第十九話『黄金の王』

第十九話『黄金の王』

「……まさか、そっちから乗り込んでくるとは思わなかったわ」

 キャスターのサーヴァントは石段を登ってくる二人の少女を見下ろしながら言った。
 
「想定外だった? キャスターは策謀に長けたサーヴァントの筈だけど、見込み違いだったわね」

 挑発的な凛の言葉にキャスターは鼻を鳴らす。
 たしかに想定外だった。たしかに、バーサーカーを手懐けられていない、このタイミングで攻め込む事は悪くない選択だが――――、

「なら、どうして坊やと袂を分かったのかしら?」
「どうせ、聞いてたんでしょ?」
「……セイバーとアーチャーで同時に攻めてくれば、そちらの勝率は遥かに高いものになっていたわ。それなのに、貴女は自身の心情を優先したと言うの?」
「その通りよ。わたし、仲間の寝首を掻くような真似はしたくないの」
「だから、戦う前に仲間をやめる……。お嬢さん、あなたは魔術師に向いていないわ」

 その言葉と共に階段の上から青い陣羽織を羽織る侍が現れた。まるで、落ちるかのような速度で接近してくる侍を前に、アリーシャは己の中の時を加速させる。

「……固有時制御如き、この私の前では児戯にも等しくてよ」

 アッサリと、魔女は侍に対抗する術を授ける。
 自己の時を加速させるアリーシャに、同じく魔女の加護で時を加速させたアサシンが迫る。
 枝から外れた葉の落下すら静止した世界で、二騎のサーヴァントは己の業をぶつけ合う。

「――――|投影開始《トレース・オン》」

 アリーシャは《無限の剣製》より一振りの聖剣を取り出した。
 これは、彼女の父である衛宮士郎の固有結界。彼女自身のモノではないが、その能力を発揮する事が出来る。
 
「……ほう、剣を使うのか」

 嬉しそうに刃を振るう魔人に対して、アリーシャは剣に身を委ねる。
 彼女がまだ、彼女という個を残していた頃、彼女は剣を握った事が一度も無かった。
 彼女にとって、戦いとは相棒の背を見つめる事。彼女の命を、魂を、心を守ろうと戦い続けた英雄に守られる事こそ、彼女の戦いだった。
 
「……憑依経験、共感完了」

 生前、彼女が召喚したセイバーのサーヴァント、モードレッドの戦闘技術を、そのステータスごと自身に投影する。
 筋力を、敏捷を、耐久を、軒並み上昇させ、万夫不当の英雄達を一人残らず倒し切った彼女の絶技を再現する。

「これは――――ッ」

 アサシンの表情から笑みが消える。
 嘗て、騎士王の子として生まれながら、国に反旗を翻し、果てはすべてを滅ぼした叛逆の騎士。
 その力は此度の聖杯戦争で召喚されたセイバーのサーヴァントに匹敵する。

「……決めるよ、セイバー」

 まるで、彼女の言葉に答えるように聖剣が鼓動する。
 銘は|燦然と輝く王剣《クラレント》。王権を示す象徴が、その輝きが増していく。

「させると思うか!」
「止まれ」

 四方八方に無数の剣が出現する。

「この程度!」

 その尽くを斬り払いながら、アサシンは宝具の発動態勢に入るアリーシャに迫る。

「――――|我が麗しき《クラレント》」

 その姿が掻き消えた。

「なっ、に!?」

 それは空間転移。固有時制御で時を加速させ、固有結界の派生技術によって無数の剣を撃ち出し、宝具の発動状態で空間転移を行う。それがどれほど規格外の事か、魔術に疎いアサシンにも分かった。

「……これが貴様の宝具か」
「|父への叛逆《ブラッドアーサー》――――ッ!!」

 赤雷が走る。剣に宿る、底知れぬ憎悪が剣の力によって極限まで増幅され、その牙はアサシンを呑み込むと、雲を裂き、天上を穿った。
 その光景を見ていたキャスターは即座に転移した。

 ――――まずい。まずいまずいまずいまずい!!

 アサシンが敗れる事は想定内だった。だが、ここまで圧倒的とは考えていなかった。少なくとも、固有時制御に対策を打てば、後はどうとでもなると高を括っていた。
 そもそも、あの女は現代の錬金術師が生み出したホムンクルスの筈だ。それがあそこまで隔絶した能力を持つなどあり得ない。
 己の技術を全て注ぎ込んだとしても、あんな怪物は生み出せない。
 
「宝具クラスの武器の投影と発動。空間転移。固有時制御。アサシンと互角の武勇。……でも、ここまでなら何とかなる」

 問題は、ここで終わるとは思えない事。まだ、あの女は隠しているものがある。

「……どんな外法を使ったのよ、あの娘を作った錬金術師は」

 ◇

 気付いた時には戦いが終わっていた。アリーシャの固有時制御にキャスターは想定通り、対策を打ってきたみたいだけど、アリーシャには傷一つない。

「勝ったのね」
「うん。だけど、キャスターを取り逃がした……」
「残念だけど、仕方ないわ。それより、お客さんみたいよ」

 階段の上。さっきまでキャスターが陣取っていた場所に一人の男が君臨していた。
 黄金の甲冑を纏い、嫌悪感に満ちた目をわたし達……、アリーシャに向けている。

「――――哀れな人形よ。先に言っておくが、これは誅伐ではない。これは慈悲だ」

 |水面《みなも》の如く、空間に波紋が広がる。
 幾千、幾万もの宝具が顔を出し、主の号令を待つ。

「現れたわね、英雄王・ギルガメッシュ!」

 アリーシャがイリヤスフィールの記憶で見た男。人類最古の英雄王。間違いなく、バーサーカーを超える最強の敵。

「……ここで終わっておけ。さすれば、この一時を安らかなる夢のままに出来よう」

 腹が立つ。アイツはわたしを見ていない。
 ただ一直線にアリーシャを哀れんでいる。

「出来ない相談だね。わたしはずっとリンと一緒にいるんだ!」
「……ならば、その娘も連れていくがいい。案ずるな、痛みは与えぬ。それを受けるべき罪業の主は貴様等では無いからな」
「誰の事を言ってるのか知らないけど、邪魔をするなら倒すだけだよ、ギルガメッシュ!」

 その一秒後、わたしは信じられない光景を視た。
 血の雨を降らせたのは、アリーシャの方。ギルガメッシュは一歩も動かず、アリーシャは倒れ伏した。

「なにが……」
「時を止める? 無数の武器を生成する? 如何なる魔術も再現する? その程度では、この身には届かぬ」

 デタラメだ。キャスターでさえ、逃げの一手を打つことしか出来なかったアリーシャを一方的に痛めつけるなんて、規格外にも程がある。

「アリーシャ、大丈夫!?」

 駆け寄ると、辛うじて致命傷は避けていた。だけど、とても戦える状態とは思えない。

「……一旦退却する」
「それを許すと思うか?」

 気づかない内に接近されていた。腕を捻り上げられ、痛みで声が漏れる。

「リ、ン……?」

 起き上がろうとするアリーシャ。
 
「に、げなさい……、アリーシャ!」
「……先に黄泉路で待つがいい」

 ギルガメッシュは一振りの剣を振り上げる。腕を掴まれている以上、逃げる事は叶わない。
 ここまでだ。アリーシャの力があれば勝てると思い込んでいた。
 迫る死からわたしは目を逸らさなかった。せめて、最期まで笑顔を浮かべておこう。泣き顔や怒り顔で彼女を不安にさせたくない。

「……アリーシャ。ごめんね」

 そして、わたしは……、

 ――――悪いが、もうひと踏ん張りしてもらうぜ。

第十八話『不穏』

第十八話『不穏』

 ――――アレはなに?

 赤銅色の髪、色白な肌、真紅の瞳、端正な顔立ち。
 そうした外見的特徴を確認する前に、その存在を認知した瞬間に、イリヤスフィールは彼女と繋がった。
 ユスティーツァ・リズライヒ・フォン・アインツベルンという第三魔法を再現する為に魔法使いの弟子によって鋳造された|存在《ホムンクルス》を|基礎《ベース》にして造り上げられた後継機達には魂の繋がりが存在する。
 目の前の女と繋がったという事は、目の前の女も自身と同じユスティーツァの後継機であるという事。今は咄嗟に防壁を張る事で向こう側からの流入を防いでいるけれど、それを緩めれば、彼女の意思や記憶と共に、その正体も判明する筈だ。
 だが、イリヤスフィールは防壁を崩さなかった。相手は得体が知れない上に、サーヴァントだ。英霊という格上の存在の魂を断片的にでも取り入れた瞬間、イリヤスフィールという個は決定的に破綻する。言ってみれば、彼女の意思と記憶の流入は、猛毒を杯一杯に煽るような暴挙と同義なのだ。
 
「……イリヤ?」

 士郎が声を掛けると、イリヤスフィールは思考の海から浮上した。泣き崩れた同朋はマスターと共に母屋へ向かっていく。
 
「えっと、急にどうしたんだ?」

 彼女の正体を気にしつつ、イリヤスフィールは事情を士郎に語った。
 バーサーカーをキャスターに奪われた事。セラが囮となり、リーゼリットが自己判断でこの場所に自身を連れて来た事。
 荒ぶる感情はアリーシャと士郎が呼ぶサーヴァントを見た途端に冷めていた。

「……大変だったんだな、イリヤ」

 士郎は心からイリヤスフィールを気遣い、彼女の頭を優しく撫でた。
 彼にとって、この状況は悪いものではなかった。バーサーカーが奪われた以上、彼女に戦う術はなく、彼女の聖杯戦争は終わった。
 戦う決意を固めても、本心では戦いたくなどなかった。

「もう、大丈夫だぞ。イリヤの事は俺が守るから……」
「シロウ……」

 その意思は彼女にキチンと伝わった。イリヤは士郎に抱きつき、セラとバーサーカーを失った哀しみを癒やした。
 彼女が落ち着いたのは、それから一時間も経った後だった。
 
「ねえ、シロウ」
「なんだ?」

 母屋の居間に移動して、士郎が淹れた茶を口に含み、彼女は頭の中を整理した。

「アリーシャと言ったわね。あのサーヴァントはなに?」

 整理した結果、彼女がキャスター討伐に動いた理由を思い出し、点と点が一本の線で繋がった。

「なにって聞かれも……。アリーシャは遠坂のサーヴァントだよ」
「……バーサーカーのマスター。貴女は何を気にかけているのですか?」

 それまで黙したままだったセイバーが問い掛けた。

「……あのサーヴァント。わたしと同じなのよ」
「同じ……?」
「きっと、アインツベルンのホムンクルス」

 その言葉に士郎とセイバーは驚くと同時に納得した。
 なんとなく、アリーシャとイリヤスフィールは似ていると、彼らも感じていた。
 アインツベルンが生み出したホムンクルス同士なら、似ていて当然だ。

「……でも、わたしの前の世代に英霊化したホムンクルスはいない。っていうか、後にも先にもあり得ない筈なのに」

 ホムンクルスは人ではない。
 生まれてから自分の役割を自覚する人間とは真逆の存在。初めに役割があって、次ぎに生まれるという工程を経る異常な存在。
 故に、英霊化など、そういう目的で作られない限り、本来はあり得ない。
 特にアインツベルンのホムンクルスは総じて聖杯を手に入れ、第三法に手を伸ばす為だけに鋳造される。英霊化を目的に掲げる事など無い筈だ。

「……バーサーカーのマスター」
「イリヤスフィールでいいわよ、セイバー」
「では、イリヤスフィール。……彼女が固有時制御の使い手であると言ったら、推理を先に進める事が可能ですか?」
 
 その言葉に士郎は首を傾げたが、イリヤスフィールは大きく目を見開いた。

「……それ、キリツグの」
「ええ、間違いありません。彼女の固有時制御は本来のソレと些か異なる。似ているだけだと思っていましたが、おそらく、アレは切嗣が編み出した独自の魔術だ」
「ど、どういう事だ!? なんで、アリーシャが親父の魔術なんて……。っていうか、セイバーは親父の事を知ってるのか!?」

 士郎の言葉にイリヤスフィールは肩を竦めた。

「話してないのね、セイバー。ええ、彼女はキリツグを知っている。だって、前回の聖杯戦争でキリツグが召喚したサーヴァントこそ、セイバーだったんだもの」
「えっ、親父が聖杯戦争に参加してたってのか!?」
「……そこからなのね」

 イリヤスフィールがセイバーを睨みつける。すると、セイバーはすまなそうに頭を下げた。

「シロウに切嗣の事を話すのは躊躇いがあったもので……」
「なんで……」
「食事の席などで貴方に断片的に聞いた衛宮切嗣の人物像と私の知っている彼の人物像があまりにも食い違っていた為です……」
「……セイバーの知ってる人物像って?」
「冷酷無比。一言で説明すると、そうなります」
「冷酷無比って……、親父は何をやったんだ?」

