第三話『ダイアゴン横丁』

 鏡に映る僕の姿は眠る前と大きく異なっている。ボサボサだった黒髪は艶やかな赤髪に変わり、肩の下まで伸びている。
 だけど、相変わらず頬は痩けているし、眼も窪んでいる。

『さっさと行くぞ。貴様には何よりも食事が必要だ』
「う、うん!」

 魔王の指示で絵画の裏に隠された金庫から魔法界の通貨を取り出す。棚に入っていた財布には見た目からは想像も出来ない程たくさんのお金を入れる事が出来た。
 お金自体、まともに持ったことの無い僕は緊張で手が震えた。

『……しっかりしろ。出掛けるぞ』
「うん」

 玄関から外に出る。

「あれ?」

 予想と違った。上り階段があると思った扉の向こうには細い通路があり、通路の先には大通りの喧騒がある。
 振り返ると出て来た筈の扉が無くなっている。触ってみても、そこにあるのは単なる壁だ。

「あれれ?」
『隠れ家は隠れているから意味があるのだ。出入口は徹底的に隠蔽してある。入る時の方法は覚えているな?』
「え!? 入る度にあそこを通るの!?」
『……今のお前では出入口の設定を変える事も出来ないからな。我慢しろ』
「ぅぅ……」

 大通りを出て、まっすぐ歩き続ける。
 ダボダボの服を着ている痩せ細った子供を道行く人々は疎ましげに睨む。きっと、|浮浪児《ストリートチルドレン》と思われているのだろう。

『鬱陶しい輩だ』

 魔王は不機嫌そうに呟いた。
 
『……覚えておけよ、奴等の視線を』
「魔王……?」
『奴等の大半は自らを善良なものだと思い込んでいる。だが、これが本質だ』

 その言葉には侮蔑の感情が浮かんでいた。

『差別を否定しながら、差別する。暴力を否定しながら、暴力を振るう。暴言を否定しながら、暴言を吐く。上っ面で善意を語る者程厄介な者はいない。悪意を自覚しないからな』
「ふーん」
『……なんだ、その反応は』

 魔王は不服そうだ。

『いや、貴様にとっては言われるまでも無い事だったか』
「え?」
『ダーズリー家の者達など、まさに典型例だ』

 今度は満足そうだ。

『すまなかった。ああ、つまらぬ事を言ってしまったな』
「……魔王ってさ」
『ん?』

 誰かに裏切られた事があるの? 喉元まで出掛かったその言葉を飲み込む。
 聞くまでもない事だし、言えばきっと傷つけてしまう。
 魔王の言葉には実感が篭っていた。そして、その事に激情を抱いている。

『おい、途中で言葉を切るな』
「……うーん。魔王って、優しいね」
『……は?』

 言葉を失う魔王。僕は笑った。
 容赦がないし、口調もキツイ。だけど、彼は僕を心配してくれている。
 生まれて初めて出会った。僕を見守ってくれる人。

 第三話「ダイアゴン横丁」

『その角を曲がれ』

 魔王に導かれ、僕はロンドンの中心街までやって来た。
 迷路のような細い道を歩き、漸く目的の場所へ辿り着いた。

「ここは?」

 目の前には廃墟と化した宿屋がある。

『ノクターン横丁の入り口だ』
「ノクターン……? 僕達が行くのはダイアゴン横丁じゃなかった?」
『ダイアゴン横丁へ直接行く為には杖が必要だ。だが、その為にはダイアゴン横丁で杖を買う必要がある。本来、未成年の魔法使いは保護者や入学する魔術学校の教職員に連れて来られるのが通例だ』
「そうなんだ」

 中に入ると、浮浪者がたむろっていた。ジロジロと見られながら、魔王の指示に従って奥の通路を進む。
 一階の客室が立ち並ぶ通路に出ると、四番目の扉を開いた。
 
「ここが?」
『そうだ。ノクターン横丁。最初の角を左に曲がれ』

 扉の先は外だった。立ち並ぶ建物はどれも奇妙な形をしている。
 好奇心が疼いたけど、建物の窓や扉の隙間から怪しい人影が僕を睨んでいる事に気付いて逃げるように走った。
 やっとの思いでダイアゴン横丁に辿り着くと、そこはノクターン横丁とは比べ物にならないくらい賑わっていた。道行く人々も服装こそ奇抜なデザインが多いけど、清潔感がある。
 ホッと一息つくと、僕は目の前に広がる魔法の世界に夢中になった。
 そこには奇妙な物や面白い物が山のようにあった。

