Act.0 《Ignorance is bliss》

 人生とは選択肢の連続だ。中には人生を大きく変えてしまうものもある。
 大抵の場合、人は未来を知る術を持たない。それ故、そうとは知らずにそうした選択をしてしまうものだ。
 衛宮士郎にとってのそうした選択は実に些細なものだった。

「図書室に行こう」

 切っ掛けは同じクラスに在籍する後藤くん。彼は見たドラマによって|性格《キャラ》を変える。今日の彼はフランスを舞台に活躍した英雄だった。
 普段の士郎なら彼の奇行を見慣れたものとスルーしていた事だろう。だが、今日の彼は違った。ちょっとだけ気になった。後藤くんの今日のキャラの元ネタを調べてみようと思う程度の好奇心が湧いた。
 
「三銃士の本は……っと」

 アレクサンドル・デュマ・ペールが書いた小説《三銃士》。《ダルタニアン物語》の第一部であり、物語の主人公ダルタニアンの最初の冒険を描いたものだ。
 大まかなあらすじは知っているけど、実際に読んだ事は無かった。

「うーん」

 図書室で本の背表紙を追う事三十分弱。士郎は本を発見する事が出来ずにいた。
 その姿を見兼ねたのか、少し離れた場所で読書に耽っていた少女が声を掛ける。

「何かをお探しか?」
「え?」

 少女の名前は氷室鐘。冬木市市長の娘であり、クラスは別だが士郎と同学年だ。

「ああ、氷室か。《三銃士》の本を探してたんだよ」
「三銃士? それならそこに……、無いな。貸出中なのではないか?」
「そっか……」
「衛宮もそういう本を読むのだな。少し意外だ」
「そうか? まあ、確かにあまり読まないな」
「ならばどうして急に?」

 氷室は人間観察を趣味としている。普段読まないジャンルの本を急に読もうとする士郎の行動に彼女の中の好奇心が疼いた。

「大した理由じゃないよ。うちのクラスのヤツが少し話してて気になっただけだ」

 本当に大した理由ではなかった。残念に思いながら、氷室は近くの本を手に取る。

「フランスの文学は中々奇抜で奇怪で奇矯で面白い。興味が湧いたのならこういう本も読んでみるといい。三銃士が返却されるまでの慰み程度にはなるだろう」
「《シャルルマーニュの伝説短篇集》? 短篇集の割に随分と分厚いな」
「有名なものだと《恋するオルランド》なども載っている。読み応えは十分だ」
「そっか。なら折角だし読んでみるよ。ありがとな」
「礼には及ばんよ。三十分に渡る君の奇行が気になったが故のお節介だ」
「……はは、どーも」

 奇行扱いされ密かに傷つく士郎。氷室から渡された本を手に図書委員の下へ向かう。

「あれ?」

 図書委員が取り出した貸し出しカードには見知った名前があった。

「慎二も借りたのか」
「間桐くんの事? 最近、こういう本をいっぱい借りて読んでるみたいだよ。この前もアーサー王関連のものとかギリシャ神話の本を借りてたし、ちょっと意外だったなー」

 士郎の言葉に図書委員は処理をしながら言った。

「アイツは趣味が多彩だからな」
「デート中の会話のネタ作りかもしれないけどね。はい、これでオーケーだよ」
「ありがとう」

 そのまま帰宅し、家に突撃してくる猛獣と可愛い後輩と団欒した後、士郎はいつもの日課をこなすために家の敷地内にある土蔵に潜った。
 いつものように座禅を組み、瞼を閉じる。意識を集中し、自らの内に新たなる擬似神経を生み出す。
 衛宮士郎は魔術師だ。今、彼は人でありながら人ではないナニカに変わろうとしている。
 それは一歩間違えれば命を落としかねない危険な行為。もし、この事をさっきまで共にテーブルを囲っていた二人が知ればすぐさま止めようとする筈だ。それでも、きっと士郎はこの行為を続ける事だろう。彼には夢がある。その夢の為にどうしても必要な事なのだ。
 その日課を終えると近くに置いたタオルで汗を拭い、士郎は持って来た本を開いた。明かりを灯し、脱力した体を壁に預け読書に耽る。
 面白かった。この短篇集に登場する人物達は誰も彼もが自由奔放。正義や悪を語る事などナンセンスと言わんばかりに全員が好き勝手暴れまわっている。

「奇抜で奇怪で奇矯か……」

 氷室の言葉を思い出す。まさにその通りだ。
 気付けば深夜になっていた。月明かりが灯の届かない土蔵の一画を照らしている。そこに奇妙な光が走る。
 士郎は気づいていない。訪れた眠気に誘われ、夢の世界に旅立った後だからだ。その間にも光は強さを増していく。
 やがて光が収まると、そこには一人の少女がいた。

「やっほー! ボクの名前は――――って、あれれ?」

 少女は名乗るべき相手がスヤスヤと寝息を立てている事に気付く。近寄り、その頬をツンツンつついてみるが起きそうにない。
 彼女と同じ立場の他の者なら問答無用で叩き起こした筈だ。だが、彼女は優しかった。

「うんうん。気持ちよさそうに寝ているね! 邪魔をしちゃーいけないね! というわけで、ボクも一緒に寝よ―っと!」

 士郎の隣に腰掛けると一緒になって寝息を立て始めた。 
 翌朝、健康的青少年の悲鳴が土蔵に轟いた。
 朝起きたら隣で女の子が眠っている。それもそんじょそこらにいるようなレベルではない。全世界を探し歩いても見つからないかもしれないレベルの超絶的美少女。
 
「むにゃ……あれ? あ、起きたんだ! おはよう、マスター!」

 鈴のような愛らしい声。咲き誇るような可愛らしい笑顔。マスターと呼ばれた事。
 衛宮士郎はその衝撃的起床体験を生涯忘れる事が出来なかった。何故なら、それは彼が恋に落ちた瞬間だったからだ。
 十年前に起きた大火災。そこで全てを失った少年。正義の味方という理想を義父から受け継ぎ、今日まで生きてきた。
 壊れた心を必死に取り繕い人間の振りをしている機械。そんな彼が人間らしく恋に落ちたのだ。それほど、彼女の笑顔は眩しかった。

 そして、それから数日以内に彼は知る。この世に奇跡や魔法はあるかもしれない。だが、希望など無いのだという事に……。

Act.1 《The calm before the storm》

 目が覚めたら隣で美少女が眠っている状況。人間として壊れた部分のある衛宮士郎だが、この時ばかりは実に人間らしく慌てふためいた。
 彼女が何者なのか。どうして隣で眠っているのか。その格好はコスプレなのか。聞きたい事が山積してパニックを起こしている。
 そんな士郎の姿を見て、少女は怒るでも、困惑するでもなく、ただただ愛らしく微笑んだ。

「落ち着いてよ、マスター」

 士郎の胸が高鳴る。ときめいたのだ。太陽の下咲き誇るひまわりのような彼女の笑顔に魅入ってしまった。
 まるで底なしの沼だ。一度踏み込めばどこまでも沈み込んでいってしまう。
 彼女が声を発する度、笑顔を浮かべる度、彼は引き返せなくなっていく。
 
「わ、悪い……」

 ドキドキしながらも少女に諭された士郎は表面上を取り繕った。みっともない所をあまり見せたくない。男の意地だ。

「聞きたい事があるのなら1つずつ頼むよ」
「わ、分かった。えっと、じゃあ……、君は何者なんだ?」

 ぶっきらぼうな言い回しに嫌な顔一つ浮かべず、少女は居住まいを正す。

「うん、そこからだよね。ボクの名前はアストルフォ。シャルルマーニュ十二勇士が一人さ!」
「アストルフォって……。それに、シャルルマーニュ十二勇士?」

 疑問に答えてもらった筈が更に疑問を増やすことになった。
 士郎は改めてアストルフォを見つめる。軽装ながら甲冑を身に纏い、腰にはレイピアのような細身の剣を携えている。確かに勇士を名乗るに相応しい格好かもしれない。
 だが、ここは現代日本。時代的にも国的にもシャルルマーニュ十二勇士が存在する筈がない。

「あれ?」

 更に見つめていると不思議な事が起きた。目の前に奇妙な光景が浮かび上がったのだ。
 まるでテレビゲームのステータス画面のようなものが視界に映り込んでいる。

「な、なんだこれ!?」
「どうしたの?」
「いや、目の前に変な映像が……」

 アストルフォもピンと来なかったようだ。彼女の立場ならば知っているべき情報だが、ピンと来なかったのなら仕方がない。

「なんだろう」
「なんだろうね」

 二人揃って首をかしげている。

「……それで、君はどうしてここにいるの?」
「それはとてもむずかしい質問だね。ボクがここに存在する理由。強いて言うなら世界がボクを望んだから……、かな?」

 質問の仕方が悪かったのかもしれない。ここに居る理由ではなく、存在する理由を答えられてしまった。
 だが、士郎は惚れた弱みか世界が望んだという彼女の言葉に納得の表情を浮かべる。寝起きで頭が働いていないのかもしれない。
 それから二人は色々な事を話した。士郎は山積みの質問を一つ一つアストルフォに投げ掛ける。アストルフォはどんな質問にも丁寧に応えた。丁寧だが答えになっていない回答も多々あったが士郎は彼女に惚れている。つまり何も問題無かった。

「つまり、アストルフォはサーヴァントって事か」
「うん! クラスはライダーだよ」

 そもそもサーヴァントとはなんなのか? その質問には丁寧に「よく分かんない!」という回答を貰った。
 ただ、彼女は士郎に魔術で召喚された存在だという事だけは伝わった。

「ボクは君のサーヴァントだよ。そして、君はボクのマスター! よろしくね!」

 差し伸べられる白魚のような手。
 彼女がどうして召喚されたのか、サーヴァントとはなんなのか、彼女の服をどうするべきなのか、疑問や悩みは尽きない。
 それでも、士郎はズボンで手を拭った後にその手を取った。
 それが何を意味しているのかを知らないまま、彼はただ好きになった女の子と握手を交わした。

 土蔵から出るとヒンヤリとした風が吹いた。まだ夜が明けたばかり。士郎はアストルフォを母屋に招いた。

「ここが居間。食事とかをする場所」

 士郎は既にアストルフォがフランスの代表的な騎士道物語の登場人物である事に疑いを持っていない。
 彼の得意とする解析魔術で彼女の装備品を鑑定した結果、彼女の出自を断定するに至った。
 驚かなかったと言えば嘘になる。だが、その動揺を抑えこむほどの圧倒的な感情が彼の心の中で暴れまわっていた。
 過去の英雄が現代に現れた事よりも好きになった女の子に家の中を案内する事の方がよっぽど一大事なのだ。

「へー! この床は草? あ、タタミっていうんだね!」
「畳を知ってるの?」
「知らないよ。でも、頭のなかに浮かんだの」
 
 案内をしている間にも疑問が増えていく。
 分からない筈の知識が頭の中に流れこんでくる状況は明らかにおかしい。
 だが、そもそも言葉が通じている事自体がおかしい事に気付いた士郎は解明を後回しにした。

「えっと……。アストルフォの部屋も必要だよな?」
「ボクはシロウと同じ部屋でも一向に構わない!」
「アストルフォには洋室の方が良さそうだな!」

 士郎は一番上等な洋室をアストルフォに宛てがった。同じ部屋で寝るなどとんでもない。健全な男子高校生として、そこだけは譲れない。毎晩睡眠不足になってしまう。
 
「ボクはシロウと同じ部屋が良かったのになー」
「よ、洋室も良い部屋なんだ! っと、一応掃除はしてるけど布団とかは干しておいた方がいいか」

 クスクスと微笑むアストルフォ。慌てふためく士郎の姿を見て実に楽しそうだ。
 二人は離れの洋室を訪れ、アストルフォが生活する為の環境を整えた。

「じゃじゃーん! どう?」

 部屋を掃除して、布団を干した二人はアストルフォの服を見繕った。街中を甲冑姿で歩くわけにはいかないからだ。
 新たに買うにしても、買い物に出掛ける為に仮の服が必要になる。迷った挙句、士郎は自分の古着を貸すことにした。
 この家にはわけあって二人の女性が頻繁に出入りするが着替えの類は置いていない。士郎に母親や姉妹はいないため、必然的に選択肢が狭められてしまった。
 少し大きいみたいだが、アストルフォはゴキゲンだ。何度も回転して士郎に感想を求めている。

