第一話 雨生龍之介がバーサーカーを召喚したせいで大迷惑した人々の話1 今回の被害者:アインツベルン一家、間桐一家

 広大な広さを誇る間桐の家の地下の空間は傍目には水を張った巨大プールのように見える事だろう。その波打つ物の正体を知らぬ限りは……。
 間桐雁夜は蟲の這いずり回る音をBGMに神経を削られるような痛みに苛まされていた。全身を隙間無く埋め尽くす男性の陰茎を模した形の芋虫に既に生理的嫌悪を覚える事すら無くなったのはいつの事だっただろうか。時折、視界の端にその醜悪な姿を曝しては蟲共は雁夜の苦悶を嘲笑しているように雁夜は感じた。
 事実、嘲笑している事だろう。この蟲共……否、雁夜の肉体をこの蟲倉で改造している妖怪――――間桐臓硯は。
 雁夜は一年前までは平凡なサラリーマンとして過ごしていた。古き因習も幼き頃からの恋心も全て、この冬木の地に置き去りにして、異国で只人として生きて来た。その生き方に不満など無く、雁夜は人並みに幸福と不幸を噛み締め生きて来た。その生き方を曲げる事になったのは、丁度一年前の事だ。

 ――――一年前。
 雁夜は久方ぶりにこの冬木の地を訪れた。無論、おぞましき因習と妖怪に支配された実家に帰るつもりなど端から無く、雁夜の目的は別にあった。
 禅城葵。今は遠坂の姓を名乗る彼女に会う為だ。雁夜は幼い頃から彼女の事を愛していた。生憎、彼女の方は雁夜をあくまでも友人としてしか見ず、雁夜の恋心が成就する事は無かった。遠坂家の当主に嫁ぐ彼女に本当にそれでいいのか、と問い掛けた時の彼女の恥しそうな、されど幸せそうな微笑みを見て、雁夜は彼女への恋心を封印した。彼女が選んだのだからきっと、これが正しいのだと、自分の思いを覆い隠して。
 それからはまた、彼女の友人として彼女と接するようになった。彼女の二人の娘にお土産を買って来る事も恒例となり、その日も雁夜はお土産を買って来ていた。大小のガラスビーズで作られた二つのブローチ。

「桜はもういないの」

 感情の抜け落ちた表情で呟く少女の言葉に雁夜は声を無くした。ブローチを受け取るべきもう片方の少女は既に葵の娘ではなくなっていた。
 二人揃って、雁夜に子犬の様にじゃれ付いて来る事も無くなった。遠坂葵の娘、遠坂桜は間桐の家に引き取られた。それが何を意味するのか、雁夜には直ぐに理解出来た。
 間桐の家は土地が合わず、衰退していた。少しずつ、代を重ねる毎に魔術回路は減り続け、兄の息子に至っては、残りかす程度が残っているに過ぎなかった。桜を引き取った間桐の家の真の当主、間桐臓硯の目的は優秀な魔術回路を持つ子供を孕む母胎を得る事だった。
 雁夜が間桐の家に足を踏み入れ、臓硯に問い詰めた時、臓硯に見せられた桜の姿は既に雁夜の知る桜ではなかった。暗く濁った瞳で虚空を見つめ、刻印虫と呼ばれる蟲に処女膜を喰われ、その血を吸われ、全身を嬲られた桜は既に心を閉ざしていた。雁夜は桜を救う為に一年後に迫る聖杯戦争に参戦する事を決意した。その為には聖杯戦争で戦い抜くための力が必要だった。その力を得る為に、雁夜は桜に施された肉体改造を自らも受ける決意を下した。
 全身を苛む痛み、全身を蠢く蟲への生理的嫌悪感、それらは徐々に雁夜の精神を削り続けた。だが、雁夜は耐え抜いた。一年間の苦行の末、雁夜は聖杯戦争で戦い抜く力を手にした。しかし、その代償はあまりにも大きく、髪は色素が抜け、片方の眼孔は死んだ魚のように濁り、その命は聖杯戦争の間保てばいい方だった。

「令呪が宿ったか」

 しわがれた声で妖怪が嘲笑を含んだ笑みを浮べ言う。雁夜にとっては妖怪の嘲笑などどうでもよかった。雁夜の脳裏に浮かぶのは桜を救う一念のみだった。蟲倉に降りる前、桜と会った時、桜はもはや遠坂の姓であった頃の面影は微塵も残っていなかった。度重なる陵辱により瞳は暗く濁り、度重なる肉体改造により髪は間桐の色である青に染まり、彼女は子供らしさというものを完全に失ってしまっていた。
 君を救ってみせる。そう言えたら、どれだけ良かった事かと暗鬱な気分になったが、言える筈が無かった。もはや、桜には僅かな希望の光でさえ、苦痛にしか成り得ない。桜を救えるとすれば、それは雁夜が聖杯を手にし、間桐の鎖から桜を解き放つ事が出来た時以外にあり得ない。

