第五話「集いし英霊」

 久しぶりに十年前の事を思い出した。忘れていたわけじゃない。敢えて思い出す必要が無かった。苦しくて、哀しくて、怖くて、楽しかった数日間を私は今でも鮮明に覚えている。ただ、細かな内容や時系列に関してはややおぼろげになっていて、記憶を探る必要があっただけの話。
 私の部屋でアーチャーが開口一番に口にした言葉は『茶を淹れろ』という命令だった。そして、次に口にしたのが『貴様の生い立ちを語れ』という命令。何の意図があるのか分からなかったけれど、逆らうと怖いから素直に語った。

「実に不味い」

 私が語り終えると、何がおかしいのか、アーチャーは笑いながら――人に淹れさせておいて――不味いと言い切ったコーヒーを一気に飲み干した。
 た。
「しかし、残念だ」

 男は中身を飲み干したカップを机に置くと、全然残念そうじゃない顔で言った。

「汚物に塗れた物など、どれほど優れた逸品であろうと価値は無い。我が財に加えてやろうかとも思ったが……」

 言いながら、男はおよそ日本では見掛けない……というより、世界中探しても滅多に見掛けない赤色の瞳を向けて来た。人差し指を机に置いたコーヒーカップに向けながら――――。

「不味いんじゃなかったの?」
「さっさと淹れて来い」

 人差し指でコーヒーカップの縁を叩きながら偉そうに命令してくる。溜息すら出て来ない。そもそも、『逆らう』という事に疲れてしまって久しい私はそれ以上、何も言わずに素直にコーヒーのおかわりを淹れに部屋を出た。
 年中無休で真っ暗な廊下を進み、階段を降りる。階下に降りて来ると、いきなり肩を引っ張られた。その手の主が誰なのかは振り返らなくても分かる。

「セックスなら後で部屋に行くから待ってて欲しいんだけど?」

 私が言うと、手の主は嫌そうな顔をする。

「違うよ、凛」

 ゲンナリした様子で首を振るのは私の兄だ。兄、と言っても血の繋がりは無い。髪の色も私のは純粋な黒なのに対して、彼の髪は少し青みがかっている。
 兄、間桐慎二の迂闊な言葉を私は――いつものように――窘めた。

「凛じゃないわ。桜よ、兄さん」
「家の中ならどっちでもいいだろ。それより、その……」

 いつもの掛け合いの後、歯切れの悪くなった兄さんの様子に彼が何を言いたいのか察しがついた。

「心配無いわ。首尾は上々よ」
「けど、地下室が……」
「臓硯なら多分、生きてるわ。アーチャーが蟲を殆ど焼き払ったけど、外部にバックアップくらい残しているだろうし」
「……そうか」

 舌を打つ慎二に私は微笑み掛けた。

「あんまり、反抗的な態度を取るものじゃないわ。どこからお爺様が見ているか分からないんだから」
「構うもんか! それより、今ならここから逃げられるんじゃないか?」

 慎二の言葉に私はキョトンとした。

「どうして?」
「いや、だって、強力なサーヴァントを召喚出来たんだろ? なら、こんな所に居ないでさ……。さっさとこんな糞みたいな家に残ってないで……、自由に……」
「……兄さん。ちょっと、勘違いしてない?」
「勘違い……?」

 途惑う彼に私は言った。

「私は別にこの家から逃げ出したいなんて思ってないわ」
「……何を言って」
「そのままの意味よ。私は別に自由になりたいなんて思ってない」
「そんな筈無い! なあ、どうしたんだよ!? 逃げられるんだぞ!? 金が必要なら僕が何とかする! だから!」

