エピローグ「愛してる」

 また、冬が終わろうとしている。この街に多くの哀しみと傷痕を残した聖杯戦争が終結して一年余り。あの後も少々いざこざがあったものの、今ではすっかり落ち着きを取り戻している。
 学校に届けられた志望大学の合格通知を片手に意気揚々と帰宅した士郎は玄関に入った途端、目を丸くした。彼の前では特徴的な青い髪と赤い瞳の美丈夫が靴磨きに勤しんでいる。

「おう、おかえり」
「た、ただいま。久しぶりだな、ランサー」

 ランサーは慎重な手付きで靴を磨きながら「おう」と応えた。彼と会うのは実に一年ぶりだ。
 最終決戦の後、バゼットはランサーの受肉をキャスターに依頼した。突然の申し出に士郎達は目を瞠った。当の本人であるランサーも寝耳に水だったらしく、ギョッとしたような表情を浮かべていた。ところが、依頼されたキャスターは驚いた様子も見せずにアッサリと快諾した。
 彼女達は先を見据えていたのだ。冬木の聖杯は汚染されているとはいえ、願望器としての能力を備え、使い手次第で根源に到達する事も可能だ。それを解体するとなれば一筋縄ではいかない。ランサーはその時の為の備えだった。
 監督役であるシスター・カレンとの談合の後、解体を始めようとすると、当然のように時計塔から反対派の魔術師達がやって来た。その時、遠坂邸を舞台に熾烈な戦いが繰り広げられたらしい。ただし、武力的な意味では無く、政治的、言論的な戦いだったそうだ。
 一時は時計塔全体を巻き込んだ争いに発展し掛けたというのだから恐ろしい。まあ、その危機は前回の聖杯戦争の唯一の生き残りである男や遠坂家の大師父が動き、力ずくで八方を丸く収めたらしい。
 若干あやふやなのは士郎がその戦いに一切関わっていないからだ。高度な政治的やりとりを行う必要がある為、未熟者の出る幕は無かった。
 騒動が一段落した後、バゼットはランサーと共に世界各国を渡り歩き、封印指定を狩り続けているとの話だったが……。

「も、もしかして、俺が封印指定に認定されたとか……?」
「お前を狩りに来たなら、俺はとっくの昔にセイバーに追い出されてるだろうな」

 安堵すると共に懐かしい呼び名を聞いて思わず笑みが溢れる。

「どうした?」
「いや、セイバーって呼び方、ちょっと久しぶりだったから」
「ああ、なるほど。いや、俺にはこっちの呼び方の方がしっくり来るんだがな――――っと、これで最後だな」

 最後の一足を磨き終え、ランサーは立ち上がった。

「バゼットも居るのか?」
「いや、アイツはキャスターの所だ。ちょっと前に狩った封印指定の野郎に体を弄くられてたガキが居てな。時計塔で実験動物にするのも気に入らんから、奴に治療出来ないか相談に来たんだ」

 納得した。彼女ならきっと救ってくれるだろう。特に最近の彼女は子供に対してとても優しい。何故なら――――、

「でも、ビビッたぜ。まさか、奴にガキが出来るとは……」

 キャスターは赤ん坊を産んだ。聖杯の力を借り、受肉した際についでとばかりに色々と弄ったらしい。

「ああ、亜魅が生まれた時は本当に吃驚したな」

 もっとも、一番吃驚したのは葛木先生の変わり様の方だ。彼は亜魅を溺愛している。表情は相変わらず乏しいが、授業中に娘の事を生徒に聞かれた時、彼は娘が如何に可愛いかを力説した。あまりにも普段の彼とギャップが大き過ぎた為に誰もが言葉を失ったのを覚えている。
 まあ、少々目付きが悪いものの、亜魅は確かに可愛い。一度抱っこさせてもらった事があるけど、無邪気に笑う赤ん坊というのは実に愛らしい。

「最近、キャスターはうちに結構来るんだ。料理を本格的に習いたいって」
「花嫁修業ってか? ハハ、神代の魔女に教えを授けるなんざ、光栄の至りって奴じゃねーか?」
「考えてみると、確かに凄い事だよな……」

 談笑しながら廊下を歩き、居間に向うと、そこにはエプロン姿のイリヤの姿。
 本当なら数年の命だったらしい彼女もキャスターが調整を施し、人並みに生きられるようになった。今は彼女に触発されて、炊事や洗濯などの一般教養の勉強に励んでいる。
 俺達が入って来ると、イリヤは花が咲いたような笑顔を浮かべた。

「おかえりなさい、シロウ」
「ああ、ただいま」

 イリヤはキッチンに行き、お茶を持って来てくれた。なんだかとても楽しそうだ。

「ご機嫌だな、イリヤ」
「ええ、とってもご機嫌よ! だって――――」

 言い掛けて、イリヤは口を閉ざした。ニヤリと笑みを浮かべる。

「どうした?」
「ううん。なんでもないわ。それより、今日は合格発表の日よね? どうだった?」
「ああ、バッチリさ」

 合格の通知を見せると、イリヤは優しく微笑んだ。

「やったじゃない、シロウ。まあ、私は初めからシロウなら合格出来ると確信してたけどね」
「はは、ありがとう」

 合格通知を手にクルクル回りながら喜ぶイリヤに頬が綻ぶ。魔術を捨て、その時間を全て勉強に当てた甲斐があったというもの。
 本当は大学になど行かず、直ぐに就職しようと思っていた。一刻も早く一人前になって、アイツを安心させたかった。けど、この御時勢だ。最終学歴が高卒だと、後々苦労を掛けてしまいそうで、迷った挙句に大学への進学を決めた。

「イリヤ。サトリはどこに居る?」
「さっき、道場の掃除をしてたわよ」
「サンキュー」

 サトリとはセイバーの事。戦いを終えた後、セイバーは色々あって、元々の名前である日野悟を名乗る事にした。もっとも、サトルではやっぱり変なので、読みはサトリとした上でだ。
 以前の彼女は金髪碧眼という完全な西洋人顔だったから合わなかったけど、今の彼女は黒髪黒目。聊か、顔立ちが西洋人寄りだけど、嘗てよりは違和感が少ない。

「サトリ」

 一人、道場に向かい中に入ると、サトリは何だかボーっとした表情で床を雑巾で拭いていた。

「おーい、サトリ!」

 聞こえなかったのかと思い、少し声を大きくするがサトリは相変わらず上の空。
 最近、こういう事が多くなった。どうしたんだろう……。

「サトリ?」

 近寄って、肩に手を置くと、漸くサトリは士郎の存在に気が付いた。
 ハッとした表情であわあわしながら「おかえりなさい」と頭を下げる。

「ああ、ただいま」

 サトリは雑巾を絞り、バケツに戻すと立ち上がった。

「ご、ごめんね。もっと早く終わらせるつもりだったのに……。あ、お風呂沸かしてあるよ! 後、御飯も仕込みは終わってるから直ぐに出せるけど、どっちにする?」

 やっぱり、様子が少しおかしい。

「どうかした?」
「え?」
「何だか、最近ボーっとしてる事が多い気がする」

 士郎が問い掛けると、サトリは泣きそうな顔をした。

「ご、ごめんなさい」
「いや、別に責めてるわけじゃないんだ。ただ、心配で……」
「……ごめん」

 困った。謝って欲しいわけじゃないのに、サトリはすっかりネガティブモードだ。

「……とりあえず、御飯にしよう」
「うん。直ぐに仕度するね」

 せっせと後片付けをして道場を後にするサトリ。士郎は溜息を零すと額に手を当てながら彼女の背中を見送った。
 明らかに様子がおかしいのに、何が原因なのかが分からない。聞いても、ああして謝られてしまう。大学の合否が気になってるのかと思ったが、真っ先に聞いて来ないという事は違うという事だろうし……。

「一体、どうしたってんだ……」

 答が分からぬまま、時が過ぎていく。
 食事の間も時折サトリはボーっとしていた。

「おい、アイツどうしたんだ……?」

 ランサーもサトリの様子がおかしい事に気付いたらしくしきりに気にしている。

「それが、分からないんだ……」

 病気とも思えない。受肉したとは言え、サトリの体は常人を遥かに凌ぐスペックを誇る。よほど強力な毒でも喰らわない限り、風邪もひかないスーパーボディだ。

「悩みがあるのか聞いても『ごめんなさい』ばっかりだし」
「……何だろうな。お前さんに言い出し難い事なのか、それとも……」
「それとも?」
「お前に愛想を尽かしたとかかもな」

 からかうように言うランサーに士郎は表情を強張らせた。

「いや、悪い。それは無いよな。奴さんはお前にゾッコンだしよ」
「でも……、もしかしたら本当に……」
「それは無いわよ」

 味噌汁を啜りながら、イリヤが言った。相変わらずボーっとしているサトリを横目で見ながらイリヤは肩を竦める。

「それは断言してあげる。後は自分で推理してみなさい」
「何か知ってるなら教えてくれよ」
「駄目よ。サトリ自身が切り出すか、シロウが見抜くか、どちらにしても、私は教えない」
「なんでだよ!?」
「だって、これは夫婦の問題ってやつだもの」
「なんだよそれ……」

 結局、サトリの不調の原因は分からず仕舞いだった。
 そもそも、夫婦の問題と言われても、まだ結婚すらしてないのだが……。

 食事を終え、食器の後片付けを皆で協力し合って終わらせた後、士郎はお風呂に向った。その後ろにサトリも続く。初めて肌を重ねた日からの習慣で、士郎とサトリは一緒に風呂に入るようにしている。
 大抵の場合、その後は大人の時間となるのだが、ここ最近はサトリの不調もあって、ただ背中を流し合う程度だ。
 服を脱ぎ、背中を洗って貰いながら、士郎は思い切って切り出した。

「なあ、何があったんだよ」

 少し、キツイ物言いになってしまった。

「……あの、その」

 口篭るサトリに士郎は溜息を零す。

「どうして、教えてくれないんだよ……」
「それは……」

 分からない。サトリが何を考え、何を思っているのかがサッパリ分からない。
 愛想を尽かされたわけでは無いとイリヤは言っていたけど、ならどうして教えてくれないんだろう。己に言い難い悩み事とは一体……。
 考え込んでいると、ふと閃いた。

「……もしかして、帰りたいのか?」
「え?」

 そう考えると、納得がいく。つまり、ホームシックだ。
 サトリは元々この世界の住民じゃない。別の世界で死に、士郎が無理矢理サーヴァント・セイバーとして召喚した。彼女の故郷と同じ地名の場所はあったし、実際に二人で足を運んだ事もあるが、そこに彼女の生家は無かった。大学も同名のものはあったけど、彼女の在籍記録は無く、借りていたアパートも無かった。
 あの時、彼女はとても悲しそうにしていた。涙は見せなかったけど、とても辛そうな表情を浮かべていた。あれから三ヶ月が経過している。一時は立ち直ったように見えていたけど、実際は必死に抑え込んでいただけなのかもしれない。

「ごめんな……。俺がお前を召喚したから……」

 彼女を家に帰す事は出来ない。無理矢理連れて来た癖に無責任も甚だしい。己に出来る事は無意味な謝罪を繰り返す事ばかり……。

「ち、違うよ! そうじゃない!」

 サトリは慌てたように言った。
 そして、しばらく躊躇うように視線を彷徨わせた後、息を大きく吸い込んで言った。

「……あのね、俺――――」

 士郎はサトリの言葉に気を失いそうな程の衝撃を受けた。
 聞き間違えかと思った。だって、その言葉はあまりにも予想外だったから……。

「も、もう一度言ってくれないか?」
「う、うん」

 サトリは恥ずかしそうに顔を赤らめながら言った。

「……赤ちゃんが出来た」

 今度こそ、その単語の意味が脳に浸透し、全身にはちきれんばかりの衝撃を齎した。

「あ、赤ちゃん?」
「……うん」
「お、俺とサトリの赤ちゃん……?」
「ほ、他に居ないだろ」

 士郎はグイッと体を捻り、サトリの僅かに赤らんだ腹を見た。

「こ、ここに俺達の赤ちゃんが?」
「……うん。丁度、三ヶ月みたい。もう少ししたら、お腹が大きくなり始めるんだって、キャスターが教えてくれた」
「い、いつから気付いてたんだ!?」
「す、少し前。ちょっと、体調がおかしくてキャスターに診て貰ったの……そしたら」
「ど、どうして直ぐに教えてくれなかったんだよ!?」
「だ、だって……」

 じわりと涙を浮かべるサトリに士郎は慌てて謝った。

「ご、ごめん。でも、俺はずっと心配してたんだぞ……」
「……怖かったんだ」
「怖かった……?」

 思わず聞き返すと、サトリは泣きじゃくりながら言った。

「だって、俺は男だったんだよ? なのに、これからママになるんだ……。それが何だかとても悪い事をしてしまったみたいで……、それで……」
「サトリは……、俺との赤ん坊が出来て嫌なのか?」

 つい、意地悪な質問をしてしまった。サトリは必死に首を横に振り否定する。少し、ホッとした。

「士郎との赤ちゃんが出来た事は嬉しいよ。キャスターが俺の体も赤ん坊を産めるようにしてくれた事には感謝してるし、あの日、肌を重ねた事も後悔なんてしてない。ただ……」
「自信が無い?」

 小さく頷くサトリに士郎は微笑んだ。
 よく見れば、今のサトリの表情はあの時と同じだ。
 生家が無かった事に動揺し、自分の居場所を見失い掛けていたサトリ。涙も流さず、どこか虚ろな表情を浮かべていた。士郎は彼女がどこかに行ってしまう気がして、繋ぎ止めたくて、彼女と初めて肌を重ねた。
 事が終わった後、彼女はあろう事か今のような表情を浮かべて『本当に俺で良かったの?』と問い掛けて来た。

「サトリ」

 士郎は囁くように名前を呼び、彼女の頬に手を沿えた。

「俺、サトリが大好きだ」
「し、士郎……」
「俺はサトリとの子供が出来て嬉しい。確かに、俺も不安だ。正直、父親になるって実感がまだ湧いて来ない。でも、精一杯立派な父親になるつもりだ。だから、サトリも立派な母親になってくれ」
「でも……、俺は――――」
「俺が支える」

 士郎はキッパリと言った。

「サトリが立派な母親になれるように俺が支える。不安なら、俺を頼ってくれ」
「……士郎」

 サトリはお腹に手を当てて呟いた。

「俺はちゃんとしたママになれるかな?」
「なれるさ。それに、ならなきゃいけない。その為にいっぱい頑張らないとな」
「……そうだね。頑張らなきゃ。話し方とかも改めないとな……」
「それは別に……」
「駄目だよ。ママになるなら、子供が恥ずかい思いをしないようにしなきゃ……。服装とかももっと女らしくするよ。これから、もっとしっかり女にならなきゃいけないんだ」
「……サトリ」
「うん。なんだか、漸く覚悟を決められた気がするよ、色々」

 サトリは涙を拭い、微笑んだ。

「名前、考えないとね」
「そうだな……。俺もいっぱい考えて、頑張らないと……」
「ねえ、士郎」
「なんだ?」
「愛してる」
「ああ、俺も愛してる」

最終話「終焉」

「こうなったら、方法は一つしかないな……」

 士郎が一歩前に足を踏み出す。不吉な予感が走り、セイバーが手を伸ばすが、彼はその手を取らずに更に一歩前進し、呟くように言った。

「俺が固有結界でサーヴァント達を纏めて隔離する。その間に二人で臓硯を頼む」
「な、何を言ってるんだ!? そんな真似、させられるわけがない!」
「他に方法が無いんだ! このままじゃ、逃げる事も出来ない! だったら――――」
「犠牲になるなんて許さない!」

 瞳に涙を溜めて叫ぶセイバー。そんな“彼女”に士郎は口付けをした。

「犠牲になるつもりは無い。俺は絶対に生き延びる。信じてくれ」

 その言い方は卑怯だ。愛しているから信じたい。愛しているから止めたい。源を同じにしながら、相反する二つの感情の板挟みになり、言葉が出て来ない。ただ、涙だけが止め処なく溢れ出す。
 士郎は静かに丘を降りて来るサーヴァント達を見据え、祝詞を唱え始める。

 ――――体は剣で出来ている。

 生き延びる。何があろうと、絶対にセイバーを悲しませない。腕が捥げようと、目が潰れようと、背骨が折れようと、脳が潰されようと、心臓を貫かれようと、必ず生き延びる。
 不可能などと諦めを口にする事は許されない。理想を捨てた以上、この上、セイバーに対する愛まで捨てたら、それこそ終わりだ。何の価値も持たない骸と成り果て、ただ彼女に絶望を背負わせてしまう。

 ――――血潮は鉄で心は硝子。

 祝詞を唱え切るまでに少し時間が掛る。足止めをしようと、可能な限り多くの剣を投影し、射出する。
 剣の投擲に合わせ、凜が宝石剣を振るう。士郎の剣は弾かれ、往なされ、躱されたが、彼女が放った七色の極光は彼等の足を一時的に止めさせた。
 この隙を逃すわけにはいかない。

 ――――幾たびの戦場を越えて不敗。ただ一度の敗走もなく、ただ一度の勝利もなし。

 一瞬の停滞の後、再び時は動き出す。セイバーが前に躍り出た。涙が宙を舞う。苦悩と嘆きを叫び声に変え、剣を片手に走り出す。

「リン! わたしに構わず宝石剣を振るえ!」

 凜は迷わなかった。宝石剣が放つ光は凜の魔力を強引に攻撃力に変換したものであり、一見すると宝具の真名解放のようでいて、その実、魔術の範疇内だ。汚染の影響か、アルトリアは対魔力が劣化している為に宝石剣が通用したが、セイバーの対魔力ならば完全に無効化する事が出来る。
 エクスカリバーの真名解放にも匹敵する極光斬撃の乱れ撃ち。そんな悪夢のような波状攻撃を敵は易々と越えてくる。ただ、破壊力に優れた武器があれば倒せるなら彼等は英雄になどなっていない。
 絶望的な状況、圧倒的な戦力差、それらを覆し、勝利して来たのが彼等なのだ。だが――――、

「ハァァァアアアアアア!!」

 今の彼等は聖杯による汚染や臓硯による令呪の効果でステータスこそ上昇している反面、戦闘技術が大幅に劣化している。
 凜の波状攻撃を乗り越えた時点で既に奇跡。その先で構える最優の力を万全に発揮したセイバーを打倒する余力など残っていない。
 とは言え、多勢に無勢。アルトリア、ライダー、アサシン、バーサーカーの四騎を相手にセイバーは足止めがやっとの状況。だが、それで十分……。

 ――――担い手が立つは剣の丘。唯一人の為に鉄を鍛つ。

 彼女が作ってくれた時間を詠唱と追憶に浪費する。
 彼女との出会いの日から今に至るまでの輝きに満ちた日々を思い、涙を零す。
 ああ、己は彼女を愛している。彼女も己を愛している。その事実が奇跡のようだ。
 生きたい。彼女と共に在りたい。愛してあげたい。愛されたい。一分一秒を共に分かち合いたい。
 だけど、その祈りは叶わない。いくら頑張っても出来ない事はある。サーヴァント達を固有結界内に隔離したとしても、恐らくもって一分足らずだ。その先に待ち受けるのは避けようの無い死。

 ――――この心に住まうは一人。

 愛している。心の底から愛している。
 あらゆる幸福を彼女に与えたい。あらゆる不幸を彼女から取り払いたい。
 生き延びなければならない。
 生き延びる事は出来ない。
 彼女を絶望させたくない。
 彼女を絶望させてしまう。

 ――――この体はきっと……。

 ああ、この苦悩をどうしたら……――――、

「――――安心しな。俺が守ってやるよ」

 ――――……無限の剣で出来ていた。

 瞬間、士郎を中心に大地が燃え上がる。地面を走る紅蓮の炎は瞬く間に凜とセイバー、そして、臓硯以外の全てを悉く呑み込んだ。
 赤々と燃え盛る炎が視界を覆い、暗黒の光が満ちる大空洞を“赤”で塗り潰したかと思うと、次の瞬間、理性を無くした者達ですら息を呑む光景が忽然と視界に広がった。
 それは、一言でいうならば剣の墓場。地平線には燃え盛る紅蓮の炎。見上げた先には彼女の衣を思わせる蒼穹。視線を下げた先の草一本生えていない見果てぬ荒野には、担い手の無い剣が生前と無数に突き刺さっている。
 大地に連なる刃は全て名剣揃い。アーチャーの記憶から引き出した古今東西の剣が並んでいる。
 無限とも言える武具の投影。まるで畑のように夥しい程の武器が立ち並ぶその光景は圧巻であり、数少ない理性ある者は称賛の笑みを零す。
 ああ、これは正に“剣戟の極致”だ。なんと寂しく、なんと落ち着く場所だろう。

