第二十六話『過去との出会い、黄昏の姫御子と紅き翼』

「ついに来たか。これで、条件は全てクリアした。後は、コマの配置とタイミング……そして、演出だ!」

 エドワードは指を高らかと鳴らした。瞬間、上空に凄まじい熱量を放つ小規模な太陽が発生した。紅蓮の炎の球体から蛇の様に炎の鞭が幾重も飛び出し、虚空を打つ。

「フェイト・アーウェルンクス。お前は上空から奴等の退路を絶て! 更に、左右からは呪術師による弾幕を張れ。残りの者は全員でこの儀式場を取り囲め!」

 エドワードの指示に、フェイトは頷くと本殿に跳び上がった。数百人の呪術師が石畳の左右に展開した。その他の神鳴流、呪術師は全員が儀式場を取り囲む。

「存外、苦戦したらしいな」

 エドワードの背後に炎が吹き上がり、その中から近衛詠春が現れた。顔を俯かせ、ただ静かに立ち尽くしていた。全身には数え切れない程の銃創が見て取れる。
 エドワードが再び指をバチンと鳴らすと、総本山を覆っていたオレンジ色の炎の膜が消え去り、内側に閉じ込められて困り果てていた美空が半泣きで明日菜達と合流するのをエドワードは感じ取っていた。
 少し離れた場所に、エドワードは炎で魔法陣を描き出した。フッとほくそ笑むと、エドワードはそのままズボンのポケットに手を入れて上空を見上げた。エドワードの黄金の瞳が光を帯びて輝くと、上空に存在した巨大な炎球が移動を開始した。本殿を越えた石畳の上空へ――。

 総本山へ突入した明日菜達が長い階段を駆け上る途中で、千草と涙目の美空が合流した。美空は、逃げ出そうとした途端に炎の膜が現れて逃げられなくなり、戻って来れなかったのだ。

「怖かったよ~」

 美空がえぐえぐと明日菜に泣きついているのを

「確かにそりゃ怖いな」

と全員が納得した。何せ、敵の本拠地から出られずに味方と合流も出来ず、何時見つかるか分からないのだ。その恐怖たるや、軽くトラウマになりそうなものだ。
 逃げ腰になりながらも、一人で逃げ出すのも怖く、明日菜にしがみ付きながらも付いて来る。長い階段を登りきると、凄まじく広大な敷地に出た。木乃香と刹那は久しぶりの我が家に複雑な思いだった。何時もならば、関西呪術協会の面々が頭を下げて歓迎する。だというのに、誰も居ない。静か過ぎる広場に違和感すら覚える。直後、上空に炎の球体がゆっくりと姿を本殿の向こうから現した。

「――――ッ!?」

 全員が目を見開くと、上空から巨大な石柱が降り注いだ。

「皆さん、走って!」

 ネギが叫ぶと同時に、全員が駆け出した。背後に凄まじい衝撃を感じながら何とか直撃だけを免れた。だが、背後に巨大な石の柱が何本も立ち、明日菜達の退路は絶たれてしまった。直後、左右に気配を感じた小太郎が叫んだ。

「囲まれとる!」
「――――ッ!?」

 左右から数百人もの呪術師の集団に囲まれていた。更に、上空には小規模な太陽を思わせる炎の球体が動きを止め、明日菜達を見下ろしている。

「ク――、本殿に向かって走ってください!」

 刹那が本殿を指して叫ぶと、ネギ達は揃って頷いて走り出した。瞬間、左右から色取り取りの魔弾が弾幕となって襲い掛かった。それは、最早壁であった。
 魔弾の壁は容赦なく走るネギ達に襲い掛かった。それぞれが剣で、符で、魔術で、狗神で、居合い拳で弾き返すが、その量が半端ではなかった。更に、上空の炎球から触手の様に伸びた炎の鞭がネギ達に襲い掛かる。左右上空の三方向からの同時攻撃。あまりの弾幕の厚さに、ネギ達は動けなくなってしまった。

「クソ――、四天結界独鈷錬殻!!」

 刹那は四つの独鈷杵を放り投げ、全員を囲む三角錐の結界を発動した。

「何て数や……」

 小太郎はあまりの弾幕の厚さに呆然と呟いた。結界の壁が絶えず衝撃を防ぎ続けている。最低でも、左右と上空のどれか一つをどうにかしなければ動くことすらままならない。
 タカミチの背広のポケットに入っていたカモはその様子をジッと眺めると、タカミチを見上げた。
「ああ」
とタカミチは頷き、口を開いた。

「僕が左側の呪術師達を抑える。君達はそのまま真っ直ぐに本殿へ向かってくれ」
「恐らく、それが狙いだろうが、姉貴や姉さん達なら大丈夫だろうからな」

 そう、この状況で考えられる敵の策は一つだけだった。こんな場所で直接的に叩こうともせずに足止めをする理由――。それは、戦力の分散に他ならない。どれか一つを潰さなければ前進は望めない。その為に戦力は分散する。それが狙いだ。
 そして、たった一つだけ攻撃もなく、道も遮断されていない場所がある。それが、前方であり、本殿。おそらくは、本殿を越えた先に親玉が居る。

