第一話『わたしの聖杯戦争』

第一話『わたしの聖杯戦争』

気付いた時、わたしは落ちていた。ドンガラガッシャーンと盛大な音を立てて落下が止まる。
不思議な事に痛みがない。

「……えっと?」

困った。前後の記憶がない。

「って言うか……、あれ?」

思考を巡らせる内、事態がより深刻である事に気付いたわたしは悲鳴を上げそうになった。
口を大きく広げて、いざ声をあげようとした途端、部屋の扉がガチャガチャと鳴り始めてピタリと挙動を止める。
冷静に現在の状況を整理してみる。
見知らぬ場所。荒れ果てた室内。浮かび上がる二つの可能性。
一つは誘拐。一つは不法侵入。いずれにしても、ドアをガチャガチャ鳴らしている人間が入ってきたら大問題になる。
慌てて扉の前にバリケードを築いた。不思議な事に、重たいテーブルやソファーを軽々と持ち上げる事が出来て、簡単に強固なバリケードを築くことが出来た。
腕を触ってみる。プニプニしている。自分がゴリラでない事にホッとした。

「なんで開かないのよ―!!」

扉の外から怒声が響く。とても穏やかな話し合いを出来そうな相手ではない。
大急ぎで近くの窓に駆け寄る。留め金を外して窓ガラスを開くと、夜の闇への逃避行を決行する。
窓から数メートル離れた時、部屋の方から爆音が響いた。

「ばっ、爆弾!?」

恐ろしい。どうやら、相手はバリケードを爆弾で強行突破したようだ。一刻も早く離れなくては危険!
生い茂る草木を掻き分け、柵をよじ登る。
見覚えのない光景に息を呑みながら、坂道を駆け下りた。

「もう! もう、もう! なんなのよー!」

わけの分からない状況に涙が出てきた。

「ここはどこなの!? わたしは誰なの!?」

事態はとても深刻だ。なにせ、今のわたしは記憶喪失。前後の記憶どころじゃない。自分が誰で、ここが何処で、どうしてここにいるのかサッパリ分からない。
自分が女である事、草木を草木と認識出来る程度の常識、手足を動かす人体駆動の基本は幸いにも残っているけれど、それ以外が完璧に抜け落ちている。
どこかで頭の中を整理しなければいけない。だけど、今はとにかく走る。きっと、あの爆弾女が追い駆けて来てる筈。冗談じゃない。きっと、誘拐されたんだ。記憶喪失もあの女のせいだ。
病院? 市警? それとも……、ダメだ。これ以上、走る事以外に思考を割いているとスピードが落ちる。

「……って、あれ?」

気付けば大きな川の前まで来ていた。わたしが脱出した建物からかすかに見えたものと同じものなら、かなりの距離があった筈。考え事をしていたにしても、この短時間で走破出来る距離じゃない。
試しに軽く川辺を走ってみる。驚いた事に数百メートルを数秒で走り抜けた。

「どうなってんの?」

一般的に考えて、ありえない身体能力だ。
人体実験という単語が脳裏に浮かぶ。恐怖のあまり、目眩を感じた。

「……とりあえず、病院に」

そう思って、再び歩き出した瞬間、どこからか声が聞こえた。

『令呪をもって命じる。我が前に姿を現せ!』

その声に思考が働く前に体が動いた。強い引力に引き寄せられて、気付けば元の場所に逆戻りしていた。
あまりの事に驚いていると、目の前にはわたしと同い年くらいの女の子が立っていた。
なんだか、怒っているみたいだ。

「……確認するけど、貴女はわたしのサーヴァントで間違いない?」
「何いってんの?」

意味がわからない。人を捕まえていきなり|召使い《サーヴァント》呼ばわりなんて、失礼にもほどがある。
態度も高圧的だし……。

「っていうか、アンタこそ誰なの!? わたしに何をしたの!? さっきまで川辺にいた筈なのに、どうして戻ってきているの!?」
「……は? えっ、ちょっと待って……」

この少女がさっきの爆弾女だ。声が同じだから間違いない。
わたしの質問に答えようともせず、いきなりブツブツと独り言を言い出した。
危ない女だ。わたしは少しずつ彼女から距離を取った。近くに椅子が落ちている。万が一の時は使おう。