「……凄ェ」

 士郎の前に立ち、彼を守るように槍を構えながら、彼は感動に打ち震えている。
 これほどの光景を見せられて、感銘を受けない者など居ない。数々の英雄がその伝説を共に作り上げた相棒達。ここには数多くの伝説があり、同時に何も無い。ここにあるモノは全てが偽物であり、全てがいずれ英雄となる男を支える為に存在している。

「参ったな……。思わず、惜しんじまいそうだ」

 だが、彼等が伝説となる事は無い。英雄となれる筈の男は愛に生きる決意を固めた。
 それを罪とは思わない。むしろ、一人の女の為に自らを変え、命を張り、運命を捻じ曲げようと戦う少年を彼は好ましく思う。

「ラ、ランサー……」

 士郎は驚きに目を見開く。彼はついさっきまで、バーサーカーと戦っていた筈だ。なのに、どうしてここに居るのだろう?
 彼が問うと、ランサーは口元に笑みを浮かべた。

「ランサーのサーヴァントは敏捷さがウリなんだよ。なあ、シロウ。お前はもうちょっと生きろ。お前達の未来は俺の槍が切り拓いてやる」

 ランサーは魔槍を手に歩き出す。ラインを通じて、己が主に謝罪する。
 彼女を勝たせると言った約束を反故にしてしまった事だけが心残りだった。

『……構いませんよ。これまで、散々窮屈な思いをさせてしまいましたからね。最後に気が済むまで大暴れしなさい』

 ランサーは唇の端が吊り上るのを堪え切れなかった。
 なんと良い女なのだろう。なんと、良い主なのだろう。

『感謝するで、バゼット。……あばよ』

 彼の別れの言葉に対する返事は令呪だった。膨大な魔力が彼を包み込む。

「そんじゃ、いっちょ、暴れ回るとしようか!」

 ◆

 士郎の固有結界が桜の前に立ちはだかっていた障害を根こそぎ掃除してくれた。
 セイバーが走り出す。その後ろを凜が追う。臓硯は焦燥に駆られ、影の巨人を次々に繰り出す。けれど、それらは悉く凜に一層され、瞬く間にセイバーは臓硯の前に辿り着いた。
 容赦無く、セイバーは剣を振り上げる。この元凶さえ始末すれば、全てが終わる。

「や、やめろ!」

 桜の口から臓硯の悲鳴が響く。直後、鮮血が舞った。
 斜めに切り裂かれた自らの肉体を見下ろし、臓硯は絶叫した。

「き、貴様!!」

 地面に倒れ伏しながらもしぶとく逃げ出そうとする臓硯の眼前にセイバーはエクスカリバーを突き立てた。
 呼吸が荒くなる。殺さなければならない。それが分かっているのに、桜の顔が恐怖に歪むのを見て、躊躇ってしまった。
 もう、随分と昔の事のような気がするが、彼女と共に食事をした記憶が甦る。あの光景は士郎にとっての日常だった。彼の大切な宝物だった。それを今から壊そうとしている。その罪深さにうろたえ、致命的な隙を見せてしまった。

「――――馬鹿が! 来い、アルトリア! 儂を守れ!」

 光が走り、セイバーは吹き飛ばされた。
 アルトリアの出現にセイバーは言葉を失う。最悪の事態だ。折角、士郎が作ってくれたチャンスを無駄にしてしまった。彼女と戦えば、間違いなくタイムリミットを迎えてしまう。士郎が死に、臓硯は配下を集合させる。
 己の愚かさで全てを台無しにしてしまった。その事実に絶望し、膝を折るセイバー。そんな彼女の隣に凜が立つ。額から冷たい汗を垂らしながら、彼女は目の前の絶望を見据え、尚も戦おうと宝石剣を振り上げる。
 そして――――、

「――――あがっ、がぁ?」

 信じられない光景が目の前に広がった。
 アルトリアが己が聖剣で主である筈の臓硯の心臓を貫いたのだ。驚愕に目を剥く臓硯にアルトリアは静かに呟く。

「……サクラの体で好き勝手な真似をするな、下郎」
「ヒィ……、ヒギィィィイイイ!?」

 まるで蟲の囀りのような悲鳴を上げ、臓硯……、桜の体から何かが飛び出した。
 それをアルトリアは平然と掴み取る。男性の陰茎を思わせる姿をした蟲が必死にもがいている。

「き、貴様! マスターである儂を裏切るつもりか!?」
「……笑わせるな。貴様を主などと思った事は一度も無い。だが、一つだけ感謝してやろう」

 アルトリアは嗤った。

「貴様の愚かさに感謝してやる。貴様が命令を変更してくれたおかげで再び再現した人格を取り戻せた。もう幾許も無く消えるだろうが、その前に貴様をこの世から抹消してやる」
「は、放せ! 何を考えておるのだ!? 貴様は聖杯が欲しかった筈だろう!?」
「ああ、聖杯は欲しいさ。だが、私は止めたのだ」
「な、何を言って……」
「人の心を軽視する事を止めたのだ! それが我がブリテンの滅びに繋がったのだからな! その事を私に教えてくれたのはシンジとサクラだ! その二人の為ならば、私は聖杯を諦める!」
「ば、馬鹿を言うな! 桜も慎二も既に死んでおるのだぞ!? あの二人を思うならば尚の事、聖杯を取り、蘇生させてやるべきだろう!」
「馬鹿は貴様だ、臓硯。あの二人は元々未来を生きようなどと思っていなかった。ただ……、今を生き、今に死のうとしていた。彼等が望んだ終わりをこれ以上邪魔など――――」

 その時だった。かすかな声が皆の耳に届いた。

「……アル、トリア」

 それは桜の声だった。臓硯が桜から逃げ出した事で再び意識を取り戻したのだ。
 既に虫の息の彼女に臓硯はコレ幸いとばかりに叫んだ。

「桜! アルトリアに自害を命じよ!」
「臓硯……、貴様!」

 アルトリアが桜の声に意識を取られた隙を突き逃げ出した臓硯が桜に命令を下す。
 激昂するアルトリアに臓硯は嗤う。そして――――、

「アルトリアを……」

 魂にまで刻み込まれた臓硯への服従。慎二亡き今、彼女に対する命令権は臓硯に戻っていた。令呪を発動しようとする桜にアルトリアが静止を呼び掛ける。
 その直後、再びありえない声が響いた。

「……やめろ、桜」

 誰もが息を呑んだ。そこにはアーチャーに魂を喰わせた筈の慎二が居た。
 彼の肉体に残留していた僅かばかりの魂が彼の口を動かしている。彼を運んで来たキャスターが彼を桜の隣に横たわらせる。

「僕以外の命令を聞くな……。そう、言っただろ?」
「……おにい、ちゃん」

 桜は血の涙を流しながら、必死に手を伸ばそうとする。けれど、上手くいかない。顔を歪める桜。その手を温かい手が取った。凜は桜の手を取り、慎二の頬に宛がう。

「……お兄……ちゃん」
「桜……。悪かったな。俺……、負けちゃったよ」

 力無く微笑む慎二に桜は首を僅かに振る。

「おにい、ちゃん。わた、しは――――」
「ああ、分かってる。もう、全部分かってる。だから、無理をするな」
「……わた、し……、わたしは……」

 桜は必死に何かを言おうとしている。けれど、既に意識が遠退き始めているらしく、声が徐々に掠れ始めている。
 そんな彼女に臓硯は喚く。

「何をしている、桜! 早く、令呪を!」
「……黙りなさい」

 凜は憎悪に満ちた瞳を臓硯に向け、宝石剣を乱暴に振るった。
 最後は悲鳴すら零す暇無く、数百年を生きた妖怪は死んだ。
 そして――――、

「おに……ちゃん、わ……た、し……、おに……ちゃんの……事が……だい、すき……だよ」
「……俺もだよ。誰よりも愛してるよ、桜」
「……うれ、し……い……――――」

 僅かな間を置いて、桜はゆっくりと息を引き取った。健やかな笑顔のまま……。
 直後、虚空から士郎達が姿を現した。傷だらけながらも生きている彼にセイバーが駆け寄る。その隣で彼以上にボロボロなランサーをいつからか入り口に佇んでいたバゼットが寄り添う。
 バーサーカーは静かに佇み、ライダーはアサシンを拘束している。どうやら、桜が死亡した事で令呪の効果が切れたらしい。ライダーはアサシンの心臓に釘剣を突き立て殺した後、よろよろと桜の下に向かった。
 彼女の後を追うように士郎もセイバーに寄り添いながら歩く。
 ライダーは桜の亡骸の傍に座り込むと彼女を抱き締め静かに微笑んだ。

「……思いは遂げられたようですね、サクラ」

 そう言って、彼女は光となって消えた。気がつくと、バーサーカーの姿も無い。
 マスター無き後、彼等を現世に縛り付ける鎖は無く、彼等自身もまた、留まる理由を失い去って行ったのだ。

「……慎二」

 士郎が呼び掛けると、慎二は力無く微笑んだ。

「……謝らないぜ」

 やりたいようにやった。だから、誰にも許してもらおうとは思わない。
 慎二は正義の味方を目指していた少年に呟く。

「柳洞寺の本殿に藤村と美綴を寝かせてある。軽い暗示を掛けただけだから、夜明けには目を覚ます筈だ。ライダーが隠匿の為の結界を張ってたけど、それもアイツが消えた時点で消滅してる筈だ」
「美綴も生きているのか!?」
「……最低最悪ここに極まった感じだよ。いっぱい殺した癖に知り合いだからって理由で殺せなかった。ほんと、醜悪極まりないな」

 心底吐き気がする。そう、慎二は表情を歪めて言った。

「……そろそろ時間だな」

 慎二は呟いた。

「時間をくれた事に感謝する」

 視線をキャスターに向け、ゆっくりと瞼を閉ざす。

「いいの?」
「ああ、もういい。悪党として、惨たらしく死ぬべきなんだろうけど、衛宮に余計なトラウマを持たせたくないしな」
「……馬鹿言え」

 士郎は慎二の軽口に溜息を零す。

「十分トラウマを植え付けられたよ」
「……ハハ、悪いな」

 慎二は小さく息を吐くと、再び目を開き、士郎を見た。

「あばよ、衛宮」
「……ああ、あばよ、慎二」

 再び目を閉ざした慎二が再び目を開く事は二度と無かった。

「さて、私も逝くとするか……」
「アルトリア?」

 士郎は思わず目を瞠った。彼女の体もまた、消えようとしている。

「色々と思う事はあるが……、シンジとサクラの死出の旅路を穢すわけにもいかん。潔く消えるとするさ。さらばだ」

 何かを言う暇さえ与えずに消えた彼女にセイバーは唇を噛み締めた。
 士郎はそんな彼女の手を取り、キャスターに近寄る。

「さあ、終わらせよう」

 彼は全ての因縁の始まりである暗黒の柱を見上げ呟いた。

「……ええ、終わらせましょう」

 キャスターが大聖杯に手を伸ばし、作業を開始する。それを後ろからぼんやりと眺めながら、士郎はセイバーの肩を抱いた。

「……終わったな」
「……うん。終わったね」

 そして、時は流れていく――――……。

第三十七話「分水嶺」

 奇妙な気分だ。今のわたしには2つの記憶が混在している。一方はアルトリアの記憶。もう一方はサトルの記憶。どちらもわたしだという自覚があり、それが一層奇怪だ。
 剣の振り方と同じくらい、パソコンの使い方を理解している。剣の稽古をしたわたしとクリケットに興じたわたしが居る。どちらもわたしだ。
 知識の上ではわたしが日野悟である事を理解出来ている。アルトリアの記憶は令呪が引き出したものに過ぎない。けれど、今のわたしの人格はどちらかと言うと、アルトリアに近い。戦う為にアルトリアの人格を一時的に上書きしたのか、それとも……。
 少なくとも、バーサーカーと戦った時とは明らかに異なる現象が起きている。

「……だが、今は目の前の敵に集中すべき時!」

 エクスカリバーを抜き放つわたしに対し、”本物”は興味深そうに手を顎に添えて微笑んだ。

「……面白いな」

 アルトリアは言った。

「その覇気……、その眼光……、さっきまでとは明らかに別人だ。さっきの小僧の令呪がお前を変えたらしいな。今のお前はどっちだ?」

 質問の意図は分かる。さて、どうしたものか……。
 ただ倒すだけで良いのなら、こんな無駄口を叩き隙を見せている相手、即座に切り捨てる所だが、この戦いは持久戦だ。下手に倒してしまうと、サクラの下に魂が行ってしまう。そうなると、リンはサクラの他にも再召喚されたサーヴァントを相手にしなければならなくなる。再召喚に掛る時間は不明だが、わたしが駆けつける前にリンが殺されてしまう可能性が極めて高い。
 今のリンの戦闘能力は並のサーヴァントを凌駕する域に達しているが、サクラの相手をしながら再召喚されたサーヴァントの相手もするとなると荷が重過ぎる。故にわたし達は倒さず倒されず、リンが決着をつけるまで各々の敵を引き止めておかなければならない
 しかし、一度戦いが始まってしまえばいずれは決着がついてしまう。下手に手加減しようものなら、屍を晒す事になるのは此方の方だ。ならば、この無駄口に乗ってやるのも悪くない。なるべく、話を長引かせれば、それだけ作戦の成功率が上がる。
 わたし達が確りと各々の役割を果たせば、リンが必ず全てを終わらせてくれる筈だ。

「……さて、正直に白状すると、わたし自身、分からない」
「ほう……」

 アルトリアは興味を示し、わたしの全身を舐めるように見据える。

「今のわたしには二つの記憶が混在している。サトルなのか、アルトリアなのか、自分でも非常に曖昧だ。そうだな……、お前から見て、わたしはどう映る?」
「分からんな」

 アルトリアの即答に聊か驚いた。彼女の口振りや今のわたし自身の人格を省みれば、アルトリアに近いと言われるだろうと予測していたのだが、分からないと返されるとは予想外だ。

「分からないとは?」
「言葉通りだ。だが、敢えて分からないなりに答えるとするなら……、“どちらでも無い”だ」
「……どういう意味だ?」
「以前、円蔵山で会った時のお前に近いかもしれんな。だが、私がアーチャーと切り結んだ時に相見えた貴様とは明らかに違う」

 アルトリアは言った。

「以前のお前からは男を感じた。生前の私……、アルトリアも男であろうとし続けていた。つまり、以前のお前もアルトリアも形や性別はどうあれ、男であろうとしていた。だが、今のお前は明らかに“女”だ。そうだな……、言ってみれば女であるまま王となったアルトリア。それが今のお前だろう」
「……意味が分からん」

 確かに、生前のアルトリアは王として君臨する上で女である事を捨てた。だが、決して自らが女である事実が消えたわけでも、まして、忘れていたわけでも無い。聖剣を手にした時点で肉体は成長を止めたが、それなりに膨らんだ乳房や陰茎の無い股を見れば嫌でも自分が女である事実を思い知らされた。
 私がそう言うと、アルトリアは呆れたように笑った。

「そうじゃない。少なくとも、生前のアルトリアは女である事を常に隠していた。忌避していたとも言える。だが、今のお前は女である事を隠していない」
「……言葉の意図が掴めん。貴様は結局、何が言いたいんだ?」
「仮に……、今のお前がアルトリアとしての自覚を維持しているなら、問いたいのだ」

 そう言って、アルトリアは僅かに表情を翳らせた。その表情には大きな違和感があった。

「お前はあの小僧を好いているのだろう?」
「……ああ」

 問いの意図は不明だが、それだけは断言出来る。この思いだけは消える事無く心に根付いている。

「男を恋い慕うなど、生前は考えられなかった筈だ。つまり、今のお前は完全に女である事を受け入れいてるわけだ」
「……それは」

 なんとも答え難い。サトルとしても、アルトリアとしても、実に答え難い。
 だが、否定も出来ない。元より、自覚はあったからだ。シロウを愛してしまったその時から、彼に愛されたいと思ったその時から、女である事を受け入れ――――いや、女でありたいと願うようになった。
 女である事を受け入れたアルトリア。そんな奇妙な人格が芽生えた原因はそこにあるのかもしれない。これは恐らく、シロウに愛してもらえる女でありたいと願うサトルの心と令呪によって復元されたアルトリアの人格が合わさった結果なのだろう。

「私が問いたい事は一つだ。今のお前なら、どうやって国を統治した?」

 その問いに息を呑んだ。アルトリアに感じていた違和感の正体が分かったのだ。

「その質問に答える前に此方も問いたい」
「なんだ?」
「――――今のお前はどっちだ?」

 私の問いにアルトリアは薄く微笑んだ。

「……さあな」

 その小さな呟きは殆ど答えも同然だった。

「私の質問に答えるのが先だ。さあ、今の貴様なら、どう国を治めた?」
「……変わらないだろうな」
「変わらない?」

 アルトリアが片眉を上げる。

「当時のブリテンを統治するとなれば、あれ以上の政策は無かった」
「だが、滅びた……」

 アルトリアの言葉に頷くほか無い。どんなに最善策を打ち続けても、結果が伴わなければ意味が無い。

「本当に何も変わらないのか?」

 アルトリアはまるで縋るように問う。

「――――いや、変わらないというのは嘘だな」

 少し考えてからわたしは言った。

「少なくとも、今のわたしにあのような統治は出来ない。むしろ、より悪しき方向へ国を導く暗君となるのが関の山だ」
「……つまり?」
「今のわたしはシロウを愛してしまっている。その思いは例え彼が傍に居なくとも変わらない。一つ一つの選択や思考に彼の顔が浮かんでしまうだろう。そうなると、最善と分かっていても打てない手が出て来てしまうだろうし、悪手と分かっていても選んでしまう事があるだろう」
「なるほど……。お前はそう考えるのだな」

 どこか残念そうにアルトリアは呟いた。

「……お前は違うのか?」
「ああ、違う」

 即答するアルトリアの表情には暗い影があった。

「こうなる以前、私はあの滅びを避けようの無いものだと考えていた。出来る限りの事はしたし、あの結末を回避するとなれば、それこそ“聖杯”という人智を超越した力に頼る他無いと思っていた」
「それが間違いだったと……?」
「……『アーサー王は、人の気持ちが分からない』」

 アルトリアの言葉に身震いした。

「覚えてるだろう? 円卓を去った騎士が去り際に口にした言葉だ。あれが答えだったのではないか?」
「……何が言いたいんだ」
「分かるだろう? あの滅びは私が人の気持ちを軽視したが故に起きたものだ。ランスロットの事も、モードレッドの事も、義姉上の事も……、全て私が愛を知らぬが故に起きた悲劇だ」

 その言葉を否定は出来ない。だが、肯定も出来ない。

「確かに、人の気持ちを軽視した事が悲劇に繋がった。だが、人の気持ちを重視すれば、それだけ選択の余地が狭まる。ある程度の悲劇は食い止められたかもしれんが、新たな悲劇が生まれていただろうし、滅びを回避する事も出来なかっただろう」
「……私はそうは思わない」

 アルトリアは言った。

「私の施政が上手くいっていたのは常にディナダン卿が円卓の結束を固め続けてくれていたおかげだ。彼が居なければ、あんな施政……」
「それは……」
「彼が居なくなった途端、全てが崩壊した。だが、その責は誰にある? 死んだディナダン卿が悪いのか? それとも、彼を殺したアグラヴェインやモードレッドが悪いのか? 違うだろ……。彼が居なくなっただけで立ち行かなくなるような統治の仕方をしていた私にこそ、責があったのだ」

 アルトリアの表情は哀しみと怒りに歪んでいる。

「そもそも、あれが最善だったなどとどうして言える? 義父上やマーリンに騎士としての在り方や王としての在り方は学んだが、私は人としての在り方を学び終える前に王となってしまった。私はかの騎士が告げた通り、人の気持ちに関してはあまりに無知だった。そんな者の施策が最善だったなどと……」
「……それは」

 言い返す事が出来ない。確かに、アーサー王の統治は最善だった。だが、それは騎士として、そして、王としての最善。人としての最善では無かった。
 民を思いながら、アーサー王は人を軽んじていた。それが滅びに繋がった。そうした彼女の言を否定する事が出来ない。

「愛を知った今のお前なら答えを示してくれるのではないかと期待したのだが……、見込み違いだったようだな」

 アルトリアは溜息を零すと同時にエクスカリバーを掲げた。

「……戦うのか?」
「今の私は慎二と桜のサーヴァントだからな」
「……彼等はこの世に災厄を招こうとしている。それを承知の上で彼等を守るのか?」

 わたしの問いにアルトリアはクスリと微笑んだ。

「今の私はある意味、お前と同じ状態と言えるかもしれん。二度に渡る汚染の影響で本来の人格は完全に破損してしまっているのだ。今の私は令呪によって一時的に復元された人格に過ぎない。もっとも、以前とは違い記憶に障害は無いがな。ちなみに、今の私の人格そのものは聖杯に一度汚染された後のものだ。原因は桜が本来の私を知らず、一度汚染された後の私を本来の私だと思い込み、令呪を発動したからだろうな」

