第四十三話 雨生龍之介がバーサーカーを召喚した為に己自身で気が付いた彼

 男が生まれたのは1967年の事だ。父親が巡礼中に授かった一人息子が彼だった。綺礼という名は祈りの言葉なのだと父は言った。
 清く美しくあれ、そう父は子に名を付けた。子はその祈りに応えるように、道徳と良識を持ち合わせた見識深い人柄へと成長した。
 父は素晴らしい後継者を得たと喜び、息子は父の喜びを理解した。息子が優れているならば、親として喜ぶべき事である。故、この男は己を重宝する。そう、理解し、息子は父の理想に沿い成長していく。そこに疑問など無かった。
 父を愛せない事と、父の期待に応える事は全くの別問題であり、綺礼と名付けられた少年は健やかに成長した。ただ一点、どうしても分からない疑問が常に彼を苛んだ。それは、父が言う“美しいもの”とは何なのか、という疑問だ。それが理解出来ず、いつも首を傾げていた。その祖語に気が付いたのはある日の朝の事だった。
 目が覚めて、体を起こし、顔をあげた時に気が付いた。気が付いて、どうして今まで気付かなかったのかと逆に悩んでしまった。父が美しいとするものを己が一度たりとも美しいと感じた事が無かったという事に気が付いた。そして、己が異常者である事に気が付いた――――。
 永きに渡る教会での修練の日々。相反する価値観の魔術の修練の日々。そのどちらも言峰綺礼という男に喜びを与えてはくれなかった。満足を与えてはくれなかった。心の中は空っぽのまま、どんなに足掻こうとも満たされる事は無い。普通の人が普通に感受出来る筈の幸せを感じる事が出来ず、普通の人とは違う道を歩む者達の幸福を感じる事すら出来ない。では、己にとっての幸福とは何なのだろうか?それが祖語に気が付いた言峰綺礼という男の追い求める疑問だった。

 初めは何かの間違いだと思った。
 間桐桜が遠坂の敷地に侵入して来た時、その彼女の有り様に綺礼は同情するでも無く、嫌悪するでも無く、恐れるでも無く、ただ只管に興味を惹かれた。彼女の行く末に……どのような絶望が待ち受けているのかを見てみたい。
 そう、思ってしまった。それを間違いだと否定した。他者の絶望を愉悦とするなど、許される事では無い。わけても、言峰綺礼の生きる信仰の道に於いては猶更の事……。だが、少女との再会は言峰綺礼という男に芽生えた小さな芽を一挙に花開かせる事となった。実の母親を虫けらに犯させ、惨めな姿へと変えた。その所業は既にまともな精神では無く、夫によって焼き殺される遠坂葵の断末魔に眉一つ動かさぬその姿はいっそ清々しいとすら思えた。そして、気が付けば令呪を使用していた。
 本来、綺礼の立場であれば凛を勝者にする為にライダーとセイバーのマスターを殺せと命じるべきその状況下で死を演じ、姿を晦まし帰還せよ、と命じていた。あの時、余程余裕が無かったらしく、凛をはじめ、アーチャーや時臣すらも気付いていない様子だったが、狂化状態となったアサシンに対し、綺礼が前者の命令を下していれば、あの時点で間桐桜と間桐雁夜を諸共に始末出来ていた。
 足止めという任を遂行した上でだ――――。
 あの状況に於いて最も恐れるべきはマスターを欠いたサーヴァントの暴走のみであり、アサシンならば、あの状況下に於けるマスターの暗殺など別段困難な事では無く、むしろ容易い事だった。しなかった理由は単純だ。アサシンが間桐桜という少女の暗殺を拒絶していたからに過ぎない。間桐桜は遠坂凛の実の妹であり、遠坂凛の意思は間桐桜の救済にあった。故にアサシンは暗殺の対象をマスターでは無くサーヴァントに絞っていた。
 破壊の権化と化したアサシンには既にその意思は無く、バーサーカーすらも律する令呪の強制には如何なる者も抗う事は出来ない。
 セイバーとライダー。
 二騎の強力なサーヴァントに一時的にでも拮抗しうる力があるならば、マスターを先に暗殺し、後は適当に足止めをするだけで良かった。さすればマスター無きサーヴァントは単独行動スキルを保有するアーチャーを除いて幾許も無く消滅を余儀無くされる。だと言うのに、綺礼が取った選択はアサシンの回収だった。それも、師や妹弟子、父にすらも隠匿した上でだ。アサシンの存在を隠す事自体はそう難しい事では無い。元々、隠密に優れた英霊であり、保有スキルである気配遮断は索敵能力に優れたアーチャーやキャスターの眼をも掻い潜る事が出来る。己の取った選択に綺礼は悩み苦しんだ。
 部屋に篭り、自問自答を続けた。己は何を考え、何も目指しているのか、それだけを只管に考え続けた。しかし、どれほど考えても分からなかった。まるで、深い霧に包まれているかのように答えを見出す事が出来なかった。答えを見出せぬまま、綺礼は己の義務を果たさねば、と部屋から出て時臣の下へ向かおうと足を向けた。
 その時だった。綺礼の耳に凛の嘆きの声が届いた。その声を耳にした時、窓に己の顔が映り込んだ。口元を歪め、笑みを浮かべる己の顔がそこにあった。その時になって、漸く理解した。
 何故、間桐桜の行く末を見たいなどと思ったのか――――。
 何故、あの時に己は間桐桜と間桐雁夜を殺めなかったのか――――。
 何故、己は今、笑みを浮かべているのか――――。
 
