第十二話「ごめんなさい」

 岩に突き刺さった美しい剣がある。
 その前には可憐な少女と魔術師。
 魔術師が少女に忠言する。

『その剣を岩から引き出したる者、即ちブリテンの王たるべき者。アルトリアよ、それを取る前にもう一度よく考えてみるが良い。その剣を手にしたが最後、君は人ではなくなるのだよ』
『はい、私は望んでこの剣を抜きに参りました』

 魔術師の忠告に少女は不適な笑みを浮べ返した。剣の柄に手を掛ける。
 数多の勇者が挑戦しては跳ね除けられた選定の剣。
 少女はそれをアッサリと引き抜いた。

 アーサー王が活躍したとされる五世紀の中頃、今日ではイギリスと呼ばれているブリテン島は混乱の時代を迎えていた。
 四百年程前からこの地を支配していたローマ帝国が各地で相次ぐゲルマン民族の侵入に手を焼き、撤退してしまったからだ。
 ローマ帝国の属州となってローマ的な生活を送って来たブリテンのケルト人達は襲い来るアイルランド人やピクト人、アングロ=サクソン人の猛威に突如晒される事となった。
 加えて、国内でもローマ帝国の後継者として、多くの諸侯がブリテン全土の支配権を手に入れようと動き出し、激しい内乱状態が続いた。
 内戦が続くブリテンは外敵に対して脆い状態に陥り、いつブリテンが異民族に支配されるか分からない状態になっていた。
 その混乱を鎮め、王となった男が居る。アーサー王の父、ウーサー・ペンドラゴンだ。
 彼は勇敢かつ高潔な人物であり、前ブリテン王の弟でもあった。彼は反発する諸侯を次々に支配下に置き、圧倒的なカリスマ性でブリテンを収めるに至った。
 けれど、ただ一人。ゴルロイス公爵だけが彼に服従する事を良しとしなかった。彼はただ、ウーサーの友であり続けたかっただけだったが、彼の存在がウーサーの覇道を阻む事となる。
 覇王は一人の女に恋をした。けれど、その女はゴルロイスの妻だった。彼は助言者である魔術師、マーリンの手を借り、妻を奪う事に成功するが、多くの諸侯からの信頼を喪い、最期は反逆者の罠に掛かって死んだ。
 覇王亡き後のブリテンを覆う混乱は嘗て以上だった。次なる王が誰になるか、それを識る唯一人を除き、多くの人々が争い合った。
 そして、月日は流れる。ウーサーがゴルロイスの妻、イグレーンに産ませ、マーリンが連れ去り、エクターという騎士に預けられた少女。アルトリアが十五歳の誕生日を迎えた日に選定の剣が現れた。
 
 選定の剣を抜いたアーサーを待ち受けていたのは熾烈な戦いの日々だった。
 騎士の従者でしかなかった十五歳の少年。それも、ウーサー・ペンドラゴンとコンウォール公の妻との間に生まれた不義の子供。そんなアーサーを王として認めようとしない諸侯も多かったのだ。
 その中心的存在はオークニー王ロットとゴア王ユリエンス。そして、彼等を筆頭とする十一人の諸侯がアーサーの敵に回った。
 ロットとユリエンスはウーサーが謀殺したゴルロイスの娘を妻としていたのだ。ゴルロイスの娘達はアーサーを王とする事を頑なに認めなかった。一人は憎しみの為、一人は愛の為……。
 
『私よりも倍以上も年上の偉大な騎士達が私を王として認めないというのに、小娘に過ぎなかった私に何が出来るというのか……』

 ある日、アーサーはマーリンにそう呟いた。

『だが、その一方で多くの騎士や民が国を救ってくれと私に願うのだ……。私はどうしたら……』

 思い悩む若き日のアーサー。彼にマーリンは昼夜を問わず、熱心に教育を施した。
 アーサーは王の資質と無垢な若さと逼迫した状況だという認識から、マーリンの教えを次々に呑み込んだ。
 王としての在り方を学んだアーサーはその年の聖霊降臨祭に正式なブリテンの王となるべく、戴冠式を行った。
 戴冠式は彼女が王である事をブリテン全土に宣言する式典であると同時に、敵と味方の立場を明らかにし、戦いの幕を開いた日でもあった。
 
