第十一話 雨生龍之介がバーサーカーを召喚した事で少し早めに決意を決めた少女の話

 穴だらけの記憶の中で一際鮮明に覚えている事がある。紅の閃光が己の心臓を刺し貫こうとした時、月光の如き輝きが己の身を救った。絢爛なる音色が響き、目の前に現れたのは音の響きとは大きく異なる無骨な鎧に身を包んだ騎士だった。
 一生涯――――否、生涯の後にも忘れる事の無い、たった十五日ほどの戦いの日々の始まりを告げたのは無骨な鎧が発する鋼の音。されど、彼の騎士はそんな、無骨な音すらも華美なる響きに変えた。

『――――問おう。貴方が、私のマスターか』

 闇を弾く澄んだ声が金砂の髪の騎士の喉から発せられた。

『召喚に従い参上した。これより我が剣は貴方と共にあり、貴方の運命は私と共にある』

 映像は磨耗して行く代わりに言葉は今も克明に脳に、記憶に、心に、魂に刻んでいる。

『――――ここに、契約は完了した』

 そう、契約は完了した。
 彼の騎士が己を主と選んだように、己もまた、彼の騎士の助けになると誓った。
 月の光は夜闇を冴え冴えと照らし出し、土蔵は騎士に倣うが如く静けさを取り戻した。
 磨耗し、忘れ去った銀色の月光の下で、騎士の金砂のような髪が月の光に濡れていた。記憶は朧となり、嘗ての理想も心も遠くへ置き去って来た。にも関らず、恐らくは刹那にも満たない一瞬の光景が焼き付いていた。
 僅かに振り向いた横顔。穏かな感情を秘める聖緑の瞳。時間はその瞬間のみ永久となり、騎士を象徴する青き衣が入口から流れてくる冬の寒い風に靡いていた。

 アーチャーは時臣の後に続いて遠坂邸へと足を踏み入れた。薄暗いラウンジらしき部屋に通され、窓際のソファーに時臣と向かい合う形で腰を降ろした。
 遠坂時臣。遠坂家の現当主と名乗った男は感情の見えない瞳をアーチャーに向けた。

「凜を護ってくれた事、改めて感謝する」

 最初にそう前置きをして、時臣はアーチャーを真摯に見つめて言った。

「回りくどい話は無しにしよう。単刀直入に言う。アーチャー、私と契約して欲しい」
「……セイバーは死んだのか?」

 アーチャーが問いを投げ掛けると、時臣は怪訝な表情を浮かべた。

「何故、セイバーの名が出る?」

 時臣の言葉に今度はアーチャーが眉を顰める番となった。

「あのタイミングでの助太刀。私はセイバーが君のサーヴァントだと考えていたのだが……」

 アーチャーの言葉に時臣は鼻を鳴らし、考え込むような仕草をした。

「確かに、セイバーの乱入は私達にとって有利に運んだ。だが、少なくとも私のサーヴァントではないよ。そもそも、私はサーヴァントの召喚自体、行っていないんだ」
「どういう事だ?」
「間抜けな話だが、私がサーヴァントを召喚する前に七つのクラス全てが召喚されてしまったのだよ」
「遠坂は御三家の一角だろう? 御三家を差し置いて他の候補者がサーヴァントを召喚するなどありえるのか?」
「御三家に優先して配布されるのはあくまでも令呪の兆しに過ぎない。令呪の兆しを持ちながら、召喚を先延ばしにすれば、聖杯はより聖杯を望む者に召喚の機会を与える」
「師の令呪が消失する寸前、私を含め、三人の魔術師がほぼ同時に召喚を行っていたと報告があった」

 時臣の言葉を捕捉するように綺礼が言った。

「昨日の午前二時にバーサーカー、及びアーチャー、お前が召喚された。そして、今日の午前一時にセイバーとライダーが同時に召喚され、それから一時間後にランサー、キャスター、そして、アサシンが召喚された」

 綺礼の言葉に頷きながら時臣が先を続けた。

「ランサーのマスターは時計塔きっての神童と謳われるケイネス・エルメロイ・アーチボルトである事が確認された。ロード・エルメロイと謳われる彼ならば御三家を差し置いて三騎士を喚び出す事も不可能では無いだろう。また、同時に召喚されたアサシンとキャスター。これは仮定の話だが、恐らく、キャスターのマスターは残る御三家――――マキリ、あるいはアインツベルンであると考えられる。可能性としてはマキリの方が高いな。そして、アサシンのマスターは私の優秀な弟子だ」

