「ノエル。気を悪くしたらすまない。だが、とても重要な質問なんだ」
アーサーの顔には苦悩の色が浮かんでいる。まるで、今まさに望まぬ罪を犯そうとしているような顔だ。
「あらかじめ言っておくが、君が何者であっても私は君の味方だ。それだけは何があっても変わらない。もちろん、私の家族も」
「……僕は」
どうしたらいいのか分からない。こんな時、いつも魔王が行く道を教えてくれるのに、今はだんまりを決め込んでいる。
「私の目を見て、正直に答えてほしい。的外れな質問だったのなら、それでいいんだ」
アーサーの青い瞳がまっすぐ僕を見つめている。まるで責め立てられているみたい。目が泳ぎそうになる。
「僕は……」
アーサーは僕の味方でいてくれると言った。それなら、正体を明かしてもダーズリーの家に戻らなくて済むかもしれない。
……魔王が助言をくれたら直ぐに決められるのに、どうして黙っているんだろう。
「おじさん」
「ゆっくりでいい。君を責めているわけじゃないんだ。もしかしたら、君は今以上の手助けを必要としているかもしれない。だからこその質問なんだ」
その言葉に僕は吹っ切れた。この家の人はダーズリー家の人達とは違う。心から信頼する事が出来る。
意を決して答えようと口を開いた瞬間、アーサーの背後に人影が現れた。
「アーサー! 何をグズグズしているのだ!」
「ス、スクリムジョール局長!?」
現れたのは厳しい顔をした初老の男だった。背丈はアーサーと変わらないけど、体格は彼よりもずっとガッシリとしていて、獅子の鬣のような髪が彼に得も言われぬ威圧感を与えている。
「この子だな?」
「待って下さい! まだ、確認が取れたわけでは……」
「こうすれば一発だろう」
スクリムジョールは杖を振った。すると、僕の目の前に銀色の光が現れ、空中に文字を刻んだ。
《Harry Potter》
目を見開く僕とは対象的にスクリムジョールは睨むように目を細めた。
「ハリー・ポッター。君を探すために、我々は随分と苦労させられたよ」
「スクリムジョール局長! この子はとても辛い目にあったのです!」
「ああ、聞いているとも。全くもって悲劇だ! 闇の帝王を討ち倒した英雄が愚劣なマグル共に虐げられるなど、あってはならぬ事!!」
地の底から響くような声。彼の怒気によって空気が張り詰めていく。
「だから、我々は反対だったのだ!! 事もあろうに、マグルに預けるなど!! ダンブルドアの決断とは言え、これは完全な失策だ!!」
「局長!! ノエル……、ハリーが怖がります!!」
アーサーが僕を庇うように抱き締めながら声を張り上げる。
「……ああ、すまない。だが、今回の事でダンブルドアの意見を封殺する事が出来る。ハリー・ポッターには然るべき教育を施し、未来の魔法界を背負って立つ男になってもらわねばならない」
ギラギラとした瞳が僕を見据える。恐怖で体が震えた。
「局長! ハリーの事は私が責任を持って面倒をみます。だから――――」
「たしか、君の家には七人もの兄弟がいたな」
アーサーの言葉を遮るようにスクリムジョールは言った。
「長男と次男は実に優秀だと聞く。ホグワーツの教師からはまさに神童だと讃えられているそうだな。入学したばかりの三男の評判も聞いているよ。三人共、いずれは首席になる事間違いなしだとか」
「それは……ええ、まあ」
唐突に息子を褒められて、アーサーは頬を染めた。
「だが、その下の双子は随分な問題児だと聞く」
「そ、それは違います! あの二人は……その、確かに問題を起こす事もありますが、しかし!」
「毎日のように校則を破り、管理人のミスター・フィルチを随分と困らせているようではないか」
「それは……」
双子というのはフレッドとジョージの事だろう。あの二人の事を悪く言う人間がいる事に驚きを隠せない。
ずっと傍に居たからこそ分かる。あんなに素敵な双子はこの世にそうは居ないはずだ。
僕は段々とスクリムジョールの事が嫌いになり始めた。
「アーサー。君の能力に問題があるとは言わない。だが、七人は多過ぎる。この上、更にもう一人増えるとなると、その負担はあまりにも大き過ぎる」
「私の息子や娘達はみんな立派に育っている!!」