 セイバーは少し躊躇った後に口を開いた。

「ホテルを爆破し、敵マスターの人質を取り、一名を除いた全ての敵を圧倒しました」
「爆破に人質……」

 士郎が顔を顰めると、セイバーは後ろめたそうに言った。

「勝利の為には最善でした。決して、卑劣な手段というわけではなく、無益な殺生も避けていました。効率化を突き詰めた結果、最低限の被害で最大限の戦果を得る。彼のそれは王の采配に近い」
「……セイバーは親父の事をどう思ってたんだ?」
「あまり、好ましくはなかった。その在り方、理想、生き様に同族嫌悪にも似た感情を抱いていました。おそらく、彼もそうだったのでしょう。だから、私達の間には殆ど会話が無かった。そもそも、あまり必要でもありませんでした。彼の思考パターンは説明されずとも理解出来ましたから、令呪の発動を除けば、彼の声を聞いたのは三回程度でしょう」

 士郎は言葉を見つけられなかった。切嗣とセイバー。二人の事を知っている気になっていた。
 だけど、ホテルの爆破や人質を必要と割り切る姿をまったく想像する事が出来なかった。
 
「……貴方は切嗣とも、私とも違う。だからこそ、あまり話したくなかった。申し訳ありません……」
「セイバー……」
「話を戻すわよ」

 イリヤが手を叩きながら言った。
 
「……キリツグの固有魔術を使えるアインツベルンのホムンクルス。つまり、彼女はわたしの後継機ね」
「後継機って……」
「あり得ない事じゃない。英霊は時の流れから外れた存在だもの。未来の時間軸から召喚されるサーヴァントだっているわ」
「未来の……」

 イリヤスフィールはさっきの光景を脳裏に浮かべた。
 
「話をしてみたいわ。彼女はわたしを知っているみたいだし」
「そうなのか?」
「あんな風にわたしを見て泣き崩れるなんて、他に理由がないもの。それとも、知らない人間を見たら泣いちゃうような人見知りなの?」
「いや、そんな事はないと思う……。そっか、イリヤの事を話した時、イリヤの名前を気にしてたみたいだけど、そういう事だったのか。ただ、知ってはいても、覚えてない可能性があるぞ。アリーシャは記憶喪失らしいから」
「記憶喪失……?」

 イリヤスフィールはセイバーを見た。彼女が頷くのを見て、イリヤスフィールは首を傾げた。

「サーヴァントが記憶喪失って、リンはどんな召喚の仕方をしたのかしら……」

 イリヤスフィールが不思議そうに呟くと、居間の戸が開いた。

「遠坂! アリーシャは大丈夫なのか!?」

 士郎が立ち上がると、凛は居間に入らずに言った。

「士郎。同盟はここまでにしましょう」
「……は?」

 何を言われたのか、士郎は咄嗟に理解する事が出来なかった。

「さすがに後ろ足で泥を掛ける気は無いわ。そうね、同盟は無くなっても、三日は休戦にしておく。その間に貴方の方から仕掛けてくるのは構わないわ」

 ――――その時は心置きなく迎え撃てるから。

 そう、彼女は笑顔で言った。今朝までと、何かが決定的に違う。

「ど、どうしたんだよ、遠坂! なんで、急に……」
「士郎。悪いんだけど、わたしはどうしても聖杯を手に入れないといけなくなったの。どんな手を使っても、誰を殺しても、絶対に……」

 彼女は微笑んだまま、だけど、目はどこまでも冷たく、その声に一切の迷いもない。

「セイバーを死なせたくないでしょ? なら、この同盟はいずれ破綻する。だって、わたしはセイバーを殺すもの。そうしないと、聖杯が手に入らない。貴方はそれを阻止しようと動く。そうなってからドロドロの殺し合いなんて、なんかイヤでしょ? だから、ここで終わり」
「遠坂……、なんで、いきなり。聖杯を何に使うつもりなんだ?」
「教えないわ。教えたところで意味なんてないし、なにより……、一度捨てたヤツにとやかく言われたくないもの」

 その瞳には純粋な殺意が浮かんでいた。深い憎悪と怒りを滲ませて、それでも笑顔で彼女は言う。

「衛宮くん。貴方との同盟、悪くなかったわ。だから、どうしてもセイバーを死なせたくなかったら、聖杯をわたしに奪われたくなかったら、他に理由が出来て戦う意思を固めたら、その時は全力で殺しに来なさい。わたしは貴方を殺すから、貴方もわたしを殺していい。迷ったりしちゃダメよ?」
「と、遠坂……、なんで」

 凛は答えなかった。そのまま、荷物を抱えて出て行った。
 
「なんで……」

 呆然と立ち尽くす士郎にイリヤスフィールは言った。

「必要になったんでしょ。……たぶん、あのサーヴァントの為に」
「サーヴァントって、アリーシャの……?」
「捨てた……。つまり、あのサーヴァントはシロウと関係を持っているって事ね」
「ど、どういう意味だ!?」
「未来……。遠い先、シロウはあのサーヴァントの生前と出会う事になるのよ。そこで、リンが気に入らない事をする」
「……遠坂が気に入らない事」

 まだ、彼らにとっては起きていない出来事。
 彼女達にとっては、起きてしまった出来事。
 それが何なのか、分からない。分かる筈もない。

「俺は……、アリーシャに何をしたんだ?」

 イリヤスフィールも、セイバーも、誰もその問いに答える事は無かった。
 
 ◇

 魔女は嗤う。

「この状況下で仲間割れを起こすなんて、どこまでも愚かな子達」

 背後には延々と続く責め苦に耐え忍ぶ巨人の姿がある。この偉大なる男を屈服させる為には、もうしばらく時間がかかるだろう。

「ええ、しばらくは猶予をあげる。それまで精々、残された時間を有意義に過ごす事ね」

 セイバーとアーチャーはどちらも難敵だ。だが、ヘラクレスさえ支配出来れば勝利は揺るがない。
 セイバーの対魔力も、アーチャーの固有時制御も、稀代の魔女たるキャスターのサーヴァントにとって、さして障害ではない。
 
「……これで、ようやく」

 聖杯はもう目と鼻の先だ。魔女は華やかな未来を夢想して鼻歌を歌った。
 まるで、夢見る乙女のように、それはそれは幸せそうに……。

第十七話『シロウ』

第十七話『シロウ』

 敷地内に飛び込んできた影を迎え撃とうとして、出来なかった。
 その白い髪と真紅の瞳を見た瞬間、頭が割れそうに痛んだ。

 ――――バーサーカーは、強いね。

 脳裏にノイズ混じりの映像が浮かんでくる。
 鮮血で汚れた雪原。わたしを見降ろす巨人。夥しい数の獣の死骸。
 見たことの無い光景なのに、胸には懐かしさにも似た不安定な感情が広がった。
 物言わぬ巨人に対して、寂しさを感じている。ぬくもりを感じている。
 
 ――――早く呼び出さないと、死んじゃうよ。

 これは記憶だ。わたしではない、わたしの過去。わたしの|原点《はじまり》。

 ――――偶然じゃないよ? セラの目を盗んで、わざわざシロウに会いに来てあげたんだから。コウエイに思ってよね!

 イリヤスフィール・フォン・アインツベルンという少女が歩んだ軌跡。
 彼女は第五次聖杯戦争にバーサーカーのマスターとして参加した。そして、自分を裏切った|父親《キリツグ》の息子と出会った。
 まだ、何も知らなかった頃の彼。まだ、何も知らなかった頃のわたし。
 わたしにとって、シロウはキリツグが拾った子で、わたしからキリツグを奪った子で、キリツグの子供で、わたしの……、弟だった。 

 ――――シロウと話せるのは楽しいけど……。でも、やっぱり許してなんかあげないんだから!

 寒空の下、公園のベンチに座って、いっぱいおしゃべりをして、一緒にタイヤキを食べた。
 不思議な気持ちだった。わたしを裏切ったキリツグ。そのキリツグの子なのに、シロウと話していると楽しくてしかたがない。
 でも、やっぱり許せない。もやもやして、胸が苦しくなった。

 ――――誓うわ。今日は一人も逃がさない。

 公園のベンチで項垂れているシロウを見つけた。セイバーが魔力切れを起こして、今にも消えてしまいそうだと彼は泣きそうな顔で言った。
 だから、わたしの城に招いてあげた。セイバーがいなくなって寂しいのなら、代わりにわたしが一緒にいてあげようと思った。
 優しくして、仲良くなって、ずっと一緒にいてあげようと思った。それなのに、シロウは逃げ出そうとした。
 また、わたしを裏切るつもりなんだと思った。

 ――――やっぱり、シロウはお兄ちゃんだー!

 バーサーカーが倒された。いつもそばに居てくれたバーサーカーがいなくなって、すごく心細くなった。
 マスターとしての資格を失ったわたしには存在する理由が無くなってしまった。だって、聖杯を手に入れて、天の杯を完成させる為だけに生きていたのに、もう目的を達成する事が出来ない。
 そんなわたしを、シロウは助けてくれた。おんぶをしてくれて、衛宮の屋敷に連れて来てくれた。

『イリヤはここにいるべきだ。残りの敵と決着をつけるまで、イリヤはうちで匿いたい』

 反対するリンやセイバーに逆らってまで、そう言ってくれた。
 一度は教会の神父に攫われて、死を覚悟したけれど、それでもシロウは助けてくれた。
 言葉を交わす度、一緒に過ごす時間を重ねる度、わたしはシロウの事が愛おしくて堪らなくなった。

 ――――シロウ。行っちゃうの?

 いつか、この日が来る事を知っていた。
 シロウは正義の味方になりたくて、知らない誰かを助けたくて、その為に前へ進まずにはいられない人。
 泣いて懇願しても、彼の在り方は変えられない。仕方のない事だ。だって、わたしはそんな彼だからこそ愛しく思った。だからこそ、止まって欲しいと心から願う事が出来なかった。
 
 ――――帰ってきてね……。

 結局、去っていく背中を見つめている事しか出来なかった。
 残された時間は殆ど無くて、もう二度と会えない事を知っていても、また会える日を望まずにはいられなかった。

 ――――シロウ。わたし、シロウのこと……、好きなんだよ。

 それから数ヶ月、わたしはタイガと一緒に過ごした。
 元々、聖杯戦争が始まれば遠からず終わる命。いずれ来ると分かっていた破局。
 ある日、わたしは立つことが出来なくなった。
 それまではなんとか誤魔化してきたけれど、タイガに余命がバレて、彼女は泣きべそをかきながら『いやだ……。いやだよぅ……』と繰り返した。そんな彼女を慰める日々に疲れてきた頃、彼らは現れた。
 アトラス院の錬金術師、ヴィルヘルム・デューラーとアインツベルンのホムンクルスがわたしを攫い、仄暗い地下室へ連れて来た。

『これからキミには母胎になってもらう』

 死の淵に立っているわたしに彼らは延命措置を施し、子宮にとある魔術師の精子を注入した。どうやら、低ランクの淫魔を使役して採取したらしい。まさか、こんな風に母親になる日が来るとは思わなかった。
 残り少ない命を吸われ、わたしの中で大きくなっていく赤ん坊。ヴィルヘルムは錬金術師としてハイエンドな男で、本来なら不可能に近い受精を成功させ、赤ん坊を出産するまでわたしを生き長らえさせた。
 
『……わたしとシロウの赤ちゃん』

 自分がここまでバカだと思っていなかった。
 こんな風に利用されるカタチで孕まされて、こんな薄暗い地下室で死を迎える事になったのに、わたしはよろこんでしまった。
 わたしはシロウの子供を産み落とす事が出来た。その事実が心を温かく包み込む。

『……名前、何がいいかな』

 意識が闇の中に消えていく。それでも、必死に考えた。
 きっと、彼女は覚えていてくれる。わたし達はそういう存在だから。

『うん。シロウがいいかな……。パパと同じ名前だよ。わたしが……いちばん……すき、な……なま……え……』

 気付けば、涙を零していた。わたしは自分が誰なのかも分からなくなった。ただ、ひたすら悲しくて仕方が無かった。

「アリーシャ!」

 地面に座り込むわたしをシロウが心配してくれる。だけど、顔を向ける事が出来ない。
 わたしの中の愛情はわたしが生まれる前に芽生えたもの。わたしの中の|お母さん《イリヤスフィール》の愛……。

「ぅぅ、うっ、ぅぅぅえええええええん」

 頭の中がゴチャゴチャだ。わたしが好きになった人はわたしのお父さんだった。
 わたしの彼に対する感情はお母さんのものだった。
 
「アリーシャ!!」

 リンが駆け寄ってくる。わたしは無我夢中でリンの下へ向かった。
 抱きついて、声を張り上げて泣いた。

「どっ、どうしたの!?」

 リンは驚いた顔をしながら頭を撫でてくれる。
 少しずつ、心が安らいでいく。 
 
「……リン。わたし……、わたし……」
「いいから、落ち着くまで泣きなさい。事情なんて後でいいから」

 わたしには母がいた。
 わたしには父がいた。
 わたしは母を殺した。 
 そして、わたしは――――、

                    

