第二十八話 雨生龍之介がバーサーカーを召喚した為に追う少女

――――熱い。

 右腕を中心に身体が疼く。入り込んだ異物を排除しようと身体が熱を帯びているのだ。全身を剣で突き刺されたような鋭い痛みが迸る。あまりの激痛に凜は顔を歪めるが、弱音や悲鳴を上げそうになると唇を噛み締め必死に抑えた。
 魔術刻印の継承の儀式。それが凜に課せられた修行の中でも最も過酷なものだった。
 魔術刻印。それは魔術師の一族の秘術、秘奥を記した歴史そのもの。魔術回路という魔術師にとっての第二の擬似神経を血と骨で例えるならば、魔術刻印は肉と言えるものだ。魔術刻印は形をもった魔術であり、本来無形である筈の魔術をその代の当主が一生掛けて形にしたもの。つまり、一人の魔術師の生きた証そのものだ。
 魔術刻印はそれ自体に魔術式が篭められている為、複雑な工程を経なければならない魔術も一工程で発動させる事が出来る他、術者を補助する役割を担う事もある。故に魔術刻印を継承すればそれだけで魔術師として大幅にランクアップする事が出来る。魔術刻印の継承とは、即ち魔術師の家系における後継者の証であり遺産を受け継ぐという事だ。それ故、大いなる力を継承する為に大いなる代償が支払わねばならない。
 魔術刻印というものはあくまで人体にとっては異物であり、魔術刻印の移植には恐ろしい痛みが伴う。その負担は尋常の類では無く、それが為に通常は第二次性徴前に段階的に移植を行うのが最適であるとされている時臣は聖杯戦争で生き抜く為に必要であると考えられる刻印を選別し、凜に移植している。その量は通常一度に移植される量を大幅に超えている。下手をすれば廃人となりかねない負担を娘に強いながら、時臣は表情を固く引き締めている。
 聖杯戦争で勝ち抜く為には凜を成長させなければならない。それも、並み居る魔術師の平均レベルまで。無論、普通の方法ではそんな事はまず不可能だ。魔術師としての修行は年単位で行われるものであり、十年後の遠坂凛とてそこに至るまでに恐らくは過酷な修練を己に課したに違いない事は想像に難くない。時間が圧倒的なまでに足りない。
 ならば、どうするか? 方法は一つしかない。足りないものは他で補うのみ。時間が無いのならば長い年月の積み重ねを使えばいい。幸いというべきか、既に凜には魔術刻印の継承の準備が十全に整っていた。後は必要な刻印の移植さえ完了すればその時点で凜は十年後の彼女には届かぬとも並みの魔術師を圧倒する力を得るだろう。

「耐えろ、凜」

 時臣は静かに呟いた。
 凜は右手から侵食する異物に苦悶表情を浮かべながらも決して負けぬと意地を見せた。

「――――ない」

 凜の脳裏に浮かぶのはアーチャーの夢の中の一人の女だった。
 その背は今の己にはあまりにも遠い。

「――――けられない」

 全身を刃で貫かれ、毒が蔓延し、金槌で全身をくまなく砕かれる。
 全身が悲鳴を上げている。
 もう止めてくれ。
 もう限界だ。
 これ以上はもう無理だ。
 ここで終わりだ。
 そんな、警鐘染みた声が耳元で鳴り響く。

「――――負けられない!」

 叫ぶと同時に意識がずれた。
 あらゆる感覚が急激に感度を失っていく。
 立っているのか、座っているのか、横たわっているのかも分からない。
 心臓を鷲掴みにされているような恐ろしい感覚に襲われ、

「ぁ、か……ンンッ!?」

 自分の声が聞こえた瞬間、耳も死んだ。自身の肉体の存在が曖昧となり、自分という存在までもが曖昧となる。
 見失った。自分という存在を完全に見失ってしまった。体は紙となり、何重にも折り畳まれていく。小さく、小さく、まるで存在が無くなってしまうまで小さくするつもりなのではないかと思う程、繰り返し、繰り返し、折り畳まれる。
 浮いている。落下したと思ったら浮遊していて、様々な光景が刹那の瞬間に通り過ぎた。代々の遠坂の魔術師達の歴史が己の内に入り込んでくる。巻き込み、混ざり、一つと成る。自分が何者なのかが分からなくなった。己は誰で、どこに居るのか、何も分からない。精神が軋みを上げる。

