第十七話『復讐者』

魔法生徒ネギま! 第十七話『復讐者』

 白銀の閃光が暴れ狂う。獰猛な獣の唸り声と殺気が迸り、空間を支配していた。黄金に輝く縦に切れた眼光が真っ直ぐに漆黒の老紳士を貫く。

「“人狼(ウェアウルフ)”――。狗神との憑依率を最大まで上げたか。同種の――犬は犬の、馬は馬の、そして……人間はヒトの霊魂を憑依させるがシャーマニズムの常道。その常道を破り、畜生の霊魂を憑依させた者は肉体をも変化させると聞く。なるほど――」

 ヘルマンは興味深げに小太郎の白銀に輝く肢体を見つめた。小太郎の殺気も視線もまるで意に介さず、ヘルマンは口の端を吊り上げた。

「しかし不可解だな。君はネギ・スプリングフィールドと出会ったのは今夜が初めての筈だろう? 何故、そうまでして護ろうとする? 惚れたのかね?」

 不愉快な笑みを浮べるヘルマンに、小太郎は鼻で笑って返した。

「アホ抜かすなや。ワイはワイの信念で動いとるだけや。それに――ワイの故郷も昔滅ぼされた」

 その言葉に、蹲ったままのネギの体が僅かに震えた。カモが駆け寄り、必死に結界を展開するが、あまり効果があるようには見えない。それでも、カモに出来るのはそれだけだった。

「それで同情したのかね? 浅はかだな少年、君のソレは自己満足に他ならないぞ」

 見下すように宣言するヘルマンに、小太郎は不適な笑みで返した。

「ワイの村を滅ぼしたんは、俺の師匠や。裏切って、けったいな連中とつるみよった。ワイの里で生き残ったんはワイだけやった……せやけどな、ワイは自分を責めへん」
「自分一人が生き残った事に罪悪感は無いのかね?」
「んなもんあらへん。ただ、ワイは誓った。必ずあの裏切り者をこの手でぶちのめす。そんで、死んでいった奴等の分まで生きる。それが、ワイの責任の取り方や――」

 小太郎はヘルマンに顔を向けたままで叫んだ。

「ネギッ! お前はどうなんや?」

 小太郎の怒声にも近い叫びに、ネギの体が震えた。顔を上げたネギの顔は水牢の水が滴っているが、その瞳からは水では無いナニカが止め処なく溢れている。
 グシャグシャな表情で、口を開くが、言葉が何も出なかった。空気の抜ける様な音がするばかりだった。

「姉貴……」

 カモはその姿を辛そうに見つめたが、顔を逸らさなかった。一番近いモノとして、ネギが大いなる一歩を踏み出すのを見届ける責務があると悟ったからだ。カモは、ネギが過去の事を悲しく思っているだろうと思っていた。それでも、ここまで狂気に落ちてしまう程辛い思いをしていたとは分からなかった。何かを言いたい。その願いを、胸の奥底に押さえ込む。

「立ち止まるのは簡単や。忘れるのも、顔を背けるのも、責任を転嫁させんのも――せやけどな、自分の責任からは目を逸らすな!」

 小太郎の言葉が、ネギの胸に深く突き刺さった。逃れようとした“責任(罪)”を目の前に突きつけられた様な気持ちだった。僅かに震える様に、ネギは懸命に唇を動かすが、喉から声の元となるモノが上ってこない。
 ヘルマンはその様子を興味深げに見つめていた。

「お前は生き残ったんか? ちゃうやろ、お前は生かされたんやろ?」

 その言葉にネギの目が見開かれた。

「ワイはな、お前の事情なんか知らん!」
「自信を持って断言する事かね?」

 半ば呆れた様な口調でヘルマンが言うが、小太郎は無視した。

「せやけど、ワイにも分かる事があるんや。自分を責めて自己満足に浸ってんのはただの逃げと同じなんや!」

 なんつう言い草だ。ヘルマンとカモの心が僅かに通じ合った。仮にも女の子と思っている相手に対して言う言葉としては遠慮とか優しさとかが決定的に欠けていた。
 それでも、ネギは顔を上げて小太郎の背中をジッと見続けた。自分と同じ故郷を失ったという少年の背中を――。

「生かされたなら、生かしてくれた奴等に感謝しろ! そんで、前を向いて自分のやらなあかん事をしっかり自分で見つけろ!」

 小太郎は目を細め、右手をゴキゴキと鳴らし細く息を吸う。

「結局お前は何も始まってなかったんや。せやから、いい加減、始めたらどうや? お前の、お前自身の物語って奴を! ワイも千草の姉ちゃんに導いてもらった。せやから、お前が前に踏み出す障害があるなら――ワイが取り除いたる!!」
「やれやれ、古き良き物語の一節の様だ。だが少年、君の立ち向かうべき障害は途方も無く高い壁だぞ?」

 ヘルマンは先程のサディスティックな表情から一変し、穏やかな、それでいて愉快そうな笑みを浮べながら小太郎を真っ直ぐに見つめていた。

「ハッ! 壁は壊すもんや。それにな、最初に言ったやろ? 女に手ぇ出して、その上泣かせる様な奴にワイは負けへん。それにな、千鶴の姉ちゃんも返してもらわなあかんねん。この右手の拳でテメエを倒す!」
「好き勝手言ってくれるね……。私の事全然知らないで――」

 小太郎は一瞬目を見開くと、ヘッと笑みを浮べた。袖で顔を拭い、肌に張り付いた髪を右手で抓む様に丁寧に剥がし、ネギが杖を持って立ち上がった。

「会ったばっかなんや。最初からなんもかんも知っとったらそっちの方が不気味や」
「そうだね……」

 アハハと微かに笑い声を上げながらネギが答えた。

「聞いてもいいかな?」
「なんや?」
「小太郎君は見つけたの? 自分の道を――」

 小太郎は頷いた。

「俺はあの裏切り者をぶっ倒す!」
「あれだけ言った後に結論が復讐なのかね?」
とヘルマン。

「矛盾してんぞおい……」
とカモ。

「全然後ろ向きじゃない……」
とネギがそれぞれ呆れた様に言った。

「うっさいわ。最後まで聞かんかい! そんで、ぶっ倒したら狗神を後世に伝えるんや!」
「でも結局復讐はするんだな……」

 カモの言葉に、小太郎は視線を泳がせる。

「こういう時は相手を許すという結論に至るのが常道というモノでは無いのかね?」
「んなもんはどっかの聖人君主にでも任せたらええねん! やったらやり返す! それの何が悪いんや!」
「酷でぇ!? ちょっと良い事言うなと思った俺が馬鹿みたいじゃねえか!」

