エピローグ「幸福な未来へ」

 聖杯戦争は終わりを迎えた。アーチャーとモードレッドは聖杯の崩壊と共に消滅した。私はおじさんに抱きしめられながら泣き続けた。
 それが、十年前の話だ。
「……うーん、この問題は私の手に負えませんな!」
「諦めんな!! さっき教えた公式を使えば解けるだろ!!」
 私の周りには人が少しだけ増えた。海外に留学していたお兄ちゃんが帰って来たのだ。
 おじさんとお兄ちゃんと私の三人家族で日々を過ごしている。鶴野おじさんは今も海外を飛び回っている。おじいちゃんがいなくなった事で得た初めての自由を謳歌しているみたい。
 おじさんは顔を合わせる度に彼を殴っていて、その時に見せる怖い顔にお兄ちゃんはちょっと怯えている。私も折角だから怯えた振りをして、健気に私を励まそうとするお兄ちゃんの愛情を堪能した。
 私としては鶴野おじさんの事も嫌いじゃない。罪悪感を感じているからか何なのか知らないけど、合う度に豪華なお土産を山のようにくれるからだ。おじいちゃんの遺産が山盛りな上、最近お兄ちゃんが株取引なるものに手を染めて大儲けし始め、私にお小遣いを大量にくれるおかげで財政面で何の不満も無いけど、もらえるものは貰っておく主義だ。
「お兄ちゃん! 私も株取引してみたい!」
「絶対に駄目だ」
 真顔で断られた。甘えると大抵の事を許してくれるチョロいお兄ちゃんなのに……。
「ほらほら、慎二くんを困らせちゃ駄目だよ? 桜ちゃん」
「困らせてないよ。甘えてあげてるんだよ。嬉しいよね?」
「……時々、そのふてぶてしさに感心するよ。一発殴っていいか?」
 あ、やり過ぎた。
「顔が怖いよ、お兄ちゃん。ほら、スマイルスマイル。可愛い桜ちゃんを見て和んでー」
「おじさん。桜の将来が凄く不安になるんだけど……」
「……いや、その……、まあ日々楽しく過ごせているならそれで……」
 お兄ちゃんは時々、昔読んだ漫画の主人公みたいな表情を浮かべる。
 きっと、今は『駄目だこいつ……、早くなんとかしないと……』とか考えているのだろう。
「このままじゃ駄目だ。……遠坂に相談するか」
「え?」
 怖いことを言い出した。
「いや、お姉ちゃんは別に関係無いし……」
「……相変わらず苦手意識持ってるみたいだな。これは効果がありそうだ」
 ニヤリと悪魔のような笑顔を浮かべるお兄ちゃん。
 
 翌日、学校の屋上に呼び出された私は正座をさせられながらお姉ちゃんの長いお説教を聞く事になった。
 おかしい。昔はとことん甘やかしてくれたのに、最近は会う度にお説教を受けている。
「大体、桜は甘え過ぎなの!! そんな事で将来どうするの!?」
「べ、別にー、お金には困ってないしー、おじさんもいるしー、お兄ちゃんもいるしー」
「もう! どうしてこんなに甘ったれになっちゃったのかしら!」
 頭を抱えて悩みだした。
「や、やだなー。そんな深刻にならなくても……」
「深刻にもなるわよ! 慎二なんて最近は子育ての本や教育に関する本を読み漁ってるのよ!?」
「え……?」
 割りとシャレにならないレベルで悩まれてる……?
「雁夜さんや慎二が怒れないタイプだから、その分まで私が怒る事にしたの! それが姉としての責務! というわけで、まだまだたっぷりお説教するからね!」
「ひぇぇぇぇ」
 本当にたっぷりとお説教された。気付けば日が暮れていて、私は真っ白になっていた。
 お姉ちゃんが立ち去った後、三十分かけて漸く立ち上がると白い髪がチラッと見えた。
「あれ、イリヤちゃん?」
「だ~いぶ、絞られてたねー」
 同情の眼差しを向けてくる親友が投げてきた缶コーヒーを飲む。
 聖杯戦争が終わった後、両親を失った彼女をお姉ちゃんが引き取った。彼女の境遇に義心を燃やしたみたい。
 アチコチ奔走して、イリヤちゃんを長生きさせる方法を探している。結果として、人並みに成長して立派な女子高生になっているけど、余命はあまり延びていないらしい。
 だから、私達はもう直ぐ始まる儀式に賭けている。
「……別にいいんだよ? 私、十分幸せに暮らせてるし」
「私達がイヤなんだよ。イリヤちゃんには長生きしてもらいたいもの」
 私やお姉ちゃん、それにイリヤちゃんの手の甲にも真紅の刻印が浮かんでいる。
 第四次聖杯戦争終結から十年。今再び、戦いの火蓋が切って落とされようとしている。
 彼女を喚び出せば、聖杯を手懐けてくれる筈だ。それに私達が参加しなくても、聖杯戦争は始まってしまう。
 大聖杯を解体する為には力が足りなかった。
 逃げてしまえば不幸な目になど合わない。だけど、甘ったれな私にも譲れないものがある。
 
 そして、再び運命の夜が訪れる。
 私の前には嘗て共に歩んだ|魔女《キャスター》が現れた。
 お姉ちゃんの前には赤い外套を纏う|弓兵《アーチャー》。
 イリヤちゃんの前にはギラギラとした瞳の|魔剣士《セイバー》。
 
 その日を境に再び冬木の地は戦場となる。
 青き|槍兵《ランサー》、華やかな|騎乗兵《ライダー》、黒き|死神《アサシン》、荒れ狂う|狂戦士《バーサーカー》。
 時に手を取り合い、時に激突し、彼等の戦いは人知れず行われる。

 戦いの中で育まれたものがある。戦いの中で失われたものがある。
 数々の苦難を乗り越え、すっかり我侭な甘ったれに育った彼女は再び我侭の為に戦う。
 ただ只管、幸福な未来を望んで……。
「お前はいつも嫌な方向で私の予想を上回るな」
 喚び出された魔女は大きなため息を零すのであった――――。

 ~ END ~

最終話「集結、そして終結」

 そこは私の家だった。キャスターが用意した拠点でも、間桐の屋敷でも、遠坂の屋敷でも、安アパートでも、孤児院でもない。幼い頃、私がなっちゃんや両親と過ごした家。
 私は幼いなっちゃんの笑顔に出迎えられた。
「おかえり、春香」
 リビングには事故で死んだ筈のお父さんがいる。
「おかえりなさい、ハルちゃん」
 優しかった頃のお母さんがいる。
「遅いぞ、桜」
 キャスターが普通の服を着て寛いでいる。
「桜ちゃん。今日は美味しい御飯を作ったんだ!」
 おじさんがキッチンからエプロン姿で出てくる。
「桜様」
 セイバーも普通の服を着ている。
「桜」
 若い頃のおじいちゃんがお茶を啜っている。
「マスター」
 ハサンも普通の服を着ている。体が大きいから、まるで外人ボクサーみたい……。
「桜!」
 お姉ちゃんもいる。
 みんなが私に笑顔を向けている。ああ、これが私の望んだもの。望んだ世界。
「みんな……。みんな、大好きだよ」
 何も考えたくない。この幸せな時間が永遠に続いて欲しい。
 他に望むものなどない。

 ◇

 その光景はあの日の再現だった。
 天に浮かぶ黒い月。サーヴァントが最後の一騎になった事で聖杯が起動した。二つに分けられていたサーヴァントの魂が間桐桜の持つ聖杯に集められ、彼女を呑み込んだ。
 アーチャーのサーヴァントは苦悶の表情を浮かべる。
「またなのか……?」
 あの日、救えなかった少女。切り捨てた家族をまた失う。また、この手で殺さなければならない。
 さもなければ、この地に地獄が再現される。
 第三次聖杯戦争で召喚されたアヴェンジャーのサーヴァント。この世全ての悪と呼ばれる存在が聖杯にくべられた時、純白の杯は黒一色に染まった。あらゆる祈りを呪いに変換する闇の聖杯。一度起動したソレはこの地に災厄を齎す。
 彼は過去に一度体験している。全てを燃やし尽くす炎に囲まれた街。そこで彼は死にゆく人々を見た。ただ一人、衛宮切嗣によって救われた彼は正義の味方として、地獄を歩み続けた。
 
 これは彼が幾度と無く体験したもの。
 悪夢のような選択肢。
 一人を殺し、全てを救うか。
 一人を生かし、全てを見捨てるか。
 人間だった頃も、守護者として生きる永遠も、今この時も、彼は地獄を歩んでいる。
 答えなど決まりきっている。命の価値は平等だ。ならば、数で選ぶほかない。
 正義の味方は善人の味方ではない。より多くの人命を存続させる為のシステムでしかない。機械に感情など不要。ただ、正しき選択に従うのみ。
「……さくら」
 可愛い女の子だ。初めて会った日の事を今も覚えている。暗い表情を浮かべ、初めの内は笑顔を見る事が出来なかった。
 それが少しずつ心を開いてくれて、一緒に料理を作って、一緒に食べて、一緒に過ごした。
 家族だった。他に変えようのない存在だった。
 彼女を切り捨てた時、彼は完全な機械になった。
 体は剣に、心は鉄に、命乞いをする者を殺し、生きたいと望む者の未来を壊し、罪なき幼子に死を与えた。
 死神。悪魔。鬼畜。ヒトデナシ。外道。殺人鬼。
 それが彼の通り名となった。
「すまない」
 彼は正義の味方。
 ヒトを救うものではない。
 ただ、人類を存続させる機械。
「|投影開始《トレース・オン》」
 創り上げるモノは彼の識る限り最高の一振り。
 嘗て憧れた輝き。
 人々の想念を星が紡いだ神造兵器。
 固有結界が崩れていく。コレを創るという事はそういう事だ。
 人の手に余る奇跡の代償はその命。既に彼の肉体は消滅を初めている。
「また……、君を救えなかった」
 アーチャーは剣を振りかぶる。
「|永久に遙か《エクス》――――」
「ヤメロぉぉぉぉ!!!」
 彼の動きを止めたのは一人の男の叫び声だった。
 男はアーチャーの横を擦り抜け、聖杯に手を伸ばす。
「……まとう、かり……や」
 桜の口振りから、既に死んだものとばかり思っていた。
「おじさん!!」
 後ろから必死に彼を追い掛ける少女がいた。
 その顔をよく識っている。
「遠坂……」
「桜を助けて!!」
 泣き叫ぶ遠坂凛。その声に応えるように、間桐雁夜は跳躍する。
 死んだ筈の男。一度は確かに止まった心臓の鼓動。それを再び動かしたものは彼の心と魔女の加護。
 桜の未来を案じた魔女は彼の肉体を再生する時に幾つかの魔術刻印を刻んだ。それは彼が桜を守る意思を持つ限り彼を生かすもの。雁夜は桜を守りたいと願い、魔女の加護はそれに応えた。
 稀代の魔女に刻まれた刻印は彼を暗黒の月に誘う。呑み込まれていく雁夜の姿にアーチャーは動けなかった。
「……諦めていないのか?」
 それは嘗て選びたかった選択肢。選べなかった選択肢。
 愛する家族の為ならば、選ばなければいけなかった選択肢を雁夜は選んだ。
 アーチャーの目の前で幼き少女が手を広げる。体を震わせながら、妹が呑み込まれた暗黒の月を守っている。
「アレはこの地を地獄に変えるぞ」
 アーチャーは言った。
「あの子は帰ってくる」
 震える声で少女は言った。
「君も死ぬ。みんなも死ぬ。それでもいいのか?」
「桜は帰ってくるの!!」
 愛する妹。彼女の為に今まで何もしてあげる事が出来なかった。
 だからこそ、絶対に退くわけにはいかない。
「桜には指一本触れさせないから!!」
 アーチャーは剣をゆっくりと降ろす。
「三分だ」
「え?」
「それ以上は待たない」
 いつ暴走するか分からない状況。三分後に宝具を発動出来るかも分からない状態。それでも、彼は待つと言った。
「……頼むぞ、間桐雁夜」
 泣きそうな声で彼は言った。
「桜を助けてくれ」
 選びたかった選択肢を選んだ男に彼は託す。
「アーチャー……?」

 ◇

 小心者で、ストーカー気質で、陰湿な男は闇の中を無我夢中で走っている。
 初めは一人の女に対する思慕だった。禅城葵。彼が幼い頃から恋い慕っていた人だ。桜を救おうと思った理由の大部分は彼女の為だった。
 だが、桜の容赦の無い言葉によって、彼は葵に対する未練を捨て去った。己の醜さに向き合った。|彼女《さくら》が|彼《かりや》を追い出す為に口にした数々の言葉が彼に決意を固めさせた。
 小さな体で過酷な運命を背負わされた女の子。彼女を守る為だけに戦う決意を固めた。
「桜ちゃん……。絶対に助ける」
 魔女の加護が彼を進ませる。
 魔女は知っていたのだ。大聖杯の真上にある寺に神殿を築いた彼女が気付かぬ筈がない。この地の聖杯に取り憑く魔の存在に。
 だからこそ、万が一に備えて魔を退ける仕掛けも施した。
 
