第一話『英霊召喚①』

「聖杯戦争が始まる」

 抵抗する気なんて無いのに、私の両腕両脚を無骨な鉄の枷で拘束しながら、男は言った。今も蟲は私の体を絶え間なく出入りしている。蟲自体が粘液を出しているから痛みは無い。むしろ、頭の奥がジンとするくらい心地良い快楽が上ってくる。話の間くらい、この蟲達を大人しくさせて欲しい。大事な話なのに、頭の働きが鈍くなってしまう。
 聖杯戦争……か。懐かしい言葉。私の全てが終わり、全てが始まった闘争。
 十年前の事を振り返ると、嘗ての一時一時が鮮明に脳裏に浮かぶ。私が聖杯戦争に参加したのは一人の殺人鬼との遭遇が切欠だった。殺人鬼は私の友達を一家諸共に惨殺し、サーヴァントの召喚を行った。荒れ狂う暴虐の嵐の中、私は生きる為に殺人鬼の真似をして、英霊召喚を行った。
 現れたのは『|弓の英霊《アーチャー》』。その真名は、衛宮士郎。嘗て、正義を夢見た少年が理想を叶えた到達点。彼と駆け抜けた日々は決して忘れない。
 一つの『奇跡』を奪い合う闘争。七人の魔術師が七人の英霊を呼び出し殺し合う聖杯戦争。数奇な運命の果てに勝利を手にした。だけど、私は多くを失った。父も母も妹も兄弟子も相棒も友達も皆死んだ。家や自由、自分の名前すら奪われた。
 それでも、残ったものはある。私を最期の瞬間まで慕い続けてくれた一人の暗殺者の思いがある。私に『生きろ』と願い、別れた相棒の笑顔がある。
 だから、私は今尚生きている。これからも、生き続ける。

第一話『英霊召喚①』

 暗くてジメジメとした地下の汚らわしい空間に閉じ込められ、七歳という第二次性徴すら始まっていない頃からペニスを模した造形の蟲に全身を嬲られる日々を送り、女としての快楽と苦痛を骨の髄まで教え込まれた。閉じ込めた男達の目的は分かっている。私という胎盤に間桐の子を孕ませる為。衰退した血に優秀な血を混ぜる事で間桐という没落した魔術の家門を再起させようという魂胆。私には魔術師の名家である遠坂の血と特異な遺伝特性を持つ禅城の血が流れている。彼らにとって、私はまさに金の卵を産むニワトリというわけ。
 この十年の間に私の体を――私自身でさえ、見た事も触った事も無かった場所を――彼らは無遠慮に弄りつくした。何をすれば私が快感を得るのか、どうすれば、私が苦痛を感じるのか、彼らには手に取るように分かる。けど、別にその事で彼らを恨むつもりは無い。魔術師というのは人の倫理から外れた存在だ。それが魔術の探求に必要な事なら、拷問や人喰いでさえ手段の一つとして認められる。蟲に犯される程度なら、魔術師にとって大した問題じゃない。それで、少しでも根源に近づけるというなら、むしろ大歓迎するのが魔術師という存在。
 私も魔術師だ。十年前の闘争とそれからの十年に及ぶ拷問の日々によって、下水の底に溜まる汚泥の如き魔術に対する憎悪を積み重ねながら尚、私は魔術師として今に至る。矛盾を抱きつつも、私は魔術師としての才能を開花させた。私を拷問した男達が想像もしなかった事態。ただの拷問。教育などでは無く、ただ作り変える為の作業。それを見続け、聞き続け、感じ続けた果てに私は間桐の魔術を理解した。だけど、それで何かしようなどとは思わなかった。やりようによっては、私をここに閉じ込めた男達を殺す事も出来るし、苦しめる事も出来る。でも、そんな事をする理由が無い。だって、私は彼らを恨んでいない。むしろ、感謝しているくらいだ。
 魔術という物の本質を骨の髄まで教え込んでくれたおかげで、私は父や妹を理解出来るようになった。だから、私の憎悪の矛先は魔術そのモノに向いている。魔術など無ければ、私を犯す彼らも別の人生を歩んでいたかもしれない。そう思うと、憐憫すら感じる。胎盤にしたいというなら、なってやってもいいとすら思っている。今更、女としての幸せなんて望んでいないし、無駄に死ぬのは癪だ。だから、少しでも恩返しをしてから死にたい。
 そう思っていた。目の前の男――――間桐鶴野が聖杯戦争の再開を口にするまでは……。

「そう、聖杯戦争が始まるんだ。まだ、続いてるんだ……」

 十年前にアーチャーが終わらせた筈の聖杯戦争。今でも、あの激動の日々の記憶は色褪せる事無く覚えている。
 もう、二度と起きないと思っていた。だって、最終決戦の場には衛宮切嗣が居たから。
 アーチャー。衛宮士郎の義理の父親にして、彼に正義の味方という在り方を教えた人。彼が聖杯をとっくに解体していると思っていた。彼は一体、この十年間、何をしていたんだろ。

「お前に令呪が宿る可能性が高い。だから、お前にはサーヴァントを召喚してもらう」

 随分と信用されたものだ。それとも、私を支配出来ていると勘違いしているのかな。両親や妹、友人の非業の死を経験し、人間の血肉を文字通り喰らい、幼い頃から拷問を受け続け、もはや、恐怖も苦痛も私を縛る事は出来ない。その事を彼らは分かっていないのかもしれない。
 好都合ね。彼らが私を分別を弁えた良い子――――良い奴隷と思ってくれているなら、それを利用しない手は無い。

「召喚した英霊に対して、直ぐに令呪を使ってもらう。まず、我々に一切の危害を加えない事。次に、主替えに賛同する事。この二つを命じろ」

 主替えに関しては理解出来る。さすがに、私に英霊という兵器を持たせておく事を危険視しているのだろう。
 
「三つしかない令呪をいきなり二つも使うのですか?」

 従順な奴隷に相応しい、おどおどとした振る舞いを見せながら問い掛けた。
 いくら、安全性を優先したいからと言って、聖杯戦争の切り札とも言える令呪をいきなり二つも消費するなんて、軽率とすら思える。

「問題無い。策を講じる」

 考えがあるって事ね。令呪のシステムを考案したのは元々間桐だし、反則技の一つや二つ、持ってるのかもしれない。
 これ以上の口出しは反抗的態度と取られかねないから黙る事にする。お仕置きなんて、別にどうって事無いんだけど、少し考えをまとめたい。

「お前は召喚の呪文を暗唱出来るようにしておけ」
「わかりました」

 用件が終わると、鶴野は地下室から出て行った。枷が外されたから、私も部屋に戻る事にした。最初の頃は二十四時間、蟲のプールで拷問漬けだったけど、今ではそれなりに自由行動を許してもらえるようになった。学校にも通っている。監視用の蟲を体内に宿した状態が条件だけど。
 軽くシャワーを浴びて、体を綺麗にした後、自分の部屋に戻る途中で嬉しい顔と出会った。間桐慎二。鶴野の息子にして、私の義理の兄。そう言えば、鶴野は聖杯戦争の事を話すだけで、私に手を出さなかったから、精液を貰っていない。私の生来の魔力だけでもそれなりに体内の蟲を養えはするんだけど、適度に精液を接取した方が健康的で居られる。鶴野はもう歳だから、あんまり出ないし、街をふらついて、適当な男を見繕うのは面倒だし、噂が流れて、学校生活に支障を来たすのも困る。その点、慎二は若くて性欲旺盛。しかも、身内で分別もちゃんと弁えているから好都合。

「こんばんは、お兄様」
「……またか」
 
 それなりに美人に育ったと自負している身としては、そんなしかめっ面を浮かべないで欲しい。

「蟲が暴れるんです。お願いします」

 哀しそうな顔を作ると、慎二はアッサリと態度を豹変させる。心配そうに私の顔を見つめ、罪悪感に塗れた表情で頷く。
 本当に素直で良い子。部屋に連れ込んで、慎二から精液を貰うと、体の疼きが完璧に収まった。慎二が私や地下の秘密を知って以来、私は丁寧に彼にセックスを教え込んだ。鶴野達が私にしたように、私は慎二を玩具にしている。年頃になったからか、少し誘うのを工夫する必要が出て来たけど、理由さえ与えてあげればいい。
 あなたは悪くない。そう、思わせてあげる事が肝心。部屋でたっぷりと彼から精液を貰い、今後の事について、想いを馳せた。

 三日後、私の腕に真紅の紋様が浮かび上がった。令呪が宿った事を頭首に報告する為に私は地下へと通じる長い階段を降りている。
 足元に這い寄って来る蟲――――刻印虫と呼ばれる淫虫を無視して空間の一角に足を向ける。報告って言っても、もう相手には全て知られてしまっているから、これはただの確認作業。私の体の中には頭首が監視用に入れた刻印虫が居るから、私が何を喋っても、何を聞いても、何処に行っても、何をしても、全て頭首に知られてしまう。トイレやお風呂も例外では無く、当初は反抗心を徹底的に抑えつける為に排泄まで完全に管理されていたっけ。
 死にたいと思った事も一度や二度じゃなかった。それでも、生にしがみ付いていたのは、私の胸にいつも彼との『何があっても生き続ける』という約束があったから。どんなに辛くても、苦しくても、生き続ける。その約束を反故してしまったら、今度こそ遠坂凛として築いた絆が全て無くなってしまう気がして、必死に守ってきた。まあ、今となっては自殺願望なんて殆ど持ち合わせて無いんだけどね。
 頭首と鶴野の姿が目に止まり、私は足を止めた。足下には英霊召喚用の魔法陣。奥には台座。台座の上には奇妙な物体が置かれている。

「召喚の呪文は覚えているな?」

 頭首のざらついた声。さっきまで、鶴野の隣に立っていた筈なのに、数百年を生きる妖怪、間桐臓硯はいつの間にか私の背後に居た。

「はい」

 素直に返事を返すと、臓硯は口元を不気味に歪めた。

「分かっておるじゃろうが、反抗的な態度を取るでないぞ? さすれば、手痛い仕置きが待っているでな。儂とて、可愛い孫を痛めつけるのは心が痛む。あまり、負担を掛けんでくれ」

 笑うべき所なのか、少し悩んだ。

「さて、これが何か分かるか?」

 臓硯はいつの間にか台座の傍に移動していた。

「これは世界で初めて脱皮した蛇の抜け殻の化石じゃよ」

 英霊召喚用の触媒。私は少し安心した。触媒無しで英霊召喚を行った場合、私は高確率で【とある英霊】を呼び出してしまう。あまり、今の私を彼に見られたくない。私は自身が他人の血肉を貪り、性の快楽に溺れるという、女として最悪な部類に入る事を自覚している。歴史上に名を馳せる悪女、エリザベート・バートリーにも匹敵するであろう、自身の悪性を自認している。
 幼い少女に拷問器具を使い、その苦痛に歪む表情を愉しみ、殺害した後はその血を浴び、性器を取り出して性的快楽に耽る異常者。私は彼女を笑えない。若い男女を刻印虫で拷問し、その惨状を前にして同じ蟲が与える性快楽に耽り、死亡した男女の肉を貪る。
 触媒無しでの召喚をした場合、私はどちらを呼び出す事になるんだろう。正義の味方と悪の権化。どちらを召喚しても不思議じゃない。むしろ、今の私が正義の味方を呼び出す事が出来るのだろうか……。

「お前にはこの聖遺物を憑代にサーヴァントを召喚してもらう。この聖遺物はお前の父が前回の聖杯戦争に用いる為に準備しておった、考えうる限り最強の英霊を召喚する為のものだ」
「お父様が?」
「ああ、遠坂の屋敷を整理しておった時に見つけたものだ」

 私が【間桐桜】として間桐の家に連れて来られた時点で遠坂の屋敷はその持ち主を失った。その空き屋敷となった遠坂邸を目の前の老人は見事な手腕を持って、唯一の生者である私――――つまり、間桐桜に継承させた。そして、じっくりと時間を掛け、遠坂の家の秘奥を悉く暴き、私ですら知らなかった遠坂の秘儀を間桐の家の物としてしまった。
 この聖遺物もその内の一つなのだろう。私がアーチャーを召喚した為に使われる事の無いまま、遠坂邸に残されたソレを十年の歳月の後に私が使う事になるとは、何て皮肉な話だろう。

「さあ、詠唱を始めるが良い」

  臓硯の言葉に私はゆっくりと口を開いた。

「閉じよ――――」

 循環する魔力に体内の刻印虫が暴れ始める。構わない。魔力を繰る時の痛みと蟲がざわめく痛みは似たようなものだ。臓硯が敢えて私に苦痛を与えたい時に蟲共が私に与える痛みとは比べるのも馬鹿らしい些細なもの。
 そう、自分に言い聞かせながら、呪文を紡ぎ続ける。

「――――告げる。汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」

 嘗て唱えた呪文を十年の時を経て再び口にする。

「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者――――」

 あの時との違いが一つだけある。あの時、私はバーサーカーのマスターの詠唱をそのまま繰り返した。先にバーサーカーの席が埋まっていたからいいものの、もしもまかり間違ってバーサーカーなどを召喚したら、私は今頃声無き死者となって居た事だろう。
 私はあの時に唱えた一節を無視し、呪文の続きを唱えた。

「汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ」

 途端、暗闇に覆われた蟲蔵が眩い光に包まれた。まるで燦々と降り注ぐ太陽の光のようにどこか暖かく、だけど、直視するにはあまりにも攻撃的な輝き。思わず瞼を閉じた。

「桜、やれ!」

 鶴野の声が地下室に響き渡った。その直後、鼓膜を揺さぶる衝撃が奔った。何が起きたのか確認しようにも目が眩んだままで、何も見えない。

「無礼者め」

 冷ややかな声。聞き覚えの無い声。
 誰だろう。正体を見極めようと、瞼を薄く開く。すると、突然頭が締め付けられるように痛んだ。
 否、『ように』ではない。実際に締め付けられているのだ。何者かの掌によって目を覆われ、その指によって頭を締め付けられている。
 
「|我《オレ》の眠りを妨げるとは、凡夫の身でありながら恐れを知らぬ女よ」

 あまりにも尊大かつ傲慢な声。
 あらゆる身分、あらゆる性格、あらゆる立場がその声の前では無力。ただ、一様に頭を垂れずには居られない。
 誰かに服従する。それは屈辱的な行為だ。けれど、この声の存在に対しては別。服従する事が何よりも素晴らしい誉れとなる。
 
「だが、不敬が過ぎたな」

 万力のように徐々に指に力が篭められていく。このままでは殺される。何の意味も無く、暗い地の底で、頭を砕かれ殺される。
 そんなのは嫌だ。
 無意味に死ぬわけにはいかない。死ぬにしても、何か意味を残してからでないと死ねない。
 アーチャーが『生きてくれ』と言った。でも、人間はいつか死ぬ生き物だ。だからせめて、私の名だけは生き続けるようにしたい。それが例え、間桐の胎盤としてであろうと構わない。少なくとも、間桐慎二の配偶者として、間桐の後継者の母体として、名前が残るなら、それで構わない。今は間桐桜という名前だけど、慎二は私の真名を知っている。だから、きっと彼が私の名前を伝え続けてくれる筈。
 けれど、このまま何も為せずに死ぬのだけは嫌だ。これでは名前すら残らない。ただの無様な死体しか残らない。

「貴様ら俗人が我を見る事は許さん。語る事も、請う事も、肩を並べる事も許さん。我の許可を得ずに我を見ようとした不敬は死をもって償うが良い」

 冗談じゃない。ただ、見ようとしただけで殺されるなんてふざけている。
 私はこんな所で死ねない。漸く、見つけたのだから。
 魔術に対する復讐。根源へと至る事すら可能な聖杯ならば、魔術そのものを消し去る事も出来るかもしれない。
 聖杯は穢れている。だから、その願いがどう叶えられるかなんて分からない。だけど、その為なら……。
 私は聖杯が欲しい。だから、こんな所で死ぬわけにはいかない。

「わた、し……ねない」
「ん?」

 指の力が微かに弱まった気がした。
 気のせいかもしれない。けれど、痛みによって乱れた思考が一時だけ回復した。
 
「わた、しを―――認めろ!!」

 刻まれたばかりの令呪から膨大な魔力が溢れ出す。
 否――――、令呪からだけでは無い。まるで、令呪のような膨大な魔力が体内から溢れ出す。

「これは……」

 声に驚きの色が混じる。指の力が抜け、解放された視界に映り込んだのは黄金の鎧を纏う英霊だった。
 
「三つの令呪以外にも隠し持っていたか……。しかし、思い切ったな、雑種よ。切り札であっただろう『|ソ《・》|レ《・》』を全て使い切るとはな。計、七つ分の令呪とは」

 黄金の英霊は静かに言った。

「だが、七つの令呪と言えど、我を染めるには足らぬ」

 令呪は一つ使うだけで奇跡を起こす。空間を跳躍し、瀕死の状態から活路を見出す手助けをし、サーヴァントに限界以上の力を発揮させる。
 それを七つ。私自身、どこに四つ分の令呪があったのかは知らない。恐らく、臓硯の手によるものだろう。それを私は無意識に使い尽くしてしまったらしい。
 それでも尚、目の前の英霊を縛る鎖にはならなかった。

「……が、いいだろう」

 黄金の英霊は言った。

「雑種よ。我に己を認めさせたいという貴様の欲望、それだけは認めてやろう」
「……え?」
「愚鈍な反応を返すな、雑種。仮にも、我のマスターを名乗るからには、常に知恵の限りを尽くせ」
「じゃあ……」
「我を見る事を許そう。我と語る事を許そう。我の寛大さに感謝するが良い」

 暗闇の中にあって尚、目が眩みそうになる輝き。
 黄金の英霊は静かに私を見下した。

「顔は悪くない。だが、次から我の視界に入る時は常に身を清め、一級品の装束に身を包め。まあ、内側を清める事は難しいだろう。我が清めてやる」

 そう言って、黄金の英霊はどこからか杖を取り出した。
 途端、体内の蟲が騒ぎ始め、全身をこれまで味わった事の無い程の痛みが奔った。

「ほう、己が運命を悟ったか。だが、無駄な事だ」

 瞬間、私は炎に包まれた。比喩では無く、赤々と燃える炎に私は焼かれている。
 だと言うのに、痛みを全く感じない。燃えているのは私の体内に巣食う蟲共だ。

「これを飲め」

 炎が収まると、黄金の英霊は美しい装飾の杯に緑の液体を注いだ。
 飲めと言われても、私はそれどころじゃなかった。全身の蟲が焼かれ、私の体は隙間だらけになってしまった。
 体内から突然一部分の肉が消え去ったらどうなるだろう。答えは簡単。痛いどころの話じゃない。それが全身に渡っているのだ。
 私はいつの間にか地面に倒れ伏し、痙攣を起こしていた。すると、黄金の英霊は私の体を蹴って転がし、仰向けにした。生きているのか、死んでいるのか、それすら曖昧な状態に陥っている私の口に黄金の英霊は杯から緑の液体を注いでいく。
 すると、突然痛みがスッと引いた。

「肉体の損傷箇所は治ったであろう。いつまでも王の御前で無様を晒すな。早々に立ち上がれ」

 その言葉に私は慌てて立ち上がった。痛みは完全に消えていた。体内に宿っていた筈の蟲が一匹残らず消えている。まるで、初めから存在していなかったかのように……。

「これは……」
「体内は清めた。後は雑種なりに努力し着飾るがよい」
「えっと、あの……」
「愚鈍な反応を返すなと言った筈だ。我に同じ言葉を繰り返させるな、雑種」

 私は慌てて口を閉ざした。とにかく、一度頭を整理させる必要がある。
 今の混乱し切った頭では何時目の前の英霊の怒りを買うか分からない。

「まあ、我に令呪を拝した以上は貴様は我のマスターだ。サーヴァントとして、契約者の名前くらいは覚えておいてやろう。従うか否かは貴様次第だがな」
「……間桐桜」

 慎重に名を告げると、直後、恐ろしいほどの殺気が向けられた。

「我に虚言を弄するとは、貴様は我の寛容を甘く見ているらしいな」
「きょ、虚言なんかじゃ……」
「それが貴様の真名ではあるまい。今一度、機会をやろう。これが最後だ。名を名乗れ」

 私は必死に気を鎮めた。間桐桜という名前は私がこの家に連れてこられた時に付けられた名だ。嘗て、妹であった少女の名前。
 けれど、それは確かに私の真名じゃない。
 私の真名と言えば、それは――――、

「遠坂凛」

 それ以外にあり得ない。
 今度は殺気を向けられずに済んだ。

「最初からそう名乗れば良いものを、まったく、巡りの悪い娘だ。遠坂凛よ、我の名は分かっていような」

 もしも、分かっていないなどと答えれば、その瞬間に私の命は終わるだろう。
 すでに、目の前の英霊はその寛容さの全てを使い果たしている。
 だから、私は推理する。目の前の英霊の正体が何者なのかを推理する。『世界で初めて脱皮した蛇の抜け殻の化石』によって召喚される、父が選んだ史上最強の英霊。
 私は推理の答えを迷わず口にした。

「古代ウルクを統治した英雄王、ギルガメッシュ」
「分からないなどと返せば、今度こそ首を切り落としてやろうと思ったが、命拾いしたな、小娘」

 そう言うと、ギルガメッシュは私に背を向けた。

「精々、我を興じさせて見せよ。戦いの時は呼べ。退屈しのぎに付き合ってやらぬでも無い」

 そう言うと、ギルガメッシュは私に興味を無くしたかのように光の粒子となって消えた。
 私はしばらくその場に立ち竦むと、意を決して歩き出した。すると、背後で鶴野が起き上がった。全身を様々な刀剣に突き刺された状態のまま。

「よもや、蟲共を一匹残らず焼かれるとはな」

 その声に漸く私は地下で蠢いていた筈の蟲が一匹残らず灰になっている事に気が付いた。
 どうやら、臓硯は唯一見逃された鶴野の死体に逃げ込んでいたらしい。

「令呪をもってすら御せぬとは……。まあ良い。桜よ、今一度この蟲を受け入れよ。今度は――――」

 臓硯の言葉は続かなかった。
 臓硯が操る鶴野の死体が炎に包まれ灰となった。

「他者の死体に身を隠して尚生き延びようとする、その生き汚さに免じ、見逃してやろうと思ったのだが……」

 気が付くと、ギルガメッシュが真横に立っていた。

「我が一度この手で清めた物を再び穢すというならば話は別だ。その死を持って、己が愚行を悔いるが良い」

 それだけを言うと、再びギルガメッシュは身を翻した。

「ああ、一つ言い忘れていた」
「え?」

 ギルガメッシュは立ち止まると言った。

「これはあくまで貴様の戦いだ。我はただ、貴様の道化振りを楽しむのみよ。俺と貴様はあくまで力を貸しているだけで対等では無い。その事を努々忘れるな」

 見る者全てを凍てつかせる紅の瞳に私はただ頷くばかりだった。
 絶対者は再び光となって消え、私は今度こそ歩き出した。
 聖杯を手に入れ、己の願いを叶える為に……。

第二話「集うマスター達」

 まだ太陽が昇ったばかりの早朝、一人の若者が買い物客で賑わうマルシェを歩いていた。
 フラット=エスカルドスは買ったばかりのリンゴに噛り付き、往来する観光客や地元民の合間を抜けて海岸へと出た。
 ここは、地中海が広がるコート・ダジュールの中心都市・ニース。
 風光明媚なこの都市は空港がある事もあって、海外からの観光客も多い。
 紺碧の海をバックに記念写真を撮影している東洋人達のグループや海岸に裸で寝そべっているイタリア人を尻目にフラットは近くのベンチに腰掛けると、肩に掛けていた鞄から一冊の古い本を取り出した。
 ペラペラとページを捲り、時折何かを呟いたかと思うと、手帳にメモを書いている。
 本を読み終え、ページを閉じると、フラットは少し離れた所で写真撮影をしている男女に声を掛けた。

「ねえねえ、俺が撮ってあげようか?」

 フラットが気さくに声を掛けると、男女はギョッとした表情を浮かべた。
 フラットは気にした風も無く笑顔を浮かべると、ベンチから立ち上がった。

「俺が撮ってあげるって言ったんだ」

 フラットが言うと、男女はさっきとは少し違った驚き方をした。
 どう見ても西洋人にしか見えない若者の口から流暢な母国語が飛び出したからだ。

「あれ? 日本人だよね? おたくら。あれれ?」

 声だけを聞けば日本人が話しているのではないかと思うほど流暢に日本語を操るフラットに日本人の男女は顔を見合わせた。

「えっと、その……」
「二人っきりでデートかい? なら、一緒に写った方がいいよ。大丈夫だって、ここは国内でも治安が良い場所だ。つまり、俺は泥棒じゃないって事。お分かり?」

