第三十二話「可愛い坊や……。早くお外に出ましょうね」

 遍く物語には終焉がある。その終わりがハッピーエンドなのか、それともバッドエンドなのか決めるのは読者だ。多くの読者は主人公の行く末に思いを馳せ、それが幸福な終わりか、不幸な終わりかを判断する。けれど、物語の中で息づくのは主人公だけではない。ヒロインや仲間、そして――――、敵。
 主人公の結末がハッピーエンドだったとしても、彼等の結末がハッピーエンドに終わっている保証は無い。特に主人公の敵役は大抵の場合、バッドエンドを迎える。夢を折られ、命すら奪われる事も多い。

「――――これが王道なヒロイック・ファンタジーなら、主人公は間違いなく衛宮だ。ヒロインは……残念ながら、僕の妹じゃなくて、あのアルトリアの劣化コピー。そんで、敵役が僕達」

 慎二はリビングのソファーで寛ぎながら傍らに立つライダーに囁く。

「どんなに頑張っても、主人公と敵役は決して同時に幸福にはなれないらしい。それが世界のルールであるかのように決まっている」

 ソファーの前の低いテーブルの上にはチェス盤のようなものが置かれている。ただし、その上に乗っている駒はチェスのソレでは無い。
 聖杯戦争における七つのクラスを象った駒が一つずつとチェスのボーンのような駒が七つ。
 盤上では二つの勢力が睨み合っている。もはや、余計な事で憂慮している暇は無い。
 
「……そろそろ、僕も吹っ切るべきなのかもしれないね」

 胸の内に宿る唯一の“迷い”。それさえ拭い去れば、此方の勝利は揺るぎないものとなる。
 
「ライダー……、ついて来てもらえるかい?」
「――――お供いたします、シンジ。どこまでも……」

「――――よく、セイバーを無能と馬鹿に出来たものね」

 朝食を作り始めたセイバーを横目に部屋を出ようと縁側へ出る襖を開けると呆れ顔のイリヤがいた。

「無能は私達も一緒でしょうに……」
「煩いわよ、イリヤスフィール。敵であるキャスターの“お情け”に甘えて、頼り切っている時点でセイバーを責める資格なんて無い。そんな事、分かってるわ……」
「分かっているなら、八つ当たりは止めなさい。セイバーは唯でさえ危うい状態なのだから、変に動揺させて、精神を折るような真似は慎みなさい」

 凜は唇を噛み締めた。イリヤの言った通り、さっきのは単なる八つ当たりだ。
 アーチャーの死。マキリの聖杯と化した桜。悲願である聖杯を台無しにしたアインツベルン。
 如何に屈強な精神を持つ凜とて人の子だ。憤怒や憎悪の感情と無縁ではいられない。今の彼女の心は酷く荒んでいる。
 何より、彼女を苛立たせたのは“自らの無能さ”だ。五大元素の使い手であり、遠坂の現当主にして、冬木の管理人。御大層な肩書きも意味を為さない。
 バゼット・フラガ・マクレミッツのようにサーヴァントと打ち合う戦闘能力があるわけでもなく、キャスターのように狡猾な策を練られるわけでもない。
 キャスターとセイバーはこの陣営の要。士郎はセイバーを支える為に必要。イリヤも“聖杯”としてここに居なければならない。
 ただ一人、凜だけは居ても居なくても同じなのだ。彼女のこなす役割はキャスターやイリヤが代替出来る。
 なのに、彼女が危険を承知でこの場所にしがみ付いている理由は一つ。“やり場の無い怒りの矛先”を捜しているのだ。

「……ごめんなさい。どうかしてた……。少し、頭を冷やしてくる」
「凜――――……」

 イリヤは自らの感情に振り回されている凜に溜息を零す。

「まったく、手間を掛けさせてくれるわね……」

 凜は自らの存在価値を見失っている。キャスターという偉大な魔術師の存在が彼女の土台を揺らめかせてしまっている。
 自らの完全な上位互換が傍に居る事はプラスにも働くし、マイナスにも働く。
 今の凜には彼女の存在がマイナスの方向に働いてしまっている。

「……折角、思いついた事があったのに」

 凜があのような状態で無ければ、現状を一気に覆す名案を披露出来たと言うのに、肝心要の彼女がああでは実行に移せない。
 常の自信を彼女に取り戻させる必要がある。

「アーチャーが居てくれたら……」

 彼が生きていれば凜もこうまで崩れる事は無かった筈。
 だが、無い物強請りをしていても仕方がない。眉間に皺を寄せながら、凜を立ち直らせる方法を考える。

「何とかしないと……」
「悩み事か?」

 その声に顔を上げると、イリヤの表情が強張った。

「……葛木宗一郎」

 キャスターのマスターであり、あのアルトリアを不意打ちとは言え投げ飛ばした男。
 士郎と凜が通う高校の教師らしいがあまりにも得体が知れず、イリヤは警戒心を顕とする。
 そんな彼女の態度を意に介さず、宗一郎は再び問う。