 アルトリアは言った。

「嘗て、王だった者として、ブリテンの滅びを憂う気持ちは今もある。故にお前に問い掛けた。湧き上がる衝動を抑えつけ、愛を知ったお前にブリテンを救えたか否かの可能性の有無を……。結果は期待外れだったがな」

 アルトリアは嗤う。

「もう、貴様と話す事は何も無い。湧き上がる衝動を抑えつける必要も無い。最後だ。我が写し身よ、存分に死合うと……――――」

 瞬間、アルトリアの目が大きく見開かれた。

「馬鹿な……」

 アルトリアは虚空を見上げ、呟いた。

「……ぞう、けん」

 光が溢れ、アルトリアの姿が掻き消えた。何が起きたのか直ぐに察しがつき、わたしは走り出した。あの光は令呪の強制召喚によるもの。リンが危ない。
 未だ、アルトリアが健在な為か、令呪の効果は継続している。けど、あまり長続きするとも思えない。今、この状況でサトルに戻るのはまずい。アルトリアがサクラと合流したとなると尚更……。

「セイバー」

 洞窟内を疾走していると横たわるシンジとシロウの姿があった。予想していたアーチャーの姿は無い。
 手を振るシロウの傍に駆け寄ると、シンジが僅かに呼吸をしている事に気がついた。

「そっちも終わったみたいだな。アーチャーは倒した。慎二はアーチャーに自分の魂を喰わせるなんて無茶をしたんだけど、辛うじてまだ生きてるみたいなんだ。今のコイツには戦う術も残って無いわけだし、後で治療をしてやりたいんだけど……」
「……すまないシロウ、話は後だ。アルトリアがサクラの下に行ってしまった。去り際にゾウケンの名を告げた事も気になる。私はこれからリンの援護に向う。君はどうする?」
「……行く。慎二を治療するにはどっちにしても遠坂かキャスターの助けが必要だ。なら、慎二には悪いがここで待っていてもらう」
「分かった。じゃあ、行こう」

 再び、止めていた足を動かし走り出す。一刻も早く、リンの下に辿り着かなければならない。彼女こそがこの戦いの切り札なのだ。そうじゃなくても、彼女を死なせるわけにはいかない。
 無心に走り続け、そして、辿り着いた。全ての始まりにして終わりの場所に……。

「これは……」

 最初に目に映り込んだのは七色の光。リンは未だ健在のまま戦っていた。
 その手に握るは宝石剣・ゼルレッチ。遠坂家の先祖が師である魔法使いに出された課題であり、その力は平行世界の己の魔力を引き出す第二魔法。
 イリヤがリンに持ち掛けた提案とは正にコレの事だったのだ。イリヤの意識に士郎がダイブし、イリヤの祖であるユスティーツァの記憶から魔法使いキシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグの持つ宝石剣を解析し、投影を行った。出発がギリギリとなったのも、この剣を投影するのに時間が掛かった為だ。
 絶大な魔力を誇るリンの渾身の一撃が迫り来る暗黒の巨人を打ち払う。見上げる程巨大な人型はその内に並の魔術師の百年分の魔力が内包されている。サーヴァントの宝具にすら匹敵するソレをリンは悉く粉砕して行く。その眩い輝きはまるでエクスカリバーの光のようだ。
 けれど、彼女は攻め切れずにいる。それ以上の接近を丘の上の騎士が阻んでいる。サクラを守るようにアルトリアが立っていた。

「リン!」

 わたしが呼び掛けると、リンは舌を打ち後退した。合流すると、彼女は言った。

「桜が臓硯に意識を乗っ取られたわ。一気に叩き潰してやろうと思ったのに、あの爺、とんでもない切り札を用意してた……」

 彼女の言葉につられ、暗い光を背に佇むサクラを見上げた。彼女はいやらしい笑みを浮かべ、右腕を掲げている。そこに信じ難いものがあった。

「あ、あれは……」

 彼女の右腕には幾つ者赤い斑点が見えた。その正体が何なのか、直ぐに思い至り、戦慄した。

「……これまでの聖杯戦争で脱落したマスター達が残した令呪よ。本来、監督役が回収し保管している筈のもの……。恐らく、十年前に死んだ綺礼の父親から奪い取ったんでしょうね」

 あるいは言峰綺礼が璃正神父から奪ったものを更に彼の死体から奪ったのかもしれない。けど、そんなのは瑣末な問題だ。何よりまずいのはそれが今、敵の……、マキリ・ゾォルケンの手にある事。
 ゾォルケンは令呪を掲げ、高らかと叫んだ。

「令呪をもって命じる。残るサーヴァント達よ、我が下へ集え!」

 その叫びと共に次々にサーヴァント達が出現する。そして――――、

「重ねて命ずる。まずは邪魔が入る前にこの童共を全力をもって、殺すのだ!」

 瞬間、濃厚な殺意が大空洞を覆い尽くした。殺意を剥き出しにしたサーヴァント達の背後では影の巨人が次々に柱より生み出されている。
 あまりにも分が悪過ぎる。この状況に陥らない為の策だったのに、これでは逃げる事も儘ならない。
 万事休す。かくなる上は二人を逃がす為に囮になって――――、

「こうなったら、方法は一つしかないな……」

 士郎が一歩前に出て呟いた。

「シ、シロウ……?」
「俺が固有結界でサーヴァント達を纏めて隔離する」

第三十六話「Answer」

 光が夜空に昇っていく。俺は浴衣のまま草むらで寝転がる親父を叱り付けた。すると、親父はこっちに来いと手を振った。一緒に寝転がれと隣の草むらをポンポン叩く。浴衣が汚れるから嫌だと言うと、親父は笑った。

「また、洗えばいいじゃないか」

 親父の言葉にカチンと来た。この浴衣は買ったばかりなのだ。それに、浴衣は洗うのがとても大変なのだ。
 俺の言葉に親父はまた笑った。クリーニングに出せばいい、などとのたまう親父に蹴りをいれたくなる。そんな無駄遣いを許すわけにはいかない。
 親父は頑固に立ち見を続ける俺を微笑ましげに見つめる。むず痒くなって来て、唇を尖らせていると親父は不意に俺の名を呼んだ。

「士郎……。本当に魔術を習いたいのなら、一つだけ、絶対に覚えておかなきゃいけない事があるんだ。何だか分かるかい?」

 いきなりだった。今まで、魔術を教えてくれと幾らせがんでも頑なに拒否して来た親父がこんな事を言い出すなんて、天変地異の前触れかと思った程だ。
 これはきっと試練なのだ。ちゃんとした正解を言わなきゃ、折角のチャンスが水の泡になってしまう。でも、絶対に覚えておかなきゃいけない事って何だろう。
 眉間に皺を寄せて必死に考え込む俺を親父は静かに見つめている。

「……見つからない事?」
「どうして、そう思うんだい?」
「だって……、魔術は人に気軽に教えちゃいけないものだって、爺さんが言ってた事じゃないか」
「言ったね。でも、不正解」
「……じゃあ、魔術を教えてくれないの?」
「……まあ、完全に不正解ってわけでも無いから、ちゃんと教えてあげるよ」
「本当!?」
「ああ……。だからこそ、これから言う事をちゃんと覚えておくんだ」
「う、うん……」

 親父は言った。

「魔術は争いを呼び込むものだ。だから、人前では使ってはいけないし、制御が難しいものだから、鍛錬を怠ってもいけない。けど、一番大事な事は――――」

 親父は上半身を起き上がらせると、花火を見つめながら言った。

「魔術は自分の為じゃなく、他人の為だけに使うという事だよ」

 ◆

 親父から教わった事は多い。でも、俺はその多くを棄て去る決意を固めた。理想を捨て、ただ一人の為だけに生きようとしている。
 セイバーの為だけに生きる。その為に不要なら、何もかも捨てる。
 親父は言った。魔術は争いを呼び込むものだと……。セイバーを幸せにするなら、争いを遠ざけなければならない。だから、俺はこの戦いが終わったら、魔術を捨てようとさえ考えている。
 多分、親父は笑って許してくれる気がする。でも、同時に寂しがると思う。

「――――親父」

 折角、受け継がせてもらったのに、とんだ親不孝者だけど、それでも――――。

「俺が決めた俺の生き様を見ててくれ!」

 立ちはだかる敵に向って吼える。慎二の魂と融合したアーチャーがその両手に干将・莫耶を投影する。
 慎二が何をしたのか完全に理解出来たわけじゃない。唯一つ分かる事はアイツが後戻りの出来ない決断を下した事実のみ。

「慎二!」
「衛宮!」

 刃と刃がぶつかり合う。干将と莫耶がぶつかり合う。莫耶と干将がぶつかり合う。
 喧嘩なら今までも幾度か経験がある。でも、こんな風に命を奪い合う事になるなんて思ってもみなかった。

「慎二!」

 この戦いは他人の為じゃない。俺自身の為の戦いだ。
 他人の為だけに使えと教えられた魔術を自分の為に使っている。一番大事だと言われた教えを反故にしている。

「慎二!」

 セイバーと一緒に居たい。ただ、それだけの為に俺は親友を殺す。

「慎二!」

 幾度かの攻防で分かった。“再召喚”による影響か、あるいは慎二との融合が原因なのかは分からないが、アーチャーの戦闘能力は明らかに低下している。投影の精度こそ、此方よりも一枚も二枚も上手だが、動きが明らかに鈍い。

「――――ック」

 苦悶の声は慎二のものだ。如何に武器が上等でも、扱い切れなければ宝の持ち腐れだ。 勝てる。そう、確信した直後だった。慎二は致命的な隙を作った。
 踏み込む。慎二を無力化させられれば、セイバーの援護に迎える。逸る思いが士郎の背中を押した。干将を一閃させる。その直前、士郎の眼に慎二の笑みが飛び込んで来た。
 気がつくと、背中に激痛が走っていた。

「……お前って、つくづく真っ直ぐだよな」

 慎二がアーチャーの声で呆れたように呟く。背中を切り裂かれた痛みで明滅する意識を耳を欹てる事で必死に維持する。

「お前、昔は喧嘩っ早かったけど、その真っ直ぐな所は今と同じだったよな。だから、お前はいつも怪我だらけ……」

 学習しない奴だ。慎二は溜息混じりに呟く。
 頭にくる。あんなあからさまな虚実を見抜けないなんて、呆れられて当然だ。絶対に負けられない戦いだったのに、一時の衝動に任せて安易に動いてしまった。それが敗因だ。

「あばよ、衛宮」

 助けは来ない。皆、各々の戦場で頑張っている。きっと、こんな醜態を晒しているのは俺だけだろう。
 慎二が干将を振り上げる。

「……し、んじ」

 終わる。終わってしまう。うつ伏せに倒れこんだ今の状態では防ぐ事も避ける事も出来ない。
 一秒後に迫る己の死。俺はその先を思い浮かべた。きっと、俺を殺したら慎二はアルトリアの援護に向う。そして、セイバーを殺す。
 セイバーが死ぬ。そんな可能性を残して死ぬなんて許されない。方法を考えなければならない。この絶望的状況を生き抜く方法を――――、

「――――投影開始」

 刹那にも満たない一瞬の思考で辿り着いた答えは投影。投影したものを現出させる際、その位置をある程度なら操作出来る。俺は慎二の干将の軌道上に三本の剣を投影し、盾にした。
 甲高い金属音が鳴り響く。慎二が虚をつかれたような表情を浮かべている。その隙に俺は体を捻った。激痛が走るが動けない程じゃない。
 傷口に視線を落とすと、そこには無数の刃が犇いていた。

「……ふう」

 よろよろと慎二から距離を取り、俺は静かに息を吐いた。
 背中の傷はかなり深い。徐々に修復されているけど、直ぐに慎二と切り結ぶのは難しい。だから、戦い方を変える必要がある。
 血が減ったせいか、頭がやけに冷静に回る。

「――――投影開始」

 俺は生き残らなければならない。俺が死んだらセイバーが悲しむからだ。セイバーが悲しむ事だけはしちゃいけない。
 いや、言い訳は止そう。俺は生きたいんだ。セイバーと一緒にいつまでも生きていたいんだ。その為に切り捨てる。中学の頃からの親友を斬り捨て、切り捨てる。

「……これは」

 俺の頭上に浮かび上がる八本の刀剣に慎二が目を剥く。

「舐めるな!」

 俺の投影を慎二はアーチャーの投影で迎え撃つ。八本の刀剣を八本の刀剣で撃ち落し、慎二は苦悶の表情を浮かべた。けど、そんな事を気に掛けている暇は無い。再び、種類の違う刀剣を十本投影する。迎え撃つべく、慎二も同数の刀剣を投影して。
 そして、――――壊れた。
 そう称するしかない現象が目の前で起きた。慎二は頭を抱えながら悶え苦しみ始め、全身が歪な形状に変化した。

「な……、なんだ、アレは……」

 理解不能な事態に眩暈がする。白目を剥き、慎二は獣のような雄叫びを上げた。同時に奴の頭上に十数本の刀剣が出現し、飛んで来る。

「ック――――」

 慌てて同数の刀剣を投影し、迎え撃つ。すると、慎二は更に大きな雄叫びを上げ、更に多くの刀剣を投影した。

「し、慎二! お前、一体――――」

 俺の声が聞こえているのか聞こえていないのか分からない。慎二は只管雄叫びを上げて刀剣の投影を繰り返す。徐々にその数が増していく。
 不味いと思った時には既に手遅れ。俺が一度に投影出来る限界数を超えた数の刀剣が飛来する。

「――――ッ」

 撃ち落せるだけ撃ち落し、残りは干将・莫耶で叩き落す。その繰り返しにも限界がある。慎二の風貌は投影を行う度に変化していく。投影を撃ち合い、なんとなくその原因が掴めた気がする。
 俺の投影は所謂普通の投影魔術とは異なるものだ。固有結界という己の心象風景が内包した複製を取り出す。それが俺の投影だ。恐らく、慎二は投影を行う度にアーチャー……、即ち、衛宮士郎の固有結界に侵食を受けているのだろう。
 魔術師ですら無かった慎二が英霊の固有結界に侵食される。そんなの壊れて当たり前だ。肉体の崩壊も恐らくそれが原因だろう。

「……慎二」

 呼び掛けても、慎二は獣のような唸り声を上げるばかりだ。

「俺はセイバーの為だけに生きると決めたんだ。だから……、お前を殺す」

 決意を口にすると同時に慎二との思い出が頭の中を駆け巡った。一緒に遊んだ記憶。一緒に喧嘩をした記憶。一緒に勉強した記憶。一緒に部活動に勤しんだ記憶。
 涙が溢れ出し、声が震える。

「……ごめん、慎二」

 俺がそう呟くと、一瞬だけ慎二の雄叫びが止んだ。咄嗟にアイツの顔を見ると、どこか笑っているように見えた。

 ――――謝るなよ、衛宮。

 慎二は桜の為に戦っている。桜は俺にとっても大切な家族だ。だけど、俺は桜を選ばなかった。桜を敵として倒そうとすらしている。
 正義とは人の数だけ存在すると人は言う。俺がセイバーの為だけの正義の味方になったのと同じように、慎二は桜の為だけの正義の味方になったんだ。どっちも正義で、どっちも悪なのだ。だから、謝る必要なんて無いし、謝ってはいけないんだ。桜や慎二を切り捨て、セイバーだけを選んだ癖に、そんな己を否定する言葉を口にするなど許される筈が無い。

「……いくぞ、慎二」

 深く息を吸う。慎二の投影の数はもはや俺の限界を遥かに上回っている。このままでは圧殺されてしまうのが落ちだ。だから――――、

「――――I am the bone of my sword.」

 慎二が俺の限界を超えるというなら、俺も俺自身の限界を超えよう。
 花弁が花開く。熾天覆う七つの円環。アーチャーが知る限りの最強の守りを眼前に展開し、慎二の投影を防ぐ。その間に呪文を唱え続ける。
 方法は既に分かっている。魔力もキャスターから十分な量を供給してもらっている。

「――――Steel is my body, and fire is my blood.」

 昔、まだ切嗣が生きていた頃、俺の世界は衛宮邸の敷地が全てだった。あの頃はただ、あの場所を守れればそれでいいと思っていた。だけど、大人になるにつれ、俺の世界はどんどん広がって行った。そして、同時に理想と現実の食い違いにも気付き始めた。

「――――I have created over a thousand blades.」

 思わず笑ってしまう。結局、俺は身の回りの人々の事すら救えていない。美綴の事、桜の事、慎二の事、誰も救えていない。
 本当に救わなければならなかったものから目を逸らし続けた結果がこれだ。もっと早くに気付くべきだった。俺が救えるものなどほんの一握りに過ぎず、それだって、全身全霊を掛けて挑まなければならないものだと言う事を……。

「――――Unaware of loss.Nor aware of gain」

 壊れていく。あふれ出す魔力が俺という存在を叩き壊していく。
 たった一人、救う為に背負う痛みがこれだ。

「――――With stood pain to create weapons for one.waiting for one’s arrival」

 狭窄な俺が救えるものなど限られている。そして、救うべき存在は既に決まっている。 人は何よりも大切にしなければならないモノの席を心の中心に据えている。多くの人はそこに自ら座る。けど、俺の心のその席は十年前から空っぽだった。だけど……、

「――――Dwell in this heart is only one.」

 今はそこにアイツが座っている。誰よりも愛おしくて、誰よりも幸せにしたい存在が俺の心の中心に居座っている。
 セイバーを救う。セイバーと生きる。これは――――、その為だけの世界。

「My fate was――――“Unlimited Blade Works”」

 真名を口にした途端、何もかもが砕け散り、何もかもが再構築された。
 炎が走る。燃え盛る炎が境界を造り出し、世界を塗り替えていく。後に視界に広がるは見果てぬ荒野。無数の剣が整然と立ち並ぶ世界。
 これが衛宮士郎の世界。生命の息遣いを感じさせない剣だけが眠る墓場。無限に剣を内包した固有結界。

「終わりだ」

 もう、さっきのような失態は繰り返さない。慎二が撃ち出す無数の剣群を悉く撃ち落し、俺は一歩ずつ慎二に近づいていく。変わり果てた嘗ての友を前に足が止めた。
 アーチャーは既に自らの悲願を遂げ、役目を終えている。別れの言葉も告げてある。
 だから、俺は慎二に対して言った。

「じゃあな、慎二」

 首を切り落とし、俺は慎二を殺した……。

第三十五話「逆鱗」

 黒い炎が堅く覆い被さる天蓋を焦がしている。幾億の呪いを背負いし魔が現世に生まれ出ずる刻を待っている。
 澱み切った空気は吐き気がする程甘ったるい。壁はまるで生き物のハラワタのように脈動している。この場所は正しく異界。

「……ごめんな。もう少しで美味しい御馳走を食べさせてやれるから、もうちょっとだけ待っててくれよ」

 少年は少女に語り掛ける。
 応えてくれる事など期待していない。
 己はただ、少女の為に尽くすのみ……。

「さあ、最後の聖杯戦争を始めよう」

 全ての準備が整ったのは夜明けの一時間前だった。月明かりを頼りに士郎達は森の中を歩いている。

「こっちであってんのか?」

 殿を務めるランサーが前方を歩く凜に問う。

「イリヤに聞いた話だと、この辺りの筈なんだけど……」

 凜は眉間に皺を寄せながら辺りを見回す。大聖杯のある地下へと通じる路を探る。
 イリヤは衛宮邸に残った。これが最終決戦となる以上、戦闘能力を持たない自分では足手纏いにしかならないからと、彼女自身が言い出した事だ。
 一人残して行くのは不安だったが、宗一郎が警護についてくれる事になった。彼なら多少のトラブルがあっても何とかしてくれるだろう。
 今は目の前の事に集中するべきだ。ここより先は死地。一瞬の隙が命取りとなる。

「……あったわ」

 凜が小川を辿り、その上流に大きな岩盤を発見した。どうやら、横穴があるらしい。

「魔術による偽装が施されているけど、ここで間違い無いわ」

 人一人が漸く通れるくらいの細い入り口。その先は直ぐに壁となっている。
 普通の人間はまさか壁の先に道があるとは思わず引き返す筈だ。けれど、凜はその壁に手を伸ばす。

「うん……。この壁、すり抜けるわ」

 そのまま、振り返らずに暗闇へと身を滑り込ませる。その後にバゼットとキャスターが続く。

「士郎……」

 セイバーが振り向く。その瞳に宿るのは不安や恐怖ではない。

「――――大丈夫だ」

 士郎は言った。

「俺は大丈夫だよ、セイバー。もう、覚悟を決めたから……」

 セイバーは士郎が慎二や桜と戦う事を憂いている。
 決戦の準備をする最中、士郎が彼等との馴れ初めなどを語ったからだ。
 士郎にとって、慎二は掛け替えの無い友であり、桜は大事な家族だった。