 小太郎のあまりの言い草にカモは頭を抱えて怒鳴り散らした。

「ワイが言いたいんは、只立ち止まってウジウジすんなって事やねん! 何でもええ、前に進む! それだけでええねん!」
「常道で言うならば、復讐等という事はきっと死んでいった人達は望んでいないと思うが?」

 完全な棒読みでヘルマンが尤もらしい事を言った。

「んなもん関係あらへん! これはワイの我侭や、それでも押し通す。一度決めたんや。例えそれが馬鹿な事だとしても、ワイは止めへん!」
「…………………」

 さっきまでの説教は何だったんだ? そう突っ込みたくなるが、突っ込んでも疲れるだけな気がしてカモは溜息を吐いた。すると、突然辺りに笑い声が響いた。楽しげな、暖かい笑い声だった。

「姉貴?」

 カモはお腹を抱えて笑っているネギに心配そうに声を掛けた。おかしくなってしまったのか? 一瞬そんな考えが過ぎったが首を振ってその馬鹿な考えをかなぐり捨てた。

「もう何だよ。あんなに私に好き勝手言う癖に自分は我侭ばっかり……」

 不満そうな言葉使いだが、ネギは僅かに潤んだ瞳を右手の人差し指で拭いながら晴れやかな笑みを浮べていた。

「何だか、ウジウジ考えてた私が馬鹿みたいじゃん」
「へ、我侭上等! ウジウジ悩むのはもう止めたんか?」

 可愛らしく頬を膨らませて不満を言うネギに、小太郎は片目を閉じて唇の端を吊り上げながら尋ねた。

「分かってて聞いてるなら意地悪だよ?」
「なら、下がっときや。お前の大事な一歩はワイが踏み出させたる」

 小太郎の言葉に、ネギは首を振った。口に笑みを浮べたまま――杖を構えて、ネギは小太郎の横に立った。

「私は自分の足で踏み出すよ。でも、やっぱり、一人だと自信が無いかな」

 その言葉に、小太郎はニヤリと笑みを浮べる。

「なら、ワイが手助けしたる。戦うで、ネギ!」
「うん、一緒に戦おう、“小太郎”!」
「漸く、呼び捨てにしたな。なら、締めて掛かんねえとあかんな!」

 二人の姿を見ながら、ヘルマンは黒いハットを顔を隠すように押えた。

「少年――。いや、犬上小太郎。ネギ・スプリングフィールドの戦意を復活させた。ここまでの事を考えての言葉だったのか? そうだとすれば……実に興味深い!」

 ヘルマンは唇の端を歪めた。心底楽しそうな笑みを浮かべ、右手で帽子を押えたまま左腕を大きく広げた。

「悪魔としどうかとは思うが、ネギ君、君を壊そうとした時よりも……、こうして君が過去を乗り越え再び私に牙を向けた。この状況が、先程の数段も楽しいと感じているよ。さあ、来たまえ。乗り越えて見せるがいい、だがここからは私も全開だ。油断無く、躊躇いも無く、君達を殺しに掛かる。だからこそ、決死を賭して挑むが良い!」
「言われるまでもねえ。こっからが、本当に最後の戦いや……ってあれ?」

 瞬間、先程まで空間を埋め尽くしていた白銀の輝きが消え去った。小太郎は目をパチクリとさせている。ネギとヘルマンは硬直し、カモは
「は?」
と間抜けな声を発した。
 小太郎の獣化が解けてしまっていた。

「えっと……小太郎?」

 ネギが恐る恐るといった様子で声を掛けると、小太郎はダラダラと汗を流した。

「タ……」
「た?」

 ネギが小首を傾げる。

「タイムオーバーや。憑依術式に使える魔力……、使い切ってもうた」
「はい!?」

 ネギだけでなく、カモやヘルマンまでもが硬直した。

「ま、待ちたまえ! 今、私か~な~り、かっこいい台詞を言ったんだぞ? これからクライマックスの戦いが始まるのだぞ!? どういうつもりだ少年!」

 ヘルマンはやり場の無い憤りを感じて柄にも無く叫んだ。

「じゃかあしいわヴォケ! 大体、お前らがいらん事ゴチャゴチャ抜かすさかい、余計な時間喰っちまったんやないかい!」
「って、どうすんだよ!? 何か切り札出したから勝てるかな? とか思ったのに!?」

 カモの悲痛な叫びが木霊する。

「知るか! 大体、本当ならもう少し獣化し続けられる筈やったんやで!? それやのになんや力は制限されるし魔力の消費は激しいし……」

 その瞬間、小太郎とヘルマンとカモの一人と一体と一匹は気が付いた。学園結界だ~~~~!! と心の中で叫んだ。
 犬上小太郎は侵入者であり、幾らネギと共闘していても結局は侵入者なのだ。力が制限されているのだ。その上、獣化というパワーアップによって世界樹が小太郎を危険視し、魔力の消費量を増加させたのだ。
 悪魔であるヘルマンならばそんなに変らないだろうが、人間の子供である小太郎の魔力は勢い良く消失してしまったのだ。

