第八話『闇の福音と千の呪文の男』

 そこは小さな廃村だった。崩れた家屋の建築様式を識る者が見ればそこがシベリアの山奥なのだと気が付くだろう。
 少し離れた場所では大勢の人々の悲鳴と爆発音が響き渡っていた。大勢の軍服に似た服を着た胸に十字架を掲げ、各々の武器を持った人間が降り積もった雪を覆う程にたった一人の女性を殺そうと殺気立っていた。

「神に反逆する異教徒よ、その中でも最たる者! 我等ロシア教会対魔機関なり! 貴様をこの地で葬ってくれる!」

 巨大な十字架を右手に構えた一人の男が上空に浮かぶボンテージドレスを着た金砂の髪を月明りに濡らす女性に向かって吼えた。

「フハハハハハッ! その程度の兵力で私に挑むか、戯け!」

 百人を越える敵を前にして、女性――エヴァンジェリンの余裕は崩れなかった。

「クッ! なめおって、我等の力を見せてくれる! 我が術式は“神の力(エクスシアイ)”! 中位三隊の一角にして、悪魔を滅ぼす役目を担いし者也! “開放(メシャ)”!」

 男の持つロシア教会対魔機関所属十字架型特殊聖装“神の力(エクスシアイ)”が起動する。
 神の力は“八端十字架”と呼ばれるロシア正教及びウクライナ正教に於いて頻繁に使われる短い“一”の字の下に長い“一”の字があり、その更に下に斜めになった“一”の字があり、その三つの“一”の字を一直線に貫いた形をしている。

「参るぞ! 主や、爾の国に来らんとき、我等を記憶ひ給へ“善智なる盗賊(ラズボイニカ)”!」
「ナニッ!?」

 男の術式が発動した瞬間、エヴァンジェリンは強烈な“重み”を感じた。

「馬鹿なっ! 重力系統の魔法か!?」

 驚愕するエヴァンジェリンに男は厭らしい笑みを浮べた。

「知っているかね? 八端十字架の一番下の線が斜めになっている理由を?」

 周りに居る男達も各々の聖装を構えだした。目の前で得意気に語っている男の程強力な力を感じる物は無いが、一つ一つが退魔に関しては強力な力を宿している聖装だ。

「神の子と共に処刑されし二人の盗賊の死後を現すと聞くが」

 エヴァンジェリンは牙を剥き出しにして叫ぶが、男の余裕の笑みは消えなかった。

「その通り、“善智なる盗賊(ラズボイニカ)”は異端を地に堕とす。そして、我等信徒に対しては力を与える! 皆の者、構えよ! この忌まわしき醜悪なる怪物を対魔するのだ!」

 忌々しげに舌打ちをするエヴァンジェリンに周りに居る百人以上の男達は一斉に各々の剣や斧、銃、十字架、槍、弓、ナイフ、少し変った棒などを構えた。

「断罪せよ!」

 男の掛け声と共に、男達は一斉にエヴァンジェリンに襲い掛かった。
 勝った! 男がそう確信した瞬間、男の体は崩れ落ちた。

「馬鹿……な」

 その背後には、ケタケタと笑う不気味な緑色の髪を持つ小さな人形が巨大な鉈を持って笑っていた。鉈には男の物と思われる血が付着している。

「馬鹿なっ!? アレクセイ司祭がやられただと!?」
「だが、闇の福音は葬った!」
「待て! これは!?」

 統率者がアッサリと殺された事で動揺した男達はいつの間にか聖装で串刺しにしていた筈のエヴァンジェリンの姿が無い事に気がついた。

「あそこだ!」

 男達の一人が上空を見上げて叫んだ。

「ケケケケケケ、オ前達、全員アノ世デ暮ラセ!」

 鉈から血を滴らせる人形は心底愉快気に笑い声を上げた。
 その直ぐ近くで、エヴァンジェリンがゴミを見る様な眼差しで地上の男達を見下し、右手に凄まじい魔力を集中した。

「リク・ラク・ラ・ラック・ライラック! 契約に従い、我に従え、氷の女王。来れ、とこしみのやみ、“えいえんのひょうが”!」

 掲げていた手を振るうと、一瞬にして男達を巻き込み、一体を氷原へと一変させた。

「クハハハハハハッ! 私に挑んだ事を悔やみ続けるがいい、永遠の凍える夢を見続けよ、“こおるせかい“!」

 エヴァンジェリンは高笑いをしながら右手を氷原に向けた。
 瞬間、氷原に幾つ物魔法陣が浮かび、氷原が中に居る男達を巻き込んで魔法陣へと集まっていく。

「たかが百人程度で来るとは、600年経って尚も学ばぬ奴等だ。腐れ人間共め」

 幾つもの魔法陣の上に、巨大な氷柱が出来、その中には苦しげな顔をしたまま氷の中に封印され、裸になった男達の哀れな姿があった。

「フッ、この国には少しくらい私の暇潰しの相手になる奴はいないのか! まったくつまらんよ」

 髪に手櫛を入れながら詰まらなそうにエヴァンジェリンはぼやいた。

「ケケケケケケケ、コノ十字架モ頂クゼ! コノ剣モ貰ッテイクゼ。ヒャハハハハハハ!」

 狂った様に叫びながら、エヴァンジェリンの従者である小さな人形、チャチャゼロは男達が落とした聖装を一つ残らず奪い取って行った。エヴァンジェリンはチャチャゼロが戦利品を押収している間、村の中を見て回った。
 不意に、ガサガサと遠くで音が聞こえた。

「誰だっ!?」

 エヴァンジェリンは物音が聞こえた場所に走ると、右手を物音の聞こえた場所に向けながら叫んだが、物音を立てたであろう男はまったく頓着せずに落ちているナイフの様な物を拾っていた。男達の持っていた聖装の内の一つが、何かの弾みに飛んで来たのだろう。

「い~ものあるじゃんか! も~らいっと!」

 拾ったナイフを嬉しそうに懐にしまう男に、エヴァンジェリンは眉を顰めた。

「そこで何をしている? 答えろ! お前は何者だっ!?」

 エヴァンジェリンは苛立ちながら叫ぶが、男は完全にエヴァンジェリンを無視して地面に落ちている武器や変な道具を漁り続けた。

「おっ! これもいいじゃん!」

 まるでハイエナの様な目の前の盗人に、エヴァンジェリンは苛立ちを堪えきれなくなった。

「消えろ!」

 構えた右手から無詠唱で闇の魔力を開放すると凄まじい爆発音と共に砂煙が巻き上がり、周囲一体を吹き飛ばした。

「フッ……、許せとは言わん。憎め、それが私の生きる糧となるのだからな」

 目を細めながら後ろを振り向いたエヴァンジェリンは、直後に目を見開いた。煙が晴れた場所から、快活そうな男の声が聞こえたのだ。

「あっぶねぇ奴だな! 急に何やってくれてんだよ!」

 男は黒のハイネックシャツと黒のズボンの上に真っ白なマントを着込み、背中に長い杖を持って耳をほじりながら無傷で立っていた。

「無傷だと!? 馬鹿な、貴様は何者だ!?」

 エヴァンジェリンの声に、男はめんどくさそうに欠伸をした。

「俺か? 俺の名はナギ・スプリングフィールドっつうんだ。ま、名乗る程の者じゃねえけどよ」

 ニッと笑みを浮べるナギは血の様に紅い髪が印象的な吊り目の若者だった。ナギの名乗りに、エヴァンジェリンは目を細めた。

「ナギ……ナギ・スプリングフィールド。聞いた事がある名だな。確か、サウザンドマスターだったか? 面白い……。貴様ならば私の退屈を埋められそうだな。貴様の力、どれほどのものか私に見せてみろ!」