 フラットが言うと、男の方が恐る恐るといった様子でカメラを差し出して来た。

「えっと、じゃあ……お願いします」
「任せておいてよ。じゃあ、そこに並んで」

 フラットは男女の写真を数枚撮ると、カメラを男の方に返しながら話しかけた。

「俺、今度日本に行くつもりなんだ」
「そうなんですか?」

 男はフラットがカメラを素直に返した事で警戒心を解いたらしく、自然とフラットの言葉に受け答えをした。

「うん。冬木って所。知ってる?」
「ああ、いえ、知りません。お仕事ですか?」
「まあ、そんな感じかな。友達を作りにちょっとね」
「業務提携ですか? お一人で、ですか? お若いのに凄いですね」
「業務……、まあ、そういう事になるかな」
「頑張って下さい」
「うん。じゃ、俺はこの辺で! ここはいい所だから、楽しんでいってね。じゃ!」

 日本人の男女に別れを告げると、フラットはその足で遠目に見える空港へと向かった。 

第二話「集うマスター達」

 三日後の夕方、慣れない異国での交通手段に戸惑いながら、フラットは日本の関西地方にある冬木の地に足を踏み入れた。

「ン、ン――――!」

 恍惚した表情を浮かべながら、フラットは自分の手の甲を見つめている。彼の視線の先には火傷の痕の様な真紅の模様が浮かんでいる。
 うっとりとした様にため息を吐く彼が立っているのは冬木の駅前広場だ。周囲の人々は奇異な目で見つめるか、あるいは関わりを持たない様にわざと視線を外して通り過ぎていくかの二通りだ。

「ヘイヘイ!」

 フラットは偶然横を通り過ぎようとしていた学校帰りらしい高校生の少年を捕まえると心底嬉しそうに自分の手の甲を見せ付けた。

「どうだい、コレ! カッコいいでしょう?」

 突然、外国人に肩を組まれて変な刺青らしきものを見せ付けられた少年はあわあわと周囲に助けを求めるが、誰一人として助けに入ろうと言う勇者は居なかった。

「えっと、それって……その、刺青ですか?」

 少年はビクビクした様子で尋ねる。海外ならばどうかは知らないが、基本的に日本で刺青を入れる人間というのはかなり限られている。裏社会に身を置く危険人物か、あるいはそれに憧れる馬鹿だ。
 ここで気をつけなければいけないのは、例え後者の馬鹿であろうと、平々凡々な一般人にとっては脅威だという事だ。むしろ、暴力団やカラーギャング、暴走族といった少年がパッと頭に閃く悪党よりもずっと身近に居て、ずっと加減を知らない。暴力に憧れてはいても、暴力の加減を知らない人間はどこまでやったら人間が壊れるのかなんて御構い無しだ。
 少年の通う高校でつい最近、悪党を気取る三年生が二年生の男子生徒に大怪我を負わせた。二年生の男子生徒は事件から半年経った今でも病院で暮らしている。
 少年の目から見て、目の前のフラットは後者に思えた。純粋な悪党と言うにはあまりにも無邪気で、爽やかな印象があるからだ。
 だが、その印象も彼が見せびらかす“悪の刻印”によって台無しになっている。

「さって、大物を釣り上げに行きますかね! じゃ!」

 お金を渡せば許しくれるかも、と少年が財布の中に入っているお札の枚数を思い出そうとしていると、拍子抜けする程あっさりとフラットは少年を解放して去って行った。

「な、なんだったんだ……一体?」

 少年の疑問に応えられる者は広場には一人も居なかった。
 広場には……。

 陽が沈んだ頃、フラットは冬木市を一望出来る高台にある工場跡に来ていた。

「うーん、ここなら一晩くらいなら……」

 崩れた天井や蔦だらけの壁を見る限り、随分前から放置されているらしい。地面や壁には地元の不良が描いたらしい奇天烈なアートが所狭しにあって、どうにも落ち着かない。
 フラットは思わず溜息を零した。

「失敗したなー」
「どうかしたのですか、少年?」

 フラットが地面に座り込みながら項垂れていると、いつの間にか目の前に赤毛の女性が立っていた。
 ハッとするほど美人で、思わず見惚れていると、女性は「ん?」と首を傾げた。

「えっと、実は、思いつきで日本に来たのは良いんですけど、宿を予約するのを忘れてまして……」
「君、少し抜けてるって言われない?」

 クスリと笑う女性にフラットは恥ずかしそうに「時々……」と呟いた。

「言われているなら、直さないといけないな」

 じゃないと……、と女性はフラットの手を取った。
 そして、ゾッとする程綺麗な笑みを浮かべて言った。

「命に関わりますよ」
「そんな、大袈裟な……」

 思わず身を引くフラットを逃がさないように女性はフラットの手を恐ろしいほどの力で引っ張った。
 そして、

「君は聖杯戦争のマスターか?」

 と、分かりきった事を尋ねた。

「えっと、その予定……ですけど……、もしかし……なくても、お姉さんも?」

 引き攣った笑みを浮かべながら尋ねるフラットに女性はニコリともせずに「そうですか」と呟くと、同時にフラットの腹部に拳を突き刺した。
 まるで爆発したかのような衝撃を受け、少年の体は木の葉のように宙を舞った。工場の壁に激突すると、壁が崩れ去り、壁の残骸ごと地面に落下した。。
 内臓が一撃で破裂し、肋骨は悉く粉砕した。
 全身がバラバラになったかの様な激しい痛みに苦悶の声を漏らすフラットの視線の先で女性が感心したような表情を浮かべているのが見えた。

「今の一撃に耐えるとは、さすがは聖杯戦争のマスターに選ばれただけの事はありますね」
「だな。俺からも褒めてやるぜ、坊主」

 そんな声が直ぐ間近から聞こえた。
 明滅する意識の中で首を動かすと、そこには青い髪の男が居た。

「ま、街中で令呪を堂々と曝してた自分の間抜けさを恨むんだな」

 そう言って、男はどこからか取り出した真紅の槍を振り上げた。
 それでようやく理解した。
 ――――ああ、死んじゃうのか、俺。
 聖杯戦争。
 極東の地で五十年周期で行われている聖杯降臨の大儀式について、フラットが知ったのは偶然だった。彼が所属している組織で同じ教授を師事する少女がその戦争に参加するという噂を耳にしたからだ。
 何でも、彼女の家門は件の戦いで当代の頭首を失い、衰退の一途を辿っているらしい。没落一直線の家門の長を務めるのは誰にとっても嫌なものだったらしく、彼女は若くして魔術師の家門の頭首の座を押し付けられたそうだ。
 可哀想だな、と思いながらも、フラットは聖杯戦争というものに興味を持った。そして、聖杯戦争に関する記述に目を通す内、彼の瞳にはみるみる好奇の光が浮かんだ。
 過去の英雄を召喚し、戦うという聖杯戦争。彼が何より惹き付けられたのは、どんな望みも思いのままに叶えられる万能の願望機たる聖杯では無く、魔術師同士の尋常ならざる武勇と知力を競う殺し合いでも無く、英雄を召喚するという聖杯戦争の参加条件そのものだった。

『過去の英雄と会えるなんて、最高にかっこいいじゃん!!』

 それが聖杯戦争への参加を決めると同時に彼が発した言葉である。
 聖杯戦争の事を知って、嘗ての英雄達に会えるなんて凄いと思って楽しみにしていたのに、まだ、全然英雄達に出会っていないのに、こんな所で死んじゃうのか、そう、少年は頭の中で考え、胸の内でソレを拒絶した。

 ――――まだ、死にたくないな。

「あばよ、坊主」

 振り下ろされる真紅の槍に少年は思わず瞼を閉じ、恥も外聞も無く叫んだ。

「誰か、助けてくれ!!」

 その叫びに応える声があった。

「――――わかった」
「これは――――ッ!?」

 驚く声はあの赤い髪の女性のものだった。
 恐る恐る瞼を開くと、フラットは奇跡を目にした。
 フラットがここに来たのはただの偶然だった。ただ、野宿に適していると思って、立ち寄っただけだった。
 着いたのも今さっきの事で、祭壇はおろか、英霊召喚用の魔法陣を描くのもまだだった筈だ。だと言うのに、今、地面で光り輝く文様があった。紛れも無く文献で読んだ英霊召喚用の魔法陣だ。召喚の祝詞を唱えたわけでも無く、魔法陣は既に起動していた。
 十年前、ここで一つの事件があった。一人の女性が一人の殺人鬼の手に掛かり殺された。殺人鬼の名は雨生龍之介。彼が冬木に来て最初に行った殺人の地。彼が刻んだ英霊召喚の陣は十年の時を経て、再び浮かび上がった。

「このタイミングで召喚だと!?」

 真紅の槍の男――――ランサーは悪態を吐きながら槍を振るったが、槍がフラットに届く事は無く、いつの間にかランサーとフラットの間に立ちはだかる金色の槍を構えた真紅の髪の騎士によって防がれた。そして、騎士はフラットの手を取ると、一足飛びで騎士は崩れた天井を抜けて工場の屋上へと舞い上がった。
 騎士によってお姫様抱っこをされた状態でフラットは夜天に浮かぶ月の明かりに照らされた騎士の顔を見て、息を呑んだ。
 その赤い髪の騎士のあまりの美しさに見惚れてしまったのだ。
 騎士はフラットに微笑み掛けると、初めて口を開いた。

「初めまして。君が、ボクのマスター?」

 騎士の問いにフラットが出来たのはただ首を振るだけだった。
 何度も何度も首を縦に振り、己が騎士の主である事を主張した。
 その応えに騎士は満足し、騎士は言った。

「よろしくね、ボクのマスター」
「君が……、俺のサーヴァント……?」

 唖然とした表情を浮かべるフラットに騎士は優雅に頷いて見せると、眼下で睨みを利かせる槍使いの男を睥睨した。

「やあ、ボクのマスターがお世話になったみたいだね」

 鼻にかかった甘い声には僅かたりとも敵意は無かった。騎士の言葉はただの確認作業であり、これから行われる宴の開幕の挨拶のようなものだった。
 英霊と英霊。時や国を隔て、交わる筈の無かった二人が武を競う。
 聖杯戦争という宴の始まりはこの日、こうして幕が上がったのだ。
 ……とフラットは思ったのだが、数分後、彼が居たのは冬木市の上空を駆ける幻獣の背の上だった。
 いざ、戦いが始まる、と思った時、どこからか現れた鷹の頭を持つ馬のような幻獣に乗せられて、冬木の遥か上空まで連れて来られたのだ。

「どう、マスター? ボクの|この世ならざる幻馬《ヒポグリフ》の乗り心地は?」

 フラットは冬木の遥か上空に連れて来た下手人は顔をフラットに向けて問うてきた。

「最高ッス!!」

 うんうんとフラットの答えに満足そうに微笑むと、騎士は言った。 

「怪我の具合はいいみたいだね。じゃあ、もっとしっかり捕まってておくれ。落ちても助けてあげられるけど、その拍子に傷が開いたら困るからね」

 騎士の言葉にフラットは心中ドキドキしながら頷いた。あの赤い髪の女に殴られて潰れた内臓や砕かれた骨は騎士から手渡された薬によってあっという間に修復されてしまった。
 だから、身体的にはしっかり捕まる事に支障があるわけでは無いのだが、これまで出会って来たどんな女の子よりも可愛い顔をした子の体にしっかり捕まるのは精神的に支障がある。
 だけど、落ちて間抜けをさらすのも恥ずかしいし、とフラットは自分に言い聞かせ、騎士のか細い腰にギュッと腕を回して己の体を確りと固定した。

「結構」

 より密着したせいで、騎士の体から香る甘い香りが鼻腔を擽り、脳みそが溶けてしまいそうになった。この時点で騎士に対するフラットの印象は初見の時とは逆のものになっていた。今のフラットの抱く騎士に対する印象は主を守る戦士ではなく、どちらかと言うと、守られる立場の可愛いお姫様だった。
 艶やかで長い髪は首の辺りから三つ編みで纏められている。首筋は滑らかで長く、肩は外套で隠れているけれど、ひ弱で華奢なイメージだ。
 細かい細工の施されたボディーアーマーが辛うじて戦う者である印象を残しているが、細い手足や磨かれた貝殻のように綺麗な爪はその僅かばかりに残された印象を吹き飛ばしてしまう。

「自己紹介したほうがいいよね? ボクはサーヴァント・ライダー。真名はアストルフォ。君は?」

 片目を閉じ、悪戯っぽい笑みを浮かべて腰に回されたフラットの手を己の両手で包み込むライダーにフラットは顔を真っ赤にしながら答えた。

「俺、フラットって言います。フラット=エスカルドス」
「フラット……。うん、覚えた。よろしくね」

 ライダーはそう言うと、ヒポグリフの手綱を操り、更に高度を上げた。何らかの加護が働いているのか、雲の中に突入し、目の前が真っ白な霧に包み込まれても、不思議と寒さは感じなかった。数分が過ぎると、不意に雲を抜け、目の前に広がる光景は一変した。
 フラットの目に飛び込んで来たのは満天の星空だった。

「ご覧よ、フラット。この空を!」

 ライダーに言われるまでも無く、フラットの瞳は空に釘付けだった。
 これほどまでに空に近づいた事は無く、視界に広がる星の海に圧倒される。

「……綺麗だ」

 フラットとライダーが去った跡、工場跡地ではランサーが苦い顔を浮かべていた。

「まさか、いきなり逃げ出すとはな……」

 頭を掻きながら呆れた様に槍使いの男は言った。

「見事に虚を衝かれましたね。ですが……」

 赤い髪の女性は眉間に皺を寄せながらライダーとそのマスターが走り去った夜空を見つめた。

「よもや、幻想種を呼び出すとは……」
「ま、次に会った時が奴等の最期だ。それより、行こうぜ、バゼット。今日は別にあの小僧を殺す為に出向いたわけじゃないだろ」
「ええ、今回はマスターの一人とそのサーヴァントのクラスが判明しただけで良しとしましょう」

 そう言うと、バゼットは腕時計を確認した。

「あまり遅いと先方に失礼ですね。少し急ぎましょう」
「確か、言峰教会だったか? 目的地は」
「ええ、協会から受けた命を遂行する上で、聖堂教会との悶着は望む所ではありませんから、しっかりと義理は果たさなくては」

 半年前の事だ。彼女、バゼット=フラガ=マクレミッツは魔術協会に召喚された。封印指定と呼ばれる一部の魔術師が暴走し、一般市民に多くの犠牲を出した際、聖堂教会が動き出す前に封印指定を保護する任にあたる“執行者”と呼ばれる役職に就いているバゼットがこの日呼ばれた理由は普段とは一風異なる内容だった。日本の冬木市で行われている第七百二十六号聖杯を巡る闘争を監視し、参加者である魔術師が魔術協会の意に沿わぬ行動を取った場合、即時にコレを処断する。それが此度、バゼットに下された、命令だった。
 監視の理由は十年前に行われた第四次聖杯戦争にある。第三次、第四次における聖杯戦争の監督役を担っていた言峰璃正とその息子の死。加えて、冬木の|管理人《セカンドオーナー》である遠坂家の断絶。本来、聖杯戦争を監視する役目を担っていた彼らの死によって、再び一般にも多くの犠牲者を出した第二次や帝国陸軍、ナチスなどが介入し、混迷を極めた第三次の時の様な事態が起こる事を懸念されたからだ。
 令呪は冬木市に入った時点で手の甲に刻まれ、その日の内にサーヴァントを召喚した。召喚した英霊はバゼットが幼少の頃から憧れを抱くケルト神話の大英雄だった。
 日本ではあまり名を知られていないようだが、発祥地であるドイツではイギリスに於けるブリテン王・アーサー=ペンドラゴンにも劣らぬ知名度を持つ、凡そランサーのクラスとしては最強の英霊だ。
 彼を召喚する為の触媒を探し出すのに半年の準備期間の殆どを費やしてしまったが、苦労の甲斐あって、目論見通りに事は進んだ。

「うちのマスターは義理堅いねえ」

 からかう様に言うランサーを無視してバゼットは冬木大橋へ向かって歩き出した。
 バゼットとランサーが言峰教会に到着したのは約束の刻限を少し過ぎた夜の十時半だった。

「ライダーとの交戦で少し遅れてしまったな……。行きますよ、ランサー」

 バゼットが重い扉を開いて中に踏み込むと、ランサーは霊体化した状態で後に続いた。中は時間が時間なだけに閑散としており、どこか陰鬱な雰囲気が漂っていた。
 身廊を歩いた先では祭壇の前で一人の少女が祈りを捧げていた。まるで、彫像の様に来訪者に気づいた様子も無く一心不乱に祈る姿は宗教にあまり馴染みの無いバゼットから見ても信心深い人物なのだという評価を抱かせた。
 それからかなりの時間が経過した。初めこそ、約束の刻限を破ったこちら側の不備だと祈りの邪魔をする事を躊躇っていたバゼットだったが、いい加減うんざりしてきた。まるで、そういう姿勢で死んでいるかのように少女は微動だにしないまま、既に一時間が経過しているのだ。祈りという行為について知識があるわけでは無いが、こんなにも時間が掛かるものなのだろうか、とバゼットは痺れを切らせて祈りを捧げている少女の肩に触れた。
「あら……」
 
 少女は目を見開いてバゼットを見た。僅かに気づいていてわざと反応しなかったのではないかと疑念を抱いていたのだが、どうやら本当に祈りに集中していただけだったらしい。

「……その、祈りの邪魔をしてしまい、申し訳ありません」
「いえ、此方こそ、客人を待たせてしまい申し訳ありません。無心に祈っていると、つい時間を忘れてしまいまして……」

 申し訳無さそうに頭を下げる少女の顔にはあどけなさが残っていた。

「私は魔術協会より聖杯戦争の監視の任を受けましたバゼット・フラガ・マクレミッツです。この度は約束の刻限を破ってしまい、深くお詫び申し上げます」

 バゼットが頭を下げると、少女は薄く微笑んだ。

「お待ちしておりました」
「貴方が此度の聖杯戦争の監督役ですね?」
「ええ、若輩者の身なれど、どうかお手柔らかにお願いします」
 
 少女の言葉にバゼットは微笑を零した。

「若い内は苦労も勉強ですよ」

 バゼットの言葉に少女も微笑で応えた。
 一泊を置き、二人は互いに背筋を伸ばすと、表情を引き締めた。

「魔術協会所属執行者バゼット・フラガ・マクレミッツ。此度の聖杯戦争にランサーのマスターとして参加を表明します」
「かしこまりました。バゼット・フラガ・マクレミッツ。聖堂教会と監督役カレン・オルテンシアの名に於いて、貴女の聖杯戦争の参加を正式に受諾します」

 たったそれだけだった。表明と受諾。短いやり取りではあったが、これによって、バゼットは正式なマスターとして聖堂教会に認められた事になる。
 用件が済み、教会を後にすると、バゼットの隣でランサーが実体化した。

「わざわざあんな面倒なやり取りは必要だったのか?」
「無論です。後々、聖杯を手に入れた後に教会が難癖を付けてくる可能性は大いにあります。少しでも付け入る隙を与えないようにしなくては……」
「時代は違えど、魔術師や宗教家っつう生き物は面倒な奴らだな」

 ランサーは呆れたように言いながら、再び霊体化して姿を消した。

「……さて、本格的に狩りを始めましょうか」

 バゼットは教会前の坂の上から夜闇に広がる冬木の街並みを一望した。

第三話「英霊召喚②」

 哀しくて、涙が零れた。何が哀しいのか分からない。この胸を引き裂くような深い悲しみの理由が分からない。
 暗闇の中、ぼんやりと浮かぶのは一振りの剣。あまりにも美しく、あまりにも眩く、あまりにも……儚い。
 その剣を手に取れば、この胸を締め付ける哀しみの理由が分かる気がして、手を伸ばした。けれど、届かない。
 一歩前に踏み出して、再び手を伸ばす。やっぱり、届かない。
 
――――どうして!?

 剣は私の手をすり抜け、離れて行く。嫌だ。行っちゃ嫌だ。
 ■■■■は私と一緒に居るんだ。いつまでも、どこまでも、共に歩み続けるんだ。だって、そう約束したんだもの。
 不意に剣の向こうに怪物が現れた。あまりにも巨大で、あまりにも恐ろしい怪物。剣は一直線に怪物へ向かって飛んで行く。

――――ヤメテ!! |ソ《・》|レ《・》を使わないで!!

 涙が止め処なく溢れ出す。私は必死に走った。手を伸ばし、声を張り上げた。

『世話になったな、マスター』

 駄目だ。マスターなんて呼ぶな。いつもみたいに■■■と呼べ。
 早く、その怪物から離れろ。私の事なんてどうでもいい。あんたはあんたの願いを叶えろ。
 
『お前の未来はオレが切り開く。幸せになれよな』

 剣は光を放ち、怪物を呑み込んだ。
 運命が集束し、収束し、終息していく。
 ああ、こんな筈じゃなかった。私はただ、私の愛する人達を守りたかっただけだったのに。一番犠牲にしてはいけない存在を犠牲にしてしまった。
 嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
 もっと、一緒に居たかった。もっと、一緒に話がしたかった。もっと、一緒に笑い合いたかった。
 もう、出来ない。何も出来ない。奪われた。奪った。
 
「……取り戻さなきゃ」

 私はベッドで横になったまま、右手を真っ直ぐ天井に伸ばしていた。
 ふかふかの布団のせいなのか、全身が汗でビッショリだ。
 夢を見ていた気がする。だけど、夢の内容が思い出せない。
 ただ、凄く哀しい気持ちだけが胸に残った。涙が頬を伝い、顎から滴り落ち、パジャマに染みを作る。
 ママが呼びに来るまで、私はジッと天井を見つめたまま涙を流し続けた。

――――なんで、こんなに寂しいんだろう?

 そんな疑問を抱いたまま……。

第三話「英霊召喚②」

「いってきまーす」

 玄関先で手を振るママに大きく手を振り返しながら、私は家を出た。今朝の夢のせいで若干アンニュイ気分のまま、通い慣れた通学路を走っていると、遠目に仲良しのクラスメイトの姿が見えた。
 小学校の頃からの幼馴染の嶽間沢 龍子だ。

「やっほー!」

 声を掛けると、向こうも私に気づいたらしく、立ち止まって手を振りながら「やっほー!」と返した。
 その手には英語の単語帳が握られている。

「タッツンってば、相変わらず熱心だねー。昔は私等の中で一番おバカだったのに……」
「そんなの昔の話だぜ! ま、センターが近いし、最後の悪あがきって感じだけど……。イリヤはいいよなー、帰国子女で英語ペラペラだし」
「へっへー、羨ましいかー?」
「羨ましいぞ、このやろー!」 

 いよいよ高校生活も大詰めに入り、周囲は受験ムード一色。
 勿論、私も例外では無いが成績は学年でも上位をキープしているし、特に英語に関しては小さい頃に海外で暮らしていた経験があるらしく、日本語を操るような感覚で扱える。
 もっとも、海外で暮らしていた頃の記憶は殆ど残っていないのだが、なにしろ小さい頃の事だから仕方が無いと故郷の事を思い出せないのは残念だと思いつつも割り切っている。
 鏡を見る度に自分の銀色の髪と赤い瞳が自分を異国の人間であると自覚させるが、それでも、生まれたドイツよりも育った日本の方が故郷であるという思いが強い。ママは時折故郷の事を懐かしそうに話すが、私にとっては故郷こそが異国だった。
 いっそ、髪だけでも黒く染めてしまおうかと思った事も一度や二度では無い。小さい頃は周囲と違う髪や瞳のせいで虐められた事もあって、アルビノでも無いのに、と忌々しく思ったものだ。
 結局染めなかった理由は髪を染めると言った私に対して両親が見てて哀れになる程落ち込んだからだ。特にママは自分の髪と瞳の色を受け継いだ娘が自分の髪色を嫌がっている事にショックを受けてしばらく口を聞いてくれなくなったし、パパはパパで「イリヤが反抗期になっちゃった……」と盛大に落ち込んで自棄酒を始める始末だ。
 あんな面倒な日々を送るのは二度とごめんだ。幸い、虐めが深刻化する事は無かったしね。
 その理由は今、隣を歩いている龍子をはじめとした小さい頃からの幼馴染が常にイリヤの味方になってくれたおかげだ。
 あてにならない両親と違って、イリヤにとってとても力強い仲間達だ。そんな彼女達とももう直ぐお別れ。これまでは地元の小中高にそのまま進学して来たが、みんなそれぞれやりたい事があってばらばらに地元から去って行ってしまう。
 私自身、両親にはまだ内緒にしているが、地元から遠く離れた都会の大学を受験するつもりだ。
 地元も嫌いなわけではないけれど、やっぱり長く田舎に暮らしていると都会での生活に憧れてしまう。
 ショッピングに行くにも電車で一時間揺られなければいけないのはほとほとうんざりだ。

「なんか、いよいよって感じだね」

 龍子は寂しそうに呟いた。

「だね……。でもさ、別に永遠に会えないわけじゃないよ。また、何度でも皆であつまろ」
「勿論! でも、そう頻繁には集まれないだろうなー」
「……美々は京都、雀花と那奈亀は東京だもんね」
「魔法でも使えたらねー。扉を開けたらどこでもドアーみたいな」
「それは魔法じゃないよー」

 そう、龍子にツッコミを居れながら、私は本当にどこにでも行ける魔法があったらいいのにな、と思った。
 冬の寒気に身を震わせながら、私達は少しだけ距離を縮めながら学校へと向かった。