「――――セイバー」

 士郎は少し迷うように視線を泳がせてから静かに呟く。

「……俺は正義の味方にはなれない」

 少し哀しそうに彼は言う。

「士郎……?」
「俺は今まで全てを救いたいと思ってた。何一つ、零す事無く救う事を理想としていた。だけど……」

 士郎は首を横に振る。

「そんな事は無理だって分かった。アーチャーの過去を知った時点で……、いや、ライダーを殺した時点で分かってた。誰かを救うには誰かを切り捨てなきゃいけない」

 士郎は深く息を吐く。

「もし、誰かを救う為にセイバーを切り捨てなきゃいけない時が来たら……、そう思うと身の毛がよだつ」

 十を救う為に一を切り捨てる。それが“正義の味方”の在り方なら、己には不可能だ。
 
「……俺にとっての一番はセイバーだ。何があってもセイバーを失いたくない。切り捨てたくない。もし、セイバーを失ったら、俺はアーチャーと同じになる。結局、正義の味方には成れない。だから――――」

 士郎はセイバーの頬を両手で包み込み、囁くように告げた。

「俺はセイバーだけの味方になる」
「……士郎。君は……――――」

 セイバーが何かを言いかけるより先に士郎はセイバーにキスをした。
 驚き、目を瞠るセイバーに士郎は言う。

「生き残るんだ。二人共……。絶対に、何があってもだ」
「……うん」

 見詰め合う。この瞬間を永遠にしたい。二人の思いは一つだった。
 けれど、時間は決して停止してくれない。
 気まずそうな咳払いが響き、二人は身体を震わせた。

「……いや、悪いとは思うけどよ。ここでゆっくりしてると夜が明けちまうぜ?」

 ランサーの言葉に慌てるセイバー。対して、士郎は深く息を吸い、頷く。

「ああ、すまない。……行こう」

 セイバーの手を握り締めて、士郎は闇へと潜る。セイバーもその後に続く。
 最後にランサーが「やれやれ」と肩を竦めながら続く。
 
 水に濡れた岩肌をゆっくりと歩く。急な斜面になっていて、さすがに手を繋いだままでは降りられない。名残惜しさを感じながらセイバーから手を離す。
 奈落へ通じるかの如く、斜面はどこまでも下に続いていく。百メートル近く下った頃、急に視界が開けた。
 
「遅かったわね」

 ジトッと凜が睨みつけて来る。

「わ、悪い……」

 謝罪しながら辺りを見回す。

「思ったより明るいな」

 辺り一面に薄っすら緑光を放つ光苔が生えている。

「さあ、あまりグズグズしている暇は無いわよ」

 セイバーとランサーが合流するのを待ってからキャスターが言う。
 一同頷き合い、暗闇の洞窟を歩き始める。

「――――にしても、嫌な空気だな」

 ランサーが呻くように呟いた。気持ちは良く分かる。
 この空間に漂う空気は異常だ。吐き気がするような生々しい生命力が満ち溢れている。まるで、生き物の臓物の内側に居るかのような錯覚に陥る。
 歩けば歩くほど、その感覚が高まっていく。向う先こそ、この穢らわしい生命力の源泉なのだろう。
 しばらく歩いていると、大きく開けた空洞に出た。生暖かい空気が体に重く圧し掛かる。

「……どうやら、ここが決戦場らしい」

 ランサーが前に出る。学校のグランド程もある広々とした空間。その中心に怪物が静かに佇んでいる。
 バーサーカーのサーヴァント、ヘラクレス。暗い魔力を纏いながら怪物は仁王立ちしている。

「――――待っていました」

 上空から声が降り注ぐ。咄嗟に見上げた先に彼女は居た。暗闇で尚、冴え々々と輝く二つの宝石。
 伝説に曰く、その輝きに呑み込まれたものは身体が石と化したと言う。
 怪物・メデューサの魔眼――――、“キュベレイ”。
 
「――――――――ッハ」
 
 けれど、恐れる必要は無い。彼女が如何なる存在であるか、此方は先刻承知。
 神代の魔術師と影の国の女王から教えて請うた騎士。二人が力を併せた以上、如何に凶悪な能力を保有していようと無力。
 僅かな重圧も感じさせず、ランサーは吼える。

「テメェの相手は俺がしてやるよ、ライダー!!」

 赤き魔槍を振り上げ、狂気染みた殺気を放つランサーにライダーはクスリと微笑む。

「生憎ですが、私は貴方と相性が悪い。貴方の相手は彼に任せます」

 ライダーの言葉と共にバーサーカーが吼える。莫大な魔力を迸らせ、斧剣を振り上げる。

「――――出し惜しみは無しってわけか」

 予想はしていた。教会で慎二がサーヴァントを集結させた方法は令呪によるものだとキャスターが見抜いていた。
 慎二がわざわざ長期戦では無く、短期で決着をつけるべく最終決戦を挑んで来た理由もコレだろう。
 令呪による一時的な強化。理性を剥奪したまま、全盛期の力を発揮させる。
 それは嘗て、士郎がセイバーの力を強制的に引き出させた方法と同じだ。
 短期決戦であるが故に出し惜しみをする必要が無くなり、今宵、マキリの陣営は最大最強の戦力を有するに至る。
 
「……となると、作戦はBプランですね」

 バゼットがグローブを嵌めながら呟く。
 マキリの聖杯が脱落したサーヴァントの魂を回収して再召喚してしまう以上、下手に倒したり、倒されたりするわけにはいかない。
 最終目標であるマキリの聖杯の討伐が成るまで、戦いを長引かせる必要がある。
 
「分かっているわね? アサシンを常に警戒しつつ、後は作戦通りよ」

 キャスター士郎達に向けて言う。
 彼女もここに残る。ランサーがバーサーカーを抑えなければならない以上、残るメンバーの内、機動力に特化したライダーの相手は遠距離攻撃を行えるキャスターが適任だ。
 とは言え、キャスターは近接戦闘に持ち込まれると脆い。故にバゼットとコンビを組む事となった。
 背中を任せる相手として、両者互いに不満を抱いているが、この奥に待ち構えているであろう残りの敵を考慮すると、この布陣こそ最適だと判断せざる得なかった。

「――――本命をくれてやるんだ。確りやれよ?」

 ランサーが槍を構えながら笑みを浮かべて言う。

「そっちもドジんないでよね」
「わーってるって」

 凜の言葉に軽い口調で答えながらランサーはバーサーカーに向っていく。
 同時にキャスターがライダーへと挨拶代わりの魔弾を放つ。
 その隙に士郎達は大空洞の出口へと回りこむべく走り出す。

「――――させません」

 ライダーが鎖付きの釘剣を投げ放つ。
 それをバゼットが驚異的なスピードで弾きに向う。

「貴様の相手は私だ」

 元々サーヴァントに比肩するスペックを持つバゼット。
 キャスターの助力により、その戦闘能力はもはや人の域を超えている。

「さあ、付き合ってもらうぞ。彼等が決着をつける――――、その刻まで」

 大空洞を越えた先には予想通りの人物が待ち構えていた。

「――――アルトリア」

 静かにセイバーが前に出る。

「……まったく、シンジにも困ったものだ。折角、満足のいく戦いの果てに死を迎えたというのに、再び私を目覚めさせるとは……」

 その瞳には理性の光が宿っている。

「まあ、良い……。私も写し身とは一度剣を交えたいと思っていたところだ」

 クスリと微笑み、彼女はセイバーを見つめる。

「退屈させるなよ?」
「……ああ」

 セイバーは深く息を吸い、エクスカリバーを構える。

「士郎……」

 凜が士郎に囁く。

「……ああ」

 士郎はセイバーの小さな背中を見つめながら唇を噛み締めた。
 出来る事なら止めさせたい。代われるものなら代わりたい。
 けど、自分には別の役割がある。アルトリアの事はセイバーに任せる以外に選択肢が無い。

「……セイバー」

 士郎は手の甲を掲げる。そこには最後の一画となった令呪が宿っている。

「大丈夫だよ、士郎」

 セイバーは言った。

「一緒に生き抜こう。そして――――」

 セイバーは朗らかに微笑む。

「全部終わったら、結婚しようか」
「……ああ、そうだな」

 まあ、資金集めとか色々あるから直ぐには無理だろうけど……。
 僅かに笑みを浮べ、士郎は覚悟を決めた。

「セイバー。全ての力を引き出し、アルトリアと戦え!」

 令呪が消失する。同時に巻き起こる烈風。
 キャスターの助力により得られた潤沢な魔力。己が内にあるアーサー王の能力。
 最強の英霊として召喚されたセイバー。その真の力が表出する。
 立ち昇る魔力の渦と傷つく事などあり得ない甲冑。圧倒的な存在感が暗く狭い洞窟内を支配する。
 
「――――ああ、それでいい。では、楽しむとしよう」

 アルトリアが獰猛な笑みを浮かべ、飛び込んでくる。
 セイバーは静かに剣を振るった。
 
「――――さあ、行くわよ」

 凜に手を取られ、士郎は渋々走り出す。
 セイバーを置いて行く事が辛くて仕方無い。
 走り続けながら、令呪のあった場所を反対の手で握り、強く願う。
 どうか、無事でいてくれ――――、と。

 そして、暗闇の洞窟を更に奥へと進む。生々しい生命の息吹が満ちる通路をひた走る。
 重苦しい空気が圧し掛かって来る。比喩では無く、本当に重い。視覚化出来る程の濃厚な魔力が洞窟の奥から流れ込んできている。
 この先に最後の門番が待ち受けている。残るサーヴァントは二騎だが、アサシンは真っ向勝負をするような英霊では無いから恐らく隠れ潜んでいる筈だ。
 故に待ち受けている敵は唯一人。その門番と戦うのは己の役割だ。
 準備は十全。後は――――、

「――――アーチャー」

 凜が憂いを帯びた声で呟く。
 通路の出口を背に彼は居た。
 愛する者の未来を切り開く為に命を捨てて戦った男。悲願を遂げた彼を慎二は目覚めさせ、戦いの道具としている。
 眠らせてやるべきだ。そう、士郎は拳を固く握り締める。

「――――待ってたぜ、衛宮」
「慎二……ッ」

 アーチャーの背後から現れた慎二に士郎は息を呑んだ。
 彼がここに居るとは思っていなかった。桜と共に大聖杯の前で待っているものと思っていた。

「思った通りだな。ここまで来るのはお前等だと思ってたよ」
「……良い度胸ね。こんな所にノコノコ現れるなんて」

 凜は背中に隠し持つ切り札へと手を伸ばす。それを士郎が静止した。

「……慎二。最後にもう一度だけ言う」

 凜が咎めるように視線を送るが士郎は無視した。

「止まってくれ」

 士郎の真摯な眼差しを真っ向から受け止め、慎二は首を横に振る。

「無理だな。ここで立ち止まったら、それは桜に対する裏切りだ。僕は最後の一瞬まで――――、桜だけの味方になると誓ったんだ」
「……そうか」

 士郎は深く息を吐く。
 桜だけの味方。慎二はそう言った。
 士郎がセイバーだけの味方になると誓ったように、彼も一人の為に全てを捧げる決意を固めたのだ。
 ならば、これ以上、交わすべき言葉は無い。

「……遠坂」

 慎二は凜に視線を向ける。凜は複雑そうに唇を噛み締めながら慎二を睨む。

「桜は奥だ。行きたきゃ行けよ」
「……どういうつもり?」

 道を譲る慎二に凜は怪訝な表情を浮かべる。

「別に……。ただ、それはそれでありかもしれないと思っただけだ」
「……?」

 困惑する士郎と凜に慎二は薄く微笑む。

「僕は……結局、アイツのちゃんとした兄貴になれなかった」

 慎二の独白に凜が表情を崩す。その表情に浮かぶものが怒りなのか、哀しみなのか、羨望なのか、分からない。
 そんな彼女に構わず、彼は続ける。

「アイツの本当の家族はやっぱりお前だけなんだと思う。だから、お前に止められるなら、それは桜にとって幸福かもしれない」

 慎二は肩を竦める。

「まあ、止められるかどうかは分からないけどな。今のアイツは強いぜ。ぶっちゃけ、生半可な力じゃ到底敵わない。それでも行くって言うなら、僕は止めないよ」
「――――行くわ」

 凜は固く表情を引き締めて歩き出す。
 慎二は言葉通り、彼女を止めようとはしない。
 凜は一度だけ慎二の真横で立ち止まり、小さな声で呟いた。

「……ありがとう。桜の味方になってくれた事……、それだけは感謝してる」

 その言葉に慎二は肩を竦める。

「……ただの自己満足だよ。結局、僕はアイツを救えなかった」

 その自嘲の言葉に反応を返す事も無く、凜は奥へと進んでいく。
 慎二は凜の背中を見送った後、士郎に視線を戻して言った。

「それじゃあ、始めるよするか」

 慎二は薄く微笑むと、ポケットから一匹の蜘蛛を取り出した。

「――――やれ、桜」

 その言葉と共にアーチャーが動き出した。
 しかし、その行動は士郎の予想を裏切った。
 斬りかかって来ると思っていたアーチャーの腕が慎二の心臓を貫いたのだ。

「……え?」

 困惑する士郎に慎二は口から血を吐き出しながら笑みを浮かべて言う。

「……桜に令呪を使わせた」
「令呪を……?」
「残る二つの内……、一つ目で“衛宮を倒すまで戦い続けろ”と命じた。そして――――」

 慎二は笑みを深めて言う。

「二つ目でこう命じたのさ……。“間桐慎二の存在をその魂に刻み付けろ”ってね」
「……何を言って」

 呆然とした表情を浮かべる士郎の前で慎二の魂がゆっくりとアーチャーの中へと移って行く。
 それは本来なら単なる自殺行為でしかない。英霊の魂に自らの魂を刻むなど、大海に一滴の墨を落とすようなものだ。瞬く間に薄れ、消えていくのが関の山。

“だが、そうした条理を覆す事こそ魔術師の本懐”

 それはセイバーの身に起きた現象に近いものだった。
 今のアーチャーは“この世全ての悪”に汚染され、理性や意志を剥奪されている。つまり、英霊としての情報と外殻のみの状態なのだ。
 そこに慎二の魂を注ぎ込む事で初期のセイバーと同じ状態を再現している。
 セイバーの現状を探り続けていたが故に思いついた反則技だ。

「……慎二なのか?」

 士郎が問う。すると、アーチャーはゆっくりと口を開いた。

「……さあ、最後の聖杯戦争を始めよう」

「――――ここね」

 暗い場所。冷たい空気。静かな水音。やがて、視界が広がった。暗闇を抜けたその先に広大な空間が広がっていた。
 果ての無い天蓋と、嘗て見た黒い孔。あれこそ、戦いの始まりにして、終着点。二百年の長きに渡り稼動し続けてきたシステムがそこにある。
 見た目はエアーズロックのようだが、その上部は大きく陥没していて、巨大な魔法陣が敷設されている筈。それこそが大聖杯と呼ばれるものの正体だとイリヤが教えてくれた。
 最中に至る中心。円冠回廊。心臓世界。天の杯。計測不能なまでの魔力を孕むソレは名に恥じぬ異界を創り上げている。
 そして、その中央から黒い柱が天に向かって伸びている。空間内を照らすのは黒い柱が発する魔力の波動。

「アレが“この世の全ての悪”……」

 大聖杯に満ちている魔力はまさに無尽。世界中の魔術師がこぞって好き放題に魔力を汲み上げたとしても、決して尽きぬ貯蔵量。あれだけあれば、確かにあらゆる願いを叶える事が出来る筈だ。
 頭上を見上げる。そこに彼女が居た。
 しばらく見ない内に随分と風貌が様変わりしてしまっていた。髪は真っ白で、全身の肉が削げ落ちてしまっている。まるで老婆のようだ。
 彼女はうっとりとした表情で自らの腹部を摩っている。

「――――久しぶりですね、姉さん」

 桜はクスリと微笑んだ。
 既に壊れており、救えない状態となっている筈の桜が微笑み、明確な意思を宿して口を開いた。

「……桜」
「見てください。もう直ぐ生まれるんです。私の可愛い赤ちゃんが……、もう直ぐ――――」

 肌が粟立つ。桜の腹に宿るソレは彼女が背にしている黒い炎と同じ魔力を迸らせている。

「……アンリ・マユなんて怪物を可愛い赤ちゃん呼ばわりするなんて、大したお母さん振りね、桜」
「えへへ、そうなんです。私、お母さんになるんです」

 嫌味のつもりで言ったのに、桜は心底嬉しそうに微笑んだ。それがとても恐ろしかった。

「私の赤ちゃん……。可愛い可愛い……、私とお兄ちゃんの子供」
「……お兄ちゃん?」
「そうです。ずっと昔……、一度だけ肌を重ねた事があって、その時にお兄ちゃんがくれた精子をずっと吸収せずに保管してたんです。いつか……、時が来たら孕めるようにって……」
 
 頬を赤らめて、桜は満面の笑みを浮かべる。

「お兄ちゃんは私をただの妹としてしか見てくれない。でも、私はお兄ちゃんを愛してる。お兄ちゃんとの赤ちゃんを産んで、愛の証にするの……」

 ムフフと鼻歌混じりに言う桜に凜は冷たく言い捨てる。

「何が愛の証よ……。ずっと、その愛するお兄ちゃんを騙してたわけでしょ?」
「騙してなんかいませんよ」

 桜はクスリと微笑んだ。さっきまでのあどけない笑みが鳴りを潜め、妖艶な笑みを浮かべる。

「お兄ちゃんは勝手に勘違いしているだけです。でも、敢えて正す必要なんて無いでしょ? 私が壊れているからお兄ちゃんは私に優しくしてくれる。私の味方になってくれる。私が壊れてないって知ったら、きっと、お兄ちゃんは私から離れていってしまうもの。そんなの嫌です。絶対嫌です!」

 頬を膨らませる桜に凜は言った。

「アンタが壊れてないって知ったら、アイツは喜ぶわよ」
「……嘘ですね」

 桜は断言した。

「お兄ちゃんが優しいのは私が壊れているからです。でなきゃ……、こんな化け物を可愛がってくれる人なんて居る筈ありません」

 途端、桜の顔から表情がごっそりと抜け落ちた。
 無表情で桜は呟く。

「私は人の肉を食べてるんです。引き取られてから十年間、精子や人肉の味の違いまで分かるようになっちゃったんです。こんなに穢れ切った化け物、誰が好き好んで一緒に居たがるんですか? 壊れているから仕方無いって、同情心があるからお兄ちゃんは傍に居てくれるんですよ。私は身の程を弁えてるんです」

 エッヘンと胸を張る桜に凜は言葉を失った。
 壊れてはいない。だけど、決定的に――――、壊れている。
 意思や感情は辛うじて意地しているけれど、他が致命的なまでに壊れ切っている。

「……桜」

 凜は涙が零れそうになるのを必死に耐えた。

「止まりなさい」
「駄目ですよ。姉さんの事は割りと好きですけど、お兄ちゃんとの赤ちゃんは絶対に産みます! 私とお兄ちゃんの愛の結晶なので、これだけは譲れません!」

 拳を高々と振り上げる桜。

「……それを産ませるわけにはいかないのよ」

 それがただの赤ん坊なら産ませてやりたかった。割りと……、というのは気になるが、好きと言ってくれた妹の望みを叶えてやりたい気持ちはある。
 だけど、アンリ・マユをこの世に出現させる事だけは……。

「……こっちにはキャスターが居る。アンタの身体を清めて、ちゃんとした子供を産めるようにしてもらう事も出来る筈なのよ! だから、お願い! その子供だけは諦めて!」

 血を吐くように凜は懇願する。これが最後のチャンスなのだ。
 壊れていないなら救いようはある。キャスターに頼めば、きっと救える。その為ならどんな代償でも喜んで払う。
 命を差し出せというなら差し出そう。桜の過ごした苦しみの十年を体験しろというなら喜んで体験しよう。
 
