第五話「アンノウン」

 これは夢……。100%に限り無く近い確信がある。俺は椅子に座っていて、目の前には父さんが居る。ジェイクじゃない。俺の……日本人だった頃の父さん。新聞を読み耽っているその姿は記憶にあるままで、凄く懐かしい。父さんの後ろには台所に立つ母さんが居る。包丁を軽快に振って、調理をしている母さんの後姿に涙が零れた。
 声を掛けたい。なのに、声が出て来ない。言葉が出ない。
 昔は違ったんだ。学校であった事を話して、母さんは笑って聞いてくれた。父さんも困った顔をしたり、笑ったりしながら聞いてくれた。
 どうやって話していたんだろう?
 違う。そうじゃない。どうして、俺は母さんや父さんと……どうやって、どんな言葉で会話をしようか、なんて考えているんだろう?
 
第五話「アンノウン」

 窓から差し込むくすんだ白い光で目が覚めた。瞼を開いて最初に目に映ったのはアルの寝顔だった。ロンの兄のウィリアムの部屋は長男の部屋なだけあって、ウィーズリーの家の中でも夫妻の部屋に次いで特に大きい作りになっている。それでも三人で寝泊りするには無理がある。ベッドに一人、床に敷いた毛布に二人という組み合わせで寝るしかなく、毎日ジャンケンでベッドの所有権を争う日々が続いた。
 アルとハリーを起こさないように毛布から抜け出し、俺は庭に出た。そんよりと曇った空に朝日はまだ登ったばかりで、他に誰も起きてくる気配は無い。
 今日、いよいよ夏休みが終わってホグワーツに出発する。やるべき事は二つある。一つは日記帳の力を利用してバジリスクを倒す。二つ目はバジリスクの牙で日記を破壊する。
 日記はトランクの中に既に確保してある。去年から続けている閉心術の訓練も形になってきている。とは言え、実践で使ってみなければ確証は無いのだけど……。
 他人の心は鏡であり、鏡を通して己の心を識り、覆い隠す。言葉にすれば容易く、実践しようとすればとても難しい。
 イメージは出来ている。自分の心を自分と切り離して視る感覚。思いも記憶も何もかも真っ黒に塗り潰して誰にも見えないようにするイメージ。それが俺の閉心術だ。
 ぶっつけ本番は怖いけれど、やるしかない。

 洗面所で鏡を見ると、酷い顔だった。白い肌に緊張のせいで皺が出来ている。緊張さえ解ければ消える筈だけど、リラックスなんてとても出来そうに無い。眉も不安そうな瞳の上でギュッと寄ったまま動く気配が無い。
 落ち着け。そう何度も自分に言いきかせた。顔を水でばしゃばしゃ洗っていると背中に気配を感じた。ハッとなって振り返ると、アルが立っていた。

「どうしたの?」

 心配そうに見つめてくるアルの顔を見て、浮かない気分を少し忘れる事が出来た。
 大丈夫だよ。そう言おうとして、無理に笑顔を作ろうとしたら、アルは俺の瞳を覗き込むようにエメラルドの瞳を向けて来た。

「泣いてたの?」

 心臓がギュッと締め付けられた。ヤバイ。今、心を揺さぶられるのはヤバイ。

「ただ、顔を洗ってただけだよ」
「おい!」

 誤魔化すように背中を向けると、腕を掴まれて振り向かされて、壁に押し付けられた。

「何度言わせるつもりなんだ?」

 言って、アルは溜息をつく。ジロリと睨まれて身震いする。
 
「ユーリィ。僕が優しく聞いてる内に答えてくれないか? 強硬手段に訴えかけたくなんかないんだ」
「なにを言って……」
 
 何とか逃げ口を探そうと視線を彷徨わせていると、アルは俺の顔の直ぐ横の壁を殴った。鈍い衝撃音に呼吸が乱れ、体が凍りついた。アルの体は十二歳の誕生日を迎えてから成長期に入ったらしく、身長が伸びて、筋肉もついてきている。まだ、成長期の始まらない俺との体格差は開くばかりで、凄まれると、あっと言う間に体が恐怖で支配されてしまった。
 モリーから逃げずにぶつかれ、と言われたのに、ぶつかる勇気があっと言う間に折れてしまった。

「誤魔化すのは無しだ。これ以上内緒事を増やすって言うなら――――」
「……増やしたらどうだって言うの?」

 目尻に堪っていた涙が堪え切れなくなり、頬を伝って床に滴る。日記の事やバジリスクの事で気が気じゃなかったのに、理不尽な言葉を浴びせ掛けられて堰を切ったように言葉が飛び出した