「うわー」

 お店のショーウインドウに飾られた奇怪な道具。
 喧しく鳴くふくろう。
 飛び交う喧騒に入り混じった魔法界の話題。
 
「箒の専門店なんてあるんだ!? うわー、これで空が飛べるんだ!」

 夢中になっている僕を魔王は止めなかった。

『まずはカバンを買うぞ』

 僕が一頻り満足した所で魔王が言った。
 
「カバン?」
『今日は買う物がたくさんある。箱や袋を大量に持ち歩きたいと言うのなら話は別だが?』
「カ、カバンを買いに行こう!」

 魔王に案内されたカバン屋さんは壁一面どころか天井にまで無数のカバンが敷き詰められていた。

「すごい量だね……」

 奥に進むと、中年の魔女が現れた。

「いらっしゃいませ! あら、あなた一人なの?」

 魔女は僕が一人である事に首をかしげた。

『親から自分で買うように言われたと言え』

 魔王に指示された通りの言葉を告げると、魔女は納得したように頷いた。

「どんなカバンが御所望かしら?」
『空間拡張。質量軽量化。その二つの機能があれば何でもいい』

 魔王に指示された要望を口にすると、魔女はにっこりと笑っていくつかのカバンを持って来た。

「どれも荷物がぎっしり詰め込めるわ。それに、幾ら詰め込んでも羽のように軽いのよ。手提げと肩掛け、リュックサックの三種類があるけど、どれがいい?」
『好きなモノを選べ』

 魔王に言われて、僕はリュックサックを選んだ。

「このリュックサックね。背負ってみる?」
「は、はい!」

 リュックサックはふわふわとした白い布地で出来ていた。

「このリュックには面白い機能があるのよ」

 そう言って、魔女はリュックサックの脇に吊り下がっているうさぎの尻尾のようなモノを握った。
 すると、リュックサックに耳や目が現れた。鏡を見ると、リュックサックは白くてふわふわなウサギの姿に変わっていた。

「可愛いでしょ。あなたくらいの歳の子に大人気なのよ」
「わーお!」

 文句なし。とっても気に入った。
 うさぎのぬいぐるみと化したリュックサックを鏡越しにジッと見つめる。
 
「これください!」
「このまま背負っていく? それとも、梱包する?」
「背負っていきます!」
「はい、わかりました。じゃあ、3ガリオンと3シックルね」
「はい!」

 魔王に教えられながら財布から金貨を三枚と銀貨を三枚魔女に手渡す。
 店を出た後、僕はリュックサックを抱き締めながら少しの間ボーッとしてしまった。

『おい、買い物は終わっていないぞ。なにをボーッとしているんだ?』
「……ありがとう、魔王」
『は?』
「僕、こうして新しく自分の物を買ってもらうの初めてなんだ」
『……そんな事で一々感動するな!』

 怒られてしまった。反省しながら今度は洋服屋さんに向かう。
 そこでサイズがピッタリな子供服をたくさん買い、下着や靴下も新調した。魔王は僕が良いと思った物をなんでも買ってくれた。
 嬉しくて泣きそうになる度に怒られたけど、やっぱり嬉しい。
 ダドリーのお下がり以外を着られる日が来るなんて思わなかった。
 その後も家庭用雑貨のお店で魔法の石鹸やシャンプーを買い、本屋さんでたくさんの本を買った。
 
『残るは食材だな』
「杖は買わないの?」
『……杖も買うべきだな。大丈夫だとは思うが……』
「心配事?」
『いや、なんでもない。ならば、先に杖を買うとしよう。その通りを少し歩いた所に《オリバンダー杖店》という店がある。そこに入れ』
「うん!」

 オリバンダー杖店はすぐに見つかった。紀元前382年創業と書いてある。よく分からないけど歴史あるお店みたい。
 中に入ると一人の老人が僕を向かえてくれた。

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