第一話『少年と魔王』

『質問をしてはいけない』

 物心がついた時、はじめに掛けられた言葉だ。
 些細な事で殴られ、蹴られ、暴言を浴びせ掛けられる。食事を抜かれる事もしょっちゅうで、一メートル四方の物置に閉じ込められる事も日常茶飯事だった。
 僕を養ってくれているダーズリー家の人々は顔を合わせる度に『お前は普通ではない』と言う。両親もイカれていたらしい。醜悪で悪辣な人間だったみたい。だから、天罰が下った。
 僕に自由は無かった。ただ、苦痛を感じる為だけに生きていた。

「よーし、お前達! しっかり、コイツを押さえとけよ!」
 
 ダーズリー家の長男、ダドリー・ダーズリーは友人達に僕を押さえつけさせた。ギラギラと目を輝かせながら、ダドリーは僕を殴った。
 ダドリーにとって、僕は家に寄生している害虫。もしくは、面白い反応を返すサンドバッグだ。
 胃液を吐いても、許しを懇願しても、ダドリーは耳を貸さない。気が済むまで殴り、蹴る。彼が満足するまで、僕が意識を失っても終わらない。

「……助けて」

 辛くて、苦しい。それなのに、誰にも相談する事が出来ない。心を許せる人なんて、一人もいない。
 家にも学校にも居場所がない。
 僕の人生は始まった時点で詰んでいる。底無しの沼に浸かったまま、抜け出す事が出来ない。藻掻いても、助けを求めても、誰も手を伸ばしてくれない。

「助けて……」
 
 意識が暗転する。
 暗闇だけが安息を与えてくれる。ここには誰もいない。僕を傷つける他人がいない。
 ああ、ここにずっといたい。痛いのは嫌だ。苦しいのは嫌だ。

『……■■■』

 誰かが僕に囁きかけた。

『……■リ■』
 
 僕は声に導かれるように暗闇を歩いた。

『……ハ■ー』

 辿り着いた先にはぼんやりとした光が浮かんでいた。

『……ハリ■』

 胸が締め付けられる。誰かの悲鳴が聞こえた。誰かの怒声が聞こえた。誰かの苦悶の叫びが聞こえた。

『……ハリー』

 儚い輝き。今にも消えてしまいそうな光を僕は抱き締めていた。
 ここに居たいなんて嘘だ。暗闇なんて嫌だ。一人は嫌だ。

「助けて……」
『……ならば、寄越せ』
「何を渡せばいいの……?」
『貴様の魂。貴様の全て』
「それを渡せば、僕を助けてくれるの?」
『助けてやる』
「……なら、あげるよ」

 これは夢だ。曖昧な意識の中でもその程度の分別はつく。
 だけど、僕は本気だった。

「僕のすべてをあげる」
『ああ、それでいい』

 僕の体が欠けていく。光の中に吸い込まれていく。食べられている。

「ぁ……ぁぁあぁああああああああああああああああ」

 神経を鑢で擦られたような痛みが全身を駆け巡る。
 内側から炎で焼かれているような錯覚を覚える。
 僕は光から手を離し、倒れこんだ。そして、夢の中で意識を失った。

 第一話『少年と魔王』

 目が覚めた時、僕は公園で横になっていた。草むらで寝ていたせいで、いろんなところが虫に刺されている。
 痒みと痛みに顔を歪めながら立ち上がる。

「……変な夢」

 溜息が出る。帰ったら、また食事を抜かれる。パンチのおまけもつくだろう。
 理由がどうあれ、夜に僕が出歩く事をダーズリー家の人々は許してくれない。

『ならば、帰らなければよかろう』
「……え?」
 
 声が聞こえた気がして、辺りを見回す。誰もいない。

「……気のせい?」
『気のせいではない』
「だ、誰!?」
 
 悲鳴をあげて、直ぐに口を押さえた。
 僕の周りでは時々不思議な事が起こる。その度にダーズリー家の人々から厳しい折檻を受ける。
 不思議な事が起こる理由はさっぱり分からないけど、僕が普通では無い事をしでかすと、その日は地獄を見る事になる。
 夜更けの公園で奇声をあげたりしたら、頭をトンカチみたいに何度も床に叩きつけられて、首を締めあげられて、一週間は食事を抜かれて物置に閉じ込められる。もし僕が餓死したとしても、彼らは厄介払いが出来たとせいせいする筈だ。
 
『……ッハ。マグル如きに怯えるとは』

 謎の声はまるで嘲笑するかのように言った。

『そんなに嫌ならば帰らなければいい』
「そ、そういうわけにはいかないよ……」
『何故だ?』
「だって……、あそこが僕の家だもの」
 
 尻すぼみになる僕の言葉を聞いて、謎の声は笑った。

『なんという愚かさだ! 貴様は勘違いをしているぞ、ハリー・ポッター』
「ど、どうして僕の名前を知ってるの? それに、どこにいるの!?」
 
 段々と怖くなってきた。どんなに目を凝らしても辺りに人影は見えない。それなのに、謎の声はまるで耳元で囁かれているように聞こえる。

『知っているとも! 知らない筈がない! 俺様と貴様は運命の糸によって繋がれている。今も昔も未来でさえ! そして、どこにいるのか? ああ、答えよう。お前の中だ』
「ぼ、僕の中!?」
 
 意味がわからないまま自分のお腹を見つめる。

『言っておくが、物理的な意味ではないぞ。貴様という器に俺様の魂が入り込んでいるのだ』
「魂……?」

 言っている言葉の意味がチンプンカンプンだ。

『……ふん。あのマグル共は貴様に何も教えていないのだな』
「ど、どういう事? それに、マグルって……」
『マグルとは魔法族では無い者を意味する言葉だ』
「魔法族……? 魔法って、白雪姫やシンデレラに登場するような?」
『……まあ、似たようなものだな』
 
 なんだか不満そうな声。白雪姫やシンデレラが嫌いなのかな?

『俺様は魔法使いだ。そして、貴様にもその才能がある』
「……えっと」

 何を言ってるんだろう。魔法も魔法使いも空想上の存在だ。絵本や小説の中だけの存在。

『疑うのならば、少しだけ体験させてやろう。杖など無くとも……、そうだな。足元の石ころに右手を向けてみろ』
「右手を……?」

 一応、言われた通りにしてみる。すると、不思議な事が起きた。
 石ころが浮き上がったのだ。

「え? え? ええ!?」
『これが魔法だ。……っと、思ったよりも消費するな』
「だ、大丈夫?」
『貴様に心配される必要などない。それよりも、理解したな? これが魔法だ』
「ま、魔法……」
 
 右手を見る。そこには浮き上がった石ころがすっぽり収まっている。
 
『ハリー・ポッター』
 
 謎の声は僕の名を呼んだ。

「な、なに?」
『貴様は自由だ』
「……え?」

 何を言っているのか分からない。僕に自由など在る筈がない。
 食べる事、疑問を抱く事、喋る事、全てがダーズリー家の人々に縛られている。
 自由とは罪であり。僕は見えない檻の中に住んでいる。

『勘違いだと言った筈だ。貴様に檻などない。鎖などない。自由を自覚すれば、貴様はどこにでもいける。何者にでもなれる。あの家に帰りたくないのなら、貴様はいつでも出て行く事が出来るのだ』
「で、でも! なら、どこに行けばいいの!? 僕はどこに行けるの!?」
『どこへでも! 貴様が望むなら、俺様が導いてやる!』
 
 僕が自由。どこにでも行ける。何者にでもなれる。
 そんな風に言われた事は今まで一度もなかった。

「連れてって……」

 涙が溢れ出す。姿も見えない相手に僕は縋り付いた。

「僕を連れ出して!!」
『良かろう』

 僕は歩き出した。ダーズリーの家とは反対の方角へ向かって。
 謎の声に導かれるままに……。

「君の名前は……?」
『名前……。幾つかあるが、そうだな』

 道半ばで尋ねた質問に謎の声は少し考え込んだ後に答えた。

『魔王。貴様と共に覇道を歩む者だ』
 
 自信に満ち溢れた魔王の言葉。
 それって、最終的に勇者に倒されちゃう人じゃ……。
 そんな考えを僕はそっと胸の内に仕舞い込んだ。

第二話『新しい家』

 お金など1ペンスたりとも持っていない僕は只管歩いた。疲れて足を止めそうになる度、魔王は僕を叱咤する。
 三時間程歩いたところで目的地に到着した。

「……ここ?」
『ここだ』
 
 そこは狭い路地の入り口だった。魔王に言われなければ気付きもしなかった。

『さっさと進め』
「う、うん」
 
 一歩先さえ見通せない真っ暗闇。怖気づき、一歩を踏み出せずにいる僕に魔王は容赦のない言葉を浴びせてくる。
 意を決して踏み込むと、開けた場所に出た。
 三方を白い壁に囲まれた不思議な空間。振り向くと、入って来た筈の通路も無くなっている。

「ど、どういう事?」
『怯える必要はない。ここは入り口に過ぎない』
「入口……?」

 どこにも扉なんてない。あるのは机と燭台だけだ。燭台には紫の炎が灯っている。

「綺麗だね……」
『それは《|栄光の手《ハンズ オブ グローリー》》。その炎は灯した者だけを照らす』
「栄光の……、手?」

 言われてから気がついた。燭台の形が歪である事に。
 よく見ると、それは人の手だった。

「ぁ……ぁぁ……」
 
 悲鳴をあげた。切り落とされた人間の手が炎を持ち上げている。
 恐怖に身を震わせながら、僕は必死に切り落とされた手から距離を取った。背中が壁にぶつかると、恐怖は更に膨れ上がった。
 泣き喚き、閉ざされた帰路を開けようと必死に壁を叩く。

『……見苦しい』

 涙が枯れてきた頃、魔王は冷淡な口調で言った。

『アレは単なる道具に過ぎない。造形が多少グロテスクなくらいで泣き喚くな』
「……そんな事言われても」
『ここに居たくないのなら、炎に照らされた文字を読み上げろ』
「も、文字……?」

 一頻り泣いたおかげで多少は落ち着いたけど、あの切り落とされた手をもう一度見るのはイヤだった。
 俯きながら、なるべく栄光の手を見ないように机に近づく。机には魔王の言う通り、文字が刻まれていた。

「えっと……、『栄光は常にこの手に』?」

 読み上げた途端、文字が光を放ち始めた。青白い光が机一杯に広がっていく。
 ガコンという音がした。机が真っ二つに割れた音だ。

「階段……?」
 
 二つに分かれた机は左右にスライドしていき、その下に隠していた階段を露わにした。

『降りろ』

 降りたくない。どう見ても怪しい雰囲気が漂っている。

『ずっとここに居る事がお前の望みか?』

 相変わらず、魔王は容赦がない。尻込みしながら、恐る恐る階段を下っていく。
 所々に燭台があり、紫の炎が踊っている。悲鳴を上げそうになったけど、よく見れば普通の燭台だった。
 一番下まで降りると、そこには鉄製の扉があった。まるで牢獄の入り口みたいだ。