「何でお前は侵入者なんだ!?」
「侵入したからや!」

 カモの悲鳴にも近い叫びに、小太郎もギャーギャーと喚き返した。万事休す――そう思った時、ネギが口を開いた。
 瞬間、ネギの表情に小太郎は顔が熱くなるのを感じた。カモは直後にネギの口から出る言葉に途方も無く嫌な予感がした。顔を赤らめ、若干俯きながら僅かに潤んだ瞳で上目遣いに少しモジモジした動作でネギが小太郎に顔を向けた。
 な、何やこの気持ち!? 未だ嘗て感じた事の無い胸の鼓動に、小太郎は戸惑いが隠せなかった。水牢の水でシットリ塗れた真紅の髪がどこか艶やかさを演出している。睫にも雫が付着していて、それが余計に蠱惑的であった。更に最悪だったのは――水に塗れた制服が僅かに透けてしまっていたのだ。
 幸いだったのかは分からないが、その日はキチンとブラジャーをしていたので最悪に最悪を重ねる事は無かった。薄っすらと透けた制服に映ったのは、あの日に刹那が選んだ少し子供っぽいピンク色のリボンが付いたブラジャーだった。
 小太郎は中学一年生に上がったばかりだ。アダルトな下着を見ても、エロを感じる事は無い。どちらかと言えば、育ててくれた千草がよく関西呪術協会の呪術師達が寝泊りする寮で暮らしていた時、平気で下着姿で闊歩し、その時に大体黒や赤という小太郎にとっては趣味が悪いとも思える下着を身に付けており、むしろネギがそういうのを身に着けていたなら冷静さを取り戻せたかもしれないが、ネギの身に着けていた子供っぽい下着が、逆に小太郎の中のナニカに触れた。頭の中が沸騰したかの様に熱くなる。ネギはそれに気が付いていないらしく、モジモジしながらも全く下着を隠していなかった。

「その、私と小太郎が仮契約すれば、小太郎も学園の人間として認められるんじゃないかな? それに、魔力も私から回せば……」

 段々小さくなっていくネギの言葉に、カモは真っ白になった。元から白い毛皮が青白くさえ見える。茫然自失し、カモの瞳にナニカが溢れた。
 俺っちを罠から外してくれた兄貴、俺っちと一緒にお風呂に入って一緒に遊んだ兄貴、俺っちにご飯を食べさせてくれた兄貴、ネカネの姉さんの下着を掻っ攫った時に鬼神の様に怒り狂ったネカネの姉さんを静めてくれた兄貴…………ああ、ネカネの姉さんやアーニャに何て言えば…………。いやいや、未だだ。諦めたらそこで終わりなんだ――。そうだ、ちょっと仮契約するだけじゃないか。落ち着け、落ち着くんだ俺! そうだ、相手はほんのガキじゃないか! そうだぜ、何考えてるんだ俺は。大体、姉貴は今は姉貴だけど本当は兄貴なんだ。そうだ、そんな馬鹿な事ある筈が無い。そうだ! そうだとも! 将来黒髪の女の子や赤髪で犬耳な男の子と一緒に野原を駆け回る想像なんてする必要無いんだ!  と僅か一秒の間にそれだけの思考を巡らせると、カモは一言呟いた。

「――――信じやすからね?」

 その言葉が、どうしてかネギに転校初日のアスナの顔を思い出させた。

「う、うん……?」

 カモがチラリとヘルマンに視線を向けると、どこか遠い目をしながら、

「思春期……、いや敢えて濁して言うならば青春の煌きというものか、些か眩しいものがあるな」

 訳の分からない事を言っていた。

「てか、いいのかよ? さっき全開で行くとか言ってたのに」

 カモが何ともなしに聞くが、直ぐに馬鹿な事を聞いたと頭を抱えた。気紛れで待ってくれているのだとしたら、態々自分からそのチャンスを棒に振るなど愚かにも程がある。

「別に構わぬよ。私の勝利は揺るがぬし――」

 それは、紛れもない事実を述べている口調だった。

「私としてはネギ君と小太郎君の実力の全てを見てみたいと願っているのでね。都合良く、我が主殿はコチラへの監視を出来ぬ状況のようだしね」
「何?」

 カモはヘルマンの言葉に怪訝な表情を浮べた。

「エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルが思いの他抵抗しているようだな。封印されてはいても、さすがは闇の福音と謳われるだけはある」
「随分な余裕じゃねえか、自分の主が危機に陥ってるってのによ?」

 地面にチョークで魔法陣を描きながらカモは不審げにヘルマンを睨んだ。

「なに、我が主が負ける事は有り得ぬさ」
「エヴァンジェリンさんは負けません!」

 それまで黙っていたネギが叫んだ。エヴァンジェリンの強さを身を持って知っているネギは、キッとヘルマンを睨みつけた。

「って、小太郎何してるの?」

 何故かネギの前でネギの体を隠す様に両手を広げている小太郎を不審げに見た。

「気にすんな」
「そ、そう……」

 小太郎の謎の行動に空気が弛緩し、カモはさっさと魔法陣を描き終えた。

「えっと、綴りの間違いは無しと。マスターを姉貴に、犬ッコロは従者と……よし! 準備出来やしたぜ姉貴!」

 カモの言葉に、心臓が大きく跳ねた。

「ってか、仮契約って何やねん?」
「……………………」

 今更過ぎる質問にネギはガックリと肩を落とした。瞬間、ネギはハッとなった。

「えっと、これから仮契約する訳で……」

 チラリと小太郎に視線を向けると頬が熱くなり、頭が沸騰したように茹った。

「えっと……、あれ? 何するんだっけ? あれ? 私何してるんだっけ……?」

 世界が歪んで見える。足元がフラつき、体がよろめいた。

「危ね!? 何してんねん自分?」
「な、何でもないよ」

 抱き抱えられる様に小太郎に助けられ、ネギは訳の分からない感情に困惑した。その二人の姿に、ヘルマンは一人
「これもまた常道というモノだな。正解だ、少年。しかし……緊張感が続かないものだな。未だ若い、状況判断が甘いな。摘み取るのは惜しい気もするが――さて……」
と小さな声で呟きながら、目を細めた。

「しかし……敢えて未来の光を闇に塗り潰すのもまた面白い――」

 ヘルマンは愉悦を含んだ笑みを漏らしながら、未来を背負う二人の“子供”を見つめた。

「あの者が傍に居る限り心配は無いが、長いな……」

 ヘルマンは遠くを見据えながら、帽子を深くかぶり直した。

「三度目の恋か。ランの少女に恋し、少女ビヨンデッタとなりファウストへ愛を捧げた人を愛する悪魔よ」

 ヘルマンはチラリと顔を赤くしながら魔法陣に入るネギと、仮契約の説明を受けながら困惑している小太郎を見た。

「うむ、恋とは素晴らしいモノだ。その強き思いを退けられるかね? 闇の福音よ」

 ヘルマンは自嘲を漏らした。

「それは、私にも言えた事か。どれだけの力の差があろうとも、覆すのは常に思いの強さ。悪意であれ、好意であれ、その思いの強さこそが運命を分ける。少し、昔を思い出すな」