 必死に言い募る慎二が少し憐れになった。彼の中で私は悲劇のヒロインになっているらしい。

「兄さん」

 だから、真実を教えてあげる事にした。蟲は地下以外にも屋敷の至る所に潜んでいる。私が呼び掛けると、蟲達は一斉に動き出した。合図を出すと、壁に体で文字を描き始める。

『こんにちは』

 壁に描かれた蟲文字を見て、慎二は真っ青な表情を浮かべた。

「な、何だよこれ……」
「私はいつでも逃げられた。だけど、逃げなかった。何故って、逃げる必要が無かったからよ」
「何で……?」
「だって、私はとっくに覚悟を決めているもの」
「覚悟?」
「間桐の次期後継者を産み落とす為の母胎となり、最期は蟲に喰われる。その結末を覚悟している。だから、今更、この屋敷から逃げ出そうだなんて思えない」
「ま、間違えてる! 凜! そんな覚悟を持つ必要なんて無い!」

 掴み掛かって来る慎二に溜息が出た。

「どっちにしても、聖杯戦争が始まった以上、ここを拠点とする事が一番無難なのよ。だから、逃げるにしても、留まるにしても、今はここを動くべきじゃないの」
「……でも」
「それより、兄さんこそ、早くここを出た方がいいわ」
「り、、凜を残して、僕だけ逃げろって言うのか!?」

 困った。どうやら、彼にはヒーロー願望があるらしい。おまけにプライドも人一倍ある。此方としては定期的に精液を補給出来る都合の良い存在程度の認識なんだけど、彼にとっては違うのかもしれない。死なれても後味が悪いし、さりとて、聖杯戦争中ずっと庇護下に置き続けるというのも面倒だ。

「……兄さん」

 仕方無いから一つ、芝居を打つ事にした。

「ど、どうしたんだ!?」

 少し声を震わせて、瞳に涙を浮かべると、アッサリと彼は騙された。

「――――、慎二」

 彼は驚いた様子で息を呑んだ。実を言うと、彼を名前で呼んだのは初めての事。普段と違う呼び方で彼に魔法を掛けたのだ。

「お願い……、慎二。あなただけは逃げて」
「で、でも……」
「私は逃げられない。サーヴァントを召喚してしまった以上、勝ち残るか、死ぬか、どちらかしかない。でも、あなたは逃げられる」
「僕は!」
「お願い! あなたに何かあったら、私は凄く悲しいのよ。辛いのよ……。だから、どうか……」
「り、凛……?」
「お願い……」

 涙を零し、懇願する。全てが演技というわけじゃない。慎二が死んだら、やっぱり私は悲しむと思う。可愛がっていたペットが死んだら、誰だって悲しい。それと同じだ。それに、彼は私の真名を知っている。それを覚えてくれているだけで彼には価値がある。

「ど、どうして……。ぼ、僕なんか……どうでもいいだろ?」

 口にしながら、彼は否定の言葉を期待している。考えが見え透いているけれど、都合が良い。欲しがっている言葉を与えてあげれば、彼も満足する筈だ。

「どうでも良くなんて無いわ」

 その言葉と共に、駄目押しをする為に彼の唇を啄んだ。彼は目を瞠り、私から後退った。

「本当にどうしたんだ!? き、昨日までっていうか、さっきまで普通だったのに……」
「……ねえ、慎二。約束して。決して、命を粗末にしないって」
「凛! 僕の質問に答えてくれ!!」

 意外と強情だ。素直にイエスと応えてくれればいいのに……。

「――――愛しているからよ」
「……へ?」

 あまりにも間の抜けた表情をするものだから、思わず噴出してしまった。とりあえず、彼のヒーロー願望を満足させようと口にした言葉だったけれど、彼の期待を遥かに上回ってしまったらしい。ついつい、楽しくなってしまった。私の言葉に一喜一憂する彼を私は面白いと思った。まるで、ボールにじゃれ付く犬みたい。

「愛しているわ、慎二。だから、約束して欲しい。この街を出て、自分の身の安全を最優先すると。どんな形であれ、あなたが死んだら、私はとても悲しいの」
「り、凛……、だって、僕……」
「疑うなら、何度でも言うわ。愛しているわよ、慎二。他の誰よりも愛してる」
「ぼ、僕、僕も――――」