「お願いよ、桜」

 地面に頭を押し付けて懇願し続ける。

「……だ、だって……、お兄ちゃんの精子はこの子の分しかないんですよ……」
「どんな手を使ってでもアイツから精子を搾り取って、アンタにあげるわよ!!」

 僅かに動揺する桜に凜は畳み掛けるように叫んだ。
 本心からの叫びだ。そんな事で桜を救えるなら慎二が干乾びるまで搾り取ってやる。
 
「……本当?」
「約束するわ!! だから――――」

 桜が心変わりしかけている事に喜色を浮かべる凜。
 その時だった。
 大空洞にしわがれた老人の声が響いた。

「――――それはならん」

 凜は言葉を失った。桜が悶え苦しみだしたのだ。

「この土壇場で心変わりをするなど、儂が許すと思ったか?」
「ぞ、臓硯!?」

 身の毛のよだつような悪寒に襲われ、凜は走り出した。

「桜!!」

 凜が叫ぶ。しかし――――、

「ああ、もう済んだ故、幾ら呼び掛けても無駄だぞ。遠坂の娘よ」

 そう、桜の口から声が飛び出した。

「さく、ら……?」
「親心として、聖杯を手にする栄誉は譲ろうと思っていたのだがな……」

 カカと嗤う桜に凜は立ち止まった。

「最後の最後で儚い希望を抱かせ、妹を絶望という名の奈落へ突き落とすとは、酷い姉も居たものよ。まったく、貴様のせいで孫娘を喰らうなどと非道な真似をせねばならなくなった」

 乗っ取った桜の喉を震わせ、老魔術師は呟く。
 
「……臓硯」

 身体が震える。愛する妹を後一歩で救えた筈だったのに……。
 感情が冷えていく。あらゆる思考が一つに纏まっていく。
 後一押しだ。後一押しあれば、最後の一線を越える事となる。
 凜は乾いた声で臓硯に問う。

「――――アンタ、人の妹に何をしたの?」
「……ふむ、貴様の事を過大評価しておったようだ。思ったより聊か頭の巡りが悪いらしいな」

 臓硯は桜の顔でいやらしい笑みを浮かべて言う。

「単に首をすげ替えて乗っ取っただけの事だ」

 その言葉が最後の一押しとなった。

「――――アハハハハハハハハハハハハ!!」

 けたたましく、凜は嗤った。
 腹を抱え、涙を滲ませ、嗤った。
 その狂態に臓硯は僅かに困惑の表情を浮かべる。

「……壊れたか?」

 その問いに対し、凜は笑みを一変させて言った。

「アンタ、私をここまで怒らせて、まさか――――」

 臓硯の表情から笑みが消える。広々とした大空洞が寒気のするような殺気で満たされる。
 齢二十にも満たない小娘に臓硯は恐怖した。

「――――ただで済むと思ってないわよね?」

第三十四話「――――同盟の再結成だ」

 衛宮と初めて会話を交わしたのは中学の文化祭の時だった。アイツはどんな頼み事にも“はい”と応えてしまう生粋のイエスマンだった。あの時も周りから看板作りを押し付けられていて、夕暮れの教室で一人黙々と作業を行っていた。
 最初、僕は衛宮が“自分の意思というものを持っていないんじゃないか?”と思った。他人に言われるがままに生きている。それが何だかとても気に障った。何だか、妹の姿と重なってしまい、凄く気に障った。
 まあ、それは完全な僕の思い違いだったわけで――――、
 
『お前……、どうして、そうホイホイ他人の仕事を引き受けちまうんだ?』
『……ん? だって、俺が仕事を引き受ければ、その分、他の人が楽になるだろ?』
『……は?』

 試しに理由を聞くと、アイツはそう答えた。
 嘘だと思った。単に自分を卑下したくなくて、そんな事を言っているのだと思った。だけど、違った。
 アイツは正真正銘の馬鹿だった。

『――――って、他人が楽になっても仕方無いだろ……。お前はそれでいいのか?』
『ああ、構わない』

 そうハッキリと言い切ったアイツに僕は只管苛々した。だって、あまりにも愚かだ。他人の為に自分の時間や手間を掛けるなんて、どうかしてる。
 せめて、それでアイツに何か褒賞が出るなら話は別だけど、アイツに仕事を押し付けた周りの奴等は絶対に労ったりしない。それをアイツ自身も分かっている。分かっている癖に……。

『お前、馬鹿だよ』
『ひ、酷いな……。別に付き合う必要は無いぞ?』
『別に……、僕がどこに居ようが勝手だろ』

 時々、どうしても我慢出来ずに僕は衛宮に悪態を吐いた。
 馬鹿だ。間違ってる。腹を立てろ。周りを糾弾しろ。
 そんな僕の悪態をアイツはただ笑って受け流す。それが余計に苛々した。
 だけど、アイツが完成させた看板を見て、僕は素直に感嘆した。

『……お前、馬鹿だけどいい仕事するじゃん』

 その看板の出来栄えは実に見事だった。ただ、押し付けられて嫌々やったなら、こんな見事な看板は作れない。
 
『お褒めに預かり恐悦至極に御座います、間桐殿』
『……ふん。まあ、お前が馬鹿なのは撤回しないけどな」
『なんだそりゃ』

 もう、外は真っ暗になっていた。だけど、僕達は笑い合っていた。
 その時、確かに僕らは友人となった。何より得難い、“何があっても信じられる”友人を得られた。
 桜の事を知ったのはそれからしばらくしての事だった。
 

「……自分の価値観が全て壊れてしまったように思った。妹は怪物になっていて、僕は魔術師にはなれなくて、人間ってのはどこまでも醜い。青臭い事を言うようだけど、あの時は本当に何もかもが信じられなくなってたんだ」

 慎二は近所の公園のベンチに座り込みながら、傍らに佇むライダーに自分と士郎の馴れ初めを語っていた。

「――――だけど、アイツだけは変わらなかった。アイツは馬鹿だけど、芯が通っていた。何があっても他人の為にあろうとする。その結果、自分が損をする事になっても構わない。だから、アイツの事だけは信じる事が出来た」

 慎二は楽しそうに語る。彼がこんな風に笑う所をライダーは今まで見た事が無かった。いつもどこか壊れた感じのある歪な笑みばかりを浮かべていた。
 
「他の何が変わっても、アイツだけは変わらない。こんな戦いに巻き込まれても尚、アイツは変わらない。僕はこんなに変わっちまったのに……」
「シンジ……」

 寂しそうに地面を見つめる主をライダーは心配そうに見つめた。

「……シンジ。貴方はいつでも逃げ出せる。何でしたら、今直ぐに衛宮士郎に助命を請いましょう。きっと、受け入れてくれる筈です」
「ああ、アイツは受け入れてくれるかもな。でも、僕が助かったとしても……、桜はどうなる? アイツはもう何があっても救えない。仮に記憶を消して、体を綺麗にしても、今のアイツが救われるわけじゃない」
「ですが……」
「僕はとっくに決めてたんだ。アイツのデザートになるって決めた時からずっと、最後まであの馬鹿な妹の味方で居てやろうってな」

 慎二は立ち上がり、瞼を閉ざした。次に瞼を開いた時、彼から笑みは消えていた。
 代わりに暗い光を瞳に宿し、ライダーを見つめる。

「――――さあ、ライダー。最後の聖杯戦争の開幕ベルを鳴らしに行こう」

 慎二は大きなボストンバックを肩に下げ、歩き出す。
 今度こそ、最後の一線を越える為に目指した先は――――、藤村邸。

「はいはーい! あら、間桐君じゃない! どうしたの!?」

 チャイムを鳴らし、出て来たのは慎二の担任教師。名前は藤村大河。
 衛宮士郎にとって、特別な人間。他の誰よりも彼は彼女を優先する。何故なら、彼女は彼にとって唯一無二の家族だからだ。
 母であり、姉である彼女に手を出せば、今度こそ後戻りが出来なくなる。
 
「えっと……、どうしたの?」

 心配そうな表情を浮かべる大河。

「……アンタには人質になってもらう」
「へ?」
「ライダー、眠らせろ。いいか? 絶対に傷つけるな」
「了解です」

 ライダーが暗示を掛けると、大河はアッサリと意識を手放した。
 彼女の体をライダーは丁重に持ち上げる。二人がその場を離れると、中から暴力団関係者らしき人物達がぞろぞろと外に出て来た。
 藤村組の連中だ。

「……ったく、後で返してやるっつーの」

 影に潜み、ライダーに結界を張らせる。

「やるべき事は分かっているな?」
「――――ええ、ですが……」
「アサシンは信用ならない。まあ、裏切ったりはしないだろうけど……。アイツは心中に一物を抱え込んでやがるからな」

 アサシンの忠義を疑っているわけじゃない。ただ、アイツは元々臓硯のサーヴァントだ。サーヴァントとは、召喚者の内面と似通う者が召喚される。
 加えて、主である臓硯を殺した慎二達に素直に付き従っている今の状態が既に異常であり、腹に何かを抱えている事は間違い無い。

「だから、お前に全てを託した。いいか? 僕が生きていようと、死んでいようと、計画を完遂しろ。桜にもお前の指示に従うように言い含めてある。分かったな?」
「……了解です、シンジ」

 慎二は「頼むよ」と軽い口調で言うと共に結界を出た。向う先は――――、衛宮邸。

 アーチャーの記憶は恐ろしく強烈かつ明瞭で、築いた防壁がアッサリと崩れ去った。これが単なる記憶の追体験であるという認識が崩れ、距離感が零となる。
 アイツの怒り、哀しみ、苦しみが流れ込み、呑み込まれ、一つになる。
 分かったつもりになっていた。アイツがセイバーを失って、どれほど嘆き悲しんだかを分かったつもりになっていた。でも、実際には全然分かっていなかった。
 猛烈な憎悪に身を焦がされ、息が詰まりそうになる。

“I am the bone of my sword.”

 失ってはならないものを失った。
 その時点でオレは道を踏み外していた。踏み外したまま、歩き続けてしまった。
 理想は上辺だけのものとなり、只管、多くを救う事だけに執着した。

“Steel is my body,and fire is my blood.”

 闘争を煽る者が居れば、その者の部下を拷問し、その者の愛する者に暗示を掛け、爆弾を抱かせた。
 世間から隔絶された小さな村で病が蔓延した時は発生源となっている者達を生きたまま焼き殺した。

“I have created over a thousand blades.”

 裏切られる事など日常茶飯事だった。瞳に映る世界は詭弁や詐称、姦計、自己愛に満ちていた。
 救えば救う程、人の醜悪さを目の当たりにする。
 人を殺す技術ばかりを磨く日々。狙撃銃のスコープから敵の脳や心臓が破裂する光景を見た。毒がどうやって人体を蝕むのかを見た。
 その度に心は小さな罅割れだらけになっていく。

“Unknown to Death.Nor known to Life.”

 愛した人を殺した。
 愛する家族を殺した。
 だから、立ち止まる事なんて許されない。
 哀しみを憤怒で癒し、苦しみを憎悪で和らげる。

“Embraced regret to create many weapons.”

 その在り方は既に人では無かった。さりとて、己が抱いた理想の姿とも程遠い。
 人はこの身を悪魔と呼ぶ。だけど、止まれない。
 “正義”という名の“悪意”を振り撒き続けなければ、唯一残った約束までもが失われてしまう。
 後悔と絶望に塗れた心の唯一の光。パンドラの箱に残された唯一の希望。

『君は立派な人間になるんだよ』

 その約束を守る事だけが己の全て――――故に……、

「――――そこまでよ、衛宮士郎!!」

 急に世界が闇に閉ざされた。暗黒が全てを呑み込み、俺をオレから解放した。
 途端、眩い閃光に目が眩んだ。瞼を無理矢理開かれたのだ。

「何をする――――!!」
「危ない!!」

 気がつくと、オレは使い慣れた双剣を投影していた。呼吸をするように自然に――――、

「……あっ」

 気がついた。目の前に女の子が居る事に今更気がついた。腕から血を流している。
 知らない少女だ。黒い髪の少女……、

「――――ッ!」

 違う。知っている。彼女はセイバーだ。俺が知っているセイバーだ。

「せ、セイバー!! すまない、俺……」

 ああ、何と言う事だ。悟を傷つけてしまうなんて最悪だ。哀しみと怒りが溢れ出して来る。
 また、悟を殺してしまう所だった。もう、二度と間違いを犯さないと心に決めたのに……。

「お、オレは……俺は……、すまない。本当にごめん、セイバー」

 心を絶望が蝕む。叫びだしたい。頭を掻き毟り、脳をグチャグチャにしてしまいたい。

「し、士郎。俺なら全然大丈夫だよ。だから、落ち着いてよ。ね?」
「本当か!? 無理をしてるんじゃないだろうな!? 君はいつも無理ばかりをするから……。ああ、直ぐに消毒が必要だ」
「だ、大丈夫だってば! それより、君こそ大丈夫なのか!? なんか、変だよ!?」

 変と言われた。心臓が収縮し、呼吸が荒くなる。見損なわれてしまった。
 漸く、再び会えたのにオレはどうして……。

「士郎!!」

 セイバーが肩を掴んで来た。相変わらず小さな手だ。記憶通りの小さな手だ。
 愛らしい手だ。行為の時、いつも悟は手を繋ぎたがった。そうする事で安心出来ると言っていた。

「退がりなさい、セイバー。ちょっと、しくじったみたい……」
「しくじったって、どういう事だよ!?」

 悟が離れて行く。駄目だ、離れたくない。漸く、再会出来たんだ。
 これが死の間際の夢だろうと構わない。言いたい事が山程――――、

「ちょっと、荒療治だけど……」

 突然、悟とオレの間に割り込んできた女が奇妙な言葉を呟いた。
 言葉として認識が出来ない奇妙な声。直後、頭の中に奇妙な映像が流れ込んできた。
 それは悟とオレの出会いから今に至るまでの――――、

「……ちがう」

 これは俺とセイバーの記憶だ。セイバーと交わした俺だけの言葉が俺の意識を引き戻した。
 立ち眩みを覚えながら、改めてセイバーを見つめる。
 大丈夫だ。俺は俺だ。危なかったけど、何とか戻ってこれた。

「悪い……。ちょっと、アーチャーの記憶に圧倒されてた」
「だ、大丈夫なの?」

 心配そうにセイバーが見つめて来る。まだ、アーチャーの意識の名残があるのか以前にも増して愛おしさが込み上げて来る。
 なんだか癪に感じる。俺よりアイツの方がセイバーを愛していたみたいで腹が立つ。
 顔をパンッと叩いて、アイツの意識を追い出す。俺は俺として、アイツ以上にセイバーを愛してみせる。そう意気込んでセイバーを見つめる。

「……って、それ所じゃなかった!! ご、ごめん、セイバー。俺、いきなり切りかかったりして……」

 セイバーの腕からは血が流れ続けている。

「だ、大丈夫だよ、このくらい」
「大丈夫じゃないだろ!? キャスター、治せるか?」

 懇願するように視線を向けると、キャスターは深く息を吐いてから頷き、セイバーの腕に治癒魔術を施した。
 
「……大丈夫か?」
「うん、大丈夫よ。これでも俺は男だったんだぜ? このくらいの傷、へっちゃらさ」

 思わず溜息が出た。こういう所が不安になる。

「痛いなら痛いって言ってくれ。セイバーに我慢される方が……苦しい」
「……うん。ちょっと、痛かった……」
「ごめんな……」

 セイバーの血塗れの腕を摩りながら謝る。よりによって、俺自身の手で傷つけてしまった。
 
「……アーチャーの事を分かった気でいた」
「士郎……?」
「アイツの憎悪や憤怒を理解しているつもりになってた。だけど……、全然甘かったよ」

 首を横に振りながら俺は吐き出すように呟いた。

「当然だよな……。セイバーを……、愛する人を殺してしまった奴の気持ちなんて、実際に経験した本人以外が理解出来る筈無いんだ」
「……でも、理解出来たでしょ?」
「ちょっとだけだ……。それに今の俺とアイツの在り方は違い過ぎる。ただ――――」

 それでも、道標にはなる。さっきの投影がその証拠だ。自分の投影魔術の本質は理解出来た気がする。
 真価を発揮するには魔力が全く足りていないけど、理解出来ていないのと理解出来ているのとでは大違いだ。

「――――これで、少しは戦力になれたと思う」
「なら、良かったわ」

 深く息を吐くキャスター。

「正直、失敗したかと思ったわ……」
「……アレ以上は深入り出来ないな。二度と戻って来れなくなる気がする……」
「士郎……」

 何はともあれ、戻って来れた事は行幸だ。
 セイバーにかっこつけた手前、口には出せないが、本当に危なかった。
 俺はあの時、確かにアーチャーになっていたんだ。俺がセイバーに向ける愛とアイツがアイツのセイバーに向ける愛は少し違う気がする。
 もっと深くて、もっと……、

「……やめよう」

 アイツの過去は本来アイツだけのものだ。深く考える事は避けた方が良い。
 いくら同一の存在であっても、そこは礼儀というものだ。今更な感じはするが……。

「とりあえず、ちょっと疲れたな……」
「お疲れ様。夕食の準備は出来てるから、いつでも食べられるよ?」
「え!? もう、そんな時間なのか!?」
「うん」

 慌てて外を見ると、既に空は暗くなっていた。
 
「お風呂の準備もしてあるよ? どっちにする?」
「それじゃあ、とりあえず飯にしよう。あんまり皆を待たせるのも悪いし」
「ああ、それは大丈夫よ。セイバー以外はみんなとっくに食べちゃったから」
「……そうですか」

 しれっと言うキャスターになんだか凄く微妙な気分になった。
 
「いや、ほら、あれだよ。みんなも忙しく動いてたからお腹空いてたんだよ」
「いや、いいんだ。待ってくれてると思い込んでた俺が馬鹿だったんだ……」

 寂しいとか思ってはいけない。セイバーだけは待っていてくれたんだから、十分だ。
 
「……やっぱり、風呂に入ってこようかな」

 そう、十分だ……。薄情だとか思っちゃいけない。

「士郎……」

 ちょっと前までは一人での食事も全然へっちゃらだったと言うのに、最近は大所帯で食べる事が多かったせいか、少し寂しいと思ってしまう……。

「えっと……、そ、そうだ! 背中を流そうか?」
「だ、大丈夫だ!!」

 セイバーの大胆過ぎる発言に慌ててストップを掛けた。
 多分、深い意味は無いのだろうけど、俺の方はかなりヤバイ。アーチャーの過去を追体験したせいか、正直、ふとした切欠で止まれなくなりそうだ。
 出来れば、セイバーとは健全な関係を築いていきたいと思っている。とりあえず、厄介事が全部片付いたらバイトを増やそう。結婚資金やその他諸々でお金が大量に必要になって来る。
 
「坊や……、ニヤけ過ぎてて、ちょっと危ない顔になってるわよ」
「……とりあえず、風呂に入って来る」

 キャスターの引き攣った表情を見て、顔を引き締める。
 その時だった――――、
 
「なんだ!?」

 突然、屋敷の明かりが消え、地面に光が走った。

「……どうやら、お客さんのようね」

 キャスターがいち早く動き、外に飛び出す。俺とセイバーも後を追った。
 外に出ると、空に羽ばたく天馬の姿があった。

「ライダーか!?」
「いや、違う!!」

 セイバーの否定の言葉に改めて天馬の背中に目を凝らす。
 そこに居たのは――――、

「慎二!?」

 ライダーの姿は無く、慎二だけがその背に跨っていた。

「やあ、衛宮」

 慎二はまるで聖杯戦争が起こる前に戻ったかのように、爽やかに手を振り挨拶をして来た。

「……何の用だ?」

 額から汗が滲み出る。今の慎二は俺の知る慎二とは違う。
 アーチャーの過去を見ても、今のアイツはあまりにも得体が知れないままだ。
 
「……嫌だな。いつから、お前はそんな目で僕を見るようになったんだ?」
「――――ッ」

 辛そうな表情を浮かべる慎二に思わず張っていた気が緩んだ。

「し、慎二、お前は――――」
「いや、悪かったな。今のはフェアじゃなかった」

 慎二は俺の言葉を遮るように謝ってきた。
 一体、どういうつもりなのかサッパリ分からない。

「慎二……」
「衛宮……。大聖杯の下に来い。そこで、決着をつけよう」
「……なあ、戦わないって選択肢は無いのか?」

 俺は縋るように尋ねた。
 今になっても、俺は慎二が敵だとはどうしても思えなかった。確かに、非道な真似をしたけど、それは聖杯戦争なんて異常な事態に巻き込まれたせいだ。
 本当のアイツはちょっと嫌味で……だけど、本当は良い奴な筈なんだ。
 
「無理だな。お前が戦いを降りる事でしか、戦いを回避する事は出来ないんだよ。僕にも聖杯が必要なんでね」
「慎二!! 聖杯は穢れているんだ!! お前が勝っても願いは――――」
「おいおい、衛宮。お前、僕を馬鹿にしてるのか? 聖杯が穢れている事なんて百も承知さ。その上で必要だと言ってるんだよ」
「ど、どうしてだよ!? 願いは叶わないんだぞ!?」