 エヴァンジェリンは右手を前に突き出すと、無数の闇と氷の魔力の弾丸を放った。

「うわっ、あぶね!」

 最初の弾丸を避けると、ナギはニヤリと笑みを浮べて舌で上唇を舐めた。

「よっ!」

 迫り来る無数の弾丸の間を、ナギは次々に瞬動術で華麗に躱していく。

「ふざけおって……。まともに戦わぬか! ならば、リク・ラク・ラ・ラック・ライラック」

 避けてばかりのナギに苛立ったエヴァンジェリンは強力な魔法で一掃しようと呪文を唱え始めた。

「契約に従い、我に従え、氷の女王。来れ、とこしえ……」
「おいおい、なんだか凄げ~の唱えてないか?」

 余裕の笑みを浮べながら、ナギは「いくぞ!」と呪文を詠唱し終えたエヴァンジェリンの目の前に一瞬で移動した。魔力を集中していた右手の手首を左手で握ると、その方向を全く関係ない方向に向けた。

「なに!?」

 目を見開くエヴァンジェリンの顔に、ナギは自分の顔を近づけ、その頬を右手でなぞった。

「なんだ、目の前で見ると可愛いじゃね~か。“闇の福音”とか言うからてっきり怖ぇのかと……」
「なっ!?」

 ナギの真っ直ぐな視線に、エヴァンジェリンは顔を赤くした。すると、いきなり視界が網目状になってしまった。

「にゃ!?」

 ナギは心底意地悪そうに笑みを浮べながら、ニンニクを結び付けた大きな網をエヴァンジェリンに被せたのだ。ポカンとしているエヴァンジェリンを見ながら、ナギはニヤニヤと愉しそうに笑みを浮べている。

「なんだこれは? 私を魚か何かと間違えて……、って、うわあああああああああっ!?」

 顔を引き攣らせていたエヴァンジェリンは網に結び付けられていたニンニクに気がついて絶叫した。

「フフ……、お前の苦手なものくらい知ってるぜ。何しろ有名だしな」

 ナギはニヤニヤとした笑みを止めずに、涙を流しながらパニックを起しているエヴァンジェリンを嗜虐的な眼差しで眺めていた。

「やめろ卑怯者! ここから出せ~~! あうう~~」

 頭の中がこんがらがり、エヴァンジェリンは変身を解いてしまった。幼い姿に戻ってしまったエヴァンジェリンを見て、ナギは爆笑した。

「ワハハハハハハハハハハハハハハッ!! こ、これが噂の吸血鬼の正体かよ!! おチビじゃん!!」
「黙れ!!」

 腹を捩って壊れた様に笑い続けるナギに、網の中からエヴァンジェリンは涙目で怒鳴った。

「これがサウザンドマスターのする事か~っ!」

 エヴァンジェリンの文句に、ナギは突然不機嫌になって怒鳴った。

「悪かったな! 俺が覚えてる魔法なんざ5,6個しかね~し。勉強も苦手でな、魔法学校も中退だ!!」
「ふえ? へ? えええええええええっ!?」

 あまりの事にエヴァンジェリンは目を見開いて絶叫した。

「そんな……そんな奴に負けたのか? 私が、この闇の福音が……」
「へへ……じゃ~な~」

 プルプルと振るえながら打ちひしがれているエヴァンジェリンにソッポを向くと、ナギは右手を振りながら立ち去ろうとした。

「貴様、このまま行くつもりか~っ!? これ外せ!!」
「別にお前捕まえにきたんじゃね~し。たまたま通り掛かっただけだしな。これ以上悪さすんなよ~!」
「ま、待て! お前は“立派な魔法使い(マギステル・マギ)”なんだろ!? アッチで私が何をやったか知らない訳では無い筈だ!!」

 エヴァンジェリンが叫ぶと、ナギは鼻で笑った。

「何言ってんだよ? あんな封印、時間が経ちゃ解けるし、誰か、救援の魔法使いが駆けつければ簡単に開放される様な魔法を自分を殺しに来た相手に使うとはね~」

 ニヤニヤしながら、ナギはエヴァンジェリンを見た。エヴァンジェリンはムムムと唸りながらナギを上目で睨みつけていると、ナギは今度こそ「じゃあな!」と言って立ち去ってしまった。
 そのまま、ワナワナと震えながらナギは立ち去って行くのを見つめていると、エヴァンジェリンは言い知れぬ焦燥感に駆られた。そのまま、エヴァンジェリンはナギの後を一ヶ月間追い続けた。

 一ヵ月後、とある山の奥地。

「で、どうしてお前、俺についてくるわけ?」

 唇を尖らせながら後ろを歩くエヴァンジェリンに、もう何度目かの質問を投げかけた。

「私ともう一度勝負しろっ! あんな勝負で納得いかん!」
「勝負とかい~じゃん、ちっちぇえな。めんどくせ~し、俺についてきてもいい事なんか無ぇぞ。どっか行け!」

 シッシッと追い払う様に手を振るナギに、エヴァンジェリンはナギを指差して宣言した。

「ヤダッ! お前が勝負してくれるまで、どこへ逃げても地の果てまで追ってやるぞ! いいかげん勝負しろ!」
「地の果て……俺が行くのはそんな生易しい場所じゃね~っての……」
「ん? 何か言ったか?」

 ナギの呟いた言葉が、エヴァンジェリンには小声過ぎて聞こえなかった。
 突然ぐううううううううっという変な音が響いた。

「え?」

 ナギは目を点にしてエヴァンジェリンを見た。

「あ、こ……これはその……」

 顔を真っ赤にしてあわあわしているエヴァンジェリンに、ナギはプッと噴出してしまった。

「あっはははははは! そうか、そうだよな~吸血鬼でも腹は減るよな~」
「こ、こんの~~!!」

 プルプルと震えだしたエヴァンジェリンに、ナギは「仕方ね~な」と笑みを浮べながら、少し遠くに見える村に視線を向けた。

「あそこの村に寄って飯を喰おうぜ?」
「あっ! 私との勝負は……」

 村に向かって駆け出したナギに顔を真っ赤にして叫ぶが、またお腹が鳴り、更に顔を赤くしてテクテクとエヴァンジェリンはナギを追いかけた。

 到着すると、村はクリスマス一色だった。

「寒いと思ったらもうクリスマスの季節か」

 村を見渡しながらナギはエヴァンジェリンに声を掛けると、エヴァンジェリンは親子が愉しげにクリスマスツリーの前で遊んでいる姿を眺めていた。

「……どうした?」
「いや……、クリスマスなどくだらん!」

 プンプンと怒りながら早歩きで歩き出したエヴァンジェリンに、ナギは目を細めた。

「ムキになって、どうしたんだよ?」

 溜息を吐きながら、ナギはエヴァンジェリンの背中に声を投げかけた。

「ムキになんてなってない! 私は何百年も生きてるんだぞ……。こんな、イベント……見てるだけで腹が立ってくる!!」

 そのままエヴァンジェリンはツカツカと歩いていくと、またお腹が鳴りだした。
 ナギはプハッっと噴出すと顔を真っ赤にして震えているエヴァンジェリンに近寄って行って、頭を撫でた。

