「一度割り振られた令呪が消滅する――――、そんな事がありえるのですか?」
綺礼は師に問いを投げ掛けた。一刻ほど前に綺礼は師の教えに従い、アサシンのサーヴァントを召喚したが、その直後、肝心の師の令呪が消滅した。一度割り振られた令呪の消滅。尋常ならざる事態に瞠目する綺礼に反し、時臣は既に落ち着きを取り戻し、淡々と蓄音機に似た魔術具を操りながら応えた。
「その答えは君のお父上が教えて下さるだろう」
「父上が?」
綺礼の訝しむ声を尻目に時臣は宝石魔術による遠距離間の通話を可能とする魔術具を起動した。時を同じくして、新都にある言峰教会の地下から鈴の音が鳴り響いた。その音を聞きつけ、忙しなく書類を整理していた言峰璃正神父は手を休め、急ぎ足で地下の礼拝堂に設置されている遠坂邸にある宝石通信機と同一の魔術具の前に立った。
魔術師ではない璃正からでは通信を行う事は出来ないが、時臣の魔力により起動した遠坂邸の宝石通信機の宝石と言峰教会地下の礼拝堂の宝石通信機の宝石が共鳴し、自動的に起動している状態であれば魔術師ではない璃正にも時臣との遠距離通話が可能となる。璃正は時臣が言葉を発するのを遮り、落ち着かない様子で口を開いた。
「時臣君。君はサーヴァントを召喚したかね!?」
璃正の言葉に綺礼は目を見開き、時臣は小さく息を吐いた。
時臣にとって、璃正の開口一番の言葉は予想の範疇にあるものだった。
「やはり、既に全てのクラスのサーヴァントが出揃いましたか」
「どういう事ですか? 師よ」
「簡単な話だよ、綺礼。どうやら、私は聖杯に聖杯戦争に参加する意志が無く、資格を放棄したと認識されたらしい」
『……まさか、時臣君』
通信機の向こうから響く璃正の声に時臣は「ええ」と応えた。
「他のマスターに先を越されたらしいですね」
「しかし、師よ。御三家たる遠坂の魔術師を差し置き、他の魔術師がサーヴァントを召喚するなど、有り得るのですか!?」
綺礼の問い掛けに時臣は通信機が乗せられた机の引き出しを開いた。そこには色取り取りの宝石と宝石を加工した彫刻が並べられている。時臣の娘である凜の魔術の練習のために用意した練習用の宝石と時臣が凜に宝石の加工を実演して見せた時に作り出した彫刻だ。
時臣は加工前の宝石を机に並べると、綺礼に見るように指し示した。
「綺礼、これを令呪の兆しを思ってくれ」
時臣の言葉に綺礼が黙って頷くのを確認すると、時臣は今度は別の引き出しからチェスの駒に似た小さな彫刻を取り出した。彫刻はそれぞれ剣士、槍使い、弓兵、騎乗兵、魔術師、暗殺者、狂戦士を象った物が一つずつ。両腕を捥がれた人型の彫刻が複数。
人型の彫刻を机に並び、彫刻の前に加工前の宝石を置く。
「魔術師と令呪の兆しですか」
「そうだ。このように、令呪の兆しは聖杯戦争に参加する資格を持つ者に割り振られる。優先順位としては、御三家たる遠坂、マキリ、アインツベルンが優先的に兆しを割り振られる」
時臣は弓兵の彫刻と狂戦士の彫刻を手に取り、二体の人型の彫刻の前に置いた。
そして、令呪の兆しとしていた加工前の宝石を取り除き、加工した美しい宝石の彫刻を同じ場所に置いた。
「令呪の兆しを持つ魔術師はマスターとしてサーヴァントを召喚、使役する事が出来る。その権利を行使し、魔術師が英霊を召喚した時、英霊は現界する際に令呪に対する絶対的な服従を誓わされる。その契約により、令呪の兆しは正真正銘の令呪へと変貌するのだ」
「英霊が令呪に対する服従を誓うのですか!?」
綺礼が疑問を投げ掛ける。当然の質問だろうと時臣は淡々とした口調で答えた。
「令呪に対する服従。その契約こそが英霊が聖杯戦争に参加する際に差し出す対価なのだ。その契約があるからこそ、強力な対魔力を持つ英霊に対し、令呪は絶対的な強制力を働かせる事が出来る」
時臣は更に説明を続けた。
「つまり、この段階……」
時臣は残る五つの人型の彫刻の前に置かれた加工前の宝石を指差した。
