第十五話 雨生龍之介がバーサーカーを召喚した為に壊れゆく人

――――どうすればいい?

 何十回、何百回と繰り返した自問。だが、一向に答えが見えない。キャスターならば愛する妻と娘を救う事が出来る。妻や娘をそんな表現はしたくないが、彼女達は正確には人間では無い。ホムンクルスと呼ばれる人造生命体だ。だからこそ、キャスターのクラススキルたる道具作成スキルが適用出来る。
 キャスター――――、妖妃モルガンの逸話の中で最も際立つ逸話は円卓の崩壊へと繋がる姦計の数々だが、それ以外にも極めて優秀な魔具の作り手であるという逸話がある。彼女がラモラックに与えた夫に不実な女が飲もうとすれば酒が杯から零れ落ちる『愛の杯』を初め、身に付けた者を灰にする『燃える外套』などが有名だろう。擬似的な宝具の作製すら可能なキャスターならばアイリスフィールとイリヤスフィールの命を永らえさせる事も難しい事では無いかもしれない。
 だが、どうしても信じる事が出来ない。彼女がキャスターである事、彼女が国を滅ぼした悪女である事、そんな事では無い。キャスター自身が何かをしようと言うのなら、対策は簡単だ。令呪を使えばいい。令呪を使って彼女達に余計な真似をするなと命じれば、それで済む話だ。
 切嗣を悩ませているのは己の心だった。もし、彼女達が救われたとしたら、己はこの先戦えるのだろうか?今迄は聖杯戦争が始まればアイリスフィールの死が避けられないが故に目的の為に立ち止まる事無く戦い続ける事が出来ただろう。だが、アイリスフィールが生き永らえる事が出来るなら、本当に己は立ち止まる事も無く戦い続ける事が出来るのだろうか?

「僕は何を考えている……」

 切嗣は壁を叩き、苦しげに顔を歪ませた。
 今直ぐ令呪を使い、キャスターに首輪を付け、妻と娘の延命をさせるべきだ。そうするべきなのに、身勝手な妄想でそうする事が出来ずに居る。
 自分が戦えなくなるかもしれないという恐怖に怯え、妻と娘の救いから目を逸らす。なんと罪深く、そして愚かな男だろうか、切嗣は自分自身の醜悪さに猛烈な怒りを感じた。何が正義の味方か、何が世界の救済を願うか、妻と娘の救済から目を逸らす己の何処に正義があるというのか、切嗣は頭を壁に打ちつけた。
 何度も何度も壁に頭を打ちつけ、切嗣の声を聞きつけて駆け寄って来た妻が止めるまで頭から血が出るのも構わずに切嗣は頭を打ちつけ続けた。

「何をしているの!?」

 アイリスフィールが錯乱したように暴れる切嗣の体を必死に抑えようとするが、バーサーカーの魂が聖杯に注がれた事で人としての機能が欠損し始めているアイリスフィールの力は赤子のように非力だった。だが、切嗣はアイリスフィールの肌を感じた途端に暴れるのを止め、涙を流し始めた。

「切嗣……?」

 心配そうに声を掛ける妻を切嗣は抱き締めた。
 細く、軽い妻の体に切嗣は嗚咽を漏らした。

「逃げよう」

 震えた声で切嗣は言った。
 アイリが「え?」と首を傾げると、切嗣は再び「逃げよう」と言った。

「君は死なない。イリヤも死なない。キャスターに令呪を使えば、キャスターが二人におかしな真似を出来ないようにする事が出来る。後の一つでキャスターに自害を命じて、三人で逃げよう。もしも、君やイリヤを狙う者が居たら誰だろうと殺す。それが正義であろうと悪であろうと殺す。誰にも君達を傷つけさせたりしない。だから――――」

 アイリスフィールを抱き締めたまま、切嗣は叫ぶように言った。
 血を吐く様に、今迄の己を否定するかの様に切嗣は顔を歪めた。
 アイリスフィールは痛まそうな表情を浮かべ、諭すように口を開いた。

