第二十話 雨生龍之介がバーサーカーを召喚した為に悩みを抱える彼らの話

 遠坂邸の二階に用意された自室で言峰綺礼は衛宮切嗣の資料を読んでいた。

「お前は……、私とは違うのか」

 衛宮切嗣の資料に記された彼の苛烈としか言い様の無い人生の還歴。己が利を度外視した修験者の如き彼の在り方を綺礼は己と重ねていた。故に、アインツベルンとの邂逅と共にピタリと止まった彼の歩み。それは彼が答えを見つけたからに他ならないのではないか? そう考えていた。
 まるで恋焦がれる乙女の様に綺礼はあの男を思っていた。

――――会いたい。

 彼の口から彼が何を思い、行動し、どんな答えを得たのか、それを知りたかった。未だ、答えを出せぬ己に道を指し示して欲しかった。理想を持てず、迷う苦しさから己を解き放って欲しかった。
 言峰綺礼という男には生まれながらに目的意識というものが精神から抜け落ちていた。どのような理想も崇高とは思えず、どのような快楽も、どのような娯楽も安息を齎す事は無かった。世間一般から乖離した己の価値観に悩み、嘆き、綺礼はこれまでずっとその理由を模索し続けた。漸く掴み掛けた答えに至る道筋は再び綺礼の前から霞の如く消え去った。
 二日前の作戦会議での凜の言葉が甦る。例え多くの人間には理解されずとも、衛宮切嗣によって救われた者の中には必ず理解者が居た筈だと凜は言った。あの男の行動理念が正義の味方であるなら、確かにその通りだと綺礼も思った。だが、己は違う。
 父も愛した女も己を理解してくれた事など無い。そもそも、己自身が己を理解出来ていないのだから、他者に理解出来る筈が無い。そんな人間としての欠陥品を理解出来る者など……居る筈が無い。

「また、私は……」

 苦悩に苛まされ、眉間に皺を寄せる綺礼の耳に不意に物音が響いた。

「戻ったか」

 綺礼は大きく息を吸い、表情を取り繕いながら振り向いた。
 振り向いた先には赤と白の帯を両腕に巻いた暗殺者が立っていた。
 白い仮面には表情は無く、目の前に居るというのに、その気配はあまりにも儚い。

「それで、キャスターの陣地は掴めたか?」

 綺礼はあまり期待した様子も見せずに問うた。
 案の定、アサシンは首を振り謝罪した。

「申し訳ありませぬ。キャスターめは人混みに紛れ姿を消しました。魔力や気配も完全に人混みに溶け込ませ、追跡する事が出来ませんでした」
「……間諜の英霊たるアサシンの追跡を撒くとはな。さすがはキャスターと言ったところか」
「面目次第も御座いませぬ」
「報告御苦労。引き続き、市内の情報収集に当れ」
「御意」

 頷きながら、退出しようとするアサシンを言峰は「待て」と呼び止めた。

「アサシン。貴様は聖杯に何を願う?」

 綺礼の問いにアサシンは「何も」と応えた。
 それは二日前の作戦会議の時と同じ答えだった。

「私は聖杯に願う望みを持ち合わせてはおりませぬ」
「……サーヴァントは触媒となる聖遺物が無い場合、召喚者の気質と似通った英霊がランダムに召喚される。私は召喚の際、クラスをアサシンに固定したが、英霊召喚用の触媒は用意しなかった。故に、召喚されたお前は私と似通った性質を持つ筈だ」

 綺礼は落胆した様子で言った。

「だから、お前が聖杯を欲する程に願う望みが何であるかを知れば、私自身が何を望んでいるのか、私自身が気付かぬ心の奥底にがる願望の正体が掴めるのではないか、そう思ったのだがな……」
「綺礼殿……。貴殿は……」
「アサシン。私はな、自分というものが何者なのかが分からんのだ」