                      父に殺された――――。

第十六話『魔女』

第十六話『魔女』

 昼食を終えた後、俺は道場に来た。竹刀を手に取って、軽く振ってみる。
 昔、ここで切嗣に剣を教えてもらった事がある。剣道とも、実践的な剣術とも違う……、無心になる為の剣。

「……イリヤ」

 明日の朝、彼女の下へ向かう事になった。なんでも、アリーシャの能力が幾らか判明して、ヘラクレスに対する勝算が生まれたらしい。
 ヘラクレスを倒せば、イリヤを聖杯戦争から脱落させる事が出来る。セイバーとアリーシャが居れば、ほぼ間違いなく達成できる見込みだと言われた。
 喜ぶべき事なのに、なんだかモヤモヤしている。

「馬鹿か……、俺は」

 モヤモヤの正体には気付いている。俺がしたい事の為にみんなを巻き込んでいるのに、俺自身は何も出来ない。口ばっかりで、俺はどこまでいっても足手纏にしかならない。
 
「……シロウ。悩んでいるのですか?」

 いつの間にか、道場の隅にセイバーの姿があった。

「悩みって程の事じゃないよ、セイバー。ただ、あんまりにも無力だから……」
「シロウ。貴方は決して無力などではありません」
「……慰めてくれるのは嬉しいけど」
「慰めではありません。昨夜の事、貴方は忘れてしまったのですか?」
「昨夜の事……?」
「ランサーとの戦いの最中、貴方は彼の宝具の正体を看破して、令呪を使った。あの判断は実に見事でした。貴方ははじめ、出来る事は強化と解析だけ、と己を卑下していましたが、敵の宝具の能力を看破する程の解析能力は聖杯戦争において、十分な武器になります」
「……セイバー」

 セイバーは竹刀を手に取った。

「それでも、己の無力を嘆くのなら、私が貴方を鍛えます」
「いいのか?」
「もちろんです。ただし、やるからには厳しくいきますよ?」
「……ああ、頼む!」

 セイバーは稽古をつけながら何度も俺を鼓舞してくれた。
 無力ではない。足手纏ではない。そう言って、真っ直ぐにぶつかって来てくれる。

「シロウ。貴方は出会ったばかりの少女の為に立ち上がり、人々の安寧の為に戦い、その為に辛く苦しい覚悟を背負った。そんな貴方だからこそ、私は心から信頼を置く事が出来る。貴方になら、私は躊躇う事なく、背中を預ける事が出来る。……ええ、初めは不安もありました。ですが、それは昔の話です。もう一度言います、シロウ。貴方は足手纏などではない」
「セイバー……」

 ここまで言われて、奮い立たない男はいない。彼女と交える一刀一刀に全身全霊を掛ける。
 彼女が背中を預けてくれるのなら、その背中を守れる強さが欲しい。
 気付けば、日が傾くまで夢中になって剣を振っていた。何度も吹っ飛ばされて、何度も叩き伏せられて、それでも彼女に挑まずにはいられなかった。
 もっと強く、もっと速く、もっと鋭く、もっと……、もっと……、もっと! 

「シロウ、大丈夫?」

 気付けば道場の真ん中でひっくり返っていた。アリーシャが濡れたタオルをおでこに乗せてくれる。ひんやりして気持ちがいい。
 どうやら、体力の限界を迎えたらしい。指一本まともに動かせないくらい疲れ果てている。だけど、心はセイバーとの鍛錬を始める前とは比べ物にならないくらいスッキリしている。

「……ありがとう、セイバー」
「シロウ。打ち合ってわかりました。やはり、貴方は強い。そして、これから更に強くなっていく」
「強く……、か」

 だけど、セイバーの強さは遥か遠い先にある。手を伸ばしても、とても届きそうにないくらい……。

「強くなりたいな」

 それでも、諦めきれない。彼女のような力があれば、きっと多くの人を救う事が出来る。
 口だけで理想を語るんじゃなくて、行動で語れるようになる。助けを求める人々の手を取る事が出来る。

「シロウ……」

 その時だった。急に道場の照明が落ちて、カラカラと音が鳴った。

「これは!?」
「リン!」

 アリーシャが道場を飛び出していく。セイバーも武装して俺の下へ駆け寄ってきた。

「今のって……」
「どうやら、侵入者のようです」
 
 俺は慌てて腑抜けた体に活を入れった。

「大丈夫ですか?」
「ああ、問題ない。行くぞ」

 セイバーの後に続いて道場を出る。すると、そこにはアリーシャが立っていて、彼女の前には……、イリヤとメイドの姿があった。

 ◇

「蹴散らしなさい、バーサーカー!!」

 柳洞寺へ続く石畳の階段を狂戦士が駆け上がる。頂上の山門では藍色の陣羽織を纏う侍が身の丈程もある刀を構えて待ち受けている。
 イリヤスフィールは佐々木小次郎と名乗った|その侍《アサシンのサーヴァント》を単なる障害物程度にしか思っていなかった。
 所詮、この男はニセモノだ。本来、アサシンのサーヴァントは|山の翁《ハサン・サッバーハ》と呼ばれるアサシンの語源ともなった暗殺教団の歴代頭領の中から選ばれる。加えて、冬木の聖杯に招かれる英霊は西欧で名の知られている者に限られる。故、佐々木小次郎などという、実在したかどうかさえ曖昧な日本人の男が召喚される事など、まずあり得ない。
 これはキャスターのサーヴァントが、《サーヴァントがサーヴァントを召喚する》というイレギュラーを起こした事で起きたイレギュラー。
 魔術に傾倒したという逸話すら持たない十把一絡げの剣士風情にギリシャ神話最大の英雄であるヘラクレスが負ける道理などない。

「――――あまり、舐めてくれるなよ」

 その言葉と共に道理が覆される。鋼をも砕くバーサーカーの渾身の一刀をアサシンは鮮やかに受け流し、その首を切り落とした。

「……なっ」

 その存在自体があり得ない男は、いとも容易く、半神半人の大英雄の首級を落とす偉業を為した。

「さて、これで一つ。残るは十一だったな?」

 また、あり得ない事が起きた。
 バーサーカーが|十二の試練《ゴッド・ハンド》の効果で蘇生した瞬間、その腕が飛んだ。

「なんで!?」

 |十二の試練《ゴッド・ハンド》はヘラクレスが生前乗り越えた十二の難行が宝具として昇華されたものだ。
 バーサーカーは十二回までなら死亡しても蘇生する事が出来る。加えて、Bランク以下の攻撃を無効化し、それ以上の攻撃も一度受ければ耐性が生まれる。
 一度殺しただけでもあり得ない事であり、同じ攻撃でバーサーカーの肉体を両断するなど不可能な筈だ。

「……ふむ、理由を問われても困るな。この刀に細工を施したのは雌狐だ。聞けば、バーサーカーとは同郷であったそうな。なればこそ、その能力も対策済みという事なのだろう」
「魔女メディア……。なるほど、すこし甘く見すぎていたようね」
「老婆心ながら忠告しておくが、あの雌狐を相手に力で押せばいいなどと思わぬ事だ。油断すれば……、そら、この通り」

 その言葉と同時に悪寒が走った。

「イリヤ!!」

 リーゼリットが巨大なハルバードを振り上げる。その矛先にはイリヤスフィールの肌へ奇妙なカタチの刃を持つ短剣を突き刺す魔女の姿があった。

「うそっ……」

 イリヤスフィールが呆然とした表情を浮かべる。自身の身から大切な繋がりが途切れた事を悟った。

「リーゼリット!! お嬢様を連れて逃げなさい!!」
「わかった!」

 リーゼリットはイリヤスフィールの体を抱き上げ、主人の制止も聞かずに走り出した。
 残されたセラはキャスターに襲い掛かる。一秒でも撤退する為の時間を稼ぐ為に――――。

「無駄よ、お人形さん」

 その意思は瞬く間に砕かれた。
 魔女メディア。神代の時代を生きた稀代の魔術師にとって、現代の魔術師が鋳造したホムンクルスを手玉に取るなど児戯にも等しい。
 
「……おじょう、さま」

 石畳に転がるセラを尻目に、キャスターはイリヤスフィールとリーゼリットの逃げた方角に視線を向ける。
 あの方角にはセイバーとアーチャーの拠点がある。

「……いいわ。今は見逃してあげる」

 キャスターはクスリと微笑むと令呪の縛りに抵抗しようと藻掻くバーサーカーに目を向けた。
 
「今はこの暴れ馬を手懐けないといけないものね」

 怒りを滾らせるバーサーカーの眼にキャスターは嗜虐心を唆られた。
 
「屈服させてあげるわ、ヘラクレス。時間をたっぷり使って、丁寧に……」

 その光景にアサシンのサーヴァントは顔を引き攣らせた。

「クワバラクワバラ……」

第十五話『命よりも大切なもの』

第十五話『命よりも大切なもの』

 目を覚ましたら土蔵の中だった。日課の鍛錬をこなしていて、そのまま寝てしまったみたいだ。
 起き上がると毛布がずり落ちた。

「毛布……?」

 どうやら、誰かが気を利かせてくれたらしい。

「あれ? でも、こんな柄の毛布、うちにあったっけ?」
「毛布がどこにあるのか分からなかったから、魔術で作ったの」
「そうなのか」

 どうりでファンシーな柄だと思った。ウサギがこれでもかってくらいたくさん描かれている。
 なんとなく、アリーシャらしいと思った。

「……ん?」

 そこでようやく目の前にアリーシャがいる事に気付いた。

「アリーシャ……?」
「おはよう、シロウ」
「おっ、おはよう。えっと、いつから……?」
「昨日、シロウが魔術の鍛錬をはじめた辺りからかな?」
「……えっと、一晩中そこにいたのか?」
「うん」

 よーし、落ち着け。きっと、アリーシャは俺に用事があったんだ。だけど、俺が眠ってしまっていて、起こすのも悪いと起きるまで待ってくれていたに違いない。
 すまない事をした。俺は居住まいを正して話を聞く態勢を整えた。

「……その、何か用事があったんだよな? 起こしてくれても良かったんだぞ。それで、どうかしたのか?」
「え? 別に用事はないけど?」
「……なら、なんでここに?」
「シロウの寝顔が可愛かったから」

 脳裏に《ストーカー》の文字がチラついた。
 咳払いをして冷静さを保つ。

「えっと、アリーシャ」
「なーに?」

 あざといくらい可愛らしい《なーに?》に気勢を削がれる。

「……アリーシャは俺の事が好きなのか?」
「うん! 言葉で表現し切れないくらい、シロウの事が好きだよ」

 あまりにもストレートな好意に顔が熱くなってくる。

「……その、なんでなんだ? 俺って、そんなにかっこよくないだろ。それに魔術師としても未熟だし……」

 言葉を途中で遮られた。唇に柔らかい感触が走る。目の前にはアリーシャの顔があった。
 咄嗟に離れようとしたけれど、アリーシャの力は俺如きに抗えるものではなく、そのまま為す術無く口の中を舐められ尽くした。
 たっぷり数分もの間、俺達はキスを続けていた。ようやく解放されると、そのまま床に倒れ込んだ。頭の中は熱に浮かされたようにぼやけている。

「シロウ。わたしの全身がアナタを求めているの。アナタが欲しい。アナタと一体になりたい。……アナタになりたい」

 その瞳には狂気的な光が宿っていた。

「アリーシャ……?」
「ねえ、シロウ。アナタはわたしをどう思う?」
「どう思うって……、その、知り合ったばかりだし……」
「……どうしたら、好きになってもらえるかな?」

 その言葉にはさっきまであった狂気は鳴りを潜めていた。
 不安そうに瞳を揺らすアリーシャ。

「……アリーシャ。俺は誰かと恋愛なんてしたこと無いんだ。だから、少し時間をくれないか?」
「時間……?」
 
 別にアリーシャのことが嫌いなわけじゃない。ただ、相手の事をよく知りもしないで半端な気持ちのまま応えるのは失礼な気がした。

「アリーシャのことを知る時間がほしい。アリーシャが俺の事を好きだって言ってくれたんだから、俺だって、ちゃんとアリーシャを好きになってから気持ちに応えたい」
「……シロウ」

 それにしても、アリーシャは本当に美人だ。

「……あれ?」
「どうしたの?」
「いや……、なんでもない」

 アリーシャの顔を見つめていたら、何故かイリヤを思い出した。
 そう言えば、彼女も瞳が赤かった。それに、色白で顔立ちが整っている事も共通している。
 
「ちょっと、アリーシャに似ている子の事を思い出したんだ」
「……わたしに?」
「イリヤって言うんだ。ほら、昨日話したバーサーカーのマスターだよ」
「イリヤ……」
「どうかしたのか?」