「切嗣、世界を救うというあなたの夢は――」
「生きられるんだ!!」

 アイリの言葉を遮るように切嗣は叫んだ。

「生きられるんだよ!! 君も、イリヤも!!」

 アイリの両肩を掴み、切嗣は怒鳴るように言った。

「生きられるんだ。君も、イリヤも……。生きられるんだ」

 まるで駄々を捏ねる子供のように切嗣は泣きじゃくった。

「逃げよう。夢を追うのはもうお終いだ。僕は、僕の全てを僕らのためだけに費やす。君とイリヤを護る為だけに、この命の全てを――――」

 ソッとアイリスフィールは切嗣の顔を両手で包み込んだ。
 ハッとした表情を浮かべ、切嗣はアイリスフィールを見た。アイリスフィールは夫の揺れる瞳を見て、彼がどれほど追い詰められているのかを今更になって気が付いた。九年前、初めて出会った時の彼とは違うのだと気が付いた。冷徹無比な殺人機械であった衛宮切嗣という魔術師殺しは、今やどうしようも無く危うく脆弱になってしまった。
 変えてしまったのは自分だ。妻と娘という衛宮切嗣――――正義の味方の人生に於いて、紛れ込む余地の無い筈だった不純物が彼を変えてしまったのだ。
 喪う物が無いからこそ、喪う者が居ないからこそ、痛みを感じる心も無く、彼は最強で居られた。この世界を救済しようなどという一個人が願うにはあまりにも大きく、あまりにも遠い理想を追い求め、その為にならば数多の犠牲を容認出来た苛烈な戦士はもう居ない。

「逃げられるの?」
「逃げられる。今ならば、いや、今だからこそ!」

 即答する切嗣の瞳は不安や恐怖に彩られていた。
 己が信じる言葉を口にしたわけではないのだと、アイリスフィールは直ぐに看破した。

「嘘ね」

 だからこそ、アイリスフィールは指摘した。

「それは嘘よ。あなたは逃げられないわ。何よりもあなた自身から逃げられない。聖杯を捨て、世界を救えなかった己の事をあなたは永遠に責め続ける。そして、最後にはあなたはあなた自身の手であなた自身を殺してしまう。最初の最後の断罪者として――」
「嫌なんだ……」

 零すように切嗣は言った。

「君を失うのが嫌なんだ。イリヤを失うのが嫌なんだ。僕は君達を失う事が怖くて仕方がないんだ……」

 震える切嗣の体をアイリスフィールはソッと抱き締めた。
 あまりにもか弱い力で、だけどとても温かく。

「私は死なないわ。イリヤも死なない。あなたは一人じゃないの。私が居る。キャスターが居る。だから、一人で全てを背負い込もうなんてしないで」

 アイリスフィールは切嗣の唇に己の唇を重ねた。軽く、触れるようなキス。
 けれど、唇を通して感じるアイリスフィールの愛情に切嗣はアイリスフィールの瞳を見つめた。

「私を頼って。私はあなたのお嫁さんなんだから」

 聖母のような笑みを浮かべて言うアイリスフィールに切嗣はゆっくりと頷いた。

「僕は……弱くなった」
「その弱さは強さだぞ、切嗣よ」

 その声に切嗣はハッとなりアイリスフィールを背中に庇い声の主を睨みつけた。

「無用心が過ぎるぞ。ここには聞き耳を常に立てておる者が居る」

 キャスターの言葉に切嗣は目を見開き、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。

「案ずるな。アイリスフィールが入ったと同時に結界を張った。現代の魔術師では声一つ拾えぬ。だが、用心を欠かすでないぞ」

 キャスターの言葉に切嗣は己の失態を後悔し、「すまない」と短くキャスターに謝罪した。

「構わぬ。それよりも、心は決まったか?」
「ああ。だが、令呪を使わせてもらう」

 切嗣の言葉にキャスターは動揺する事も無く頷いた。

「それで構わぬさ。だが、アイリスフィールとイリヤスフィールの調整は入念に行わなければならぬ。日本へ向かう日程をずらせるか?」
「……わかった。何日必要だ?」
「二人の調整には丸二日掛かる。その後に処分用ホムンクルスの調整を行う。可能ならば二百体あまり全てを宝具化しておきたい」

 キャスターの言葉に切嗣は目を細めた。二百体の宝具化したホムンクルスの軍勢。
 とても強力な武器となるが、同時にキャスターが裏切った時、強大な壁となり立ちはだかる事になる。

