第四話「信頼させてね、セイバー?」

「日野悟」

 セイバーの発した五文字の単語に凛と士郎の反応が遅れた。

「……え?」

 漸く、二人が搾り出した疑問の声にセイバーはかすかな笑みを浮かべて言った。

「日光の日に野原の野。悟ると書いて、悟。ヒノサトル。それが俺の名前だよ」
「……はい?」

 士郎は判断を仰ぐかのように凛を見た。彼女も困惑を隠し切れずにいる。

「ごめんなさい。ちょっと、言葉の意味が分からないんだけど……」

 眉間に皺を寄せて言う凛にセイバーは短く「だろうね」と同意した。

「説明の仕方が下手になるのは勘弁して欲しい。俺も事情に精通しているわけじゃないんだ。ただ、あるがままを話そうとしているだけなんだよ」

 そう言って、セイバーは落ち着く為に深呼吸をした。

「この事に関して、話すべきか迷いもあったんだ。でも、交渉事には不慣れだから……。下手に隠し事をしたり、嘘を吐くのは賢明な判断じゃ無いって、思ったんだ」
「……虚言や冗句じゃないのね?」
「そこは信じて欲しい。根拠になるかどうか分からないけど――――」

 そう前置きをして、セイバーが語ったのは平凡な青年の簡素なプロフィールだった。
 
「本名は日野悟。年齢は二十歳。東京と神奈川の県境にある大学に通う二年生。クリケットサークルと登山愛好会で活動しつつ、バイトや研究室巡りに精を出してました」
「……えっと、つまり、セイバー……じゃなくて、日野さんは――――」
「そう、ただの一般人だよ」

 士郎の疑問に先んじて答えたセイバーに凛は深く息を吐いた。相手を激しく揺すってやりたい衝動を堪え、彼女が発した言葉の意味を吟味する。
 まず、大前提として考えなければならないのは、彼女の言葉が真実か否か、という点だ。普通に考えたら嘘八百を並べているだけと考える方が賢明だ。今までの全てが演技で、此方の油断を誘っているだけ……、と考える方が自然だし、説得力もある。
 けれど、そうなると分からない点が幾つかある。例えば、昨夜の件だ。彼女は凛がバーサーカーに殺されそうになった時、身を盾にして守った。あの行動を演技だと考えるのは無理がある。何故なら、あの時のバーサーカーの攻撃は一歩間違えればセイバーを即消滅させかねない強力なものだった。完全に見切って、即消滅を免れ、かつ回復する程度のダメージを負う。例え、そんな真似が出来たとしても、リスクに釣り合うメリットが無い。
 それに、これが作り話だとしたら、あまりにもお粗末だ。そもそも、英霊の霊魂と一般人の精神が融合する……、なんて事例は聞いた事が無い。作り話なら、もっと説得力のある方便を使う筈。それに、彼女は自らの真名と宝具を全て暴露した。敵に対して、致命的と言っていいレベルの情報漏洩だ。そこまでして、作り話を語る意味……。

「無いわね……」

 仮に何らかの策略が彼女の胸の内にあったとしても、もう少し話に耳を傾けた方が得策だろう。
 凜は己のパートナーに思念を飛ばし、臨戦態勢に入らせた。もし、怪しい動きを見せたら即座に戦闘状態に移行出来るよう、準備だけは整えておく。これで保険は掛けられた。

「セイバー、貴女は本当に一般人なの?」

 凛はのっぺりと感情を抑制した声で尋ねた。

「本当だよ」
「なら、どうして、こんな状態になっているのか、心当たりはある?」

 凜が尋ねると、セイバーは「うーん」と虚空を睨み付けた。

「話せるとしても、こうなる直前の事くらいかな。根本的な理由とかは俺にも分からない」
「こうなる直前?」

 セイバーが話し始めたのは彼女が彼だった頃の事。好意を持ったサークルの女の子に告白して、「ごめんね、嫌いじゃないんだけどー」と半笑いで返され、自棄酒した挙句、交通事故にあったという、あまりにも情け無い顛末。聞き終えた後、士郎と凜はなんとも言えない表情を浮かべた。
 けれど、責めないで欲しい。セイバーは思った。正直、焦りもあったのだ。成人式で小学校の同級生と久しぶりに会ったのだが、殆どが脱童貞していて、このままだとマズイと焦りを覚えたのだ。だから、少し遊んでいる風な印象があった彼女に告白したのだ。あわよくば、脱童貞させてもらえるように願いながら……。