――――ああ、私はそういうモノなのだな……。

 簡単な話だった。常に感じ続けていた疑問の答えは酷く単純なものだった。即ち、己が美しいと思うのは、蝶ではなく蛾であり、薔薇ではなく毒草であり、善ではなく悪だった。ただ、それだけの事だった。人並みの良識を持ち、道徳を信じ、善である事が正しいと理解しながら、己は生まれつき、その正反対のものに対してしか興味を持つ事が出来ない人間だったのだ。そんな事、とうの昔に気が付いていた筈だ。だからこそ、あれほどに我武者羅に努力を重ね続けて来たのだ。
 清く美しくあれと、初めからなかった心を追い求め続け、時には食事を断ち、己が心の在り様の罪を注ごうとした。人並みの事柄で幸福を得られないならば、己を人並みに戻し、どうにか己自身を救おうともがき続けた。そんな事を何年も続けて来た。その結果、得た答えがこれだ。
 つまるところ、言峰綺礼という男には生まれつき〝人並みの幸福実感”というものが無かった。生まれついての欠陥者であったのだ。

「ああ、私にとっての楽しいとは……」

 他者による殺害、他者による愛憎、他者が持つ転落。
 そんな負の感情でしか、己は幸福を実感する事が出来ないのだ。

「つまらない……」

 そう、思わず呟いた。
 間桐雁夜の最期は綺礼の見たかった光景とはかけ離れたものだった。
 至福の笑みを浮かべ、二人の少女に看取られる男の最期は実に幸福そうで、実につまらないものだった。
 だから、間桐桜の最期には僅かなれど溜飲が下がる思いだった。
 だが、期待外れには違いない。
 あれほどの逸材ならば、それはそれは素晴らしい最期を見せてくれるだろうと期待していただけに落胆を隠し切れなかった。

「まあ、前座ではこの程度か……」

 そう、間桐桜も間桐雁夜も所詮は前菜に過ぎない。

「凛、嘆いている暇など無いよ」

 そう、綺礼は衛宮切嗣という名の殺人者を前に怯える凛に囁いた。

「さあ、聖杯の下に行こう。邪魔をするならば排除させてもらうぞ、衛宮切嗣」
「言峰……綺礼……」

 言峰綺礼という存在を恐れるように、切嗣は後ずさった。
 僧衣を身に纏い、両の手に紅の柄の剣を構え、言峰綺礼は衛宮切嗣を睥睨した。

「サーヴァントを失ったマスターが何の用だ?」

 切嗣は拳銃を片手に綺礼を問い質した。

「何の用、などと判り切った事を……。私の目的は一つだ。凛を聖杯の下へ連れて行く。そして、願いを叶えさせる」

 そう言うと同時に綺礼は地を蹴り一直線に“敵”へと討ちに迫った。
 サーヴァントの動きと見紛うばかりの猛然と迫り来る黒い僧衣姿に切嗣は思わず瞠目する。

「Time alter ―― double acce」

 脊髄反射的に呪文を紡ぎ、間一髪で綺礼の拳を回避する。次の瞬間、切嗣の側頭部を目掛け、猛烈な勢いの蹴りが襲い掛かった。
 固有時制御という体内の時間を操作する魔術によって動きを加速させ、辛うじて綺礼の攻撃を躱すが、この魔術は己の身体に甚大な負担を被る上、二倍の速さで動く切嗣の動きに徐々に綺礼は慣れ始め、切嗣はあっという間に追い詰められた。
 間一髪だった。綺礼の脚が切嗣の首を刈り取らんとしたその瞬間、キャスターによる転移の魔術によって切嗣は何を逃れた。切嗣の転移を確認した綺礼はゆっくりと拳を開き、凛に近づいた。