「なら、上空の炎球を落としていくから。幾らタカミチでも、あれがあったら危ないもん」

 そう言うと、ネギは刹那に顔を向けた。

「刹那さん、私が詠唱を完了させたら結界を解いてもらえますか?」
「んじゃ、左側は任せんで? 右側はワイが潰す」
「は?」

 小太郎の言葉に、明日菜は当惑の声を上げた。と、同時に小太郎は雄叫びを上げた。
 漆黒の毛皮の耳が白くなっていく。髪も白に染まり、腰まで伸びていく。真っ白な尾が延び、牙が伸び、爪が伸び、小太郎は獣化した。

「うん、そうだね。態々相手の望み通りにする必要無いし。小太郎、右側を全員眠らせるのにどのくらい掛かる?」
「一分寄越せ。それで、十分や」

 ネギが杖に魔力を集中しながら尋ねると、小太郎はニヤリと笑みを浮かべて言った。

「やれやれ、大見得を切るね。僕は力技ばかりだから、眠らせるのには時間が掛かるんだが……何とか一分で終わらせよう。そうしたら、全員で先に進もう」
「なら、私も!」

 明日菜が咄嗟に言葉を放つが、刹那が首を振った。

「ああまで密集している場所に突入した場合、視界が悪く同士討ちの危険があります。ですが……小太郎、あれを本当に一分で全員昏倒させられると? 殺さずに?」
「やる言うてんねん。こっから共同戦線なんや、疑うな」

 自分と同じ、真っ白な髪を靡かせる狼人間に、刹那は疑わしげな表情を浮かべた。だが、小太郎はニヤリと笑みを浮かべて軽く返した。
 明日菜は納得がいかなかった。どうして、小太郎にはあんな危険な場所に行かせるのか、と自分には絶対にそんな事を言わないだろうネギに、明日菜は唇を噛み締めた。納得がいかない。

「ラス・テル マ・スキル マギステル。来れ雷精 風の精 雷を纏いて 吹きすさべ 南洋の嵐 ――」

 螺旋回転しながら杖の先に魔力が収束していく。雷と風。二つの属性はある意味では同じ属性だ。風の精霊によって生み出される雷。故に、エヴァンジェリンの闇と氷の融合魔法よりも扱い易い。ネギはエヴァンジェリンとの修行で鍛えた魔力操作の技術を活かし、収束を更に強めていく。
 ネギは刹那に顔を向け、頷いた。刹那がコクンと頷くと同時に、結界が解除された。タカミチと小太郎、明日菜、刹那、木乃香、美空がネギを守る様に弾幕を打ち落とす。

「雷の暴風!」

 雷と風の二属性の螺旋の力。上空へ放たれたソレは、凄まじい力によって一気に炎の球体を飲み込み、消滅させた。荒れ狂う雷を纏った螺旋の旋風。思わず息を呑む。それだけの魔法を発動しながら、ネギは息一つ乱していない。

「凄げぇ……」

 天を翔ける龍の如く“雷の暴風”が雲を切り裂く光景に思わず美空が呟いた。その言葉は、全員の感想を代弁していた。明日菜は、嘗ての夜に見た時以上の力を放つ雷の暴風に目を見開き、刹那は決戦奥義クラスのその魔法に感嘆の息を洩らし、木乃香は雷の暴風の輝く螺旋に瞳を輝かせた。タカミチは嘗て見た英雄のソレの姿を幻視した。ただ一人、更に凄まじい対軍勢用の決戦奥義クラスの魔法を見た小太郎だけが真っ直ぐに右側の敵を睨みつける。

「じゃあ、行くで!」
「あ……、ああ!」

 小太郎が飛び出し、一瞬遅れてタカミチも駆け出した。無数に降り注ぐ弾幕の壁に向かって。突入した小太郎は、影分身を発動し、獣化により強化された凄まじい速度によって一気に敵の中に入り込んだ。そして、狗神を無数に解き放ち、次々に意識を落とさせていく。
 タカミチは、猛烈な速度で移動しながら次々に後頭部を手刀で叩き、次々に眠らせて行く。弾幕を張れという命令しか下されて居ない洗脳された呪術師達は、なんの防御も回避もせずに易々と闇に沈んで行った。
 二人が戻ってくるまでに、一分も掛からなかった。ただ、回避も防御もしない木偶を相手には、一秒に数人ずつ倒していくのは楽な作業だった。小太郎はその事に不信を持った。明らかにおかしい。こんな、高畑.T.タカミチを足止めするための策なのに、一切の抵抗をさせないなど在り得ない。足止めになっていない――。
 戻って来た二人の僅かな怪我を木乃香が癒すと、刹那が口を開いた。

「突撃します。皆さん、御武運を――」

 本殿の中に突入した瞬間、ネギ達は炎に包まれた。驚愕する暇すら与えられない一瞬の事だった。熱いと感じる事も無く、次の瞬間にネギ達は広大な広場に立っていた。

「…………え?」

 誰からともなく戸惑う声が聞こえた。そして、僅かに掠れた様な男の声が響いた。

「待っていたぞ」

 そこに立っていたのは、十五、六の外見をした赤髪の少年だった。女性ならば十人が十人呼吸を忘れて見入るだろう美貌を持つ赤い目の少年だ。引き締まった顔つきは鋭さと憂いを同時に秘め、気怠い表情は、次の瞬間には冷酷な殺意に変りそうな危うさを漂わせている。優雅な仕草で笑みを浮かべる少年の真っ白な肌に浮かぶほっそりとした顎から首筋へのラインに、目を逸らしそうになる。
 その時、明日菜は不思議な視線を感じて顔を向けた。赤髪の少年のすぐ隣に、もう一人の銀髪碧眼の見目麗しい少年がジッと視線を送っていた。見た目は赤髪の少年と同じ十五、六程度だろう。線の細い体つきだが、しなやかな身のこなしがその外見に騙されてはいけないといっている。冷ややかな印象を与える少年の瞳は、確かな感情を称えていた。あまりにも美しい二人の少年に、ネギ達は戸惑いを見せた。まさか、こんなにも綺麗な少年達があんな恐ろしい事をしてきたというのだろうか、と信じられなかった。