 彼は顔を林檎のように赤くして言った。
 結局、直ぐに追い出す事は出来なかったけれど、まだ、聖杯戦争は完全に始動したわけじゃない。もう少し様子を見るとしよう。後で部屋に行くと約束してから私はコーヒーのお代わりを淹れる為にキッチンに向かった。

 ◆

「遅いぞ、小娘」

 コーヒーを淹れなおして部屋に戻ると、アーチャーは窓の外を眺めていた。

「どうしたの?」

 尋ねると、アーチャーは口元を歪め、愉快そうに言った。

「往くぞ」
「往くって、どこに?」
「無論――――」

 アーチャーは窓を開け放ち、私の体を放り投げた。

「我こそが最強の英雄である事を余の凡夫共に知らしめる戦場へだ!」

 窓の外に放り出された私は奇妙な物体の上に転がった。

「これは?」

 見た目は黄金とエメラルドで出来た小船だ。けれど、まるで飛行機のような翼があり、水では無く、空中に浮いている。

「天翔る王の御座―――― ヴィマーナだ。適当な場所に掴まっておけ」

 そう口にすると、アーチャーはヴィマーナの船上に設置されている豪奢な椅子に腰掛けた。同時に船が水面を流れるかのように宙を滑り始めた。瞬く間に速度を上げ、気がつくと新都と深山町を結ぶ橋の遥か上空に居た。

「貴様がライダーか?」

 思わず目を瞠った。こんな場所に自分達以外の人間が居るとは思わなかった。半鳥半馬の幻獣に跨る赤髪の騎士が面白そうに私達を見ている。

「そういう君は誰だい? ボク達は天空散歩に興じていたんだけど?」
「我が問いを問いで返すとは――――、不敬!」

 いきなり、アーチャーの周囲に幾つもの光の玉が現れ、そこから刃が飛び出して来た。剣が二つに槍が三つ。ライダーは間一髪で躱したけれど、放たれた武具は空中で一旦静止したかと思うと、急に方向転換し、再びライダーに襲い掛かった。

「ラ、ライダー!」

 ライダーの後ろ側から声が響いた。私とそう歳の変わらない男の子が居た。恐らく、彼がライダーのマスターだ。ライダーは彼の声に応え、幻馬を奔らせた。

「悪くない」

 猛スピードで天を駆け、ライダーは襲い来る武具を振り払った。その光景にアーチャーは愉悦の笑みを浮べ、ヴィマーナを奔らせる。追いかけっこの始まりだ。ライダーの幻馬も、アーチャーの船も、互いに物理法則を越え、天を自在に駆け巡る。
 アーチャーはライダーを追走しつつ、絶えず光球から武具を撃ち出し続けている。マスターに与えられる透視能力が教えてくれている。 彼の王が生前、世界中から収集した財宝の数々。それらを収めた蔵。それこそが彼の宝具、王の財宝――――ゲート・オブ・バビロン。人類最古の英雄譚として語られる彼の持つ財宝は後の世の伝説に名を刻むアーティファクトの原典であり、一つ一つが宝具の名に相応しい神秘と魔力を内包した逸品である。
 丘を砕く槍と大地を焦がす剣が同時に迫り、ライダーとそのマスターは悲鳴を上げている。

 ――――最強。

 その言葉は彼の為にあると言っても過言では無い。私は彼の勝利を確信した。

 ◆

 差し迫る死に対して、二人は実に暢気だった。このままでは死ぬかもしれない。それを理解していながら、彼らの顔に浮んでいるのは歓喜の笑顔。

「凄い! 次から次へと宝具を撃ち出して来るなんて、さすがはアーチャーだ!」
「かっこいい! 俺、あの船に乗ってみたい!」

 そう口にしながら、フラットは遥か下界を見下ろしていた。そして、ニンマリと笑みを浮かべた。

「ライダー」
「なんだい?」
「アソコ」

 フラットが指差した先を見て、ライダーも合点がいった様子で頷き、幻馬を急降下させる。アーチャーが確りと追って来るのを確認し、彼らは遥か地上を目指す。
 そこには二騎の英霊が刃を交えていた。片や、巨躯の怪物。片や、青き槍兵。二騎の英霊が激突している戦場にライダーとフラットは降り立った。何事かと目を瞠る二騎を尻目に彼らは奔る。起死回生の策、バーサーカーとランサーを巻き込んだ四騎の英霊による乱戦に持ち込む為に。