「何やら、悩んでいたようだが、必要とあらば相談に乗ろう」
「……相談に乗るって……、貴方が?」

 不審そうに睨むイリヤを宗一郎は静かに見下ろす。

「生徒の悩み相談は教師の務めだ」
「……私は貴方の生徒じゃない筈だけど?」
「余計な世話であったなら謝ろう」

 イリヤはしばらくジッと宗一郎を見つめた後、小さく溜息を零した。

「……まあ、今更貴方達を疑っても仕方無いわよね」

 イリヤは華麗にスカートの端を摘み上げ、深々と頭を下げた。

「お願い致しますわ、先生」

「おはよう、坊や」

 目を覚ますと、そこに魔女が居た。驚きのあまり言葉が出て来ない。口を魚のようにパクパクさせる士郎にキャスターはクスリと微笑んだ。

「寝起きドッキリを仕掛けたわけじゃないから、少し落ち着きなさい」

 寝起きドッキリという単語を知っている事にも驚いたが、とりあえず士郎は深呼吸をした。

「えっと……、何か用か?」

 彼女の様子を見るに緊急事態が発生したわけでは無いらしい。

「ちょっと、今後の事について話をしておきたくてね」
「今後の事……?」

 キャスターは凜がセイバーにしたものと同じ説明を士郎にした。
 
「桜が……、聖杯……――――?」

 何よりも彼を動揺させたのはその事実。桜が間桐の家の娘である以上、想定して然るべき事だった筈なのに、今の今まで彼女が聖杯戦争に関わっているとは考えてこなかった。
 それは彼女が士郎にとって大切な日常のピースであり、家族だったからだ。
 
「た、助けに行かないと……」

 慌てて立ち上がろうとする士郎をキャスターが押し留めた。

「な、何をするんだ!? は、早く、桜を――――」
「落ち着きなさい。今、貴方が下手に動いたらマキリとの最終決戦が始まってしまう。そうなると、現段階では此方が不利なの。セイバーやお嬢さん達を死なせたいの?」
「そ、それは――――、でも!」

 桜がそんな大変な事になっていたなんて、全く気がついていなかった。誰よりも気付き易い距離に居た癖に……。
 桜が苦しんでいるなら、助けに行かないわけにはいかない。

「家族なんだ!」

 士郎は必死にキャスターに訴える。彼女が苦しんでいるなら救わなければならない。
 
「駄目よ」

 懇願する士郎にキャスターはすげなく言う。

「少なくとも、今、この均衡状態を崩すわけには行かない」
「だ、だけど……」
「落ち着きなさい、衛宮士郎。どちらにしても、マキリとの戦いは避けられない。その時、必ず間桐桜も現れる。救うにしろ、排除するにしろ、マキリの戦力に抗う為の力が必要よ」

 今のままではどちらも不可能。

「なら、どうしたら……」
「貴方は力を手にする必要がある。それも今直ぐに……」
「どうやって……?」
「貴方を手っ取り早く強くする手段が一つある。けど、それは――――」
「どうすればいい!? 強くなれるんなら、俺は何だって――――ッ」

 詰め寄ろうとする士郎にキャスターは静かに言った。

「アーチャーの過去を追体験してもらう」
「追体験……?」

 首を傾げる士郎にキャスターは言う。

「前に夢という形で見せた彼の過去を今度は彼自身として体験してもらう。ただし、それはとても危険な行為。下手をすると、貴方の人格がアーチャーの人格に飲み込まれてしまう可能性もある。彼の夢の中でセイバーがアルトリアの人格に飲み込まれてしまったように……」
「そ、それで……、強くなれるのか?」
「前世の自分を降霊、憑依させる事で嘗ての技術を修得する魔術もある。これはその応用。私が保存した英霊・エミヤの経験値を同一の存在である貴方に流し込む事で戦闘能力に限らず、様々な点を強化する事が出来る筈」
「……分かった。じゃあ、早速やってくれ」

 士郎の言葉にキャスターは何故か苛立ちの表情を浮かべる。

「キャスター……?」
「そう来るだろうと思っていたけど、もう少し躊躇すると思ったわ」
「……はぁ? 何が言いたいんだよ」
「貴方、アーチャーがあれほど後悔に塗れた人生を送ったのを知っておきながら、同じ思いをセイバーにさせるかもしれないって事、理解してる?」