 そして、辿り着く。
 そこは奇妙な空間だった。闇にあって、光に満ちた世界。そこには彼女が失った全てが揃っている。
 家族のぬくもり。幸せな時間。
 識らない者がいる。知っている者がいる。
 桜はその中心で幸せそうに笑っている。
 雁夜は気づいた。
 これは彼女の願いだ。
「すまない、桜ちゃん……」
 きっと、これは彼女にとって酷いことだ。漸く手に入れた幸福な世界を破壊する己は彼女にとって最悪の敵になる。
 それでも、この世界は偽物だ。こんな世界で彼女は幸せになんてなれない。
 雁夜は光の世界に足を踏み入れる。
「桜ちゃん」
 声をかけると、桜は酷く驚いた表情を浮かべた。
「だれ……?」
 窓ガラスに映る己の姿に雁夜はため息を零した。まるで獣だ。真っ黒な獣。赤い瞳が実に禍々しい。
「誰だ、貴様!!」
 キャスターが怖い顔を浮かべる。
「桜に近寄らないで!!」
 凛が箒を振りかぶる。
「春香には手を出させんぞ!!」
 識らない男が知らない名前を口にする。
 どうでもいい。お前達はみんな偽物だ。偽物に構っている時間などない。
「桜ちゃん」
 偽物達を無視して、桜に手を伸ばす。
「……おじさん?」
 どうして分かったのか、雁夜は不思議だった。
 首を傾げると、桜は微笑んだ。
「分かるの。だって、おじさんはいつもそうやって手を伸ばしてくれるもの」
 手を取った瞬間、世界は一変した。闇に覆われた空間。周りにいた偽物達は影の怪物に変わった。
 きっと、彼女も分かっていたのだろう。寂しい顔で彼等を見つめている。
「おじさんはどうして?」
「キャスターが色々とね」
「そっか……。落ち着いていれば分かった事なのにね。まさか、自力で生き返ってくれるとはこの桜ちゃんの目を持ってしても見抜けなかったよ」
 いつもみたいに軽口を叩く桜。だけど、その顔はどこまでも哀しそうだ。
 
 ◆

「走るよ、桜ちゃん」
 おじさんと共に私は懸命に走った。闇の中、まるでコルタールの中を泳いでいるかのような気分。
 後ろからゾロゾロと影の怪物達が追い掛けて来る。
「――――邪魔をするな」
 誰かに背中を押された。首だけ振り向くと、そこにはハサンがいた。
「達者で生きよ。共に生きたいと願う者の中に私の名を含めてくれた事、感謝している」
 怪物の群れに向かっていくハサン。立ち止まりそうになる私の手をおじさんが引っ張る。
「走るんだ」
 また、右や左から怪物が押し寄せてきた。
「まったく……。死後に漸く英雄らしい仕事が回ってきたな」
「ぼやくな。お姫様を守るんだ。騎士として、実にやり甲斐を感じるだろ」
 セイバーとランサーが怪物を打ち払う。セイバーは私達に微笑み掛けると、もう振り返らなかった。
「Aaaaalalalalalalalalalaie!」
 更に私達を取り囲もうとする怪物達はライダーのチャリオットが蹴散らした。
「もう少しだ」
 遠くに光が見えた。そこに二人の女性が立っている。
「キャスター!!」
 手を伸ばす私に微笑みかけると、キャスターはその手を振り払い、代わりに背中を押した。

 ◇

「協力に感謝するぞ、淫売」
「……私は愛する子をこの暗黒の世界から解き放ちたかっただけです。決して、あなたの為じゃありません! この魔女!」
 聖杯に呑み込まれ、尚も彼女達は暴れまわる。
 この世の全てを救うと誓った女。
 この世の全てを敵に回すと誓った女。
 彼女達の意思は闇に塗り潰される事を拒んだ。
 彼女達の口にした《|原罪を知れ《エツ・ハ=ダアト・トーブ・ヴラ》》は神の怒りに振れる禁忌の果実。
 だが、その実の真価は食べた者に神の力の一端を与えるもの。
 聖杯に巣食う魔が《|悪神《かみ》》を名乗るなら、彼女達もまた《神》を名乗る。
「この世全ての悪よ。お前にあの子は渡さんよ!」
「あの子もまた、私の愛する子。魔王になど渡しません!」
 彼女達の力が闇の中で暴れ回る英雄達に力を与える。
 セイバーが聖剣を振り翳す。
「|約束された勝利の剣《エクスカリバー》!!」
 ランサーが朱と黄の槍を振り回す。
「穿て、|破魔の紅薔薇《ゲイ・ジャルグ》!! |必滅の黄薔薇《ゲイ・ボウ》!!」
 ライダーが雷鳴を纏い影の獣を蹂躙する。
「ハッハッハ、愉快愉快!! よもや、死後にこうして手を取り合う事になろうとは!! |遥かなる蹂躙制覇《ヴィア・エクスプグナティオ》!!」
 アサシンがその呪われし腕を開放する。
「胸躍る。まるで、私も一個の英雄のようではないか! 苦悶を溢せ、|妄想心音《ザバーニーヤ》!!」
 英雄達のど派手な宝具の開放合戦を尻目に桜達を追う者が一人。
「桜! へばってないか?」
 追跡者が桜を抱き上げる。
「モードレッド!?」
「あと少しだ!!」
 光に三人は飛び込んでいく。
 外に飛び出した桜はモードレッドの顔を見上げた。
「ど、どうして!?」
「元からたちの悪かった女共が更にとんでもない力を得た結果だ。互いに互いが外に出る事を許さない辺りがアレだが、折衷案って事でオレにお鉢が回ってきやがった。っつーわけで」
 モードレッドは赤雷を纏う刃を掲げてアーチャーを睨む。
「まだいけるか?」
「……無論」
 アーチャーは凛に視線を向ける。その視線に対して頷き、彼女は右手を掲げる。
 そこには真紅の紋章が刻まれていた。
「令呪をもって命じる!! アーチャー!! 聖杯をぶっ壊しなさい!!」
 アーチャーの握る聖剣に光が宿る。
「完膚なきまでにぶっ壊してやるよ。先に逝ってな、母上!!」
 二振りの剣が爆発的な魔力を迸らせ、今――――、
「|永久に遥か黄金の剣《エクスカリバー・イマージュ》!!」
「|我が麗しき父への叛逆《クラレント・ブラッドアーサー》!!」
 星光と赤雷。暗黒の月を蹂躙し、二つの輝きは天を裂く。
 聖杯戦争の終わりを告げる花火はどこまでも高く伸びていった。

第二十一話「聖杯」

 アサシンに教えてもらった情報によれば、アーチャーはマスター不在の状態でイリヤちゃんを連れ逃走しているらしい。
 幼子を連れて潜伏出来る場所となると限られてくる筈だ。まず、住宅街や新都のホテルは論外。
 人の気配が少なく、それでいて休息を取れる場所……。
「――――ビンゴ」
 街中に放った|使い魔《むし》の包囲網に獲物が掛かった。場所は郊外にある洋館。
『嘗て、エーデルフェルトの魔術師が使っていた所だな』
 おじいちゃんの知識が教えてくれた情報を下に作戦を練る。
 こちらの手駒はアサシンのみ。彼ではアーチャーと一騎打ちをしても勝てない。彼が居なければ、聖杯を手にする事が出来なくなる。
 勝利条件はアサシンを生存させたまま、アーチャーを討伐する事。そして、もう一つ。
 私は虚数空間から黄金に輝く杯を取り出した。これはおじいちゃんがアイリスフィール・フォン・アインツベルンを殺害した時に手に入れた本物の聖杯。だけど、この街には今、もう一つの聖杯がある。
『ファニーヴァンプの創り出した偽りの聖杯。それもまた、本物と同じ力を持っている。現在、双方の杯に半数ずつサーヴァントの魂が保管されている状況だ。故に残り二体となった今も聖杯は起動していない。聖杯完成の為にはアーチャーが保有している方の聖杯を破壊しなければならない』
「……まあ、そっちはアサシンにアーチャーの心臓を食べさせれば解決するわ」
「して、どうなさるおつもりで?」
 おじいちゃんとアサシンを警戒して、アーチャーは身動きが取れない筈。なら、追い出すまでよ。
「まさか……、アレを使うのですか?」
「教えてくれたのはアナタじゃない」
 アサシンが衛宮切嗣の心臓を取り込んだ事で得た知識の中にはアーチャーが衛宮士郎である事の他にも使えるものが山ほどあった。
 中には遠隔操作が可能な爆薬満載のタンクローリーなんてものもある。
「隣町のガレージに隠してあるのよね?」
「そのようで」
「取りに行くわよ。夜が明ける前に済ませなきゃ」
 アサシンの背中に飛び乗る。
「はいよー、ハサン!」
「……ヒ、ヒヒーン?」
 意外にもノッてくれたハサンが走り出す。敏捷Aの彼の背中で風を感じていると、瞬く間に山を超え、隣町に到達する事が出来た。
 アサシンが衛宮切嗣の記憶を便りに目的のガレージを発見すると、私は少し驚いた。そこは民家だったのだ。人が住んでいる気配は無いものの、住宅街にこんな危険物を放置しておくとは……。
「使い方はわかる?」
「無論」
 ハサンがタンクローリーの遠隔操作を行う為の準備を進めている間、私はガレージ内に積まれている銃火器をポイポイと虚数空間の中に沈めていく。必要になるか分からないけど、折角だから頂いておく。
「使い方分かる?」
『銃火器については専門外だが……、簡単な作りのモノならアドバイスくらいは出来るかな』
「ありがとう。蟲に使わせる事は出来るかな?」
『……難しいな。既存の蟲では不可能だ。銃火器の操作をインプット出来ても、狙いが定まらん。その為に一から蟲を作った方が現実的だが、そんな時間も無かろう?』
「残念」
『そもそも、サーヴァントの相手はサーヴァントにしか務まらん。お前に出来る事はアサシンがアーチャーを打倒出来る状況を作り出す事だけだ』
「……分かってるよ」
 脳内でおじいちゃんとの会話を済ませると、丁度アサシンが作業を終えて戻って来た。
「これで準備は万端かと」
「それじゃあ、操作方法を教えてもらえる?」
「承知。……しかし、どうなさるおつもりで? 確かに破壊力はあるでしょうが、サーヴァントには通じませぬぞ」
「通じなくていいの。これは単に隙を作るための囮だもの。相手は武勇に優れた英霊よ。二重三重の罠を仕掛けて、確実にあなたの宝具を当てなきゃ勝てないわ」
 ハサンはそれ以上何も言わず、私にリモコンを渡した。まるでラジコンみたい。
 真ん中のボタンを押すとエンジンが掛かり、十字キーで操作が出来る。赤いボタンがブレーキで、青いボタンがアクセル。
「……ちょっとワクワクするね」
「あの、目的地までは私が操作致しますよ?」
「何を言ってるの? このくらいお茶の子さいさいよ!」
「……あの、火薬を積んでいる事をお忘れなきよう。あと、ここは住宅街ですので……」
 凄く常識的に諭された。なんというか、頭の中にいるおじいちゃん……もとい、若き日のマキリ・ゾォルケンと似ている気がする。
「……アサシンの癖に」
「勘違いをなさるな。暗殺者とは確かに人の道から外れし者。特に私は非道極まる暗殺集団の棟梁。しかし、別に無意味な殺戮を楽しむ快楽殺人鬼ではないのです。無垢なる民に無用な犠牲を強いるような真似は英霊の端くれとして看過出来ませぬ」
「……ご、ごめんなさい」
「いえ、差し出がましい事を申しました」
 私はタンクローリーの助手席に座り、運転席に座るハサンを見つめた。
 死神みたいな格好。暗殺者の肩書。悪魔のような所業。どう見ても悪人なのに、その内側に一度光を見てしまうとおじさんを殺した相手なのに憎みきれなくなる。
「ねえ、ハサン」
「なんですか?」
「あなたは聖杯に何を祈るの?」
「私ですか? ……私は名を残したいのです。ハサン・サッバーハとは暗殺集団の棟梁を示す記号。私自身の名ではない。私は私の存在を歴史に証明したいのです」
「ふーん」
 思っていたよりもずっと無欲な願いだと思った。
 要は彼が彼として生きた証が欲しいという事。 
「なら、頑張って聖杯を手に入れないといけないわね」
「……そうですね」
 見えて来た。郊外の洋館に続く道だ。
「それじゃあ、ここからは手筈通りにね」
「承知致し――――、危ない!!」
 突然、ハサンが私を抱きかかえ、タンクローリーから飛び出した。
 一瞬遅れて、空から降り注いだ光がタンクローリーに直撃する。
 巻き起こる爆発に目が眩む。
「なにが……」
「――――この街一体全て、私の射程範囲内だ。おまけにこれほど派手な動きを見せれば気付かぬ筈がない」
 アーチャーのサーヴァントが現れる。白と黒の双剣を握り、私達に殺気を向ける。
「マキリ・ゾォルケン。貴様のやり口は識っている。間桐桜の肉体を乗っ取ったな?」
 思いっきり勘違いされている。おじいちゃんの嘘吐き。全然弱点になってないよ。私の姿を見て、逆にヒートアップしている。
「マスター。ここでお待ち下さい」
 ハサンは静かに私を降ろす。
「ハサン……?」
「この身は暗殺者のサーヴァント。他のクラスの者とは違い、汚れ仕事こそ本領の身なれど……」
 短剣を取り出す。
「ここに至り逃げる臆病者ではございません」
 暗殺教団とは十字軍と戦う為、自己犠牲を良しとした戦士の集団。
 確かに他の英霊達と比べれば貧弱に見られるかもしれない。その在り方に疑問を持たれるかもしれない。
「舐めるなよ、英雄。闇に潜むは我等が得手なり。貴様等鈍間に見切れるか?」
 ハサンの姿が闇に溶けていく。最高ランクの気配遮断は弓兵の持つ鷹の目を持ってしても見切る事など不可能。
「|暗殺教団棟梁《アサシン》の技、侮らない事だ」
 闇の中から繰り出される必殺の一撃。その悉くを打ち倒しながら、弓兵は舌を打つ。
「侮るものか……。貴様の実力は重々承知しているさ」
 その光景は驚きに満ちていた。
 真っ向勝負では勝てる筈がないと思っていたハサンがアーチャーと拮抗している。
「……勝って、ハサン」
 この状況になってしまった時点で私に出来る事など何もない。
 後は任せる事しか出来ない。
「負けないで、ハサン!! 私は全部取り戻すの!! また、みんなと一緒に暮らしたいの!!」
 最後の令呪が光を失う。私の祈りを聞き届けたハサンが更なる猛攻をアーチャーに加える。
「……まさか、本物か?」
 アーチャーの表情が歪む。
「だが、私は負けられない。何があろうとも!!」
 詠唱が響き渡る。

――――I am the bone of my sword.