「ぬおおおおおお!?」

 追って来た『最強』が放つ無数の宝具にランサーとバーサーカーは戦闘を中断し、警戒態勢を取る。彼らの前に黄金の船からアーチャーが降り立ち、外灯に着地すると、嗜虐の笑みを浮かべた。

「ライダー。貴様は面白い」

 アーチャーは黄金の双剣を抜き放ち、サーヴァント達を睥睨した。己を睨む戦士達にアーチャーは呟くように言った。

「汚物に塗れた聖杯など、一欠片の興味も無いが……、なるほど、この戦い自体は良い。実に良い趣向だ! 宝を求め、英雄同士が覇を競い合うは素晴らしい! 何故、生前思いつかなかったのかと歯噛みする程だ。我は今、かつてない喜びに感動している!」

 哄笑する彼に対して、ヴィマーナに取り残された凜は唖然とした表情を浮かべる。初対面の時の印象が音を立てて崩れていく。彼女の瞳には今の彼が楽しい遊びに興じる子供に見えた。
 彼ばかりじゃない。彼と睨み合うサーヴァント達も互いに彼に負けぬ程の笑みを浮かべた。

「国を越え、時を越え、武を競うこの戦い……、確かに、悪くないな」

 ランサーが獰猛な笑みと共に紡いだ言葉にライダーが頷く。

「まるでお祭り騒ぎだよね。いいよいいよー! ボクはお祭りが大好きさ!」

 傲慢な笑み、獰猛な笑み、天真爛漫な笑み。そして、もう一人のサーヴァントが勇猛な笑みと共に吼える。自らの存在を主張するかのように岩を削り作った斧剣を振り上げた。彼らに共通するのは一様に武を競うこの戦争に悦びを感じている事。これが英霊。伝説にその名を刻む英雄達。

「抗う事を許す! 我を存分に愉しませろ、雑種共!」

 アーチャーの叫びと共に、中断していた戦端の火蓋が再び切られた。最初に動いたのはランサー。真紅の槍を手に、立ち向かう先は弓の英霊。彼の戦士としての本能が傲慢不遜な物言いの乱入者に『挑め』と命じた。

「来るが良い、ランサー!」

 ◆

 アーチャーとランサーの戦いが始まると同時に強い衝撃が船体を揺らした。何事かと顔を上げると、そこには一人の女が居た。信じ難い事だが、周囲に高い建造物の無いこの場所で地上から三十メートルも離れた上空に浮ぶこの船に跳び乗ったらしい。
 動揺を悟られないように表情を消しながら、魔術回路を起動する。生憎、急な出発だった為に蟲の用意が出来ていない。遠坂の魔術刻印は臓硯の手によって封印されていて、解除出来ない事も無いが時間が掛かる。この現状で取れる手段は少ない。けれど、迷っている暇も無い。

「Es ist gros,Es ist klein……!」

 飛んだ。最短距離で船の端に駆け寄り、そのまま倒れ込むように地面に落下した。

「vox Gott Es Atlas――――!」

 敵も即座に追って来た。重力を操り、加速する。落下の衝撃を再度の重力操作で軽減し、そのまま肉体強化を並行使用する。地面に足がついた瞬間、私は走り出した。直後、私がついさっきまで居た場所に大きなクレーターが穿たれる。