『これより、私は正義をもって、王政を執り行う』

 そう、彼女は戴冠式で宣言した。騎士も貴族も、庶民でさえも、アーサーが公平に裁き、その誠実さをもって、『アーサーのブリテン』の規範であると定めだのだ。
 同時に、この宣言はアーサー王に歯向かう十一人の諸侯に『正義に背くもの』として反逆者の烙印を押すものでもあった。
 そして、戴冠式が終わるより先に戦いの幕は開いた。 
 堅牢な城に立て篭もるアーサーと城を取り囲む十一人の諸侯。先手を打ったのは、アーサーだった。
 劣勢であるアーサーが自ら仕掛けるとは思っていなかった諸侯は完全に不意を衝かれた形となる。
 アーサーは先陣を切り、戦った。激戦となり、最初はアーサーの有利に進んでいた戦況も五分にまで持ち込まれた。
 その時、アーサーは選定の剣を振り上げた。眩い輝きが戦場を照らし、敵の目を眩ませた。同時に、味方の士気を高揚させた。
 戦いはアーサーの勝利に終わり、その後の戦いでも常に勝利し続けた。戦いの最中、敵対していた諸侯達も徐々にアーサーを認め、忠誠を誓うようになっていく。
 やがて、圧倒的に不利な戦況……、後に『ベドグレインの戦い』と呼ばれる戦場を巧みにしのいだアーサーは『唸る獣』と呼ばれる幻獣を追うペリノア王と出会う。
 勇猛果敢な冒険好きのペリノア王はアーサーをブリテン王とは知らずに彼女から馬を奪う。それに激昂した彼女の部下が彼に挑み、破れ、その敵を撃つ為にアーサーはペリノアと一騎打ちで戦う事となる。
 その戦いの結末は選定の剣が折れ、アーサー王の敗北に終わる。けれど、その戦いでアーサーは完全な王となり、ペレノア王はアーサーの味方となった。
 優れた王が味方となった事でアーサーはブリテンの統一を果たす。
 そして、戦いは内から外へと舞台を移す。

『アーサー王は戦いの神! 常に先陣に立たれ、敗北を知らぬ!』
『アーサー王の行く手を妨げる者など存在せぬ!』
『その姿は選定の剣を抜かれた時から不変だ!』
『王は年も取らぬ』
『まさに、竜の化身よ!』

 騎士達はアーサー王を讃えて声高に叫んだ。
 騎士達ばかりでは無い。多くの民が王を讃えた。

 時代は移り変わる。アーサー王の施政の下、ブリテンは嘗て無い繁栄振りを見せていた。
 ところが、その繁栄をよく思わぬ者が居た。
 魔女・モルガン。アーサーの異父姉である彼女は様々な策を弄しては、円卓の騎士達を分裂させようと企んだ。
 その結果、一人の騎士が生まれる。モルガンが妖術によって手にしたアーサーの精子と自らの卵子を融合させ、作り上げたホムンクルス、モードレッドである。
 彼は自らを『王になるべき者』と信じて疑わず、王に自らを後継者と指名するよう言い募った。しかし、王は彼の言葉を切り捨てた。
 決して、不義の子であるからという理由では無い。単にモードレッドに王の資格が無かっただけの事。
 けれど、その一件が後々の禍根となり、終にはブリテンという国を滅ぼす災厄にまで成長するとは、誰も考えていなかった。

 一人の道化が居た。アーサー王が愛し、多くの騎士達が愛した男。ディナダンという男が居た。
 彼はその類稀な道化の才能で円卓を纏め上げ、友情と言う絆で結束を齎した。 
 そんな彼をモードレッドは殺害したのだ。
 ディナダンという男は卑しい人物の秘密や企みを悉く暴き、問題にならない内に笑いにして解決してしまう能力があった。
 それが彼には邪魔だったのだ。
 ディナダン亡き後の円卓からは笑いが喪われ、悲しみだけが残った。偉大な道化が築いた友情という名の結束の力が永久に喪われたのだ。