 それは駄目だ。夜の闇こそハサンの真価が発揮される。
 この状況を崩されるわけにはいかない。
「ハサン!! 詠唱を止めて!!」
 ハサンの投擲した短剣がアーチャーの首を目掛けて飛来する。
 それを軽々と防ぎ、アーチャーは口を動かす。

――――Unknown to Death.Nor known to Life.

 虚数空間からありったけの銃火器を取り出す。
『……間に合わん』
 そのどれかを使おうと脳内おじいちゃんを頼ったが、帰って来た答えは私を絶望にたたき落とした。

――――unlimited blade works.

 炎が走る。荒野が広がり、そこに無限の剣が突き刺さる。
 無限の剣製。それがこの世界の名前だ。
 英霊エミヤが持つ|宝具《とっておき》。
 浮かび上がる無限の剣群。アレに貫かれたら、ハサンが死んでしまう。
「ダメよ!! そんな事、させない!!」
 虚数空間を広げる。
「私は幸せになるの!! おじさんとキャスターとセイバーとモードレッドとお姉ちゃんと……ハサンと一緒に生きるの!!」
 アーチャーに向かって駆け出す。その前に黒い影が現れた。
「さがれ、小娘!!」
 突き飛ばされた。手を伸ばしたその先でハサンの体が無数の剣に貫かれる。
「ヤダ!! あなたには願いがあるんでしょ!? 消えないで!!」
「名前を残す事は確かに宿願。されど、今優先すべきは汝の命と悟った」
 ハサンはアーチャーに向けて吠える。
「アーチャーのサーヴァントよ!! この娘は正真正銘の間桐桜だ!! この者の命だけは奪ってくれるな!!」
 その言葉を最後にハサンは消滅した。
 そして、私は今度こそ本当に|孤独《ひとり》になった。
 もう、聖杯を手に入れる事も出来なくなった。
 絶望で目の前が暗くなっていく。
「いかん、|聖杯《ソレ》に呑み込まれては――――ッ!」
 そして……、

『おかえりなさい、お姉ちゃん』

 闇に呑み込まれた私の目の前に懐かしい女の子が立っていた。

第二十話「聖杯戦争」

 令呪が消えた。それが意味する事を理解した時、私は泣き喚いた。さっきまでお笑い番組を見て笑っていた私の豹変ぶりにお姉ちゃんが困惑しているけど、気遣う余裕などない。
 キャスターが消滅した。
「イヤだ!! イヤだイヤだイヤだイヤだ!!」
 いつも優しくしてくれた。私の為におじさんの体を治してくれた。
 彼女といつまでも一緒に居たいと思った。それが私の祈りだ。
 おじさんやキャスターやセイバーやモードレッドといつまでも一緒にいたい。こんな私に優しくしてくれて、幸福になって良いと言ってくれた人達とずっと……。
「ど、どうしたの? 桜?」
 お姉ちゃんが心配そうに声を掛けてくる。
「うるさい!!」
 私はその手をはね除けた。ショックを受けた表情を浮かべる彼女に目もくれず、外に飛び出そうとして、おじさんに止められた。
「どこに行くつもり?」
「キャスターの所よ!!」
 分かり切った事をどうして聞くの?
「……キャスターはもう」
 聞きたくない。
「離して!!」
 会いに行くんだ。私を置いていくなんて事、絶対に許さない。
「キャスターはずっと私と一緒にいるの!! セイバーもモードレッドもみんな一緒にいるの!! もう、一人ぼっちは嫌なの!!」
 魔力で身体能力を強化し、おじさんの手を振りほどく。今の私は一流の魔術師にも引けをとらない技術の魔力量を有している。
 魔術師としては欠陥品もいいところなおじさんなど相手にならない。
 私は拠点を飛び出した。キャスターの居た所を目指して必死に走る。
「キャスター!! キャスター!!」
 |孤独《ひとり》にしないで。
 傍に居て。
 |キャスター《おかあさん》……。

 新都に続く冬木大橋まで辿り着いたところで息が上がった。魔力は潤沢でも体力には限りがある。魔術で誤魔化すには素の|身体能力《スペック》が低過ぎる。
「キャスター……」
 それでも歩みは止めない。彼女に会いに行く。彼女の顔を見る。彼女に言う。私と一緒にいて下さいとお願いする。
 母親には二度捨てられた。もう、イヤだ。私だって、優しくしてくれるお母さんと一緒にいたい。他の何よりも私を優先してくれる人。いつも見守ってくれる人。
 彼女を失うくらいなら、私は……ッ!
「――――そこで止まれ」
 首筋に冷たい感触が走る。それが刃物の感触だと少し前に身を持って教えられた。
 近くのミラーに皓々と輝く月輪に照らされた暗殺者の姿が浮かぶ。
 白い髑髏が嗤っている。
「……誰?」
「お初にお目にかかる。私はアサシンのサーヴァント、ハサン・サッバーハ。此度は主殿の名代として、御身の身柄を預かりに参りました」
「主殿って?」
「直ぐに分かります。もっとも、その頃には既に貴女の存在は――――」
 ハサンの言葉が不自然に途切れる。招かれざる客が現れたようだ。
「桜ちゃんを離せ!!」
 最悪だ。これ以上、最悪な事などない。
 セイバー亡き今、彼を守る者は誰もいない。
「逃げて、おじさん!! 私の事はいいから!!」
「そんなわけにいくか!! 桜ちゃんを離せよ、テメェ!!」
 相手はサーヴァントだ。アサシンは最弱のクラスだが、それでも人間の手には余る超常の存在。
「やめて!! お願いだから、逃げて!!」
 私の言葉で止まる人じゃない。そんな事、とうの昔に分かっている。
 それでも叫ばずにはいられない。
「お願いだから逃げて!! 私に構わないで!!」
 泣き叫ぶ私におじさんは語りかけてくる。
「無理だよ、桜ちゃん」
 彼は言った。
「桜ちゃんをここで見捨てられるくらいなら、端からこんな戦いに参加していない」
 知っている。分かっている。それでも逃げて欲しい。
 なのに、彼は走ってくる。戦う手段なんて持っていない癖に勇ましく声なんて上げちゃって……、拳を振り上げている。
「――――貴様は要らない」
 アサシンはおじさんに向けて短刀を投げ放った。 
 サーヴァントなら当然のように避けられる一撃。だけど、人間の目では決して捉え切れないスピード。短刀はおじさんの胸を貫いた。深々と突き刺さり、そこから夥しい量の血が出ている。
「あっ……、あっ……」
 頭がどうにかなってしまいそうだ。繋げたラインを通じて、彼の命の火が徐々に弱くなっていく事が分かる。分かってしまう……。
「イヤだ!! イヤだよ!! こんなのイヤだ!!」
 喚く私の首にアサシンが手を当てる。すると、意識が遠のいた。
 駄目だ。ここで意識を失ったら、おじさんと二度と会えなくなる。
「桜!!」
 闇に落ちる寸前、お姉ちゃんの声が聞こえた。
 ヤメテ……。もう、ヤメテ……。
「連れて行って……。どこにでも、何でもいいから……」
 それだけを必死に呟いた。もう、誰も奪わないで……。

 ◇

 気付けば、見慣れた空間に横たわっていた。
 両腕両足を鎖に繋がれている。
「……ああ、そういう事ね」
 気にも止めていなかった。最初の日以来、ずっと姿を見せなかったから、いつの間にか忘れていた。
「思ったより早い目覚めだな、桜」
 蟲が集まり人型を創り出す。
 間桐臓硯。この呪われた屋敷の主が私を見下ろしている。
「ここまでよく頑張ったな」
 好々爺然とした微笑みを浮かべるおじいちゃん。
「お姉ちゃんは……?」
「それを知る事に何の意味がある?」
 初めて、この老獪の事が忌々しく感じた。今までも酷い事を何度もされてきたけど、ここまでの感情を抱いた事はない。
 それは彼が曲がりなりにも私を求め、私と一緒に居てくれたからだ。だけど、この人の目は私を人間として見ていない。
 キャスターやおじさん達とは違う。
「……私をどうするつもり?」
「ほう……。そのような顔も浮かべるのだな。これは愉快。アーチャーの不意を突くために貴様の肉体を貰い受けるつもりであったが……、思わぬものが見れた」
「アーチャーの……?」
「然様。ヤツの真名は衛宮士郎。数奇な運命だ。幾つかの未来でお前は衛宮士郎と出会い、関係を結ぶ事になる。それが家族止まりで終わるか、恋仲になるかは分からぬが、ヤツにとって無視出来ぬ存在となるのだ。最後に残ったサーヴァントがアーチャーである事に一度は焦りを覚えたものだが、お前がヤツの弱点になり得る事が分かった」
 そういう事か……。
 そんな事の為におじさんを傷つけたのか……。
「おじいちゃん」
 目の前の老獪は本体だ。彼自身の知識が教えてくれる。
「なんだ?」
「バカじゃないの?」
 迂闊にも程がある。アサシンが気配を殺して傍に居るのかもしれないけど、近づき過ぎだ。
 魔術回路を励起させる。

――――アナタの知識が教えてくれた使い方だ。存分に味わえ。

 虚数空間を部屋一面に広げる。私自身もその内側に潜り込む。
「私の肉体を奪う? 違うわ、おじいちゃん。アナタの全てを私が奪うの」
 声を上げる暇も与えない。令呪を使われては厄介だし、もったいない。
「いただきます」
 その存在を喰らい尽くす。肉片を一欠片も残さない。その魂まで全て吸収する。
 知識はもはや不要。その全てを魔力に転換し、令呪だけを奪い取る。
「令呪をもって命じる。アサシンよ、主替えに賛同し、私の命令に従え」
 二画の令呪を使った後、虚数空間から出ると、アサシンが闇から現れ跪いた。
「私に従ってくれるわね?」
「……御意のままに」
 ラインを通じて、おじさんの死を悟った。
「……まだよ。まだ、終わっていない」
 まだ、聖杯がある。聖杯に望めば、どんな願いも叶う筈。
 なら、勝てばいい。残るサーヴァントは|アーチャー《エミヤ》のみ。
 おじいちゃんが言っていた。今の私の存在は彼の弱点に成り得る。
「さあ、聖杯戦争を始めましょう」

第十九話「死神」

 人は思考する生き物だ。そして、その思考は生きている限り変化し続ける。
 どんなに完璧に思考を読み込んでも、必ず想定外の行動を起こす。計略を練る肝はその想定外を最小限に抑える事。
 準備の段階で全ての行動を終了し、本番では一切手を出す事なく目的を達成する。それが計略というものだ。
 理想はアーチャーとライダーの相打ちだった。0.01秒のズレが全てを分けた。もし、アーチャーの矢が0.01秒速く飛来していれば、ライダーはウェイバーがマッケンジー夫妻に手を伸ばす前に無理矢理攻撃範囲からの離脱を図った筈。その結果、夫妻が死亡。彼等の死はウェイバー・ベルベットにアーチャー討伐を決意させた事だろう。
 だが、ライダーの消滅という最優先目標が達成された以上、何も問題ない。
 今、アーチャーは新都のビルの上で標的の消滅を確認している。そこへキャスターは自らの手駒を転移させる。セイバーとモードレッド。二騎の英霊が弛緩した隙をつき、弓兵に襲いかかる。
 アーチャーの首に凶刃が迫る。その刹那、彼のマスターは令呪を発動した。
「――――ッハ、貴様の居所も掴んでおる」
 今、キャスターはかねてより準備していた神殿に身を置いている。街中に張り巡らせた蜘蛛の糸が人間達から|魔力《いのち》を掠め取り、キャスターの大規模な魔術行使を可能にしている。
「道を拓く。進め!」
 セイバーとモードレッドの前に光の門が現れる。魔力を剣に注ぎ込み、その中に躊躇い無く突入する二騎のサーヴァント。
 門を潜り抜けた先は城の内部だった。郊外の森にあるアインツベルン城。そこが今の彼等の拠点になっている。
「放て!!」
 目の前に現れるファニーヴァンプ。彼女が固有結界を展開する間にセイバーとモードレッドがそれぞれの剣を振り下ろす。
「|約束された勝利の剣《エクスカリバー》!!」
「|我が麗しき父への叛逆《クラレント・ブラッドアーサー》!!」
 星光と赤雷が驚き目を見開くファニーヴァンプを呑み込む。
「離脱しろ、母さん!!」
 その直前、傍に控える言峰綺礼が令呪を発動する。
「後は手筈通りに!!」
 咄嗟の判断だった。まさか、宝具を発動寸前の状態で乗り込んでくるとは思わなかった。
 暴虐の嵐に呑み込まれる直前、綺礼は己の判断ミスに顔を顰めながらつぶやく。
「……だが、こんな終わりも悪くない」
 少なくとも、この終わりはとても人間らしい。
 愛する人の為に命を投げ打つ。それは綺礼が望んで止まなかった事。
 嘗て、妻に迎えた女の為には出来なかった。愛してやる事の出来なかった女。
 だが、今この瞬間ならば……、仮初とはいえ、人の心を得られた今なら……、
「クラウディア……、お前の死を悼んでやれる……」
 ファニーヴァンプの死を厭う気持ちをそのまま彼女のものに移し替える。
 なんとも無様で滑稽だが、それが彼の求めたもの。愛してやれなかった妻への愛情。
 言峰綺礼は満足気な笑みを浮かべ、肉塊一つ残らず消滅した。