「お前さ、腹が立ってるんじゃなくて、腹が減ってるんだろ?」

 ニヤニヤしながらナギはエヴァンジェリンが頬を膨らませるのを見た。

「う、うるさい!!」

 そんなエヴァンジェリンに、ナギは小さく溜息を吐いた。

「俺の血……吸っていいぜ?」
「は?」

 エヴァンジェリンは一瞬、ナギの言っている言葉の意味が理解出来なかった。ナギはエヴァンジェリンに首筋が見える様に服の襟を掴んで伸ばした。

「お、おかしな奴だ……。まあ、お前がそこまで言うなら……その、吸ってやらんでもないが」
「ハイハイ、分かったから早くしなさいね? 道端でちょっと恥いんだからよ」

 顔を引き攣らせているナギに、エヴァンジェリンはチラリと顔を向けると、おずおずとナギの首筋に口を近づけて……止めた。

「ん?」
「止めた……。やっぱ止めた!」
「は?」
「お、お前の施しなんか受けん!」

 フンッと鼻を鳴らして、エヴァンジェリンは顔を背けた。その姿に、ナギはフッと微笑を漏らすと「そうかい」と言ってエヴァンジェリンの頭を撫でようとして、そのままエヴァンジェリンの体を抱き抱えると前に跳んだ、

「なっ!?」

 エヴァンジェリンはいきなりナギに抱き締められて顔を真っ赤にした。
 次の瞬間、さっきまで居た場所に大きなクリスマスツリーが降って来た。

「何? 何でいきなりツリーが……?」

 眉を顰めるエヴァンジェリンに答えるかの様に、少し離れた……丁度エヴァンジェリンが遊んでいる家族を見つめていた場所から悲鳴が聞こえた。
 視線を向けると、そこには三体の悪魔が家族を襲っていた。

「誰か助けてー!」

 母親が二人の兄妹を庇うようにしながら叫んだ。エヴァンジェリンは咄嗟に動こうとした瞬間、疾風の様に隣に居たナギが家族に巨大な手を振り下ろそうとしていた悪魔に雷の魔力をぶつけて一瞬で送還した。

「貴様……魔法使いか!?」

 残る二体の内の一体がナギの存在に驚愕すると背後からエヴァンジェリンが闇の魔力で体を切り裂いて送還した。

「ひいい!!」

 家族は怯えた悲鳴を上げた。エヴァンジェリンは睨む様に残った悪魔に右手を向けると呪文を詠唱した。

「来たれ氷精、大気に満ちよ。白夜の国の凍土と氷河を……『凍る大地』」

 地面から無数の氷の槍が生えて、一瞬で悪魔の体をバラバラにして送還した。

「フンッ、雑魚め」

 三匹全てを倒し終え、エヴァンジェリンは満足気に鼻を鳴らした。ナギも首を鳴らしながらフゥと息を整えた。

「おい、大丈夫か?」

 ナギが声を駆けると、三人の家族は“ナギとエヴァンジェリンに向けて”怯えた表情を見せて走り去ってしまった。周囲の民家や店も、扉や窓を一斉に閉じてしまった。
 無人になった広場の遠くから、僅かに開いた窓の隙間から、睨む様に村人達が怒鳴り始めた。

「失せろ!!」
「消えろ!!」
「何でこんな小さな村に魔法使いが来るんだ!!」
「とっとと村から去れ!!」

 罵声を浴びせられながら、エヴァンジェリンは詰まらなそうに鼻を鳴らし、ナギはエヴァンジェリンの手を取った。

「行こうぜ、エヴァンジェリン」

 その後は、お互いに無言で村を出て行った。

 山奥で、手頃な岩に魔法で穴を開けて、ナギとエヴァンジェリンは焚き火を焚いて野宿をしていた。
 不意に、チラチラと真っ白な雪が降り始めて、ナギの鼻に乗った。少し離れた所ではエヴァンジェリンが背中を向けて寝転がっていた。

「雪……寒いな。お前もコッチに来てあったまれよ」

 ナギが首を曲げてエヴァンジェリンに声を掛けると、エヴァンジェリンは鼻を鳴らした。

「人間なんて……皆勝手だよ」

 その声はどこか泣きそうだった。

「……お前、私のものにならないか?」

 エヴァンジェリンは頬を赤く染めながら、呟くように言った。答えが返って来る筈も無いと理解していながら。

「ックション! う、さすがに今日は冷える……」

 雪が寝転がっていたエヴァンジェリンの体の上に薄っすらと膜を作り始めると、エヴァンジェリンはくしゃみをしながら首を振って、雪を払いのけた。
 すると、背後からゴソゴソと音が聞こえて、エヴァンジェリンの体の上に暖かい物が乗せられた。

「な、何をしている!?」

 それは、ナギの着ていたマントだった。

「寒いだろ? ガキなんだから無理すんなって」
「ガキッ!? わ、私はお前よりも遥かに年上でだな……」
「なら余計に年寄りは労わらねえとな」

 ナギは頬を膨らませるエヴァンジェリンの頭をニカッと笑みを浮べながら乱暴に撫でた。

「い、いつか絶対ぶっ殺す!!」

 顔を真っ赤にしながら叫ぶと、エヴァンジェリンはナギのマントに包まれた。

「でも……温かいな」

 エヴァンジェリンはナギに聞こえないように小さな声で呟いた。

 翌日になって、エヴァンジェリンは岩のテントの中でチャチャゼロに起された。

「大変ダゾ御主人! 村ガ火事ダ!」

 切羽詰った様なチャチャゼロの声にエヴァンジェリンは頭を押えながら目を開いた。

「うるさい。私は朝が苦手なんだぞ……」

 ノロノロと起き上がると、欠伸を噛み殺しながらエヴァンジェリンは村の見える丘に脚を向けた。

「この前の奴等の仕業か……」

 エヴァンジェリンは炎に巻かれている村を睨みながら詰まらなそうに鼻を鳴らした。

「いい気味だ。あんな村……燃えてしまえ!」

 歯を噛み締めながら、エヴァンジェリンは忌々しげに叫んだ。
 すると、突然握り締めていたナギのマントが奪われた。驚いて目を向けると、ナギがニッと笑みを浮べながらマントを着て杖を握り締めていた。