「……ねえ」
「なによ……」

顔を上げた少女と睨み合う。ものの数秒、硬直状態が続いた後、少女はおもむろに口を開いた。

「一つずつ答えてちょうだい。貴女はサーヴァント。それは間違いない?」
「だから、何言ってるのよ! わたしはアンタの召使いになった覚えはないわ! 見たところ、東洋人のようね。中国では人攫いが流行っているのかしら?」
「人攫い……? 待って……。貴女、本当にサーヴァントじゃないの? だって、令呪を使ったのよ?」
「令呪って何のことよ……」

とにかく、隙を突いて逃げ出そう。それでも駄目なら……。
わたしが決意を固めると、少女は青褪めた表情で後退った。

「……聖杯戦争」
「は?」
「聖杯戦争の事もわからないの? なら、魔術師は? 魔術協会や聖堂教会の事は?」

魔術師。その単語の意味が自然と頭に浮かんだ。魔術協会や聖堂教会の事を思い出した。

「……それは分かる。けど、聖杯戦争って……、あれ?」

おかしい。さっきまで分からなかった筈の事が分かる。聖杯戦争というたった一つの聖杯を巡って、七人の魔術師がそれぞれサーヴァントを使役して殺し合う争奪戦の情報が流れ込んでくる。

「聖杯戦争……」
「……ねえ、貴女は今、どんな状態なの?」

少女は言葉を選んでいる様子だった。さっきまであった高圧的な態度が鳴りを潜めている。

「……記憶がない。いきなり、知らない場所にいた。だから、逃げ出したのよ。アンタが誘拐犯なんでしょ?」
「嘘でしょ……」

少女は呆気にとられた表情を浮かべ、そのまま頭を抱えた。

「じゅっ、十年待ったわたしの聖杯戦争が……」

今のうちに逃げ出した方が良さそうだ。こっそりとさっき開けた窓に近づく。

「――――Das Schliesen.Vogelkafig,Echo」
「は?」

逃げ出そうとした窓に見えない壁が現れた。少女が結界を張ったようだ。
壊す手段がある筈なのに、どうしたらいいか分からない。歯痒く思いながら、少女を睨みつける。

「……別に取って食ったりしないわよ」

少女は諦めたように言った。

「多分、その記憶喪失はわたしがミスったせいだわ」
「……やっぱり、アンタのせいってわけね。でも、ミスって……?」
「説明するから、少し落ち着きなさい」

少女は近くに転がっている椅子を立て直すと、そこに座った。

「ほら、貴女も適当に座ってちょうだい。立ち話をするには色々と込み入った事情があるから」
「……このままでいい」

結界を壊す手段はある。その方法を思い出す事が出来れば脱出出来る。
それまで、話に乗って時間を稼ごう。さっきみたいに単語で記憶を蘇らせる事が出来る筈だ。

「……まず、聖杯戦争の知識がある事を前提に話すわ。貴女はわたしが召喚したサーヴァントよ」
「証拠は?」
「これよ」

少女はそう言って片手を上げた。そこには真紅の刻印が刻まれている。
聖杯戦争の時と同じく、情報が流れ込んでくる。サーヴァントに対する絶対命令権であり、三回限りのマスターの切り札。
一回目はわたしの強制召喚によって消費されたけれど、まだ二つ残っている。その内の一つで自害なんて命じられたら、わたしは……。

「ちょっ、ちょっと!?」

少女が慌てた様子で声を掛けてきた。頬に冷たい感触が走る。手で触れてみると、わたしの涙だった。

「……わたしを自害させるの?」

恐怖で声が震えていた。

「そんな事はしないわよ!」
「でも……、出来るんでしょ?」

体が震える。この女が気まぐれを起こしただけでわたしは死ぬ。
自分の命を掴まれている事実に立っていられなくなった。
呼吸もままならなくなる。

「落ち着きなさい!」

頬を叩かれた。意識が真っ白に染まり、わたしは呆然と目の前の少女を見つめた。

「誓うから! わたしは貴女に不本意な命令は下さない! だから、少しはわたしを信じてちょうだい」

少女の瞳はまっすぐだった。嘘偽りの影は見えない。

「……すぐに無理でも、信用してもらえるように頑張るから」
「本当……?」
「嘘は言わない。命令もしない。だから、話をさせて」
「……わかった」

わたしは少女に促されるまま、近くの椅子に腰掛けた。

「まず、自己紹介から始めましょう。わたしは遠坂凛。あなたのマスターよ」
「……トオ・サカリン?」
「……中国人じゃなくて、わたしは日本人よ。姓は遠坂で、名前は凛」
「わかった」
「……記憶はないって言ってたけど、どの範囲で? 自分の名前や出身国は分かる?」
「名前は分からない……。ただ、ロス市警の事は覚えてる」
「ロス……って言うと、ロサンゼルス市警察の事? なら、貴女はアメリカ出身で、ロサンゼルス市警察が設立された後の英霊って事ね?」
「英霊……?」