 アーチャーは時臣の言葉を咀嚼するかのように黙すと、納得がいったという表情を浮かべた。

「なるほどな。つまり、綺礼、君は聖杯に遠坂の魔術師として認められたというわけか」
「その可能性が極めて高い」

 アーチャーの言葉に時臣は自嘲気に言った。

「綺礼は遠坂の魔術回路を受け継いでこそいないが、現在、私の後継に最も近い位置にいる」
「なるほど、理由は分かった。だが、悪いがその申し出は断らせてもらうよ」
「君も聖杯を望むから召喚に応じたのだろう? 何故だ?」

 アーチャーの言葉を半ば予想していたのか、時臣は驚いた様子も見せずに言った。
 どこか事務的な口調で時臣は尋ねた。

「幼い娘を危険に曝してまで叶えたい願望など持ち合わせてはいないよ」

 アーチャーの言葉に時臣は深く息を吐いた。

「私としてもあの子を危険に巻き込む事は本意では無い」
「ならば……」
「だが、既にあの子が君のマスターである事はセイバーとランサーのマスターに露見してしまっている。恐らく、ライダーとキャスターのマスターもどこからか覗いていた事だろう」
「状況は差し迫っている」

 綺礼が言った。

「凜を保護するにしても、我々の戦力はアサシンのみ。間諜のクラスであるアサシンでは他のサーヴァントに攻め込まれた時、確実に防衛出来る保証は無い」
「監督役に保護を求めてはどうだ?」
「確かに、凜を護るならば教会に保護を求める事が一番確実なのだろうが、問題は我が父と師父の関係だ」
「どういう事だ?」
「私の父は此度の聖杯戦争の監督役を務める言峰璃正だ。父は聖杯を師父が手にする為に色々と手を尽くしている。そうそう気付かれるとは思わないが、同盟関係が明るみに出た場合、監督役の権威は失墜し、教会は安全な場所ではなくなる」

 綺礼の言葉にアーチャーは溜息を吐いた。

「打つ手なしか……」
「君との契約を除いてはね」

 時臣の苦笑を漏らしながらの言葉にアーチャーは瞑目し、やがてゆっくりと言った。

「私の主はあくまで凜だ。最終的な判断は彼女に委ねる」
「ああ、それで構わない。あの子は聡い子だ。分かってくれる筈だ」
「だと、いいのだがね」

 今日、初めて父に頭を撫でられた。抱き締められ、安堵の笑みを浮かべる父に凜は嬉しくて仕方が無かった。
 だから、そんな嬉しい気分をぶち壊しにしてくれた馬鹿の事が許せなかった。

「アーチャーのばか……」

 分かっている。
 これは戦争なのだ。
 国同士が争う戦争ではなく、人同士が争う戦争。
 ただし、いがみ合うのはたったの七人の魔術師。それぞれが過去に偉業を為した英雄を現世に呼び寄せ戦わせる。
 それが、聖杯戦争。英霊を召喚し、使役するという事は、聖杯戦争に参加するという事。聖杯戦争に参加するという事は、いつかは殺し、殺される立場になるという事。

「わかってるもん、そんな事……」

 アーチャーが凜に己を殺せと唆した理由は分かっている。
 凜の為だ。凜は魔術師としては未熟で、そのせいでアーチャーは弱体化している。
 弓兵のクラスなのに弓を使えなかったのは紛れもなく凜のせいだ。二時間程前、隠れ潜んでいた古い館がランサーのサーヴァントにバレてしまい、戦いを避けられない状況に陥った。アーチャーは弓兵なのに弓による狙撃は行わずに双剣を使って白兵戦に臨んだ。森を出て、綺礼の車に揺られながら遠坂の屋敷に向かう途中、凜は疑問に思ってアーチャーに問い掛けた。
 理由は単純だった。凜の魔力が足りなかったからだ。他にも、狙撃の条件とかの問題があったらしいけれど、何よりも重要なのは凜がアーチャーの足を引っ張ってしまったという事実だ。アーチャーは凜に現状を正しく理解させようと考えたのか、その点を包み隠す事無く凜に告げた。
 きっと、もうその時には凜に自害を命じさせようと考えていたに違いない。そう考えると無性に腹が立ってくる。
 狙撃の時だけでは無い。ランサーと遭遇した時に凜はアッサリとランサーのチャームの呪いを受けてしまった。そのせいで、アーチャーは防具である礼装を外して戦う事を強いられた。
 アーチャーは凜という足枷がある為に力を殆ど発揮する事が出来ない状態だ。ランサーとの戦いもセイバーの乱入が無ければ敗北に終わっていた事だろう。アーチャーは凜を護れないと悟ったから、凜に令呪で自害を命じろと言ったのだ。