「令呪の兆しの段階では魔術師に与えられるのは英霊を召喚し、聖杯戦争に参加するかどうかを決める権利に過ぎない。実際に英霊を召喚し、英霊が令呪の強制力を受け入れて初めて、魔術師はマスター……即ち、聖杯戦争の参加者となるわけだ」
「では、師の令呪が消滅したのは」
「聖杯がマスターとなりうる魔術師に求める最たる資質は聖杯を求める意志が有るや否やという点だ。最終的にマスターとなる資格を得る事が出来るのはより積極的に聖杯戦争に挑もうとする者達だ。例え、御三家を差し置いたとしてもね」
『時臣君……』
未だ、通信機の向こうで時臣の言葉を聞いていた璃正の落胆の声に時臣は微笑を漏らした。
「言峰神父。それに、綺礼。まだ、私は聖杯戦争から脱落したわけではないよ」
「ですが、サーヴァント無しでは……。こちらの陣営が保有するのはアサシンのサーヴァントのみ。マスターを狙うにしても、勝算は……」
綺礼の言葉に時臣は頷きながら調査した他の参加の意志を表明する魔術師達のプロフィールを思い出した。
魔術師殺しの異名を持つアインツベルンの傭兵――衛宮切嗣。
アーチボルト家の神童と謳われ、おそらくは此度の聖杯戦争において最強の魔術師――ケイネス・エルメロイ・アーチボルト。
間桐の名を一度は捨てながら再び戻って来たという不出来な魔術師見習い――間桐雁夜。
時計塔に所属する歴史の浅い血筋の未熟な魔術師――ウェイバー・ベルベット。
そして、残る二人のアーチャーとバーサーカーを使役する謎のマスター。衛宮切嗣、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトの二名は一筋縄ではいかないだろう。アーチャーとバーサーカーのマスターについては情報が不足している。
「狙うならば間桐雁夜、もしくはウェイバー・ベルベット。だが、奴等も屈強なる英霊を使役している事だろう。なれば……」
時臣は暗殺者の彫刻を手の中で弄び、綺礼に向けて不適な笑みを浮かべた。
「あまり優美さには欠けるが、他のマスターに退場してもらい、サーヴァントを頂戴しようじゃないか。その為には情報が必要だ」
「了解しました。では、アサシンにはしばらくの間情報収集に専念させるという方針でよろしいですか?」
「ああ、それで構わない。ターゲットは私が決める。逐一、アサシンが得た情報を私に伝えてくれ」
「了解です、導師よ」
ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは目の前の存在に落胆していた。
セイバーの召喚を目論み、万全を期したというのに、現れたのはランサーのサーヴァント。不詳の弟子であるウェイバー・ベルベットの反逆に続き、ケイネスは暗澹たる思いだった。
「主よ、どうなされました?」
ケイネスは鼻を鳴らすと背後に立つケイネスの婚約者、ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリに声を掛けた。
「ラインの調子はどうだ? ソラウ」
ソラウは答えなかった。陶然とした様子でケイネスの背後に視線を向けている。
「ソラウ」
再び声を掛けると、ソラウは驚いたように瞬きをしてケイネスを見た。
まるで、今迄そこにケイネスが居た事を失念していたかのように。
「あ、えっと、何かしら、ケイネス?」
ソラウの様子を怪訝に思いながら、ケイネスは再び同じ問いを投げ掛けた。
「ラインの調子はどうだ?」
「え、ええ。問題なく、その、ランサーと繋がったわ」
僅かに頬を緩ませながら答えるソラウにケイネスは怪訝な眼差しを向けた。よもや、ランサーの黒子に幻惑されたか、そう考えながら、それはあり得ないと切って捨てた。
ランサーのサーヴァント。ケルト神話の英雄であり、フィオナ騎士団随一の騎士と名高き英雄――――輝く貌のディルムッド・オディナ。
彼の頬には目を引く泣き黒子がある。それはただの黒子では無い。妖精が彼に与えた異性を虜にする呪いの黒子だ。彼の黒子を見た者は老若に関らず彼を愛さずには居られない。そのランクはC。