「お前……まさか!」

 呆然としているエヴァンジェリンに、ナギは背中を向けた。

「別に、助けに行くんじゃね~よ。朝飯前の準備運動だ! 待ってていいぜ?」

 そう言うと、ナギは燃え盛る業火に包まれた村に向かって走り出した。

「ま、待て、ナギ!」

 エヴァンジェリンも慌ててナギを追いかけた。

 燃え盛る火炎が空を覆い、凄まじい数の悪魔が村を蹂躙していた。村中に悲鳴が木霊する。
 大人も子供も泣き叫び、この世の終わりの様に絶望しながら次々に悪魔達によって家を焼かれ、飾りつけたクリスマスツリーは薙ぎ倒される。
 命を落とした者も居た。

「魔法使い……サウザンドマスターは何処に居る!!」
「早く出て来い、サウザンドマスター!! 出て来なければ一人残らず喰らい尽くすぞ!!」

 折角のクリスマスが悪夢に成り代わっていた。おぞましい殺気を放ち、次々に人々に襲い掛かる悪魔達の内の一人があの時の家族の男の子に拳を振り上げていたが、その拳が届く事は無かった。
 凄まじい雷撃によって悪魔は一瞬にして炭化し消滅した。最早、送還も許さんとばかりに、魂ごと魔力によって強制的に消滅させる。

「やっとお出ましか、サウザンドマスター!! 昨日は随分と暴れてくれたらしいな!!」

 悪魔の内の一体が叫ぶがナギは鼻で笑い飛ばすと頭をぼりぼりと掻いた。

「はぁ? 知らね~よ。そう言えばハエが五月蝿かったが……もしかしてお前達の仲間だったか?」

 悪魔にも負けぬ恐ろしい殺気を放ち、ナギは悪魔を睨み付けた。

「クッ!」

 悪魔が怯んだ先に、男の子の母親が男の子を抱き抱えた。

「アンタ達のせいで村がこんな事に……どうしてくれるのよ!!」

 母親はナギとエヴァンジェリンに向かって罵声を浴びせた。エヴァンジェリンは舌打ちをしたが、ナギは無表情に悪魔をにらみ続けている。

「フハハハハハッ!! 随分と嫌われてるじゃないか、よう? 正義の味方さんや!」

 怖気の走る笑い声を上げる悪魔を、ナギは詰まらなそうに見ると、後ろに居るエヴァンジェリンに顔を向けた。

「おい、エヴァンジェリン。一緒に村を守るぞ?」
「なに!? どうして私があんな人間共なんかの為に力を使わねばならんのだ!」

 遠くからナギとエヴァンジェリンに向かって罵声を投げ掛ける村人達を忌々しく思いながら、エヴァンジェリンはナギの心が判らなかった。
 どうして、あんな奴等を救おうとするのかが――。

「行くぞ!!」
「って、おい!!」

 だが、ナギは答えずに悪魔達に特攻して行った。

「随分と威勢がいいじゃないか、サウザンドマスター!!」
「へっ!」

 嘲笑を含んだ悪魔の言葉に、ナギは鼻で笑うと大量に実体を持った分身を作り出す東洋魔術の一つ“忍術”の“多重影分身の術”を発動し、大量の悪魔を拳で殴りつけるだけで送還していく。

「お前達程度、拳だけで十分なんだよ!!」
「クッ、ならばこっちの小さいのから遊んでやるよ!!」

 ナギの強さに恐れをなした悪魔達は狙いをエヴァンジェリンに変えた。
 なんと愚かな事だろう。ナギとエヴァンジェリンを比べれば、未だ拳で殴るだけで送還してくれるナギの方が優しいと言うのに――。

「私と遊ぶか? 一億年経っても未だ早いぞ!!」

 エヴァンジェリンは動く事も無く、迫る悪魔達を無詠唱で作り出した無数の氷の魔弾を放った。

「この程度!」

 悪魔達は全身に氷を浴びながらも耐え切り、吼えた。
 エヴァンジェリンは憐れな道化と化した悪魔に死の言葉を与えた。

「『氷爆』」

 全ての氷の魔弾が爆発し、悪魔を魂諸共吹き飛ばす。

「なんだ……あの途轍もない力は――ッ! まさか、馬鹿な、何故貴様等が一緒に居るのだ! サウザンドマスターと闇の福音が何故一緒に居る!?」

 一体の悪魔の叫びに、未だに生存していた悪魔達一体残らずに絶望が襲い掛かった。自分達が敵対してしまった存在の巨大さに今更気が付いたのだ。

「まあ、俺は別に居たくて一緒に居るんじゃね~けどな~」
「なんだと!」

 ニヤニヤ笑みを浮べるナギに、エヴァンジェリンは顔を真っ赤にして怒鳴る。

「それは、お前が私との勝負を受けて経とうとしないからだ!」
「そーだっけ?」
「なんならこの場で決着を着けて今すぐおさらばしてやってもいいんだぞ」

 ワナワナと震えて怒るエヴァンジェリンにナギは苦笑を漏らした。

「おいおい、今はそれ所じゃ……ってあれ?」
「契約に従い、我に従え、氷の――」

 エヴァンジェリンの唱えている呪文に、ナギは顔を青褪めさせた。

「ちょっ!? 仕方ない、こうなったら俺も!!」

 ナギはエヴァンジェリンの超特大魔法に備えて杖を構えた。その顔は何処か活き活きとさえしている。

「お、おい! お前達の敵は俺達じゃ……」
「五月蝿いぞ雑魚共!!」
「五月蝿いぞ脇役共!!」

 冗談抜きで特大魔法をぶつけ合おうとしているナギとエヴァンジェリンに悪魔の一体が恐る恐る声を掛けると、とんでもない殺気が襲い掛かり、悪魔達は金縛りにあったように動けなくなってしまった。
 だが、その殺気を向けた先に居たのは悪魔達だけでは無かった。

「ヒッ!」

 小さな男の子が居た。あの時の家族の男の子だ。悪魔の一体がナギとエヴァンジェリンの恐怖に咄嗟に男の子を人質にしようと捕まえて首筋に爪を近づけた。

「おい! こいつがどうなってもいいのか!?」

 ハッとしたナギは、今まさに最強魔法を撃とうとしているエヴァンジェリンに待ったを掛けた。

「待てるか! 私がこの日をどれだけ待ったと……ん?」

 エヴァンジェリンも気が付いた。地上で男の子を殺そうとしている悪魔の存在に。

「これ以上手を出したら、こいつの首を掻っ切るぜ?」

 悪魔の手の中で、少年は泣く事すら出来ずに目を見開いて震えていた。ナギは憎悪に満ちた目で悪魔を睨み付けた。そのナギの周りに残存していた悪魔達が群がって来た。

「分かってるだろうな? サウザンドマスター!」

 悔しげに下唇を噛み締めると、ナギは杖を落として膝をついた。

「やれ」

 抵抗の意思を見せずに無防備な姿を曝すナギに、少年を人質に取った悪魔は厭らしい笑みを浮べると命令した。爪で切り裂かれ、蹴られ、殴られ、炎に燃やされ、それでもナギは抵抗をしなかった。