「やりますね。さすが、御三家の一角、間桐の魔術師だ」

 女は瞬く間に距離を詰めて来た。向こうの方が強化の魔術の錬度が上らしい。いや、そもそも、肉体のスペックからして違い過ぎる。片や、十年間、殆ど陽も差さない地下に繋がれて来た性奴隷。片や、どう見ても戦闘に特化した武道派魔術師。まともにやりあったら勝負にすらならない。
 立ち止まり、口を動かす。まずは時間稼ぎだ。

「貴女は何者?」
「魔術協会所属、封印指定執行者。バゼット・フラガ・マクレミッツと申します」

 彼女の言葉の中で私が理解出来たのは魔術協会という言葉とバゼット・フラガ・マクレミッツという名前だけ。『封印指定の執行者』という言葉が何を意味するのかは分からない。けれど、穏便な言葉では無い事だけは分かる。

「此方からの要求は一つ。令呪を破棄し、聖杯戦争から降りなさい」
「断る……、と言ったら?」
「拒否権はありません。自らマスターである事を辞退するならば良し。そうでないなら、殺すだけ」

 そう言った刹那、私の体は宙に浮いた。痛みを認識するより早く、私の体は地面を手毬のように弾んだ。視界が真っ赤に染まり、直後に痛みの波が押し寄せて来た。十年間受け続けて来た拷問の痛みを遥かに凌駕する痛み。
 壮絶な痛みに思考が全て持っていかれた。逃げなければいけない筈なのに、逃げるという選択すら出来ない。そうこうしながら蹲っていると、バゼットが傍までやって来た。明滅する視界の中に彼女の姿を捉え、私は本能のままに逃げ出そうと地面を蹴った。その瞬間、バゼットの手が私の右腕を捕らえた。そして、バキンッと音を立てて骨が砕けた。

「アアアァァァアアアアアッ!!」

 あまりの痛みに気が狂いそうになった。腕が焼けた様に熱い。

「抵抗は無意味です。貴女では戦う事はおろか、逃げる事すら出来ない」

 脇腹に衝撃が走った。乾いた音が響き、そのまま私の体は地面を何度もバウンドしながら飛び跳ねた。ゼェゼェと息を吐きながら、堪えられない吐き気を感じ、そのまま吐き出した。真っ赤な血の塊が地面に広がり、脇腹から痛みがジンジンと響く。脇腹の骨が折れたらしい。口から血を吐いたのは、内臓に突き刺さった脇腹の骨のせいだろう。視界が真紅に染まり、空間が歪む。
 彼女の言う通りだ。私では彼女から逃げる事も出来ない。

「――-―ッ」

 何かが彼女の手を止めた。何とか意識を拾い集めて目を凝らすと、どこか見覚えのある短剣が彼女の肩に突き刺さっていた。

「この武器はアサシンか?」

 舌を打ち、バゼットは木に背中を預けながら周囲を警戒した。

「アサ……、シン?」

 どうしてだか、彼の事を思い出してしまう。十年前、兄弟子が召喚した暗殺者のサーヴァント。赤と白の布を巻いた勇敢な心の持ち主。私の為に魂を最後の一滴まで振り絞り戦ってくれた彼。けれど、彼がここに居る筈が無い。彼は十年前の聖杯戦争で消滅している。
 バゼットを攻撃したのは間違いなく、今回の聖杯戦争で新たに召喚されたアサシンだ。アサシンというクラスは少々特殊で、常に同一の英霊が呼び出される。と言っても、それは真名が同一というだけで、中身は異なる。
 ハサン・サッバーハ。アサシンの語源となったとも言われる中東の暗殺教団の歴代教祖が受け継ぐ名だ。アサシンのクラスに召喚されるサーヴァントはいずれかのハサン・サッバーハが選ばれる。

「姿を現すつもりは無いらしい……」

 バゼットは突き刺さった短剣を引き抜きながら舌を打った。

「毒が塗られていたか……」

 彼女は踵を返し、アーチャーとランサーの戦場へと戻って行った。

「……助かった」

 私は安堵の溜息を零し、そのまま意識を手放した。未だ、周囲にアサシンのサーヴァントが身を隠している可能性があるというのに、朦朧とした意識が判断能力を鈍らせたらしい。