「そ、その……、ごめんな。俺の古着なんかで……」

 自分の古着を好きな女の子が着ている。その状況にドキドキしつつ、士郎は謝った。年頃の女の子が着るにはあまりにも地味だし、そもそも仕方のない事とはいえ男の古着を着せるなんて失礼だ。
 
「ボクは気に入ったよ! 現代の服は不思議な手触りだね。それに色合いやデザインはシンプルだけどボクはキライじゃないよ」

 この日何度目かのクリティカルヒット。士郎の心はピンク色に染まっている。大抵の人は士郎の服を地味だとか野暮ったいだとか言うのだ。
 士郎本人は気に入っているのだが、それが世間一般の評価。にも関わらずキライじゃないと言ってくれるアストルフォ。無意識に頬が緩むのも仕方のない事だった。
 そうこうしている内に時間が経ち、試練の時が訪れた。
 この家にはいつも二人の女性が訪れる。特に片方は士郎が美少女に自分の服を着せ、部屋まで用意している状況を見て、《はいそうですか》と流してくれる相手ではない。
 アストルフォが何故召喚されたのかは分からない。いつまで一緒に居られるのかも、どこか帰るべき場所があるのかも分からない。
 だが、少なくともしばらくの間は一緒に暮らす事になるだろう。その説明をしなくてはならない。士郎の胃はキリキリと痛んだ。

「大丈夫かい?」

 朝食の準備を終え、正座をする士郎。その表情は不安で翳っている。そして、そんな彼をアストルフォは心配そうに見つめている。
 その気遣いに元気づけられ、士郎は決意を固めた。そして、最初の試練が扉を開けて入って来た。
 そこに現れたのは一人の少女。常に穏やかな表情を浮かべ、士郎を慕う後輩。間桐桜は居間に入った途端、呼吸を止めた。
 いつもより早い時間帯。今日は士郎よりも先に朝食の準備を始め、彼に楽をさせてあげようと企んでいた。それなのに、既に朝食が揃っている。そしてなにより、彼の横に彼の服を着た女がいる。
 桜は悟った。恐らく、同じ状況に立たされた時、他の人間では悟りきれないような事まで全て悟った。

「……先輩」

 部屋の空気が一気に下がる。士郎は恐怖した。ラスボスが来る前にあわよくば桜を説得し仲間に引き入れようと企んでいた彼は目の前の存在こそがラスボスを超えた存在……いわゆる、裏ボスである事を悟った。
 いつも聞く慈愛に溢れた声。なのに、何故か地獄の底から響くような悍ましさを感じた。
 いつも見つめてくる穏やかな瞳。なのに、何故か闇を何重にも重ねたような昏い光が見えた。
 いつも空気を和ませる彼女の存在。なのに、何故か全身の震えが止まらない。

「|その女はなんだ?《そちらは》」
「ボクはアストルフォ! シャルルマーニュ十二勇士が一人さ!!」

 そして、士郎にとっても、桜にとっても予想外の事をアストルフォはしでかした。
 本来隠すべきものなのに、堂々と自らの身分を明かしたのだ。
 この瞬間、少年と少女の脳内に様々な思考が駆け巡った、

 実はこの二人、どちらも魔術師である。そして、互いに自らの正体を隠している。
 特に桜は様々な事情があって、何があっても士郎に自らの正体を悟られるわけにはいかない。
 アストルフォの暴挙によって、修羅場は高度な頭脳戦に様相を変える。

「やっほー! お姉ちゃん、参上!!」

 そこへ更なる火種が現れる。正体がバレてはまずいと思考を巡らせる二人の魔術師。何も考えていない英雄。そして、場を確実に混沌化させる猛獣。
 もはや数秒先すら見通せない状況。
 今、衛宮家の家族会議が始まる――――ッ!!!

Act.2 《The die is cast》

 空気が冷え切っている。いつも穏やかな笑顔を絶やさない桜が無表情になっている。いつも騒がしい藤村大河が一言も喋らない。
 士郎はまさに蛇に睨まれたカエル状態だ。別に悪い事をしたわけじゃない。なのに、言い訳をしなければいけない気がする。正義の味方を目指す者にあるまじき思考だ。
 
「あの……、藤ねえ」
「その子は誰なの?」

 アストルフォは何も言わない。ピリピリとした空気を感じ取り士郎の背中に隠れている。その光景が二人の女性を更に苛立たせる。
 昨日の晩も三人で過ごした。美味しい食事を食べ、お笑い番組を見て、学校での出来事を話し合った。実に温かくも楽しい団欒。その中にアストルフォはいなかった。
 隠れていたのか、それとも昨晩の内に現れたのか、どちらにしても気分が悪い。

「その子が着ている服。それって、士郎のよね?」

 大河と士郎は十年に渡る付き合いだ。だが、彼女のこれほどまえに冷たい声を士郎は聞いた事がない。
 
「ねえ、士郎。正直に答えてちょうだい。その子を泊めたの?」

 大河が疑っている事。それは士郎の不純異性交遊。
 実は彼女は彼が通う高校の教師……それも、担任なのだ。保護者として以前に教師として、士郎の行動を黙認する事は出来なかった。
 
「いや、泊めたというか……、その」

 その歯切れの悪い言い方が大河にはショックだった。
 士郎は心優しく誠実な少年だ。何か問題を起こしたとしても、そこには必ず理由があった。
 彼女は彼の夢を知っている。彼女は彼の心根の良さを知っている。だからこそ、悲しくなった。

「言い訳なんてしないで」

 その声は震えていた。その瞳は士郎の影で呑気に笑っているアストルフォを睨んでいる。

「ねえ、シロウ」

 緊迫した空気を打ち破るようにアストルフォが口を開いた。

「どうして誤魔化そうとしてるの?」

 不思議そうに彼女は言った。

「誤魔化す……?」

 大河の眉間に皺が寄る。

「い、いや、別に誤魔化そうとしてるわけじゃなくてその……」

 冷や汗がダラダラと流れる。士郎が真実を口に出来ない理由。それは彼が魔術師である事に起因する。
 魔術とは隠匿すべきもの。一般人に神秘が漏洩すれば漏らした者も漏らされた者も罰を受ける事になる。
 士郎は我が身可愛さに黙っているわけじゃない。目の前に座る二人の家族を守る為に口を閉ざしているのだ。
 だが、そうした理由さえ、今の状況では口に出来ない。それはつまり、アストルフォの口を閉ざす事も出来ないという事。

「ボクはシャルルマーニュ十二勇士が一人、アストルフォ! シロウに召喚されたサーヴァントだよ」

 彼女は実にあっさりと爆弾を投げ込んだ。士郎だけではない。桜も悲鳴を上げそうになった。
 このサーヴァントは神秘を秘匿する気が一切無い。

「しょ、召喚って……。それにシャルルマーニュ十二勇士は知ってるけど、それは昔話の登場人物でしょ?」
「チッチッチ! 疑うのならば御覧あれ!」
「お、おい! 何をする気だ!?」

 士郎はついに悲鳴を上げた。だが、アストルフォは止まらない。

「これぞ! ボクがロジェスティラから譲り受けた知恵の書! 名を《|魔術万能攻略書《ルナ・ブレイクマニュアル》》!」

 アストルフォが自らの正体を示す証拠として掲げたもの。それは彼女が生前に魔女ロジェスティラから譲り受けた魔道具の内の一つ。
 彼女自身はその魔道具の真名を忘れている。故に真の力が発揮される事はない。だが、その力の一端でさえ現代の魔術師が紡ぐ魔術程度ならばアッサリと無効化する事が出来る究極の対魔術礼装。
 アストルフォがその宝具を証拠として選択したのは単なる偶然。だが、その偶然が一人の魔術師に致命的な一撃を与えた。
 突如、室内に響き渡る苦悶の叫び。誰もが目を見開く。下手人たるアストルフォさえ目を丸くしている。

「な、なになに!? なにをしたの!?」
「ええ!? ボ、ボクじゃないよ!! これはあらゆる魔術を消し去るだけのもので……」
「い、いや、お前が何かしたからじゃないのか!?」

 みんな混乱している。だが、その混乱も長くは続かない。悲鳴が聞こえなくなると同時に桜が倒れたのだ。
 これは桜自身も知らなかった事。彼女の心臓部には彼女の祖父である間桐臓硯の本体たる刻印蟲が潜んでいた。
 魔術によって自らの魂を蟲に定着させていたのだ。だが、アストルフォの礼装はその術式を一瞬の内に解いてしまった。意識を他の蟲に移す暇さえ無かった。

「さ、桜ちゃん!!」
「桜!!」
「ど、ど、どうなってるの!?」

 桜の呼吸を慌てて確かめる大河。

「き、気絶してるだけみたいね……」

 桜が気絶した理由は臓硯の死と共に彼女の体内の刻印蟲が一瞬暴れた為だ。
 その激痛から逃避する為に脳が意識を強制的に切断しただけの事。
 
 それから十分。布団に寝かせられた桜が目を覚ました。間桐の家に連絡をしたり、病院に連れて行く為にタクシーを手配したりとてんてこ舞いの士郎達を彼女は呼び止めた。
 彼女は悟ったのだ。自らを縛るものが消えた事を。
 まさか、自らの体内に潜んでいるとは思わなかった。だが、十数年に渡り、彼女の人生を縛っていた存在が消えた事を実感した。

「……先輩。それに藤村先生。二人にお話したい事があります」

 アストルフォの様子を見て、桜は考えたのだ。恐らく、士郎は彼女を召喚してしまった意味を理解していない。そして、大河も魔術の事を遠からず知ってしまうだろう。
 恐ろしい未来を予感した。
 この家での素敵な時間が終わりを迎える。何もかも壊れてしまう。
 幸いというべきか、まだ時間が残されている。それなら、いっそ……。

「初めに……、言わなきゃいけない事があります」

 言いたくなかった。知られたくなかった。
 だけど、士郎は既に巻き込まれてしまっている。助けてあげられるのは自分だけ……。
 縛る者が消えた事、放置するにはあまりにも危うい目の前のサーヴァントの事、好意を抱く少年の事。
 巡らせた思考の果てに彼女は少しだけ勇気を出した。そこにはちょっとした下心もあったが、彼女にとっては大きな決意の要る選択だった。

「私は魔術師です」

 いつも夢を見ていた。この小さな幸せの中で生きる自分。
 きれいであたたかな優しい毎日がいつまでも続く事を……。
  
「……先輩」

 夢は終わるもの。
 だけど、今この瞬間、足を一歩踏み出せば可能性が広がる。
 夢が夢でなくなっても、夢のような現実を歩めるかもしれない。
 
「……聖杯戦争が始まります」

Act.3 《Bad luck often brings good luck》

 聖杯戦争。たった一つの聖杯を巡り、七人の魔術師が七人のサーヴァントを使役して殺し合う戦いの儀。
 桜が一連の説明を終えると、いつもは賑やかな衛宮家の居間が静まり返った。

「そっか……。もしかして、最近噂になってるガス漏れ事故とか通り魔も?」
「はい。十中八九、聖杯戦争の参加者が引き起こした事件だと思います」
 
 士郎は手の甲に視線を落とした。そこには真紅の模様が浮かんでいる。
 令呪と呼ばれる三回限りの絶対命令権。これを使えば、サーヴァントに対していかなる命令でも強要する事が出来る。
 これは殺し合いの為のもの。

