第二十五話『絆』

 2003年4月23日水曜日の午前九時頃。麻帆良学園の並木道を真っ直ぐに歩く二人の少女の姿があった。

「忘れ物は無いな?」

 600年を生きた古血の吸血鬼の少女は、期待に満ちた瞳を隠し切れず、まるで容姿相応の少女の様に愛らしい笑みを零していた。本人は気が付いていないらしく、自分のカリスマ性は一切失われていないと考えている辺りに、茶々丸は自分の知らない回路が熱を放っている事に気が付いていなかった。
 ただ、只管にウキウキしている愛しい愛しい我が主、闇の眷属であり、血族の居ないただ一人の血統の始祖でありながら、漆黒のゴシックロリータが反則的なまでに似合う不死の魔法使い、童姿の闇の魔王、闇の福音、禍音の使途……その仕草一つ一つを残さずに備え付けられた機能の一つである超高性能カメラと超高性能ビデオによって記録し続けている。その一挙一動にムズムズとしながら、茶々丸は平静を取り繕ってエヴァンジェリンと談笑しながら歩いていた。

「条件付きとはいえ、良かったですね、マスター」

 茶々丸は笑みを零した。主の幸せそうな笑顔に、機械で在る筈なのに心が温まる気分だった。素晴らしい我が主。愛おしい我が主。可愛らしい我が主。貴女の幸せこそが我が幸せなのです、と茶々丸は胸の内で呟いていた。

「フンッ! 私を利用しようなどと百年早い! 早いが、奴とは長い付き合いだしな。少しは手を貸してやるのもやぶさかではない。それに、アイツ等と共に初の修学旅行を楽しむのも悪く無いしな」

 間違いなく、それが全てなのだろう。それを理解しながら、口に出す愚考を完全無欠のメイドである絡繰茶々丸が犯す筈も無かった。

「ええ、その通りです。この機会に恩を売る事も出来ますしね」
「その通りだ! 分かっているじゃないか、さすがは我が従者!」

 茶々丸の答えに満足気に頷くと、茶々丸の背負った鞄に眼を向けた。そこには、寝間着やタオル、シャンプー、石鹸、歯磨きセットにゲームに枕まで入っている。巨大な荷物を持つ事も、主の喜びを思えば全く感じない。
 武装もこの事を言い渡された昨日の昼頃から大学部に赴き、葉加瀬の秘密の研究室からありったけの機材を強奪して装備している。ついでに、超の研究室にあった、標的を原子レベルで分解する、超がノリで作ってしまい、処分しようとしていた“機体番号T-ANK-α3用試作モデル・ハイメガブラスターNK2W”も拝借している。下手をすると、そのまま某国に単身で戦争を仕掛けて勝利出来てしまい兼ねない物騒すぎる武装を身に着けながら、茶々丸は笑みを絶やさなかった。

「それにしても、まさか修学旅行先でも厄介事に巻き込まれるとは……。どうなのだ、お前の弟子の仕上がり具合は?」

 脈絡の無い質問だが、茶々丸は滑らかに答えた。

「明日菜さんはハッキリ言えば異常です。あの方の潜在能力は全くの未知数。未だ、戦闘経験の不足や技術面の不足がありますが、それを補ってあまりある才覚と反応速度、力、速度、動体視力などの規格外なまでな身体能力。彼女はそう遠くない内に最初にマスターやサウザンドマスターのクラスに上がるでしょう」
「だろうな……。魔力や気を打ち消し、召喚された存在は無機物だろうと問答無用で送還する。その上、あの異常過ぎる身体能力だ。加えて、あれの精神は凄まじい。一度死を経験して尚も立ち上がるまでにノータイムだった。あの類稀な真っ直ぐな人格を歪ませる事だけは許すな。分かっているな?」

 エヴァンジェリンは鋭く茶々丸に視線を送った。茶々丸は厳粛に頷き返した。

「承知しております。あの方の在り方は貴重です。このまま、真っ直ぐに大人になれば、彼女は“立派な魔法使い”に至れるでしょう」
「私としては、平和な職業に就かせたいのだがな」

 困ったものだ、とエヴァンジェリンは苦笑した。

「ネギさんの方はどうなのですか?」

 茶々丸が逆に尋ねると、エヴァンジェリンは鼻で笑った。

「アイツは、今は才能だけだ。過去を引き摺り、周りを巻き込んでいる事への負い目で心を責め続けている。あれでは、そう遠くない内に潰れるだろうさ」
「マスター……?」

 エヴァンジェリンの不穏な言葉に、茶々丸は怪訝な顔をした。

「だから、父親の別荘の事を話したのだ。そこで、何も掴めないなら、アイツはそこまでだ。仮に……アイツが心を本当の意味で明かせる奴が居れば話は別だがな。カモの奴は忠告してやったのに未だに本当に眼を向けるべき事を理解していない」

 エヴァンジェリンは忌々しげな表情を浮かべながら呟いた。そのまま、エヴァンジェリンと茶々丸は指定された場所にやって来た。そこは、麻帆良の郊外にある幾つかある魔術の練習場だった。ここで、魔法先生や魔法生徒は己の鍛錬をこなす。練習場に入ると、そこには見知らぬ男が立っていた。青いラインの白い狩衣を着た、腰まで伸びる黒い髪を首の後ろで白い紐で結んでいる。端麗な顔立ちの二十台半ばあたりだろう青年だった。

「ああ、来たか。待っていたぞ、エヴァンジェリンよ」

 穏やかな響きの声だった。漆黒の眼が真っ直ぐにエヴァンジェリンを射抜く。

「お前は……? 見ない顔だが」

 エヴァンジェリンは怪訝な顔をした。当然だろう、十五年もこの地に縛り付けられているのだ。魔法先生ならば、大概は顔見知りだ。いい意味でも、悪い意味でも。そのエヴァンジェリンが見た事も無いのだ。警戒をするなという方が無理な話だ。

「そう警戒しなくてよい。さて、これからお前さんを関西呪術協会に送るのだが、色々と儀式が必要でな。何しろ、お前さんがこの地に留まっているという事にして学園結界と共に他の魔法教師や魔法生徒並びに教会や魔術関係者を騙す訳だからな」
「お前が、それらを全て誤魔化せるというのか?」

 エヴァンジェリンは眼を細めた。正直に言えば、エヴァンジェリンにはどうしたらそんな真似が出来るのか想像も出来なかった。そもそも、目の前の男は怪し過ぎる。このまま信用するなど出来る筈も無い。

「警戒は当然。だが、時間は無いぞ」

 男は目を閉じながら言った。

「先に、説明をしよう。最初に、お前にはエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルであると他人に気付かれないよう認識阻害を掛ける。我が特別製の術式だ。見破られる事は無いだろう。お前さんをエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルだと理解した上でないと、お前さんをエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルと認識出来ない様にする。そして、学園結界の方は、もう既に誤魔化す準備は出来ている。儀式魔法を発動させた瞬間に、お前さんを転移させる。それで仕舞いだ」
「貴様……本当に何者なんだ?」
「その質問に意味はあるかな?」

 エヴァンジェリンは男の返しに舌を打った。巫山戯ている。言うのは簡単だが、そんな強力な認識阻害などそう簡単には出来ないし、自分が十五年掛けても解読出来なかった術式を誤魔化すなど、並大抵の事ではない。

「そうムッツリするな。とにかく、時間は無い。始めるぞ」
「……わかった。茶々丸、少し下がっていろ」
「了解しました」

 茶々丸は、男を睨みながら下がった。少しでも不穏な動きを見せれば、その瞬間に殺すという意思を持って。

 世界が波紋を広げる様に揺らいだ。瞬間、それまで目に見えぬ壁として周囲一体に偏在していた結界の力が、統制を解かれて乱れながら空気へ溶け込んだ。同時に、それまで結界によって均衡を保たれていた関西呪術協会の総本山の陰陽のバランスが崩れ、中に充満していた濃密な魔力が一気に解放され、眼には見えず、触れることも出来ない力の波動が京都全土に広がった。
 木々は活性化し、ある所では道端に突如花畑が誕生し、ある自動車車線には突如大木が発生した。吹き荒ぶ神秘的なエネルギーを肌で感じながら、一同は互いに頷き合うと、一歩その足を総本山の境界線へと足を踏み入れた。

「いいですか、目的は、総本山。恐らくは大将が居る筈です。目的は、その大将の打倒。その際に現れるだろう存在は、手筈通りに可能な限り無視して下さい。戦闘に陥る場合は、作戦通りに――。私が裏切り者の神鳴流を倒しますから、西洋魔法使いが現れた場合は明日菜さん、それに高畑先生、お願いしますね」
「任せといて!」
「ああ、任せてくれ」