 やがて、ディナダンが健在であったならば解決出来たであろう事件が起こる。
 ランスロットとアーサーの妻、グィネヴィアとの不義の愛がモードレッドとアグラヴェインの策略により世間に露呈してしまう。
 アーサーは個人としては妻であるグィネヴィアに愛を与えてくれたランスロットに感謝すらしていたのだが、王として、二人を裁かなければならなくなった。

『すまない、ランスロット。すまない……、グィネヴィア』

 不義の愛に溺れ、死罪を言い渡されたグィネヴィアを救う為、ランスロットは同胞であった多くの騎士を葬った。
 一度入った亀裂は閉じる事が無く、瞬く間に大きくなった。
 そして、アーサーは最期の時を向かえる。
 息子であるモードレッドが反旗を翻したのだ。多くの騎士達の骸が並ぶ丘でアーサーとモードレッドは向かい合った。

『どうだ! どうだ、アーサー王よ! 貴方の国はこれで終わりだ! 終わってしまったぞ! 私が勝とうと貴方が勝とうと――――最早、何もかも滅び去った! こうなる事は分かっていたはずだ! こうなる事を知っていたはずだ! 私に王位を譲りさえすれば、こうならなかった事くらい……! 憎いか!? そんなに私が憎いのか!? モルガンの子であるオレが憎かったのか!? 答えろ……答えろ、アーサーッ!!』

 激情のままに叫ぶモードレッドに対して、アーサーは眉一つ動かさずに槍を振るった。
 
『アーサーッ!!』

 結果は両者相打ち。共に致命傷を受け、二人は倒れた。
 衛宮切嗣にとって、それは些細な差こそあれ、アーサー王物語に記された通りの内容だった。
 けれど、彼女の物語はそれで終わりでは無かった。

『……これが結末か?』

 彼女は問う。見渡す限りの死体の山。こんなモノは、彼女にとって日常だった。
 独り残った心には何も無い。選定の剣に身を委ね、一度大きく息を吐いて、肩の力を抜いた。

 彼女が目指したのは理想の王だった。
 彼等が指示する条件も理想の王だった。
 そして、彼女は確かに理想の王だった。だが、あまりにも……完璧過ぎた。

 効率良く敵を斃し、戦の犠牲となる民を最小限に抑えた。如何なる戦であろうと、それが戦いならば当然、犠牲が出る。ならば前もって、犠牲を払い軍備を整え、無駄なく敵を討つべきだと考えた。
 戦いの前に一つの村を枯れさせ、軍備を整え、異民族に領土が荒らされる前にこれを討ち、十の村を守る。
 それは当時において最善の策であった。けれど、騎士達は不満を抱いた。
 モルガンやモードレッドの策略だけで滅びたのではない。ランスロットとグィネヴィアの不義の愛が滅びを招いたわけでもない。

 ある騎士が言った。

『アーサー王は、人の気持ちが分からない』

 それが結論。まったく、笑い話にしかならない。
 人であったは理想の王になどなれない。だが、彼等は王に人の心を期待する。
 故に、破綻は必然だったのだ。

『――――岩の剣は、間違えて私を選んでしまったのでは……』

 滅び行く国を見据え、死の間際に彼女は呟く。
 そして、彼女は手を伸ばす。伸ばしてはいけないモノに手を伸ばす。

『……契約しよう。死後にこの身を明け渡す代償をここに貰い受けたい』

 アーサーは聖杯を欲した。
 滅び行く国を救う為、聖杯が必要だった。
 それが何を意味するのか理解しながら、彼女は躊躇い無く、契約した。

――――ああ、こんな馬鹿な話があるか……。

 彼女の治めた国はとうの昔に滅んでいる。その滅びを無かった事にするという彼女の願いは過去の改竄だ。
 そんな願いを叶えてしまったら、彼女自身の存在だって、消えてしまうだろう。それでも、彼女は契約に従い、英霊として世界に使われる事になる。
 自分の存在が無かった事になった世界で……。
 もしかしたら、アルトリアという少女があくまで騎士の従者として生涯を終える事になるかもしれない。もしかしたら、見知らぬ男と恋仲となり、結婚し、子を宿すかもしれない。
 けれど、アーサー王となったアルトリアは消えてしまうだろう。仮に、再びアルトリアが王となっても、それはやはり別人だ。
 
