゴは食べた事ある?」
「エスカルゴって、カタツムリだろ? うーん、あんまり我が家の食卓に並ぶものじゃないなー」
「なら、折角だし、エスカルゴが置いてありそうなイタリアンのお店に行こうよ。あの味を士郎君にも是非知って欲しい」

 ちょっと、計画にズレが生じ始めた。セイバーは思ったよりグルメらしい。ここはドカンとインパクトで勝負するべきか……。

「いや、やっぱり中華にしよう」
「いいのかい? 苦手なんじゃ……」
「いいから、行くぞ。とびっきりのお店を紹介してやる」

 正直、あのお店はトラウマ以外の何者でも無い。本来なら、誰かに紹介したいお店じゃない。だけど、グルメなセイバーを唸らせるとなれば、並大抵なお店じゃ不可能だろう。
 ここは、賭けるしかない、あの店に!

「……あっ」

 不意にセイバーが立ち止まった。どうしたのかと、顔を向けると、その視線の先に見知った少女の姿があった。
 少女が此方に気付いている様子は無い。立ち去ろうと思えば、気付かれずに立ち去れるだろう。だけど……、

「いいと思うよ」

 何も言ってないのに、セイバーは苦笑しながら言った。

「気になるんだろ? あの娘の事が」
「……ごめん、セイバー。ちょっと、寄り道する」

 少女に近寄り、そっと声を掛ける。

「――――イリヤ」
「だ、誰!?」
「俺だよ」
「シ、シロウ……? え、ほんとに、シロウ?」

 酷く驚いた様子を見せるイリヤに士郎は苦笑を洩らした。

「偶然通り掛ったら、イリヤの姿が見えたから、声を掛けたんだ。ちょうど、イリヤとはもう一度会いたいと思ってたしな」
「え……?」

 驚きに目を丸くするイリヤ。

「どうして……? 私はシロウを殺すつもりなんだよ? なのに、どうして、会いたいなんて……」
「どうしてって、改めて聞かれても困る。俺はただ、マスターとしてじゃなくて、普通にイリヤと会話をしたと思ったんだ」
「私と……、普通に?」
「ああ、普通に話したいだけだ。昼間は戦わないってのが、マスターのルールなんだろ? だったら、ちょっとくらい聖杯戦争を忘れてもいいじゃないか。殺すとか、殺さないとかは置いといて、昨日みたいに話がしたいんだ」
「えっと……、まあ、ちょっとくらいならいい……のかな?」

 それから、士郎とイリヤは二人で他愛の無い話をした。
 セイバーはそんな二人を微笑ましげに見つめている。
 一時間くらい話した後、イリヤのお腹が鳴った。

「今のは……」
「ち、違うの! 今のは私じゃなくて――――」
「俺のだよ、士郎君」

 顔を真っ赤にして否定するイリヤにセイバーがジュースの缶を向けながら言った。

「いっぱい話して、喉が渇いたんじゃないか?」
「……いらない」

 イリヤはそれまでと打って変わって、冷たい表情を浮かべて言った。

「お、おい、イリヤ――――」
「待った、士郎君」

 思わず口を挟もうとした士郎を遮り、セイバーはイリヤに謝った。

「余計な事をしたみたいだね。ごめん、話の腰を折る真似をしちゃって」
「……別に」

 口を尖らせるイリヤ。どうやら、イリヤは会話を中断させられた事に御立腹らしい。

「……そうだ。イリヤも行かないか?」
「行くって?」

 首を傾げるイリヤに士郎はこれからセイバーと二人で食事に行く予定である事を話した。
 話してから、しまった、と思った。これから行くお店はまだ幼いイリヤの心にトラウマを植えつけかねない。

「いや、無理ならいいんだけど……、イリヤにも都合があるだろうし――――」
「いいわよ」

 イリヤはアッサリ同意した。

「えっと……、いいの?」
「ええ、折角、シロウが誘ってくれたんですもの。邪魔物が居るのは気になるけど、我慢してあげる」

 自分の作戦が音を立てて崩れるのを士郎は察した。こうなったら、主賓はイリヤに変更するしかない。

「それで、どこに行くの?」
「ああ、士郎君がとっておきの中華屋を紹介してくれると――――」
「い、いや、今日は別の所にしよう」
「ええ、なんで!?」

 イリヤが不満の声をあげる。

「セイバーにはとっておきを教えてあげるのに、私には教えたくないって言うの?」
「い、いや、そう言う事じゃなくてだな! た、ただ、あんまりその、イリヤの口に合うかどうか……、そこまで美味いってわけでも」
「なんだ、とびっきりのお店って言うから、ちょっと期待してたんだが……」

 しまった。イリヤを宥めようとしたら、セイバーをガッカリさせてしまった。

「ち、違うんだ。ほら、セイバーは辛い料理が好きなんだろ? けど、イリヤには――――」
「あら、私だって、辛いのくらいへっちゃらよ」

 ジーザス。言葉を重ねれば重ねるほど、ドツボに嵌っていく。
 結局、士郎は二人をトラウマが残る中華料理屋に連れて来る事になってしまった。
 マウント深山に唯一存在する中華料理屋。名を、『紅洲宴歳館・泰山』と言う。真昼間の書き入れ時だというのに、締め切られた窓ガラスのせいで店内の様子が見えず、一見さんが悉く逃げ帰るという商店街きっての魔窟だ。
 ちびっこ店長と親しまれる謎多き中国人・魃さんとは、町内会のボランティア活動の時にちょくちょく会うのだが、彼女が振るう十字鍋の中身を見た日以来、彼女の店の半径十メートル以内には決し近づくまいと心に誓っていた。
 今日、その誓いを破る。破ってしまう。

「先に二人に言っておく」
「なんだい、士郎君?」
「なにかしら、シロウ?」
「ここでは甘酢あんかけ系以外、決して頼んじゃ駄目だ」
「えー、私はチンジャオロースが食べたいの!」
「俺も麻婆豆腐が食べたいんだが……。もしかして、お金が―――-」
「……あ」
「ち、違う! お金の問題じゃない!」

 切ない表情を浮かべる二人に慌てて言った。

「と、とにかく、中に入れば分かる! いくぞ!」

 もう、後は直接見せて分からせるしかない。最悪、二人が食べられないようなら、自分が三人分食べるだけだ。ここでは決して、残すという選択肢を与えてもらえない。食べ終わるまで、外に出る事は許されない。