 俺の言葉にどういうわけか、慎二は突然嗤い始めた。

「叶わないのは真っ当な願いだけだ。そこがズレてるんだよ、お前は」

 何の事だか分からない。だって、今の聖杯で叶う願いなど、それは――――、

「……慎二。お前は一体、聖杯に何を願うつもりなんだ?」
「全人類を桜の餌にする。まあ、要するに皆殺しだ」

 言葉が出なかった。慎二が何を言っているのか理解出来なかった。

「……え? は? え? ど、どういう……え?」
「この際だから、教えておいてやるよ。桜はもう救えない。遠坂の家から間桐に引き取られて、その日の内からアイツは拷問に掛けられ続けた。聖杯の欠片とアルトリアを手に入れた臓硯は桜から人格を剥奪する為に徹底的にアイツを苦しめたんだ」
「……な、何を言って……――――」
「言葉の通りさ。心を壊す目的で只管拷問を繰り返されたんだ。まだ、中学にも上がってない幼少の頃にアイツは壊されたんだよ」
「そ、そんな筈あるか!! だって、桜は俺と――――」
「壊されても、言語を操る事は出来るし、ある程度なら演技も出来るんだよ。アイツは臓硯に命じられてお前の事をずっと監視してたんだ」
「……嘘だ」
「嘘じゃない。アイツの行動は全てが演技だったんだよ。影では人間の血肉を文字通り喰らっていた。今もだよ。アイツはもう人間じゃない」
「嘘だ!!」

 俺は歯を食い縛りながら慎二の言葉を必死に振り払おうとした。
 桜との日々を明瞭に思い出す事が出来る。最初は確かに暗い表情が多かった。だけど、藤ねえや俺と一緒に過ごす内に――――、

「本当なんだよ……、衛宮。だけど、お前には感謝してる。確かに演技だったけど、アイツは少なくとも表面上だけは人間として生きられた。短い間だったけど、そういう経験をさせてやれた事を嬉しく思ってる」

 その言葉があまりにも真摯で……、俺は息が出来なくなった。

「……嘘だろ?」
「……本当だよ」

 足下がふらつく。今までの価値観が全て崩壊するような……、世界そのものが崩れていくような錯覚を覚えた。

「士郎!!」

 倒れそうになる俺の体をセイバーが支えた。

「桜はもう、何をしても救えない。聖杯で記憶を消したり、体を清めたりしても、苦しみ抜いた桜を救う事にはならないし、どっちにしても、アイツの十年間は完全に失われてしまう。そんなの……、残酷過ぎるだろ?」

 慎二は言う。

「僕がアイツの為にしてやれるのは……、せめて、少しでも美味しいものを食べさせてやる事だけなんだ……。だから……、僕は……その為に、この世界の人間全てを皆殺しにするって決めたんだ」
「……慎二」

 身体が震える。慎二はもう止まらない。分かってしまう。
 アイツはアーチャーと同じだ。ただ一つの妄執の為に全てを投げ打とうとしている。その先に待つものが破滅であると分かっていても、立ち止まれなくなっている。

「……だから、僕達は戦うしかないんだよ」
「慎二……俺は――――」

 叫ぼうとする俺の目の前に慎二はおもむろにボストンバッグを投げつけた。

「……これは?」
「開けてみろよ」

 重い音を立てて落下したボストンバッグ。
 嫌な予感がする。とても……、嫌な予感がする。

「触らないで、坊や……」

 恐る恐る手を伸ばそうとする俺をキャスターが止めた。
 彼女はそっと人差し指をボストンバッグに向ける。すると、バッグのチャックが勝手に動き出した。
 するすると開いたバッグの中にあったのは――――、

「――――――――――――――――――――――――――――――――あ」

 吐いた。胃の中身を全て吐き出した。
 血など見慣れている。死などとうの昔に容認している。
 けれど、そこにあったソレは俺の覚悟を嘲笑うように心を揺さぶった。
 ボストンバッグの中には俺が所属していた弓道部の主将であり、友人でもある美綴綾子の生首が入っていた。
 相当な苦痛を味わったのだろう。彼女の顔は禍々しい程に歪んでいた。

「そいつは単なる見せしめだ。日の出までに大聖杯の下へ来い。さもなければ、お前にとって誰よりも大切な人間が死ぬ」
「…………まさか」

 誰よりも大切な人間と聞いて、思い浮かんだのはセイバーの顔。だけど、セイバーはここに居る。
 だとすれば……、ここに居なくて、衛宮士郎にとって何よりも掛け替えの無い存在といえば……それは――――、

「お、お前、藤ねえに何をした!?」

 怒りが一瞬で臨界を突破した。

「人質に取った。既に円蔵山にはライダーがブラッドフォート・アンドロメダを張っている。一応、お守りを持たせてあるが、夜明けと同時に自壊するようにしてある。愚鈍なお前でも分かるよな? 藤村を助けたかったら、夜明けまでに大聖杯の下に来る他無い」
「お……、お前……」
「……ふん。お喋りが過ぎるわよ」

 怒りのあまり、目の前が真っ白になり掛けた時、キャスターの声が響いた。

「……ああ、そう来ると思ったよ」
「――――ッチ。そういう事……」

 キャスターの動きが不自然に停止した。

「分かっていると思うが、僕が死ねば藤村は即死亡だ。そうなれば、衛宮は戦力にならなくなる。衛宮にとって、あの女は特別だからな」

 キャスターは慎二を忌々しそうに睨んだ。

「ど、どうしたんだ?」

 セイバーが問う。

「……どうやら、体内に毒を仕込んでいるらしいわ。何らかの魔術干渉を受けた場合、即座に死ねるように……」
「そんな!?」

 俺は慌てて慎二を見た。

「……衛宮。大聖杯の前で待ってるよ」

 そう言って、慎二は天馬と共に彼方へと消え去った。
 
「……慎二」

 俺は動けなかった。あまりの事に頭がついていけていないのだ。
 そんな俺を更なる混乱に陥れる存在が突如現れた。

「……ったく、面倒な事になってんな」

 青き槍兵が真紅の槍を肩に担ぎ、堂々と俺達の眼前に現れた。

「――――行くんだろ?」

 その問いが何を意味しているのか、その程度なら分かった。

「……当たり前だ。藤ねえを助ける」
「……オーケー。お前が行くってんなら、他の連中も動かざる得ない。最終決戦の幕開けってわけだ。なら――――」

 ランサーは頭上に向って高らかに叫んだ。

「俺達も行くしかないだろ!! なあ、バゼット!!」

 叫んだ後、しばらく虚空を睨んでいたランサーが獰猛な笑みを浮かべた。

「サンキュー」

 顔を俺達に向け、ランサーは言った。

「ってわけだ」
「……いや、何が『ってわけだ』なんだ?」

 あまりにも意味不明過ぎる行動に途惑う俺達。
 対して、ランサーは呆れたように言う。

「決まってるだろ」

 ランサーはニヤリと笑みを浮かべる。

「――――同盟の再結成だ」

第三十三話「第二魔法――――、キシュア・ゼルレッチ」

 私の聖杯戦争は既に終了している。十年待った私の聖杯戦争がこんな風に呆気無く終わってしまうとは思わなかった。
 まあ、アーチャーは本懐を遂げられて満足して逝ったわけだし、そこに文句をつけるつもりは無い。
 けど――――、

「……文句を言う時間さえくれないんだもん」

 涙が薄っすらと浮かぶ。
 色々と言いたい事もあった。もっと、一緒に居たかった。辛い人生を歩んだのだから、その分、彼の事も幸福にしてあげたかった。
 彼にとって、私は何だったんだろう。

『……すまなかった、凜。君を勝者にしたかった。それは誓って本当なんだ』

 そんな言い訳染みた言葉は欲しくなかった。

『ありがとう、遠坂。君がオレを召喚してくれたおかげだ。オレの人生は――――、報われた』

 そんな事で感謝されても嬉しくない。

「……馬鹿」

 私が欲しかった言葉は私と共に居た時間を肯定する言葉。
 彼の心には常に一人。私は結局、最後まで他人だった。

「……っちぇ」

 理不尽である事は重々承知している。それでもセイバーを見ていると苛立ってしまう。そんな自分の狭量さに驚くと共に腹が立つ。
 セイバーに罪など無い。ただ、巻き込まれてしまったイザコザの中で懸命に抗おうとしているだけだ。なのに、どうしてこんなにイラついてしまうのだろうか……。
 椅子に腰掛、眉間に皺を寄せているとノックの音が響いた。

「――――誰?」

 面倒に感じながら椅子から立ち上がり、扉を開く。
 すると、予想外の人物が立っていた。

「く、葛木先生?」

 そこに居たのは葛木宗一郎。私が通う高校の教師。

「――――遠坂。思い悩んでいるそうだな」
「……何のことですか?」
「お前を心配する友人から相談を受けた」
「友人……?」

 そんなもの、私にはいない。昔はそういう付き合いもあったけど、今は魔術師の家の当主としての自覚があるから他人とは一定の距離を置くようにしている。
 
「一体、誰の事ですか?」
「アインツベルンだ」
「……イリヤ?」

 あの子は友人どころか敵だ。今は士郎を助けるという共通した意志の下で共闘しているが、決して親しい間柄ではない。
 
「……それで、一体先生が私に何の用ですか?」

 つい、刺々しい口調になってしまう。

「――――要らぬ節介とは思うが……、教師として思い悩む生徒を放っておく訳にはいかん」
「……本当にそれだけですか?」
「どういう意味だ?」
「だって、貴方はキャスターのマスターじゃない」

 魔術師では無い。さりとて、一般人とも違う。キャスターと契約したのは単なる偶然という話だけど、それだって確固たる証拠があるわけじゃない。
 安易に信用していい相手じゃない。

「リン……。貴方、いつまで意地を張っているつもりなの?」

 宗一郎の背後からひょっこりと顔を出したのはイリヤ。

「意地って……」
「ここに居る者は誰も裏切ったりしないわ」
「どうして、そう言い切れるの?」
「だって、意味が無いもの」

 イリヤはキッパリと言った。

「意味が無い……?」
「考えてもみなさい。私や貴女は別に聖杯に固執しているわけじゃない。ただ、士郎の為にココに居るに過ぎない。そして、それはキャスターにも当て嵌まる」
「キャスターにも……?」
「彼女は聖杯を欲しているけど、同時にアーチャーとの約束を守ろうともしている。でなきゃ、アーチャーが脱落した今、ここに居座る理由が無いもの」

 それは……、認めざるを得ない。彼女はいつでも私達を見捨てる事が出来る。なのに、彼女がココに居座る理由はアーチャーとの約束を守り、士郎とセイバーを生かす為。

「私達の意志は一致している。故に裏切る必要なんて無い」
「でも……――――」
「――――ねえ、リン。もう、一人で抱え込む必要は無いのよ?」

 イリヤの言葉に困惑する。別に私は何も抱え込んでなんか――――、

「士郎とセイバーがあまりにも無防備だから、貴女は常に周囲に目を光らせる必要があった。セイバーやアーチャーがキャスターに奪われた事で一時は士郎を一人で守らなければならなくなった時もある。だから、誰の事も信じられなくなった。自分だけは常に周囲を疑い、隙を見せないようにしないといけないから……」
「そ、そんな事は……」
「アーチャーが居なくなったせいで、貴女のその思いは更に強まってしまった」
「私は――――」

 声を張り上げようとする私をイリヤが抱き締めた。
 あまりの事に声が出ない。目を丸くする私に彼女は言う。

「前にも言ったでしょ? 一人で根を詰めるのは禁物だって」
「イリヤ……」
「私達は仲間よ。私は愛する弟を守りたい。貴女は大切なパートナーの願いを叶えたい。なんなら、誓ってあげる」

 イリヤはまるで母のように穏やかに微笑んだ。
 その瞬間、私はちっぽけな子供に戻っていた。まだ、家族皆で一緒に過ごしていた頃の……、世の理不尽を何も知らなかった頃の私に戻っていた。

「――――私は貴女を裏切らない。最後の瞬間まで、貴女の味方で居てあげる」
「……どうして?」
「だって、貴女はシロウを守ってくれた。これまでずっと……。私の愛する弟を守り続けてくれた。あんなポンコツコンビを抱えて、魑魅魍魎が跳梁跋扈する聖杯戦争を戦い抜くなんて、無茶を通り越して無謀。だけど、貴女は今日まであの子を守り通した。その事に私が恩を感じている事がそんなに不思議な事かしら?」
「…………いや、だって、貴女は一回士郎を殺してるじゃない!!」
「それは私もマスターの一人だったからよ。マスター同士は殺し合う。それが聖杯戦争のルール。だけど、今の私はマスターじゃない。ただのシロウのお姉ちゃんよ」

 溜息が出た。張り詰めていたものが解放されたような気分。
 イリヤは味方だ。そんな事、ずっと前から分かっていた筈なのに、どうしても警戒を緩める事が出来なかった。
 理由は彼女の言った通り。士郎とセイバーを守る。その事を気負い過ぎていたらしい。

「……ありがとう、イリヤ」
「相談……、してくれるかしら? 貴女の悩みを私達にも聞かせてちょうだい」

 イリヤの言葉に頷き掛けて、その必要が無くなった事を悟った。
 頭の中がすっきりしていて、セイバーに対する苛立ちの原因もスッと理解出来た。
 
『何も……、教えてもらえなかった。あんなに一緒に居たのに……、結局、最期まで……』

 以前、アーチャーが呟いた言葉が脳裏に響く。
 それが苛立ちの正体だ。セイバーの隠し事。アーチャーが知りたいと願った彼の秘密。
 それを今尚、私達に話してくれない事に腹が立っていたのだ。

「――――ごめん。必要無くなっちゃった」
「ふーん。悩みは解決したって事?」
「ううん。そうじゃなくて、これから悩みを解決しに行くの」

 私は二人に感謝の言葉を告げ、部屋を出た。
 居間に入ると、エプロン姿で朝食をテーブルに並べるセイバーの姿があった。
 
「セイバー。食事の後に大事な話があるの。いいかしら?」
「……凜? 別に構わないけど、大事な話って?」
「後で話すわ。先に朝食を済ませてしまいましょう」
「う、うん……」

 困惑した様子のセイバー。今日は絶対に逃がさない。白状してもらう。全てを――――。


 
 朝食は恙無く終わり、セイバーがお茶を淹れて回っている。

「セイバー。座ってちょうだい」

 凜はセイバーが淹れたお茶を一口飲むと言った。

「う、うん」

 緊張した面持ちのセイバー。

「二人はどうしたんだ?」

 二人の間に走る奇妙な緊張感に士郎はすっかり困惑し、傍らに座るイリヤに問う。

「凜がセイバーに聞きたい事があるんだって」
「聞きたい事?」

 よく分からず、士郎はハラハラしながら二人を見守る。

「単刀直入に聞くわ。貴方が隠している事を教えなさい、セイバー」
「か……、隠してる事って?」
「この期に及んで惚けないでちょうだい。私が何を聞きたがっているか……、分かってるでしょ?」

 その言葉にセイバーは顔を強張らせた。助けを求めるように士郎を見る。
 士郎が思わず助け舟を出そうとするとイリヤに止められた。

「私も気になるわ、セイバー。貴方が何らかの隠し事をしているなら、それは私達の信頼関係に致命的な溝を作る事になる。それでも隠し通したい事なの?」

 穏やかな口調だけど、そこには断固とした意思が垣間見える。

「で、でも……」

 セイバーは再び士郎を見た。

「士郎がどうかしたわけ?」

 凜が問うと、セイバーは恥ずかしそうに呟く。

「……この事を話したら、士郎に嫌われちゃうかもって思って」

 その言葉に誰よりも早く士郎が反応した。

「嫌わない!!」
「し、士郎……?」
「嫌うわけないだろ!! 何を聞いたって、俺はセイバーを嫌いになんてならない!!」
「士郎君……」

 いきなり出来上がった二人の世界に凜はすっかり呆れてしまった。

「はいはい、御馳走様。聞いての通り、士郎は貴方にゾッコンだから、何を聞いても嫌ったりしないわよ」
「……う、うん」

 今度は頬を赤く染め、別の意図で士郎を見つめるセイバー。ウットリとした眼差しに別の意味でイラッとくる。

「いいから、さっさと話しなさい。いい加減にしないと、しばくわよ?」
「は、はい!」

 セイバーは名残惜しそうに士郎から視線を逸らし、深呼吸をしてから口を開いた。

「……まず、俺がこことは違う世界の人間だって事は皆知っての通りだ」

 凜達が頷くのを見て、セイバーはゆっくりと話を続けた。

「俺の世界には『Fate/stay night』っていうゲームがある」
「ゲーム……?」
「うん……。ジャンルは伝奇活劇ヴィジュアルノベル。まあ、簡単に言うと小説みたいなものだよ。話の内容に沿った絵や音楽がある分、アニメや漫画のような要素もあるゲームなんだ」
「それがどうしたんだ……?」

 突然、ゲームの話題を振られすっかり困惑する士郎達。ただ一人、全てを理解しているらしいキャスターだけが悠々とお茶を口にしている。
 語るべきか語らないべきか、セイバーは迷った。この話はある意味でこの世界を否定するものだ。それはつまり、彼等の事を否定する事でもある。
 けれど、この期に及んで口を噤む事は出来ない。

「……士郎」
「なんだ?」
「……その……、本当に俺の事……、嫌わないか?」

 もじもじと問い掛けるセイバーに士郎は顔を真っ赤にして頷いた。

「ぜ、絶対嫌わない!!」
「そういうのいいから、さっさと話を進めなさい!」

 凜に嗾けられ、セイバーは深く息を吸い、覚悟を決めた。

「……そのゲームの内容は聖杯戦争っていう魔術師同士の戦いを描いたものなんだ」
「――――は?」

 一同が凍りつく。セイバーはキュッと唇を窄め、話を続けるべきか再び迷った。

「……続けてくれ、セイバー」

 士郎の一言を受け、セイバーは懸命に迷いを振り払う。
 
「……その作品の主人公の名前は――――、衛宮士郎」

 セイバーは恐る恐る話し始めた。『Fate/stay night』というゲームの内容を……。
 出来る限り、事細やかに説明を終えた後、セイバーは俯いた。反応が怖かった。
 特に士郎の顔を見るのが怖かった。

「……ゲームか――――、さすがに予想外だったわ」

 凜の言葉に震えが走った。
 
「……ねえ、貴方は知ってたの?」

 凜が問う。

「マキリの聖杯やアーチャーの正体を最初から知っていたの?」

 それは単なる問い掛け。思わず顔を上げた先にある凜の顔に怒りの色は無い。

「……うん。知ってたよ。アーチャーが士郎だって事を俺は知ってた」
「そう……、そうなんだ」

 深く息を吐く凜。彼女が今、何を考えているのか想像もつかない。

「とにかく、謎は解けたわね。セイバーが言峰綺礼を監督役だと思い込んでいた理由もハッキリした」

 イリヤの言葉に凜が頷く。

「…………もっと早く教えてくれていたら、色々出来たかもしれないのに」
「ごめん……」
「まあ、いきなり言われても信じられなかったかもしれないけど」

 凜とイリヤは俺の話した事をあくまで情報の一つとして受け入れている。
 けれど、セイバーの不安は晴れない。一番肝心な相手が未だ反応を示していない。
 
「ゲームか……」

 漸く口を開いた士郎の言葉に身が竦む。次に何を言うか想像して恐怖のあまりどうにかなりそうだ。
 裏切り者。嘘吐き。偽物。この状況で自らに相応しい罵倒の文句が山のように浮んで来る。

「……悟」

 士郎は言った。

「怖がるなよ」
「……え?」

 士郎が俺の目下を人差し指でなぞる。すると、彼の指に小さな雫が付着した。
 それで漸く、自分が泣いている事に気が付いた。

「言っただろ? 何を聞いたって、お前を嫌いになんてならない」
「士郎……」

 士郎はセイバーを安心させるように微笑み、そして、少しだけムスッとした表情を浮かべた。

「むしろ、俺がお前を嫌うなんて思われた方が心外だ。俺って、そんなに信用ならないか?」
「そ、そんな事無い!!」

 机に乗り出して主張するセイバーを士郎は愛おしそうに見つめる。

「なら、俺を疑うな。俺は何があってもセイバーを嫌いになんてならないし、セイバーに嫌われるような事もしない」
「士郎……」

 感極まり過ぎて、感情が抑えられない。無意識に彼の頬に手を伸ばしていた。

「……やばいよ、士郎。ますます、君が好きになっちゃった」

 慄くような表情を浮かべて言うセイバーに凜が頭をチョップする。

「いい加減にしなさい」
「ご、ごめん……」

 呆れ帰っている凜とイリヤの表情を見て、急激に恥ずかしくなった。

「セイバー」
「な、なんだい?」
「俺からも話があるんだ」
「は、話……?」

 このタイミングで話とは一体……。
 セイバーの脳内に広がるのはキャスターの夢で見た目くるめく日々の情景。
 
「……なんで、セイバーはこんな頭の中お花畑状態になってるの?」

 悶々としているセイバーにドン引きしているイリヤ。

「まあ、恋愛経験なんて無かったみたいだし、初めて恋人が出来て浮かれてるんでしょ……」

 呆れかえる二人を尻目にセイバーは士郎の次の言葉を待っている。
 
「――――キャスターが俺を強化してくれる事になったんだ」
「……へ?」

 予想外の言葉にセイバーはキョトンとした表情を浮かべる。

「強化って……?」

 セイバーが問う。士郎はキャスターにされた説明をそのまま一同に伝えた。
 
「ま、待ってよ! し、士郎の人格が塗り潰されるかもしれないなんて、そんな事――――」
「もう、決めた事だ。それに、俺は何があっても俺のままで居続ける。言っただろ? 俺はセイバーが嫌がる事を絶対にしないって」