「召喚の呪文は間違いなく覚えてきたであろうな?」

 腐臭の広がる蟲倉に立ち、雁夜は小さく頷いた。ただ、それだけの動きでさえ、体内の蟲共は雁夜に痛みを与える。

「いいじゃろう。だが、その呪文の途中に、もう二節、別の詠唱を差し挟んでもらう」
「どういう事だ?」

 妖怪の陰惨な笑みを称えた言葉に雁夜は胡乱気に尋ねた。

「なに、単純な事じゃ。雁夜よ、貴様の魔術師としての能力は、他のマスターと比べれば些か以上に劣る。それはサーヴァントの能力にも影響を及ぼす事じゃろうて。なれば、サーヴァントのクラスによる補正をもって、パラメーターそのモノを底上げしてやらねばなるまいて」

 召喚呪文のアレンジによるクラスの先決め。本来は召喚するサーヴァントの能力に応じて不可避に決定されるクラスだが、例外が存在する。
 一つはアサシンのサーヴァント。このクラスはハサン・サッバーハという名を襲名した者がランダムに召喚される。
 もう一つは、とある付加要素を許諾する事で召喚する事が出来るクラス。

「雁夜よ、喚び出すサーヴァントに対し、『狂化』の属性を付加せよ」

 それが破滅を呼び起こすモノであると知りながら、臓硯はそれを歓迎するかのように言った。

「お主にはバーサーカーのクラスでサーヴァントを召喚してもらう」

 臓硯は雁夜に付け加えるべき二節を教え、雁夜を刻印虫に描かせた魔法陣の前に立たせた。刻印虫という偽者の魔術回路に雁夜は火を入れる。無論、実際に火を点けるわけではない。云わば、比喩のようなものだ。だが、雁夜の肉体を苛む痛みはそれをただの比喩に留まらせない。その痛みは紛れも無く、全身を炎に炙られるかのようだった。

「閉じよ」

 呪文の詠唱を始めると、借り物の魔術回路達は更に雁夜の体内で暴れ回り、雁夜に苦痛を与えた。頬からは一筋の血が流れ、雁夜はそれでも尚、呪文を唱え続けた。

「閉じよ、閉じよ、閉じよ、閉じよ。繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する」

 竜巻のように魔力の塊たるエーテルが渦を巻き、蟲共は狂乱の如く暴れ回った。脳天を貫く痛みを噛み殺し、更なる呪文を雁夜は紡ぐ。

「――――告げる。汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ。誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者」

 そして、雁夜は紡いだ。臓硯に教えられた狂気の鎖をサーヴァントに絡ませる二節の呪文を。

「されど汝はその眼を混沌に曇らせ侍るべし。汝、狂乱の檻に囚われし者。我はその鎖を手繰る者――」

 魔力の渦はいよいよ広い蟲倉を満たし、強大な力が魔法陣の中心部に溢れ出した。

「汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ!!」

 渦は一際大きく爆ぜ、同時に煌びやかな光を放った。その光景を雁夜はまだ生気の宿る瞳で見つめた。

「馬鹿な」

 臓硯の漏らした言葉に雁夜は己の召喚したサーヴァントを見た。白銀の鎧を身に纏う清廉な気を放つ黒髪の青年が巨大な両刃の剣を手に魔法陣の中心に君臨していた。
 狂乱に曇っている筈の瞳には理性の光が宿り、サーヴァントは雁夜の前に膝を折った。

「サーヴァント・セイバー。召喚に応じ、ここに参上した。貴殿が我が主で宜しいか?」

 1000年の妄執を描くステンドグラスから差し込む光の下、衛宮切嗣は妻であるアイリスフィール・フォン・アインツベルンと共にアインツベルンの当主に謁見していた。
 アハトの通り名で知られる老人。ユーブスタクハイト・フォン・アインツベルンは延命と延齢を繰り返し、既に二百年の歳月を生きている聖杯戦争の始まりから現在に至るまでのアインツベルンを統べて来た老魔術師である。第二次聖杯戦争において聖杯を逃し、第三次では反則技に手を染めながらも大敗を喫したアハト爺は焦りを感じていた。それこそ、外部の魔術師を身内に引き入れるというアインツベルンの歴史と誇りを穢す行為に出る程に。
 衛宮切嗣。魔術師殺しとして悪名を轟かせた逸脱人。魔術師を殺す事に長けるこの男をアハト翁がアインツベルンに引き入れたのは九年前の事だった。