――――こんな願いは間違っている。これでは、彼女があまりにも報われない。

 けれど、悪夢は終わらない。死後も国の為に自らを犠牲にしようとした少女が次に目を開いた時、そこに居たのは衛宮切嗣自身だった、
 困惑する彼を尻目に夢は続く。
 彼が知る彼女とは全く違う性格。夢の中の切嗣は彼女を厭い、言葉を交す事すらしなかった。
 本来、実行しようと考えていた作戦が夢の中では実行されている。
 セイバーはアイリスフィールと共に戦場を駆け抜け、勝利を目前にまで手繰り寄せた。けれど、聖杯を前にして、夢の中の切嗣は信じ難い行為に走った。

『令呪をもって、我が従僕に命じる。聖杯を破壊しろ、セイバー』
『何故だ……、切嗣!?』

 彼女の悲痛な叫びに応えは返らず、彼女は血塗られた丘へと送還された。
 けれど、聖杯を得られぬ限り、彼女は何度でも『聖杯を得られる可能性』に呼び寄せられる。
 そして、彼女は少年と出会う。

『――――問おう。貴方が、私のマスターか』

 少年との日々はそれまでの記憶を遥かに凌駕する色彩の多さだった。
 
『召喚に従い参上した。これより我が剣は貴方と共にあり、貴方の運命は私と共にある。――――ここに、契約は完了した』

 自分達との初対面とは随分と違う凛とした態度。
 やはり、自分の知る彼女とは大きく違う。

『――――その時は私が死ぬだけでしょう。シロウが傷つく事ではなかった。繰り返しますが、今後、あのような行動は慎むように。マスターである貴方がサーヴァントである私を庇う必要はありませんし、そんな理由も無いでしょう』

 少年の名は衛宮士郎。自分と同じ性を持つ少年。
 将来、自分が育てる事になる義理の息子を切嗣は呆然と見つめた。
 己の夢を受け継いだ少年。己以上に歪な在り方。

『ですから――ー―、そんな人間が居るとしたら、その人物の内面はどこか欠落しています。その欠落を抱えたまま進んでは、待っているのは悲劇だけだ』

 己が裏切った正義を胸に戦う少年。彼を守り、少女は戦う。

『――――貴方が戦わないというのなら、いい』

 戦いは熾烈を極めた。青き槍兵、門を守る侍、剣技に長けた弓兵。
 敵はこの第四次聖杯戦争に召喚されたサーヴァント達とも負けず劣らずの英傑揃い。
 未熟なマスターと共に戦い抜くのは至難だった。けれど――――、

『違うわ、セイバー。士郎はサーヴァントを侮っているわけじゃない。その辺りを誤解しちゃうと話が進まないわ』

 少年は徐々に騎士の心を開いていく。

『――――だから、無茶でも戦う。勝てないって判っていながら、勝とうとする。その結果が自分の死でも構わない』

 遠坂時臣の娘が自分の義子を語る光景というのも奇妙な光景だった。
 けれど、それは……、

『いや――――来い、セイバー!!』

 戦いと共に彼等、彼女等が築いていく絆。
 それは自分が本来目指していた理想では無かったか?
 本来敵同士である筈にも関わらず、助け合い、理解し合おうとする姿があまりにも眩しかった。

『……はぁ。その頑なさは実に貴方らしい』

 夢の中のセイバーの表情が増えていく。王であった年月、第四次聖杯戦争に参加した数日間。それらを合わせても、これほど彼女が表情を目まぐるしく変える事は無かった。
 
『まったく、今更答えるまでも無いでしょう。私は貴方の剣です。私以外の誰が、貴方の力になるのですか? シロウ』

 王はやがて、少女へと戻っていく。少年の頑なさは固く閉ざした彼女の心の壁を打ち破ったのだ。

『いい、セイバー? デートっていうのはね、ようするに逢引の事なのよ。士郎は遊びに行くって言ったけど、要は男の子が好きな女の子にアピールするチャンスってわけ』

 何とも甘酸っぱい光景だった。
 少年は少女を楽しませようと四苦八苦する。
 そんな彼に少女は微笑む。
 
『王の誓いは破れない。私には王として、果たさなければならない責務があるのです……。アーサー王の目的は聖杯の入手です。それが叶おうとも、私はアルトリアに戻る事は無いでしょう。私の望みは一つだけ。――――剣を手にした時から、この誓いは永遠に変わらないのですから』