 夜闇を見上げながら、ヘルマンは光り輝く閃光を視界の隅に感じた。

「さて、漸くだ、ネギ・スプリングフィールド君。犬上小太郎君。今度こそ死合おうではないか。改めて名乗ろう、我が名はヴィルヘルムヨーゼフ・フォンへルマン。伯爵クラスの悪魔也!」

 漆黒のハットを押えながら、ヘルマンは高らかに宣言した。今宵、最後の戦いの幕開けを――。

 同時刻、麻帆良学園本校女子中等学校の学生寮から校舎までを繋ぐ道に衝撃が走った。フィオナと名乗った少女の放った漆黒の魔弾をエヴァンジェリンは受け止めていたが、その表情は優れない。ただでさえ、既に夜の警備で魔力を消費していたのだ。既にフィオナの攻撃をまともに喰らい、額から血を流している。満月のおかげで若干魔力が回復しているが、封印のおかげで力が出し切れずにエヴァンジェリンの体はよろめいた。

「エヴァちゃん!」

 明日菜が思わず駆け寄るが、エヴァンジェリンは片手で明日菜を制した。

「来るな――。お前達は寮に戻れ。今夜は殲滅戦の令が出された。刹那、お前は16歳以下だ、拒否できる。万が一の事を考えて木乃香の下へ帰っておけ」
「しかし――ッ!」

 刹那は殲滅戦の命令を念話で聞いていた。その理由――現在、麻帆良全域で戦闘が起きている事も知っていた。本当ならば木乃香の下に一も二も無く駆けつけるべきだと理解しているしそうしたいと思っている。それでも、この状況でエヴァンジェリンを一人残す事――それがどういう事かを考えた時、刹那の足が止まった。

「行って、刹那さん」
「明日菜……さん?」

 口を開いたのは明日菜だった。

「私は残る。けど、刹那さんは木乃香を護って!」

 明日菜の言葉に、エヴァンジェリンが舌打ちをした。

「お前もだ神楽坂明日菜。どちらにせよ足手纏いになる。残った所で邪魔になるだけだ――」
「――申し訳ありません。エヴァンジェリンさんの事は貴女に――。ですが、決して無理はしないよう」

 そう言って刹那は走り去って行った。本当は残すべきでは無いだろう。理性では分かっていたが、一方で、アスナを説得など出来ないと深い所で理解していた。
 それに、明日菜の実力は並では無い。明日菜の意思を尊重すべきだろう――刹那は即座に判断を下したのだ。例えここで自分と共に一端引いたとしても、必ず彼女は戦場に戻ってしまうだろうから。神楽坂明日菜という少女はそういう人だから。

「任されたっ!」

 ニッと笑みを浮べながら、明日菜は体に異常が無いかを確かめた。腕が捩れ、血だらけになっていた刹那程では無いが、明日菜も地面に何度も叩きつけられ、常人ならば数度は死んでいただろうダメージを受けていたのだ。
 殆どのダメージはアーティファクトの甲冑が軽減したが、それでも体中がズキズキしている。それでも、それをおくびにも出さずに神楽坂明日菜はハマノツルギを片手にエヴァンジェリンを護る様に前に足を踏み出す。

「って、話を聞かんか!」

 明日菜の甲冑の布部分を掴んで引っ張りながらエヴァンジェリンが怒鳴る。

「痛った~~~~~!?」
「ほれ見ろ言わん事ではない。貴様は素人なのだから引っ込んでいろ! 立ち上がるのもやっとなんだろ実は!」

 エヴァンジェリンが髪を逆立てながら怒鳴るが、明日菜はニャハハ~と笑みを浮かべる。

「でも、エヴァちゃん一人で戦わせられないでしょ? やっぱ――」
「何故だ、貴様には関係無い! むしろ邪魔だ、どっか行け!」
「酷ッ!?」
「五月蝿い、さっさと失せろ! 邪魔だしうざいし目障りだ」
「ちょっ!? 友達にその言い草は無いでしょ!?」
「誰が友達だ、誰が!? 貴様とは友達になった覚えは無い!」
「貴様とはって事はやっぱネギの事友達だって思ってるんだ~」
「なっ!? 五月蝿いぞ貴様! 大体状況が分かっているのか!? 下手したら死ぬんだぞ!? 幾ら万年ドベの馬鹿レンジャーを率いるリーダー、バカレッドだとしてもそのくらい理解出来る知性はあるだろ、無いのか? そこまで馬鹿なのか!?」

 徐々にエヴァンジェリンの怒鳴り声と内容に明日菜の目が涙目になっていく。

「うにゃ~~~! そこまで言わなくてもいいでしょ!? 馬鹿って言った方が馬鹿だもん!エヴァちゃんの馬鹿~~~~!!」
「小学生(ガキ)か貴様、頭だけでなく精神年齢も小学生並なのか? ならばそれこそサッサと帰れ! 子供は寝る時間だぞ!」
「未だ八時だし、私小学生じゃないし!」
「一緒だ馬鹿者! さっさと帰れ、馬鹿!」
「うっ…………」
「う?」