『入れ』

 言われるまま、扉のノブに手を伸ばす。中は外観からは打って変わって落ち着いた雰囲気だった。
 足元にはふかふかな絨毯が敷かれている。燭台と紫の炎を除けば一般的な家屋と変わらない間取りだ。近くの窓に向かうと驚いて目を白黒させた。
 地下に潜っていた筈なのに、僕は建物の三階にいた。

「ど、どういう事!?」
『中々凝っているだろう。ホグワーツの仕掛けを真似て創り上げた隠れ家だ』
「ホグワーツ……?」
『魔法使いの学校だ』
「学校なんてあるの!?」
『当然だろう。ホグワーツ以外にも世界各国に魔法学校が存在する。有名所だと、ボーバトン、ダームストラング、マホウトコロ、ワガドゥー、カステロブルーシュー、イルヴァーモーニーなどだな』
「いろいろあるんだね……」

 頭がぼんやりする。もう、深夜二時過ぎだ。いつもならとっくに眠っている時間。

『……ベッドルームは奥の扉だ』
「うん……」

 ベッドルームに入ると、大きなベッドが置いてあった。倒れこむように横たわると、急速に意識が遠のいた。

 第二話『新しい家』

 目を覚ました時、僕は夢を見ているのかと思った。
 なにしろ、ベッドで眠る事なんて初めての経験だ。ふかふかで気持ちがいい。

『起きろ。いつまで惰眠を貪るつもりだ?』

 心の芯まで凍ってしまいそうな冷たい声のおかげで夢と現実の区別をつける事が出来た。
 
『まずはシャワーを浴びろ。昨夜は我慢したが、その見窄らしい姿は見るに耐えん』
「……う、うん」

 シャワーを浴びると気分がスッキリした。だけど、服はやっぱりダドリーのお下がり。こればかりは仕方がない。この家には服も食べ物も何も無い。

『……さて、どうしたものか』

 服を着直していると、魔王は思案するように呟いた。

「どうしたの?」
『……買い物に行かねばならん。だが、色々と問題がある』
「問題って?」
『この家の金庫にはそれなりに金がある。だが、それは魔法界の通貨だ』
「魔法界はペンスやポンドじゃないの?」
『ああ、三種類の金貨を使っている。金貨であるガリオン。銀貨であるシックル。銅貨であるクヌート。これらで売買を行っている』
「売買っていう事は魔法使いがお店を開いてたりするの?」
『もちろんだ。店舗どころか、商店街もある。だが、そこに行く為には少々障害があってな……』
「遠いの?」
『いや、近い。ここから歩いても二時間程度だ』

 それは十分に遠いと思う。

「なら、何が問題なの?」
『……一応、貴様は家出中だろう』
「あっ!」

 魔王は呆れたように溜息を零した。

『どうしたものか……』
「えっと……、変装してみるとか?」
『いや……、普通の変装では駄目だ。直ぐに見破られてしまう』
「そ、そう……」
『だが、着眼点は悪くない。服を着たら、ベッドルームに向かえ』
「え? う、うん」

 着替えを済ませ、言われた通りにベッドルームへ向かう。

『横になって目を瞑れ。だが、眠るな。俺様の声に意識を集中しろ』
「う、うん」
 
 奇妙な指示だけど、従わないとまた文句を言われる。暴力を振るわれないだけ、ダーズリー家の人々よりはずっとマシだけど、魔王の言葉は心に突き刺さる。
 ベッドに横たわり、瞼を閉じる。すると、暗闇が広がる筈の視界に一人の男が現れた。舞台俳優のようにハンサムな男だ。
 
「……魔王なの?」

 男は微笑んだ。

『俺様に身を委ねろ』

 男が手を伸ばす。瞼は既に閉じているから、これ以上閉じる事も出来ない。
 手が目の前に迫る。

『怯える必要は無い』

 頭に手を置かれた。不思議な感覚だ。殴られる事はあっても、こうして優しく手を置かれる事は今まで一度も無かった。
 脳髄がしびれるような心地よさを感じる。ふわふわした気分になる。

『あのマグル共が貴様の髪を無理矢理切った事があるだろう』
「う、うん」
『だが、一晩寝ると髪型は元に戻っていた。そうだな?』
「うん。そのおかげで4日も食事を抜かれたよ」
『……それは貴様の内に宿る魔法の源が貴様の意思に呼応した結果だ』
「僕の意思に?」
『幼少期。魔力に目覚めたばかりの魔法使いは一種の暴走状態に陥る。眠っていた魔力が一気に解放される為だ。御する方法を学ぶまで、その状態は続く』
「暴走状態……」
『今回はこの暴走状態を利用する』
「えっと……、どういう意味?」
『魔法は万能だ。無機物を生物に変える事も、人間を動物に変える事も、命や精神を弄ぶ事さえ可能だ』
「つまり……?」
『貴様は変身するのだ。違う自分に』
「変身……」

 ボサボサの髪。額の傷。野暮ったい丸メガネ。やせ細った体躯。
 見窄らしくて、汚らわしくて、疎ましい今の自分から脱却出来る。
 魔王の言葉は僕にとって実に魅力的だった。

「どうしたらいいの?」
『俺様に身を任せろ』
「……うん」

 意識が遠のいていく。
 
 ◆

 もう少し梃子摺るかと思った。
 髪を切られた時、元の長さに戻ったのはハリーが自身の変化を拒んだからだ。
 今ある姿を変える事は大きな決断だ。気軽に変える事の出来る髪型や服装さえ、大胆に変えようと思えば相応の覚悟が必要になる。
 にも関わらず、ハリーは俺様が促す変化を受け入れた。髪の色は黒から深みのある赤色に変わり、輪郭も多少変化した。父親に似た部分を母親のものに近づけたのだ。
 これなら、ダーズリー家の者達さえ騙せよう。

『……ダンブルドアめ、何を考えている?』

 不可解だった。ダーズリー家の者達はハリー・ポッターを虐待していた。それこそ、精神が歪み、いつ壊れてもおかしくない状況にまで追い詰めていた。
 何故、ハリー・ポッターを奴等に預けた? 善なる者の代表を気取っておきながら、|闇の帝王《オレサマ》を打ち倒すという偉業を為した子供を何故……。
 
『どうでもいい……。所詮、この小僧は俺様が復活する為の駒に過ぎない』

 ベッドで眠りながらハリーは体を小さく丸めている。あの体勢でなければ寝られない場所に閉じ込められ続けてきたからだ。
 時折、涙を啜る。どうやら、嫌な夢を見ているらしい。

『……いずれ使い捨てる駒だが、それまでは入念に手入れをしてやるとするか』

第三話『ダイアゴン横丁』

 鏡に映る僕の姿は眠る前と大きく異なっている。ボサボサだった黒髪は艶やかな赤髪に変わり、肩の下まで伸びている。
 だけど、相変わらず頬は痩けているし、眼も窪んでいる。

『さっさと行くぞ。貴様には何よりも食事が必要だ』
「う、うん!」

 魔王の指示で絵画の裏に隠された金庫から魔法界の通貨を取り出す。棚に入っていた財布には見た目からは想像も出来ない程たくさんのお金を入れる事が出来た。
 お金自体、まともに持ったことの無い僕は緊張で手が震えた。

『……しっかりしろ。出掛けるぞ』
「うん」

 玄関から外に出る。

「あれ?」

 予想と違った。上り階段があると思った扉の向こうには細い通路があり、通路の先には大通りの喧騒がある。
 振り返ると出て来た筈の扉が無くなっている。触ってみても、そこにあるのは単なる壁だ。

「あれれ?」
『隠れ家は隠れているから意味があるのだ。出入口は徹底的に隠蔽してある。入る時の方法は覚えているな?』
「え!? 入る度にあそこを通るの!?」
『……今のお前では出入口の設定を変える事も出来ないからな。我慢しろ』
「ぅぅ……」

 大通りを出て、まっすぐ歩き続ける。
 ダボダボの服を着ている痩せ細った子供を道行く人々は疎ましげに睨む。きっと、|浮浪児《ストリートチルドレン》と思われているのだろう。

『鬱陶しい輩だ』

 魔王は不機嫌そうに呟いた。
 
『……覚えておけよ、奴等の視線を』
「魔王……?」
『奴等の大半は自らを善良なものだと思い込んでいる。だが、これが本質だ』

 その言葉には侮蔑の感情が浮かんでいた。

『差別を否定しながら、差別する。暴力を否定しながら、暴力を振るう。暴言を否定しながら、暴言を吐く。上っ面で善意を語る者程厄介な者はいない。悪意を自覚しないからな』
「ふーん」
『……なんだ、その反応は』

 魔王は不服そうだ。

『いや、貴様にとっては言われるまでも無い事だったか』
「え?」
『ダーズリー家の者達など、まさに典型例だ』

 今度は満足そうだ。

『すまなかった。ああ、つまらぬ事を言ってしまったな』
「……魔王ってさ」
『ん?』

 誰かに裏切られた事があるの? 喉元まで出掛かったその言葉を飲み込む。
 聞くまでもない事だし、言えばきっと傷つけてしまう。
 魔王の言葉には実感が篭っていた。そして、その事に激情を抱いている。

『おい、途中で言葉を切るな』
「……うーん。魔王って、優しいね」
『……は?』

 言葉を失う魔王。僕は笑った。
 容赦がないし、口調もキツイ。だけど、彼は僕を心配してくれている。
 生まれて初めて出会った。僕を見守ってくれる人。

 第三話「ダイアゴン横丁」

『その角を曲がれ』

 魔王に導かれ、僕はロンドンの中心街までやって来た。
 迷路のような細い道を歩き、漸く目的の場所へ辿り着いた。

「ここは?」

 目の前には廃墟と化した宿屋がある。

『ノクターン横丁の入り口だ』
「ノクターン……? 僕達が行くのはダイアゴン横丁じゃなかった?」
『ダイアゴン横丁へ直接行く為には杖が必要だ。だが、その為にはダイアゴン横丁で杖を買う必要がある。本来、未成年の魔法使いは保護者や入学する魔術学校の教職員に連れて来られるのが通例だ』
「そうなんだ」

 中に入ると、浮浪者がたむろっていた。ジロジロと見られながら、魔王の指示に従って奥の通路を進む。
 一階の客室が立ち並ぶ通路に出ると、四番目の扉を開いた。
 
「ここが?」
『そうだ。ノクターン横丁。最初の角を左に曲がれ』

 扉の先は外だった。立ち並ぶ建物はどれも奇妙な形をしている。
 好奇心が疼いたけど、建物の窓や扉の隙間から怪しい人影が僕を睨んでいる事に気付いて逃げるように走った。
 やっとの思いでダイアゴン横丁に辿り着くと、そこはノクターン横丁とは比べ物にならないくらい賑わっていた。道行く人々も服装こそ奇抜なデザインが多いけど、清潔感がある。
 ホッと一息つくと、僕は目の前に広がる魔法の世界に夢中になった。
 そこには奇妙な物や面白い物が山のようにあった。