「フェイト、話したい事があるのだろう? 魔物の召喚までには時間が少しある。少し、話してみるといい」

 エドワードは優雅な仕草で首を向けながら言うと、そのままフェイトの傍を離れた。そして、木乃香が目を見開いた。

「お父様……」

 フェイトの後ろには近衛詠春の姿があったのだ。俯いたまま、濃色の狩衣を纏い、漆黒の髪を短く刈上げた年配の男。木乃香の声にも応じなかった。

「お嬢様……」

 刹那が気遣わしげに声を掛けるが、木乃香は首を振った。

「絶対に助けるんや」

 木乃香は毅然と前向きながら言い放った。ネギは木乃香を心配そうに見上げていたが、大丈夫そうなのを見て前を向くと、フェイトの直ぐ近くに炎の魔法陣が描かれているのを見た。

「エドワード。全く、君の徹底ぷりには呆れるね。ここまでやって未だ戦力を増強するなんて」

 エドワードはほくそ笑んだ。そして、フェイトは真っ直ぐに明日菜を見た。

「この指輪を……覚えてますか?」

 フェイトは、どこか縋る様に明日菜に一つの小さな指輪を見せた。それは、おもちゃの指輪だった。稚拙な作りのそれを、明日菜には見覚えが無かった。

「何よ……何なのよソレ。そんなもの知る訳ないじゃない!」

 突然、敵に見せられたおもちゃの指輪など、知る訳が無い。明日菜がそう断ずると、フェイトは顔を歪ませた。

「やっぱり……違うんだ。姫様は……。偽者め……偽者め偽者め偽者め!! 姫様を返せ!!」

 涙を流しながら、フェイトは激昂した。そのあまりの感情の爆発に、ネギ達は息を呑んだ。

「姫様って誰の事よ……?」

 明日菜が当惑しながら尋ねると、フェイトは歯をギシギシと噛み締めてギッと明日菜を睨み、叫んだ。

「アスナ・ウェスペリーナ・テオタナシア・エンテオフュシア。ムンドゥス・マギクスのウェスペルタティア王国の王女だ!!」

 フェイトが憎悪と共にその名を叫んだ瞬間、明日菜はドクンと心臓が跳ねた。そして、今まで以上に強い声が響いた。

『私は……ここに居る。私を……呼んで』

 その瞬間、神楽坂明日菜の意識は途絶えた。真っ暗な闇の中に落ちていく。どこまでも暗い、闇の世界の底へと――。

 まるで、ノイズの混じったテレビを見ている気分だった。自分の知らない自分の体験を追体験している。
 あるお城に住んでいた。何不自由無く、自由も無く。ただ、籠の中で飼い殺しにされていた。お父様は自分を護る為だと言うが、それが真実かどうかを、当時の自分は気づいていた。だって、お父様はお姉様ばかりを愛していて、自分をお父様の住まう王都オスティアから離れた小さな町の城に幽閉しているのだから。
 会いに来る事も滅多に無かった。侍女達はとても優しくしてくれた。給金のためだったり、お父様やお姉様への忠誠の為だったりする事もあるけれど。何人かは自分の事を思ってくれているのだと理解していた。だけど、寂しかった。ずっと、外の世界に憧れていた。初めて出会った時、彼の緊張しきった顔がおかしかった。だって、わざとらしい程ビクビクして、声も震えていて、なのに、自分がちょっと顔を近づけただけで真っ赤になって慌てだして、とっても可愛いと思った。
 ウェスペルタティア王国の皇女は十四歳で自分の専属騎士を選択する。ただ、幾つかの写真の中で、歳が近そうだからと思って選んだ彼は、大当たりだった。なにせ、信じられるだろうか? ちゃんと、金属のプレートに書いてあるし、色も明らかに違うのに、よりにもよって紅茶に塩を入れちゃうのだ。
 自分を姫様と呼ぶ少年。本当は呼ばせているのだけど、そんな細かい事はどうでもいい。綺麗な庭園で一緒に侍女のナターシャがコックのギルバートの作ってくれたサンドイッチを持って来てくれて、フェイトが一々毒見してから渡してくるそれを、小説の中の間接キスってやつなのかな? なんて思いながら食べて、お花を摘んで冠を作ったりした。
 ある日、フェイトは城下町で流行っているおもちゃを買ってきた。外に出られない自分にとって、お父様の用意したおもちゃはどれもつまらなかった。だって、もう何百回以上も遊んだものなのだから。だけど、城下町のおもちゃは素晴らしくドキドキする輝いた宝物だった。
 おもちゃの指輪を使って結婚式ごっこをした時のフェイトの顔ったらなかった。真っ赤になって、小さく縮んで、変な事を口にしながら頭を下げて。多分、その頃だったと思う。フェイトという、閉鎖された世界に舞い降りた白馬の王子様。本当は逆で、自分は王族で彼は騎士なのだけど、フェイトが自分を連れて明るい世界へ連れて行ってくれるんじゃないかと毎日夢見るようになっていた。
 幸せな毎日を過ごしていた。フェイトやナターシャや、アリシア、コーネリア、ナタリー、皆と一緒に遊ぶ毎日が。自分の能力を見て、大人達は怖がったりするのが多かった。なにせ、魔法が効かないなんて、魔法使いにとっては最悪だ。だけど、フェイトはただ感心しながら姫様凄い! ばっかりだ。ちょっとは怖がれ、萎縮しろ! と思ったが、何となく嬉しかった。
 だけど、その頃からフェイトの様子が変わったと思う。剣と魔法に打ち込み始めた。白い翼のアリシアとコーネリアとナタリーが死んでしまったのはその頃だった。大切に育てていた美しい音色の歌を奏でる三羽が同じ日に死んでしまったのだ。原因は老衰だった。それも、普通ならとっくに死んでいた筈の大往生。
 三羽は鳥だ。そんな事ある筈ないだろうと理解していた。だけど、貴女達は私の為に頑張って生きててくれたの? と尋ねていた。答えは返ってこない。返ってくる筈も無い。失って、ポッカリと心に穴が空いて、恐怖を感じた。もしも、フェイトを失ったら私はどうなってしまうのだろう……と。
 だから、ある日のテラスでフェイトに告白した。それが、ちゃんと伝わってるのかは今一分からなかった。だって、砂糖と塩を間違えるような天然だ。でも、彼は誓いを立ててくれた。とうの昔に、自分はこの騎士に恋をしていたのだと理解した。
 だから、あの日。戦争が始まると聞いた日にアスナはナターシャやギルバード、他の従者達やお父様達にまで懇願して回った。まあ、殆どナターシャが駆けずり回ってくれたんだけど――。