 だからさ、と士郎は言った。

「俺を信じてくれ」
「……士郎。でも、幾ら何でも……」
「頼むよ、悟。俺はお前を守りたい。それに、大切な家族を救いたい」
「それは……、正義の味方として?」

 セイバーが思わず呟いた言葉に士郎は首を振る。

「正義の味方としてじゃない……、衛宮士郎として、恋人と家族を助ける。その為に俺は力が欲しい」
「士郎……」

 その瞳に宿る決意の大きさにセイバーは慄き、涙を零す。

「ぜ、絶対……、帰って来てよ?」
「当たり前だ。俺が死んだら、セイバーが悲しむって分かってるからな」
「士郎……」

 二人のやり取りにすっかり置いてけぼりを喰らった凜とイリヤは溜息を零した。

「なんか、こいつ等を心配するのが馬鹿らしくなって来たわ」

 額を手で抑えながら呟く凜にイリヤが頷く。

「こういうのを日本だとバカップルって言うのよね。お爺様が教えてくれたわ」
「……お爺様って、まさか……、ユーブスタクハイト・フォン・アインツベルンの事じゃないわよね……?」

 イリヤは応えずにお茶を啜る。

「……なんか、頭が痛くなって来たわ」
「確りしなさい、凜。貴女にはこの後重要な役割があるんだから」
「重要な役割……? なによ、それ? 初耳だけど……」

 イリヤは勿体振るような笑みを浮かべてゆっくりと言った。

「――――貴女にちょっと至って貰おうと思うの」
「至るって……?」
「決まってるでしょ? 遠坂家が至るべき到達点。第二魔法――――、キシュア・ゼルレッチよ」

第三十二話「可愛い坊や……。早くお外に出ましょうね」

 遍く物語には終焉がある。その終わりがハッピーエンドなのか、それともバッドエンドなのか決めるのは読者だ。多くの読者は主人公の行く末に思いを馳せ、それが幸福な終わりか、不幸な終わりかを判断する。けれど、物語の中で息づくのは主人公だけではない。ヒロインや仲間、そして――――、敵。
 主人公の結末がハッピーエンドだったとしても、彼等の結末がハッピーエンドに終わっている保証は無い。特に主人公の敵役は大抵の場合、バッドエンドを迎える。夢を折られ、命すら奪われる事も多い。

「――――これが王道なヒロイック・ファンタジーなら、主人公は間違いなく衛宮だ。ヒロインは……残念ながら、僕の妹じゃなくて、あのアルトリアの劣化コピー。そんで、敵役が僕達」

 慎二はリビングのソファーで寛ぎながら傍らに立つライダーに囁く。

「どんなに頑張っても、主人公と敵役は決して同時に幸福にはなれないらしい。それが世界のルールであるかのように決まっている」

 ソファーの前の低いテーブルの上にはチェス盤のようなものが置かれている。ただし、その上に乗っている駒はチェスのソレでは無い。
 聖杯戦争における七つのクラスを象った駒が一つずつとチェスのボーンのような駒が七つ。
 盤上では二つの勢力が睨み合っている。もはや、余計な事で憂慮している暇は無い。
 
「……そろそろ、僕も吹っ切るべきなのかもしれないね」

 胸の内に宿る唯一の“迷い”。それさえ拭い去れば、此方の勝利は揺るぎないものとなる。
 
「ライダー……、ついて来てもらえるかい?」
「――――お供いたします、シンジ。どこまでも……」

「――――よく、セイバーを無能と馬鹿に出来たものね」

 朝食を作り始めたセイバーを横目に部屋を出ようと縁側へ出る襖を開けると呆れ顔のイリヤがいた。

「無能は私達も一緒でしょうに……」
「煩いわよ、イリヤスフィール。敵であるキャスターの“お情け”に甘えて、頼り切っている時点でセイバーを責める資格なんて無い。そんな事、分かってるわ……」
「分かっているなら、八つ当たりは止めなさい。セイバーは唯でさえ危うい状態なのだから、変に動揺させて、精神を折るような真似は慎みなさい」

 凜は唇を噛み締めた。イリヤの言った通り、さっきのは単なる八つ当たりだ。
 アーチャーの死。マキリの聖杯と化した桜。悲願である聖杯を台無しにしたアインツベルン。
 如何に屈強な精神を持つ凜とて人の子だ。憤怒や憎悪の感情と無縁ではいられない。今の彼女の心は酷く荒んでいる。
 何より、彼女を苛立たせたのは“自らの無能さ”だ。五大元素の使い手であり、遠坂の現当主にして、冬木の管理人。御大層な肩書きも意味を為さない。
 バゼット・フラガ・マクレミッツのようにサーヴァントと打ち合う戦闘能力があるわけでもなく、キャスターのように狡猾な策を練られるわけでもない。
 キャスターとセイバーはこの陣営の要。士郎はセイバーを支える為に必要。イリヤも“聖杯”としてここに居なければならない。
 ただ一人、凜だけは居ても居なくても同じなのだ。彼女のこなす役割はキャスターやイリヤが代替出来る。
 なのに、彼女が危険を承知でこの場所にしがみ付いている理由は一つ。“やり場の無い怒りの矛先”を捜しているのだ。

「……ごめんなさい。どうかしてた……。少し、頭を冷やしてくる」
「凜――――……」

 イリヤは自らの感情に振り回されている凜に溜息を零す。

「まったく、手間を掛けさせてくれるわね……」

 凜は自らの存在価値を見失っている。キャスターという偉大な魔術師の存在が彼女の土台を揺らめかせてしまっている。
 自らの完全な上位互換が傍に居る事はプラスにも働くし、マイナスにも働く。
 今の凜には彼女の存在がマイナスの方向に働いてしまっている。

「……折角、思いついた事があったのに」

 凜があのような状態で無ければ、現状を一気に覆す名案を披露出来たと言うのに、肝心要の彼女がああでは実行に移せない。
 常の自信を彼女に取り戻させる必要がある。

「アーチャーが居てくれたら……」

 彼が生きていれば凜もこうまで崩れる事は無かった筈。
 だが、無い物強請りをしていても仕方がない。眉間に皺を寄せながら、凜を立ち直らせる方法を考える。

「何とかしないと……」
「悩み事か?」

 その声に顔を上げると、イリヤの表情が強張った。

「……葛木宗一郎」

 キャスターのマスターであり、あのアルトリアを不意打ちとは言え投げ飛ばした男。
 士郎と凜が通う高校の教師らしいがあまりにも得体が知れず、イリヤは警戒心を顕とする。
 そんな彼女の態度を意に介さず、宗一郎は再び問う。

「何やら、悩んでいたようだが、必要とあらば相談に乗ろう」
「……相談に乗るって……、貴方が?」

 不審そうに睨むイリヤを宗一郎は静かに見下ろす。

「生徒の悩み相談は教師の務めだ」
「……私は貴方の生徒じゃない筈だけど?」
「余計な世話であったなら謝ろう」

 イリヤはしばらくジッと宗一郎を見つめた後、小さく溜息を零した。

「……まあ、今更貴方達を疑っても仕方無いわよね」

 イリヤは華麗にスカートの端を摘み上げ、深々と頭を下げた。

「お願い致しますわ、先生」

「おはよう、坊や」

 目を覚ますと、そこに魔女が居た。驚きのあまり言葉が出て来ない。口を魚のようにパクパクさせる士郎にキャスターはクスリと微笑んだ。

「寝起きドッキリを仕掛けたわけじゃないから、少し落ち着きなさい」

 寝起きドッキリという単語を知っている事にも驚いたが、とりあえず士郎は深呼吸をした。

「えっと……、何か用か?」

 彼女の様子を見るに緊急事態が発生したわけでは無いらしい。

「ちょっと、今後の事について話をしておきたくてね」
「今後の事……?」

 キャスターは凜がセイバーにしたものと同じ説明を士郎にした。
 
「桜が……、聖杯……――――?」

 何よりも彼を動揺させたのはその事実。桜が間桐の家の娘である以上、想定して然るべき事だった筈なのに、今の今まで彼女が聖杯戦争に関わっているとは考えてこなかった。
 それは彼女が士郎にとって大切な日常のピースであり、家族だったからだ。
 
「た、助けに行かないと……」

 慌てて立ち上がろうとする士郎をキャスターが押し留めた。

「な、何をするんだ!? は、早く、桜を――――」
「落ち着きなさい。今、貴方が下手に動いたらマキリとの最終決戦が始まってしまう。そうなると、現段階では此方が不利なの。セイバーやお嬢さん達を死なせたいの?」
「そ、それは――――、でも!」

 桜がそんな大変な事になっていたなんて、全く気がついていなかった。誰よりも気付き易い距離に居た癖に……。
 桜が苦しんでいるなら、助けに行かないわけにはいかない。

「家族なんだ!」

 士郎は必死にキャスターに訴える。彼女が苦しんでいるなら救わなければならない。
 
「駄目よ」

 懇願する士郎にキャスターはすげなく言う。

「少なくとも、今、この均衡状態を崩すわけには行かない」
「だ、だけど……」
「落ち着きなさい、衛宮士郎。どちらにしても、マキリとの戦いは避けられない。その時、必ず間桐桜も現れる。救うにしろ、排除するにしろ、マキリの戦力に抗う為の力が必要よ」

 今のままではどちらも不可能。

「なら、どうしたら……」
「貴方は力を手にする必要がある。それも今直ぐに……」
「どうやって……?」
「貴方を手っ取り早く強くする手段が一つある。けど、それは――――」
「どうすればいい!? 強くなれるんなら、俺は何だって――――ッ」

 詰め寄ろうとする士郎にキャスターは静かに言った。

「アーチャーの過去を追体験してもらう」
「追体験……?」

 首を傾げる士郎にキャスターは言う。

「前に夢という形で見せた彼の過去を今度は彼自身として体験してもらう。ただし、それはとても危険な行為。下手をすると、貴方の人格がアーチャーの人格に飲み込まれてしまう可能性もある。彼の夢の中でセイバーがアルトリアの人格に飲み込まれてしまったように……」
「そ、それで……、強くなれるのか?」
「前世の自分を降霊、憑依させる事で嘗ての技術を修得する魔術もある。これはその応用。私が保存した英霊・エミヤの経験値を同一の存在である貴方に流し込む事で戦闘能力に限らず、様々な点を強化する事が出来る筈」
「……分かった。じゃあ、早速やってくれ」

 士郎の言葉にキャスターは何故か苛立ちの表情を浮かべる。

「キャスター……?」
「そう来るだろうと思っていたけど、もう少し躊躇すると思ったわ」
「……はぁ? 何が言いたいんだよ」
「貴方、アーチャーがあれほど後悔に塗れた人生を送ったのを知っておきながら、同じ思いをセイバーにさせるかもしれないって事、理解してる?」

 キャスターの言葉に士郎は頷く。

「ああ、俺の人格がアーチャーに塗り潰されたら、きっとセイバーは悲しむ」

 それは確信している。セイバーは確かに己を愛してくれている。

「だからこそ、俺は必ず俺のまま戻って来る」

 士郎は言った。

「セイバーを悲しませる事だけは絶対にしない。どんな無茶でもやり遂げて、最期はセイバーを笑顔にしてみせる」
「…………なるほど、自分を蔑ろにしての決断では無いという事ね」
「ああ、それはセイバーを悲しませる事だからな。俺はセイバーが好きだ。だから、セイバーが嫌がる事は絶対にしない。そう、決めた」

 その言葉にキャスターは堪らず噴出した。

「――――いいわ。今の貴方は本当にいい。宗一郎様程では無いけれど、実にいい男よ。なら、精々気合を入れなさい。アーチャーの過去は決して生温いものじゃない。常に地獄の業火に焼かれながら、鉛を呑み込み、汚泥に満ちた沼を歩き続けるようなもの。彼の哀しみや怒りは貴方のものとなり、貴方を呑み込もうと襲い掛かって来る」
「承知の上だ。それでセイバーを守り、桜を救う力が手に入るなら是非も無い」
「なら、せめてセイバーの作った朝御飯を食べてからにしましょう。愛情たっぷりの御飯を食べれば、何が何でも戻って来てやるって気になるでしょ?」
「……ああ、そうだな」

 腐臭に満たされた地の底で少女は嗤う。

「――――もう直ぐ産まれるわ」

 少女の腹はポッコリと膨らんでいる。彼女は丸々したお腹を優しく撫で上げ、あやしている。
 空間の隅で息を顰めるアサシンはその姿に僅かに驚いていた。
 彼が佐々木小次郎を寄り代に召喚された直後に見た彼女と今の彼女の容貌は大きく変化している。
 歪に膨らんだお腹とは裏腹に他の部位はまるで萎んでしまったかのように細くなっている。顔も骨が突き出しそうになっているし、血色も――元々良くなかったが一層――悪い。
 恐らく、体内に宿っているナニカが彼女から生命力を奪い続けている結果だろう。

“アレは人だ。そして、同時にソレ以外のナニカだ”
  
 何故、そんなモノを彼女が孕んだのか正しくは理解出来ない。ただ、推測ならば出来る。
 原因は間桐臓硯が死亡した事。それまで、桜をコントロールしていた臓硯が死んだ事で彼女は恐らく、妊娠が可能になったのだろう。
 元々、年齢的には可能だった筈。だが、彼女は体内に精を取り込む度に全てを魔力に変換していた。ソレを彼女は止めてしまった。
 魔力に変換される事も無く、体内に取り込まれた精子が桜の卵子と結合して受精卵となった。そう考えれば、妊娠自体には説明がつく。
 だが、臓硯が倒れたのは数日前の事。にも拘らず、桜の体はまるで臨月を迎えようとしている妊婦のソレだ。
 それに精子の持ち主が何者なのかも不明。少なくとも慎二ではない。彼はあくまで桜を妹として扱っている。それ故に欲情し、手を出す事は一切無い。
 さりとて、不特定多数の生贄は臓硯亡き後全て、食事を通して桜の身に吸収されている。性行為自体、彼女はここしばらく蟲を使った自慰のみに留めている。

「もう直ぐよ、坊や」

 うっとりとした表情を浮かべる彼女にアサシンは違和感を覚えた。
 主たる少年は彼女を壊れていると評した。だが、これが壊れた女の浮かべる表情だろうか?
 確かに狂気染みてはいる。だが、女という生き物は大抵の場合、狂気的な面を隠し持っているものだ。それを分厚い仮面で奥に隠している。
 ヒステリックな女。盗み癖がある女。何かにつけて人のせいにする女。そういう悪癖のある女を特別視するのは誤りだ。
 女は魔性と人は言う。女は皆、そういう一面を隠し持っているのだ。違いがあるとすれば、それを如何に狡猾に隠し通せるかどうかに掛っている。
 慎二は彼女の狂気を見て、壊れていると思い込んだ。しかし、この女は――――、

「可愛い坊や……。早くお外に出ましょうね」

第三十一話「せめて、美味しい御飯を作って、皆に英気を養ってもらおう」

 夜が明けて居間に向うと凜の盛大な溜息が出迎えた。

「ど、どうしたんだい?」

 セイバーが目を丸くして問うと、凜は苦々しい表情を浮かべて言う。

「夜の内に慎二を捕まえようと思って教会に罠を仕掛けていたんだけど、空振ったのよ」
「……はい?」
「――――貴方達がデートしてた頃、こっちも色々と動いてたのよ」

 凜は語った。セイバーが士郎やアーチャーを連れて遊んでいる一方で自分達が何をしていたのかを――――、

「アーチャーの過去の映像を検証した結果、幾つか分かった事がある」

 セイバーが士郎とアーチャーを引き連れてデートに行った後、キャスターがそう口火を切った。
 アーチャーを彼等に同伴させた真の理由は単に本人が居る前で彼の過去を穿り返す事が憚られたからだ。まあ、彼にセイバーと過ごす一時をプレゼントしたかった事も理由の一端ではあるが……。
 キャスターが夢を通して開示したアーチャーの過去。キャスターはその中で重要なポイントを幾つかピックアップした。

「まず、何より重要な事はマキリの実質的な支配権が途中から間桐慎二に切り替わっている事ね」

 アーチャーと彼のセイバーが平和な一時を過ごせた理由は慎二が彼等の時間を作る為にアルトリアを含めた自軍のサーヴァント達を抑え付けていたからだ。
 そんな真似を間桐臓硯が許した事に激しい違和感がある。

「……恐らく、“聖杯”が臓硯を見限り、慎二の方に鞍替えしたんでしょうね」

 凜は淡々とした口調で告げる。その言葉の真意を目の前の二人は正しく理解している。
 アーチャーの夢では“マキリの聖杯”に関する情報だけがぼやけていたが、少し考えれば分かる事だ。

「――――マキリの聖杯の正体は“間桐桜”。恐らく、間違い無いわ」

 キャスターが断言する。円蔵山での三竦みの戦いの時点でマキリの聖杯がイリヤと同じ生体である事を確認している。
 加えて、マキリの陣営に所属し、聖杯となり得るだけの資質を持った人間は一人しか居ない。

「アーチャーが無意識に記憶を改竄していた理由もソレでしょうね」

 イリヤが呟くように言う。

「セイバーを自らの手で殺した直後に“マキリの聖杯”の真実を識ったとすれば――――」

 険しい表情を浮かべ、彼女は続ける。

「アーチャーが剣の鍛錬を行っていた場所に突き刺さっていた二振りの剣は恐らく彼にとっての心の傷を象徴している」

 一見すると、ソレ等は二人のセイバーを象徴しているように見えるが、実は違う。そもそも、アルトリアはアーチャーにとって“倒すべき存在”に過ぎない。
 彼にとって、憎悪や憤怒、後悔といった感情は己に向けられたものであり、アルトリアに対しては明確な感情を一切向けていないのだ。
 当然だろう。原因の一端ではあったが、彼女が直接日野悟を殺したわけでは無い。
 二振りの剣が指し示す真の意味は――――、

「一方は愛する人。もう一方は……、家族」

 アーチャーはセイバーを恋人として愛した。そして、同時に桜の事も家族として愛していた。
 愛する二人を同時に失った。それも……、自らの意思の下で殺害した。

「……愛する家族を殺す為に愛する者を殺した。それがアーチャーの後悔であり、彼に立ち止まる事を許さなかった呪いの正体」

 イリヤの言葉に凛はやるせなさを感じざる得なかった。直接手を下したのは確かにアーチャーだったが、そうするように仕向けたのは彼の世界の己だった。
 あの時点で彼女は気付いていた筈だ。殺すべき相手が何者であるか……。
 キャスターは眉間に皺を寄せながら口を開く。

「――――間桐桜が間桐慎二を選んだとすれば話の筋が通る。今の彼女は紛れもなく怪物。この私ですら、アレを力ずくで御する事なんて出来ない。アーチャー過去で彼の為に時間を作ろうとしたり、戦いから降ろそうと苦心していた所を見ると、彼は彼女を感情的なもので御しているのだと思う」

 それは彼が彼女と築いた家族愛によるものか、はたまた別のナニカか――――、

「いずれにしても、間桐慎二を捕らえる事が出来れば状況は大きく前進する事になる」

 イリヤの言葉にキャスターと凜が頷く。

「でも、どうするつもり? マキリのセイバーはうちのポンコツと違って、難敵よ?」
「……そうなのよね。そこが問題なのよ」

 今の戦力では下手に攻撃を仕掛ける事が出来ない。前回の円蔵山での戦いで分かった事はアルトリアがあまりにも強過ぎるという事。
 
「此方の手札を知られている以上、今度は前みたいにはいかない。幾ら策を巡らせても、“最強”が全てを力で捻じ伏せてしまう。慎二を攫うにしても、まずはマキリのセイバーをどうにかしないと……」

