第三十四話 雨生龍之介がバーサーカーを召喚した為に恐怖する少女と決意する青年、そして……

 一人の騎士が居た。比類無き強さを誇り、騎士王が率いる円卓の一席を得た第一の騎士。
 名は湖のランスロット。人々は彼を理想の騎士であると称え、彼自身、そうあろうと天賦の才に胡坐を掻く事無く、只管に努力を積み重ね続けた。時に男子の名誉や騎士としての名声を顧みず、力と技を磨く事に没頭し、飽くなき鍛錬を積み重ねた。
 彼は理想を求め続けた。その在り方は人々を魅了した。だが、その理想の追求の果てにあったのは自らの破滅とブリテンという国の滅びであった。
 発端となったのはエレインという名を持つ二人の少女だった。一人目のエレインは己の死を持って、彼に己の追求する理想を疑わせた。二人目のエレインは彼の人間的な弱さを表出させた。そして、彼は理想よりも尚尊きものを見つけてしまった。
 彼は騎士王の妻、王妃グィネヴィアを愛していた。王の妻として、決して己の愛に応える事の無い存在。
 追い求める愛。
 尽くす愛。
 それこそがランスロットの求める理想の内にある愛だった。だが、二人のエレインによって見つけてしまった愛はそのどちらでも無く、ぬくもりを与え、与えられる愛だった。
 彼は知ってしまった愛の為についに己が求め続けた理想を捨ててしまう。彼は騎士王の妻、王妃グィネヴィアに恋をした。彼女の微笑みだけが彼の内に住まうようになり、自制の鎖は容易く崩壊した。露骨なまでに彼は彼女を求め、人々は噂し、ブリテンに不和が広がった。
 グィネヴィアは彼の自制の復活を望み、彼を森に追放した。だが、二年に及ぶ放浪は彼の思いを加速させるだけであった。
 王妃以外の何者も彼の目には入らなくなり、彼はアグラヴェインとモードレッドという二人の騎士によって告発された。王妃との不倫関係が周知の事実となり、王妃は不倫の罪で死刑を求刑された。ランスロットは王妃を救う為に彼を慕っていた騎士達を殺し、親友であった騎士との絆を断ち切ってしまった。
 彼はグィネヴィアを連れて逃げた。時が経ち、彼は後悔した。己の浅ましき欲望によって真に己が尽くさねばならぬ相手を裏切ってしまった。しかし、そのあまりにも大きな罪を贖う機会を時という名の運命は許してはくれなかった。
 騎士王の終焉の地――――カムランの戦いにランスロットは駆けつける事が出来なかった。
 彼が駆けつけた時には既に戦いは終わりを迎え、多くの戦友が死に絶え、無数の武具が無数の屍達の墓標の様に佇んでいた。ランスロットは狂った様に駆けた。己が裏切ってしまった、己が最も忠を誓うべき相手の下へ。彼の向かった先に居たのは一人の騎士の遺体に寄り添う一人の騎士だった。

『ベディヴィエール卿……。ルーカン卿は……』

 ベディヴィエールと呼ばれた騎士は首を振った。
 ランスロットとて一目見た時から分かっていた。
 ベディヴィエールが寄り添う安らかな寝顔の騎士の魂が既にここには無い事を。
 古くより騎士王と共に戦場を駆け抜けた英雄は王の為に戦い、その生を終えた。

――――羨ましい。

 そう、下賤な思いが浮かび、ランスロットは恐怖した。
 己の浅ましさ、己の卑しさ、あまりにも醜悪な己の本性に怖気が走った。

『陛下は何処へ……?』
『陛下は居られぬ』
『居られぬ……?』
『陛下は私にエクスカリバーを湖の妖精へと返却するよう命じられた。湖の妖精にエクスカリバーを返却し、戻って来た時には陛下の御姿は見えなくなっていた』
『陛下が……居られぬ……』