「桜ちゃんが魔術師……。士郎も魔術師……。しかも、街中で殺し合い……」
「藤村先生。信じられない話かもしれませんが、事実なんです」

 なんなら証拠を見せますよ。そう言い掛けた桜を手で制して大河は言った。

「桜ちゃんの言葉だもの。疑ったりしないわ。ただ、ちょっと整理し切れていないの……」

 普通の人ならこんな話、冗談か嘘だと断じて取り合わない。だが、大河は疑う素振りすら見せなかった。信じたからこそ、考え込んでいる。
 桜は複雑だった。荒唐無稽とも言える話をアッサリ信じてくれた事を嬉しく思うと同時に大河を魑魅魍魎が跳梁跋扈する魔術の世界に引き込んでしまった事に恐怖を感じている。
 後悔はしていない。大河はおおらかな性格だが、その実鋭い感覚の持ち主でもある。彼女は決して人を騙さず、決して人に騙されない。召喚とか、サーヴァントという単語を聞かせてしまった時点で、いつか辿り着かれてしまう。その時、彼女は思うだろう。士郎の身の安全や街の保安の事を。
 その時、桜や士郎が傍にいればいい。だけど、どちらも傍にいられなかった時、彼女が動けば最悪の未来が待ち受けている。魔術協会や聖堂教会は神秘の漏洩を決して善しとしない。良くて記憶の消去、悪ければ……。
 寒気がする。桜にとって、この家は特別だ。一緒に団欒して過ごした士郎と大河。二人の内、どちらを失っても耐え切れなくなる。

「先輩。藤村先生。出来れば、二人には逃げて欲しい……、です。しばらく、この街を離れてくれればいずれ闘争に決着がついていつもの日常が戻って来ますから……」
「……でも、人が死ぬんだよな?」
「この街が……」

 この街から離れて欲しい。だけど、二人の性格を考えると……。
 二人はどこまでも善良だ。赤の他人の不幸を見捨てて置けない程優しい性格をしている。

「なあ、桜。一つ聞かせて欲しい」
 
 士郎は言った。

「十年前の火災。あれもひょっとして……」

 士郎の言葉に大河が目を見開く。
 桜は震えながら頷いた。

「……そうか」

 士郎は何度も悪夢を見ている。子供の頃から何度も、何度も、何度も……。
 その事を桜と大河は知っていた。そういう時、二人は必死に励まそうとしてきた。
 家族や友達、住んでいた家すら失った少年。その原因が聖杯戦争にあると分かり、彼の意思は固まってしまった。

「なら、俺は……」

 士郎の瞳が黙って三人の話に耳を傾けていたアストルフォに向けられる。

「戦う。戦わなきゃいけない……」

 事情を完全に把握出来たわけじゃない。それでも、その瞳に宿る強い意思を見て、アストルフォは微笑んだ。

「一緒に……、戦ってくれるか?」
「もちろんだよ、マスター! その為のサーヴァントさ」

 過去に偉業を為した英雄。その絶大な力に抗うには同じ力を持つ存在をあてがうしかない。
 桜にそう説明されたが、イマイチ実感が湧かない。なにしろ、アストルフォは花のように可憐な少女だ。守るというより、守られるべき存在に見える。

「うーん……」

 大河は悩んでいる。出来れば士郎に危ない事などしてほしくない。だけど、何もしなければ死人が出てしまう。
 生まれ育った街で誰かが悲劇に見舞われる。
 彼女の実家は藤村組という極道組織であり、彼女自身は教師だ。それ故に横の繋がりが果てしなく広い。この屋敷や藤村邸が彼女の家なら、冬木市全体が彼女の庭なのだ。
 単なる正義感ではない。親愛なる隣人達を守りたいという情が彼女を悩ませる。

「……今から、私もサーヴァントを召喚します」
「え?」
「はい?」
「おー!」

 反応は三者三様だった。

「ちょ、ちょっと待てよ桜!」
「桜ちゃん! サーヴァントを召喚するって、それってつまり、桜ちゃんも聖杯戦争に参加するって事でしょ!?」
「いいねいいね!」

 止めようとする二人。煽る気まんまんの一騎。
 桜は手をパンパンと叩いて静かにさせた。時折、大河は暴走する。士郎も稀に暴走する。そういう時、彼女はこうして二人を止める。
 
「私が二人を守ります」

 聖杯戦争に参加する理由なんてなかった。ただ、命じられたからその為の準備をしていただけだった。
 今は違う。参加する理由が出来た。
 桜は縁側に出ると、置いてある中庭用の靴を履いて土蔵に向かう。士郎や大河、アストルフォも慌てて追い掛ける。
 土蔵の中に入ると、桜は地面を見つめた。そこにはサーヴァント召喚用の魔法陣が刻まれている。
 これは家の持ち主である士郎も管理していた大河も知らなかった事だが、十年前にここでサーヴァントの召喚が行われた。
 士郎の父である衛宮切嗣はこの場所でセイバーのサーヴァントを召喚し、迫り来る敵を悉く完封したという。
 未遠川という冬木市を二分する川の中腹にある壊れた船は当時の名残だ。あそこで切嗣が召喚したセイバーが天空を舞うドラゴンに跨る騎士を打ち倒した。

「……桜。やっぱり、お前は遠くに逃げて―――――」
「お断りします!」

 士郎の言葉を遮り、桜は自らの意思で初めて魔術回路を起動した。

「先輩と先生は私が守ります!」

 この二人を置いて逃げるなんて、出来るわけがない。この家があるから、この二人がいるから私は人であれた。
 桜は決意を固めて陣の前に立ち、呪文を唱え始める。
 士郎は必死に止めようと声を荒らげた。大河も同様だ。それでも、桜は止まらない。

「閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する」

 その祝詞が土蔵を満たした時、明らかに空気の質が変化した。
 士郎がアストルフォを召喚した時、彼は眠っていた。だからこそ、この変化に大河と同じくらい驚いている。
 渦巻くエーテルが嵐のように荒れ狂い、その空間を異界化している。

「――――告げる。汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄るベに従い、この意、この理に従うならば応えよ!」

 サーヴァントを召喚する際、英霊の触媒が必要となる。
 桜は知らない。大河も知らない。士郎は気づいていない。
 この場にサーヴァントの触媒となる聖遺物が《二つ》も混在している事に――――。

「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者。汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ――――!」

 光が迸る。二つの聖遺物は二騎の英雄に糸を伸ばした。その二つの内、桜が自らの意思を持って手繰り寄せた縁は一つ。
 光の中からそのサーヴァントは姿を現した。

「サーヴァント・アーチャー。召喚に応じ参上した。……ふむ、こういう事もあるのか」

 金糸の刺繍が交じる真紅の外套。褐色の肌。逆立つ白い髪。
 アーチャーのサーヴァントは皮肉げに笑みを浮かべながら自らのマスターに頭を垂れる。

「これより我が身は御身の剣となり、盾となる。ここに契約は完了した」

 ◆

 それから殆ど間を置かず、衛宮邸から少し離れた場所で知り合いの神父にせっつかれた一人の少女が召喚を行った。
 現れたサーヴァントは青い衣に白銀の鎧を纏う少女。

「問おう。貴方が私のマスターか?」

 最強のマスターが最強のサーヴァントを引き当てていた。

Act.4 《Nothing ventured, nothing gained》

「マスター。一つだけ質問をしてもいいか?」

 アーチャーのサーヴァントは頭を垂れるまでの僅かな時間に多くの事を考えた。
 その結論がこの質問に集約されている。

「な、なんですか?」
「君にとって、勝利とはなんだ?」
「勝利とは……」

 彼女が聖杯を望むというのならば構わない。憎き相手を滅ぼしたいと願うのならば、それでもいい。
 だが、もしも彼女がアーチャーの想像した通りの解答を返せば、その時は……。

「生き残ることです」

 桜は言った。

「私は先輩と先生を守って、これから先も一緒にいたいんです!」

 不思議な感覚だった。相手は聖杯を求めて召喚に応じたサーヴァント。ただ生き残りたいなどと言っても呆れられるだけだ。
 分かっているのに、何故か口から本心が飛び出した。隠したり、偽る気になれなかった。

「――――そうか」

 アーチャーは瞼を閉じた。彼には一つの目的があった。それだけを希望に絶望の中を彷徨い続けてきた。
 腕をほんの一振りするだけ……いや、それすら必要ない。ただ、念じるだけで彼の望みは叶う。それほど、彼の標的は無防備だ。
 主である少女の背後に立つ少年。彼を殺す事こそが彼にとっての至上目的。

「勝てば……君は幸福になれるのか?」
「え……? は、はい!」

 その強い決意を宿した眼差しを見て、アーチャーは自らの目的を果たす事を諦めた。
 なぜなら――――、

「ならば、是非もない。サーヴァント・アーチャー。名はエミヤシロウ。如何なる難敵も討ち倒し、君を……君達を守り通そう」

 |家族《サクラ》の幸福を踏み躙る事など、もう二度と御免だからだ。

「……え?」

 桜はキョトンとした表情を浮かべている。
 それは背後に控える大河や士郎、アストルフォも同様だ。

「……あの、聞き間違いですか? その……、今……」
「エミヤシロウ。それがオレの真名だよ、桜」

 彼女の幸福を守れる可能性がある。ならば、自らの《|自分殺し《よくぼう》》を満たす機会を期待する暇などない。
 全身全霊を持って、あらゆる敵を殺し尽くす。

 嘗て、彼は彼女を切り捨てた。ずっと一緒に居た癖に彼女の苦しみを分かってやれず、挙句の果てに命を奪った。
 その彼女に召喚され、その彼女が幸福になろうとしている。
 ならば、選択の余地などない。

「せ、先輩……? だって……、え?」

 桜は混乱している。後ろに立っている士郎を見て、助けを求めている。

「……お前が、俺?」

 士郎も混乱している。だが、その混乱は桜や大河達のものと些か異なる。
 アーチャーがエミヤシロウである事。その事に何の疑問も抱かず納得してしまった。
 目の前の存在が己自身であると理解してしまったが故に混乱している。

「し、士郎……?」

 大河も混乱している。彼女もアーチャーが士郎と同じ存在である事に納得してしまった。
 獣の勘とでも言えばいいのか分からないが、彼がエミヤシロウだと理解してしまった。
 だからこそ、許容量を超えてしまった。

「どーいうことなのー!?」

 ひっくり返る大河をアストルフォが慌てて支える。この中で一番冷静なのは皮肉にも理性が蒸発していると謳われる彼女だった。

「……あー、君達。とりあえず落ち着け」

 大混乱を巻き起こした張本人が咳払いと共に言った。

「落ち着けって……あの、本当に先輩なんですか? ど、どうして……、その」

 おどおどしている桜にアーチャーは少しだけ後悔した。
 真名を名乗ったのは一種の決意表明だった。二心など持たず、彼女の味方として戦い抜く為の……。
 
「そこの未熟者の夢を知ってるか?」
「……えっと、正義の味方ですか?」

 恐る恐る答える桜。士郎自身があまり語りたがらない為にあまり口外した事は無かった。

「その夢をいい年して追いかけ続けた結果がオレだよ」
「せ、正義の味方になれたって事か?」

 士郎の言葉にアーチャーは不機嫌そうな表情を浮かべた。

「目的は果たせんが、矯正くらいはさせてもらうか」
「は?」

 アーチャーは士郎の頭を掴んだ。
 突然の暴挙に全員が声を上げるが、彼は直ぐに手を離した。
 戸惑う士郎にアーチャーは言った。

「今夜見る悪夢の内容は全て事実だ。そこから先は悩み続けろ。少しはマシになる筈だ」
「あ、あの……えっと、先輩?」
「私の事はアーチャーでいいよ、マスター。些かハメを外し過ぎたな」
「で、でも――――」