「うわー」

 お店のショーウインドウに飾られた奇怪な道具。
 喧しく鳴くふくろう。
 飛び交う喧騒に入り混じった魔法界の話題。
 
「箒の専門店なんてあるんだ!? うわー、これで空が飛べるんだ!」

 夢中になっている僕を魔王は止めなかった。

『まずはカバンを買うぞ』

 僕が一頻り満足した所で魔王が言った。
 
「カバン?」
『今日は買う物がたくさんある。箱や袋を大量に持ち歩きたいと言うのなら話は別だが?』
「カ、カバンを買いに行こう!」

 魔王に案内されたカバン屋さんは壁一面どころか天井にまで無数のカバンが敷き詰められていた。

「すごい量だね……」

 奥に進むと、中年の魔女が現れた。

「いらっしゃいませ! あら、あなた一人なの?」

 魔女は僕が一人である事に首をかしげた。

『親から自分で買うように言われたと言え』

 魔王に指示された通りの言葉を告げると、魔女は納得したように頷いた。

「どんなカバンが御所望かしら?」
『空間拡張。質量軽量化。その二つの機能があれば何でもいい』

 魔王に指示された要望を口にすると、魔女はにっこりと笑っていくつかのカバンを持って来た。

「どれも荷物がぎっしり詰め込めるわ。それに、幾ら詰め込んでも羽のように軽いのよ。手提げと肩掛け、リュックサックの三種類があるけど、どれがいい?」
『好きなモノを選べ』

 魔王に言われて、僕はリュックサックを選んだ。

「このリュックサックね。背負ってみる?」
「は、はい!」

 リュックサックはふわふわとした白い布地で出来ていた。

「このリュックには面白い機能があるのよ」

 そう言って、魔女はリュックサックの脇に吊り下がっているうさぎの尻尾のようなモノを握った。
 すると、リュックサックに耳や目が現れた。鏡を見ると、リュックサックは白くてふわふわなウサギの姿に変わっていた。

「可愛いでしょ。あなたくらいの歳の子に大人気なのよ」
「わーお!」

 文句なし。とっても気に入った。
 うさぎのぬいぐるみと化したリュックサックを鏡越しにジッと見つめる。
 
「これください!」
「このまま背負っていく? それとも、梱包する?」
「背負っていきます!」
「はい、わかりました。じゃあ、3ガリオンと3シックルね」
「はい!」

 魔王に教えられながら財布から金貨を三枚と銀貨を三枚魔女に手渡す。
 店を出た後、僕はリュックサックを抱き締めながら少しの間ボーッとしてしまった。

『おい、買い物は終わっていないぞ。なにをボーッとしているんだ?』
「……ありがとう、魔王」
『は?』
「僕、こうして新しく自分の物を買ってもらうの初めてなんだ」
『……そんな事で一々感動するな!』

 怒られてしまった。反省しながら今度は洋服屋さんに向かう。
 そこでサイズがピッタリな子供服をたくさん買い、下着や靴下も新調した。魔王は僕が良いと思った物をなんでも買ってくれた。
 嬉しくて泣きそうになる度に怒られたけど、やっぱり嬉しい。
 ダドリーのお下がり以外を着られる日が来るなんて思わなかった。
 その後も家庭用雑貨のお店で魔法の石鹸やシャンプーを買い、本屋さんでたくさんの本を買った。
 
『残るは食材だな』
「杖は買わないの?」
『……杖も買うべきだな。大丈夫だとは思うが……』
「心配事?」
『いや、なんでもない。ならば、先に杖を買うとしよう。その通りを少し歩いた所に《オリバンダー杖店》という店がある。そこに入れ』
「うん!」

 オリバンダー杖店はすぐに見つかった。紀元前382年創業と書いてある。よく分からないけど歴史あるお店みたい。
 中に入ると一人の老人が僕を向かえてくれた。

第四話『危機』

 第四話『危機』

 杖店の店主は僕を見た途端に飛び上がった。

「もしや、エバンズ家の子かい?」
「エバンズ……?」
「違うのかね?」
「は、はい……」

 店主はまじまじと僕の顔を見つめる。

「……しかし、似ている。まるで、生き写しではないか」
「えっと……」
「おっと、失礼。お客様に対して、とんだ御無礼を……」

 僕が戸惑っている事に気付くと、店主は丁寧に謝った。だけど、その視線は未だに僕の顔に縫い止められている。

「い、いえ、大丈夫です。……そんなに似てたんですか?」
「ええ、それはもう! その艶やかな赤毛。理知的な緑の瞳。彼女の親類縁者ではないとすると、これは驚きじゃ」
「その人の名前は……?」
「リリー。リリー・エバンズじゃよ。聞き覚えはありますかな?」
「……いえ、初めて聞きました」

 僕と似ている女性。エバンズという姓にも、りりーという名前にも心当りがないけど、不思議と胸がざわついた。
 その人の事を知りたいと思った。

『……ハリー・ポッターである事は黙っておけよ。貴様は家出中なのだからな』

 魔王が言った。僕は心の中で頷きながら、店主に問い掛けた。

「あの、どんな人だったんですか?」
「慈愛と知性に溢れた美しい女性じゃった。ああ、今でも彼女が杖を買いに来た日の事を覚えておる。振りやすい柳の杖が彼女を選んだ。夫のジェームズ・ポッターも実に気持ちのよい性格の男だった。あの二人が遺した子がいつの日かこの店に来る時をワシは楽しみにしておるのです」

 ジェームズ・ポッター。その名を聞いた瞬間、僕は驚きのあまり呼吸が出来なくなった。僕の今の容姿と瓜二つな女性と結婚したポッターの姓を持つ男。
 僕は声を震わせながら問い掛けた。

「そ、その子の名前は……?」
「ハリー・ポッター」

 心臓が止まりかけた。リリーとジェームズ。二人は僕の両親だ。
 
「……おっと、いけませんね。ついつい無駄話をしてしまった。年を取るとどうにも……、いやはや」
「あ、あの!」
『止せ』

 魔王が言った。

『二人の事が知りたいのなら、俺様が後で聞かせてやる。あまりしつこく聞いて、正体がバレたらどうする』
「うっ……」
「どうしました?」
「い、いえ、なんでもありません」

 聞きたい。僕の両親の事をどうしても知りたい。だけど、魔王が駄目と言った。後で聞かせてくれるとも言った。
 僕は必死に我慢した。正体がバレてはいけない。やっと、あの家から抜け出す事が出来たのに、また逆戻りする事になるなんて絶対に嫌だ。
 魔王は僕に優しくしてくれた。殴られたり、悪口を言われたり、食事を抜かれたりしなくても良い場所に連れて来てくれた。

「どうしました?」

 店主は心配そうに僕を見つめている。

「だ、大丈夫です。それより、杖を……」
「おお、そうでしたな。必ずやアナタにピッタリの杖を見つけてみせましょう。杖腕はどちらですかな?」
『右だ』

 杖腕というのが何を意味しているのか分からなかったけど、魔王に言われた通りに言うと店主は満足そうに微笑んで店の奥へ引っ込んだ。
 しばらくして、何本かの杖を持って来た。どれも10インチ前後。一本ずつ持たされて、振ってみるように言われた。
 一本目は棚を吹き飛ばした。二本目はランプを割った。三本目がテーブルをひっくり返した所で申し訳なくなり謝り倒した。

「いえいえ気にしなさんな。しかし、これは実に難しい。ふーむ……」

 店主は奥へ行き、一本の杖を運んで来た。

「……もしかしたら」

 渡された杖は驚くほど手に馴染んだ。一振りすると、暖かい風が店内を満たした。
 店主は目を見開いている。

「……お聞きしておりませんでしたな」
「え?」
「お名前を伺っても?」
「ぼ、僕は……」
『ノエル・ミラーと名乗れ』
「ノ、ノエルです。ノエル・ミラー」
「……ふむ、ノエル・ミラーさんですか」

 訝しむような眼差し。

「あ、あの、代金はこれで!」

 杖の代金を渡し、慌てて店を出た。

『……まずいな。やはり、オリバンダーには注意すべきだった。仕方がない。ノクターン横丁に向かえ』
「う、うん」

 人にぶつかりそうになりながら駆け足でノクターン横丁の入り口に向かう。

「こらこら、そっちに行っちゃ駄目だよ」

 後一歩の所で腕を掴まれた。振り返ると、そこに立っていたのは長身の男性だった。
 今の僕の髪より少し薄めの赤髪。一言で言うとかっこいいお兄さんだった。

「僕、そっちに用があって……」
「駄目だよ。そっちは危ない。お父さんやお母さんはどこ?」
「い、居ません……」
「居ないだって? そんな……、これは」

 お兄さんは不可解そうな表情を浮かべると、僕の手を見た。
 手から腕に掛けて視線を動かすと、表情がみるみる内に強張っていく。

「この怪我は……、誰にやられたの?」

 硬い声。爆発しそうな激情を必死に抑えている。

「こ、転んだだけです」

 僕はいつも通りに答えた。ペチュニアおばさんから、誰かに体の傷の事を聞かれたら、こう答えるように命じられている。
 だけど、僕の答えにお兄さんは満足しなかった。それどころか、怒りが滲んでいる。

「お父さんとお母さんは本当にいないの?」
「……は、はい。随分前にその……、事故で亡くなって」
「なら、君はどこに住んでいるの?」
『……面倒な事になった。この男はウィーズリー家の者だな』

 僕が答えに窮していると、魔王が言った。
 
『杖でその男を突いてやれ。手が離れたら走れ』
 
 僕は言われた通りに行動した。杖でつつくと、バチッという音がした。

「イタッ」
「あ、ごめんなさい」
『いいから走れ!!』
「う、うん!」

 手が離れた隙にノクターン横丁に飛び込んだ。

「ま、待つんだ!!」

 驚いた事にお兄さんはノクターン横丁の中まで追い掛けて来た。すごく脚が早い。

『その角を左に曲がれ!』
「待つんだ!! せめて、怪我の治療をさせてくれ!!」
「ご、ごめんなさい! 僕、行けない!」
『喋るな! ヤツを撒くぞ!』

 迷路のような立地を縦横無尽に走り続ける。気付けば声が遠くなっていた。

『お、おい、どうした!?』

 魔王が慌てた声を上げている。だけど、僕は返事をする事が出来なかった。
 声じゃない。遠のいていくのは僕の意識の方だ。
 そう言えば、一昨日から何も食べてない。空腹なんて慣れ親しんだものだけど、歩き回ったりして疲れていたせいだろう。
 そう他人事のように考えながら、僕は意識を失った。

第五話『ウィリアム・ウィーズリー』

 ハリー・ポッターの行方がわからなくなった。ハリー・ポッターの監視をしていたアラベラ・ドーリーン・フィッグからの手紙を受け取ったアルバス・ダンブルドアはすぐさま信頼の置ける魔法使い達に連絡を取った。
 直ぐに見つかる筈だ。ハリーは今年で七歳。ダーズリー夫婦がハリーに金を持たせるとも思えない。子供の脚で行ける場所など高が知れている。そう考えていた。
 ところが、一晩経ってもハリーを見つける事が出来なかった。

「……ハリー。どこへ行ったんじゃ」

 ハリーの失踪が魔法省に知られれば騒ぎになる。そうなれば碌でもない事になるのが目に見えている。
 闇の帝王を滅ぼした赤ん坊。ハリー・ポッターの存在は魔法界にとって特別だ。手元に置こうと考える者も多い。だからこそ、ダーズリー家の周囲に自分を含め、フィッグ以外の魔法族が近づけないようにした。
 加えて、闇の帝王のシンパが未だにハリーの命を付け狙っている。ダーズリー家に居る限り、リリー・エバンズの遺した加護が彼を守ってくれる筈だったが……。