 エヴァンジェリンはその時になって漸く明日菜の様子がおかしい事に気がついた。肩が振るえ、唇が震えている。

「ど、どうした?」

 恐る恐るエヴァンジェリンは声をかけて我に返った。

「って、何してるんだ私は! 敵との交戦中だぞ!」

 そこで気が付いた。何故か敵の攻撃が来ない事に――。不信に思い顔をフィオナに向けようとすると。

「うえ~~~~~~~~ん!! そんなに馬鹿馬鹿言わなくてもいいじゃない!! 私だって好きで馬鹿な訳じゃないもん!! エヴァちゃんの馬鹿~~~~~!!」

 明日菜が泣き出した。盛大に声を張り上げて――。

「…………え? マジ泣きか!? え、私のせいなのか? だって、お前いつも学校で馬鹿馬鹿言われてたじゃ……実は気にしてましたとかそういうオチなのか!?」

 気を引き締めようとした矢先に明日菜が本気で泣き始め、エヴァンジェリンは目を見開いてアタフタし始めた。すると、辺りに笑い声が響き渡った。

「は?」

 エヴァンジェリンが笑い声の主を探すと、驚いた事にその声はフィオナのモノだった。清らかな川のせせらぎの様に美しい声色で――。

「何がおかしい!?」

 段々恥しくなり、エヴァンジェリンが怒鳴ると、フィオナは笑い声を止めてエヴァンジェリンに顔を向けた。
 直後、エヴァンジェリンの視界からフィオナの姿が消えた。凍るほど冷たく、細い鋭利な感触が喉を滑る。僅かな痛みと、僅かな液体の流れる感触に、今漸く何をされているのかを理解した。背後から蕩ける様な甘い声が響く――。

「――おかしいもん。だって、私から大切な人を奪った貴女が大切な人と戯れている姿を見れるなんて、ちゃんちゃらおかしいもの」

 心臓が破裂するかと思った。喉がカラカラに渇く。そんな感情は既に無くした筈だ。違う、隠していただけだ。長い平穏な時間と、自分を友達と――、一人の人間として扱ってくれた者と出会った事で、忘れていた。

「ヤメロ」
「何を?」

 吐き出す様に――懇願する様に呟く。それを、フィオナは楽しそうに首を傾げてみせる。

「ソイツは関係無い、帰してやれ……」

 呼吸の仕方を忘れたかの様に、肺に酸素が届かず、脳が酸欠を起して視界がチカチカと明滅する。

「だって、これで貴女にも分かって貰えるでしょ? 大切な人が殺される気持ちが――」

 その言葉で、エヴァンジェリンの思考が再開された。今更偽善を気取るつもりも無いが、だからと言って神楽坂明日菜(自分を友達と言って護ろうとしてくれた者)を殺させていい通りは無い。
 自分は間違い無く“悪”であり、それを否定するつもりは無い。殺されようが仕方ない。それだけの事をしてきた。だが、黙って殺されるつもりは無い。向かってくるならば構わない――歓迎してやる。只、返り討ちにしてやる。
 自分は“悪”だ。否定のしようも無い程に。だからどうした、悪が誰かを護ってはいけないなんてルールは存在しない。エヴァンジェリンは魔力を掌に集中させた。

「ソイツに手を出すな!」

 直後に、エヴァンジェリンの視界に鮮血の花が舞った。エヴァンジェリンの瞳がこれ以上なく見開かれる。

「あ、ああ……」

 真っ赤な視界。

「嘘だ……」

 彼女の笑顔が過ぎった。そんな事があっていいのか? 肉片がエヴァンジェリンの頬に付着した。飛び散った血潮がエヴァンジェリンの服にこびり付いた。
 フィオナの姿は無い。視界の中で一つのオブジェがゆっくりと大地に倒れ伏した。呼吸が止まる。心臓が痛い程に弾み、なのに体中の体温が低下した。

「私は……何をしているんだ?」

 “神楽坂明日菜”の体から血が噴出している。呆然としながら、エヴァンジェリンは明日菜に歩み寄った。

「おい、神楽坂明日菜……?」

 震えながら声を掛けるが、明日菜は返事を返さない。当然だ。肩から腰に掛けて斜めに三つの溝が体に刻まれているのだから。生きている筈が無い。魔法使いならば或いは生き延びる事が出来たかもしれないが、素人である神楽坂明日菜が、これほどの怪我を負い生き延びる事など出来る筈も無い。内臓が破壊されているかもしれない。ショック死かもしれない。分かるのは――神楽坂明日菜が呼吸を停止させているという事実のみ。

「貴様アアアアアアアアアアアアアア!!」

 エヴァンジェリンは怒りのままに吼え、集中していた魔力を怒りに任せてフィオナ・アンダースンに向けて放った。闇の魔力が篭められたソレは、されどフィオナ・アンダースンには届かなかった。

「アハッ! 泣いてるの? 散々皆にそういう思いをさせてたのに泣けるんだぁ。そんな感情無いと思ってたよ」

 愉快そうに笑みを浮べながら言うフィオナの言葉に、エヴァンジェリンは歯が砕けんばかりに歯を噛み締めた。

「黙れ……」
「アハハハハハ! その娘が本当に大切だったんだね。おっかしい、六百年も生きたのに一人が嫌だったの? でも、その娘が死んだの誰のせい? 私のせい? でもさあ――」
「黙れエエエエエエエエエ!!」
「貴女がその娘と関りなんて持たなければ、その娘は死ななくて済んだんじゃないかな?」

 笑みを浮べながら言うフィオナの言葉がエヴァンジェリンに重く圧し掛かった。理解している。そもそも、神楽坂明日菜がコチラ側を知ってしまった原因を作ったのも自分だ。
 限界だった――。瞬間、エヴァンジェリンの居た場所が爆発した。

「絶望を抱えて――死んじゃえ」

 笑みを絶やさずにフィオナは呟いた。その掌には魔力の残滓が残っている。

「お前がな――」
「え?」

 フィオナが振り向いた瞬間、エヴァンジェリンの右手から鋭く伸びた真紅の爪がフィオナの修道服を僅かに切り裂いた。

「驚いた。未だそんな力が残ってたんだ~。でも――」

 瞬間、フィオナの姿は消え、エヴァンジェリンの背後に漆黒の爪が伸びた。

「見えているぞ――」

 フィオナの漆黒の爪撃は空を切った。直後、上空から氷の魔弾が降り注ぐ。苦悶の表情を浮べながら、氷の魔弾を放ったエヴァンジェリンの背後に、フィオナが回りこみその右手には漆黒の魔力が宿っている。
 舌打ちしながらエヴァンジェリンは虚空瞬動で地面に墜落する様に急ぎ、地面に着いた瞬間に三回地面を蹴りフィオナから距離を取った。

