第三十七話「分水嶺」

 奇妙な気分だ。今のわたしには2つの記憶が混在している。一方はアルトリアの記憶。もう一方はサトルの記憶。どちらもわたしだという自覚があり、それが一層奇怪だ。
 剣の振り方と同じくらい、パソコンの使い方を理解している。剣の稽古をしたわたしとクリケットに興じたわたしが居る。どちらもわたしだ。
 知識の上ではわたしが日野悟である事を理解出来ている。アルトリアの記憶は令呪が引き出したものに過ぎない。けれど、今のわたしの人格はどちらかと言うと、アルトリアに近い。戦う為にアルトリアの人格を一時的に上書きしたのか、それとも……。
 少なくとも、バーサーカーと戦った時とは明らかに異なる現象が起きている。

「……だが、今は目の前の敵に集中すべき時!」

 エクスカリバーを抜き放つわたしに対し、”本物”は興味深そうに手を顎に添えて微笑んだ。

「……面白いな」

 アルトリアは言った。

「その覇気……、その眼光……、さっきまでとは明らかに別人だ。さっきの小僧の令呪がお前を変えたらしいな。今のお前はどっちだ?」

 質問の意図は分かる。さて、どうしたものか……。
 ただ倒すだけで良いのなら、こんな無駄口を叩き隙を見せている相手、即座に切り捨てる所だが、この戦いは持久戦だ。下手に倒してしまうと、サクラの下に魂が行ってしまう。そうなると、リンはサクラの他にも再召喚されたサーヴァントを相手にしなければならなくなる。再召喚に掛る時間は不明だが、わたしが駆けつける前にリンが殺されてしまう可能性が極めて高い。
 今のリンの戦闘能力は並のサーヴァントを凌駕する域に達しているが、サクラの相手をしながら再召喚されたサーヴァントの相手もするとなると荷が重過ぎる。故にわたし達は倒さず倒されず、リンが決着をつけるまで各々の敵を引き止めておかなければならない
 しかし、一度戦いが始まってしまえばいずれは決着がついてしまう。下手に手加減しようものなら、屍を晒す事になるのは此方の方だ。ならば、この無駄口に乗ってやるのも悪くない。なるべく、話を長引かせれば、それだけ作戦の成功率が上がる。
 わたし達が確りと各々の役割を果たせば、リンが必ず全てを終わらせてくれる筈だ。

「……さて、正直に白状すると、わたし自身、分からない」
「ほう……」

 アルトリアは興味を示し、わたしの全身を舐めるように見据える。

「今のわたしには二つの記憶が混在している。サトルなのか、アルトリアなのか、自分でも非常に曖昧だ。そうだな……、お前から見て、わたしはどう映る?」
「分からんな」

 アルトリアの即答に聊か驚いた。彼女の口振りや今のわたし自身の人格を省みれば、アルトリアに近いと言われるだろうと予測していたのだが、分からないと返されるとは予想外だ。

「分からないとは?」
「言葉通りだ。だが、敢えて分からないなりに答えるとするなら……、“どちらでも無い”だ」
「……どういう意味だ?」
「以前、円蔵山で会った時のお前に近いかもしれんな。だが、私がアーチャーと切り結んだ時に相見えた貴様とは明らかに違う」

 アルトリアは言った。

「以前のお前からは男を感じた。生前の私……、アルトリアも男であろうとし続けていた。つまり、以前のお前もアルトリアも形や性別はどうあれ、男であろうとしていた。だが、今のお前は明らかに“女”だ。そうだな……、言ってみれば女であるまま王となったアルトリア。それが今のお前だろう」
「……意味が分からん」

 確かに、生前のアルトリアは王として君臨する上で女である事を捨てた。だが、決して自らが女である事実が消えたわけでも、まして、忘れていたわけでも無い。聖剣を手にした時点で肉体は成長を止めたが、それなりに膨らんだ乳房や陰茎の無い股を見れば嫌でも自分が女である事実を思い知らされた。
 私がそう言うと、アルトリアは呆れたように笑った。