「校長。やはり、どこにも……」

 捜索に向かわせたセブルス・スネイプの報告も芳しくない。
 
「痕跡はどこまで辿れた?」
「ロンドン市内で途切れました」
「……それはおかしいのう」

 マグルの警察とは違うのだ。専門家の呪文による追跡を杖すら持っていない子供が振り切る事などあり得ない。
 何者かの誘拐。それも古の加護を破る程の魔法使いによる犯行。

「……校長。もはや、なりふり構っている場合では無いのでは?」

 セブルスの表情にも焦りが滲んでいる。
 
「そうじゃな……」

 既に一晩が経過した。もし、犯人にハリー殺害の意図があった場合は既に殺されてしまっている可能性が高い。
 ホグワーツ魔法魔術学校の校長室に重苦しい空気が漂う。

 第五話『ウィリアム・ウィーズリー』

 魔王に起こされて目を覚ますと、僕は知らない場所で眠っていた。

「ここは……?」
『漏れ鍋の二階だ』
「漏れ鍋って?」
『ダイアゴン横丁の入り口だ。酒場と簡易宿泊所を兼業している。倒れた貴様を小僧がここに連れて来た』
「小僧って……」
 
 思い出した。倒れる前、僕は赤毛のお兄さんから逃げていた筈。どうやら捕まってしまったみたいだ。

「ど、どうしよう。逃げた方がいいのかな?」
『……いや、今はいい。今の貴様ではまた倒れるのがオチだ』
「う、うん」

 それにしても、空腹で気分は優れないけど、普段感じる全身の鈍痛が消えている。
 不思議に思って服の袖を捲ると、そこにある筈の切り傷や火傷が無くなっている。たくさんあった痣も綺麗サッパリだ。
 驚いていると扉が開いた。

「ああ、目が覚めたんだね」

 入って来た人はあのお兄さんだった。手にはお盆が乗っている。
 空きっ腹には堪えるいい匂い。

「僕はウィリアム・ウィーズリー。覚えてるかな? ノクターン横丁の前で君と会ったんだ。ここは漏れ鍋。倒れた君をここに連れて来た。それと、これはトムさんに頼んで作ってもらったスープだ」
『ウィーズリー……、やはりか』

 僕が寝ているベッドの隣まで来ると、ウィリアムは小机にお盆を置いて、近くの椅子に腰掛けた。

「食べられる?」
「え? えっと……」

 困り果てた。食べていいとは、そこにある美味しそうな料理の事かな?

「あ、あの……」
「どうしたの? 具合が悪い? でも、少しでもいいから食べて欲しい」

 ウィリアムはスプーンでスープを掬うと、息を吹きかけて少し冷ましてから僕の口元に運んだ。

「ほら、あーんってして」
「えっと……、あ、あーん」

 言われた通りに口を開けると、温かくて美味しいスープが口の中に流れこんできた。
 あまりの美味しさにビックリして目を丸くすると、ウィリアムはクスリと微笑んだ。

「よかった。トムさんの料理は口にあったみたいだね」
「あ、ありがとうございます……」

 お礼を言った途端、お腹の虫が盛大に鳴いた。
 ウィリアムは一瞬目を丸くした後、嬉しそうにスープを飲ませてくれた。

「パンは食べられる? お肉や野菜も食べたほうがいいんだけど……」
「だ、大丈夫です。でも、いいんですか……?」
「なにが?」
「そ、その……」

 僕が目を伏せると、ウィリアムは悲しそうな顔をした。

「……聞きたい事がある。辛い事かもしれないけど、出来れば答えて欲しい」
「な、なんですか?」
「君の体は傷だらけだった。それに、トムさんが言うには満足な食事も与えられていないみたいだって……」

 まるで、何かに耐えるような表情を浮かべるウィリアム。

「……両親がいないっていうのは、本当?」
「は、はい……」
「なら、誰かの世話になっているのかい?」

 僕はどう応えるべきか悩んだ。今は魔王が居るし、その前はダーズリー家に居た。
 だけど、正直に答えていいのか分からない。もし、ダーズリー家に戻される事になったらと思うと身が竦む。

「……質問を変えるよ。君に帰る場所はあるの?」

 その質問に僕は震えた。涙が溢れてくる。
 
「帰りたくない……」

 それは自然と漏れた言葉だった。

「僕、帰りたくない」
「……そうか、わかった」

 ウィリアムは僕の頭を撫でてくれた。壊れ物を扱うように優しく。

「ごめんね。とても辛い事を言わせてしまったみたいだ」
 
 ウィリアムはパンをちぎった。

「……僕もまだ子供だ。だから、何が正しいのかなんて分からない」

 ちぎったパンを僕に手渡して、彼は言う。

「だけど、力になりたい。放っておきたくないんだ。君が帰りたくないと言うなら、僕の家に来るといい。両親もきっと歓迎してくれる。それに、父は魔法省で働いているんだ。君の居た環境に問題があったのなら、きっと力になってくれる」

 力強い言葉。

「……やめて」

 体の震えが止まらない。歯がカチカチと音を立てている。
 昔、僕の体が栄養失調気味である事に気付いた学校の先生が家に乗り込んできた時の事を思い出してしまった。

「ど、どうしたの!?」

 頭を掻き毟り、体を丸める。
 ペチュニアおばさんの怒声が聞こえる。バーノンおじさんが丸めた雑誌で何度も殴りかかって来る光景が瞼の裏に映る。
 
【この恩知らず!! 私達に恥をかかせたわね!!】
【馬鹿者が!! この家に置いてやってるだけで感謝するべき立場だろうが!!】
 
 熱湯が肌を焼く。ぐったりするまで蹴られ続ける。

【ろくでなしが!! お前の父さんとソックリだ!! 恩知らずでナメクジよりも気持ちの悪い男だった!!】
【同情を買おうとしたのかい? ああ、お前の母さんもおべっかが得意だったよ! 本当に醜い!】 

 耳に残る、僕という存在を否定する言葉。無価値だと言われた。邪魔だと言われた。何故生きているのか不思議だと言われた。
 空腹のあまり、埃を食べようとして吐いたら殴られた。
 汚いと言われて、真冬に冷水を掛けられた。洗濯用の洗剤とタワシで全身を洗われて、一週間以上痛みが続いた。
 
「ぅぅぅぅぅぅ……」
 
 蹲り、泣き続ける僕をウィリアムは震えながら抱き締めた。

「すまない……。すまない……」
 
 何に対して謝っているのか、本人も分かっていないのだろう。それでも、彼は僕に謝り続けた。

『……これほどだったか』

 魔王は酷く冷淡な声で呟いた。

『ハリー』

 初めて、魔王に名前で呼ばれた。

『ウィリアムの提案を受けろ。……少なくとも、ウィーズリー家の者はあのマグル共などより遥かにマシな人種だ』

 魔王に言われたから、僕は泣き止んだ後にウィリアムの提案を受けた。
 ウィリアムは喜んでくれた。手紙を出すと言って、部屋を飛び出した。

「……魔王。良かったの?」
『このままでは貴様が栄養失調で死んでしまうからな。それでは本末転倒だ』

 しばらくして、ウィリアムが戻って来た。

「両親に手紙を出したよ。夕方頃には返事が来ると思う。安心して欲しい。きっと悪いようにはしないから」
「う、うん……。ありがとうございます、ウィリアムさん」
「ビルでいいよ。みんな、そう呼んでる」
「……ありがとう、ビル」

 お礼を言うと、ビルはニッコリと微笑んだ。

「……っと、そう言えば名前を聞いてなかったね」
『ノエル・ミラー。そう名乗れ』

 ここまで来たら本名でも良い気がしたけど、僕は魔王に言われた通りに偽名を口にした。
 親切にしてくれた人を騙したくなかったけど、魔王が言うなら仕方がない。

「ノエルか……。よろしくね、ノエル」
「はい!」

 それから数時間、僕はビルにウィーズリー家の事を聞いた。彼の家には僕と同年代の子供がいるみたい。
 
「ロンって言うんだ。やんちゃだけど、心根の優しい子なんだ。きっと友達になれる筈さ」

 自慢気に家族の事を話すビル。僕は少しだけ、彼の弟の事が羨ましくなった。
 
 夕方になると、扉の向こうから背の高い男の人が現れた。

「父さん!」

 ビルが招き入れると、男性は僕を見つめた。

「やあ、はじめまして。私の名前はアーサー・ウィーズリー。ビルの父親だ。君の境遇についてはビルからの手紙で知っている。安心しなさい。私は君に出来る限りの事をするつもりだ」

 そう言って、アーサーは手を差し伸べてくれた。僕はビルをそっと見つめる。彼は頷いた。

「よ、よろしくお願いします」

 僕はアーサーの手を取った。

第六話『家族』

 目の前の煙突にアーサーが飛び込んだ。炎が轟々と燃え盛っているのに正気とは思えない。

「隠れ穴!」

 ハラハラしながら見つめていると、アーサーの姿が消えた。灰になったわけじゃない。彼は家に帰ったのだ。
 煙突飛行。魔法使いが長距離を瞬間的に移動するための手段。

「さあ、父さんみたいにノエルもやってごらん」

 魔王に言われて名乗った偽名だけど、中々慣れない。

「う、うん!」

 フルーパウダーという魔法の粉を煙突に振りかける。すると炎が美しいエメラルドグリーンに変わった。
 だけど、やっぱり炎に飛び込むのは勇気がいる。尻込みをしているとビルが僕の肩を抱いた。

「大丈夫だよ。ちっとも熱くないんだ」

 そう言って、彼は片手を炎に翳した。

「ほらね」
「うん」

 意を決して中に入ると、ビルの言う通りちっとも熱くなかった。
 
「隠れ穴!」

 第六話『家族』

 熱くないとは言っても灰が舞っているから咳き込みそうになったけど、なんとか言えた。
 途端、目の前がグルグル回転し始めて、気が付くと知らない場所に立っていた。

「こんにちは」

 アーサーに手を取られて暖炉から出ると、恰幅のいい中年女性に出迎えられた。

「ようこそ、ノエルちゃん。辛い目にあったそうね。もう大丈夫よ」

 そう言って、彼女は僕を抱き締めた。あまりの事に硬直していると、暖炉からビルが現れた。

「母さん、ノエルを離してあげて」
「あらやだ。歓迎の挨拶をしているだけよ?」
「ノエルが震えてる」

 ビルの言葉にビルのお母さんはハッとした表情を浮かべて僕を見た。
 申し訳ないと思いながらも体の震えを止められない。

「ご、ごめんなさい」
「謝らないでちょうだい! 私の方こそ、いきなりビックリしたわよね? ごめんなさい」

 慌てたように謝るビルのお母さん。

「母さん。とりあえず、ノエルは僕の部屋に住まわせてもいいかな?」
「ビルの部屋に? ちゃんと、ノエルちゃん用の部屋も用意したわよ?」
「わけは後で話すよ。それから、ジョージとフレッドはいる? 二人には先に話をつけておかないと」
「二人ならチャーリーが抑えつけているわ」
「そっか。ロンとジーニーは?」
「お部屋にいるわ。お出迎えをしたいって言ってたのだけど、チャーリーに反対されたの。あの子が正しかったみたいね」
「ああ、チャーリーには礼を言っておくよ」