 その時だった。突然、大河が悲鳴を上げた。

「どうした!?」
「どうしました!?」
「どうしたんだ!?」
「どうしたの!?」

 一斉に顔を向けられた大河は泣きそうな顔をしていた。

「ど、どうしよう……。もう、こんな時間……。遅刻だぁぁぁぁ!!」

 揃ってズッコケそうになった。

「遅刻って、どこか行く予定だったの?」

 一人呑気なアストルフォ。

「学校よ! どうしよう……。急いでも絶対に間に合わない……」

 しおれていく大河にアストルフォはふふんと胸を張った。

「なんだかよくわからないけど、ボクに任せておきたまえ!」

 そう言うと、ライダーは虚空に向かって声を張り上げた。

「おいでー!」

 すると、上空にまるでガラスをトンカチで叩いたかのような亀裂が走った。
 そこから一頭の幻馬が姿を現す。鷲の顔と馬の体を持つ幻想の生物が今、衛宮邸の庭に降り立った。

「この仔に乗れば地球の裏側だってひとっ飛びさ!」
「ちょ、ちょっと待て、アストルフォ! 真っ昼間からそんなのに乗ったら――――」
「間に合う!? 間に合うのね!! 乗せて、アストルフォちゃん!!」
「ちょ、藤ねえ!?」
「よしよしオーケイ! マスターも何か心配事があるなら一緒に乗ればいいさ! 行くよ、二人共!」
「ちょちょ、ちょっと待ってくれ!!」
「ゴー!! |この世ならざる幻馬《ヒポグリフ》!!」

 アストルフォの華奢な体躯からは想像もつかない力で幻馬に強制的に跨がらされた二人は一瞬の内に天空高く舞い上がった。
 あまりの事態に呆気に取られるアーチャーと桜。

「……桜。ところで、アイツが召喚したのは誰だ?」
「え? えっと、アストルフォさんですけど……」
「……セイバーじゃないのか」

 もはや見えなくなった主従プラスワン。
 アーチャーは今更な疑問を抱いたのだった……。

 上空三千メートル。普通、生身の人間がそんな場所にいたら凍死してしまうが、何故か三人は快適な空の旅に興じていた。

「いや、どこに向かってるんだよ!?」
「え? ……どこだっけ?」
「学校!! 学校よ!!」
「学校って、どこにあるの?」

 結局、学校に辿り着けた時、完全に遅刻の時間帯になっていた。
 アストルフォは一人にしておくと何をしでかすか分からない。僅かな時間でその事を実感した士郎は一人煤けた背中で歩く大河を見送り二人で再び天に舞い上がった。

 ◆

 その光景を一人の少女が見ていた。

「リン。たった今、ライダーを捕捉しました。マスターと思しき者が二人居ますが、どうします?」

 大河が泣きながら駆け込んだ学校。その屋上に佇む少女がラインを通じて自らのマスターに問い掛ける。

『思しき者が二人って、どういう事?』
「言葉の通りです。ライダーは幻想種を操り、一人の女性を裏の林で降ろすと、別の男性を乗せたまま天に駆け昇って行きました」
『ちなみにその女性の特徴は?』
「些か目を引く装いでした」

 少女が告げた女性の特徴を聞き、リンと呼ばれた彼女のマスターは該当者を割り出した。
 
『藤村先生……? うーん、接触してみるべきか否か……』
「ちなみにどういった人物なのですか?」
『竹を割ったような人。裏表が無くて、私が知る限り魔術師とは正反対の人柄よ』
「……ですが、ライダーと繋がりがある事は確実です。なんらかの対処をすべきでは?」
『……考えてみるわ。とりあえず、使い魔で監視をしておく』
「それでは手緩いのでは?」
『あの人の事、少し苦手なのよね……。って、好き嫌いしてる場合でもないか。そうね、様子見は一晩だけにする。それで何も分からないようなら仕掛けるわ』
「では、今晩は昨日と同じく?」
『ええ、新都に足を伸ばして敵捜しよ。なんなら、ちょっと挑発でもしてみましょうか』
「……それも悪くありませんね」

 セイバーのサーヴァントはマスターとの念話を終えると街を見下ろした。
 嘗て、彼女はこの地に来た事がある。今回と同じく、聖杯戦争に招かれたサーヴァントとして……。

「のどかだ……」

 聖杯戦争が始まっても、学生としての生活を維持すると主張したマスター。
 前回のマスターとは似ても似つかない。人質を取ったり、無関係な一般人を巻き込むような手を彼女は厭う。
 戦争を勝ち抜く為には捨てるべき甘さだと思うが、同時に好ましいあり方でもある。
 
「……必要ないか」

 彼女は前のマスターとは違う。影で動く必要などない。甘さを捨てる必要もない。
 真正面から堂々と勝ちにいける強さを持っている。
 ならば、彼女の剣として己の為すべき事はひとつ。

 その夜、未遠川に沿う遊歩道で彼女は挑発行為を行った。何の事はない。殺意と魔力を適当にばら撒いただけだ。
 その挑発に乗った者が一人。

「いいね、その殺意。最高だぜ」

 青き槍兵が真紅の槍を携え現れた。

「よくぞ来たな。貴様が今回の聖杯戦争の最初の脱落者だ」
  
 戦端が開く。マスターから供給される莫大な魔力を糧に、最強のサーヴァントが最初の獲物に牙を剥いた。

Act.5 《Love is blind》

 アストルフォが士郎と大河を連れ去り天高く舞い上がった後、残された桜とアーチャーは居間に移動した。
 
「……先輩を守る為にサーヴァントを召喚したのに、召喚されたのも先輩で……。私はどうしたらいいんでしょうか……?」

 思いつめた表情を浮かべて何を言い出すかと思えば、アーチャーは苦笑した。

「悩む必要はない。私とヤツは同一であって、同一ではない存在だ。君にとっての先輩はヤツ一人なんだよ。だから、私の事を気にかける必要はない」
「どういう意味ですか?」
「簡単な話だよ。私も聖杯戦争に参加した経験がある。だが、その時に召喚したサーヴァントはセイバーだった。それに、君が《|エミヤ《わたし》》を召喚する事も無かった。この時点で既に未来が分岐している。起源は同じでも、私達は別人なんだよ」
「……でも、先輩です」

 桜の言葉にアーチャーは心の中でため息をこぼした。
 こんな風に困らせるつもりはなかった。ただ、決して裏切らない存在だと認めてもらい、全力で頼ってもらいたかった。

「……マスター。私は君のサーヴァントだ。君に守られる存在じゃない。君を守る存在だ」

 ジッと桜の瞳を見つめながら、アーチャーは一言一句を刻みこむように言った。

「安心したまえ。これでも強くなったんだ」

 微笑みかけると、桜はポカンとした表情を浮かべた。
 少しキザな言い方だったかもしれない。呆れられてしまったかと思い、アーチャーは頬を掻いた。
 
「これだけは信じて欲しい。……オレは桜を守る。どんな敵からも、どんな運命からも絶対に。何が起きても、これだけは譲れない。君の幸福の為なら、どんな事でもするつもりだ」

 アーチャーは少し勘違いをしている。桜は呆れてなどいない。
 彼女は恋する乙女だ。他ならぬ意中の男性が成長した姿で己の前に現れ、己の事を守る為に全力を尽くすと言った。
 その衝撃たるや、核弾頭が頭上で爆発したかのようだ。みるみるうちに桜の肌は真っ赤になった。

「さ、桜!?」

 目を回す桜。アーチャーは慌てて倒れそうになる彼女を支えた。
 その鍛えぬかれた腕に包まれ、桜は今の状況が夢なのではないかと疑い始めた。
 己を抱き留めるエミヤの顔を見つめる。よく見れば、今の士郎の面影が色濃く残っている。

「……先輩。髪をおろしてもらってもいいですか?」
「は? か、構わんが……」

 困惑した様子で髪を撫で付けるアーチャー。

「……本当に先輩なんですね」

 逆立てていた髪をおろすと、それは童顔である事を気にしている彼の顔よりも少し大人びていたが、士郎の顔だった。

「なんだ。信じていなかったのか?」

 憮然とした表情を浮かべるアーチャーに桜は微笑んだ。

「だって、先輩は今でも凄くかっこいいんです。なのに、成長したらこんなに……、ますますかっこよくなるなんて……驚いちゃいまし……た」
「桜!?」

 突然意識を失う桜。慌てて呼吸と脈拍を確認するが異常は見当たらない。
 やがて静かな寝息を立て始めた。

「……召喚の疲れが出たか。色々聞きたい事もあったのだがな……」

 持ち上げると、見た目に比べてその体重は酷く軽かった。
 細い腕。失礼を承知で解析の魔術を使うと彼女の体内に蓄積している物が見て取れた。
 
「桜……。今度は絶対に助けるからな……」

 安らかな|家族《さくら》の寝顔を見て、アーチャーは決意を新たにした。

 ◇

 大河を学校で降ろしたアストルフォは士郎を後ろに乗せたまま高度六千メートルで遊覧飛行を楽しんでいた。

「どうだい? ヒポグリフの乗り心地は!」
「……凄い」

 語彙力が足りないのではない。その光景やその体感を他に言い表せる言葉が無かったのだ。
 どんな言葉もこの鮮烈な体験を表現しきれない。
 人が生身では到達出来ない場所。外気圏という、宇宙空間との境界面。そこからの光景はただ……ただ、凄い。

「地球が見える……」
「美しいよね」

 地球という|惑星《ほし》が球体である事実を肉眼で確認する事など普通は出来ない。
 その美しさを分厚い窓やカメラを通さずに見る事が出来た。その感動に心が揺さぶられる。
 
「アストルフォは月に行ったことがあるんだよな?」
「うん! まあ、その時は別の馬車を使ったけどね」
「今は無いのか?」
「うん……。ごめんね」

 ショボンとするアストルフォに士郎は慌てた。
 ちょっとだけ月旅行に惹かれてしまっただけで、どうしてもという程ではない。

「こ、こっちこそ無理を言って悪かった。……えっと、月ってどういう所だったんだ?」
「すべて……」
「え?」

 アストルフォは夢見るような表情を浮かべて言った。

「そこにはすべてがあったよ。ローランの理性だけじゃない。なにもかもがあったの……」
「なにもかもが……?」
「そう……。人類という種が持つ叡智を遥かに超えた|存在《モノ》。……ムーンセル」
「アストルフォ……?」

 士郎はアストルフォの雰囲気がさっきまでと異なっている事に気がついた。

「アレを見て」

 彼女が指を差した先にあるものは《月》だった。

「月に近づいたから、少しだけボクの理性が戻って来ているんだ」

 ヒポグリフの背中で器用に座り方を変え、士郎に顔を向けるアストルフォ。

「折角だから、お話しようよ」
「あ、ああ」

 大き過ぎる地球を眼下に収め、星の海を漂い、可憐なお姫様と幻馬の上で語り合う。
 まるでお伽話の世界に迷い込んだような気分だ。
 
「シロウ」
「なんだ?」
「シロウ!」
「な、なんだよ……」
「シ・ロ・ウ!」
「……本当に理性が戻ってるのか?」

 いきなり名前を連呼され、少し頬を赤くしながら疑るような目つきをする士郎。
 
「もちろんさ。今、ボクは数奇な運命によって主となった君の名を胸に刻んでいるところだよ。ねえ、シロウ。君はどうしてボクを喚んだの?」
「……喚んだっていうのは、ちょっと違うかもしれない。だって、俺は桜から説明を受けるまで聖杯戦争の事を何も知らなかったんだ。いつもみたいに魔術の鍛錬をしていて、その内に眠って……気付いたらアストルフォが隣で寝てた」

 士郎の言葉にアストルフォは笑った。

「まさしく運命的だね! 君は召喚しようと思ったわけじゃない。呪文も唱えていない。なのに、ボクは君と出会えた! とても素敵な事だと思うよ」
「……ああ、そうだな。聖杯戦争の事は色々考える所もあるけど、俺もアストルフォと出会えた事は素直に嬉しい」