「でも……、ヤダもん……」

 凜は枕に顔を埋めながら泣き続けた。
 頭に浮かぶのは最愛の妹が間桐の家に引き取られていく姿。
 車の窓から覗く遠ざかる遠坂の屋敷と父の姿。
 優しくしてくれたコトネの両親とコトネの無惨な死体。
 ランサーの槍の前に為す術を失ったアーチャーの姿。

「イヤダ……、イヤダ……、イヤダ……」

 繰り返し、胸中の汚泥を吐き出すかのように凜は呟き続けた。
 一言呟く度に妹の姿が脳裏に浮かび、コトネの姿が脳裏に浮かんだ。

 凜は突然襲い掛かった寒気によって目を覚ました。

「ひゃぅ!? な、なに!?」
「目が覚めたか? 凜」

 瞼を開くと、太陽の明りが目に差し込んで来た。どうやら、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
 目は眩んだけれど、この声には聞き覚えがある。凜よりも先に敬愛する父の教えを受け、弟子を名乗り、あまつさえ、凜を差し置いて時臣と共に聖杯戦争を戦う栄誉を手に入れた憎らしい男。

「何するんですか、綺礼!」
「そう怒るな。凜、寝惚けた頭ではまともな判断が下せまいと考え、老婆心ながら起こしにきてあげたんだよ」

 だからといって、布団を引っぺがすなんて暴挙は許されない事だ。

「もう! レディーの部屋に無断で入り込むなんて!」
「レディー……? なら、自分でちゃんと起きられるように努力する事だな。もう、八時を回っている。朝食の時間だ」
「え、うそ!?」

 慌てて部屋の時計を確認すると、確かに時刻は八時を回っていた。
 凜は顔を真っ青にした。

「た、大変、学校に遅刻しちゃう!」

 小学校の始業時間は八時半。遠坂の屋敷からだと急げばギリギリ間に合うかどうかだ。
 慌てて着替えようと服を脱ごうとしたところでゴホンとわざとらしい咳払いが聞こえた。そこで、部屋の中にまだ綺礼が残っている事に気がつき、凜は耳まで真っ赤になりながら悲鳴を上げた。

「どうした、凜!」

 すると、突然、今度は赤い男が床から生えてきた。
 あまりの衝撃、凜は再び悲鳴を上げる。

「何事でございますか、お嬢様!?」

 今度は音も無く黒い影が目の前に現れた。
 凜は殊更気が動転し、大きな声を上げ、三人の男を部屋から叩き出した。

「これでも飲んで、そろそろ機嫌を直してくれないか? マスター」

 アーチャーはご立腹な凛に蜂蜜たっぷりのホットミルクを出しながら言った。
 凜は大の男が三人も部屋の中に侵入するという大事件の後、部屋から男三人を追い出し、着替えをして一階の居間に降りたが、顔には未だに『私は今とっても怒っています』と書いてある。
 アーチャーは溜息交じりにキッチンへと戻ると、アサシンに労われながら朝食の準備に勤しみ始めた。

「アサシン。これを持っていってくれるかね?」
「承知した」

 遠坂邸のキッチンは今や英霊達の独壇場となっていた。
 朝食の準備は本来、時臣の妻である葵が居ない今、綺礼の仕事だったが、今迄教会の代行者としての修行に身命を賭していた綺礼の料理の腕はお世辞にも良いとは言えず、我慢ならぬとアーチャーが腕を振るうと言い出し、ならば、とアサシンが手伝いを申し出た。
 アーチャーが白兵戦(調理)に臨み、アサシンがサポート(お手伝い)する。英霊二人は見事なコンビネーションを発揮してテーブルに朝食を並べていく。
 その奇妙な光景に綺礼はなんともいえない微妙な表情を向けている。聖杯は招来される英霊に現代の知識を与えると聞くが、調理器具や料理の仕方まで教えるとは思えない。生前に培った能力だろうか、それにしては、コンロの使い方や炊飯器の使い方まで熟知しているのは不自然だ。
 綺礼はそつなく調理をこなすアーチャーのサーヴァントに違和感を覚えた。