 ◆

 鋼鉄の音が響く。目の前に巨大な剣が何本も地面に突き刺さり、ランサーは舌を打った。剣は一つ一つが馬鹿げた魔力を漲らせている。

「踊れ」

 王の号令と共に、光球から無数の刃がランサーに向かい殺到する。一つ一つが必殺の力を秘めた宝具。そんな物を雨のように降らせる目の前の怪物の正体が分からない。その不可解さに対して、ランサーは舌を打ったのだ。

「その程度か?」

 分からないものは仕方が無い。ランサーはアーチャーの正体の不可解さに目を瞑る事にして、前進した。その顔に浮ぶのは好戦的な笑み。宝具の豪雨を前に恐れを微塵も感じていない。ランサーは死地を悠々と突き進む。

「ほう……」

 アーチャーは向かって来るランサー目掛け、一振りの剣を投げつけた。余裕綽々の態度で避けたランサー目掛け、剣は空中で静止して方向転換すると、再び彼に襲い掛かった。ところが、ランサーは視線すら向けずに槍を僅かに動かし剣を躱した。

「矢避けの加護を持っていたか。たかが犬の分際で大したものだな」
「……犬、だと?」

 その言葉はランサーにとって最上級の侮辱だった。別に犬と呼ばれた事自体を憤っているわけではない。犬を侮蔑の言葉として使われた事に憤怒しているのだ。あまりにも濃密過ぎる殺気。鬼気迫る表情を浮かべたランサーがアーチャーを睨み付けている。

「犬と言ったか、貴様!!」

 猛るランサーに対し、アーチャーは余裕たっぷりな態度で返した。

「やかましく吼えるな。まったく、躾のなっていない犬だ」
「貴様ッ!」

 ランサーの槍がアーチャーに迫る。ソレを彼は黄金の双剣で防いだ。金属と金属がぶつかり合う甲高い音が鳴り響く。二騎の英霊が奏でる剣戟の音は鳴り止む事無く続き、まるで曲を奏でるが如く夜気を裂いた。

「光栄に思え。吼えるしか能の無い貴様の頭を我が宝剣で打ち砕いてやろう」
「ッハ、その前にオレの槍でその茹った頭を串刺しにしてやるよ」
「ククッ、言ったな、狂犬。ならば、死力を尽くし、我を愉しませてみるがいい!」
「――――赤い棘は茨の如くってな」

 二人の距離は二メートルにも満たない。奔るは迅雷。剃らすは疾風。本来、ランサーが繰り出す稲妻の如き槍撃に対して、躱そう、などと試みる事に意味は無い。それが稲妻である以上、人の目で捉えられるものではないからだ。 だが、その条理をアーチャーは双剣によって覆す。如何に弓兵と言えど、アーチャーとてサーヴァント。通常の攻め手など、決めてにはなり得ない。その面 貌に浮かぶのは凍てつく夜気の如き冷笑。奔る真紅の軌跡を黄金の軌跡が打ち払う。
 間合いを詰めようと前に出るランサーの足をアーチャーは柳の如き剣捌きで縫い止める。

「ハッ、中々やるなッ! だが――――ッ」

 烈火の如き気性に乗せられる槍撃の一つ一つには正しく必殺の力篭められている。アーチャーは守りに徹する事を余儀無くされ、顔を顰める。本来、間合いを取り、敵を迎え撃つという戦法こそが槍の本領であるにも関わらず、その定石をあざ笑うかの如く、ランサーは前進する。