 アリーシャはなんどもイリヤの名前を口ずさみ、それから不思議そうに首を傾げた。

「……ああ、そっか。たしか、その子はアインツベルンなんだよね」
「アリーシャ……?」

 アリーシャは表情を曇らせて立ち上がった。

「そろそろ、リンを起こしてくるね。今日の朝食の当番はわたし達だから、楽しみにしててね!」
「あ、ああ、昨日のハンバーグも美味しかったし、期待してるよ」

 アリーシャが立ち去った後、俺はしばらく起き上がる事が出来なかった。

「……柔らかかったな」

 人生で初めてのキスは中々に衝撃的だった。

 ◆

 リンの部屋の扉を三回ノックすると、中から「今、行く」と返事が帰ってきた。
 
「おはよう、アリーシャ」
「おはよう、リン」

 笑顔で挨拶を交わした後、わたしはリンと一緒に居間へ向かった。
 その途中でリンは言った。

「……また、夢を見たわ」
「うん。わたしも少し思い出したよ」

 予想した通りだった。
 わたしが記憶を取り戻すと、リンにもラインを通じて伝わるらしい。

「食事が終わったら、部屋で話しましょう。いろいろと確認しておきたい事があるの」
「いいよ」

 表面的にはいつもどおりだけど、ラインを通じてリンの怒りが伝わってくる。
 良くない事かもしれないけれど、それがわたしには嬉しくてたまらない。だって、彼女はわたしの為に怒ってくれている。
 哀れみも、恐れも抱かず、ただ怒ってくれている。

「リン」
「なに?」
「大好き」
「……士郎とどっちが上?」
「うーん。悩むね」
「……そこはわたしが上って言っておきなさいよ」

 呆れたように溜息を零すと、リンは小さな声で言った。

「わたしも好きよ、アリーシャ」

 自分の出生について、すべてを思い出したわけじゃない。
 だけど、きっとわたしには家族がいない。
 父も、母も、兄弟も、姉妹も、誰もいない。聖杯戦争を共に駆け抜けたサーヴァントも自分の手で殺したわたしには他者との繋がりが一つもない。
 そんなわたしにとって、リンはかけがえのない存在だ。
 
 朝食を食べ終えると、わたしはリンと一緒に彼女の部屋へ戻った。
 
「……まず、確認。貴女はアトラス院の錬金術師がアインツベルンと結託して造り上げたホムンクルスで合ってる?」
「うん。たぶん、間違いないと思う」
「じゃあ、次ね。わたしは夢の中で聖杯戦争に参加している貴女を視た。崩れていたけど、『|HOLL YWOOD《ハリウッド》』の看板があったわ。あの場所はロサンゼルスね?」
「うん。ヴィルヘルム……、あの錬金術師はロサンゼルスに住む全ての人間を大地に溶かして、巨大な魔術回路に変えた。冬木の大聖杯をモチーフに、より彼の目的に特化した聖杯戦争を起こすための基盤とする為に」
「900万以上の命を一つの儀式の為に……」

 リンは嫌悪感に満ちた表情を浮かべた。

「……彼の目的は《正義の味方》という|殺戮機構《システム》の構築だった。人口爆発による破滅の未来を回避する為に人類の間引きを行う為に……」
「狂ってるわね……」
「本気で世界を救うためって考えている辺りが……、本当にどうしようもない」
「……その結果として、貴女はそういう存在になってしまったのね」
「あの聖杯戦争はその為の儀式だったからね。英霊の魂を一つ取り込む度にわたしは《正義の味方》へ変質していった。内側からずっと声が響いてくるの……。《正義の味方たれ》って」

 起きている間も、寝ている間も、何をしている間もずっと響き続ける声。
 
 ――――救え。

 ――――救え。

 ――――救え。

 ――――救え。

 ――――その為に、殺せ。

 強迫観念に近い衝動に常に襲われ続ける。自我が少しずつ削り取られていく感覚に恐怖を覚え、セイバーに何度も慰められた。

「眠る度に地獄を視た。炎に焼かれた街の光景……。そこをわたしは歩いていたの。助けを求める手を振り払って、助けを求める声から耳を塞いで、助けを求める人々から目を背けて、そうして切り捨てた人々の怨嗟の声が絡みついてくる。立ち止まる事は許されなくて、戦って……、戦って……、戦って……、そして、最後は大切な人まで殺して、わたしは正義の味方になった」

 セイバーはわたしが刃を向けた時、何かを呟いていた。
 だけど、わたしには既に自我が殆ど残っていなくて、何を言っていたのか分からなかった。
 きっと、恨み言に違いない。散々守ってもらった癖に、最後の最後で裏切ったのだから……。

「……夢の最後に紅い衣を纏った男が視えたわ。アレは抑止力として現れた英霊?」
「えっと……、ううん。違う……、あの人は……」

 朧げだけど、覚えている。わたしに最期を齎した人。
 雨が降っていた。

 ――――これを持っていろ。もしかしたら……。

「……そう言えば」

 わたしは魔力で装備を編み込み、その内側を漁った。
 この装備は正確に言うと、わたしのものじゃない。あの時、あの人が死にゆくわたしの体に掛けてくれたものだ。
 
「これ……」

 掠れてしまった文字。

 ――――ここに大切な物が入っているんだ。

 文字のところを触ってみると、中に何かが入っている事に気付いた。軽く切れ目を入れてみると、中から綺麗な宝石が落ちた。

「それって……」

 リンは目を大きく見開き、遠坂邸から持ってきたカバンを漁りはじめた。
 しばらくすると、彼女はわたしが取り出した宝石と瓜二つの宝石を持ってきた。

「なんで……」

 リンは困惑した表情を浮かべている。

「リン。これって、どこで買ったものなの?」
「……買ったものじゃない。これは大師父が遠坂家に授けてくれたもので、世界に一つしかない筈のものなのよ! なんで、それが……」
「世界に一つ……?」

 リンはわたしの持っている宝石をジッと見つめた。

「……魔力が無くなってる」
「えっと、どういう事なのかな……?」

 リンは二つの宝石を見比べながら黙り込んだ。

「リン……?」
「……ねえ、アリーシャ。もう一つ、確認するわ。貴女が聖杯戦争に挑んだのはいつの事?」
「えっと……、2017年の夏だったと思うよ」
「今年が何年か知ってる……?」
「え? それは……、あっ」

 言われるまで気づかなかった。だって、カレンダーなんて気にしてなかったし、今年が何年なのか意識する事も無かった。
 意識すると、頭の中に今年の年号が浮かんでくる。これは聖杯がもたらす基礎知識なのだろう。

「2004年……」
「……まあ、予想の範疇ではあったけど、やっぱり未来の英霊なのね、貴女」
「未来って、そんな事あるの?」
「あり得るわ。英霊はそうなった時点で時の流れから外れた存在になるから……。だとすると……」

 リンは頭を抱えはじめた。

「いや、2017年って、13年後よね。今すぐ子供を作ったとしても……。ええ、じゃあ、あの男は誰なの?」
「リン……?」
「未来の英霊はいいとして、あの男が遠坂家の家宝を持ってる説明が出来ないわ。まさか、平行世界のわたしとか言わないわよね?」
「えっと……、えっ? あの人がリン!?」

 そう言えば、リンも紅いコートをよく着ている。

「えっ、うそ……」
「いや、無いわ」
「え?」
「……やっぱり、あの男はわたしじゃないわ。それだけは断言出来る」
「えっと……、どうして?」
「うーん。どうしてって言われると困っちゃうけど……」

 どうにも曖昧だけど、やっぱりわたしもあの人はリンじゃない気がする。
 何ていうか、リンよりもむしろ……。

「……ダメね。わたしが誰かにこの宝石を預けるとも思えないし……。ねえ、その掠れた文字がなんて書いてあったのか分からない?」
「えっとね……」

 よーく見ると、掠れた文字の意味が読み取れた。

「……え?」
「どうしたの?」
「えっと……、その……」

 わたしは信じられない思いで刻まれた文字を読み上げた。

「あの……、『必ず返しに来なさい。それまで預けるわ。 遠坂凛』って」
「……は?」

 凛が文字を食い入るように見つめる。

「……待ってよ。なんで、わたしの名前が……。えっ、預けたって、誰に?」

 二人揃って首を捻る。

「……もしかして、あの人って、リンの恋人だったりする?」
「いや、わたしに恋人なんていないし……。でも、十年以上も相手がいないってのも想像出来ないわね……」
「リンって、好きな人はいないの?」
「えー、特にはいないわね……」
「誰も? シロウは?」
「えっ、士郎?」

 リンは少し考えた後、なんとも言えない表情を浮かべた。

「うーん。イメージが湧かないけど、絶対無いとも言い切れないわね。彼、割りといい男だし」
「振っといてアレだけど、まさかリンがわたしのライバルになるとは……」
「いや、今はそんな気サラサラ無いわよ。ただ、もし出会い方が違ったりしたら、そういう関係になるかもしれないってだけの話」
「そっか……。じゃあ、あの人がシロウだったり?」
「それこそまさかよ。彼が貴女に勝てる姿なんて全然イメージ出来ないもの。あの男は貴女と戦って勝ったんでしょ? まあ、人間が貴女に勝ったって時点で想像つかないけど……」
「うーん。あの時の事はまだ正確に思い出せないんだよね……」
「まあ、分からない事は置いておきましょう。それより、貴女に言っておきたい事があるの」
「なに?」

 リンは言った。

「わたし、聖杯を手に入れるわ」
「え? うん、それは知ってるけど……」

 改まったりしてどうしたんだろう?

「貴女、わたしと一緒に居たいって言ったわよね?」
「う、うん」
「……その言葉、忘れるんじゃないわよ」

 リンは決意に満ちた表情を浮かべた。

「リン……?」
「もう一つ確認。貴女……」

 ――――わたしが悪人になったらどうする?

 その問い掛けにわたしはすぐ答える事が出来なかった。
 そんなの関係ない。わたしはずっとリンの傍にいる。
 そう、断言したいのに、どうしてだろう……、そうなったら……、わたしは……わたしは……わたしは……、 
 
「……そうよね。だって、貴女は正義の味方だもの」
「リン! わっ、わたしは!」
「落ち着きなさい。別に怒ったりしてないわ。ただ、先に言っておくわね」
「リン……?」
「わたし、貴女に殺されるなら、それはそれで構わないから」

 その言葉に途方もない怒りを覚えた。

「何を言って……」
「……そろそろお昼の時間ね。居間に向かいましょう」
「待ってよ、リン! なんで、そんな事言うの!? わたしは……、わたしはリンを……、リンの事を……」

 止め処なく涙が溢れてくる。
 リンを殺す。その事が恐ろしくてたまらない。
 だって、わたしは本当に彼女を殺してしまうかもしれないから……。

「……貴女がわたしを殺しても、わたしは貴女の事を嫌わないってだけの話よ。それじゃ、先に行くからね」
 
 リンは部屋を出て行った。
 わたしは立ち上がる事が出来なかった。

「なんで……、そんなこと……、そんな……」

 薄々、分かってる。リンは聖杯で叶えたい望みを持ったのだ。その為なら、悪に手を染める事も厭わない。
 そして、その願いはきっと……、

「リン……。わたしにだって、自分の命より大切なもの……、あるよ。……リン」

第十四話『鮮血少女』

第十四話『鮮血少女』

 ――――また、夢を見ている。

 見渡す限り、廃墟が広がっている。数日前までは数百万もの人々が暮す一大都市だった。
 ここに住んでいた住民は一人残らず儀式の贄となり、大地に溶けた。

『――――ッハ、とんでもねーな』

 それはわたしの知っているものとは少し毛色の違う……けれど、それはたしかに聖杯戦争だった。
 一人の錬金術師が冬木の聖杯戦争を模倣して造り上げた『禁忌の祭壇』。
 
『セイバー……』

 雪のように|白い髪《・・・》の少女が騎士を不安そうに見つめている。
 騎士の顔は兜で隠されていて見えない。怒っているのか、哀れんでいるのか、それとも、喜んでいるのか、なにも分からない。

『……安心しろ』

 セイバーのサーヴァントは乱暴に少女の頭を撫でた。

『守ってやるさ』
『……うん』

 戦いは苛烈を極めた。この儀式に参加した魔術師達はいずれも傑物ばかり。彼らが率いるサーヴァントも選りすぐりの英霊ばかり。
 廃墟を無数のクレーターに変え、近隣の都市の人々を贄に捧げ、神秘の隠匿を度外視して、彼らは殺し合った。
 