「切嗣よ、お前が妾を信じられぬのは已む無き事よ。だが、勝利の為には譲歩も必要だぞ? そも、貴様はまだ三つの令呪を持っておるのだ。万一の時は一つの令呪でホムンクルスを止めさせ、もう一つの令呪を持って、妾を殺すが良い」

 それはつまり、アイリスフィールとイリヤスフィールを調整する為に一つ消費する以上、聖杯戦争において切嗣達は令呪を封じて戦わなければならなくなるという事だ。令呪使用不能の状態で戦う事はとてつもないリスクを背負う事となる。
 二百体のホムンクルスと令呪一画分。どちらがより強力な武器となるかを考え、切嗣は決断した。

「二百体のホムンクルスを宝具化する為に何日掛かる?」
「前に申した通りだが、そうさな、急げばアイリスフィールとイリヤスフィールの調整を含め四日で仕上げられよう」
「分かった。なら、僕はそれまでに可能な限りの準備を行おう。二百の人員が使えるとなれば、色々と出来る事も増える。ホムンクルスに火器類の扱いを学ばせる事は可能か?」
「可能じゃ。仕込んでおこう。ついでに神殿の柱の欠片でも手に入らぬか?」
「神殿の欠片……? 手が無いわけでは無いが……」
「ならば可能な限り手に入れよ。妾の道具作成スキルは何もホムンクルスに限った話では無い。歴史ある神殿の欠片などの材料があれば宝具クラスの武具も作ってみせよう」
「了解した。手配しよう」
「後、ホムンクルスは完成次第、様々なルートから順次日本へ送り込みたい。さすがに二百体同時に入り込むのは難しいじゃろう?」
「そちらも了解だ」
「なれば、明日、三枚で良い。日本へのチケットを用意せよ」
「三枚……?」
「ああ、既に三体のホムンクルスが完成しておる。そやつらを先兵として送り込む」
「……仕事が早いな。了解だ。僕達が使う筈だったチケットを使おう」
「うむ。さあ、ではとっとと行動に移ろうぞ」

 キャスターの言葉に頷き、切嗣は一目アイリスフィールを見ると、己の身に宿る令呪に意識を集中した。

「令呪を持って命じる――――」

 悲鳴がコダマする。また一人死んだ。これで何十人目だろう。いや、もう何百人目かもしれない。今迄、この蟲蔵がここまで賑やかになった事は無かった。己ともう一人の憐れな男以外、この蟲蔵に足を踏み入れるのは自分達を蟲に犯させる者達だけだった筈だ。
 己と同じように暗く光るネットリとした粘液に覆われる蟲達に己の中身を食い散らかされ、恐怖と絶望の悲鳴と共に命を終える。居るのは殆どが女性だけれど、中には幼い少年も居る。口や陰茎、女陰や肛門から入り込む蟲の感触に嬌声を上げながら、また一つ、命が消えるのを見つめる。

「食事だ」

 蟲を操る男が言った。その手にあるのはドロリとした真っ白な液体と生肉の塊。どちらも膨大な魔力を内包している。今迄は食事だけは人間用の物を用意されたけれど、それすらも畜生以下の物に変わった。
 濃縮された魔力を口に含む。酷い臭いだけど、この臭いには食事がこうなる前に既に慣れた。蟲に犯されていない時、代わりにあの憐れな男が蟲倉で蟲共の餌となっている間、眼の前の男のソレを何度も咥えさせられ、何度も飲まされた。それは必要な事であり、己の肉体はソレを望む。体内を食い散らかす蟲共の空腹を満たす為には男の精を体内に取り入れる事が一番だ。憎たらしい蟲に孕んだ赤子に栄養を与える母が如く魔力を与える為に同年代の子供達が決して知る事の無い知識を与えられ、経験し、心を磨耗させる。
 慣れたとは言え、大きなコップになみなみと注がれたソレを飲み干すのは僅かばかりに残る嫌悪感や不快感が込み上げてくる。けれど、飲まなければ体内で蟲が暴れて苦痛に苛まされる。口を開き、半ば無理矢理に一体何人の男から搾り出したのか分からぬ程の量の精を飲まされ、一体何人の女から引きずり出したのか分からぬ程の量の肉を食べさせられる。
 膨大な魔力が充電され、再び蟲共に犯される。苛烈さを増した拷問は人間から別のナニカに己を作り変えているように思えた。恐らくその通りなのだろう。己の処女を喰らった蟲をあの憐れな男に与えさせられた時、同時に己と彼との間に繋がりが出来た。
 そこから魔力が送られていくのを感じる。