「なるほど、貴様も世に武名を轟かせた英雄の一角なだけはある」

 一際高い剣戟と共にアーチャーはランサーから距離を取った。そうはさせじとランサーが距離を縮めようとするが、その間に無数の刃が降り注いだ。

「またこれか……」
「ああ、褒めてやろう。我を愉しませた褒美だ。存分に味わうが良い」
「――――ハッ、おもしれぇ」

 ランサーは獰猛な笑みを浮かべ、一足飛びで大きく後退した。瞬時に離された両者の距離は百メートルを超え、アーチャーはランサーの後退にその意図を悟った。即ち、ランサーの後退の意図とは必殺の間合いを取った事に他ならない。獣の如く四肢を大地に付けるランサーにアーチャーは百を超える宝具を放つが、掠るだけでも致命的な暴虐の嵐の中心で、ランサーは平然とした表情を受けべている。

「――――ッ」

 舌打ちをするアーチャーにランサーは凶暴な笑みを浮かべる。

「――――狙うは心臓。謳うは必中……」

 ランサーは腰を持ち上げ、疾走直前のスプリンターの如き体勢を取った。

「――――行くぜ。我が一撃、手向けとして受け取るがいい!!」

 瞬間、ランサーは青色の残影となり、疾風の如くアーチャーへと疾駆した。刹那の間に五十メートルの距離を詰めると、ランサーは高く跳躍した。無数に襲い掛かる宝具の群を欠片も恐れる事無く、手に握る真紅の槍を大きく振りかぶる。アーチャーは再び舌を打つと、宝具の投擲を中断し、光球から新たなる武具を取り出した。

「突き穿つ死翔の槍――――ゲイ・ボルク!」

 天高く飛翔したランサーの口から紡がれるは伝説に曰く敵に放てば無数の鏃となりて、敵を滅する魔槍の名。生涯、一度たりとも敗北しなかった常勝の英雄の持つ破滅の槍は空間を歪ませる程の魔力を纏い、主の命を今や遅しと待っている。

「――――ッ!!」

 怒号と共に放たれた真紅の魔槍は防ぐ事も躱す事も許されない。正しく、必殺。この魔槍に狙われ、生き残る術などありはしない。
 しかし――――、

「我を守護せよ」

 アーチャーの号令に呼応し、黄金の輝きが魔槍の進撃を止めた。まるで獣の雄叫びの如き叫び声が戦場に轟き、ランサーは目を瞠った。

「――――それは、クルフーア王の!?」

 ランサーの驚きを尻目にランサーの全魔力を注がれた真紅の魔槍は黄金の盾を蹂躙する。嘗て、山三つを消し飛ばした大英雄の斬撃を受けながら傷一つつかなかったとされる至高の盾は四つの外殻の内、一つ目を打ち破られながら尚、高らかに吠え、二つ目が破られようとも所有者を鼓舞するか如く叫び続ける。されど、必殺を誓う真紅の魔槍はソレを嘲笑うか如く三つ目の外殻を打ち破る。最後の一つとなった盾は烈火の怒号を上げ、アーチャーは最期の一枚に己が魔力を残さず注ぎ込んだ。

「馬鹿な――――」

 地に降り立ったランサーは目前のサーヴァントを凝視した。無数の宝具には驚かされたが、その程度の常識外れは戦場の常だ。だが、解せない。何故、あの男が嘗て己が使えた王の盾を所有しているのか?
 最強の一撃。自らを英雄たらしめる一撃を防がれたランサーはその盾が紛れも無く本物であると確信した。それ故に眼前のサーヴァントの正体が不可解だった。

「貴様、何者だ?」
「我が宝物を目にしながら、まだ分からぬか」

 ランサーの問いにアーチャーは不遜な態度で応えた。両者共に限界まで魔力をすり減らしていながら、その眼光は僅かたりとも衰えず、互いを射殺さんばかりに睨み合っている。

「そのような蒙昧、これ以上生かしておく価値も無い」

 冷たくそう言うと、アーチャーは光球から鎖を奔らせた。

「天の鎖よ」

 鎖はまるでそれ自体が意思を持つかのように動き、ランサーの体を拘束した。

「なっ、これは!?」

 身動き一つ取れず、ランサーは殺気を漲らせた視線をアーチャーに向ける。すると、アーチャーはその手に握る双剣を変形させた。二つの剣は一つとなり、弓の形を象った。

「貴様にはもったいない宝剣だが、それなりに我を興じさせた褒美だ」

 弓の先に奇怪な陣が描かれ、アーチャーは弦を引き絞った。その時だった。それまで隠れ潜んでいたバゼットが突如姿を現した。アーチャーはその者の持つソレに目を瞠った。
 バゼットは拳の上に球体を浮かばせ、真っ直ぐにアーチャーを睨み付けている。