「これでラストだ。綺礼、時臣を呼んで来てもらえるかね?」
「ああ、承知した」

 奇妙なサーヴァントだとつくづく思いながら綺礼は時臣を呼ぶべく地下の魔術工房へ足を踏み入れた。
 相変わらず、この部屋は如何わしい魔術用品で溢れている。時臣は何枚かの資料を読み耽っていた。

「師父。朝食の準備が整いました」
「ああ、綺礼。丁度良かった。これに目を通してもらえるかい?」
「これは……」

 時臣に手渡された資料に目を通すと、そこには令呪についての仔細な記述が載せられていた。

「令呪の移譲を君に頼もうと思っている。君の方が私よりもこういう事は得意だろうからね」
「承知致しました、師よ」

 朝食は終始無言のままだった。
 食器の鳴る音だけが響き、奇妙な緊張感に包まれていた。
 食事が終わると、時臣は口を拭い、紅茶を運んで来たアーチャーとアサシンに言った。

「中々の腕だな」
「口に合ったのならば幸いだ」

 紅茶を時臣の前に置きながらアーチャーは言った。

「お嬢様、こちらを」
「……うん」

 白い帯びに包まれたアサシンの手から凜はひったくるように紅茶を受け取った。
 時臣は紅茶を一口含むと凜に顔を向けた。

「さて、凜」

 凜は慌てて紅茶を飲み込むと時臣に顔を向けて居住まいを正した。

「は、はい!」

 ガチガチに緊張しながら己を見つめる凜の相貌を時臣は苦笑しながら見返した。

「お前はアーチャーを召喚し、マスターの一人となった」
「……はい」
「知識を身に付けなければならない。長い話になる。場所を移そう」

 時臣は凜をラウンジのソファーに連れて来た。
 凜をソファーに座らせると、自らも対面するようにソファーに腰を掛ける。しばらくして、綺礼が大量の紙束を持ってラウンジに現れた。

「まずは基礎的な知識から補填していこう。まずは、令呪についてだ」
「あ、アーチャーに聞きました。えっと、令呪とは、サーヴァントに対して強制的に命令を聞かせる事が出来る絶対命令権で、使い方次第では、強制転移やサーヴァントの強化も行えるって」
「その通りだ。このシステムを構築したのはマキリだ。聖痕の数だけ、令呪を発動する事が出来る。サーヴァントにも自由意志は存在するが、それを捻じ曲げて絶対に言いつけを守らせる呪文――――、それが、令呪だ。発動に呪文は必要無い。令呪を使用するという意志を持てば、令呪は自動的に発動する。一回使う度に聖痕は消える。故に、令呪の使用は必ず二回までとしなければならない」
「二回……ですか?」
「言っただろう。サーヴァントには自由意志があると。つまり、サーヴァントはマスターを裏切る事も出来るのだ。召喚者たる魔術師と英霊たるサーヴァントでは力が違い過ぎる。サーヴァントに裏切られたマスターにあるのは無慈悲な“死”だけだ。故に、最後の手段として令呪を一角だけ残さねばならない」

 時臣の言葉に凜は言葉を失った。
 理解してしまったのだ。
 何故、一角だけを残さねばならないのかの理由を――――。
 サーヴァントに裏切られた時、マスターに残された最後の手段は何であるか、それを考えれば、答えは必然的に一つに限定される。令呪でサーヴァントに自害を命じる事。それこそが最終手段だ。
 自由意志を捻じ曲げて命令を遂行させる令呪。その力は自害という非情な命令であっても効果を発揮する。顔を強張らせる凜に時臣は深く瞑目し、言った。

「あくまでも最終手段だ。そうそう、サーヴァントがマスターを裏切る事は無い。何故なら、サーヴァントである彼らもまた、聖杯を望むからこそ召喚に応じるのだから。マスターとの繋がりが無くなれば、サーヴァントが現世にその身を留まらせる事は出来なくなる。一部の例外を除いてだがね」

 時臣はチラリとアーチャーを見た。例外、それはこのアーチャーにも該当する。即ち、単独行動スキル。マスターとの繋がりが無くとも、ある程度現世に留まる事が出来るスキルだ。
 その間に他のマスターと契約を結ぶ事が出来れば、サーヴァントは再び戦線に復帰する事が出来る。故に、単独行動スキルがクラススキルとして登録されているアーチャーのクラスは最も裏切りを警戒しなければならないクラスなのだ。
 一晩観察した限りではそうそう裏切る性格をしているとも思わないが、腹の底では何を考えているか分からない。

