第一話『少年と魔王』

『質問をしてはいけない』

 物心がついた時、はじめに掛けられた言葉だ。
 些細な事で殴られ、蹴られ、暴言を浴びせ掛けられる。食事を抜かれる事もしょっちゅうで、一メートル四方の物置に閉じ込められる事も日常茶飯事だった。
 僕を養ってくれているダーズリー家の人々は顔を合わせる度に『お前は普通ではない』と言う。両親もイカれていたらしい。醜悪で悪辣な人間だったみたい。だから、天罰が下った。
 僕に自由は無かった。ただ、苦痛を感じる為だけに生きていた。

「よーし、お前達! しっかり、コイツを押さえとけよ!」
 
 ダーズリー家の長男、ダドリー・ダーズリーは友人達に僕を押さえつけさせた。ギラギラと目を輝かせながら、ダドリーは僕を殴った。
 ダドリーにとって、僕は家に寄生している害虫。もしくは、面白い反応を返すサンドバッグだ。
 胃液を吐いても、許しを懇願しても、ダドリーは耳を貸さない。気が済むまで殴り、蹴る。彼が満足するまで、僕が意識を失っても終わらない。

「……助けて」

 辛くて、苦しい。それなのに、誰にも相談する事が出来ない。心を許せる人なんて、一人もいない。
 家にも学校にも居場所がない。
 僕の人生は始まった時点で詰んでいる。底無しの沼に浸かったまま、抜け出す事が出来ない。藻掻いても、助けを求めても、誰も手を伸ばしてくれない。

「助けて……」
 
 意識が暗転する。
 暗闇だけが安息を与えてくれる。ここには誰もいない。僕を傷つける他人がいない。
 ああ、ここにずっといたい。痛いのは嫌だ。苦しいのは嫌だ。

『……■■■』

 誰かが僕に囁きかけた。

『……■リ■』
 
 僕は声に導かれるように暗闇を歩いた。

『……ハ■ー』

 辿り着いた先にはぼんやりとした光が浮かんでいた。

『……ハリ■』

 胸が締め付けられる。誰かの悲鳴が聞こえた。誰かの怒声が聞こえた。誰かの苦悶の叫びが聞こえた。

『……ハリー』

 儚い輝き。今にも消えてしまいそうな光を僕は抱き締めていた。
 ここに居たいなんて嘘だ。暗闇なんて嫌だ。一人は嫌だ。

「助けて……」
『……ならば、寄越せ』
「何を渡せばいいの……?」
『貴様の魂。貴様の全て』
「それを渡せば、僕を助けてくれるの?」
『助けてやる』
「……なら、あげるよ」

 これは夢だ。曖昧な意識の中でもその程度の分別はつく。
 だけど、僕は本気だった。

「僕のすべてをあげる」
『ああ、それでいい』

 僕の体が欠けていく。光の中に吸い込まれていく。食べられている。

「ぁ……ぁぁあぁああああああああああああああああ」

 神経を鑢で擦られたような痛みが全身を駆け巡る。
 内側から炎で焼かれているような錯覚を覚える。
 僕は光から手を離し、倒れこんだ。そして、夢の中で意識を失った。

 第一話『少年と魔王』

 目が覚めた時、僕は公園で横になっていた。草むらで寝ていたせいで、いろんなところが虫に刺されている。
 痒みと痛みに顔を歪めながら立ち上がる。

「……変な夢」

 溜息が出る。帰ったら、また食事を抜かれる。パンチのおまけもつくだろう。
 理由がどうあれ、夜に僕が出歩く事をダーズリー家の人々は許してくれない。

『ならば、帰らなければよかろう』
「……え?」
 
 声が聞こえた気がして、辺りを見回す。誰もいない。

「……気のせい?」
『気のせいではない』
「だ、誰!?」
 
 悲鳴をあげて、直ぐに口を押さえた。
 僕の周りでは時々不思議な事が起こる。その度にダーズリー家の人々から厳しい折檻を受ける。
 不思議な事が起こる理由はさっぱり分からないけど、僕が普通では無い事をしでかすと、その日は地獄を見る事になる。
 夜更けの公園で奇声をあげたりしたら、頭をトンカチみたいに何度も床に叩きつけられて、首を締めあげられて、一週間は食事を抜かれて物置に閉じ込められる。もし僕が餓死したとしても、彼らは厄介払いが出来たとせいせいする筈だ。
 