「驚いちゃったぁ。意外と頑張るね。封印されてるのに、そんなにその娘が大事だった?」

 その言葉に、エヴァンジェリンは視線だけで並の者ならば殺せる程の殺意を篭めた眼差しをフィオナに向けた。

「さあな、私は悪の魔法使いだ。そんな感情など無いさ」
「どうかなぁ。今の貴女、きっと私と同じ思いなんじゃないかな? なら、私の思いを分かってくれるよね? それなら、黙って私に殺されるのが筋じゃない?」

 フィオナの言葉を鼻で笑い飛ばし、エヴァンジェリンは残る全ての魔力を集中し、持っているだけの魔法薬を取り出した。

「寝言は寝て言え。見せてやる――、闇の福音と謳われた私の真の力をな!」
「真の力? 封印されてるのにまだ何か出来るの?」

 嘲笑うかの様なフィオナの視線を受けながら、エヴァンジェリンは目を細めた。

「見るがいい。リク・ラク・ラ・ラック・ライラック……」

 エヴァンジェリンは魔法薬を全て虚空に放った。

「我が魔力の全てを掛けて……、貴様を殺す。来たれ氷精、闇の精。闇を従え吹けよ常夜の吹雪。『闇の吹雪』。術式固定――掌握」
「自分の魔法を……自分に向けてる?」

 フィオナはエヴァンジェリンの行動を呆然としながら見た。エヴァンジェリンは自分の体を抱き締める様にしながら魔法の力を自分に向けて放っているのだ。

「魔力充填――これが、私が作り上げた秘技だ。『術式兵装・闇雪暗氷』」
「へぇ、面白そう――」

 そう言った瞬間に、フィオナの漆黒の爪撃がエヴァンジェリンを切り裂き、エヴァンジェリンの体は陽炎の様に揺らめいた。

「え?」
「“闇の魔法(マギアエレベア)”。自身の体に取り込んだ魔法の属性の特性を得る。闇は捕らえられんぞ?」

 フィオナは目を見開いた。漆黒の魔力を集中し、エヴァンジェリンに放つがエヴァンジェリンの姿は再び陽炎の様になり空気に溶ける様に消え去った。

「全開状態なら使っても意味は無い。封印状態で使えば命を危険に曝す――。だから久しく使っていなかったが……」

 エヴァンジェリンは歯噛みした。

「やはり今の状態ではキツイか……」

 コフッと血の塊が口の中まで込み上げてきた。エヴァンジェリンはペッと吐き出すと、風邪の時の様な体の痛みを感じた。骨がガチガチに固まっている様な鈍い変な痛みだ。頭がガンガンと痛む。体の中に取り込まれた“『闇の吹雪』”の凶暴な魔法の力がエヴァンジェリンの体の中で暴れ狂っている。

「封印云々以前に衰えている……。力を使わな過ぎたな――」

 別荘でならば力を振るえるが、態々毎日の鍛錬などしていない。生死を掛けた戦いを繰り返していた数百年の経験が、わずか十数年でこうまで衰えるものなのか、エヴァンジェリンは自嘲する様に俯き気に笑みを浮べた。

「アハ……アハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!」

 フィオナの狂った様な笑い声が響き渡る。

「凄いね。そんなに大事だったの、あの女の子が?」
「さてな――。別に、深い繋がりがあった訳じゃないさ。ただ、戦って……妙に馴れ馴れしくして来て、私の事を友達なんぞとほざいて……貴様が殺した」
「――――ッ!?」

 瞬間、フィオナの立っていた場所に巨大な氷柱が現れていた。

「氷の属性の特性は捕獲だ。これで――」
「これで何?」
「――――ッ!?」

 フィオナの声は地面から遠く離れた上空から響いた。漆黒の一対二枚の翼をはためかせている。爛々と真紅の瞳を輝かせ、エヴァンジェリンを冷たく見下ろしている。その唇に笑みを浮べながら――。

「うん、やっぱり貴女は私の手で殺したい」

 そう呟くと、フィオナはゆっくりと高度を下げて地面に降り立った。

「悪いが――」

 瞬間、エヴァンジェリンの姿が掻き消えた。

「あまり時間が無いのでな。これで終わりにする――」

 エヴァンジェリンの氷の凶刃がフィオナの首を掠めた。

「うん、このくらいやってくれなきゃね。これはあの人の仇討ちだから――、簡単に殺しちゃったらつまらないもん」

 ゾッとする。フィオナの首筋には一筋に真っ赤な鮮血が零れている。首に氷刃が当ってから一瞬で背後に回った。その移動を知覚出来なかったのだ。

「変だとは思っていたが……“空間転移”か?」

 早過ぎる移動速度に、エヴァンジェリンはそう見当をつけた。よく、目にも留まらぬ速度と呼ばれるモノがあるが、それでも限度がある。どう考えても一瞬――、一秒以下で数百mの移動など在り得ない。
 万が一出来たとしても、人間一人分の質量がそんな移動をしたら体そのモノが粉砕するし、魔法で強化されていたとしても、周囲の状態が何とも無いなど在り得ない。魔法の話に物理法則を持ち出すのは無粋の極みだが、それでも地球上で行動する限り、世界の法則は付いて回る。
 それを覆すのが魔法だが、一々地面を破壊させない術式や、一瞬で爆発的な速度を出す術式、急停止する術式など、一々発動していては魔力の無駄遣いでしかない。
 ある一定以上の速度は出せても出さないのが常識だ。思考速度が追いつかずに行動も単調になるし、そういった一々術式を発動するという手間も掛かる。
 いくら悪魔の力が使えても、細かい術式を連続で発動させる必要性も見当たらない。そこから導き出したのは、空間転移だ。一瞬で遠くの場所に移動しても、周囲の状況に変化は起きないし、細かな術式も特に必要ない。