また、情報が流れ込んできた。いや、今回の単語は既に識っていたもののようだ。情報が内側から浮かんでくる。
過去に偉業を為した人物の魂。世界そのものに使役される守護者。

「……え?」

それはつまり、わたしは……。

「どうしたの!?」
「……わたしが英霊? じゃあ、わたしは……もう、死んでるの?」

椅子から崩れ落ちた。英霊として、聖杯戦争に招かれたという事はそういう事だ。
既に死亡して、世界そのものに召し上げられた偉人の霊。自分が偉人である事にも違和感を覚えるけれど、それ以上に自分が死亡している事に衝撃を受けた。
吐き気が込み上げてくる。目の前がぐるぐる回り始めた。意識が朦朧として、そのまま視界が暗くなった。

「……最悪」

遠坂凛は気を失った少女を前にして呟いた。
十年待った聖杯戦争。相棒となるサーヴァントと共に勝ち抜いて、聖杯を手に入れる筈だったのに、召喚したサーヴァントは記憶を喪っていて、自分が死んでいる事すら覚えていなかった。
英霊である以上、過去に偉業を為した人物である事に間違いはないだろう。けれど、彼女の反応を見る限り、戦に慣れているようには見えない。

「どうしよう……」

令呪は残っている。だから、記憶を取り戻させる事自体は難しくない。
問題は彼女の精神だ。記憶を取り戻した事で自分の死をより明確に実感した時、彼女はどうなるのだろう?
今の彼女の精神が記憶喪失故のものである可能性は高い。本来は勇敢な戦乙女であり、記憶を取り戻しても取り乱したりしないかもしれない。

「……でも、確証はない」

罪悪感がひしひしと湧いてくる。令呪で自害を命じられる可能性に身を震わせた少女の姿が瞼に焼き付いて離れない。
召使いという言葉に憤っていた事も思い出す。
普通の女の子にしか見えない。そんな子を召喚してしまったのは自分だ。

「時間のズレ……。ううん、そもそも触媒を用意しなかったわたしの落ち度だ」

知り合いの神父に散々忠告を受けていた。これは触媒なんて無くても最強の英霊を呼び出せると高を括っていたツケだ。
凛は少女を抱き上げると、思ったよりも軽い事に驚いた。
使っていない部屋まで運び込んで、少女の着ていた真紅の外装を脱がせる。どうやら、それなりに力のある聖骸布のようだ。

「あれ?」

内側に文字が刻まれている。

「……名前じゃないみたいね。掠れてて読めない。召喚直後のサーヴァントの外装にそんな経年劣化みたいな事ってあるのかしら」

よく見ると、継ぎ目のようなものが所々に散らばっている。一言で言って、ボロボロだ。
マスターに与えられている透視能力で彼女の情報を解析する。
真名は不明。クラスはアーチャー。クラス別能力は《対魔力:B》《単独行動:C》の二つ。保有スキルは《千里眼:B》《魔術:A》《心眼(真):D》《怪力:C-》の四つ。
ステータスは《筋力:C+》《耐久:D》《敏捷:B》《魔力:A》《幸運:E》《宝具:不明》。

「宝具と真名は分からない。けど、スペック自体は相当高いわね」

特に対魔力だ。このランクなら、大抵の魔術を跳ね除ける事が出来る。ただ、気になるのは魔術と魔力のランクの高さだ。アーチャーのクラスにしては高過ぎる気がする。
仮に彼女が記憶を取り戻した時、牙を剥かれたら抵抗出来ない可能性がある。Aランクとはそういうレベルのものだ。

「何者なのよ……、貴女」

彼女にとって、己は得体の知れない存在なのかもしれない。
だけど、凛にとっても彼女は得体の知れない存在だった。
凛は重たい溜息を零す。

「……どうなっちゃうのかしら。わたしの聖杯戦争」

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