『フェイトには絶対に戦争の事を耳に入れさせないで欲しい。代わりに逃げも隠れもせず、最後まで使命を全うしてみせます』

 それが、最後の願いだと誰もが理解していた。逃げたいと思う者は逃げろと言った。何せ、もう滅びのカウントダウンの始まった国だ。居残る必要など無い。だが、殆どの者は逃げてくれなかった。何時もの様に、フェイトに勘付かせない様に振る舞い、あの日を迎えてくれた。突然城の者が居なくなったら気付かれてしまいますよ、と何時も無表情だった侍女長が言った。
 運命の日、フェイトに別れを告げ、城の近衛兵の一人の青年がフェイトを連れ出した。特殊な魔法、アスナの身に余程の事が無い限り眠り続けるだろう魔法を掛けた。それは、もう自分がこの世に居ない。フェイトが自分を助けになんて来れない時になって目覚めるように。

「あ……ぐ、ああああああああああああああああああああああっ!!」

 戦場に送り込まれた自分は戦場を一望できる神殿に刻まれた魔方陣の上に座らされた。両足を鎖で繋がれ、力を無理矢理引き出される苦しみに何度も悲鳴を上げた。どれだけの時間が経過しただろう。終わらない苦しみに心が磨耗し、心が何も感じなくなってきた頃だった。
 再びヘラス帝国が“オスティア回復作戦”とやらで進軍して来た。

「くっ……、来たぞ! 仕方あるまい、また役立ってもらうしかないようだ」
「このような幼子が不憫な……」
「愚か者が、惑わされるな。コレは人ではない、兵器(モノ)と思え。黄昏の姫御子――、オスティアの歴史の中で生まれる度に戦で何千何万の命を吸ってきている……化け物の名前だ」

 人間としてすら扱われず、ただ戦の道具として扱われる日々に自分というものが失われていった。自分には何も無く、何者でも無い。いつしか、そんな思考を繰り返していた。
 ただ奪い、奪われるだけの日々……、そんなある時、現れたのが、あの男だった。巨大な鬼神兵を吹飛ばしてやって来た赤毛の魔王。

「そんなガキまでかつぎ出すこたねぇ。後は俺に任せときな」

 周りの神官はその姿に驚愕していた。

「お、お前は!?」
「紅き翼、千の呪文の……そう!!」

 男は全力でポーズを取ると、大声で名乗りを上げた。

「ナギ・スプリングフィールド!! またの名を、“千の呪文の男(サウザンド・マスター)”!!」
「自分で言ったよコイツ……」
「フフフ、ノリノリですね」

 呆れた様な口調の男と穏やかな口調のナギの仲間らしき男もやって来た。ナギはおもむろに手帳を取り出すと、何とアンチョコを読みながら呪文を詠唱し始めた。アスナは何だコイツ……と疑惑の眼差しを向けた――その瞬間だった。

「行くぜオラァ!! 千の雷!!」

 男の掛け声と共に、天空から稲妻が降り注ぎ、大量の鬼神兵を一瞬にして飲み込み消滅させた。そして、呆れた口調の夕凪と刻印された太刀を持つ男と、重力を操るローブに身を包んだ魔術師が鬼神兵を一気に屠っていく。神官達の歓声が響いた。

「安心しな。俺達が全て終わらせてやる」

 ナギはニヤリと笑みを浮かべて宣言した。

「な……、しかし……」

 神官達はその言葉に戸惑いを見せた。

「敵の数を見たのか!? お前たちに何が……」
「俺を誰だと思ってる、ジジィ!」

 神官の声に、ナギは嘲笑の笑みを浮かべながら言った。

「俺は最強の魔法使いだ」

 魔法学校は中卒だがな、と男は青筋を立てながら神官を睨み言った。

「な――ッ」

 神官が絶句する。

「あんちょこ見ながら呪文を唱えてるあなたが言っても、今一つ説得力がありませんね」

 ふわりとした動きで近寄るローブの男に、ナギは
「あーあーうるせーよ」
と視線を逸らしながら言った。

「それに、アナタ個人の力がいかに強力であろうと、世界を変える事など到底……」
「るせーっつってんだろアル。俺は俺のやりたいよーにやってるだけだバーカ。覚えとけよ? 俺の行動原理は何時だって俺の我侭なんだ。他人がどうこういう筋合いは無えんだよ」

