第十話「……どうしたってんだ、イリヤ」

 奇妙な時間が流れた。狭い個室の中、裸の女の子と共に居るという事実に士郎は最初こそ緊張していたが、いつしか気にならなくなっていた。魔術や聖杯戦争とは全く関係の無い話に華を咲かせる。学校生活の事、アルバイトの事、友達の事、初恋の事。
 互いの話をしようと言っていたのに、セイバーは殆ど士郎にばかり話をさせた。魔術に関する事を抜かせば、衛宮士郎の人生に劇的な事など殆ど無い。我ながら、面白みに欠ける話だと感じながら、士郎は体を洗いつつ語り続けた。
 不思議な事にセイバーはヤマもオチもない士郎の話を終始楽しそうに聞き入っていた。それが妙にくすぐったくて、士郎は話を打ち切ることが出来なかった。

「それで、その時は――――」

 父親と共に花火を見に行った話や藤ねえの剣道大会に応援に行った話をしながら、士郎は思った。
 こうして、誰かに自分の事を語り聞かせたのは何時以来だろう? イリヤと喋った時も趣味や好き嫌いを語ったくらいで、ここまで深くは話さなかった。別に、話したくなかったわけじゃない。ただ、話す機会が無かっただけだ。
 まだ、切嗣が生きていた頃はよく、こうして共に風呂に入り、学校での出来事や友達との事を彼に報告していた。でも、彼が死んでから、こんな風に誰かに自分の事を話す事が無くなった。
 葬儀の後、藤ねえは士郎の心を気遣い、未来に目を向けさせる為、あまり過去を振り返るような話は振らなくなった。中学に上がる頃には、彼女も彼がもう大丈夫だと確信したが、その頃は彼女も忙しく、あまり士郎と話す機会に恵まれなかった。高校に上がると、同じ学校の先生と生徒という関係になり、話す意味が無くなった。
 桜や一成、慎二とも、あまりこういう話はしないから、ちょっと新鮮で、ちょっとこそばゆい気持ちになった。

「そんで、アイツ――――」

 なんだか、童心に返った気分だった。中学時代の慎二との思い出を語りながら、士郎は次に何を話そうか考えた。
 それはセイバーがこの会話に求めた意図の一つだった。
 多くの研究において、『語り』は重要なテーマとされている。セイバーが彼に求めたのは、彼自身が持つ彼の物語、『自己物語――――ドミナントストーリー』と呼ばれるものだ。
 過去の経験を時の流れの中に配置し、そこに一つ一つ意味を与える事によって構造化する。通常、人はそれを無意識の中で行い、自らの人生を一つの物語として捉えている。
 自己物語を語らせる事は本来、無意識下で行われている『物語化』を意識上に浮き上がらせる事を目的とする。
 一般的な精神治療法に『ナラティヴ・セラピー』というものがあり、これは意識的自己物語への介入による治療法である。
 衛宮士郎という少年の過去は明るいばかりではない。むしろ、常人からすれば陰鬱なものと捉えられる人生である。
 火災で両親と家とそれまでの人生を失い、それから現在に至るまでの環境も劣悪とまではいかずとも、良いものではなかった。けれど、セイバーは彼の自己物語に常に好意的な反応を返した。
 自らの人生をつまらないものであると解釈していた士郎に『そんな事は無い。君の人生は素晴らしいものだった』という他者視点からの反応を与える事で新たなる概念を創造する。
 それがセイバーの目的の一つ。彼の自己犠牲精神を抑制する為のアプローチだった。
 とは言え、あくまで、それは目的の一つに過ぎない。セイバーが彼の過去を知ろうとするもう一つの理由は単純に衛宮士郎という少年の事をもっと知りたいと思ったからだ。
 セイバーにとって、彼に対する印象は『ゲームの主人公』としての印象が大きい。自己犠牲精神旺盛な、正義の味方を目指す純朴少年。けれど、それはあくまでゲームにおける彼への印象。目の前で今を生きる彼に対して、そんな印象を抱き続ける事は不義理であるし、要らぬ距離感を作ってしまう。
 出会う前から持っていた第一印象を彼の自己物語を聞く事で一新する。それが、この会話のもう一つの意図。そして、それは大成功だった。
 確かに、彼の人生は衛宮切嗣から託された夢によって、一つの骨子を作られた。けれど、それはあくまで骨子の一つに過ぎない。彼の人格が今のものになるまでに多くの人の影響があった。
 例えば、それは小学校の頃の先生であったり、虐めっ子であったり、アニメのヒーローであったり、初恋の女の子であったり……。
 ゲームで語られている内面は彼の人格の一端に過ぎない。その事を深く理解出来た。
 彼は悲しい過去を持ち、魔術が使えて、やがて、英霊になる人。だけど、同時に今を生きている一人の人間。