 刹那は、言葉少なめに、それでも確りした返答に満足し、顔を前方に向けた。

「前方に敵影を確認しました。可能な限り、戦闘はせずに体力の温存を心掛けて下さい。それでは、行きます!」

 総本山への道のりは舗装されたコンクリートの道路だった。色取り取りの魔弾や気弾が無数に矢の如く上空から降り注いだ。

「気と魔法の合一……『咸卦法』ッ!」

 直後、タカミチは凄まじいオーラを放ちながら前方に飛び出し、ポケットに手を突っ込んだままという独特のスタイルで凄まじい衝撃波を魔弾の豪雨に向けて放った。驚愕する明日菜達に眼もくれず、タカミチは第二波を目視し再び衝撃波を放った。

「無音拳か、紅き翼のガトウ・カグラ・ヴァンデンバーグの得意とした技。それに、究極技法の咸卦法まで……。やるじゃねぇか、タカミチ」

 ネギの肩に乗りながら感心した様に呟くカモ。ネギはその魔弾の弾幕の向こう側に無数の神鳴流の軍勢を確認した。杖を回転させ、前方に投げると、その杖に跳び乗り、横を向く感じに座ると、

「加速」

と唱え、タカミチの前に躍り出た。

「ラス・テル マ・スキル マギステル。風の精霊199人、縛鎖となりて敵を捕まえろ。サギタ・マギカ・戒めの風矢!!」

 ネギの乗る杖から、無数の風の矢が飛び出し、前方に展開する神鳴流剣士達を次々に捕縛していく。美空は

「加速装置――ッ!!」

と叫びながら敵兵を跳び越すと、そのまま先を行った。
 刹那は翼を広げて明日菜と木乃香の手を取り、ネギがタカミチを杖に乗せると、そのまま敵の神鳴流の上空を跳び越した。風の戒めを受けながら、それでも魔弾や気弾を放ってくるが、ネギと刹那は重量に耐えるのに必死で迎撃に移れない。

「出でよ、二重の結界!」

 すると、木乃香が二枚の結界符を放ち発動した。エヴァンジェリンとの修行が生かされているのだ。二つの長方形で紅い枠線の複雑な文字や記号の刻まれたエヴァンジェリン特製結界符は光を放ち、拡大化して重なり合いながら回転し、ネギと刹那を守る巨大な防壁となった。

「不味いな……」

 タカミチが呟くと、前方に浮かんでいる黒髪短髪の虚ろな眼をした呪術師の女性の姿があった。女性の右手には長大な紫紺の弓が握られ、左手は弦を引いていた。だが、その左手に矢は添えられていなかった。だが、尋常でない気配と、焦燥に駆られた表情の刹那を見て、ネギは緊急事態である事を感じていた。
 女性が弦を放した直後、金色の矢が出現し、雷の槍となってネギと刹那に襲い掛かった。間一髪の所で落下する様に矢を回避した二人は、そのまま地上に降り立つとそれぞれを降ろして走り出した。
 駆け出すネギ達の上空から、再び何も持たずに弦を持ち、ネギ達に向けて弦を放つ。今度は、蒼と紅の無数の光球が螺旋状に並んだ矢が凄まじい回転をしながら降り注いだ。

「何なのあの人!?」

 明日菜が思わず走りながら悲鳴を上げた。まさか、あんなのまで居るとは想定外だったからだ。

「しまった。洗脳されている以上、どんな者も雑兵に変ると考えましたが、あの方を見る限り、そこまで甘くは無いようですね。さすがに、気配察知等の能力は低下してるでしょうが、技能の低下は無いと見るべきでしょう……」
「せっちゃん、あん人って……」
「ええ、お嬢様が京都に居られた際に華道の稽古を指南されていた方です。あの方は矢を媒介に、詠唱無しに高威力の魔術を扱える。関西呪術協会でも有数の実力者です」
「って、今度は凄いの来た――ッ!!」

 走りながら解説している刹那の言葉を遮る様に、明日菜が悲鳴を上げた。上空を見上げると、弓に掛けている右手の伸ばした人差し指の先から巨大な金色の陰陽様式の魔法陣が展開していた。八卦盤に似た魔法陣は、回転しながらネギ達を向いている。

「まさか……“天狗流星(テング・メテオ)”!? やばい、集まって下さい!!」

 独鈷杵を取り出しながら、ネギ達に血相を変えて叫ぶ刹那に、見た目のやばさも相まって慌てて集まった。

「四天結界独鈷錬殻!!」

 三角錐状の結界が展開すると同時に、女性が弦を放した瞬間、魔法陣が一瞬でビー玉程度の大きさに収縮すると、殆ど対城クラスの魔法砲撃が発動した。金色の破壊が大地を蹂躙する。結界の内側から眺めた破壊の奔流は、世界の終焉すら予感させる恐ろしい力だった。

「何なの……これ?」

 明日菜が呆然と呟くと、刹那が額から汗を流しながら応えた。

「あの方の奥義です。さすがと言いますか……。決戦奥義を使ってくるとは――」

 漸く、破壊の光が消え去った後、周囲は破壊の限りを尽くされ、美麗な景色は見るも無残なまでに崩壊していた。木々は裂け、草木は焼き払われ、大地は抉られ、虫も獣もすべてが死に絶えていた。頭上を見上げれば、今度は銀色の閃光が人差し指の先に集まっている。

「ここで時間を取られるのは不味いですね……」

 刹那が呟くと、ネギが意を決した表情で口を開いた。

「刹那さん、ここは私に任せてください」

 刹那は眼を見開いた。

「しかし…………」
「あの人の相手は飛行能力のある人間でないと……。ここで足止めを喰らう余裕はありませんから――」

 ネギの言いたい事は理解出来る。先に進むには、自分が居なければならない。だが、ネギを一人で置いていくには、相手が悪すぎる。

「大丈夫です。必ず追いつきますから」

 ネギが刹那を真正面に捕らえて告げると、刹那は一瞬眼を閉じて

「分かりました」

と一言搾り出すように呟いた。

「必ず追い掛けて来て下さい。貴女が居なければ、勝率は大幅に下がってしまうのですから」

 ネギは確りと頷いて見せた。直後、女性の放った銀色の閃光が弾け、無数の銀の光球となって虚空に浮かんだ。そして、爆発するように互いを銀色の閃光で結びつけ合い、ネギ達を完全に捕縛した。

「囲まれたッ!?」
「なら、私が――ッ!!」

 刹那が眼を見開くと、明日菜がハマノツルギを握って駆け出そうとする。

「いいえ、私が道を開きます」

 その明日菜を制して、ネギが杖を振るった。

「ラス・テル マ・スキル マギステル! 来れ雷精 風の精 雷を纏いて 吹きすさべ 南洋の嵐 “雷の暴風”!」

 銀の捕縛結界を蹴散らし、雷を纏った真横に倒れた様に伸びる竜巻が道を切り開いた。

「行って下さい!」

 ネギが叫ぶと、明日菜がネギを見た。

「信じてるからね」

 その言葉に、ネギは笑みを浮べた。

「はい。待ってて下さいね」

 それだけで、明日菜は満足して走り出した。もう振り返らない。後方はネギに任せたのだ。敵の攻撃を心配する必要も、ネギの身を案じる必要も無い。
 “あの程度の魔術師”にネギは負けないと信じているから。その信頼を見て、刹那はクッと笑みを浮べた。ネギを残す事を心配した自分は、結局ネギを信じていないだけなのだと理解したから。

「お願いします、ネギさん!」

 それだけで、明日菜の後を追った。

「頑張るんだよ、ネギ君」
「ネギちゃん、待ってるで?」
「カモ君も」
「姉貴……」

 タカミチと木乃香はそれだけを言うと、笑みを浮べてそのまま走り出した。ネギに促され、タカミチの肩に乗ったカモは僅かに心配そうに顔を向けたが、去って行った四人に背を向け、ネギは上空に浮かぶ魔弾の射手に顔を向ける。
 虚空に君臨する女王が如く、女性はネギを感情の無い瞳で見下ろしている。