 放課後、登校の時と同じように龍子と一緒に家に向かって歩いていた。
 皆で図書室に篭って勉強していたせいで空はすっかり暗くなっている。

「陽が落ちるのほんとに早くなったよねー」
「ほんとほんと。ちょっと前ならこの時間でも明るかったのにねー」

 この季節の年中行事のような話題を口にしながら龍子と一緒に人通りの少ない道を歩いていると、十字路に差し掛かった。

「じゃ、また明日!!」
「うん!! まったねー!!」

 そう言って、途中、龍子と別れた。
 そして、帰路の途中、不意に足を止めた。
 否、止めたというより止まったという方が正しいかもしれない。
 突然、全身に鳥肌が立ち、呼吸が出来なくなった。
 まるで、家族で遊園地に行った時に入ったお化け屋敷のような得体の知れない恐怖。
 ただの通学路の筈が、どこからか何かが飛び出してきそうな予感がした。

――――そう言えば、龍子の家に向かう分かれ道はもう少し向こうじゃなかったっけ……。

 しかし、思考はそこで中断させられた。

「ようやく、会えたね」

 いつからそこに居たのか分からない。
 道の先に小柄な少女が立っていた。その少女の容姿に思わず目を瞠った。
 少女の髪の色は雪のように白く、瞳の色は鮮血のように赤い。
 まるで、家の居間に飾ってある小学生の頃の私の写真から飛び出したかのように、その少女は嘗ての己と瓜二つだった。

「……えっと」

 戸惑いながらも声を掛けようとした。
 もしかしたら、親戚の子供なのかもしれない。
 今まで、父方の親戚とも母方の親戚とも会った事は無いけれど、ここまで容姿がそっくりだと無関係の他人とは到底思えない。
 だが、少女は私の言葉を遮る様に言った。

「久しぶり。わたしの事、覚えてる?」
「えっと……、ごめんなさい」

 どうやら、昔会った事があるらしいのだが、生憎、記憶を漁っても少女の事を思い出す事は出来なかった。

「ふーん、覚えてないんだ」

 すると、少女は冷たく私を睨みつけた。

「なら、もういいわ。死になさい」

 直後、大きな衝撃を感じた。
 思わず目を閉じると、今度は爆弾が破裂したかのような巨大な音が鳴り響き、次いで銃声が響いた。
 何事かと目を開けると、目の前にパパの顔があった。

「えっ、なに!?」

 混乱する頭を落ち着ける暇すらない。
 比較的、同世代の中では小柄な方だが、それでも私の体重は成人男性といえども軽々と片腕で持ち上げられるほど軽くはない。
 だというのに、いつもだらしない格好をしてうだつのあがらなそうな顔をしているパパが驚く程速く私を片腕で抱えたまま走り続けている。
 その上、その手には拳銃が握られている。この法治国家である日本において、拳銃の所持が認められているのは警察官くらいのものだ。
 一部に例外はあるだろうが、パパがその例外に属するとは到底思えない。
 混乱は更なる混乱で塗り潰された。
 パパが何に対して銃を発砲しているのかを確認しようと視線を巡らせると、そこに信じられないものがいた。
 化け物。
 そう表現するしかない巨大な怪物が巨大な岩の剣を持って襲い掛かってくるのだ。

「イリヤ」

 縦横無尽に人間業とは思えないスピードで移動しながらパパは言った。

「僕が時間を稼ぐから、その間にこの場から逃げなさい」
「なに言ってるの!?」

 私の叫びを遮るようにパパは銃弾をあろう事か怪物ではなく、あの少女に向けて放った。
 信じられない思いでパパを凝視すると、パパは私をそっと降ろした。

「家に帰ったら、ママと一緒に家を居るんだ。しばらくしたら舞弥という女が迎えに来る。そうしたら、彼女と一緒に直ぐに街を出るんだ」
「街を出るって、何を言ってるの!?」
「いいから、早く言う通りにしなさい!!」

 パパはそう叫ぶと同時に掛け出した。
 銃口は相変わらずあの少女に向けられたまま、何度も火を噴いた。
 その度に怪物が盾になろうと間に割ってはいる。
 パパは少女の周りを駆けながらそんなやり取りを延々と繰り返している。

「早く!!」

 パパの叫びも虚しく、私は一歩たりとも動く事が出来なかった。
 目の前の事態に頭がついていかないのだ。
 さっきまで、友達と受験についてあーだこーだと話していた直後、これほどの非日常的な光景を見せ付けられて、混乱しない人間は居ない。
 だが、その間にも事態は動く。
 怪物は少女を抱き抱えると、その巨体からは想像もし得ない早い動きでパパに迫った。
 その瞬間、私の体は無意識の内に動き出した。気がついた時にはパパと怪物の間に割って入っていた。
 刹那、パパと目が合った。
 パパは目を見開いて私を見つめている。
 時間が酷くゆっくりと流れた。
 パパが何かを叫びながら駆けて来るが、途中で足を滑らせた。

 ――――あれ? この光景……。

 酷い頭痛がした。
 吐き気が込み上げてくる。
 しかし、吐き気が喉元を過ぎる前にあまりにも激しい痛みが全身を襲った。

「あ……れ?」

 地面に倒れこむと、生暖かい水溜りに落ちた。
 それが自分の血で出来たものなのだと自覚したのは意識が途絶えそうになる瞬間だった。
 だが、意識が途絶える寸前に逆に意識が鮮明になった。
 体の中でカチリと何かが開いた気がした――――。

「この魔力は……、駄目だ!! イリヤ!!」

 パパの叫びが聞こえるが、今はそれどころではなかった。
 まるで、壊れた蛇口のように体の奥底から何かが溢れ出してくる。

「なに、この魔力……ッ」

 怪物を操る少女すらも困惑した声を上げている。
 今がチャンスだ。
 今、この瞬間にこの訳の分からない状況を打破しなければいけない。
 そう、思った瞬間、体から溢れ出す力は何かの志向性を伴って動き出した。
 そして――――、

「お前がオレのマスターか?」

 目の前に全身を鋼で包んだ小柄な騎士が立っていた。
 混乱はここに至り極限に達する。いきなり、目の前に甲冑を来た人間が現れるなんて、あまりにも現実離れし過ぎている。
 呆然としたまま凍りつく私を尻目に騎士はパパに視線を投げ掛けた。

「おっさん。マスターの関係者か? それとも……敵か?」

 ただならぬプレッシャー。直接向けられたわけでもないのに、私の体は震えた。
 だと言うのに、パパはまるで柳に風といった感じ。信じられない。あの人は本当にパパなの? もしかしたら、パパの双子のお兄さんなのかもしれない。だって、あのいつもママや私に頭が上がらないヘナチョコ親父なパパがあんなプレッシャーを前に堂々としていられ筈が無い。

「この子の親だ。お前は……セイバーだな?」
「ああ、御名答。んじゃ、守ってやるから、その場を一歩も動くなよ」
「待てッ!」

 ああ、うん。やっぱり、あの人は私のパパらしい。やばい、パパがカッコいいとかマジあり得ない。不死身の男、ジャック・バウアーが乗り移ったみたい。
 あ、ちょっと緊張が解れた。
 頭が冷えて、漸く私の思考回路は回復の兆しを見せ始めた。
 とにかく、パパに説明を求めようと口を開き掛けた瞬間、騎士……セイバーだっけ? が単身で怪物に特攻した。何考えてるの!?
 目を丸くしていると、パパが傍まで駆け寄って来た。

「イリヤ! しっかりするんだ!!」

 パパは私の両肩を掴み、前後に揺らした。ヤメテ、中身出ちゃう。

「とにかく、ここから直ぐに離れるぞ」

 パパが私の手を取った瞬間、怪物と戦っている筈のセイバーの声が響いた。

「待てよ、おっさん」

 振り返ると、セイバーは怪物と斬り結びながら此方を睨み付けていた。
 小柄なセイバーと巨躯の怪物を見比べると、まさに蟻と象って感じ。あの体格差でどうして拮抗していられるのか理解出来ない。物理法則が仕事を完全に放棄している。

「なんだ……、セイバー?」
「オレは動くな、と言ったんだぜ?」
「しかし、お前が足止めをしている内にイリヤを安全な場所に連れて行かなければッ」
「わかってねーなー、おっさん!!」

 混乱のあまり若干錯乱状態の私を尻目にセイバーの恫喝を受けてパパは目を見開いた。
 ああ、これでジャック・バウアー・モードは終了だ。パパは小心者だから、私やママが怒鳴ると直ぐに小さくなって必死に謝り続ける。

「オレはお前にオレの目の届かない所に行くな、と命令したんだ。オレのマスターを勝手に拉致ろうとするんじゃねーよ」
「僕はこの子の親だ!!」
「関係ないねー。親子だろうが、殺しあう奴は居る!! そもそもだ」

 あれ、まだジャック・バウアー・モード続行なんだ……。
 凄くシリアスな場面な筈なのに、普段のパパとの落差があまりにも酷くて若干置いてけぼりを食らってる気がする。
 セイバーは怪物と一端距離を取ると言った。

「オレはお前を信用していない。マスターはどうやら召喚の影響で衰弱しているらしいしな。マスターが自分の口でお前を親で、身内だと宣言するまではそこを一歩も動くんじゃねーぜ」
「……わかった」

 どうやら、セイバーは私とパパの血の繋がりを疑っているらしい。
 無理も無いわね。私とパパの容姿は全く似てないもの。ハッキリ言って、傍目から見たら正に美少女と野獣って感じ。
 初対面の人に親子だと分かって貰えた事は一度として無い。その度に落ち込んで不貞腐れるパパの相手をするのは本当にメンドイ。
 とりあえず、セイバーにキチンと私とパパが親子である事を認めてもらおう。意を決して口を開くと、セイバーは再び怪物と戦い始めた。
 タイミングが外され、私は口を開いたまま動けなくなった。その間、パパは再び銃を少女に向けた。

「すまないな」

 パパは私が止める間もなく引き金を引いた。
 その銃声にセイバーと怪物は一瞬、動きを止めた。
 次の瞬間、私達の目の前で信じられない光景が広がった。

「ふーん。私をイリヤの代わりに生贄にしただけじゃ飽き足らず、今度は私を殺すんだ」

 少女は切嗣の放った銃弾を一振りの短刀で切り裂いていた。まさかの石川五右衛門だ。安堵と共にちょっと感動してしまった。
 銃弾を日本刀で――少女が使ったのは短刀だったけど――切り裂くなんて、ロマンに満ちている。
 感動に瞳を輝かせている私を尻目にパパは戦慄の表情を浮かべていた。
 フリーズしているパパは置いておこう。それより、いい加減何が起きているのかを知りたい。
 私は銀髪美少女な石川五右衛門に手を振って問いかけた。

「えっと、とりあえず貴女は誰なの?」
 
 その我ながら若干間抜けとも思える質問に少女は微笑んだ。

「誰? ああ、そうよね。ただのスケープゴートの事なんて、覚えてる筈が無いわよね」

 まるで、今にも泣き出しそうな笑顔だった。何が彼女の心を傷つけたのか分からない。けど、間違いなく原因は私の言葉にある筈。
 咄嗟に謝ろうとすると、少女は疲れたように肩を落とした。

「私は……」

 その時、少女の瞳に浮かんだ感情を私は理解出来なかった。

「あんた達が前の聖杯戦争に出発する時にアインツベルンに身代わりとして遺したホムンクルスよ」

 どうしよう……。
 ホムンクルスって何?
 少女が遂に告げた己の正体について、私は全く理解出来なかった。家に帰って、ちょっとググって来ていいかな?

第四話「名も無きホムンクルス」

 少女の始まりは死から始まった。欠陥品として廃棄された『|人造人間《ホムンクルス》』。それが彼女だった。処分される日をただじっと待ち続けるだけだった彼女を救ったのは当時、アインツベルンが聖杯戦争の為に外来から招いた魔術師、衛宮切嗣が召喚した|魔術師《キャスター》のサーヴァント、モルガンだった。
 モルガンは他の欠陥品達と共に少女を一級品に仕立て直した。そして、二百を超えるホムンクルス達、一人一人に役割を与えた。少女に与えられた役割は|身代わり《スケープゴート》になる事。
 衛宮切嗣とアイリスフィール・フォン・アインツベルンの間に生まれた一人娘のイリヤスフィール・フォン・アインツベルン。ホムンクルスは彼女と同じ性格、同じ声、同じ顔、同じ体格、同じ挙動、同じ記憶を植えつけられた。イリヤスフィール・フォン・アインツベルンとなり、アインツベルンの目を欺く為に。
 少女は完璧な身代わりになる事を求められた。完璧な身代わりになる事とはつまり、誰にも己が身代わりであると気付かれない事。自分自身すら騙し、己こそが本物なのだと信じ込む事。

第四話「名も無きホムンクルス」

「行って来るよ、イリヤ」

 そう言って、去って行く彼等を|名も無きホムンクルス《イリヤ》は命じられたまま――取り残された娘らしく――寂しそうに瞳を潤ませながら見送った。
 それは決して演技などでは無かった。少女にとって、衛宮切嗣とアイリスフィールは父と母であり、自分は彼らの娘なのだ。

――――置いていかないで。

 少女は願った。

――――無事に帰って来て。
 
 少女は祈った。
 イリヤとして、イリヤらしい思考をして、少女は両親の帰りを待ち続けた。  
 いつか、きっと帰って来てくれる。また、一緒に遊んでくれる。また、一緒に居てくれる。
 少女は孤独に苦しみながら、両親に抱かれながら眠る自分を夢想し、眠りにつく日々を送った。
 イリヤとしての日々は苦痛と孤独に苛まされる毎日だった。
 研究や調整の為に体を弄られ、まるで道具のように扱われる日々を送る内、イリヤとしての人格に綻びが生じ始めた。
 イリヤとしての記憶と死を待つ名も無きホムンクルスとしての記憶が時折混ざり合い、少女は眠る度に悪夢を見た。死が迫る暗い空間の中、指一つ動かせずに横たわっている夢。
 徐々に自分が何者なのか気付き始めた頃、切嗣が聖杯戦争を勝ち残ったにも関わらず、妻を連れて逃げ去ったと知らされた。そして、信じられない事を聞かされた。
 切嗣は妻だけで無く、娘も一緒に連れて逃げた……と。
 |自分《イリヤ》はココに居るのに、父は|娘《イリヤ》を連れて逃げたと言う。疑念は芽吹くと同時にすくすくと成長し、己の正体の理解へと瞬く間に届いた。
 
――――私はイリヤじゃない……。

 そう理解した時、少女の胸を満たしたのは絶望だった。
 自分こそがイリヤだと信じていた。だからこそ、両親が迎えに来てくれる筈だと言う希望を抱く事が出来ていた。
 だけど、もうそんな微かな希望すら抱けない。己はただの身代わりであり、捨て駒だったのだ。捨て駒をわざわざ迎えに来る筈が無い。
 誰も、助けてくれない。
 真実に至った少女を待ち受けるのは慰めの言葉でも、救いの光でも無く、罪の代償。
 切嗣の裏切りの代償を支払わされたのは他ならぬ少女だった。
 その日を超えてから、少女は最低限の自由すら奪われ、完全に人では無くなり、次回の聖杯戦争の聖杯の器となった。
 どんなに苦痛を訴えても、どんなに助けを乞うても|杯《モノ》に同情する者など居ない。本物のイリヤだったならば、あるいは持ち続ける事が出来たのかもしれない――父が救いに来てくれるかもしれないという――希望を抱く事も出来ない。ただ、あの処分の時を待っていた頃と同じように消耗品として消費される日を待つだけの毎日。
 あの頃と違うのは、それが苦痛を伴う事。そして、少女は知恵を持ってしまった事。
 モルガンに与えられた仮初の知恵は時という名の水を吸い込み、大きく育った。廃棄される筈だった名も無きホムンクルスの人格はイリヤの知恵や記憶と混濁し、成長した。それは同時に死の恐怖を知る事だった。
 モルガンに与えられた役割を少女は自分から捨て去った。
 生きたい。自由になりたい。
 少女は願い、アインツベルンの頭首であるアハト翁に己はイリヤでは無いと告白した。けれど、状況が変化する事は無く、今度は少女がイリヤとしてではなく、少女として消費される日を待つ事になった。既に調整は大部分が完了し、モルガンの調整によるスペックの向上も相俟って、アハト翁は次回の聖杯戦争に行方知らずのイリヤでは無く、名も無き少女を使う事にした。
 男と女の愛の結果として産まれたわけでは無く、ただ、役割を果たす為に人工的に創られた|道具《ホムンクルス》にとって、与えられた役割は存在意義にも等しい。にも拘らず……、己の存在意義を否定した結果がソレだった。唯一つ、それまでと違うのは少女にイリヤでは無い新しい名前を与えられた事だ。
 イリヤのクローンという意味でクロエという名を与えられた。

 ある日の事、クロエはゆらゆらと翠色の溶液の中を漂う無数の同胞を前に一言だけ呟いた。

「行って来ます」

 溶液の中でクロエよりも尚、無情にただ消費される刻を待つ彼らに背を向け、彼らと同じ銀の髪を靡かせ、彼らと同じ赤い瞳に確固たる意思を湛え、儀式の間へと向かった。
 儀式の間には既に頭首の姿があった。

「来たか、クロエよ」
「はい」

 頭を下げるクロエをアハト翁ことユーブスタクハイト・フォン・アインツベルンは静かに見つめた。
 クロエが己をイリヤの偽者であると白状した日から、嘗てアインツベルンを裏切り、アイリスフィールと本物のイリヤスフィールを連れて雲隠れした衛宮切嗣の捜索隊を増員した。さすがに、魔術師殺しの悪名を世に轟かせながら、復讐者の手から逃げ続けて来た切嗣の捜索は難航したが、最近になり、漸くその所在を突き止める事に成功した。
 直ぐにでも、裏切りの代償を支払わせるつもりだったが、今、優先すべきは粛清では無く、此度の第五次聖杯戦争において確実に聖杯を獲得する事。その為に切嗣の事は一時保留とした。
 イリヤは確保するつもりだが、此度の聖杯戦争に彼女は必要無い。
 いや、必要無くなった……と言うべきか。
 理由は誰あろう、クロエだ。当初はアハト翁もクロエを彼女の供述が無ければイリヤスフィール本人であると誤認していた程に真に迫っていた。むしろ、存在そのものが奇跡とさえ言えるイリヤスフィールを遥かに凌ぐ性能を有していた。
 クロエを仕立てたキャスターのホムンクルス鋳造技術には、『さすがは魔術師の英霊』と感心すると同時に僅かに屈辱と嫉妬の念を抱いたものだ。
 十年間に及ぶ調整の結果、クロエは本来イリヤスフィールに持たせる筈だった全ての機能を搭載し、尚且つ、自身である程度サーヴァントとも渡り合える戦闘力を持たせる事に成功した。加えて、報告にあったモルガンの宝具をモデルに一つの切り札を用意する事が出来た。
 アハト翁はクロエを冬木の聖杯戦争史上、最強のマスターであると確信している。だが、マスターばかりが優秀であっても聖杯戦争においては心許ない。切り札はあくまで切り札であり、使えば後が無くなる上、その性質上、下手をすれば聖杯を入手する前にクロエが崩壊してしまう可能性もある。
 常勝を期するには、後三つ。無論、その内の一つはサーヴァントである。サーヴァントにはおよそ考え得る限り最強の英霊の聖遺物を用意した。例え、騎士王であっても、彼の英霊を前にすれば手も足も出ないに違いない。
 前回はマスターが戦闘技能に優れるばかりで彼の英霊を使役するには力不足だったが故に別の聖遺物を用意したが、クロエならば問題無く使役出来るだろう。最強のマスターと最強の英霊を用意した。残る二つは確実性を高める為の策だ。
 準備は十全。負ける要素は何一つ無い。

「聖遺物は既に祭壇に用意されている」

 アハト翁の言葉にクロエは祭壇へと視線を向けた。
 そこには岩を削って作った巨大な剣があった。
 人が振るうにはあまりにも大き過ぎるその剣はクロエの身長の軽く三倍はありそうだ。

「これはギリシャにある神殿の柱を削り作り上げたものだ。これを用い、召喚を行うのだ。呪文は分かっているな?」
「はい、お爺様」

 アハト翁がクロエの後ろへ回り込むと、先程まで彼が立っていた場所の背後の床に巨大な陣が描かれていた。
 クロエは陣の前に立つと、全身を走る魔術回路を励起させた。ホムンクルスとは魔術回路を根幹として作られた人造人間だ。故に、普通の魔術師が魔術回路を励起した時のような違和感や苦痛は無く、まるで呼吸をするような自然な動作だった。
 故に深呼吸は苦痛を和らげるためではなく、緊張を解すため。

「閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する」

 荒れ狂う魔力が儀式の間を覆いつくし、クロエは手応えを感じながら呪文を唱え続ける。

「――――告げる。汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」

 魔力の風は際限無く強まり、その風に負けじとクロエは叫ぶように残る呪文を唱えた。

「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者」

 そして、本来の詠唱に一文を付与する。
 それこそが、アハト翁の用意した策の一つ。

「されど汝はその眼を混沌に曇らせ侍るべし。汝、狂乱の檻に囚われし者。我はその鎖を手繰る者――」

 狂化という、本来は弱小な英霊を強力無双の英霊達に立ち向かわせる為のステータスアップ用スキルをそのままでも十二分に強大な力を持つ英霊に付与させる。
 そして、同時に嘗てのような裏切りを防止する為にサーヴァントから自身の意思を剥奪させる。武器に必要なのは力のみ、意思など必要無い。それがアハト翁の考えだった。
 無論、この策にはリスクが存在する。それは、狂化というスキル……否、バーサーカーというクラスに付随するリスクだ。
 サーヴァントを強制的に強化する狂化のスキルを使うには膨大な魔力が必要なのだ。そして、英霊の元々の力が強力であればあるほど、必要となる魔力の量は増大する。更に、狂化された英霊は主の命令に従わない事が多く、必要以上に魔力をマスターから奪い取っていく事もあり、それがこれまでの数度に及ぶ聖杯戦争におけるバーサーカーのマスターの敗因とされている。
 だが、それに対する対策も練ってある。それこそが、アハト翁の用意したもう一つの策。
 ホムンクルスによる魔力炉の製造。元々、魔術回路を基盤として作るホムンクルスは膨大な魔力を生み出す事が出来る。その性質を特化させたホムンクルスを鋳造し、炉の燃料としたのだ。
 その為に魔力を生み出す以外の機能は何一つ持たない、クロエ以上に救いの無い、ただの消耗品が生み出された。先頃にクロエが声を掛けた溶液の中を漂うホムンクルス達の正体こそがソレだった。
 この方法を思いついたのは、切嗣のホムンクルスを用いた人海戦術だった。雑多なホムンクルスを本来、英霊とマスターのみで戦う聖杯戦争の戦闘に用いるという案はこれまでのアハト翁には無い考え方だった。忌々しい男と思いながらも、戦闘の理論においては一目を置かざる得ない。アハト翁にとっては苦虫を噛み潰すような苦行であったが、これで負ける要素は皆無となった。

「汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ―――!」

 そして、最後の一説をクロエが唱え終えると同時にアハト翁は言った。

「不備無く最強の英霊を呼び出したようだな」

 陣の中心には目論見道理の英霊が立ちはだかっていた。
 最強の大英雄・ヘラクレスがその瞳を狂気に曇らせながらじっと主であるクロエを見つめていた。

 それが一ヶ月も前の話だ。
 クロエはバーサーカーを引き攣れ、日本へとやって来た。そして、実戦の前の肩慣らしとして、アハト翁から冬木に入る前に切嗣の討伐とイリヤの捕獲を命じられた。
 イリヤがマスターとしてサーヴァントを召喚するのは想定外だったが、やるべき事は変わらない。アハト翁の命令に反する事になってしまうが、どうせ、聖杯戦争が始まれば、敗北して殺されるか、勝ったとしても解剖に回されるか、聖杯として終わるかのいずれかだ。
 自分に未来など無い。ならば、最後に自分の望みを叶えてやる。
 そう、クロエは十年間募らせた感情を吐き出すようにバーサーカーに命令した。

「狂いなさい、バーサーカー!!」

  途端、バーサーカーは猛々しく吼えると、それまでの均衡を崩し、セイバーを弾き飛ばした。

「お、おいおい! 今まで狂化してなかったてのかよ!?」

 空中で体勢を整えながら、セイバーは顔を覆う兜の下で舌を打った。地面に着地する暇すら無く、速度を際限無く上げながら迫り来るバーサーカーの岩剣を白銀の剣を盾にして防ぐがバーサーカーの力の前に為す術無く吹き飛ばされた。
 それまでの拮抗した状態が嘘のように戦局は一変した。速度もパワーもバーサーカーはセイバーを大きく上回り、セイバーはバーサーカーに唯一欠けている『技術』でギリギリ致命傷となる一撃を防いでいる。
 だが、それも時間の問題だろう。あまりにもサーヴァントとしてのスペックに差があり過ぎる。