 それは嘘偽りのない本音。士郎は目の前の可憐な少女に恋をしている。この出会いはまさしく奇跡だ。

「ねえ、君の事を教えてよ。ボクは君の事をたくさん知りたい」

 その声は、表情は、言葉は魔力を秘めていた。
 どんな事でも話してしまいたくなる。己の全てを知ってほしい。そう思わせる魔力がある。
 恋の魔力はいかなる呪詛よりも強力だ。

「えっと、どんな事を聞きたいんだ?」
「そうだなー。まずは君の夢を教えてよ」
「夢……?」
「うん!」
「……俺の夢は」

 それをあまり人に言った事がない。この歳になって、それを理想と語るのは少し照れくさいからだ。
 だけど、聞かれたからには答えないといけない。

「正義の味方になりたいんだ」

 それが如何に難しい事かも知っている。それでもなりたいと思った。
 炎の記憶に色濃く刻まれた養父の笑顔。彼が掲げた理想。それを月夜の晩に受け継いだ。
 みんなが笑顔でいられる世界。それが望みだと士郎は言った。

「この歳になって、何言ってんだかって思われるかもしれないけど……。それでも、俺は正義の味方を目指してる」

 そう締めくくる士郎にアストルフォは言った。

「いいね、その夢! 君のようなマスターに召喚された事を幸福に思うよ! ボクはその夢、大好きだ!」
「あ……、ありがとう」

 それはまさしく致命傷だった。
 彼がその後、どんな真実を識っても、この時点で後戻り出来なくなってしまった。
 大好きだと、士郎の夢を断じたアストルフォの笑顔。そこに嘘偽りや冗談の色は欠片もない。
 心からの言葉だと理解して、士郎は赤くなる顔を隠す為にそっぽを向いた。
 
 人に話しても、呆れられたりバカにされる事の方が多かった。
 こんな風に真っ直ぐに肯定された事は初めてだった。

「アストルフォはどうなんだ……?」
「ボク?」
「ああ。夢とか、好きなものとか、そういうの」

 己の事を知りたいと言ってくれた彼女の事を士郎も知りたくなった。

「ボクの夢か……。いつでも自由気ままに生きてるからねー。でも、好きなものなら言えるよ! 全部!」
「ぜ、全部?」
「そう! この世界にある物なら嫌なこと以外全部!」
「……じゃあ、逆に嫌いなものは?」
「うーん、ないね! 世界の全て! 大抵のものは好きだよ!」

 その曇りない笑顔が眩しく感じた。この世の全てを愛する。そこに彼は己の理想に対する答えがあるように感じた。
 
「シロウはある? なにか好きなモノ!」
「俺か……? 俺は……」

 答えが中々口に出せなかった。好きなものを聞かれて、具体的に答えを出すことが出来なかった。

「なになに? ひょっとして、ボクの事とか?」

 からかうように言われ、士郎は顔を真っ赤に染め上げた。
 するとアストルフォはガバッと士郎を抱き締めた。

「嬉しいよ、シロウ! ボクもキミが大好きだよ!」

 その体の柔らかさと鼻孔をくすぐる甘い香りに頭が蕩けてしまいそうだった。

「ボクは弱い」

 アストルフォは士郎を抱きしめながら言った。

「それでもボクはキミのサーヴァントだ。キミがボクを信頼してくれるなら、ボクは全力で応えるよ」
「アストルフォ……」
「誓うよ、マスター。ボクはキミの剣であり、キミの刃であり、キミの矢だ」
 
 契約が完了した。マスターとサーヴァントは互いを見つめ合い、全幅の信頼を相手に預け合う。
 普段は何をしでかすか分からないところがあるサーヴァントだが、どんな時でも彼女を信じよう。そして、信じてもらえるように頑張ろう。そう、士郎は心に誓った。

 ◇◇

 士郎とアストルフォが遊覧飛行を終えて衛宮邸に戻って来た時にはすっかり日が暮れていた。
 その頃、丁度眠りから覚めた桜が夕飯の準備を進めていて、士郎も慌てて手伝いに向かった。すると、そこには既に先客としてアーチャーが居座り、まるでその場の主が如く鍋を振るっていた。

「いいか、桜。中華鍋を振るコツは――――」

 その実に楽しそうな表情を見て、士郎はなんとも言えない気分になった。

「……あれ、俺なんだよな?」
「あはは! 楽しそうだね!」

 まるで自分の城を奪われた王のような気分。
 どんよりとした空気を漂わせる士郎にアストルフォは後ろからハグをした。
 そこにゴジラでも出たかと思うような大きな足音を立てて大河が現れる。

「うえーん! 怒られたよぉぉぉ」

 泣きべそをかく大河の到来。そこにアーチャーが現れた。
 皿には麻婆豆腐が盛られている。

「……相変わらずだな」

 どこか嬉しそうな表情だった。
 皿を食卓に並び終えると、アーチャーはそのまま縁側に出た。

「どうしたの? 赤士郎」
「その赤士郎というのはなんだ!?」

 大河に変な呼び方をされ嫌そうな表情を浮かべるアーチャー。

「だって、士郎も士郎なんでしょ? でも、士郎は士郎で士郎がいるし、士郎と士郎じゃ混乱するから士郎は士郎のまま、士郎は赤士郎って呼ぶ事にしたわけよ!」

 まるで早口言葉のようだ。アーチャーは深々とため息をこぼした。

「アーチャーでいいよ」
「でも、士郎なんでしょ?」
「そうだが、赤士郎よりはマシだ」
「えー! 怒られながら必死に考えてたのに―」
「……怒られている時は反省する事に集中するべきだぞ」

 アーチャーはまたもため息をこぼした。

「ため息ばっかり吐いてると幸せが逃げるんだぞー」
「今更逃げる幸せなんてないよ。それより、何か用があったんじゃないのか?」
「えーっていうか、どこに行くの? アーチャー士郎も一緒にご飯食べるでしょ?」
「アーチャーだけでいい! それと、私はサーヴァントだ。サーヴァントに食事は不要なんだよ」
「え? でも、アストルフォちゃんは食べてるけど? っていうか、みんなで《いただきます》するまで待ちなさい!!」
「えー!」

 ぶーたれるアストルフォを牽制しながら大河はアーチャーを見つめる。

「食べれないわけじゃないのよね?」
「それはそうだが……」
「アーチャー! マスターとしての命令です! 一緒にご飯を食べましょう!」
 
 渋るアーチャーに桜が言った。
 目を丸くするアーチャー。士郎や大河も驚いている。

「駄目ですか……?」

 途端に不安そうな顔をする桜。
 アーチャーは苦笑した。

「命令ならば仕方ないな」
「アーチャー! はやくしてよ! ボク、はやく食べたい!」

 アストルフォにも急かされ、アーチャーは桜の隣に座った。

Act.6 《The sky’s the limit》

「なんか、妙な気分だな」

 士郎の言葉にアーチャーは肩を竦める。

「当然だろう。ドッペルゲンガーと食卓を囲む機会など早々あるまい」
「……中華料理作れるんだな」
「色々あってな。料理のレパトリ―も無駄に増えてしまったよ。精々味わう事だな。貴様では未だ到達出来ぬ高みの味だ」
「……食べてやろうじゃねーか」

 挑発的なアーチャーの視線に士郎も負けじと睨み返す。
 二人を見つめる周りの目は実に温かいものだった。自分同士で張り合う人間など早々いない。温かいというより、若干生温かい。

「……クッソ」

 士郎は一口食べて敗北を実感した。
 そのマーボーはまさしく至高の逸品。麻味と辣味を極めた料理人の繰り出す味だった。
 舌の上で弾ける旨味に悶絶しそうになる。未だに手を出した事の無い中華という世界。そこに王者の如く君臨する目の前の|男《じぶん》。
 その狭間に広がる距離はあまりにも遠い。一体、如何なる研鑽を積めばこの領域に辿り着けるというのか……。

「美味しい!!」

 アストルフォの歓喜の叫びに士郎は苦悩の表情を浮かべる。
 彼女の《美味しい》を出来る事なら自分の料理で聞きたかった。

「……アーチャー」

 士郎は未来の己を睨む。

「なんだ?」

 アーチャーは過去の己を見下す。
 睨み合う同一人物達。周りは楽しそうにヒソヒソ話をしている。
 やがて、士郎は言った。

「……必ず、超えてみせる!」
「吠えたな。だが、世界中の名のある料理人とメル友になった私の領域に辿り着けるものかな」

 何をしているんだコイツ。士郎以外の面々が若干冷静になってツッコミを入れそうになった。
 
「せ、世界中の料理人と……、だと?」

 戦慄の表情を浮かべる士郎。
 周りでは「楽しそうだね、二人共!」とか、「仲いいねー」とか、「先輩凄いです!」とか言われているが、二人の耳には入っていなかった。
 そうこうして、楽しい団欒の一時が過ぎていく。

「さて、私は偵察に出るとしよう」

 食事の後片付けが終わると、アーチャーが言った。

「偵察ですか?」
「生き残るという事は勝利するという事と同義だ。そして、勝利するにはまず敵を知らねばならない。幸い、此方には二騎のサーヴァントがいる。ライダーには私が留守の間、この家の守護を頼みたい」
「まっかせといてー!」

 若干不安そうな表情を浮かべるアーチャー。

「いいか、未熟者。貴様に出来る事など高が知れている。無闇に手をのばそうとするな。守るべきものを見定め、その為に全力を尽くせ」
「……ああ」

 士郎が険しい表情を浮かべながら頷くと、アーチャーは大河に向かって言った。

「言いそびれていた。出来れば、聖杯戦争が終わるまでこの家に来る事は控えたほうがいい」
「それは駄目よ! 士郎と桜ちゃんが危ない目にあってるのに、保護者として放置する事は出来ないもの!」

 言うだけ無駄だと分かっていたが、あまりにも予想通りの言葉にアーチャーは苦笑した。

「ならば、あまり私やライダーと離れないでほしい」
「……分かったわ、アーチャー士郎」
「そのアーチャー士郎もやめてほしい。アーチャーだけでいいと言っただろ!」
「えー」
「えー、じゃない! おい、未熟者! その辺の事をしっかり説得しておけ!」
「別によくないか? アーチャー士郎でも赤士郎でも」
「なら、貴様がアーチャー士郎を名乗れ」
「遠慮しとく」
 
 睨み合う同一人物同士。やがて、士郎がため息をこぼした。

「わかったよ。ちゃんと言っとく」
「……ならば、私は行くぞ」
「ああ」
「無茶はしないでね!」
「気をつけてくださいね!」
「がんばってねー!」

 飛び去るアーチャーにそれぞれ声を掛けた後、士郎達はしばらくの間彼の立ち去った夜空を見つめ続けた。

「とりあえず、アーチャー士郎ってのはやめような」
「えー」
「やめような?」
「……はーい」

 ◆

 時刻は22:00。人や車の往来があって当たり前の時間帯にも関わらず、辺りは静かだった。
 聖杯戦争が始まり、街は本能的に怪異を恐れ身を隠している。
 
「それじゃあ、おっ始めようか!」

 その掛け声と共に戦闘が始まった。
 遠坂凛は目の前で繰り広げられる英霊同士の激突に魅入っている。目で追い切れない程のスピード。剣と槍が激突する度に粉砕するコンクリートや街路樹。
 人智を超えた存在による、人智を超えた戦い。
 彼女がまばたきをする一瞬の間に彼等は何度も相手に死を送り、自らの送られた死を乗り越える。
 
「これが……サーヴァント同士の戦い」

 鳥肌が収まらない。
 二騎の放つ気迫が突風となり大気を揺るがす。
 そして、鳴り響く金属音はまるでオーケストラが紡ぐ名曲の如く心を揺さぶる。

「ッカァァッァァァアア!!!」
「ハァァァァァアアアア!!!」

 ランサーの槍は点である筈の攻撃を壁の如く繰り出す。
 そして、セイバーの剣はその壁を一撃の下に粉砕する。
 これはもはや天災同士の激突。嵐と嵐が互いの存在を喰らい合う。

「その程度か、ランサー!!」

 すでに凛は何時間も戦っていたかのような疲労感を感じている。
 だが、戦闘が始まってから今の時点で経過した時間は僅か十五秒。
 
「ぬかせ、セイバー!!」

 それは互いの実力を測るのに十分過ぎる時間だった。
 セイバーは勝利を確信する。目の前の槍兵の技量は目を瞠るものがあるが、その程度では――――、

「我が剣には届かんぞ、ランサー!!」

 形勢は一気にセイバーへと傾いた。一撃ずつランサーは劣勢に立たされていく。
 起死回生を狙うが、その悉くを阻まれ、ランサーは舌を打った。
 その一気呵成、怒涛の勢いにランサーの殺意が極限へ達する。

「――――ッセイバー!!」

 凛が叫ぶ。
 極大な魔力がランサーの槍に収束していく。
 間違いない。それは宝具発動の前兆。
 だが、セイバーは止まらない。直感の囁きのまま、彼女は声を張り上げた。

「リン!!」

 その声に凛は応えた。寄せられた信頼。それに応えずして、何がマスターか!
 彼女は宝具発動の前にランサーを叩くつもりだ。その為にはあと一歩疾さが足りない。
 ならば、その一歩を後押しするのが自らの役目。

――――使うなら、今!!