「謝罪は後でします。罰も必ず受けます。だから、今は……貴女を倒します」

 ネギはそう言うと、杖に乗り女性に向かって翔け出した。女性はすかさず、ネギではなく逃げ去った明日菜達に向けて水色の輝く鋭い槍を指先に発生させた。

「ラス・テル マ・スキル マギステル! 影の地、統ぶる者。スカサハの我が手に授けん。三十の棘もつ愛しき槍を。『雷の投擲』!」

 放たれた氷結の矢は、ネギの雷の槍によって相殺された。そのまま、エヴァンジェリンとの修行で鍛えた魔力の操作によって、無数の雷弾を操り、四方八方から女性に襲い掛からせる。
 すると、女性は懐から符を取り出して迫り来る雷弾に向けて回転する様に投げた。それぞれの符が金色に煌き、まるで膜の様に女性を覆って雷弾を防いだ。

「凄い……」

 ネギは思わず感心してしまった。弓による遠距離だけでなく、近距離の防御も凄まじい。エヴァンジェリンが言っていた言葉を思い出した。
『いいか? 魔法使いの基本は固定砲台だ。前面を従者に護らせ、後方から支援する。その為に、遠距離の攻撃に重きを置きたくなるが、むしろ防御力を高める事が最も重要なのだ。何せ、後方支援というのは、味方の前衛からも距離が離れるからな。自分の身を護るくらいは自分でしなければならんのだ』
 目の前の女性は、その後方支援タイプの魔術師の極みと言えた。圧倒的な火力と、自己防衛。ネギは知らず唾を飲み込んでいた。気を引き締め直す。標的をネギに絞った女性の指先に蒼と紅の光球が螺旋構造を描いて出現した。
 まるで、それはテレビや教科書でよく見るDNAの様だと思った。放たれた光球は螺旋回転しながらネギに凄まじい速度で向かう。すかさず真横に回避するネギは目を見開いた。螺旋回転していた光球が弾け、放物線を描きながらネギに迫ってきているのだ。

「追尾型!? ラス・テル マ・スキル マギステル! 風花・風障壁!!」

 風がネギを護る様に渦巻く。風の障壁に着弾した光球が弾けて障壁を貫通して熱を感じさせる。ネギは反撃を試みようと顔を向けた瞬間、既に女性は次の攻撃に移っていた。
 瞬間、ネギを取り囲むように緑色の光球が出現し、弾けた瞬間にまるで膜の様にネギの居る空間を覆った。そして、今度は左手に光の矢を構えている。

「不味い!」

 ネギは焦燥に駆られたまま呪文を詠唱した。

「ラス・テル マ・スキル マギステル! 風の精霊17人、集い来りて敵を射て! サギタ・マギカ、収束・雷の17矢!!」

 矢を緑色の光の壁にぶつけた瞬間、消えたかどうかを確認する暇も惜しんで当てた場所に飛び込んだ。

「え?」

 弾き返された。翠の壁は健在だった。直後、女性の放った光の細く長い矢がネギの右腕を貫通した。そして――、悲鳴を上げる暇も無い。光の矢は翠の壁に激突すると、反射して再びネギに襲い掛かったのだ。

「!?」

 それは、“死へと迷い込む竹林”という術だった。その中に閉じ込められたが最後、狂った様に跳ね回る光の矢に徐々に切り裂かれ、突き刺され死んで行く。
 ネギは翠の球体状の空間で凄まじい速度の銀の閃光を殆ど勘だけで避けていたが、全身が血塗れになり、激痛に顔を歪めていた。ネギはこの術式の唯一の突破口を理解していた。それは、最初に矢が中に入って来た時の事を考えれば一目瞭然だった。

「外からの攻撃なら。でも……」

 外から破壊しようにも、自分は中に居るのだ。その上、外には味方は居ない。ネギは一対一で相手をするべきでは無かったのだと理解した。そして、苦悶を浮かべながら倒れ込み、銀の閃光が襲い掛かる瞬間に、無意識に呟いていた――。

「たす……けて」

 その、掠れた弱々しい声を、たった一人が聞きつけていた。ガラスの割れた様な音が響き、ぼやけた視界の緑が消え去り、自分の体を誰かが抱えていた。

「ったく、後方支援の魔法使いが一人で戦おうとか無茶苦茶やで?」

 あまり優しいとは言えない言葉だったが、その声の響きに、ネギは安堵の笑みを浮かべ……おでこに衝撃を受けた。

「痛ッ!?」
「何ニヤけてんねん、きしょいで?」
「……………………」

 痛みを訴えると、返ってきたのは冷たい声だった。薄っすらと眼を開くと、痛みで苦悶の声を上げた。ギシリと微かな音が聞こえた。それは、小太郎の歯を噛み締める音だった。

「血、流し過ぎや。アホたれ」

 口元を指で拭われ、優しく抱き締められた。

「ちょっとだけ我慢しとれ。すぐ、木乃香の姉ちゃんとこ連れてったるからな」
「うん……」

 痛みに頭がポゥっとなりながら、ネギはそれだけを言うと意識を手放した。
 小太郎は、ネギ達が女性と出会う少し前に千草と合流しようとしていた。千草の方も、小太郎の気配を察して向かって来ていた。そして、刹那からの念話を受けた千草はそのまま刹那達を援護する為に追いかけ、小太郎がネギの援護をする為に走って来たのだ。ギリギリで間に合ったとはいえ、ネギの体はアチコチに穴が空いてしまっていた。
 頭に血が昇り、沸騰した様に熱を持ち、ガンガンと痛くなった。怒りのあまりに視界が揺らいだ。上空に浮かぶ女性は、再び銀色の光の矢を弦に番えて二人を狙っていた。
 ドガッという打撃音が響いた――。

「後ろがお留守やで?」

 崩れ落ちる様に意識を失い落下する女性を抱き止めた小太郎が呟いた。洗脳されているが故に、気配を察知するなどの感覚的な行動は取れなかったのだ。視界に映らない完全な死角からの不意打ちだった。女性を抱き抱えているもう一人の影分身である小太郎の視線の先、森の中にはもう一人の小太郎が狗神を放った状態のまま右手を掲げて立っていた。女性を抱き止めた影分身と狗神を放った影分身を消し、ネギを抱えたまま駆けだした。

 流れ往く景色を尻目に、明日菜達は走り続けていた。既に何十、何百の呪術師や神鳴流を空を跳び、千草の木属性の拘束でやり過ごしている。明日菜達が敢えて舗装された道を走っているのは、千草のバックアップを最大限に活用する為だ。森の木々の合間を縫って行くと、時間が掛かる上に直ぐに疲弊してしまう。更に、明日菜達が目立つ事で、森の中の千草の存在が気付かれる事無く、援護を容易くしているのだ。総本山が目視出来る地点に到達した時、炎の塊が飛来した。明日菜がすかさず斬りかかろうとした瞬間、炎の球は弾け、巨大な“大”文字を描き出した。

「これは、“京都大文字焼き”!?」

 刹那が叫ぶと同時に、タカミチが居合い拳によって大文字を吹き消した。土煙が舞い上がった先に、スラリとした人影があった。真紅の袴に白の着物、濡れた様に艶やかな黒髪は腰まで伸びているのを白い紐で首の後ろにて結わいている。その右手には一振りの太刀が握られ、光の灯らない瞳がジッと明日菜達を見つめていた。
 刹那の眼が見開かれる。声も出ないほどの驚愕に、精神がおいついてこないのだ。

「せっちゃんの……お師匠様?」

 木乃香が呆然とした様に呟くと、明日菜達はギョッとした。

「あれが……刹那さんの師匠?」

 鋭い眼差しだが、その美貌は類稀だった。柔和という言葉が似合わない、その気品は洗脳されている状態で尚も揺らぐ事が無く、その存在は、圧倒的なまでに場を支配していた。
 刹那の師匠は、その白き柄の太刀を振り上げた。刹那は反応が一瞬遅れてしまう。その前面にタカミチが飛び出した。だが、刹那の師匠の放った斬撃を防ぐ術をタカミチは持っていなかった。舌を打つと、視界に新たな影が現れた。
 バキンッというガラスの割れた様な音が響き渡る。ハマノツルギによって、刹那の師匠の斬撃が破壊された音だ。

「行って、皆。この人は、私がやる」

 明日菜は、両手でハマノツルギを構えながら宣言した。

「待ってください! 母上は長の警護担当をしている程の実力者なのです。ここは、私が!」
「駄目。お母さんと刃を交えるのは論外よ。大丈夫、負けないし、怪我もさせない。時間を稼いだら全力で逃げるから」