『――――貴様等は、何度同じ轍を踏めば気が済むのだ!!』

 魔術協会から派遣された稀代の執行者は少女に憤怒を向けた。

『……貴女に罪は無い。それでも、貴女を完成させるわけにはいきません』

 聖堂教会から派遣された埋葬機関の代行者は少女を哀れんだ。

『奈落の使徒よ。大いなる破滅を約束する少女よ! すまないが死んでくれ! それが我らの安寧なのだ! それが我らの望みなのだ!』
 
 まるで舞台役者のような振る舞いの魔術師は少女に曇りなき殺意を投げかけた。

『……ああ、彼女の言った通り、君には何の罪もない。ただ、存在する事がこの世界にとって脅威なのだ。だから、私達は君を殺す。ああ、恨みたければ好きなだけ恨め。それは正当な権利だ』

 執行者のバックアップとして現れた魔術師は感情を押し殺した声で言った。
 
 ――――これは世界を救うための戦いである。

 戦いが進みにつれ、少女は変質していった。
 彼女はこの狂気の舞台を用意した錬金術師が造り上げた聖杯であり、サーヴァントの魂を取り込む度に完成へ近付いていった。
 髪の色は赤銅色に染まり、その心は上書きされていく。

『怖いよ、セイバー……。助けて……、わたし、いなくなっちゃう……』

 セイバーに抱き締められながら、少女は……、アリーシャは涙を流した。
 
『……マスター。オレは……、オレは……』

 彼女の悲痛な叫びを聞いても、セイバーに出来る事は彼女を守る事だけだった。
 逃げても、殺されても、生き延びても、彼女に待ち受けるものは破滅の未来のみ。
 はじめから、彼女は破滅する為に生み出された。

『ちくしょう……。あの腐れ錬金術師共!! 許さねぇ……、絶対に許さねぇ……ッ』

 憎悪が深まる度、セイバーは強くなった。赤雷は全てを呑み込み、一歩ずつ破滅が近付いてくる。
 そして、とうとう彼女は完成してしまった。
 彼女が彼女であった頃の心の断片はセイバーの首を刎ねた瞬間に死に、その肉体は錬金術師が臨んだ通り、救世主として覚醒した。
 
『素晴らしい! 素晴らしいぞ、■■■! これで世界は救われる!』

 その時……いや、それ以前から人類の滅びは確定していた。人口爆発と呼ばれる現象が原因だ。

 西暦一年頃、人類は一億人に満たなかった。千年後も、その数は二倍の二億人に増えるに留まっていた。ところが、それから九百年後、即ち、現在から数えて百年前、一気に八倍の十六億五千万人にまで増えた。そして、それから僅か五十年で二十五億人を突破。更に五十年後の現在、人口は七十億人を突破している。
 一人の人間が使える清浄な水や食料の数には限りがある。それに加えて、温暖化、オゾン層の破壊、二酸化炭素の増加、森林伐採。それらは人口の数に比例して増加している。
 感情を排し、理論の下でそれらの数値を分析すると、近い未来、聖書の終末など待たずに人類は破滅する事が分かる。
 大災害が起こらずとも、核戦争が起こらずとも、魔王やドラゴンが現れずとも、人類はただ、増え続ける事によって滅亡する。
 生物学において、特定の種がその住環境に対して過剰に増加し過ぎた事を理由に絶滅する事はよくある事だ。
 
『|黒死病《ペスト》という病がある。アレはその時代に多くの人間の命を刈り取った。故、その名は恐怖と共に語られる事が多い。だが、同時に人類に多大なる恩恵を齎してもいるのだ。黒死病が広がるより以前は、人口過剰による飢饉が世界に暗雲を立ち篭らせていた。黒死病の襲来はまさしく――――、『人類を間引く』役割を担ったのだよ』

 錬金術師は熱に浮かされたように語り続ける。

『多くの人が死んだ。そのおかげで、食料が行き渡るようになり、経済的な困窮も払拭され、ルネッサンスが花開く切欠となった。著名な歴史学者の多くが黒死病を『必要悪』と謳っている! 魔術世界に属さぬ者達。|世界保健機関《WHO》をはじめ、多くの科学者や医師も人類増加の危険性を世に発信している。人類の抑制は必要な事なのだ!』

 それが男の狂気の源。彼が|所属する組織《ならくのそこ》から抜け出して、形振り構わず聖杯を求める|残骸《アインツベルン》を欺き、900万以上の罪無き人々を贄に捧げ、無垢な少女を壊した所以。

『だが、間引くにしても無差別では意味がない。悪がのさばり、善人や有能な者達が死に絶えては世界の滅亡を回避する事は出来ない。だからこそ、単なる死神ではダメなのだ! 世界を救う為の死神――――、正義の味方が必要なのだ!』

 そう救世を謳い上げる狂人が最初に殺された。
 聖杯戦争の勝者となったアリーシャは奇跡の力で己を『正義の味方』という現象に変え、悪意が一定域に達した地点に出現し、その場の全てを一掃する。
 
 ――――救え。

 ――――救え。

 ――――救え。

 ――――救え。

 ――――その為に、殺せ。

 この世全ての悪を根絶する。それが彼女の存在意義となり、そして、彼女自身が世界の滅亡の要因となった。
 そして……、紅い騎士が現れた。

 ◆

 目が覚めた瞬間、あまりの怒りに気が狂いそうになった。

「ふざけるな!! ふざけるな!! ふざけるな!!」

 手当たり次第に物へ当たり散らし、それでも気が済まなくて、握り締めた拳から血が流れた。
 アリーシャには初めから救いなんて用意されていなかった。だって、彼女は破滅する為に生み出されたホムンクルスだ。
 生まれた時点で900万以上の命を背負わされて、生きたいと願っていたのに壊された。
 |この世全ての悪《じんるい》に対する敵対者となった彼女は世界からも疎まれて、最後は排斥された。
 一緒に料理を作るのが楽しいと彼女は言った。
 水族館やプラネタリウムを回って、ショッピングをして、それが楽しいと彼女は言った。
 あれが本来の彼女だ。どこにでもいる普通の女の子だ。それを……、それを……、それを……ッ!

「絶対に聖杯を手に入れてやる……。何があっても、絶対に……」

第十三話『戦う決意』

第十三話『戦う決意』

 街の探索の締めとしてやって来た新都の公園。
 十年前に炎で焼かれた土地は自然公園と銘打っているものの、あまり整備が行き届いていない。その為に外灯の数が少なく、陽が沈めば辺りは闇に沈む。
 一通りの探索を終えて、一度家に戻ろうかと話していると――――、そいつは突然現れた。

「――――よう、お二人さん。探しモノかい?」

 夜に溶け込むような群青の装束に身を包み、血に濡れたような紅い槍を握っている。
 粗野な笑みを浮かべ、まるで往年の友に声を掛けるような調子で俺達を見つめている。

「シロウ、後ろへ!」

 セイバーが武装して前に出る。
 
「……ランサーのサーヴァントだな。あの結界は貴様の仕業か?」
「さぁて、答えてやる義理なんてねぇな!」

 男が動いた。真紅の槍が高速で突き出される。一息の内に十の音が重なった。
 それはランサーの槍が十度繰り出された事を示し、そして、セイバーが十度迎撃した事を示している。

「――――チィ」

 目で追えぬ二人の攻防はセイバーに軍配があがった。
 踏み込むセイバーの一撃を受けたランサーの槍に光が灯る。それは視認出来る程の魔力の猛り。
 セイバーの一撃一撃には、とんでもない程の魔力が篭っている。

「クッ――――」

 堪らず後退しようとするランサーをセイバーは逃さない。
 舌を巻くのはランサーの技量だ。おそらく、サーヴァントとしてのスペックはセイバーが上だろう。だが、ランサーは圧倒されながらもセイバーの喉を、眉間を、心臓を、人体における急所を的確に狙い、セイバーに決め手となる一撃を打たせない。
 これがサーヴァントの戦い。セイバーの言っていたとおりだ。この攻防は人知を超えている。

「セイバー……」

 このまま、何事も無ければセイバーの勝利で決まる。如何に技巧に優れていても、セイバーはあまりに圧倒的だ。
 だけど、どうしてだろう。このままでは終わらない気がする。
 
「……あの槍」

 あの槍は普通じゃない。まるで呪詛の塊を見ているような気分になる。
 サーヴァントにはシンボルとなる特別な武器があるとセイバーが言っていた。
 人間の幻想を骨子に編み上げられたソレは宝具と呼ばれ、剣であったり、騎馬であったり、結界であったりと特定の型に嵌らず、モノによっては魔法に匹敵する力を持つという。
 おそらく、ランサーの宝具はあの槍だ。アレが真価を発揮する前に、その真髄へ踏み込む。唯一と言っていい取り柄で真紅の槍を解析する。

 ――――魔槍ゲイ・ボルグ。
 ――――偉大なる海の魔獣クリードの頭蓋よりボルグ・マク・ブアインが削り出したモノ。影の国の女王が愛弟子に授けた因果を歪める呪槍。

 槍の全貌が明らかになると同時に大きな音が鳴り響いた。空間に文字が浮かび、ランサーとセイバーの間に炎の壁が生まれた。
 ルーン魔術。ゲイ・ボルグの持ち主は武勇に優れ、同時に魔術師としても傑物と聞く。いよいよ手の内を晒し、本気を出し始めたという事だろう。

「――――断る、貴様はここで倒れろ!」

 ここからランサーの言葉は聞こえない。何かを提案したようだが、セイバーに一蹴され、ランサーは奇妙な構えを取った。
 魔力が槍に集まり始める。心臓を穿たれ、セイバーが殺される未来を幻視する。
 セイバーとランサーの間には距離がある。セイバーの神速を持ってしても、宝具の発動を阻む事は出来ない。
 なら、どうすればいい? 

 ――――シロウ。貴方の手に宿る真紅の刻印は令呪と呼ばれるものです。

 セイバーの言葉を思い出す。

 ――――それはサーヴァントに対する絶対命令権。それを使えば、サーヴァントに対してあらゆる命令を強要する事が出来ます。

 あの時、彼女は言っていた。

 ――――サーヴァントに意に反する命令を下す事も出来ますが、令呪を使えばサーヴァントの独力では不可能な事も実行させる事が出来るのです。
 
 そうだ。彼女に不可能な事でも、俺なら可能にしてやる事が出来る。
 覚悟はとうの昔に決めた筈だ。聖杯戦争という矛盾の坩堝で己の意思を貫きたいのなら、己の中の矛盾を背負う覚悟をしなければならない。
 正義の|為《ため》に、悪を|為《な》す覚悟。
 人のカタチをして、言葉をかわす事の出来る相手を殺す。それを悪と理解しながら、正義と嘯く己の欺瞞を飲み下せ。

 ――――さもなければ、セイバーが死ぬ。
 
 ――――さもなければ、イリヤを止められない。
 
 ――――さもなければ、この街の人々が犠牲になる。 

 なんども足踏みをした。なんども間違えそうになった。もう、十分に迷った。
 心を研ぎ澄ます。ゆらゆらと頼りなく揺れ動く意思を鋼鉄に鍛え直す。

「――――セイバー!!」

 己の意思で一線を超える。
 あの日――――、炎の中で目を背けた無数の魂に新たな命を加える。
 人々を救いたい。人々を救わなければならない。分水嶺は十年前のあの日にすでに超えている。
 立ち止まる事は許されない。背中の向こうから無数の手が押し寄せてくる。

 ――――救え。

 ――――救え。

 ――――救え。

 ――――救え。

 ――――その為に、殺せ。

 人の魂に貴賎などない。ならば、天秤は数によってのみ傾く。
 十を救う為に一を切り捨てる。正義の味方を志すならば、いずれ辿り着く真理。

「――――ランサーを斬れ!!」
 
 己の腕から光が一つ消える。

「なっ――――」

 それはどちらの声だったのだろうか、セイバーは令呪の強制力によってランサーとの間にあった距離を零にした。
 宝具の発動態勢に入っていたランサーに回避する余裕はなく、セイバーの不可視の剣は彼の肉体を両断した。

「っち、抜かったぜ……」

 光となって消えるランサー。
 込み上げてくる吐き気を押し殺す。
 これが人を殺す感触だ。
 相手がサーヴァントだろうと、直接手を下したのがセイバーだろうと、あの男を殺すと決断し、実行させたのは俺だ。
 
「シロウ!」

 セイバーが武装を解除して俺の方にやって来る。
 ……疲れた。今日は帰ろう――――。

 ◆

 驚いた事にランサーは結界と無関係だった。衛宮邸にはすでに遠坂とアリーシャが戻って来ていて、聞いた話によると、本命は彼女達の方に襲い掛かってきたそうだ。
 ランサーとライダーが脱落して、残るサーヴァントは五体。セイバーとアリーシャを除けば、敵は三体になる。
 遠坂とアリーシャが作ってくれたハンバーグを食べながら、俺達は今後の方針を話す事にした。