「きっ――――」
「後より出でて先に断つ者――――アンサラー」
「貴様!!」

 アーチャーが彼女の浮かべる球体の正体に気が付いた時には既に矢を放った後だった。
 黄金の輝きがランサー目掛け飛来する。それを迎撃するかのように、バゼットはその手に浮かべる奇跡の真名を紡ぐ。

「斬り抉る戦神の剣――――フラガラック!!」

 それが、ランサーのマスターであるバゼット・フラガ・マクレミッツの秘奥の名。神代の魔術たるフラガラック、その力は不破の迎撃礼装。呪力、概念によって護られし神の剣がアーチャーの心臓に狙いを定め、一直線に迫り来る黄金の矢を超え、射手たる彼に向かい飛来する。己の切り札を解き放った直後のアーチャーに咄嗟にを防ぐ手段は無く、唯人たるバゼットにサーヴァントの一撃を防ぐ手段など無い。この後に待ち受ける戦いの決着は相打ち。しかし、何事にも例外というものは存在する。結果として待ち受けるものが相打ちであるならば、女魔術師はその結果を勝利へと覆す。フラガラックが斬り抉るは敵の心臓では無く、両者相討つという運命。それこそが神剣に宿りし奇跡の力。敵が切り札を行使した直後に発動し、相手が如何な高速を持とうと更なる高速をもって命中、絶命させる。その必中の精度、必勝の速度、必殺の攻撃力は確かに誇るべきものだろう。しかし、この魔剣の真の恐ろしさはその特性にある。
 後より出でて先に断つ――――、その二つ名の通り、フラガラックは因果を歪ませ、自らの攻撃を『敵の切り札の発動よりも先に為した』というものに書き換えてしまうのだ。どれほどの強力な宝具を持つ英霊であろうとも、死者にその力は振るえない。先に倒された者に反撃の機会を与えられる事は無い。フラガラックとは、その事実を誇張する魔術礼装であり、運命を歪ませる相討無効の神のトリック。如何に優れた英雄であろうと、歪められた運命の枠から逃れ る事は出来ない。吸い込まれるように己が心臓を穿った神の剣にアーチャーは屈辱に満ちた表情を浮かべ、瞬時にヴィマーナを呼び寄せ、無数の武具を縦横無尽に降らせながら凜の眠る森へ向かった。
 アーチャーは傷つき、気を失っている凜を鎖で引き寄せると、船体を九十度回転させ、真上に向かって疾走させた。

「ま、待ちやがれ!!」

 ランサーが叫ぶ。一瞬の内にアーチャーと凜は雲の中へと消え去った。

「まずは……、一体」

 最期にマスターを連れて逃亡したとはいえ、フラガラックが命中した以上、アーチャーの消滅は時間の問題だ。そう結論付け、バゼットはアーチャーに対し、もはや欠片も興味を抱かず、ランサーを引き連れ、戦線を離脱した。アサシンの毒が徐々に回り始め、これ以上の戦闘は不可能だと判断したからだ。
 ランサーは立ち去る間際に溜息を零した。

「マスターが強過ぎるってのも、考えもんだぜ」

 結局、自分が為した事はマスターの為のお膳立てだ。勝つには勝ったが、女に見せ場を奪われるのは面白くない。次は己の槍のみで勝利を掴む。ランサーは密かに意気込みながらマスターに付き従う。

「聖杯戦争。中々、面白そうじゃねぇか」

 そう、呟きながら……。

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