「仕方ねーなー!!」

 セイバーは忌々しそうに叫びながら、剣の柄で己の顔を覆う兜を殴りつけた。
 すると、兜は二つに割れ、鎧と同化した。

「マスター、宝具を使わせてもらうぜ!!」

 そう叫ぶセイバーの顔を見た切嗣は目を大きく見開いた。
 兜の下にあったセイバーの顔はあどけなさを残す少女のものであり、その少女を切嗣は知っていた。

「まさか、お前は――――ッ!! やめろ、セイバー!!」

 故に彼女の宝具も知っていた。嘗て、一度だけ見た最強無敵の宝具。
 例え、相手が不死の怪物であろうと、無敵の盾を持つ英傑であろうと、問答無用に殺す彼女の宝具はその強力さ故に大きなリスクを伴う。
 それは、自身の命というあまりにも大きな代償だ。だが、切嗣は決してセンチメンタルな気持ちで止めたわけではない。今、セイバーというイリヤを守るための武器を手放すわけにはいかないという冷静な判断からの行動だった。
 しかし、セイバーは既に宝具を解放しようとしていた。だが、それは切嗣が想定していた光景とは異なるものだった。
 嘗て見たセイバーの宝具は現実を侵食する固有結界に近い魔術的な宝具だった。だが今、セイバーが解放しようとしているのはセイバーの名に相応しい剣の宝具だった。
 セイバーを中心に禍々しい赤の極光が走り、光はセイバーの持つ剣に絡みついた。すると、見る間に剣の形は歪んでいき、清廉な美しさがあった白銀の剣はまるで魔人が持つ魔剣のような禍々しい姿に変わった。異常を察知し、セイバーに襲い掛かるバーサーカーにセイバーは邪悪な真紅の極光を纏う魔剣を振るった。

「受けろ、|我が麗しき《クラレント》――――」

 バーサーカーはセイバーの宝具の発動に怯む様子も無く、その腕をセイバーに伸ばしたが、セイバーの方が一手先んじた。

「――――|父への叛逆《ブラッドアーサー》ッ!!」

 瞬間、赤い雷がバーサーカーを呑み込んだ。破壊のみを目的とした赤雷の疾走はバーサーカーのみならず、周囲の家々をも巻き込んだ。
 幸いと言えるのか、クロエは事前に周囲百メートル四方に人払いの結界を強いていた。
 龍子が本来の分かれ道よりも前にイリヤと分かれたのもこの結界が原因だ。おかげで巻き込まれた家々に住民は残って居なかっただろうが、それをセイバーは理解していたのだろうか、という疑問がある。
 加えて、この破壊の跡をどう住民に納得させればいいのか、と頭を抱えた。もっとも、そんな思考が出来る余裕があるのは、今のセイバーの一撃は確実にバーサーカーを仕留めた筈だという確信があったからだ。だが、この日、切嗣は更なる驚愕に目を見開く事となった。
 魔術師殺しを引退して十年。自分の勘の鈍りに背筋が冷える程だった。

「何故、生きている!?」

 セイバーの驚愕は仕方の無いものだ。セイバーの宝具はA+ランクに相当する対軍宝具。
 それも、近距離での直撃を受けておきながら、バーサーカーは真紅の極光が晴れた先に立ちはだかり、宝具の発動直後の反動で動けずに居るセイバーを鷲掴みにした。

「貴様ァアアアアアアアア!!」

 セイバーは憤怒の表情を浮かべながらバーサーカーの腕を斬ろうと邪剣を振るう。が、刀身がバーサーカーの肌に触れると、まるでなまくらで鉄を叩いたかのように弾き返されてしまった。
 驚愕に目を瞠るセイバーの腕をバーサーカーは岩剣を手放した手で掴んだ。

「お、おい……ッ」

 セイバーはバーサーカーの腕から抜け出そうともがくが、あまりにも強く拘束されている為に抜け出すことは出来ず、バーサーカーはまるで人形の腕を引き千切る無邪気で、それ故に残酷な子供のような仕草でセイバーの腕を引っ張った。

「ガアアァアアアアアァアァアア!!」

 断末魔の叫びが轟き、切嗣は咄嗟にバーサーカーのマスターに銃口を向けたが、バーサーカーのマスターは無邪気に笑いながら言った。

「私の事は気にしなくていいよ、バーサーカー。そいつの両腕両足を捥いで、動けなくしてから犯しなさい」

 切嗣が放った銃弾を容易く切り裂きながら、一歩近づいた。

「ねえ、助けて欲しい?」

 バーサーカーのマスターの言葉に切嗣は油断無く銃を構えながら眉を顰めた。

「私の名前を一度で当てられたら、助けてあげる」
「名前……?」

 切嗣は戸惑った。
 名前と言われても、そんなもの知るわけが無い。彼女が嘗て自分達がアインツベルンに残したスケープゴートだとしたら、そもそも名前などある筈が無い。
 何故なら、彼女は元々、廃棄される時を待つだけの欠陥品だったからだ。応えに窮する切嗣にバーサーカーのマスターはつまらなそうに短剣を振り、言った。

「ま、分かんないわよね。せめて、イリヤって呼んでくれたなら……助けてあげてもよかったのに」

 バーサーカーのマスターは切嗣から視線をイリヤに向けた。
 イリヤは困惑と憐憫の入り混じった表情を浮かべていた。

「私には廃棄を待つだけだった欠陥品のホムンクルスとしての記憶が残ってる。だけど、イリヤとして……お母様や切嗣と過ごした日々の記憶もある」

 その言葉にイリヤは大きく目を見開いた。

「私は……イリヤの代わりにイリヤになった。だったら、だったらさ……、せめて、貴方達くらい、私を……」

 笑みは崩れていた。
 バーサーカーのマスターは涙で頬を濡らし、その瞳に憎悪の色を浮かべた。

「今の私はクロエ。イリヤのクローン。だけど、あんたを殺せば、この世にイリヤは私だけになる。イリヤのクローンなんかじゃなくて、イリヤという名前を持てる」
「わた……しは」
 
 クロエの剥き出しの感情に晒されながら、イリヤは懸命に視線を合わせ続けた。
 僅かに震えの混じるイリヤの声を遮るように、クロエは短剣を向ける。

「バーサーカーはセイバーと遊ぶのに忙しいし、しょうがないから、直接殺すわね」

 そう、クロエが言った瞬間、それまで響いていたセイバーの悲鳴が止まった。それと同時に何かが弾けるような嫌な音がした。
 イリヤはハッとした表情でセイバーに視線を向けた。視線の先で、セイバーの肩から先が引き千切られていた。
 あまりにも惨たらしい光景にイリヤの目は大きく見開かれた。

「セイバー!! 逃げて!!」

 無意識に叫んだその言葉が膨大な魔力を孕む言霊となり、セイバーの肉体に働きかけた。
 膨大な魔力によって、セイバーの肉体は空間を飛び越え、イリヤの目の前に現れた。

「――――ッギグァ。クッ、令呪使うにしても遅せぇぞ」

 引き千切られた肩を庇いながら、セイバーはクラレントを杖代わりに立ち上がり、クロエに視線を向けた。

「そんな状態で何をしようっていうの?」

 クロエは冷たい視線をセイバーに向け、バーサーカーを呼んだ。
 瞬時にクロエの下に戻ったバーサーカーは狂気を宿した目をセイバーに向け、荒々しい唸り声を上げている。

「ッチ、発情してんじゃねーよ!!」

 片腕を失いながらも、セイバーの戦意は消えていなかった。
 だが、戦局は依然として圧倒的に不利だ。
 どうしたものか、と切嗣が思案していると、突然戦場に乱入者が現れた。
 法廷速度を無視した速度で近づいてくるのはメルセデスベンツ・300SL――――それは、|切嗣の妻《アイリスフィール》の愛車だった。
 メルセデスは切嗣とイリヤの目の前で止まると、勢い良く扉が開かれた。

「切嗣、イリヤ!! 乗って!!」
「ママッ!?」

 車の中から手を伸ばすのはイリヤの母であるアイリスフィールだった。
 反射的にイリヤはセイバーを見た。

「母親……。乗れ、マスター!! そして、受け取れ、バーサーカーのマスター!!」

 セイバーは再び魔力を剣に纏わせると、中途半端な状態で片腕のまま振り下ろした。
「|我が麗しき《クラレント》|父への叛逆《ブラッドアーサー》ッ!!」

 周囲の被害を度外視した宝具の一撃にバーサーカーはマスターであるクロエの盾となるべく防御の構えを取った。
 父の名を冠する宝具をただの目晦ましに使うのは尋常ならざる屈辱だったが、その隙を突き、セイバーは霊体化してメルセデスに乗り込んだ。そして、そのまま最高速度である時速260キロで車道を疾走した。
 赤の極光が晴れ、イリヤ達が逃げ出した事を悟ると、クロエは静かにバーサーカーの腕を撫でた。

「おつかれさま……」

 バーサーカーは低く唸ると霊体となって消え去り、クロエはイリヤ達が逃げた方角を見つめた。

「あんたも聖杯戦争に参加するわよね? イリヤ……」

 そう呟きながら、クロエは付き人として用意されたホムンクルスの待つ自動車の場所へと歩き出した。
 去って行く彼らの姿に、嘗て、|切嗣《父》と|アイリスフィール《母》が去って行くのを絶望に満ちた心境で見送った日の事を思い出し、クロエは一筋の涙を流した。
 そんな彼女をバーサーカーは狂気に曇った瞳で見下ろしていた。彼が何を思っているのかは誰にも分からない。恐らく、彼自身にも……。

第五話「状況説明」

 いつの間にか眠っていたみたいだ。小さく欠伸を洩らすと、隣から鈴を振るような声がした。
 薄っすらと瞼を開く。どうやら、私はママの愛車の後部座席で眠ってしまっていたらしい。

「起きたか、マスター」

 声の方に顔を向けると、そこには見知らぬ少女が座っていた。
 少年のような凛々しい顔立ちで少女は私の顔を心配そうに覗き込んでいた。

第五話「状況説明」

「えっと……、誰?」

 開口一番の私の言葉に少女は呆れたように溜息を零した。

「誰って、マスター。オレを召喚したのはアンタだろ」
「マスター……? それに、しょうかん……? えっと……、あっ!」

 少女の言葉を口の中で租借すると、徐々に眠る直前の記憶が甦ってきた。
 子供の頃の私と良く似た少女。暴れまわる巨人。信じられない速さで動く父。
 そして、

 ――――『お前がオレのマスターか?』

 どこからともなく現れた白銀の鎧に身を包む騎士。日常が一変したあの時の光景をどうして一時的とはいえ忘れていたのだろうか。
 きっと、忘れていたのは寝ぼけてたせいだけじゃない。あまりにも色々な出来事が立て続けに起こったから、頭が混乱していたのだ。
 今だってそう。甦ってきた記憶にただ翻弄されるばかりだ。
 それでも、一つだけはっきりと分かる事があった。
 どうやら、

「頼むぜ、マスター。アンタはこれからオレと聖杯戦争で戦う相棒なんだからよ」

 私はとんでもない面倒事に巻き込まれてしまったらしい、という事が。

「……はい?」
「待って、セイバー」

 困惑していると、助手席からママが顔を覗かせた。

「イリヤはまだ何もしらないのよ。だから、一つ一つ説明してあげないといけないの。ちょっとだけ、時間を貰えないかしら?」

 ママの言葉にセイバーは肩を竦めると、窓の外に顔を向けて黙り込んだ。

「ママ……、一体、何が起きてるの?」

 いい加減、私が何に巻き込まれているのかを教えて欲しい。
 常識を大きく逸脱した事態の連続に眩暈がする。

「ちゃんと答えてあげるから、心配しないで。まず、初めに貴女に言わないといけない事があるのよ」
「言わないといけない事……?」

 首を傾げて聞き返すと、ママはゆっくりと告げた。

「そう……、貴女が魔術師だっていう事」
「…………ママ、ついにアルツハイマーに?」
「なってないわよ! 真面目に聞きなさい!」

 怒られた。真面目にボケちゃったのかと心配したのに……。だって、魔術師だ。あまりにも突拍子が無さ過ぎる。
 私も人並みに読書をするから、魔術師がどういう存在かくらいは知ってる。騎士物語に登場する隠者。虐げられるシンデレラを救う魔女。箒で空を飛ぶ魔法少女。
 共通するのは杖を振り、怪しい呪文を唱えて奇跡を起こす事。

「魔術師って……、魔法少女みたいな感じ?」

 とりあえず思いついた事を口にしてみた。

「魔法少女……。まあ、近いわね。もっとも、そこまで夢と希望に溢れているかって言われると、そうでもないのだけれど」

 ママは少し迷ったように顔を運転席に向けた。
 すると、運転席からパパの声がした。

「イリヤ。魔術師という存在はどちらかと言えば、マッドサイエンティストというカテゴリーに入る。イリヤが小学生くらいの時に観てた魔法少女物のアニメみたいなヒーローとは違う」

 一瞬、喋ったのがパパだと分からなかった。
 いつものほほんとしていて、だらしのないパパのイメージと低く厳格な今の声が一致しなかった。一眠りしても、どうやらパパのジャック・バウアー・モードは終わっていないみたい。
 パパってば、よく聞くと渋い声してるわ。やだ、私ちょっとパパにときめいてる。

「それぞれ固有の目的を達成する為に何代も研究に没頭し、時には人としての倫理や情念を無視して人々に害を為す存在だ」
「えっと……」

 あんまり言葉の意味がよく分からず、曖昧に頷いているとママが辛そうに表情を歪めながら呟くように言った。

「本当は魔術の事なんて、知らずに生きて欲しかったのだけど、状況が状況だったし、仕方ないわ」

 そう言って、ママは助手席から身を乗り出して頭を撫でてくれた。ちょっと恥ずかしいけど、嬉しい。
 頬を緩ませていると、唐突にセイバーが口を開いた。なんだかムッツリした表情を浮かべている。

「そんな段階なのかよ……。じゃあ、マスター。アンタは聖杯戦争についても何にも知らないってわけか?」
「う、うん……」
「おいおい、勘弁してくれよ」

 セイバーは溜息を零した。

「えっと、聖杯戦争って、なんなの?」
「まあ、簡単に言えば、何でも願いの叶う魔法の杯を巡る、七人の魔術師と魔術師達がそれぞれ従える七人のサーヴァントが殺し合う戦争の事だ」
「こ、殺しあうって……」

 あまりに非現実的なワード。まるで、テレビゲームの話をしているみたい。

「えっと、魔法の杯っていうのも気になるけど、サーヴァントって何なの? それに、戦争っていう割に人数が少ない気がするんだけど……」

 とりあえず頭に浮かんだ疑問点を口にした。
 すると、答えはセイバーからではなく、パパから帰ってきた。

「魔術師とサーヴァントの数を合わせると十四人。まあ、それは最小限の数で、他にも協力者などが居るが、たったそれだけの人数でも、戦争と呼ぶに足る大規模な闘争が巻き起こるんだ」
 
 パパは言った。

「その理由はイリヤの疑問の答えにもなるんだけど、サーヴァントの存在だ。サーヴァントは過去に偉業を為した英霊をセイバー、アーチャー、ランサー、ライダー、キャスター、アサシン、バーサーカーの七つのクラスを寄り代に魔術師達が召喚する存在だ。イリヤが召喚したセイバーもサーヴァントなんだよ」
 
 思わず隣に座る少女に視線を向けた。説明を軽く聞いた感じ、サーヴァントというのは幽霊みたいな存在らしい。
 けど、セイバーはどう見ても普通の――鎧に目を向けなければ――人間だ。パパの説明とはチグハグな感じがする。
 疑わしそうにしていると、セイバーが横目でチラリと此方を見てきた。

「サーヴァントはそれぞれ街一つを容易く滅ぼす程の強力な力を持っている」
「……へ?」
 
 言葉の意味を飲み込めず、私は目を丸くした。

「ま、全員が全員ってわけじゃないだろうが、オレも街一つくらいなら一晩あれば滅ぼせるぜ」

 口元を歪めながら言うセイバーに何だか得体の知れない恐怖を感じた。
 背筋がゾクリとして、額に汗が滲む。瞬く間に先刻感じたチグハグさが無くなった。セイバーとあの巨人の戦いが彼女の言葉を裏付けたからだ。
 そう、セイバーの言葉は紛うことなき真実なのだと、理解した。理解してしまった。

「そして、そんな力を持った奴が七人も一つの街に集まっている。どうだ? 想像出来たか? なら、聖杯戦争がどんなものかも理解出来るだろう?」
「なんで……、そんな……」
「聖杯を得るためよ」

 ママが言った。

――――『聖杯』。

 その言葉の意味を頭の中に巡らせた。
 聖書やキリスト教関係の本を幾つか読んだ事がある。聖杯というのは神の子・イエスが最後の晩餐で使用した杯の事。イエスは杯にワインを注ぎ『私の血である』と言って、弟子達に飲ませたらしい。
 この聖杯やキリストの体を刺し貫いた聖ロンギヌスの槍はキリストの聖遺物であるとして、多くの小説の題材として取り上げられている。有名なところだと、アーサー王伝説みたいな古典やインディ・ジョーンズなんかでも登場している。
 セイバーの言葉によれば、聖杯戦争における聖杯とは何でも願いの叶う魔法の杯らしい。元々、聖杯の事を記したマタイによる福音書にはそんな夢みたいな記述は無いけど、その後に創作された聖杯伝説の聖杯にはそういう側面がある。

「聖杯伝説なんて、ただの騎士道文学を彩るアイテムだと思ってたんだけど……」

 私の言葉に反応したのはセイバーだった。

「聖杯は実在する。その為だけに命を懸けた騎士達もな」

 何か気に障った事を言ってしまったのだろうか、セイバーは少し不機嫌そうな顔をして言った。

「少なくとも聖杯戦争における聖杯はあらゆる願いを叶える万能の窯だ。……少なくとも、第三次まではな」
「ん? 第三次まで……ってのはどういう意味だ?」

 パパの言葉にセイバーは怪訝な顔をした。

「その質問については後で答えるよ。それよりも、イリヤには説明しないといけない事が山のようにあるんだ」

 パパは自動車を走らせながら説明を続けた。私はただ黙って聞くことしか出来なかった。
 あまりにも現実離れし過ぎた内容の数々に言葉が見つからなかったから。
 魔術。魔術師。アインツベルン。聖杯戦争。御三家。
 長々とした話の半分も頭に残らない。まるで、小説やゲームの設定だけを延々と聞かされてる気分。
 どこまで走るんだろう。段々とまどろみ始め、窓の外の景色に視線を向けた。

「……家には帰れないの?」
 
 ちょっと前まで、友達と受験の話で悩んでいたのに、たった一晩で全ての日常がひっくり返ってしまった。
 そんな中で、ただ一つ気になったのはソレだった。
 パパは短く「ああ」と頷き、ママは気まずそうに顔を背けた。難しい話はどうでも良かった。ただ、脳裏に浮かんだのは小学校の頃からの親友達の顔だった。そして、小学校の頃から慣れ親しんだ故郷の光景だった。
 
――――帰れない。

 涙が零れた。

――――会えない。

 寂しさで胸が締め付けられた。

「ヤダ……」

 両手で顔を覆い、私は駄々っ子みたいに同じ言葉を繰り返した。
 いつもなら、パパは私の言う事を何でも聞いてくれる。ママも困った顔をしながら私の意志を尊重してくれる。
 なのに、パパもママも言葉を撤回してはくれない。帰りたいのに、帰らせてくれない。会いたいのに、会わせてくれない。
 もう、故郷には戻れない。

「イヤダ……」
「なら、聖杯を取ればいい」

 泣きじゃくる私にさも当然のようにセイバーは言った。
「……え?」

 顔を上げると、セイバーは困ったような顔を浮かべていた。

「聖杯を取れば、何でも願いが叶うんだ。だから、聖杯に願えばいい。また、故郷に帰れますようにってな。だから……、その、泣くなよ」

 きっと、彼女は不器用な性格なのだろう。誰かを慰めるのに慣れてもいないのだろう。
 だけど、必死に言葉を探して、イリヤを慰めようとしている。その事が驚く程私の心を癒してくれた。

「セイバー……」
「安心しろ、マスター。オレは最強だ。誰にも負けない。だから――――」
「それは、駄目だ」

 セイバーの言葉をパパが遮った。
 咄嗟に「どうして!?」と叫ぶ私にパパは顔も向けずに言った。

「聖杯は……、願いを叶えない」
「……え?」

 パパの言葉に困惑したのは私だけでは無かった。
 セイバーも何を言っているんだ? という顔をしている。

「聖杯は第三次聖杯戦争の折に汚染されてしまったんだ」
「汚染……?」

 パパは語った。
 第三次聖杯戦争の折、アインツベルンが行った反則行為。
 アインツベルンは通常、人である英雄しか召喚出来ない聖杯戦争において、神を降ろそうと目論見、失敗した。
 その時に召喚されたサーヴァントはあまりにもひ弱で、戦争の開幕直後に脱落した。しかし、その魂は消えずに聖杯の中に残留し、聖杯を悪意によって染め上げた。

「そのサーヴァントの名は『|この世全ての悪《アンリ・マユ》』。ゾロアスター教における悪神だ」
「待て。神霊は呼べない筈だろ?」

 セイバーの問いに答えたのはママだった。

「ええ、悪神自体はよべなかったわ。ただ、代わりに悪神として扱われた一人の哀れな少年が召喚に応じた」
「少年……?」
「ある小さな村での話だ。村人達は自分達の善性を確固たるモノとするために一人の少年を生贄にした。この世全ての悪意をその少年に背負わせる事で、自分達のあらゆる行いを善としたんだ」

 意味が分からない。セイバーも同様らしく、怪訝な顔をしている。

「少年にも家族が居た。だが、その家族からも悪である事を強要された彼はいつしか皆が望んだ悪であろうという思いを抱くようになったらしい」

 何だか眩暈がして来た。その人達って馬鹿なんじゃないかしら。
 悪なんて、押し付けられるものじゃない。そのくらい、私にだって分かる。

「あまりにも純粋過ぎる悪意は純粋な魔力の渦である聖杯の中で混ざり合い、純粋な悪意の渦へと変わってしまったのよ。どんな願いも悪意によって歪められ、惨劇という形で叶えられる。例えば、世界を救いたいと願えば、世界から救うべき人類や自然、生命が根こそぎ淘汰される」
「……そんな」
「嘘だ!!」

 言葉を失う私とは裏腹にセイバーは怒りを滾らせた視線をパパ達に向けた。

「そんな与太話を信じろとでも言うつもりか!? 聖杯がそんなものだったなら、オレは何のために……」
「……ごめんなさい」

 ママは辛そうに顔を伏せた。セイバーは怒りに顔を歪めながら外を睨んだ。

「オレは……、信じないぞ」

 拳を握り締めるセイバーを見つめながら、私はハッとある事に気付いた。

「……待って」

 聖杯を求めるセイバーを見て、私はゾッとした。

「聖杯が欲しいのって、セイバーだけじゃないよね?」

 私の言葉にパパが前を向いたまま頷いた。

「じゃあ……、他のマスターやサーヴァントは知ってるの? 聖杯が汚染されている事を」

 パパは今度は首を横に振った。

「じゃあ……、もし、その事を知らないまま聖杯を使おうとしたら……」
「規模の大小こそあれ、惨劇が起こる。前回は御三家の一角たる遠坂のアーチャーと僕が召喚したキャスターの協力によって聖杯を破壊する事で事態を収束させたが……」
「止めなきゃ……」
 
 正直、起きている事の半分も理解出来ていない。だけど、このままだと良くない事が起こるという事だけは分かる。
 親友達の顔が脳裏に過ぎる。先生や近所のおじさん、おばさんの顔が過ぎる。いつも歩く通学路の景色や家族で行った旅行の景色が過ぎる。
 このままだと、この光景が壊されてしまう。それだけは阻止しないといけない。

「本当なら、もう聖杯戦争は起こらない筈だったんだ」

 パパは悔しげに呟いた。

「どういう事だ?」

 セイバーが尋ねた。

「前回の戦争の終焉間際、キャスターが聖杯に仕掛けを施した。次の戦までの五十年の間に土地や人々に影響を与えずに自然と聖杯戦争の核たる大聖杯が停止し、二度と動かないように」
「だけど、たった十年で聖杯戦争は再開されてしまった。理由は分からないけれど、キャスターの仕掛けは間に合わなかった……」

 ママの言葉に誰もが言葉を失った。

「マスター」

 沈黙を破ったのはセイバーだった。
 セイバーの瞳はまっすぐに私の瞳を見つめている。

「どうするんだ? オレはアンタの指示に従う」
「私は……」

第六話「決意表明」

 十年前――――。
 第四次聖杯戦争の終結後、衛宮切嗣はアインツベルンの報復を恐れ、妻と娘を連れて姿を晦ました。元々、魔術協会にも属さず、他家との関わりも一切持たないアインツベルンは聖杯戦争を除いては内にのみ目を向け、己の求める真理の探究に明け暮れている単一の魔術一族だ。魔術師殺しとして、数々の魔術師を葬り去り、その数を遥かに凌ぐ復讐者の手から逃げ延びて来た切嗣の手腕を持ってすれば、アインツベルンの目を掻い潜る事自体はそう難しい事ではなかった。
 新天地として選んだ街で過ごすと決めた時、切嗣の妻、アイリスフィールは娘のイリヤスフィールを魔術に関わらせたくないと願った。それが如何に難しい事かをアイリは理解していたが、それでも尚、切嗣に懇願し、切嗣はその願いを承諾した。
 正義の味方になる。嘗て愛した少女に誓った夢を捨て、愛する妻と娘の為だけに生きると決めた時点で元々イリヤを魔術に関わらせるつもりは無かった。
 アインツベルンのホムンクルスである事。英霊・モルガンが調整を施した事によって、宝具としての側面を持つ事。
 それらを踏まえた上でイリヤを未来永劫守り抜くにはそれしかないと考えていた。無論、イリヤの魔術師の適正は並み居る魔術師達を遥かに凌ぐだろう。その才能に目をつける魔術が居ないとは言い切れない。その為に切嗣はイリヤの魔術師としての才能を全て封印する事に決めた。
 とは言え、魔術師としての才能を封印するなど、口で言う程容易い話ではない。可能としたのは聖杯戦争を共に戦い抜いたモルガンの助力によるものだ。
 最終決戦の直前、モルガンは切嗣にこう言った。

『聖杯戦争の後、平和な世界で生きるには魔術の力など不要であろう』

 平穏に暮らすならば魔術の力などあっても邪魔になるだけだ。そう考えたモルガンはイリヤの体に一つの仕掛けを施した。
 それは魔術回路や魔術刻印を封印し、魔術的な異能を自他に関わらず感知できないようにするというもの。
 モルガンの仕掛けと切嗣が施した暗示によって、イリヤは自分を魔術師である事を知らずに育った。
 
第六話「決意表明」

 冬木市に入ってから更に三十分程度走ってからパパは車を停めた。
 冬木市ハイアットホテル。この地域で一番立派なホテルらしい。一番立派って事はそれだけ利用者が大勢居るって事。パパが言うには下手にこじんまりとした宿を取るより安全らしい。
 念のためにクレジットカードを使わずに現金で部屋を借り、一休みした後、パパは大事な話があると言って、苦悩に満ちた表情を浮かべた。
 ママが淹れてくれた紅茶を飲みながら、パパが話し始めるのを待つ。眉間に深い皺が出来てる。酷く思い悩んでいるみたい。

「パパ?」
 
 私が声を掛けると、パパはハッとした表情を浮かべ、ゆっくりと口を開いた。

「順番にいこう。まず、セイバー」

 パパに話を振られ、セイバーはキョトンとした表情を浮かべた。

「なんだ?」
「君はモードレッドで間違い無いかい?」
「モードレッド?」
 
 日本語だと赤型?