「俺はアルの何? 自分の行動を逐一報告しなきゃいけない義務なんて無い筈でしょ? もう、構わないでよ!」

 言ってから後悔の波が一気に押し寄せた。憂鬱だった気分に任せて酷い事を言ってしまった。
 アルは心配して俺に声を掛けてきてくれているのに、その気持ちを台無しにして、あろう事か八つ当たりをしてしまった。
 謝らなきゃ。謝って、許して貰わないと、そう思って顔を上げると、アルはもう俺を見て居なかった。

「アル……、あの……、ごめんな――――」
「謝るなって、これも何回言ったっけな」

 俺の言葉を遮るようにアルは言った。唇をきゅっと結んで俺を一瞥すると、アルは洗面所から出て行ってしまった。慌てて追いかけようとして、足を縺れさせて転んでしまった。
 惨めだった。自分の都合で勝手にキレて、八つ当たりして、とうとうアルに愛想を尽かされてしまった。
 鼓動が耳にうるさいくらいに響く。片手を胸に当てると、心臓が掌の下で激しく脈打っている。座りこんで、感情の波が静まるのを必死に待った。こんな顔で皆の前に出て行くなんて出来ない。
 頭の中では一つの単語だけがぐるぐると回っている。

――――嫌われた。

  
 荷物を纏める間もキングス・クロス駅に向かう道中でも、9と3/4番線のホームで見送りに来てくれたソーニャ達やモリーに別れを告げている時もアルは許しを与えてはくれなかった。
 みんなもさすがに俺とアルとの間で起きている冷戦に気づいたみたいだけど、アルはそっけなく返すだけで、俺もその事に触れようとすると舌に呪いを掛けられたみたいにまともに話す事が出来なくなって、やむなく様子見に徹する事にしたらしい。
 ドビーはどうやら俺を信じてくれたらしく、ハリーをホグワーツ特急に乗せないという荒業に打って出る事は無かった。
 哀しくて、その日の記憶は曖昧だった。ハーマイオニーが気を使って話しかけてきてくれたけど、生返事を返す事しか出来なかった。
 そして、深夜――――、俺は夢を見た。
 怖い夢だった。みんなが離れていく夢。ソーニャとジェイクが俺を突き飛ばし、追いすがろうとする俺から目を背けて去って行く。アルもハリーもネビルもハーマイオニーもロンもみんな去って行く。
 置いて行かないで。独りにしないで。何度叫んでも、誰も振り返ってはくれない。
 寂しくて、哀しい夢だった。
 夢はその日だけじゃなかった。翌日も翌々日も同じ夢を見た。その理由に気が付いたのはホグワーツが始まってから五日後の事だった。毎日悪夢に魘されて睡眠不足だった俺は独りで窓の外の星を眺めていた。その時に不意に思い出したのだ。ダイアゴン横丁で手に入れたリドルの日記の存在を……。
 分霊箱はヴォルデモートの半身だ。不世出の開心術の達人であるヴォルデモートは他人の心の闇を容易くからめとる。どうやら、俺は先手を許してしまっていたらしい。トランクから日記帳を取り出すと、俺はそっと寝室を抜け出して談話室に降りた。黒い皮表紙の小さな日記帳には間違いなくリドルの名があった。
 心がざわめく。この日記帳のページを一枚捲った瞬間、もう後戻りは出来なくなる。閉心術が上手くいかなければ、日記の中のヴォルデモートに俺の全てを知られてしまう事になる。物語としてのハリーポッターの出来事を知られれば、それはあらゆる意味で致命的だ。
 英国を恐怖のどん底に叩き落とした暗黒の魔法使い。その名が宿す恐怖の言霊に俺は心臓を鷲掴みにされたかのような錯覚を覚えた。
 何も怖がる必要なんて無い。そう、自分の心にいいきかせた。何度も深呼吸をして、俺は日記の表紙に手を掛けた。

「あれ? ユーリィ?」

 びっくりして日記帳を落としてしまった。
 慌てて後ろを振り向くと、そこにはロンが立っていて、眠たそうに目を擦っている。

「どうしたの? こんな時間に」
「なんだか眠れなくてさ」

 ロンは欠伸を噛み殺しながら俺の横に座った。

「あれ? 何か落ちてるよ? 日記?」

 床に落ちた日記を拾おうとするロンに慌てて俺はストップを掛けた。

「だ、大丈夫。自分で拾うから!」

 日記帳をポケットに押し込んで漸く一安心すると、ロンは怪訝な顔を向けて来た。

「君、本当にどうしたんだい? アルともあんなに仲が良かったのに、最近、君達が話してる所を見た事が無いよ」
「べ、別にどうもしてないよ……」
「ふーん」

 ロンは立ち上がると寝室の方に歩き始めた。

「お、おやすみ」

 ロンは片手を振りながら寝室に戻って行った。 
 俺も何だか眠くなって来てしまった。
 日記はまた明日にしよう。寝室に戻って、みんなを起こさないように静かに瞼を閉じた。
 そして、また夢を見る。いつもとは違う夢だった。
 生まれる前の記憶。
 俺がまだ日本人だった頃の記憶。