「そうじゃない。少なくとも、生前のアルトリアは女である事を常に隠していた。忌避していたとも言える。だが、今のお前は女である事を隠していない」
「……言葉の意図が掴めん。貴様は結局、何が言いたいんだ?」
「仮に……、今のお前がアルトリアとしての自覚を維持しているなら、問いたいのだ」

 そう言って、アルトリアは僅かに表情を翳らせた。その表情には大きな違和感があった。

「お前はあの小僧を好いているのだろう?」
「……ああ」

 問いの意図は不明だが、それだけは断言出来る。この思いだけは消える事無く心に根付いている。

「男を恋い慕うなど、生前は考えられなかった筈だ。つまり、今のお前は完全に女である事を受け入れいてるわけだ」
「……それは」

 なんとも答え難い。サトルとしても、アルトリアとしても、実に答え難い。
 だが、否定も出来ない。元より、自覚はあったからだ。シロウを愛してしまったその時から、彼に愛されたいと思ったその時から、女である事を受け入れ――――いや、女でありたいと願うようになった。
 女である事を受け入れたアルトリア。そんな奇妙な人格が芽生えた原因はそこにあるのかもしれない。これは恐らく、シロウに愛してもらえる女でありたいと願うサトルの心と令呪によって復元されたアルトリアの人格が合わさった結果なのだろう。

「私が問いたい事は一つだ。今のお前なら、どうやって国を統治した?」

 その問いに息を呑んだ。アルトリアに感じていた違和感の正体が分かったのだ。

「その質問に答える前に此方も問いたい」
「なんだ?」
「――――今のお前はどっちだ?」

 私の問いにアルトリアは薄く微笑んだ。

「……さあな」

 その小さな呟きは殆ど答えも同然だった。

「私の質問に答えるのが先だ。さあ、今の貴様なら、どう国を治めた?」
「……変わらないだろうな」
「変わらない?」

 アルトリアが片眉を上げる。

「当時のブリテンを統治するとなれば、あれ以上の政策は無かった」
「だが、滅びた……」

 アルトリアの言葉に頷くほか無い。どんなに最善策を打ち続けても、結果が伴わなければ意味が無い。

「本当に何も変わらないのか?」

 アルトリアはまるで縋るように問う。

「――――いや、変わらないというのは嘘だな」

 少し考えてからわたしは言った。

「少なくとも、今のわたしにあのような統治は出来ない。むしろ、より悪しき方向へ国を導く暗君となるのが関の山だ」
「……つまり?」
「今のわたしはシロウを愛してしまっている。その思いは例え彼が傍に居なくとも変わらない。一つ一つの選択や思考に彼の顔が浮かんでしまうだろう。そうなると、最善と分かっていても打てない手が出て来てしまうだろうし、悪手と分かっていても選んでしまう事があるだろう」
「なるほど……。お前はそう考えるのだな」

 どこか残念そうにアルトリアは呟いた。

「……お前は違うのか?」
「ああ、違う」

 即答するアルトリアの表情には暗い影があった。

「こうなる以前、私はあの滅びを避けようの無いものだと考えていた。出来る限りの事はしたし、あの結末を回避するとなれば、それこそ“聖杯”という人智を超越した力に頼る他無いと思っていた」
「それが間違いだったと……?」
「……『アーサー王は、人の気持ちが分からない』」

 アルトリアの言葉に身震いした。

「覚えてるだろう? 円卓を去った騎士が去り際に口にした言葉だ。あれが答えだったのではないか?」
「……何が言いたいんだ」
「分かるだろう? あの滅びは私が人の気持ちを軽視したが故に起きたものだ。ランスロットの事も、モードレッドの事も、義姉上の事も……、全て私が愛を知らぬが故に起きた悲劇だ」