 そう言うと、ナギはアスナの大結界の維持によって乱された体の調和によって吐血した口元の血を拭った。

「よう、嬢ちゃん名前は?」
「ナ、マエ……?」

 アスナは突然現れた男に困惑していた。それと同時に、辛かった。ああ、この男はまるでピンチのお姫様を救う王子様だと思って、どうしてそれがフェイトじゃないんだろうと、理不尽な不満を覚えた。
 アスナの繋がれていた術式の刻まれた鎖をアルが解き放った。

「アスナ……アスナ・ウェスペリーナ・テオタナシア・エンテオフュシア」
「なげーなオイ。けど……アスナか。いい名前だ。よし、アスナ待ってな」

 バサッとローブを翻し、ナギは立ち上がって背中を見せた。

「いくぞアル! 詠春! 敵は雑魚ばかりだ。行動不能で十分だぜ!!」
「はいはい」
「やれやれ」

 ナギが敵に向かって突き進むと、アルはクスクスと笑みを浮かべ、詠春は疲れた様に後を追った。ナギは本当に相手を全滅させた。それこそ、どちらが鬼神なのかと問いたくなる程の圧倒的な火力で――。
 そうして、帝国の二度に渡るとオスティア侵攻は紅き翼の健闘によって失敗に終わり、戦争は終結したかの様に思えた。そんな筈も無いと分かり切っていながら、そう思いたかったのだ。
 アスナは、ナギに連れられて行った。自分のお城へ。酷かった。町は死体に溢れ、ナターシャの苦悶の表情が眼に焼きついた。何度も蹂躙され、丸裸の状態で全身に杭が刺さり、鞭の後や焼印を押し付けた後があり、美しかった黒い髪が滅茶苦茶に乱され、犯され尽くしていた。
 それでも、アスナは膝を折らなかった。

「なんという……」

 詠春の吐き捨てる様な声に、ナギは静かに怒鳴った。

「止めろ! 姫子ちゃんが耐えてんだ。糞の足しにもならねえ事を態々口にすんな」
「……すまない」

 ナギ達を引き連れたアスナは滅茶苦茶にされていた自分の部屋を見た。

「何も残って無い……。フェイト……っ」

 初めて涙が流れた。そして、自分の指に通していた。お守り代わりのフェイトが初めて買って来た城下町で流行しているお飯事のおもちゃの指輪をそっと外した。

「こうなったのは、私のせい。認めなきゃ。私は、責任を果たさなくちゃいけない」
「な!? 皇女殿下!?」

 詠春が眼を剥くと、ナギは恐ろしい形相で詠春を睨み、それからアスナを見下ろした。

「テメエ、それがどういう事か分かって言ってんのか?」

 ナギの恐ろしく低い声にも動じずに、アスナはナギを見返した。

「私はアスナ・ウェスペリーナ・テオタナシア・エンテオフュシア。お父様が帝国に逆らった事で始まったこの戦の責は私達にある。私は、お父様の……オスティア王の娘として責任を果たさないといけない」

 そう言うと、アスナは指輪を損壊した机の中で唯一無事だった宝石箱に入れて床下にしまった。

「何だそれ?」
「私の一番大切な人への私の形見。酷いでしょ? 今ね、フェイトは眠ってるの。遠い土地で私の魔法で。これを発見するのは、私が死んだ後。私が死んだ後も、私の事を忘れて欲しくないって我侭。残酷だよね。分かってるけど、でも、フェイトには忘れて欲しくないんだ」

 ナギは舌を打った。凄まじい形相を浮かべ、自分の額を殴りつけた。

「頭がどうにかなりそうなほどムカついてるぜ。せっかく助けた奴をむざむざ死なせに行かせるのかよ!?」
「うんそう。だから、私の代わりにお姉様を助けてあげてくれない?」
「お姉様?」
「そう、アリカ・アナルキア・エンテオフュシア。今、連合と帝国に挟まれているこの国を救う為に調停役となって走り回ってるんだけど、お姉様一人じゃ難しいと思うから。私が、黄昏の姫御子が帝国に引き渡されれば、それで少しは時間が稼げると思う。多分、実験台とかにされるだろうし、戦闘兵器にされるだろうから、向こうで私は自殺する。だから、私が自殺して、帝国と連合が動き出す前にお姉様と協力してこの国を救って。その代わりに、今出来る貴方の望みを何でも叶えてあげるから」

 アスナの言葉に、ナギと詠春はその殺気を抑えきるのに必死だった。なんだこれは……と。どうして、こんなガキが自殺してくるから姉と国を任すなんて平気な顔で言ってんだよ! と怒鳴り散らしたかった。アルですらも、そのアスナの決断にいつもは穏やかな笑みを絶やさない表情に険しい顔を作った。
 自分の大切な人達を殺され、愛してる奴には形見を残して残酷でしょ? と言い、自分の命を踏み台にしろと言う。その決断を否定など出来なかった。
 帝国の進軍、それを停める唯一の機会を得る為に最適な手段だ。紅き翼がアリカ姫と手を取り合い調停の役割を果たせば、もしかしたら――と。そんな縋る様な思いを受けて、こんな残酷な決断を自分の手で下した少女の思いを受けて、ナギは何も言えなかった。