「い、いくぞ!」

 ここはまさに戦場。決死の覚悟を決めて挑まねばならない。

「き、気合入ってるね、シロウ」
「よ、よく分からないけど、俺達も気合を入れておくか、イリヤスフィール」
「そ、そうね、セイバー」

 何故か、ドン引きされてる気配があるが、気にしてはいられない。

「いざ!」

 中に入ると、速攻で店長が飛んで来た。あれよあれよと言う間に席に通され、メニューを渡される。
 甘酢あんかけ系は……、

「な、無い……だと?」

 脂汗が滲み出る。無い。どこにも、無い。ページを捲る手が震える。

「ど、どうしたの、シロウ?」
「し、士郎君?」
「ちょっと、待っていてくれ!!」

 探す。ある筈だ。前は確かにあったんだ。

「ちょ、ちょっと、魃さん! あんかけ系は!?」
「ああ、撤去したアル」

 我が耳を疑った。

「そ、そんな――――」

 まずい。こうなったら、もう、土下座でも何でもして、ここから出よう。二人をもっと別の……、そうだ、高級イタリアンに連れて行こう。全財産を叩いてでも、二人に素晴らしい御馳走を――――、

「麻婆豆腐とエビチリ、それに、チンジャオロースとラーメン。了解アル。それで、シロウ君は――――」
「どうして、そんなに頼んじゃうんだよぉぉぉぉぉ!?」

 顔を上げると、二人はとっくに注文を済ませていた。
 叫ぶ士郎にイリヤは精一杯の優しさを篭めた笑顔で言った。

「大丈夫よ。ここは、私が奢ってあげるから、シロウも好きな物を注文しなさい」

 その様はまるで駄々を捏ねる弟をあやす姉のようで……、士郎は何故か目からしょっぱい液体が流れるのを感じた。

「……白い御飯」
「し、士郎君?」
「白い御飯を食べたいんだ!」

 セイバーとイリヤは顔を見合わせた。お互い、目だけで相手の気持ちが分かった。

「そ、そうか、白い御飯か、そうだよな! 士郎君は日本人だもんな!」
「そ、そうね。日本人たるもの、白い御飯は外せないわよね!」

 そして、数分後、店長が届けた料理の数々にイリヤとセイバーは絶句した。

「……なにこれ」

 イリヤは真紅の液体に真っ白になっている。

「……ああ、そうか、ここが」

 セイバーは何やら納得した風な表情で目を細めた。
 二人は一口舐め、悟った。

「……シロウ。豚の餌を私に食べさせるなんて、死にたいのかしら?」

 ニッコリと笑みを浮かべるイリヤ。

「いや、こんなもの喰ったら、死ぬぞ。豚が……」

 そんな彼女にセイバーがよく分からないツッコミを入れる。

「大丈夫だ、二人共」

 そんな二人に士郎は不思議な程爽やかな笑みを見せた。

「し、士郎君?」
「え、シロウ……、何をする気?」

 その表情がまるで……、これから磔の丘に歩き出そうとする神の子のようで、二人は士郎に手を伸ばす。その手を振り払い、士郎はレンゲを手に取った。

「だ、駄目よ、シロウ!」
「ま、待て、待つんだ、士郎君!}

 少女達の制止の声を振り切り、少年は往く。真紅に彩られた地獄の道を―――-、

「――――――――!}

 声にならない悲鳴を上げ、全身の穴という穴からよく分からない液体を出し、それでもレンゲを口に運ぶ士郎にセイバーとイリヤはただ、静かに涙を零した。

「……サーヴァントとして、俺も共に逝くよ、士郎君」
「……ふふ、仕方ない子ね、シロウは」

 二人は顔を見合わせ、レンゲを手に取る。咄嗟に気付き、止めようと士郎が声を上げようとするも、口が痺れて間に合わなかった。

「――――――――!}
「――――――――!}

 二人の声無き絶叫。
 最終的に士郎が麻婆豆腐とエビチリ、ラーメンを完食し、イリヤとセイバーは何とかチンジャオロースを完食した。
 英霊の耐久力をもってすら、甚大なダメージを与える泰山の中華。三人はよろめきながら外に出ると、直ぐ近くのコンビニで飲むヨーグルトを買い、一気に飲み干した。

「……セイバーの言ったとおりだな。口の中が少し、マシになった」

 目が充血し、唇も腫れ上がり、別人のような顔をしている士郎。

「……とりあえず、あんな危険地帯は二度と行かないからな、士郎君」

 セイバーは一緒に購入したウェットティッシュでイリヤの汗を優しく拭っている。

「……シロウの馬鹿。あんなとこ……、あんな」
「いや、本当にすまなかった。どうかしてた……、よりにもよって、二人を泰山に連れて行くなんて……。今度、この埋め合わせをさせてくれないか?」

 必死に頭を下げる士郎にセイバーとイリヤは苦笑いを浮かべあった。泰山という地獄を共に共有した事で、そこには奇妙な友情が生まれていた……。

「次はちゃんとした場所に連れていってね、シロウ。じゃないと、許してあげないんだから」
「あ、ああ! 今度はちゃんと美味しい店に連れてく!」
「期待してるからね。じゃあ、そろそろ帰る時間だから、私は行くね。バイバイ、シロウ、セイバー」

 走り去るイリヤを士郎とセイバーは静かに見守った。
 彼女の後姿が見えなくなった後、セイバーが言った。

「ところで、あのお店を選んだ真意は一体、何なんだ?」

 純粋な疑問。士郎は視線を泳がせながら言った。

「……ちょっと、歩かないか?」
「……いいけど」
 
 士郎はセイバーを連れて、川の方へと向った。静かな場所で話がしたかった。
 川辺に辿り着き、ベンチに座る。二人はしばらくジッと、川の水面を見つめた。

「……セイバーは消える以外の選択肢は無いって言ったよな?」
「……ああ、その事か。どうにもならない事だから、士郎君が何か思い悩む必要は――――」
「俺は嫌だ」

 セイバーの言葉を遮り、士郎はハッキリと言った。

「士郎君……」
「俺はセイバーが消えるなんて、嫌だ」
「……言っておくが、俺は男なんだぜ?」
「知ってるさ。別に、セイバーが女の子の体だから言ってるんじゃない。最初はただ、いきなり聖杯戦争なんかに巻き込まれて、それで消える以外の選択肢が無いって事に納得がいかなかった。けど、今はそれだけじゃない」

 士郎は視線を尖らせて言った。

「セイバーはもう、赤の他人じゃない。純粋に消えて欲しくないんだ」
「士郎君……。けど、俺がこの世界で生き残る道は――――」
「俺が強くなればいいんだ」

 士郎は言った。

「セイバーが元の姿に戻っても、俺がセイバーを……、日野さんを守る」
「……気持ちは凄く嬉しいよ、士郎君」

 けど、とセイバーは俯いた。

「それは君に大きな犠牲を払わせてしまう」
「そんなの――――」
「君の未来を大きく歪める事になる。色んな事を諦める必要があるだろうし、とても危険だ。魔術協会と聖堂教会の両方を敵に回す可能性があるんだよ? そんな立場に君を置きたくない」

 セイバーは言った。

「俺だって、もうとっくに、士郎君の事を他人だとは思っていないよ。ただ、純粋に君を守ってあげたいと思うから、ここに居るんだ。だから――――」
「でも、そんなの――――」