 しかし、少女の祈りは変わらない。

『――――シロウなら、解ってくれると思っていた』

 それは彼女が初めて抱く種類の哀しみ。
 少女はその時既に、少年に恋をしていたのだろう。だからこそ、哀しみを抱いた。

 そして、夢は終わりに向かう。
 そこは死臭漂う地下空間だった。そこに、少年は胸から血を流して立っていた。
 少年は見覚えのある神父と共に居た。

『私が選定役だと言っただろう。相応しい人間が居るのならば、喜んで聖杯は譲る。その為に――――、まずはお前の言葉を聴きたいのだ、衛宮士郎』

 神父は少年の過去を掘り返し、痛みを与えた。
 それは見覚えのある生きて見る地獄だった。
 いくら救いを請われても、頷く事は出来ない。出来る事があるとすれば、それはただ、終わらせる事だけ。
 生かされている死体という矛盾を正に戻す。この地獄を作り上げた原因に償いをさせる。自分に出来る事があるとすれば、それだけだ。
 神父は語る。この夢の時間より十年前の出来事。それは衛宮切嗣の罪。聖杯に仕掛けられた悪意。
 慟哭すべき出来事、非業なる死、過ぎ去ってしまった不幸。それを元に戻す事など出来はしない。
 
――――正義の味方なんてものは、起きた出来事を効率よく片付けるだけの存在だ……。

 突きつけられた真実に目を背けそうになった。
 けれど、もし……、その不可能を可能とする『奇跡』があるとしたら……。
 衛宮切嗣はそれを目の前にして、自分がどう選択するかを理解している。
 何故なら、彼はその奇跡を使う為に聖杯戦争に参加したのだから――――。

『――――いらない。そんな事は、望めない』

 少年の言葉に少女は息を呑む。そして、それは衛宮切嗣も同様。
 少年は真っ直ぐに『自らの過去』を見て、歯を食い縛りながら、否定した。
 胸が痛い。少年の言葉が、思いが、その姿が……、胸に突き刺さる。
 少年は強かった。騎士王よりも、魔術師殺しよりも、ずっと強かった……けれど、

『――――では、お前はどうだセイバー。小僧は聖杯など要らぬと言う。だが、お前は違うのではないか? お前の目的は聖杯による世界の救罪だ。よもや、英霊であるお前まで、小僧のようにエゴはかざすまい?』

 その問いに少女は狼狽した。当然だろう。求め続けて来た聖杯を神父は譲ると言っているのだ。
 拒む理由などない。その為だけに彼女は時を越えて戦場を駆け抜けたのだから。

『では、交換条件だ。セイバー。己の目的の為、その手で自らのマスターを殺せ。その暁には聖杯を与えよう』
『え――――?』

 少女は口をポカンと開けて目を見開いた。
 その様は、自分が良く知る少女を彷彿とさせる。

『どうした? 迷う事はあるまい。今の小僧ならば、死んだという事にも気付かない内に殺せるぞ。……第一、もはや助からぬ命だ、ここでお前が引導を渡してやるのも情けではないか?』

 神父が少年の下へ道を開く。彼女の前には地下墓地に通じる扉と、その奥で蹲る少年が居る。

『あ……、あ』

 吸い込まれるように少女は歩く。
 神父の前を歩き、湿った室内に入って行く。
 そこは地獄だった。この中で、少年はのた打ち回り、自らの闇を切り開かれたのだ。
 なのに、それでも尚、少年は神父の言葉を跳ね除けた。