 刹那の声を遮り、明日菜は威風堂々の構えで言った。

「明日菜君。なら、ここは僕が引き受ける。彼女の実力は君よりも……」

 タカミチが全てを言い切る前に、明日菜は頷いていた。

「分かってます。でも、ここから先、まだ現れていない西洋魔法使いや、裏切り者の神鳴流が待ってます。高畑先生抜きじゃ……勝てないと思います」

 明日菜の考えに、タカミチは

「それでも……」

と明日菜に声を掛けようとした。だが、明日菜は薄っすらと優雅に微笑んだ。

「それに、こういう瞬間はこれから何度も来ると思います。その時に、何時でも誰かを頼れる状況とは限らないんです。だから、今は少しでも経験を積みたい……って、茶々丸さんの教えそのまんまですけど」

 にゃははと笑みを浮かべながらも刹那の師匠に対敵する明日菜を、タカミチは呆然と、眩しい者を見るかの様に眺めた。ゾクゾクする、神楽坂明日菜という少女の強さに。圧倒的と分かっていながら、それに立ち向かおうとするその姿に、嘗ての英雄達の姿を幻視させた。
 ああ、やっぱり僕とは格が違う。溜飲を下げる。神楽坂明日菜の心の高揚に反応して輝きを増すハマノツルギ。
 オレンジ色の髪の少女は、まさしく今、嘗て自分の憧れた英雄に助けられていた少女ではなく、一人の戦士として存在しているのだ。英雄と呼ばれる存在になれるだろう器がある。自分ではどうあっても到達不可能な領域に、彼女は僅か数ヶ月に足を踏み入れたのだ。
 “新しい時代で活躍する者(ケンデバイオス)”……なんて眩しい。近右衛門の嘗て言っていた言葉が理解出来た。時代は、動いているのだと。
 最早、サウザンドマスター率いる“紅き翼”さえも過去の存在なのだ。新たな時代は、新たな世代が切り開く。自分は、そこから漏れてしまっているのだ。胸がギシリと痛んだ。羨ましい、そんな感情が恥しい。羨望の眼差しで見るなど間違っている。それが分かっていても、タカミチにはその情動を抑えるしかなかった。

「分かった。必ず、無理はしない事を約束してくれ。危険を感じたら即座に逃げる。分かったね?」

 タカミチは、心の内を必死に覆い隠しながら言った。明日菜は、そんなタカミチの内心も知らずに、愛しい人からの言葉を笑顔で受け取った。

「明日菜さん、構いません。母上を倒して下さい。母上とて、こういう事態は常に覚悟している筈ですから」

 刹那が言うと、明日菜は首を振った。

「違う、間違ってるわよ、刹那さん。覚悟がどうとか関係無いの。私が怪我を負わせないって言ったのは、むざむざ洗脳されて私の前に現れたこの人の為で言ってるんじゃない。私は、お母さんを傷つけられて、刹那さんが悲しむのが嫌なの。それだけよ。私の我侭。覚えといて、私の行動原理は何時だって、私の我侭なんだから!」

 明日菜がニヤリと笑みを浮かべた瞬間、ハマノツルギの光は閃光の如く輝きを強めた。まるで、それは地上の太陽の様だった。

「明日菜、せっちゃんのお母様を頼んだで?」
「まっかせなさ~い! 木乃香も、お父さんやお母さんを助ける為に走りなさい。必ず追いついて、木乃香を助けに行くから」

 お互いに満面の笑みを交わし合う。それは、親友同士だからこそ通じ合うモノ。言葉の裏に、お互いの複雑な心を全て認め合い、互いを信じ、互いにエールを送り合う。
 刹那達が先を行こうとした瞬間、太刀を振るおうとした刹那の師匠の太刀を明日菜が凄まじい威力の斬撃で押えた。否、吹飛ばした。茶々丸の選択した、明日菜に最も適した剣技とは、日本の“技で切る”ではなく、“力で斬る”というものだった。その圧倒的な常識外れの馬鹿力と、常識外れのスピードと、常識外れの動体視力と、常識外れの反応速度。そして、神楽坂明日菜の剣技の特徴は剣と蹴り、拳を操る特異なものだった。
 吹飛ばした刹那の師匠を、そのまま体を一回転させて遠心力の加わった恐ろしい威力の斬撃によって追撃する。卓越した剣技を持つ刹那の師匠はそれを受け流すが、あまりの威力に衝撃を殺しきれず、耐え切れずに距離を離した。螺旋回転する斬撃が放たれる。

「無駄ッ!」

 バキンッ! という音と共に斬撃が破壊され、明日菜はただ真っ直ぐに刹那の師匠に迫った。軸足である右脚で刹那の師匠の手前の地面を蹴りつける。ガクンと明日菜の体が沈みこみ、刹那の師匠の迎撃の斬撃が逸れる。そのまま明日菜は逆立ちになって刹那の師匠の顎を蹴り上げる。それでも怯みもせずに刹那の師匠は隙を作った明日菜の胴を真横に凪ごうと太刀を振るった。だが、太刀は虚空を切り裂く。
 明日菜は逆立ちの状態で跳び上がっていた。重たそうな甲冑を着ながら、まるで軽業師の如く。そのまま背後を取った明日菜は、振り返り様に百花繚乱を放つのを真正面から受け止めた。
 つい、顎蹴っちゃったけど、後で、謝ろう……。気の斬撃が、明日菜に当った瞬間にそよ風に変ってしまう。明日菜は暢気な事を考えながら、刹那の師匠の太刀にハマノツルギを叩き込む。そのまま、息もつかせずにハマノツルギを連続で叩きつける。閃光の軌跡が無数に残影を残しながら明日菜は刹那の師匠を押していく。

「ハアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」

 疾風怒濤の連続攻撃、その一つ一つの斬撃がシャレにならない威力を誇る。
 巧みに太刀が折れないように立ち回れる刹那の師匠の技術が凄まじいと理解出来る程に、神楽坂明日菜の怒涛の斬撃は怖気の走る程だった。ハマノツルギが振るわれる度に、その衝撃波が大地を蹂躙し、木々を抉り、空気を破裂させる。ドラムを叩いているかの様な空気の破裂音が絶え間なく続いている。
 瞬動を用いて距離を離す刹那の師匠に、尚も明日菜は追撃する。洗脳されていなければ、明日菜の能力の弱点を突き、攻略も出来ただろうが、技能だけで知力や気配察知などの能力がなくなってしまった刹那の師匠は、神楽坂明日菜にとって敵では無かった。放たれる奥義級の技も意味を成さず、決戦奥義すらも明日菜に傷一つ負わせられない。魔術や気を直接使っている限り、神楽坂明日菜に勝利する事は出来ない。魔術や気を、現実に存在する魔法と関係の無いものでコーティングする程度ですら現在の明日菜を相手ならば攻略は可能だが、知性の働かない刹那の師匠はその考えに至れなかった。

「これが、茶々丸さんと一緒に作った……私の必殺技!」

 叫びながら、光の奔流と化しているハマノツルギを後ろで振り被った。あまりにも眩しい光は、森の木々の合間を縫い、漆黒の闇を照らし尽くした。ネギから供給される魔力。そして、神楽坂明日菜の所有する魔力、それらをただ感覚的に、理論も何も無く、ただ茶々丸に言われるままに何度も練習して作り上げた現在、神楽坂明日菜が仕えるたった一つの“型”。
 右脚を前に踏み込み、両手で振り被ったハマノツルギに魔力を流し、全力で振り切った。収束されている訳でもなく、ただ暴れ回る凶暴な光の斬撃が地面を抉りながら眼にも留まらぬ速さで一気に刹那の師匠に迫る。制御が一切利かず、周りに味方が居た場合、巻き込む可能性が高くて絶対に使えない諸刃の剣。
 ただ適当に篭められた魔力は量もランダムで、威力の強弱にも落差の激しいとんでもなく未完成な、だが明日菜の放てる最強必殺奥義だった。刹那の師匠は、ランダムな動きの光の斬撃を回避するが、ソニックムーブが発生し、体は切り裂かれ、体勢は完全に崩れていた。

「ごめんな……さいッ!」

 そして、跳び上がった明日菜の拳が深々と刹那の師匠の腹部に埋め込まれ、刹那の師匠は意識を失った。何せ、障壁が全く意味を成さず、水の膜を割った程度の抵抗すら出来なかったからだ。

「うん、強くなってる」

 拳を握り締め、しみじみと自分の勝利を心に刻んだ。

「さて、行かなくちゃ」
「お~いッ!!」

 走り出そうとした明日菜の背中に、僅かに高い少年の声が掛けられた。明日菜が振り向くと、そこにはネギを抱き抱えて走る犬上小太郎の姿があった。犬上小太郎が近づいて来て、ネギの姿を確認すると、明日菜は小太郎を殺意を篭めた眼で睨んだ。