――――誰もお前を愛していなかった。

 母さんは成績が悪いと怒る。けど、成績が良かった日も「そう」としか言ってくれない。運動会や文化祭にも来てくれない。授業参観にも来てくれない。
 父さんは俺に興味が無かった。テレビドラマであるようなキャッチボールをした事も無い。
 友達は誰もいなかった。
 周りに居たのは俺を日頃のストレスを発散するためのサンドバックとしか思っていない人達ばかりだった。

――――お前の人生は無意味だ。

 毎日殴られて、毎日罵られて、毎日誰かの機嫌を伺う日々。
 誰も俺を見てくれない。誰も俺を愛してくれない。誰も俺を……。

――――お前はまた独りになる。

 いじめっ子の顔はいつの間にかアルやハリー達の顔に変わっていた。
 父さんと母さんの顔はソーニャとジェイクの顔になっていた。

――――お前に生きている価値は無い。

 止めて。

――――お前の事を愛する人間なんて居ない。

 止めて。止めて。

――――お前は永遠に一人ぼっちだ。

 止めて。止めて。止めて。

――――お前は独り寂しく死ぬ運命にある。

「ユーリィ!!」

 頬に感じた衝撃で目が覚めた。瞼を開くと、アルの顔があった。久しぶりに見るアルの顔は酷く心配そうだった。
 俺の事を心配してくれたの? そう思うと、俺は我慢出来ずにアルの胸にしがみ付いて泣いた。幸か不幸か、寝室にはもうアル以外は残っていなかった。
 アルは俺が泣き止むまでずっと胸を貸してくれた。
 乱れた心が静まるまでかなりの時間を要した。
 漸く泣き止んだ俺にアルはホッとした表情を浮かべた。

「怖い夢見たのか?」
「……うん」
「そっか……」

 アルは何も言わずにポンポンと俺の背中を叩き、「そうか」と繰り返した。

「アル……」
「……ん?」
「……ごめんね」
「……俺もごめん」

 アルと俺はしばらくそのまま口を閉ざした。
 
「朝ごはん……食べに行こう」

 アルの言葉に俺は頷いた。
 ほぼ一週間振りの俺とアルの和解にハリー達は心底安堵した表情を浮かべた。
 申し訳無いと思う気持ちの他に、ハリー達の気持ちが嬉しかった。そのせいで、俺は浮かれてしまっていた。
 日記の事を忘れ、俺は日々を過ごした。悪夢も見なくなり、平穏な日々が過ぎていった。
 
 日記が無くなっている事に気が付いたのはハロウィンの前日だった。
 ハリーがゴーストのほとんど首なしニックの誘いで絶命日パーティーに参加する事になったと聞いて、分霊箱の事を思い出し、俺はその日の夜に慌てて日記を探した。最初はどこかに紛れ込んでしまったのかと思った。だけど、どんなに探しても日記は見つからなかった。
 最後に見た時の事を思い出そうにも、悪夢の事やアルとの確執の事で頭がいっぱいだったせいで思い出せない。
 ハロウィンの当日、俺は絶命日パーティーには後で合流すると言って、日記を探した。寝室にはどこにも無かった。

「一体、どこに……?」

 焦っていると、寝室にロンが入って来た。

「どうしたの?」

 慌てた様子の俺にロンは驚いたような顔を向けて来た。
 そう言えば、最後に日記を見たのはロンと話をした時だった気がする。その時、俺は談話室に居たと思う。
 俺は慌てて談話室に降りて日記を探した。談話室に残っていた生徒達は何事かと目を丸くしたけどそれどころじゃない。
 日記が見つからない。それはつまり、ヴォルデモートの分霊箱を紛失させてしまったという事だ。泣きそうになって探していると、ロンが俺の肩を叩いた。

「一体、どうしたんだい? 何か探し物?」
「あの……おれ、日記を探してるんだ。その……、このくらいのサイズの黒い表紙のなんだけど……」

 駄目元で聞いて見ると、驚いた事にロンは見た事があると答えた。

「少し前だったかな……。黒いそのくらいのサイズの手帳を誰かが持ってたのを見たよ」
「本当!? それは誰!?」

 俺は掴みかからん勢いで問い掛けた。
 ロンはううん、と眉を寄せて記憶を辿り、アッと声を上げた。

「そうだ。ディーンだよ」

 ロンの言葉に談話室中を見回した。ディーンの姿は無い。もしかしたら、ハロウィンパーティーにもう行っているのかもしれない。
 ディーンは談話室に落ちていた日記を偶然見つけたのだろう。そして、それを自分用の日記にしようと決めたに違いない。勇猛果敢なのと同じくらい軽率な性格なのがグリフィンドール生だ。