 二人の声が不自然に途切れる。感情が一気に冷えた。

「セイバー。今のって……」
「悲鳴……」

 空はいつしか暗くなっていた。泰山で思った以上に時間を浪費してしまっていたらしい。
 悲鳴が聞こえた方へ走り出す。迷う事は無かった。あまりにも強烈な魔力の波動を感じるからだ。
 きっと、この先には死が待ち受けている。本当なら、セイバーを連れて逃げるべきだ。だけど、逃げて、その後、悲鳴の主はどうなる?
 その人を見殺しにしたら、きっと、何かが壊れる。そんな気がして、無我夢中に走った。

「ここは……」

 そこは公園だった。甘ったるく淀んだ空気が満ちている。

「アレは――――」

 セイバーがいつの間にか武装して前に出た。その顔は恐怖と怒りに歪んでいる。
 彼に遅れて、士郎もその光景を視認し、吐き気を覚えた。
 黒い装束の女が意識を失っている女性の首筋に吸血鬼の如く口をあてている。
 そいつは人を喰っていた。肉ではなく、中身……、精神や霊魂といった、命そのものを吸っている。

「衛宮か……。学校をサボって、こんな時間にこんな場所を徘徊しているなんて、悪い奴だな」
「え……、慎二?」

 そこに居たのはクラスメイトの間桐慎二だった。間桐の姓で分かるように、彼は桜の兄であり、士郎にとっての旧友だ。
 そんな彼がどうしてこんな場所に居るのか、士郎は直ぐに理解出来なかった。

「どうしたんだよ、固まっちゃってさ。サーヴァント同士が顔を合わせたんだ。やる事は一つだろ? 鈍いお前の為に分かり易い演出までしてやったんだ。トロイ反応をするなよ」

 聞き慣れている筈の彼の声が酷く耳障りに感じられる。

「……お前が殺させたのか?」

 震える声で問い掛ける士郎に慎二はククッと笑った。

「馬鹿だね、お前はやっぱり。サーヴァントは人間を喰う存在だ。それだけ言えば、さすがに分かるよなぁ?」

 怒りで頭がどうにかなりそうだ。

「まあ、僕もどうかと思うよ。こいつ等と来たら、まったくもって、品性が無い。けど、魔力を与えないと維持出来ない以上、仕方なしと諦めるしかない。お前だって、自分のサーヴァントに餌をやる為に得物を探してるんだろ?」
「慎二……、そこを退け。その人を病院に連れて行く」

 士郎が言うと、慎二は今世紀最大のジョークを聞いたかのような笑い声を発した。

「病院だって? 病院なんかで助けられるものかよ。この女を助けたいなら、頼る場所が違う。そんな事も理解出来ないなんて、本当に馬鹿な奴だな」

 慎二が奇妙な本を掲げる。

「馬鹿面下げたまま、死んじまえよ」
「士郎君、退がって――――」

 セイバーが飛び出す。黒い装束の女とセイバーが戦いを始めた。
 今のセイバーではサーヴァントを倒す事は出来ない。止めなければ……、彼女を見捨てて逃げなければ、セイバーが死ぬ。でも、逃げたら、被害者の女性が助からない。彼女を救うなら、セイバーに命懸けで時間を稼いでもらい、その間に連れ去るしかない。どちらか一方を選べば、一方が死ぬ。そんな究極の選択をいきなり突きつけられ、咄嗟に応えられる筈が無い。

 雁字搦めになりながら、必死に考える。両方を助ける方法――――、そんなもの、一つしかない。

「……強さが要る。今直ぐに力が要る」

 セイバーを守りたい。
 被害者を救いたい。
 両方為すには力が要る。現状を打破する力――――、

「――――今、ここで力を!」
 
 俺みたいな未熟者がこの現状を打破するには、少なくとも徒手空拳はまずい。必要なのは武器だ。それも、木刀や竹刀のような生半可なものではなく、英霊相手に通用する強い武器が必要だ。鍛え上げられた強力な武器。俺には分不相応なものであっても、アイツが持っていたような武器があれば――――、

「――――投影、開始」

 どんなにねだっても、今ここでアイツが剣を貸してくれる筈が無い。そもそも、今、遠坂とアーチャーがどこに居るのかも分からない。
 だから、今ここで武器を手に入れるには、作る以外の選択肢など無い。
 無いものを作れ。足りないものは偽装しろ。セイバーを守りたいなら、何を犠牲にしてでも力を手に入れろ!
 視界がスパークする。何も見えない。何も聞こえない。だけど、そんなのどうでもいい。力が必要なんだ。力を手に入れたいんだ。
 力を、力を、力を、力を、力を、力を、力を、力を、力を、力を力を、力を、力を、力を、力を力を、力を、力を、力を、力を力を、力を、力を、力を、力を力を、力を、力を、力を、力を――――!!

「――――投影、完了」

第九話「まずは学校でいつもどんな風に過ごしているのか、聞かせてもらえるかな?」

 セイバーと黒衣のサーヴァントの戦いはほぼ、一方的なリンチの様相を見せていた。なにしろ、敵があまりにも速い過ぎる。直感のスキルによる迎撃が間に合わず、体の至る所から血を垂れ流している。激しい痛みが思考を鈍化させ、更に苦戦を強いられるという悪循環。

「ッハハ、なんだ、ただの木偶の坊じゃないか! どうやら、外れを引いたらしいな、衛宮」

 返す言葉も無い。彼の言葉は真実だ。本物のアーサー王なら、この程度の相手に苦戦などしない。
 目で追えない時点で詰んでいる。後は嬲り殺しにされて終わるだけだ。だが、そうなると己のマスターはどうなる? 偽物相手に救いの手を伸ばそうとしてくれた士郎。己が居なくなった後、目の前の怪物が彼に何をするか、想像しただけで吐き気が込み上げて来る。
 終われない。彼の為に、ここで諦めるわけにはいかない。せめて、この命を引き換えにしてでも、目の前の敵を倒す。彼女さえ居なければ、士郎は逃げられる。凛と合流を果たす事が出来ればもう、安心だ。彼女はきっと、彼を守り抜いてくれる。
 だから、狙うは必殺。こちらの息の根を止めようと仕掛けて来る一瞬に全てを賭ける。相手が女である事を無視し、全身に走る痛みを無視し、誰かを殺す事への罪悪感を無視する。
 士郎を守りたい。その事で頭の中をいっぱいにする。他の余計な感情が入り込む隙間を作らない。

「いいぞ、やっちまえ、ライダー! 衛宮のサーヴァントを始末しろ!」

 ついに来た。直感が示すライダーの必殺の軌跡に全身全霊を掛けた攻撃を放つ。
 守りを捨てた渾身の一撃がライダーの体を大きく抉る。けれど、同時に襲い来る筈の痛みが来ない。届いたのは甲高い金属音と守るべき主の息遣い。