「ちょっとお酒を飲んだだけで赤くなっちゃう人の事?」
「それは赤型体質って……、どうしてそんな事知ってるんだい?」
「この前、本で読んだの」
「……とりあえず、イリヤは少し静かにしておいてくれ」

 何だか蔑ろにされてる気分。早くいつものパパに戻って欲しい。今のジャック・バウアー・モードのパパもちょっと渋くてイケてるけど、やっぱりいつものパパの方が好き。
 話の内容に付いて行けない私を尻目にパパ達は難しい話をし始めた。

「オレの宝具を見て推察したのか? いや、違うな。もっと前からお前はオレを知っていた。そうだな?」
「ああ」
「やはりな。だから、お前はオレが宝具を使おうとした時に『やめろ、セイバー』と叫んだ。あの時、宝具の使用を止めたのは宝具を晒す事を危惧したのかとも思ったが、それにしては……、な」
「僕が止めたのは、君が『|我が終焉の戦場《バトル・オブ・カムラン》』を使うと思ったからだ」
「バトル・オブ……? 何それ?」

 少しでも会話に参加したくて挙手しながら聞いてみた。

「オレの切り札を知っているのか……。お前、一体……」

 無視された。セイバーが何だか凄く怖い表情でパパを睨んでる。
 凄く険悪な雰囲気。でも、無視されたままってのも癪だ。

「ねえねえ、バトル・オブ・カムランって何なの? っていうか、モードレッドって何?」

 セイバーの鎧の布の部分を引っ張りながらねえねえと聞くと、セイバーはクワッとした表情を浮かべた。 

「五月蝿ェ!! ちょっと黙っててくれないか、マスター!!」

 怒鳴られた。そんなに怒らなくてもいいじゃないさ。
 涙目になって部屋の隅で蹲っても誰も相手をしてくれない。チラチラとパパ達に視線を向けてみても、完全に無視された。
 酷い。あんまりだ。せめて、ママくらい私を慰めてくれたっていいじゃない!
 頬を膨らませながら文句を言ってると、ふと部屋の隅にパソコンが置いてある事に気が付いた。
 閃いた。

「えっと、スタートボタンを押してっと」

 分からないなら調べればいいのよ。時代はワールド・ワイド・ウェブ。
 さすがは高級ホテルだわ。備え付けのパソコンも最新式。プラウザをダブルクリックして、私は検索エンジンにキーワードを打ち込んだ。
 これでもパソコンの扱いには慣れてるの。ブラインドタッチが出来る女子高生ってかっこいいでしょ。

「とりあえず、バトル・オブ・カムランっと!」

 検索に少し時間が掛かった。後ろの方でパパとセイバーの話し声が聞こえる。

「……僕が君を知っているのは十年前、君の母上が僕のサーヴァントだったからだ」
「母上がお前のサーヴァントだっただと!? お前、よく生き残れたな……」
「キャスターは……、モルガンは必勝の策を練る卓越した頭脳とそれを実行し得るだけの能力があったからね」
「そうじゃない」

 パパが懐かしむような口調で言うと、セイバーは暗い表情で首を横に振った。

「母上ならば天下無双の英雄だろうと、不死身の勇者だろうと敵では無いだろうさ。オレが言ってるのは……お前、よく母上に殺されなかったなって事だ」

 セイバーの言葉に今度はパパが顔を顰めた。

「君なら分かっているだろうが、モルガンは伝説に語られるような悪女では無かった」
「知ってるさ。だが、母上は目的の為ならば手段を問わん。母上は勝利の為ならば平然と仲間を裏切る。しかも、性質の悪い事に裏切られた方は最期の瞬間に至って尚、裏切られたとは考えずに骸を晒す。あのアコロンのようにな」
「……それは」
「ああ、母上はその事を後悔していた。だが、それでもやり方を変えなかった。生まれながらの陰謀家なのさ、あの方はな」

 パパは不機嫌そうに黙り込んだ。また、空気が悪くなってる。
 丁度、検索が終わったみたいだから、私は意識をパソコンに傾けた。幾つかのホームページがヒットしている。
 とりあえず、それっぽいページをダブルクリック。また、ちょっと時間が掛かった。

「確かに、君の言葉はモルガンの人物像を的確に評している。十年前、モルガンは勝利の為に手段を問わなかった。……外道と罵られても仕方が無い程の所業を為した。けど、それは僕も承知の上だった。何より、モルガンは僕を……僕達を裏切らなかった。それだけは事実だ」
「……それは真実か?」
「なに?」

 セイバーの指摘にパパは明らかな動揺を見せた。

「言っただろう。母上の恐ろしい所は裏切られた側に最期まで裏切られたと気づかれない事なのだと」

 パパは言葉を失っている。どうしたんだろう……。
 後ろが気になりつつも、ホームページが開いたので、そちらに視線を戻す。
 ページの中央には一枚の絵が表示されていた。

「えっと、この絵はイギリスの挿絵画家アーサー・ラッカムが描いた『|カムランの戦い《バトル・オブ・カムラン》』である」
 
 ページに表示された文章を目で追っていく。どうやら、カムランの戦いというのは、アーサー王物語の一部を描いた物らしい。
 私もアーサー王物語に目を通した事はあるけど、あんまり深く読み込んだわけじゃないから知らなかった。
 カムランの戦いのページ中にモードレッドの名前もあった。
 モードレッドは円卓の騎士の一人だったらしい。しかも、アーサー王の一人息子。彼は父であるアーサー王に叛逆し、殺し合った。
 モードレッドはこの戦いで命を落とし、アーサー王も致命傷を受けた。
 父と子が殺し合い、双方が命を落とす。あまりにも残酷な話だ。私は後ろを振り向くのが怖くなった。だって、ここに記されているモードレッドというのは、私の後ろでパパと話している騎士の事なのだから。耳を澄ますと、パパ達はまだ話を続けていた。

「モルガンは僕達の願いを確かに叶えようとしてくれていた。自分ならば、あの聖杯を制御出来ると」
「何の話をしているかは知らんが、お前がそう信じたいなら別にいいぜ。今ここに母上が居るわけでもないしな」
「……話を戻そう。僕が君の切り札を知っていたのは、キャスターの宝具が君だったからだ」
「どういう事だ?」
「キャスターの宝具は英霊・モードレッドを己が身を寄り代に召喚し、宝具として扱う事が出来るというものだった」

 パパの言葉にセイバーは鼻を鳴らした。

「大方、オレは敵のサーヴァント相手に捨て駒にされたんだろうな」
「僕には君が承知の上で宝具を使ったように見えた」
「宝具にされてる状態なんだろ?」

 セイバーの言葉にパパは沈黙した。

「それで?」

 セイバーは押し黙るパパに痺れを切らしたように言った。

「……話はまさか、それで終わりじゃないよな?」
「ああ。君がモードレッドで、君の切り札がバトル・オブ・カムランだと確認がしたかっただけだ。それよりも、イリヤ」
「……ひゃい!?」

 いきなり話の矛先を向けられ、思わず変な声が出た。

「席に戻りなさい」
「う、うん」

 おずおずとセイバーの隣に腰掛ける。何だか、凄く窮屈な感じ。
 深呼吸をして、頭を上げると、ママが新しく淹れた紅茶を私のカップに注ぎながら言った。

「貴女には最初から説明をしないといけないわね」
「ママ……?」

 ママは何かを言おうとする度に口を閉ざし、瞳に迷いの色を浮かべた。

「どうしたの?」
 
 何だか心配になって声を掛けると、パパがママの手を握った。

「僕から言うよ」

 パパの言葉にママはやんわりと首を振った。

「いいえ。私から言うわ」

 ママは深く息を吸うと、言った。

「イリヤ。私と貴女はホムンクルスなの」

 その言葉に目を見開いたのはセイバーだった。
 当の本人である私は「ホムンクルス……?」と首を傾げるばかりだった。
 そう言えば、あの怪物を連れた女の子、クロエも自分をホムンクルスだと名乗っていたっけ。
 ホムンクルスって、一体何なんだろう。さっき、調べておけばよかった。

「セイバー。ホムンクルスって何なの?」

 とりあえず、答えを知っていそうなセイバーに聞いてみた。すると、彼女は躊躇うように視線をママに向けた。

「日本語だと人造人間。人が作った人という意味よ」
「人造人間……、え? 仮面ライダー!?」

 まさかのショッカー!?

「それは改造人間よ……。じゃなくて、人造人間」
「ああ、ドラゴンボール!」
「……とりあえず、アニメの話に持っていくのは止めなさい。貴女ももう高校生なんだから……」

 額に手を当てながら溜息を零すママに私は小さくなった。
 だって、人造人間っていきなり言われても意味が分からないんだもん……。

「もっとも、イリヤは私と切嗣の娘だから、正確にはちょっと違うのだけど」
「どういう事……?」
「ママはアインツベルンの魔術師、ユーブスタクハイト・フォン・アインツベルンが鋳造した人造人間だったの」
「……え?」
「私は第四次聖杯戦争における聖杯の外装として作られた人形だった」

 戸惑う私に構わず、ママは続けた。

「そして、アインツベルンは聖杯戦争のマスターとして外来の魔術師を雇った。それが切嗣なの」

 無意識に私はパパを見た。
 パパは黙ってママの話に耳を傾けている。
 否定も肯定も無い。

「切嗣は鋳造されたばかりで何も知らなかった私に様々な知識を与えてくれた。そして、貴女が生まれたわ」

 私は背筋が寒くなった。
 聞きたくない。これ以上、その話を聞きたくない。
 気が付くと、私は椅子から立ち上がっていた。まるで、両親が得たいの知れない生き物に見えた。
 クロエと出会ってから、非常識な事ばかり起こって、夢と現実が曖昧になってる。これはきっと夢なんだわ。ううん。これだけじゃない。きっと、クロエと出会った事も、セイバーを召喚した事も全部夢なんだわ。
 そうよ、そうに決まってる。だって、こんなのおかしいじゃない。いきなり、自分が魔術師だったとか言われて、ママが人造人間とか……。
 我ながら恥ずかしい夢を見ている。中二病って奴ね。そう言えば、タッツンとどこでもドア……じゃなくて、どこにでも行ける魔法があればいいのにって話してたんだっけ、
 きっと、そのせいでこんな変な夢を見てるんだ。早く、目を覚まさなきゃ。

「座って、イリヤ」

 ママの振りをしている夢の住人を無視しながら頬を抓った。

「は、早く目を覚まさなきゃ。また、学校があるんだし……」
「イリヤ、落ち着いて。これは夢なんかじゃないわ」

 何を言ってるんだろう。夢に決まってる。じゃなきゃ、私は……、

「いや……」

 胸に浮かんだのは嫌悪感だった。
 親は人形だった。
 親は人形を孕ませた。
 人形が生んだのは……、

「落ち着け、マスター」

 誰かの手が私の手を掴んだ。
 咄嗟に払おうとしたけど、伸びた手は驚く程強い力で私の手を握り、その手を振りほどく事が出来なかった。

「落ち着けよ、マスター」

 その声がまるで水底へ落ちていく自分を掬い上げるように私の意識を取り戻させた。

「セイ、バー」

 荒く息をする私の目をセイバーは黙って見つめた。

「……ごめんなさい」

 誰にとも無く謝ると、私は倒れた椅子を起こして座った。
 ママは思いつめた表情で言った。

「ごめんなさい」
「ママ……?」
「いきなりこんな事を言ったら……、貴女がどれだけ混乱するか分かっていたのに」
「ううん。私の方こそ……ごめんなさい」

 押し黙る私達にセイバーは大きく息を吐くと言った。

「なるほど……。オレがマスターに召喚された理由も想像がついたぜ」
「セイバー……?」
「母上はマスターに手を加えたな?」
「……え?」

 咄嗟にセイバーを見たが、セイバーの視線はパパに向けられていた。
 パパは私を見つめながら言った。

「そうだ。イリヤは生後まもなく、次回の聖杯戦争の器となるために調整を受けた。その為に体の成長は遅くなり、寿命もただでさえ短命な他のホムンクルスより更に短くなった。だが、キャスターはイリヤが常人と同じ生活が出来るようにイリヤの体を調整した。恐らく、その事が君を召喚する呼び水となったのだろう」
「調……せい」

 自分の手を見つめながら呟くと、声が無意識の内に震えた。
 その手をセイバーはそっと握り締めた。

「安心しな、マスター。人格はどうあれ、母上の技術は確かなものだ。常人として生きられるようにしたっていうなら、その通りだろうさ」
「セイバー……」

 セイバーの手を握り締めながら「ありがとう」と呟く。
 彼女の声が私に勇気をくれる。
 私はパパに気になった事を聞いた。

「あの娘は誰なの?」

 頭の中を渦巻く疑問の嵐の中、一際大きな疑問。

「クロエって名乗ってたけど、あの娘は……」
「十年前、アインツベルンにイリヤの身代わりとして残した少女型のホムンクルスだ」
「……やっぱり」

 彼女の言葉が頭の中で甦った。

――――『私は……イリヤの代わりにイリヤになった。だったら、だったらさ……、せめて、貴方達くらい、私を……』

「イリヤの存在はアインツベルンにとって重要なものだった。だから、万一……聖杯を手にする事が出来なかった時の為に逃げる準備をしていた」
「だけど、見つかった」

 セイバーは嫌悪感を隠さずにパパを睨みつけた。

「胸糞悪い話だな、オイ。人造人間ならどう扱おうが構わないだろうと思ったか?」

 セイバーの言葉にパパは何も言い返せない様子だった。言い返せる筈が無い。理由はどうあれ、パパは……ううん、私達はクロエを……。
 何を言おうと、言い訳にしかならない。

「ま、結局オレのやる事は変わらないけどな」
「やる事……?」

 肩を竦めながら言うセイバーに私は首を傾げた。

「聖杯が使えるなら使う。穢れてるならぶっ潰す。結局同じ事だ。オレはマスターとこの戦いを勝ち抜く。あの小娘が立ちはだかるなら倒すだけだ」
「そんな!?」

 セイバーの言葉に私は思わず声をあげた。
 すると、セイバーは言った。

「あの小娘を倒す以外にどうにかしたいってんなら、それはアンタの仕事だぜ、マスター」
「……私の?」
「あの小娘には迷いが見えた。その迷いの先がどっちに転ぶのか……。そいつはきっと、アンタ次第だ。救うにしろ、排除するにしろ……、な」
「私……」
「力なら、幾らでも貸してやる。オレはアンタの剣だ。好きに使いな」

 だがな、とセイバーは立ち上がり、剣をその手に具現化させた。
 その切っ先が私の鼻先に向けられる。

「剣を取ったからには後には引けないぜ。どうする?」

 私はママを見て、パパを見て、最期にセイバーを見た。
 皆一様に私の選択を待っている。
 混乱の渦はいつしか明確な答えに変わっていた。
 やるべき事は分かっている。

「私もやるべき事は分かってるわ」

 私は立ち上がるとセイバーに手を伸ばした。

「私の剣になって、セイバー」

 私の決意を篭めた視線にセイバーは真っ向から答えてくれた。

「了解した。これより我が身は御身の剣となり、我が命運を御身に預けよう。ここに――――」

 セイバーは私の手を取り言った。

「――――契約は完了した」

 そう、ここに契約は完了した。
 もう、巻き込まれて、運命に振り回されるのはここまでにする。
 ここからは私自身の足で運命に踏み出す。
 大丈夫。私には強い味方が居る。セイバーが居てくれるなら、私は歩き続けられる気がする。

第七話「英霊召喚③」

 自己というものを持たぬ身でありながら、彼は驚いていた。
 無理も無い。聖杯というあらゆる奇跡を叶える万能の願望機を求め七人の魔術師が七体のサーヴァントを使役し、殺し合う戦い――――聖杯戦争に招かれた彼を待ち受けていたのはマスターの死に様だったのだから。
 辛うじて息はしているらしいが、中身が完全に失われている。魔道の知識に造詣が深いわけでは無いが、英霊の身となり、霊的な力を鋭敏に感じる事が出来るようになり、それが聖杯から流れ込んでくる
知識と絡まり、徐々に現状を理解出来るようにした。

「……やった」

 弱々しい声でマスターは言った。己を召喚した事を心の底から喜んでいる。
 死に瀕しているにも関わらず、感情を持たぬ身にはあまりにも眩しい笑みを浮かべる彼が酷く羨ましかった。

「……なあ、あんた、悪魔なんだよな? なら、僕の願いを聞いてくれ」

 マスターたる少年の言葉に名を持たぬ彼はどう応えるべきか分からなかった。
 悪魔などと名乗った事は無いが、悪魔と罵られた事なら数え切れぬ程に経験している。

「悪魔は魂と引き換えに願いを叶えてくれるんだろう? だったら、僕の魂をくれてやる。だから、僕の願いを聞いてくれ」

 魂をくれてやる。
 少年は彼が何者であるか知っていて言ったのであろうか? 知っていたなら正気の沙汰では無く、知らぬのならば愚の骨頂。

「僕の願いは――――」

 少年の願いが尊い物なのか、それとも愚かな物なのか、彼にそれを判断する事は出来ない。
 だが、己を召喚したマスターの望みである。ならば、叶える以外の選択肢は無い。彼は若きマスターの手を取った。
 そして――――、

「……え?」

 マスターの手に歯を突き立てた。
 戸惑うマスターに構わず、彼はマスターの手を食い千切り、咀嚼した。手を食べ終えた後は腕、肩、足、胴体、胸、腹、陰茎、首。
 死に瀕して尚、あまりにも壮絶な痛みと喪失感に彼のマスターたる少年は悲痛な叫び声を上げた。その叫び声も喉笛を食い千切られた時点で消え去り、最後に残った頭部をゆっくりと彼は呑みこんだ。

「……aa、アaァああ……ああ」

 ゆっくりと、彼は何かを試すように喉を震わせ、しばらくすると、納得したように首を動かした。

「……最弱の身に最強の英雄達を倒し尽くせとはな」

 そう、彼は――食い殺したばかりの――少年の声で呟いた。

「……しかし、サーヴァントには相応しい|注文《オーダー》だ。主よ、汝が願い、この、アサシンが聞き入れた」

 そう、少年の声で、少年の顔で、少年の体で彼、アサシンは言った。

「さて、まずは主の記憶を完全に掌握せねばな」

 瞼を堅く瞑り、アサシンは意識を己が内へと埋没させていく。
 
第七話「英霊召喚③」

 僕は選ばれた人間だ。家は旧くからある名家。勉強では常に学年トップ。その上、スポーツ万能。非の打ち所の無い人間だ。
 誰もが僕の才覚を羨み、敬意を払う。時々、低俗な輩がみっともない嫉妬心から暴挙に出ようとするが、僕の明晰な頭脳の前ではウドの大木に早変わり。僕に手を出す前に彼らは社会的な立場を失い、逃げ出していく。
 何もかもが思い通りにいく。まるで、ゲームの世界みたいだとさえ思った。僕が主人公のゲーム。
 だけど、ただご都合主義な展開ばかりが続くゲームなんてクソゲーだ。きっと、僕の|人生《ゲーム》に相応しい何かがある筈。

『あった……』

 その本を見つけたのは偶然だった。
 間桐という家に纏わる記録。そこに記されていたのは『間桐の魔術』についてだった。本には魔術に関する様々な知識が記されていた。
 慎二は持ち前の明晰な頭脳を存分に活かし、本を読み解いた。

『やっぱり、僕は特別な人間なんだ』

 当たり前の事を再確認し、僕は優越感に浸った。
 魔術とは、知るべき者のみが知る事の出来る類のものだ。そう、特別な人間だけが知る事の出来るもの。
 僕は瞬く間に魔術の魅力に憑り付かれた。寝る間も惜しみ、魔術の勉強に明け暮れる毎日。けれど、疲れは全く無かった。
 相変わらず、勉強では学年トップ。全国模試でも上から数えた方が早いくらいだ。運動神経も鈍りを見せない。野球だろうが、サッカーだろうが、僕が参加すればエースがグランドから降りて交代する。
 これほど完璧という言葉に相応しい人間は二人と居ない。それは確信だった。

『やあ、見てくれよ桜』

 小学校の低学年くらいの時に義理の妹が出来た。理由はよく分からなかったけれど、どうやら複雑な経緯があったらしい。
 養子になるなんて、よっぽどの事情があるのだろう。桜という名の新しい家族に僕は哀れみを感じている。
 いつも暗い表情を浮かべ、幽鬼のように家の中を徘徊する桜に兄として僕は事ある事に忠告を与えている。根暗な人間より、快活な笑顔を浮かべる奴の方が好意を持てる。
 けれど、桜の態度が改善される事は無かった。瞳には絶望を宿し、いつも泣きそうな顔をしている。

『お前みたいな根暗な奴が妹だなんて知られたら赤っ恥だ。もっと、ポジティブになれよ! いきなりは無理でも、辛いとか、苦しいとか、そういう意思表明をするだけでも大分違う筈だぜ?』
『……そう』

 このたった二文字に過ぎない言葉が僕にとっての始めての桜の言葉だった。
 予想外に嬉しかった。些細な変化だったが、これで根暗な性格を改善する目処が立った。
 僕は少し誇らしくなった。何でも出来る僕にとって、妹を変える事が出来ないというのは大きな挫折だったからだ。
 桜を元気いっぱいにしてみせる。それが僕の人生に置ける最初の|試練《イベント》だと信じていた。

『なんだ……、これ?』

 ある日の事だった。僕は夜中に目を覚ました。すると、廊下で物音が聞こえた。
 何だろう。こっそりと廊下に顔を出すと、桜が居た。虚ろな顔でゆっくりと歩いている。夢遊病かもしれない。
 僕は慌てて後を追い掛けた。桜が夢遊病患者だとは知らなかった。もしかしたら、階段で転んでしまうかもしれない。花瓶を落として怪我をしてしまうかもしれない。
 妹の健康管理も兄の責務だ。僕は義務感に突き動かされながら廊下を走った。すると、突然桜の姿を見失ってしまった。
 目を離したつもりは無かった。桜が消えた場所の周囲に目を凝らす。すると、奇妙なものに気が付いた。壁に薄っすらと線がある。指で線を撫でてみると、壁がゆっくりと動き出した。
 この家に生まれて十三年。こんな隠し扉があったなんて知らなかった。間違い無い。桜はここに居る。
 僕は好奇心に突き動かされながら隠し扉の中へと足を踏み入れた。

『さく、ら……?』

 隠し扉の先は階段になっていた。驚く程深い。
 慎重に降りていく。肌寒さと嗅ぎ覚えの無い異臭に心臓が高鳴る。
 階段を降り切ると、僕の視界に奇妙な光景が浮かび上がった。
 宙吊りにされている桜。腕を無骨な鎖で拘束され、上半身は裸に剥かれている。下半身は波打つ液体らしきものの中に沈み込んでいる。

『に、いさん』

 ドキリとした。桜が始めて僕の事を兄さんと呼んだ。
 だけど、目の前の光景が僕に与えた衝撃はまだ消えていない。一体、どうして桜がこんな地下空間で拘束されているんだろう。
 湧き上がる疑問の答えを探るべく、僕は目の前の波打つ液体に足を踏み入れようとした。
 そして、

『……あ』

 僕は見てしまった。足下に広がる液体の正体。否、それは液体ですら無かった。
 蟲。それも、男の性器にしか見えない気持ちの悪い蟲の大群。あまりにもおぞましく、僕は込み上げてきた吐き気を抑え切れなかった。
 僕が吐瀉すると、その吐瀉物に例の蟲が集まり、食べ始めた。
 僕は狂乱したかのように叫び声を上げ、白目を剥いて気を失った。
 
『兄さん……』

 桜の声で目が覚めた。
 僕は桜の部屋のベッドで横になっていた。
 起きて直ぐ、僕は桜を問い詰めた。
 
――――あの地下の空間は何だ?