 その言葉を否定は出来ない。だが、肯定も出来ない。

「確かに、人の気持ちを軽視した事が悲劇に繋がった。だが、人の気持ちを重視すれば、それだけ選択の余地が狭まる。ある程度の悲劇は食い止められたかもしれんが、新たな悲劇が生まれていただろうし、滅びを回避する事も出来なかっただろう」
「……私はそうは思わない」

 アルトリアは言った。

「私の施政が上手くいっていたのは常にディナダン卿が円卓の結束を固め続けてくれていたおかげだ。彼が居なければ、あんな施政……」
「それは……」
「彼が居なくなった途端、全てが崩壊した。だが、その責は誰にある? 死んだディナダン卿が悪いのか? それとも、彼を殺したアグラヴェインやモードレッドが悪いのか? 違うだろ……。彼が居なくなっただけで立ち行かなくなるような統治の仕方をしていた私にこそ、責があったのだ」

 アルトリアの表情は哀しみと怒りに歪んでいる。

「そもそも、あれが最善だったなどとどうして言える? 義父上やマーリンに騎士としての在り方や王としての在り方は学んだが、私は人としての在り方を学び終える前に王となってしまった。私はかの騎士が告げた通り、人の気持ちに関してはあまりに無知だった。そんな者の施策が最善だったなどと……」
「……それは」

 言い返す事が出来ない。確かに、アーサー王の統治は最善だった。だが、それは騎士として、そして、王としての最善。人としての最善では無かった。
 民を思いながら、アーサー王は人を軽んじていた。それが滅びに繋がった。そうした彼女の言を否定する事が出来ない。

「愛を知った今のお前なら答えを示してくれるのではないかと期待したのだが……、見込み違いだったようだな」

 アルトリアは溜息を零すと同時にエクスカリバーを掲げた。

「……戦うのか?」
「今の私は慎二と桜のサーヴァントだからな」
「……彼等はこの世に災厄を招こうとしている。それを承知の上で彼等を守るのか?」

 わたしの問いにアルトリアはクスリと微笑んだ。

「今の私はある意味、お前と同じ状態と言えるかもしれん。二度に渡る汚染の影響で本来の人格は完全に破損してしまっているのだ。今の私は令呪によって一時的に復元された人格に過ぎない。もっとも、以前とは違い記憶に障害は無いがな。ちなみに、今の私の人格そのものは聖杯に一度汚染された後のものだ。原因は桜が本来の私を知らず、一度汚染された後の私を本来の私だと思い込み、令呪を発動したからだろうな」

 アルトリアは言った。

「嘗て、王だった者として、ブリテンの滅びを憂う気持ちは今もある。故にお前に問い掛けた。湧き上がる衝動を抑えつけ、愛を知ったお前にブリテンを救えたか否かの可能性の有無を……。結果は期待外れだったがな」

 アルトリアは嗤う。

「もう、貴様と話す事は何も無い。湧き上がる衝動を抑えつける必要も無い。最後だ。我が写し身よ、存分に死合うと……――――」

 瞬間、アルトリアの目が大きく見開かれた。

「馬鹿な……」

 アルトリアは虚空を見上げ、呟いた。

「……ぞう、けん」

 光が溢れ、アルトリアの姿が掻き消えた。何が起きたのか直ぐに察しがつき、わたしは走り出した。あの光は令呪の強制召喚によるもの。リンが危ない。
 未だ、アルトリアが健在な為か、令呪の効果は継続している。けど、あまり長続きするとも思えない。今、この状況でサトルに戻るのはまずい。アルトリアがサクラと合流したとなると尚更……。

「セイバー」

 洞窟内を疾走していると横たわるシンジとシロウの姿があった。予想していたアーチャーの姿は無い。
 手を振るシロウの傍に駆け寄ると、シンジが僅かに呼吸をしている事に気がついた。