 それは彼が贖罪の機会を永遠に失ったという事だった。

「今のは……」

 間桐雁夜は目を覚ました。

「ランスロットの過去……」

 雁夜は自室のベッドに寝かされていた。
 起き上がろうとすると体が思うように動かなかった。

「なんだ……?」

 それでやっと、昨日の出来事を思い出す事が出来た。
 あまりにも凄惨な親と子の対面。
 雁夜の思い人であった葵の死。

「目を覚まされましたか」

 耳元に聞き慣れた声が響いた。
 首を動かすのも億劫で、雁夜は声だけで返事を返した。

「今、どういう状況なんだ?」

 雁夜は問うた。いつの間にか眠ってしまっていたらしく、アサシンとの激突以後、何があったのかまったく分からない。
 セイバーは手短に雁夜に説明した。
 アサシンを討伐した事。
 桜の命令で退却した事。
 雁夜は桜の魔術によって眠らされていた事。

「……桜ちゃんは今はどこに?」
「桜殿は地下の蟲倉に潜られておられます。決戦に備えるとか……」

 雁夜は黙したまま瞼をきつく閉じた。
 あまりにも色々な事が起こり過ぎた。
 初めは桜を救う為に間桐の家に戻って来て、セイバーを召喚し、共に戦って来た。
 人を殺して、人の夢を奪って、それでも尚戦おうと突き進んで来た。
 だけど……、

「葵さんが死んだ……」

 瞼の裏に遠い日の思い出が浮かぶ。初めて会った時、彼女に恋をした。彼女の事を思わない日は無かった。だけど、間桐という家の真実を知って、自分が彼女に相応しくないと気が付いた。
 女を苗床くらいにしか思わない間桐の魔術は彼女の美しさを穢してしまうと思った。だから、遠坂時臣が現れた時、自分から身を引いた。それでも、未練は断てなかった。葵に子供が生まれたと聞いて、祝いの言葉を掛けるのとは裏腹に胸の内では悔しさが募った。遠坂時臣を妬ましく思った。卑しくも自分から彼の立ち位置に居たいと思ってしまった。

「俺は……」

 桜を救おうと考えたのも葵の娘であるから、というのが大きかった。もしも、桜が何の関係も無いただの見ず知らずの子供であったなら、きっと自分はここまで出来なかっただろう。蟲の苗床となって、命を削りながら忌み嫌う間桐の魔術を使って戦うなど決して決断出来なかっただろう。
 葵が死んだ。その事が雁夜を支えていた土台を大きく揺るがせた。

「雁夜殿」

 揺らぐ雁夜にセイバーは声を掛けた。
 真っ直ぐな目で見られ、雁夜は視線を逸らせたかったが、僅かに目玉を動かす事も億劫だった。

「貴殿が守りたいのは誰だ?」

 セイバーの問いに雁夜は声を失った。

「貴殿が守りたいのは遠坂葵か? 遠坂凛か?」

 セイバーの問いは雁夜の心を大きく揺さぶった。

「俺が守りたい人……」

 真っ先に浮かんだのは葵だった。
 だけど、葵はもう、この世には居ない。

「私は嘗て、一人の女性を愛した」

 セイバーは言った。

「だけど、それは私が求める理想の為だった。騎士として、潔癖であらねばならない。騎士の愛とは尽くす愛であり、相手に愛を求めてはならない。彼女は私の理想にとってうってつけの女性だった」

 自嘲気にセイバーは言った。
 雁夜は黙って耳を傾けた。

「だが、私は求めてしまった。彼女の愛を……」
「それは好きだったからなんだろ?」

 雁夜の問いにセイバーは頷いた。

「そう、私は彼女に恋をしてしまった。理想を求めるのをやめて……、その癖、完全には理想を捨て切る事が出来なかった。そんな愚か者の末路を貴殿も知っておられるでしょう?」