「だが、媒介はなんだ?」

 そう尋ねずにはいられなかった。“空間転移(テレポーテーション)”は通常媒介が必要だ。エヴァンジェリンも影を媒介に使う事が出来る。他にも水や炎や光や血――最近では、“互聯網(インターネット)”などでも可能らしいが。
 必ずしも媒介が無いと出来ない……という訳では無いが、媒介無しに転移をするには基本的に精神的余裕が必要だ。空間を三次元的に捉え、且つ自身の身体的特徴を完全に頭に入れてなければ、少しでも転移先がずれれば、謝って地面の中に転移してしまい少し表現し難いとんでも無い死体が一つ完成するだろう。
 戦闘中にそんな真似をするなど完全に自殺行為だ。“媒介を出口に指定し、そこから出てくる”事が通常の転移魔法なのだ。その為に遠見の魔法などと一緒に利用するのが多いが、フィオナが転移したとして、この場にあるのは夜の闇だけだ。影で転移すれば判る。だというのに、その痕跡は無く――、他に媒介に出来そうなモノは無い。

「判らない? んん~、勉強不足だよぉ? 昼も夜も場所も関係無く、殆どの場所に存在する媒介がある」

 その言葉に、エヴァンジェリンは目を見開き理解した。

「空気か!」
「正解だよ」

 瞬間、フィオナの瞳の色が変った。

「――――ッ!?」
「憑依術式を解除――ごめんね“ベル”。ここからは私が一人で戦う。え、大丈夫だよ。きっと負けない。ん、ありがとう」

 憑依術式を解除したフィオナは虚空に話しかけていた。エヴァンジェリンは目を見開いた。圧倒的に優位に立っていたのに、その優位の要因である悪魔との憑依を解く理由が分からなかった。

「余程自信があるのか? それとも――」

 エヴァンジェリンは痛む体に耐えながら、警戒心を強めた。

「安心してね?」
「は?」
「ちゃんと殺してあげるから」

 その口調は、まるで邪気が読み取れないものだった。それが余計に警戒心を強め、エヴァンジェリンは一瞬でフィオナの首に狙いを定めた。

「“吸血鬼殺しの呪術医(バタク)”」
「――――ッ!?」

 フィオナが白い粉を撒き散らし、呟いた瞬間に、エヴァンジェリンは本能的に後退した。

「グッ!?」

 僅かにかかった白い粉に、エヴァンジェリンはまるで体の血肉が外に飛び出そうとしているかの様な痛みを感じた。

「なんだ、これは!?」
「ねえ、吸血鬼ならどうして吸血鬼がニンニクが苦手なんて伝承が出来たか知ってるよね?」
「なに?」
「知らないんだ。なら教えてあげる。元々は月の女神との繋がりから、吸血鬼殺しの呪術医であるスマトラのバタク医師が反魂の術に転用したのが始まりなの」
「反魂? 魂を呼び戻す術式だと聞くが――」
「うんそう。分からない? 既に一度死んでいる“生きた死体(リビングデッド)”である吸血鬼に反魂の術なんて何よりも猛毒でしょ?」
「――――ッ!?」

 対吸血鬼用の術式――嘗て、ドラキュラを討伐したヴァン・ヘルジング大博士を始め、多くの吸血鬼ハンター達が長い年月を掛けて積み重ねて来た吸血鬼を殺す為の業だ。その恐ろしさはよく理解している。時代と共に常に変化し強力になっていく術式であり、一度は捕らえられて魔女狩りの火刑に掛けられた事もある。

「貴女を殺す為に勉強したの。真祖、始祖やオリジナルとも呼ばれる創世記にカインに起源を求めると謳われる感染では無く、呪いや魔術によって成った始めの吸血鬼。日光に強く、暗示の魔眼を持ち、強力な魔法や魔術の類を操る事が出来、吸血によって仲間を作る事の出来る魔物」

 エヴァンジェリンは視界がぼやけてきたのを感じながらも、その事をおくびにも出さず卓越した精神力で鼻で笑って見せた。

「はっ! よく調べてるじゃないか」

 皮肉を口にするが、エヴァンジェリンの表情に余裕は無かった。“闇の魔法(マギアエレベア)”も解け掛かっている。頭も石が詰まっているかの様に重く、激しい痛みが断続して襲い掛かってくる。骨が軋み、神経が剥がされる様な痛みに常人ならばそれだけで死に至れそうな程だ。
 それでも、エヴァンジェリンはフィオナから眼を離さなかった。

「それじゃあ、楽しいお喋りはお仕舞い。――これが私が貴女を殺す為に得た力」

 フィオナの唇が歪むのを、エヴァンジェリンは視界が滲み見る事が叶わなかった。

「赤き羊膜に包まれし“生まれながらの吸血鬼(クドラク)”の対立者にして、白き羊膜に包まれし災厄の魔狼――“生まれながらの吸血鬼殺し(クルースニク)”起動!」

 あまりの威圧感にエヴァンジェリンの視界が回復した。体中のあらゆる細胞が警鐘を打ち鳴らしている。ソレは真紅の十字架だった。
 まるで機械のギアの様な形の小さな円の中に十字が伸び、その先に尖端の尖った、まるで刀剣の様なモノが四方に伸びた歪な十字架だった。中央には禍々しい狼の紋章が刻まれている。

「異端を狩っていた男が今のお前を見たらどう思うかな?」

 皮肉気に唇の端を吊り上げてエヴァンジェリンは言った。フィオナは笑みを顰めた。

「きっと、怒ると思う」
「なに?」

 その余りにも呆気無い言い方にエヴァンジェリンは面を喰らった。

「あの人はいつも私を叱ったもの。だけど、それは私を思っての言葉だった。だから、私はあの人を愛したの。叱られる度に、あの人に惹かれたの。自分を救い出そうとする懸命な姿が愛おしかった。抱いては下さらなかったけど、この体の至る所に印を与えてくれた」
「異常な奴だとは思っていたが……元から気が狂っていたのか?」

 エヴァンジェリンは苦しげに息を吐きながら、異常な言葉を吐くフィオナに額から脂汗が垂れた。

「気違いめ……」
「人の愛は人それぞれよ? 喰らいなさい、クルースニク」

 フィオナは奇怪な十字架の中央のギアの様な場所を掴み、まるで巨大な手裏剣の様にエヴァンジェリンに向けて放り投げた。本当に軽く、まるで味方にドッジボールやバスケットでパスをするかの様に――。
 やがて、下降し始めようとした途端に、クルースニクは回転を始めた。真紅の糸を引く様な不気味な光が回転する十字架から溢れている。