 その光景にファニーヴァンプの表情が歪む。
「何故……?」
 震える声。昏い光を瞳に宿し、ファニーヴァンプは問う。
「どうして、邪魔をするの?」
 固有結界は完成した。必殺の一撃を躱されたセイバーとモードレッドは空間ごと縫い止められ、身動きが取れない。
 ファニーヴァンプはセイバーの頬を叩いた。
「私は愛する子等を理想郷に導きたいだけなのよ? みんな、幸せになれるのよ? どうして、邪魔をするの?」
 何度も何度も彼女はセイバーを叩いた。人形には目もくれず、《人間》であるセイバーの頬を何度も叩く。
 その姿はまるで癇癪を起こした幼子のようだ。
「誰も傷つけられない。誰もが笑顔でいられる幸福な世界。そこに何の不満があるというの!?」
「お前の事が気に入らないからだ」
 身も蓋もない言い方にファニーヴァンプは絶句する。彼女の前にはあの魔女がいた。
「私はお前みたいに綺麗事ばかり並べ立てる輩が一番嫌いだ」
「何を言って……」
「飾り立てるな。貴様は人類全ての幸福を祈っているわけじゃない。ただ、自分が追放された楽園に帰りたいだけだろ」
「違うわ! 私は――――」
「お前と良く似た男を知っているよ。騎士道だとか、王道だとか、綺麗事を並べ立て、無垢な娘を修羅道に追いやった悪魔……。貴様等はただの悪党よりも数段質が悪い」
 友の為、国の為、そうして悪魔は善人の皮を被り勇者を謀殺し、その妻を騙し孕ませた。生まれ落ちた子には国の命運を背負わせ、少女として得られた筈の幸福まで奪い去った。
 悪党ならば悪党らしくしていろ。善人の皮など被るな。
「死ね。貴様の存在は虫酸が走る」
 聖剣や魔剣が殺到する。アーチャーのサーヴァントだ。
 キャスターはそれらに目もくれない。今のキャスターに傷を負わせたければ、対界宝具を持ってくるほかない。
 彼女は一振りの短剣を握り締め、ファニーヴァンプの首を切り裂いた。
「嘘よ……。こんなの……、うそ」
 禍々しい魔女の瞳が彼女を見つめている。
 終わってしまう。こんな女の為に私の夢が散っていく。
 許さない。お前だけは絶対に許さない。
「――――《|原罪を知れ《エツ・ハ=ダアト・トーブ・ヴラ》》」
 彼女の手の中に黄金の輝きを持つ物体が現れる。
 それは禁断の果実。嘗て、蛇に唆された彼女が口にした《原罪》。
 彼女自身、この宝具を畏怖している。本当なら、絶対に使いたくなかった。それでも、この女の事だけは許せなかった。
 その実は人の心の奥底に眠る原罪を喚び起こす。混ざりモノであろうと、抗う事は出来ない。
 人間である以上、決して捨て去る事の出来ないモノ。
 その名は――――、《|好奇心《ちえ》》。
 キャスターはその果実に魅入られてしまった。
 |全て遠き理想郷《アヴァロン》の加護は持ち主を七次元上に存在する妖精郷に退避させる事で現存する五つの魔法や並行世界からのトランスライナーをも寄せ付けず、六次元までの交信も遮断する絶対防御。それすら、果実の魅了を遮断する事は出来なかった。
 何故なら、それは神が育てた果実。如何なる次元に身を置こうとも、《視て》しまえば手遅れだ。
 理性や思考が働く余地などない。それを口に入れる事が最優先になってしまう。
 未だ、モードレッドとセイバーはファニーヴァンプの固有結界によって身動きを封じられ、その光景を止める事が出来なかった。
 キャスターはアヴァロンを解除し、その果実に手を伸ばす。口の中に入れた瞬間、キャスターの体は崩壊を始める。
 禁断の果実を口にする事は神への反逆に他ならない。一度は楽園からの追放によって赦された。だが、二度目はない。
 それは抑止の力によく似ていた。世界そのものが彼女の存在を否定する。
「母上!?」
「モルガン!!」
 キャスターのサーヴァントは願いを持って、この戦いに参加した。
 どうしても叶えなければならない望みがあった。
 悪魔によって修羅の道を歩かされた哀れな少女。愛する末妹が末期に抱いた願い。運命によって導かれ、出会った男との再会。その為に|憎き悪魔《マーリン》の手を借りた。時の狭間で待つ少女の為に平行世界との間に門を開き、愛する男と再会させる。その為に聖杯を求めた。
 だが、消え行く彼女が思ったのは自らのマスターの未来。彼女の為に出来る事はした。例え、ここで消えても彼女が人並みに生きる為の手筈は整えた。それでも、彼女の願いを叶えてあげたかった。
「さくら……。幸福に……」
 ファニーヴァンプとキャスターが消滅する。それと共にモードレッドも消滅した。
 セイバーは誰もいなくなった空間に一人取り残され、膝を折った。
「……モル、ガン」
 漸く再会出来た人。愛する女性が目の前で死んだ。
 失意に暮れる彼に追い打ちをかけるが如く、そこに死神が忍び寄る。
 アーチャーのサーヴァントが黒の短刀を振り下ろした。
 鮮血が舞う。
「アー、チャー……」
 セイバーはすんでのところで片腕を犠牲にし、回避した。
 魔力を聖剣に注ぎ込む。
 今の状況で剣技の競い合いなどしては結果が見えている。
 ならば――――、
「守りきれるか?」
 ここには奴のマスターが残っている。
 例え、この身に致命傷を受けても、この一撃は必ず発動させる。
 その気勢を受けて尚、アーチャーはマスターの下に向かおうとしない。
「|約束された《エクス》――――!!」
 振り上げられる究極の聖剣。
「その剣は……」
 アーチャーは干将莫邪と呼ばれる陰と陽の夫婦剣を振りかぶる。
「――――|勝利の剣《カリバー》!!」
「片手で振れる程、軽くない!!」
 聖剣の一撃が繰り出される直前、アーチャーはセイバーの懐に飛び込み、その腕を切り裂いた。腕と共に宙を舞うエクスカリバー。
 両腕を失い、完全に無防備となったセイバーの腹部に干将を突き立てる。
「終わりだ」
 トドメの一撃。セイバーの首を刎ねる為にアーチャーは莫耶を振りかぶる。
 その瞬間、彼は寒気を覚えた。
 落ちてくる聖剣。その鏡面の如き刀身にソレは映り込んでいた。
 いる筈の無い存在。八番目の敵。それは白い骸骨の面を被り、歪な程大きな腕を掲げていた。
 アーチャーは咄嗟に干将莫邪を放棄し、セイバーから離れる。
「――――キ、カンのスるどいヤツだ」
 その光景はあまりにも異様だった。虚ろな表情を浮かべるセイバー。その胸から、偽りの心臓が掴みだされる。
 アーチャーは確信する。見た目こそ、敗退した筈のアサシンに似ているが、全く別の個体だと。
 あのアサシンを彼は知っている。
 最も純粋にして、最も単純化された呪詛。中東に伝わる魔術、《呪いの手》。それを宝具の域にまで昇華させた|山の翁《ハサン・サッバーハ》。
「……|妄想心音《サバーニーヤ》。間桐臓硯が動き出したか……」
 ハサンの名を持つ者は十八人。アサシンのサーヴァントはその中からランダムに選び抜かれる。
 触媒となるものは召喚者自身。彼を喚び出した者は十中八九、嘗ての戦いと同じくあの老獪だろう。
 そもそも、このタイミングで新たなるアサシンを持ち出してくる存在など他に考えられない。
「……ほう、私を知っているかのような口振りだな。それに、主殿の事まで……」
 さっきまでとは一転して流暢になった口調。アーチャーは油断無く、新たに創り出した双剣を構える。
「……ふむ。ここは引くとしよう」
「待て!!」
 撤退するハサン。咄嗟に追い掛けるが、一度視界から外れた彼を捉える事は鷹の目を持つアーチャーにも至難だった。
 なにしろ、彼の持つ気配遮断のスキルは|最高ランク《A+》。アーチャーは舌打ちをした。
「切嗣の下に戻るか……」
 彼はファニーヴァンプが倒れ、洗脳が解かれた直後、妻と娘を連れて城を出た。今頃は離れた場所にある廃屋に身を隠している筈だ。
 嫌な予感がする。アーチャーは急いだ。
 だが、その予感は道半ばで的中する。突然、切嗣とのラインが切れた。それが意味するものは……、
「切嗣!!」
 廃屋に辿り着いた時、そこにあったものは死体だった。心臓を引きぬかれ、絶命している切嗣の死体。
 アーチャーは一緒に居た筈のアイリスフィールとイリヤスフィールの姿を探す。だが、二人の姿はどこにも見えない。
「イリヤ……」
 双剣を地面に落とすアーチャー。その耳に幼子の泣き叫ぶ声が届いた。
 窓から飛び出し、その声の方角に向かうと、そこには血に塗れたイリヤの姿があった。
 一瞬、その血が彼女のものかと錯覚したが、それが違う事にすぐに気がついた。
 彼女の前には倒れこみ、心臓の部位から血を流すアイリスフィールの姿があった。
 そして、そのすぐ傍にヤツがいる。
 一瞬で投影した弓から矢を放つ。アイリスフィールの心臓を握り、イリヤスフィールに手を下そうとするハサンを退ける。
 再び姿を晦ます彼を警戒しながら、アーチャーはイリヤに近づいた。
「……アーチャー」
 泣き叫ぶイリヤ。アーチャーは彼女を抱き上げた。
「すまない。ここはまだ危険だ。移動するぞ」
「でも……、お母様とキリツグが……」
 泣きじゃくるイリヤのおでこに手を当てる。
「すまない」
 魔術で眠らせ、アーチャーはそのまま森から移動した。
 
 その後ろ姿をハサンと共に見つめる影があった。
「……|アーチャー《ヤツ》を取り逃がした事は失態だぞ、アサシンよ」
「面目次第もございません」
「諸共に始末するつもりであったが、厄介な者を残してしまったな……」
「その事ですが、少々面白い事を考えました」
 ハサンは切嗣の心臓を喰らい、得た情報を主に告げる。
「なんと……、なんと数奇な……」
 その情報は数百年を生きた妖怪を驚かせるに十分なものだった。
「これで漸くだ。漸く、我が悲願を達成する事が出来る」

第十八話「生まれ落ちたモノ」

 時計の針が深夜零時を指し示す。酒樽を担ぎ、拠点に戻って来たウェイバーとライダーを待ち受けていたものは真っ青な表情を浮かべるマッケンジー夫妻と包丁を彼等に突きつけている少女だった。
 ここが分水嶺だ。ライダーは敢えて口を挟まず、事の成り行きを見守っている。
 ウェイバー・ベルベットという少年の未来はこの選択に委ねられている。
「……そういう事だったのか」
 意外にも、ウェイバーは冷静だった。少女の顔は苦渋に歪んでいる。その身には赤い光が迸り、彼女の乱心には明らかに魔術的な因子が絡んでいる事が分かる。
 ヒントは至る所にあった。あの夜、あの場所にいた事。|弓兵《アーチャー》がわざわざ手を下そうとしていた事。着ていた服の材質。記憶を失いながら、尚こちらの言語を理解出来た事。
 サーヴァントの能力を看破する透視能力の対象外になっている事も《そういう能力》だと考えれば筋が通る。正体を隠蔽するスキルや宝具を持つ英霊など星の数程いる事だろう。
 それでも、ライダーが何も言わずに居たからウェイバーは彼女を信じる事が出来た。
 それもここまでだ。あの光は令呪によるもの。彼女の正体は恐らくカインによって討伐された|群体《アサシン》の一人。
「なあ、その二人を離してくれないか?」
 ウェイバーはそっとライダーの横顔を見つめ、腹を決めた。
 征服王イスカンダルは偉大な王だ。勇敢な男だ。一時的とはいえ、そんな彼の主になった己が無様を晒す事など許されない。
 倒せば、自らの命も失う事になると知りながら、カインを打ち倒すと何の躊躇いも見せずに豪語してみせた彼。その勇気を見習う。
「狙いは僕だろ? なら、好きにしろ。二人は関係ない」
 その選択にライダーは喜んだ。
「――――それでこそ、我が主だ」
 ライダーは物陰に潜ませていた配下に合図を送る。
 現れた男の名は英雄神ヘファイスティオン。彼はアサシンが夫婦に包丁を突き立てる前に彼女の身柄を取り押さえた。その突然の事態にウェイバーは目を白黒させる。
 そんな彼にライダーは意気揚々とネタばらしをしようとして――――、