「違う。ワイやない」
「アンタ……、そっか。思い出したわ。ごめん」

 明日菜は小太郎の顔を見て、湯豆腐屋で会った少年だと思い出した。

「ネギ……」

 体中から夥しい量の血を流すネギの姿に、明日菜は唇を噛んだ。小太郎に抱き抱えられながら、苦悶を浮かべるネギに明日菜は険しい顔をするとその頬に手を当てた。

「頑張ったんだね、ネギ。なら、私ももっと頑張らなきゃね」

 明日菜は先行した刹那達の向かった方向を向いた。

「小太郎……だったわね?」
「ああ」
「私は明日菜。神楽坂明日菜よ。ネギをちゃんと抱えてなさい。落としたら……承知しないわ」

 感情を高ぶらせ、ハマノツルギの輝きを強める。その姿に、犬上小太郎は眼を見開きながら頷いた。

「ああ」

 小太郎の返事に明日菜は頷くと、駆け出した。慌てて、小太郎も後を追う。走りながら、途中で現れた敵を、明日菜は一人残らずハマノツルギの峰で殴り飛ばした。ネギを抱き抱える小太郎に敵が行かない様に。
 ネギの体の傷を見て、苛立ちを覚えた。信頼して残したのは自分の判断だ。そして、その判断を間違っているとは思っていない。思っていないが……怒りを覚えた。自分に対して、敵に対して、そして……ネギに対しても。
 ネギが負けるなんて思っては居なかった。だが、負けた。それが許せなかった。勝てないなら、自分を頼って欲しかった。だって、ネギは自分を召喚出来たのだから。こんな風になる前に、自分の迷惑なんて考えずに、召喚して欲しかった。だから、これは八つ当たりだ。敵の生死も確認せずに、凶暴な破壊力の斬撃を振るい続ける。
 あの夜に、一人で戦おうとしていた少女に無理矢理加勢したのは自分だ。ネギは巻き込んだと思っているのだろうが、実際はカモの言葉を聞いて、受け入れて、助けようとしたのは自分の意思なのだ。あの日の決意が、ネギに届いていなかった。それが、明日菜の心を傷つけた。

「ふざけんな……」
「?」

 明日菜の呟きに、小太郎が首を傾げた。

「フザケルナアアアアアアッ!!」

 明日菜は耐え切れずに絶叫しながら、更に勢いの増した斬撃を振るった。明日菜の怒りの形相に、小太郎は眼を見開いた。何を怒っているのか分からない。ひょっとすると、ネギが傷つけられたからかもしれない。多分そうなのだろうと、小太郎は適当に考えて追求しなかった。
 怒りのままに敵を蹴散らしながら全速力で道を駆け抜けた明日菜と小太郎は、総本山のすぐ手前で、固まっている刹那達に追いついた。そこには、刹那と対敵する二刀流の神鳴流、月詠の姿があった――。

 闇夜に浮かぶ満月の様な二つの眼。白いフリフリの沢山ついたゴシックロリータを着た、二振りの太刀を握る眼鏡の少女はこれから始まる、待ち焦がれていた先輩である刹那の師匠刹那との戦闘に、頬を上気させ、狂気を瞳に宿し、全身を電流が走るかの様な快感に酔い痴れていた。
 月詠は総本山の眼前で刹那達を待ち受けていた。総本山は薄っすらとオレンジ色の壁に覆われていた。やって来た刹那達は、月詠の二刀流と、狂気に満ちた瞳を見た瞬間に理解した。
 裏切り者の神鳴流――。刹那が一歩前に足を踏み出した。表情の消えた顔で、冷徹に月詠を睨みつける。

「お前が裏切り者か――?」

 底冷えする程冷たい響きの声が響く。それが、刹那の口から発せられたものだと木乃香達が理解するのに間が在った。月詠は怖気の走る様な気味の悪い口を半月状に開いた笑みを浮かべた。ダランと腕を垂らした様な状態で右手に夕凪を握り、月詠を睨む。

「先輩。刹那先輩」

 熱に浮かされた様な蕩ける様に甘い響きの声。全身に鳥肌が立ちそうなほど気色の悪い声だった。夕凪に似た僅かに夕凪より短い太刀を右手に、七首十六串呂の一刀と同じ程度の長さの短刀を左手に握り、眼が普通の状態に戻った。

「うふふふ。この時が来るのを心待ちにしていましたわ。セ・ン・パ・イ」
「先輩?」

 木乃香が首を傾げると、月詠は詰まらなそうな視線を木乃香に向けた。その瞳はどす黒く濁り、得体の知れない感情が灯っていた。すると、木乃香達の後方から凄まじい速度で迫る金色のナニカが視界の内に現れた。ハマノツルギを振るう神楽坂明日菜と、その後方に続く犬上小太郎と抱えられたネギ・スプリングフィールドだ。明日菜は立ち止まっている木乃香達に合流した。

「どうしたの? アイツは……」

 明日菜は月詠の握る太刀と短刀を見て眼を見開いた。小太郎も鋭い眼差しを向けるが、すぐに顔を逸らし、聞いていた特徴と一致する木乃香に顔を向けた。

「アンタが木乃香の姉ちゃんか?」
「ネギちゃん!」

 小太郎が尋ねると、木乃香は目を見開いた。ネギの血塗れの体に血相を変えて東風の檜扇を開いた。ネギと分かれてから十分以上経過している。ネギが何時頃怪我をしたのかは分からない。木乃香のアーティファクト、“南風の末広”は三十分以内ならば怪我以外の状態異常を回復させる。そして、“東風の檜扇”は“三分以内”に負った即死以外の傷を完全に修復する。そう、肝心の怪我を治す方の東風の檜扇の制限時間はたったの三分なのだ。

「小太郎君……やね? ネギちゃんが怪我してからここまで来るのにどんくらい掛かった?」

 木乃香が尋ねると、小太郎は意味が分からなかったが、必要がある事なのだろうと悟り直ぐに応えた。

「即効で倒してからここまで一直線に走り続けたさかい、まだ三分経ったくらいやないかな……」
「それなら、完全治癒は無理でも……」

 木乃香はすぐさま東風の檜扇に魔力を流した。数分程度の後れならば、効果は薄まるが発動は出来る。小太郎がネギを地面に寝かせると、深く息を吸って呪文を唱えた。詠唱する呪文は、エヴァンジェリンがカモと共に考え出した木乃香専用の呪文だ。

「氣吹戸大祓 高天原爾神留坐 神漏伎神漏彌命以 皇神等前爾白久 苦患吾友乎 護惠比幸給閉止 藤原朝臣近衛木乃香能 生魂乎宇豆乃幣帛爾 備奉事乎諸聞食 」

 “氣吹戸”の神は、生命の力を……即ちは氣を吹き込む神であり、再誕の意味を持たせている。更に、大祓詞の出だしをアレンジし、五摂家の一つであり、近衛家の先々代……つまりは近衛近右衛門の先代がこの国の長を務めた事もある事を取り入れ、天照大神を始めとする皇室の祖先神を取り入れている。
 そして、呪文の意味は――《ああ、偉大なる神々よ、我が盟友に施しを頂きたい。代償と致しましては、近衛木乃香の生命の力(氣)を貴品として、捧げます事をお誓い申し上げます。どうか、お受け取りになって下さい》――というものだ。
 平安時代末期の公卿にして、関白である藤原忠通の子である正二位・摂政・関白・左大臣・贈正一位太政大臣の藤原基実が、久安6年に、8歳で正五位下左近衛少将に叙任された事によって、『近衛家』という呼び名が始まった事を考え、本姓は『藤原』であるという名乗りを取り入れ“藤原朝臣近衛木乃香能”と呪文に取り入れられた。この、本姓と苗字は別のものであり、本姓が藤原、苗字が近衛であり、“藤原朝臣近衛木乃香”というのは、近衛木乃香の“真名”なのだ。
 金色の光が木乃香の体を包み込み、その光はやがて木乃香の手にある東風の檜扇へと萃まりだし、その光がネギを包み込んだ。傷跡に光が集中し、眩しいほどに輝くと、僅かに傷跡を残しながらも、大方の傷が塞がった、ネギの表情からも苦悶が若干薄れた感じだ。
 大規模な回復魔術に、木乃香は肩で息をしながらもハンカチを取り出してネギの顔を拭った。ネギの瞼が僅かに動いた。

「あ……っ」

 薄っすらと目を開いたネギの目に、木乃香と小太郎の安堵の笑顔が映った。

「木乃香さん……。それに、小太郎も。木乃香さんが治療してくれたんですね? ありがとうございます」
「いいえ。せやけど、まだ傷跡残ってるんや。このまま残すは良くないさかい、全部終わったらちゃんと直そうなぁ?」
「はい」