「セイバー!!」

 令呪の発動に必要なものは意思の力。今、凛とセイバーの思考はシンクロしている。
 
――――もっともっと疾く!!

「いっけぇぇぇぇぇ!!」

 重なり合う二人の意思に二人を繋ぐ|令呪《キズナ》が輝く。
 青き光がセイバーを包み込み、この瞬間、最強のサーヴァントが更なる高みへ到達する。
 一歩。その尋常ならざる速度によって生み出された歩みは大地に巨大な亀裂を作り、空気を軋ませた。
 そして、繰り出される必殺の一撃。

「……楽しかったぜ」

 宝具の発動直前だったランサーは静かに微笑んだ。
 ここに至るまで、気に入らない事だらけだった。だが、この戦いに関してだけは文句のつけようがない。
 強いて言うなら、もっと戦っていたかった。

「ッハァァァァァ!!」

 振り下ろされる斬撃はランサーの体を真っ二つに引き裂いた。戦闘続行のスキルを持って尚、決定的な致命傷だった。
 これでは仕切りなおす事も出来ない。
 聖杯戦争開始から一日目。早くもサーヴァントが一体脱落した。

「さて、残るは五人。どうしますか?」

 一戦を終えて尚消耗した様子を見せず、セイバーは己が主に問う。

「さーて、どうしたものか……っと、あれ?」

 凛は瞼を閉じた。そして、ニヤリと笑った。

「使い魔を通して他のサーヴァントを一騎捕捉したわ。いけるわよね?」
「無論!」

 敵を一人討ち倒した直後にも関わらず、二人の闘気は冷めることを知らない。

 その圧倒的な光景を一人の男が見つめていた。
 目を見開きながら、アーチャーは自らの主に報告した。

「……ランサーが死んだ!」

Act.7 《Mighty warrior》

 白い髪の少女が鼻歌を歌いながら街を歩いている。その背後にあまりにも異質な存在を従えながら。
 真紅の瞳が爛々と輝いている。雪に閉ざされたアインツベルンの城で今日という日を待ち侘びた。今宵、待ち望んでいた相手と会える。
 それなのに――――、

「どうして、邪魔をするのかしら?」
「あら、邪魔とは言ってくれるわね。こうしてわざわざ出向いてあげたのに」

 現れた少女の事を彼女は知っている。
 遠坂凛。この聖杯戦争を始めた御三家の一画である遠坂家の末裔。
 いずれ相見えることになるのは必定。打ち倒すべき障害。
 だが、今はただひたすら邪魔なだけの存在だ。

「アナタと遊んでいる暇はないのよ。そこを退きなさい」

 十年待った。もう、これ以上待ってなどいられない。
 一分一秒でも早く彼に会いたい。会って、彼を殺したい。それだけを夢見て今日まで生きて来たのだ。

「急ぎの用事でもあるのかしら? でも、マスター同士が対峙した以上、戦う以外の選択肢なんてない。違うかしら?」
「違うわ、リン。《戦う》なんて選択肢は存在しないの。だって、私のバーサーカーと《戦い》が成立するサーヴァントなんていないもの」
「言われてるわよ、セイバー」

 リンは背後に控えるセイバーに視線を投げかけた。

「驕ったな、メイガス。ならば、その傲慢さを抱えたままここで朽ちろ」

 相手は幼き少女。それでも、セイバーに容赦や油断など一欠片もない。
 一蹴りで少女の眼前に迫り、その首に刃を振る。

「……バーサーカー」

 その刃を聳える巨人が阻む。
 凛が戦闘の場に選んだ場所はマンションの建設予定地前。
 そこまで来るのを待ってから姿を現した。
 セイバーはバーサーカーに猛攻撃を仕掛け、巨体を建設予定地に叩き込む。

「なるほど、虚勢ではないみたいね」

 髪の毛を数本引き抜き、バーサーカーのマスターであるイリヤスフィール・フォン・アインツベルンは微笑んだ。
 彼女の前では凛が複数の宝石を指にはさみ、中国拳法の構えを取っている。
 遠坂家は元々《武》に重きを置く一族だった。《無我の境地》に至る事で根源へ渡ろうとしていたのだ。
 時と共に在り方が大きく変質しているが、それでも遠坂家は武を尊ぶ。

「アンタはここで脱落よ、アインツベルン」
「……遊んであげるわ」

 その激突こそが頂上決戦。今聖杯戦争の参加者の中に彼女達以上の|魔術師《マスター》は存在せず、彼女達の相棒を超えるサーヴァントも存在しない。
 すでに建設予定地は爆心地かの如く巨大なクレーターを作り出し、尚も破壊の嵐を巻き起こしている。
 そして、その手前の道路では今聖杯戦争における最高水準の魔術戦が始まろうとしている。

「Ein KÖrper ist ein KÖrper――――!」

 輝く黄色の宝石。燃え盛る炎はとぐろを巻く竜の如くイリヤスフィールに迫る。
 だが、イリヤスフィールの余裕は崩れない。

「――――その程度?」

 彼女の前に銀の光が走る。紅蓮の炎はその光を嫌がるかのように四散した。
 その光の正体は彼女の髪。
 イリヤスフィール・フォン・アインツベルンはアインツベルンの造り上げた至高のホムンクルス。その肉体は細胞一つに至るまで最高品質の魔術礼装となる。
 その髪で編まれた盾は凛が長い年月の間に溜め込んだ膨大な魔力で築いた炎龍を容易に阻んだ。
 そして、その直後に銀糸は姿を変える。

「私に戦いを挑むなら、もう少し頑張りなさい」

 銀糸の剣が迫る。凛は緑の宝石に溜め込んだ魔力を解放し、その剣を打ち落とした。
 そのまま彼女は青い宝石を投擲する。

「無駄よ」

 氷結の呪詛が発動する寸前、銀糸で編まれた鷲が宝石を加えて上空に舞い上がった。
 破裂する青い光。空中に精製された氷塊に凛は嗤う。

「――――掛かった!」

 氷塊が破裂し、無数の氷片に変わる。

「vox GottEs Atlas――――!」

 上から下に向かう重力の法則が書き換わる。
 氷片は一斉にイリヤスフィールへ向かう。

「無駄と言ったわ」

 その氷片を悉く銀糸の盾で防ぐイリヤスフィール。
 余裕の笑みを浮かべる彼女に凛は言った。

「チェックメイトよ」

 盾の構築によって視界が塞がれたイリヤスフィールの頭上で紫の宝石が破裂する。

「……ふーん。少し見直したわ」

 精製された巨大な水晶を銀糸の剣で両断しながら、不敵な笑みを浮かべてイリヤスフィールは言った。
 直後、彼女の表情が凍りつく。
 
「なっ―――――」
「セイッ!」

 眼前に凛が迫る。彼女の繰り出す掌底を防ぐ術を用意する余裕がない。
 氷結の呪詛を放った時から現在に至るまでの工房は全て凛の計画通り。
 全ては接近戦に持ち込む為のエサ。

「あっ……がっ」

 双纒手。八極拳の一手であり、相手の守りを抉じ開け、足から送り出された力を背中の筋肉で増幅させて放つ双掌打。
 体内で爆弾が爆発したかのような衝撃。
 恐らく、宝石魔術によって強化されていたのだろう一撃によって呼吸器官が機能を停止し、その激痛によってイリヤスフィールの思考が白一色に染め上げられる。
 あまりにも致命的な隙を見せたイリヤスフィールに凛は追撃を放つ。

「ハイッ!」

 双纒手の体勢から体を捻り、遠心力を加えた裏拳と回し蹴りを同時に繰り出す。張果老と呼ばれる技が炸裂。
 魔術どころか身動き一つ、受け身一つ取る事の出来ないイリヤスフィールの体はコンクリートの壁に激突した。
 強化の魔術による保護があって尚、そのダメージはあまりにも甚大。
 ここに至り、イリヤスフィールは悟る。魔術戦ならば己が勝つが、肉弾戦に持ち込まれては敗北が必至である。そして、既に肉弾戦に持ち込まれてしまった以上、残された道は一つ。

「バーサーカー!!」

 令呪を一つ使い潰し、目の前にバーサーカーを召喚した。
 
「殺しなさい!!」

 狂戦士が神殿の柱を削り作られた斧剣を振るう。
 セイバーは此方に向かって来ているが間に合わない。令呪の発動も手遅れだ。
 万事休す。凛は舌を打った。
 二撃も繰り出して、仕留められなかった己の失態だ。

「ごめん、セイバー」

 間近に迫る死に凛は覚悟を決めて瞼を閉じる。
 だが、そこでありえない事が起きた。
 甲高く響く金属音に目を見開く。ナニカが斧剣に激突し、弾いた。
 直後、セイバーが彼女の下に辿り着き、その身を抱えると戦場を離脱した。

「セイバー。今のって……」
「アーチャーの狙撃ですね。恐らく、ここで私達が脱落してはまずいと判断したのでしょう」
「……バーサーカーはそんなにヤバイ奴だった?」
「ええ、一度殺しましたが直ぐに蘇生しました。アレはもはや魔術の領域ではない。恐らく、彼の宝具なのでしょう。ステータス、技量、宝具、どれをとっても超一流のサーヴァントだ。アレとまともに打ち合えるサーヴァントは多くない」
「なるほど、利用する気満々ってわけね」

 凛は忌々しげに狙撃が行われたであろう方角を睨みつけた。

「貸しにはしないわよ」
「当然です。アーチャーの狙撃位置が分かりますか?」
「……深山町に狙撃出来る高台やビルなんて無いわよね」
「恐らく、新都の高層ビルからの狙撃です。そこからあの精密射撃……。弓兵の名に恥じぬ技量の持ち主というわけだ。貸しだのと言っている余裕はありませんよ、リン」
「みたいね……」