 ビルはお母さんとの話を切り上げると、僕の手を取った。

「部屋に案内するよ。疲れただろう? 食事を運んでくるからゆっくりしていてくれ」
「う、うん!」

 案内された部屋は魔王の隠れ家よりも少し狭かった。
 棚には所狭しと分厚い本が並び、棚の上には様々な模型が並んでいる。

「リュックサックはテキトウな所に置いておいてくれ」
「うん」
「自分の部屋だと思って寛いでくれ。本や模型は好きに弄っていいよ。お菓子も好きなものを食べていいからね」
「あ、ありがとう」
 
 ビルが去って行った後、僕はベッドの横で丸くなった。

「……不思議な人」
『というよりも、あそこまでいくと変わり者だな。普通、自分の私物を他人に触られる事など嫌なものだ』
「だよね……」
『それはともかく、体を休めておけ。全身の怪我は漏れ鍋の店主が治癒をしたが、貴様の体力は人並み以下なのだ。色々あって、疲れているだろう?』
「うん……」

 瞼を閉じたらすぐにでも眠ってしまいそう。だけど、ここで眠ってしまう事はとても失礼な事のような気がした。

「ねえ、魔王」
『なんだ?』
「杖のお店で言ってた事だけど……」
『ああ、両親の事だな』
「う、うん。それそれ」
『安心しろ。約束した以上は話してやる。ジェームズ・ポッターとリリー・エバンズ。どちらもよく知っているとも』

 魔王が語り始めたところで扉が開いた。

「……誰かと話していたの?」
「え!? あ、いや、その……。ど、どうしよう!?」
『……いかんな。気が緩んでいた』

 ビルは部屋の中を見渡した。

「ペットか何かかい?」
「い、いえ……。あの、心の中にいる人で……」
「心……?」
「あ、その……えっと」

 ビルは机に持って来たお盆を置くと、僕の頭を撫でてくれた。

「そうか……。友達なのかい?」
「え? いや、友達っていうか……、お父さんがいたらこんな感じなのかな? っていうか……」
『……お父さん、だと?』
「え!? イヤだった!?」
『いや、別に構わないが……。それより、気付いているか? 今の貴様は客観的に見ると非常に悲しい存在になっているぞ』
「え、どういう事!?」
『心の中の別人とおしゃべりしているんだぞ?』
「あっ……」

 今の僕は完全におかしい人だ。ビルの反応が怖い。おそるおそる彼の顔を見上げると、非常に悲しそうな顔をしていた。

「……そうか。名前はあるのかい?」
「え?」
『……あー、とりあえずニコラスとでも言っておけ』
「ニ、ニコラスって言うの」
「そうか……。ニコラスには僕の声が聞こえるの?」
「う、うん」
「そう。なら、ニコラス。ノエルの事は心配いらないよ。僕が守る」
『なんと面倒な展開だ』

 魔王は愚痴を零した。

『……任せる。そう伝えろ』
「えっと、任せるって言ってる」
「そっか!」

 嬉しそうな顔。

「おっと、のんびりしてると折角のご飯が冷めちゃうね。母さんのご飯は絶品だよ」

 そう言って、ビルは僕を椅子に座らせた。

「食欲はある?」
「う、うん」
「よかった。足りなかったら言ってね。すぐにお代わりをもらってくる」
「ありがとう」

 お礼を言うと、ビルはベッドに腰掛けて本を読み始めた。
 ビルの言う通り、彼のお母さんの料理は頬が落ちるかと思うほど美味しかった。

 ◆

 許せない。頭の中はそればっかりだ。
 僕には弟と妹がたくさんいる。僕はあの子達を愛している。家族は愛しあうべきなんだ。
 それなのに、ノエルは家族の愛を知らない。優しくされる度に怯えた表情を浮かべる。きっと、優しくされる度に相応の苦しみを味合わされてきたに違いない。
 解離性同一性障害という精神の病気がある。ノエルの症状はまさにそれだ。
 助けてあげたい。守ってあげたい。家族の愛を教えてあげたい。
 押し付けがましくて、ノエルには迷惑な話かもしれないけど……。

「ご、ごちそうさまでした」

 ノエルが恥ずかしそうに言った。
 満足に食事も与えてもらえなかった事は体を見ると一目瞭然だった。
 どうして、そんな残酷な事が出来るのか理解が出来ない。
 弟や妹が同じような目に合わされたら……。

「おかわりはいいの?」
「う、うん。もう十分だよ。こ、こんなに美味しいご飯……その、初めて。ありがとう、ビル」

 いい笑顔だ。この笑顔をこれ以上曇らせたくない。

「それはよかった。それじゃあ、今日はもう眠るといい」

 父さんと相談しよう。きっと、ノエルが行方をくらませた事に保護者も気付いている筈だ。連れ戻そうとするかもしれない。
 ノエルを不幸にしたくない。どんな展開になっても、ノエルの幸福が優先されるよう準備をしないといけない。
 僕は決意を固めた。

第七話『ウィーズリー家の人々』

 気持ちのいい朝を迎えた。体の痛みに呻く事も、空腹に喘ぐ事も、埃を吸い込んで息苦しくなる事もない。こんなに爽快な気分で起きる事が出来るなんて思わなかった。
 ベッドから起き上がると、床で眠っているビルに気付いた。

「あっ……」

 僕がベッドを占領してしまったせいだ。
 夏とは言っても夜は冷え込む。毛布一枚で凌ぐ辛さを良く知っているから、僕は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
 
「ん……、あれ? ああ、起きたんだね、ノエル」
「ごめんなさい、ビル。僕がベッドを使ったから……」
「気にしないでよ。僕が君にベッドを使ってもらいたかったんだ」
「でも……」

 ビルは困ったような表情を浮かべた。

「オーケー。今夜からは僕もベッドで寝る。一緒に寝よう。それでいい?」
「え? う、うん」
「じゃあ、下に降りよう」

 髪がくしゃくしゃになるくらい撫でられた後、腕を引っ張られて一階に降りた。

 第七話『ウィーズリー家の人々』

 一階には既にビルのお母さんがいた。慌ただしく動き回っている。

「おはよう、母さん」
「あら、おはよう。今日は早いわね。ご飯はまだよ?」
「そっか。じゃあ、ノエルに庭を案内してくるよ」

 ビルが僕の手を引っ張る。だけど、僕の目はビルのお母さんに釘付けだった。
 彼女が杖を振る度に鍋や包丁が踊る。

「あら、興味があるの?」
「えっと、その……」

 小さく頷くと、彼女はとても嬉しそうな顔をした。

「あらあら! その歳で家事に興味を持つなんて関心だわ! ああ、でも杖がないと教える事は出来ないのよね……」
「あっ、杖ならあります!」
「え!?」

 二人が驚いた表情を浮かべる。どうしたんだろう。

『お前が杖を持たせてもらえている事に驚いているんだ。……本当の父親が遺した遺産を使って買ったと言え。家から逃げ出して、記憶を頼りに父親の住んでいた場所へ行き、そこで秘密の金庫を見つけたと言え。あの隠れ家の事を話しても構わない』

 魔王の言葉をそのまま口にすると、二人は納得の表情を浮かべた。
 僕ではとても思いつかない言い訳を彼は巧みに組み立てる。

「そうだったのね」

 ビルのお母さんは僕の頭を撫で付けた。

「そのお金は大切にしなさい」
「は、はい」

 ビルのお母さんは取り上げる素振りをまったく見せなかった。
 ペチュニアおばさんやバーノンおじさんが聞いたら直ぐに取り上げて、自分の物にしていた筈なのに……。

「そう言えば、私の名前を言ってなかったわね。モリーよ」
「ぼ、僕はハ……ノエルです。ノエル・ミラー」
「ええ、知ってるわ。さあ、ノエル。一緒に朝食の準備をしてみましょうか」
「はい!」

 モリーに連れられてキッチンに向かうと、ビルが気まずそうに咳払いをした。

「えっと……、僕も手伝うべきかな?」
「キッチンに三人も入らないわ」
「……はーい」

 キッチンは外から見た印象通り、すごくごちゃごちゃしていた。

「気をつけてね。刃物とかもあるから怪我をしないように」
「は、はい」
「杖の振り方はわかる?」
「いえ、その……、全然」
「なら、基礎の基礎からね。今日は杖無しでいきましょう」
「え?」

 実のところ、家事に興味があったわけじゃない。ただ、彼女の魔法に興味があった。
 杖をオーケストラの指揮者のように振り、料理を作っていく。その光景は今まで見て来たどんなものよりも魔法的だった。
 とは言え、杖を使わない家事なら得意分野とまではいかなくてもそれなりに出来る。痛みと共にペチュニアおばさんから散々仕込まれたから。

「包丁の使い方が上手ね」

 モリーは事ある事に褒めてくれた。新鮮な感覚だ。

「後でお洗濯の方も手伝ってもらえるかしら? その時はあなたにも杖を使ってもらうわ」
「は、はい!」

 力いっぱい返事をすると、モリーに笑われてしまった。
 彼女も僕に合わせて魔法を使わない調理方法に切り替え、一緒に朝食を完成させた。
 朝食を運んでいると、小さな女の子が立っていた。

「えっと……」
「あなた、ノエル・ミラー?」
「う、うん」

 女の子は僕をジーっと見つめた。

「なにしてるの?」
「え? えっと、お手伝い……?」
「ふーん」

 なんだか怖い。

「おっ、美味そうな匂い。ああ、君がノエルだな」

 緊張した空気を打ち破ったのはビルより少し背の低い、だけど、ビルよりもガッチリとした体躯の男の人だった。

「チャーリー、おはよう」
「おう、おはよう、ジニー」

 チャーリーは気さくな笑顔を浮かべた。

「おはよう、ノエル」
「お、おはようございます」
「そう緊張するなよ。リラックス、リラックス。俺達は家族になるんだぜ」

 僕の肩をポンポンと叩いて豪快に笑う。乱暴な雰囲気なのに、ダドリーとは全然違う。とても優しそう。

「ほら、ジニー。邪魔になるから席につこうぜ」
「えー、もっとお話したいよ」
「あとでゆっくりな」

 そう言って、チャーリーは僕に向かってウインクをした。
 こんなに上手なウインクは見たことがない。

「おはよう、みんな。あれ? ああ、君がノエルか」

 今度はメガネを掛けた男の人だった。ビルより低くて、チャーリーより大きい。ただ、二人と比べるとすごくほっそりしていた。

「は、はい」
「パーシーだ。よろしく頼むよ」
「ノ、ノエルです」
「うん。聞いてるよ。一応言っておくけど、あまり節度のない行動はしないように」
「は、はい」
「言ったからね? 子供とはいえ、他人の家である事を忘れてはいけないよ」
「パーシー。お前は余計なお世話って言葉を覚えたほうがいいぞ」