「――――《|いつか還るべき楽園《エデン》》にようこそ」
 朽ちた楽園に引き摺り込まれた。目の前に佇む女にウェイバーの心が囚われる。
 アサシンの行動はライダーに隙を作らせるためのもの。その事にライダーが気づいた時、既にウェイバーは令呪を発動していた。
「母さんに逆らうな、ライダー」
 同時に二つの令呪が消える。二重掛けされた令呪の強制力はライダーの意思を縛り付ける。
「思った通りだな」
 ファニーヴァンプの隣に立つ男、言峰綺礼は言った。
「混ざりモノ……。妖精の側面を持つ英霊モルガン・ル・フェイ同様に半神半人の側面を持つ征服王イスカンダルにも耐性があったようだ」
 綺礼はファニーヴァンプを促す。
「これでいいのね?」
「ああ、これで彼も母さんの愛を受ける事が出来る筈だ」
 ファニーヴァンプは令呪の縛りによって身動きを封じられているライダーの下に歩み寄る。
 そして、その顔に触れた。
「楽園よ、この者を在るべき姿に」
 エデンの力は絶大だ。アインツベルンのホムンクルスを通して聖杯を作り出したように、今度は英霊イスカンダルの霊基に干渉を行う。
 この世界ではイヴ・カドモンの意思こそが絶対であり、その思考が全ての現象を覆す。
 エデンによる干渉はイスカンダルから神性を剥奪していく。ゼウスの加護を失い、人としての側面が色濃く現れた彼はさっきまでの巨漢と同一人物とは思えない華奢な少年の姿に変わっていた。
 神性スキルが|最低《E》ランクまで下がり、ジワジワとファニーヴァンプの魅了が精神を蝕み始めている事に気付いたライダーは致命的な逆境であるにも関わらず、イタズラっぽい笑みを浮かべた。
「……失敗だったね、ファニーヴァンプ」
「え?」
 人としての彼には半神半人としての彼には無かった保有スキルがある。ファニーヴァンプは意図せずライダーにそのスキルを復活させてしまった。
「令呪による命令は《君に逆らうな》というもの。だったら……」
 ファニーヴァンプは目を見開いた。美少年の姿になったライダーはウェイバーの唇に自らの唇を重ねたのだ。
 あまりの事に思考が停止するファニーヴァンプ。
 だが、綺礼は英霊の能力を看破する透視能力によって彼の思惑を悟り、ライダーとウェイバーに襲い掛かった。
「目は覚めたかい?」
 拳一つで綺礼を黙らせ、ライダーは目を丸くしているマスターに問う。
「……へ?」
 間抜け面を浮かべるマスターに微笑みかけると、ライダーはそのおでこにデコピンをくらわせた。
 以前喰らった時とは違い、少し痛い程度のソレにウェイバーは戸惑いを感じる。
「えっと……、ライダーか?」
「そうだよ。まさか、神性を奪うとは驚きだね。だけど、おかげでマスターを取り戻す事が出来た」
 ライダーは妖艶に微笑む。彼に復活したスキル。それは《紅顔の美少年》。
 神性を高めるにつれて失われたソレは男女を問わず、あらゆる者を魅了する。
 ファニーヴァンプの《全ての人の母》には劣るが、唇を重ね、ラインと粘膜を通じてダイレクトに魂を魅了する事で彼女に対する思慕を塗り替えた。
「さて……」
 ウェイバーに命令を撤回させたライダーは不敵な笑みを浮かべ、ファニーヴァンプを睨みつける。
「蹂躙を始めようじゃないか」
 剣を構えるライダーの姿に綺礼は不利を悟った。
「撤退する」
 ファニーヴァンプを抱きかかえ、綺礼は彼女に固有結界の解除を求めた。
 空間が元に戻る。すると、同時に彼方から音速を超えた矢が飛来する。
「おっと、危ない」
 ライダーは矢を打ち落とし、ウェイバーを抱え上げた。
「ブケファラス!!」
 雷鳴と共に漆黒の馬が現れる。
「待てよ、二人が!」
 身を寄せて震えているマッケンジー夫妻に手を伸ばすウェイバー。
 そこに一本の矢が迫る。さっきの矢とは明らかに違う。今度の一撃こそが本命に違いない。
「マスター!!」
 ライダーはウェイバーとマッケンジー夫妻を乱暴にブケファラスの背に乗せた。
「行け、ブケファラス!!」
 自身が乗る暇などなかった。
 主を置いて疾走する黒馬。ウェイバーは遅れて状況を理解した。
「ライダー!?」
「マスター。君の覚悟、確かに見届けた。安心してくれ。君は間違いなく大成するよ。この僕が保証する」
 ライダーは微笑む。ウェイバーは絶叫する。そして、風景が白い光によって塗りつぶされた。
 ブケファラスは走り続ける。主の消滅と共に体が透け始めるが、それでも尚走り続ける。
 背中に乗せている者は主が託した者。その身を安全な場所へ送り届ける事が自らに課せられた使命だと、ブケファラスは仮初めの魂、その一滴までを絞り尽くした。
 川を超え、山を超え、街を二つ跨いだ所で限界を感じ三人を降ろす。
「ライダー……。嘘だ、こんなの……」
 嘆き悲しむ少年を見つめるブケファラス。彼女はその鼻先で少年の顎を押し上げた。
「ブケ……、ファラス?」
 黒馬は嘶く。言葉は通じずとも、意思は通じる。

――――少年よ、前を向け。それを王は望んでいる。

 もし、僕が|マッケンジー夫妻《ふたり》に気を取られなければ彼も揃って離脱する事も出来た筈だ。
 そう思うと後悔の波に襲われる。それでも、少年は前はうつむきそうになる顔を必死に持ち上げ続けた。
 前を見ろ。彼は言った。お前は大成する。彼の言葉を嘘にするな。
「……必ず、僕は」
 少年の戦いはあまりにも呆気無く幕を閉じた。それでも彼の心には焼き付いたものがある。
 これから少年は王の言葉を噛み締めて生きていく事になる。後悔やプレッシャーに押しつぶされそうになる事もあるだろう。
 それでも、王の言葉を曲げる事だけはしたくないと意地を張り、突き進んでいく。
 それはまた、別の話。

 ◇

 魔女は嗤う。些か予定と違い、マスターが逃げ延びたが、これで一番の厄介者が消えた。征服王イスカンダル。彼だけがキャスターにとって敵なり得る存在だった。
 残る|獲物《サーヴァント》はアーチャーとファニーヴァンプのみ。
「行くぞ、二人共」
 キャスターが動き出す。二騎の英霊を引き連れ、まずはライダーを倒した事で弛緩している弓兵を潰す。

 ◆

 蟲は嗤う。
 よもや、ここまで来るとは思っていなかった。
 もはや、桜は聖杯に王手を掛けている。初めは憤りを感じていたが、こうまで見事な結果を出されては認めぬわけにもいくまい。
 蟲は嗤う。
 目の前で倒れ伏している少女を踏みつけ、その肌に蟲を這わせていく。
 少女の悲痛な叫びが夜闇に響く。

 ナニかが生まれ落ちた。
 
「サーヴァント・アサシン――――。影より貴殿の呼び声を聞き届けた」
 記憶を失い、声を失い、恩ある人を裏切らされた少女の慟哭は新たなアサシンの産声によってかき消された。

第十七話「傾国の魔女」

「いやー、それにしても久しぶりだね、お姉ちゃん!」
「……うん」
 非常に気まずい。教会から引き上げた時、お姉ちゃんも拠点に連れて来た。
 十中八九、私達のお父さんは危機的状況にいる筈だからだ。
 |セイバー《アコロン》のマスターは|間桐雁夜《おじさん》。
 |アーチャー《エミヤ》のマスターは衛宮切嗣。
 |ランサー《ディルムッド》のマスターはケイネス・エルメロイ・アーチボルト。
 |ライダー《イスカンダル》のマスターはウェイバー・ベルベット。
 |アサシン《ハサン》のマスターは言峰綺礼。
 そして、|キャスター《モルガン》のマスターは|間桐桜《わたし》。
 残っているマスターは|遠坂時臣《おとうさん》だけ。つまり、ファニーヴァンプのマスターは彼という事になる。簡単な推理だ。
 教会で聞いた話やファニーヴァンプの能力を合わせて考えると、少なくとも洗脳状態に陥っている事は確実。お父さんに預けられない以上、お姉ちゃんの身柄を手放す事は出来ない。聖杯戦争も佳境に入り、どの陣営も本腰を入れ始めている筈。特に衛宮切嗣が危険だ。彼は人質を取ったり、建造物を爆破したりとやりたい放題。イリヤちゃん経由で私とお姉ちゃんの関係を知られている可能性がある以上、お姉ちゃんの人質としての価値はべらぼうに高い。
 だから、キャスターやおじさんに懇願して、一緒に居させてもらう事にしたわけだけど……。
「えっと、そうだ! オセロやらない? チェスでもいいよ?」
「……うん」
 お姉ちゃんのテンションが果てしなく低い。罪悪感とか後悔とか、そういう負の感情が駄々漏れになっている。
 ジーザス。こんなネガティブシンキングはおじさんだけで十分だ。
「お姉ちゃん、元気出してよ! ほらほら、可愛い桜ちゃんがダンスでも踊ってあげようか!?」
 自分でも意味不明になって来ているけど、とにかくお姉ちゃんの機嫌を取る為に必死だ。
 歌ったり踊ったり、色々試した。
 結局、お姉ちゃんはピクリとも笑わない。
「……お姉ちゃん」
「ごめん……。ごめんね、さくら……」
 会話にならない。逆レイプした直後のおじさんとどっこいどっこいだ。
 いい加減、一人の力に限界を感じておじさん達に視線を向ける。ところが、おじさんはキッチンに篭って何かを作るのに夢中みたい。
 キャスターとセイバーは帰って来てからずっとイチャイチャし続けている。当の本人にはそんなつもりなど無いのだろうが、愛を囁き続けるアコロンにつれない態度を取りながら頬を緩ませる姿は見事なツンデレだ。まったく便りにならないけど、思いの外可愛いキャスターの姿にちょっと癒やされた。
 最後の頼みの綱であるモードレッドは思いっきり顔を逸らした。
 ジッと見つめていると徐々に冷や汗を流し始める。
「ねえ、モードレッド」
「……ヒュー! ヒュー!」
 下手くそな口笛を吹き始めた。
「……モッさん!」
「誰がモッさんだ!?」
 出会って数時間しか経っていないけど、なんとなく彼女がチョロい子だと分かった。
 反応してしまった事に後悔しているモードレッドの傍へ駆け寄った。
「ねえ、お姉ちゃんを元気にするにはどうしたらいいのかな?」
「……そう言われてもな」
 困り顔になるモードレッド。頬を掻きながら、大きくため息を零し、そっと立ち上がった。
「あー、おっほん。おい、お前」
 モードレッドはお姉ちゃんに声を掛けた。
「あんまり妹に心配掛けんなよ」
 頼った相手を間違えた気がする。この上、更にネガティブ要素を上乗せしてどうするんだ。
 頭を抱えそうになっていると、意外にもお姉ちゃんの瞳に少しだけ光が戻った。
「……桜」
「な、なにかな?」
 お姉ちゃんは意を決したように言った。
「どうして、怒らないの?」
「はえ?」
 お姉ちゃんは泣いていた。