「そっちも終わったみたいだな。アーチャーは倒した。慎二はアーチャーに自分の魂を喰わせるなんて無茶をしたんだけど、辛うじてまだ生きてるみたいなんだ。今のコイツには戦う術も残って無いわけだし、後で治療をしてやりたいんだけど……」
「……すまないシロウ、話は後だ。アルトリアがサクラの下に行ってしまった。去り際にゾウケンの名を告げた事も気になる。私はこれからリンの援護に向う。君はどうする?」
「……行く。慎二を治療するにはどっちにしても遠坂かキャスターの助けが必要だ。なら、慎二には悪いがここで待っていてもらう」
「分かった。じゃあ、行こう」

 再び、止めていた足を動かし走り出す。一刻も早く、リンの下に辿り着かなければならない。彼女こそがこの戦いの切り札なのだ。そうじゃなくても、彼女を死なせるわけにはいかない。
 無心に走り続け、そして、辿り着いた。全ての始まりにして終わりの場所に……。

「これは……」

 最初に目に映り込んだのは七色の光。リンは未だ健在のまま戦っていた。
 その手に握るは宝石剣・ゼルレッチ。遠坂家の先祖が師である魔法使いに出された課題であり、その力は平行世界の己の魔力を引き出す第二魔法。
 イリヤがリンに持ち掛けた提案とは正にコレの事だったのだ。イリヤの意識に士郎がダイブし、イリヤの祖であるユスティーツァの記憶から魔法使いキシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグの持つ宝石剣を解析し、投影を行った。出発がギリギリとなったのも、この剣を投影するのに時間が掛かった為だ。
 絶大な魔力を誇るリンの渾身の一撃が迫り来る暗黒の巨人を打ち払う。見上げる程巨大な人型はその内に並の魔術師の百年分の魔力が内包されている。サーヴァントの宝具にすら匹敵するソレをリンは悉く粉砕して行く。その眩い輝きはまるでエクスカリバーの光のようだ。
 けれど、彼女は攻め切れずにいる。それ以上の接近を丘の上の騎士が阻んでいる。サクラを守るようにアルトリアが立っていた。

「リン!」

 わたしが呼び掛けると、リンは舌を打ち後退した。合流すると、彼女は言った。

「桜が臓硯に意識を乗っ取られたわ。一気に叩き潰してやろうと思ったのに、あの爺、とんでもない切り札を用意してた……」

 彼女の言葉につられ、暗い光を背に佇むサクラを見上げた。彼女はいやらしい笑みを浮かべ、右腕を掲げている。そこに信じ難いものがあった。

「あ、あれは……」

 彼女の右腕には幾つ者赤い斑点が見えた。その正体が何なのか、直ぐに思い至り、戦慄した。

「……これまでの聖杯戦争で脱落したマスター達が残した令呪よ。本来、監督役が回収し保管している筈のもの……。恐らく、十年前に死んだ綺礼の父親から奪い取ったんでしょうね」

 あるいは言峰綺礼が璃正神父から奪ったものを更に彼の死体から奪ったのかもしれない。けど、そんなのは瑣末な問題だ。何よりまずいのはそれが今、敵の……、マキリ・ゾォルケンの手にある事。
 ゾォルケンは令呪を掲げ、高らかと叫んだ。

「令呪をもって命じる。残るサーヴァント達よ、我が下へ集え!」

 その叫びと共に次々にサーヴァント達が出現する。そして――――、

「重ねて命ずる。まずは邪魔が入る前にこの童共を全力をもって、殺すのだ!」

 瞬間、濃厚な殺意が大空洞を覆い尽くした。殺意を剥き出しにしたサーヴァント達の背後では影の巨人が次々に柱より生み出されている。
 あまりにも分が悪過ぎる。この状況に陥らない為の策だったのに、これでは逃げる事も儘ならない。
 万事休す。かくなる上は二人を逃がす為に囮になって――――、

「こうなったら、方法は一つしかないな……」

 士郎が一歩前に出て呟いた。

「シ、シロウ……?」
「俺が固有結界でサーヴァント達を纏めて隔離する」

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