――――遠坂凛は卓越した魔術師だった。

 アーチャーの言葉が甦った。
 ああ、そうだ。遠坂凛は卓越した魔術師になるのだ。だから、こんな事でへこたれてなんていられない。途端に意識が明確になった。
 自分の中で静かに全てが完結した。イメージとしては蒼い海に覆われた伽藍堂のように何も無い天球がある。重ねられた時間が、長い年月によって形を得た無形がある。何一つ同じ形は存在せず、何一つ違う命は無い。同じ形の物が群がって、まったく違う法則を形作る。一つ一つの小さな無形は一つ一つの偉大なる結果を示し、まるで海を泳ぐ魚のように蠢いている。覚醒の間際。視界も頭の中も心の中も全てが真っ白になり、全ての歴史が己のものとなった。

「ぁぁぁ」

 片手だけが蟲の腕になってようで気持ちが悪い。なんておぞましい不快感だろう。だけど、彼女は優雅に笑っていた。
 目指すべき場所で笑っていた。彼の夢の中で鮮やかに、このおぞましさを体に棲まわせ笑っていた。ならば自分も優雅であろう。鮮やかに笑おう。出来ない事は無い。何故なら、未来はそこにあり、己は必ずソコに到達する。
 だが、足りない。それだけでは足りないのだ。追いつくだけでは足りはしない。

「凜!」

 誰かの声が聞こえる。
 だが、そんなのは今は気にするべき事柄では無い。
 必要なのは成長だ。
 その為に必要な力を汲み上げる。

「―――――Anfang」

 至れるのは分かっている。
 だが、今はまだ至れない。
 そこに至るには圧倒的なまでに時間が足りず、圧倒的なまでに苦痛が足りず、圧倒的なまで努力が足りない。
 ならば、今至れる部分だけ追いつこう。

「zweihaunder. ie zurück schauen. Es gibt niedrig, ist langsam, ist nah und in die Vergangenheit」

 今、持てるものがあるとすれば覚悟だけだ。
 必ず、至る。
 その為に生き残る。
 必ず勝利し、至ってみせる。

――――必ずアンタを越えてみせる。

 その為の手段を掬い上げる。
 イメージするのは鮮やかな海を泳ぐ一匹の美しい魚。
 汲み上げる事で魔術回路を安定化させる。
 初代から今代に掛けてまで積み重ねられた歴史の導きによって、届かなかった場所に手が届く。
 迷宮には矢印が現れ、ただそこを進むだけでいい。

「どう? アーチャー」

 凜が微笑みかけると、アーチャーは瞠目したまま己の体を見つめていた。
 凜はいつの間にか地下の魔術工房から自室のベッドに移されていた。
 部屋に居るのは己のサーヴァントだけ。

「ラインが増強された。流れる魔力も十分過ぎる。凜、君の体に異常は無いか?」
「全然、へっちゃらよ」
「そうか、修行は上手くいったんだな」

 ここ数日、凜が行っていたのは魔術刻印の継承の準備だった。既にこれまでの修行で凜の体は魔術刻印を受け入れる準備が整っていた。だが、今回の継承では通常一度に継承される刻印の量を大幅に超えた量であり、更に入念な準備が必要だったのだ。特に己を律する修練が殊更に難航し、一度は自信を失ったが、結果的に修行は成功した。
 無論、十年後の遠坂凛には遠く及ばない。だが、十年後の遠坂凛も十年前は自分と同じかそれ以下だった筈だ。だから、劣等感を感じる必要など無い。凜は自分に言い聞かせ、満面の笑顔を浮かべた。