「自殺すんのは、ギリギリまで待ってろ」

 ナギは言った。

「絶対に……絶対にだ。お前を助け出してやる」

 ナギはそれだけを言うと、部屋を出て行った。詠春は、何かを言いたいのを飲み込み、部屋を乱暴に出て行った。最後に残ったアルはアスナに一言だけ言った。

「彼は一度言った事は必ず守ります。だから、命を諦めないで下さいね。明日を、諦めないで下さいね」

 アルはそれだけを言って部屋を出た。
 アスナの身柄は帝国へ移される事になった。元々、帝国の狙いはアスナだったのだ。アスナの身柄を確保した帝国は一時的に休戦表明を出した。そして、アスナは幽閉された。ただ、死を待つだけの監獄へ。
 そこに一人の男が現れた。黒いローブを纏った怪しげな男だった。

「あなたは……誰?」
「私の名か? デュナミスという。小娘、一緒に来てもらうぞ」

 デュナミスが何者なのかは分からない。また、戦争に利用されるのだろう事だけは理解(わ)かった。残っていても、一緒に行っても同じ事。アスナは舌を噛み切ろうとした。その時、ナギの言葉が脳裏に過ぎった。

『絶対に……絶対にだ。お前を助け出してやる』

 アルの言葉が甦った。

『彼は一度言った事は必ず守ります。だから、命を諦めないで下さいね。明日を、諦めないで下さいね』

 僅かな希望。ありえない事だと分かっていながら、アスナはその希望に縋り付いてしまった。ナギが助けてくれるかもしれない、という希望に、もしかすると、またフェイトに会えるかもしれない、という希望に――。

「わかった……」
「素直だな。賢明だ」

 デュナミスは闇の魔素を操りゲートを作り出した。アスナはふらつく足でゲートを通った。そこに居たのは、始まりの魔法使い……恐ろしくも、悲しい人だった。

「黄昏の姫御子……、我が末裔よ。その本来の役割を果たしてもらおう」

 アスナは巨大な祭壇の上に連れて行かれた。そして、巨大なクリスタルの中に閉じ込められた。そして、理解した。自分が縋り付いてしまったのは、希望ではなく、絶望なのだと。
 クリスタルの中に閉じ込められながらも、アスナは世界を見ていた……。アスナの瞼の裏に恐ろしい光景が見えた。先端に魔法世界を象った球体の付いた鍵の様な物を持つ造物主がその力を用いて多くの人々を消し去る光景だった。
 辛く苦しかった。止めて欲しいと何度も心の中で懇願した。そして、あの日がやって来た――。

 悪夢の光景がそこにあった。何故、どうして? 頭の中が混乱した。アスナの捕らえられているウェスペルタティア王国の最も神聖な『墓守人の宮殿』に絶対に居てはいけない人物が居た。それも、最悪な形でだ。
 フェイト・フィディウス・アーウェルンクスがアスナを捕らえ、その力を利用し、多くの人々を消し去った始まりの魔法使いの側として、サウザンドマスターが率いる紅き翼と対面していたのだ。

「やあ“千の呪文の男”また会ったね。これで何度目だい? 僕達もこの半年で君に随分と数を減らされてしまったよ。この辺りでケリにしよう」

 何度心の中で泣き叫んでも、戦いを止める事は出来なかった。褐色の肌の大男は炎を操る赤髪の大男と、詠春は雷を操る拳闘士の少年と、フェイトにどこか似た面影のある少年は水を操る魔術師と、アルは魔素を編んで魔物を生み出すアスナをここに連れて来たデュミナスと、それぞれぶつかり合った。
 そして、フェイトはナギと戦っている。自分の騎士と、自分を助けに来たヒーローが戦っている。フェイトは今迄使っている所を見た事が無かった岩系の魔法を操り、ナギと互角に渡り合っていた。
 僅かな差だった。フェイトは破れ、ナギに首を掴まれて持ち上げられている。

「見事……、理不尽なまでの強さだ……」

 フェイトは全身から血を流し、虫の息だった。

「黄昏の姫御子は……どこだ? 消える前に吐け」

 ナギが言うと、フェイトは狂った様に笑い出した。

「まさか、君は未だに僕が全ての黒幕だと思っているのかい?」
「なんだと……?」

 その時だった。信じられない事が起きた。始まりの魔法使いがフェイトごと、ナギを撃ったのだ。驚愕と絶望に心が塗り潰された。フェイトの体が羽根を撒き散らすように消え去った。
 ナギもナギも胸を撃ち抜かれて重症を負い、始まりの魔法使いは更に“あの鍵”の力を解放して追い討ちを掛けた。
 水を操る魔術師にフィリウスと呼ばれた少年が咄嗟に最高クラスの障壁を展開するが“フィリウスでは”あの力は防げない。案の定、決戦クラスの魔法すら防げる筈の“最強防護(クラティスケー・アイギス)”がガラス同然だった。
 褐色の大男は両腕を失い、紅き翼はフィリウス以外は満身創痍だった。始まりの魔法使いを見て、誰もが絶望に陥る。なのに、ナギは立ち上がった。

「い、いけませんナギ! その身体では!」
「アル、お前の残りの魔力全部で俺の傷を治せ」
「しかし、そんな無茶な治癒ではッ!」
「30分もてば十分だ」
「ですがッ!」