――――魔力の供給タンク。

 それが一番今の自分に相応しい言葉だろう。休む暇も与えては貰えない。今迄己の肉体を貪り、己を殺そうとしていた蟲達が今では己を生かそうとし続けている。例え、己が死を望んでも、例え、己が壊れても、蟲が己を殺させない。だからこそ、もう彼らにとっては己が壊れても構わないのだろう。
 食事――――餌の時間が終わると、己の体を再び蟲達が蓋い尽くした。
 視界は蟲に覆われ真っ暗になり、耳に響くのは蟲の這いずり回る音ばかり。嗅覚は腐臭によって麻痺し、触覚ばかりが敏感になる。

――――与えられる快楽はもはや苦痛でしかなく、だから、私は夢を見る。
――――家族と共に過ごす穏かな毎日を夢に見る。
――――ああ、でも困ったなあ。
――――家族の顔がぼやけてしまう。
――――お姉ちゃんの声はどんな感じだったかな?

 間桐雁夜は額から汗を止め処なく流しながら目を覚ました。何か、とても恐ろしい夢を見ていた気がする。内容は思い出せないが、取り返しのつかない事が起きているような胸騒ぎがする。

「どうされました?」

 セイバーが実体化して声を掛けて来た。

「大丈夫だ」

 そう答えながら奇妙な違和感を覚えた。

「体が……蟲が落ち着いている?」

 セイバーが実体化したというのに、体内の蟲共の動きが酷く落ち着いている。
 痛みは欠片も無く、体が驚く程軽い。

「恐らく、桜殿のおかげでありましょう」
「桜ちゃんの?」

 セイバーは雁夜が寝ている間に桜が来た事を話した。
 雁夜は「そうか……」と呟くとベッドから体を起こした。

「どのくらい寝ていた?」
「二日ほど」
「二日!?」

 セイバーの言葉に雁夜は言葉を失った。

「そんなに眠っていたのか!? セイバー、今は何時だ?」
「そろそろ夕方になります」
「なら、動くぞ」

 雁夜が立ち上がろうとするのをセイバーは押し留めた。

「なりませぬ。あなたの体は――――」
「もう休息なら十二分に取った! 二日間も無駄に過ごしてしまった……。これ以上、立ち止まっている時間は無い!!」

 セイバーの手を振り払い、雁夜は立ち上がった。

「俺達の令呪は残り二つしかないんだ。無駄に使わせるなよ」
「……主よ、焦りは禁物ですよ?」
「時間が無いんだ」
「主……?」
「嫌な予感がするんだ。早くしないと、何か、取り返しのつかない事が起きてしまう気がする。一刻も早く聖杯を手に入れないと――――」
「ならば尚の事、落ち着かれよ!」

 セイバーの声に雁夜はハッとした表情を浮かべた。

「焦りは戦場に於いて最も死に繋がる要因です。気を鎮めて下さい」
「……ああ」
「一先ず、私が単独にて出ます。交戦するにしろ、しないにしろ、今の我々には情報があまりにも足りない」
「……分かった。俺の方も使い魔を通して情報収集に当たる。敵サーヴァント、あるいはマスターを見つけたら――」
「無論、主の御意向のままに」
「すまないな」
「行って参ります」

 セイバーが消えると、雁夜は立ち上がり、軽く手足を伸ばした。
 痛みも無く、頭も冴えている。
 こんなに体調が良いのは久しぶりだ。

「魔力が充実している。桜ちゃんが持って来てくれた蟲のおかげか……。必ず、あの娘を葵さんの下に返さないと……」

 決意を新たに固め、雁夜は床に腰を降ろすと、街に放たれた蟲に意識を向けた。
 要所に散りばめられた蟲に意識の一部を飛ばした。

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