 いつの間にかチャーリーが目の前に立っていた。パーシーの肩をに手を回して、食卓の方に連れて行く。

「ノエルとは家族になるんだからな」
「わ、わかってるよ。ただ、僕は節度を忘れないようにって……」
「朝食の手伝いをしてる子にその心配は必要か? お前は頭が固すぎるぞ」

 呆然としていると、今度は僕と同じくらいの背格好の男の子が現れた。

「パーシーは頑固者なんだ。だから、あんまり気にしないほうがいいよ」
「えっと……」
「僕はロン。ロン・ウィーズリー。ノエルだよね? よろしく」
「よ、よろしく」
 
 欠伸をしながらロンも席につく。
 本当に不思議な家族だ。パーシーが少し注意を促しただけで、誰も僕を追いだそうとしない。
 
「……ノエルが手伝っている姿を見ても誰も手伝わないとはね」
  
 モリーが呆れたように呟いた。ピクピクと眉間が痙攣している。

「えっと……、モリーさん?」
「ああ、本当にノエルは良い子だわ」

 そう言って、テーブルに座る面々を物凄い目つきで睨むけど、食卓の面々は全く意に介していない。すごい光景だ。
 朝食を配膳し終えると、僕とモリーも席についた。大きな机には所狭しと料理が並んでいる。

「そう言えば、父さんは?」
「今朝早く、魔法省に呼び出されたわ。なんでも、大きな問題が起きたみたいなのよ」
「大きな問題ですか……?」
 
 パーシーにモリーは肩をすくめて見せた。私にはさっぱり分からないわ、と言っているみたい。
 
「はいはーい! みんな、注目!」

 みんなが朝食を食べ始めようとした途端、新たに二人の男の子が現れた。僕やロンよりも少し背が高い。
 注目するべきは二人の見た目。まるで鏡合わせのようにそっくりだ。服装まで同じものにしている。

「やあ! 君がノエルだね! 俺はフレッド!」
「俺はジョージだ!」

 満面の笑顔で僕に挨拶をする二人。

「ノ、ノエルです。よろしくお願いします」

 頭を下げると、二人はニンマリと笑った。

「おい、何をするつもりだ?」
 
 パーシーが警戒した表情を浮かべる。

「ここで花火や爆弾を爆発させたらタダでは済まさないわよ?」

 とっても怖い表情を浮かべてモリーが言った。と言うか、花火や爆弾ってどういう事だろう。この二人はテロリストなの?

『ああ、悪戯グッズの事だろう。この反応から察すると、この二人は相当な問題児らしい』

 そういう事か……。

「そんな事はしないよ。ただ、折角新しい家族が出来たんだ」
「ここは余興の一つもやらないとって思ってさ!」

 二人は交互にしゃべっているのに、まるで一人がしゃべっているみたい。それほど、二人は声もそっくりだった。

「余興?」

 ロンが首を傾げる。

「絶対碌でもない事を考えてる……」

 パーシーがうんざり気味に呟く。

「今日は何をするつもりなのかしら」

 ジニーは少し期待しているみたいだ。

「あの二人は双子なんだよ。いつも面白い事を思いつくんだ」

 ビルが教えてくれた。その顔は好奇心でいっぱいになっている。二人が何をするつもりなのか、ジニーに負けないくらい楽しみにしているみたいだ。

「そういうわけで!」
「どっちがフレッドでしょうかゲーム!!」

 双子の片割れが杖を振る。すると、どこからともなく現れた真っ白なシーツが二人を隠した。シーツの向こう側はまったく見通せない。
 しばらくすると、シーツが地面に落ちた。

「さて、どっちがフレッドか分かるかな!」
「さて、どっちがフレッドか分かるかな!」

 同じ声が重なり合って、とても不思議な響きになっている。
 それはそうと、さっぱり分からない。なにしろ、二人はあまりにもそっくりだ。

「うーん、左かな?」
「右じゃない?」
「僕は左だと思うよ」
「俺も左かな」
「どっちでもいいよ。ご飯が冷めちゃうじゃないか……」
「ノエルはどっちだと思う?」

 モリーに聞かれて、僕は必死に二人を見比べた。だけど、さっぱり違いが分からない。

『右だ。ああいう見た目で判断のつき難い人間を見分ける方法は瞳を見る事だ。そこに性格が現れる』

 魔王に言われて、僕は二人の瞳を見つめた。すると、そこに確かな違いを見る事が出来た。
 とても些細な差だけど、人の顔色を伺う事は得意分野だ。

「右がフレッド。左がジョージ」
 
 僕が答えると、二人は目を見開いた。

「えっ、正解なの?」
 
 ロンが聞くと、二人は同時に頷いた。

「も、もう一回!」

 ジョージが言った。杖を振って、自分達を隠す。
 それから間を置いてシーツを降ろす。

「どっちがフレッドか分かるかな!?」
「どっちがフレッドか分かるかな!?」
 
 魔王はすごい。今度ははっきりと分かった。
 フレッドは好奇心旺盛な瞳で、ジョージは優しい瞳をしている。

「さっきと同じ。左がジョージで、右がフレッド」
「も、もう一回!!」

 なんだか楽しくなってきた。二人は何度も《どっちがフレッドでしょうかゲーム》を繰り返した。
 モリーが怒るまで、それこそ十回以上も。
 二人共、モリーにガミガミ怒られながら僕を嬉しそうに見つめた。

「ノエル! 僕はどっち!?」
「ジョージ」
「僕は!?」
「フレッド」

 あまりにも嬉しそうな顔で聞くものだから、僕も嬉しくなった。

「ノエル! よろしくね!」
「ノエル! よろしくね!」
「う、うん。よろしく」

第八話『禍福』

 第八話『禍福』

 僕がウィーズリー家でお世話になるようになって一ヶ月が経過した。
 ここでの生活にも慣れ始めている。

「おばさん、これは?」
「そっちの鍋に入れてちょうだい」

 朝、目を覚ました僕は一緒に寝ているビルを起こさないように部屋を出て、モリーを手伝うことにしている。
 モリーは気が向いた時だけでもいいって言ってくれたけど、お世話になる以上は何かを返したい。
 朝食の仕度をしているとビルが起きて来た。彼の後にチャーリーとジニー。それからパーシー。最後にフレッドとジョージ、ロンが降りてくる。
 いつも大体同じだ。

「今日も父さんは帰ってないの?」

 朝食を並べ終えてビルとフレッドの間に座る。初めは端っこの席に座っていたのだけど、フレッドが僕の隣に座りたがった。
 フレッドとジョージは未だに《どっちがフレッドでしょうかゲーム》を仕掛けてくる。時には変装する事もあるけど、さすがに目元を隠されても見分けられるようになった。
 人の性格を見分けるコツは何も瞳だけじゃない。

「ええ、忙しいみたいね。何の仕事をしているのかは教えてくれないのだけど……」
「教えてくれないって?」

 最初の日以来、アーサーは僕が起きる前後に家を出ている。夜もとても遅い。帰って来ない事すらある。
 早起きの僕とモリー以外とは殆ど顔を合わせていないみたいだ。
 
「とても大きな問題を取り扱っているみたいなのよ。ダンブルドアやスクリムジョールも動いているみたいだから心配なの……」
「スクリムジョールって、闇払い局の局長じゃないか!? まさか、死喰い人が!?」

 ビルが血相を変えた表情を浮かべる。チャーリーとパーシーも似たような反応をしているけど、フレッド達はチンプンカンプンな様子。

「そういうわけだから、勝手に外出してはいけませんよ? 特にフレッドとジョージ! いいわね?」
「はーい!」
「分かっておりますとも!」
「……ノエル、見張っておいてちょうだいね」
「は、はい」

 フレッドとジョージは大体僕と一緒にいる。モリーの手伝いをしている最中も話し掛けてくるものだから、時々モリーが雷を落とす事もある。
 そういうわけだから、二人の見張りは僕が適任というわけだ。
 朝食を終えると、今度は家の中の掃除だ。料理は未だにアナログ式だけど、掃除の時は僕も杖を使うようになった。
 モリーが丁寧に呪文の使い方を教えてくれたおかげで色々と出来るようになった。

「ノエルは真面目だね」
「母さんだって、別に毎日手伝わなくてもいいって言ってたじゃないか! 一緒にあそぼうよ!」

 この調子で掃除の間中話し掛けられ続けている。

『……なんと鬱陶しい奴等だ』

 魔王が呆れたように言った。だけど、彼らに悪意はない。純粋に僕と遊びたいと思ってくれている。
 その気持ちはとても嬉しい。

「ごめんね。でも、僕がやりたいの」
「……ちぇー」

 こう言うと、二人も引いてくれる。この家の人達はなによりも僕の意思を優先してくれる。

「じゃあ、あっちは俺達がやるよ」

 そして、二人も手伝ってくれる。

「ありがとう」
 
 二人が手伝うようになって、掃除の時間が短くなったとモリーも喜んでくれた。
 掃除が終わると、今度は洗濯だ。この時間が実は一番楽しくて難しい。
 この家には洗濯機なんていう文明の利器は無いのだ。と言うより、機械類がまったく置かれていない。
 大きな樽に洗濯物と洗剤を入れると、杖を一振り。
 僕はまだチョロチョロとしか出せないけど、フレッドやジョージは蛇口を全開に捻ったように大量の水を魔法で出す事が出来る。
 水が貯まると、今度は水を回転させる。この作業は我儘を言って、一人でやらせてもらっている。
 十回転させたら逆回転で十回。それをそれぞれ十回ずつ。終わったら下の方に付いている排水用の穴のキャップを外して、上から圧力を掛ける。
 脱水が終わった洗濯物を外に干したら午前中の仕事は終了。
 モリーが買い物に行き、僕達は庭で駆け回る。
 パーシーは基本的に部屋で勉強しているけど、他の兄弟達はたいてい外で遊んでいる。

「ノエル。仕事は終わったのかい?」

 日陰で本を呼んでいたビルが声を掛けてくる。

「うん! ビルは何を読んでるの?」
「友達からもらった本だよ。ブラジルに文通相手がいてね。為になる本を時々送ってくれるんだ」

 ビルが見せてくれた本は外国の文字で書かれていた。

「読めるの!?」
「もちろん」
「すごい!」

 やっぱり、ビルはすごい。頭も良いし、運動神経も抜群。完璧という言葉はこの人の為にある言葉だ。

『……言っておくが、俺様も読めるからな? ざっと二十ヶ国語以上を修めている』

 時々、魔王はビルと張り合おうとする。彼が凄い事はちゃんと分かってるのに……。

「ノエル! ビルとばっかり話してないで、一緒にあそぼうよ! 今日は箒に乗せてあげるからさ!」
「う、うん!」
「気をつけるんだぞ、二人共。ノエルに怪我をさせないようにな」
「分かってるって!」
「当然だ!」

 チャーリーやロン、ジニーも混ざって箒に乗ったり、庭小人を投げ飛ばしたり、追いかけっこをしたり、僕達は夕方になるまで遊び続けた。
 あまりにも楽しい日々。気付いた頃には僕はウィーズリー家の人々に心を許していた。