「……遠坂。バーサーカーのマスターはイリヤだ」
「イリヤ? 知り合いなの?」
「ああ、本名はイリヤスフィール・フォン・アインツベルンって言ってた」
「貴方、アインツベルンのマスターと知り合いだったの!?」
「だったって言うか、俺がサーヴァントを召喚する前にうちに来たんだよ」
「……どういう事?」

 俺はイリヤと出会って、セイバーを召喚するに至った経緯を話した。
 
「……つまり、士郎はイリヤスフィールを戦いから降ろす為に聖杯戦争に参加したわけね?」
「ああ、はじめは……。ただ、セイバーの話を聞いて……、それにあの結界を見て、この戦い自体を止めないといけないって思った」
「……なるほど。それで? 士郎はどうしたいのかしら?」

 セイバーとアリーシャに倣ったそうだが、遠坂に士郎と呼ばれると何だか照れくさくなる。
 ゴホンと咳払いをして照れを誤魔化しつつ、俺はイリヤとの約束を口にした。

「俺はイリヤのバーサーカーを倒して、彼女も聖杯戦争から降ろしたい。ただ、相手はギリシャ神話の大英雄ヘラクレスらしいんだ。だから……、頼む!」

 遠坂とアリーシャに頭を下げる。

「力を貸して欲しい」
「いいわよ、もちろん」

 頭をパッとあげると、遠坂はアリーシャを見つめていた。

「いずれ倒すべき敵だもの。異存なんてある筈がないわ。ただ、本当に相手がヘラクレスなら、一筋縄ではいかない筈よ」
「ああ、セイバーも言っていた」
「……オーケー。作戦の立案は任せてちょうだい」
「頼む」

 もう一度頭を下げると、遠坂は「任せなさい」と微笑んだ。
 
 ◇

「……どういう事?」

 少女は従者の報告を聞いて眉を顰めた。
 新都の二ヶ所で同時に起きたサーヴァント戦。それによって、ランサーとライダーが脱落した。その事を彼女は報告が来るまで知らなかった。
 
「ありえないわ……。わたしが分からなかったなんて……」

 何かおかしい。この聖杯戦争に無視出来ない異常が発生している。
 
「あの魔女か……、それとも、マキリが……?」

 |手駒《ライダー》が脱落した以上、マキリが動く可能性は低い。ならば、キャスターがクロである可能性が濃厚か……。
 少女は二人の従者を見る。

「でるわよ、ふたりとも」

 折角の大一番を邪魔されてはたまらない。シロウが来る前にゴミを掃除しておこう。
 
「……なにを企んでいるのか知らないけれど、かくごすることね、キャスター」

第十二話『ガール・ミーツ・ガール』

第十二話『ガール・ミーツ・ガール』

 街の中を当てもなく歩いている。

「見つからないね」 

 アリーシャは目を皿のようにして敵を探しているけれど、見つかる筈がない。

「まあ、真っ昼間から襲い掛かってくる筈ないもの」
「え? でも、昼間にあんな結界を発動させるような相手ならって言ったのはリンだよ!?」
「それっくらい考えなしの可能性もあるって話よ。まあ、未だに尻尾を掴ませない辺り、最低限の事は弁えているみたいね」
「……なら、こうしていても無駄って事?」
「無駄ではないわよ。こうして挑発的に出歩いていれば、確実に釣れるわ。日が暮れて、わたし達が|人気《ひとけ》のない場所に入り込めば、すぐにでも」

 あの結界は発動しても、そこまで旨味が無かった筈だ。アリーシャの救出劇が無かったとしても、休日に登校して来ている生徒の数は百にも満たない。あの規模の結界を発動させる為に必要な魔力を考慮すると、プラマイゼロとは言わないまでも、釣り合うだけのリターンにはならない。むしろ、あの結界によって監督役や他のマスター達に目を付けられるリスクの方が圧倒的に大きい。
 それでもなお、あの結界は発動した。ここから結界の主の性格をある程度察する事が出来る。

「あの時、結界が発動した理由は一つ。折角の結界を壊そうとしているわたし達に対する嫌がらせ。きっと、アレを張ったヤツは直情的で短絡的な性格の筈よ。だから、昨日の今日でこうして街中を悠々と歩いてやれば、確実に食いつくはず」
「……すごいよ、リン! そこまで考えていたなんて!」
「ふふん。存分に褒めていいわよ?」

 すごいすごいと連呼するアリーシャに気を良くしながら、わたしは新都の中心街に足を向けた。

「でも、それだと夜まで暇にならない? 一度、シロウの家に帰る?」
「こうして出歩いている事が重要なんだから、帰っちゃダメよ。それより、折角だからデートをしましょう」
「で、デート? わたし達二人で?」
「他に誰がいるのよ。なに? シロウが相手じゃないとイヤって事?」
「……どこに行くの?」
「とりあえず、定番のコースで行きましょう。水族館は好き?」
「……行ったことないけど、それって割りとガチなデートコースじゃない?」
「いいじゃない。折角ならとことん行くわよ」

 アリーシャの手を引きながら、わたしは水族館を目指す。
 はじめは戸惑っていた彼女も水族館に着く頃には観念したのか、ワクワクドキドキの表情を浮かべていた。

「うわー、すごいね!」

 水族館の中に入ると、アリーシャは瞳を輝かせた。

「アメイジング! ファンタスティック! オーマイゴッド!」
「すっごい外国人っぽい感動の仕方ね……」

 周りがすごい目でアリーシャを見ている。

「わたし、生きている魚は初めて見たよ!」
「そうなの? まあ、見ようと思わないと見れないものね」
「……綺麗だね」
「そうね」

 アリーシャは小さな水槽に見入っている。中で泳ぎ回る魚達に目を細めながら、彼女は呟いた。

「この子達はこの狭い世界の中で生まれて、生きて、死ぬんだね」
「……そう考えると残酷かもね」
「でも、それは一つの幸福かもしれない」

 アリーシャはまるで小さな世界に閉じ込められた魚達を羨んでいるかのように言った。

「何も知らなければ、この中だけで満足出来る。むしろ、この子達に外の世界を教える事の方が残酷かもしれないよ」
「……そうかもしれないわね」

 少なくとも、この水槽の中で生きる限り、彼らは食料に困る事もないだろう。天敵に怯える必要もなく、次の世代に命のバトンを繋ぐ事が出来る。
 
「でも、この子達は命を他者に握られている。酸素の供給を止められたり、餌を与えられなくなったり、人の気まぐれ次第で死ぬ。わたしだったら、耐えられないわ」
「……リンはそうだろうね」
「貴女は違うの?」

 アリーシャは応えなかった。

「……記憶、戻ってるの?」
「まだ、少しだけだよ」
「思い出したくないのね」
「うん……」

 あの夢は彼女の意識がラインを通じてわたしの中に流れ込んだ結果だ。
 わたしが視たという事は、彼女も視たという事だ。

「……次はプラネタリウムでも見ない?」
「見たい!」

 アリーシャと過ごす時間はすごく楽しい。
 同世代の女の子と遊び歩いた事なんて無いから、連れ回しているわたしにとっても全てが新鮮だった。
 プラネタリウムの後は映画を見て、その後はショッピングにも手を出した。
 おそろいのアクセサリーを買って、ランジェリーショップを冷やかして、そうしている内に空が茜色に染まりはじめた。
 |人気《ひとけ》の少ない方を目指して歩きながら、わたしは言った。

「……アリーシャ。聖杯戦争が終わっても、一緒にいましょう」
「リン……」
「聖杯なら、貴女を受肉させる事も出来るわ。それに、聖杯が使えなくても、貴女を維持する方法くらい幾らでもある」
「……リンが許してくれるなら、わたしも一緒にいたいよ」

 わたしはアリーシャと繋いでいる手に力を篭めた。
 あんな地獄に返してなんてやらない。アリーシャはわたしのサーヴァントだ。あんな救いのない生前を塗り替えられるくらい、幸福にしてみせる。
 だから――――、

「――――ッリン!」

 ――――わたしは聖杯を手に入れる!

「アリーシャ!」

 真上から襲い掛かってきた眼帯の女に準備していた宝石を投げつける。
 光が破裂して、わたし達と敵の間に壁を作る。

「――――時よ」

 その一秒後――――、眼帯の女は無数の肉片に変わった。 
 やっぱり、直情的で短絡的な愚か者だった。アリーシャの|固有時制御《タイムアルター》を警戒して、不意を狙った点は悪くない。
 だけど、こっちは不意打ちが来る事を前提で動いていた。

「……アリーシャ。どう?」
「いるね。魔力を垂れ流しているお馬鹿さんが屋上に」

 アリーシャは敵のサーヴァントにとどめを刺しながら、近くのビルの屋上を睨みつけた。かすかに声が聴こえる。

「行くわよ」
「うん」

 アリーシャと一緒に空間を飛ぶ。目の前にはビルの下を睨みながら死んだサーヴァントを罵倒している敵のマスターの姿があった。
 その後ろ姿をわたしは知っていた。
 間桐慎二。既に没落した家の長男。腐っても聖杯戦争をはじめた御三家の一角といった所だろうか、魔術回路すら絶えた身で聖杯戦争に参加するとは恐れ入った。
 一応、声でも掛けておこうかと思ったけれど、その前にアリーシャが動いた。肉体を五十以上の肉片に変えられ、慎二は死んだ。

「……終わったわね」
「うん」

 アリーシャの瞳には何の感情も浮かんでいなかった。握っていた聖剣を消し、慎二だった肉塊を炎で燃やす。
 
「帰ろっか、リン」
「ええ、帰りましょう」

 まずは一体目。残るサーヴァントはセイバーを含めて五体。
 先は長いけど、ようやく第一歩を踏み出した感じだ。

「……夕飯の材料を買っていきましょう」
「今日はハンバーグがいいなー」
「いいわね。玉ねぎはあったみたいだし、ひき肉だけでいいかしら。あっ、でもナツメグとかあるのかな?」
「うーん。あるんじゃない? シロウは料理が上手だし、調味料とかも揃ってる気がする」

 まあ、ここは衛宮くんの主夫力を信じてみる事にしよう。

 ◇

「……あれは反則だろ」

 刹那に起きた一方的過ぎる虐殺を見て、思わず呟いた。
 あのすばしっこいライダーがまともに反撃も出来ないまま脱落するとは思わなかった。
 おまけに情け容赦無くマスターまでキッチリ仕留めておきながら、和気藹々と帰っていく二人の背中に寒々しいものを感じる。

「さすがにアレとまともに打ち合ったら力量を計るどころじゃないぜ?」
『――――ああ、そのようだな。あのサーヴァントに対しては命令を撤回するとしよう。為す術無く殺される事が分かっている相手に特攻させるほど、私も鬼ではない』
「っへ、よく言うぜ」

 ツバを吐き捨てながら立ち上がる。あの二人を見逃す以上、次が最後になる。
 
「相手は騎士王か……。楽しめそうだな」

第十一話『少年と少女』

第十一話『少年と少女』

 食事を終えた後、俺達は二手に分かれて街の探索に出た。
 遠坂の話では、学校の結界の件で敵もこちらをマークしている筈だから、単独行動を取れば二組の内、どちらかに接触してくる可能性が高いとの事。
 本命は遠坂の方だけど、此方を狙ってくる可能性も十分にあるから警戒を怠るなと注意された。

「……遠坂とアリーシャは大丈夫かな?」
「問題無いでしょう。アーチャーとしての嗅覚、ステータスの差を引っくり返す|固有時制御《タイムアルター》。敵に回せば、アリーシャは間違いなく難敵です」
「ちなみにセイバーなら勝てるのか?」

 その質問にセイバーは少し考え込んだ。

「……情けない話ですが、確実に勝てるとは言い切れませんね。いえ、正直に言えばまともに戦って勝てるイメージが湧かない。おまけに彼女は奥の手を晒していませんから」
「固有時制御だっけ……。アレって凄いよな」
「ええ、アレも魔法の一歩手前まで踏み込んだ領域の魔術ですから……」

 あの時の光景は壮絶だった。数えたわけではないけれど、体感で数秒の間に全てが終わっていた。あそこまで速いと、対処のしようが無い気がする。

「……たしかに、あっちは心配なさそうだな」
「シロウ。それはわたしでは心配という事ですか?」

 失言だった。セイバーはムッとした表情を浮かべていらっしゃる。

「いや、別にそういうわけじゃなくて……」
「シロウには一度わたしの実力を知って頂く必要がありますね」

 別にセイバーが弱いサーヴァントだなんて思っていない。
 アーサー・ペンドラゴン。その名を知らぬ者がいない、伝説の英雄。
 十の歳月をして不屈、十二の会戦を経て尚不敗、その勲は無双にして、その誉れは時を越えて尚不朽。
 結界に穴を穿つ為、彼女が解き放った風の魔力が隠していたモノ。あの黄金の輝きこそ、彼の王が戦場にて掲げた旗印。
 過去から現在、そして、未来を通じて戦場に散っていく、全ての兵達が今際の際に抱く『栄光』という名の哀しくも尊きユメ。
 清廉潔白の王。騎士の理想の体現。常勝無敗の覇者。それが彼女の正体だ。弱いはずが無い。