「そんで、目が覚めたら士郎君が目の前に居たってわけ。最初は士郎君が変態に襲われそうになってるんだとばっかり思ったよ……」

 話を聞けば聞くほど、凛の中でセイバーに対する評価が落ちていった。代わりに彼女……、彼の中身が確かに英霊では無く一般人のものなのだと確信を得た。

「……もういいわ。とりあえず、貴方の話を聞いて分かった事は一つ」
「……と言うと?」

 ゴクリと唾を飲み込むセイバー。士郎も慌てて姿勢を正す。

「貴方の中身が正真正銘、一般人のものだって事。出鱈目を口にしているにしては設定が細か過ぎるしね……。幾ら、サーヴァントがあらゆる時代に適応するからと言っても、限度があるわ。貴方が召喚されてから今に至るまで、その話を作る為の下準備をしている様子は無かったし……」

 一応、凜は自らの相棒に確認を取る。確かに、彼女が現代に関して調べている様子は無かったとの事。

「どうして、そんな事になってるのかは分からないけど、それに関して調べるのは後々って事にして……、聞きたい事がもう一つある」
「なんだい?」
「貴方の精神が一般人のものだと仮定すると、無視出来ない違和感が生まれる」
「と言うと?」

 凛は言った。

「こんな奇妙奇天烈な状況に巻き込まれて、どうして冷静に居られるのか? 幾つかの疑問を集約すると、この問いに行き着く」
「……えっと」

 回りくどい言い回しをする凛にセイバーの返事がまごつく。

「貴方は最初こそ取り乱している様子を見せた。けど、私が聖杯戦争に関して衛宮君に解説した後、まるで人が変わったかのように冷静になった。その後、士郎を海外に逃がそうとしたり、私に保護を求めたり、状況判断が的確過ぎた。まあ、完璧に冷静だったわけじゃないみたいだけど……」

 凛は数えるように広げた指を折り曲げながら言った。

「バーサーカーとの戦いでも、衛宮君に令呪を使わせ、英霊の力を引き出したり、身を盾にして私達を守ろうとしたり……」

 凜は鋭い眼差しをセイバーに向ける。

「単なる一般人がまったくの別人に成り代わり、聖杯戦争という異常事態に巻き込まれる。こんなの、発狂してもおかしくない状況よ。なのに、どうして、貴方はそんなにも冷静で居られるの?」
「……冷静じゃないよ」

 セイバーが少しぴりぴりした様子で呟いた。

「頭の中はしっちゃかめっちゃかさ。だから、とりあえず目的を定めただけだよ」
「目的?」

 士郎が尋ねる。

「緊急事態の際は心の安定を保つ事が最優先事項なんだ。凛も言ってたけど、俺の今の状況って、本当に発狂してもおかしくない事態だと思うんだ。だから、目的……、つまり、行動の指針を作る事を優先した。他にも自分を見失わないように独り言を呟いたりしながら自我を保ってる」
「……つまり、貴方は今、発狂寸前って事?」

 険しい表情を浮かべる凛にセイバーはあいまいに頷いた。

「人間ってのは危機的状況に陥るとストレスを感じて、基本的に視野が狭くなるものなんだ。要するに、『過剰警戒』って状態に陥り、情報処理に混乱が生じてしまうのさ。その為にヒステリーを引き起こす可能性も極めて高い」

 セイバーは続けた。

「さすがにこんな奇妙奇天烈な事態に巻き込まれる人間はそうそう居ないだろうけど、緊急時に人間が取る行動はある程度決まっている。コンピューター用語の『スクリプト』をイメージすると分かり易いかな?」

 士郎が曖昧に頷く。凛に至っては「コンピューターって、何?」と呟く始末。
 
「……えっと、つまり、反復練習や学習によって体に染み付いた行動の事だよ。反射と言い換えてもいいかもしれない。梅干を見ると唾が出るだろ?」
「……つまり、緊急事態に陥った人間は咄嗟に体に染み付いた行動を取ってしまうって事か?」

 士郎が眉間に皺を寄せながら言う。セイバーはニッコリと笑顔を浮かべて頷いた。

「そういう事だよ。緊急事態だからこそ、視野が狭くなり、普段無意識に行っている行動を選択してしまうんだ。例えば、火災現場をイメージしてくれ。目の前に非常用の出口がある。けど、普段使っているのは別の出入り口だ。逃げるとしたら、どっちを選ぶ?」
「そんなの、目の前の非常用出口に決まってるじゃない」