 己を嘲る様に笑いながら綺礼は言う。

「私と言う男がな、アサシン。愛する妻が死んだ時に何を考えたと思う?」

 戸惑った様子のアサシンに構わず、綺礼は言葉を続けた。
 自分が何を言おうとしているのかも分からず、自然と言葉が零れ落ちた。

「この手で何をしたいと……願ったと思う?」
「マスター」

 アサシンの呼び声に綺礼はハッとした顔をした。

「私は嘘を吐いた」
「……なに?」
「私は聖杯に願う望みは無いと言ったが、あれは正確では無い」
「では、望みがあるというのか?」

 綺礼はアサシンに詰め寄り、その両肩を掴んだ。
 鬼気迫る表情を浮かべる綺礼にアサシンは首を振った。

「私も分からないのです」
「……なんだと?」

 アサシンの言葉に拍子抜けしたように綺礼はアサシンの肩から手を離した。

「少し、昔の話を致しましょうか……。二日前は適当に暈しましたが、マスターである貴殿には話しておくべきでしょうな。私という存在を」

 そう前置きをして、アサシンは語った。
 全てを無くし、己を探求し続けた一人の狂信者の物語を――――。

 アサシンのサーヴァントは他のクラスと大きく異なる点がある。それはアサシンのクラスとして召喚される英雄が必ずハサン・サッバーハであるという点だ。尤も、ハサン・サッバーハという英霊の名は正確には個人を示す名では無い。
 イスラム教の伝承に残る暗殺教団の教主達、それが、山の老翁――――ハサン・サッバーハだ。代々の教団の教主達がこの名を継承してきた。
 アサシンたるハサン・サッバーハもまた、そうした山の老翁の一人だった。
 幼少の頃の記憶は無い。気がつけば、アサシンは全てを失っていた。

――――薬と洗脳によって己の過去を消し去られた。
――――耳を削がれ、鼻を削がれ、瞼を剥がされ、唇を焼かれ、骨を砕かれ、顔を失った。
――――男であったならばある筈の性別の象徴も切り取られた。

 尤も、男であったのか、女であったのかも分からなかったが――――。
 叶えるべき願いも尊ぶべき理想も持たず、ただ只管に人を殺す。それがハサン・サッバーハとなった暗殺者の日常だった。殺人のための技巧を磨き、己の肉体を極限に至るまで研磨した。逃げる者をどこまでも追い詰め、反撃する者の手足を捥ぎ、懇願する者の喉笛を切り裂き、只管殺す。
 そこに感情の入り込む余地など無く、そこにあるのはただ殺しという行為を実行する絡繰のみ。だが、いつしか絡繰にも疑問が湧いた。

『私は何だ?』

 それが死を運ぶ亡霊の如き暗殺者の抱いた生涯唯一の疑問だった。探求の果てにあったのは信仰であった。
 答えを見出したわけではない。他に無かったのだ。ただ、信ずる対象を求め、その為に殺した。
 一切の情けも掛けず、一切の殺意も持たず、ただ、機械的に人を殺した。己の居場所を、存在意義を信仰に求めた。だが、所詮は己の悲嘆を慰める為の代替物に過ぎない。
 紛いものに縋り続けた暗殺者はやがて精神を病み、やがて…………。

「恐らく、貴殿と私は似ているのでしょうな。己が存在意義が見えず、代替物に縋り、己を慰める様は生前の私そのものだ」
「……なるほど、確かにその通りだ」
「疑問を常に抱き続けるが宜しいかと。そうでなければ、紛い物に縋り続けた果てにあるのは破滅だけでございます」
「……ああ、そうだな。お前のようになっては仕舞いだ」
「ええ、その通り。我が生前は貴殿が歩みし時の果ての一つの終着点であると考えるが宜しいかと」
「心得ておこう」
「では、私はこれにて――――」

 アサシンは今度こそ姿を消した。空っぽの部屋の中で唯一人、綺礼は溜息を零した。結局、探求の道は今また再びその道筋を閉ざした。だが、少しだけ心が晴れた気がした。
 理解者は居ない。意義は見つからない。けれど、少なくとも今ここには、同じ悩みを共有出来る者が居る。