 ◇

「恨んでいる筈でしょ?」
 こんな事、言うつもりじゃなかった。だけど、一度動き出した口は意思に反して止まらない。
「養子に出された時、私は何もしなかった……。出来なかったじゃない……、何もしなかった」
 情けなくて、自分が嫌になる。
「あの男に自分の身を差し出す事も出来なかった……」
 守らなきゃいけなかったのに、守られた。
 眼球を抉られ、骨を砕かれ、絶叫を上げる桜を見て、私は只管怯えていた。
 助けようなんて気にもなれず、ただただ、自分の番が回ってくる事を恐れていた。
「……なのに、どうして?」
 ヤメロ。今すぐ、その口を閉じろ。
 私は自分に言い聞かせた。だけど、止まってくれない。
「どうして、そんな風に笑っていられるの? どうして、私を責めてくれないの!?」
 今すぐ、|この女《わたし》を絞め殺してやりたい。
 この期に及んで、桜の事を責め立てるなんて、どうかしている。
「……あっちゃー。ごめん、お姉ちゃん」
 私の口は漸く動きを止めた。二の句を継げなくなったからだ。
 頭の中は真っ白。だって、謝られる理由がない。
 謝罪するべきは私の方だ。一方的に謝罪と感謝の言葉を告げて、彼女に責め立てられるべき立場だ。
「何を言って……」
「いやー……、ちょっと空気が読めてなかったって言うか……。というわけで――――」
 桜は拳を握りこみ、腰を落とした。
「桜……?」
「お姉ちゃん、覚悟!」
「え?」
 さすがに予想外だった。私の体は空中に浮き、地面を転がった。
 殴られたのだ。それも相当キレのある拳で。
 痛くて、視界が真っ白。鼻筋にぬめりとした感触がある。どうやら、鼻血を出しているみたい。
「さあ、お姉ちゃん!」
 私は体を震わせた。もっと、何度でも殴られるべきなのに、それが恐くて仕方がない。
 最低だ。涙が止まらない。
「今度はお姉ちゃんの番だよ!」
「え?」
 桜が私の手を掴んで立ち上がらせる。
「カモン!」
「え? え?」
 困惑する私を尻目に桜は両手を広げている。
 何をするべきなのか分からない。困った私は近くの大人に助けを求めた。
 確か、桜は彼女をモードレッドと呼んでいた。
「一発殴れ。それで、全部終わりにしろって事だ。……なんか間違ってる気がするけど、確かに手っ取り早いな」
「な、殴れって、そんな事出来るわけ……」
「お姉ちゃん!!」
「ひゃい!?」
 桜が私の肩を掴んだ。怖い表情を浮かべている。
「私の不満はさっきの一撃に全て詰め込んだよ。次はお姉ちゃんの番」
「わ、私に不満なんて……」
「あるでしょ! だから、さっき色々言ってくれたじゃないの! だから、それを全部篭めて、かかってこいや!」
 わけがわからない。私に桜を殴る理由も資格もない。そんな事をするくらいならいっそ……。
「お姉ちゃん!!」
 桜は言った。
「姉妹は喧嘩をするものなんだよ! それとも、お姉ちゃんは私の事が嫌い? お前なんか妹じゃない! とか、そんな感じ!?」
「そんなわけないでしょ!! 桜は私の……大切な……」
 手放した癖に何を言っているんだろう……。
「お姉ちゃん!!」
「ひゃい!?」
 桜に両手を掴まれた。昔から、結構アクティブな性格なのよね……。
「私は今も昔もお姉ちゃんが大好きだよ!」
 顔が真っ赤になった。真正面からそんな事を言われたら言葉が出て来ない。
「お姉ちゃんも私の事が嫌いじゃないなら、全部解消する為に殴り合おう!」
「……やっぱ、どっか間違ってる気がするんだよなー」
「モードレッドは黙ってて!」
「……お前から巻き込んできた癖に」
 ぶつぶつ言いながら引っ込むモードレッド。対して、桜はなにやら構えのようなものを取っている。
「私は……」
「ええい、お姉ちゃんの根性無しめ!! 永遠のぺちゃぱい!! 元祖ツンデレ!! 英霊トーサカ!!」
 何故だろう。わけの分からない罵倒がやけに神経に触る。特に英霊トーサカ辺りに物凄い苛立ちを感じた。
「お前のカーチャン、でーべそ!」
 別にその言葉で怒ったわけじゃない。ただ、それが彼女の望みなんだとわかった。
 迷ってる私に必死に手を伸ばしてくれている。なら、いつまでもウジウジしてはいられない。
 私は彼女のお姉ちゃんなんだから……。
「それを言ったら、アンタの母ちゃんもでべそでしょうが!!」
「もぎゃ!?」
 思いっきり殴った。思いの外スカッとした。
「やったな、お姉ちゃん!!」
 ケリが飛んで来た。滅茶苦茶痛い。完全に本気の蹴りだ。
「やったわね、桜!!」
 私も遠慮無く全力の拳を叩き込んだ。
 周りの大人達がオロオロしているけど、私達は互いの事しか目に入っていなかった。
「大好きだよ、お姉ちゃん!!」
「私も大好きよ、桜!!」
 クロスカウンターが互いの顔にクリーンヒット。
 私達は倒れ伏した。
「……っふ、さすが私のお姉ちゃん。マジで痛い……」
「あはは……。吐きそう……」
 雁夜おじさんがキッチンから出てきて私達の惨状に大慌て。
 キャスターは呆れた顔で私達を治療してくれた。

 ◇

 いきなり喧嘩を始めた時はどうなるかと思ったが、思いの外良い方向に進んだようだ。
 我がマスターは時折妾の想定を超えてくる。嫌な意味で……。
 雁夜が腕によりを掛けて作った料理をバクバクと食べている姿は幸の薄さを全く感じさせない。無理をしている様子はないし、あれは姉や雁夜の為に演じているのではなく、単に素なのだろう。
 桜は良い子だ。そして、強い子だ。あの子が泣く時は大抵雁夜の為だ。雁夜が苦しむ姿に胸を痛めて泣き、自分の事では一切苦悩の表情を見せない。
 齢十にも満たない幼子がそこまで強くある必要など無かろうに……。
「桜……」
「なーに?」
 もう、十分不幸な目にあった。これ以上、この子に辛い思いをさせたくない。
「聖杯に託す望みは決まったか?」
 戦いが長引けば、また要らぬ苦痛を味わう事になるかもしれない。
「えっと……、うん」
「そうか……。それは良かった」
 聖杯戦争を終わらせよう。
「アコロン。後で話がある」
「……はい」
 準備は整えてある。敵の居場所も把握している。
 中国のことわざに《人事を尽くして天命を待つ》というものがある。
 長い事監視を続け、各マスターの能力や性格を完璧に理解した上で立案した策。兼ねてから準備して来たソレがもう直完遂する。カインを討伐した事で多少の修正が必要になったが、ほぼ完璧な状態だ。
 ファニーヴァンプを敢えて取り逃がした事、ウェイバー・ベルベットに《あのアサシン》をサーヴァントだと判別出来ないようにした事、全てこの為だ。
 言峰綺礼はしっかりとファニーヴァンプを補佐し、衛宮切嗣とアーチャーを支配下に置いた。後は何も知らずにライダーを手に入れようと動くだろう。アサシンが切り札になると確信しているが故に……。
 今宵、決着をつける。残る全てのサーヴァントを殺し尽くし、聖杯を手に入れる。

第十六話「跳梁跋扈」

 金属同士がぶつかる音で私は目を覚ました。気分がすこぶる悪い。まるで初めての二日酔いを彷彿とさせる。
 瞼を開くとキャスターと目が合った。
「……おはよう、キャスター」
「もう少し寝ておけ、マスター。肉体の修復は完了したが、まだ万全ではなかろう」
 彼女の言葉通り、失われた筈の眼球や歯が元に戻っている。いや、むしろ前よりも視界がクリアになった気さえする。
 手足も確かに存在している。
「ありがとう、キャスター。でも、もう大丈夫。それより、この音はなに?」
「……セイバーの馬鹿が暴れておる。今、モードレッドに鎮圧を命じてあるが、長引いているな」
「セイバーが……?」
 彼が暴れている姿なんて想像も出来ない。体をゆっくりと起こす。
 金属音の鳴り響く方角に視線を向けると、そこではセイバーとモードレッドが戦っていた。
「セイバーはどうして暴れているの?」
「分からん……」
 キャスターは不可解そうに表情を歪めながら、私が眠っている間に起きた事を手短に教えてくれた。
 刃を構えて、愛している……。ヤンデレかな?
 私の周りにも似たような事をした子がいる。奥さんの居る人に本気になってしまった彼女は無理心中を図って失敗し、警察に逮捕された。
 キャスターは不思議そうにしているけど、私はやっと納得出来た。どうして、あんなストーカー気質のおじさんの下にアコロンみたいな純朴な好青年が現れたのか、ずっと不思議だったもの。
 やはりマスターとサーヴァントは似たもの同士という事だ。
「キャスター」
「なんだ?」
「アコロンの事、実は大好きでしょ」
「は?」
 凍りついた表情を浮かべるキャスター。だけど、間違いない。
 私とおじさんは同じ触媒を使ってサーヴァントの召喚を行った。円卓の欠片だ。
 円卓に纏わる英霊は数多く存在する。その中から彼女達が選ばれた理由は明白だ。
「私とキャスターって、結構似てると思うの。おじさんとセイバーも」
 孤独に生きてきた。愛情に飢えていた。だけど、手を伸ばす方法を知らなかった。
 一人は街の娼婦。もう一人は傾国の魔女。規模の大きさは比べ物にならないけれど、共通点が驚く程に多い。
 どちらも妹を|憎んでいた《あいしていた》。どちらも世界を|憎んでいた《あいしていた》。
「私はおじさんの事が大好きなの」
 彼女もアコロンに手を差し伸べられた時、嬉しかった筈だ。
 それが騎士としての献身という歪んだものだったとしても、初めて救いの手を伸ばしてくれた相手を憎める筈がない。
 愛情は抱かなかったかもしれない。だけど、好意は抱いた筈だ。だから、彼の死体が城に届けられた時、彼女は幾日も泣き続けた。
「あなたも彼の事が大好き。違う?」
 キャスターは困ったように溜息を零した。
「……マスター。妾は少しお前の事が怖くなったよ」
 キャスターは私を抱き上げた。
「良かったね」
「なにが?」
「彼が召喚された時、仮面を被った本当の理由。それって、彼に敵意を向けられると思ったからでしょ?」
「……なんの事やら」
「乙女だね、キャスター!」
「うるさいわ!」
 そっとおじさんの下に向かい、キャスターは治癒魔術を掛けた。
 呻き声を上げて体を起こすおじさん。
「おはよう、おじさん!」
「さ、桜ちゃん!?」
 とりあえず抱きついてみる。このぬくもりは癖になる。
「……もう、痛くない?」
 残念な事に可愛い反応を見せてはくれなかった。ひたすら心配された。
「うん。もう、大丈夫だよ」
 笑顔を見せると、おじさんは私を抱き締めた。若干痛いけど、無粋な事は言わない。
 私は彼の背中に手を回して、ポンポンとやさしく叩いて上げた。
「……軽いな、桜ちゃんは」
 悲しそうに言われた。
「軽いことは良いことなんだよ?」
「軽過ぎるよ……。もっと、美味しい物をたくさん食べにいかなきゃ……」
 おじさんは立ち上がった。
「セイバー!! 止まれ!!」
 おじさんが令呪を発動する。すると、セイバーの動きは不自然に鈍り、やがて動けなくなった。
「マス、ター……」
 狂気を孕んだ瞳。なんだか、嬉しくなる。そこまで彼女を愛してくれていた事に感謝したくなる。
「おい、アコロン」
 キャスターは袖を捲り、動けなくなったアコロンの前に立つ。
 モードレッドは若干表情を引き攣らせながら一歩下がった。
 そして、キャスターの拳がアコロンに襲いかかる。
「この甲斐性無しが」
 一発、二発、三発、四発、五発……。
 モルガンはやれやれと困ったような表情を浮かべ、何度も彼の顔面を殴りつけた。
「貴様は極端過ぎる」
 もう、何度殴ったか分からない。魔力を纏わせていないせいか、キャスターの拳の方が赤く染まって痛そうだ。
「モ、モルガン。君の手が……」
「黙れ! いいから殴られろ」
 魔力を纏わせていない拳など、アコロンには痛くも痒くもない筈だ。
 だけど、彼は殴られる度に痛そうに顔を歪める。
「このバカ者が……。バカ者が……」
 キャスターは何度も何度も殴った。
 泣きながら、殴り続けた。
「……モルガン、もうやめて下さい!!」
 アコロンは彼女の手を掴み、その赤くなった手に涙を浮かべた。
「ええい、この程度で取り乱すな! 妾を殺す腹積もりだったのだろう!?」
「ち、違います! 私はただ……」
 独り占めにしたかった。抵抗されても、無理矢理自分のものにしたかった。愛を手に入れる事が出来ないのなら、せめてその身体を……。
 実に野蛮な欲望。だけど、キャスターは嬉しそうだ。嫌そうな顔を作っているけど、私には分かる。絶対に喜んでいる。
「仕方のないヤツめ……」
 そこから先はおじさんに背中を向けさせられたせいで見る事が出来なかった。
 近づいてきたモードレッドは不貞腐れた顔をしている。
「なんか、すげームカつく」
 後ろでついにイチャイチャし始めた母親と愛人を睨みつけている。
「納得いかねぇ……」
 私は笑うしかなかった。
「キャスターも若いね―」
「|最年少《おまえ》にそう言われたら母上も形無しだぜ」
 モードレッドは溜息を零した。
 