『……さて、今日は狼男の話をしてやろう。貴様の両親も狼男の友人が居たのだ』

 モリーの手伝いを終えて、ビルと一緒にベッドに入って瞼を瞑ると、いつものように魔王がお話をしてくれる。
 両親の話から始まり、僕がせがんだから色々な話をしてくれるようになった。
 世にも奇妙な夜の生き物達の話。偉大な魔法使い達の話。心踊る史実の英雄譚。

『ヤツの名はリーマス・ルーピンと言ったな。フェンリール・グレイバックという狼男に噛まれた事で――――』

 魔王の話はいつも楽しい。
 あたたかいビルの体に抱きつきながら、魔王の声を聞いて眠りに入る。それが今の僕の一日の終わり方。
 幸せだ。こんなに幸せな日々が来るなんて想像もしなかった。

 そして、月日が流れていく。楽しい時間は瞬く間に過ぎていき、夏の終わりにビルとチャーリー、フレッド、ジョージの四人はホグワーツに向かう事になった。今までは夏休みだったから毎日一緒にいられたのだ。
 キングス・クロス駅で9と3/4番線という壁の中に入った先にある不思議なホームから赤い汽車に乗り込む四人を僕達は見送った。

「ノエル。クリスマスには必ず帰るからさ」

 ビルと離れる事になる。その事が自分でも驚く程に辛かった。
 堪らなくなって涙を流すと、彼は僕を抱き締めてくれた。

「手紙も出すよ。だから、待ってて」
「……うん、ビル」
 
 ビルが僕を離すと、フレッドとジョージに両脇から挟まれた。
 
「俺達も手紙出すからね!!」
「忘れちゃ駄目だよ!? 絶対だからね!!」

 フレッドとジョージに懇願され、チャーリーにも頭を撫でてもらった。 

「別に忘れちゃってもいいよ! 私達は一緒にいられるもんねー」

 ジニーはクスクス笑いながら言った。

「ジ、ジニー?」
「いっつも兄さん達が独占してたから、これでやーっと、二人でゆっくり遊べるわね!」
「あ、あはは……」

 不服そうな表情を浮かべる兄さん達に小悪魔的な笑みを浮かべるジニー。

「僕もいるんだけど……」

 寂しそうに呟くロン。
 ホグワーツ特急を見送った後、モリーおばさんに連れられて隠れ穴に戻ると、僕は急に家が広くなったように感じた。

「ねえ、今日からは私と一緒に寝ない?」
「え!? いや、それはさすがに……」
 
 ビルが居なくなった事を気遣ってくれているのだろうけど、さすがに女の子と一緒に寝る事なんて出来ない。
 丁重にお断りすると、ジニーは可愛らしく頬をふくらませた。
 それからジニーとロンと一緒に夜まで遊び、四人だけの静かな食事を済ませると、僕はモリーが用意してくれた自室に入った。
 元々、僕が来ると決まった時に準備していた部屋みたい。広々とした部屋で一人で眠ると、余計に寂しくなった。

 それから数ヶ月が経過した日の事だった。久しぶりにアーサーが早く帰って来た。
 どこか不安そうな表情を浮かべていて、ロンやジニーも心配そうにしている。

「ノエル、来てもらえるかな?」
「え? あ、はい」

 帰って来るなり、ロン達に待っているよう命じると、アーサーは僕の手を引いて裏庭にやって来た。
 困惑していると、魔王が静かに呟いた。

『ここまでか……。いや、意外と保ったほうだな』

 どういう事か聞く前に、アーサーが口を開いた。

「君は本当にノエル・ミラーという名前の人間なのかい?」

第九話『ポイント・オブ・ノー・リターン』

「ノエル。気を悪くしたらすまない。だが、とても重要な質問なんだ」

 アーサーの顔には苦悩の色が浮かんでいる。まるで、今まさに望まぬ罪を犯そうとしているような顔だ。
 
「あらかじめ言っておくが、君が何者であっても私は君の味方だ。それだけは何があっても変わらない。もちろん、私の家族も」
「……僕は」

 どうしたらいいのか分からない。こんな時、いつも魔王が行く道を教えてくれるのに、今はだんまりを決め込んでいる。

「私の目を見て、正直に答えてほしい。的外れな質問だったのなら、それでいいんだ」

 アーサーの青い瞳がまっすぐ僕を見つめている。まるで責め立てられているみたい。目が泳ぎそうになる。
 
「僕は……」

 アーサーは僕の味方でいてくれると言った。それなら、正体を明かしてもダーズリーの家に戻らなくて済むかもしれない。
 ……魔王が助言をくれたら直ぐに決められるのに、どうして黙っているんだろう。

「おじさん」
「ゆっくりでいい。君を責めているわけじゃないんだ。もしかしたら、君は今以上の手助けを必要としているかもしれない。だからこその質問なんだ」

 その言葉に僕は吹っ切れた。この家の人はダーズリー家の人達とは違う。心から信頼する事が出来る。
 意を決して答えようと口を開いた瞬間、アーサーの背後に人影が現れた。

「アーサー! 何をグズグズしているのだ!」
「ス、スクリムジョール局長!?」

 現れたのは厳しい顔をした初老の男だった。背丈はアーサーと変わらないけど、体格は彼よりもずっとガッシリとしていて、獅子の鬣のような髪が彼に得も言われぬ威圧感を与えている。

「この子だな?」
「待って下さい! まだ、確認が取れたわけでは……」
「こうすれば一発だろう」

 スクリムジョールは杖を振った。すると、僕の目の前に銀色の光が現れ、空中に文字を刻んだ。

《Harry Potter》

 目を見開く僕とは対象的にスクリムジョールは睨むように目を細めた。

「ハリー・ポッター。君を探すために、我々は随分と苦労させられたよ」
「スクリムジョール局長! この子はとても辛い目にあったのです!」
「ああ、聞いているとも。全くもって悲劇だ! 闇の帝王を討ち倒した英雄が愚劣なマグル共に虐げられるなど、あってはならぬ事!!」

 地の底から響くような声。彼の怒気によって空気が張り詰めていく。

「だから、我々は反対だったのだ!! 事もあろうに、マグルに預けるなど!! ダンブルドアの決断とは言え、これは完全な失策だ!!」
「局長!! ノエル……、ハリーが怖がります!!」

 アーサーが僕を庇うように抱き締めながら声を張り上げる。

「……ああ、すまない。だが、今回の事でダンブルドアの意見を封殺する事が出来る。ハリー・ポッターには然るべき教育を施し、未来の魔法界を背負って立つ男になってもらわねばならない」

 ギラギラとした瞳が僕を見据える。恐怖で体が震えた。

「局長! ハリーの事は私が責任を持って面倒をみます。だから――――」
「たしか、君の家には七人もの兄弟がいたな」

 アーサーの言葉を遮るようにスクリムジョールは言った。

「長男と次男は実に優秀だと聞く。ホグワーツの教師からはまさに神童だと讃えられているそうだな。入学したばかりの三男の評判も聞いているよ。三人共、いずれは首席になる事間違いなしだとか」
「それは……ええ、まあ」

 唐突に息子を褒められて、アーサーは頬を染めた。

「だが、その下の双子は随分な問題児だと聞く」
「そ、それは違います! あの二人は……その、確かに問題を起こす事もありますが、しかし!」
「毎日のように校則を破り、管理人のミスター・フィルチを随分と困らせているようではないか」
「それは……」

 双子というのはフレッドとジョージの事だろう。あの二人の事を悪く言う人間がいる事に驚きを隠せない。
 ずっと傍に居たからこそ分かる。あんなに素敵な双子はこの世にそうは居ないはずだ。
 僕は段々とスクリムジョールの事が嫌いになり始めた。

「アーサー。君の能力に問題があるとは言わない。だが、七人は多過ぎる。この上、更にもう一人増えるとなると、その負担はあまりにも大き過ぎる」
「私の息子や娘達はみんな立派に育っている!!」

 激昂するアーサーにスクリムジョールはほくそ笑んだ。

「本当に全員に等しく愛情を注げているのかね? 寂しがっている子が居ないと? 双子が問題を起こすのは君に構って欲しいと願う子供達の声なき願いなのではないか?」
「……それは」

 スクリムジョールは実に言葉巧みだ。アーサーは徐々に声が小さくなっている。

「アーサー。モリーの事も考えてやるべきだ」
「何を言って……」
「彼女は実にたくましい女性だ。だが、家の事は一人でやっているそうじゃないか。これ以上、彼女に負担を掛けるべきじゃない」
「だから、自分がハリーを引き取ると?」
「ああ、そうだ。この子を立派な魔法使いに育て上げてみせようじゃないか」

 ゾッとした。この人はダーズリー家の人達と同じだ。
 彼らが僕を《普通》に育て上げようとしたように、僕を《魔法使い》に育てようとしている。
 
「ハリーにとっても、それが一番なのだよ。ハリーがこのまま君の家に居ても、いつかは邪魔者扱いになるぞ。なぜなら、彼はウィーズリー家の子ではないのだからな」
「……そんな事は」
「あるに決まっているだろう。彼に親兄弟の愛情を掻っ攫われた子達の感情を無視するつもりか?」

 スクリムジョールは首を横にふった。

「アーサー。冷静に考えるんだ。君の給料で八人の子供を養えるのか? 満足な食事や新品の洋服を買ってやれるのか?」

 スクリムジョールの厄介な所は全て事実だという事。
 僕がウィーズリー家に居座り続ければ、いつかは起きる問題。
 好意に甘え続ければ、その分だけウィーズリー家に迷惑が掛かる。その事に気付かなかった自分が恨めしい。

『……ふむ。ハリー、少し目を瞑れ』

 漸く口を開いた魔王の指示に従って、瞼を閉じる。
 すると、目の前に魔王の姿があった。

 第九話『|帰還不能点《ポイント・オブ・ノー・リターン》』

 不思議な感覚だった。瞼を閉じた筈なのに、今は開いている。開いているのに、僕の目は暗闇に漂う魔王の姿を捉えている。
 まるで、夢を見ているような気分だ。

『ふむ……。これでは些か殺風景過ぎるな』

 魔王が指を鳴らすと暗闇が変化した。次の瞬間、僕と魔王は青白い光に包まれた部屋に立っていた。

『そこに座れ』

 促されるまま、僕は椅子に座った。とてもふかふかだ。

「……魔王、ここは何なの?」
『ここは夢の世界だ。あるいは精神の世界と言い換えてもいい。要は俺様が創り上げた仮想世界だ』
「仮想世界……」
『暇だったからな。色々試している内に出来たのだが、これが中々に便利なものでな。夢の性質を利用する事で主観時間を大幅に伸ばす事が出来た』
「主観時間……?」
『例えば、人の夢は起きる寸前の二十分の間に見ると言われている。だが、夢の中ではその何倍もの時間を過ごしている気がする。そんな経験はないか?』
「あるっていうか、夢って二十分しか見てないの!?」
『まあ、絶対にそうだというわけではないが……。その現実の時間とは違う夢の中で認識している時間を主観時間と言うのだ。この世界でのんびりと会話を楽しんでも、現実の世界では数秒程度の時間しか経過しない。どうだ? 実に便利だろう』
「う、うん。凄いよ! さすが魔王!」
『ッフ、当然だ』