「しばらくは魔術刻印を抑制する薬を飲まないといけないけど、これで漸く私達の聖杯戦争が始まるわ」

 凜の言葉にアーチャーは「ああ」と頷いた。

「君の修練の成果、我が身を持って他のマスター達に知らしめてくれよう。よく頑張ったな、凜」

 頬を緩め、アーチャーは凜の髪を梳き褒め称えた。

 アーチャーは凜の部屋から霊体化して居間に降り立った。
 実体化すると時臣と綺礼が紅茶を飲み寛いでいた。

「凜の様子はどうだ?」

 時臣が問うと、アーチャーは肩を竦めた。

「一度目を覚まして、そのままラインの拡張をやってのけたよ。今はまた横になっているが魔力の流れに乱れも無いし、問題無いだろう」
「そうか……。我が娘ながらに素晴らしい才だ。並の者ならば……、私でも数日は目を覚まさず、ともすれば精神を病んでいただろう。それを一日で……」
「まあ、何にしても魔力は十分に供給されるようになった。いざとなれば切り札を使う事も出来るだろう」
「固有結界……か、俄かには信じ難いが、お前の言う通りの代物ならば我々は勝利に向かい大きな前進を見せたと言えるな」
「それは、どうでしょうか……」

 綺礼が口を挟んだ。

「昨夜、アサシンが確認したセイバーとライダーの同盟。並びにランサーとキャスターの接触。ランサーとキャスターが同盟を結んだと考えると、戦力は綺麗に御三家で分散された事になります。そうなると、我々の陣営は直接的な戦闘能力において他の陣営に遅れを取っている事になり、御息女の性格上、我々の陣営が取るべき最適な手段たるマスター暗殺は却下されるでしょうから、安易に楽観は出来ないと思います」

 綺礼の言葉にアーチャーも頷いた。

「同感だ。だが、ある程度戦略に幅が出来たのは確かだ。他のサーヴァントについても情報は集まりつつある。何にしろ、凜が頑張ったのだ。ならば、ここからは我々の番だ。何としても凜を勝者にする。その為ならば手段は選ばんさ。なに、凜とてせこい手段じゃなければ煩くは言わんだろう」
「アサシンが聞いたら何と言うか……ッ!」
「綺礼?」

 不意に言葉を切った綺礼に時臣とアーチャーが視線を向けた。
 しばらくの間、綺礼は無言のまま立ち竦み、時臣に向けて報告した。

「例の武家屋敷に子連れの三人の男女が現れました。一人は日本人男性。残る二人は西洋風の顔立ちをした金髪の女性。子供の方は女性似の少女だそうです」
「切嗣では無い……?」

 アーチャーはいぶかしむ様な表情を浮かべた。

「正体は分かりかねますが、サーヴァントの気配は無く、魔力を探知する事も出来ませんでした」
「アインツベルンの陣営が所有しているのは消去法から言ってキャスターで間違いないだろう。そうなると、容姿を変え、魔力やサーヴァントの気配を隠匿している可能性があるな」

 時臣の言葉に綺礼とアーチャーは揃って頷いた。

「ケイネスはアインツベルンの隠れ城に居る筈だな?」

 時臣の問いに綺礼は頷いた。

「ならば、仕掛けてみるか……」

 時臣の言葉にアーチャーは深く瞑目した。
 相手が衛宮切嗣である事。それがアーチャーに彼自身が意外と思う程大きな動揺を与えていた。
 恩人であり、師であり、父である男。彼と戦う事になる。アーチャーは頭を振って愚かな考えを振り払った。衛宮切嗣に勝利させるわけにはいかない。衛宮切嗣の願いは例え聖杯が汚染されていなくても実現させるわけにはいかないものだし、それになによりも凜を勝者にすると誓った。ならば、敵が誰であろうと薙ぎ倒すのみ。

「仕掛けるならば私とアサシンで同時に仕掛けるか?」
 アーチャーの言葉に時臣と綺礼が瞳で問い掛けてきた。
 
――――出来るのか?

 と、その問いにアーチャーは皮肉気な笑みで応えた。

「義父であろうと、凜を勝者にするには邪魔だ。親愛の念も恩も義理もあるが、障害となるならば切り払うのみ」
「頼もしい事だな。ならば、任せるとしよう」

 アーチャーが姿を消すと、綺礼はアサシンにラインを通じて告げた。

『アサシンよ。第一の宝具の開帳を許す。アーチャーと共に衛宮切嗣とそのサーヴァントをあぶり出し、殲滅せよ』
『……御意』

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