「令呪は聖杯戦争において、最も重要なファクターの一つと言える。そして、もう一つ、重要なファクターがある。それは、サーヴァントだ」

 何を今更と思わないでは無いが、凜はよくよく考えればサーヴァンについての知識もあまり持っていない事を思い出した。

「サーヴァントとは過去、あるいは現代の死亡した、伝説上の英雄だ。マスターは寄り代として、英雄に関係する聖遺物、あるいは自らを媒体として英霊を喚び出し、聖杯の力によってサーヴァントを実体化させる」

 なるほど、と凜は思った。
 密かに疑問だったのだ。不本意ながらも未だに未熟な魔術師である己がサーヴァントという一つ上の格を持つ英霊の魂を実体化させるなど、どう考えても身に余る行為だ。
 聖杯という強力なアーティファクトが実体化を肩代わりしてくれているというのなら、その疑問も解決する。

「そして、ここからが重要だ」

 時臣はそう前置きをすると言った。

「サーヴァントを倒せるのはサーヴァントのみだ。これは決して変わらぬ不文律だ。強力なアーティファクトを用いれば可能性が無いとは言い切れないが、決してサーヴァントと一騎打ちをしようなどとは考えてはいけない。例え、相手が人の形を為していようとも、彼等は間違いなく人を超えた怪物なのだからな」

 凜はそっとアーチャーとアサシンを見た。アサシンについては実感が湧かないけれど、アーチャーの強さは昨夜、嫌という程肌で実感した。そして、アーチャーと戦い、後一歩まで追い詰めたランサー。

「マスターは基本的に後方支援に専念する事が聖杯戦争におけるセオリーだ。それを忘れてはいけない」
「……はい、お父様」

 たっぷり二時間掛け、漸く時臣は聖杯戦争について凜に与えるべき知識を語り終えた。
 聖杯戦争の始まり、聖杯戦争の歴史、御三家、各クラスの特性、語れば語るほど、教えなければならない事が溢れ出した。いつしか、その語りは遠坂の魔術、工房の管理の仕方、大師父の遺した遺産などにまで触れた。己を見つめる宝石の如き相貌を見つめる内に――――、それが、事実上、次代の遠坂当主として指名するも同然であると気が付いた。

「凜。お前には選択肢がある」

 語りながら、既に時臣は理解していた。

「だが、その前に伝えねばならない事がある」

 真摯に耳を傾ける己の娘がどう答えるのか。

「私はサーヴァントの召喚に失敗してしまった」

 凜は目を見開くも、そこには失望の色は無く、ただ、驚きと疑問だけがあった。
 時臣の語る自身の失敗談を聞きながらも、それを単なる事実として捉え、己の現状への理解にのみ執心していた。

「凜。お前の選択肢は三つある。一つ目はアーチャーの言葉を聞きいれ、教会の庇護下に入る事」

 凜は首を横に振った。

「二つ目はアーチャーを私に譲り、私の庇護下に入る事」

 二つ目の提案には凜は僅かに逡巡した。

「三つ目はアーチャーと共にこの聖杯戦争を勝ち抜く事だ」

 最後の提案に凜は先ほどまでとは打って変わり、表情を引き締め、背筋を伸ばした。その様子に時臣は諦観の思いで言った。

「私としては二つ目の提案を勧めたい。私が聖杯を手にする為に戦う機会を得たいからだ」

 時臣の言葉に凜は揺らぎ無く澄んだ黒い瞳を時臣に向けた。

「そして、私を護る為……ですね?」
「……ああ。教会は完全に安全であると保証出来ない。それに、お前を戦場に立たせる事は……、私の本意では無い」
「でも……」

 凜は言った。

「私は聖杯戦争に参加します」

 揺らぐ事の無い瞳を時臣に向けながら、凜は言った。

「私は遠坂の魔術師です。アーチャーを召喚し、マスターとなった事から逃げたくありません」
「凜。聖杯戦争は命を奪い、奪われる戦いなんだぞ」
「バーサーカーやランサーと対峙した時に嫌という程思い知りました。でも、私は逃げたくありません」
「遠坂家当主としての私の命令を受けても尚……か?」

 凜は一瞬、息を呑んだ。
 父の瞳は鋭利な刃物の如く鋭く冷たく凜を突き刺し、凜はそれでも必死に首を縦に振った。

「そうか……」

 真っ直ぐに見返す凜の瞳を見て、時臣は痛感した。一対の宝石の如き黒い瞳と時臣の母を思わせる美しい顔立ち。そして、その内に秘めたる卓越した魂。この少女は五代を重ねた遠坂が得た至宝なのだと、奇跡にも等しい稀有なる輝石なのだと。
 時臣はアーチャーと綺礼とアサシンに顔を向けた。彼らはそれで時臣の意思を理解した。