 ◇

 アイリスフィールが連れ去られた。目を覚ましたイリヤからその事を聞き出す事が出来たのは丸一日が経過した後の事だった。
 手遅れかもしれない。それでも切嗣は彼女の捜索に全力を傾けた。
 アーチャーも街中を奔走している。
 誘拐犯の正体は間違いなくカインだ。だが、彼は既にキャスターによって討ち取られている。
「アイリ……」
 完全に己の失態だ。彼女達が狙われる可能性は十分にあった。だが、共に行動した場合のリスクと天秤に掛け、遠くに置いてしまった。
「しかし、アイリを確保していたのなら、何故ファニーヴァンプはあの場に現れたんだ……?」
 疑問は山積している。
「分からないが……、やはり」
 アイリスフィールはファニーヴァンプの手の内にある。そう考えて間違いない筈だ。
 どうにかして、ヤツを見つけ出し、アイリスフィールを奪い返さなければならない。
『切嗣』
 アーチャーから念話が届いた。
「どうした?」
『アイリスフィールらしき存在を確認した』
「なんだって!?」
『どうする……?』
 どうやら、街中を彼女が歩いていたらしい。
 普通に考えれば罠の可能性が高い。
「周りに不審な者は?」
『見当たらない。だが……』
 索敵を得意とするアーチャーが見つけられないとすると、罠の可能性は低いか……?
 切嗣は思考する。
 そもそも、ファニーヴァンプは策略を練るタイプには見えなかった。
 教会で神父は《マスターが彼女を制御出来ず、暴走を許している》と言っていた事から、マスターが策を巡らせた可能性も低い。
 単純にアイリスフィールが敵の本拠地から逃げ出してきた可能性が高いのかもしれない。
「……アーチャー。アイリスフィールと接触してみてくれ。くれぐれも慎重に」
『了解した』
 結果として、罠は無かった。アーチャーは無事にアイリスフィールを確保して、拠点に戻って来た。
 どうやら、アーチャーを見た途端に安心して意識を失ってしまったようで、今はベッドに横になっている。
「これで憂いが一つ減ったな」
 アーチャーの言葉に頷きながら、切嗣は次の行動について考えを巡らせた。
 やはり、一番の難敵はキャスターだ。セイバーやライダー、ファニーヴァンプに対してはある程度策を練る事が出来たが、アヴァロンを持つ彼女を攻略する方法が中々思いつかない。
 奸計に優れ、絶対的な防衛宝具を持ち、絶大な魔力と卓越した魔術を行使する傾国の魔女。おまけに白兵戦に長けたセイバーとモードレッドがいる。
 今回の一件で唯一にして最大の弱点であったマスターの保護を更に厳重にする事だろう。
 やはり、あの時に始末してしまえば良かった。
「少し休んだほうがいい」
 アーチャーが言った。
「根を詰めすぎた。戦いは未だ序盤だぞ。体を壊しては元も子もない」
「……ああ」
 眠ったとしても、あの夢を見る事になる。
「アイリ……。イリヤ……」
 愛すべき家族が眠るベッドに背を預け、切嗣は瞼を閉じた。
 その直後、彼は《あの世界》に招かれた。
 いつも見る炎に包まれた荒野ではない。荒れ果てた理想郷に取り込まれた。
 考えるよりもはやく、共に呑み込まれたアイリスフィールの服に手を掛ける。そこには赤く点滅する機械が忍ばせられていた。
「発信機……」
 耄碌していた。敵を見誤り、油断した。
「私の可愛い子。あなたの力を私に貸してちょうだい」
「……はい、母さん」
 隣でアーチャーも彼女に傅いている。固有結界が解けた後、彼の目の前にはファニーヴァンプと言峰綺礼が立っていた。
 綺礼の手には発信機の位置を特定する端末が握られている。
「衛宮切嗣。よもや、貴様の十八番を逆手に取られるとは考えていなかったようだな」
「これでいいのね?」
「ああ、これで完璧ですよ、母さん」
 これで残る厄介者はキャスターのみ。だが、彼女を攻略する為には後一手必要になる。
「次はライダーを手中に収める」
 瞳を閉じると、そこには一人生き残った少女型のアサシンが優しい老夫婦に構われている。
「さあ、最後の仕事だ、アサシン」
 綺礼は一同を引き連れ、マッケンジー邸へ向かった。

幕間(Ⅰ)

「お前は一体何をしているんだ!?」
 上空三千フィートを航行するライダーの|騎乗宝具《ゴルディアス・ホイール》。その上でウェイバーは己のサーヴァントに掴み掛かった。
 チャリオットの上には空間を圧迫する巨大な樽が乗っている。つい先程、街の酒屋から盗み出してきたものだ。
「何を怒っておるんだ?」
「あの意気込みはどうしたんだよ!? なんで、カインを倒しに行く筈が、酒屋に忍び込んで酒樽を盗んでいるんだ!!」
「そんなもの、決まっておるだろ。これより、生き残っている参加者達と酒を酌み交わす為だ!」
「意味が分からないよ!!」
 喚き立てるウェイバーのおでこにライダーは強烈なデコピンをくらわせて黙らせる。
「カインと戦えば、余は消滅する事になる」
「それは……」
 ウェイバーはおでこを押さえながら表情を曇らせた。喚き立ててしまったのも、直ぐにカインと戦闘に入らず、彼の消滅が先延ばしになった事を内心で喜んでいたからだ。
 ライダーの考えは変わっていない。やはり、少し先延ばしになっただけで、いずれ決着をつける腹積もりだ。
「その前にこの戦いで巡り合う事が出来た益荒男達と語り合っておきたいのだ」
「…………勝手にしろ、バカ」

 ◆

 まるで映画のワンシーンだ。時代は中世辺り。場所は外国のどこかにある立派なお城。
 女の子が泣いている。父親を殺され、母親や姉妹と離され、見知らぬ男と婚姻を結ばされたのだ。
 彼女の全てを奪った男は一国の王だった。覇王と呼ばれた益荒男は絶世の美女と謳われた彼女の母親に惚れ込み、欲望を満たす為に奸計を巡らせた。
 
 その王は確かに偉大な男だった。
 若き日にドラゴンを打ち倒し、《巨人の腕輪》なる秘宝を手に入れ、兄や相棒の魔術師と共に数多の冒険を乗り越えて来た生粋の勇者であり、同時に内紛耐えぬ貧国であったブリテンをその手腕で纏め上げた類まれな指導者でもあった。
 大陸からはサクソン人やアングロ人が絶えず流れ込み、|北の蛮族《ピクト人》や|西方の海賊《アイルランド人》に付け狙われながら、ブリテンが後のアーサーの代まで存続出来たのも彼の力あってこそだ。
 もし、彼が自らの欲望を律する事が出来ていればブリテンの未来は大きく変わっていた筈だ。それだけの力を持っていた。

 女の子は王を恨んだ。
『この報い、必ずや貴様に……』
 蝶よ花よと育てられて来た彼女の人生は坂道を転げ落ちるように悲惨なものへ変わっていく。
 悲痛な嘆きの声はやがて怨嗟の呪言に変わり、憎悪は際限なく膨れ上がり、やがて彼女は|妖妃《ル・フェイ》と呼ばれるようになる。
 やがて、王は失墜し命を落とす。それでも彼女は恨み、憎み、怒り、その矛先を王の息子に向けた。 

 それは夢。既に終わった物語。
 分かっていて尚、私は手を伸ばし続けた。
 助ける事なんて出来ない。慰めの言葉も思いつかない。それでも、手を伸ばし続けた。
『一人にならないで……』
 彼女が抱いたもの。それを私は知っている。比べる事すらおこがましいかもしれないけれど、私も彼女と同じ思いを抱いていた。
 寂しい。彼女の心の深層にあるものはそれだけだ。
 孤独ほど恐ろしいものは無い。《死》も《拷問》も《孤独》が齎す苦痛に比べたら些細なものだ。
 
 幸福とは《孤独ではない事》だ。家族でも、友人でも、恋人でも、誰かと一緒にいる事が出来れば、人は幸福になれる。
 だから、私は――――……。

 ◇

 彼の心は荒れていた。嘗て、切り捨てた命があり、その罪が目の前に現れた。
『幸せになりたいの』
 彼女は確かにそう言った。
 誰もが当然のように思う事。なのに、彼女がその言葉を紡いだ時、彼は計り知れない衝撃を覚えた。
「……桜」
 正義の味方として、彼は嘗て、彼女を殺した。
 殺さなければ、世界を滅ぼす可能性があった。だから、切り捨てた。
 頭の中で言い訳を並べ立て、これが正しい事なのだと自分に言い聞かせ、自らのエゴを押し通した。
「ふざけるな……」
 愚か者。彼は自らをそう蔑んだ。
 一度切り捨てた者を見て、後悔した事に底知れない怒りを感じた。
「後悔など、許される筈が無いだろう」
 涙を流し、己が振り下ろした剣を受け入れた彼女も幸福を望んでいた筈だ。
 その未来を摘み取っておいて、今更……。
「誰だって……」
 悪魔と言われた。
 人殺しと言われた。
 罪人と言われた。
 それが理想を追い求めた果てに辿り着いた場所。
「幸福を望んでいるんだ」
 そんな人々から未来を刈り取った。
 とっくの昔に分かっていた事。いやというほど自問自答を繰り返した。
「……まったく、懐かしい顔触れを見て気が緩んだか」
 これでは青臭い理想論を信じていた若い頃と何も変わらない。
 アーチャーは溜息を零すと、切嗣との合流地点へ急いだ。

 ◇

 セイバーのサーヴァントは治療に励むキャスターの姿を見つめ、荒れ狂いそうになる感情の波を必死に抑えている。
 嘗て、彼は彼女と出会っている。それどころか、彼は彼女に恋をしていた。
 
 彼は純真で、献身的で、相手が誰であろうと、その心に善を見出そうと努力する人物だった。
 キャメロットにおいて、彼は取り立てて優れた騎士ではなかった。だが、王への忠誠と、騎士としての気高さは皆の認めるところであった。
 その彼がゴアの国の王であるユリエンスの妻、モルガンの密かな愛人であるという噂を聞いた者は皆一様に首を傾げた。
 彼は初めからモルガンを愛していたわけではない。彼は彼女の境遇に同情し、哀れんでいたのだ。
『誰も愛さないのなら、私の愛を捧げよう』
 それは誰からも忌み嫌われている魔女に対する騎士としての献身。
 それはどこまでも清く正しく、そして、決定的に間違っていた。
 モルガンは強い女だった。彼女にとって、彼の|同情《おもい》は侮辱以外の何者でもなかった。
 もっとも、彼女もアコロンの気持ちを完全に憎く思っていたわけではない。孤独の闇に彼の愛は一筋の光を与えた。だからこそ、彼の死に際に彼女は涙を流したのだ。
 
 彼女の愛は決して己のものにならない。死の間際、彼はようやく己の誤りに気がついた。全てが手遅れになった状況で、本当の愛を知った。
 彼は彼女を愛している。偽りの感情ではない。その笑顔の為なら、例え血塗られた道を歩く事になっても構わない。そう思う程の愛が彼をこの|聖杯戦争《たたかい》に誘った。
「モルガン……」
 愛しい女性が目の前にいる。聖杯に託す筈だった望みが叶ってしまった。
 その色白な肌に吸い込まれそうになる。
 この聖杯戦争の最中、彼女は生前誰にも見せる事の無かった穏やかで優しい表情を見せてくれた。
 それが彼の中の彼女に対する愛情を更に燃え上がらせた。
 その腰に提げた剣を彼は抜いた。
「おい、何のつもりだ?」
 キャスターの宝具として現れた騎士が彼の前に立ちはだかる。
「どいてくれ、モードレッド」
 その表情は狂気に満ちていた。
 何の躊躇いも無く、アコロンは刃を振り下ろす。その刃を当然のように弾きながら、モードレッドは不機嫌な表情を浮かべた。
「もう一度だけ聞くぞ。何のつもりだ?」
 アコロンは言った。
「彼女を私のものにする」
「よ、よせ、セイバー!!」
 慌てて止めようとする雁夜を彼は蹴り飛ばした。
 その凶行に目を見開き、モードレッドは宝剣を構える。
「……本気みたいだな」
 キャスターは桜の治療に専念している為に動く事が出来ない。
 それほど、彼女の負傷は甚大なのだ。
「テメェの事は……、結構認めていたんだけどな」
「モルガン……。私の愛しい人。私はその視線を独り占めにしたいのだ!!」
「……見苦しい男だな」
 襲いかかるセイバーにモードレッドは軽蔑の眼差しを向けた。
「がっかりだ」