――――お前はあそこで何をしていたんだ?

――――あの気色の悪い蟲は何だ?

 溢れ出す疑問を矢継ぎ早に桜に浴びせかけた。
 桜は最初、躊躇うように眉を顰めた。けど、僕は黙秘権の行使を許可しなかった。

『答えろ!!』

 気が付くと、僕は桜に暴力を振るっていた。
 自分が理解出来ない事を愚鈍な桜が理解している。その現状が許せなかった。
 その上、僕の質問にいつまで経っても答えずにぐずぐずしているのが気に喰わなかった。

『答えろよ!! じゃなきゃ、もう一発……』

 そこまで言って、僕は我に返った。

『……ごめん』

 ポツリと謝ると、桜は首を横に振りながらゆっくりと口を開いた。
 桜は全てを語った。
 自分が魔術師である事。間桐の家が既に没落しているという事。
 僕は桜を何度も殴った。時には蹴り飛ばしながら、罵声を浴びせた。
 許せない。僕は特別なんだ。僕こそが特別なんだ。間桐の魔術を受け継ぐのは僕の筈なんだ。なのに、こんな愚鈍な奴が魔術の修練をしていただって? 僕は未だに魔術について父からも祖父からも教えられていないのに。
 桜が話し終えると、怒りに身を任せ、桜が立ち上がれなくなるまで暴力を振るい続けた。漸く怒りが落ち着くと、僕は桜の髪を引っ張り頭を上げさせた。

『僕が受け継ぐんだ。返せよ、間桐の魔術を僕に!!』

 僕が言うと、桜は目を細めた。馬鹿にされたと思い、僕は再び桜の頭を床に叩きつけ、腹を三回蹴った。
 嘔吐する桜の姿に漸く怒気が静まった。

『……じゃ、あ。受け入れ、てみ……ます、か? これを……』

 吐瀉物には血が混ざっていた。さすがにやり過ぎたかと不安になっていると、桜が例の蟲を持ち上げながら言った。

『間桐の魔術が欲しいなら、ここにありますよ』

 そう言われて、僕は蟲を見た。
 やはり、どう見ても男性器にしか見えない。だけど、それが間桐の魔術であると認識した瞬間、その蟲が素晴らしく崇高な存在に見えた。
 古代ローマではペニスを模したアクセサリーが流行ったと聞く。恐らく、魔術に於いて、性器は重要な意味を持つのだろう。
 僕は桜の手から蟲をひったくると、自分の腕に這わせた。

『これが、間桐の……』

 口元に笑みを浮かべた瞬間、世界が崩れた。全身に隙間無く針を刺されたかのような激痛が走る。
 目がチカチカし、喉は焼けた鉛を呑まされたかのように熱い。全身が重くなり、立っていられない。
 
『やめろ。やめろ。やめてくれ。こんなの嫌だ。やめて。助けてくれ』

 みっともなく、僕は懇願した。この痛みから解放してもらう為なら何でも出来た。
 一秒足りとも耐えられない。

『大丈夫ですか?』

 桜の声と共に痛みが引いた。けれど、痛みの余韻が残り続けている。
 気が狂いそうだった。まるで、生きながらに燃やされ、地面に生き埋めにされたかのような壮絶な苦しみだった。

『い、今のは……』
『今のが魔術を使うという事です』
『……え?』

 桜は語った。
 僕が一秒足りとも耐えられないと感じた痛みを桜は一日中味わい続けているのだと。
 食事の時も排泄の時も常にこの痛みを味わい続けていると言う。

『う、嘘だ……』
『これが魔術を使うという事です、兄さん』
『で、出鱈目だ。こ、こんなの!!』

 ベッドの上で頭を抱える僕に桜はそっと近寄って来た。

『とても辛いんです』

 桜は言った。

『だけど、もう慣れました。……いえ、我慢出来るようになったんです。この痛みを我慢出来るようになるまで、三年以上も掛かっちゃいました』

 僕はゾッとした。三年間もあんな痛みを受け続けていたら気が狂ってしまう。

『兄さん。この痛みを知って尚、魔術を求めますか? 兄さんが求むなら……』
『い、要らない!!』

 僕は咄嗟に答えていた。
 つい数刻前までとは全く反対の答えを叫んでいた。
 
『こ、こんな……、こんな……』

 僕は首を横に振りながら繰り返し呟いた。

――――こんなの、僕の欲した魔術なんかじゃない。

『これが魔術ですよ』

 桜はまるで僕の心を見透かしたかのように言った。

『兄さん、言いましたよね?』
『な、なんだよ……』
『意思表示をしろって』

 桜はの言葉の意味を理解するより早く、僕はファーストキスを奪われた。
 
『な、何を!?』
『私、とても苦しいんです』

 顔を歪めながら言う桜に僕は不可解な感情を覚えた。
 心配になったのだ。
 さっきまで、散々暴力を振るったくせに、僕は桜が心配になった。

『だ、大丈夫なのかよ!?』
『辛いです。だから、助けて欲しいんです』
『た、助けてって、どうすれば……』

 魔術の肩代わりをしろと言われても、今更無理だ。
 あんな痛み、一瞬と言えど肩代わりなんてしたくない。

『私を抱いてください』
『抱いて……て?』
『ああ、まだ知りませんよね。兄さん、私が教えてあげます。大丈夫。兄さんもとっても気持ちいい筈ですから』

 僕が桜の言葉の意味を理解したのはそれからほんの数刻後の事だった。
 僕はこの日、始めてセックスを覚えた。それからの日々は同じことの繰り返しだ。
 桜は毎日僕を求め、僕は応えた。セックスの快楽を知った僕は四六時中、その事ばかり考えるようになった。
 時には口を使ったり、尻の穴を使ったりしながら僕は毎日桜の体を堪能した。
 罪悪感は快楽と怒りで塗り潰せた。
 
『……遠坂、凛?』

 高校に上がり、ある程度、性欲を抑えられるようになり、怒りの感情を完全に失い、罪悪感に崩れ落ちそうな日々を送っていると、桜が唐突に言った。
 自分の名前は『遠坂凛』であると。
 そして、桜の過去を教えられた。僕はその頃、もう後戻り出来ないくらいに桜……、いや、凛にゾッコンだった。
 凛に触れる事に罪悪感を抱きつつも、凛を求めてしまう。その罪深さに押し潰されそうだった。
 そんな折に聞かされた間桐の罪と凛の壮絶な過去。僕は追い詰められた。今までとは比べ物にならない罪悪感に襲われた。
 そして、哀しかった。
 僕は凛が好きだ。愛している。だけど、そんな事を口にする資格は無い。
 己の快楽の為に散々凜を犯して来た。暴力的な行為を強要した事も一度や二度じゃない。その上、間桐は凜の家族を悉く奪ったらしい。
 こんな僕がどの面下げて凜に告白出来ると言うんだ。
 哀しむ事すらおこがましい。最低で最悪なクズだ。
 償えるものなら償いたい。だけど、僕に出来るのは罪を重ねる事だけだ。
 凜は男の精子を定期的に得る必要がある。そういう体質にしたのも間桐だった。
 僕が断れば、凜は他の男を適当に見繕うだろう。それが嫌で、僕は凜の誘いを断れずに居る。
 いや、それもただの言い訳だ。僕はこんな罪に塗れた状態でありながら、それでも凜を抱きたがっている。彼女が上げる嬌声や悲鳴を聞きたがっている。
 
『僕は……』

 償いたい。償う方法が欲しい。
 彼女が欲しい。体だけでなく、その心も欲しい。そんな浅ましい考えを抱きながら、僕は償いを求めている。

『臓硯が死んだわ』

 ある日、凜が唐突に言った。
 最初は何を言われたのか分からなかった。
 臓硯は間桐の家の頭首であり、数百年を生きる妖怪だ。間桐の罪は臓硯の罪と言い換えても間違いでは無い。
 多くの人間を不幸に陥れた男。
 その男が死んだ。直ぐに納得出来る話じゃなかった。けれど、凜の言葉は直ぐに証明された。地下の蟲蔵に犇いていた蟲が一匹残らず灰になっていたのだ。

『私のサーヴァントがやったの』

 凜は笑顔でそう言った。

『サーヴァント……って』
『兄さん。もう、あなたを縛る物は何も無いわ』

 凜は言った。

『第五次聖杯戦争が始まるの。だから、兄さんは冬木を離れて欲しい』
『な、何言ってるんだよ……。だって、臓硯が死んだなら、お前だって……』

 凜はこんな最低な男の身を案じてくれた。
 だけど、自分は残ると言った。
 分からない。臓硯が死んだ今、どうして残る必要があるんだ。

『私が引いたカードは最強の英霊。彼を召喚した以上、私に逃げる事は許されないの』
『そんな、馬鹿な……』
『私に残された道は二つに一つ。戦い抜き、勝利するか……、それとも、戦い半ばでノタレ死ぬかよ』
『そんな……』
『兄さん。すぐにも聖杯戦争は始まる。だから、今夜中に街を出て……』
『凜……』

 凜は僕に背を向けて去って行った。
 開戦前に下調べをするらしい。見送りを出来るかどうかは分からないと言われた。
 聖杯戦争が本格的に始まったら、凜は勝つか死ぬかの選択を迫られる。
 僕は……。

『ここか……』

 僕は凜が召喚を行ったらしい部屋を探し出した。灰の山が広々とした空間から続いていたから直ぐに分かった。
 出来るかどうかなんて問題じゃなかった。ただ、出来る事を探した結果、それしか見つからなかっただけの話だ。
 僕は英霊の召喚を行った。
 呪文は記録書に記されていた。けれど、触媒なんてものは用意出来なかった。
 触媒無しでの召喚では自分に近しい性質を持った英霊が招かれるらしい。だとすれば、さぞかしおぞましい英霊が呼び出される事だろう。
 きっと、穢れに満ちた悪魔が召喚される筈だ。最低で最悪で愚かで下賎な屑に相応しい悪魔が……。
 それでもいい。悪魔だろうが、凜を勝利者にし、生き延びさせる事が出来ればそれでいい。その為なら、命だって惜しくない。僕の犯してきた罪を償えるなら、命なんて安いもんだ。
 彼女がこの戦争を生き抜き、その果てに幸福な未来を掴めたなら……。その為に僕の力が助けになれたなら……。
 もしかしたら、彼女の心を手に入れられるかもしれない……。

 一人の少年の人生を追憶し、アサシンは静かに片膝をついた。

「主よ。貴殿の望みをしかと承った。安心して、我が内に眠るがいい」

第八話「魔術師二人」

 夜の冬木を歩くのは十年振り。太陽が沈んで尚、街は光に満ちている。人の数は昼間よりむしろ増えている気さえする。会社帰りの酔っ払ったサラリーマンが千鳥足で街を闊歩し、若者がコンビニの前でたむろっている。みんな、この街で起きつつある異変に気付いていない。過去の伝説にその名を記す英霊達の殺し合いが始まろうとしている事に気付いていない。
 英霊同士のぶつかり合いは戦争の名に相応しい被害を及ぼす。家々は破砕し、人が死ぬ。誰一人犠牲にならない結末などあり得ない。
 唾棄すべき所業だ。だけど、私はこの戦いに参加する。この街の人々の安寧を打ち砕く一端を担う。彼らの不幸を糧として、己が願いを叶える為に……。

第八話「魔術師二人」

「これは……」

 異変に気付いたのは新都を一通り見て周り、深山町に戻って来た時だった。
 冬木大橋を渡り終え、海浜公園に向かって歩いていると、不意に生き物の気配が消えた。さっきまでチラホラと居た通行人が姿を消し、鳥の鳴き声が聞こえなくなっている。
 じわりと額から汗が流れ落ちた。

「結界……?」

 どうやら、私は敵の領域に足を踏み入れてしまったらしい。嘗て、|アーチャー《エミヤ》の夢で見た未来の自分なら決してしないようなミス。
 気を落ち着かせ、辺りを警戒しながら一刻も早く離脱しよう走り出す。|アーチャー《ギルガメッシュ》は蟲蔵で別れたっきり姿を現さない。今、傍に居るのかどうかも定かじゃない。いざ戦闘に入ったとしても、万一、ギルガメッシュが傍に居なかったら為す術無く殺されるのがオチだ。令呪も無い今、この状況は致命的だ。

「逃げなきゃ――――」

 今来た道を駆け戻ろうとした、その瞬間、上空から無数の光が降り注いだ。

「!?」

 目視した瞬間に障壁を構築した。幼少期に齧っただけの未熟な障壁は光の雨を前に軌跡を逸らす事しか出来ない。

「――――ッ!!」

 声も無く絶叫しながら凄まじい光の豪雨が止むのを待つ。肌が焼け焦げ、肉の焼ける嫌な臭いが鼻をついた。

「グッ」
 
 あまりの痛みに目尻に涙が浮かぶ。躯を僅かにも動かす事が出来ない。少しでも動けば全身がバラバラになってしまう気がした。
 しばらくすると、光の嵐が不意に止み、障壁を解除せずに私は顔を上げた。遠くの空、高い建物の上にポツンと佇む影が見えた。なんだろう、目を凝らすと、唐突に影は消え、背後から声がした。

「どうやら、見込み違いだったようですね」

 鋭い声と共に首筋に冷たい感触が走った。
 
「御三家の一角、間桐の魔術師とお見受けします」
「……貴女は?」

 全身を苛む火傷の痛みに意識を失いそうになりながら、必死に頭を働かせる。
 この状況で助けに来ないという事はギルガメッシュは近くに居ないという事。
 なら、自分の力でこの場を切り抜けるしかない。

「魔術協会所属、封印指定執行者。バゼット・フラガ・マクレミッツと申します」

 彼女の言葉の中で私が理解出来たのは魔術協会という言葉とバゼット・フラガ・マクレミッツという名前だけ。『封印指定の執行者』という言葉が何を意味するのかは分からない。
 けれど、穏便な言葉では無い事だけは分かる。

「……わた、しに何か用かしら?」
「此方からの要求は一つ。令呪を破棄し、聖杯戦争から降りなさい」
「断る……、と言ったら?」
「拒否権はありません。自らマスターである事を辞退するならば良し。そうでないなら、殺すだけ」

 そう言った刹那、私の体は宙に浮いた。痛みを認識するより早く、私の体は地面を手毬のように弾んだ。
 視界が真っ赤に染まり、直後に痛みの波が押し寄せて来た。十年間受け続けて来た拷問の痛みを遥かに凌駕する痛み。
 壮絶な痛みに思考が全て持っていかれた。逃げなければいけない筈なのに、逃げるという選択すら出来ない。そうこうしながら蹲っていると、バゼットが傍までやって来た。
 明滅する視界の中に彼女の姿を捉え、私は本能のままに逃げ出そうと地面を蹴った。その瞬間、バゼットの手が私の右腕を捕らえた。そして、バキンッと音を立てて骨が砕けた。

「アアアァァァアアアアアッ!!」

 あまりの痛みに気が狂いそうになった。腕が焼けた様に熱い。

「抵抗は無意味です。貴女では戦う事はおろか、逃げる事すら出来ない」

 脇腹に衝撃が走った。乾いた音が響き、そのまま私の体は地面を何度もバウンドしながら飛び跳ねた。ゼェゼェと息を吐きながら、堪えられない吐き気を感じ、そのまま吐き出した。
 真っ赤な血の塊が地面に広がり、脇腹から痛みがジンジンと響く。脇腹の骨が折れたらしい。口から血を吐いたのは、内臓に突き刺さった脇腹の骨のせいだろう。視界が真紅に染まり、空間が歪む。
 彼女の言う通りだ。私では彼女から逃げる事も出来ない。

「妙ですね……」

 バゼットは言った。

「これだけやってもサーヴァントが姿を現さないとは……」

 怪訝そうに眉を潜めると、バゼットは私の服の襟を掴んで無理矢理体を起こした。

「――――ッ!!」

 あまりの痛みに絶叫した。全身が火で焼かれた様に熱を発している。

「貴女は本当にマスターですか?」

 マスターじゃない。そう言えば、解放してもらえるかもしれない。
 だけど、それだけは言えない。それを言えば、きっと、あのサーヴァントが私を殺す。
 選択肢は二つに一つ。目の前の女に殺されるか、自分のサーヴァントに見限られて殺されるかのどちらかだ。
 ああ、痛い。でも、段々と慣れて来た。十年間、痛みに慣れる訓練は積んで来たつもりだ。全身を紅蓮の業火で焼かれるが如き激痛も、私にとっては慣れ親しんだものだ。
 頭に冷静さが戻り始める。それと同時に怒りが込み上げてきた。怒りの矛先はあのサーヴァントだ。
 どうして、私を助けないんだ。戦いの時は手を貸すと言った癖に、肝心な時に居ないなんて……。
 しかも、私がマスターである事を放棄したら確実に殺しに来るだろう。それだけは間違い無い。ほんの僅かな会合の内にあのサーヴァントの傍若無人な人柄は理解出来た。
 人類最古の英雄王の名に相応しき理不尽さ。
 ああ、本当に頭に来る。

「答えなさい。貴女がマスターでないなら、間桐は誰をマスターにしたのですか?」

 ふざけるな。

「確か、間桐には他に三人居ましたね。ですが、長男である間桐慎二には魔術回路が枯渇していると聞きました。ならば、間桐鶴野が……? それとも、何らかの方法を使い、間桐慎二をマスターに? 虱潰しもいいのですが、貴女が答えてくれれば手間が省けます。ついでに知っている限りの情報も。どうでしょう? 素直に白状するなら、命だけは保障しますよ?」

 冗談じゃないわ……。

「大人しく、間桐のマスターの情報を渡しなさい。貴女だって、これ以上怪我をしたくないでしょう」

 優しく諭すようにバゼットは言った。

「ず、随分と無作法ね……。自分から贈り物をねだるなんて、淑女にあるまじき事だわ」

 苦し紛れの挑発。私に出来る事なんて、それだけだ。
 今、間桐の家に残っているのは慎二だけだ。彼をマスターだと偽れば、私は助かるかもしれない。
 だけど、その後に己がサーヴァントに殺されるだろう。その上、慎二まで殺される羽目になる。
 慎二はただの玩具だ。だけど、他人に壊されるのは癪だ。

「生憎と……、そう言った教育は受けていません。それに、私には……」

 体が宙に浮く。あまりの衝撃に意識が飛びそうになった。

「不要」

 私は投げ飛ばされ、地面を転がりながら備え付けのベンチに叩きつけられた。
 頭痛が酷く、視界が安定しない。もはや、自分が生きているのか死んでいるのかすら分からない。
 そんな中、不意に奇妙な光景が脳裏に浮かんだ。走馬灯という奴かもしれない。
 私は幼い頃に立ち戻っていた。

『大丈夫か、マスター』

 彼は私を心配そうに見つめた。
 共に長く短い戦いを潜り抜けた相棒。
 大きな背中で私を守ってくれた人。
 
――――大丈夫だよ、アーチャー。

 視界が元に戻った。何の因果だろう。
 この場所は私がアーチャーを召喚した後、気を失った私をアーチャーが連れて来てくれた場所だ。
 私は友達を失ったばかりで、深い悲しみを感じ、彼に泣き付いた。
 そう、ここは私の始まりの場所でもある。ただの子供から魔術師へと生まれ変わった場所。
 ああ、そうだ。私はこんな場所で死ねない。だって、彼と約束したのだから……。
 生きるんだ。私は生き続けるんだ。こんな所で死んでなんていられないんだ。

「後顧の憂いは絶たせて頂きます。間桐のマスターは虱潰しに探すとしましょう。確立は三分の一。そう手間も掛からないでしょう」

 死んで堪るか……。
 私は生きるんだ。
 だから……、

「さようなら、間桐桜」
「さっさと助けに来てよ、アーチャー!!」

 鋼鉄の音が響く。目の前に巨大な剣が何本も地面に突き刺さり、私とバゼットの間に立ちはだかっていた。

「無様だな、小娘。だが、貴様の足掻きは中々に見応えがあった。褒めてやろう。道化としては上出来だ」
「それは……、どうも」

 血反吐を吐きながら、私はギルガメッシュを睨み付けた。
 こいつはずっと見ていたんだ。にも関わらず、姿を現さなかった。私が痛めつけられているのをただ眺めていたんだ。

「そう不服そうな顔をするな。我は先刻告げていた筈だ。『戦いの時は呼べ』、とな」

 本当にふざけている。
 つまり、私が呼ばなかったから、こいつはただ傍観するに徹していたというわけだ。
 |アーチャー《エミヤ》とは雲泥の差だ。こんな奴に自分の命運を賭けなければならないなんて、悪い冗談だ。
 だけど、私が持ち得る|手札《カード》はこいつだけ。だから、今は怒りを腹の底に仕舞っておく。

「頼むわよ、アーチャー」
「まあ、見ていろ。所詮は座興だが、愚劣な雑種共に王の威光を知らしめてやるとしよう」

 悠然と構えながらギルガメッシュは言った。

「それが貴女のサーヴァントですか……。なるほど、自身の身に余る高位の英霊を呼び出したわけですね」
「まあね……」
「まあ、良いでしょう。何はともあれ、これで漸く、聖杯戦争が始まるわけですし」
「ああ、そして貴様の聖杯戦争はここで終わる」

 ギルガメッシュの言葉に呼応するように、彼の背後の空間が歪み始めた。
 そして、一本の剣が歪みから飛び出した。人智を越えた速度で飛来する剣を前にバゼットは立ち止まったまま。
 決まった。私がそう確信した直後、甲高い金属音が鳴り響き、剣が彼方へと弾き飛ばされた。

「マスターはマスター同士。サーヴァントは……サーヴァント同士ってのが、聖杯戦争の基本だろ?」

 飄々とした態度で現れたのは夜に溶け込む群青の鎧に身を包んだ長身の男。
 獣の如き粗暴さを漂わせ、手には紅の槍が握られている。

「ラン、サー……?」
「御明察。そう言うお譲ちゃんのサーヴァントはセイバー……って風じゃないな。今の攻撃。アーチャーか?」

 背筋が凍りつく。飄々とした男の声が今まで聞いたどんな言葉とりも冷たく恐ろしい。
 苛烈な拷問を強いた鶴野や臓硯ですら、この男の前では矮小な存在に成り果てる。
 これが英霊。歴史、伝説、逸話にその名を記す英雄の霊。
 
「これでも礼節は弁えてるつもりだ。そら、|弓《エモノ》を出せよ、アーチャー」

 ギルガメッシュの顔は背を向けられているから分からない。けれど、直接向けられたわけでも無いのに、私は彼の放つ殺気に身を震わせた。

「雑種如きが我に指図をするか……。王たるこの我に……」
「あ?」
「分を弁えぬ愚か者め。せめて死に様で我を興じさせよ」

 アーチャーが指を鳴らすと、先程と同じようにアーチャーの背後の空間がまるで水面の如く揺らめいた。
 波紋が幾重も広がり、無数の武具が姿を現した。

「――――ッ!?」

 理解を超えた光景。驚き、息を呑む音は誰のものか。
 一つ一つが馬鹿げた魔力を漲らせている。どれも嘗て見た、英雄達の誇る宝具に匹敵する魔力を迸らせている。

「さあ、踊れ」

 王の号令と共に、無数の刃の軍勢がランサーに向かい降り注ぐ。
 一つ一つが必殺の力を秘めた宝具。そんな物を雨のように降らせる英霊を私は嘗て見た事がある。
 私の嘗ての相棒。衛宮士郎。
 十年の時を経て、新たに召喚した英霊が彼と同じ戦法を使っている。
 私は圧倒され、魅了された。
 |アーチャー《エミヤ》と|アーチャー《ギルガメッシュ》の違いは降らせる宝具の真贋の差にある。
 |アーチャー《エミヤ》の宝具はあくまで彼の魔術によってコピーした贋作だった。けれど、|アーチャー《ギルガメッシュ》の宝具はどれも本物。

――――|王の財宝《ゲート・オブ・バビロン》。
 
 人類最古の英雄王の誇る宝具は『この世全ての宝具の原典』。私の|目《・》にはその詳細が鮮明に浮かび上がっている。
 完全に反則だ。劣化無しの宝具を無数に使えるなんて、ほぼインチキだ。
 さすがはお父様が最強と称し、召喚を狙った英霊だけある。この英霊の前ではどんなに勇名を轟かせた英霊の名も霞む。
 最強のサーヴァント。その名に偽り無し。