「綺礼……」
「凛。聖杯の下へ行こう」

 綺礼の言葉に凛は僅かに悩んだような仕草をしながらも頷いた。
 綺礼という心強い味方を得た事で心に僅かなゆとりが持てるようになったのだ。

「ああ、少し待っていてくれ」
「どうしたの……?」

 常の明るさを欠片も見せず、凛は怯えた表情で問うた。

「ちょっと忘れ物があってね。直ぐそこにあるから取って来るよ。先に車で待っていてくれないか? 鍵を渡しておくから」
「でも……」
「大丈夫。直ぐに行くよ」
「……約束」
「ああ、約束だ」

 綺礼は凛の髪を笑顔で撫で、凛を車の下へ走らせた。
 その後ろ姿を見ながらゆっくりと近くの木陰に置いた小さな袋を持ち上げた。
 綺礼は袋を大事そうに持ったまま運転席へと乗り込んだ。

「さて、行こうか」
「……はい」

 車は真っ直ぐに道を進んだ。
 切嗣の消えた先がどこかは既に分かっている。
 聖杯の降臨地点の候補は幾つかあるが、聖堂教会の協力者からの報告から一つに絞る事が出来た。
 車に揺られながら、凛は俯いたまま黙り込んでいた。
 その沈黙が破られたのは車が深山町を抜け、新都に入った時だった。

「アーチャーが……」

 凛の呟きに綺礼はアーチャーの身に何かが起きたのを悟った。
 それと同時に車のハンドルを握ったまま隠していた令呪に魔力を集中した。

「令呪を持って命じる。アサシンよ――――」

 最期の方は聞き取る事が出来なかったが、凛は綺礼の口にした言葉と車の前方に刹那の瞬間に現れた漆黒の影に凛は目を大きく見開いた。

「アサ……シン?」

 崩れ落ちるキャスターの手からアサシンは黄金の杯を奪い取った。
 強大な魔力を有する聖杯を手にし、アサシンはキャスターから距離を取り、そのまま何をするでもなく立ち尽くした。
 何故、アサシンが生きているのか、という疑問が湧くより早く、切嗣はアイリスフィールとイリヤスフィールをキャスターの傍へ連れて行き、懐から無線機を取り出した。

「舞弥。外の状況はどうだ?」
『一キロメートル先にキャスターの張り巡らせた人払いの結界を無視し、一直線にこちらに向かう車両を確認しました。恐らく、言峰綺礼かと……』

 無線越しの舞弥からの報告に切嗣は険しい表情を浮かべた。

「狙撃は可能か?」
『既に五発……。魔術を施した弾丸すら受け付けない強力な呪的防護処理が施されているようです。車外に出た瞬間を狙います』
「了解した。そっちは頼んだぞ」
『了解』

 舞弥との通信を切ると、切嗣は沈黙したまま微動だにしないアサシンに目を向けた。

 車外へ出た瞬間、雨の如く銃弾が降り注いだ。
 それを扇上に広げた赤い柄の剣で防ぐ。
 銃弾の雨は止まず、綺礼は舌を打つと同時に車内で外の様子を伺う凛と袋を諸共に片手で抱き上げ、冬木市民会館の中へと侵入した。
 照明の落ちた市民会館の内部は暗闇に包まれ、一メートル先も見通せぬ程に視界が悪い。
 そんな暗闇の中から黒く塗り潰し光が反射しないように細工が施された刀剣が迫った。

「視界を遮断した程度でやられるようなら私はとうの昔に死んでいる」

 刃が奔る。
 赤い柄の剣――――黒鍵と呼ばれるソレをもって、綺礼は暗闇からの襲撃を防いだ。
 そのまま、瞬く間に襲撃者の首を切り落とす。
 そして、体を捻ると襲撃者の首を落とした刃をそのまま暗闇に向けて投擲した。
 離れた場所から小さな悲鳴が響き、綺礼はそちらに足を向け、胸から黒鍵を生やし、壁に縫い止められたアインツベルンのホムンクルスの一体から黒鍵を引き抜き、そのまま首を切り落とした。

「こっちか……」

 今しがた殺したばかりの相手など眼中には無く、綺礼は振り返る事すら無く目的の場所を目指し、走り続けた。
 途中、道を阻むホムンクルスが幾体も現れたが、強力な戦闘能力を保有していながら、似通った戦闘パターンばかりをなぞる人形風情では綺礼の相手にはならなかった。
 瞬く間に市民会館の廊下に死体の山を築き、およそ三分程度で目的の場所へと到達した。