 去って行く凛とセイバーを尻目にイリヤスフィールは狙撃手の居るであろう方角を睨みつけた。

「追撃が来ない……。こっちも利用する気満々ってわけね」

 苛立ちに満ちた表情を浮かべ、イリヤスフィールは踵を返す。

「帰るわよ、バーサーカー。……こんな格好、お兄ちゃんに見せられないもの」

 血と土で汚れた服に彼女は泣きそうな表情を浮かべた。
 楽しみにしていた時間を奪われた。その怒りたるや果てしない。
 
「リン……。それに、アーチャー。絶対に許さないわ。次に会ったら必ず殺す」

 そうして、聖杯戦争一日目の戦いは終わりを告げた。
 
 ◇

 新都の高層ビルの屋上でアーチャーは溜息を零す。

「マスター二人を始末した方が手っ取り早いのだがな……」

 魔術戦に興じている二人を撃ち殺す事など彼にとっては造作も無い事。
 だが、どうしてもその選択肢を選ぶ事が出来なかった。

「ヤツを未熟などと言っている場合ではないか……。あの団欒に当てられたか……、まったく」

 二心無く仕えると誓っておきながら、この体たらく。
 
「……だが、モノは考えようだ。強敵は彼女達だけじゃない」

 アーチャーは今一度溜息を零すと夜の街に溶けて消えた。

Act.8 《All’s well that ends well》

 それは嫌な|夢《モノ》だった。
 街を覆い尽くす業火。それは|少年《シロウ》にとっての始まりの景色。
 歩く度、人々の苦悶の声が聞こえる。苦痛に歪める顔が見える。
 
『助けて』
『手を貸して』
『苦しいよ』
『生きたい』

 士郎は彼等の声を尻目に歩き続けた。幼子の力では彼等を救ける事など出来ない。だから、それは仕方のない事だ。
 やがて、彼も力尽きる。倒れ込み、曇天を見上げる。頬に水滴があたった。徐々に大きくなっていく。
 大火災によって発生した上昇気流が大気を掻き乱し、局所的な雨雲を造り出したのだろう。
 次第に炎が鎮まっていく。それでも、少年は動かない。動けない。既に死が間近まで迫って来ていた。

「――――生きている?」

 誰かの声が耳に届く。
 薄汚れた男が士郎を見下ろした。

「生きている……。ああ、生きている……」

 男は士郎を救った。その時の彼の表情ときたら、まるで救われたのは己の方だと言わんばかりの嬉しそうな笑顔だった。
 そして、少年は男の下で暮らし始める。

 地獄から救い出された少年は平穏な日常を取り戻した。
 辛い目にあったのだ。その分、幸せになるべきだ。
 士郎は健やかに成長していく。普通の子供とは少し違う所もあるが、普通の子供と同じように育っていく。
 いつしか、義父が家から姿を消した。どこか遠い国に出掛けているようだ。時折帰って来て、士郎にお土産を渡す。
 それはとても寂しい光景だった。この広い武家屋敷に士郎は一人だけ。時折、隣家に住む少女が様子を見に来るが、少年は孤独だった。
 漸く、家に留まるようになったかと思えば、義父は病床についた。起き上がる事さえ億劫に感じ、申し訳無さそうな表情を浮かべる。
 そして時を置かず、彼は帰らぬ人になった。士郎に己の|理想《ユメ》を託し、どこか満足そうに頷きながら……。

 また、孤独になった。隣家の少女も大人になり、教職についた事で顔を出す頻度が下がり、一人ぼっちの時間が続いた。
 高校生になると、その孤独が少しだけ晴れる。一人の少女が士郎の家に通うようになった。
 間桐桜。初めは彼女の兄が士郎に負わせた怪我の償いの為だった。一人暮らしの士郎に代わり、家事をこなすためにやって来た。
 ところが、桜には何も出来なかった。料理も洗濯も掃除すら上手く出来ない。見兼ねた士郎が怪我をおして彼女に家事を教える事にした。
 築かれた師弟関係は二人の間に絆の種を植えつけた。徐々に成長していく絆と桜の家事の腕前。
 出会った時は死人のように表情が抜け落ちていた少女が笑顔を浮かべるようになり、たくさんの表情を作るようになった。士郎の怪我が癒えても彼女は士郎の下に通い、彼に教えられた料理を作る。
 それはとても幸せな光景だ。このまま、この光景が永遠につづいて欲しい。そう願わずにはいられない程、この光景は完成されている。

 運命とは残酷なものだ。甘酸っぱい青春を送り、平凡な人生を歩ませてあげればいいのに、運命は士郎を血に染めずにはいられないようだ。
 聖杯戦争が始まる。夜の学校で激突するサーヴァント。士郎はその内の一人に胸を刺し貫かれた。

――――こんなの知らない。

 士郎は誰かに命を救われ、朦朧とした意識の中で家に帰ってくる。そこに死神が追い掛けて来て、彼は土蔵に追い立てられる。
 召喚されたのはライダーではなく、蒼き衣と白銀の鎧を纏うセイバーのサーヴァント。
 平穏は崩れ、地獄が始まった。襲い来る敵を討ち倒し、血を流し、己の理想の限界を突きつけられる。

――――ああ、こんなのは嫌だ。

 平穏の象徴だった少女が変わり果てた姿で彼の前に立つ。
 世界を救うか、一人の家族を救うか。
 そんな、普通の人間ならしなくていい選択を迫られる。

 少年の慟哭に胸を締め付けられた。血に染まる家族。手を下したのは士郎自身。
 血の涙を流し、彼は修羅の道を歩き始める。
 体を剣に、心を鉄に……、奈落へ沈んでいく。

 地獄を見た――――。
 中東で起こった紛争。そこで傷つけられた人々。
 疫病で苦しむ幼子。その子を生かしておけば、多くの人命が失われる。
 魔術師が大勢の人間を使い実験を行った。死にたくないと涙を流す死徒をその手に掛けていく。

 これは|彼《シロウ》が未だ至らぬ未来。
 これは|彼《エミヤ》が経験した過去。
 
 より多くの人々を救うために何もかもを捨てて突き進んだ彼は数百人を救うために己の死後さえ得体の知れぬナニカに明け渡した。
 人を救って、救って、救って……救って、救い続けた彼に待ち受けていたものは死刑台。
 絞首刑台に立たされて尚、彼に後悔はない。彼は希望を持っている。死後も人々を救い続ける事が出来ると……。
 そして、裏切られる。

 地獄を見た――――。
 それは取り返しの付かない破滅的状況。
 人という種そのものが世界にとっての邪魔者となった時点で彼は召喚される。
 そして、殺し続ける。
 人々を救う筈だった彼に課せられた使命は人々を殺し尽くす事。
 慟哭を聞き届ける者はなく、永劫苦しみ続けるしかない。
 
―――――ああ、これは嫌なモノだ。
 
 報われず、苦しみだけが募り続ける永遠。
 そんなもの……、嫌だ。
 
 ◇

 悪夢を見た。

『今夜見る悪夢の内容は全て事実だ。そこから先は悩み続けろ。少しはマシになる筈だ』

 士郎は溜息をこぼした。

「ひゃん」
「……ったく、アイツ。こういう事かよ……」

 今見たもの。あれはアーチャーの過去だ。そして、いつか己が至る未来だ。
 
「あっ……、そこでそう動かれると……」
 
 アーチャーは後悔した。理想を追い求め、走り続けた果てに何の報いを得る事も出来ず。与えられたものは呪いに塗れた永遠。
 認めたくない。この理想が如何に歪か、そんな事は十年前から解っている。それでも突き進むと誓った。その果てに何が待ち受けていても後悔だけはしないと……。
 アーチャーは士郎だ。彼は未来だ。彼も昔は士郎と同じ思いを抱いていた筈だ。
 
「シロウ……、大丈夫?」

 体が震える。なのに、どうしてだろう……。
 柔らかくて、あたたかいものに包まれている。
 この絶望的な気分と裏腹に体はとてもあたたかい。

「……ん?」

 そこで違和感に気がついた。鼻孔を嗅いだ覚えのある甘い香りが擽る。それに、このぬくもりは決して布団に包まれているが故のものではない。
 瞼を開く。すると、目の前に白い布があった。

「なんだ、これ?」
「あひっ……、ちょっと、シロウ! そう動かれると困っちゃうよー」
「え?」
 
 さっきから聞き慣れた声が聞こえる。幻聴かと思っていたが……。

「……アストルフォ?」
「なーに?」
「なにをしてんだよ!?」

 漸く、士郎は今の状況を理解した。
 今、彼はアストルフォに抱きしめられている。目の前にある白い布地はアストルフォに貸した寝間着だ。
 士郎は思いっきりアストルフォのお腹に顔を押し付けていたらしい。

「エヘヘー、来ちゃった!」
「お、おお、おま、おま、来ちゃったじゃないだろ!?」

 絶望的な気分が一気に吹き飛んだ。その衝撃たるや、未来に待ち受ける絶望などどうでも良くなる程の破壊力だった。
 
「えー! シロウはボクの事嫌いなのー?」
「そんなわけないだろ!!」

 つい反射的に答えてしまった士郎。顔がみるみる内に赤くなっていく。

「あはは! 嬉しいな―!」
「だ、抱き締めるな! 当たる! 当たっちゃうから!」

 大慌ての士郎にアストルフォは一切容赦が無かった。
 散々暴れて、サーヴァントに力で勝つ事は出来ないのだと悟った士郎。しばらくすると大人しくなった。

「……シロウ」
「なんだ?」

 高鳴る心臓を必死に押さえる士郎。そんな彼にアストルフォは言った。

「怖い夢を見たの?」

 その声に顔が引き攣った。

「そっか……」

 ああ、そうか……。
 士郎はアストルフォの奇行の理由を悟った。彼女は士郎を慰める為に来てくれたのだ。
 桜の話によると、マスターとサーヴァントの間にはラインという繋がりが生まれるらしい。そこから感情が伝わったのかもしれない。
 
「ありがとう、アストルフォ。でも、俺は大丈夫だからさ」

 そう言って、アストルフォの拘束を解こうとするが、彼女は彼を解放しなかった。

「ダメだよ、シロウ」
「な、なんでさ……」
「だって、ボクも怖い夢を見たんだもん」

 その声はとても哀しい響きを含んでいた。
 
「アストルフォ……?」
「とても嫌な夢を見たんだ。ねえ、言ったよね? ボクはこの世界の大抵の物が大好きだって……」
「……ああ、嫌なこと以外全部って言ってたな」
「嫌なことは嫌いなんだよ、ボク」

 アストルフォは士郎の背中を優しく叩いた。

「だから、今はこのままでいさせてよ」
「……ああ」

 そのあまりにも深い優しさに士郎は抵抗する事が出来なかった。
 気付けば、瞼が重くなってきた。まだ、夜が明ける前なのだ。

「おやすみ、シロウ。今度は楽しい夢を見ようね」
「……ああ」

 今度の夢は楽しい夢だった。
 光差す森の中でヒポグリフと戯れる彼女の姿は永遠に見ていて飽きない光景だった。

Act.9 《Go for broke!》

 爽やかな朝。間桐桜は浮き足立っていた。
 想い人の家で一晩を明かしたのだ。特に色気のある事があったわけじゃない。それでも高校生の女の子としては一大事だった。
 昨日の疲れが出たのか、いつも朝食の支度を始める時間に士郎は起きてこなかった。数少ないキッチンを占領出来る好機に桜はご満悦だ。
 腕に縒りを掛け、完璧な朝食を作る。会心の出来だった。

「先輩!」

 桜は幸せを噛み締めていた。つい昨日まで己を縛り付けていた老獪が消え、解放された事を実感した。
 後ろめたい気持ちを抑えこむ必要も無く、ただ士郎の為だけに生きる事が出来る。その事のなんと嬉しい事か!
 そうして、浮かれ調子の桜は士郎の部屋を訪れる。ちょっとした冒険。朝食を準備し、旦那様を起こしに行く妻の気分を少し味わってみたかった。
 その結果……、

「……あれ?」

 そこにオカシナ光景が広がっていた。
 士郎が寝ている。そこは普通だ。おかしな点などない。彼を起こしに来たのだから、寝ていてくれなくては逆に困る。
 整理整頓が行き届いた和風の部屋。時々掃除をする時に入るけれど、いつもと殆ど変わりない。
 だが、一点だけおかしなものがある。