「疑問を抱き続ける……か」

 綺礼は呟きながら窓の外に視線を移した。

 同時刻、綺礼の部屋からわずかばかり離れた場所にある凜の居室にて、部屋の主である凜は自分のベッドに座りながら己がサーヴァントを出迎えていた。

「お疲れ様」

 凜が労いの言葉を掛けると、アーチャーは肩を竦めた。

「私は結局情報収集のみだったがね。それで、修行の方はどうだったんだ?」

 アーチャーの問いに凜は「あんまり」と応えた。

「まあ、そう気を落とすな。時間はまだあるのだからな」
「でも、急いで強くならなきゃいけないのに……」

 シュンとする凜にアーチャーは頬を掻きながら言った。

「焦るな、と言っても無駄か」
「アーチャーは私の未来を知ってるんでしょう?」
「ん? まあな」
「じゃあ、私がどうすれば強くなれるかとか分からないの?」

 凜の言葉にアーチャーは申し訳なさそうに首を振った。

「何しろ、私は未熟だったものでね。それに、凜は出会った時にはもう類稀な才覚を十全に発揮していたんだ」
「本当に……私はアーチャーの知ってる遠坂凜になれるのかな……」
「どうしたんだ? 凜らしくもない」

 気落ちした様子で呟く凜にアーチャーは凜の隣に腰掛け優しく語り掛けた。
 ところが、凜は唇を尖らせ、不機嫌そうな表情を浮かべた。

「私は元々こうだもん」
「凜?」
「凜らしくないって言われても……、私はこうだもん」

 修行が上手くいかなかったからなのか、どこか情緒が不安定になっているらしい。
 凜は泣きそうな声で言った。

「どうして?」

 凜はアーチャーの顔を見上げながら尋ねた。

「どうして、アーチャーの話す遠坂凛と私は違うの?」
「違うって……?」

 凜の言葉に眉を寄せるアーチャーに凜は癇癪を起こした。

「だって、アーチャー言ってたじゃない! 遠坂凜は凄かったって! 誰よりも卓越した魔術師だって!」
「あ、ああ……」

 ベッドから立ち上がり、涙を流しながら叫ぶ凜にアーチャーは戸惑った。

「上手くいかないの……」
「凜……」
「私は遠坂凛なのに、上手く出来ないの!!」

 凜の叫びにアーチャーは己の失態に気が付いた。

「宝石に魔力を流してもいつも失敗しちゃう……。アーチャーに偉そうな事を言ったのに、強化の魔術にだって失敗しちゃうのよ!?」

 凜は、この幼い少女は遠坂凛であって、アーチャーの知る遠坂凛では無い。アーチャーの知る遠坂凛とは、この幼い少女が辿る一つの未来に過ぎないのだ。
 父を失った遠坂凛が只管に己を磨き続けた姿。それこそがアーチャーの知る唯一無二だった遠坂凛だった。
 二日前の作戦会議の時、アーチャーは己の魔術の師が凜である事を明かした。魔術師として華々しく活躍する凜の事を語った。アーチャーにとって、凜と過ごした日々は嘗て召喚し、共に戦場を駆け抜けた少女との日々と同等か、それ以上に輝いていたが故に磨耗した記憶の中でも色濃く残り続けていたからだ。
 だが、幼い凜にとって、そんな未来の自分の姿は幻のようなもの。今の己にはあまりにも遠い理想の姿。アーチャーが幼い頃に夢見た義父の背中の様に遠く大きな手の届かない存在。
 だが、そこに理想が存在する。理想と己の現実の狭間に否応にも溝があり、それを埋めようともがく……、それは、アーチャーが生前に経験した修羅の道だった。

「どうして、出来ないの? 未来の私には出来るのに、私にはどうして!?」

 焦りと苛立ち。幼い凜の今感じている思いは嘗ての己が抱いた感情だった。
 救っても救っても、手から零れ落ちていく救われなかった人々。全てを救いたいと願いながら少数を犠牲にするという矛盾。
 そうじゃない。出来る筈なのだ。そう、憧れた理想を追い求めるあまりに自分を追い詰めていく。