第十五話「交差路」

 女は暗闇に身を寄せて泣いている。
「どうして……?」
 彼女の頭は疑問で埋め尽くされている。
 ただ、あまねく人々の幸福を願っただけだ。誰一人零れ落とす事無く、楽園に導く為に頑張った。なのに、どうして邪魔をする者が現れるのか、彼女には理解が出来なかった。
 人は誰しも幸福になる事を望んでいる。進んで不幸になりたいと思う者など居る筈がない。
「私の祈りは皆を幸福に導く……。なのに、どうして……」
 愛する子を失った。神の寵愛を受けたい一心で罪を犯してしまった哀しい子。苦悩に満ちた人生を送り、死後も悩み続けていた。
 全て、あの魔女のせいだ。あれは良くないものだ。人を不幸に導く悪魔だ。
 考えてみれば、初めからおかしかった。|母《わたし》に反抗する子など、あってはならない。
「あの魔女は人間じゃない……。あれは化け物だわ」
 野放しにしてはいけない。母として、子供達を守らなければいけない。
「……母さん」
 決意を固める彼女に声を掛ける者がいた。
 カソックに身を包む青年だ。
「ああ、愛しい子。私を迎えに来てくれたのね」
「はい、母さん」
 言峰綺礼は彼女を抱き締める。彼は彼女の苦悩を感じ取り、哀しい気持ちになった。
 破綻者である筈の己がそのような感傷を覚える事に驚きを覚えながら、その感情を与えてくれた彼女に感謝し、彼女の苦悩を取り払いたいと心の底から思った。
 イヴ・カドモン。始まりの女と呼ばれる、全ての人類の母。如何なる者も彼女を愛さずにはいられない。それは根源に刻まれた全人類共通の愛情を喚起するからだ。
 産まれ落ちた瞬間。人はその後の人生でどのように歪もうと、その瞬間だけは生を得た事に感謝する。己を産み落とした母胎を愛する。彼女の身に宿る《|全ての人の母《スキル》》はその瞬間の愛情を喚び起こす。
 彼等は自らの意思を失いなどしない。記憶と人格はそのまま継続している。それでも尚、彼女を優先してしまう。他に愛する女がいても、感情が希薄な者でも、破綻者でも、その圧倒的な愛情に抗う事など出来ない。
 綺礼にとって、彼女はまさに救世主だ。万人が《美しい》と感じるものを美しいと思えず、善よりも悪を愛し、他者の苦痛に愉悦を覚える己の悪しき性に彼は苦しめられてきた。晴れる事無き懊悩から解き放たれる為に多くのあらゆる努力を重ねて来た。だが、どれも実を結ばず、終わりなき茨道を歩き続けた。
 その苦しみを彼女は解き放ってくれた。例え、キャスターによって彼女の《魅了》から解き放たれたとしても、彼は彼女の為に生きる道を選ぶだろう。それほどまでの感謝と愛情を感じている。
「告げる」
 綺礼は言霊を口にした。このままでは依り代を失った彼女が消滅してしまう。それはいけない。
「汝の身は我の下に、我が命運は汝の為に。聖杯のよるべに従い、この意、この理に従うのなら我と共に。ならばこの命運、汝に捧げよう」
「嬉しいわ。愛しい子。可愛い子」
 新たなる刻印が綺礼の身に刻まれていく。二騎のサーヴァントを従える事は生粋の魔術師ではない綺礼にとって負担の大きい事。それでも、彼は未だにアサシンとの契約を結び続けている。
 何の因果か、生き残ったアサシンの分霊がライダーの下に身を寄せているからだ。これを利用しない手はない。
「ところで、母さん。その女は?」
 綺礼はイヴの傍で寝息を立てている銀髪の女性を指差した。
 アインツベルン謹製のホムンクルスである事は分かる。
「|彼女《これ》が聖杯みたい」
「……どういう事ですか? 私の記憶が正しければ、教会であなたはアーチャーのマスターを名乗るホムンクルスを聖杯に変えていた筈ですが」
「|あの子《カイン》に言われたの」
 彼女は教会に現れたホムンクルスを聖杯に変えるよう、カインに進言された。聖杯の在り処は分からなくても、聖杯を創り出す事は可能だと。
「これも聖杯よ。あの|人形《ホムンクルス》を通じて、《|いつか還るべき楽園《エデン》》が創造した本物の聖杯。私の知らないモノはエデンの力でも創造する事は出来ないけれど、設計図があれば可能になるの」
 だが、教会から逃げた先で置き去りにされた後、彼の痕跡を追って辿り着いた場所に|本物の聖杯《この女》がいたらしい。
 イヴはカインに何か考えがあったのだろうと言うが、綺礼は直ぐにカインの抱いた叛意を悟った。
「なるほど……。では、この聖杯も本物として機能するわけですね」
 カインは既にいない。いなくなった者の叛意をわざわざ教えて、彼女に心労を与える必要はない。
「そうよ。だから、これはもう要らないのだけど、カインには何か考えがあったのかもしれないと思うと……」
「……ええ、これは使える」
 綺礼は微笑んだ。カインの思惑がどうあれ、これは|切り札《ジョーカー》になり得る存在だ。

 ◇◆◇

 空気が冷え切っている。私の変わり果てた姿におじさん達はおろか、アーチャーや他の人達まで絶句している。
 ここはいっちょ、空気を和ませてあげよう。
「じゃじゃーん!! 桜ちゃん、ふっかーつ!!」
「…………」
 視線が痛い。どうやら、和ませ作戦は失敗に終わったらしい。
「さくら……、ちゃん」
 よろよろとおじさんがゾンビみたいに近づいてくる。
「えーっと。やっほー、おじさん!」
 元気に振る舞うと、おじさんは顔をくしゃくしゃに歪めた。
「なんで、髪が白いんだ? その目はどうしたんだ? その手足は?」
「えっと……、これはちょっとした事故的なあれで……」
 この上更に罪悪感とか、余計な感情を抱かれたくない。
 慌てて話を変えた。
「それより! キャスターにお願いがあるの!」
「……なんだ?」
 何故か仮面を外しているキャスターは今にも泣きそうな顔だった。声も震えている。
「この子達から記憶を消してあげて」
 虚数空間を展開する。お爺ちゃんの持っていた莫大な魔術知識は私の本来の属性である《虚数》を操る術もカバーしてくれた。
 そこから十人以上の子供を浮上させる。あの場で雨生龍之介を殺した直後に生きていた者達だ。他の子供達は彼が死亡したと同時に延命魔術が解かれ、死亡した。私が生きる為に、あの男を殺したから彼等は死んだ。その肉体を蟲に変え、魔力に換え、取り込んだ。
 目眩がしてくる。そろそろ、限界が近いみたい。虚数空間に大勢の子供を格納していた上、モードレッドの宝剣にも魔力を持って行かれたから、そろそろ意識を保つ事さえ難しくなってきた。
「あと、そろそろ意識を失うから、私の事もお願い。私、まだ死にたくないの。生きて、幸せになりたいの。だから……、助け……て」
 捲し立てるように早口でそれだけを告げると、視界が暗転した。同時に全身を激痛が駆け巡り私の意識は闇の中に溶けていった。

 ◇

「なんだよ……、これ」
 雁夜は地面に転がる桜の体を見て、立っていられなくなった。
 手足が無い。眼球が無い。歯が無い。髪は真っ白。全身に火傷と切り傷と他にも色々。
「……桜は拷問を受けた。どうやら、そこで眠る姉を守る為に身を捧げたようだな」
 キャスターはモードレッドから聖剣の鞘を受け取り、それを桜の肉体に沈めた。その後も様々な魔術を重ねていく。
「手足を釘で台座に打ち付けられ、骨を折られ、切断され、眼球を抉られ、歯を抜かれ、腹部を切開され、その内蔵を弄ばれ……、その上で罪悪感を抱いておる」
「ざい、あく……、え?」
「どうやら、拷問を行った男を殺した事で、他の子供達が死んだようだ。男に拷問を受け、死なぬように延命させられていた哀れな子供達だ」
 キャスターの手で桜の体が徐々に元の姿を取り戻していく。
 |全て遠き理想郷《アヴァロン》は損傷した所有者の肉体を復元する力を持っている。その恩恵を最大限活かす為にキャスターは懸命に手を動かし続けている。
「なんでだよ……。なんで、桜ちゃんばっかり……」
 雁夜は地面を叩いた。
「なんで……。なんでなんだ……? 幸せになりたい? なるべきだ。今までがおかしかったんだぞ!! どうして、この上拷問なんてされる!? その上、子供を助けたのに罪悪感!?」
 頭を掻き毟る。怒りで頭がどうにかなりそうだ。
 彼女はもう散々悲惨な目にあってきた。もう、十分過ぎる筈だ。後の人生は他人の何万倍も幸福であるべきだ。
「なんで……。なんでなんだ? なんで……」
 雁夜の声だけが夜の教会に響き続けた。

 ◇

「なんで……、か」
 衛宮切嗣はその光景を何度も見て来た。苦しまなくてもいい筈の人間が苦しむ姿。答えを求めて、必死に走り続けた挙句、出した答えは……、
「世界はそういう風に出来ているんだよ、間桐雁夜」
 正義など、この世のどこにも存在しなかった。悪意を持つ者が力無き者を平然と踏み躙る。それを当然の事のように受け入れる人間社会。
 誰もが笑顔で過ごせる理想郷など、夢物語だ。
「だから、聖杯が必要なんだ」
 この戦いを人類最後の流血にしてみせる。彼女のような何の罪も無い人間が不幸になる事など無い世界を作ってみせる。
「アーチャー。イリヤを保護して、地点B-4に来てくれ」
 あのキャスターは危険だ。本来なら、隙だらけの状態である今この瞬間を狙うのがベスト。だが、傍にイリヤがいる。
 キャスターがモードレッドを送り込んだ先はファニーヴァンプのアジトである筈。そこにあの子が居た理由を考えると、最悪の事態が脳裏を過る。
 余計な感傷に流されたわけじゃない。今はあの子から話を聞く事を優先するべきだ。
「……クソッ」
 そう、頭の中で言い訳をして、理性的になろうとして失敗した。
 間桐桜があれほどの拷問を受けた以上、イリヤにもなにかをされた可能性が高い。そう思うと、腸が煮えくり返る。
 認めるほかない。今、切嗣は娘を心配し、勝利よりも彼女を優先してしまっている。一緒に居た筈の妻の安否を気にしている。
 弱くなっている。あのホテルの爆破の際、わざわざ客や従業員を追い出した時にも感じた。昔のような冷徹さを欠いている……。
「このままじゃ、駄目だ……」
 眠る度に見る光景が心を蝕んでいる。
 英霊・エミヤという存在が辿った凄惨な歴史。その中で視た、禍々しい光を帯びた大聖杯。娘の最期。己が呪いを課した少年の末路。
 見たくない。そう思っても、眠る度にラインを切れない。その罪から目を逸らす事が出来ない。この戦いが全くの無意味である可能性を捨てきれない。
 赤々と燃え上がる冬木の街。そこで被害者の少年を引き取り、自己満足に耽る己の姿に吐き気がする。
「馬鹿野郎……。馬鹿野郎……ッ!!」
 何をしているんだ、貴様は!! そう罵倒し、殺してやりたくなる。
 今まで、何の為に多くの犠牲を払って来たのか分からなくなる程、愚かな終生を送る自分の姿に耐えられなくなる。
 |月《奇跡》は無く、|星《希望》も無く、|道《理想》さえ闇に溶け、それでも|体《己》が残っているなら、やれる事があった筈だ。
 
 嘗て、育った島に住む少女が彼に問いかけた。
『ケリィはさ、どんな大人になりたいの?』
 決まっている。今も昔も変わらない。
「……僕は必ず」
「ええい、酒樽泥棒はどこだー!? って、どわっ!?」
 決意を新たにしようとしていた切嗣の前に突然少女が飛び込んできた。
 どうやら、物思いに耽っていて注意が散漫になっていたようだ。
 なんという事だろう。ここまで耄碌していたのか……。
「すまない。少し考え事をしていたんだ」
 ぶつかってしまい、倒れこんだ少女に手を伸ばす。
 そこで、切嗣は言葉を失った。
「シャー……、レイ?」
「ほえ?」
 直ぐに違うと気づいた。だけど、少女の面影は嘗て愛した故郷の島の少女とよく似ていて、目を離す事が出来なかった。
「えっと……、大丈夫ッスか?」
 手を目の前で振られて、漸く正気に戻る。
「す、すまない。少し、知り合いに似ていたもので……」
「そうなの? ふふ、さては相当な美少女ッスね?」
 目をキラリと輝かせ、ふてぶてしい笑顔を浮かべる少女。
「……ああ、君みたいにとても可愛らしい女の子なんだ。ところで、こんな夜更けにどうしたんだい? 危ないから、早く家に帰った方がいい」
「か、可愛いッスか……。え、えっと、ちょっとばかり酒樽泥棒を探しておりまして……」
 可愛いと面と向かって言われた少女はしどろもどろになりながら事情を説明する。
 どうやら、知り合いの酒屋から酒樽が盗み出されたようだ。
「それなら、警察に伝えて、君は帰りなさい。君みたいな可憐な女の子がこんな夜更けに出歩くなんて……」
「か、可憐!? あ、え、うへへ。そ、そこまで言うなら……、デヘヘ。か、帰るッスね」
「ああ、それがいい」
「あ、あの!」
「なんだい?」
「お名前をお聞きしても?」
「……名乗る程の者じゃないよ」
 少女の頭に手を乗せ、切嗣は背中を向けた。その背中を少女は陶然となりながら見つめた。
「……あの!!」
「ん? なんだい?」
「なんていうか、その……」
 少女にとって、切嗣は初対面の相手だ。だから、今考えている事が正しい保証などない。
 それでも、その辛そうな背中を見て、言わずにはいられなかった。
「げ、元気出して下さい!!」
「え……?」
 戸惑う切嗣に少女は顔を真っ赤にしながら言った。
「そ、その、嫌な事とかあっても、大抵何とかなるもんッスよ! ネバーギブアップ!!」
 自分でも何を言っているのか分からないのだろう。
 恥ずかしそうに頭を抱える少女を見て、切嗣は口元を綻ばせた。
「ありがとう。うん。ネバーギブアップだね」
 切嗣は再び歩き出した。不思議とさっきまでよりも足取りが軽くなっている。
「夜は出歩かないようにね。君みたいな可愛い女の子は悪い男に狙われやすいから」
 そう言い残すと、闇に消えていった。その後ろ姿を少女はいつまでも見つめていた。