「し、士郎……君?」

 セイバーが声を掛けるも、彼の耳には届かない。聴覚がまともに機能していない。むしろ、まともに機能しているのは片目だけだ。痺れたみたいに、手足の感覚も無い。

「酷い出来だ……」

 両の手には白と黒の双剣。陰陽剣、干将・莫耶。ライダーの釘剣を渾身の力で弾き返して尚、刀身には傷一つ無い。けれど、その出来はあまり良く無い。
 士郎の体がよろめき、セイバーが慌てて抱き止める。

「嘘だろ……」

 慎二の声が響く。呆然と傷ついたライダーを見下ろしている。まだ、彼女は生きていた。
 セイバーは小声で謝りながら士郎を地面に寝かせ、エクスカリバーの柄を握り締めた。

「な、何してるんだよ、おい! ふざけんなよ!」

 取り乱す彼に一歩ずつ近寄っていく。

「……慎二君」

 ライダーに対して、口汚い罵声を浴びせる慎二にセイバーは声を掛けた。

「な、なんだよ……。来るんじゃない! お、おい、ライダー! いつまで寝てるつもりなんだ!」

 ライダーの体に火花が散る。どうやら、慎二の命令に従えない罰を受けているらしい。
 悪循環だ。ライダーはもう戦える状態じゃない。立ち上がる事さえ困難の様子。なのに、慎二は立ち上がり、戦えと命じる。その命令を守れないが為に体を苛まされ、傷を深くして、命の灯火を小さくして行く。

「……慎二君、ライダーを引き渡すんだ。そして、家族の下へ帰りなさい」

 ライダーは殺す。女だろうと、彼女はサーヴァントだ。サーヴァントが生き残っている限り、聖杯戦争は終わらない。だから、止めを差す。
 いつかはこの時が来ると分かっていた。

「……さあ、行くんだ」

 怖い。喉がからからに渇いている。
 いくら、相手が人間じゃなくて、サーヴァントだとしても、殺すのは罪だ。戦争だから、生き残るためだから、敵だから……、思いつく限りの言い訳を脳裏に浮かべる。
 士郎を守るという事はつまり、聖杯戦争を終わらせるという事。それは即ち、敵サーヴァントを殺すと言う事。
 慎二は悲鳴を上げて逃げて行った。もう、これで邪魔をする者は居ない。

「……ぅぁ」

 ライダーに近寄れば近寄るほど、体が震え、眩暈に襲われる。

「……こ、殺さなきゃいけないんだ」

 自分に言い聞かせるように呟く。

「殺すんだ……。殺さなきゃ、守れないんだから……仕方無いんだ」

 全身から力が抜けていく。

「ぁぁ……」

 怖い。こんなに怖い気持ちになるのは初めてだ。トレーラーに牽かれる寸前だって、こんなに怖くは無かった。
 人を殺すって、死ぬより怖い事なんだ。

「でも……、でも……」

 ガランという音がした。俺はエクスカリバーを落としてしまった。

「あ……、ひ、拾わなきゃ――――」

 落ちたエクスカリバーを拾おうと腰を屈めた瞬間、狙い済ましたかのようにライダーが動いた。
 反応が出来ない。直感がどうこうのレベルじゃない。対処しようにも、体勢が悪過ぎる。
 殺される。直感が告げたのは、起死回生の一手などではなく、避けようの無い現実だった。だと言うのに、セイバーはホッと胸を撫で下ろしてしまった。
 これで、殺さなくて済む……。

「――――この野郎!」

 血飛沫が舞った。セイバーのものでは無い。首から上を失った、ライダーのものだ。
 士郎が干将で飛び掛かって来たライダーの首を刎ねたのだ。

「な、なんで……」
「……セイバーは殺さなくていい」

 士郎は静かな声で言った。

「だ、駄目だ……。士郎君の方こそ、子供がこんな事――――」
「泣いてる癖に!」

 セイバーの言葉を遮り、士郎は怒鳴った。顔を強張らせるセイバーに士郎は唇を噛んだ。

「……こういうのは俺の役割なんだよ」
「何を言って――――」
「――――魔術師は死を容認するものだ」

 士郎は今まで聞いた事の無い冷たい声で言った。

「……他者を傷つけようと傷つけまいと関係無い。自分自身の手を汚さなくても、進む道は血に塗れる。それが魔術師って存在なんだ。だから、俺には人を殺す覚悟が出来てる。でも、セイバーは違うだろ」
「お、俺だって、君を守る為に――――」
「そんな事の為に……、セイバーが人を殺す覚悟なんてする必要無い!」
「だって、それじゃあ、君を――――」
「守らなくていい! そんな顔をしてる奴に守られたくなんかない!」
 
 なんて、馬鹿な話だろう。聖杯戦争に参加するって事の意味を己は今に至るまで、真に理解出来ていなかったのだ。士郎は干将を苛立ちに任せて投げ捨てた。
 戦い、生き残るにはサーヴァントを殺さなければならない。それはつまり、セイバーが士郎を守ろうとする限り、いずれ彼にはサーヴァントを殺さなければならない時が来るという事。そして、それが今だった。
 こうなる事は想定出来た筈なのだ。魔術師ですら無い一般人である日野悟が人を殺める。それが如何なる苦しみを彼に与えるか、考えもしなかった自分が憎らしい。

「前提を間違えてたんだ。何があっても、セイバーを戦わせるなんて、しちゃいけなかった」
「士郎君、それは――――」
「悟は一般人なんだぞ!」

 本名を呼び捨てにされて、思わずセイバーは黙った。

「悟が命の遣り取りをするなんて、間違ってる。もっと、早くに気付かなきゃいけなかったのに……」

 士郎は言った。

「もう、セイバーには戦わせない」
「ば、馬鹿を言うな! 瀕死のライダーを殺したくらいで――――」
「分かってる。ライダーはとっくに死に体だった。残る五体のサーヴァントを相手に今の俺の力が通用するなんて思ってない」
「なら……」
「だから、強くなる」

 士郎の目には揺るぎない決意の光が灯っている。

「……そんなの、駄目だ」

 けれど、セイバーも引くわけには行かなかった。

「敵を殺す為に力を求めるなんて……、それを人は修羅道と呼ぶんだ。士郎君にそんな地獄を歩ませたくない!」
「だから、自分で歩むってのか?」

 怒りを滲ませた士郎の声に、今度はたじろがなかった。

「ああ、そうだ。忘れるなよ、士郎君。俺はとっくに死んでるんだ。地獄を歩むのは死人の役目、敵を殺すのは俺の役目だ」
「泣きべそかいて、震えて、肝心の武器を落として、そんな奴に修羅道を歩むなんて無理だし、許さない」
「君の許可なんて不要だ。さっきは醜態を晒したけど、次は必ず――――」
「殺すって? 無理だな、お前には」
「無理じゃない!」