 凜が当然のように言う。

「ところが、普段使っている出入り口を目指してしまう人が多いんだ。これを『日常的潜在行動』と呼ぶ。それ以外にも元来た道を引き返してしまったり、慣れ親しんだ光景に戻りたいと思い、逃げ場の無い場所に向ってしまう事もある。そうした、誤った選択をしないようにするにはどうすればいいか?」

 セイバーは言った。

「デパートなんかでバイトした事はあるかな?」

 士郎と凛は揃って首を横に振る。

「ああいう所だと、避難誘導の指導を受けたりもするんだ。要は、出口を指差したり、叫んだりして、避難誘導を行うわけ。重要なのは正しい出口に向う為の指針を作る事」
「だから、俺を守ろうとしたって事なのか……?」

 士郎が尋ねる。

「完全な善意による行動では無かったよ。とにかく、ヒステリーを起こさないように自己を制御する必要があった。でも、完全に打算による行動でも無かったんだ。それは信じて欲しい」

 セイバーは言った。

「目的を作り、行動の指針を作る。それも重要だけど、自我を保つ為には出来る限り感情を動かし続ける必要があるんだ。感情ってのは生き物と一緒で、停滞させると反動が大きくなるからね。だから、目的には強い感情を結び付ける事が重要なんだ」
「つまり、衛宮君を守ろうとした行動は貴方自身の感情に起因するって事?」

 凜の問い掛けにセイバーは頷いた。

「士郎君を守りたいと思ったのは本心さ。じゃなきゃ、意味が無い」
「そっか……」

 士郎が少し安堵したように呟いた。

「それで……、結局、今の貴方の心理状態はどうなの?」
「完全に安定しているとは言えないけど、発狂したりする事は無いと思う。一晩が過ぎて、状況を再定義出来たと思うからね」
「状況を再定義……?」

 士郎が問う。

「簡単に言うと、緊急事態に陥った中で得た情報を元に『平常時との違い』を意識する事で、暗黙の前提である『現在は平常状態にある』という状況から、『現在は異常事態にある』という状況に変化したという事を意識的に認めたのさ。これを『状況の再定義』と言う。これはヒステリー状態から脱却する為に重要なプロセスなんだ」
「……つまり、直ぐに問題が発生するような事は無いってわけね?」
「そういう事」

 セイバーの言葉に凜は深く溜息を零した。

「よく、そんな知識があったわね。それに、よく、そんな知識を元に行動出来たわね」
「知識に関しては大学の教授に感謝かな。少し前に大きな地震があって、教授が生徒全員に緊急事態におけるパニックの回避方法を教えてくれたんだ」

 しばらくの間、部屋に沈黙が広がった。

「……まあ、ある程度は納得してあげる」
「ある程度?」

 凛の物言いに士郎が首を傾げる。

「当然だけど、納得のいかない所がまだある。例えば、衛宮君の中に宝具がある事に関して――――」
「それはさっき説明した通りで―――-」
「私が納得し切れないのは、貴方がどうして、召喚される以前の事を知り得ていたかよ」

 凛の発言に時間がストップした。

「貴方のこれまでの数々の奇行に関しては納得してあげる。だけど、そこだけはどうしても納得出来ない」
「納得出来ないって、さっき、セイバー……じゃなくて、日野さんが言ってたじゃないか。前回、俺の親父がアヴァロンを使って、聖杯戦争に参加したって。それってつまり、親父もセイバーをサーヴァントとして呼び出したって事だろ?」
「衛宮君。大前提だから、覚えておきなさい。サーヴァントは英霊の端末の一つでしかないのよ。連続で同じ英霊をサーヴァントとして召喚しても、殆ど別人も同然なの。それに、日野悟は死後、直ぐに貴方の前で意識を覚醒させた。なら、前回の戦いやその後について知識を持っているなんておかしいわ」
 
 凛の言葉は至極尤もなものだった。それ故に士郎はセイバーを不安げな瞳で見つめる。

「……それが実はおかしくないんだ」

 セイバーが言った。凛の表情が険しくなる。

「どういう意味?」
「この体の主であるアーサー王はまだ完全な英霊に至っていないんだ」

 セイバーは語った。アーサー王は国の滅亡を認める事が出来ず、自らの死後を世界に預ける代価として、聖杯の探求を続けている。国の滅びを回避する為に……。
 
「要は、死の直前で彼女の時間は止まっているんだよ」
「……あり得ない事だらけね」

 アーサー王に対して、同情を寄せる士郎とは反対に凛は眉間に皺を寄せた。

「……昨夜、士郎君に令呪を使ってもらったおかげでアーサー王の知識が少し流れ込んできたんだよ。だから、俺には士郎君の中のアヴァロンの存在が分かった。それが彼に入り込んでいる理由もね」