 木乃香が優しい手つきでネギの頭を撫でると、ネギは気持ち良さそうに目を細めた。

「小太郎もありがとう」

 ネギが笑みを浮かべてお礼を言うと、小太郎は
「オウ」
とだけ言うと、肩で明日菜を指した。

「あっちの姉ちゃんにもお礼言っとけよ? ワイがお前運んどる最中、来る奴一人残らず叩きのめしてくれたんやからな」

 ネギは目を見開いた。明日菜との修行は殆ど別々で、それほど明日菜が強くなっているとは思っていなかったからだ。

「ありがとうございます明日菜さん。それとごめんなさい、信じていただいたのに、負けてしまいました」

 俯くネギに、明日菜は思いっきり拳骨を落とした。

「アグッ!?」
「ちょっ!?」
「何しとんの明日菜!?」

 いきなりの明日菜の暴挙に、小太郎と木乃香は驚いて声を上げた。ネギは全身の痛みと相まって気絶してしまった。が、明日菜は気付いていなかった。

「あのね! ありがとう……じゃないわよ全く! アンタ、私の事なんだと思ってるわけ!? 最初の時だって巻き込む云々言ってさ! そんなん、ネギだってお父さんの皺寄せが来ちゃっただけじゃん! なのに、こっちが自分の意思で助けるって決めたのに人の気持ち華麗にスルーしてくれちゃってさ! 今回だってそうよ! そんな怪我する前に私の事呼べばいいじゃん! 何の為の仮契約よ! 私の身を護る為の装備と魔力供給じゃないでしょ!? そんなんじゃどっちが従者か分かんないじゃない! きぃ~~~~~~っ!!」

 明日菜が一気に捲くし立てると、恐る恐る小太郎が手を上げた。

「あ、あの……」
「何よ!」

 ギンッと睨みつける明日菜に、若干引きながら小太郎は遠慮がちに言った。

「ネギの奴……気絶しとるで?」
「え……?」

 騒いでいる明日菜達を背に、刹那とタカミチは彼女たちを護る様に立っていた。

「五月蝿いお人達どすなぁ」

 ネギの無事を確認し安堵していた刹那は、月詠の言葉に再び心を冷やした。

「高畑先生、下がってください」
「しかし……」
「これは、神鳴流の問題です。この裏切り者だけは、私の手で……」

 タカミチは息を呑んだ。その少女から発せられたとは到底思えない濃厚な殺意に――。肌がびりびりと斬りつけられるかの様に空気が緊張し、気温が急激に下がったかの様な錯覚を受けた。ネットリとした憎悪が、舌を乾かせる。

「名を名乗れ――」

 刹那が口火を切ると、月詠は悦に浮かされた笑みを浮かべた。その瞳には、刹那に名を尋ねられた事に対する底知れぬ喜びを讃えていた。

「――二刀流剣士、月詠」

 心の底から喜びを表現する様に、月詠は自分の名を名乗り上げた。

「そう名乗るか、ならば……、覚悟は出来ているな!」

 刹那の怒声が響き渡る。そのあまりの殺気に、眠っていたネギも目を覚まし、全員が声も出せずに押し黙った。ただ、刹那の一挙一動を見守るだけとなった。

「皆さんは後ろに。こいつを倒せば、もう最後の戦いになりますから、一斉に突入しましょう。しばしお待ちを。まぁ、結界が張られています。どちらにしても、こいつを倒さないと先には進めないでしょうから、少々お待ちを――」

 刹那は振り返らず言った。そして、七首十六串呂を上空に展開し、瞳孔の開いた眼差しを月詠に向けた。

「京都神鳴流・刹那の師匠刹那の名に於いて、月詠ッ! 貴様をこの場で処刑する!」

 直後、空気が弾けとんだ。動いたのはほぼ同時、ギィィィィィンという金属のぶつかり合う甲高い音が鳴り響き耳が痛くなる。

「この数日の間がどれほど長く感じられた事か……。目の前に旨そうなお肉をぶらさげられてずっと“待て”ですもん」

 鍔迫り合いをしながら、熱に浮かされた瞳を潤ませて月詠は舐める様に刹那を見つめながら言った。刹那は舌を打ち、月詠を弾き飛ばす。弾き飛ばされた月詠は頬を火照らせながら長い方の太刀の刃を舐め上げる。

「もう……ずぅっとお預けくろてて……ウチ……ウチもう……我慢できひん」

 ハァハァと荒く息を吐きながら、怖気の走る妖気を放ち、月詠は刹那を見つめた。

「センパイ。刹那センパイ。ウチを満足させて下さい。センパイが満足させてくれへんかったら。ウチ……周りにおる木偶まで斬ってまいそうですぅ――」

 刹那は月詠の醜悪な感情を受け流し、再び白目と瞳の色の反転した月詠の目を睨みつけた。

「参るッ!」

 刹那が弾ける様に月詠に攻め込む。月詠はゾクゾクする体中に走る快感に身を振るわせながら刹那の夕凪を受け止めた。刹那は真っ白に輝く翼を展開し、凄まじい速度で月詠を攻め立てた。刹那の飛行速度は修行によって格段に飛躍し、走るよりも何倍も速くなっていた。
 月詠は狂気の笑い声を上げながら、刹那の怒涛の攻撃を防ぎ続けた。夕凪と同時に、七首十六串呂の十六本の七首が緩急をつけて月詠に襲い掛かるが、月詠は太刀と短刀を巧みに操り防ぎきる。
 月詠……これほどとは! 月詠の技量は凄まじく、並みの才覚ではないと刹那は理解した。故に惜しい、それだけの才覚を持っていれば、必ずや大成していただろう。だが、近衛木乃香を裏切った時点で、月詠の運命は決まっているのだ。

「さすがセンパイ。師が良かったんですな~。正道の神鳴流の剣捌きに、実戦に裏打ちされた見事な技量。センパイに勝てる人など、この世界にもそうはおらんでしょう?」

 月詠の言葉に、刹那はつい笑ってしまった。

「いいや、私より強い者など幾らでも居る。世界が狭いな、月詠!」

 刹那の鋭い斬撃が刹那の言葉に戸惑う月詠の懐に侵入する。間一髪で背後に回避した月詠に向け、上空から七首十六串呂の六本が波状攻撃を仕掛け、それを更に後方に移動しながら躱していく。直後、全身に鳥肌が立った。本能のままに転ぶように真横に避ける。すると、後方から七首十六串呂のイが凄まじい速度で月詠の居た空間を貫いた。
 月詠は立ち上がろうと地面に手を突くと、突然影に覆われ上空を見上げた。

「雷光剣!」

 炸裂する雷の斬撃。月詠の体を破壊の光が蹂躙していく。必死に効果範囲から離脱した月詠に七首十六串呂が四方八方から飛来する。十分な加速距離を持って最高速度に達した十六本の七首が月詠を串刺しにしようとする。

「クッ――!」

 月詠は太刀と短刀を巧みに振るい全てを叩き落とすが、その表情には苦悶の色が走った。そこに、休む暇も与えずに刹那が夕凪を振るった。
 それは剣士としての極致。右に振るえば斬岩剣。左に振るえば、斬空閃が跳び、曲線を描いて月詠を攻め立てる。すべての動きが技となる。距離を離した瞬間に、斬鉄閃の螺旋を描く斬撃が追撃し、その瞬間に刹那は距離を縮める。凄まじい手数と、凄まじい力と、凄まじい技。防御から他への行動を一切許さぬ怒涛の攻め。明日菜の力押しの攻めではなく、技術による隙の無い攻めだった。

「こんな――ッ!?」

 月詠はあまりの事態に焦燥に駆られた。翼によって底上げされた速度、更に、刹那が麻帆良に行く前に見た時の技量を遥かに越えた技量。刹那の実力は、月詠の想像を遥かに凌駕していた。

「センパイッ!」

 それでも、月詠は攻めに転じようと短剣を突き出し――。刹那は七首十六串呂のイを左手に引き寄せた。そのまま、神速の斬撃を振るった。

「――秘剣・飛燕抜刀霞斬り」

 一瞬で左右の夕凪と七首十六串呂・イによって生じた凄まじい数の攻撃回数に、月詠の左手は切り裂かれ、凄まじい量の血が噴出した。明日菜達は何も口に出来なかった。あまりにも壮絶な戦いに――。