「吸血鬼を殺すには狼という事か――」

 エヴァンジェリンは忌々しげに真紅の輝きが徐々に狼の頭部を象っていくのをにらみつけた。咄嗟に動くことが出来ない。まるで体が岩になった様な気分だった。手首を動かしながら駆け出す――。

「遅いね、もう限界かな?」

 フィオナが僅かに手首を動かすと、その動きに合わせてクルースニクがエヴァンジェリンに向かった。クルースニクに具現化した紅の狼は巨大な上半身まで出現し、凶悪な紅の光の爪を振りかぶった。

「戯言を抜かすな狂人がッ!」

 気勢を張るが、エヴァンジェリンは闇の魔法を維持しているだけでも奇跡的な状況だった。闇の魔法の特性でクルースニクの猛攻を避ける。一撃一撃が必殺の威力を持ち、四本の真紅の閃光が左から来た瞬間、右から再び四本の閃光が空間を切り裂く。だというのに、閃光が大地に触れても埃一つ立たなかった。

「かと言って、吸血鬼用の術式なんだ……油断は出来んな」

 闇の幻影で何とか回避しているが、それももってあと少し。
 まだだ。エヴァンジェリンは目を細めながら、最早視界と呼べなくなったぼやけた世界を見つめた。直感頼りの回避の連続。いつ攻撃がヒットするかもわからなかった。
 滲む視界は真紅一色に染まって、エヴァンジェリンは最早自分が何処に居るかさえ判らない状態に陥っていた。

「このままでは……巧くいっても――」

 歯噛みしながらも、意識を集中させる度に頭が耐え難い熱を放つ。

「囚われる事無き闇と全てを封じ込める氷。相反する二つの属性の特性を生かしきる……」

 エヴァンジェリンは全ての意識を集中した。直後、エヴァンジェリンの右脚が吹き飛んだ……。

「――――」

 声すらも出なかった。否、その声無き絶叫は悲鳴では無い。それは
「アハ、足が吹き飛んじゃったね」
場にそぐわぬほど楽しげな笑い声が溢れた。

「これで終わりにしてあげる。骨の一片も残さずに殺し尽くしてあげる」

 フィオナが右手を掲げた瞬間、クルースニクは狼の姿を消し、回転を止めて空中で静止した。

「さようなら、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル」

 フィオナは小さく息を吸った。

「ケンタウルスとハエに囲まれし聖なる紅の十字架よ。α-β-γ-δの四つの天を結び現在(いま)ここに顕現せよ!」

 フィオナが右手を振りかぶった。

「“南十字星の……(サザン……」

 クルースニクの姿が変貌した。紅の閃光が全く別の十字架を形作っていく。まるで、中心から十字架を“十の字”で生やした様な姿だった。フィオナが勢い良く腕を振り下ろそうとした瞬間――。

「え――?」

 フィオナの呆然とした様な声が響いた。次の瞬間、フィオナの背筋に戦慄が走った。

「術式解放、漸く捕まえたぞ――フィオナ・アンダースン!」
「嘘ッ……、いつの間に!?」

 フィオナの体には、よく見ないと分からない透明な細いナニカで拘束させられていた。幾重にも全身を縛られたフィオナは身動き一つ出来なかった。

「囚われる事無き闇の属性、あらゆるモノを封じ込める氷の属性」

 フィオナの目が見開かれた。エヴァンジェリンは闇の属性で隠した、極限まで細くした氷の糸を周囲一体に張り巡らせていたのだ。クルースニクから避ける間中指を動かしながら――。
 氷の糸と言っても、魔法の氷だ。容易くは溶けないし、それ所か圧縮された魔力によって、強度はワイヤー以上だ。

「そんな……」

 エヴァンジェリンの両手の魔法の輝きを見ながら、フィオナは絶望の声を漏らした。囚われた事で術式が解除されてしまった。再びクルースニクを起動するまでに掛かる時間と、エヴァンジェリンが既に発動準備が完了している魔法を放つのとどちらが早いか。そんな事は考えるまでも無かった――。
 エヴァンジェリンは真っ直ぐにフィオナを見た。

「安心しろ、私も既に限界を超えている。もう後数分もせずに死ぬ。“闇の魔法(マギアエレベア)”の代償に耐えられる状態じゃないし、時間が経ち過ぎた……。だが、勘違いするなよ? 私は自滅だ。お前が殺したんじゃない」

 その言葉に、フィオナは目を見開いた。その表情に怒りの色が溢れている。

「だから!」

 殊更大きな声で、エヴァンジェリンが叫んだ。

「お前はちゃんとあの世に逝け。神楽坂明日菜を死なせた罪も私が持って行く。こんな私でも、殺せば罪となってしまう。なら、出来る事をしよう。すまなかった」

 その言葉に、フィオナの目がこれ以上ない程に驚愕に見開かれた。

「エ、ヴァンジェリン……」
「さらばだ。神楽坂明日菜、私のせいで済まなかった。こんな事では償えんかもしれんが……、願わくば……いや、さらばだ」

 瞬間、エヴァンジェリンの解放した“闇の吹雪”が発動した。

「悪いが、俺のマスターは殺させねえよ」
「エヴァちゃん、勝手に私を殺さないでくれるかな?」

 直後、在り得ない声が響いた。一つは知らない男の声。もう一つは、もうこの世に居ない筈の人間の声だった――。

「なに……?」

 エヴァンジェリンの体を暖かいナニカが包み込んだ。聞こえるのは不思議な歌。エヴァンジェリンが振り向いた先に居たのは、折れ曲がった筈の腕が真っ直ぐに伸び、夕凪を構える刹那と、刹那に守られる様に、対となった二つの扇を持つ、真っ白な狩衣に身を包んだ絹糸の様な黒髪を靡かせる少女の姿があった。

「お前は……近衛木乃香!?」

 エヴァンジェリンは驚愕に目を見開くと、木乃香はニコッと笑みを浮べた。

「助けに来たえ、エヴァちゃん!」

 その声は、いつもおっとりとした感じを受ける少女のモノとは思えない程に確りとした響きがあった――。

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