並みの女であれば、魔術師であっても彼の黒子が発する魅了の力に囚われてしまう事だろう。だが、ソラウは並みの魔術師ではない。魔術師としての腕こそ最低限の教育を受けたのみであり、未熟もいいところだが、彼女の身に宿る魔術回路は凡庸なそれとは遥かに異なる強靭なものだ。いかにCランクの魅了であろうと、彼女ならばレジスト出来る筈だとケイネスは考えた。
「では、ランサー。ついて来たまえ。これからの戦いについて話がしたい」
ケイネスはソラウとランサーを連れ、広々としたリビングに向かった。冬木ハイアット・ホテルの客室最上階に位置する場所からケイネスはチラリと眼下に広がる街を新奇で薄っぺらなだけの、まるで粉飾をどこからともなく掻き集めただけのゴミの山であるかのように見下ろした。
ケイネスはこの国――日本を軽蔑している。
自身の国の土着の風俗に対する執着もポリシーも無く、分を弁えずに科学技術だの、経済力だのといった浅ましい駆け引きだけで西欧に張り合い、まるで文明国の仲間入りをした気になっている厚顔無恥ぶりはまったくもって度し難い醜悪さだ。
ケイネスは柔らかいソファーに座りながらランサーを睥睨した。
ディルムッド・オディナ。セイバーであれば無双の力を発揮したであろう英霊だが、ランサーである以上、その力は大きく削がれている事だろう。雲泥たる面持ちでケイネスはランサーに問い掛けた。
「ランサー。貴様の事をまず聞かせてもらおうか」
ランサーが承知の旨を告げるのを待たずにケイネスは問い掛けた。
「貴様は聖杯に何を望む?」
「私は聖杯など望みませぬ」
「なんだと?」
ランサーの応えにケイネスは眉を顰めた。
「そんな筈はあるまい。聖杯戦争に招かれる英霊は聖杯を求めるからこそ、召喚に応じる筈だ」
「いいえ、主よ。私は聖杯など望みませぬ。私が望むのはただ只管に忠義を果たす事」
ケイネスは己が召喚したサーヴァントに憤りを覚えた。主である自らに対し、目の前の男はあからさまな虚言を弄していると。
ケイネスは尚も目の前で膝を折る従者の胸に秘めし真実を暴こうと言葉を連ねるが、ランサーは終始前言を撤回する事は無かった。
「騎士としての面目を果たせれば、私は他に何も望みませぬ。願望機たる聖杯はマスター一人に譲り渡す所存にございます」
その応えにケイネスはますますもって、目の前のサーヴァントに不信感を募らせた。
聖杯を求めぬサーヴァントなどあり得ない。だが、とケイネスは自身に宿りし令呪に意識を向けた。こちらには令呪がある。腹の内に何を抱え込んでいようとも、裏切るならば切り捨てるのみだ。
「もう良い。ランサー、お前の宝具、並びに戦闘技術について余す事無く私に教えよ。虚言は許さぬぞ」
「虚言など……」
ケイネスの物言いにランサーは僅かに顔を顰めながら己が宝具を開帳した。ランサーの宝具はケイネスの知る伝承通りの二つの槍だった。これが二つの剣であったならばどれほど良かった事かと苛立ちながら、ケイネスは二つの宝具を見定めた。
一度穿てば、その傷は決して癒さぬ呪いの黄槍、必滅の黄薔薇――ゲイ・ボウと魔を断つ赤槍、破魔の紅薔薇――ゲイ・ジャルグ。どちらも運用効率は抜群といって良いだろう。だが、ケイネスの苛立ちは更に募った。これでは、自身の用意した策が無用の長物となってしまう、と。
ケイネスは此度の聖杯戦争に打って出るに当り、一つの策を巡らせた。それは始まりの御三家の敷いた戦いのルールを根底から覆す画期的な策だった。サーヴァントとマスターの本来ならば単一しかない因果線を二つに分割し、配分する変則契約。魔力供給のパスと令呪による束縛のパスとを分割し、別々の魔術師に結び付けるという荒業。ケイネスは令呪を持つが、魔力供給のパスは繋げず、その役割を婚約者のソラウに結ばせている。これならば、例え多量の魔力を要する宝具を誇る英霊を召喚し、宝具を発動しても、マスターたるケイネスが倒れる事は無いというケイネスの才能と閃きにより実現した実に画期的なシステムだったが、この秘策もランサーの少量の魔力で運用出来る宝具では意味を為さない。