「あは……アハハハハハハハハハハハ!! 楽しいッ!! ウチ、とっても楽しいですわぁセンパイッ!!」

 月詠はまるで気が触れたかの様に笑い出した。月詠は瞳の狂気の光を強めた。

「二刀連続斬鉄閃――ッ!」

 月詠は笑みを深め、直後、振るう太刀と短刀から連続で螺旋回転する斬鉄閃を刹那に対して放った。大地を抉り、空気を巻き込んだ螺旋回転の大量の斬撃刹那は上空に飛翔して回避する。

「空中に逃げても無駄ですぅ。斬光閃!」

 月詠の太刀から、上空の刹那に向けて光の属性を纏った斬撃が放たれる。あまりの弾速に刹那は避ける事が出来ずに受け止めた。その一瞬の隙を突いて、月詠は太刀を刹那の翼に振り落とそうとしていた。

「――――ッ!」

 刹那は咄嗟に翼を消し、回転しながら月詠の太刀を夕凪で受けた。そのまま、月詠の斬撃の衝撃を利用して一気に地上に降り立つと、七首十六串呂を落下してくる月詠に射出した。矢の如く打ち出される七首十六串呂は、半分をカクカクと複雑な動きをさせ、半分を月詠まで一直線に最短距離を向かわせた。月詠は虚空を蹴り、一気に遠くの場所に降り立つ。

「ここからですぅ。ウチの本気、見たって下さい」

 言うと、月詠の姿がブレた。直後、月詠は四人になり、それぞれが刹那を見つめていた。

「影分身まで修めているのか――ッ!?」

 刹那は驚愕に目を見開いた。

「行きますえ?」

 直後、四人の月詠は散開した。

「ウチの技は神鳴流だけやないんです」

 そう言うと、一番左の月詠が符を取り出した。

「符術か!」
「『輝く金閣寺の壁面』」

 金色の光が爆発し、刹那と四人の月詠を黄金の光の壁が包囲した。

「なんだと!?」

 光は強さを増し、光の奔流によって、自分の手元すら見えなくなってしまった。

「斬岩剣」

 声のする方向に夕凪を振るい何とか凌ぐ。四方向からランダムに攻め立てる月詠に、刹那は為す術を持たなかった。だが、月詠は攻撃の手を休めない。

「『百鬼夜行』」

 今度は、四方八方に気配が現れ、斬撃ではない力の弱い攻撃が一気に増加した。
 斬っても斬っても気配は消えない。

「『三十三間堂の通し矢』」
「まだあるのか!?」

 薄っすらと光の奔流の中に、風を斬る音が聞こえた。勘のままに七首十六串呂を円盤状に展開すると、光の弓矢が七首十六串呂に激突した。

「こんな……」

 刹那の表情に苦悶の色が走る。あまりにも分が悪い。視界の無い状況下で、四方八方から攻め立てられる。想像を絶する苦境だった。不意に、木乃香の笑顔が浮かんだ。光の弓矢が突き刺さり、激痛に視界が歪む。
 ――お嬢様、お嬢様……お嬢様お嬢様お嬢様お嬢様お嬢様お嬢様お嬢様お嬢様お嬢様――このちゃんッ!!
 厳しく接する親は護ってくれず、疎まれ続けた自分を認めてくれた近衛木乃香という少女。自分の白い翼を認めてくれた、明日菜とネギと木乃香。
 刹那は自分が嫌いだった。だけど、近衛木乃香は好きだと言ってくれた。明日菜とネギも自分の翼を嫌悪する事なく、認めてくれた。
 刹那の目が見開かれた。月詠だけではなく、正体不明の大量の気配と弓矢による狙撃を同時に視界零の状態で防ぎ続ける。全身の感覚を研ぎ澄ませ、無心に太刀を振るい続ける。
 只管に心を静める。エヴァンジェリンとの修行。その中で培ってきたモノは飛行速度の向上や技の精度だけではない。心の修行。何の為にやるのかはよく分かっていない。それでも、その修行は活かされている。
 怒りに惑わされるな。心を鎮めろ――。視界の見えない中で、刹那は七首十六串呂を操り、謎の気配を消し去っていく。
 なんだろう。時間の経過も分からなくなっていた。不意に、自分の中に流れる二つの流れを感じ取った。一方は、自分の使う気の流れだと理解していた。もう一方はどこか知らない所から流れ込んできていた。僅かな量だ。
 剣を無心に振るう事で辿り着いた“無想”。そうして漸く理解出来た。

「ああ、これはネギさんの魔力だ。仮契約の絆から流れ込んできているんだ」

 二つの流れを汲み上げる。ネギから流れてくる魔力を呼び水にして、半妖の血が……眠っていた刹那の強大な妖怪としての魔力が呼び覚まされた。バチバチと、電流が走った様に体が痛み、動きが鈍る。そこに、月詠は容赦なく攻め立てた。正体不明の気配や、光の弓矢の攻撃を受けながら、刹那は二つの相反する力を両手に掬い上げた。
 左手には魔力を。右手には氣を――。

「感謝してやるぞ、月詠」

 刹那の呟きに、月詠が動揺しているのが何となく分かった。両手の相反する力を祈るように合わせる。

「私は、今更なる一歩を踏み出した!」

 凄まじい力の奔流に、囲っていた黄金の結界が滅びた。デフォルトされた可愛らしい百鬼夜行の妖怪達も刹那の咸卦の力に吹飛ばされ、消滅した。

「マジか……、咸卦法だと!?」

 遠くでカモの言葉が聞こえた。タカミチの使っていた力と同じ名前。恐らく、エヴァンジェリンの修行の意味はコレだったのだろう。
 元々、氣を操る事に長けていた神鳴流である刹那。加えて、妖怪の血は人間以上に魔力を操る力が強い。人間としての刹那と、妖怪としての刹那。半人半妖の二つの相反する面を持つ存在。だが、そこに居たのは間違いなく一人の桜咲刹那だった。

「そうだった。私はここまで到達出来たんだ。足りなかったのは、自分。自分が自分を認めていなかったんだ。だけど、私は私を認める。だって、このちゃんや、明日菜さんやネギさんが認めてくれたから」

 小さく呟きながら、刹那は両目に指を押し当て、着けていたカラーコンタクトレンズを外した。翼を広げ、息を吸い込む。白い瞳に白い翼。本来ならばその黒髪も雪の様な白である筈だったが、コチラは染めてしまっている為に仕方ない。

「このちゃんの前で、私は決して負けんッ!」

 夕凪に雷が迸る。固まっていた月詠はキッと刹那を睨みつけて、歯を鳴らしながらも何とか笑みを浮かべて刹那に切り掛かった。だが、飛び掛った三人の月詠は、一瞬の間に刹那によってバラバラに解体され、霧の様に消えてしまった。

「アハ……さすがセンパイやわぁ。こんな……こんな楽しい決闘が出来て、ウチは幸せですぅ」

 口調を平静を保っている様にしているようだが、その表情や掠れてどもった口調は、月詠の恐怖を隠しきれなかった。
「決闘?」
と刹那は一歩前に足を踏み出しながら嘲笑する様に首を傾げた。

「勘違いするな。これは、決闘じゃない。ただの……処刑だ」

 そう呟くと、上空から咸卦の力によって更に加速した七首十六串呂が月詠の頭上に飛来した。咄嗟に回避しようとした月詠の体が動きを止める。絶句し、目を見開いた月詠は口を振るわせた。

「影……縫い」

 ガチガチと歯を鳴らして全身を震わせている月詠の影に、七首十六串呂の内のハとニが突き刺さっていた。そして、上空には残りの十四本が浮遊している。
 刹那は左手を掲げると、七首十六串呂は稲妻を帯電させた。

「稲交尾籠(イナツルビノカマタ)」

 月詠の周囲を七首十六串呂は旋回し、網の様に月詠の体を覆った。そして、影を捉えていた七首も浮上し、上空にすべての七首が飛び上がり、一気に月詠の足元に突き刺さった。
 軌跡が雷を纏い月詠を縛る籠となっている。“稲交尾”とは稲妻の異名である。稲妻の捕縛結界。七首十六串呂を得た刹那の師匠刹那の新たなオリジナルの技だった。
 夕凪をカチャリと鳴らし、刹那は一歩一歩身動きの取れない月詠に近づいて行く。白い瞳は冷徹な雪結晶を思わせた。恐怖に声が出なくなり、月詠は首を振る事で命乞いをするしかなかった。

「だめ……、駄目やせっちゃん!!」

 木乃香の叫び声が響く。刹那のしようとしている事を止め様と走り出した。だが、刹那の師匠刹那は止まらない。神鳴流を裏切り、よりにもよって木乃香を狙う輩についた愚か者を、許す事など不可能だった。気も何も覆わせていない夕凪を振り上げる。