「本当にセイバーの事を不安だなんて思ってないよ。問題は俺の方だ」

 ハッキリ言って、アリーシャの力は俺の理解の埒外にあった。そのアリーシャと同格のセイバー。そして、他のサーヴァント達。
 セイバーが認める程の魔術師である遠坂と比べて、俺は未熟者もいいところだ。
 
「シロウ。貴方はマスターだ。前線で戦うのはサーヴァントの役目であり、貴方の役目は私を信じる事です。貴方が私を信頼してくれるのなら、私はその信頼に必ず応えてみせる。もし、貴方に害が及ぶとすれば、それは貴方のせいではなく、貴方の信頼に応えられなかった私の不甲斐なさのせいです」
「でも、遠坂なら違うだろ?」
「リンも同じですよ。サーヴァントの相手はサーヴァントが務める、これは鉄則です。如何に彼女が傑物であろうと、それは変わらない」
「なんでさ……。セイバーだって、遠坂の事は認めていたじゃないか」
「シロウ、貴方は勘違いをしている」
「勘違い……?」

 セイバーは言った。

「例えばの話ですが、リンが持てる技術の全てを注ぎ込んだ大魔術を私に撃ち込んだとします。それでも、私には傷一つ負わせる事が出来ない」
「傷一つ……って」
「私を含めて、いくつかのクラスには対魔力というスキルが備わっている為です。私の対魔力は最高位の魔術師のソレをも阻む事が出来る」

 セイバーは淡々とした口調でサーヴァントと人の違いを説明した。

「つまり、サーヴァントは人では無いのです。言ってみれば、怪物や化け物という呼称が正しい」
「怪物って、そんな……」
「やはり、一度戦いを経験した方が良さそうですね」

 セイバーはやれやれと溜息を零した。まるで、俺が駄々をこねている子供みたいだ。
 そのまま、俺達は深山町を歩き回った。

「……よく考えたら、昼間から襲ってくる事なんてあるのか?」
「分かりません。相手は真昼にあのような結界を発動させるような手合ですから」
「それもそっか……」

 結局、そのまま正午を過ぎても敵とは遭遇しなかった。

「あれ?」

 道の真ん中に見覚えのある後ろ姿が視えた。

「おーい、イリヤ!」
「え?」

 振り返ったイリヤに手を振ると、彼女は目を大きく見開いた。

「シロウ……?」
「良かった。会いたかったんだ」
「会いたかったって……、わたしに?」

 イリヤは一瞬戸惑ったような表情を浮かべた後、セイバーを見た。

「……たたかう準備ができたってこと?」
「何言ってんだよ。俺はイリヤと戦うつもりなんて無いぞ」
「……じゃあ、なに? せっかく見逃してあげたのに、わざわざサーヴァントをしょうかんして、たたかう以外になにがあるっていうの?」

 イリヤはあからさまに不機嫌な表情を浮かべた。

「俺はイリヤを戦わせたくないからマスターになったんだ!」
「……いみがわからないわ。マスターになったいじょう、こんどは見逃してあげない。サーヴァントもろとも、踏みつぶしてあげる!」
「女の子が踏み潰すとか、そういう事を言うなよ!」
「むぅ……、うるさい! うるさい、うるさい、うるさい! なにも知らなかったくせに、なんで今さら!」
「俺はイリヤが危ない目に合うなんて嫌なんだよ! 話なら幾らでも聞く! 切嗣が裏切ったって話もちゃんと謝る! 俺に出来る事なら何でもするから、人を殺さなきゃいけないような事はやめてくれ!」
「うるさい!!」

 イリヤの涙を浮かべながら怒鳴った。

「なんで……? なにも知らないままでいいじゃない! いまさら、知ろうとなんてしないで! かかわってこないで!」
「嫌だ!! 大体、関わるなって言うなら、もう手遅れなんだよ! 一緒に料理して、一緒に食べて! そんなヤツが殺し合いに参加してるって聞いて、黙っていられるわけないだろ!」
「わからずや!」
「わからずやはイリヤの方だ!」

 イリヤが睨んでくる。俺も睨み返す。負けてたまるか!

「……だったら、わたしのものになってよ」
「……はい?」
「だから、わたしのものになってよ!」
「いっ、いきなり何言い出してんだよ!?」
「なんでもするって言ったじゃない!」
「それはそうだけど、人をモノ扱いするのはどうなんだ!?」
「いいから! シロウはわたしのものになるの! それなら殺さなくてもいいし、また一緒におりょうり出来るもの!」
「別に料理なんていつでも出来るだろ。それに、イリヤが殺したくないって思ってくれるなら、殺さなくてもいいじゃないか!」
「もう! なんでもするって言ったくせに!」
「だから、俺は――――」

 その時だった。どこからかグーという音が聞こえた。

「ん? 今のは……」
 
 振り返ると、セイバーが目を泳がせていた。

「……セイバー?」
「なんですか?」

 キリッとした表情を浮かべるセイバー。色々と手遅れだ。

「腹……、減ったのか?」
「……えっとですね、これはその」

 その時だった。今度は別の方向からグーという音が聞こえた。

「……イリヤ?」
「ちがうもん!」
「いや、今のは……」
「ちがうって言ってるでしょ! シロウにはデリカシーがないの!?」

 涙目になって怒るイリヤ。

「……とりあえず、うちに戻ろう。イリヤも来いよ」
「だ、だめだよ。わたし、もう行っちゃダメなの!」
「……イリヤは来たくないのか?」
「そうじゃないけど……」
「なら来いよ。また、一緒に作ろう」

 俺はイリヤの手を握った。問答無用だ。

「ちょっと、シロウ!」
「行くぞ、イリヤ!」
「……もう」

 イリヤは観念したように溜息を零した。
 その後ろでセイバーも溜息を零していた。
 呆れたような二つの視線を無視して、俺は歩き続けた。

 ◆

 家に着くと、遠坂達はまだ戻ってきていなかった。
 イリヤにエプロンを渡して、冷蔵庫を開く。

「……シロウったら、顔に似合わずごういんなんだから」

 ぶつぶつと文句を言いながらも、イリヤはしっかりエプロンを着てくれた。

「あれ? 前のと違う?」
「ああ、少し手直ししたんだ。また、イリヤと料理がしたかったからな」
「……ふーん」

 イリヤはエプロンの裾を摘みながら唇を尖らせた。

「えっと……、とりあえず始めるぞ!」
「何を作るの?」
「オムライスだ」

 家を出る前に炊飯器をセットしておいたからご飯はばっちり炊き上がっている。

「まずは玉ねぎを切るぞ」
「しかたないなー……」
「いいからいいから」

 なんだかんだで料理をはじめるとイリヤは眉間のシワを取ってくれた。
 玉ねぎを切った時の刺激に悲鳴を上げていたけれど、みじん切りにする作業自体は楽しかったみたいだ。
 前よりも更に包丁の使い方が上手くなっている。俺は具材のカットをイリヤに任せて、その間にコーンの水切りをした。

「さーて、焼いていくぞ」

 鍋にイリヤがカットした玉ねぎ、パプリカ、ベーコンを入れ、俺が水切りをしたコーンも入れる。
 
「先に具に味を付けるんだ」

 塩コショウとケチャップを加えると、なんとも言えない香りが台所に漂った。
 そこにご飯を加える。

「イリヤ。卵を混ぜてくれ」
「分かったわ!」
 
 卵に牛乳と塩コショウを混ぜて、そのままイリヤに薄焼き卵を作ってもらう事にした。
 真剣な表情でフライパンに向かうイリヤを横目に鍋の火を止める。

「できたわよ、シロウ」
「ありがとう。ここからは俺がやるよ」

 炒めたご飯を少し冷まして、一口サイズに丸める。
 それをイリヤに作ってもらった薄焼き卵で包めば完成。火傷しそうなくらい熱いけど、イリヤとセイバーの為に我慢だ。
 
「よーし、完成だ!」
「出来たのですか? シロウ」

 セイバーは食卓でそわそわしていた。

「ああ、一口オムライスだ。たくさん作ったから、どんどん食べてくれ」

 みんなで「いただきます」を言って、食べ始めた。これなら弁当に入れられるから、帰りにイリヤに持って行ってもらうつもりだ。
 イリヤを見る。美味しそうに食べていた。セイバーもコクコクと頷きながら食べている。
 これでいいんだ。イリヤに血腥い戦場なんて似合わない。こうやって、一緒に料理を作って食べていると強く実感する。

「イリヤ。よかったら、また明日も――――」
「ダメよ、シロウ」

 イリヤは首を横に振った。

「イリヤ……?」
「シロウ。わたしは聖杯戦争をとちゅうで降りる気なんてない」
「……なんでだよ。なにか、叶えたい望みがあるのか?」

 イリヤは言った。

「わたしに叶えたい望みなんてない。でもね、そういう事じゃないの」
「そういう事じゃないって、なら、どういう事なんだよ!? 叶えたい望みが無いなら、こんなバカげた戦いなんて――――」
「シロウ。そのバカげた戦いをはじめたのはわたしの一族なのよ」

 まるで諭すようにイリヤは言った。

「……イリヤの一族が?」
「そうよ。聖杯を手に入れることはアインツベルンの悲願。だから、わたしはマスターである限り、たたかい続ける」

 イリヤの顔はセイバーや遠坂と同じだった。絶対に意思を曲げるつもりが無い事が分かってしまう。

「……でも、俺はイリヤに戦ってほしくない」
「シロウ。わたしは郊外の森に住んでるの」
「イリヤ……?」

 イリヤは立ち上がった。

「もし、どうしても止めたいのなら挑んできなさい。ただし、わたしのサーヴァントは強いわ。今のあなたとセイバーじゃ、絶対に勝てない。言っておくけど、容赦する気もないわ。その時は情け無く、躊躇い無く、確実に殺す」
「……イリヤのサーヴァントに勝ったら、聖杯戦争を降りてくれるのか?」

 イリヤは溜息を零した。

「サーヴァントを失ったら、もう、わたしはマスターじゃなくなるもの。だけど、あなどらないでね。わたしのサーヴァントはヘラクレス。ギリシャ神話さいだいさいきょうの大英雄。シロウがかてる要素なんて一つも無いんだから」
 
 イリヤはクスリと微笑んだ。

「それでも挑むって言うなら、待ってるから」

 そう言うと、イリヤは居間から出て行った。

「見送りはいらないわ。またね、シロウ」
「……ああ、またな、イリヤ」

 イリヤが去った後、俺はセイバーを見た。

「ありがとな」
「何の事ですか?」
「口を挟まないでいてくれただろ」
「……彼女が貴方の戦う一番の理由なのでしょう?」

 彼女を召喚した時の事だ。俺はたしかに言った。

 ――――知り合いっていうか、まあ、そんな感じの女の子が参加してるっぽくて、あんまり危ない事は止めさせたいなーって思って。

 あの時の言葉をセイバーは覚えていてくれたらしい。

「……イリヤというのですか?」
「あっ、いや、イリヤスフィールっていう名前だったと思う。ただ、ついイリヤって呼んでた。怒ってないといいけど……」
「怒ってなどいないでしょう。彼女は一度も訂正を求めませんでしたから」
「そっか……」

 セイバーが立ち上がった。

「シロウ。彼女のサーヴァントに挑むのですね?」
「ああ、そのつもりだ」
「……それが貴方の意思なら、私は従うのみです。ただ、相手が彼女の言葉通り、ヘラクレスであるのなら、リンにも相談しておくべきでしょう。相手はギリシャ神話における大英雄。真っ向勝負では分が悪いでしょうから」
「わかった。相談してみるよ」
「では、午後も引き続き街を探索しましょうか」
「ああ!」

 イリヤは『またね』と言った。そして、俺も『またな』って言った。
 俺が聖杯戦争に参加したのも元はと言えばイリヤを止めるためだ。必ず、止めてみせる。
 相手がどんなに強くても関係ない。