 雁夜は夢の中のセイバーの背中を思い出した。
 酷く打ちひしがれた彼の背中を……。

「確か、伝承では僧籍に入ったって……。王妃グィネイアとも生涯会う事無く」
「ええ、その通りです」

 セイバーは雁夜の名を呼んだ。

「真に守るべき人が誰なのか、それを今一度考えてみるべきだ。誰も彼も救おうなどと考えるのは止めておけ。所詮、貴殿は無力なのだ。全てを投げ出して、漸く一人守れる程度なのだ」
「分かってるさ。分かってるんだ。だけど……」
「雁夜。もう、迷っていられる時間は少ない」
「……ああ」
「恐らく、此度の聖杯戦争は後幾日と経たずに終わりを迎えるだろう。その段になって、まだ迷うようであれば、その迷いは貴殿を殺す刃となる。私と同じ過ちを犯すな」
「…………分かってる。結局、答えはとうに決まってるんだ」
「雁夜殿……」

 雁夜は無理矢理に体を動かした。
 セイバーの助けを借りようとはせずに自分の力で立ち上がろうとする。
 上半身を起こすだけで疲労困憊し、額からは汗を流している。
 雁夜はゆっくりと首を動かし、セイバーを見つめた。

「俺は桜ちゃんを守る。桜ちゃんを助ける。その為にだけ、戦う」
「……ならば、このランスロット、貴殿の刃として最後まで戦い抜きましょうぞ」
「ああ、よろしく頼むよ。ありがとうな、セイバー」
「貴殿の行く末に後悔のなからん事を」
「…………ああ」

 深い地の底で少女は嗤う。

「ああ、雁夜さん。待っててね。必ず私があなたを助けてあげる」

 無数の蟲が蠢く中で少女はその場に似つかわしくない、まるで夢見る乙女のように微笑んだ。
 彼女の周りでは蟲共に生きたまま捕食される人々の苦痛と恐怖と怨嗟の叫びが響いているにも関わらず、少女はどこまでも幸福そうな表情を浮かべていた。

「桜よ。その辺にしておけ」

 恍惚とした表情を浮かべる桜にしわがれた老人の声が響いた。
 桜は疎ましそうに視線を向けた。
 桜の視線の先に立つ老人――――間桐臓硯は桜では無く、桜によって捕食される人々の骸を見つめていた。

「これほどの数を攫っては、魔術協会、聖堂教会双方が黙っては居らぬぞ」
「関係ありません」

 臓硯の窘める言葉を桜は事も無げに切って捨てた。

「私は私と雁夜さんの未来の為に戦う。誰がどうなろうと、知った事ではありませんわ」
「愚か者が……。分からぬのか? こうまで派手に動けば如何に愚昧な一般人共も異変に気付く。そうなれば、敵はマスターとサーヴァントだけでは無くなるのだぞ」

 脅す様に語る臓硯に桜は馬鹿にした様な視線を向けた。

「ならば、その前に聖杯を得るだけの事。私と雁夜さんの未来を邪魔するというのなら、誰であろうと殺すまで。聖杯という奇跡を使えば、誰であろうと私の邪魔は出来ないわ」
「……ならば事を急ぐ事だ。封印指定の執行者というのはどやつもこやつも化け物揃いじゃ。如何にサーヴァントが二体居ろうとも慢心はまかりならん」
「分かっていますわ、お爺様。魔力の補給が出来次第、再び遠坂に攻め入る。今度はライダーの宝具で屋敷ごと吹き飛ばして見せますわ。あの妙なアサシンももう居ない。アーチャー如き、ライダーとセイバーが同時に攻めれば容易く墜とせますわ」
「……繰り返すが慢心はせぬ事だ。相手も名を馳せた英霊の一角である以上はな。それに、未だ残っているサーヴァントはアーチャーだけではない。キャスターとランサーを降さねば、聖杯は得られぬという事をゆめゆめ忘れるでないぞ」