「見苦しいぞ。貴様も神鳴流ならば、この期に及んで命乞いなどするな」

 冷徹な声には、一切の感情が見えなかった。ただ、身内の恥を叱っているだけだった。稲妻の籠に高速され、全身を雷撃に曝されながら、刹那の剣がギラリと輝く様を見て、月詠の瞳に絶望が広がった。
 これから自分は殺されるのだと、月詠は理解した。冗談じゃない。そう思った。ただ、自分は刹那と戦いたかっただけなのだ。戦いなど殆ど無く、ただ鍛えるだけの毎日。そんな生活に飽きて、彼らについただけなのだ。偶々、近衛木乃香を狙う立場になったが、そんな事で自分が殺されるなど冗談じゃない。月詠は必死に稲妻の高速を破ろうと身もだえた。

「――――死ね」

 刹那が夕凪を振り下ろした。銀色の軌跡が、月詠の白い肌へと向かい、ピタリと止まった。刹那と月詠の間に、一人の少女が割って入ったのだ。

「お嬢……様?」

 木乃香が、両手を広げて月詠を護る様に立っていた。月詠も、呆然と木乃香を見つめている。

「駄目や……せっちゃん」
「退いて下さい、お嬢様」

 刹那はキッと木乃香を見つめながら言った。

「駄目と言ったんや。ウチの言葉が聞こえなかったん?」

 刹那は驚いた様に目を見開いた。木乃香に、こんな風な口を利かれた事がなかったからだ。支配者が支配する者に告げる様な言い方だった。木乃香は真っ直ぐに刹那を睨んでいた。漆黒の瞳はどこまで深く、吸い込まれそうな程美しい。息が出来なくなる。自分の存在がやけに小さく感じられた。

「せっちゃん。ウチの言葉が聞こえなかったん?」

 木乃香の言葉に、刹那は口を一文字にキュッと結び、首を振った。

「退いて下さい。この愚か者はこの場で――」
「殺す……そう言うつもりなら、ウチは退かない」

 刹那は歯を噛み締めた。どうして邪魔をするんだと涙が溢れた。神鳴流を裏切り、近衛木乃香に刃を向けた。刹那の師匠刹那が、全てを懸けて木乃香を護る為に鍛え続けた神鳴流を裏切って、刹那の師匠刹那を認めてくれた、永遠に守り通したいと願った、どんな災厄も障害も取り除いてみせると誓った木乃香を狙う輩と手を組んだ。自分の全てである神鳴流の者が自分の全てよりも大事な木乃香を狙った。
 許しておける筈が無い――。

「退いて……下さいッ!」
「退かない!」

 震える声で叫んだ刹那に、木乃香は負けじと声を張り上げた。刹那は目を見開き、近衛木乃香を見た。
 刹那は夕凪を落としてしまった。歯をカチカチと鳴らし、首を左右に振った。

「泣かないで……」

 震えた声で、幼児の様に馬鹿みたいに首を振って言った。

「泣かないで……、このちゃん……」

 刹那を睨みながら、木乃香は涙を滴らせていた。

「どうして分かってくれへんの?」

 木乃香も震えた声で尋ねた。

「そんな事して欲しいなんて、そんな事願うと思ってるん?」

 刹那は首を振った。違う! と、叫びながら。

「ウチがどうして止めたか……、せっちゃんは分かってくれへんの?」

 木乃香の声に、刹那はただ呆然と立ち尽くしていた。掴んだものが、手から離れていくような、喪失感を覚えた。

「ヤダ……。ヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダ……」

 駄々っ子の様に刹那は首を振りながら嫌だ嫌だと泣き叫んだ。木乃香は、ネギに顔を向ける。木乃香の言いたい事が、何となく理解出来て、ネギは一枚のカードを取り出した。
 ネギは瞳を閉じて、息をスゥ―ッと吸い込んだ。

「契約の精霊よ、ここに我が従者との契約を満了させ、従者には新たなる主を与える――。契約の光よ、二人の間に新たな絆を刻む魔法陣を描け――」

 刹那の姿が映し出された仮契約のカードが光を放ち始めた。やがて、まるで縫い物が解けていくように、光の糸が木乃香と刹那の足元へ向かう。刹那の纏っていた衣装も、七首十六串呂も光の粒子になり、そのまま光の糸へ吸い込まれて溶け消えた。
 木乃香と当惑する刹那の足元に、通常の仮契約とは僅かに違う紋章が描かれていた。“契約継承”の魔法陣だ。木乃香は目を細めると、戸惑っている刹那の頬を両手で優しく覆い、そのまま――刹那の唇に自分の唇を重ねた。
 目を見開いた刹那は、そのままゆっくりと瞳を閉じて、唇に感じる近衛木乃香を確りと刻みこんだ。光が二人を殊更強く照らし、やがて、一枚のカードが二人の間に舞い降りた。
 絵柄に変化が起きていた。七首十六串呂は姿を消し、変わりに一本の大剣を握る刹那の姿が描かれている。その刹那の瞳も髪もが美しい雪のような白銀で、称号が“翼ある剣士”から“姫君の守護者”へと変化していた。

「嫌いになるって思った?」

 木乃香が小首を僅かに傾けながら、刹那に尋ねた。顔を真っ赤にした刹那は、あうあうと言葉にならない事を言っている。

「馬鹿やね。本当に……せっちゃんは馬鹿や。ウチはせっちゃんの事大好きや。ホンマに大好きや。覚えてる?」
「え……?」

 刹那は戸惑ったように首を傾げた。

「ずっと昔。ウチが未だ麻帆良に行く前や。一緒に映画村で撮影を観て、そん時に約束した」
「覚えてるよ。覚えてる……大事な約束。大人になっても仲よぉなれたらここでチューすんのって」

 刹那はグシャグシャに顔を歪ませながら言った。

「せや。場所は違うけど、約束護ったね。せっちゃん、ウチはせっちゃんが大好きや。せやから、一緒に遊んで、一緒に笑ってっていう生活が大好きや。こんな風に戦う事になっても、一緒に力を合わせたい。でも……でもや。ウチはせっちゃんに傷ついて欲しくない。他の誰が怪我をするより、せっちゃんが傷つくんが、ウチは一番嫌や。せやから……人を殺さんで。人を殺したら、せっちゃんの心が傷ついてまう。そんなん……嫌やから――」

 そう言うと、木乃香は刹那を抱き締めた。刹那は、その弱々しくも強い力を感じて腕を回し、自分も抱き締め返した。

「ウチもこのちゃんが傷つくんは嫌や。護りたいんや。護らせて。このちゃん……大好きなんや!!」

 泣きながら、刹那は叫んだ。

「ん。ウチも、大好きやで。せっちゃん」

 それから、長い間二人は抱き合っていた。明日菜も、タカミチも、ネギも小太郎も、笑みを浮かべながらその幕間の光景を眺めた。しばらくして、離れた二人は、不意に月詠の姿が無くなっている事に気がついた。
 契約の継承の際に、七首十六串呂が一旦消え去った事で捕縛結界が解け、月詠は逃走したのだ。だが、どうでもよく感じた。たとえ、逃げたとしても月詠の行く場所など最早無い。いずれ、関西呪術協会が始末をつけるだろう。
 自分達のすべき事は、ここからなのだ。刹那はオレンジ色の結界が張られた総本山を見つめた。不意に、その結界が消失した。

「入って来い――。という事らしいね」

 タカミチが言うと、刹那とネギが頷いた。

「一応、自己紹介しとくで。犬上小太郎や。よろしくな」

 小太郎が、自己紹介すると、タカミチはニッコリと笑みを浮かべた。

「久しぶりだね、改めて、高畑.T.タカミチだ。よろしく頼むよ」

 以前は追う者と追われる者だった。なのに今は共に肩を並べて戦おうとしている。そんな状況に小太郎とタカミチは互いに苦笑いを浮かべた。

「近衛木乃香や。よろしくなぁ」

 木乃香もニッコリと笑みを浮かべて自己紹介した。

「刹那の師匠刹那。よろしく頼む」

 フッと刹那も笑い掛けた。戦いの前に、互いを認識し合う。二回目とは言え、前回も名前すら交換していなかった間柄で、これからいよいよ決戦に挑むのだ。
 無事に帰って来れるか分からない。それでも、連携を取り、必ず無事に帰るために、心を合わせる。

「行きましょう……」

 ネギが言うと、明日菜達は頷き、総本山の入口へと歩き出した。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。