第十話『嗤う鉄心』
――――罅割れていく。
俺は……、オレは……、私は……、オレは……。
目まぐるしく移り変わる風景。そのどれもが地獄を映していた。
街を覆い尽くす業火。中東で起きた紛争。疫病で苦しむ幼子。魔術の実験台にされた人々。死にたくないと涙を流す死徒。
救いを求める人々の手を払い除けて、命の重さを量で計る。それを正義と謡い、酔い痴れる。
――――ああ、これが■にとっての日常だ。
男の声が聞こえる。
『アレは間桐の後継者として、実験台にされ続けてきた。間桐臓硯がどのような教育を施したかは想像に難くない』
吐き気がする。腸が煮えくり返る。
どうして、気づけなかった。隠そうとしていたから? だから、救いを求め続けていた事に気づけなかった事は仕方がない?
膨らみ続ける憎悪は脳髄を焼き焦がしていく。
彼女はいつも笑顔を浮かべていた。穏やかで優しい、心安らぐ笑顔。その下に如何なる苦痛を味わっているかも知らず、当然のように甘受していた。
そうだ。気づけていた筈だ。少し考えれば届いていた筈の真実から、衛宮士郎は目を背け続けてきた。
――――理想があった。大切な人がいた。歩み続ける背を押してくれる過去があった。
その光景は眠る度に再生される。
正義の味方。その理想の為に悪を排除する。
たとえ、どんなに大切なモノでも、例外などありえない。
『シロウ』
少女の声が聞こえる。
『怒らないよ。何があったか知らないけど、わたしはシロウをきらわない。シロウがなにをしたって、わたしはシロウの味方をしてあげる』
その言葉に心が大きく揺れ動いた。それは知らなかった言葉。当たり前の事なのに、それまで頭に浮かばなかった言葉。
『好きな子の事を守るなんて当たり前だよ? そんなのわたしだって知ってるんだから』
誰かの味方。顔も知らない不特定多数ではなく、守りたいモノの味方をする動機を彼女はアッサリと口にした。
正しい選択がどちらなのか、考えずとも分かる。いや、分からなければならない。
人という生物を名乗るつもりなら当たり前のように彼女の言葉を受け入れるべきだった。
だけど、出来なかった。己を生かすモノ。生かしてきてくれたモノに背を向ける事は出来なかった。
――――心を静かに、鉄に変えた。
それで衛宮士郎という人間は終りを迎えた。喉元まで迫っていた胃液も、煮え立った腸も、瞼を伝う涙も、なにもかも止まった。
残ったモノは枯れ果てた心と己を突き動かす|衝動《りそう》のみ――――。
『ああ、可哀想――――』
女の声が聞こえた。
『これまでも、これからも、そうして自分を騙し続け、狂い続け、壊れていくのですね』
言葉とは裏腹に妙に嬉しそうな声だ。
――――崩れていく。壊れていく。腐り落ちていく。
◆
起きた直後に胃液をぶち撒けた。それでも足らぬとばかりに吐き気が際限なく込み上げてくる。
トイレに向かう余裕もなく、外に飛び出して吐き続けた。
頭を掻き毟り、窓ガラスに映る己の姿に愕然となった。
「……これが、オレ?」
一部の髪の色素が抜け落ち、肌の変色が広がっている。
目眩がした。視界がブレ、剣の墓標が映り込む。
「なんだよ、これ……。なんなんだよ!?」
怒鳴り散らしても心は晴れない。夢に見た光景が脳裏に焼き付いている。
あの男の言葉も、彼女の言葉も、あの女の言葉もすべて覚えている。
だけど、知らない。あんな男も、あんな女も……、フィーネに似た彼女も知らない。
「……誰なんだ」
よろけながら歩いていると、目の前に見知った顔があった。
「セイバー……?」
溢れるように口から出た言葉にアルトリアは目を見開いた。
「思い出したのですか!?」
駆け寄ってくる。
「……誰だ、お前」
セイバーがどうしてここにいる? わくわくざぶーんが出来た時期に彼女が存命している筈がない。
「シ、シロウ……?」
頭が割れそうに痛い。
「誰なんだ、お前は!」
「どっ、どうしたのですか!? 私はアルトリアです!」
「嘘を吐くな!!」
怒りと共に手の先から双剣が現れた。
ソレが己が創り上げたモノだと理解するまでに一時を要し、震えが走った。
投影魔術。投影六拍。干将莫邪。宝具。固有結界。
脳裏に蘇る己の魔術の真髄。魔術理論『世界卵』によって内と外をひっくり返す大禁忌。
「……オレは誰だ?」
「シロウ!」
セイバーと同じ顔をして、彼女の名を騙る女に抱き締められた。
瞬間、視界にノイズが走った。
黒く染まった衣と鎧。暗黒の極光を纏う剣。
「――――ッ」
気付けば彼女を突き飛ばしていた。干将の刀身がかすり、血を垂れ流しながら呆然とした表情を浮かべる女に驚くほど感情が湧かない。
彼女に背を向けて、オレは走り始めた。
「待って……、待って下さい、シロウ!!」
背後で声が聞こえるが、どうでもいい。
ぐちゃぐちゃになった思考をまとめて捨て去り、行動の指針を定義する。
脚部を強化して、瞬く間に新都と深山町を繋ぐ橋へたどり着いた。
「……なんだ。また、これか」
それは見慣れた風景だった。一見して穏やかな風景に溶け込んでいる悪意。
「しまった。折角隙だらけだったのだから殺しておけばよかったな」
何がどうして彼女がこんな事をしているのか分からない。
だが、理由はどうあれ彼女の行為は容認出来ない。
「さてさて……」
対魔術用の短剣を投影する。己に掛けられた偽装を解きほぐし、いつもの格好に戻る。
「……しかし、アヴェンジャーとは」
堪らず嗤ってしまった。
「今更、何に復讐しろと言うんだか」
道徳を見切り、親愛を蔑み、生きる屍となったオレには今更だ。
「とりあえず、蜘蛛の巣を突きに行ってみるか」
◇
――――どうして?
アルトリアは立ち上がる事が出来ずにいた。
分からなかったからだ。記憶を取り戻した彼がどうして去っていくのか、理解が出来なかった。
「……イヤだ」
涙が溢れてくる。
分からない。分かりたくない。
「怒っているのですか……? 嫌いになったのですか……?」
まるで別人のように冷たい表情を浮かべたシロウ。
だけど、別人の筈がない。
「どうして……、シロウ」