「……士郎君」

 セイバーは湯船の縁に腕を置き、ニッコリと微笑んだ。

「君は将来、何になりたいの?」
「……正義の味方になりたいんだ」

 彼は言った。照れ臭くて口に出す事を躊躇われる夢。けれど、どうしてか、自然と口から飛び出した。

「そっか……。なら、君に良い事を教えてあげるよ」

 衛宮士郎は正義の味方を夢見ている。けれど、彼が正義の味方になる為に必要な経験をこの世界では得られない。本物のアーサー王にしか、彼に与えられない高潔な在り方をセイバーは教える事が出来ない。
 衛宮切嗣が与えたのが骨子であるなら、アーサー王が与えたのは肉だ。肉が無いからこそ、この少年は己を守る為に……、正義の為に間違った選択をする可能性がある。
 只管、力を求めて修羅の道を歩んでしまうかもしれない。だから――――、

「正義の味方は心に常に愛を持っているものなのだよ」

 とりあえず、スーパーヒーローに必要なものを教えておこう。

「あ、愛?」
「俺の知ってる正義の味方は心に愛が無ければ、スーパーヒーローにはなれないって、言ってたよ」

 俺の知ってる正義の味方、キン肉マン……のオープニング。

「救いたい人、守りたい人をまず、愛してみてよ。ほら、イエスも言ってるだろ? 汝、隣人を愛せって。第一歩は愛を知る事さ」
「……愛」
「きっと、救えなかった時は愛さなかった時より辛くなると思う。けど、救えた時は愛さなかった時より嬉しくなる。正義の味方になるなら、きっと、それは大切な事だと思うよ?」
「……考えとく」
「うん。考えておいてくれ」

 話はそれで終わりとなった。士郎は思い悩む表情を浮かべながら出て行き、セイバーも彼が脱衣場を出た後に風呂場を後にした。

 士郎とセイバーは家を出た。特に買出しの必要は無いのだが、約束があったからだ。
 いつもの公園に向うと、そこに案の定、イリヤが待っていた。

「イリヤ!」

 声を掛けると、イリヤは弾んだ足取りで士郎の下に駆け寄って来た。前回の事でご機嫌斜めなのではないかと思ったが、それは杞憂だったらしい。抱きついて来るイリヤに士郎は家を出る直前、セイバーと話し合って決めた事を提案した。

「イリヤ、今日はうちで御飯を食べないか?」

 前回、泰山で彼女を酷い目に合わせてしまったから、その埋め合わせのつもりだった。

「シ、シロウの家で!?」

 イリヤは一瞬、嬉しそうに瞳を輝かせた後、一転して喰らい表情を浮かべた。

「いいの……、かな? 私はシロウを殺しに来たんだよ? なのに、その私がシロウの家にあがるなんて……」

 抑揚の無い声で呟くイリヤ。

「頼むよ、イリヤ。前回は酷い物を食べさせちゃったから、今日は俺の料理をイリヤに食べて欲しいんだ。この通り!」

 深く頭を下げる士郎にイリヤは目を丸くした。

「……そういう事か。うん、そういう事なら――――」

 イリヤははにかみながら言った。

「私の舌を満足させなさい、シロウ。それが条件よ! 美味しくなかったら、お仕置きなんだからね!」
「誠心誠意頑張ります」

 ビシッと敬礼して見せるシロウにイリヤは笑った。
 そんな彼女にセイバーは恐る恐る声を掛けた。

「なに、セイバー?」

 ホッとした。彼女から以前のような敵意を感じない。

「その……、俺も一緒に居ていいかな?」
「……駄目」
「……そ、そうですか」

 ガックリと肩を落とすセイバーにイリヤはケラケラと笑った。

「冗談よ、セイバー。特別に許可してあげる」
「あ、ありがとう」

 お礼を言うセイバーにイリヤはそっぽを向いた。

「さ、さあ、行くわよ! エスコートしてよね、シロウ」
「おう!」

 衛宮邸に辿り着くと、イリヤは恐る恐る玄関に上がった。

「お、お邪魔しまーす」

 キョロキョロト周りを見渡しながら廊下を歩くイリヤ。

「板張りの廊下……、聞いたとおりだわ」

 居間に入ると、士郎は腕まくりをしてキッチンに向った。

「それじゃあ、昼飯の用意をするから、適当に寛いでてくれ」
「ちゃーんと、美味しいものを作ってよね?」
「ああ、任せとけ」

 キッチンの中で作業を進めるシロウをイリヤは楽しそうに見つめている。

「ねえ、セイバー」

 しばらくして、イリヤの方からセイバーに話を振った。

「この家を案内してくれないかしら?」
「ああ、構わないけど、俺でいいのかい?」
「本当はシロウに案内してもらいたかったけど、料理で忙しそうだし、特別にセイバーで我慢してあげる」
「あはは……、了解です」