「切嗣よ。かねてよりコーンウォールで探索をさせていた聖遺物が到着した。この品を媒介とすれば、セイバーのサーヴァントとしてはおよそ考えうる限りの最強の英霊の招来が出来よう。これは、そなたに対するアインツベルンからの最大の援助と思うがよい」
「痛み入ります、当主殿」

 切嗣はその手に既に令呪を宿していた。聖杯戦争の参加者としての証であり、召喚したサーヴァントを律する三度限りの絶対命令権。三年前に宿ってから、今に至るまで、褪せた色合いでサーヴァントとの繋がりを待っている。

「アイリスフィールよ。器は大丈夫か?」
「問題ありません。冬木の地においても、問題無く作動する筈です」

 アイリスフィールは己が身の内に秘める聖杯の器を感じながらアハト翁の問い掛けに答える。

「よいか。此度の戦では、ただの一人も残すでないぞ。六人全てを狩り尽くし、必ずや聖杯を持ち帰るのだ」
「御意」

 切嗣とアイリスフィールはアハト翁の窪んだ眼孔から発せられる老人とは思えぬプレッシャーを受けながら頷いた。

「これほどの物を用意するとは、アハト翁もいよいよ本気というわけだな」

 自室に戻ると切嗣はアハト翁より賜った英霊の聖遺物を入念に観察しながら呟いた。1500年も前の物とは思えぬ傷一つ無い美しい姿に感嘆の溜息を吐いた。

「これ自体、一種の概念武装ですもの。時間の流れと共に風化するなんて事はないでしょうね」
「伝承通りとすれば、これは持ち主の傷を癒す力を持っている。召喚した英霊と対で運用すれば、マスターの宝具としても扱えるわけだ」

 切嗣の言葉にアイリスフィールはやや呆れ気味に苦笑した。

「道具はあくまでも道具というわけね。貴方らしいわ」

 切嗣はどこまでも論理的に物事を考える男だ。そこに感情を差し挟む余地は微塵も無く、召喚したサーヴァントも一個の道具として運用する事を考えていた。
 全て遠き理想郷――――、嘗て、ブリテンを治めた王が死後に至ったとされる理想郷。その名を冠した、彼の王の剣の鞘。持ち主をあらゆる傷から護る力を持つとされる宝具。これほどの聖遺物ならば召喚される英霊は確実に目的の英霊と成るだろう。切嗣との相性とは関係無く。
 強力な手札が手に入る事は喜ばしい事だが、それをどう運用するかが切嗣にとっての課題だった。彼の騎士王が召喚されれば、その力はまさに無双と言っていいだろう。それ故に、その存在は否応にも目立ち、宝具の解放も限定される。伝承通りだとすれば、王の剣は一振りで千の軍勢を薙ぎ払う力がある筈だ。そんな物を安易に放てば秘蹟の隠匿を旨とする魔術協会だけではなく、聖堂教会も黙ってはいないだろうし、それだけの宝具ならば使用に必要な魔力の量も桁外れであろう。
 切嗣はファックスから送られてくる協力者が調査した敵対する事になるであろう魔術師達の情報を頭に入れつつ、思考に耽った。そして、愛する妻、アイリスフィールの言葉を受け、彼は一つの考えに至る。

「思いついたよ、アイリ。最強の騎士王を最強のまま運用する方法を」

 切嗣とアイリスフィールは礼拝堂に立った。床には既に召喚の陣が描かれ、祭壇には媒介となる騎士王の宝具が安置されている。

「閉じよ」

 己が魔力が最高に引き出される時間、最高のコンディションでもって、切嗣は召喚に挑んだ。

「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者」

 確かな手応えと共に吹き荒れる魔力の塊であるエーテルの渦に切嗣は笑みを零した。

「汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ」

 光が膨れ上がり、巨大な力の塊に圧され、よろめきそうになりながら切嗣は光の中に強大な力を持つ存在を感じた。
 光は大きく弾け、瞬時に消え去った。そして、魔法陣の上に立つ者の姿に切嗣は眼を瞠った。アイリスフィールもまた、その出で立ちに戸惑いを感じた。

「これは……」
「サーヴァント・キャスター。聖杯の寄るべに従いて、今ここに降臨した」

 その装束は騎士の出で立ちとは思えなかった。それどころか、騎士王は男である筈にも関らず、召喚された英霊は男では無かった。
 燃える様な赤い髪を靡かせ、豪奢なドレスに身を包んだ人間離れした圧倒的な美貌を持つ女が魔法陣の上に君臨していた。

「問いましょう。今世に置き、この妾を召喚せしめる者、汝、何者であるか?」

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。