 互いに睨み合う二人。決して譲れぬ思いが、二人の間に亀裂を作る。
 互いに思い合うからこそ、ぶつかる。

「お前はただ、美味い飯を食べて、ゲームして、寝転がってればいいんだ!」
「こっちの台詞だ! 子供は子供らしく、大人に甘えてろ! もっと、自己中心的になれ!」

 言い争う二人。その二人を止めたのは小さな呻き声だった。
 ライダーに襲われた女性。彼女は微かに息をしていた。
 助かるかもしれない。そうと分かった途端、二人の頭から言い争いを続けるという選択肢は消えうせた。一刻も早く、彼女を治療する必要がある。

「慎二は医者に連れて行っても無駄だって言ってた」
「なら、凛に助けを求めるしかない。衛宮邸に向おう」
「ああ、分かった」

 頷いて、士郎が女性を抱き上げようと屈んだ途端、彼の体が崩れ落ちた。

「し、士郎君!?」
「あ……れ――――?」

 ピクリとも動かなくなった。慌ててセイバーが呼吸を確認すると、不規則とは言え士郎はかろうじて生きていた。けど、予断は許されない。

「と、とにかく、凛の下に……」

 苦戦しながら、士郎を背中に背負い、女性を抱き上げる。二人を落とさないように慎重にセイバーは歩き始めた。
 
 屋敷に到着すると、セイバーは二人を床に降ろして凜に助けを求めた。

「……それは?」

 凜より早く、アーチャーが駆けつけてくれた。彼は士郎が握ったままの莫耶を見て、僅かに瞠目した。

「これは士郎君が投影したものだ。それより、二人を!」
「――――なるほど、小僧の方は私が何とかしよう。そちらの女性は凜に任せるしかない」

 彼の親切にセイバーはもはや驚かなかった。ただ、信頼を篭めて、彼に士郎を預けた。

「……なるほど、私の剣を投影した事で閉じていたものが開いたらしい」
「閉じていたもの?」
「この小僧は度し難い愚か者だ。魔術回路とは、一度作ってしまえば、後はスイッチのオンオフをする要領で表層に現出させる事が出来る。だが、この小僧はそれを知らずに勘違いしていたらしい」
「つまり……?」
「小僧の内には既に回路があったのだ。だが、こやつはそれを知らずに今日まで生きて来た。故に、放棄されていた区画が急に『正しい使い方』をされて驚いている状態なのさ。いずれにせよ、処置は施した。一晩眠れば、体も動くようになる」
「じゃ、じゃあ、もう士郎君は――――」
「問題無い。むしろ、今までが異常だった分、目を覚ました時、以前よりも幾らかマシな魔術師になっている筈だ」
「そ、そうか……」
「それより――――」

 アーチャーが口を開きかけた時、廊下の奥から凜が走って来た。その手には赤い宝石が握られている。

「――――ったく、こういうのは教会の領分なのに!」

 文句を言いながら、事情も聞かずに治療を開始する凛。どうやら、セイバーが二人を背負って帰って来るのを窓から目撃していたらしい。治療に必要なものをかき集めるのに時間が掛かったそうだ。

「凛、彼女は……」
「何とか、一命を取り止めたわ。雑な喰らい方をしたものね、彼女を襲った奴は」

 そう言って、彼女は立ち上がり、セイバーに視線を向けた。

「それじゃあ、説明してもらえるかしら?」
「……うん」

 とりあえず、場所を移す事にした。士郎と女性を布団に寝かせ、居間に向う。

「そう言えば、さっきは何かを言い掛けてたよね?」

 居間の襖を開けながらアーチャーに問う。すると、彼は顔を逸らして言った。

「何でもない。それより、今夜の稽古は無しだ。今夜はゆっくり体を休めておけ」
「……うん。いろいろとありがとう、アーチャー」
「……ふん」

 アーチャーは踵を返し、姿を消した。
 もう一度、セイバーは虚空に感謝の言葉を投げ掛け、凛への報告の為に席に着いた。
 ライダーのマスターが慎二である事や、彼女を脱落させる事が出来た事を話すと、凜は「なるほど」と肩を竦めた。

「未熟者コンビにしては上出来よ。だけど、今日の戦果は相手も未熟だったから、という理由に過ぎない。その事を忘れちゃだめだからね?」
「……ああ、肝に銘じておくよ」
「――――それにしても、慎二か……、完全に盲点だったわ。まあ、確かにマキリは御三家の一つだし、裏技の一つや二つ、用意しててもおかしくないか……」

 考え事をしたいから、と凜が部屋に戻った後、セイバーは士郎が眠る部屋に向った。
 結局、士郎との言い争いに関しては凜に話さなかった。士郎の意思は誰が何と言おうと変わらないだろうから、対処法は彼が安心出来る位、セイバー自身が強くなる事しか無いからだ。
 氷水を用意して、タオルを湿らせ、彼の額に流れる汗を拭う。

「寝顔だと、余計に幼く見えるな……」

 こんな子供に人を殺させてしまった事に深い罪悪感を覚える。
 あの時、己がもっと確りしていれば……、ライダーを殺せていれば、士郎を不安にさせる事も無かった。

「情け無いな……、俺」

 彼より年上の癖に肝心な所で怖気付いてしまった。これでは、何の為にアーチャーに稽古をつけてもらっているのか分からなくなってしまう。
 
「士郎君は正義の味方になるんだろ? なら、敵を殺す為に力を求めたりしたら駄目だよ……」

 直接は聞いていないけど、セイバーは彼の夢を知っている。その顛末が如何なるものかも知っている。でも、原作の凛ルートで、彼の未来であるアーチャーは自らの過去を肯定した。
 苦しい事や悲しい事はあるだろうけど、彼はちゃんと正義の味方になれるんだ。なら、こんな自分のせいで道を踏み外させるわけにはいかない。
 このままいけば、きっと、彼は取り返しのつかない未来に向って歩んで行ってしまう気がする。

「……幸せになって欲しいな」

 これが父性というものなのだろうか?
 彼に不幸な人生を歩んで欲しくないと、セイバーは切に祈りながら一晩中、士郎の看病を続けた。
 朝になり、先に目を覚ました女性はパニックを起こしたけれど、予め、準備を整えていた凜が対処した。記憶を弄り、朝の内にアーチャーを連れ、教会へと連れて行った。
 お昼になっても目を覚まさない士郎を心配しつつ、セイバーは少しだけ彼から離れ、お風呂場に向った。昨晩の戦いで服や肌に汚れが付着したままだったからだ。
 服を脱ぎ、洗濯籠に入れてから中に入る。衛宮邸のお風呂は広々としていて快適だ。椅子に座り、シャワーを浴びる。曇り止めの塗装がされている鏡にクッキリと映る自らの姿をセイバーは溜息を零しながら見つめた。