「凜」

 アーチャーはそっと凜の頭を撫でた。

「子ども扱いしないで!!」

 凜はアーチャーの手を振り払おうとするが、アーチャーは知った事かと言わんばかりに頭を撫で続けた。

「凜。私の知っている凜だって、幼い頃は未熟だったんだぞ?」

 凜は体を震わせた。
 分かっているのだろう。
 分かっているが、己と完成された己を比べてしまうのだろう。

「凜は私の若い頃にそっくりだな」
「……アーチャーの若い頃?」
「ああ、私もいつもこうじゃないのにな、もっと上手く出来る筈なのにな、そんな事を考え続けていたよ」

 過去の己を抹消する。
 そんな愚かしい望みを抱く己の言えた事では無い。
 そう思いながらもアーチャーは言った。

「だけどな。諦めずに歩み続けるんだ」

 結局、己は理想に成れなかった癖に、何を言っているのだろうな。
 そう自嘲しながら、アーチャーは諭すように語る。

「歩みを止めなければ、いつかはきっと……」

――――ああ、オレは一体何を言っているんだろうな。

「きっと、理想に辿り着ける」

 自分は理想に絶望した癖に、何を言っているのだろう。

「だから、泣く必要なんかない。今、凜が歩んでいる一歩一歩は……」

 自分を殺して、全て無かった事にしようとしている己が何を言っているのだろう。

「きっと、無駄なんかじゃない。ああ、でも、勘違いはするな。君は今抱いている思いだって、歩みの一歩なんだ。だから……」

 凜はいつしか泣き止んでいた。慰める事が出来たのだろうか?
 アーチャーは微笑みながら言った。

「その思いだって、間違いなんかじゃないんだからな」
「アーチャー」
「ん?」
「……泣かないで」
「……え?」

 凜の言葉にアーチャーは戸惑った。何を言っているのか一瞬分からなかった。
 ただ、凜が小さな手をアーチャーに伸ばすのを目を丸くしながら見つめた。

「アーチャー……、泣きそうだった」
「何を……」

 何を言っているんだ? そう、問おうとするが、凜が小さな手で必死に己の頭を撫で、慰めようとしているのを見ると、何も言えなくなった。
 何をどう勘違いしたのかは分からないが、端から見たらなんとも微笑ましい光景に映るのではないかと思った。
 思わずククッと笑ってしまったアーチャーに凜は剥れた。

「な、何よ! 人が折角慰めてあげようとしてるのに!」
「ああいや、すまないな。十分慰められたよ。ありがとう、凜」

 素直に感謝の言葉を告げると凜は驚いた様に目を丸くし、顔を赤くしながらもじもじと「別に」と言った。

「焦るな、とは言わないが、自分を駄目だとは言わない事だ」
「諦めなきゃ、いつかは辿り着く……でしょ? わかったってば」
「それはなによりだ」

 皮肉気に口元を歪めるアーチャーに凜は唇を尖らせるが、自然と頬が緩み、思わず笑ってしまった。
 アーチャーもそんな凜に釣られて笑い、互いに晴れやかな表情を浮かべた。

「ねえ、もっと聞かせてよ」
「なにをだ?」
「未来の私の話」
「構わないが……どういう風の吹き回しだ?」
「別に。ただ、理想は出来るだけハッキリさせた方がいいでしょ? 目指すにしてもさ」
「……ふむ。では、色々と語らせてもらおうかな。遠坂凛の武勇伝を――――」

 アーチャーは凜が眠くなるまで凜の武勇伝を語り続けた。
 大英雄ヘラクレスを相手にぶちかましたり、神代の魔女を相手に刹那とは言え魔術戦を繰り広げたり、ライバルである少女と格闘戦を繰り広げたりと、凜に纏わる話は不思議な程すらすらと喉元を飛び出した。
 夜も更け、凜はベッドの中でまどろみながらアーチャーに眠たそうに尋ねた。

「アーチャーは遠坂凛をどう思ってたの……?」

 その問いにアーチャーが応える前に凜は眠ってしまった。

「さてな。理想とする人は居た。憧れた人も居た。親友と呼べる者も居た。尊敬する人も居た。慕った人も居た。守りたいと思った人も居た。そうだな、愛おしいと思った人は……一人だけだったな」

 聞こえていないだろう凜にアーチャーはクツクツと笑いながら語りかけ、その姿を消した。
 その日、凜は夢を見た。一人の少年が生涯を懸けて夢を追う夢を――――。
 朝になれば忘れてしまう事になるが、その姿に凜は眠りながらこう呟いた。
 がんばって……、と。

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