「ディーンならさっき大広間に向かってるのを見たよ」
「本当!?」
「急いでるなら、最近近道を見つけたんだ。それで行こう」
「うん!」

 ロンの後に続いて俺は走った。
 ロンが目撃してくれていて本当に良かった。
 日記が無くなったら、最悪ヴォルデモートを倒せないかもしれないところだった。
 ロンは廊下の途中で急に立ち止まると、石像の裏の壁に手を突っ込んだ。

「ほら、ここが近道になってるんだ。先に通って!」
「う、うん!」

 驚いた。まるで9と3/4番線のホームの入り口みたいになっている。中は円形の作りになっていて、走って通り抜けると、人気の無い廊下に出た。
 一瞬、ここがどこだか分からなかった。

「ロン。大広間へはどっ――――」

 その瞬間、俺の体は激しい衝撃と共に宙に浮かんだ。
 地面に叩き付けられ、息が止まった。直後、真紅の閃光が走り、全身を引き裂かれたかのような激しい痛みが走った。

「これ……は……?」

 意気絶え絶えに状況を確認しようとすると、目の前にロンが立っていた。
 何者かの襲撃。このままだとロンまでが危険に晒される。

「ロン……にげ、て!!」

 必死に叫ぶ俺を尻目にロンはゆったりと膝を屈めて、俺の髪を掴むと顔を上げさせた。

「愚かだね。ユーリィ・クリアウォーター。まったく、お粗末な閉心術で僕を利用しようと企むなんて……なんて愚かなんだ」

 ゾッとした。ロンじゃない。見た目はロンだけど、中身はまったくの別人だ。

「だれ……だ?」
「とっくに分かっているんだろう? まあ、敢えて聞きたいというなら構わない。名乗ってあげようじゃないか。僕の名は……ヴォルデモート卿だよ。愚かなクリアウォーター」

 息が詰まった。ばれていた。俺の計画がバレてはいけない人物に知られてしまった。
 何とかしないと、そう考える頭とは裏腹に体はピクリとも動かなかった。

「みんなハロウィンパーティーに向かってる。好き好んで来る奴は居ない。どういう事かわかるかい?」

 ロンの皮を被った若かりし頃のヴォルデモート……リドルは笑顔を浮かべながらいった。

「助けには誰も来ない。実を言うと、僕も君の心を全て読めたわけじゃないんだよ。肝心な部分が閉心術のせいで読めない。だから……」

 リドルはロンの杖を俺の腕に押し付けた。

「君の口から直接聞く事にした。まあ、磔の呪文を使うのが手っ取り早いのだが……、折角の手駒を使い潰すわけにもいかないからね。すぐにバレないよう、少々スマートとは言えないやり方をさせてもらおう」
 
 そう言って、リドルは俺の腕を切り裂いた。あまりの痛みに意識を失いそうになり、リドルは気付けの呪文を俺に掛けた。

「さあ、話す気になったかい? ん?」

 俺が黙っていると、リドルは容赦無く今度は俺の指を手で掴むと無理矢理曲がらない方向へ折り曲げた。
 絶叫が轟いた。それが俺の声だと気づくのにしばらく掛かった。痛い、苦しい、助けて、俺の頭の中にあるのはそれだけだった。

「助かりたいなら言いたまえ。もっとも、言わないなら別にそれでも構わないよ。そうなったら、次は君の秘密を知っていそうな奴を拷問にかけるだけだ」

 その言葉を聞いた瞬間、俺は痛みも忘れて杖を抜いた。明滅する視界の中に存在するロンの姿に俺は石化の呪文を唱える。

「まったく、友人になんて真似をするんだ。最低だな、クリアウォーター」

 嘲るように言うリドルに俺は必死に呪文を唱えた。
 だけど、ふらつく体では狙いも定まらず、逆に俺の体は削られ、燃やされ、穴を空けられていく。

「まったく、なんて強情さだ。だが、許そう。ヴォルデモート卿は勇敢さを賛美する。手向けだ。貴様の為にゲストを呼んであるぞ」

 その言葉が何を指し示すかは直ぐに分かった。バジリスクを呼ぶ気だ。
 死ぬ。それが分かった瞬間、俺の脳裏はやけに静かになった。やるべき事は一つだ。俺は最後の力を振り絞って、自分の体に杖を向けた。
 最後に目に映ったのは――――窓ガラスに反射した黄色い瞳だった……。

「っち、確実に殺しておきたかったのに」

 それが俺の耳が最後に捉えた音だった。

――――俺は……失敗した。

Side out…

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