激昂するアーサーにスクリムジョールはほくそ笑んだ。
「本当に全員に等しく愛情を注げているのかね? 寂しがっている子が居ないと? 双子が問題を起こすのは君に構って欲しいと願う子供達の声なき願いなのではないか?」
「……それは」
スクリムジョールは実に言葉巧みだ。アーサーは徐々に声が小さくなっている。
「アーサー。モリーの事も考えてやるべきだ」
「何を言って……」
「彼女は実にたくましい女性だ。だが、家の事は一人でやっているそうじゃないか。これ以上、彼女に負担を掛けるべきじゃない」
「だから、自分がハリーを引き取ると?」
「ああ、そうだ。この子を立派な魔法使いに育て上げてみせようじゃないか」
ゾッとした。この人はダーズリー家の人達と同じだ。
彼らが僕を《普通》に育て上げようとしたように、僕を《魔法使い》に育てようとしている。
「ハリーにとっても、それが一番なのだよ。ハリーがこのまま君の家に居ても、いつかは邪魔者扱いになるぞ。なぜなら、彼はウィーズリー家の子ではないのだからな」
「……そんな事は」
「あるに決まっているだろう。彼に親兄弟の愛情を掻っ攫われた子達の感情を無視するつもりか?」
スクリムジョールは首を横にふった。
「アーサー。冷静に考えるんだ。君の給料で八人の子供を養えるのか? 満足な食事や新品の洋服を買ってやれるのか?」
スクリムジョールの厄介な所は全て事実だという事。
僕がウィーズリー家に居座り続ければ、いつかは起きる問題。
好意に甘え続ければ、その分だけウィーズリー家に迷惑が掛かる。その事に気付かなかった自分が恨めしい。
『……ふむ。ハリー、少し目を瞑れ』
漸く口を開いた魔王の指示に従って、瞼を閉じる。
すると、目の前に魔王の姿があった。
第九話『|帰還不能点《ポイント・オブ・ノー・リターン》』
不思議な感覚だった。瞼を閉じた筈なのに、今は開いている。開いているのに、僕の目は暗闇に漂う魔王の姿を捉えている。
まるで、夢を見ているような気分だ。
『ふむ……。これでは些か殺風景過ぎるな』
魔王が指を鳴らすと暗闇が変化した。次の瞬間、僕と魔王は青白い光に包まれた部屋に立っていた。
『そこに座れ』
促されるまま、僕は椅子に座った。とてもふかふかだ。
「……魔王、ここは何なの?」
『ここは夢の世界だ。あるいは精神の世界と言い換えてもいい。要は俺様が創り上げた仮想世界だ』
「仮想世界……」
『暇だったからな。色々試している内に出来たのだが、これが中々に便利なものでな。夢の性質を利用する事で主観時間を大幅に伸ばす事が出来た』
「主観時間……?」
『例えば、人の夢は起きる寸前の二十分の間に見ると言われている。だが、夢の中ではその何倍もの時間を過ごしている気がする。そんな経験はないか?』
「あるっていうか、夢って二十分しか見てないの!?」
『まあ、絶対にそうだというわけではないが……。その現実の時間とは違う夢の中で認識している時間を主観時間と言うのだ。この世界でのんびりと会話を楽しんでも、現実の世界では数秒程度の時間しか経過しない。どうだ? 実に便利だろう』
「う、うん。凄いよ! さすが魔王!」
『ッフ、当然だ』
魔王はとても嬉しそうだ。
『さて、お前をこの世界に呼んだ理由だが、選択させる為だ』
「選択……?」
『ああ、このまま俺様と共に生きるか、スクリムジョールの下で一人で生きていくかの二択だ』
「え……?」
僕は困惑した。
「ど、どういう事? 魔王と生きるか、一人で生きていくかって……」
『そのままの意味だ。スクリムジョールの提案を受ければ、俺様は遅かれ早かれお前と共には居られなくなる』
「そんな!?」
『こればかりはどうしようもない。だが……、ハリー』
魔王は僕の名前を呼んだ。
「なに……?」
『この選択には大きな意味がある。ここが|帰還不能点《ポイント・オブ・ノー・リターン》だ。スクリムジョールの提案を受ければ、あるいは幸福な人生を歩めるかもしれない。大いなる災禍からも守られ、無数の賞賛を与えられ、地位と財産も手に入るだろう』
「わ、わけわからないよ。あの人と一緒に行くと、どうしてそうなるの!?」
