第二話『新しい家』

 お金など1ペンスたりとも持っていない僕は只管歩いた。疲れて足を止めそうになる度、魔王は僕を叱咤する。
 三時間程歩いたところで目的地に到着した。

「……ここ?」
『ここだ』
 
 そこは狭い路地の入り口だった。魔王に言われなければ気付きもしなかった。

『さっさと進め』
「う、うん」
 
 一歩先さえ見通せない真っ暗闇。怖気づき、一歩を踏み出せずにいる僕に魔王は容赦のない言葉を浴びせてくる。
 意を決して踏み込むと、開けた場所に出た。
 三方を白い壁に囲まれた不思議な空間。振り向くと、入って来た筈の通路も無くなっている。

「ど、どういう事?」
『怯える必要はない。ここは入り口に過ぎない』
「入口……?」

 どこにも扉なんてない。あるのは机と燭台だけだ。燭台には紫の炎が灯っている。

「綺麗だね……」
『それは《|栄光の手《ハンズ オブ グローリー》》。その炎は灯した者だけを照らす』
「栄光の……、手?」

 言われてから気がついた。燭台の形が歪である事に。
 よく見ると、それは人の手だった。

「ぁ……ぁぁ……」
 
 悲鳴をあげた。切り落とされた人間の手が炎を持ち上げている。
 恐怖に身を震わせながら、僕は必死に切り落とされた手から距離を取った。背中が壁にぶつかると、恐怖は更に膨れ上がった。
 泣き喚き、閉ざされた帰路を開けようと必死に壁を叩く。

『……見苦しい』

 涙が枯れてきた頃、魔王は冷淡な口調で言った。

『アレは単なる道具に過ぎない。造形が多少グロテスクなくらいで泣き喚くな』
「……そんな事言われても」
『ここに居たくないのなら、炎に照らされた文字を読み上げろ』
「も、文字……?」

 一頻り泣いたおかげで多少は落ち着いたけど、あの切り落とされた手をもう一度見るのはイヤだった。
 俯きながら、なるべく栄光の手を見ないように机に近づく。机には魔王の言う通り、文字が刻まれていた。

「えっと……、『栄光は常にこの手に』?」

 読み上げた途端、文字が光を放ち始めた。青白い光が机一杯に広がっていく。
 ガコンという音がした。机が真っ二つに割れた音だ。

「階段……?」
 
 二つに分かれた机は左右にスライドしていき、その下に隠していた階段を露わにした。

『降りろ』

 降りたくない。どう見ても怪しい雰囲気が漂っている。

『ずっとここに居る事がお前の望みか?』

 相変わらず、魔王は容赦がない。尻込みしながら、恐る恐る階段を下っていく。
 所々に燭台があり、紫の炎が踊っている。悲鳴を上げそうになったけど、よく見れば普通の燭台だった。
 一番下まで降りると、そこには鉄製の扉があった。まるで牢獄の入り口みたいだ。

『入れ』

 言われるまま、扉のノブに手を伸ばす。中は外観からは打って変わって落ち着いた雰囲気だった。
 足元にはふかふかな絨毯が敷かれている。燭台と紫の炎を除けば一般的な家屋と変わらない間取りだ。近くの窓に向かうと驚いて目を白黒させた。
 地下に潜っていた筈なのに、僕は建物の三階にいた。

「ど、どういう事!?」
『中々凝っているだろう。ホグワーツの仕掛けを真似て創り上げた隠れ家だ』
「ホグワーツ……?」
『魔法使いの学校だ』
「学校なんてあるの!?」
『当然だろう。ホグワーツ以外にも世界各国に魔法学校が存在する。有名所だと、ボーバトン、ダームストラング、マホウトコロ、ワガドゥー、カステロブルーシュー、イルヴァーモーニーなどだな』
「いろいろあるんだね……」

 頭がぼんやりする。もう、深夜二時過ぎだ。いつもならとっくに眠っている時間。

『……ベッドルームは奥の扉だ』
「うん……」

 ベッドルームに入ると、大きなベッドが置いてあった。倒れこむように横たわると、急速に意識が遠のいた。

 第二話『新しい家』

 目を覚ました時、僕は夢を見ているのかと思った。
 なにしろ、ベッドで眠る事なんて初めての経験だ。ふかふかで気持ちがいい。

『起きろ。いつまで惰眠を貪るつもりだ?』

 心の芯まで凍ってしまいそうな冷たい声のおかげで夢と現実の区別をつける事が出来た。
 
『まずはシャワーを浴びろ。昨夜は我慢したが、その見窄らしい姿は見るに耐えん』
「……う、うん」

 シャワーを浴びると気分がスッキリした。だけど、服はやっぱりダドリーのお下がり。こればかりは仕方がない。この家には服も食べ物も何も無い。

『……さて、どうしたものか』

 服を着直していると、魔王は思案するように呟いた。

「どうしたの?」
『……買い物に行かねばならん。だが、色々と問題がある』
「問題って?」
『この家の金庫にはそれなりに金がある。だが、それは魔法界の通貨だ』
「魔法界はペンスやポンドじゃないの?」
『ああ、三種類の金貨を使っている。金貨であるガリオン。銀貨であるシックル。銅貨であるクヌート。これらで売買を行っている』
「売買っていう事は魔法使いがお店を開いてたりするの?」
『もちろんだ。店舗どころか、商店街もある。だが、そこに行く為には少々障害があってな……』
「遠いの?」
『いや、近い。ここから歩いても二時間程度だ』