 ナギの無茶を諌めようとアルが声を荒げるが、ナギは耳を貸さなかった。すると、フィリウスがフフと微笑みながら立ち上がった。

「よかろう。ワシもいくぞ、ナギ。ワシが一番、傷が浅い」
「お師匠……」
「ゼクト! たった二人では無理です!」
「ここで奴を止められなければ世界が無に帰すのじゃ。無理でもいくしかなかろう」

 ゼクトは魔力を練りながら言った。

「ナギ、待て! 奴は不味い。奴は別格だ! 死ぬぞッ! 体勢を立て直してだな……」
「バーカ、んなコトしてたら間にあわねーよ。らしくねーな、ジャック」

 ジャックの言葉に軽く返しながらナギはニッと笑みを浮かべた。

「俺は無敵のサウザンドマスターだぜ? 俺は勝つ!! 任せとけ!!」
「ナギッ!!」

 ジャックの制止を振り切り、ナギとフィリウスは始まりの魔法使いに向かって飛び出した。
 ナギとフィリウスは次々に魔法を繰り出した。だが、フィリウスの魔法は悉く打ち消された。

「やはり、ワシでは――ッ!」
「お師匠!!」

 最大の魔法を簡単に掻き消され、フィリウスは一瞬怯んでしまった。その瞬間、フィリウスの身体を無数の魔法が打ち抜いた。

「テメエ――ッ!」

 ナギは全身を魔力で最大まで強化した。人間の限界を遥かに越える速度と力で始まりの魔法使いを殴った。そして、超至近距離で千の雷を放った。
 それでも、始まりの魔法使いは倒れなかった。背後に超巨大な魔方陣を作り出し、狂った様に笑い始めた。この世に存在するありとあらゆる攻撃魔法が放たれる。

「私を倒すか、人間! それもよかろうッ! 全てを満たす解は無い。いずれ、彼等にも絶望の帳が下りる。私を倒して英雄となれ! 羊達の慰めともなろう。だが、夢忘れるな! 貴様も例外では無い!」
「ケッ! しぶてぇ奴だぜ! グダグダ、うるせえええええ!!」
「グオッ!?」

 無数の魔法の豪雨を突破し、ナギの拳が始まりの魔法使いを捉えた。始まりの魔法使いは苦悶の声を上げた。始まりの魔法使いを打ち抜いたナギの拳に篭った強大な魔力は墓守の宮殿の壁を次々に打ち抜き、そのまま遥か下方の大地に激突すると、凄まじい爆発を巻き起こした。

「たとえ、明日世界が滅ぼうと知ろうとも!! あきらめねぇのが、人間ってもんだろうがッ!!」

 ナギは最強の一撃を放つ為、先の曲りくねった自身の杖に魔力を篭め始めた。杖は雷霆を迸らせ、巨大な槍に変化した。

「くっくく……、貴様もいずれ、私の語る”永遠”こそが“全て”の“魂”を救い得る唯一の次善解だと知るだろう」

 全身をナギの放った無数の雷の投擲に撃ち抜かれながら、尚も始まりの魔法使いは笑い続けた。

「人間を――」

 ナギは己の全身全霊を掛け、必殺の一撃を始まりの魔法使いに向けて投げ放った。

「――なめんじゃねえぇぇええええええッ!!」

 墓守の宮殿の天井を一気に最上部まで貫き、始まりの魔法使いを一気に消滅させてしまった。
 アスナが気を保っていられたのはそこまでだった。既にフェイトを失った悲しみと絶望に心は壊れ、景色は白黒にしか映っていなかったが、突然全身を襲った凄まじい苦しみに視界にノイズが走った。僅かに見えるのは、殺された筈のフィリウスが渦巻く光の中に立ち、ナギがボロボロの状態で何かを叫んでいる光景だった。

「悪い……遅くなっちまった。全く、いつもいつもヒーロー失格だな」
「ナ……ギ……?」

 気が付くと、アスナはナギに助け出されていた。周りには砕け散ったクリスタルが転がっている。アスナは紅き翼と共に行動する様になった。
 悲しみと絶望に心を壊されたアスナは感情を失ってしまっていた。嬉しいも怒りも哀しみも楽しさも何も感じなくなってしまった。
 それでも、姉であるアリカ、そしてアリカと婚約したナギ、紅き翼のメンバーの皆と日々を過ごす内、不思議なあたたかさを感じるようになった。ゆっくりと、壊れたパズルを少しずつ嵌め直す様に感情を思い出し始めたある日の事だった。アスナはガトウとタカミチと共に旅をしていた。
 ジャックは傭兵家業に戻り、詠春は京都に皆と一緒に行った時にそのまま式をあげて関西呪術協会の長の娘と結婚した。元々、話があったらしく、今迄は断って来ていたらしいが、戦争も終わりを迎え、改めて受ける事にしたらしい。花嫁の女性はとても美しかった。
 アルは何かを調べると一人去り、ナギはアリカとウェールズの山奥にある故郷に戻った。中退した魔法学校の旧友達や幼馴染達が住む村で、アリカを匿ってもらえるように頼むのだそうだ。
 ある日の事だった。突然、アルから連絡が入った。その内容は驚くべきものだった。倒した筈の、あの大戦の真の黒幕であった始まりの魔法使いが率いた“完全なる世界(コズモエンテレケテイア)”の残党が再び息を吹き返し、活動を再開し始めたらしいのだ。
 数ヵ月後、完全なる世界について調査を行っていたガトウの下にアルが大怪我をしたという情報が入り、ナギが消息不明になった。ガトウは詠春に連絡を入れた。アスナを連れたまま、完全なる世界の情報を追うのは危険だと、詠春の下で匿えないか相談したのだ。結果、アスナは詠春の義父である近衛近右衛門が長を務める関東魔術協会の本部がある埼玉県麻帆良市にある麻帆良学園という学園都市で匿う事になった。
 アスナを連れ、隠れ家を出たガトウ達の前に完全なる世界の刺客が現れた。デュナミスだった。次々に闇の魔素を編み、強力な魔物を生み出すデュナミスを相手にガトウはアスナをタカミチに預け、一人戦った。デュナミスを見事に撃退したガトウだったが、自身も致命傷を負ってしまった。

