第二十四話『鉄の心』
朝食を食べながら、士郎は夢で視た内容をセイバーとイリヤ、リズの三人に語った。
すると、イリヤは拳をテーブルに叩きつけた。
「……そういう事ね。まんまと利用されたわ」
「イリヤ……?」
イリヤは水を飲むと、深く息を吸った。
「アーチャーがわたしとシロウの娘。……なるほどね。全部、繋がったわ」
「どういう意味ですか?」
セイバーが尋ねると、イリヤは言った。
「……シロウ。わたし、シロウを愛しているの」
「え?」
突然の告白に、士郎は目を丸くした。
「元々、シロウの事が大好きだった。料理を教えてくれたり、わたしを守りたいと言ってくれたシロウの事が……。だから、それが恋に変わっただけだと思ってた」
「……まさか」
何かを察したらしいセイバーに、イリヤが頷く。
「たぶん、アーチャーを通して、彼女の母親になった|イリヤスフィール《わたし》の感情が流れ込んできたのよ」
「アリーシャの母親になった、イリヤ……?」
「英霊の魂で汚染されないようにブロックしていたつもりだけど……」
「完璧ではなかった……、という事ですか?」
「違うわ、セイバー。アラヤの意思よ。わたしに、アーチャーの母親の感情と同調させ、シロウとの間にパスを通させた。おそらく、シロウにアーチャーの過去を見せる為に」
「ちょっと待ってくれ! それ、どういう意味だ!? それに、アラヤって、人の名前か?」
困惑する士郎に、イリヤは丁寧に説明した。
「シロウも魔術師なら知っている筈よ。集合無意識によって構築された、この世界の均衡を守るための大いなる力。魔術世界において、《|抑止力《カウンターガーディアン》》と呼ばれるもの。世界を滅ぼす要因の発生と共に起動するソレは絶対的な力を行使し、その要因を抹消する。その中でも、星を守るモノは《ガイア》と呼ばれ、霊長の存続を優先するモノは《アラヤ》と呼ばれる。未来のシロウの姿で現れたヤツの正体も、間違いなくアラヤよ」
「いや、でも、抑止力ってのはカタチのない力の渦だって聞いたぞ。あんな風に話し掛けて来るなんて事が……」
「ありえます」
士郎の疑問に応えたのはセイバーだった。
「たしかに、本質的には無色透明。ですが、言ってみれば、あれは意識の集合体。無でありながら、有である存在です。ですから、必要とあれば言葉を使う事もある」
セイバーは険しい表情を浮かべた。
「シロウ。アラヤの誘いを断った事は、正しい選択です。間違っても、アレの言葉に耳を貸してはいけません」
「え? いや、たしかに断ったけど、アレが抑止力なら……」
それは世界を救う為に、世界が臨んだ事。
アリーシャを殺せと言われて、感情的になってしまったけれど、断る事が本当に正しかったのか、判らなくなった。
「――――抑止力を都合の良いデウス・エクス・マキナだとは思わない事よ、坊や」
揺らぐ士郎に声を掛けたのは、イリヤ達ではなかった。咄嗟に、セイバーが立ち上がる。
「キャスター!!」
いつからそこにいたのか、全身をローブで覆い隠した魔女が縁側に腰掛けていた。
「刃を仕舞いなさい、セイバー。争いに来たわけではないの。……というより、もう争っている場合ではなくなった」
キャスターは無防備な背中を晒したまま言った。
「私が消えれば、バーサーカーも消滅する。それは、彼女の完成が近づく事を意味している。それを理解して尚も斬りたいと言うのなら、好きになさい」
「……貴様は、どこまで掴んでいるのだ?」
「おおよその事は把握しているわ」
キャスターは立ち上がって、フードを脱いだ。
「もう、いがみ合っている場合じゃない。手を組みましょう。さもなければ、人理が破壊され、人類史に終止符を打たれてしまう」
キャスターの言葉に、セイバーはしばし黙した後、構えを解いた。
「……そうですね。もう、聖杯戦争どころではない」
「賢明で助かるわ」
そう言うと、キャスターは居間に入って来た。
イリヤが彼女を睨むと、キャスターは薄く微笑んだ。
「どうぞ」
その言葉と共に、イリヤの目が大きく見開かれる。
「……バーサーカー?」
イリヤが見つめた先には、庭の中央で静かに膝を折るバーサーカーの姿があった。
「マスター権を返却したわ。彼にも、十全に力を発揮してもらう必要があるから」
「……ふん」
イリヤは不機嫌そうにキャスターを睨むと、そのまま庭へ出て行った。
「えっと、キャスター?」
「なにかしら?」
士郎が話し掛けると、キャスターはきさくな態度で応えた。
「とりあえず、これからは仲間って事でいいのか?」
「ええ、そう捉えてもらって構わないな」
「……そっか。じゃあ、えっと、よろしくな」
そう言って、手を伸ばす士郎にキャスターは小さく溜息を零した。
「キャスター?」
「……ええ、よろしくお願いするわ」
士郎はキャスターの妙な反応に首を傾げながら、気になった事を聞いた。
「なあ、さっきのって、どういう意味だ?」
「抑止力の事?」
「ああ」
キャスターは言った。
「抑止力を都合の良い存在とは思わないことねって意味よ」
「それって、どういう……」
「抑止力とは、人類の持つ破滅回避の祈り。即ち『阿頼耶識』による世界の安全装置の事。それだけだと、たしかに聞こえはいいわね。だけど、実際には世界を滅ぼす要因の発生と共に起動して、絶対的で要因となった全てを抹消するだけの暴力的なシステムよ。時には自然現象として全てを滅ぼしたり、時には滅びを回避させられる位置に居る人間を後押ししたり……」