『あぅ……』

 少女が剣に手を掛ける。足下には苦しげに呻く主の姿。
 
『あ……ぁ』

 長かった旅が終わる。自らを代償にして願った祈りが漸く叶う。
 ただ、剣を振り下ろすだけで叶う。
 それは誰に責められる事でも無い。

『――――、え?』

 呆然と、少女は足下に転がるモノを見た。
 自分が何をしたのか、理解出来ずに居るらしい。

『ぁ……ぁぁ、いやぁぁぁぁああああああ!?』

 瞳に絶望の色が浮び、彼女は悲鳴を上げた。
 ただの少女として、愛した男を自らの手で殺めた事実に絶叫した。

『――――シロウ?』

 彼女はほんの少し思っただけだった。
 ただ、一瞬だけ、聖杯を求めただけだった。
 その願いは直ぐに消え、彼女は何より少年の命を優先させた……筈だった。
 けれど、魔が入り込む隙があった。
 たった、一度思うだけで十分だった。
 長く、長く疲労し、磨り減っていた彼女の心は些細な弱さに負けてしまった。

『違う……、嘘だ、シロウ』
 
 息絶えた主に手を伸ばす。その亡骸を抱き上げる姿に嘗ての気高さは何処にも無い。

『――――よくやった、セイバー。その慟哭、聖杯を受け取るに相応しい』
 
 神父が言う。茫然自失となった少女はただ導かれるままに差し出される聖杯に手を伸ばし――――、

『それではツマラン』

 その手を黄金の足に踏み躙られた。

『中々に面白い見世物ではあったが、この女は我のものだ。貴様の愉しみの為に使い潰されては困る』
『……ふむ、別に構わん。だが、飽きたら返せ。今のこの女が聖杯を使い、何を為すか、実に興味深いからな』
『まあ、飽きたらな。それまでは我が愉しむとする。ああ、この小僧も借りるぞ。死体とはいえ、利用価値は十分ある』

 アーチャーはそう言うと、自失したセイバーを自室へと引き入れた。
 そこからは目を覆うばかりの陵辱の日々だった。
 アーチャーはセイバーの自我を取り戻させる為、衛宮士郎の死体に仮初の命を与えた。
 無論、彼を甦らせたわけでは無い。だが、セイバーにとって、それは微かな希望となってしまった。
 アーチャーの目論見通り、僅かに自我を取り戻したセイバーを前にアーチャーは何度も彼を殺した。
 度重なる恋人の死に少女は追い詰められ、男に屈服した。
 強引に唇を奪われ、咄嗟に抵抗しようとすれば……、

『抵抗するのは構わんぞ。だが、あの小僧が――――』

 と返ってくる。そうなれば、もはや抵抗など不可能。
 ただ、憐れみを乞うばかり……。

『やめて……、お願いします。どうか、シロウにこれ以上……』
『ならば、分かっているな?』
『……はい』

 セイバーの瞳から涙が流れる。アーチャーは彼女の頬に唇を落とすと、そのまま涙を舐め取った。

『セイバー、お前が望むならば何時でもお前達は自由の身となれる。にも関わらず、未だに決断出来ずにいるのか?』

 部屋に入って来た神父が問う。

『無粋な事を言うな、綺礼。貴様も、今は我だけを見ていろ』
 
 抵抗する事も出来ず、ただ絶望に沈んでいくばかりの日々。
 そして、彼女はこう思ってしまった。

『私なんかが居たから、シロウが……。私なんかが居たから、ブリテンは……』

 セイバーは神父に言った。

『聖杯を下さい』
『ああ、構わんぞ。なあ、アーチャー?』
『ああ、そろそろ飽きて来たところだ』
『随分とアッサリしているな。あれほど欲していた女だと言うのに』
『手に入らぬが故の美しさだった……、というわけだ。手に入ってしまえば、どうでも良くなる』

 聖杯をセイバーに投げ渡し、男達は軽口を叩き合う。
 けれど、彼女にとってはどうでも良い事だった。
 恋人の死体に近寄り、少女は呟く。

『私さえ居なければ、貴方はきっと、もっと……ウフフ』

 聖杯を掲げ、セイバーは願いを紡いだ。

『聖杯よ……。私という存在を抹消してくれ』

 そして、セイバーは聖杯から溢れ出した泥に呑み込まれた……。
 視界が漆黒に染まる寸前、切嗣はセイバーの悲しみに満ちた声を聞いた。

『シロウ、ごめんなさい……』

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