 苦笑いを浮かべながら立ち上がるセイバーに続いて、廊下に出るイリヤ。
 彼女にせがまれて、セイバーは屋敷中を歩き回る事になった。行く先々でぶーぶーと文句を言いつつ、キャッキャと楽しそうな笑みを浮かべるイリヤにセイバーは微笑ましさを感じた。
 彼女は最初にして最大級の死亡フラグだったが、こうして一緒に居ると、至って普通な子供にしか見えない。彼女が士郎の命を狙う理由を知ってる分、セイバーの心中は複雑だった。

「ねえ、セイバー」

 屋敷の裏手を案内している最中、急にイリヤが声のトーンを落とした。どうかしたのか、とセイバーが問うと彼女は言った。

「シロウって、貴女から見て、どう?」

 その表情ばどこか悲しそうだった。

「……良い子だよ。凄く……」
「……ねえ、セイバー」

 イリヤは言う。

「私はシロウを殺すつもりでニッポンに来たの」
「……イリヤスフィール」
「でも……、シロウはとっても良い子なの……」

 イリヤは泣いていた。

「おかしいね、私。シロウが良い子なのは嬉しい事なのに、同時にとっても悲しいの。シロウがもっと、悪い子だったら良かったのにって、思っちゃうの……」
「……イリヤスフィールはシロウが好きなんだね」
「……嫌いになれる筈が無いわ。会う度に好きになっちゃう。この家に来てからも……」

 泣き顔を見せたくないからと、顔を洗いに洗面所に行った帰り道、イリヤはセイバーに言った。

「シロウを……、殺すのは私。だから、それまでは絶対に負けちゃ駄目よ、セイバー」

 赤い瞳に見つめられ、セイバーは頷いた。

「君にも殺させるつもりは無いけど、士郎君は必ず守るよ。命に代えても絶対に……」
「……セイバーも私が殺すまで死んじゃ駄目」
「イリヤスフィール?」
「イリヤでいい。セイバーの事も私が殺す。だから、他の誰かに殺されたりしたら、許さない」
「……了解」

 なんとも物騒な言葉だけど、セイバーは微笑んだ。

 居間に戻って来ると、丁度良く、食事の準備が終わっていた。イリヤはキチンと正座して、箸を手に取った。

「イリヤは箸を使えるのか?」
「簡単よ。こうでしょ?」
「いや、その持ち方はちょっと違うぞ。ここはこう持って――――」

 イリヤの箸の持ち方を直し、士郎は手を合わせた。

「ほら、イリヤも食事の前にはこうやって、手を合わせるのがマナーなんだぞ」
「こう?」
「そうそう。じゃあ、いただきます」
「いただきまーす」

 イリヤの食事の仕方は予想に反して豪快だった。

「うんうん、合格! シロウはお料理が上手ね。ごはんが美味しい事は良い事よ」
「じゃあ、前回の失敗は――――」
「ええ、許してあげるわ。わたしの寛大さに感謝なさいね!」
「ああ、ありがとう、イリヤ」

 美味しそうにハンバーグを頬張るイリヤ。

「イリヤ。頬にソースがくっついてるよ。それだと髪の毛についちゃう」

 セイバーはハンカチでそっと、イリヤの口周りを拭った。

「ありがとう、セイバー」
「どういたしまして」
「……なんだ、二人共、思ったより仲が良いんだな。いつの間にか、セイバーもイリヤをイリヤって呼んでるし」

 士郎が嬉しそうに言った。

「ああ、前回、共に士郎君に酷い目に合わされたからな」
「被害者の会を結成したのよ」
「……いや、もう勘弁して下さい」

 意地悪な笑みを浮かべる二人に士郎はガックリと肩を落とした。

 穏やかな時間が過ぎた。三人で過ごす時間があまりに楽しく、士郎は時間を忘れて話しこんだ。
 イリヤがそろそろ帰らなければ、と言ったので、士郎とセイバーは彼女を近くまで送って行く事にした。