「アーチャー!!」

 腕の中で凛は叫んだ。凛の叫びにアーチャーは驚いた表情を浮かべている。
 銃声が刹那に二発。一発は目の前に佇む衛宮切嗣の手元から。もう一発は後方の見知らぬ女の手元から響いた。
 綺礼はその二つの弾丸を化け物染みた動きで回避すると、凛をアサシンの下へ連れて行き、懐から黒鍵を両手に三本ずつ、計六本取り出した。それはまるで弾丸のように切嗣と舞弥の双方を襲い、切嗣は間一髪で固有時制御により回避に成功したが、舞弥の体はコンサートホールの壁に磔にされた。苦悶の顔を歪める舞弥の名を叫びながら、切嗣は銃口を綺礼に向ける。
 その瞬間、綺礼の姿が切嗣の視界から消えた。

「Time alter ―― double acce」

 咄嗟に動きを加速させ、綺礼の姿を探す。そうしようとした瞬間、既に躱しようの無い渾身の一撃が迫って来ていた。だが、突き出した綺礼の拳は空を切った。
 二倍速の回避行動が間一髪で綺礼の拳を退けた。そのまま、銃の引き金を引き絞る。瞬く間に数発の弾丸が銃口から飛び出し、その悉くを綺礼はあろう事か、その身に纏う僧衣でもって真っ向から受け止めた。
 防弾処理と呪的防汚後処理の施された綺礼の僧衣は銃弾程度では傷一つ付かなかった。銃弾は動きを僅かにすら止める事が叶わず、綺礼は切嗣の左横に長身を折り畳むように屈みこんで切嗣の腹部を強打した。
 そのたった一発でキャスターの魔術により強化された切嗣の肋骨に罅が入った。だが、それで終わりでは無い。続けて綺礼は切嗣の腹部へと渾身の蹴りを浴びせ掛ける。二発、三発、四発、五発。稲妻めいた鋭い蹴りが切嗣の腹部を抉り取らんとばかりに襲い掛かり、切嗣は刹那の瞬間、意識を飛ばした。内臓は幾つかが完全に壊れてしまった。尚も動けるのは綺礼が現れる寸前にキャスターに渡されたある奇跡による恩恵のおかげだった。
 全て遠き理想郷――――アヴァロン。キャスターが意識を失う寸前に切嗣に渡した嘗ての王が所有した究極の奇跡。持つ者の老化をも阻害する程の絶大な治癒力を持つその宝具は刹那に開かれた妖精郷に居る騎士王と繋がったおかげで僅かにその機能を取り戻している。。だが、それでも受けた被害は甚大だ。全身に力が入らず、銃の引き金を引き絞る事さえ困難な状況に陥っている。敵が迫るが、身動き一つ取れない。
 掌底が叩きつけられ、切嗣の体はまるで羽毛のように跳ね飛ばされる。外よりも内を破壊するのに長けたその業を受けた切嗣の肉体は外傷こそ少ないように見えるが、内部はズタズタに引き裂かれ、潰された。それでも必死に家族を守ろうとボロボロの体に鞭を打った。
 切り札はまだ己が手の内に残されている。己の肋骨を磨り潰し、銃身に詰めた衛宮切嗣という男の持つ対魔術師用概念礼装。その一撃を受ければ、如何に化け物染みた戦闘能力を持とうが意味を為さない。むしろ、化け物染みていればいるほどに効果がある。
 切嗣の切り札とはそういう性質のものだ。切嗣は切り札の銃に手を掛けた。
 その瞬間だった――――。

「切嗣を苛めちゃだめぇぇぇええ!!」

 それはあってはならない光景だった。
 切嗣の目の前に愛娘のイリヤスフィールが飛び出したのだ。
 綺礼の一撃はイリヤのような幼子の命など軽々と摘んでしまう。
 それを文字通り身に染みて理解したが故に切嗣は切り札たる銃を捨て、己が肉体の限界を省みずに叫んだ。

「Time alter ―― square accel!!」

 それは禁呪だった。
 変革される体内時間。
 己の動きを何倍にも加速させる固有時制御と言う魔術には当然ながらリスクが伴う。
 体内で改竄された時間の流れはやがて外界の修正を余儀なくされ、術者の全身の至る所を苛む。
 二倍速ですらしばらくは身動き一つ取れなくなるというのに、切嗣が紡いだのは四倍速の呪文。
 それは紛れも無く死を引き換えにする禁呪であった。

「イリヤアァァァアアアアアアア!!!」

 四倍の速度で動き、イリヤを抱きしめた切嗣の背を綺礼の拳が捉えた。
 背骨が粉砕し、イリヤごと切嗣の体は吹き飛ばされた。
 壁に激突する寸前に愛娘を庇えた事に切嗣は酷く安堵し、その意識を途絶えさせた……。

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