 魔王はとても嬉しそうだ。

『さて、お前をこの世界に呼んだ理由だが、選択させる為だ』
「選択……?」
『ああ、このまま俺様と共に生きるか、スクリムジョールの下で一人で生きていくかの二択だ』
「え……?」

 僕は困惑した。

「ど、どういう事? 魔王と生きるか、一人で生きていくかって……」
『そのままの意味だ。スクリムジョールの提案を受ければ、俺様は遅かれ早かれお前と共には居られなくなる』
「そんな!?」
『こればかりはどうしようもない。だが……、ハリー』

 魔王は僕の名前を呼んだ。

「なに……?」
『この選択には大きな意味がある。ここが|帰還不能点《ポイント・オブ・ノー・リターン》だ。スクリムジョールの提案を受ければ、あるいは幸福な人生を歩めるかもしれない。大いなる災禍からも守られ、無数の賞賛を与えられ、地位と財産も手に入るだろう』
「わ、わけわからないよ。あの人と一緒に行くと、どうしてそうなるの!?」
『あの男が言っていただろう。貴様は英雄だと』
「英雄……?」
『そうだ。お前の両親が死んだ事。お前がダーズリー家に預けられた事。全ては八年前に遡る』

 魔王は一つの悲劇を語った。暗黒の魔法使いに付け狙われた哀れな家族。父は勇敢に戦い、母は愛する我が子を守るために身を投げ出した。
 その結果、母の献身は子供に古の加護を与え、暗黒の魔法使いを打ち倒させた。

「その子供が……、僕なの?」
『そうだ。だからこそ、魔法界で貴様の名を知らぬ者は誰もいない。貴様が魔法界で……、そうある事を望めば全てを手に入れる事が出来る。スクリムジョールはそういう道を歩ませようとしているのだ。これは多くの人間にとって幸福と呼べる道だ』
「……でも、そこに魔王は居ないんでしょ?」
『ああ、そうだ。だが、それもまた、貴様の幸福には必要なファクターだ』
「分からないよ……」
『分かるはずだ。ヒントは既に与えてある。貴様はそのヒントの意味も解せぬ愚か者ではあるまい』
「分からないよ!!」

 魔王が自らをそう呼んだ事。八年前に起きた悲劇。スクリムジョールの言葉。英雄。
 魔王が僕の中にいる理由……。

「分からない!! 何も分からない!!」
『……ならば、分り易く教えてやろう。俺様が貴様の両親を殺した暗黒の魔法使いだ。そして、俺様と共に生きれば、貴様は暗黒の道を歩む事になる』

 わけがわからない。どうして、魔王はそんな酷い事を言うんだろう。
 苦しくて、辛くて、耐えられなくなった僕に唯一手を差し伸べてくれた人。
 だけど、その人が僕の両親を殺した。僕がダーズリーの家で酷い目に合わされた、その理由の大本。

「嘘だ!! だって、魔王は僕を助けてくれたじゃないか!!」
『貴様を利用する為だ』
「……嘘だ!!」

 耳を塞ぐ。何も聞きたくない。

『聞くのだ、ハリー・ポッター』

 耳を塞ぐ手を魔王の冷たい手に退けられた。

『貴様には選択肢がある。光り輝く栄光の未来に至る道が目の前にあるのだ』
「……なんで」
『貴様はヤツに不快感を抱いているな。だが、ヤツと共に行けば、間違いなく幸福に生きられる。これだけは断言してやろう』
「なんで、そんな事を言うの?」
『ハリー。貴様は……』
「なんで、そんな事を言うんだよ!!」

 僕は怒鳴り声をあげた。生まれて初めての事だ。

「なんで、僕を利用し続けないんだよ!? なんで、自分の正体を明かすんだよ!! 黙ってればいいじゃないか!! ずっと、僕を利用し続けてくれればいいじゃないか!!」
『……冷静になれ』
「冷静だよ!! 魔王こそ、おかしくなってるんだ!! 魔王が僕の両親を殺した暗黒の魔法使いなら、僕の幸福なんてどうでもいいだろ!? 僕は魔王と比べたらずっと馬鹿なんだから、騙して使い続ければいいじゃないか!!」
『やめろ』
「僕の事が要らなくなったの!? 邪魔になったの!? だから、勝手に生きろって言うの!?」
『そうではない』
「イヤだよ!! 僕はあんな人と一緒に行きたくない!! 僕を見てくれない人となんて、僕はイヤだ!! 僕は魔王と一緒にいるんだ!!」
『……後悔する事になるぞ』
「させて見せてよ!! 僕の両親を殺しておいて、今更、僕の事なんて考えないで、利用し続けてよ!!」
『そうか……』

 魔王は険しい表情を浮かべた。果てしない怒りを滲ませて、彼は言った。

『……ならば、お望み通りにしてやろう。貴様を利用してやる。散々使い潰して、ボロ雑巾のように捨ててやる!! それでいいのだな!? それで、貴様は満足なのだな!?』
「……うん。いいよ、それで」

 思い出した。僕が助けを求めた時の事。

――――【助けて……】
――――【……ならば、寄越せ】
――――【何を渡せばいいの……?】
――――【貴様の魂。貴様の全て】
――――【それを渡せば、僕を助けてくれるの?】
――――【助けてやる】
――――【……なら、あげるよ。僕のすべてをあげる】
――――【ああ、それでいい】

 あの時の言葉は全て本気だった。僕の全てはとっくの昔に魔王のもの。
 だから、何もかも今更だ。

『……馬鹿者が』

 青白い光が強まっていく。そして、気が付くと僕の視界は隠れ穴の裏庭に戻っていた。

第十話『逃亡』

「さあ、私と共に来なさい」

 スクリムジョールが手を伸ばしてくる。
 その手を跳ね除けて、僕はアーサーの手からも逃れた。

『走れ』

 魔王の命令に一も二もなく応える。虚を突かれた大人二人が慌てて追い掛けて来るけど、僕は一目散に走り続けた。
 すると、僕の周囲にたくさんの人影が現れた。

「捕まえろ!!」

 様々な色の閃光が走る。

「やめろ!! 相手は子供なんだぞ!! やめろ!!」

 アーサーが悲鳴と怒声の入り混じった叫び声をあげる。

『右腕を俺様に委ねろ』

 右腕が勝手に動き出す。ポケットから杖を取り出し、次々に魔法を発射する。
 飛来する閃光を打ち落とし、追手の足元の草を急成長させて足止めをする。

「馬鹿な!? 振り向きもせずに、しかも無言呪文だと!?」
『魔法とは心で操るもの。覚えておけ、ハリー。呪文とは心の所作。魔法の効力は心の強さによって増減する』
 
 魔王は次々に呪文を使っていく。子供の足に大の大人が追いつけない。

『あの柵を超えろ。その先は隠れ穴の境界外だ』

 懸命に足を動かす。以前とは比べ物にならないくらい体力が付いている。この数ヶ月、ウィーズリー家の人達と一緒に過ごしたおかげだ。
 空腹を感じる事もなく、この庭でフレッド達と楽しく走り回った。その楽しかった記憶を思い出して、涙が溢れる。

「ビル……。みんな……」

 柵を超えた。

『最後だ、ハリー。今ならまだ間に合うぞ』
「決めたんだ。僕は魔王と一緒に行く!!」

 右腕が動く。すると、目の前の景色がぐるぐると回り始める。
 気付いた時には知らない場所に立っていた。

「ここは……?」
『リトル・ハングルトン。我が故郷だ……』

 第十話『逃亡』

「どういうつもりだ!?」

 怒りのあまり顔を真っ赤にしているアーサーを適当に振り払い、スクリムジョールは部下にハリー・ポッターの捜索を命じた。
 アルバス・ダンブルドアが介入する前にハリーの身柄を確保しておきたかった。
 まさか、《姿くらまし術》まで使えるとは思わなかった。アーサーが教えたのかとも考えたが、そもそもあの歳で操れる魔法ではない。
 天才という単語がスクリムジョールの脳裏を過ぎる。

「馬鹿な……。我々の魔法を悉く撃ち落とし、姿くらまし術まで使えるとなると、才能があるだけでは済まされない」

 何者かが背後にいる。それは確実だ。
 ダンブルドアではあるまい。彼ならば、闇祓い局がハリーに干渉する事を極力避けた筈だ。
 恐らく、強大な力を持つ闇の魔法使いの仕業。
 
「……アーサー」

 己に掴み掛かり、未だにガーガーと喚いているアーサーをスクリムジョールは睨みつける。

「あの子を最初に発見したのはウィリアムだったな?」
「それがどうした!?」
「話を聞かねばなるまい。ハリー・ポッターを発見した当時の事を……」

 あるいは、ウィリアムが鍵になっているのかもしれない。

 ◆

 報告を受けたダンブルドアは沈痛な表情を浮かべた。

「愚か者め……」

 漸く掴む事が出来たハリー・ポッターの消息。驚くべき事に、彼はウィーズリー家に匿われていた。
 失踪直後にウィーズリー家の神童、ウィリアムに保護され、ノエル・ミラーという偽名を使い、潜伏していたと言う。
 確かにハリーの行動にはいくつもの疑問がある。魔法による追跡から逃れ、ダイアゴン横丁に現れた事。変身術を使い、姿を変えていた事。杖を買うだけの資金を持っていた事。偽名まで使い、正体を隠していた事。
 だが、ウィーズリー家ならば信頼を置く事が出来た。ハリーも彼らには心を開きかけていたようだ。
 にも関わらず、闇祓い局が先走ってしまった。その上、ハリーの逃走を許して、再び所在が分からなくなった。

「……《姿くらまし術》まで操るとなると」

 事態は考え得る中で最悪の方向に進んでいる可能性が高い。ウィーズリー家に留まっていた事は奇跡に近く、だからこそ、決して逃してはいけなかった。
 報告によれば、ハリーは精強な闇祓い達を相手に呪文で足止めを行い、《姿くらまし術》まで行使したと言う。
 八歳の子供に出来る事ではない。そもそも、ハリーには魔法界の知識が与えられていない筈だ。誰かに教えられたとしても、そこまでの技量を得るには時間が足りない筈。
 
「やはり、トムか……」

 トム・リドル。後の闇の帝王ヴォルデモート卿は死を誰よりも恐れていた。それ故、彼は禁術に手を出していた可能性が非常に高い。
 |分霊箱《ホークラックス》と呼ばれる命の分割。死を克服する術とも呼ばれる穢れに満ちた魔法だ。
 殺人行為によって自らの魂を引き裂き、器となる物に封じ込める事でこの魔法は完成する。
 ハリーが彼を返り討ちにした時、ハリーの額には稲妻の形の傷跡が残った。その傷跡は年月を経ても薄まらず、今尚残り続けている。これは今のところ仮説に過ぎないが、ヴォルデモート卿がハリーに|死の呪文《アバダ・ケダブラ》を行使した時、彼を新たな分霊箱にしていたとしたら? 

「……いずれにせよ、見つけ出さねばならん」

 最悪の結末はハリーが第二のヴォルデモート卿になる事。加えて、本物のヴォルデモート卿が復活すれば、もはや……。