「貴様の能力は分かった。これからの方針は――」
ケイネスが口を開こうとした途端、部屋の電話のベルが鳴り響いた。ケイネスは舌を打つとソラウに視線を向けた。ソラウはコクリと頷くと電話に出た。
しばらくして、ソラウがケイネスに言った。
「ケイネス。魔術協会の方からよ」
「魔術協会の?」
不審に思いながらケイネスは電話に出た。聖杯戦争の参加者に対し、魔術協会から連絡あるなど本来ならばあり得ない事だ。魔術協会の要請を受けて参加した者ならばいざ知らず、自身の意志により参加したケイネスに魔術協会が支援をするなど有り得ぬだろうし、大方、聖杯戦争以外の件についての報告か、あるいは魔術協会の者を装った他のマスターによる干渉だろうとケイネスは考えた。
しかし、電話に出ると、ケイネスの予想とは異なる内容だった。
『ロード・エルメロイ。現在、冬木における魔術協会直轄の屋敷の結界が破られ、何者かに侵入されたと報告がありました』
電話の主はケイネスのよく知る相手だった。
魔術協会の管財課に属する男だ。ケイネスは男の声を聞いた途端に受話器を握り潰しそうになったが、男の言葉に何とか怒りを堪えた。
男はウェイバー・ベルベットにあろう事か、必ずケイネスの眼前で開帳しろと命じた英霊の聖遺物を預けるという愚行を働いた愚か者だった。恐らく、ケイネスの怒りを買った事に対する贖罪のつもりなのだろう。
「そこに、敵マスターが居るという事かね?」
『内部に強大な魔力を持つ存在が確認されています。恐らくはサーヴァントかと』
「なるほど」
この程度で許しを請えるとでも思っているのか、男の言葉は至極快調だ。
ケイネスは鼻を鳴らすと男に言った。
「君の愚行は許されざる事だ」
『あ、あの……』
「贖罪をしたいというのならば止めはしない。が、そうそう許されると期待はせぬ事だ」
『い、いえ、そのようなつもりは……』
一転して狼狽した様子の電話先の男の様子にケイネスは軽蔑しつつも言った。
「許されたいと希うのならば否とは言わぬ」
『ロ、ロード・エルメロイ!』
「これからも私に君の知りうる限りの冬木の情報を伝えよ。さすれば、君の罪も許されるやもしれぬ」
『は、はい! 了解です。ロード・エルメロイ!』
ケイネスは電話の受話器を置くと大きく息を吐いた。醜悪な感情を撒き散らす愚者との会話は神経に障る。
だが、それだけの成果はあった。
「ランサー。郊外にある屋敷へ向かへ。そこにサーヴァントと、恐らくはマスターが居る」
「承知しました、主よ」
即座に行動しようとするランサーにケイネスは留まるよう命じた。
「その前に一つやるべき事がある」
言うと、ケイネスはランサーに己が双槍を差し出すように命じた。
ランサーは命じられるまま赤と黄の槍を差し出した。
「貴様の宝具は一度その力を振るえば瞬く間に敵に真名を看破されるだろう。故に、私の命があるまでこの呪符により力を封じさせてもらう」
「仰せのままに」
ケイネスは己が宝具を躊躇い無く差し出すランサーに更なる不信を募らせながらランサーの宝具に封印を施した。ゲイ・ジャルグもランサーが宝具としての力を抑える事で封印を施した。
拠点を出ると、ランサーはクラス特有の敏捷性を活かし、瞬く間にサーヴァントが居るであろう郊外の屋敷の付近へと辿り着いた。肩にはケイネスの使い魔が乗っている。
『ランサー。そこから百メートルほど行った先に開けた場所がある。そこを戦いの場とし、敵を誘き寄せよ』
使い魔の口から零れる主の言葉を聞き、ランサーは御意の意を告げると、ケイネスの言葉に従い広場へと駆けた。
遥か遠目に僅かに屋敷の屋根らしきものが確認出来、ランサーは殺気を放った。
現れたのは真紅の外套に身を包む浅黒い肌の男だった。その背には幼き少女を抱えている。男は少女を降ろすと、ランサーの眼前に立ちはだかり、背に少女を守りながら両手に白と黒の短剣を具現化しランサーに対敵した。
ランサーもまた、赤き長槍と黄の短槍を構えた。