「貴様等!」

 エヴァンジェリンは凄まじい殺気と魔力で空間を歪ませると悪魔達は僅かに怯んだ。

「やめろ……“エヴァ”!!」
「――――ッ!? 何故だ……何故、人間の為にお前がそんなに傷つく必要があるのだ!!」

 血を吐くように叫ぶエヴァンジェリンにナギはまるで土下座をする様に両手を地面につけると、顔をエヴァンジェリンに向けた。

「手を出すな……エヴァ」
「――――ッ!?」

 エヴァンジェリンは目を背けたかった。ナギは悪魔達に嬲られ、痛めつけられた。体中からは血を流し、骨は砕け、内臓にもダメージがいっているらしく、口からは止め処なく血の塊が吐き出された。
 その姿に、村人達は顔を青褪めさせた。自分達の愚かさを理解して。そして、目の前の惨状に。

「ハハハハッ!! これが天下無敵のサウザンドマスターの姿か! 情けない奴だ! 惨めだ! クハハハハハハハハハッ!!」

 悪魔の耳障りな声が響く。エヴァンジェリンは血が出る程に両手を握り締め、瞳には涙を溢れさせた。今直ぐにでも飛び出して悪魔達を血祭りに上げたかった。
 それを、ナギは止めてくれと言った。人質の子供の為に。

「どうすればいい……」

 目の前で、悪魔に首を絞められ吊るされているナギの姿が目に映った。

「もし、お前がこの場で負けを認めて許しを乞うなら見逃してやってもいいぞ?」

 ニヤニヤと笑みを浮べる悪魔に、エヴァンジェリンは頭が沸騰しそうだった。

「ナギッ!?」

 エヴァンジェリンの叫びが木霊する。すると、ナギが弱々しく口を動かした。

「ま、参った……」
「ナギ!?」
「…………な~んて、この俺様が言う訳ねえだろ!! 男はなぁ……参ったなんて言葉は死んでも言わねぇんだよ! 特に――」

 ナギはチラリとエヴァンジェリンに視線を向けた。

「ナギ……?」
「特にな……女の前では絶対に言わねぇ!!」
「ナギッ!!」
「テメエ……舐めた口聞きやがって、死にやがれ!!」
「このままではナギがっ!」

 エヴァンジェリンは咄嗟に自分の服のコートに施している戦利品や押収品を仕舞っているゲートを開き、中に手を突っ込むと中から十字架を取り出した。

「全てを救うというのが貴様の言葉だろ! ならば、私達の事も救ってみせろ! “神の力”よ! 中位三隊の一角にして、悪魔を滅ぼす役目を担いし者也! “開放(メシャ)”!」
「ナニッ!?」
「エ……ヴァ?」

 突然の事に、悪魔とナギが同時にエヴァンジェリンに視線を向けた。
 “神の力(エクスシアイ)”が起動し、エヴァンジェリンの魔力を吸い取っていく。

「本来は信仰心によって起動させるのだろうが……私は元より全知全能の神など信じん! だが、お前の力が本物だと言うなら、私に力を貸せ! 主や、爾の国に来らんとき、我等を記憶ひ給へ“善智なる盗賊(ラズボイニカ)”!」

 一瞬呆けてしまった悪魔は咄嗟に少年の首を掻っ切ろうとしたが、凄まじい圧力によって体が地面に押し付けられてしまった。代わりに少年は光に包まれて母親の元に届けられた。
 クリスマスを祝う信仰心の強い村人達であったからこそだった。

「エヴァ! いくぞ!」
「おう!」

 ナギとエヴァンジェリン、二人の呼吸が重なり合った。

「来れ雷精 風の精 雷を纏いて 吹きすさべ 南洋の嵐。『雷の暴風』!!」
「来たれ氷精、闇の精。闇を従え吹けよ常夜の吹雪。『闇の吹雪』!!」

 ナギの杖からは雷と風の魔力が、エヴァンジェリンの手からは闇と氷の魔力が爆発した。凄まじい旋風と化した二つの竜巻は一つに重なり合い、新たな力へと姿を変えた。

「喰らえ! 『黒き雷氷の旋風』!」
「喰らえ! 『黒き雷氷の旋風』!」

 二人の掛け声と同時に、二人の魔法は悪魔達を一掃して魂諸共、塵も残さずに消滅させた。

「クッ……」
「おっと……」

 苦しげに息を吐きながらナギは倒れそうになるのをエヴァンジェリンが支えた。

「済まねえ……」
「まったく、ボロボロになってまでどうして人間など助けるのか理解出来ん……。人間なんて、助ける価値など……」
「さて……ね」

 ナギはエヴァンジェリンの頭を撫でながら杖を支えに立ち上がった。
 すると、トテトテと少年が駆け寄ってきた。

「あ、あの!」

 少年はスッとナギに小さな袋を差し出した。少年は満面の笑みを浮べた。

「メリークリスマス」
「?」

 少年の行動の意味が、エヴァンジェリンには分からなかった。エヴァンジェリンが首を傾げていると、周りから村人達が集まって来た。

「アンタ達のおかげで助かったよ」
「え?」
「あのままじゃ全滅だった……。昨日は済まなかったな」
「??」

 エヴァンジェリンはキョロキョロしながら戸惑いを隠せなかった。

「これは……?」

 エヴァンジェリンは目を丸くしていると、頭の上にナギの手が乗っかるのを感じた。その顔には、傷だらけだというのに心底嬉しそうな笑みが浮べられていた。少年が、エヴァンジェリンとナギに顔を向けた。

「僕達を助けてくれてありがとう……本当にありがとう!!」

 口々にお礼を言う村人達に、エヴァンジェリンはポカンとしていると、ナギが満足気に微笑んだ。

「……おう!」

 それから、村ではクリスマスパーティーが開催された。主役は勿論ナギとエヴァンジェリンだった。焼け残った家から持ち寄ったご馳走が村の広場に並べられ、エヴァンジェリンも料理を口に運んだ。

「うまい……」
「エヴァ、人間も捨てたもんじゃねえだろ?」

 隣に立っているナギがウインクをした。エヴァンジェリンは鼻を鳴らすとソッポを向いた。

「フンッ、ついさっきまで魔法使いを嫌っていたのに今ではこれだ。正直、私にはついていけん」
「まぁ、そう言うなって」
「だが……」
「ん?」
「気持ちは通じる……という事だな」