 キャスターの言葉に士郎は頷く。

「ああ、俺の人格がアーチャーに塗り潰されたら、きっとセイバーは悲しむ」

 それは確信している。セイバーは確かに己を愛してくれている。

「だからこそ、俺は必ず俺のまま戻って来る」

 士郎は言った。

「セイバーを悲しませる事だけは絶対にしない。どんな無茶でもやり遂げて、最期はセイバーを笑顔にしてみせる」
「…………なるほど、自分を蔑ろにしての決断では無いという事ね」
「ああ、それはセイバーを悲しませる事だからな。俺はセイバーが好きだ。だから、セイバーが嫌がる事は絶対にしない。そう、決めた」

 その言葉にキャスターは堪らず噴出した。

「――――いいわ。今の貴方は本当にいい。宗一郎様程では無いけれど、実にいい男よ。なら、精々気合を入れなさい。アーチャーの過去は決して生温いものじゃない。常に地獄の業火に焼かれながら、鉛を呑み込み、汚泥に満ちた沼を歩き続けるようなもの。彼の哀しみや怒りは貴方のものとなり、貴方を呑み込もうと襲い掛かって来る」
「承知の上だ。それでセイバーを守り、桜を救う力が手に入るなら是非も無い」
「なら、せめてセイバーの作った朝御飯を食べてからにしましょう。愛情たっぷりの御飯を食べれば、何が何でも戻って来てやるって気になるでしょ?」
「……ああ、そうだな」

 腐臭に満たされた地の底で少女は嗤う。

「――――もう直ぐ産まれるわ」

 少女の腹はポッコリと膨らんでいる。彼女は丸々したお腹を優しく撫で上げ、あやしている。
 空間の隅で息を顰めるアサシンはその姿に僅かに驚いていた。
 彼が佐々木小次郎を寄り代に召喚された直後に見た彼女と今の彼女の容貌は大きく変化している。
 歪に膨らんだお腹とは裏腹に他の部位はまるで萎んでしまったかのように細くなっている。顔も骨が突き出しそうになっているし、血色も――元々良くなかったが一層――悪い。
 恐らく、体内に宿っているナニカが彼女から生命力を奪い続けている結果だろう。

“アレは人だ。そして、同時にソレ以外のナニカだ”
  
 何故、そんなモノを彼女が孕んだのか正しくは理解出来ない。ただ、推測ならば出来る。
 原因は間桐臓硯が死亡した事。それまで、桜をコントロールしていた臓硯が死んだ事で彼女は恐らく、妊娠が可能になったのだろう。
 元々、年齢的には可能だった筈。だが、彼女は体内に精を取り込む度に全てを魔力に変換していた。ソレを彼女は止めてしまった。
 魔力に変換される事も無く、体内に取り込まれた精子が桜の卵子と結合して受精卵となった。そう考えれば、妊娠自体には説明がつく。
 だが、臓硯が倒れたのは数日前の事。にも拘らず、桜の体はまるで臨月を迎えようとしている妊婦のソレだ。
 それに精子の持ち主が何者なのかも不明。少なくとも慎二ではない。彼はあくまで桜を妹として扱っている。それ故に欲情し、手を出す事は一切無い。
 さりとて、不特定多数の生贄は臓硯亡き後全て、食事を通して桜の身に吸収されている。性行為自体、彼女はここしばらく蟲を使った自慰のみに留めている。

「もう直ぐよ、坊や」

 うっとりとした表情を浮かべる彼女にアサシンは違和感を覚えた。
 主たる少年は彼女を壊れていると評した。だが、これが壊れた女の浮かべる表情だろうか?
 確かに狂気染みてはいる。だが、女という生き物は大抵の場合、狂気的な面を隠し持っているものだ。それを分厚い仮面で奥に隠している。
 ヒステリックな女。盗み癖がある女。何かにつけて人のせいにする女。そういう悪癖のある女を特別視するのは誤りだ。
 女は魔性と人は言う。女は皆、そういう一面を隠し持っているのだ。違いがあるとすれば、それを如何に狡猾に隠し通せるかどうかに掛っている。
 慎二は彼女の狂気を見て、壊れていると思い込んだ。しかし、この女は――――、

「可愛い坊や……。早くお外に出ましょうね」

第三十二話「可愛い坊や……。早くお外に出ましょうね」」への2件のフィードバック

  1. 五大要素って書かれてますが、凛の属性は五大「元」素で、型月の魔術世界の「要素」は肉体、精神、魂の三つに分類する言葉だったような……。

    • やや、これはお恥ずかしい(; ・`д・´)早速修正致します!
      ご指摘ありがとうございます(∩´∀`)∩

霜花 へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。