「……あれ?」

 マジマジと鏡を見つめると、奇妙な違和感に襲われた。
 何がどうとは言えないけれど、奥歯に物が挟まったかのような感じがする。
 しばらく眺めて、結局結論が出せず、セイバーは考えを放棄して、髪と体を洗い、湯船に浸かった。足をめいいっぱい伸ばせるお風呂というのは実に素晴らしい。
 生前、住んでいたアパートは便所と一緒な上にとても狭くて辛い思いをした。このお風呂に浸かっている時間はまさに至福。この世界に来て良かったと思う瞬間を与えてくれる。

「……ん?」

 のんびり浸かっていると、扉の外でガチャガチャと物音がした。
 士郎が起きて、洗濯物を片付けようとしているのかもしれない。病み上がりの彼にそんな事をさせるわけにはいかない。慌てて止めようと声を発しようとした時、急に扉が開いた。欠伸をかみ殺しながら、割と大きいアレをブラブラさせ、入って来た。

「……あれ?」

 漸く、士郎君はセイバーに気付いた。互いに言葉を失う。
 凍り付いた時間を動かしたのは天井から垂れてきた冷たい雫だった。
 ポチャンという音と共に我に返ったセイバーは言った。

「……まさか、お風呂場でバッタリを体験する事になるとはな」

 士郎の表情が目まぐるしく変化する。最初は赤くなり、次に青くなり、最後には真っ白になった。

「ご、ごめん、セイバー! 汗を流そうと思って、それで!」
「……ああ、とりあえず、落ち着きなよ。ほら、深呼吸、深呼吸」

 セイバーに促され、素直に深呼吸をする士郎。漸く冷静さを取り戻した彼は回れ右をした。

「……ちょっと、待ってくれ、士郎君」

 出て行こうとする彼をセイバーは呼び止めた。

「な、なんでしょう……?」

 強張った表情の士郎。

「……ちょっと、話をしないか?」
「話……?」
「ああ、体を洗いながらで構わないよ」
「いや、それは――――」
「男同士、裸の付き合いといこう」
「男同士って言っても……・。大体、何を話すのさ?」
「お互いの事さ」
「お互いの……?」

 セイバーは頷いた。

「ちゃんと、君の事を知りたい。それに、俺の事も知って欲しい。駄目かな?」
「……いや、いいけど、ここじゃなくても――――」
「ここなら、変に飾らずに話せる気がするんだ」
「……分かった」

 士郎は渋々頷きながら、石鹸を手に取った。

「それで、俺の何を知りたいんだ?」
「そうだねぇ――――、うん。まずは学校でいつもどんな風に過ごしているのか、聞かせてもらえるかな?」

第十話「……どうしたってんだ、イリヤ」

 奇妙な時間が流れた。狭い個室の中、裸の女の子と共に居るという事実に士郎は最初こそ緊張していたが、いつしか気にならなくなっていた。魔術や聖杯戦争とは全く関係の無い話に華を咲かせる。学校生活の事、アルバイトの事、友達の事、初恋の事。
 互いの話をしようと言っていたのに、セイバーは殆ど士郎にばかり話をさせた。魔術に関する事を抜かせば、衛宮士郎の人生に劇的な事など殆ど無い。我ながら、面白みに欠ける話だと感じながら、士郎は体を洗いつつ語り続けた。
 不思議な事にセイバーはヤマもオチもない士郎の話を終始楽しそうに聞き入っていた。それが妙にくすぐったくて、士郎は話を打ち切ることが出来なかった。

「それで、その時は――――」

 父親と共に花火を見に行った話や藤ねえの剣道大会に応援に行った話をしながら、士郎は思った。
 こうして、誰かに自分の事を語り聞かせたのは何時以来だろう? イリヤと喋った時も趣味や好き嫌いを語ったくらいで、ここまで深くは話さなかった。別に、話したくなかったわけじゃない。ただ、話す機会が無かっただけだ。
 まだ、切嗣が生きていた頃はよく、こうして共に風呂に入り、学校での出来事や友達との事を彼に報告していた。でも、彼が死んでから、こんな風に誰かに自分の事を話す事が無くなった。
 葬儀の後、藤ねえは士郎の心を気遣い、未来に目を向けさせる為、あまり過去を振り返るような話は振らなくなった。中学に上がる頃には、彼女も彼がもう大丈夫だと確信したが、その頃は彼女も忙しく、あまり士郎と話す機会に恵まれなかった。高校に上がると、同じ学校の先生と生徒という関係になり、話す意味が無くなった。
 桜や一成、慎二とも、あまりこういう話はしないから、ちょっと新鮮で、ちょっとこそばゆい気持ちになった。

「そんで、アイツ――――」

 なんだか、童心に返った気分だった。中学時代の慎二との思い出を語りながら、士郎は次に何を話そうか考えた。
 それはセイバーがこの会話に求めた意図の一つだった。
 多くの研究において、『語り』は重要なテーマとされている。セイバーが彼に求めたのは、彼自身が持つ彼の物語、『自己物語――――ドミナントストーリー』と呼ばれるものだ。
 過去の経験を時の流れの中に配置し、そこに一つ一つ意味を与える事によって構造化する。通常、人はそれを無意識の中で行い、自らの人生を一つの物語として捉えている。
 自己物語を語らせる事は本来、無意識下で行われている『物語化』を意識上に浮き上がらせる事を目的とする。
 一般的な精神治療法に『ナラティヴ・セラピー』というものがあり、これは意識的自己物語への介入による治療法である。
 衛宮士郎という少年の過去は明るいばかりではない。むしろ、常人からすれば陰鬱なものと捉えられる人生である。
 火災で両親と家とそれまでの人生を失い、それから現在に至るまでの環境も劣悪とまではいかずとも、良いものではなかった。けれど、セイバーは彼の自己物語に常に好意的な反応を返した。
 自らの人生をつまらないものであると解釈していた士郎に『そんな事は無い。君の人生は素晴らしいものだった』という他者視点からの反応を与える事で新たなる概念を創造する。
 それがセイバーの目的の一つ。彼の自己犠牲精神を抑制する為のアプローチだった。
 とは言え、あくまで、それは目的の一つに過ぎない。セイバーが彼の過去を知ろうとするもう一つの理由は単純に衛宮士郎という少年の事をもっと知りたいと思ったからだ。
 セイバーにとって、彼に対する印象は『ゲームの主人公』としての印象が大きい。自己犠牲精神旺盛な、正義の味方を目指す純朴少年。けれど、それはあくまでゲームにおける彼への印象。目の前で今を生きる彼に対して、そんな印象を抱き続ける事は不義理であるし、要らぬ距離感を作ってしまう。
 出会う前から持っていた第一印象を彼の自己物語を聞く事で一新する。それが、この会話のもう一つの意図。そして、それは大成功だった。
 確かに、彼の人生は衛宮切嗣から託された夢によって、一つの骨子を作られた。けれど、それはあくまで骨子の一つに過ぎない。彼の人格が今のものになるまでに多くの人の影響があった。
 例えば、それは小学校の頃の先生であったり、虐めっ子であったり、アニメのヒーローであったり、初恋の女の子であったり……。
 ゲームで語られている内面は彼の人格の一端に過ぎない。その事を深く理解出来た。
 彼は悲しい過去を持ち、魔術が使えて、やがて、英霊になる人。だけど、同時に今を生きている一人の人間。