『……ッハ。マグル如きに怯えるとは』

 謎の声はまるで嘲笑するかのように言った。

『そんなに嫌ならば帰らなければいい』
「そ、そういうわけにはいかないよ……」
『何故だ?』
「だって……、あそこが僕の家だもの」
 
 尻すぼみになる僕の言葉を聞いて、謎の声は笑った。

『なんという愚かさだ! 貴様は勘違いをしているぞ、ハリー・ポッター』
「ど、どうして僕の名前を知ってるの? それに、どこにいるの!?」
 
 段々と怖くなってきた。どんなに目を凝らしても辺りに人影は見えない。それなのに、謎の声はまるで耳元で囁かれているように聞こえる。

『知っているとも! 知らない筈がない! 俺様と貴様は運命の糸によって繋がれている。今も昔も未来でさえ! そして、どこにいるのか? ああ、答えよう。お前の中だ』
「ぼ、僕の中!?」
 
 意味がわからないまま自分のお腹を見つめる。

『言っておくが、物理的な意味ではないぞ。貴様という器に俺様の魂が入り込んでいるのだ』
「魂……?」

 言っている言葉の意味がチンプンカンプンだ。

『……ふん。あのマグル共は貴様に何も教えていないのだな』
「ど、どういう事? それに、マグルって……」
『マグルとは魔法族では無い者を意味する言葉だ』
「魔法族……? 魔法って、白雪姫やシンデレラに登場するような?」
『……まあ、似たようなものだな』
 
 なんだか不満そうな声。白雪姫やシンデレラが嫌いなのかな?

『俺様は魔法使いだ。そして、貴様にもその才能がある』
「……えっと」

 何を言ってるんだろう。魔法も魔法使いも空想上の存在だ。絵本や小説の中だけの存在。

『疑うのならば、少しだけ体験させてやろう。杖など無くとも……、そうだな。足元の石ころに右手を向けてみろ』
「右手を……?」

 一応、言われた通りにしてみる。すると、不思議な事が起きた。
 石ころが浮き上がったのだ。

「え? え? ええ!?」
『これが魔法だ。……っと、思ったよりも消費するな』
「だ、大丈夫?」
『貴様に心配される必要などない。それよりも、理解したな? これが魔法だ』
「ま、魔法……」
 
 右手を見る。そこには浮き上がった石ころがすっぽり収まっている。
 
『ハリー・ポッター』
 
 謎の声は僕の名を呼んだ。

「な、なに?」
『貴様は自由だ』
「……え?」

 何を言っているのか分からない。僕に自由など在る筈がない。
 食べる事、疑問を抱く事、喋る事、全てがダーズリー家の人々に縛られている。
 自由とは罪であり。僕は見えない檻の中に住んでいる。

『勘違いだと言った筈だ。貴様に檻などない。鎖などない。自由を自覚すれば、貴様はどこにでもいける。何者にでもなれる。あの家に帰りたくないのなら、貴様はいつでも出て行く事が出来るのだ』
「で、でも! なら、どこに行けばいいの!? 僕はどこに行けるの!?」
『どこへでも! 貴様が望むなら、俺様が導いてやる!』
 
 僕が自由。どこにでも行ける。何者にでもなれる。
 そんな風に言われた事は今まで一度もなかった。

「連れてって……」

 涙が溢れ出す。姿も見えない相手に僕は縋り付いた。

「僕を連れ出して!!」
『良かろう』

 僕は歩き出した。ダーズリーの家とは反対の方角へ向かって。
 謎の声に導かれるままに……。

「君の名前は……?」
『名前……。幾つかあるが、そうだな』

 道半ばで尋ねた質問に謎の声は少し考え込んだ後に答えた。

『魔王。貴様と共に覇道を歩む者だ』
 
 自信に満ち溢れた魔王の言葉。
 それって、最終的に勇者に倒されちゃう人じゃ……。
 そんな考えを僕はそっと胸の内に仕舞い込んだ。

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