 エヴァンジェリンは躍ったりして賑やかにしている村人達を見て柔らかく微笑みを浮べると、ジュースを口に運んだ。ナギはそんなエヴァンジェリンを見て目を細めた。

「やっぱ……噂なんて当てになんね~よな」
「ん? 何か言ったか?」
「いんや……ちょっと待ってろ!」

 言うと、ナギは急いで何処かに走って行ってしまった。エヴァンジェリンは首を傾げると、少ししてナギは急いで戻ってきた。

「どうしたんだお前……?」

 エヴァンジェリンが眉を顰めると、ナギは小さな可愛らしい袋をエヴァンジェリンに手渡した。

「メリークリスマス、エヴァ。その、何だよ。クリスマスプレゼントだ」

 頭を掻きながら、少し照れ臭そうにしてナギはエヴァンジェリンにニッと笑い掛けた。

「え……?」

 呆然としたエヴァンジェリンに、ナギはフッと笑みを浮べると「開けてみろよ」と言った。

「あ、ああ……」

 顔を赤らめながら、エヴァンジェリンはゆっくりと震えながら袋を慎重に破かない様に開いた。

「ったく、まどろっこしいぞ! 一気に破れよな!」

 ナギが文句を言うが、エヴァンジェリンは「うるさい!」と怒鳴って、恐る恐る中身を見た。
 中には、小さな銀のロケットが入っていた。

「いいのか……?貰って」
「いいんだよ! んでよ……もし、また一緒にクリスマスを迎えたら……その時はまたプレゼントをやるよ」
「え……?」

 エヴァンジェリンは目を丸くしてナギを見ると、ナギはソッポを向いて頭を掻いていた。エヴァンジェリンは顔を真っ赤にして、慌ててワインをボトルごと飲み干した。

「プハ~ッ!」
「ちょっ!? なにしてんだいきなり!!」
「うるひゃいぞ!! いきなり……お、お前が変にゃ事言うからだにゃ!!」
「ね、猫!?」

 ワインで酔っ払った振りをしながら、エヴァンジェリンは呆れた様な笑みを浮べるナギに甘えた。生涯で一番の思い出になるくらい。長い年月が経っても忘れないくらい。
 その後、村の写真屋でエヴァンジェリンは無理矢理写真を撮らせ、ロケットの中に二人の写真を収めた。ナギは頬を掻いて微妙な表情をしていたが、エヴァンジェリンは満足気に微笑んでいた。

 村から出てから数日が経ち、時々、困っている人間が居ては手を差し伸べて、エヴァンジェリンはナギと共に人々を救った。
 そんな中、エヴァンジェリンにはナギが何かを探している事に気が付き、とある山奥の霧の濃い湖に到着した。

「ここは?」
「『造物主の掟(コード・オブ・ザ・ライフメーカー)』の『グランドマスターキー』の一つが封印されている神殿がある筈なんだ」
「『造物主の掟(コード・オブ・ザ・ライフメーカー)』?」

 エヴァンジェリンが聞き慣れない言葉に首を傾げると、ナギは答えずに湖の上を歩き始めた。エヴァンジェリンも追い掛けると、少し歩いた所でナギが立ち止まっていた。

「どうしたんだ?」
「この霧はな、無限回廊なんだ。一度入れば出られないタイプのな……」
「何だと!?」

 いきなりの爆弾発言にエヴァンジェリンは目を剥いた。

「どういう事だ!?」

 エヴァンジェリンが怒鳴り声を上げると、ナギはククッと笑みを浮べた。

「そう怒るなって。別に何も考えずに踏み込んだ訳じゃ無いんだぜ?」

 そう言うと、ナギは持っていた杖を振り上げた。いつもナギが使っている変った杖だった。
 かなりの耐久力と魔力伝導性を持っているが、それだけにしては大き過ぎて、普通の魔法使いならあまり使う気に成れなさそうなほど大きな杖だ。ナギは杖を掲げると、魔力を篭め始めた。
 呪文も詠唱していないのに、杖に巻いている白い布の表面に文字が浮かび上がり、ドクンドクンと杖がまるで鼓動しているかの様な音を放ち始めた。杖自体が震え、ナギはそのまま杖を振り下ろした。
 それまで湖を覆っていた霧が嘘の様に消し飛んでしまった。

「な……っ!?」

 唖然としていると、ナギは再び歩き出した。向かっているのは、姿を現した小さな小島だった。本当に小さく、民家が一軒建てられるかどうかという程だ。
 そこには光り輝く不思議な球体が浮遊していた。山吹色に輝くソレにナギはゆっくりと近づいて行った。

「それは何なんだ!?」

 エヴァンジェリンはつい大声を張り上げた。球体の中には恐ろしい程に美しい剣が入っていたのだ。

「エヴァ……ここで見た事、聞いた事、あまり人に話すな。コイツは、『造物主の掟(コード・オブ・ザ・ライフメーカー)』の『グランドマスターキー』の一つだ。千年以上前のだけどな……」
「鍵なのか……? だが、これは……」

 エヴァンジェリンはナギの言葉が理解出来なかった。目の前にある光の球体の中にあるのは、どう見ても“剣”だったからだ。ナギはおもむろにその球体の中に手を入れた。
 すると、球体は破裂し、凄まじい光が立ち上った。上に落ちていく光の滝が消え去った後、ナギはその手に球体に入っていた剣を持っていた。
 太陽が隠れ、月明りに照らされながら、まさしく西洋剣といった感じの剣だった。刀身の長さは五尺余りもある長い刀身から白金の光を放っている。鍔は白亜の不思議な材質で、中央に真っ赤な宝石が埋め込まれていりる。不思議な模様が描かれ、幅五寸もある刃が伸びている。
 刃は先に行くほど幅を広げて、一番広い部分で七寸を越えていそうだ。先はキチンと三角形になっている。
 刃に沿って弧を描いている鍔に血の様に紅い柄が伸び、その先には短冊の様な飾りがついている。鍔に当たる部分のモノと同じ材質の不思議な白い部位には同じ様に漆黒の模様が伸びていて、先には、同じ様に紅い宝石が埋め込まれている不思議な剣だった。

「聖剣か……?」

 思わず、エヴァンジェリンはそう呟いた。そう思わずにはいられない程美しく気品に溢れる剣だったのだ。
 ナギは首を振った。

「違う。コレは正真正銘の鍵だ……」
「どういう事なんだ?」
「済まねぇな。こればっかりは話す訳にはいかねえんだ」

 それっきり、ナギは剣を自分用の空間操作魔法を使った鞄に入れて、二人はナギが用事があると言う日本に向かった。その先で待ち受ける悲しい出来事を知らず、エヴァンジェリンはナギと共に幸せそうに笑みを浮べていた。

 そこは、麻帆良学園の学園結界の境界のすぐ外側だった。エヴァンジェリンは中に入る訳にもいかず、ジッとナギの事を待ち続けていた。中に用事があると言って、数週間が過ぎていた。
 未だ雪が降り積もる寒い時期でエヴァンジェリンはひっそりと森の中でキャンプをしながら待ち続けた。これからナギと共に行く場所を想像して、従者のチャチャゼロにからかわれて、それでもエヴァンジェリンは幸せだった。
 人を救って感謝されるのも悪くないと思った。人間も、悪くないと思った。このまま、この幸せな日々が続いて欲しいと思った。
 ナギが……欲しかった。
 雪が止む頃になって、ナギがエヴァンジェリンの下に戻って来た。エヴァンジェリンは顔を輝かせながら、それをナギに悟らせまいと顔を背けた。

「も、もう用事は済んだのか?」

 チラリと横目でナギの姿を伺うと、ナギは顔を伏せていて表情が見えなかった。

「ナギ……?」

 エヴァンジェリンが首を傾げながら声を掛けるが、ナギは返事を返してくれない。

「おいっ! 無視するんじゃないぞナギ!」

 エヴァンジェリンが怒鳴ると、ナギは漸く顔を上げた。ナギの顔には、何の表情も浮かんでいなかった。
 この数ヶ月の旅の間、いつも笑顔だったり怒り顔だったり、とにかく表情豊かだったナギの無表情に、ナギは驚いて不安になった。