 それは十分に遠いと思う。

「なら、何が問題なの?」
『……一応、貴様は家出中だろう』
「あっ!」

 魔王は呆れたように溜息を零した。

『どうしたものか……』
「えっと……、変装してみるとか?」
『いや……、普通の変装では駄目だ。直ぐに見破られてしまう』
「そ、そう……」
『だが、着眼点は悪くない。服を着たら、ベッドルームに向かえ』
「え? う、うん」

 着替えを済ませ、言われた通りにベッドルームへ向かう。

『横になって目を瞑れ。だが、眠るな。俺様の声に意識を集中しろ』
「う、うん」
 
 奇妙な指示だけど、従わないとまた文句を言われる。暴力を振るわれないだけ、ダーズリー家の人々よりはずっとマシだけど、魔王の言葉は心に突き刺さる。
 ベッドに横たわり、瞼を閉じる。すると、暗闇が広がる筈の視界に一人の男が現れた。舞台俳優のようにハンサムな男だ。
 
「……魔王なの?」

 男は微笑んだ。

『俺様に身を委ねろ』

 男が手を伸ばす。瞼は既に閉じているから、これ以上閉じる事も出来ない。
 手が目の前に迫る。

『怯える必要は無い』

 頭に手を置かれた。不思議な感覚だ。殴られる事はあっても、こうして優しく手を置かれる事は今まで一度も無かった。
 脳髄がしびれるような心地よさを感じる。ふわふわした気分になる。

『あのマグル共が貴様の髪を無理矢理切った事があるだろう』
「う、うん」
『だが、一晩寝ると髪型は元に戻っていた。そうだな?』
「うん。そのおかげで4日も食事を抜かれたよ」
『……それは貴様の内に宿る魔法の源が貴様の意思に呼応した結果だ』
「僕の意思に?」
『幼少期。魔力に目覚めたばかりの魔法使いは一種の暴走状態に陥る。眠っていた魔力が一気に解放される為だ。御する方法を学ぶまで、その状態は続く』
「暴走状態……」
『今回はこの暴走状態を利用する』
「えっと……、どういう意味?」
『魔法は万能だ。無機物を生物に変える事も、人間を動物に変える事も、命や精神を弄ぶ事さえ可能だ』
「つまり……?」
『貴様は変身するのだ。違う自分に』
「変身……」

 ボサボサの髪。額の傷。野暮ったい丸メガネ。やせ細った体躯。
 見窄らしくて、汚らわしくて、疎ましい今の自分から脱却出来る。
 魔王の言葉は僕にとって実に魅力的だった。

「どうしたらいいの?」
『俺様に身を任せろ』
「……うん」

 意識が遠のいていく。
 
 ◆

 もう少し梃子摺るかと思った。
 髪を切られた時、元の長さに戻ったのはハリーが自身の変化を拒んだからだ。
 今ある姿を変える事は大きな決断だ。気軽に変える事の出来る髪型や服装さえ、大胆に変えようと思えば相応の覚悟が必要になる。
 にも関わらず、ハリーは俺様が促す変化を受け入れた。髪の色は黒から深みのある赤色に変わり、輪郭も多少変化した。父親に似た部分を母親のものに近づけたのだ。
 これなら、ダーズリー家の者達さえ騙せよう。

『……ダンブルドアめ、何を考えている?』

 不可解だった。ダーズリー家の者達はハリー・ポッターを虐待していた。それこそ、精神が歪み、いつ壊れてもおかしくない状況にまで追い詰めていた。
 何故、ハリー・ポッターを奴等に預けた? 善なる者の代表を気取っておきながら、|闇の帝王《オレサマ》を打ち倒すという偉業を為した子供を何故……。
 
『どうでもいい……。所詮、この小僧は俺様が復活する為の駒に過ぎない』

 ベッドで眠りながらハリーは体を小さく丸めている。あの体勢でなければ寝られない場所に閉じ込められ続けてきたからだ。
 時折、涙を啜る。どうやら、嫌な夢を見ているらしい。

『……いずれ使い捨てる駒だが、それまでは入念に手入れをしてやるとするか』

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