「……あれー?」

 おかしいな……。
 どうして、ここに|アストルフォ《コノオンナ》がいるのかな?
 センパイを抱きしめて、幸せそうに寝ている。

「いけないんだー、先輩」

 幸せな気分が一気に急落してしまった。

「男の人と女の人は結婚するまで一緒に眠っちゃいけないんですよー」

 感情の乗らぬ声。士郎は体を震わせている。実は起きていたのだ。起きていたのだが、アストルフォに抱きしめられた状態のままだった為に抜け出す事が出来なかったのだ。
 決して、彼女に抱き締められている感触があまりにも心地よいから抜け出したくなかったわけではない。

「先輩……」

 士郎は恐怖した。そこにある桜の瞳は闇を何重にも重ねたような禍々しい光を宿していた。

「……ち、違うんだよ、桜」

 疚しい事などしていない。それでも、言い訳せずにはいられなかった。

「違うって、何の事ですか? 私、バカだからわかりません」

 ニッコリと微笑む桜。どうしてだろう……、いつもなら心癒される彼女の笑顔が今日はどこまでも恐ろしい。
 
「さ、桜はバカなんかじゃないぞ!」

 とりあえず否定しておくが、今の問題点はそこではない。

「そうですか? バカじゃないなら、私の考えている事って勘違いじゃなくて……、事実ですか?」
「な、なんの話だ……?」
「先輩が昨日召喚したばかりの|女の子《サーヴァント》を布団の中に連れ込んで……ぅぅ」

 途端に桜の表情が崩れた。

「さ、桜……?」

 アストルフォに抱き締められている士郎の姿があまりにも衝撃的過ぎたのだろう。
 ポロポロと涙を流す桜。士郎が何かを言う前に走り去って行った。

「さ、桜……」
「……貴様というヤツは」

 呆然とする士郎を入れ違いのように入って来たアーチャーが見下ろした。

「あ、アーチャー……」

 アーチャーはまるで汚物を見るかのように顔を歪めた。

「……一応言っておくけど、疚しい事はしてないぞ」
「だろうな。あの光景を見た直後にそんな事をする神経があるならこうはならんだろうさ」

 アーチャーは溜息を零した。

「やっぱり、あの夢はお前のせいかよ……」
「……感想を聞くつもりだったが、アフターケアを受けた後では意味がないな」

 再び深々と溜息を零すアーチャー。

「まったく……。マスターのメンタルケアなどサーヴァントの職務規定には書いてないぞ」
「職務規定なんてあるのかよ……」
「さあな……。折角桜が作ってくれた朝食が冷めてしまうぞ。さっさと起きて来い、未熟者」

 そう呟くとアーチャーは立ち去った。
 士郎は溜息を零す。

「……疚しい事はしてない。けど……、うーん」

 間近にあるアストルフォの寝顔をずっと見ていた事は果たして疚しい事の内に入るのだろうか?
 
「ぼ、煩悩退散。おーい、アストルフォ! 起きろ! 朝だぞ!」
「うーん、もうちょっと……」
「駄目だ、起きろ!」

 自分に言い聞かせるように士郎はアストルフォを起こした。
 正義の味方を目指す者なら、もうちょっと堪能していたいなどと考えてはいけないのだ。
 
 ◇

 結果的に言い訳大会が開かれる事は無かった。むしろ、朝食の席につくと桜に開口一番で謝られてしまった。
 どうやら、アーチャーが士郎の悪夢について簡単に説明してくれたらしい。
 あくまでも桜のメンタルケアの為だが、士郎は胸をなでおろした。

「ぅぅ……、とんでもない勘違いをしてしまいました」

 真っ赤になって縮こまる桜。

「そう自分を責める必要は無い。一人で立ち直れないこの未熟者が全て悪いのだ」
「元を正すとお前が原因だけどな……」

 悪夢を見せた張本人に反論するもその語気は弱々しい。
 疚しい事はしていない……。だが、何故か少し後ろめたい。

「未熟者」
「……うるせぇ」

 そうこうして、なんとか平穏無事に朝食を終えた士郎は道場にやって来た。
 今日も学校がある。大河は支度を終えると学校に向かった。士郎と桜も本来ならば登校しなければならないのだが、聖杯戦争中という事もあって二日連続のズル休みをした。
 道場の真ん中で士郎は瞼を閉じている。

「|投影開始《トレース・オン》」

 昨日の夢はただの悪夢ではない。
 これから衛宮士郎が歩む|可能性《ミライ》の一つ。そこには士郎の人生の集大成があった。

「……出来た」

 夢の中でアーチャーが握っていた二振りの短剣を手の中に造り出す。
 出来る事は解っていた。だが、実際に手の中で双剣の重みを感じると思考が乱れそうになる。
 今まで殆ど上手くいく事の無かった魔術がアッサリと成功し、夢の中で見ただけの双剣を造り出すことが出来た。
 これはあの夢が事実である何よりの証だ。

「……ッハ! ッフ! ッタァ!」

 夢の中の|己《アーチャー》を自己に投影し、双剣を振るう。
 剣を使う経験など殆どない。昔はこの道場で義父に稽古をつけてもらっていたが、ここ何年か竹刀をまともに握っていない。
 なのに、シックリときた。剣の柄に掌が吸い付き、重い筈の双剣を軽やかに操る事が出来る。

「おー! 凄い! かっこいい!」

 壁際で士郎の剣舞を見ていたアストルフォが絶賛する。だが、士郎の表情は優れない。
 これは単なる模倣に過ぎない。ある程度は真似をする事も出来る。だが、この剣技はアーチャーの積み重ねがあって初めて完成されるものだ。
 力も理解も技術も足りない。
 だが、それでも何もしないよりはマシだと思い、士郎は剣を振るった。

「やめておけ……」

 その声に士郎は動きを止める。
 道場の入り口にアーチャーが立っていた。

「アーチャー」
「貴様が何を考えているか、当ててやろうか?」

 アーチャーの視線には苛立ちが混じっている。
 きっと、己の視線にも同じものが混じっているのだろうと士郎は思った。

「自分が戦う。あの夢を見て尚、私と同じ徹を踏もうとしている。違うか?」
「え?」
 
 アストルフォが戸惑い気にアーチャーと士郎を見る。

「どういう事?」

 首を傾げるアストルフォにアーチャーは言った。

「聖杯戦争では当然ながら敵と戦わなければならない。だが、この男は君に戦いをさせたくないと考えているのさ」
「……俺は別に」

 顔を背ける士郎。

「あー、そっか! だから、いきなり道場で素振りを始めたんだね!」
「……俺は」
「もう! もう、もう、もう!」

 いきなり、アストルフォが士郎に抱きついた。
 目を丸くする士郎とアーチャー。

「な、なな、なんだ!?」
「ボクを守りたいってわけ?」
「……いや、えっと……その」

 しどろもどろになる士郎にアストルフォは言った。

「このこのー! 可愛いヤツめー!」

 朗らかな笑みを浮かべながら士郎を振り回すアストルフォ。

「お、おい、いいのか? この男は身の程知らずにも程がある事をしようとしているんだぞ。それに、サーヴァントである君にとって、この男の考えは誇りを汚すものなんじゃないのか?」
「え? どうして? ボクを守りたいっていうシロウの気持ちとボクの誇りが汚れる事に何か関係があるの?」

 アーチャーの言葉に不思議そうな顔をするアストルフォ。

「ボクとシロウは|相棒同士《パートナー》さ。互いに背を預け合うのは当然だよ。ボクをシロウが守ってくれるなら、ボクもシロウを守る。それって、凄く素敵な関係だと思わない?」
「し、しかし、サーヴァントを相手にこの男がまともに打ち合えると思うのか?」
「どうかなー。そこはシロウの頑張り次第だと思うよ。でも、まともに打ち合う必要なんて無いさ!」
「なにを言って……」
「シロウの足りない部分はボクが補うんだ! そして、ボクに足りない部分はシロウに補ってもらう! 一人で出来ない事は二人でやればいい。ボクでも解る簡単な話だよ」
「論点がズレている。そもそも、この男は君に戦わせるつもりがない。助け合いなんて殊勝な考えは抱いていない」
「それこそズレてるよ。だって、ボクはボクで勝手にシロウを守るもの」

 話が噛み合っていない。アーチャーは疲れたように溜息を零す。

「この男の考えは君の足を引っ張るだけだぞ」
「誰かを守りたいっていう気持ちが誰かの足を引っ張るなら、ボクはその背中を押すだけさ」

 その言葉に士郎とアーチャーは息を呑んだ。 
 違う。論点はズレてなどいない。話も噛み合っている。
 この英雄は士郎の無謀を肯定している。そして、その手助けをしようとしている。

「馬鹿な……。そこまでする必要があるのか?」

 普通なら止める。もしくは諦めて好きなようにさせる。
 それほど、士郎の考え方は無謀なだけで愚かだ。

「あるに決まってるよ。だって、ボクがそうしたいんだもの」

 アーチャーはもう何も言えなかった。
 
「シロウ。キミがボクを守ろうと立ち上がってくれた事がとても嬉しい。だから、ボクはキミがボクを守る事に力を貸すよ!」
「……アストルフォ」

 手を取り合う主従。その光景をアーチャーは黙って見つめていた。
 
「……おい、未熟者」

 アーチャーは言った。

「貴様は昨日言ったな。《超えてみせる》……、と」
「あ、ああ……」

 それは食事の席での会話。単なる冗談のようなもの。
 
「超えてみせろ」

 アーチャーは言った。

「言っておくが、私の猿真似をしても私を超える事など出来んぞ。所詮、アレもコレもと手を出した挙句、何一つ芯を持てなかった半端者の|業《ワザ》だ」
「で、でも……」

 アーチャーの剣技は衛宮士郎が理想の末に至った一つの極みだ。それ以上のものなど……。

「私の剣技は確かに衛宮士郎にとって最適なものだ。だが、最強ではない」
「最強ではない……?」
「そもそも、私の技術は手数で敵を仕留める為のもの。今の貴様では精々一つの技術を身につける事が出来るかどうかだ。ならば、一つの最強を見つけてみろ」
「……けど」

 それが容易な事では無い事を士郎も……無論、アーチャーも理解している。
 そもそも、彼には才能と呼べるものがない。才能が無いから手数を増やし、工夫するしかなかった。

「けど、これが|衛宮士郎《おれ》の限界なんだろ?」

 手元の干将莫邪を見つめ、士郎はつぶやく。
 人生を費やして得たもの。それ以上のものに手を伸ばす事など出来る筈がない。

「限界なんてないよ」

 それはアストルフォの言葉だった。

「え?」

 戸惑う士郎に彼女は言った。

「ボク達人間はどこまでだって行けるんだ! 限界なんてどこにも無いよ! ねえ、忘れちゃった? 昨日、ボク達は限界を超えたんだよ! 雲の上のそのまた上、人が決して立ち入る事の出来ない世界に二人で行ったじゃない!」
「それはライダーが連れて行ってくれたからだろ……?」
「なら、一緒に限界を越えようよ!」
「一緒に……」
「言ったでしょ? 一人でダメでも、二人でなら出来るって! キミにはボクがいるんだよ! だから、出来ない事なんて何もない! 限界なんて言って、諦める必要はないんだよ!」

 諦める。そうか、限界っていう都合のいい言葉を使って、諦めようとしていたのか、俺は。
 立ち止まらない。諦めない。歩み続ける。そう決めていた筈なのに……。

「俺にとっての最強か……」
「……私の過去を見た筈だ。それをお前の中の|始点《ゼロ》にしろ。そこからどう限界を越えていくか、二人で相談でもするんだな」
「簡単に言いやがって……」

 言いたい事だけ言って立ち去るアーチャーに文句を言いながら、士郎はアストルフォを見つめた。

「アストルフォ」
「なーに?」
「……ありがとう。これからもよろしくな」
「うん! もちろん!」

 |己の限界《アーチャー》を超える。それは容易い事じゃない。
 だけど、一度己に絶望した筈の彼が己を超えてみせろと言った。その意味を士郎は噛み締めた。