「どうしたんだ……? おい、ナギ?」

 恐る恐る声を掛けると、ナギはゆっくりとエヴァンジェリンの顔を見つめた。思い詰めているように見えて、エヴァンジェリンは気遣う様に声を掛けようとして口を開いたが、ナギが先に口を開いてしまった。

「エヴァンジェリン……ここでお別れだ」
「え……?」

 エヴァンジェリンは、ナギが何を言っているのか分からなかった。頭の中が白くなり、エヴァンジェリンは震える様に首を振った。

「何……言ってるんだ?」

 ナギは表情を変えなかった。口を堅く閉ざし、ただ、その目はナギを見ていた。

「離れんぞ! そ、そうだっ! お前が戦ってくれるまでは離れんと言った筈だぞ私は!」

 エヴァンジェリンは震えた声で叫んだ。ナギは目を閉じると「分かった。なら、今ここで決着を着けよう……」と言った。

「え?」

 エヴァンジェリンはナギを見つめ返した。そこに居たのは、大きな杖を構えているナギの姿だった。心の底まで冷え込む様な感覚だった。首を振り、エヴァンジェリンはナギから後退した。

「嫌だ……。どうしてだ? どうして、そんな事言うんだよ……。また、クリスマスプレゼントをくれるって言ったじゃないかっ!? 何で、何でだっ!!」

 エヴァンジェリンは両目に涙を溢れさせて叫んだ。だが、ナギは表情を変えずに、「構えろ……“闇の福音(ダーク・エヴァンジェル)”」と言った。
 エヴァンジェリンはショックを受けた表情で固まり、歯を砕けてしまいそうな程噛み締めた。

「お前が……その名で私を呼ぶなっ!!」

 右手に闇の魔力を集中し、エヴァンジェリンは駆け出した。

「……それでいい」

 ナギは一瞬でエヴァンジェリンの背後に飛ぶと、エヴァンジェリンに拳を振り上げた。エヴァンジェリンは反応していない。だが、ナギの拳は止められた。怒りに震えたチャチャゼロによって。

「ドウイウツモリダ?」
「チャチャゼロ……」

 チャチャゼロの震えた声に、ナギは目を細めた。

「ドウイウツモリダッテ聞イテイルンダ!!」

 チャチャゼロは両手の鉈で残像すらも残らない速度で無茶苦茶な数の斬撃をナギに向けたが、ナギはそれを悉く躱し、杖をチャチャゼロに向けた。

「来たれ虚空の雷、薙ぎ払え! 『雷の斧』!」

 ナギの杖から吹き出た魔力はチャチャゼロの真上に留まると、次の瞬間にチャチャゼロに凄まじい雷撃を喰らわせた。

「チャチャゼロ!?」

 エヴァンジェリンは慌てて呪文を詠唱しナギに右手を向けた。

「連弾・氷の199矢!!」

 凄まじい数の氷の魔弾を、ナギは容易く躱したが、エヴァンジェリンは気にする事も無くチャチャゼロを見た。焼け焦げて戦闘不能になっていたが、それでも修理できるレベルだったが、エヴァンジェリンはナギに殺気を向けた。

「ナギイイイイイイイイ!!」

 闇の魔力がナギに向けて放たれる。ナギが避けた瞬間に凄まじい威力の爆発が起こり、地面に半径50mものクレーターを作り出した。

「リク・ラク・ラ・ラック・ライラック!! 契約に従い、我に従え、氷の女王。来れ、とこしみのやみ、“えいえんのひょうが”!!」

 素早く呪文を詠唱すると、エヴァンジェリンは右手を逃げるナギに向け続けた。背後に絶対零度の冷気が迫るが、ナギの表情は崩れなかった。
 それが、余計にエヴァンジェリンには忌々しかった。ナギは懐から小さな手帳を開くと、杖を背後に向けた。

「契約に従い我に従え、炎の覇王。来れ、浄化の炎、燃え盛る大剣。『燃える天空』!」

 ナギの杖から噴出した地獄の業火がエヴァンジェリンの“えいえんのひょうが”とぶつかり合い、凄まじい爆発が起こった。

「グウッ!」

 エヴァンジェリンは反動を障壁で防御しながらも、蒸気で周りが見えなくなってしまった。その蒸気の向こうから、ナギの詠唱が聞こえる。

「影の地、統ぶる者。スカサハの我が手に授けん。三十の棘もつ愛しき槍を。『雷の投擲』!」

 煙を突き抜けて、凄まじい光を放つ雷の槍がエヴァンジェリンに迫った。エヴァンジェリンは舌打ちをするとほど同時に自分の影の中に飛び込んだ。直ぐ近くの森の中に逃げ込むと、煙が晴れた先にナギの姿を確認した。

「どうしてだ……ナギ!?」

 心の中は悲しみで溢れ返り、涙が止まらなかった。

「私はこんなのを望んだんじゃない! こんな……こんな戦いを望んでなんか無かったんだっ!! リク・ラク・ラ・ラック・ライラック!! 二重の縛鎖を破り、ありえぬ六角より紡がれし神の紐に縛られし神の仔よ。ああ、叫びの岩より薄き鎖を打ち砕き、咆哮封ずる剣を引き抜け。祖は月と太陽を飲み込みし魔狼の父、憎悪を喰らいて――――」

 エヴァンジェリンの叫びを耳にしたナギはエヴァンジェリンの居る森に杖を向けた。

「過去と未来を写す紅蓮、三十六の軍団を率いて天に昇らん地獄の統率者よ。深く昏き地より我が懇願に答えよ! 我が眼前を遮る者達に等しき安息の眠りを!! 『紅蓮の咆哮』!!」
「全てを凍て付かせよ!! 『氷狼の息吹』!!」

 お互いに最強レベルの魔法を放つ。エヴァンジェリンの手からは青白い閃光がまるで狼の頭の様な形を作り出し、ナギの手から放たれた紅蓮の業火は龍の頭の様な形を作り出した。お互いの魔法がお互いを喰らい尽くそうと互いのアギトを開き、蹂躙する。

「オオオオオオオオオオオオオッ!!」
「ハアアアアアアアアアアアアッ!!」

 暴れ回る炎と氷の魔力の奥義が絡み合い、お互いを破壊せんと喰らい合う。エヴァンジェリンは涙を流し、顔を歪めながら全ての魔力を開放した。
 600年を生きた古血の吸血鬼の全ての魔力を喰らった“氷神の牙”は一気にナギの放った“紅蓮の龍砲”を消し飛ばし、そのまま一気にナギの居た場所を空間中の水分ごと氷結させてしまった。