「その程度か?」

 にも関わらず、ランサーは前進した。宝具の豪雨を前に恐れを微塵も感じていない。
 見れば、いつの間にかバゼットが姿を消している。
 懸命な判断だが、この状況下でその判断を即座に下し、実行するなんて半端じゃない。
 ギルガメッシュが最強のサーヴァントなら、バゼットは最強のマスターだ。
 そんな最強のマスターが用意した手駒が生半可な英霊である筈が無かった。
 ランサーは宝具の豪雨の中を悠々と突き進む。

「うそ……」

 理解出来ない。あの暴虐の嵐をまるで何でも無いかのように歩めるなんて尋常じゃない。

「ほう……、矢避けの加護を持っていたか。たかが犬の分際で大したものだな。そうは思わぬか? 小娘」
「えっと……」
「……犬、だと?」

 答えん窮していると、不意に心臓が握り潰されたかのような錯覚を覚えた。
 あまりにも濃密過ぎる殺気。鬼気迫る表情を浮かべたランサーがギルガメッシュを睨み付けている。
 
「犬と言ったか、貴様!!」

 猛るランサーに対し、ギルガメッシュは余裕たっぷりな態度で返した。

「躾のなっていない犬だな。我らの会話に横槍を入れるとは……。まあ、王に噛み付こうとする時点で狂犬であったか」
 
 そう言いながら、ギルガメッシュは何故か私に顔を向けた。

「……どうした? 笑っても良いのだぞ」
「……え?」
「……ん?」

 私とランサーの声が重なった。
 えっと、どういう事だろう。今のどこに笑うべき所があったのかしら。
 彼の言葉を一つ一つ検証してみてもさっぱり分からない。と言うより、いきなりどうしたんだろう。

「横槍よ。ランサーと槍を掛けたジョークだ。何故、理解出来ないのだ!?」

 どうしよう。意味が分からない。元々、理解の及ばない存在だったけど、ここまで理解出来ないとむしろ笑えてくる。

「おお、理解出来たか!」
「……え?」

 ギルガメッシュは勝手に何かを納得した。
 分からない。人類最古の英雄王の考えが理解出来ない。

「……ッハ、この期に及び、俺をおちょくるとはな」
 
 ランサーは既にギルガメッシュの目と鼻の先まで迫っていた。

「ア、アーチャー!」
「囀るな、小娘」

 ランサーの槍がギルガメッシュに迫る。ソレを彼は黄金の双剣で防いだ。

「光栄に思え。冗談を解せぬ愚かな頭を我の宝剣で打ち砕いてやろう」
「ッハ、その前にオレの槍でその茹った頭を串刺しにしてやるよ」
「ククッ、言ったな、狂犬。ならば、死力を尽くし、我を愉しませてみるがいい!」
「――――赤い棘は茨の如くってな。まあ、触れたら痛いじゃ済まないけどな!!」

 瞬間、金属と金属がぶつかり合う甲高い音が鳴り響いた。音は鳴り止む事無く、まるで曲を奏でるが如く夜気を裂いた。

「その程度か、狂犬」
「ほざくな!!」

 戦況は大きく様変わりした。二人の距離は二メートルにも満たない。奔るは迅雷。剃らすは疾風。
 本来、ランサーが繰り出す稲妻の如き槍撃に対して、躱そう、などと試みる事に意味は無い。それが稲妻である以上、人の目で捉えられるものではないからだ。だが、その条理をギルガメッシュは双剣によって覆す。如何に弓兵と言えど、アーチャーとてサーヴァント。通常の攻め手など、決めてにはなり得ない。その面貌に浮かぶのは凍てつく夜気の如き冷笑。奔る真紅の軌跡を黄金の軌跡が打ち払う。
 間合いを詰めようと前に出るランサーの足をギルガメッシュは柳の如き剣捌きで縫い止める。

「ハッ、中々やるなッ! だが――――ッ」

 烈火の如き気性に乗せられる槍撃の一つ一つには正しく必殺の力篭められている。ギルガメッシュは守りに徹する事を余儀無くされ、顔を顰める。
 本来、間合いを取り、敵を迎え撃つという戦法こそが槍の本領であるにも関わらず、その定石をあざ笑うかの如く、ランサーは前進する。

「なるほど、貴様も世に武名を轟かせた英雄の一角なだけはある」

 一際高い剣戟と共にギルガメッシュはランサーから距離を取った。そうはさせじとランサーが距離を縮めようとするが、その間に無数の刃が降り注いだ。
「またこれか……」
「ああ、褒めてやろう。我を愉しませた褒美だ。存分に味わうが良い」
「――――ハッ、おもしれぇ」

 ランサーは獰猛な笑みを浮かべ、一足飛びで大きく後退した。
 瞬時に離された両者の距離は百メートルを超え、ギルガメッシュはランサーの後退にその意図を悟った。
 即ち、ランサーの後退の意図とは必殺の間合いを取った事に他ならない。
 獣の如く四肢を大地に付けるランサーにアーチャーは百を超える宝具を放つが、掠るだけでも致命的な暴虐の嵐の中心で、ランサーは平然とした表情を受けべている。

「ッチ」

 舌打ちをするギルガメッシュにランサーは凶暴な笑みを浮かべる。

「――――狙うは心臓。謳うは必中……」

 ランサーは腰を持ち上げ、疾走直前のスプリンターの如き体勢を取った。

「――――行くぜ。我が一撃、手向けとして受け取るがいい!!」

 瞬間、ランサーは青色の残影となり、疾風の如くギルガメッシュへと疾駆した。
 刹那の間に五十メートルの距離を詰めると、ランサーは高く跳躍した。
 無数に襲い掛かる宝具の群を欠片も恐れる事無く、手に握る真紅の槍を大きく振りかぶる。
 アーチャーは再び舌を打つと、宝具の投擲を中断した。そして、空間の揺らめきから新たなる武具を取り出した。

「――――|刺し穿つ《ゲイ》」

 天高く飛翔したランサーの口から紡がれるは伝説に曰く敵に放てば無数の鏃となりて、敵を滅する魔槍の名。
 生涯、一度たりとも敗北しなかった常勝の英雄の持つ破滅の槍は空間を歪ませる程の魔力を纏い、主の命を今や遅しと待っている。

「|死翔の槍《ボルグ》――――ッ!!」

 怒号と共に放たれた真紅の魔槍は防ぐ事も躱す事も許されない。
 正しく、必殺。
 この魔槍に狙われ、生き残る術などありはしない。
 しかし、

「我を守護せよ」

 ギルガメッシュの号令に呼応し、黄金の輝きが魔槍の進撃を止めた。
 まるで獣の雄叫びの如き叫び声が戦場に轟き、ランサーは目を瞠った。

「――――それは、クルフーア王の!!」

 ランサーの驚きを尻目にランサーの全魔力を注がれた真紅の魔槍は黄金の盾を蹂躙する。
 嘗て、山三つを消し飛ばした大英雄の斬撃を受けながら傷一つつかなかったとされる至高の盾は四つの外殻の内、一つ目を打ち破られながら尚、高らかに吠え、二つ目が破られようとも所有者を鼓舞するか如く叫び続ける。
 されど、必殺を誓う真紅の魔槍はソレを嘲笑うか如く三つ目の外殻を打ち破る。
 最後の一つとなった盾は烈火の怒号を上げ、アーチャーは最期の一枚に己が魔力を残さず注ぎ込んだ。

「馬鹿な――――」

 地に降り立ったランサーは目前のサーヴァントを凝視した。無数の宝具には驚かされたが、その程度の常識外れは戦場の常だ。だが、解せない。
 何故、あの男が嘗て己が使えた王の盾を所有しているのか?
 最強の一撃。自らを英雄たらしめる一撃を防がれたランサーはその盾が紛れも無く本物であると確信した。それ故に眼前のサーヴァントの正体が不可解だった。

「貴様、何者だ?」
「我が宝物を目にしながら、まだ分からぬか」

 ランサーの問いにギルガメッシュは不遜な態度で応えた。
 両者共に限界まで魔力をすり減らしていながら、その眼光は僅かたりとも衰えず、互いを射殺さんばかりに睨み合っている。

「そのような蒙昧、これ以上生かしておく価値も無い」

 冷たくそう言うと、ギルガメッシュは背後のゆらぎから鎖を奔らせた。

「天の鎖よ」

 鎖はまるでそれ自体が意思を持つかのように動き、ランサーの体を拘束した。

「なっ、これは!?」

 身動き一つ取れず、ランサーは殺気を漲らせた視線をギルガメッシュに向ける。
 すると、ギルガメッシュはその手に握る双剣を変形させた。二つの剣は一つとなり、弓の形を象った。

「これの名は|終末剣《エンキ》。貴様にはもったいない宝剣よ。だが、それなりに我を興じさせた褒美だ」

 弓の先に奇怪な陣が描かれ、ギルガメッシュは弦を引き絞った。
 その時だった。それまで隠れ潜んでいたバゼットが突如姿を現した。何らかの魔術を行使しようとしているらしく隠形の術が解けたのだ。
 ギルガメッシュはその者の持つソレに目を瞠った。
 彼が驚愕する程の物。私はバゼットに視線を向けた。
 バゼットは拳の上に球体を浮かばせ、真っ直ぐにギルガメッシュを睨み付けている。

「きっ――――」
「|後より出でて先に断つ者《アンサラー》」
「貴様!!」

 ギルガメッシュが彼女の浮かべる球体の正体に気が付いた時には既に矢を放った後だった。
 黄金の輝きがランサー目掛け飛来する。
 それを迎撃するかのように、バゼットはその手に浮かべる奇跡の真名を紡ぐ。

「|斬り抉る戦神の剣《フラガラック》ッ!!」

 それが、ランサーのマスターであるバゼット・フラガ・マクレミッツの秘奥の名。
 これは後から知った事。神代の魔術たるフラガラック、その力は不破の迎撃礼装。
 呪力、概念によって護られし神の剣がギルガメッシュの心臓に狙いを定め、一直線に迫り来る黄金の矢を超え、射手たる彼に向かい飛来する。
 己の切り札を解き放った直後のギルガメッシュに咄嗟に|逆光剣《フラガラック》を防ぐ手段は無く、唯人たるバゼットにサーヴァントの一撃を防ぐ手段など無い。
 この後に待ち受ける戦いの決着は相打ち。しかし、何事にも例外というものは存在する。結果として待ち受けるものが相打ちであるならば、女魔術師はその結果を勝利へと覆す。
 |逆光剣《フラガラック》が斬り抉るは敵の心臓では無く、両者相討つという運命。それこそがフラガラックという神剣に宿りし奇跡。敵が切り札を行使した直後に発動し、相手が如何な高速を持とうと更なる高速をもって命中、絶命させる。
 その必中の精度、必勝の速度、必殺の攻撃力は確かに誇るべきものだろう。しかし、この魔剣の真の恐ろしさはその特性にある。
 後より出でて先に断つ――――、その二つ名の通り、フラガラックは因果を歪ませ、自らの攻撃を『敵の切り札の発動よりも先に為した』というものに書き換えてしまうのだ。
 どれほどの強力な宝具を持つ英霊であろうとも、死者にその力は振るえない。先に倒された者に反撃の機会を与えられる事は無い。
 フラガラックとは、その事実を誇張する魔術礼装であり、運命を歪ませる相討無効の神のトリック。如何に優れた英雄であろうと、歪められた運命の枠から逃れる事は出来ない。吸い込まれるように己が心臓を穿った神の剣にギルガメッシュは屈辱に満ちた表情を浮かべ、瞬時に背後のゆらぎから巨大な船を出現させた。船は宙に浮かんだまま静止している。ギルガメッシュは無数の武具を縦横無尽に降らせながら私の下へやって来た。

「ア、アーチャー!!」
「黙っていろ!!」

 ギルガメッシュは私を脇に抱えると、空中で漂う船に乗った。直後、船は九十度回転し、真上に向かって疾走した。
 体が船の中を転がる。けれど、何らかの加護が働いているのか、地に落ちる事は無い。
 
「ま、待ちやがれ!!」

 ランサーの叫び声があっと言う間に掻き消える。一瞬の内に私達は雲の中へと突入していた。
 敗北。最強の英霊たるギルガメッシュが敗北した。その理由は単純明快。マスターの差だ。
 私は慢心していたんだ。ギルガメッシュは最強だから、私が何もしなくても彼が勝利を齎してくれると思い込んでいた。
 何もせずに勝利だけを掠め取れる道理など無い。そんな単純な事を忘れていた。
 私自身、苦痛のあまり殆ど身動きが取れない状態だが、それでも立ち上がり、彼の下に向かった。

「……クク」

 ギルガメッシュは嗤っていた。

「狂犬如きが……」
「ア、アーチャー……」
「小娘。以前、我はこの戦いが貴様のものだと言ったな?」
「え、あ、はい」
「それは一端忘れよ。あの狂犬は我の敵だ。この屈辱……、奴の死をもって他に祓う方法は無い」
「で、でも、大丈夫なんですか!? その怪我……」

 私が問い掛けると、ギルガメッシュは口元を歪めながら嗤った。

「無論……と言いたいが、少し休む必要がある。一度、屋敷に戻るぞ」
「は、はい……」
「ああ、それと……」
「な、なんですか?」

 ギルガメッシュはジロリと私を睨んだ。

「その不慣れな喋り方は止めろ」
「……へ?」
「聞いていて耳障りだ。貴様の話し易い話し方で話せ」
「で、でも……」
「我が許す」
「……う、うん。分かったわ、アーチャー」
「それでいい」

 船は雲を抜け、天高く上昇した。
 星が驚く程近い。私は思わず見惚れてしまった。

「飲んでおけ」

 そう言って、ギルガメッシュは私に緑色の液体の入った瓶を投げ渡した。
 慌ててキャッチしようとした拍子に全身が酷く痛んだ。その姿にギルガメッシュは相好を崩した。

「貴様……、中々愉快ではないか」
「う、うるさい……」

 ジトッと睨み付けると、ギルガメッシュは意地悪く笑みを浮かべながら自身も緑の液体を喉に流し込んだ。
 私も彼を真似ながら瓶に口を付ける。
 美味しくない。けど、彼も同じ物を飲んでると思うと、不思議と気分が良い。
 |アーチャー《エミヤ》とはやっぱり全然違うけど、私はこの黄金のサーヴァントに少しずつ心を許し始めていた。

 地上では、バゼットが空を見上げていた。

「まずは……一体」

 最期にマスターを連れて逃亡したとはいえ、フラガラックが命中した以上、アーチャーの消滅は時間の問題だ。そう結論付け、バゼットはアーチャーに対し、もはや欠片も興味を抱かず、ランサーを伴い歩き去った。
 ランサーは立ち去る間際に溜息を零した。

「マスターが強過ぎるってのも、考えもんだぜ」

 結局、自分が為した事はマスターの為のお膳立てだ。勝つには勝ったが、女に見せ場を奪われるのは面白くない。
 次は己の槍のみで勝利を掴む。ランサーは密かに意気込みながらマスターに付き従う。

「聖杯戦争。中々、面白そうじゃねぇか」

 そう、呟きながら……。

第九話「遭遇」

 何事も気は持ちよう。聖杯戦争という異常事態に巻き込まれた事は不運としか言いようが無い。けれど、悪い事ばかりじゃないわ。
 少なくとも、セイバーと出会えた事はプラスの筈。友達は何人居てもいいものだし、彼女はとても魅力的だ。

「なあ、オレ達、こんな事してていいのか?」

 セイバーは鏡で自分の格好をチェックしながら困ったように言った。
 
「だって、霊体化したままより、実体化して実際に歩き回った方が地理が頭に入り易いでしょ?」
「それはそうだけど……」
「じゃあ、次はこのキャミソールね」
「……もうちょっと、地味なの無い?」

 私達は今、新都にあるショッピングモール・ヴェルデに来ている。
 本来の目的は戦場の下調べなんだけど、慌てて故郷の街から逃げ出して来たから、私達には着替えの服が無い。つまり、セイバーに貸せる服が無かったのだ。
 霊体化していれば問題無いんだけど、実体化した時のセイバーの服装は仰々しい甲冑姿。コスプレと言い張ってもいいけど、街を歩くには適さない。というか、一緒に歩きたくない。
 という訳で、本格的な下調べの前に私達はセイバーの服を買いに来たのだ。ついでに私の服や日用品の補充も……。
 
「マ、マスター。オレ、さすがにコレは無いだろ……」

 試しにゴスロリファッションに着替えさせてみた所、セイバーはいたく不満そうな顔をした。
 傍目から見ると、とても良く似合っている。まるで、お人形さんのよう。だけど、私もこんな格好してる奴と一緒に歩きたくない。
 うん、ゴスロリは却下ね。

「じゃあ、次は――――」
「いい加減、下調べしに行こうぜ。服選びにもう一時間以上掛けてるぞ」
「うん、もうちょっとしたらね」
「三十分くらい前にも同じ事言ってたぞ」

 セイバーは何だかグッタリしている。伝説の英雄様の癖に体力が無いわね。
 とりあえず、服選びはこの辺にしておこう。まだまだ、他にも見て回りたいお店があるしね。

「じゃあ、とりあえずお会計済ませてくるわ」
「やっとか……」

 ちゃっちゃとお会計を済ませ、セイバーに荷物を持たせて次のお店に向かう。

「ちょ、この状態で敵と遭遇したらどうすんだよ……」

 両手に紙袋を三つずつ持ちながらセイバーが文句を垂れる。
 さすがに持たせ過ぎたかしら……。

「ごめんごめん。半分持つから貸して」
「いや、そういう意味じゃなくてよ。幾らなんでも買い過ぎだろ!!」
「だって、着替えは全部家にあるんだから仕方無いじゃない! 私、二日連続で同じ服を着るなんて絶対嫌だもの!!」
「だからって、どんだけ買ってるんだよ!?」
「言っておくけど、これでもまだまだ全然足りないんだからね!! 下着だって、全部置いてきちゃったんだから……。お気に入りのだけでも取りに帰りたいわ……」
「おい、絶対止めろ。お前、自分がどんな立場に立ってるのか分かってるよな!?」
「分かってるわよ……。でも、こんなの最低……」

 涙が出て来た。タッツン達と一緒に選んだ服や期間限定発売のアクセサリーも全部家に置いて来ちゃった。
 今着てる服なんて昨日と同じ物を続けて着回してる。最悪だわ。
 ネガティブになっていると、隣でセイバーが深い溜息を零した。

「分かったよ。アンタの気が済むまで付き合ってやるから、元気出せよな」
「……ありがと、セイバー」
「いいさ。アンタは暗い顔より明るい顔の方が似合ってる」
「……へへ」
「そうそう、その笑顔だぜ、マスター」

 相好を崩すセイバーに私は兼ねてから思っていた事を告げた。

「セイバー。私の事はイリヤって呼んでよ」
「……ああ、分かった。んじゃ、次はどの店に行く? イリヤ」
「次は……」

第九話「遭遇」

 結局、買い物は夕方まで掛かってしまった。セイバーは諦めたような顔をしながら私の荷物を全部持ってくれている。
 本が十冊にアクセサリーの入った袋が三つ。洋服の袋が三つと日用雑貨の入った大きな紙袋が二つ。
 改めて見ると物凄い量の荷物だ。時々、道行く人々が好奇の眼差しを投げ掛けて来る。

「だ、大丈夫?」

 声を掛けると、セイバーは深い溜息を零した。

「今日は下調べは無しだな。買い物が終わったら、とりあえずホテルに戻ろうぜ。さすがに、こんな荷物持って戦うなんて不可能だ」
「う、うん。その……、ごめんね?」
「今日限りだぞ。明日からは真面目にやれよな」
「はーい」
「んじゃ、帰るか……」
「あ、ちょっと待って!」
「ん?」
「最後にあそこだけ……、お願い」

 手を合わせて頭を下げる私にセイバーは今日一番大きな溜息を零した。

「お好きにどうぞ」
「あーん、セイバー、大好き!」
「はいはい……」

 自動ドアを潜り、私達が入ったのはランジェリーショップだった。店内にはディスプレイとして胴体だけの黒光りしているマネキンが飾られていた。ピンクの小花刺繍のブラジャーとショーツを身に着けている。結構可愛い。でも、ちょっとお子様向けって感じね。壁には有名ブランドの新作ランジェリーのポスターが貼られている。これは中々だわ。
 とりあえずピックアップされている物をチェックしながら広い店内を見渡した。内装は落ち着いたアンティーク調。入口から伸びる外の光や、天井に取り付けられた円形のヘコミに埋め込まれたライトで中はかなり明るい。奥に進むと、ブラジャーやショーツの他にも、ベビードールやビスチェ、ボディストッキングという少し大胆な物もあった。

「い、色々あるな」

 セイバーは少し恥ずかしそうにしながら店内を見渡した。何だか可愛い。

「セイバーの時代にはこういう下着は無かったでしょうしね」
「まあ、ここまで凝ったのは見た事無いな」
「そう言えばママが黒くて可愛いベビードールを持ってたっけ。セイバーにも似合うんじゃない?」

 あんな感じ、と少し先にある首下にリボンが付いたフリフリのベビードールを指差した。

「絶対に嫌だ!」

 セイバーは顔を引き攣らせながら断固とした態度で首を振った。
 まあ、私達にはちょっとハードルが高いかもしれないわね。

「あ、見て見て! ガーター付き!」

 黒の花柄のTバックショーツを見せると、セイバーは目を丸くした。

「おま、これ、ええ!?」

 ほぼ紐に近い下着を見てセイバーは顔を大いに引き攣らせた。

「これ、下着の意味無いだろ……」
「さ、さすがにエロ過ぎかな」

 若干引かれているのを察し、慌てて元の場所に戻した。
 
「もうちょっと、真面目に選ぼうぜ」
「はーい」

 気を取り直して、ブラジャーコーナーの中からセイバーに似合いそうな下着を吟味する。ブラジャーコーナーにはブラジャーだけのと、ブラジャーとショーツが二つで一式のがあった。そこで、私は肝心な事を忘れていた事に気がついた。

「そう言えば、セイバーのバストのサイズって何センチ?」
「バストのサイズ?」
「あ……、そっか……一回測って貰わないと分からないわよね。うん。じゃあ、お店の人に計ってもらいましょ」
「えー、面倒だし、オレのは適当でいいよ」
「駄目よ! ちゃんと選ばなきゃ駄目! マスター命令!」
「へいへい。了解しました、マスター様」
「よろしい!」

 私はセイバーの手を取ると、少し離れた場所で棚卸しをしている店員さんに声を掛けた。

「すいませーん! この娘のサイズ計って欲しいんですけど」
「ハイ、かしこまりました。アチラのカーテンの中でお待ち下さい」

 店員の女性の言葉に従い、セイバーはカーテンで仕切られた試着室の中に入った。

「勝手に離れるなよ? いつ敵が襲って来るか分からないんだからな」
「はーい!」
「なーんか、信用できない返事だな……」
「セイバー、ひどーい」
「いいから、あんまり離れるなよ?」
「分かってるってば。そんじゃ、私は適当に見せの中見て回ってくるから、店員さんが来たらちゃんと計って貰ってね」
「へいへい」
「返事は『はい』!」
「アンタに言われたくねぇよ!」

 セイバーがガーッと怒鳴るのを無視して、私はさっさとブラジャーコーナーへと戻って来た。
 時々、試着室から「いひゃっ」とか、「うひゃっ」とか変な声が聞こえて来る。私も初めてブラジャーを買う時にバストのサイズを測ってもらった時はメジャーのヒンヤリした感触に奇声を上げたものだ。
 昔を懐かしみながら粗方自分用の下着を選び終えた頃、セイバーがよろよろと試着室から出て来た。何だか、顔が赤い。

「あの店員、絶対面白がっていやがった……」
「そんな事、あるわけないでしょ。それより、サイズはどうだったの?」
「ああ、73センチだってよ」
「じゃあ、あっちで色々見てみましょ」

 壁に並ぶ下着を色々見ていると、不意に誰かとぶつかった。
 慌てて謝ると、そこに居たのは何と男の人。しかも、凄いイケメン。

「いや、こっちこそごめんね。実は色々迷ってて、ちょっと注意が散漫になってたんだ」
「いえ、私も……。えっと、お一人ですか?」
「うん。そうだけど?」

 女性下着専門店に男の人が一人でって……。
 いや、早とちりしてはいけない。そう言えば、前にテレビでイケメン俳優が彼女に下着をプレゼントしたって話をしていた。
 この人もきっとそうに違いない。

「か、彼女さんへのプレゼントですか?」
「え? 違うけど?」
「……えっと、じゃあ、妹さんの……とか?」
「ううん」
「お姉さん?」
「違う違う」
「も、もしかして……、お母さん?」
「どうして、俺が母さんの下着なんて買いに来るのさ?」

 あれ……?
 恋人や家族へのプレゼントじゃないとすると……、この人、何でここに居るの?
 やばい。私の|第六感《シックス・センス》が言っている。この人とこれ以上関わるのは危険だと。