キャスターは士郎を真剣な眼差しで見つめた。
「坊や、覚えておきなさい。抑止力は機械仕掛けの神じゃない。ガイアにしろ、アラヤにしろ、結果的に人類の破滅を防ぐ事があるというだけの話。必ずしも人類にとって都合の良い希望を与える存在ではないの。仮に、アラヤが手を伸ばしてきても、決して安易な気持ちでその手を取ってはダメよ。確かに得るモノも大きいかもしれないわ。けれど、確実に与えられた以上のモノを奪われる」
「……心配してくれてるのか?」
意外そうに聞く士郎にキャスターは肩を竦めた。
「世間知らずな子が、ずる賢い詐欺師に目を付けられている所を見掛けたら、忠告くらいしたくなるわよ」
「世間知らずって……。それに、詐欺師は言い過ぎなんじゃ……」
「いいから、アラヤと契約する選択は最後の最後まで取っておきなさい。そんな力技に頼らなくても、現状を打破する事は出来るのだから」
「策があるのか?」
セイバーが尋ねると、キャスターは頷いた。
「とってもシンプルよ。大聖杯を解体するの」
「……大聖杯?」
俺が首を傾げると、戻って来たイリヤが目を丸くした。
「そっか、その手があったんだ」
「え? どういう事だ?」
「簡単な話よ。アーチャーが人類悪として完成する前に、聖杯戦争そのものを終わらせるの。大本である大聖杯を解体してしまえば、サーヴァントは聖杯を介する事なく座に戻る事になる。アーチャーも例外じゃないわ」
「それって……、でも、それじゃあ、アリーシャやセイバーは……」
この方法では、セイバーとアリーシャが消滅してしまう。
たしかに、アリーシャが人類悪になる事だけは阻止しなければいけない。しかし、士郎にとって、アリーシャは未来の娘だ。そうでなくても、彼女と過ごした時間がある。
彼女が生まれた理由や、彼女が歩んだ不幸な歴史も夢で視た。
まだ、キチンと整理できたわけではないが、それでも、彼女が救われないままで良いとは到底思えなかった。
「……なあ、アリーシャを救う事は出来ないのか?」
「無理よ」
キャスターがきっぱりと言った。
「坊や。アレはそういうモノなの。自分でも分かっているのでしょう? だから、さっきも迷った。アラヤの誘いに乗るべきでは無かったのかって」
「それは……」
否定する事が出来なかった。
士郎は、この聖杯戦争を通して、正義の味方という在り方を見つめ直す機会に何度も巡り合った。
すべてを救う事は出来ない。大勢を救う為に、切り捨てなければならない少数がある。その事を嫌というほど思い知らされた。
――――ああ、分かっている。
あの夢が|抑止力《アラヤ》に見せられたモノだと知り、心が揺れた。
あの時、突っぱねる事が出来たのは、アレの正体があまりにも得体の知れないものだったからだ。
世界を救う為に、|己の娘《アリーシャ》を切り捨てなければならない。それを理解し、半ば以上、受け入れてしまっている。
「……おい、巫山戯るなよ」
吐き気が込み上げてきた。
自分を好きだと言ってくれた女の子。藤ねえや、みんなを助けてくれた恩人。未来で生まれる己の娘。
そのアリーシャを切り捨てる事を、仕方のない事で済ませようとしている自分に気付いて、立っていられなくなった。
「俺は……」
「……シロウ」
蹲る士郎に、イリヤが声を掛ける。
「……わたしはシロウをきらわない。シロウが世界を選んでも、|私達の娘《あのこ》を選んでも、わたしはシロウの味方だよ」
「イリヤ……」
士郎が顔をあげると、イリヤがその頭を抱きしめた。
彼女の温もりを感じながら、士郎は瞼を閉じた。そして、己の原初を思い出す。
炎に包まれた街を歩く自分。救いを求める手を払い除けて、救いを求める声から耳を塞いで、ただただ進み続けた果てに倒れ込み、そして救われてしまった。
ならば、生き残った責任を果たさなければいけない。救わなかった分、救わなければいけない。
「どうして、イリヤは……」
「シロウが好きだからだよ。アラヤに利用された事はムカつくけど、それでも、シロウを愛している事は本当だもの。好きな子の事を守るなんて当たり前でしょ。そんなの、わたしだって知ってるんだから。だから、わたしはシロウに味方するの」
誰かの味方。顔も知らない不特定多数ではなく、守りたいモノの味方をする動機を彼女はアッサリと口にした。
正しい選択がどちらなのか、考えずとも分かる。いや、分からなければならない。
人という生物を名乗るつもりなら当たり前のように彼女の言葉を受け入れるべきであり、優先すべきものも決まりきっている。
だけど――――、出来なかった。
「……ごめん、イリヤ」
己を生かすモノ。生かしてきてくれたモノに背を向ける事は出来なかった。
ランサーを殺した時、既に心は決まっていた。
「みんな」
立ち上がり、みんなを見る。誰もが痛々しいものを見る目を向けてくる。
「世界を救おう」
そうして、衛宮士郎という人間は終りを迎えた。喉元まで迫っていた胃液も、煮え立った腸も、瞼を伝う涙も、なにもかも止まった。
残ったモノは、枯れ果てた心と、己を突き動かす|衝動《りそう》のみ――――。