 三人で知恵を絞っても妙案は浮ばなかった。およそ考え得る限りで最強の布陣を敷いた円蔵山での戦いでも結局打ち倒す事は出来なかった。
 
「……やっぱり、ランサーを味方に付けるしかないわ」

 マスターの意向次第で平然と裏切るような真似もする相手を信じる事は出来ないが、贅沢を言っていられる状況でも無い。
 凜の提案に二人は渋面を浮かべながらも頷く。

「一応、ランサー陣営の潜伏先は分かっているから、接触は難しくないわ」
「……さすがキャスターのサーヴァントね」

 当然の如く敵の居所を掴んでいるキャスターに凜が顔を引き攣らせる。

「問題はどうやって交渉するかよね」

 イリヤが眉間に皺を寄せながら考え込む。
 
「こっちのスタンスとしては裏切られる前に始末する方向で動くべきだと思う。それを前提とした協力関係を結ぶ以上、カードも選ばなきゃいけない」
「前回みたいに証文を使った契約は論外だし、向こうも恐らく提案して来ないと思う」

 キャスターの宝具はあらゆる魔術契約を破棄してしまう。

「契約を一方的に破棄する事が出来るのは強みであると同時に弱味ね……。信頼関係を築くなんて不可能だもの」

 行き詰ってしまった。キャスターの宝具が交渉の上でとんでもない厄介者になっている。
 此方がどんなカードを出してもバゼットは乗ってこないだろう。

「……とりあえず、さっさと結界を張ってしまいましょう。終わるまでにそれぞれ案を練っておく事」

 キャスターの言に凜とイリヤが頷く。
 その後、三人は協力して衛宮邸に結界を張り巡らせた。神殿クラスとまではいかないまでも、かなりの完成度だ。
 三人が再び居間に集まり、それぞれが考えた案を出し合うが、到底実行に移せないものばかりだった。
 下手を打ち、ランサー陣営と戦闘になりでもしたら終わりだ。僅かな疲弊も許されない現状、ランサー陣営とは最悪でも現在の停戦状態を保つ必要がある。

 三人が睨めっこを続けていると、突然、キャスターが表情を強張らせた。
 彼女のマスターに異常が発生したとの事。彼女の主は夜中に繁華街を徘徊する学生達を取り締まる為に巡回に出ていたのだ。
 しばらくして、キャスターが主とのパスを経由し思念による会話を交わす。どうやら、強力な結界に囚われているそうで、念話を行う為のラインを繋げる事さえ困難で、その分時間が掛かってしまったらしい。
 そして、昨夜のアーチャーとアルトリアの決戦に話は展開していく。

「……アーチャーがアルトリアを倒してくれたおかげでキャスターも漸く身動きが取り易くなった。だから、盤面を俯瞰し、守勢を転じ、攻勢に出たわけよ」

 凜は慎二が監督役を狙う可能性があると告げたキャスターの推理をセイバーに語った。
 
「悲しむ間も惜しんで行動したってのに……、あんまり成果は上がらなかったけどね」

 溜息を零し、凜は目を細める。

「まあ、全く無かったわけでも無いけど……」
「どういう事?」

 セイバーが問う。

「まず、同じ推理の下、教会に根を張っていたランサー陣営と接触する事が出来た。その際、キャスターが一時的に協力関係を結ばせる事が出来た。まあ、あの場限りのものだったけど――――」

 凜はニヤリと笑みを浮かべる。

「それが一時的なものであると、慎二は知らない。恐らく、アイツは私達の陣営にランサー陣営が加入したと考える筈。そうなると、アイツも下手に動けなくなる。それに、マキリの戦力も把握出来た。想定していた最悪の展開は回避出来たわ」
「最悪の展開……?」
「――――アーチャーとアルトリアが万全な状態で向こうの戦力として復活して来る事よ」

 凜の発言にセイバーは息を呑んだ。

「貴方もアーチャーの過去を見たでしょ? マキリ……、慎二は聖杯である桜にサーヴァントの再召喚を行わせている。案の定、教会にはアーチャーとアルトリアの姿があったわ」
「そ、そんな――――」

 愕然とした表情を浮かべるセイバーに凜も不快そうに肩を竦める。

「不愉快極まりないけど……、少なくともアーチャーとアルトリアに理性は見受けられなかった。キャスターの言によると、マキリの聖杯による再召喚には幾つかのデメリットがあるらしいわ」
「デメリット……?」
「一つは“この世の全ての悪”によって汚染される事。それは復活していたライダーを視認した時点で確証を得ているわ。アレは正純な英霊程侵され易いから……」
「アーチャーとアルトリアは理性を保てない程に穢されたって事?」

 震える声で問うセイバーに凜は首を振った。

「アルトリアに関しては恐らくそうだろうけど、アーチャーは違うと思う。教会でキャスターが確認した所、アルトリアは汚染の度合いが増していたけど、アーチャーはライダーと然程変わりが無かったそうよ。アイツは確かに正純な英霊とは言えないから……」
「なら、どうして……?」
「恐らく、意思を残しておくと不味い事になるからでしょうね」
「不味い事……?」
「叛逆される恐れがあるって事」

 問題は山積みだが、光明が無いわけでは無い。

「アーチャーの過去を見た時点でマキリの聖杯のデメリットについては考察が出来ていたから驚くには値しないけど……。アーチャーとアルトリアが万全な状態で敵に回ったらと思うと身が竦むわ……。確証が得られた時は本当にホッとしたわよ」
「……だろうね」

 セイバーの表情は優れない。己の為に戦い抜いたアーチャーが敵の手に落ち、利用されている事実に愕然としている。
 
「……イリヤがアーチャーの魂を確保する事は出来なかったのか?」
「無理よ。相手は簒奪に特化した聖杯。あくまで単なる受け皿でしか無いアインツベルンの聖杯じゃ綱引きの舞台に上がる事も出来ないわ」
「そうか……」
 
 戦局に大きな変化は無い。マキリ陣営にランサー陣営とキャスター陣営の同盟を永続的なものと勘違いさせる事が出来た事とマキリの戦力を此方が把握出来た事は大きいが、未だに膠着状態を続けるしかない状況。
 
「……それにしても、どうしてその事を直ぐに話してくれなかったんだ? 少なくとも、昨夜の内に教えてくれたって――――」
「アンタ達は居ても邪魔になるだけだもの」

 不満を口にするセイバーに凜がすげなく言った。
 思わず閉口するセイバーに凜は呆れたように言う。

「自らの無知さを自覚なさい。貴方達の為に一々用語や状況の説明をしてたらまともに作戦の立案も出来ないわ。いずれ、動いてもらう時が必ず来るから、それまでは士郎とイチャイチャしてなさい」
「……凜。俺は――――」
「貴方に出来る事は何も無いわ」

 凜は冷たく言い捨てた。

「自分が一般人に毛が生えた程度なんだって事を理解しなさい。私はアーチャーのマスターとして、彼の望みを叶える義務がある。幸せにする云々は士郎に任せるけど、この聖杯戦争で貴方を死なせたりしない。主従揃って無鉄砲な所があるから今の内に言っておくけど、絶対に勝手に動いたりしない事。いいわね?」
「……ああ」

 返事をしながらもセイバーは焦燥感に駆られていた。
 状況が己の知らない内に進行している。その恐ろしさは言葉にならない程だ。
 けど、己に出来る事は何も無い。あるとすれば、それは己の無力さを自覚する事……。

「……ごめん、凜」
「謝る必要は無いわ。貴方は私達の切り札。ここぞという時には確りと働いてもらうから」
「はは……、お手柔らかに」

 冷や汗を流しながら、セイバーは朝食の準備に取り掛かる。久しぶりの台所。
 この戦いにおいて、自分に出来る事は極端に少ない。なら、出来る事を全力でやる。
 
「せめて、美味しい御飯を作って、皆に英気を養ってもらおう」

***
……というわけで、第二十九話~第三十一話は最終章の導入部でした(∩´∀`)∩
予定だと残り十話程度なので、残り僅かとなりましたが後もうしばらくよろしくお願いします!

第三十話「――――ええ、期待に添えるよう尽力致しますよ、慎二殿」

「……いらっしゃい」

 未だ草木も黙る丑三つ時。シスターは訪問者を招き入れる。
 
「何を驚いているのですか?」

 クスリと微笑み、シスターは奥へ訪問者を誘う。
 訪問者が連れて来られた部屋は蝋燭のぼんやりとした灯りに包まれている。神経を張り詰める彼にシスターは紅茶を淹れた。

「砂糖はお幾つ必要かしら?」
「――――必要無い。それより、こっちの用件はお見通しってわけか?」

 訪問者……、間桐慎二は眦を吊り上げて教会の主であるカレン・オルテンシアに問う。
 カレンはまるで慎二の訪問を察していたかのように教会の前に佇んでいた。

「……ええ、忠告を受けていましたからね」
「ランサーのマスターか? それとも、キャスターか?」
「両方からですよ。恐らく、今夜中に貴方が私を攫いに来るだろうと……」

 普通のマスターならば決して思いつかない筈の計画。魔術協会と聖堂教会の橋渡しを担う監督役を攫い、バゼット・フラガ・マクレミッツを炙り出す作戦が筒抜けだった事に動揺を隠せない。
 
「ええ、貴方が考えている通り、この教会は包囲されています」
「――――ッ」

 口に出す前にカレンに考えを読まれ、慎二は唇を噛み締める。

「……何故だ。どうして……、僕の考えは読まれてしまったんだ?」

 包囲網を敷かれた事実に苦慮しながら問う。

「――――マキリのセイバーとアーチャーが相打ちになった時点でパワーバランスが崩壊した。この状況で各陣営の動きを予想しようとすると、鍵となるのはランサーの陣営。二大勢力のどちらにも付かず、高みの見物をしているランサー陣営はその思惑次第で天秤を動かす事が出来る。そう……、“マキリの聖杯”というジョーカーを握るマキリをこの機会に打倒してしまおうとランサー陣営がキャスター陣営に手を貸す可能性が高い。故にマキリは動かざる得なくなる。ランサー陣営か、あるいはキャスター陣営を攻め、合流されるという最悪の展開を回避しようとする筈。その場合、マキリ……いえ、間桐慎二は衛宮士郎の居るキャスター陣営ではなく、ランサー陣営を攻めようとする。何故なら、間桐慎二は衛宮士郎に掛け値なしの友情を感じているから……」

 考え過ぎだ。そこまで深く考えての行動ではない。けれど、結果が功を奏した現状、考え方や過程など関係無い。
 
「ッハ……、僕が衛宮に友情を感じてるって?」
「貴方のこれまでの行動を垣間見ると、そうとしか判断出来ないそうです」

 苦笑した。大正解だ。桜の事で感謝しているし、それ以前に慎二にとって、士郎は紛れもなく親友だ。こんな性格だから、本音を言い合える友人などお人好しな士郎くらいしかいない。
 本心を悟られないように気を使ったつもりだったのだが、目敏い奴等には気づかれてしまったらしい。

「それで……、僕をどうするつもりなんだい?」

 教会は不可侵領域だ。だからこそ、未だ攻め込まれる事無く慎二は生きていられる。
 けれど、一歩でも外に出れば――――、

「監督役として……そして、聖堂教会として勧告します。今直ぐに降伏し、マキリの聖杯を渡しなさい」
「断る。話にならないな」

 愚か者め。慎二は嗤った。そんな勧告をする余裕があるなら、今直ぐ己を殺すべきだ。
 既に理由は揃っているのだから、躊躇う必要も無いだろうに……。

「……悔い改めるつもりがあるなら、教会は貴方にも門扉を開きます。聖杯戦争中という事なども考慮に入れ――――」
「僕は愚図が嫌いだ。二度も同じ事を言わせるなよ。僕は断ると言ったんだ。神の慈悲なんて今更欲しくない。ここを包囲しているという事はランサー陣営がここに来ているという事だろう?」

 包囲と言っても、残っているサーヴァントはセイバーとランサー、そして、キャスターの三騎のみ。内、セイバーが戦力外である以上、ここに居るのはキャスターとランサー。
 他にも何らかのトラップを仕掛けているのだろうが……、

「手間が省けて大助かりだ」

 今回は隠密行動を主流とするつもりだったからアサシン以外のサーヴァントを連れて来ていない。けれど、必要とあればいつでもどこにでも呼び出す事が出来る。
 慎二はポケットから一匹の蜘蛛を取り出し、指に乗せる。

「――――お前達はちょっと僕を馬鹿にし過ぎだよ」

 如何なる距離をも零とする方法が一つある。令呪による強制召喚だ。
 元々、令呪とはマキリ・ゾォルケンが考案したシステム。桜が“再召喚”を行う際に再び“英霊に――聖杯の魔力を汲み上げ、作り上げた――新規の令呪と契約を結ばせる”事を怪老は可能とした。
 もっとも、一度“再召喚”を行ったサーヴァントに再び令呪との契約を結ばせる事は出来ないが……。

「――――させません! ノリ・メ・タンゲレ!」
 
 それは神の子が己に縋り付こうとする娼婦に告げた静止の言葉。憐れなその娼婦の亡骸を巻いたソレはその対象を反転させる。
 男から女に放たれた苦言は女が男を突き放す言霊となった。
 カレンがどこからか取り出した赤い布が慎二に迫る。

「生憎だが、そうはいかんぞ」

 その布を突如姿を現したアサシンが黒塗りのナイフで断裁する。
 
「――――気配遮断で隠れ潜んでいたのですね」
「私が復活している事など分かっていただろうに――――、間抜けめ」
「……復活など神に選ばれた者の特権だと言うのに」
「何を言うかと思えば……、サーヴァントとはある意味で復活者だ。それを冒涜と言うのなら、こんな儀式を容認している時点で貴様も狼藉者だ。責められる謂れは無いな」

 険しい表情を浮かべるカレンに対し、アサシンは嘲笑の笑みを浮かべる。
 睨み合う彼等の背後でアサシンの主は悠々と蜘蛛に向けて命令を告げた。

「――――桜。今直ぐに僕の下に全てのサーヴァントを召喚しろ」

 瞬間、カレンは部屋を飛び出した。慎二は彼女の後を追わずに出現したサーヴァント達に命令を伝える。
 下手にライダーと共に上空へ逃げる事は出来ない。目視出来ていない状況ではランサーの“突き穿つ死翔の槍”が来たら、防ぐ手立てなど無いからだ。
 故に逃げるにしてもタイミングを見計らう必要がある。

「バーサーカーとアルトリア、そして、アーチャーは外に飛び出して暴れ回れ」

 理性を欠片も持ち合わせない怪物三体が慎二の命令と同時に飛び出していく。
 宝具を発動する事すら出来ない狂戦士達。戦闘技術も無いに等しく、生贄達から調達した膨大な魔力で無理矢理引き上げたステータスに飽かして暴れ回らせる事しか出来ないが、逆に言えば暴れ回らせる事は出来る。つまり、全くの無能というわけでも無い。
 型の無い相手というのは意外と厄介だったりする。中学の頃、当時喧嘩っ早かった士郎に付き合い、馬鹿な不良と喧嘩をしてた頃に知った事だ。
 時間稼ぎは勿論、ある程度相手を消耗させる事も出来る筈だ。

「ライダーはランサーが出て来て、ある程度消耗したら僕を連れて飛べ。ランサーの射程範囲から直ぐには離脱せずに少し時間を掛けてから屋敷に向けて退避するような軌道で飛ぶんだ」
「……なるほど、囮作戦というわけですか」
「狙い通りにいけば、ランサーが宝具を使う。その瞬間が好機だ。アサシンはその隙をついて、奴に宝具を使え。使い手が死ねば、宝具の発動もキャンセルされる筈だからな」
「聊か、それは危険過ぎるのでは?」
「危険は承知の上だ。だけど、上手く行けばランサーを落とせる」

 アサシンの苦言に笑みで返す慎二。アサシンはそれ以上言葉を挟む事はせず、主の指示に従い気配を消す。
 
「タイミングを誤るなよ」
「期待に応えます」

 ライダーは首に釘剣を突き立てた。溢れ出す血が虚空に陣を描き、そこから翼を生やした白馬が躍り出る。
 二人は天馬の背に跨ると、時を待った。

「キャスターの呪にはご注意下さい」
「ああ……って言っても、神代の魔術を相手に僕に出来る事なんて無い。完全にお前任せだ」
「……そうでしたね」

 クスリと微笑むライダーに慎二は舌を打つ。

「分かってて言いやがったな、お前」
「緊張している御様子でしたので、少々和ませようかと……。ほら、リラックスリラックス」
「緊張が薄れる代わりにイライラしてくるから止めろ。それより、馬鹿な事しててタイミングを――――」
「今です!」
「今かよ!?」

 天馬から跳び上がる。まるでジェットコースターだ。しかも、命綱であるベルトも無い世界最速のモンスターマシン。意識は辛うじて保っているが、ライダーの体にしがみ付いている事さえ困難。
 景色や状況を見る事すら出来ない。風の音が凄過ぎて、ライダーの声も聞こえない。
 生きているのか、死んでいるのかすら分からない。

 そして――――、

「ああ、シンジ。この程度で気を失ってしまうなんて……、まだまだですね」

 目が覚めた時は太陽が真上に昇っていた。

「ど、どうなった?」

 頭がズキズキする。吐き気も酷い。けれど、状況だけは把握しなければならない。

「……しくじりました。ランサーは此方に宝具を向けて来ませんでした」
「ああ、多分だけど、僕達の話が向こうに筒抜けだったんだろうな」
「……え?」

 ギョッとするライダーに慎二は肩を竦めた。

「相手はキャスターだぜ? あんな所で結界も張らずに堂々と話してたら筒抜けに決まってるだろ」
「で、では……まさか、囮は我々では無く――――」
「……私だった訳ですね」
「おお、生きていたのか、アサシン!」
「…………………………………………ええ、おかげさまで」

 表情は読めないが、少々ムッとしていらっしゃる御様子。
 慎二は苦笑いを浮かべながら謝った。
 
「悪かったよ。けど、あの場でリスクを冒すつもりは無かったんだ。僕にはやるべき事があるからね」

 その為にわざわざ作戦を相手に聞かせた。此方がランサーを殺すつもりで動くと相手に知らせる事により、逆に相手の動きを支配した。
 慎二の狙い通り、ランサーはライダーでは無く、“己を殺そうと隙を伺っているアサシン”を返り討ちにする為に動いた。

「まあ、バーサーカー達にビビッて逃げてくれれば一番楽だったんだけどな。さすがにアイツ等じゃ脅しにもならないか……」

 元は最強の英霊達だったが、理性を完全に奪ってしまったせいで役立たずになってしまっている。
 さりとて、アルトリアは汚染され過ぎていて理性を取り戻す事は不可能だし、バーサーカーとアーチャーは理性を取り戻した瞬間に叛逆して来るだろう。
 溜息を零しながら、アサシンの無事の帰還を喜んだ。理性を保つ手駒は何より重要だ。

「しかし……、それでもリスクは大きかったのでは?」
「まあ、最悪の展開としてはお前がランサーのマスターにカウンターを喰らう場合だな。そうなると、お前の宝具がキャンセルされて、ランサーの宝具がキャンセルされず、僕達が死ぬ」

 そうならなかったのはアサシンが宝具を使わなかったからだ。

「よくぞ、僕の考えを汲んでくれたな、アサシン」
「……ランサーのマスターが隠れ潜み、宝具の発動態勢に入っているのを確認しましたので」

 慎二の指示通りに戦場に現れたランサーに近づくと、彼のマスターが宝具であるフラガラックの発動態勢を整えていた。
 その瞬間に彼は理解した。実は己こそが囮であった事を……。

「さすがに二度も同じ轍は踏みませぬが……」

 以前、己を殺したバゼットの宝具。一度受けた技を再び受けて死ぬなど愚の骨頂である。
 ライダーが飛び出すと同時にランサーが宝具を発動させる前に攻撃を仕掛ける。
 そこまでアサシンが読む事で達成される綱渡りの作戦。

「私が読み間違えていれば最悪の展開になっていたでしょうに……」
「そこはお前を信用していたのさ。お前なら僕の考えを汲んでくれると思っていた」
「……慎二殿」

 アサシンは主たる少年を静かに見据える。少年は妹を既に壊れていると称するが、彼も既に壊れている。
 彼は妹とその周囲を取り巻く環境によって既に正気を奪われているに違いない。士郎という少年に傾倒し過ぎていたり、己を信じ過ぎているのも恐らく、それが理由だ。
 彼の傾倒や信用は彼の心の叫びの発露。救いを求め、深い森を彷徨っている。

「これからも頼むぞ、二人共。お前達が僕の切り札なんだからな」

 ニッと笑みを浮かべる彼にアサシンは「御意」と返す。
 彼に真に忠誠を尽くすなら、きっと彼を士郎の下へ連れて行くべきなのだろう。恐らく、そこに彼の救いがある。
 けれど、そうはいかない。彼の救いはキャスターの勝利に繋がってしまう。そうなれば、己が聖杯に触れる機会を得られなくなる。
 それはいけない。己には聖杯が必要だ。その為に召喚に応じ、この少年に忠義を誓っている。
 彼には踊り続けて貰う。この手が聖杯に届く、その日まで……。 

「――――ええ、期待に添えるよう尽力致しますよ、慎二殿」