「凜」

 アーチャーは凜の横に立ち、膝を折った。

「それが君の意志か?」
「……そう、よ。それが、私の意志」
「……了解したよ、マスター。それが君の意志ならば尊重しよう」

 突然のアーチャーの変心ぶりに凜が驚いていると、アーチャーは苦笑しながら言った。

「なに、やはり、他人任せは性に合わないと考え直しただけだ。それに、正直な所、君を侮っていた。あれほどの戦いを経験し、あれほどの命の危機に曝され、それでも尚、心を折らずに戦いに向かえるその気概は大したものだ」
「え、あ、えっと、あ、ありがと……う?」

 いきなり態度を豹変させたアーチャーに凜は思わず顔を真っ赤にしながらしどろもどろになった。

「子供と侮り、君を侮辱してしまった事を謝ろう。一晩眠ったおかげか、魔力の供給量もその年齢を省みれば破格と言っていいだろう。万全とは言い切れないが、二度とランサー戦のような失態は見せぬと誓おう」

 居住まいを正し、礼儀正しく頭を下げるアーチャーに凜は助けを求めるように時臣を見たが、時臣は苦笑を洩らすばかりだった。

「え、えっと、じゃ、じゃあ、これからも、よろしく……ね?」
「ああ、よろしく頼む。必ずや君の手に聖杯を捧げる事を誓おう」
「う、うん」

 些か以上に意外だった。人間を遥かに超越した英霊たるサーヴァントにこうまで褒められ、素直にマスターとして認められるなどと思っていなかった。
 無意識に頬が緩む。そんな二人の様子を見ていた時臣は視線を二人から外し、綺礼に言った。

「綺礼。方針を変更するが、構わないかい?」
「仰せのままに」

 時臣の言葉に綺礼は苦笑しながら頷いた。

「アサシン。これより我等はそこなアーチャーとその主、遠坂凛と共に同盟を組み、戦う事とする」
「承知致しました、主よ」

 綺礼の言葉にアサシンは頷いた。

 そのまま、凜が呆気無いと思う程、時臣達は凜の聖杯戦争への参加を認めてくれた。その事に驚いていると、時臣は厳しい表情で言った。

「凜。聖杯戦争を戦うというのならば、今のお前はあまりにも無力過ぎる」
「――――ッ! ……はい」

 事実であるが、父の口から告げられた言葉は凜の胸を抉るように痛ませた。

「アーチャーは本来の実力を万全には発揮出来ない状態となり、まともに他のサーヴァントとぶつかる事は得策では無いのが現状だ。故に、これより我々の方針は情報収集と凜の修行に徹する事とする」
「情報収集と修行……ですか?」
「そうだ。情報収集はアサシンに頼む」
「承知致しました」

 時臣の言葉にアサシンは頷いた。
 赤と白の帯びに覆われた両腕を垂らした捉え所の無い暗殺者は霊体化したのか姿を消した。

「アーチャーには基本的にはこの屋敷の防衛を任せる」
「了解だ、時臣」

 アーチャーも姿を消し、残ったのは人間三人のみになった。

「それと、すまないがしばらく小学校に通わせる事が出来なくなる。下手に外に出て襲撃を受けるのは拙いからな」
「……はい」

 小学校と聞いて、コトネの事を思い出し、凜は思わず泣きそうになったが、必死に堪えた。

「我々は極力動かずに敵の情報を得つつ、サーヴァントが脱落するのを待つ。些か優美さには欠けるが、残るアーチャーとアサシンを除いた四体のサーヴァントが半数に減ってからが本番だ。それまでに凜、お前に厳しい修行を課す。覚悟はいいか?」
「はい!」

 不安も戸惑いもあるだろうに、それでも尚、瞳を揺るがす事無くきっぱりと答える凜に時臣は眩しさを感じながら心に決意を固めた。
 必ずや、この娘をこの聖杯戦争の勝者にすると――――。
 同時に凜も心に密かに誓った事があった。師たる父や己のサーヴァントの期待に応えるのは弟子であり、主である者として当然のコトだ。

『さーて、それじゃあ、ここは一つ、気合を入れて一人前になりますか』

 胸中で凜はそう、密かに呟いた。

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