「よぉタカミチ、火ぃくれねぇか? 最後の一服……って奴だぜ」

 岩に背中をもたれながら、口と腹部から夥しい量の血を流すガトウが咥えたタバコにタカミチに火を点けさせ、大きく吸った。

「あーうめぇ。さあ、行けや。ここは俺が何とかしとく」

 デュナミスは撃退したが、未だに完全なる世界の残党が周辺をうろついていた。
 アスナは首を振った。ここで残して行ったら、間違い無くガトウが死んでしまうから。

「……何だよ、嬢ちゃん。泣いてんのかい? 初めてだな」

 ガトウに言われ、漸くアスナは自分が泣いている事に気が付いた。自覚した途端に哀しみの感情が溢れ出した。溢れ出す涙を止める事が出来なかった。

「へへ……、嬉しいねぇ」
「師匠……」

 タカミチが震えた声で言った。

「タカミチ、前に言った事頼むぜ? んで、俺のトコだけ念入りに消しといてくれねぇか?」
「な、何言ってんスか、師匠!?」
「これからの嬢ちゃんには必要ないモンだ」
「ヤダ……」

 アスナの震えた声にタカミチとガトウが顔を向けた。

「ナギも居なくなって……、おじさんまで……」

 ヤダ、とガトウの手を小さな手で包み込み、アスナは涙を流し続けた。
 アスナの頭にガトウは手を伸ばし、優しく撫でた。

「幸せになりな、嬢ちゃん。あんたにはその権利がある」
「ヤダ……」

 幸せになんてなれなくてもいい。だから――。

「ダメ、ガトーさん! いなくなっちゃやだッ!!」

 アスナはタカミチに抱き抱えられながらも必死にガトウに向かって叫び続けた。愛したフェイトが死んでしまった。自分を助けてくれたヒーロー(ナギ)は行方不明、その上、ガトウまで居なくなったら、今度こそ自分は耐えられない。必死に泣き叫びながらガトウに一緒に来て、と叫び続けた。
 ガトウは腹部から血を溢れさせながら立ち上がると、最後にニッと笑みを見せ、そのままアスナとタカミチから離れ、戦場に向かって行ってしまった。タカミチは涙を流しながらアスナを抱えて逃げ出した。
 逃げて、逃げて、逃げ続けて、タカミチは英国のナギの父の居るウェールズのメルディアナ魔法学院へと逃げ込んだ。アスナもタカミチもガトウの死を嘆き哀しみ、数ヶ月が経過した。
 季節は冬になり、漸く落ち着く事が出来たタカミチはアスナを外に連れ出した。アスナは未だに哀しみを引き摺っていた。それでも、タカミチを元気付けようと、空から降ってきた雪を手に取りながら笑いかけた。
 同じ気持ちを共有するタカミチを慰める事で心の安定をギリギリの所で保っていた。

「ねぇ……、雪だよ」
「ええ、降ってきましたね……」
「……これから、どうするの?」
「日本へ行きます」
「日本……? それで……どうするの?」

 タカミチはアスナの手を握りながら微笑みかけた。

「幸せに暮らすのです。お姫様。全てを忘れて……ね」

 二人は手を繋ぎながら歩いた。雪化粧の景色の中を――。
 タカミチに連れられて、アスナは麻帆良学園にやって来た。そこで、近衛近右衛門という老人に出会い、アスナの記憶は封じられた――。

「ああ……、そうだったんだ。ガトウさんは私を狙った奴に――」

 ノイズの入り混じった光景が徐々に晴れていく。

「タカミチは私の心を護る為に記憶を封じて――」

 真っ暗な空間に、明日菜はアスナと対面していた。

『そう、そしてアスナ・ウェスペリーナ・テオタナシア・エンテオフュシアは神楽坂明日菜になった。ガトウさんのミドルネームのカグラに因んで』
「私は誰なの? 私はアスナだけど明日菜。分かんないよ。わかんない……」
『貴女と私は同じ。貴女も私で私も貴女よ。だって、ちょっとお馬鹿さんになっちゃったけど、貴女は私の理想そのもの。自分の願うままに行動し、助けたい人は助けたいだけ全力で助ける。誰かの泣いてる姿を見たくない。自分の我侭を突き通す。貴女は私と何も違わない。ただ、貴女はアスナとしての時間を忘れて、明日菜として過ごして来ただけ。だから、一つになりましょう。私と貴女は一つだから』
「私と、アスナが一つ……」
『そうだよさあ、行きましょう』

 アスナが明日菜の手を取った瞬間、明日菜の視界は反転した。そして、元の世界へ戻ってきていた。

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