「……士郎君」

 セイバーは湯船の縁に腕を置き、ニッコリと微笑んだ。

「君は将来、何になりたいの?」
「……正義の味方になりたいんだ」

 彼は言った。照れ臭くて口に出す事を躊躇われる夢。けれど、どうしてか、自然と口から飛び出した。

「そっか……。なら、君に良い事を教えてあげるよ」

 衛宮士郎は正義の味方を夢見ている。けれど、彼が正義の味方になる為に必要な経験をこの世界では得られない。本物のアーサー王にしか、彼に与えられない高潔な在り方をセイバーは教える事が出来ない。
 衛宮切嗣が与えたのが骨子であるなら、アーサー王が与えたのは肉だ。肉が無いからこそ、この少年は己を守る為に……、正義の為に間違った選択をする可能性がある。
 只管、力を求めて修羅の道を歩んでしまうかもしれない。だから――――、

「正義の味方は心に常に愛を持っているものなのだよ」

 とりあえず、スーパーヒーローに必要なものを教えておこう。

「あ、愛?」
「俺の知ってる正義の味方は心に愛が無ければ、スーパーヒーローにはなれないって、言ってたよ」

 俺の知ってる正義の味方、キン肉マン……のオープニング。

「救いたい人、守りたい人をまず、愛してみてよ。ほら、イエスも言ってるだろ? 汝、隣人を愛せって。第一歩は愛を知る事さ」
「……愛」
「きっと、救えなかった時は愛さなかった時より辛くなると思う。けど、救えた時は愛さなかった時より嬉しくなる。正義の味方になるなら、きっと、それは大切な事だと思うよ?」
「……考えとく」
「うん。考えておいてくれ」

 話はそれで終わりとなった。士郎は思い悩む表情を浮かべながら出て行き、セイバーも彼が脱衣場を出た後に風呂場を後にした。

 士郎とセイバーは家を出た。特に買出しの必要は無いのだが、約束があったからだ。
 いつもの公園に向うと、そこに案の定、イリヤが待っていた。

「イリヤ!」

 声を掛けると、イリヤは弾んだ足取りで士郎の下に駆け寄って来た。前回の事でご機嫌斜めなのではないかと思ったが、それは杞憂だったらしい。抱きついて来るイリヤに士郎は家を出る直前、セイバーと話し合って決めた事を提案した。

「イリヤ、今日はうちで御飯を食べないか?」

 前回、泰山で彼女を酷い目に合わせてしまったから、その埋め合わせのつもりだった。

「シ、シロウの家で!?」

 イリヤは一瞬、嬉しそうに瞳を輝かせた後、一転して喰らい表情を浮かべた。

「いいの……、かな? 私はシロウを殺しに来たんだよ? なのに、その私がシロウの家にあがるなんて……」

 抑揚の無い声で呟くイリヤ。

「頼むよ、イリヤ。前回は酷い物を食べさせちゃったから、今日は俺の料理をイリヤに食べて欲しいんだ。この通り!」

 深く頭を下げる士郎にイリヤは目を丸くした。

「……そういう事か。うん、そういう事なら――――」

 イリヤははにかみながら言った。

「私の舌を満足させなさい、シロウ。それが条件よ! 美味しくなかったら、お仕置きなんだからね!」
「誠心誠意頑張ります」

 ビシッと敬礼して見せるシロウにイリヤは笑った。
 そんな彼女にセイバーは恐る恐る声を掛けた。

「なに、セイバー?」

 ホッとした。彼女から以前のような敵意を感じない。

「その……、俺も一緒に居ていいかな?」
「……駄目」
「……そ、そうですか」

 ガックリと肩を落とすセイバーにイリヤはケラケラと笑った。

「冗談よ、セイバー。特別に許可してあげる」
「あ、ありがとう」

 お礼を言うセイバーにイリヤはそっぽを向いた。

「さ、さあ、行くわよ! エスコートしてよね、シロウ」
「おう!」

 衛宮邸に辿り着くと、イリヤは恐る恐る玄関に上がった。

「お、お邪魔しまーす」

 キョロキョロト周りを見渡しながら廊下を歩くイリヤ。

「板張りの廊下……、聞いたとおりだわ」

 居間に入ると、士郎は腕まくりをしてキッチンに向った。

「それじゃあ、昼飯の用意をするから、適当に寛いでてくれ」
「ちゃーんと、美味しいものを作ってよね?」
「ああ、任せとけ」

 キッチンの中で作業を進めるシロウをイリヤは楽しそうに見つめている。

「ねえ、セイバー」

 しばらくして、イリヤの方からセイバーに話を振った。

「この家を案内してくれないかしら?」
「ああ、構わないけど、俺でいいのかい?」
「本当はシロウに案内してもらいたかったけど、料理で忙しそうだし、特別にセイバーで我慢してあげる」
「あはは……、了解です」

 苦笑いを浮かべながら立ち上がるセイバーに続いて、廊下に出るイリヤ。
 彼女にせがまれて、セイバーは屋敷中を歩き回る事になった。行く先々でぶーぶーと文句を言いつつ、キャッキャと楽しそうな笑みを浮かべるイリヤにセイバーは微笑ましさを感じた。
 彼女は最初にして最大級の死亡フラグだったが、こうして一緒に居ると、至って普通な子供にしか見えない。彼女が士郎の命を狙う理由を知ってる分、セイバーの心中は複雑だった。

「ねえ、セイバー」

 屋敷の裏手を案内している最中、急にイリヤが声のトーンを落とした。どうかしたのか、とセイバーが問うと彼女は言った。

「シロウって、貴女から見て、どう?」

 その表情ばどこか悲しそうだった。

「……良い子だよ。凄く……」
「……ねえ、セイバー」

 イリヤは言う。

「私はシロウを殺すつもりでニッポンに来たの」
「……イリヤスフィール」
「でも……、シロウはとっても良い子なの……」

 イリヤは泣いていた。

「おかしいね、私。シロウが良い子なのは嬉しい事なのに、同時にとっても悲しいの。シロウがもっと、悪い子だったら良かったのにって、思っちゃうの……」
「……イリヤスフィールはシロウが好きなんだね」
「……嫌いになれる筈が無いわ。会う度に好きになっちゃう。この家に来てからも……」