 そう言い残すと、老人は姿を消した。
 後に残された桜はつまらなそうに呟いた。

「それでも私は負けないもん……」

『先輩も私を助けてくれなかった』

 夢を見た。
 酷い夢だった。
 一人の少女と一人の少年の戦いの夢――――。
 無数の影の獣が蠢く中、黄金のサーヴァントは無数の武器を射出し、蹂躙の限りを尽くし、白銀のサーヴァントは紫のサーヴァントを相手に光眩き剣を振るっている。
 そして、少年は少女と対面していた。
 赤い髪の少年だ。
 彼が誰なのか、凛にはとっくに分かっている。
 これは前に見たアーチャーの――――衛宮士郎の夢の中にあった少女の姉たる遠坂凛が知らねばならない真実だ。
 第五次聖杯戦争が起きたのは第四次聖杯戦争から十年後。
 その間に少女の肉体は余す所無く蹂躙され尽くし、心は惨めに穢され尽くした。
 教育だけでは無い。
 新しく彼女の兄となった少年は彼女を自身の性欲を満たす人形のように扱い、彼女が唯一心許した少年は彼女の求める救いを与えず、彼女が唯一信じていた姉は彼女を見捨てた。
 あまりの恐怖に頭がおかしくなりそうだった。
 十年後の遠坂凛はあろう事か、暴走した十年後の桜をあっさりと殺すと言った。
 たった一人の妹に対して己のサーヴァントを差し向けて殺そうとした。
 高校生の頃のアーチャーも桜を殺す選択をした。
 心を剣の様に硬くして、冷徹な眼差しを桜に向けた。
 白銀のサーヴァントは少年と少女に問うた。

『本当に良いのですか? シロウ。リン』

 黄金のサーヴァントは言った。

『聞くまでもなかろう。アレは倒さねばならぬ害悪だ。そもそも選択の余地など無い』

 害悪。そう切り捨てる黄金のサーヴァントに遠坂凛は何も反応を示さない。
 それが酷く気に入らない。
 何故、怒りを覚えないのだ?
 桜を害悪等と断言する男に反論の一つも出ないのか?
 そう、問わずには居られない。

『どうした? 何か言いた気だな』

 黄金のサーバントが矛先を向けたのはアーチャーだった。
 アーチャーは無表情でまるで能面のようで怖かった。

『別に文句何て無いさ。ただ、桜を殺すのなら俺が……』
『いいえ。それは私の役割よ、士郎』

 言葉を無くした。
 
――――何を言い出すの!?

 そう、叫ばずにはいらなかった。

『あの子は私が始末をつける――――。言うまでもないでしょう。外道に堕ちた魔術師を排斥するのが管理者の務めよ。それが身内だっていうのなら尚更』

――――何が、尚更なの?

 涙が零れ落ちた。
 立派な遠坂の頭首になる。
 そう決めていた。
 だけど、父の魔術師としての側面を見て、己の未来の魔術師の側面を見て、怖気が走る。
 
――――私もこうなるの?

 妹を平気で切り捨てられる冷血な人間になる。
 それがあまりにも恐ろしく、同時に堪らなく嫌だった。
 魔術師として完成されるという事は人間では無くなるという事。
 分かっていた筈なのに、分かっているつもりだったのに、理解っていなかった。
 魔術師とは人間では無い。
 他者に掛ける情けも優しさも持ち合わせない人非人。
 
――――イ、ヤダ……。

 胃から込み上げてくる気持ちの悪い衝動に凛は苦悶の表情を浮かべた。

「イヤアアアアアアアアアア!!!」

 凛は自室のベッドから起き上がると、恐怖に震えながら布団に包まった。
 心配し、声を掛けに来たアーチャーを追い返し、父の声も無視した。
 一人で布団の中に引き籠り、瞼を閉じて視るのは母の最期。
 燃え盛る炎に焼かれる蟲。
 燃やしたのは父で、醜い蟲に変えたのは妹。
 夫と娘に殺された母。

「助けて……、誰か、助けてよ!!」

 凛の叫びは虚しく布団に吸収された。

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