「あ、そうだ。君さ」
「な、何でしょう……?」

 とは言え、そもそも話し掛けてしまったのは私の方だ。いきなり無視して立ち去るのは失礼にあたるだろう。
 それに、私の勘違いって可能性もある。彼にはもしかしたら、何か理由があってここに居るのかもしれない。
 そう、早とちりは禁物。

「男が着るとしたら、どれがいいと思う?」
「へ、変態!?」

 思わず声に出てしまった。

「お、おい、マスター!? どうした!?」

 セイバーが真っ赤な下着から視線を外し、驚いたように私の腕を掴んだ。
 でも、私はセイバーの質問に答えるどころじゃない。
 やばい。予感的中。

「いや、いきなり、変態って……」

 変態が何か言ってる……。

「ち、近寄らないで、変態!!」
「いや、君、何か誤解してない!?」
「誤解って何よ!? ここは女性下着の専門店よ!? そこで、どうして男が着る下着選んでるのよ!?」
「いや、だから、男が着る為の女性下着を探しに来ただけで、俺は別に変態じゃ……」
「変態じゃない!? 変態以外の何なの!?」
「お、おい、落ち着け、マスター。他人の趣味趣向に口を出すのはナンセンスって奴だぜ」
「だ、だって、この人、私にどんなのが良いか聞いてきたのよ!? 私に『この人が着る女性下着』を選ばせようとしたのよ!?」
「誤解だってば!! 違うよ!!」
「何が違うのよ!? セクハラで訴えるわよ!?」
「待って!! お願い!! ちょっと、待って!!」

 頭に完全に血が上ってしまい、私はいよいよ暴力に訴えそうになった。すると、突然――――

「待ったー!!」

 私と変態の間に綺麗な女の人が割って入って来た。赤い髪に黒いリボン。白と紫のストライプ模様のタンクトップに紫のパーカーと紫のブーツ。アンダーはボトムスは黒のミニスカ。
 誰だろう。首を傾げる私に女性は言った。

「待って、マスターは変態じゃないよ!!」
「マ、マスター……?」

 まさか、この変態、自分の彼女に自分をマスターって呼ばせてるの!?
 いや、でも、彼女が居るなら変態ってわけじゃないの……いやいや、彼女を連れて、自分の着る女性下着を選びに来たハイエンドな変態という可能性も……。

「後退ってろ、イリヤ!! そいつはサーヴァントだ!!」
「……え?」

 セイバーはいつの間にか鎧姿に変わっていた。
 ランジェリーショップの中で、ブラジャーやパンツに囲まれた状態で鎧を着込み、剣を構えている姿は凄くシュールで、私は咄嗟に動けなかった。

「イリヤ!! ボサッとするな!!」
「って、ごめん!!」
「ま、待って待って!! ボク達は戦う気なんて無いよ!!」
「ああ?」

 私を自分の背で隠しながら、セイバーは溢れる殺気を目の前の女性に叩きつけながら目を細めた。

「た、ただ、その、誤解を解きたいだけで……」
「あれ、ライダー」
「ん? なーに?」
「下着まだ買ってない筈じゃ……」

 殺気全開で構えるセイバーの前でライダーと呼ばれた女性はマスターらしき変態に声を掛けられ、セイバーに背中を向けた。

「こ、こいつら、オレを舐めてるのか……?」
「セ、セイバー。とりあえず、ちょっと話をしてみない?」

 戦う気は無いって言ってたし、何だか向こうの様子が変だ。何かを話している様子。
 聞き耳を立ててみると、彼らの会話が聞こえた。

「だ、だって、マスターがピンチだったし、慌てて試着室で実体化して服だけ着て……」
「え、じゃあ、もしかして、今、ライダー……」

 変態はライダーの下半身に目を向けながら言った。

「ノーパン?」
「やっぱり変態じゃない!!」
「なっ!?」

 変態が驚愕している。
 吃驚するのはこっちだ。まさか、変態の自覚が無いのかしら。

「違うよ!! 俺は変態なんかじゃないよ!!」
「嘘つき!! 鼻息荒くしてるじゃない!!」
「こ、これは……、だって、こんな可愛い子が俺の為にノーパンで立ちはだかってくれてるんだよ!? 興奮しちゃっても、仕方無いじゃん!!」
「マスター、止めてくれ!! その言い方だと、ボクまで変態みたいに聞こえる!!」

 あ、ライダー。今、何気に自分のマスターが変態だって認めた。

「お、おい」

 セイバーが焦ったように私を呼ぶ。
 
「な、何?」

 セイバーは後ろを指差した。
 そこには顔を引き攣らせた店員さん。
 
「あ、あはは……」
「お客様」

 店員さんは私達の下までやって来ると、ニッコリと微笑みながら言った。

「店内ではお静かに願います」
「は、はい……」

 四人の声が重なった。

「と、とりあえず、これだけお会計お願いします」
「あ、俺のも……」
「かしこまりました。では、レジにお願いします」

 私達はおずおずと店員さんの後に続いた。
 とりあえず、かごに入れてあった下着をそれぞれ買い、私達は外に出た。
 
「えっと、その、一応言わせて欲しいんだけど……。俺が買いに来たのはあくまで、ライダーの下着だったんだ。だから、その……俺、変態じゃないよ」
「……う、うん。さすがに私も言い過ぎたわ。ちょっと、最近色々あり過ぎて、てんぱっちゃってた」
「い、いや、分かってくれたならそれで……」
「あ、私、イリヤスフィールって言います」
「あ、俺、フラットって言います」

 空気が重い。冷静になって考えると、相当失礼な発言を連発してしまった。
 よくよく考えてみれば、彼はただ、自分のサーヴァントの下着を買いに来ただけだったのだ。私と同じだ。
 男の人が女性用下着の店に入るなんて、相当勇気が必要だった筈だ。なのに、あまりにも不躾な態度を取ってしまった。

「あ、あの、本当にごめんなさい。その、失礼な事ばっかり言っちゃって」
「い、いや、あれは仕方無いよ。俺も言い方とかが色々拙かったし……」
「えっと、フラットさんは、どうして、聖杯戦争に?」
「あ、俺、英霊と友達になりたくて来たんだ」
「英霊と友達に?」
「う、うん。ほ、ほら、伝説の英雄とこうして直接会って話が出来るなんて、そうそうある事じゃないじゃん。だから……」
「そ、それ、素敵だと思います!」
「え、そ、そう? そうかな?」

 フラットさんと私はショッピングモールの外に出るまで他愛無い話を続けた。
 外に出ると、セイバーがポカリと私の頭を叩いた。

「な、何するのよ、セイバー!」
「今まで黙っててやっただけありがたいと思え!!」

 ガーっと怒鳴るセイバーに私は小さくなりながら謝りまくった。
 何に怒ってるのか分からないけど、とにかく謝った。
 それほど、今のセイバーは怖かった。

「あ、じゃあ、俺達はこの辺で……」

 フラットさんは若干怯えながら言った。

「あ、はい。あの、本当に今日はすみませんでした」
「いや、こっちこそ、ごめんね。じゃあ、またね」
「あ、はい!」
「いや、おかしいだろ!! 何で敵のマスターとそんな――――」

 セイバーの言葉が突然途切れた。
 どうしたのかと振り向くと、セイバーは殺気だった表情を浮かべていた。

「イリヤ。荷物はここに置いて行くぞ。切嗣にでも取りに来させろ」
「え?」

 首を傾げる私に答えを示してくれたのはライダーだった。

「どうやら、祭りの始まりみたいだね」

 祭りの始まり。その意味は私にも分かる。
 ああ、つまり、いよいよ聖杯戦争が始まるという事だ。
 やばい、結局下調べ出来ないまま始まっちゃった……。
 パパ達、怒らないよね?

第十話「集いし参加者達」

 荘厳な礼拝堂で、一人の少女が床に両膝をつき静かに祈りを捧げている。
 明り取りから降り注ぐ月の光を浴び、彼女の髪は銀に輝き、その様はまるで絵画のよう。
 丘の上の教会に一人住む彼女の名はカレン・オルテンシア。本来、彼女はこの様な立場に身を置く存在では無い。そもそも、彼女が身を置く言峰教会は修道会に属する教会ではなく、教区に属する教会であり、女性が神父の役割を担う事は特殊なケースを除き、ほぼあり得ない。
 つまり、彼女がここに居る事は特殊なケースという事だ。

「……ええ、もうすぐ始まります」

 十字架に頭を垂れたまま、カレンは呟いた。まるで、誰かに語りかけるかのように。
 だが、彼女の周囲に人影は無く、電話や通信機のような物も存在しない。

「はい。これより、本格的に聖杯戦争が始まります」

 にも関わらず、彼女は会話している。
 まるで、姿無き神とでも話をしているかのように……。

「いいえ。むしろ、身に余る光栄ですわ」

 カレンはわずかに表情を緩めた。

「……いいえ。この体質は神より授かりしもの。死を迎えるその日まで、私は己が職務を全うします」

 慈愛に満ちた表情を浮かべ、カレンは自らの胸に手を当てる。

「報われています。だって、私は神に選ばれ、この体質を得ました。その時点で、私は報われています。一人の信徒として、これ以上の喜びなどありません」

 カレンは言った。

「あなただって、そうでしょう? 神に選ばれた事で、あなたは非業の末路を向かえた。けれど、その事を後悔などしていない。違うかしら?」

 クスクスとカレンは笑う。

「おや……」

 カレンは不意に立ち上がると、懐に手を入れた。
 中から取り出したのは携帯電話。最近になり、一般にも普及し始めた、その名の通り、携帯出来る電話だ。
 魔術や異能の世界に身を置く彼女が最先端の文明の利器を扱う姿はどこかシュールだが、それを指摘する者は居ない。
 少なくとも、目に見える範囲では……。

「どうやら、始まったようです」

 カレンは携帯電話を懐に戻すと、ゆっくりと入り口に向かって歩き出した。

「さあ、共に職務を全うしに行きましょう」

 少女は歩く。夜の世界を悠然と……。

第十話「集いし参加者達」

 私達がその場に辿り着いた時、既にそこは戦場になっていた。片や青の槍兵。片や巨躯の剣士。一挙一動が破壊を生む二騎の英霊の激突に私は息を呑んだ。
 クロエと出会った晩以来見る、英霊同士のぶつかり合い。常軌を逸し、物理法則を無視した理不尽な光景。彼らの周囲では薙ぎ倒され、木っ端微塵にされた木々や破砕された建築物の残骸が散乱している。
 冗談みたいに時代錯誤な武装をした両者が今、互いの命を刈り取ろうと殺し合っている。
 理解を超えた戦い。二人の動きはあまりにも早過ぎて殆ど目で追えない。ただ、夜気を裂く鋼と鋼の衝突音だけが二人の殺し合いの事実を証明している。
 
「あれが……、英霊」

 離れていても伝わって来る両者の殺意。鼓動が激しくなり、手に汗が流れ落ちる。
 人を殺す為だけに鍛えた体で、人を殺す為だけに作られた凶器を握る。これが私の参加した戦い……。
 
「イリヤちゃん……?」

 一緒に来たフラットさんが心配そうに私を見つめている。
 私は震えていた。怖いんだ。人を彼らが怖い。そんな彼らに挑まなければいけない事が怖い。
 クロエの時とは違う。彼女のサーヴァントは人には見えなかった。まるで、物語に出て来るような怪物だった。だからこそ、逆に怖くなかった。
 あまりにも現実感が乏しかったからだ。まるで、映画か演劇を見ているかのようで、私は恐怖を感じる前に、そのシュールさにおかしさを感じた。
 だけど、目の前の二人は違う。見た目は紛れも無く人間だ。だけど、どこまでも人間と掛け離れた力を持っている。
 同じ怪物だけど、人間の姿を保っているあの二人の方が私にとってずっと怖い。
 
「あら、貴女も見に来てたのね、イリヤ」

 膝まで震える私に背後から誰かが声を掛けてきた。
 聞き覚えのある声。恐る恐る振り返ると、そこには予想通り、クロエが立っていた。

「そんなにビクビクしないでよ、オリジナルの癖に」

 クロエは冷たい目で私を見ている。
 オリジナル。その言葉が私の胸を抉った。
 彼女の使ったオリジナルという言葉。それが意味するのは、私がホムンクルスである事。そして、彼女が私の身代わり人形という事。
 話をしたいと思っていた筈なのに、いざ彼女を目の前にすると、口が動かない。

「イリヤ、退がってろ」
 
 セイバーが間に立ってくれたおかげで、少し気を落ち着かせる事が出来た。

「そう構えないでよ。今、貴女と戦うつもりは無いわ」
「どういう意味だ?」

 私の疑問をセイバーが代わりに問い掛けてくれた。

「そのままの意味よ。貴女は私にとって一番の得物。だから、殺すのは最後。オリジナルなら分かるでしょ? 私、好物は最後に食べる派なのよ」

 分かる。私もそうだ。
 そう、私がそうだからこそ、彼女もそうなのだ。
 彼女の好みは私の好み。そう、調整されたのだ。私の身代わりにする為に……。

「クロエ……」

 私はセイバーの背中から出た。

「おい、イリヤ!」
「クロエ、私……」

 セイバーの静止の声も聞かず、私は口を開いた。
 すると、

「謝罪しようとか思わないでね? そんな事されたら、今直ぐ殺したくなるから」

 クロエは強烈な殺気を放ちながら言った。
 私は慌てて口を噤んだ。

「もう、手遅れなのよ、イリヤ。私と貴女は敵同士。せめて、最初の夜に貴女が私の事を知っててくれたなら、私も貴女を許せたかも……ううん。とにかく、私は貴女を許せない。謝られたりしたら……」

 クロエは顔を歪めた。そこにあるのは怒りや憎しみじゃない。哀しみだ。

「クロエ……」
「羨ましいわ、イリヤ。お父様やお母様に愛されてる、そんな貴女が羨ましい。友達と一緒に歩く貴女が羨ましい。……元々、そんな人生が歩める立場じゃなかったけどさ。それなら、こんな……」

 クロエは自分の胸を掴むようにしながら小さく首を振った。

「私は貴女の敵よ、イリヤ。その事、決して忘れないで」
「私は……」

 その時だった。不意にさっきまで鳴り響いていた音が止んだ。
 二騎の英霊が距離をとって向かい合ったまま立ち止まっている。
 戦いが終わったのだろうか。そう思っていると、今まで以上の殺気が辺りに充満し、心臓が萎縮した。
 殺気の主は巨躯の剣士。その手に握る黒塗りの大剣に何かが流れ込んでいくのが分かる。

「イリヤ、あのサーヴァントのステータスを見ておきなさい。恐らく、この戦いはあのサーヴァントの勝ちよ」
「どういう……」

 クロエの言葉に首を傾げていると、セイバーが腕を掴んだ。

「いいから確認しろ、イリヤ。俺には見えんが、マスターのお前なら、奴のステータスを見破れる筈だ」
「う、うん」

 私はホテルでパパから習った通りに目に意識を集中した。
 セイバーのステータスを見た時の事を思い出しながら神経を研ぎ澄ましていると、あの巨躯の剣士の情報が視界に流れ込んできた。
 そこに映っていたのは基礎ステータスのみ。クラスはおろか、スキルも見えない。けれど、唯一つ見えている基礎ステータスのあまりの規格外振りに私は言葉を失った。
 パパから聞いた話ではAランクが最高レベルって話。

「どうした?」
「全てのステータスがAランクを超えてる……」

 例えばの話。セイバーのサーヴァントは聖杯戦争において最優のクラスであると言われているらしいわ。
 その理由は幾つかあるみたいだけど、その内の一つにセイバーのクラスに該当する英霊には全ステータスが一定ラインを超えているという条件が求められる事。
 未熟なマスターによってステータスの減衰はあるかもしれないらしいけど、基本的にセイバーのクラスは引き当てれば確実に平均アベレージを超えた性能を持つ英霊が召喚される。
 けど、今見えているあの英霊のステータスは明らかに常軌を逸している。幾らなんでも、筋力A++、耐久A+、敏捷A、魔力A、幸運A、宝具Aなど度が過ぎている。
 筋力B+、耐久A、敏捷B、魔力B、幸運C、宝具A+のセイバーと比べても桁外れだ。

「令呪によるブーストかな?」

 フラットさんが呟いた。

「いいや。奴のステータスは素の物だろう」

 セイバーが言った。

「セイバーとランサー、ライダー、バーサーカーのクラスが既に埋まっている以上、残るはキャスターかアサシン、あるいはアーチャー。どれも姦計に秀でた英霊の筈。この中で可能性があるとすれば、アーチャーかしら?」

 クロエの言葉に応えるかのように巨躯のサーヴァントは黒塗りの剣をまるで槍投げの選手みたいに引き絞った。

「投擲の構え! やはり、アーチャーか!」

 セイバーの叫びと同時に突如、ライダーが動き出した。
 その手はマスターであるフラットさんの手に繋がれている。

「いっくよー、マスター!」
「オッケー!」
「え、ちょ!?」

 止める間も無く、二人は戦場に向かって走って行く。何を考えているんだろう。
 あんな危険な場所に飛び込むなんて無茶だ。
 慌てて追いかけようとした瞬間、上空から何かがライダーとフラットさん目掛けて飛来した。光り輝くソレは絵本で見た幻獣そっくりだった。

「グ、グリフォン!?」
「いや、ヒポグリフだ!」

 睨み合っていた二騎の英霊まで突如乱入して来た幻獣に跨るライダー主従に目を瞠っている。
 
「幻想種を持ち出すか……」

 セイバーは戦慄の表情を浮かべながら呟いた。
 ライダーは二人の間をヒポグリフで駆け抜けると、一端浮上し、二騎の頭上で静止した。

「セイバー。私達も行こう!」
「え、おい!?」

 知り合ったばかりだけど、フラットさんは悪人とは思えなかった。
 何を考えてるのか知らないけど、あんな危険な怪物二人に一人で挑んでも勝てる筈が無い。

「ちょっと、待て! 何する気だ!?」
「助けに行くの!」
「馬鹿か!? あいつは敵だぞ!」
「だ、だって!!」

 押し問答をしながら走っていると、ライダーがどこからか巨大な角笛を取り出し、思いっきり息を吸い込んだ。

「まさか、宝具か!?」

 セイバーが咄嗟に私を庇おうと前に出る。その瞬間、ライダーは角笛を吹いた。
 刹那、戦慄が走った。それを例えるなら、夜道を歩いている途中、訳も無く後ろが気になり感じる恐怖。背筋が寒くなり、今直ぐこの場を離れたくなった。

「こ、この音は……」
 
 多分、一人だったらとっくに逃げ惑っている。隣にセイバーが居てくれたおかげで、辛うじて踏み止まっていられた。
 私はセイバーの背中に縋りつきながら音が止むのを待った。
 音が止むと、戦闘態勢だった二騎の英霊もそれぞれの凶器を下ろし、ライダーに視線を向けていた。

「ストーップ! はい、そこまでー!」

 人に散々恐怖を味合わせた下手人と思われるライダーは何を考えているのか、ヒッポグリフから降り、両手を伸ばして二騎の英霊を押し留めるように立ち塞がった。

「あ?」
「なんだ、貴様?」
「ボクはライダーのサーヴァント。名はアストルフォ。イングランド王の息子にして、シャルルマーニュ十二勇士の一人だ!!」

 瞬間、辺りが水を打ったかのように静まり返った。
 え、なんだろう、この空気。

「し、真名を明かした……」

 セイバーが唖然とした表情を浮かべている。
 他のサーヴァント達も同様だ。いち早く再起動したのはあの巨躯の英霊だった。

「まさか、素直に答えるとはな」

 巨躯の英霊は黒塗りの剣を下ろし、頭をポリポリと掻きながらライダーを見た。

「ヒッポグリフに、さっきの角笛……。嘘では無いらしいな」
「ボク、嘘なんてつかないよ?」

 ライダーは朗らかに笑みを浮かべながら言った。
 毒気を抜かれたように巨躯の英霊とランサーは視線を交し合う。

「ああ、でだ。お前、何の様だ? 戦いに来たって感じじゃねーっぽいけどよ」

 ランサーの問い掛けにライダーは「よくぞ聞いてくれました!」と口笛を吹いてヒッポグリフを呼んだ。
 すると、そこにはヒッポグリフの背中にしがみ付きながら恐怖に震えるフラットさんの姿……。

「なんで、|マスター《おまえ》まで怯えてんだよ!?」

 ランサーが叫ぶ。ああ、私がつっこみたかった事をつっこんでくれた。
 あの恐怖を呼び起こす角笛はライダーの宝具だ。なのに、ライダーのマスターであるフラットさんまで怯えてるのはどういう事だろう。

「い、いや、耳栓すれば大丈夫かなーって思ったんだけど、無理でした」

 テヘペロしながら言うライダーにランサーと巨躯の英霊は無言で視線を交し合った。
 さっきまで殺し合っていた間柄とは思えない程、彼らの考えは一致していた。
 多分、私やセイバーと同じ考えを抱いているに違いない。
 
――――このサーヴァント、ちょっとバカだ。

「で、本当にお前は何をしに来たんだ?」

 巨躯の英霊がとうとう呆れたような顔をしながら問いかけた。

「あ、そうだ。ほら、マスター。みんなが待ってるよ!」

 ライダーが揺さぶりと、フラットさんはライダーに縋りつきながらヒッポグリフから降りた。
 
「あ、なんかライダー、良いにおい」
「お前等、本当に何しに来た!?」

 ランサーがキレた。気持ちは分かる。

「ほら、マスターしっかり!」
「はーい!」

 フラットさんは漸く落ち着いたのか、片手を挙げながらサーヴァント達一人一人に視線を合わせた。

「俺、フラット・エスカルドスって言います! 俺、英霊の皆さんと友達になる為に来ました! ってわけで、俺と友達になりませんか? 俺、皆さんの武勇伝とか聞きたいッス!」

 空気が再度凍り付いた。

「……は?」

 ランサーの目が点になっている。
 無理も無い。私も呆気に取られてる。確かに、さっき彼は英霊と友達になりたくて参戦したいと言っていた。だけど、幾らなんでもこれは……。

「あ、俺今、冬木ハイアットホテルの三階に住んでるんですけど、これから皆でどうッスか? お酒とか飲みながらパーっと!」
「拠点まで暴露した!?」

 セイバーが絶句している。
 私も別の意味で絶句中。まさか、同じホテルに泊まってたなんて。
 しかも、同じフロア。あ、私達の拠点も即効バレるんじゃね。

「ったく、変な奴だな。だが、メシの誘いとあれば断れん。俺は構わないぜ」
「ええ!?」

 私は思わずランサーを見た。
 あんなおバカな提案に乗る人が居るなんて。

「まあ、俺も構わないぞ。なんか、戦う気が削がれちまった」

 肩を竦めながら言う巨躯のサーヴァント。
 あれ、おかしい。みんな、一緒にご飯食べる感じになってる。
 あれ、おかしいのはみんなじゃなくて、私の方なのかしら。

「あ、そっちのお嬢ちゃんやイリヤちゃんもどうッスか?」
「ええ!?」

 話をこっちに振らないで! 
 っていうか、いつの間にかクロエが隣に居た。

「ど、どうするの?」

 私はこそこそとクロエに聞いた。

「いや、親しげに話しかけないでよ……。まあ、いいんじゃない? どうせ、最後には全員殺すわけだし、一緒に食事するくらい」
「あら過激……」

 そして、男前。

「あ、でも、私、お酒飲めないわよ?」
「大丈夫! ジュースも用意してるッス!」
「なら、私は構わないわ」
「おお! 話が分かるッスねー! じゃあ、イリヤちゃんは?」
「え、ええっと、あ、じゃあ、私も!」
「おい!!」

 私が挙手しながら言うと、セイバーに頭を叩かれた。

「な、何するのよー!?」
「お前、今、完全に流されてただろ! 敵の本拠地に招かれてんだぞ!? もっと、警戒心持て馬鹿!」
「ば、馬鹿って言った!? 馬鹿じゃないもん! 学校の成績はトップクラスなんだからね!」
「そんなの知るか! とにかく、もっとよく考えて発言しろ!」
「あらあら」

 セイバーがガーッと怒鳴る。すると、クロエがクスクスと笑った。

「貴女のサーヴァントはマスターを守る自信も無いのね、イリヤ」
「……あ?」

 クロエの言葉にセイバーが剣呑な表情を浮かべた。

「だって、そうでしょ? 怖いから敵の招待なんて受けられないんでしょ?」
「そ、そんな訳ねーだろ!!」
「じゃあ、どうするの?」
「い、いいぜ! 受けてやるさ!」

 セイバー、チョロい! チョロ過ぎるわ。ちょっと心配になるレベルで!
 っていうか、クロエはどうしてセイバーをわざわざ炊き付けたんだろう。
 私としては戦場とは違う場所でクロエと話が出来る機会が出来た事に内心喜んでるんだけど。

「んじゃ、行くッスよ!」

 なんか、よく分からない展開だけど、私達は一同、冬木ハイアットホテルに向かって歩き出した。
 ちなみに、ランサーと巨躯のサーヴァントは鎧を外した下にしっかりと現代風の服を着ていた。スタイルの良い外人集団に好奇の視線が集まる。
 なんだかむず痒さを感じながら、私達はフラットさんの招きに応じる事となった。