「また、うちに遊びに来いよ、イリヤ」

 士郎が言った。

「次は俺が腕を振るおう。士郎君には敵わないかもしれないけど、それなりのものを用意してみせるよ」

 セイバーが続く。

「それは楽しみね」

 イリヤは微笑んだ。
 しばらく、三人並んで歩き、三叉路までやって来た所で唐突にイリヤが言った。

「……二人共、油断しちゃ駄目よ? まだ、一人も脱落者が出ていないんだから……。そろそろ、聖杯戦争は本格的に動き出す頃合の筈――――」
「ああ、いや、脱落者はもう出てるぞ」

 イリヤの不安を払拭しようと、士郎が言った。

「……え?」
「ライダーは俺達が既に倒してるんだ。確かに、俺もセイバーも未熟だから、イリヤが心配するのも分かるし、その気持ちは嬉しいけど、心配はいらない」

 ニッと笑みを浮かべる士郎に対して、イリヤは狼狽した表情を浮かべた。

「シ、シロウ……。かっこつけたいからって、嘘は良くないわ」

 イリヤの言葉に士郎は「嘘じゃない」と反論した。

「……ライダーは確かに脱落した。マスターは逃がしたけど、サーヴァントは完全に消滅した」

 ライダーの首を切り落とした時の感触を思い出しているのか、士郎の表情に苦いものが混じる。

「士郎の言っている事は本当だよ、イリヤ。確かに、ライダーは死んだ」

 セイバーが士郎の言葉を肯定すると、イリヤは大きく目を見開いた。

「……嘘じゃないの? 士郎とセイバーの勘違いじゃなくて?」

 尚も疑うイリヤ。士郎は時計を見た。食事をしたり、お喋りをしながら歩いたりしていたから、いつの間にか夕方になっていた。

「この時間なら、そろそろ遠坂が帰って来る頃合だな。ちょっと、待っててくれ。そこの公衆電話で遠坂に確認する。学校に結界を張ってたのはライダーなんだから、それが消えてれば確実だろ?」

 十円を投入し、自宅の電話番号をプッシュする。数十回、コール音が鳴り響き、まだ帰って来ていないのかと諦め掛けた時、電話が繋がった。

『は、はい、衛宮ですが……』

 受話器越しに聞こえる声は間違いなく凛のものだった。
 なんだか、妙に緊張した様子。

「もしもし、俺だ、士郎だけど、遠坂に確認したい事が――――」
『はぁ? ちょっと、何ふざけてんのよ、アー……って、あれ? あれれ?』
「お、おい、どうしたんだよ、遠坂?」
『あ、ううん。ちょっと、ビックリしちゃっただけよ。それで、今、どこに居るの?』
「坂を下りた所の三叉路の辺りだ。今、ちょっとイリヤと一緒でさ」
『はい? イリヤって……、アインツベルンと一緒に居るの!? ちょ、ちょ、どういう事!?』
「いや、戦ってるんじゃなくて、ちょっと話をしたりしてただけなんだ。ただ、その流れでライダーを倒した事を話したんだけど、信じてもらえなくてさ。遠坂、学校の結界はどうなってた?」
『……ったく、緊張が無いんだから。結界なら消えてたわ。間違いなく、ライダーは倒れたって事ね』
「ありがとう。それと、悪いんだけど、後で頼み事があるんだ。夕飯は遠坂が好きな物を作るから、時間をくれないか?」
『別に構わないけど……。アンタはもうちょっと、緊張感ってものを持ちなさい。アインツベルンのマスターと一緒に居るなんて……』

 ぶつぶつよ小言を言い続ける凛に士郎は平謝りしながら受話器を置いた。
 電話ボックスの前で待っていたイリヤに確証が取れた事を告げると、イリヤはまるで人が変わったように冷たい表情を浮かべた。
 ライダーを倒した事で彼女から明確な敵と認識されたのかもしれない。そう思い、慌てる士郎を尻目に彼女は言った。

「……帰る」
「イ、イリヤ……?」

 唐突に踵を返し、数歩歩いた後、イリヤは振り向いて言った。

「……シロウ。夜中は出歩かないようにして」
「えっと……」

 困惑する士郎を無視して、イリヤは今度はセイバーを見た。

「シロウを何が何でも守りなさい、セイバー。それと、凛と同盟を結んでいるなら、常に行動を共にする事。少なくとも、夜間は絶対に離れちゃ駄目よ」

 イリヤの発する言い知れぬ迫力に士郎とセイバーは只管頷く事しか出来なかった。

「……バイバイ」

 走り去るイリヤを二人は追い掛ける事が出来なかった。
 士郎は呟いた。

「……どうしたってんだ、イリヤ」

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