『あの男が言っていただろう。貴様は英雄だと』
「英雄……?」
『そうだ。お前の両親が死んだ事。お前がダーズリー家に預けられた事。全ては八年前に遡る』
魔王は一つの悲劇を語った。暗黒の魔法使いに付け狙われた哀れな家族。父は勇敢に戦い、母は愛する我が子を守るために身を投げ出した。
その結果、母の献身は子供に古の加護を与え、暗黒の魔法使いを打ち倒させた。
「その子供が……、僕なの?」
『そうだ。だからこそ、魔法界で貴様の名を知らぬ者は誰もいない。貴様が魔法界で……、そうある事を望めば全てを手に入れる事が出来る。スクリムジョールはそういう道を歩ませようとしているのだ。これは多くの人間にとって幸福と呼べる道だ』
「……でも、そこに魔王は居ないんでしょ?」
『ああ、そうだ。だが、それもまた、貴様の幸福には必要なファクターだ』
「分からないよ……」
『分かるはずだ。ヒントは既に与えてある。貴様はそのヒントの意味も解せぬ愚か者ではあるまい』
「分からないよ!!」
魔王が自らをそう呼んだ事。八年前に起きた悲劇。スクリムジョールの言葉。英雄。
魔王が僕の中にいる理由……。
「分からない!! 何も分からない!!」
『……ならば、分り易く教えてやろう。俺様が貴様の両親を殺した暗黒の魔法使いだ。そして、俺様と共に生きれば、貴様は暗黒の道を歩む事になる』
わけがわからない。どうして、魔王はそんな酷い事を言うんだろう。
苦しくて、辛くて、耐えられなくなった僕に唯一手を差し伸べてくれた人。
だけど、その人が僕の両親を殺した。僕がダーズリーの家で酷い目に合わされた、その理由の大本。
「嘘だ!! だって、魔王は僕を助けてくれたじゃないか!!」
『貴様を利用する為だ』
「……嘘だ!!」
耳を塞ぐ。何も聞きたくない。
『聞くのだ、ハリー・ポッター』
耳を塞ぐ手を魔王の冷たい手に退けられた。
『貴様には選択肢がある。光り輝く栄光の未来に至る道が目の前にあるのだ』
「……なんで」
『貴様はヤツに不快感を抱いているな。だが、ヤツと共に行けば、間違いなく幸福に生きられる。これだけは断言してやろう』
「なんで、そんな事を言うの?」
『ハリー。貴様は……』
「なんで、そんな事を言うんだよ!!」
僕は怒鳴り声をあげた。生まれて初めての事だ。
「なんで、僕を利用し続けないんだよ!? なんで、自分の正体を明かすんだよ!! 黙ってればいいじゃないか!! ずっと、僕を利用し続けてくれればいいじゃないか!!」
『……冷静になれ』
「冷静だよ!! 魔王こそ、おかしくなってるんだ!! 魔王が僕の両親を殺した暗黒の魔法使いなら、僕の幸福なんてどうでもいいだろ!? 僕は魔王と比べたらずっと馬鹿なんだから、騙して使い続ければいいじゃないか!!」
『やめろ』
「僕の事が要らなくなったの!? 邪魔になったの!? だから、勝手に生きろって言うの!?」
『そうではない』
「イヤだよ!! 僕はあんな人と一緒に行きたくない!! 僕を見てくれない人となんて、僕はイヤだ!! 僕は魔王と一緒にいるんだ!!」
『……後悔する事になるぞ』
「させて見せてよ!! 僕の両親を殺しておいて、今更、僕の事なんて考えないで、利用し続けてよ!!」
『そうか……』
魔王は険しい表情を浮かべた。果てしない怒りを滲ませて、彼は言った。
『……ならば、お望み通りにしてやろう。貴様を利用してやる。散々使い潰して、ボロ雑巾のように捨ててやる!! それでいいのだな!? それで、貴様は満足なのだな!?』
「……うん。いいよ、それで」
思い出した。僕が助けを求めた時の事。
――――【助けて……】
――――【……ならば、寄越せ】
――――【何を渡せばいいの……?】
――――【貴様の魂。貴様の全て】
――――【それを渡せば、僕を助けてくれるの?】
――――【助けてやる】
――――【……なら、あげるよ。僕のすべてをあげる】
――――【ああ、それでいい】
あの時の言葉は全て本気だった。僕の全てはとっくの昔に魔王のもの。
だから、何もかも今更だ。
『……馬鹿者が』
青白い光が強まっていく。そして、気が付くと僕の視界は隠れ穴の裏庭に戻っていた。