 朗々と語るセイバーに対して、凛は疑いの眼差しを向けたままだった。
 確かに、全ての話が真実であるなら、筋は通っている。けど、その話の真贋を確かめる術が無い。それに、彼が語る話はどれもこれも嘘くさくて仕方が無い。

「……どうしたら、信じてもらえるかな?」
「そうね……。貴方の話を信じる根拠が無いから何とも言えないわ」

 まるで、戦場で睨み合っているかのような二人を止めようと仲裁に入ろうとした瞬間、セイバーが言った。

「なら、とりあえず、俺の体がアーサー王のものである事を証明しよう」
「どうやって?」
「エクスカリバーを見せるよ。何よりの証拠だろ? 一応、アーチャーを呼んでくれ。変な誤解は避けたいから」
「……分かったわ」

 セイバーの提案は決定的なものだった。エクスカリバー程の聖剣なら、英霊であるアーチャーに真贋を見抜かせる事が出来るかもしれない。偽物なら、同盟を破棄する。どんな策を巡らせているか分からない以上、彼女はここで始末する。士郎に関しては教会にでも放り込んでおけばいいだろう。
 逆に、エクスカリバーが本物であったなら、一端、話はここまでにしておこう。警戒を怠る気は無いが、彼の体がアーサー王のものだった場合、大分疑惑が解消される。

「アーチャー」
「ここに居る」

 凛の呼び掛けにアーチャーが黒と白の陰陽剣を手に姿を現す。

「じゃあ、ちょっと庭に出ようか……」

 ゆっくりと立ち上がり、セイバーは士郎に手を伸ばした。

「えっと……」
「一応、俺の近くに居てくれ」

 士郎を立たせると、セイバーは彼を伴い庭に出た。そこで、見えない剣を振り上げた。

「……うん。ここまで来て、取り出せなかったどうしようかと思った」

 苦笑いを浮かべるセイバーに士郎がずっこけそうになる。

「ひ、日野さん? 大丈夫ですか?」
「あはは……、いや、よく考えると、昨日の感覚を思い出しながら手探り状態だから……、ちょっとだけ離れててもらっていい?」

 士郎はこくこくと頷きながら距離を取った。すると、セイバーは深く息を吐いて呟いた。

「風よ……」

 疾風が轟く。まるで、セイバーを中心に竜巻が発生したかのようだ。少しずつ、不可視の剣がその正体を明かし始める。

「……ああ、アレは本物ね」

 完全に姿を現した時、凛の頭から疑念は吹き飛んでいた。アーチャーに確認するまでも無い。
 聖剣というカテゴリーの最上位に位置する星が鍛えた神造兵装、エクスカリバー。その刀身の眩さは紛れも無く、本物の輝きだ。

「ああ、私も断言しよう。あれは紛れもなく、究極の聖剣だ。担い手に関しては分からんが……」

 そう呟き、アーチャーはセイバーを睨み付けた。

「凛……。アレは紛れも無く聖杯戦争における異分子だ。ここで排除しておいた方が賢明だぞ」
「待った。異分子だからって、排除の対象にはならないわ。少なくとも、マスターの方は策謀とかとは無縁な性格だし、サーヴァントも嘘は言っていない様子。もう少し、様子を見るべきね」
「何を悠長な事を……。アレが本気で牙を剥けば、厄介な相手だぞ」
「承知の上よ。昨夜の戦いで彼の底力は見せてもらった。セイバーのクラスに相応しい実力を持っているのは確か」
「ならば――――」
「でも、もう同盟を結んじゃったし」
「そんなもの、破棄してしまえば良い」
「駄目よ。遠坂の当主たるもの、一度結んだ約定をそうそう簡単には破れないわよ。少なくとも、向こうが何らかの約定違反を犯すまでは……」
「後悔しても知らんぞ……」
「大丈夫。万が一の時は貴方が私を守ってくれるでしょ?」

 確信に満ちた凛の眼差しにアーチャーは溜息を零した。

「まったく、厄介なのは敵ばかりじゃないな……」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
「皮肉だ、戯け」

 聖剣を仕舞い、セイバーと士郎が戻って来る前にアーチャーは姿を晦ませた。再び、異分子とその主の脳天を吹き飛ばす為の準備をする為に……。

「それで、信用してもらえたかな?」

 セイバーが問う。

「……ええ、信用はしてあげる」
「今はそれでいいよ」

 ニッコリ笑うセイバーに凜は言った。

「信頼させてね、セイバー?」

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