「ハァ……ハァ……ナギの……馬鹿……。何で、何で――――ッ!?」

 膝をついたエヴァンジェリンは突然の怖気に顔を上に向けた。その先には、凄まじい雷の魔力を杖から放とうとしているナギの姿があった。

「ナ……ギ?」

 呆然として見つめるエヴァンジェリンに、ナギは杖を振り下ろした。

「『千の雷』!!」

 天空が光に溢れ、エヴァンジェリン目掛けて超広範囲対魔魔法が降り注いだ。エヴァンジェリンはその瞬間に瞳を閉じた。

「私は……愚かだった。そうだよな……私みたいな化け物がお前と一緒に居られる訳……無かったんだよな? でも、楽しかった……ナギ……ありが……とう」

 次の瞬間に自分の体は消滅しているのだろうと覚悟し、エヴァンジェリンは溜息を吐いた。
 悪くないかもしれないと思った。幸せを感じながら、こうして死ねるのなら、と胸中で呟きながら、エヴァンジェリンはいつまで経っても来ない“死”に首を傾げた。
 すると、頭に暖かいナニカが乗った。目を開かなくても分かった。

「ああ……お前の手はやはり温かい……」

 ナギが何かを呟いている。目を開くと、頭の上に乗っていたのはやはりナギの大きな手だった。

「エヴァ……」

 エヴァンジェリンが見上げると、ナギは見た事も無い様な優しい笑顔をエヴァンジェリンに向けていた。

「ナギ……?」
「すげえ敵が来る……。俺は負けやしねーが、しばらく帰れねーかもしれん。 俺が帰って来るまで麻帆良学園に隠れてろ。あそこなら安全だ、結界があるからな」
「戦い……? それなら、私も!」

 エヴァンジェリンが涙を流しながら懇願する様に叫ぶが、ナギは首を振った。

「ここで……、俺を待っててくれ。それとな……、これからは光に生きろ。それが出来た時、必ずお前の所に帰って来て、お前の呪いを解いてやる」
「呪い?」
「『登校地獄』」

 頭の上でナギが呟くと同時に突然頭上が光りだした。その光はエヴァンジェリンの体に纏わりつき、そのままエヴァンジェリンの中に溶け込んでいった。

「ナギ……ッ!? 何をしたんだ、私に!!」

 エヴァンジェリンは自分の体に溶け込んだ光に一瞬、凄まじい吐き気を感じた。エヴァンジェリンがナギに叫ぶと、信じられない事をした。ナギがエヴァンジェリンを抱き締めたのだ。

「え……?」
「俺は……戻ってくる。必ずな。待ってろ、絶対に帰ってくるから……、今は眠れ」

 最後の方は、エヴァンジェリンには聞き取れなかった。優しい光に包まれて、エヴァンジェリンはいつしか気を失っていた。

「もう……いいのか?」

 突然、若い男の声がした。二十歳くらいの青年だった。濃色の狩衣を身に纏い、絹の様に滑らかな長い黒髪を首の後ろでくくっている。

「ああ、エヴァの事を頼む。……絶対に戻る」

 そこに現れた青年にエヴァンジェリンを預けるとナギは背を向けた。最後にチラリと眠っているエヴァンジェリンに顔を向けて、マントを頭までかぶり、もう二度と振り返らなかった。
 数年後、エヴァンジェリンの下にナギ・スプリングフィールドの死亡が伝えられた――。

「――とまぁ、お前の親父と私の話はここまでだな」

 そこまで話終えたエヴァンジェリンは少し疲れた様に、それでもどこか懐かしげに目を閉じて茶々丸の淹れたお茶に口をつけた。

「エヴァちゃん……グスン」
「ウウ、グスン……。エ、エヴァンジェリンさん……」

 話を聞いていたネギと明日菜は溢れる涙を止めることが出来なかった。二人が居るのはエヴァンジェリン邸のログハウスのリビングだった。高級感の溢れるテーブルの周りに並べられた椅子に座りながら、二人はエヴァンジェリンと宿題をしていたのだ。
 ガンドルフィーニの授業中に約束した通りに宿題を一緒にやろうとネギが明日菜と共に訪ねて来て、そのまま茶々丸とエヴァンジェリンと一緒にレポートや数学の宿題をこなしていた。
 エヴァンジェリンは当初こそ面倒臭がっていたが、宿題の量を考えて悪くないかと考えて一緒にやる事にしたのだ。そんな折に、ネギが休憩がてらにエヴァンジェリンに父との話を聞かせて貰ったのだ。出会いから別れへの短くも長い話を。

「アイツは結局約束を破った。私を待たせたまま……帰って来なかった」

 瞼を閉じて、呟く様に言うエヴァンジェリンにネギ達は何も言えなくなった。大切な人を失った悲しさはネギにも分かったが、だからと言って、慰めの言葉など思いつかなかった。
 黙りこくっていると、何だかネギは違和感を覚えた。首を傾げながら、何かを忘れている気がした。

「って、そうだ!」
「――――ッゲホゲホ。ど、どうしたんだ?」

 ネギが突然声を張り上げたのでエヴァンジェリンは飲んでいたお茶を器官に入れてしまって咽た。

「だ、大丈夫、エヴァちゃん?」

 明日菜はエヴァンジェリンの背中を優しく撫でるが、エヴァンジェリンは少し涙目でゲホゲホと咳き込んだ。

「あ、ごめんなさいエヴァンジェリンさん」
「いいから、何だ?」

 エヴァンジェリンが再び聞き返すと、ネギは恐る恐る言った。

「その……生きてる……と思うんです。お父さん……」
「は?」
「だからその……私、6年前に会ってるんです。お父さん……ナギ・スプリングフィールドに」
「…………はぁ!?」

 エヴァンジェリンは今度こそ目を見開いて固まってしまった。明日菜と茶々丸は何が何だか判らずに首を傾げて、ネギは固まってしまったエヴァンジェリンに冷や汗を流している。

「な、何を馬鹿な!! アイツは確かに死んだと……」
「でも、6年前に確かに会ったんです。雪の日でした。助けてくれたんです、大量の悪魔に村が襲われた日に。その時に、杖を貰ったんです!」
「……どういう事だ?」

 エヴァンジェリンは睨む様にネギを見ると、ネギは唾を飲み込み、エヴァンジェリン、茶々丸、明日菜を順番に見た。カモは少し離れた場所で、エヴァンジェリンの回想に出て来た小さな人形――チャチャゼロとお酒を飲みながらネギ達を見つめている。チャチャゼロも黙って視線を向けている。
 チャチャゼロは、エヴァンジェリンの作り上げた人形に魂を宿した従者だ。その動力はエヴァンジェリンの魔力であり、封印されている為に話す事は出来るが、自分で動くことは出来ない。だが、視線程度ならば動かすことが出来て、その瞳は真っ直ぐにネギを貫いていた。

「お話します。あの雪の日の事。きっと、エヴァンジェリンさんには話さないといけないから」

 真っ直ぐにエヴァンジェリンを見つめてネギは言った。すると、明日菜は気まずそうに口を開いた。

「えっと……なら、私と茶々丸さんは出て行った方がいいかな? 何だか……聞いちゃいけない感じだし……」

 明日菜は遠慮がちに言ったが、ネギは首を振った。

「明日菜さんにお任せします」

 ネギは真っ直ぐな視線で明日菜を見た。聞くのも聞かないのも明日菜に任せると告げて。明日菜はその視線を受けて少し後ずさると、やがて小さく息を吐いた。

「聞かせてくれるなら。聞くわ!」

 ネギは黙って頷くと、語り始めた。六年前に起きた、惨劇の夜の事を――。

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