 泣き顔を見せたくないからと、顔を洗いに洗面所に行った帰り道、イリヤはセイバーに言った。

「シロウを……、殺すのは私。だから、それまでは絶対に負けちゃ駄目よ、セイバー」

 赤い瞳に見つめられ、セイバーは頷いた。

「君にも殺させるつもりは無いけど、士郎君は必ず守るよ。命に代えても絶対に……」
「……セイバーも私が殺すまで死んじゃ駄目」
「イリヤスフィール?」
「イリヤでいい。セイバーの事も私が殺す。だから、他の誰かに殺されたりしたら、許さない」
「……了解」

 なんとも物騒な言葉だけど、セイバーは微笑んだ。

 居間に戻って来ると、丁度良く、食事の準備が終わっていた。イリヤはキチンと正座して、箸を手に取った。

「イリヤは箸を使えるのか?」
「簡単よ。こうでしょ?」
「いや、その持ち方はちょっと違うぞ。ここはこう持って――――」

 イリヤの箸の持ち方を直し、士郎は手を合わせた。

「ほら、イリヤも食事の前にはこうやって、手を合わせるのがマナーなんだぞ」
「こう?」
「そうそう。じゃあ、いただきます」
「いただきまーす」

 イリヤの食事の仕方は予想に反して豪快だった。

「うんうん、合格! シロウはお料理が上手ね。ごはんが美味しい事は良い事よ」
「じゃあ、前回の失敗は――――」
「ええ、許してあげるわ。わたしの寛大さに感謝なさいね!」
「ああ、ありがとう、イリヤ」

 美味しそうにハンバーグを頬張るイリヤ。

「イリヤ。頬にソースがくっついてるよ。それだと髪の毛についちゃう」

 セイバーはハンカチでそっと、イリヤの口周りを拭った。

「ありがとう、セイバー」
「どういたしまして」
「……なんだ、二人共、思ったより仲が良いんだな。いつの間にか、セイバーもイリヤをイリヤって呼んでるし」

 士郎が嬉しそうに言った。

「ああ、前回、共に士郎君に酷い目に合わされたからな」
「被害者の会を結成したのよ」
「……いや、もう勘弁して下さい」

 意地悪な笑みを浮かべる二人に士郎はガックリと肩を落とした。

 穏やかな時間が過ぎた。三人で過ごす時間があまりに楽しく、士郎は時間を忘れて話しこんだ。
 イリヤがそろそろ帰らなければ、と言ったので、士郎とセイバーは彼女を近くまで送って行く事にした。

「また、うちに遊びに来いよ、イリヤ」

 士郎が言った。

「次は俺が腕を振るおう。士郎君には敵わないかもしれないけど、それなりのものを用意してみせるよ」

 セイバーが続く。

「それは楽しみね」

 イリヤは微笑んだ。
 しばらく、三人並んで歩き、三叉路までやって来た所で唐突にイリヤが言った。

「……二人共、油断しちゃ駄目よ? まだ、一人も脱落者が出ていないんだから……。そろそろ、聖杯戦争は本格的に動き出す頃合の筈――――」
「ああ、いや、脱落者はもう出てるぞ」

 イリヤの不安を払拭しようと、士郎が言った。

「……え?」
「ライダーは俺達が既に倒してるんだ。確かに、俺もセイバーも未熟だから、イリヤが心配するのも分かるし、その気持ちは嬉しいけど、心配はいらない」

 ニッと笑みを浮かべる士郎に対して、イリヤは狼狽した表情を浮かべた。

「シ、シロウ……。かっこつけたいからって、嘘は良くないわ」

 イリヤの言葉に士郎は「嘘じゃない」と反論した。

「……ライダーは確かに脱落した。マスターは逃がしたけど、サーヴァントは完全に消滅した」

 ライダーの首を切り落とした時の感触を思い出しているのか、士郎の表情に苦いものが混じる。

「士郎の言っている事は本当だよ、イリヤ。確かに、ライダーは死んだ」

 セイバーが士郎の言葉を肯定すると、イリヤは大きく目を見開いた。

「……嘘じゃないの? 士郎とセイバーの勘違いじゃなくて?」

 尚も疑うイリヤ。士郎は時計を見た。食事をしたり、お喋りをしながら歩いたりしていたから、いつの間にか夕方になっていた。

「この時間なら、そろそろ遠坂が帰って来る頃合だな。ちょっと、待っててくれ。そこの公衆電話で遠坂に確認する。学校に結界を張ってたのはライダーなんだから、それが消えてれば確実だろ?」

 十円を投入し、自宅の電話番号をプッシュする。数十回、コール音が鳴り響き、まだ帰って来ていないのかと諦め掛けた時、電話が繋がった。

『は、はい、衛宮ですが……』

 受話器越しに聞こえる声は間違いなく凛のものだった。
 なんだか、妙に緊張した様子。

「もしもし、俺だ、士郎だけど、遠坂に確認したい事が――――」
『はぁ? ちょっと、何ふざけてんのよ、アー……って、あれ? あれれ?』
「お、おい、どうしたんだよ、遠坂?」
『あ、ううん。ちょっと、ビックリしちゃっただけよ。それで、今、どこに居るの?』
「坂を下りた所の三叉路の辺りだ。今、ちょっとイリヤと一緒でさ」
『はい? イリヤって……、アインツベルンと一緒に居るの!? ちょ、ちょ、どういう事!?』
「いや、戦ってるんじゃなくて、ちょっと話をしたりしてただけなんだ。ただ、その流れでライダーを倒した事を話したんだけど、信じてもらえなくてさ。遠坂、学校の結界はどうなってた?」
『……ったく、緊張が無いんだから。結界なら消えてたわ。間違いなく、ライダーは倒れたって事ね』
「ありがとう。それと、悪いんだけど、後で頼み事があるんだ。夕飯は遠坂が好きな物を作るから、時間をくれないか?」
『別に構わないけど……。アンタはもうちょっと、緊張感ってものを持ちなさい。アインツベルンのマスターと一緒に居るなんて……』

 ぶつぶつよ小言を言い続ける凛に士郎は平謝りしながら受話器を置いた。
 電話ボックスの前で待っていたイリヤに確証が取れた事を告げると、イリヤはまるで人が変わったように冷たい表情を浮かべた。
 ライダーを倒した事で彼女から明確な敵と認識されたのかもしれない。そう思い、慌てる士郎を尻目に彼女は言った。

「……帰る」
「イ、イリヤ……?」

 唐突に踵を返し、数歩歩いた後、イリヤは振り向いて言った。

「……シロウ。夜中は出歩かないようにして」
「えっと……」

 困惑する士郎を無視して、イリヤは今度はセイバーを見た。

「シロウを何が何でも守りなさい、セイバー。それと、凛と同盟を結んでいるなら、常に行動を共にする事。少なくとも、夜間は絶対に離れちゃ駄目よ」

 イリヤの発する言い知れぬ迫力に士郎とセイバーは只管頷く事しか出来なかった。

「……バイバイ」

 走り去るイリヤを二人は追い掛ける事が出来なかった。
 士郎は呟いた。

「……どうしたってんだ、イリヤ」