「待ってろよ、イリヤ!」

第十話『わたしのしたい事』

第十話『わたしのしたい事』

 ――――地獄を見た。

 人権というものは相互の同意によって初めて成立するものだ。一方が反故にした瞬間、何の役にも立たなくなる。
 その街は麻薬カルテルにとって重要な意味を持っていた。密輸ルートの確保に必要不可欠であり、補給地点としても有用だった。だから、複数のカルテルによる奪い合いが起きた。
 立ち向かった者もいる。街に元々住んでいた人々の中で、殊更勇気のある青年が仲間を率いて自警団を設立した。一時はカルテルに軽くない打撃を与える事も出来た。
 その代価として、彼は親類縁者全てを失った。見せしめの意味もあったのだろう。女性はおろか、少年や赤子も犯され、拷問され、街の中心に吊るされた。
 カルテル達は街の人間が二度と妙な真似を起こさないように、外部からの補給を制限して、内側に残る物資も強奪した。貧しさという抗い難い恐怖によって、街の人々は人のカタチをした怪物に変わっていった。
 生きるため。シンプルで、最も根強い欲望によって、多くの人がカルテルに忠誠を誓った。
 カルテルの命令を受けている間は生きる事を許される。
 その為だけに彼らは喜んで彼らの目となり、隣人や友人や家族を密告した。
 その為だけに彼らは喜んで彼らの手足となり、抗うものを全て処刑した。女子供を売買の為の商品に変えた。役立たない者の肉を解体してリサイクルに回した。

 ――――地獄を歩んだ。

 その街に救いはなかった。カルテルの手足となった時点で彼らは被害者から加害者に変わり、そうでない者はのきなみ壊されていた。
 悪意は新たなる悪意を生み、儚い善意を食い漁る。理性や倫理や情愛を持つ者は彼らの格好の獲物だった。
 これはメキシコの国境付近で日常的に起きている悲劇。この地獄でさえ、まだ穏やかと言える地獄がある。
 路端で折り重なる死体を見て、吊るされている死体を見て、遊興の為に拷問を受ける人を見て、彼女は世界を真紅に塗りつぶす。

 ――――その少女の名前を誰も知らない。

 ――――その人物が少女である事さえ、誰も知らない。
 
 ――――それを一人の人間だと知っている者もいなくなった。

 血に塗れた大地を彼女は闊歩している。
 助けを求める者。逃げ惑う者。怯えて蹲る者。目に映る全てを斬り捨てていく。そこに浮かぶ感情はなく、ただ作業的に命を刈り取っていく。
 それはもはや現象。人々の悪意が一定の域に達した時、彼女はどこからともなく現れる。
 彼女の姿を目撃して、生き残った者はいない。だからこそ、彼女の名前を誰も知らない。彼女の姿さえ、誰も知らない。
 人を殺し、魔術師を殺し、死徒を殺し、殺した数が万に届いた頃、その現象を人々は『|死の恐怖《グリム・リーパー》』と呼んだ。

 ――――彼女は語らない。

 彼女は強かった。無数の武器を持ち、時を操り、如何なる魔術でも行使する事が出来た。
 悪意を隣人とする魔術師達は現象の根絶を誓い、討伐の為に一つの村を贄にした。
 その村に悪意の種をばら撒き、彼女を誘き寄せた。
 万を超える軍勢が死力を尽くして彼女に挑み、そして、一人残らず死に絶えた。

 ――――だからこそ、彼女は自らの名を持たない。

 どうしてそうなったのか、いつからそうなってしまったのか、誰にも分からない。
 それが彼女の正体――――。

 ◆

 目覚めは最悪だった。

「……今のって、あの子の?」

 あらゆる武器を使い、目に見える全てを殺す死神。
 あまねく悪意を圧倒的な暴力で塗りつぶす魔人。

「召喚が失敗したせいじゃない……。彼女は元からそういう存在だったんだ」

 英霊となる前から、彼女はすでに人である事をやめていた。
 悪意に対する|半存在《カウンター》。言ってみれば、《正義の味方》という現象。
 似たような話ならば聞いた事がある。以前、知り合いの神父が何かの拍子に話してくれた。
 死徒二十七祖に数えられる吸血種。通称《タタリ》は誰も見たことがないけれど、たしかに存在する死徒として知られている。人々の噂や不安という感情を元にそれを様々な形で具現化する現象。人々の特定の想念の下に現れる現象という意味で、彼女とタタリは似ている。
 彼女の正体は誰も知らない。だけど、彼女の足跡に残る無数の死が彼女の存在を肯定する。だから、彼女は英霊になった。
 
「きっと、彼女という個は存在した。だけど、正体不明のまま英霊となった事で、彼女は《|無銘《ネームレス》》となった。だから、自分の事を思い出す事も出来ない」

 知りたくなかった。
 料理を一緒に楽しんだアリーシャの正体がそんな救いようのない存在だなんて、知らないままでいたかった。
 
「なんで……」

 涙が溢れた。

「なんで、そんな風になっちゃったのよ……」

 彼女は英霊だ。既に生を終えている。あんな救いのない状態のまま、何らかの終わりを迎えた。
 それが納得出来ない。納得したくない。

「ああ、もう! 聖杯……、必要になっちゃったじゃない……」

 涙を寝巻きの袖で拭う。

「……やる事は変わらない。わたしは勝つ。それだけよ」

 身支度を整えて部屋を出た。
 今、わたしは衛宮くんの家にいる。同盟を結んだ以上、同じ場所にいた方がいいと判断したからだ。
 昨日は事後処理を監督役に丸投げした後、一旦荷物を取りに遠坂の屋敷へ向かって、そこから衛宮邸に移動した。
 その後、アリーシャに魔力を大分持っていかれたわたしは衛宮くんに部屋を用意してもらって眠る事にしたわけだ。

「今は……、うわっ」

 時刻は十時三十分。さすがに昨日の今日だから学校も休みになっていると思うけど、十二時間以上も寝てしまった事は不覚としか言いようがない。
 いくら同盟を結んだ相手の家とはいえ、あまりに緊張感が足りなかった。
 部屋を出て、隣のアリーシャを眠らせている部屋に向かう。彼女はまだ眠ったままだった。そろそろ魔力は回復している筈だけど、その穏やかな寝顔を見ていると、起こす気になれなかった。
 扉をそっと閉じて、居間に向かうと、衛宮くんはバッチリ起きていた。セイバーと向き合って、何かを話しているみたい。

「おはよう、二人共」
「おはようございます、リン」
「おはよう。ずいぶん疲れてたんだな……」

 二人に軽く肩を竦めて見せた後、そのまま台所にお邪魔する。

「ちょっと、牛乳をもらうわよ」
「ああ、冷蔵庫の戸の方に入ってる筈だ」
「あったわ。ありがとう」

 目覚めの一杯を飲むと、頭の中がスッキリした。

「なあ、遠坂」
「なに?」
「学校のみんなは大丈夫なのかな?」
「あとで綺礼に確認してみるけど、おそらくは大丈夫だと思う。結界は未完成の状態だったし、アリーシャが速攻で救出してくれたから」
「……あれは凄かったな」

 衛宮くんは昨日の光景を思い出しているようだ。
 わたしもアリーシャの救出劇には目を見張った。彼女の姿が消えたと思ったら、弓道場で雷光が煌めき、学校中の生徒が流星群のように降り注いだ。
 カラクリはおそらく《|固有時制御《タイムアルター》》。あの夢の中でも彼女は多用していた。

「……ところで|魔術師《メイガス》」
「わたしの名前は遠坂凛よ。名字でも名前でも、どっちで呼んでもいいけど、メイガスは止めてちょうだい」
「……了解した。では、リン。今後の方針について貴女の意見を聞かせて欲しい」
「聞く必要あるの? わたしの方針は昨日言った通り、あの結界を張った馬鹿を殺す事」

 わたしの言葉に衛宮くんは硬い表情を浮かべた。

「反対って事? なら、やっぱり同盟は……」
「違う」

 わたしの言葉を遮るように、彼は言った。

「俺も覚悟を決めた。セイバーとも話したんだ。俺達も遠坂と同じ方針で動く」
「……そう。なら、同盟は継続ね」
「それで、これからどう動くんだ? 相手の目星はついてるのか?」
「残念だけど、犯人の特定は出来ていないわ。まずはアリーシャの回復を待ちましょう。あの子が万全になったら、街の巡回ね」
「……分かった」

 頷くと、衛宮くんは立ち上がった。

「なにか作るよ。腹減ってるだろ?」
「衛宮くん、料理出来るの?」
「ああ、それなりに」
「シロウの料理は絶品です。わたしが保証しましょう」

 セイバーはどこか誇らしげだ。思ったより、可愛い性格をしているのかもしれない。

「わたしはアリーシャの様子を見てくるわね」
「ああ、アリーシャの分も作っとくよ」
「お願いするわ」

 アリーシャの部屋に移動すると、彼女はまだ眠っていた。

「アリーシャ」

 声を掛けてみたけど、起きない。

「アリーシャ!」

 声を大きくしても起きない。なら、これは仕方のない事だ。

「起きなさい!」

 布団を容赦なく引剥がす。

「ギニャアアアアアアアアアアアア!?」

 飛び上がるアリーシャにわたしは笑いかけた。

「おはよう、アリーシャ」
「リン!? もっと優しく起こしてよ!!」

 フシャーと怒るアリーシャに少し安心した。
 いつもと変わらない。わたしの知っているアリーシャだ。

「そんな事より、衛宮くんがご飯を作ってくれてるわよ」
「衛宮くん……って、シロウが!?」
「愛するダーリンが待ってるわよ。さっさと支度をしなさい」
「わ、分かったよ!」

 からかったつもりなのに、大真面目な返事が返ってきた。
 桜といい、アリーシャといい、衛宮くんはモテモテね。
 もしかして、わたしにとって最大の敵って衛宮くんなのかもしれない……。

「準備出来たよ!」

 いつの間にか、アリーシャは可愛らしい服装に着替えていた。

「……そんな服、どっから出したのよ」
「ふふふ、わたしに不可能はほとんど無いのよ!」

 大分、自分の力を自在に操れるようになってきたみたいだ。

「とりあえず、行くわよ」
「はーい!」

 居間に戻ると、セイバーはみかんを食べていた。

「美味しそうだね!」
「……まずは朝の挨拶をしなさい、アリーシャ」
「あっ、うん。おはよう! セイバー」
「おはようございます。……どうぞ」

 思ったよりセイバーの態度が軟らかい。

「わたしも一つもらうわね」

 みかんの皮を剥きながら、テレビに視線を向ける。そこには通い慣れた学校の風景写真が映っている。

『――――私立穂群原高校で起きたガス漏れ事故の続報です。巻き込まれた生徒と教師はいずれも命に別状がなく、数日の内には退院出来る見通しとの事です』
『いやー、良かったですよ。それにしても、最近は妙に多く感じますね。一体、ガス会社は何をしているのだか!』
『柳田さんはどう思いますか?』
『そうですねー。冬木市は異人館と呼ばれるような建物が多く、旧い建物だと明治や幕末の時代に建てられたものもあります。それ故、新開発の進んでいる新都と比べると――――』

 どうやら、学校で起きた事はガス漏れ事故として処理されたようだ。
 専門家はあれこれと原因を探ろうとしているけれど、無駄骨になる事だろう。

「とりあえず、全員無事だったみたいね。お手柄よ、アリーシャ」
「えへへー」

 頭を撫でると嬉しそうに彼女は頬を緩ませた。

「おーい、出来たぞ」

 そうこうしていると衛宮くんが台所から出て来た。

「おはよう、アリーシャ。もう、大丈夫なのか?」
「……うん、大丈夫だよ」

 アリーシャに熱い眼差しを向けられて、衛宮くんの顔も赤く染まっていく。
 セイバーは苦笑いを浮かべている。きっと、わたしも同じ顔を浮かべている事だろう。
 アリーシャが率先して配膳の手伝いを買って出たから、わたしは大人しく準備を見守った。
 並んだ食器は衛宮くんとセイバーの分もある。

「二人もまだだったの?」
「いや、軽く食べたんだけど、少し小腹が空いたからさ。セイバーも食べるだろ?」
「ええ、もちろんです」

 嬉しそうな顔をしている。
 食事を始めると、本当に軽く食べたのか疑わしくなる程、セイバーはよく食べた。
 
「おいしい!」

 アリーシャが絶賛する。わたしも彼の用意してくれた食事に手を付けた。
 うん、たしかにおいしい。なんだか、アリーシャの味付けに似ている気がする。

「……そうだ。提案なんだけど、夕飯は交代制にしない?」
「交代制?」
「ええ、わたしもここで暮すことになるわけだし、家事の一つくらいは手伝わないとね」
「構わないけど、朝食はどうするんだ?」
「朝食は……、うん。朝食も交代制にしましょう」

 朝は食べない主義だって言ったら、また一悶着ありそうだ。

「というわけで、今夜はわたしが腕を振るうわ。アリーシャも手伝ってくれる?」
「うん! もちろん!」

 顔を輝かせる彼女にわたしも頬を緩ませた。
 生前、あんな地獄を歩き続けたんだ。だったら、今は彼女が楽しいと思えることをたくさんさせてあげよう。
 今だけじゃない。もっと、ずっと先まで、彼女は幸福に思える日々を送らせてあげよう。
 だって、それがわたしのしたい事なんだから。